デットンは存在し、かつ、弟であるのか

以下の文章*1は、LW氏の論文『白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか』に対する応答を意図して書かれたものです。『白上フブキは~』を読んでいないと意味が通らない記述もいくらかあると思いますが、ご了承ください。『白上フブキは~』を読むにあたり『デットンは~』を読む必要などは特にありません。

『デットンは~』が『白上フブキは~』というA面に対するB面であるなどとは万が一にも思っていただきたくないです。それはB面にしてはA面に対してはるかにパワー不足なので。『デットンは~』がB面とかではなく、『白上フブキは~』のあとに群がってきた無数の金魚の糞になれるよう、「フィクションキャラの存在論」という話題が盛り上がることを望みます。

 

 

*1:論文とか論考とかいったものには達していない、せいぜいただの“文章”である。謙遜も傲慢も抜きにして、ただひとつのまともなサイテーションもない文章が論文とか論考であるはずがない!

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絶えず自壊する泥の反論集:インタラクティヴィティと論理的(不)完全性

saize-lw.hatenablog.com

この記事では、LW氏の論考『白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか』について、とくに、この論考のなかの「Vtuberにある程度独特なものとして見られるインタラクティヴィティによって、Vtuberには論理的完全性がもたらされる」というアイデアについて、以下の4つの疑問を提示し、考えていきます。

  • ①LW氏は、「正典に依拠する情報かどうか」と「公式設定かどうか」とを混同しているのではないか
  • ②LW氏は、発言の信頼性と正しさとを混同しているのではないか
  • ③LW氏は、フィクションがもつ時間と我々が持つ時間とを混同しているのではないか
  • ④LW氏は、キャラクターが世界に所属するものという前提をとっているが、果たしてこの前提は我々にとって有益だろうか

この4つの疑問は、表面的にはLW氏のアイデアに対する反論というニュアンスを含みます。「LWさん、論理展開がちょっと乱暴ちがうん?」と言いたい気持ちが私のなかにほんの少しあることは否定できません。
しかし、より正確には、私の4つの疑問は、LW氏が「Vtuberを議題として当該論考を執筆する」と決めた時点から正当に排除されてきたトリヴィアルな状況への言及でもあります。私はいわばLW氏のとった前提のちょっと外側に位置する話をしようというわけで、私の“反論”は反論として完璧に成立することはありません。私の議論が、純粋な反論というよりかは、LW氏の行った議論の境界を広げていこうとする試みの一つとして受け取られることを私は望みます。

 

1.インタラクティヴィティによってもたらされる論理的完全性

LW氏は、『白上フブキは~』において、Vtuberが多くの事例において持っているとみなせるインタラクティヴィティ――視聴者がVtuberに対して任意の内容の問いかけを行えば、Vtuberはその問いかけに答える可能性が常にあり続けるという性質――が、Vtuberに論理的完全性をもたらしうると主張している。

Vtuberには世界の完全性を担保できる可能性、すなわち世界内のあらゆる命題について真偽を定められる可能性があるということだ。何故なら、我々は命題Hのように真偽の判然としない命題を見つけたら、当事者のVtuberにそれが真か偽かを聞けばよいだけだからである。「白上フブキの髪の本数は奇数である」という命題の前で頭を悩ませるよりも前に、白上フブキに直接「髪の本数は奇数ですか?」と聞けばよいのだ。しつこく赤スパを送り続ければ、白上フブキが自分の髪の毛の本数を数えて「奇数でした」とか返答してくれることもあるだろう。それでめでたく命題の真偽が確定する。原理的には、これを繰り返すことで世界と存在者の完全性を担保できる。

「インタラクティヴィティが論理的完全性をもたらす」というこのアイデアは、いちおう、「Vtuberは一世界に所属すると考えるよりも世界の集合と考える」方策を最終的にはとる『白上フブキは~』の論理展開において、ひとつの脇道として機能している。ただ、件のアイデアは脇道とはいっても、Vtuberがかかわる命題の真理値決定可能性を論じる上において、真理値決定可能性がそもそもないといけないのかという問題にかかわる重要なアイデアである*1*2

 

2.「正典に依拠する情報かどうか」と「公式設定かどうか」との混同

LW氏は、もし任意の視聴者が白上フブキに対して質問をし、白上フブキがその質問に対して嘘をつくことなく返答すれば、返答が含む情報は白上フブキが所属する世界の事実――公式設定になるであろう、と考えている。果たしてそうだろうか。
私が問いかけたいことをもう少し詳細に述べるなら、こうだ。あるフィクションの登場人物は、フィクション世界の事実に関する発言を行うことができるだろう、しかし、事実そのものを行うことはできるのだろうか。

 

この問題をよりわかりやすく(そして私にとってより都合よく)するために、私たちはまず、三人称で記述されたある小説について考えよう。この小説の語り手は、作品内の特定の誰かをイメージさせることがないような透明な“誰か”である。
仮に、この小説のなかで『北極は南極よりも寒い』という命題に相当する情報が提示されるとする。この提示の状況に2つのパターンを考える。
ひとつめの状況は、小説の地の文で
――北極は南極よりも寒い。
と述べた場合。ふたつめの状況は、小説中の登場人物Aの会話文として
――「北極は南極よりも寒い」
と述べた場合。ふたつの状況は、どちらもこの小説の世界における『北極は南極よりも寒い』という“事実”を指示しているのだろうか。
私には、そうではないと思われる。前者の状況は、作品世界においては『北極は南極よりも寒い』ということを事実として確定できるが、後者の状況は、作品世界において『北極は南極よりも寒いとAは述べた』ということ、それ以上でも以下でもない情報のみを事実として確定していると感じられる。

 

私が同意を得たいことの第一は、かぎかっこの中に配置された命題は、直接にその小説の世界における事実を指示できないのではないか、ということだ。なぜならば、小説を構成する文の中の任意のひとつを(ごくごくラフな意味で)意味論的に解釈するとき、
――「○○」
という一文は
――○○と(この世界のなかの誰かが)述べた。
という一文に変換可能であり、また逆に
――○○。
という一文を
――○○と(この世界のなかの誰かが)述べた。
という一文へと正当な理由なく変換することは不可能であるから*3
第二は、ある命題をかぎかっこでくくってできた一文の内容は、その小説の世界における事実を間接的にすら指示できないのではないか、ということだ。なぜならば、
――○○と述べた
という命題と
――○○
という命題は同一ではないから。
――Aは言った。「○○」と。
という描写は、○○という内容が作品世界における事実と内容が一致することがあっても、○○という事実そのものになることはないのだ。たとえ、どんな手段を用いても噓をつくことができない人物Tを小説中に創造し、Tの発言内容が作品世界における事実と一致する確率を100%に限りなく近づけたとしても、Tの発言が事実そのものになるということは起こらない。

 

私のこの考え(ほとんど直感に近い)は、裏返せば、地の文に会話文に対する特権性を認めているようにも見えるだろう。地の文はそのまま事実になれるが、会話文は事実そのものにはなれないのだ、と。だがこの見え方は少し誤解であり、むしろ私が言いたいのは、“地の文”も“会話文”もとくに区別などなく、一文一文はそれぞれがひとつまでの事実を指示できる能力があるのだ、ということだ。そのとき会話文が指示する事実とは「~と述べた。」という事実のみになるがゆえに、~の部分を重視すると、~の部分がいかなる事実をも指示することもできていないという当たり前の事項が際立って見えるという、ただそれだけの話だ*4

 

三人称の小説において地の文と会話文にはこういった性質の違いがあるという話について、(端的に言って、このブログは学問的価値を持っている必要が特にないので)正式な前提付けと論証はだれか興味のある人に任せるとしよう。ここからは、こうした“基礎的な”見方をVtuberという特殊な(特殊かもしれない)フィクションに適用したとき、事態をどうとらえるべきなのか、という話に移る*5
私たちが、ある「Vtuberというキャラクター」のことを、ある「Vtuberという物語」の(しばしば、唯一の)登場人物としてとらえることが、もし許されるならば。あるVtuberの発言は、ただ、そのVtuberの所属する世界のなかでいち人物によって述べられた発言でしかなく、その世界における真実をも、虚偽をも、特権的に確定することはないだろう。たとえ、白上フブキが「私に持ちうる限り最大の認識能力でもって私の髪の毛の本数を数え、私に持ちうる限りの誠実さでもって私の髪の毛の本数が奇数であったことをここに宣言する」と述べたとしても、それは白上フブキが所属する世界における絶対的真実を示しはしない。

 

私は上で、小説の地の文には見かけ上の特権性しかない、しかし見かけ上の特権性はある、ということを述べた。換言すれば、小説における地の文は、あるフィクション世界における絶対的な事実を提示できる*6。小説の場合、「ある命題が、正統的に小説の一部に属する一文であるかどうか」と「ある命題が、小説の世界における事実であるかどうか」はふつう一致する。「正典に依拠する情報」は「公式設定」とみなせる。
この『小説を満たすもっとも基本的な構成要素』である(でありそう)ところの『地の文』が事実を提示する、ということをVtuberの場合に引き写したとき、誤解を招くのは、「Vtuberという物語」が主として「Vtuberというキャラクターの発言」によって構成されるということだ。VtuberにおけるVtuberの発言が、小説における地の文に相当するとするなら、Vtuberの発言は直接に事実でありうる。しかし、私は、VtuberVtuberの(しばしば唯一の)登場人物である、と考える。いわば、Vtuberとはすべての文にかぎかっこがついている小説である。Vtuberの発言からは、Vtuberの世界における事実と一致する可能性が高い命題を引き出すことはできるが、事実そのものを引き出すことはできない。Vtuberの発言のなかで示された情報――たとえば、白上フブキの髪の毛の本数が奇数であるとか――言った情報は、「正典に依拠する情報」ではあり、「公式設定」と一致する可能性もあるが、「公式設定」ではない*7

 

しかし、Vtuberの発言が、Vtuberという物語における地の文だとみなすべきだとしたなら?
そこには、Vtuberの発言を地の文とみなすか否かという前提の違いが避けがたく横たわる*8。予告した通り、私の議論は反論として成立することはない。

 

3.発言の信頼性と正しさとの混同

LW氏は、他の実在人物や虚構的実在人物でなく、Vtuber自身によってVtuberの名前が語られることは、名前からVtuberへの指示をより“強力に”すると主張した。

繰り返すと、記述に依らない固有名の指示が有効であると考えるに際して必要な命名儀式におけるポイントは「指示を固定すること」であった。よって、目下の問題は「初配信は指示を固定するか否か」に帰着される。わたくしの答えは以下の通りである。「初配信は指示を固定する。それも、フィクション一般よりも更に強力に」。

私はこの主張にはひっかかるものがある。まず、(これは当初、LW氏が意図的に表現をぼかしているようにしか感じられなかったのだが)指示の固定が“強力に”なるとは一体どういうことなのだろうか。また、その“強力さ”とはどのような意味でポジティブな価値であると認められるのだろうか。

 

私は以前、幸運にも、LW氏に直接この疑問をぶつける機会に恵まれた。(いくぶん前になされた質問なので、いまもLW氏が同様の回答をする保証はないが)LW氏はいささか混乱した私の質問に親切に回答を寄せてくださったのだが、その回答というのは、「ここでいう“強力さ”とは、ある命名儀式について、その儀式で得られる固有名への信頼度の高さのこと」といった内容であった。

 

つまり、LW氏の主張をよりわかりやすく言い換えるなら、こうだ。あるVtuberが「白上フブキ」であるという情報は、他の誰かが述べた場合よりも、Vtuber自身が述べた場合に、より“信ずべきである”。

 

しかし、ここにもまた、LW氏の混同があると私には思われる。ここで混同されているのは、「ある命題を信じるべきかどうか」と「ある命題が正しいかどうか」である。
「ある命題を信じるべきかどうか」と「ある命題が正しいかどうか」は違う。このことは、「ある命題を信じるべきかどうか」を「任意の人が、ある命題が正しいという可能性を正しくないという可能性に比べて重視するか否か」と言い換え、「ある命題が正しいかどうか」を「ある命題が実際に正しいかどうか」と言い換えれば、はっきりと伝わるだろうか。

 

誤解を生みがちなのは、“信ずべきである”という表現が「信じるという選択肢と信じないという選択肢がどちらもありうるうえで、信じるという選択肢を選ぶべき理由がある」という意味でも、また「最初から信じるという選択肢しかありえない」という意味でも解釈できることだ。この表現の厄介さは英語でも変わらない。'must believe ~'という表現は、'had better believe ~'に近い意味でも'have no choice but to believe ~'に近い意味でも使われるだろう*9
はたして、私はこの文章中では(基本的には)、「ある命題が信頼すべきである」という表現は「完全ではない理由によってある命題が正しいと予期される」という意味で用い、「ある命題が正しい」という表現は「ある命題が正しいという可能性しか想定できない」という意味で用いることにする。そして両者は区別される。なぜなら、もし「ある命題が正しいという可能性しか想定できない」のだとすれば、「この命題は正しいと予期されるのだろうか」という疑問は提示できない(ナンセンス)はずだからである。

 

なるほど、もし、あなたが又聞きよりも本人から聞いた情報により重きを置く立場であれば、Vtuber自身によるVtuber命名儀式は「より信頼すべき」であろう。しかしその「より信頼すべき」は、「Vtuberの間違いない公式設定である」ということとは本質的にはつながっていない。Vtuber自身の発言である、という状況はその発言の正しさを上昇させない*10

 

ところで、ここからはこの節の余談に当たる部分なのだが、『Vtuber自身による発言であることが正しさを上昇させない』以前に、そもそも、『Vtuber自身による発言であることは発言の信頼性を上昇させる』のだろうか?
Vtuber自身が「私は白上フブキです」と述べるよりも、配信動画に突然挿入されたナレーションにおいて「彼女の名前は白上フブキである」と述べられたほうが信頼がおける、と思うのは私だけだろうか? Vtuber自身のセリフよりも配信動画に挿入されたナレーションよりも、本編外、ホロライブ公式サイトに「←白上フブキ」と書いてあったほうが信頼がおける、と思うのは私だけだろうか?*11
LW氏はひょっとすると、私とは真逆で、本編外の設定資料よりも本編中の描写により信頼を置き、ただの本編中の描写よりも本編中のVtuberの発言そのものにより信頼を置くのかもしれない。
このようなLW氏の理解でポイントになるのは、おそらく、その発言が誰に対して行われたか――きちんと私たち自身に対して行われているか、だ。LW氏において、Vtuberは(同じ虚構世界に属する虚構的実在人物に対してでなく)私たちに向かってしゃべりかけていることが、その発言に信頼を置くための最大の理由になる。

