「プリキュア×反出生主義」だって??

何日か前、友人がこんな記事のリンクを送ってよこしてきた(えっ、俺って友人いるの。まじかよ)。

pregnant-boy.hatenablog.com

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『スター☆トゥインクルプリキュア』という作品のなかに反出生主義思想を読み取って論じる(あるいは感想を述べる?)、みたいな記事だ。私はプリキュアが好きで反出生主義には興味がない者で、友人はプリキュアには興味がなくて反出生主義には興味がある者*1で、友人は私との共通の話題としてちょうどいいと思ってこの記事のリンクをよこしたのだろう。

 

さて、「プリキュアと反出生主義」である。一見したところ、なかなかに変わった取り合わせ。はたしてこの記事を読んでいくと、私も愛する『スター☆トゥインクルプリキュア』という作品に対して、どのような珍解釈が繰り出されているのだろう。あるいは、この作品の読み方として、独創的かつ興味深い読み方を教えてもらえるだろうか。
そう思って、私はずいぶんと身構えてこの記事を読んだ。読んだのだけれど……身構えすぎた。身構えて読んだわりには、この記事は、やや拍子抜けというか、(私が勝手に)期待していたような衝撃を具えた記事ではなかった。
衝撃がなかったというのは具体的にどういうことかというと。第一に、著者pregnant-boyさん(そう呼んでいいですか)の読み方はそれ単体で新奇性のあるものではなかった。珍解釈とかではなく、ごく穏当な解釈だった*2
第二に、(これは当該記事を読んで初めて気づかされたことなのだが)「反出生主義思想を読み取れなくもないストーリー・キャラクター」というのが、作品の構成要素として、一見斬新に見えて、冷静に考えるとさほど斬新ではない要素だった。

 

私には、pregnant-boyさんの読み方が間違っているとか言う気はさらさらない。一読させていただいた限り、プリキュアに反出生主義思想を読み取るということは不可能であるとまでは私には思えなかった。かといって、pregnant-boyさんの読み方が全く正当なものであるとも言う気はない。多くのひとがしているわけではない解釈には、やはりそれなりにリスクがあるものだ。
私はこれから私のこの記事で、『スター☆トゥインクルプリキュア』に反出生主義思想を読み取るという読み方が、どの程度正当かつ穏当で、どの程度不当かつ過激かを考えていきたい。網羅的な指摘を目指すものではないが、この道をのちに歩く人びとにとって(そんな人いるのか?)、多少の助けにはなるだろう。

 

元記事の著者たるpregnant-boyさんは、このようなかたちでの言及を望むかどうか、私にはわからない……。が、今日のところは、産む者のエゴとして、この文章を投げ放ってしまうことにしよう。

 


1. なぜ気づかなかった?

注意ぶかき読者の方々にあられては、すでに疑問に思っている方もいるかもしれない。「プリキュア×反出生主義」が、他の多くのオタクがすでに気付いているほどの論点ではないにもかかわらず、その発想に基づいてなされた読み方を読んでみるとさほどの新奇性が(少なくとも私には感じられ)ないというのは、一体どういうことなのか、と。
実際、「プリキュア×反出生主義」という読み方をしている人が多いのか少ないのか、いるのかいないのか、私はよく知らない。だが少なくともpregnant-boyさんの周囲では、そういう読み方をする人は見られなかったようである。

そのプリキュアが反出生主義を描いていると私の中だけで話題になっているので今回はスター☆トゥインクルプリキュアの概要と反出生主義との関連についてここに記すこととする。

