「最近のオタクはロボット化してしまった」と述べるためには、「最近のオタク」が他の様々な集団(空間的にも、時間的にも)に比べて特別ロボット的であると言えなければならない。「ロボット的」というのは、ここでは、複雑かつ精緻でオリジナルな言葉づかいで作品の魅力を語ることができる状況にありながら、浅薄で単純な定型文を繰り返すことによってこれに代えようとする傾向をいう。
要は、私の念頭にはずっとこの発言があるのだ。
しかしながら、「浅薄で単純な定型文」が「最近のオタク」と直ちに結びついていると考えるのはかなり不用意である(要するに、件のツイートも単体としてはかなり不用意な発言であると私は言っているのだ、と思われていっこうに構わない)。ここでいう「定型文」は、その定義も範囲も不明確であるがために、ほとんど誰でも口にしうるものと化している。「定型文」なるものを述べるのが「最近のオタク」だけであるなどといった主張は、不可欠な前提を欠いているか、あるいは単に間違いである。
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もし私が、「オタクはロボット化した」と述べようとするのならば、ロボット化したオタク特有の話し方「ロボット的発話」について、単に「定型文」と呼ぶにとどまらない明確な定義域を与えるべきである。オタクに結びつけることができ、なおかつ「ロボット的」であるような発話とは、いったいどのような発話なのであろうか。
オタクのロボット的発話の条件
ここでは、私は3つの条件でもって「オタクのロボット的発話」を限界づけようと試みる。条件とは以下の3つである。
条件1 定型的である
条件2 特定の集団・階層に属する人々(ここでは“オタク”)にのみ通じる
条件3 「意味がない」
定型的である
定型的である、という条件は、他の2つの条件に比べればはるかに意味を確定しやすい。(この条件を定量 的に操作できるレベルまで整備するのは難題だが、そこまでの整備を目指すのでなければ)実に扱いやすい条件である。
ある表現が定型的である、とは、つまり、同じ表現を多くの人が多くの回数使う、ということである。
この解釈で不足であれば、このように解釈すればいいだろう。 ある表現が定型的である、とは、文法的に釣り合いが取れそうな感じがする他の表現と比較してある表現が特別よく使われる、ということである。
例えば、「ガルパンはいいぞ 」という表現に対して、文法的に釣り合いが取れそうな感じがする表現とは、「ガルパン はいいよ」とか「ガルパン は青いぞ」とか「ガルパン がいいぞ」とか「艦これはいいぞ」とかその他の表現のことだ*1 。ここで「ガルパンはいいぞ 」は文法的に釣り合いが取れそうな他のどの表現と比べても、より多くの回数多くの人々に使われている。そういうわけで、「ガルパンはいいぞ 」は定型的な表現であると言える。
こうして意味を明確にするとわかるように、定型文であるというだけでは、その表現は若いオタクに特有であるとは言えない。「おはようございます」とか「むかしむかし」とかいった表現も立派な定型表現であり、その点では「ガルパンはいいぞ 」と何の変りもない。
特定の集団・階層に属する人々にのみ通じる
この条件は、直前に挙げた条件ほどは、その示すところが明確でない。ここで「通じる」という言葉には、さらに何段階かに分けるべき細かく違った意味がある。
ごくごくナイーブに考えて、ある言葉というものは、特定の記号の並びと特定の概念が結びついてできている*2 。ある言葉の意味が「一般的に通じる」ということは、一般的な記号の並びと一般的な概念を一般的なルールで結びつけている(コーディングしている)ということである。言い換えれば、普通の言葉とは、耳なじみのある音とよく知っている意味とが普通に結びついている言葉である、ということだ。
そう考えると、逆に「特定の集団・階層にしか通じない」ということのなかには、次の3段階があることになる。
記号の並びがそもそも一般的でない *3 。
よく耳にする・口にする言葉 *4 に、一般的には理解されない概念を当てている *5 。
よく耳にする・口にする言葉に、よく耳にする・口にする概念を当てているが、その組み合わせが一般的な組み合わせではない。
さて、「特定の集団・階層にしか通じない」といったことが、正確にはどのような特徴のことを指しているのかは、これでわかったということにしよう。次に問題になるのは、「特定の集団・階層にしか通じない」ような言葉が使われているのは、「特定の集団・階層=若いオタク」である場合だけか、ということだろう。