もともと因果説とは固有名が流通するような社会的なコミュニティを前提したものであるから、固有名を受け渡す企図が明確に存在することは今後の因果連鎖の有効性を担保するにあたって大きな加点要素となる。これに比べれば、小説を読んで我々が固有名をキャラクターに結び付けるのは、それが語り手が第四の壁を突破しているようなメタフィクションでもない限り、せいぜい不当な盗み聞きに過ぎないと言わざるを得ない。

私はここで、LW氏と真っ向から対立する立場をとってもいいと思っている。すなわち、私たちを意識して述べられた内容よりも、私たちを意識せずに述べられた内容のほうが安心して信じられるのである。誰かに向けて述べられた内容よりも、独り言のほうが安心して信じられるのである*12*13

 

これはまったく憶測になるが、「より信頼がおける発言」の要件がLW氏と私とで違うのは、正しさに営為を感じるか噓に営為を感じるかの違い、感性の違いに拠るのではないだろうか。
もし、正しさは営為である――人は、文法的に可能な無数の命題のうちから、意識して選び取らなければ真なる命題を述べることはできない、と考えるならば、真なる命題を述べることには相応のコストがいることになる。「誰かに対して言う」などの特別な企図がなければ、そのようなコストは支払われえないだろう。
もし、噓は営為である――人は、文法的に可能な無数の命題のうちから、意識して選び取らなければ偽なる命題を述べることはできない、と考えるならば、偽なる命題を述べることには相応のコストがいることになる。「誰かをだます」などの特別な企図がなければ、そのようなコストは支払われえないだろう。

 

4.フィクションがもつ時間と我々が持つ時間との混同

私はこれから、まったく十分ではない証拠によってLW氏をある嫌疑にかけようとしているのだが、まえもって証拠の不足を暴露しておくことでどうか許してほしい。

 

仮に、(私たちが日常使う年号において)ある特定の日時に、白上フブキの公式設定が追加されたとする。例えば、2021年12月31日までは、白上フブキに髪の毛の本数の設定はなかったが、2022年1月1日に、白上フブキの髪の毛の本数が奇数だという設定が公式のものとなった、というようなシナリオを考えてみよう(具体的にどのようにして公式設定になったかは、「白上フブキが配信動画中で奇数だと述べた」でも「ホロライブ公式サイトのライバー紹介に項目が追加された」でも、納得できるほうを想定してくださればよい)。
このとき、私たちの日常暮らす世界(AWと呼んだほうがわかりやすい方もいるだろうか)において、「ある時点までなかったもの〈髪の毛の本数の設定〉がある時点に生まれた」という事件は、あった。もし任意の事件が特定の時間に生起すべきものならば、この事件は私たちの暮らす世界におけるある時間に生起した。
対して、白上フブキの暮らす世界、「Vtuber白上フブキの物語」において、「ある時点までなかったものがある時点に生まれた」という事件はなかった。それがその世界における事実であるなら、白上フブキの髪の毛の本数は最初から奇数であり、これからも奇数である。なぜなら、件の「設定変更事件」は私たちの暮らす世界の特定の時間に生起したのであり、白上フブキの世界のどの特定の時間にも生起していないのだから。
私たちの暮らす世界と白上フブキの暮らす世界には違う時間が流れている。いかに、実践的な意味において「私たちが過ごす日々と白上フブキが過ごす日々をまたぐ共時性を定義しても問題ない」としても、両者が同じ時間を経験していることにはならない、少なくとも「ある可能世界に実在するVtuber」という前提を用いる限りは。私たちは、例の設定変更事件を通じて、ある世界では存在した時間的前後関係が、ある世界では存在しない、という場合を知ったはずだ。

 

しかし、LW氏は両者の時間を混同している。私たちの暮らす世界で、事実でも虚偽でもなかった情報がある日事実になったのと、“同時に”、ある可能世界でも、事実でも虚偽でもなかった情報がある日事実になったかのような混同を、文章ににじませている。その情報は彼女の暮らす世界においてははじめからおわりまで事実であったというのに。
こういった混同は、『白上フブキが~』の中においてはニュアンスどまりだが、同氏の小説作品『Vだけど、Vじゃない!』においてはかなりはっきりと見られる*14

 

待った!
早めに白状してしまうが、LW氏は本当のところ、両者の時間を混同しているわけではない。件の小説は、むしろLW氏が両者を混同していない証左である。両者の時間が本当は別の時間であるとわかっていたからこそ、それらが一見同一のものかに見える瞬間にパラドックスを読み取れたはずだ。

 

Vtuberが仮に特殊なフィクションであるとしよう。他の形態をとるフィクションからVtuberを区別する特徴を積極的に探すとするなら、Vtuberが持つ時間と私たちが持つ時間との同一性――それが見せかけの同一性であれ、本質的な同一性であれ――を仮定してそれに着目するのは、まったく正当な行いだ。
一方、私が指摘しているのは、Vtuberが他の形態のフィクションと(程度は違うかもしれないが)共通して持っている特徴「私たちの暮らす世界とは別の時間軸を持つ」である。私の反論は、ほとんどちゃぶ台返しですらありうる。

 

ただし、私が潔く譲歩して、Vtuberが私たちと同じ時間を生きているとしよう。Vtuberの世界においてそれまで事実でも虚偽でもなかった情報がある日事実になりうるとしよう。その場合でも、Vtuberという物語は「すべての未確定情報が事実や虚偽になりうる」ということによって「論理的完全性」を得たりはしない。「部分的に不完全性を持っていた物語が、部分的な完全性を得る」だけの話である*15。「すべての命題が事実か虚偽になりうる」という動的な状態を「すべての命題が事実か虚偽である」という静的な状態と同一視するというのは、ε-δ論法のアナロジーを聞いても意味不明……というか、アナロジー元の事例とVtuberの事例との差が際立って、むしろLW氏の主張にうなづきづらくなる*16Vtuberの事例では、「不完全性があった状態から不完全性が減った状態への変化」というものを想定してしまうために、よりいっそうVtuberの不完全性が否定できなくなる。Vtuberは、本質的に不完全であり、不完全性の度合いを変化させられるという特徴はむしろVtuberの不完全性を(絶えず切り売りしながら)強化しているのではないだろうか*17

 

5.世界に所属するキャラクターという前提について

LW氏は、キャラクターはある可能世界(あるいは、ある可能世界の集合)に所属するものだと考えて『白上フブキは~』における議論を展開した。Vtuberは世界(真なる命題の集合)のなかにいるのである。そして私もここまで、キャラクターは世界の中にいるものと考えてここまでの議論を書いてきた。
しかしながら、Vtuberは論理的完全性を持つ――Vtuberが所属すべき「真なる命題の集合」の輪郭ははっきりと決まる――というLW氏の主張を繰り返し揺るがすにつけ、気になるのは、「はたしてキャラクターが特定の世界の中にいる必要はどの程度あるのか」である。
私は最後に、「キャラクターが世界に所属するという説の反例」ではないにしろ、「キャラクターが世界に所属しないと考えたほうが自然に感じられる例」を少しだけ提出して、「世界」という術語を取り除いたキャラクター存在論の地平を幻視したい。

 

最初に私が考えたいのは、キャラソンについてだ。
アニメなどのフィクション作品に、キャラソンというものがしばしば付随する。キャラソンとは、ここでは、アニメに登場するキャラクターがキャラクター自身の名義で歌っている歌、とでもしておけばいいだろう。そういったソングは、自律した一作品でもあり、またアニメ作品の一部でもある(ように私には思われる)。
ここではアニメ『ドキドキ!プリキュア』に対するキャラソンを例にしよう。
まずキャラソンには、本編中でもキャラクターが歌っている曲、というタイプの曲がある。例えば剣崎真琴(CV. 宮本佳那子)の歌う「~SONG BIRD~」や「こころをこめて」などがそうだ。剣崎真琴は『ドキドキ!プリキュア』作中で人気アイドルとして設定されている。彼女が商業作品としてのクオリティを持ったオリジナルの持ち歌を持っていることは、彼女がアイドルであるということから容易に了解される。つまり、「~SONG BIRD~」や「こころをこめて」は剣崎真琴というキャラ本人が歌っている曲であるということに違和感はない。
次に、本編中では歌われない、歌われえない、というタイプの曲も、キャラソンのなかには存在する。『ドキドキ!プリキュア』で言えば、菱川六花(CV. 寿美菜子)が歌う「COCORO◆Diamond」であるとか四葉ありす(CV. 渕上舞)が歌う「CLOVER〜オトメの祈り〜」なんかがそうだ*18。菱川六花や四葉ありすは、アイドルとかではない普通の女子中学生(いや、普通じゃないけど……)として設定されているので、本編中で歌われない以上に、『ドキドキ!プリキュア』という物語のなかのいつにもどこにもこの曲は位置していないと思われる。
にもかかわらず、「COCORO◆Diamond」や「CLOVER〜オトメの祈り〜」は、寿美菜子渕上舞が歌っているよりかは(いや、寿美菜子さんや渕上舞さんがこの曲を歌っていることも私は普通に認めるのだが)菱川六花本人や四葉ありす本人が歌っているものとして理解したくはならないだろうか。菱川六花や四葉ありすが「COCORO◆Diamond」や「CLOVER〜オトメの祈り〜」を歌っている時間と空間は、『ドキドキ!プリキュア』の基幹となる物語とは時間的にも空間的にも連続していないにもかかわらず。
つまり、私が幻視したいのは、世界の中に位置して真正性を議論できるような「キャラクター」概念ではなく、それ単体で実在し、場合により特定の世界の中に移入することもできるような「キャラクター」概念である。

 

キャラソンが論理的に本編と断絶しているという事態は、本編と食い違う事態を提供するキャラソンにおいて一層はっきり示される。
例えば、キュアハートに変身する相田マナ(CV. 生天目仁美)はひどい音痴であるという設定がある。にもかかわらず、相田マナは「Heart style」という音程もリズムも外さない素敵なキャラソンを歌っている(少なくとも私は本人が歌っているとみなす)*19
例えば、キュアエース(CV. 釘宮理恵)というキャラクター、変身後は18歳の姿をとる彼女は、変身前である円亜久里の姿は小学4年生の姿であり、かつ、変身前と変身後では明らかに別なメンタリティ持っている。キュアエースは、キャラクター設定自体が、変身前の「日常」からある程度断絶したキャラクター性を強化しているわけであり、キュアエースが戦闘以外の何かをしているすべての時空間は本編の時空間に対して宙吊りになる。にもかかわらず、キュアエースはキュアエースの名義で「愛の力」というキャラソンを歌っている。
例えば、アイちゃん(CV. 今井由香)というキャラクター、彼女はまだしゃべるのもおぼつかない赤ん坊とであるとして設定され、実際本編でもそう流暢にしゃべる描写はない。にもかかわらず、彼女はアイちゃんという名義で「きゅぴらっぱ~」というバキバキの日本語ラップを披露している。
そして、私はここまで挙げてきた5人全員のキャラソンについて、本編における彼女たち本人と連続性を持った彼女たち本人が、どこか宙吊りにされた時空間内においてそのキャラソンを歌っているものであると主張する。いや、むしろ、彼女たちは間違いない本人とみなす、という前提をあえてとる。それは、私にとっては、彼女たちが本人であるとみなした場合の理論のほうが直観に合致し、便利だからである。

そして、私が主張しようとしているように、一個のキャラクター性が、「連続した時空間」=「真である命題の集合」の範囲を超えて続きうるのだとすれば、キャラクターを世界の内部にわざわざ住まわせる必要はないということになる*20

 

ことは物語の登場人物、キャラクターには限らず、もっと一般名詞的な概念についてもあてはめることができる。例えば、LW氏は「ペガサス」という一般名詞*21の指示するところのものを、共有世界信念という考え方を用いて説明しようとした。私は同様に「ペガサス」を例に用いて、共有信念世界という考え方をとることが、むしろ都合が悪いような例を提出してみたいと思う。

例えば、あるサイバーパンク世界を舞台にしたSF小説にペガサスをロゴに採用した企業があるとする。私たちは「このロゴのペガサスは飛ぶ能力を持っていると思うか」と聞かれたとき、「持っていると思う」と答えるだろう。もし共有信念世界という考え方を採用するなら、この私たちの回答は「私たちの世界→共有信念サイバーパンク世界→個別のサイバーパンク世界→個別のサイバーパンク世界における共有信念ファンタジー世界」みたいなくそややこしい参照チェーンを経て発生したことになる(いや、私がそんな例を作ったからだが)。
この理解には2点違和感がある。第一には、「サイバーパンク小説における共有信念ファンタジー」という当初の例でも、いま新しく提出する「ファンタジー小説における共有信念サイバーパンク」という例でも、「ペガサスは飛ぶかどうか」という問いを考えるうえで私たちが悩む度合いはそう変わらなく思えるということ。もし共有信念世界を用いた考え方が妥当ならば、前者よりも後者のほうが「ペガサスは飛ぶかどうか」という問いへの回答は難しいはずである。
第二には、参照チェーンが3個だけしか続かない場合でも、100個続く場合でも、「ペガサスは飛ぶかどうか」という問いを考えるうえで私たちが悩む度合いはそう変わらなく思えること。もし共有信念世界を用いた考え方が妥当ならば、前者よりも後者のほうが「ペガサスは飛ぶかどうか」という問いへの回答は難しいはずである。
だから、私には、ことペガサスの問題に注目する限りでは、「ペガサス」という名前が、ファンタジー世界の一般的な法則を集めた共有信念世界を介して「空を飛べる」という情報を得ている、という考え方よりも、「ペガサス」という名前そのものに「空を飛べる」という情報が含まれているという考え方のほうが都合がよく思われる*22*23

 