多くのオタクや大友やその他、嗅覚のある人びとが、「プリキュア×反出生主義」という読み方に気づかなかったということはしかし、この読み方の新奇性を裏づけるものではなく、どちらかといえばオタクの読み方にある特徴があることを裏づけていたのではないか、と私は考える。オタクの読み方、とくに、ファミリー向けアニメを見慣れた層のオタクの読み方である。
ファミリー向けアニメを見慣れたオタクの目には、いや、これはおそらくなのだが、ダークネスト様のキャラ造形はそこまで目新しいものだとは映りにくいのだ。ダークネスト様は、見る人が見れば、陳腐といえば陳腐なキャラ造形である
全年齢向けアニメ・特撮において「世界に苦しみ悲しみ争いがあることに絶望した超越者が、時間的あるいは空間的な世界の白紙化を実行しようとする」という悪役造形は非常にありふれている。『ウルトラマンコスモス』のデラシオン、『ウルトラマンオーブ』のギャラクトロン、『仮面ライダーアギト』のテオス、『仮面ライダーオーズ/OOO』のドクター真木や『騎士竜戦隊リュウソウジャー』エラスなどなど、数え上げたらきりがない。それぞれ細かい行動原理や方法論には違いがあるが、『絶望系超越者』としてまとめるのに不足はないくらいには類型的だといえるだろう。

世界の白紙化をもくろむ超越者キャラは、プリキュアでは特にありふれている。例えば『スター☆トゥインクルプリキュア』の前作『HUGっと! プリキュア』では、暗い結末を目にして絶望した未来人が悪役となり、過去にさかのぼって先んじて暗い結末につながる未来を消そうとする、という筋書きが物語の縦糸の1本になる*3。アニメに反出生主義を読み取ることだけを目的にするなら、『スター☆トゥインクルプリキュア』を取り上げるよりも『HUGっと! プリキュア』を取り上げる方が例としては使いやすそうである。
「一見善意らしく見える理由で世界の白紙化をもくろむ超越者」などは、テンプレ悪役に過ぎないのだ。プリキュアがこよくのかたちを採用しているのは、プリキュアの作劇が「時代的に新しいから」と考えるよりはむしろ、「最大の力点は1話完結の日常にあるのだからあえてオーソドックスな悪役を採用している」とでも考えたほうがいいのかもしれない*4

 

これだけ絶望系超越者に見慣れたオタクがダークネスト様の思想・行動を目にしたとき、「ダークネスト様って反出生主義者っぽいな」という感想を抱くより前に、「ああ、そのパターンね」という感想を抱く可能性のほうが高かったのではないだろうか。


2. そもそも反出生主義(者)なのか?

ダークネスト様は、悪役のキャラ造形としてはどちらかといえば陳腐だった、さしあたりこの記事ではそういうことにしよう。さりとて、多くの絶望系超越者キャラのなかで、彼女を特徴づける何かがないということではない。
彼女の特徴として、多くの絶望系超越者のなかにあって(唯一というわけではないが)際だっているのは、彼女が本物の造物主であり、過去実際に世界を創造したことがあり、今後も世界を創造し直せる(そして創造しないということも選択できる)能力があるということである。まさしくこの特徴によって、彼女の行動を反出生主義という枠組みで読むことができるようになる。もし彼女が、すでに存在する世界のなかに定義づけられ、世界を滅ぼそうとしている人物にすぎなかったなら、彼女は単なる復讐者であり、反出生主義者とはさほど似ていないからである。
しかしながら、この特徴は同時に、「彼女は反出生主義者とはいえない」という命題をも導いているのだ。

 

ダークネスト様の特徴は、人間ひとりの命を生み出す能力にとどまらず、世界全体を創り出す能力を持っているというところにある。世界全体を創り出す能力とその能力への責任を具えた者は、通常「神」とか呼ぶべきもの(百歩譲っても「デミウルゴス」とでも呼ばざるを得ないもの)だ。こういった人物を、反出生主義者と比較することには限界がある(一般的に、「反出生主義者」は人間であることが前提とされている……されているよね?)*5

ダークネスト様を反出生主義者と呼んで議論を行うことには限界があること、これはダークネスト様とプリキュアとのやりとりを考察する過程でいっそう明らかになってくる。
pregnant-boyさんは、両者のやり取りについて以下のような分析を下した。

スター☆トゥインクルプリキュアにおける出生主義的思想、すなわち人間の出生とその後の人生の負の側面も含めて肯定するという思想は48話で特に見受けられることとなった。プリキュアへびつかい座のプリンセスの不完全なイマジネーションが存在することで宇宙が歪むという主張をつまらないの一言でバッサリ切り捨てた。そして苦しみはやがて報われるというお決まりの希望的観測を持ち出し、歪みの存在を正当化させた。このような希望的観測を持ち出すとき、彼女たちはどこまでの苦しみ、苦痛を想定しているのだろうか。(中略)

