オタクはどこに消えた?

私はオタクだ。少なくとも自分ではオタクだと思っている。
私は何かに執着して特定の行動をとり続けるという意味においてオタクだ。アニメや漫画やゲームに親しむという意味においてオタクだ。アニメや漫画やゲームを話題にする友人がいるという意味においてオタクだ。

 

私にはオタクの友人(?)がいて、その友人が言った。ある種のオタクーー最近オタクの多数を占めているある種のオタクと、彼らのオタクとしての活動には嫌悪感を覚えると。
より詳しく言うと、こういう話だ。
「最近、Twitterで観測できるような類のオタクの大多数は、彼ら自身が愛している作品に対して、驚くほど単純で浅薄な感想をロボットのように繰り返すことしかできない。私は、このような楽しみ方には打ち消しがたい嫌悪感を感じるし、私自身としてはこのような楽しみ方はまねできない。単純で浅薄な感想を述べる者たちが、私が愛している作品の周辺に大量に出現しているときには、作品に接するなかで単純で浅薄な感想が目に入ることが苦痛となる。しかし、私には彼らの楽しみ方が間違っているなどとはとても言えないし、彼らの楽しみ方を否定することもしたくない。私はいかにしてこの苦痛を避け、あるいは乗り越えるのか?」
私は、単に人間としても、また、特に一匹のオタクとしても、この問題に共感できる。
彼はこの問題を、SNSSNSに特徴づけられた社会の問題だと考えた。この問題設定はおそらく正しい。
私はこの問題を、一人のオタクとしての在り方の問題だと考えた。この問題設定もまた、おそらく正しい。

 

私は考え始めた。私はオタクでいるのが居心地いいがために、オタクであることを日々選択して生きてきた。オタクにとって、オタクでいること、オタクに囲まれていることは総じて居心地がいいことのはずだ。しかし、オタクはいつの間にかオタクとは別の何かに変わってしまった。真のオタクにとって、そいつらと一緒にいても居心地がよくないような何かに変わってしまった。
オタクはどこに消えた?
しかし、これは考え始めるとすぐにわかることなのだが、「オタクはどこに消えた?」という問題設定はそれなりに間違っている。私はそもそも、オタクとはどういうものか知らないし、真のオタクなどというものがあるのか知らないし、オタクが本当に変わってしまったのかどうか知らない。そもそも私は20代前半だ。おいおい、オタクが本当に変わってしまったにせよ、本当は変わっていないにせよ、私にはその状況を俯瞰することはできないぞ!?
オタクとは何か?
私は真のオタクなのか?
真のオタクは偽のオタクに囲まれているから居心地が悪いのか?
真のオタクは偽のオタクに取り囲まれているのか?
真のオタクと偽のオタクなどという区別に意味があるのか?
オタクは本当に消えたのか?

 

私はここから、(自分がオタクであることにアイデンティティを求める限り)非常に切実な問題「オタクはどこに消えた?」について考えるために、いくつかの文や文章を並べ立てていく。だがそれは、体系立てた議論ではなく、疑問が疑問を呼び、結論が見えない“迷路”としてだ。
私は、この“迷路”がーー私が並べていく一連の文や文章が、私と同じように宿命的なアイデンティティの危機にさらされている(はずの)オタクたちにとって、ほんの些細な助けにでもなればいいと思っている。だから一連の文や文章は、学術論文としてではなく、後半が破り去られた実用書として書かれる(この実用書を、もっとうまく、正確に書くことができる人はいくらでもいるだろうけど、実際書いてくれた人はいなかった……もとい、私の探した範囲ではそういう実用書はなかったので、私がこの実用書を書こうとしたことはほんの少しくらい褒められてもいいはずだ、そうだろう? 無理ですか?)。
だからこその、「オタクはどこに消えた?」だ。

 

オタクはどこに消えた?

 

 


オタクの定義
男性的オタクと女性的オタク
じゃがいも警察って違法になったんですか?
オタクはなぜロボット化したのか?
それは、語る「対象」ではなく「語り方」の問題
知識・愛・技術の神聖三角形!!
“価値観フリー”な領域の消滅

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これはこの“迷路”の概略図だ。 あなたの考えをここにある

4つの道のどこかに当てはめても大した意味はないぞ、注意してくれ。



FAQ


これは動ポモですか?
→違う。少なくとも自分では違うと思っている。
確かに、この一連の文や文章が「ロボット化」「女性化」などと言った言葉で問題にしようとしている範囲は、「動物化」と呼ばれるべき現象が指す範囲とかぶっている部分もあると思う。しかし、(これは細部を読んでいただければわかってもらえるはずだと私は信じるのだが)「オタクのロボット化・女性化」と「人々の動物化」とは根本的に別の問題意識と射程とを持っている。私には、私が書いた一連の文や文章を動ポモ史観の一亜流と位置づけられることには積極的になれない。

 

これは『オタクはすでに死んでいる』ですか?
→違う。少なくとも自分では違うと思っている。
確かに、「オタクの女性化」とでも呼ぶべき現象のことを、単純に世代論に回収していくというのはなかなか魅力的だし、真実の一側面だとは思う。しかし、単純な世代論では、私が述べなければいけないところの「オタクの女性化」にぴたり符号するような説明にはなりえない。岡田斗司夫氏(氏がオタキングって呼ばれはじめた時代ってほんとに存在したんですか? ぼく若いんでよくわかりません)が「オタクは変わってしまった」と言うのと私が「オタクは変わってしまった」と言うのとでは意味が違う。岡田氏が60年代からのオタクの変化を射程に定めて、当事者としての実感といくぶんの決めつけを含んで「オタクは変わってしまった」と言うのと、90年代に生まれた私が、周辺人として、伝聞から想像しうる限りの「昔のオタク」を仮構して、「オタクは変わってしまった」と言いうるかどうかを検討するというのとでは、意味が全く違うのだ。

もう一点。岡田氏は、おそらく、学究というものの純粋性を前提としたうえで学究を(旧型)オタクの価値観と結び付けようと画策しているのに対して、私は、学究というものの道具性を前提としたうえで、思考のプロセスをオタクの実人生に奉仕させようと画策している。こういう点でも、この“迷路”と『オタクはすでに~』は異なる。