ここまで論じておいてなんだが、実は、ほかならぬVtuberさえ、特定の世界に属さないと考えたほうが都合がよい場合があるという話はLW氏からもすでに何度かされている。『新世代バーチューバーの動向』という記事において、新世代Vtuberに比して旧世代Vtuberがいっそう、というかたちではあるのだが、Vtuberが(紐づけられる世界抜きに)キャラクター単体で存在していた、という話がなされている。

大雑把に言うと新世代設定がキャラクター+ワールドで構成されるのに対して、旧世代設定はキャラクターだけで構成されるということになる。

また、『キズナアイは論理的に完全』という記事では、「物語から完全に独立したキャラクター論は少ない」と述べられているが、その理由は単に歴史的な状況に拠っているのみで、演繹的な理由を持っているわけではない……というような含みがあるように感じられるのだが、これは私が都合よく読みすぎだろうか?*24

まあ、世界から独立にキャラクター性を論じるには、まだ先達が少なく、やったとしても非常に難しい作業になるだろう、くらいのことは言えるだろう。

*1:重要なわりに、LW氏にしてはえらくあっさりとこのアイデアを提示しているものだと私は思う。このあっさりさは、LW氏が一度このアイデア『キズナアイは論理的に完全』という記事のなかで丁寧に説明したことがあるということに、ひょっとしたら拠っているのかもしれない。このアイデアの内容についてもう少し詳細に知りたい方はこの記事を読んでおくのがいいかと思われる。

*2:また、この文章ではほぼ「普通のフィクション作品は論理的に不完全である」という前提をとるが、フィクション作品一般が不完全であるという考え方にはまだいろいろオプションがあることには注意されたい。LW氏はレポート『ユーザーの集合データを用いた テクスト論的に正統な虚構世界の体験システム』において「状況説」「集合説」「一世界説」の3つのオプションを提示してくださっているので、参考にされたい。

*3:いうまでもなくこの論証はごく粗雑になされたものだ。というのも、私は、小説におけるかぎかっこの使用を会話文の表現に限定し、かつ会話文を意味論的に同値な地の文に変換できるものだとする前提を検証抜きに採用しているから。この文章全体のわかりやすさのためにいささか性急な書き方をしてしまったが、私の前提がいかなる範囲で成り立つものなのか、他者の詳細な分析を聞きたいので、この点に関する反論はむしろ歓迎するところである。この興味が何という名の学問分野に相当するのかだけでも聞きたい。厚かましいが、自分は無学なもので……。

*4:地の文の特権性は見かけ上のものにすぎないという話だが、もちろん、地の文には見かけ上は特権性がある、という話でもいい。

*5:本文としては無視してしまうのだが、Vtuberについて考える前に当然気になることがあるだろう。それは、語り手が一人称や二人称の小説においては地の文が見かけ上の特権性を持つことはあるのだろうか、という点、また、語り手がはっきりとキャラクター付けされている小説においては地の文が見かけ上の特権性を持つことはあるのだろうか、という点だ。
非常に雑なことを言えば、あなたがもし独我論的な傾向を持つならば、一人称や二人称のわかりやすい語り手による地の文も、ある世界における事実として受け止めることに抵抗がない可能性が高いだろう。つまり、地の文は見かけ上の特権性を持つ。あなたがもし実在論的な傾向を持つならば、それと意識されるキャラクター性を持った語り手による地の文は、一個のキャラクターによる真偽不明な命題として受け止めようとする可能性が高いだろう。つまり、地の文は見かけ上の特権性を失い、(かぎかっこでくくられているものとはただレベルが違うだけの)一種の会話文にまで堕していくだろう。
正直なところこれ以上の分析は骨が折れるので、小説の語り手のタイプによる地の文の取り扱い方の違いについては今回は論じない。

*6:といってもこの主張は、『フィクション世界における絶対的事実』とかいう概念の定義の問題にすぎないだろう。『地の文から予断を許さずに解釈できるところの命題』を『事実』と呼ぶとかなんとか、そういうスタンスを宣言するか、しないかに議論が依存する。しかしながらこの主張は定義の問題であるがゆえにいっそう否定することが難しい……のではないだろうか。

*7:ここで、『ある作品世界における事実』程度の意味で『(ある作品の)公式設定』という言葉を使ったが、この『事実』や『公式設定』といった概念をどのように取り扱うかについて、本来ならば、ひとびとの意見は分かれるところだろう。これらの概念の取り扱い方について私が述べられることは、私が私の人生でたまたま多く触れてきた作品群に拠るところが大きいので、詳説は別記事『デットンは存在し、かつ、弟であるのか』に持ち越す。

*8:LW氏が私と異なる前提をとっているであろうことは、『白上フブキは~』のなかで比較的はっきり示されている。
『この作業はそこまで困難ではないと思われるかもしれない。というのも、当の作品がはっきり提示するものを前者、そうでないものを後者とすればよいだけのように思われるからだ。小説においては単にテクストに表記されているかどうか、Vtuberにおいては主にVtuber自身が自己申告したかどうかで区別できるだろう。概ね、白上フブキ自身が断定している事柄については真であるとしてよいように思われる』

*9:beleiveもhad betterも難しい単語・連語なので冷や冷やしながらここ書いてます。もっとふさわしい例文があったら優しく教えてください……。

*10:「信じるべきかどうか」と「正しいかどうか」は違う、と本文では断言してしまったが、本当は簡単には言い切れない問題かもしれない。少なくとも私は、「任意の人がそれを正しいと信じる」ということと「正しい」ということとをうまく区別する有効な前提を知らない。もし、「正しい」ということが根本的には「特定の視点から信じる」ということと区別できないのだとしたならば、ここでも私の反論は崩れ去ることになる。

*11:さきほどの粗雑なアナロジーを再度使えば、こうだ。「小説の登場人物が会話文で自己紹介するよりも、地の文で名前を指示したほうがより信頼がおけるし、地の文で名前を指示するよりも、登場人物紹介で名前を紐づけられたほうがより信頼がおける」

*12:ここで、LW氏が引用箇所で話している内容と私が話している内容とではテーマが全く違うことには注意せよ。前者は「発言の信頼性と命題の正しさをほぼ同一視したうえで、直接説にもとづき、Vtuber自身の発言はより正しい」と主張し、後者は「発言の信頼性と正しさを区別したうえで、(直接説を積極的に採用はせず)Vtuber自身の発言はより信頼できない」と述べている。両者は同じ問題に対して対立する意見を述べているのではなく、違う問題に対して互いに相性の悪そうな意見を述べている。

*13:私が前節と当節で続けてきた主張を、考え得る限り過激な方向に言い換えると、会話文である限り(ひょっとすると地の文ですら)信頼すべき理由はどこにもない、という主張にもなるかもしれない。この過激な主張はつまり、LW氏がきちんと理由を示して除外してきたあの条件「語り手が信頼できない語り手である場合」を、やはり原理的に除外できない条件であると言って議論に差し戻そうとする行為である。少なくとも気持ちの上では、私にはここまで勇敢な議論を展開する気はないが、場合によっては、私が「信頼できない語り手は除外できない」と主張しなければならないときも来るのだろうか……。

*14:なお、LW氏が『白上フブキは~』でにじませている時間感覚を単独で表現したものが『Vだけど、Vじゃない!』であるように、私がこの文章で主張しようとしている時間感覚の一端は、別記事『時間ものに関する覚書』で少しだけ近いことを語っている。私の直感がどこから来たのか知りたいという奇特な方がもしいたら、読んでくださってもいいかもしれない。ただこの別記事は存在論とはさして関係がない。

*15:「部分的な完全性」という言葉使いはかなり奇妙だし、たぶん、正確にはこの術語の定義と一致していないだろう。しかし、現状この表現が一番わかりやすいと私は信じるので、申し訳ないのだが、読者にあられてはよくよく注意してこの箇所を読んでいただきたい。

*16:ここまで来るとフツーに自分が読み間違えてる気がしてきた。論理学は難しいな、くそ!

*17:私は(結果的に)現実世界の完全性とVtuberを含めたフィクション全般との不完全性を対置し、Vtuberのどうしようもない不完全性を主張した。しかし、LW氏の主張でも私の主張でもない第三の道として、静的な不完全性と静的な完全性との間に、VtuberくまモンBLEACHなどの作品が持つ動的な完全性/不完全性を第3のカテゴリとして置く、という道もあるだろう。私は現状その道を選ぶメリットがとくにないので選ばないが、あなたがその道を選ぶことを止めるだけの理由もまだ発見してはいない。

*18:正確には、「COCORO◆Diamond」/「CLOVER〜オトメの祈り〜」の歌手名義は、変身前の名前である菱川六花 / 四葉ありすではなく、変身後の名前であるキュアダイヤモンド / キュアロゼッタである。そこらへん、重要な人にとっては重要な違いなので、注釈という形ではあるが、注意を促しておく。

*19:もちろん、外伝的に、相田マナが特訓によって音痴を克服するという挿話を妄想によって補完し、逆説的に強固な時空間的連続性を本編とキャラソンとの間に確保する、という戦略も、視聴者としては存在するだろう。実際、相田マナが歌の特訓をする絵本というのがあるらしい。

*20:キャラクター性は時空間の連続性を踏み越えて連続しうる、という考え方は、大幅に見方を変えると、以下のようにも表現できるだろう。「キャラクター性は、彼 / 彼女が所属している世界とは別に、それ単体でひとつの世界である」
この、「いちキャラクター=いち世界」という考え方は、別記事『最強議論の下準備』でもわずかに触れている。

*21:ペガサスという単語には固有名詞としての用法もあるが、ここでは一般名詞としての用法のみを話題にする。

*22:ただ、LW氏が用いるところの共有信念世界という考え方のほうが都合がよい場合もたくさんあるということには同意できる。例えば「ゴジラ」について考える時がそうで、ゴジラのように特定のテキストに帰しやすいキャラクターは「基本的には常に映画『ゴジラ(1954)』に準拠している」と考えても問題が起きにくい。

*23:本文では、固有名詞としてのキャラクター名を特定の所属先から解放する作業と、一般名詞としての名前を特定の所属先から解放する作業とを別々に行ったが、この2つの作業を「歴史や伝承に登場する英雄・偉人その人」という概念を介して接触させたのがFateである。例えば、Fateにおけるアルトリア・ペンドラゴンは、一方では血肉の通った特定の一個人である。しかし他方では、『アーサー王伝説』に残された「アーサー王」という、(まあ一般名詞とまではいかないまでも)LW氏言うところの「寓意としての」「種としての」「理論的対象としての」人物像をも指示している。
Fateという事例は非常に興味深く思われるのだが、これについて扱うと、同時に「stay nightのセイバーとZEROのセイバーは同一人物か否か」とか「stay nightのセイバーとZEROのセイバーは同一キャラクターか否か」といった多数の非常に厄介な問題をも同時に抱え込むことになるので、Fateをネタに論じることはFateに詳しい方にお任せしたい。

*24:キャラクターが外在的な物語によって定義されるのか、内在的な性質によって定義されるのか、という話題まで視野を広げれば、LW氏は『不在の百合と構造主義』という記事でも少しだけ関連することを述べている。キャラクターの世界への紐づけられ具合という問題はLW氏の継続的な関心のもとにあるとみていいだろう。

プリキュアはとくに新しくなかったかもしれないが、俺の頭は古かった

 

negishiso.hatenablog.com

以下の文章は、上掲した記事をいくぶんか意識して書いたものだ。しかし、内容的つながりはそんなにないので、上掲記事を読んでいても読んでいなくても、私のこの記事の理解にそう変わりはない(と思う)。

 

―――――――――――――――

 

私にとって、よい作品とは遠くに輝く星であって、私自身の人生に直接的なアドバイスを与える指南書ではない。だから、私が特別に愛着を寄せる作品について顕彰しようとするとき、顕彰する言葉の中に“現に生きる私”という項が含まれることはあまり好ましい事態ではない。

しかしながら、ときに、作品について語るとき“私”の存在がどうしても絡みついてくるといったような事態はあるもので、今回のヒープリ42話もそうだった。

 

作品の新しさよりも、自分の古さが気にかかる。

 

「ヒーリングっど♥プリキュア!」あらすじ

地球をむしばむ病原菌のような生きものの集団「ビョーゲンズ」。彼らは地球に暮らす生きものや自然界の精霊に感染し、苦しめ、環境を悪化させる。

地球の環境をむしばんで自分たちが過ごしやすい環境にして移り住もうともくろんだビョーゲンズは、キングビョーゲンを中心として何度か地球を襲撃するが、地球を治療する医者である妖精の集団「ヒーリングアニマル」に阻まれてきた。

あるときの襲撃で、女王をはじめとしたヒーリングアニマルの主要部隊が傷つき倒れ、ビョーゲンズの地球への本格進行が開始。見習いゆえ前線にいなかったラビリンはじめ3人のヒーリングアニマルが、伝説の戦士「プリキュア」とパートナーになって状況を打開するために地球に旅立つ。

それぞれの縁でパートナーをみつけたラビリン達と、見出された花寺のどか達はプリキュアとなって戦う。

途中、のどかが長年苦しめられた病気が実はビョーゲンズの感染によるものであり、ビョーゲンズの一員ダルイゼンはのどかを宿主として育っていたことが判明する。

やがて、キングビョーゲンとの最終決戦がはじまる。

41話「すこやか市の危機!! 忍びよるキングの影」あらすじ

39話で倒されたと思われたキングビョーゲンは実は生きており、部下を吸収してより強大に復活を遂げた。

プリキュアはキングビョーゲンの繰り出す怪物たちと戦うことになる。その戦いには勝利を収めたプリキュアだったが、キングビョーゲンはいつの間にか姿を消し、脅威は残ったままその日を終えることになる。

一度家に帰ったプリキュアたちは、帰りが遅くなっていた自分を心配していた家族に対面し、申し訳なく思う。

翌日、のどかとラビリンは森で傷ついたダルイゼンに遭遇した。キングビョーゲンは、忠誠心が薄い幹部であるダルイゼンを排除し、自信を強化するためにダルイゼンに融合を迫ったのであり、ダルイゼンはそこから命からがら逃げてきたのだった。ダルイゼンはかつてのように自身をのどかの体内に住まわせてくれと頼むが、のどかは答えに窮し、ダルイゼンの手を払いのけて逃げてしまう。