やはりプリキュアの希望的観測を不完全なイマジネーション(人間性)を肯定する理由とするにはいささか根拠が乏しい。歪んだイマジネーションを生み出すような人間性が存在しないことをつまらなくない、つまり存在しないほうが良いとする理由は多分にあるし、すべての苦しみが分かり合えるといった類のものというわけではない。願わくばへびつかい座のプリンセスももう少しプリキュアの主張に反論してほしいところであったがそこはやむを得ないというべきか。

ダークネスト様の主張がキュアスターに「つまらないじゃん」と片付けられること、これをこの筆者は「子ども向けにするためにしょうがなく捨象したところ、もったいないところ」と捉えたようだが、それは逆だと私は思う。
私が考えるに、「正しい/正しくない」は世界の内部にしかないものだ*6。ダークネスト様の世界創造という行為に対して、その行為が正しいとか正しくないとか判断しようとするのはナンセンスだろうと思う。「正しい/正しくない」といった判断を下すのがナンセンスなのだから、「面白い/面白くない」というタイプの判断しか下しようがなくなるのは自然だし*7、そこでダークネスト様と対話するためにそういう公理系を採用するのはなんの妥協でもない唯一解だ*8

 

(ところで、世界の創造主であるプリンセスたちが(一見した感じ)人間と同じようなメンタリティを持っているということ、これはいったいどういうことなんだろう? 造物主にもわれわれと同じく、守るべき道徳律があったりするのだろうか?
私は、私の暮らすこの宇宙には普遍道徳など実在しないし、まして創世以前から存在する法などあるわけがないと思っている。しかし、『スター☆トゥインクルプリキュア』の世界には創世以前から道徳律が存在していたのだろうか。だとしたら、ダークネスト様の創世行為の善悪を判断するべき基準も存在することになる。
まあ、「創世以前から存在する道徳律」なんて自己矛盾でしかなくて、思考実験にすらならないとは思うのだが*9。)

一方、ダークネスト様の能力(と責任)の及ぶ範囲は一般的な人間とは異なるので、ダークネスト様の話は反出生主義者には適用できない、という考え方は当然できる。他方、ダークネスト様の状況と人間の状況を「程度の違い」と受け取ることもできる。
例えば、人間ひとりを生み出すという行為を、創世行為と質的に似た行為と捉えるなら。人間の誕生に「ひとつの自律した公理系の開始」が含まれるとするなら。出生行為を「正しい/正しくない」で判断しようとするのは(場合によって、ある程度)ナンセンスであると言えるかもしれない*10


反出生主義とはまるで関係のない余談

ダークネスト様の行動について「正しさ」を基準にして語るのがナンセンスだったとして、キュアスターは「面白さ」を基準にして語った。プリキュアは「そうするのが面白いから」という理由のみに基づいて、『世界の再創造』という非常に積極的な行動を実行した。
12(+1)星座のプリンセスたちが最初に世界の創造を行った理由も、言うなれば「面白いから」という理由だった。

一方でイマジネーションを獲得した存在が存在していない時点において12星座のプリンセス達が敢えてそれらの存在を生み出すことを決めた理由は「見てみたい」という欲以外の何物でもなかった。逆に言えば敢えて生み出すことに合理的理由が見当たらないからともいえるだろう。

 

キュアスタープリキュアやかつてのプリンセスたちは、「面白い」から何かを生んだ。そこで創造という行為にはなんの「べき論」もない。彼女たちは「面白そう」と思って、そして生んだ。
彼女たちの判断基準を、「正しい」とか「正しくない」と述べることを私はしない*11。この判断基準は、なにかこう……深い共感をおぼえる。