言うまでもなく、身内にしか通じない言葉を用いているような集団・階層というのは、オタクだけではない。むしろ、この世のあらゆる種類と規模の集団・階層は、身内にしか通じない言葉――隠語やジャーゴン を持っている*6 。隠語とジャーゴン を使うことによってのみ、ある人をオタクであるとか若いオタクであるとか決めつけるのはどう考えても無謀である。
ならば、100歩譲って、「オタクという集団・階層は、他の集団・階層と比べて、より多くの隠語・ジャーゴン をより高い頻度で使う傾向にある」と述べてみるのはどうだろうか。こう述べてみることもまた、難しいだろう。オタクという集団・階層と比較しうる規模・種類の集団・階層というものを見つけ出して、その輪郭を描き出すということがまずそもそも困難であるし、たとえそれができたとしても、双方の集団が持つ隠語の種類や頻度を計量するということはなお難しい。隠語とジャーゴン は、その本性上、集団の外部に位置する者からも集団の内部に位置する者からも正確に認識することが難しいからである。隠語・ジャーゴン は、しばしば集団内外で認識が全く違うという状況を志向して生み出されるものであるからし て、集団外の者がある隠語の意味を即座に認識することはまず不可能であるし、集団内の者がある隠語の意味を集団外の者にも完全に理解可能な形で翻訳することもまた困難なのだ。
「意味がない」
この条件にはほかの2つの条件と比べてはるかに複雑な含意がある。私は、ここで言わんとする「ある表現に意味がない」という状態には、細かく分けて4つの段階があると考えている。
ある表現が、特定の内容を指し示しておらず、行為遂行的にも理解しがたい。
ある表現が、特定の内容を指し示していない(ただし行為遂行的には理解できるかもしれない)。
ある表現が、特定の内容を指し示しているが、行為遂行的にしか理解できない。
ある表現が、特定の内容を指し示しており、事実確認的に理解できるが、客観的な正誤判断が不能 である。
ここで、3つの尺度が登場した。「特定の内容を指し示しているか、いないか」と「行為遂行的に理解できるか、事実確認的に理解できるか、そのどちらでもないか」と「客観的な正誤判断が可能か、不可能か」の3つである。これらが具体的に何を指すのか、これから順番に説明していく。
「特定の内容を指し示しているか、いないか」とは、ある表現が表現それ自体のみで自律的に意味を表現しているか否か、ということである。例えば、「私はペンを持っています」という文には、「私がペンを持っている」という内容が存在する。一方、「おはようございます」という文には、それ自体としては何の内容も持っていない。実際に「おはようございます」と述べる人間と述べられる人間にとっては、「両者はおはようとか言い合える関係である」とか「今は朝である」とか「2人の関係からすると言葉遣いは敬体が好ましい」とかいった無数の情報がそこにこめられてはいるが、それは文自体が持っている内容ではない。文を取り巻く情報である*7 。
「特定の内容を指し示していない」ということは、ある意味で、「意味がない」という状態の一つである。「おはようございます」は、「私がペンを持っている」が意味を持っているようには意味を持っていない。
「行為遂行的に理解できるか、事実確認的に理解できるか」とは、大雑把にいって、ある表現が、特定の誰かに働きかけることのみを目的としているか、命題として理解されることを目指しているかの違いであると理解すればよい。
一方、すべての文は命題であると、人は思いがちである。ここで「命題」とは、「その文が誰かに聞かれているか聞かれていないかに関係なく、真か偽かという判断を下しうる文」とでも理解しておけばよい*8 。例えば、「私がペンを持っている」とか「一万年と二千年前から愛してる 」とかいった文は、(全員が満足できるくらい妥当な判断が実際可能であるかどうかはともかくとして)真か偽かという判断を下すことができる。こういう文の性質のことを事実確認的であると呼ぼう。
他方、私たちがあやつる文のうち、多くの文は、特定の相手に働きかける「手段」として存在する文であり、真か偽かという判断が下せない。疑問文や反語文などがまずそうだ。「お金を貸してください」とかいった「依頼」もそうだし、「ありがとうございます」とかいった「感謝」もそうだし、「おはようございます」とかいった「挨拶」だってそうだ。こういった、述べることそれ自体が目的であり、述べることによってのみ正当化されうるような文のことを、行為遂行的な文と呼ぼう。
行為遂行的にしか解釈できない文というものは、事実確認的に解釈可能な文よりも、ある意味で「意味がない」と言える。なぜなら、行為遂行的な文には間違っているもくそもないのだから*9 。