42話「のどかの選択! 守らなきゃいけないもの」あらすじ

ダルイゼンの頼みを拒絶したことで、のどかは自分を責め、食欲をなくしたり日常でミスを重ねたりする。かつて、「自分だけがよければ何をしてもいいのか」とダルイゼンを批判したこともあるのどかにとっては、病気の恐ろしさのためにダルイゼンを拒絶したことは自分勝手だと思われ、罪の意識に苦しむことになる。

事情を知るラビリンは強い口調で「のどかは自分が苦しまないことを第一に考えていい。いままで自分を苦しめてきた人を、さらに苦しんでまで救う義務はないのでは」とはげました。

やがて、ダルイゼンは追いつめられ、怪物と化して暴れだす。対峙したプリキュアは「あなたを救うためには自分が多大な苦痛を背負うことになるうえ、あなたを救うとまた他のだれかを苦しめる公算が高い」とはっきりとダルイゼンを拒絶し、戦って浄化する。

浄化されて元の姿に戻ったダルイゼンはキングビョーゲンに吸収され、キングビョーゲンはさらなる強化を遂げるのだった。

 

感想

私の場合、観終わってから(というか観ながら)すぐに思ったのは、「この展開は新しいな」という新鮮な驚きではなくて、「俺の……俺の頭が……古かったか……」という苦い感覚だった。

 

私は、42話のクライマックスでのどかさん達が結論を出すまでずっと「まあダルイゼンを助けるだろうな」と信じて疑わなかったし、42話で出した結論が意外だったのみならず、41話でのどかさんが即座に助けなかっただけでもう完全に予想外だった。

しかしながら、のどかさんが「ダルイゼンを助けない」という選択を表明した瞬間、その選択は、私の倫理観とも作品がかたどってきた倫理観とも矛盾してはいなかった。より乱暴に言うなら、のどかさん達の選択は何も間違っていなかった(と私には感じられた)。「ダルイゼンを助ける」という選択のみを期待していた(助ける選択しか見えていなかった)私はまさしく、のどかさんに、ラビリンに、する必要のない無茶を強いていたわけで、非常に申し訳ない気持ちを感じた。

 

(ここはこの文章の意図からすると余談にあたるのだが、私は42話の最大の焦点は「苦難の中にある悪人を助けるべきか否か」ではなく「過大な自己犠牲を払ってなにかを助けることができるひと(他者であれ、自分自身であれ)に対して、どのような態度で接するのか」というところにあると思っている。つまりは、のどかさんがダルイゼンに対してかける言葉よりも、ラビリンがのどかさんにかける言葉、またのどかさん自身がのどかさんにかける言葉が重要であるということだ。

のどかさんは、本当に苦しんでいるダルイゼンを前にして、「自分はダルイゼンを助けるべきか否か」という問いにからめとられて、「助けるためのコストは過大ではないか」という問いまで発想を進められなかった(コストが大きいということを理解して恐怖したが、コストが大きいために義務の埒外であるとは考えなかった)。「助ける」という元来積極的な行為が、制度化されることによって消極的な義務に転化してしまうということ、これは古今東西のヒーローヒロインがかかえる重大なジレンマのひとつだ。対して、のどかさんを信頼し愛しているパートナーであるラビリンは「のどかさんがダルイゼンを助けるためのコストは過大ではないか」という発想に至ることができ、なおかつのどかさんに対して「あなたはあなたを第一に考えていい」という無条件の承認を与えることができた。そこからなされた件の選択は、まさしく、2人の選択 / 2人だからできた選択であって、バディものとしてのヒープリの極点であったと思う。

これはもっと余談だが、ヒープリはバディものとしてとにかく優秀だった。4組のコンビが4種類の仕方で結んできた友誼が、どれほど私を楽しませてきたことか!)

 

重大な決断を迫られたのどかさん達を目にして、「ダルイゼンを助けるべきか否か」だけに注目して「彼を助けるかどうか選ぶのどかさん」に目を向けられなかった私は、視野が狭い。そして、「助けるべきだ」と考えて結論を予想するどころか、「助けるんだろうな。プリキュアだし」と考えを硬直させていた私は、救いようもなく古い。

そう、古いのだ。思えばこんなことは、前にもあったはずなのに。

ハピネスチャージプリキュア!』の製作にあたっては、(pixiv百科事典の記述を信じるなら)『アガペーしか知らなかった、アンバランスだった少女がエロースを知る』という射程が存在していたはずだ。そしてのその展開は『アガペーの無制限な拡大がストレートに称揚されること』への危惧から要請されたものであったはずだ……。

いかにプリキュアが無垢な少女であるとはいっても、いや、無垢な少女であるからこそ、われわれ大人は彼女たちに「無垢にして無制限な善性」などといったものを一方的に期待してはいけない。彼女たちはきっと応えてくれるだろうから。そして、われわれの(けっして目には見えないが)すぐ隣でプリキュアを観ている現実の少女たちに、大人の一方的な期待が届くことなどはゆめゆめあってはならない。私は、どの世代の少女にも(少年にも)、自分のうえだけに輝く星としてプリキュアを観てほしいのだから。プリキュアを教科書なんかにしてたまるものか。

 

(これまた余談だが、プリキュアの内容の道徳性について少しばかり思うところを述べておく。

私は、ある物語が「ひとは○○すべき / ○○すべきでない」といった直接的なメッセージであろうとすることには強い忌避感を感じる。ありていに言えば、ほとんどすべての教訓話は私の嫌うところだ。教訓話を書く作者は(より正確に言えば、「物語を実際的直接的アドバイスとして構成しうると考えている作者は」)、キャラクターという実存を作者の思惑を満たす道具扱いするのに満足している、下らない作者だ。

しかしながら、教訓話とよく似た状態として、「作者が、作品を観る視聴者のその後の人生に深い配慮を寄せたうえで物語にいくつかの制約を設ける」ということは、私が心から喜ばしく思うところである。具体的には、プリキュア製作者が、若い視聴者が不健全な憧れを持つことがないように周到なルール作りを行っていることがこれにあたる。

例えば、プリキュアにおいては、嫌いな食べ物・食べられない食べ物がある登場人物は非常に少なく、嫌いな食べ物がある場合はその○○嫌いを克服するエピソードが必ず描かれる。また、プリキュアは食いしん坊キャラがやたら多く、ダイエットのために食べ物を残すような場面を描くことは慎重に避けられる。ここには、プリキュアを観ている子どもたちが「ははーんなんだかんだ理由つけて食べ物残すのがカッコイイ大人なんだな」と思うことを防ぐ明確な狙いがある。

例えば、プリキュアにおいては、(前後編の前編など)敗北や危機的状況のまま終了する回の前半部に強めのギャグパートが挿入されがちという構成上の特徴がある。これは、(おそらく)それぞれの回をかけがえのない1回として観る子どもたちが、完全に後味が悪いまま1週間を待つことがないようにするための配慮である。こういった配慮は、録画して一気に観るなんてことを日常的に行うオタクにはなかなか想像しづらいところであるが、しかし大事な配慮だ(そして、長編ストーリーのダイナミズムとギャグパートの挿入とは、実は容易に共存しうるものであると知らないオタクは多い)。

プリキュアには、物語上では無論語られず、しかし製作者は明確に意識している、無数のルールがある。それらルールは全て若い視聴者への配慮として成り立ってきたものである(定説では、こうしたルールは製作者の内部文書として実在しているとされている)。こうした配慮が、私には自分ごとのように嬉しい。もちろん、大人が決めたルールが次世代によって無批判に繰り返され続けることは怖ろしくはあるが、そうした危惧は、配慮の尊さを根本から損なうものではありえない。

また、作劇において、「制約」は必ずしも創造性を阻害するものでない、むしろ創造性を増幅させることすらある、ということについては、ここでは詳しく述べない)

 

大人は子どもに身勝手な期待をしてはいけない。無制限な愛などを期待するためだけにプリキュアを観てはいけない。

『HUGっと! プリキュア』を観たときも、私は学んだはずだろう? あれは、「大人がゆがめた未来を子どもがしりぬぐいする話、そして未来をゆがめてきた大人が子どものおかげで希望(という能力)を取り戻しすらする話」だった……少なくとも私にはそう見えた……。『HUGっと! プリキュア』を観ながら、私は「大人の一人としてふがいない」と思ったのではなかったのか? 「大人の事情に関係なく、もっと自分のためだけに夢を探す野乃はなさんを観たかった」と思ったのではなかったのか?

 

しかし、「大人」? 私は、プリキュアのいち視聴者であることを負うとき、同時に「大人」であることを負うというのか?

おそらくそうなのだろう……。いつからそうなってしまったのかわからないが、私はもはや、「大人の一人として」プリキュアを観るということから逃れられない。

かつて、私は「大人」とは能力であり、自分ではとうぶん手に入れられないものだと思っていたし、できれば一生距離をとっていたいとも思っていた。いや、今でも「大人」にはなりたくないと安い願望は抱き続けているが……。

しかし、「大人」とは実は能力ではなくて。今までと同じ、何もできない自分のまま、「大人」という呪いは課せられる。気づかないうちに。そしてその呪いをかけるのは、(かつて予想していたように、「社会」や「大人の先達」ではなくて)自分自身だったのだ。俺にははぐプリはああいう話だとしか思えなかったんだろ?

いまや、大人の一人としてプリキュアと向き合うことから逃れられない私は、せめて身勝手な期待で子どもを縛る大人にはならないように日々努めなければならない。私に許されている期待とは、より広い射程を持った「子どもたちに子どもたち自身のことだけを考えていてほしい」という期待だ。これもまた、究極的には身勝手な期待に過ぎないのかもしれないが。

 

古くなってはいけない。すでに学んだことを忘れるな。広く、遠く、期待せよ(期待するな)。遠く輝く星に憧れるのならば……。

「プリキュア×反出生主義」だって??

何日か前、友人がこんな記事のリンクを送ってよこしてきた(えっ、俺って友人いるの。まじかよ)。

pregnant-boy.hatenablog.com

pregnant-boy.hatenablog.com

『スター☆トゥインクルプリキュア』という作品のなかに反出生主義思想を読み取って論じる(あるいは感想を述べる?)、みたいな記事だ。私はプリキュアが好きで反出生主義には興味がない者で、友人はプリキュアには興味がなくて反出生主義には興味がある者*1で、友人は私との共通の話題としてちょうどいいと思ってこの記事のリンクをよこしたのだろう。

 

さて、「プリキュアと反出生主義」である。一見したところ、なかなかに変わった取り合わせ。はたしてこの記事を読んでいくと、私も愛する『スター☆トゥインクルプリキュア』という作品に対して、どのような珍解釈が繰り出されているのだろう。あるいは、この作品の読み方として、独創的かつ興味深い読み方を教えてもらえるだろうか。
そう思って、私はずいぶんと身構えてこの記事を読んだ。読んだのだけれど……身構えすぎた。身構えて読んだわりには、この記事は、やや拍子抜けというか、(私が勝手に)期待していたような衝撃を具えた記事ではなかった。
衝撃がなかったというのは具体的にどういうことかというと。第一に、著者pregnant-boyさん(そう呼んでいいですか)の読み方はそれ単体で新奇性のあるものではなかった。珍解釈とかではなく、ごく穏当な解釈だった*2
第二に、(これは当該記事を読んで初めて気づかされたことなのだが)「反出生主義思想を読み取れなくもないストーリー・キャラクター」というのが、作品の構成要素として、一見斬新に見えて、冷静に考えるとさほど斬新ではない要素だった。

 

私には、pregnant-boyさんの読み方が間違っているとか言う気はさらさらない。一読させていただいた限り、プリキュアに反出生主義思想を読み取るということは不可能であるとまでは私には思えなかった。かといって、pregnant-boyさんの読み方が全く正当なものであるとも言う気はない。多くのひとがしているわけではない解釈には、やはりそれなりにリスクがあるものだ。
私はこれから私のこの記事で、『スター☆トゥインクルプリキュア』に反出生主義思想を読み取るという読み方が、どの程度正当かつ穏当で、どの程度不当かつ過激かを考えていきたい。網羅的な指摘を目指すものではないが、この道をのちに歩く人びとにとって(そんな人いるのか?)、多少の助けにはなるだろう。

 

元記事の著者たるpregnant-boyさんは、このようなかたちでの言及を望むかどうか、私にはわからない……。が、今日のところは、産む者のエゴとして、この文章を投げ放ってしまうことにしよう。

 


1. なぜ気づかなかった?