これは私個人の信念の話になってしまうのだが、私は、「人生全体」とか「世界全体」といったものは根本的に無意味だと信じている。
人生や世界に意味を与えるのは、いつだって人間の勝手である。人間は、人生=世界から恣意的に何かを切り出してきて、そこにはじめて輪郭を生み出す。あたかも、空に偶然的に散らばった星を恣意的に線で結び、オリジナルな星座を作りだすように*12
「世界に意味を与える」というのも、本当の本当は、世界に今までなかった何かが“増えた”、ということではない。「意味がない」ということと「意味を見出す」ということとの間にあるのは、ただ、ものさしの違いだけである。「世界がない」と「世界がある」は比較できない*13
繰り返して言う。プリキュアやプリンセスたちに「べき論」はなかった。
彼女たちにあったのは、ただ、誰に「あなたは~すべき」と言ってもらえなくとも「私は~する」を選び取るだけの気概だ。絶対的な根拠などなくとも、何が面白いかを勝手に決めて、勝手に実行する意志だ。
ここに私はいくばくかの共感をおぼえる。私は、「ありのままの現実=究極の無意味・無価値」よりも「恣意的に描き出した世界像=恣意的な価値・意味」をあえてとる。「世界がない」状態よりも「世界がある」状態をあえてとる。『スター☆トゥインクルプリキュア』において、宇宙の存亡が最終的にプリキュアたち個人のイマジネーションによって左右されるのは、ファンタジーでも脚色でもない。当たり前の(しかし感動的な)事実である*14

 

一方、倫理(学)とは、基本的に、「べき論」の集合体である。○○主義とは、基本的に、全称命題である。プリキュアや私の立場は、(例えば反出生主義がそうであるように)倫理(学)に関わる○○主義にはなりえない。個人的な信条に過ぎない*15。私がキュアスターの言葉にある程度の共感をおぼえているという話は、あくまでひとつの余談である。


3. 「プリキュア×反出生主義」は反出生主義を主張するうえで有効か?

仮に、スタートゥインクルプリキュアに反出生主義を読み取ったとしよう。このとき、ダークネスト様の思想・行動は反出生主義寄りであり、プリキュアの思想・行動は出生主義寄りということになる。ならば、(たとえば反出生主義者は)プリキュアの思想・行動にどのようなかたちで反論することができるのだろうか。

 

ここから、pregnant-boyさんの指摘で気になった点について考えていく。気になったのはこの箇所だ。

スター☆トゥインクルプリキュアにおける出生主義的思想、すなわち人間の出生とその後の人生の負の側面も含めて肯定するという思想は48話で特に見受けられることとなった。プリキュアへびつかい座のプリンセスの不完全なイマジネーションが存在することで宇宙が歪むという主張をつまらないの一言でバッサリ切り捨てた。そして苦しみはやがて報われるというお決まりの希望的観測を持ち出し、歪みの存在を正当化させた。このような希望的観測を持ち出すとき、彼女たちはどこまでの苦しみ、苦痛を想定しているのだろうか。
人の一生における苦しみとは想像以上に多種多様である。

プリキュアは、人生(イマジネーションを具えた命)にある程度の不幸が降りかかりうることを認めたうえで、イマジネーションを具えた命が生きる宇宙は「面白い」と述べている。そのプリキュアの発言に対して、pregnant-boyさんは「プリキュアが『確かに不幸はある』と言いつつ行っている想定は甘すぎるかもしれない」と指摘している。この指摘を、出生主義者プリキュアに対する反論と言ってもまあ問題ないだろう。

 

しかしこの反論、ディベートの作法として、反則でこそないが、スマートではない反論だ、と私には思える。
たとえば誰かが「私が思うに、人生にはレベルnくらいまでの不幸がありうると思う。それならば、人生にはまだまだ生きる価値があると言えるだろう」と言ったとしよう。この主張に対して、「でも人生にはレベルn+1くらいの不幸があるとも考えられる。レベルn+1の不幸を考えたらやはり人生の不幸は大きすぎて看過できない」と反論することができる。そしてこういった反論は、たとえ、どんなに真剣に考えぬいたうえでの「レベルn」という想定に対してであれ、行うことができる。元の主張の妥当性にはさほど関係なく、その主張に対する反論が可能になってしまうわけで、こういう反論の仕方はやはりスマートではない*16

 