このような形で「事実確認的/行為遂行的」を定義すれば、当然、そのどちらにも当てはまらないような表現というものもイメージされるだろう。例えば、完全な独り言(自分自身に言い聞かせているわけですらない)でなおかつ真でも偽でもない文、というのは、事実確認的なものとも行為遂行的なものとも理解しがたい。ほかに誰もいない部屋でひとり「にゃんぱすー……」とつぶやく、ここで「にゃんぱすー……」という文は、真でも偽でもないし、何のためでも誰のためでもないだろう。例えば、フィラー (肯定でも否定でもなく、文の中に何の意味もなく差し込まれる特定のフレーズ)もまた、事実確認的なものでも行為遂行的なものでもないだろう。ある人がしゃべっているとき、文中の「あー」とか「えーと」には何の意味も真偽もない*10 。例えば、確かに特定の相手に向かってしゃべってはいるが、発言者自身には、相手がどんな反応を返すか全く予期できないような類の発言、というものも、事実確認的でも行為遂行的でもない表現に含むべきなのかもしれない。「ぐるぐるぐるぐるどっかーん!!」などといきなり叫んでみる(要するに、意味不明なことを言う)というのは、これはもう、何が何だか分からない。これが行為なものか*11 *12 。
「客観的な正誤判断が可能か、不可能か」というのは、ある命題に関して、同じ量の十分な知識を持っている複数の人がその命題に対して正誤判断を下した場合、その判断が一致するだろうと予測できるか否か、ということだ。「はっきり答えが出るかどうか」と言い換えてもいい。
例えば、「リンゴは赤い」という命題がある場合、そこには「ほんとに赤いのかな」と真偽を問うた場合、はっきりと答えが出る余地がある。適切な知識さえあれば、誰でも『「リンゴは赤い」は真である』との結論にたどり着く*13 。例えば、「リンカーン は政治的に許される」という命題がある場合、この命題には、どれだけたくさんの人がこの命題に関して判断を下すのであれ、その人たちが十分な知識と適切な推論能力さえ持っていれば同じ結論に達するはずである、という強固な含意が含まれている(実際問題としては、どれだけ知識量をあげても、この命題に対しての人々の正誤判断が完全一致することなどありえない、ということは言うまでもないが)。
例えば、「リンカーン は政治的に許されると思います」というような命題がある場合、この命題は真偽を問うことはできるが、最終的な答えは述べた人本人しか知ることはできない。こういう命題には、客観的な正誤判断を下すことはできない。「私はガルパン が好きです」のような命題もそうだ。個人的な好悪の問題というものは、 ふつう 、客観的な正誤判断が不能 な領域であるとみなされる。
客観的な正誤判断が不能 であるということは、可能である状態と比べて、ある意味で「意味がない」といいうる。なぜなら、ここにも、「間違っているもくそもない」つまり「うん、そうだね」くらいしか言うことがないからだ。
オタクのロボット的発話
攻撃すべき対象を、単に「定型文」と呼ぶのでなく、ここまで述べてきたような3つの条件で適切にその範囲を狭めていくことによって、「最近のオタクはロボット化してきたし、それはよくないことだ」と述べることは初めて可能になるだろう。
ある種のオタクが用いる可能性がある定型文を、「内輪でしか通じない」「意味がない」という2つの条件に沿って分類し、必要に応じて具体例を表示したものが以下の図である。
ここでは「定型的な表現」と言うとき、文と単語を区別していないことにも注意されたい。
今まで確認してきたように、「内輪でしか通じない」とか「意味がない」といった特徴のなかには解釈の幅があるのだった。
この図の中には青色で網掛けをした領域があるが、この領域こそが、「ロボット化している」として攻撃の対象になることが多いタイプの定型文なのではないか、と私は思っている。ただ、この領域に入っていることがイコール攻撃の対象になる、ということではない。定型文の利用が反感を買うまでには、まだまだ重要な要素がありそうだ。
例えば、「他の方法で有効な表現がなしえたか」というのは、ある表現が攻撃に値するかどうかに関わる要因の一つだろう。例えば、「ガルパンはいいぞ 」という表現が、「ガルパン は10年代アニメが持っている文脈に対して傑作であると言える」という表現によって代用可能であるとすれば、「ガルパンはいいぞ 」が不必要に定型化した表現であるとして攻撃の対象になる可能性は増える。また、「ガルパンはいいぞ 」という表現が、「ガルパン は10年代アニメが持っている文脈に対して傑作であると言える」という表現によっては代用できないとすれば、「ガルパンはいいぞ 」という表現が定型的であるがゆえに攻撃されるという可能性は減る。選択可能性が、ある表現の価値に関わる要因の一つである。
その定型文を非難できるか?