注意ぶかき読者の方々にあられては、すでに疑問に思っている方もいるかもしれない。「プリキュア×反出生主義」が、他の多くのオタクがすでに気付いているほどの論点ではないにもかかわらず、その発想に基づいてなされた読み方を読んでみるとさほどの新奇性が(少なくとも私には感じられ)ないというのは、一体どういうことなのか、と。
実際、「プリキュア×反出生主義」という読み方をしている人が多いのか少ないのか、いるのかいないのか、私はよく知らない。だが少なくともpregnant-boyさんの周囲では、そういう読み方をする人は見られなかったようである。

そのプリキュアが反出生主義を描いていると私の中だけで話題になっているので今回はスター☆トゥインクルプリキュアの概要と反出生主義との関連についてここに記すこととする。

多くのオタクや大友やその他、嗅覚のある人びとが、「プリキュア×反出生主義」という読み方に気づかなかったということはしかし、この読み方の新奇性を裏づけるものではなく、どちらかといえばオタクの読み方にある特徴があることを裏づけていたのではないか、と私は考える。オタクの読み方、とくに、ファミリー向けアニメを見慣れた層のオタクの読み方である。
ファミリー向けアニメを見慣れたオタクの目には、いや、これはおそらくなのだが、ダークネスト様のキャラ造形はそこまで目新しいものだとは映りにくいのだ。ダークネスト様は、見る人が見れば、陳腐といえば陳腐なキャラ造形である
全年齢向けアニメ・特撮において「世界に苦しみ悲しみ争いがあることに絶望した超越者が、時間的あるいは空間的な世界の白紙化を実行しようとする」という悪役造形は非常にありふれている。『ウルトラマンコスモス』のデラシオン、『ウルトラマンオーブ』のギャラクトロン、『仮面ライダーアギト』のテオス、『仮面ライダーオーズ/OOO』のドクター真木や『騎士竜戦隊リュウソウジャー』エラスなどなど、数え上げたらきりがない。それぞれ細かい行動原理や方法論には違いがあるが、『絶望系超越者』としてまとめるのに不足はないくらいには類型的だといえるだろう。

世界の白紙化をもくろむ超越者キャラは、プリキュアでは特にありふれている。例えば『スター☆トゥインクルプリキュア』の前作『HUGっと! プリキュア』では、暗い結末を目にして絶望した未来人が悪役となり、過去にさかのぼって先んじて暗い結末につながる未来を消そうとする、という筋書きが物語の縦糸の1本になる*3。アニメに反出生主義を読み取ることだけを目的にするなら、『スター☆トゥインクルプリキュア』を取り上げるよりも『HUGっと! プリキュア』を取り上げる方が例としては使いやすそうである。
「一見善意らしく見える理由で世界の白紙化をもくろむ超越者」などは、テンプレ悪役に過ぎないのだ。プリキュアがこよくのかたちを採用しているのは、プリキュアの作劇が「時代的に新しいから」と考えるよりはむしろ、「最大の力点は1話完結の日常にあるのだからあえてオーソドックスな悪役を採用している」とでも考えたほうがいいのかもしれない*4

 

これだけ絶望系超越者に見慣れたオタクがダークネスト様の思想・行動を目にしたとき、「ダークネスト様って反出生主義者っぽいな」という感想を抱くより前に、「ああ、そのパターンね」という感想を抱く可能性のほうが高かったのではないだろうか。


2. そもそも反出生主義(者)なのか?

ダークネスト様は、悪役のキャラ造形としてはどちらかといえば陳腐だった、さしあたりこの記事ではそういうことにしよう。さりとて、多くの絶望系超越者キャラのなかで、彼女を特徴づける何かがないということではない。
彼女の特徴として、多くの絶望系超越者のなかにあって(唯一というわけではないが)際だっているのは、彼女が本物の造物主であり、過去実際に世界を創造したことがあり、今後も世界を創造し直せる(そして創造しないということも選択できる)能力があるということである。まさしくこの特徴によって、彼女の行動を反出生主義という枠組みで読むことができるようになる。もし彼女が、すでに存在する世界のなかに定義づけられ、世界を滅ぼそうとしている人物にすぎなかったなら、彼女は単なる復讐者であり、反出生主義者とはさほど似ていないからである。
しかしながら、この特徴は同時に、「彼女は反出生主義者とはいえない」という命題をも導いているのだ。

 

ダークネスト様の特徴は、人間ひとりの命を生み出す能力にとどまらず、世界全体を創り出す能力を持っているというところにある。世界全体を創り出す能力とその能力への責任を具えた者は、通常「神」とか呼ぶべきもの(百歩譲っても「デミウルゴス」とでも呼ばざるを得ないもの)だ。こういった人物を、反出生主義者と比較することには限界がある(一般的に、「反出生主義者」は人間であることが前提とされている……されているよね?)*5

ダークネスト様を反出生主義者と呼んで議論を行うことには限界があること、これはダークネスト様とプリキュアとのやりとりを考察する過程でいっそう明らかになってくる。
pregnant-boyさんは、両者のやり取りについて以下のような分析を下した。

スター☆トゥインクルプリキュアにおける出生主義的思想、すなわち人間の出生とその後の人生の負の側面も含めて肯定するという思想は48話で特に見受けられることとなった。プリキュアへびつかい座のプリンセスの不完全なイマジネーションが存在することで宇宙が歪むという主張をつまらないの一言でバッサリ切り捨てた。そして苦しみはやがて報われるというお決まりの希望的観測を持ち出し、歪みの存在を正当化させた。このような希望的観測を持ち出すとき、彼女たちはどこまでの苦しみ、苦痛を想定しているのだろうか。(中略)

やはりプリキュアの希望的観測を不完全なイマジネーション(人間性)を肯定する理由とするにはいささか根拠が乏しい。歪んだイマジネーションを生み出すような人間性が存在しないことをつまらなくない、つまり存在しないほうが良いとする理由は多分にあるし、すべての苦しみが分かり合えるといった類のものというわけではない。願わくばへびつかい座のプリンセスももう少しプリキュアの主張に反論してほしいところであったがそこはやむを得ないというべきか。

ダークネスト様の主張がキュアスターに「つまらないじゃん」と片付けられること、これをこの筆者は「子ども向けにするためにしょうがなく捨象したところ、もったいないところ」と捉えたようだが、それは逆だと私は思う。
私が考えるに、「正しい/正しくない」は世界の内部にしかないものだ*6。ダークネスト様の世界創造という行為に対して、その行為が正しいとか正しくないとか判断しようとするのはナンセンスだろうと思う。「正しい/正しくない」といった判断を下すのがナンセンスなのだから、「面白い/面白くない」というタイプの判断しか下しようがなくなるのは自然だし*7、そこでダークネスト様と対話するためにそういう公理系を採用するのはなんの妥協でもない唯一解だ*8

 

(ところで、世界の創造主であるプリンセスたちが(一見した感じ)人間と同じようなメンタリティを持っているということ、これはいったいどういうことなんだろう? 造物主にもわれわれと同じく、守るべき道徳律があったりするのだろうか?
私は、私の暮らすこの宇宙には普遍道徳など実在しないし、まして創世以前から存在する法などあるわけがないと思っている。しかし、『スター☆トゥインクルプリキュア』の世界には創世以前から道徳律が存在していたのだろうか。だとしたら、ダークネスト様の創世行為の善悪を判断するべき基準も存在することになる。
まあ、「創世以前から存在する道徳律」なんて自己矛盾でしかなくて、思考実験にすらならないとは思うのだが*9。)

一方、ダークネスト様の能力(と責任)の及ぶ範囲は一般的な人間とは異なるので、ダークネスト様の話は反出生主義者には適用できない、という考え方は当然できる。他方、ダークネスト様の状況と人間の状況を「程度の違い」と受け取ることもできる。
例えば、人間ひとりを生み出すという行為を、創世行為と質的に似た行為と捉えるなら。人間の誕生に「ひとつの自律した公理系の開始」が含まれるとするなら。出生行為を「正しい/正しくない」で判断しようとするのは(場合によって、ある程度)ナンセンスであると言えるかもしれない*10


反出生主義とはまるで関係のない余談

ダークネスト様の行動について「正しさ」を基準にして語るのがナンセンスだったとして、キュアスターは「面白さ」を基準にして語った。プリキュアは「そうするのが面白いから」という理由のみに基づいて、『世界の再創造』という非常に積極的な行動を実行した。
12(+1)星座のプリンセスたちが最初に世界の創造を行った理由も、言うなれば「面白いから」という理由だった。

一方でイマジネーションを獲得した存在が存在していない時点において12星座のプリンセス達が敢えてそれらの存在を生み出すことを決めた理由は「見てみたい」という欲以外の何物でもなかった。逆に言えば敢えて生み出すことに合理的理由が見当たらないからともいえるだろう。

 

キュアスタープリキュアやかつてのプリンセスたちは、「面白い」から何かを生んだ。そこで創造という行為にはなんの「べき論」もない。彼女たちは「面白そう」と思って、そして生んだ。
彼女たちの判断基準を、「正しい」とか「正しくない」と述べることを私はしない*11。この判断基準は、なにかこう……深い共感をおぼえる。


これは私個人の信念の話になってしまうのだが、私は、「人生全体」とか「世界全体」といったものは根本的に無意味だと信じている。
人生や世界に意味を与えるのは、いつだって人間の勝手である。人間は、人生=世界から恣意的に何かを切り出してきて、そこにはじめて輪郭を生み出す。あたかも、空に偶然的に散らばった星を恣意的に線で結び、オリジナルな星座を作りだすように*12
「世界に意味を与える」というのも、本当の本当は、世界に今までなかった何かが“増えた”、ということではない。「意味がない」ということと「意味を見出す」ということとの間にあるのは、ただ、ものさしの違いだけである。「世界がない」と「世界がある」は比較できない*13
繰り返して言う。プリキュアやプリンセスたちに「べき論」はなかった。
彼女たちにあったのは、ただ、誰に「あなたは~すべき」と言ってもらえなくとも「私は~する」を選び取るだけの気概だ。絶対的な根拠などなくとも、何が面白いかを勝手に決めて、勝手に実行する意志だ。
ここに私はいくばくかの共感をおぼえる。私は、「ありのままの現実=究極の無意味・無価値」よりも「恣意的に描き出した世界像=恣意的な価値・意味」をあえてとる。「世界がない」状態よりも「世界がある」状態をあえてとる。『スター☆トゥインクルプリキュア』において、宇宙の存亡が最終的にプリキュアたち個人のイマジネーションによって左右されるのは、ファンタジーでも脚色でもない。当たり前の(しかし感動的な)事実である*14

 

一方、倫理(学)とは、基本的に、「べき論」の集合体である。○○主義とは、基本的に、全称命題である。プリキュアや私の立場は、(例えば反出生主義がそうであるように)倫理(学)に関わる○○主義にはなりえない。個人的な信条に過ぎない*15。私がキュアスターの言葉にある程度の共感をおぼえているという話は、あくまでひとつの余談である。


3. 「プリキュア×反出生主義」は反出生主義を主張するうえで有効か?

仮に、スタートゥインクルプリキュアに反出生主義を読み取ったとしよう。このとき、ダークネスト様の思想・行動は反出生主義寄りであり、プリキュアの思想・行動は出生主義寄りということになる。ならば、(たとえば反出生主義者は)プリキュアの思想・行動にどのようなかたちで反論することができるのだろうか。

 

ここから、pregnant-boyさんの指摘で気になった点について考えていく。気になったのはこの箇所だ。

スター☆トゥインクルプリキュアにおける出生主義的思想、すなわち人間の出生とその後の人生の負の側面も含めて肯定するという思想は48話で特に見受けられることとなった。プリキュアへびつかい座のプリンセスの不完全なイマジネーションが存在することで宇宙が歪むという主張をつまらないの一言でバッサリ切り捨てた。そして苦しみはやがて報われるというお決まりの希望的観測を持ち出し、歪みの存在を正当化させた。このような希望的観測を持ち出すとき、彼女たちはどこまでの苦しみ、苦痛を想定しているのだろうか。
人の一生における苦しみとは想像以上に多種多様である。

プリキュアは、人生(イマジネーションを具えた命)にある程度の不幸が降りかかりうることを認めたうえで、イマジネーションを具えた命が生きる宇宙は「面白い」と述べている。そのプリキュアの発言に対して、pregnant-boyさんは「プリキュアが『確かに不幸はある』と言いつつ行っている想定は甘すぎるかもしれない」と指摘している。この指摘を、出生主義者プリキュアに対する反論と言ってもまあ問題ないだろう。

 

しかしこの反論、ディベートの作法として、反則でこそないが、スマートではない反論だ、と私には思える。
たとえば誰かが「私が思うに、人生にはレベルnくらいまでの不幸がありうると思う。それならば、人生にはまだまだ生きる価値があると言えるだろう」と言ったとしよう。この主張に対して、「でも人生にはレベルn+1くらいの不幸があるとも考えられる。レベルn+1の不幸を考えたらやはり人生の不幸は大きすぎて看過できない」と反論することができる。そしてこういった反論は、たとえ、どんなに真剣に考えぬいたうえでの「レベルn」という想定に対してであれ、行うことができる。元の主張の妥当性にはさほど関係なく、その主張に対する反論が可能になってしまうわけで、こういう反論の仕方はやはりスマートではない*16

 

(これは正確には少し話が違うのだが)以下のような話に敷衍してもいい。
「前提・推論の過程・帰結」からなるひとつ主張に対し、「推論の過程」の誤りを指摘してこの主張に反論することは比較的スマートだが、「前提」を否定してこの主張に反論することは比較的スマートでない。
ここで、「ディベートの作法としてのスマートさ」というのは、説得可能性のことだ。ある主張をしている人に対して、その人と共通の前提に則って行われる反論にはまだ説得性がある。だが、その人がとる前提をひっくり返して行われた反論にはさほどの説得性はない*17
たとえば、「人生の不幸はせいぜい耐えられる程度であると考えられるので、人生には生きる価値がある」と主張している人に対して、「人生の不幸が耐えられない程度であるとすれば、人生には生きる価値がない」などと述べることは、なんの反論にもなっていない*18。言われたほうも、それが反論として言われているなどとは思わず「………だから何?」といった反応をするだろう*19

 

「当然出生が否定されるような前提にたって、反出生主義を主張する」というやり方には説得性に限界がある。少なくとも、“純粋に論理的な議論”としてはその主張にさほどの価値はない*20。けして間違った主張というわけではないが、私個人はこのようなかたちでの主張をしたくない*21


4. 「プリキュア×反出生主義」は反出生主義に関する論調にどのように影響しうるのか?

元記事は、反出生主義を介することでプリキュアはどのように読み取れるのか、ということについてひとつの考えを提示した。対して私の記事ではここまで、そもそもプリキュアを反出生主義を介して読み取ることはできるのかについて、また、プリキュアと反出生主義をからめたときダークネスト様とプリキュア双方の思想をどう読み取れるのかについて、いくらかの考えを述べてきた。
ここで私にはもう一つやることがある。犯罪現場で犯人が何かに触れれば必ず指紋が残るように。犯人が歩けば犯人の靴の裏に床のペンキの欠片が付着するように。解釈とは常に相互的なものである。Aを介してBを読み取るとき、BもまたAを介して読み取られる。反出生主義を介してプリキュアを読み取る可能性が多少でもあるならば、反出生主義はプリキュアを通してどのように読み取られてしまうのだろうか?