(これは正確には少し話が違うのだが)以下のような話に敷衍してもいい。
「前提・推論の過程・帰結」からなるひとつ主張に対し、「推論の過程」の誤りを指摘してこの主張に反論することは比較的スマートだが、「前提」を否定してこの主張に反論することは比較的スマートでない。
ここで、「ディベートの作法としてのスマートさ」というのは、説得可能性のことだ。ある主張をしている人に対して、その人と共通の前提に則って行われる反論にはまだ説得性がある。だが、その人がとる前提をひっくり返して行われた反論にはさほどの説得性はない*17
たとえば、「人生の不幸はせいぜい耐えられる程度であると考えられるので、人生には生きる価値がある」と主張している人に対して、「人生の不幸が耐えられない程度であるとすれば、人生には生きる価値がない」などと述べることは、なんの反論にもなっていない*18。言われたほうも、それが反論として言われているなどとは思わず「………だから何?」といった反応をするだろう*19

 

「当然出生が否定されるような前提にたって、反出生主義を主張する」というやり方には説得性に限界がある。少なくとも、“純粋に論理的な議論”としてはその主張にさほどの価値はない*20。けして間違った主張というわけではないが、私個人はこのようなかたちでの主張をしたくない*21


4. 「プリキュア×反出生主義」は反出生主義に関する論調にどのように影響しうるのか?

元記事は、反出生主義を介することでプリキュアはどのように読み取れるのか、ということについてひとつの考えを提示した。対して私の記事ではここまで、そもそもプリキュアを反出生主義を介して読み取ることはできるのかについて、また、プリキュアと反出生主義をからめたときダークネスト様とプリキュア双方の思想をどう読み取れるのかについて、いくらかの考えを述べてきた。
ここで私にはもう一つやることがある。犯罪現場で犯人が何かに触れれば必ず指紋が残るように。犯人が歩けば犯人の靴の裏に床のペンキの欠片が付着するように。解釈とは常に相互的なものである。Aを介してBを読み取るとき、BもまたAを介して読み取られる。反出生主義を介してプリキュアを読み取る可能性が多少でもあるならば、反出生主義はプリキュアを通してどのように読み取られてしまうのだろうか?

 

ここからする話は、「プリキュアを介して反出生主義を読み取ることについて」というよりかは「アニメ(等)のテンプレを通して反出生主義を読み取ることについて」くらいの広く曖昧な話かもしれない。

 

pregnant-boyさんは、元記事をこんな風に締めくくった。

反出生主義と無自覚な出生主義について考える機会を我々に与えてくれてありがとうプリキュア

断言はできないが、pregnant-boyさんには以下のような狙いがあったのではないだろうか。
ごく大衆的なアニメをも反出生主義の文脈で読み取ることができるという事実を知らしめることで、政治的に無臭に見える事柄にも反出生主義思想の萌芽が含まれることを指摘し、ひいては、反出生主義が世間で敬遠されているほど“特異”な思想というわけではないことを示す。

つまりは、(いささか乱暴なくくり方をしてしまえば)pregnant-boyさんは反出生主義論壇に利することを目的のひとつとして元記事を書いたのではあるまいか。しかし、「反出生主義という話題とプリキュアという話題を絡める」ことは、むしろ反出生主義論壇(?)を害するほうに働きかねない、そういうリスクを持っているはずだ。

 

私は上で、プリキュアに慣れた側の視聴者は、反出生主義を介してプリキュアを読もうと頑張っていくと、テンプレ悪役のなかに反出生主義に近い側面を見つける」という可能性を示唆した。この可能性は容易に裏返る。「ああなるほど、反出生主義(者)っていうのは、テンプレ悪役に過ぎないんだな」という認識に至る、つまり反出生主義の思想的意義をより低く見積もるようになる可能性があるのではないか*22

 

いや、「可能性があるのではないか」ではなく、「私がそうだった」。
今まで私は、興味がないなりに、反出生主義という“思想”のあやしさ(それは新商品に感じるあやしさに近い)を折に触れて感じては、煙に巻かれてきたのだ。「私はこの思想を思想として認めたほうがいいのだろうか? この思想には重くみるだけの内実が存在するのだろうか? そしてその内実は私個人の現在の興味関心と結びつくのだろうか?」と。迷いは尽きなかった。
しかし、pregnant-boyさんの記事を読んだことで、私のなかでひとつのムードが確定した。「そうか、何にも踊らされる必要はなかったんだ。確かに反出生主義は独自の位置を占めている。でもそれは長い目で見れば、テンプレのいち変形例に過ぎないんだ。これについて考えすぎる必要はない」と。
これはあくまでムードであって、私が反出生主義という話題に対して出した最終結論ではない。しかし、このムードは、やがて私が持つ“出生”観を決定づけてしまうだろう……!