「浅薄で単純」だとみなされうる定型文が、本当に「浅薄で単純」なのか、あらゆる意味で「浅薄で単純」なのか、は印象以上に複雑な問題である。
例えば、『「浅薄で単純」な定型文を連発するようなオタクは、仲間内での安い共感が欲しいだけの女々しい連中なのだ』というような非難の仕方がありうる。こういうやり方で行われた非難は、たとえ広い共感を得ることができたとしても、その非難しようとするポイントを明確に限界づけ、“まっとうな”議論につなげるのはなかなかに難しい。
第一に、共感を得ようとすることの何が悪いのか、という問いがある*14 。共感を得ようとすることそれ自体を非難する論拠を用意するのは難しい。仮に、「共感を得ようとすることは自分の意見を持っていないことと直結する」という前提が了解されれば、共感を得ようとする奴は自分の意見を持ちたくないのだ、といったようなかたちで共感重視な在り方を非難することも可能にはなるだろう。しかし、「共感を得ようとすること」と「自分の意見を持っていること」が絶対に排反だとは考えがたい(相性は悪いだろうが)。少なくとも、自明として前提に採用することはできない。
第二に、共感を得ようとする行為は、単純に共感のみを追い求める行為だと言えるのか、という問いがある。一見、共感を得ることを目的としているような行為に、より複雑な目的意識が絡んでいる、ということはしばしばある。
話題が、オタクの定型文利用に関して、となると、(オタクと非オタとを隔てる壁は、非オタによってよりもむしろ、オタク自身によって塗り固められてきた、という事情があるために)事態はより難解である。仲間内で共感を得るということは、仲間以外の人々から共感されないということによってのみ達成される。オタクからの共感を得るしぐさとは、非オタからの最も大きな違和感を得るしぐさでなければいけないのである。共感とは、本質的に、違和感の一側面なのだ。オタクが共感を求めて何かを述べるとき、“本来ならば”オタクが自明として通り過ぎていたであろうことを一種の違和感として暴き出し、“本来ならば”非オタが自明として通り過ぎていたであろうこともまた一種の違和感として暴き出す、危険で勇敢な目論見がそこにはある。たとえそうした危険性が「浅薄で単純」な大衆からは忘れ去られていたとしても、だ。共感の追及は違和感をもたらす。
なおかつ、共感の射程とすべき「仲間内」の範囲はおのずから明らかなわけではなく、むしろ共感を得ようとするしぐさの繰り返しによってこそ、「仲間内」の範囲は決まっていく、ということも重要だ。共感を得ようとするたびに、コミュニティは分解の危機に瀕し、再統合される(その危険性は、現場にいる人々には穏やかに飲み込まれ、常に見えづらいものだが)。
第三に、定型文の利用が、純粋に共感を得ようとする行為だと言えるのか、という問いがある。
オタク用語 は、たいてい共感を得るためにのみ使われているものだ、というような意見がありうる。しかし、こういう意見は、似たような言葉遣いを全て一つの目的で理解しようとする点、言葉遣いの説明に行為遂行的な次元のみしか想定しない点の2点で、乱暴な考え方だ。オタク用語 というものは、共感を得るためのものばかりでないし、共感を得ようとする言葉は、共感を得るという次元でのみ存在しているわけではない。
はたして、いろいろな目的の定型文がある。例えば、その指すところの概念がある集団に属する人間にしか理解されない概念であるために、利用されるジャーゴン というものがある。例えば、門外漢に伝わると困る内容を話すうえで、門外漢に伝わらないために使う隠語のようなものがある*15 。例えば、媒体の特性上どうしても文字数を減らさなくてはならないという強い要請から生まれてくる略語がある*16 。例えば、ジャンルに絡んだ独特な知識を独自のセンスでもって変形し、定型化していく知的な遊戯としてのクリシェ がある。
あなたはこう言うかもしれない。「俺は安い共感ばかりを稼ぎに行くような類の定型文を主に攻撃しているのであって、それ以外の目的を持った定型文の利用を攻撃しているわけではない」と。「平安時代 の貴族が、当時のオタク的知識に基づいて、入り組んだ序言葉を開発しときに定型化していくような優雅さと、現代オタクの『にゃんぱすー』はまるで違う」と。
私はそうは思わない。尊ばれるべき(?)「優雅」な言葉遊びと、日常化したコミュニケーションにおける定型文の投げ合い、この両者の間には決定的な断絶はないと私は思う。そこに本質的な違いはないと感じる(なぜそう感じる、と聞き返されたとき、それに答えるだけの思想的強度を、私はまだ持ち合わせてはいないが……)。