 

ここからする話は、「プリキュアを介して反出生主義を読み取ることについて」というよりかは「アニメ(等)のテンプレを通して反出生主義を読み取ることについて」くらいの広く曖昧な話かもしれない。

 

pregnant-boyさんは、元記事をこんな風に締めくくった。

反出生主義と無自覚な出生主義について考える機会を我々に与えてくれてありがとうプリキュア

断言はできないが、pregnant-boyさんには以下のような狙いがあったのではないだろうか。
ごく大衆的なアニメをも反出生主義の文脈で読み取ることができるという事実を知らしめることで、政治的に無臭に見える事柄にも反出生主義思想の萌芽が含まれることを指摘し、ひいては、反出生主義が世間で敬遠されているほど“特異”な思想というわけではないことを示す。

つまりは、(いささか乱暴なくくり方をしてしまえば)pregnant-boyさんは反出生主義論壇に利することを目的のひとつとして元記事を書いたのではあるまいか。しかし、「反出生主義という話題とプリキュアという話題を絡める」ことは、むしろ反出生主義論壇(?)を害するほうに働きかねない、そういうリスクを持っているはずだ。

 

私は上で、プリキュアに慣れた側の視聴者は、反出生主義を介してプリキュアを読もうと頑張っていくと、テンプレ悪役のなかに反出生主義に近い側面を見つける」という可能性を示唆した。この可能性は容易に裏返る。「ああなるほど、反出生主義(者)っていうのは、テンプレ悪役に過ぎないんだな」という認識に至る、つまり反出生主義の思想的意義をより低く見積もるようになる可能性があるのではないか*22

 

いや、「可能性があるのではないか」ではなく、「私がそうだった」。
今まで私は、興味がないなりに、反出生主義という“思想”のあやしさ(それは新商品に感じるあやしさに近い)を折に触れて感じては、煙に巻かれてきたのだ。「私はこの思想を思想として認めたほうがいいのだろうか? この思想には重くみるだけの内実が存在するのだろうか? そしてその内実は私個人の現在の興味関心と結びつくのだろうか?」と。迷いは尽きなかった。
しかし、pregnant-boyさんの記事を読んだことで、私のなかでひとつのムードが確定した。「そうか、何にも踊らされる必要はなかったんだ。確かに反出生主義は独自の位置を占めている。でもそれは長い目で見れば、テンプレのいち変形例に過ぎないんだ。これについて考えすぎる必要はない」と。
これはあくまでムードであって、私が反出生主義という話題に対して出した最終結論ではない。しかし、このムードは、やがて私が持つ“出生”観を決定づけてしまうだろう……!

*1:しかし反出生主義者というわけではないらしい。せこい立ち位置だ。

*2:考え直してみれば、pregnant-boyさんも、彼/彼女自身の読み方が“普通”であることを望んでいたのだろう。

*3:『HUGっと! プリキュア』において、悪役クライアス社がとる、暗い結末を回避するための方法論は、直接的には「早期に暗い結末を到来させる」というもので、いささか込み入っている。

*4:ご注意いただきたいことが2点ある。第一に、私がダークネスト様はテンプレ的だと言っているのは行動原理と行動についてであり、性格やデザインやキャスティングや演技のすべてについて彼女がテンプレ的だと言うつもりはない。ダークネスト様をある意味で斬新だというべき状況はいくらでも考えられる。第二に、あるキャラがテンプレ的であったとして、テンプレ的であることのみを理由にそのキャラ造形を批判するつもりは私にはない。仮に、物語にとってテンプレキャラが必要であり、あえて選びとられたテンプレキャラであったなら、そのテンプレが責められるいわれはないのである。

*5:pregnant-boyさん自身も、ダークネスト様を反出生主義者とみなすことには限界があるということは分かっているとは思われる。『スター☆トゥインクルプリキュアにおける反出生主義的思想とはへびつかい座のプリンセスの思想である。彼女はイマジネーションの力(想像力ないし知性)を生物に分け与えることそのものを否定した。尤も、彼女が否定した理由はイマジネーションそのものが歪む可能性があるからであり、歪んだイマジネーションによって苦しむかもしれない存在について考慮しているわけでも憂慮しているわけでもない。(中略)肉屋を襲うヴィーガンあるいは産婦人科を襲うラディカル反出生主義者(そんな反出生主義者は見たことがないが)よろしく急進的な側面が見受けられる』

*6:これについては、いくらでも反論があろう……いずれ私の個人的考えをもっと詳細に語らなければならない機会が来るかもしれない。

*7:より正確に言うと、私は、「世界創造行為に対して、少なくとも、正しさという基準でものを語るのはナンセンス」という消極的な意味では、「面白さを基準に語るのはある種必然」とは言った。ただ、「あらゆる正しさ以外の基準のなかで、面白さを基準に語るべき理由がある」という積極的な意味では「面白さを基準に語るのはある種必然」と言う気はない。そのように主張するのは、現時点での私にはかなり難しい……。

*8:もちろん、「『正しさ』が世界の外には存在しないように、『面白さ』もまた、世界の外には存在しないのでは?」という反論をあなたはすることができる。また、「そもそもなんらかの公理系を採用して話さないとダメなのか?」という反論をあなたはすることができる。

*9:「本来は意志を持ってしゃべることがない様々な“モノ”や“コト”が意志を持ってしゃべり始める」そうしたIFの状況を思考実験することはSFの意義の一つである。あるいはもっと敷衍して、「空想が現実になった状況」について語ること、これはSFに求められる利益のひとつである。

しかし、空想を現実にした状況を描いた時点で、空想はすでに純粋な空想ではなくなってしまう。造物主が登場するSFを例にするなら、造物主が人間と同じ言葉でしゃべり始めた時点から、造物主の造物主としての特性はだんだんと損なわれていく。SFにはSFにできることしかできない。「SFはSFにすぎない」。

*10:どうも、永井均さんという方がこれと似たことを考えておられるらしい。彼が検討しているのは、『ひとりの人間を生み出すという行為には、新しい世界を生み出す“開闢行為”としての意味があり、通常の行為と同じ基準で「正しい/正しくない」という評価を下されることから免れうる/免れるべきといえるのではないか』という可能性だ。これは又聞きの聞きかじりなので内容については保証しない。

*11:そもそも、「世界が創造されている」という状態と「世界が創造されていない」という状態を、我々はどう区別して定義できるというのだろう?

*12:ここで話が星座の比喩につながるのは、まったくの偶然というわけではない。私の発想はありきたりなことにポストモダン文脈に端を発しており、ポストモダン文脈の始祖のひとりはソシュールであり、星座の比喩はソシュールの最もよく知られた持ちネタである。ソシュール自身が言ったのかどうかは知らない。

*13:さらに余談:一部の反出生主義者も、表面的には私と似たことを言う。「非-存在者の幸福/不幸と存在者の幸福/不幸は比較できない(ほどに非対称である)」。しかしこの主張は、「比較できない」という言葉を利用して、結局のところ巧妙に比較しているだけなのではないか、と私は思っている。

*14:「無」よりも「有」を選ぶということ、それは“あの”エピソードで「ララのAI」が行った選択にも似ている。
「ララのAI」には、サマーン星で「マザーAI」の一部として取り込まれる=全体に対する「無」になるという道と、「マザーAI」からは独立した「個」であり続けるという道とがあった。前者を選んでも後者を選んでも、AIとしての機能的にはさほどの違いはなく(むしろ前者のほうが情報量的には優位なAIになれたか)、「ララのAI」にできることは「自身がどちらの自身でありたいか」に基づいて判断することだった。
そういった判断基準を持つことは、現代の我々が知るレベルのAIにはかなりの難題だ。しかし「ララのAI」は「自身がどうありたいか」に基づいてひとつの判断を下してみせた。その判断が正しかったかどうかなど、私は語るまい。

*15:それが個人的な信条にすぎないがゆえに、その信条に基づいて行われる行為の結果が他人を巻き込むときには、細心の注意が必要である。
ところで、『スター☆トゥインクルプリキュア』では、個人的な信条が世界にもたらしうる“明るい”影響について語られている、と思うのは私だけだろうか? 物語開始当初、まさしく信条を個人的にしか持っていないがゆえに、他人が興味を持っていることについてまったく無関心だった星奈ひかるさん=キュアスターが、物語の終点では、個人的な信条を貫いていった先に全宇宙に生きる人々への関心を得たということ……ここに私は、個人道徳と道徳との接点を見る思いがする。

*16:ただ、pregnant-boyさんの場合には、反論としての「レベルn+1」を具体的に補強しようという意思が感じられる。まったく無根拠で恣意的な「レベルn+1」というわけではない。

*17:もちろん、前提に疑いの目を向けることも、よい議論のためには不可欠である。「対立意見の前提部分を否定してはならない」などとは私も言わない。

*18:原主張にもさほどの説得力はないが。

*19:繰り返すが、pregnant-boyさんはここまでアホな論法を使っているわけではない。

*20:実践的な倫理の議論としてはその主張にいかほどの価値があるのか………それは私にはにわかにはわからない。「人生の想定できる不幸には果てがない」という前提破壊的な前提のほうが、現に幸福な/不幸な人生を生きる当事者のリアルに即しているともし言えるのならば、私はときにそういった前提を採用すべきなのかもしれない

*21:本文では、プリキュアに対する反論(めいた指摘)がいささかスマートさに欠けるという話をしたが、かといってプリキュア側の主張にはそういった短所が全くなかったというわけではない。
プリキュア側の主張として私の気にかかるのは、「確かに人生には不幸がありうる」という指摘を譲歩として利用したことだ。譲歩というのは根本的にせこいところがある論法だ。「確かにAとは言えるが、やはりBだ」と言えば、「いやAだよね」という反論はできなくなる。妥当かどうかにかかわらず、ある種の反論が先んじて封殺されてしまうわけで、議論としてはややアンフェアだ。とはいえ、譲歩を用いずに主張を展開するというのもなかなかに難しいとは思うが……。

*22:無論、注4でも述べた通り、「テンプレ=くだらない」とは限らないことにも注意は必要である。

オタクのロボット的発話ってどんなやつ?

「最近のオタクはロボット化してしまった」と述べるためには、「最近のオタク」が他の様々な集団(空間的にも、時間的にも)に比べて特別ロボット的であると言えなければならない。「ロボット的」というのは、ここでは、複雑かつ精緻でオリジナルな言葉づかいで作品の魅力を語ることができる状況にありながら、浅薄で単純な定型文を繰り返すことによってこれに代えようとする傾向をいう。

 要は、私の念頭にはずっとこの発言があるのだ。

 

しかしながら、「浅薄で単純な定型文」が「最近のオタク」と直ちに結びついていると考えるのはかなり不用意である(要するに、件のツイートも単体としてはかなり不用意な発言であると私は言っているのだ、と思われていっこうに構わない)。ここでいう「定型文」は、その定義も範囲も不明確であるがために、ほとんど誰でも口にしうるものと化している。「定型文」なるものを述べるのが「最近のオタク」だけであるなどといった主張は、不可欠な前提を欠いているか、あるいは単に間違いである。

anond.hatelabo.jp

news.nicovideo.jp

もし私が、「オタクはロボット化した」と述べようとするのならば、ロボット化したオタク特有の話し方「ロボット的発話」について、単に「定型文」と呼ぶにとどまらない明確な定義域を与えるべきである。オタクに結びつけることができ、なおかつ「ロボット的」であるような発話とは、いったいどのような発話なのであろうか。

 

オタクのロボット的発話の条件

ここでは、私は3つの条件でもって「オタクのロボット的発話」を限界づけようと試みる。条件とは以下の3つである。

条件1 定型的である

条件2 特定の集団・階層に属する人々(ここでは“オタク”)にのみ通じる

条件3 「意味がない」

 

定型的である

定型的である、という条件は、他の2つの条件に比べればはるかに意味を確定しやすい。(この条件を定量的に操作できるレベルまで整備するのは難題だが、そこまでの整備を目指すのでなければ)実に扱いやすい条件である。

ある表現が定型的である、とは、つまり、同じ表現を多くの人が多くの回数使う、ということである。

この解釈で不足であれば、このように解釈すればいいだろう。ある表現が定型的である、とは、文法的に釣り合いが取れそうな感じがする他の表現と比較してある表現が特別よく使われる、ということである。

例えば、「ガルパンはいいぞ」という表現に対して、文法的に釣り合いが取れそうな感じがする表現とは、「ガルパンはいいよ」とか「ガルパンは青いぞ」とか「ガルパンがいいぞ」とか「艦これはいいぞ」とかその他の表現のことだ*1。ここで「ガルパンはいいぞ」は文法的に釣り合いが取れそうな他のどの表現と比べても、より多くの回数多くの人々に使われている。そういうわけで、「ガルパンはいいぞ」は定型的な表現であると言える。

こうして意味を明確にするとわかるように、定型文であるというだけでは、その表現は若いオタクに特有であるとは言えない。「おはようございます」とか「むかしむかし」とかいった表現も立派な定型表現であり、その点では「ガルパンはいいぞ」と何の変りもない。

 

特定の集団・階層に属する人々にのみ通じる

この条件は、直前に挙げた条件ほどは、その示すところが明確でない。ここで「通じる」という言葉には、さらに何段階かに分けるべき細かく違った意味がある。

ごくごくナイーブに考えて、ある言葉というものは、特定の記号の並びと特定の概念が結びついてできている*2。ある言葉の意味が「一般的に通じる」ということは、一般的な記号の並びと一般的な概念を一般的なルールで結びつけている(コーディングしている)ということである。言い換えれば、普通の言葉とは、耳なじみのある音とよく知っている意味とが普通に結びついている言葉である、ということだ。

そう考えると、逆に「特定の集団・階層にしか通じない」ということのなかには、次の3段階があることになる。

記号の並びがそもそも一般的でない*3

よく耳にする・口にする言葉*4に、一般的には理解されない概念を当てている*5

よく耳にする・口にする言葉に、よく耳にする・口にする概念を当てているが、その組み合わせが一般的な組み合わせではない。

さて、「特定の集団・階層にしか通じない」といったことが、正確にはどのような特徴のことを指しているのかは、これでわかったということにしよう。次に問題になるのは、「特定の集団・階層にしか通じない」ような言葉が使われているのは、「特定の集団・階層=若いオタク」である場合だけか、ということだろう。