*1:しかし反出生主義者というわけではないらしい。せこい立ち位置だ。

*2:考え直してみれば、pregnant-boyさんも、彼/彼女自身の読み方が“普通”であることを望んでいたのだろう。

*3:『HUGっと! プリキュア』において、悪役クライアス社がとる、暗い結末を回避するための方法論は、直接的には「早期に暗い結末を到来させる」というもので、いささか込み入っている。

*4:ご注意いただきたいことが2点ある。第一に、私がダークネスト様はテンプレ的だと言っているのは行動原理と行動についてであり、性格やデザインやキャスティングや演技のすべてについて彼女がテンプレ的だと言うつもりはない。ダークネスト様をある意味で斬新だというべき状況はいくらでも考えられる。第二に、あるキャラがテンプレ的であったとして、テンプレ的であることのみを理由にそのキャラ造形を批判するつもりは私にはない。仮に、物語にとってテンプレキャラが必要であり、あえて選びとられたテンプレキャラであったなら、そのテンプレが責められるいわれはないのである。

*5:pregnant-boyさん自身も、ダークネスト様を反出生主義者とみなすことには限界があるということは分かっているとは思われる。『スター☆トゥインクルプリキュアにおける反出生主義的思想とはへびつかい座のプリンセスの思想である。彼女はイマジネーションの力(想像力ないし知性)を生物に分け与えることそのものを否定した。尤も、彼女が否定した理由はイマジネーションそのものが歪む可能性があるからであり、歪んだイマジネーションによって苦しむかもしれない存在について考慮しているわけでも憂慮しているわけでもない。(中略)肉屋を襲うヴィーガンあるいは産婦人科を襲うラディカル反出生主義者(そんな反出生主義者は見たことがないが)よろしく急進的な側面が見受けられる』

*6:これについては、いくらでも反論があろう……いずれ私の個人的考えをもっと詳細に語らなければならない機会が来るかもしれない。

*7:より正確に言うと、私は、「世界創造行為に対して、少なくとも、正しさという基準でものを語るのはナンセンス」という消極的な意味では、「面白さを基準に語るのはある種必然」とは言った。ただ、「あらゆる正しさ以外の基準のなかで、面白さを基準に語るべき理由がある」という積極的な意味では「面白さを基準に語るのはある種必然」と言う気はない。そのように主張するのは、現時点での私にはかなり難しい……。

*8:もちろん、「『正しさ』が世界の外には存在しないように、『面白さ』もまた、世界の外には存在しないのでは?」という反論をあなたはすることができる。また、「そもそもなんらかの公理系を採用して話さないとダメなのか?」という反論をあなたはすることができる。

*9:「本来は意志を持ってしゃべることがない様々な“モノ”や“コト”が意志を持ってしゃべり始める」そうしたIFの状況を思考実験することはSFの意義の一つである。あるいはもっと敷衍して、「空想が現実になった状況」について語ること、これはSFに求められる利益のひとつである。

しかし、空想を現実にした状況を描いた時点で、空想はすでに純粋な空想ではなくなってしまう。造物主が登場するSFを例にするなら、造物主が人間と同じ言葉でしゃべり始めた時点から、造物主の造物主としての特性はだんだんと損なわれていく。SFにはSFにできることしかできない。「SFはSFにすぎない」。

*10:どうも、永井均さんという方がこれと似たことを考えておられるらしい。彼が検討しているのは、『ひとりの人間を生み出すという行為には、新しい世界を生み出す“開闢行為”としての意味があり、通常の行為と同じ基準で「正しい/正しくない」という評価を下されることから免れうる/免れるべきといえるのではないか』という可能性だ。これは又聞きの聞きかじりなので内容については保証しない。

*11:そもそも、「世界が創造されている」という状態と「世界が創造されていない」という状態を、我々はどう区別して定義できるというのだろう?

*12:ここで話が星座の比喩につながるのは、まったくの偶然というわけではない。私の発想はありきたりなことにポストモダン文脈に端を発しており、ポストモダン文脈の始祖のひとりはソシュールであり、星座の比喩はソシュールの最もよく知られた持ちネタである。ソシュール自身が言ったのかどうかは知らない。

*13:さらに余談:一部の反出生主義者も、表面的には私と似たことを言う。「非-存在者の幸福/不幸と存在者の幸福/不幸は比較できない(ほどに非対称である)」。しかしこの主張は、「比較できない」という言葉を利用して、結局のところ巧妙に比較しているだけなのではないか、と私は思っている。

*14:「無」よりも「有」を選ぶということ、それは“あの”エピソードで「ララのAI」が行った選択にも似ている。
「ララのAI」には、サマーン星で「マザーAI」の一部として取り込まれる=全体に対する「無」になるという道と、「マザーAI」からは独立した「個」であり続けるという道とがあった。前者を選んでも後者を選んでも、AIとしての機能的にはさほどの違いはなく(むしろ前者のほうが情報量的には優位なAIになれたか)、「ララのAI」にできることは「自身がどちらの自身でありたいか」に基づいて判断することだった。
そういった判断基準を持つことは、現代の我々が知るレベルのAIにはかなりの難題だ。しかし「ララのAI」は「自身がどうありたいか」に基づいてひとつの判断を下してみせた。その判断が正しかったかどうかなど、私は語るまい。

*15:それが個人的な信条にすぎないがゆえに、その信条に基づいて行われる行為の結果が他人を巻き込むときには、細心の注意が必要である。
ところで、『スター☆トゥインクルプリキュア』では、個人的な信条が世界にもたらしうる“明るい”影響について語られている、と思うのは私だけだろうか? 物語開始当初、まさしく信条を個人的にしか持っていないがゆえに、他人が興味を持っていることについてまったく無関心だった星奈ひかるさん=キュアスターが、物語の終点では、個人的な信条を貫いていった先に全宇宙に生きる人々への関心を得たということ……ここに私は、個人道徳と道徳との接点を見る思いがする。

*16:ただ、pregnant-boyさんの場合には、反論としての「レベルn+1」を具体的に補強しようという意思が感じられる。まったく無根拠で恣意的な「レベルn+1」というわけではない。

*17:もちろん、前提に疑いの目を向けることも、よい議論のためには不可欠である。「対立意見の前提部分を否定してはならない」などとは私も言わない。

*18:原主張にもさほどの説得力はないが。

*19:繰り返すが、pregnant-boyさんはここまでアホな論法を使っているわけではない。

*20:実践的な倫理の議論としてはその主張にいかほどの価値があるのか………それは私にはにわかにはわからない。「人生の想定できる不幸には果てがない」という前提破壊的な前提のほうが、現に幸福な/不幸な人生を生きる当事者のリアルに即しているともし言えるのならば、私はときにそういった前提を採用すべきなのかもしれない

*21:本文では、プリキュアに対する反論(めいた指摘)がいささかスマートさに欠けるという話をしたが、かといってプリキュア側の主張にはそういった短所が全くなかったというわけではない。
プリキュア側の主張として私の気にかかるのは、「確かに人生には不幸がありうる」という指摘を譲歩として利用したことだ。譲歩というのは根本的にせこいところがある論法だ。「確かにAとは言えるが、やはりBだ」と言えば、「いやAだよね」という反論はできなくなる。妥当かどうかにかかわらず、ある種の反論が先んじて封殺されてしまうわけで、議論としてはややアンフェアだ。とはいえ、譲歩を用いずに主張を展開するというのもなかなかに難しいとは思うが……。

*22:無論、注4でも述べた通り、「テンプレ=くだらない」とは限らないことにも注意は必要である。