言うまでもなく、身内にしか通じない言葉を用いているような集団・階層というのは、オタクだけではない。むしろ、この世のあらゆる種類と規模の集団・階層は、身内にしか通じない言葉――隠語やジャーゴンを持っている*6。隠語とジャーゴンを使うことによってのみ、ある人をオタクであるとか若いオタクであるとか決めつけるのはどう考えても無謀である。

ならば、100歩譲って、「オタクという集団・階層は、他の集団・階層と比べて、より多くの隠語・ジャーゴンをより高い頻度で使う傾向にある」と述べてみるのはどうだろうか。こう述べてみることもまた、難しいだろう。オタクという集団・階層と比較しうる規模・種類の集団・階層というものを見つけ出して、その輪郭を描き出すということがまずそもそも困難であるし、たとえそれができたとしても、双方の集団が持つ隠語の種類や頻度を計量するということはなお難しい。隠語とジャーゴンは、その本性上、集団の外部に位置する者からも集団の内部に位置する者からも正確に認識することが難しいからである。隠語・ジャーゴンは、しばしば集団内外で認識が全く違うという状況を志向して生み出されるものであるからして、集団外の者がある隠語の意味を即座に認識することはまず不可能であるし、集団内の者がある隠語の意味を集団外の者にも完全に理解可能な形で翻訳することもまた困難なのだ。

 

「意味がない」

この条件にはほかの2つの条件と比べてはるかに複雑な含意がある。私は、ここで言わんとする「ある表現に意味がない」という状態には、細かく分けて4つの段階があると考えている。

ある表現が、特定の内容を指し示しておらず、行為遂行的にも理解しがたい。

ある表現が、特定の内容を指し示していない(ただし行為遂行的には理解できるかもしれない)。

ある表現が、特定の内容を指し示しているが、行為遂行的にしか理解できない。

ある表現が、特定の内容を指し示しており、事実確認的に理解できるが、客観的な正誤判断が不能である。

ここで、3つの尺度が登場した。「特定の内容を指し示しているか、いないか」と「行為遂行的に理解できるか、事実確認的に理解できるか、そのどちらでもないか」と「客観的な正誤判断が可能か、不可能か」の3つである。これらが具体的に何を指すのか、これから順番に説明していく。

「特定の内容を指し示しているか、いないか」とは、ある表現が表現それ自体のみで自律的に意味を表現しているか否か、ということである。例えば、「私はペンを持っています」という文には、「私がペンを持っている」という内容が存在する。一方、「おはようございます」という文には、それ自体としては何の内容も持っていない。実際に「おはようございます」と述べる人間と述べられる人間にとっては、「両者はおはようとか言い合える関係である」とか「今は朝である」とか「2人の関係からすると言葉遣いは敬体が好ましい」とかいった無数の情報がそこにこめられてはいるが、それは文自体が持っている内容ではない。文を取り巻く情報である*7

「特定の内容を指し示していない」ということは、ある意味で、「意味がない」という状態の一つである。「おはようございます」は、「私がペンを持っている」が意味を持っているようには意味を持っていない。

「行為遂行的に理解できるか、事実確認的に理解できるか」とは、大雑把にいって、ある表現が、特定の誰かに働きかけることのみを目的としているか、命題として理解されることを目指しているかの違いであると理解すればよい。

一方、すべての文は命題であると、人は思いがちである。ここで「命題」とは、「その文が誰かに聞かれているか聞かれていないかに関係なく、真か偽かという判断を下しうる文」とでも理解しておけばよい*8。例えば、「私がペンを持っている」とか「一万年と二千年前から愛してる」とかいった文は、(全員が満足できるくらい妥当な判断が実際可能であるかどうかはともかくとして)真か偽かという判断を下すことができる。こういう文の性質のことを事実確認的であると呼ぼう。

他方、私たちがあやつる文のうち、多くの文は、特定の相手に働きかける「手段」として存在する文であり、真か偽かという判断が下せない。疑問文や反語文などがまずそうだ。「お金を貸してください」とかいった「依頼」もそうだし、「ありがとうございます」とかいった「感謝」もそうだし、「おはようございます」とかいった「挨拶」だってそうだ。こういった、述べることそれ自体が目的であり、述べることによってのみ正当化されうるような文のことを、行為遂行的な文と呼ぼう。

行為遂行的にしか解釈できない文というものは、事実確認的に解釈可能な文よりも、ある意味で「意味がない」と言える。なぜなら、行為遂行的な文には間違っているもくそもないのだから*9

このような形で「事実確認的/行為遂行的」を定義すれば、当然、そのどちらにも当てはまらないような表現というものもイメージされるだろう。例えば、完全な独り言(自分自身に言い聞かせているわけですらない)でなおかつ真でも偽でもない文、というのは、事実確認的なものとも行為遂行的なものとも理解しがたい。ほかに誰もいない部屋でひとり「にゃんぱすー……」とつぶやく、ここで「にゃんぱすー……」という文は、真でも偽でもないし、何のためでも誰のためでもないだろう。例えば、フィラー(肯定でも否定でもなく、文の中に何の意味もなく差し込まれる特定のフレーズ)もまた、事実確認的なものでも行為遂行的なものでもないだろう。ある人がしゃべっているとき、文中の「あー」とか「えーと」には何の意味も真偽もない*10。例えば、確かに特定の相手に向かってしゃべってはいるが、発言者自身には、相手がどんな反応を返すか全く予期できないような類の発言、というものも、事実確認的でも行為遂行的でもない表現に含むべきなのかもしれない。「ぐるぐるぐるぐるどっかーん!!」などといきなり叫んでみる(要するに、意味不明なことを言う)というのは、これはもう、何が何だか分からない。これが行為なものか*11*12

「客観的な正誤判断が可能か、不可能か」というのは、ある命題に関して、同じ量の十分な知識を持っている複数の人がその命題に対して正誤判断を下した場合、その判断が一致するだろうと予測できるか否か、ということだ。「はっきり答えが出るかどうか」と言い換えてもいい。

例えば、「リンゴは赤い」という命題がある場合、そこには「ほんとに赤いのかな」と真偽を問うた場合、はっきりと答えが出る余地がある。適切な知識さえあれば、誰でも『「リンゴは赤い」は真である』との結論にたどり着く*13。例えば、「リンカーンは政治的に許される」という命題がある場合、この命題には、どれだけたくさんの人がこの命題に関して判断を下すのであれ、その人たちが十分な知識と適切な推論能力さえ持っていれば同じ結論に達するはずである、という強固な含意が含まれている(実際問題としては、どれだけ知識量をあげても、この命題に対しての人々の正誤判断が完全一致することなどありえない、ということは言うまでもないが)。

例えば、「リンカーンは政治的に許されると思います」というような命題がある場合、この命題は真偽を問うことはできるが、最終的な答えは述べた人本人しか知ることはできない。こういう命題には、客観的な正誤判断を下すことはできない。「私はガルパンが好きです」のような命題もそうだ。個人的な好悪の問題というものは、ふつう、客観的な正誤判断が不能な領域であるとみなされる。

客観的な正誤判断が不能であるということは、可能である状態と比べて、ある意味で「意味がない」といいうる。なぜなら、ここにも、「間違っているもくそもない」つまり「うん、そうだね」くらいしか言うことがないからだ。

 

オタクのロボット的発話

攻撃すべき対象を、単に「定型文」と呼ぶのでなく、ここまで述べてきたような3つの条件で適切にその範囲を狭めていくことによって、「最近のオタクはロボット化してきたし、それはよくないことだ」と述べることは初めて可能になるだろう。

ある種のオタクが用いる可能性がある定型文を、「内輪でしか通じない」「意味がない」という2つの条件に沿って分類し、必要に応じて具体例を表示したものが以下の図である。

f:id:keylla:20200811174039p:plain

ここでは「定型的な表現」と言うとき、文と単語を区別していないことにも注意されたい。


今まで確認してきたように、「内輪でしか通じない」とか「意味がない」といった特徴のなかには解釈の幅があるのだった。

この図の中には青色で網掛けをした領域があるが、この領域こそが、「ロボット化している」として攻撃の対象になることが多いタイプの定型文なのではないか、と私は思っている。ただ、この領域に入っていることがイコール攻撃の対象になる、ということではない。定型文の利用が反感を買うまでには、まだまだ重要な要素がありそうだ。

 

例えば、「他の方法で有効な表現がなしえたか」というのは、ある表現が攻撃に値するかどうかに関わる要因の一つだろう。例えば、「ガルパンはいいぞ」という表現が、「ガルパンは10年代アニメが持っている文脈に対して傑作であると言える」という表現によって代用可能であるとすれば、「ガルパンはいいぞ」が不必要に定型化した表現であるとして攻撃の対象になる可能性は増える。また、「ガルパンはいいぞ」という表現が、「ガルパンは10年代アニメが持っている文脈に対して傑作であると言える」という表現によっては代用できないとすれば、「ガルパンはいいぞ」という表現が定型的であるがゆえに攻撃されるという可能性は減る。選択可能性が、ある表現の価値に関わる要因の一つである。

 

その定型文を非難できるか?

「浅薄で単純」だとみなされうる定型文が、本当に「浅薄で単純」なのか、あらゆる意味で「浅薄で単純」なのか、は印象以上に複雑な問題である。

 

例えば、『「浅薄で単純」な定型文を連発するようなオタクは、仲間内での安い共感が欲しいだけの女々しい連中なのだ』というような非難の仕方がありうる。こういうやり方で行われた非難は、たとえ広い共感を得ることができたとしても、その非難しようとするポイントを明確に限界づけ、“まっとうな”議論につなげるのはなかなかに難しい。

第一に、共感を得ようとすることの何が悪いのか、という問いがある*14。共感を得ようとすることそれ自体を非難する論拠を用意するのは難しい。仮に、「共感を得ようとすることは自分の意見を持っていないことと直結する」という前提が了解されれば、共感を得ようとする奴は自分の意見を持ちたくないのだ、といったようなかたちで共感重視な在り方を非難することも可能にはなるだろう。しかし、「共感を得ようとすること」と「自分の意見を持っていること」が絶対に排反だとは考えがたい(相性は悪いだろうが)。少なくとも、自明として前提に採用することはできない。

第二に、共感を得ようとする行為は、単純に共感のみを追い求める行為だと言えるのか、という問いがある。一見、共感を得ることを目的としているような行為に、より複雑な目的意識が絡んでいる、ということはしばしばある。

話題が、オタクの定型文利用に関して、となると、(オタクと非オタとを隔てる壁は、非オタによってよりもむしろ、オタク自身によって塗り固められてきた、という事情があるために)事態はより難解である。仲間内で共感を得るということは、仲間以外の人々から共感されないということによってのみ達成される。オタクからの共感を得るしぐさとは、非オタからの最も大きな違和感を得るしぐさでなければいけないのである。共感とは、本質的に、違和感の一側面なのだ。オタクが共感を求めて何かを述べるとき、“本来ならば”オタクが自明として通り過ぎていたであろうことを一種の違和感として暴き出し、“本来ならば”非オタが自明として通り過ぎていたであろうこともまた一種の違和感として暴き出す、危険で勇敢な目論見がそこにはある。たとえそうした危険性が「浅薄で単純」な大衆からは忘れ去られていたとしても、だ。共感の追及は違和感をもたらす。

なおかつ、共感の射程とすべき「仲間内」の範囲はおのずから明らかなわけではなく、むしろ共感を得ようとするしぐさの繰り返しによってこそ、「仲間内」の範囲は決まっていく、ということも重要だ。共感を得ようとするたびに、コミュニティは分解の危機に瀕し、再統合される(その危険性は、現場にいる人々には穏やかに飲み込まれ、常に見えづらいものだが)。

第三に、定型文の利用が、純粋に共感を得ようとする行為だと言えるのか、という問いがある。

オタク用語は、たいてい共感を得るためにのみ使われているものだ、というような意見がありうる。しかし、こういう意見は、似たような言葉遣いを全て一つの目的で理解しようとする点、言葉遣いの説明に行為遂行的な次元のみしか想定しない点の2点で、乱暴な考え方だ。オタク用語というものは、共感を得るためのものばかりでないし、共感を得ようとする言葉は、共感を得るという次元でのみ存在しているわけではない。

はたして、いろいろな目的の定型文がある。例えば、その指すところの概念がある集団に属する人間にしか理解されない概念であるために、利用されるジャーゴンというものがある。例えば、門外漢に伝わると困る内容を話すうえで、門外漢に伝わらないために使う隠語のようなものがある*15。例えば、媒体の特性上どうしても文字数を減らさなくてはならないという強い要請から生まれてくる略語がある*16。例えば、ジャンルに絡んだ独特な知識を独自のセンスでもって変形し、定型化していく知的な遊戯としてのクリシェがある。

あなたはこう言うかもしれない。「俺は安い共感ばかりを稼ぎに行くような類の定型文を主に攻撃しているのであって、それ以外の目的を持った定型文の利用を攻撃しているわけではない」と。「平安時代の貴族が、当時のオタク的知識に基づいて、入り組んだ序言葉を開発しときに定型化していくような優雅さと、現代オタクの『にゃんぱすー』はまるで違う」と。

私はそうは思わない。尊ばれるべき(?)「優雅」な言葉遊びと、日常化したコミュニケーションにおける定型文の投げ合い、この両者の間には決定的な断絶はないと私は思う。そこに本質的な違いはないと感じる(なぜそう感じる、と聞き返されたとき、それに答えるだけの思想的強度を、私はまだ持ち合わせてはいないが……)。

*1:私は言語学を専門的に勉強したことはないので、ここで「文法的に釣り合いが取れそう」と呼んでいる特徴に関して学問的に正確な裏付けはない。

*2:もう少し状況を明確にすれば、「記号の並び」をシニフィアンと、「概念」をシニフィエと呼びかえることもできるだろう。

*3:厳密には、この「記号の並びが一般的でない」という状態のなかにも、さらに細かいいくつかの解釈の違いがある。

まず、「そのような並びで一般人が並べる可能性はない」というような記号の並びがあって、このような並びはどの解釈でも確実に「一般的ではない」。例えば、「にゃんぱすー」とか「まれによくある」なんて言葉は、一般人は言うはずのない(文法的に明らかに間違っているか、完全にナンセンス)言葉であり、どの解釈をとっても「一般的でない記号の並び方」といえる。次に、「文法的には許容されるが、それが特別な並び方だとは意識されず、無数に存在する並び方の一つとして認識される」と言うような意味での「一般的でない並び方」というものがある。これを「記号の並びが一般的でない」に含めるかどうかで、解釈は分かれることになる。具体的に言えば、例えば、「まずいですよ」という記号の並びは、日本語文法が許容する無数の並びのうちの一つであって、それ自体特殊なものであるとはいえないが、「まずいですよ」をひとまとまりとみなして一個の概念と結びつけることにおいて、特殊な並び方だともいえる。例えば、「72」という記号の並びは、10進法が許容する無数の自然数のうちの一つであって、それは一般的には意味を持った言葉とはみなされないものであるが、ある種の人々にとっては、この数字はあるイメージ(平らだ……)と結びついた一つの言葉として理解される。「まずいですよ」や「72」が「一般的でない記号の並び」かどうかは、解釈が分かれることになる。

*4:よく耳にはするが、めったに口にはしない、というような言葉も、世の中にはよくある。例えば「むかしむかし」のような言葉がそうだ。こういう言葉を「一般的によく使う言葉」に含めるかどうかにも、本来は詳細な検討が必要だろうが、ここではその検討は省く。

*5:この「ある概念が一般には理解されない」という状態のなかにも、細かいいくつかの解釈の違いがある。

まず、「ある種の人々のみが知悉しうる・経験しうるような特別な事物や特別な感情や特別な事態」を描写する概念、これらは、どんな解釈でも「一般には理解されない」といえるだろう。例えば、ソシャゲをしない人は「リセマラ」に相当する概念を概念としてさえ知らないだろうし、ガンダムを観ない人の人生に「アッシマー」に相当する概念が登場することは一生ないだろう。次に、「ある種の人々に限らずとも、多くの人が概念としては理解することができるが、その概念を1単語(あるいは1つの表現)で過不足なく指し示しているのはある種の人々のみ」であるような概念、これらを「一般的には理解されない」に含めるかどうかで解釈の違いがありうる。例えば、「ある人物に対して、他の人物よりもとりたてて大きな愛着を寄せ、ときにはその愛着を表明もする」という行為自体は、オタク以外の人間もしばしば行うことであるが、その行為に「推す」という単語を当てているのはある種のオタクだけである。このとき「推す」という概念が「一般的には理解されない」とみなすかどうかは、解釈として分かれることになる。

*6:Wikipedia『隠語』の項目によれば、隠語とジャーゴンというのは“本来”明確に使い分けを行うべき言葉であるらしい。が、ここでは隠語とジャーゴンはおおむね同じような意味の言葉として扱う。

*7:もちろん、「おはようございます」だって、原義をたどれば「It’s early.」という内容を読み取れないわけではない。「こんにちは」だって「Today is.」という内容が読み取れないことはない。しかしそういう情報は、挨拶としての「おはようございます」とか「こんにちは」とかにあってはとっくに後景化していて、いまや文自体はそういう意味は持っていない、とここでは考える。

*8:この「命題」という語にも歴史上さまざまな解釈があるらしく、本当はデリケートな問題なのだが、ここでは捨象してしまう。

*9:本来、言語学の一部の領域や哲学の一部の領域で「事実確認的/行為遂行的」という術語を用いるのは、この世に存在する発話を2極に分解していくためではなく、むしろあらゆる発話には事実確認的な側面と行為遂行的な側面との両面が存在することを確認するためである場合が多いらしい。ここではそういった前提をあえて外して、表現というものを3種類に分類するためにこの用語を転用させてもらった。

*10:ただし、最近の研究によれば、「フィラーには、発話者が次の言葉を考えるための時間を埋めるための合理的な行動である」という意見があるらしい。この意見が正しいとすれば、フィラーには、ミクロには目的がないが、マクロには「発言をよどみなく進行する」という立派な意味があることになる。

*11:もちろん、相手が困惑という反応を返すだろうとはっきり予期したうえで「ぐるぐるぐるぐるどっかーん!!」と叫ぶ、といった場合もあるだろう。こう言った場合の「ぐるぐるぐるぐるどっかーん!!」は行為遂行的であるとみなせる。

*12:行為論などの一部の文脈では、「人間(など)が何かや誰かに働きかけること全般」=「行動」のうち、行動する主体自身がはっきり目的を意識している(目的を意識するタイミングについては問わない)ような「行動」を特に区別して「行為」と呼んでいる。この文章では、「行為」という語の定義についてこの立場に準ずる。つまり、目的を自覚していないような類の行動というのは、行為ではないということだ。

*13:ここでは「青リンゴもあるよ」とかそういう話をしているわけではない、念のため。

*14:ついでに言うなら、「女々しい」という言葉、これはもう現代では前提抜きに非難の言葉にはならないだろう。女性的であることとネガティブな価値を直結させることのどれほど愚かなことか。また、粗雑な形で「女性的である」ことを定義することがどれほど愚かなことか。

*15:参考:https://dic.nicovideo.jp/a/%E7%9C%9F%E5%A4%8F%E3%81%AE%E5%A4%9C%E3%81%AE%E6%B7%AB%E5%A4%A2

*16:参考:http://www.style.fm/as/05_column/gomi/gomi33.shtml

オタクはどこに消えた?

私はオタクだ。少なくとも自分ではオタクだと思っている。
私は何かに執着して特定の行動をとり続けるという意味においてオタクだ。アニメや漫画やゲームに親しむという意味においてオタクだ。アニメや漫画やゲームを話題にする友人がいるという意味においてオタクだ。

 

私にはオタクの友人(?)がいて、その友人が言った。ある種のオタクーー最近オタクの多数を占めているある種のオタクと、彼らのオタクとしての活動には嫌悪感を覚えると。
より詳しく言うと、こういう話だ。
「最近、Twitterで観測できるような類のオタクの大多数は、彼ら自身が愛している作品に対して、驚くほど単純で浅薄な感想をロボットのように繰り返すことしかできない。私は、このような楽しみ方には打ち消しがたい嫌悪感を感じるし、私自身としてはこのような楽しみ方はまねできない。単純で浅薄な感想を述べる者たちが、私が愛している作品の周辺に大量に出現しているときには、作品に接するなかで単純で浅薄な感想が目に入ることが苦痛となる。しかし、私には彼らの楽しみ方が間違っているなどとはとても言えないし、彼らの楽しみ方を否定することもしたくない。私はいかにしてこの苦痛を避け、あるいは乗り越えるのか?」
私は、単に人間としても、また、特に一匹のオタクとしても、この問題に共感できる。
彼はこの問題を、SNSSNSに特徴づけられた社会の問題だと考えた。この問題設定はおそらく正しい。
私はこの問題を、一人のオタクとしての在り方の問題だと考えた。この問題設定もまた、おそらく正しい。

 

私は考え始めた。私はオタクでいるのが居心地いいがために、オタクであることを日々選択して生きてきた。オタクにとって、オタクでいること、オタクに囲まれていることは総じて居心地がいいことのはずだ。しかし、オタクはいつの間にかオタクとは別の何かに変わってしまった。真のオタクにとって、そいつらと一緒にいても居心地がよくないような何かに変わってしまった。
オタクはどこに消えた?
しかし、これは考え始めるとすぐにわかることなのだが、「オタクはどこに消えた?」という問題設定はそれなりに間違っている。私はそもそも、オタクとはどういうものか知らないし、真のオタクなどというものがあるのか知らないし、オタクが本当に変わってしまったのかどうか知らない。そもそも私は20代前半だ。おいおい、オタクが本当に変わってしまったにせよ、本当は変わっていないにせよ、私にはその状況を俯瞰することはできないぞ!?
オタクとは何か?
私は真のオタクなのか?
真のオタクは偽のオタクに囲まれているから居心地が悪いのか?
真のオタクは偽のオタクに取り囲まれているのか?
真のオタクと偽のオタクなどという区別に意味があるのか?
オタクは本当に消えたのか?

 

私はここから、(自分がオタクであることにアイデンティティを求める限り)非常に切実な問題「オタクはどこに消えた?」について考えるために、いくつかの文や文章を並べ立てていく。だがそれは、体系立てた議論ではなく、疑問が疑問を呼び、結論が見えない“迷路”としてだ。
私は、この“迷路”がーー私が並べていく一連の文や文章が、私と同じように宿命的なアイデンティティの危機にさらされている(はずの)オタクたちにとって、ほんの些細な助けにでもなればいいと思っている。だから一連の文や文章は、学術論文としてではなく、後半が破り去られた実用書として書かれる(この実用書を、もっとうまく、正確に書くことができる人はいくらでもいるだろうけど、実際書いてくれた人はいなかった……もとい、私の探した範囲ではそういう実用書はなかったので、私がこの実用書を書こうとしたことはほんの少しくらい褒められてもいいはずだ、そうだろう? 無理ですか?)。
だからこその、「オタクはどこに消えた?」だ。

 

オタクはどこに消えた?

 

 


オタクの定義
男性的オタクと女性的オタク
じゃがいも警察って違法になったんですか?
オタクはなぜロボット化したのか?
それは、語る「対象」ではなく「語り方」の問題
知識・愛・技術の神聖三角形!!
“価値観フリー”な領域の消滅

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これはこの“迷路”の概略図だ。 あなたの考えをここにある

4つの道のどこかに当てはめても大した意味はないぞ、注意してくれ。



FAQ


これは動ポモですか?
→違う。少なくとも自分では違うと思っている。
確かに、この一連の文や文章が「ロボット化」「女性化」などと言った言葉で問題にしようとしている範囲は、「動物化」と呼ばれるべき現象が指す範囲とかぶっている部分もあると思う。しかし、(これは細部を読んでいただければわかってもらえるはずだと私は信じるのだが)「オタクのロボット化・女性化」と「人々の動物化」とは根本的に別の問題意識と射程とを持っている。私には、私が書いた一連の文や文章を動ポモ史観の一亜流と位置づけられることには積極的になれない。

 

これは『オタクはすでに死んでいる』ですか?
→違う。少なくとも自分では違うと思っている。
確かに、「オタクの女性化」とでも呼ぶべき現象のことを、単純に世代論に回収していくというのはなかなか魅力的だし、真実の一側面だとは思う。しかし、単純な世代論では、私が述べなければいけないところの「オタクの女性化」にぴたり符号するような説明にはなりえない。岡田斗司夫氏(氏がオタキングって呼ばれはじめた時代ってほんとに存在したんですか? ぼく若いんでよくわかりません)が「オタクは変わってしまった」と言うのと私が「オタクは変わってしまった」と言うのとでは意味が違う。岡田氏が60年代からのオタクの変化を射程に定めて、当事者としての実感といくぶんの決めつけを含んで「オタクは変わってしまった」と言うのと、90年代に生まれた私が、周辺人として、伝聞から想像しうる限りの「昔のオタク」を仮構して、「オタクは変わってしまった」と言いうるかどうかを検討するというのとでは、意味が全く違うのだ。

もう一点。岡田氏は、おそらく、学究というものの純粋性を前提としたうえで学究を(旧型)オタクの価値観と結び付けようと画策しているのに対して、私は、学究というものの道具性を前提としたうえで、思考のプロセスをオタクの実人生に奉仕させようと画策している。こういう点でも、この“迷路”と『オタクはすでに~』は異なる。

消費ってなんだよッ!!

オタクとは何か? オタクとは、オタクコンテンツを「消費」する者たちだ。

オタクコンテンツとは何か? オタクコンテンツとは、オタクが「消費」の対象にしたコンテンツだ。

オタクはなぜ悪い? オタクは「消費」するからだ。

 

私にはこの「消費」がわからない。オタクやオタクの一部についてネガティブに語る人の中には、「消費」という言葉でもって「消費者は悪である」との言葉に代えようとしている人が少なからずいる。

 

『安直に「消費」しているオタクへの嫌悪感やばい』

 

『それは「消費」である』とさえ指摘すれば、安直に「消費」している人々は自分の愚かさにひとりでに気づいてくれると思い込んでいる人がいる。

 

『お手軽に「消費」してんじゃねーよオタクども』

 

そう、こんな感じだ。そして、こういう人たちの中に、「消費」という言葉の定義をきちんと行わないにもかかわらず、「消費は悪である」というテーゼだけは前提抜きに受け入れている人というのが、また少なからずいる。

人々が「消費」と呼んで指そうとしているものの内実が、たいていの場合、私にはさっぱり見えてこない。おお、「消費」批判者たちよ、頼むから、「消費」を批判したいなら、「消費とは何なのか」その定義を、逐一自分の言葉で説明してくれ。

もし万が一あなた方が、「消費とは何なのか」を少しも考えたことがないのにただ「消費は悪である」というテーゼから出発しているのだとすれば、それは不当だ。あなた方は、ボードリヤールが言ってきたことの内容をまるで理解せず、その結論だけをかすめ取っていることになる。そのようなことは許されない。「消費」と離れがたい人生を送ってきた私が許さない。

 

『ならば「消費は美徳」とでもいうつもりか? そんな考えはとっくの昔に廃物と化しているが?』

 

もしあなたが、「60年代以降、「消費は美徳」という考え方が生まれ、90年代以降、「消費されるものだけが豊かさではない」という考え方が(再)発見されてきた」という程度の話でもって私のお願いを封殺しようとしているのであれば、それはナンセンスだ。その程度の話はただ、「消費」に対する世の中の印象が変化してきたということを言っているにとどまるのであって、「消費」そのものについて何も言ってはいない。そう、確かに「本質」は時代によって変化する、しかしそのことによって、ただちに『消費の本質は「現在嫌われものである」というところにある』などとは言えないはずだ。

 

『いくらなんでも、毎回自分の言葉で「消費」の定義を説明していたら時間が足りない。ボードリヤールくらいは共通前提にさせてくれ』

 

そうか、私がボードリヤールも読んでいないくせに批判者と同じフィールドに立とうとしたことがそもそも間違いだったか。それは、もう、反論のしようもあるまい。私が悪かった。もうあなた方と話すことは何もない。

そう、“何も”ない。「考えなしに消費してんな」といくら声高に叫んだとて、その批判を私が真面目に聞いてやる義理は一つもない。前提知識が足りない私は、すでに議論の場から締め出されているのだから。