オタクの定義

複数の対立意見を列挙していくとき、それらをただ温存させるばかりで、対立点を真剣に検討しないというのは、議論としては最も恥ずべき行為の一つだが、私はここであえてそれをやろうとしている。

私がこれから列挙するのは、オタクの定義だ。

 

広義と狭義

私がここで定義しなければいけないのは、広い意味でのオタクなのか、狭い意味でのオタクなのか。論理を旨とする議論(とくに自然科学寄りの科学観をとっている分野の議論)であれば、私はこれから前者について話す、とか後者について話す、とあらかじめ固定的な定義を行ってしまうのが、誠実であり、手っ取り早くもある。しかしこれは実践に資するための試論であるから、ここではそのような誠実で着実な方法をとることには一定のリスクがある。私はここではむしろ、私が話すべきなのは広義か狭義かを知るためにこそ、オタクの定義とは何なのかを追求しなければならない。

 

比較的広義なオタクの定義として、例えば、こんな定義が想定しうる。

オタクとは、何かに執着する人のことである・・・定義1

ここでいうオタクには、アニメや漫画やゲームに執着する人はもちろんのこと、鉄道、切手、音楽などから学問、登山、スポーツなどなど、およそ人間がする行為の全てを対象にしうる。

もちろん、人間がする行為の全てについて、それをする人すべてが即座にオタクと呼ばれるわけではない。例えば、毎日料理をする人間は多いが、そういう人たちがただちに全員料理オタクとされるわけではない。料理オタクと呼ばれる人たちには、それ以外とは異なる何らかの特徴がある。

オタクとは、独特な知識の体系を介して何かに執着する人のことである・・・定義2

オタクとは、実用の範囲を超えた頻度・様式で何かに執着する人のことである・・・定義3

これらの定義は、(「執着」とか「独特な知識の体系」とか「実用の範囲」とかいった用語の内実が全く判明していないことを除けば)広義のオタクの定義としてまあまあ使えそうな感じである。

 

さて、私が話題にしたいのは、アニメや漫画やゲームを対象にするオタクのことであるような気がする(確信はない)。広義の定義と独立した狭義の定義として、いくつかの定義を想定してみよう。

オタクとは、アニメ・漫画・ゲームを中心とした一定のコンテンツ(オタクコンテンツ)を日常的に消費する人のことである・・・定義4

この定義はなかなか耳障りがいいが、「消費」が何を指しているのか/指すべきなのかについて詳しい説明がなされていないので、使ってみるとなかなか不穏でもある。作業仮説であるにしても、勇気を出してもう少しだけ踏み込んだ定義をした方がいいのかもしれない。

オタクとは、アニメ・漫画・ゲームを中心とした一定のコンテンツに関する情報に、途切れることなくアクセスし続けている人のことである・・・定義5

この定義も一見確からしく思える部分はある。しかし、この定義では「職業的義務感からアニメ史やアニメ業界に関して広範な知識を持ってはいるが、アニメそのものをいいとも悪いとも思っていないようなアニメ制作者」というような例をうまく排除できていない、という反論もあるだろう(排除すべきなのか、という問題も当然ある)。では、こんな定義はどうか。

オタクとは、アニメ・漫画・ゲームを中心とした一定のコンテンツに対して、何らかの価値判断をすることができる人のことである・・・定義6

「何らかの価値判断」とは、「この作品は客観的に価値がある/ない」といったところから「このキャラが好き/嫌い」といったところまでを含む。オタクでない人は、(なんらの情報抜きに偏見を持っている場合を除けば)たいていのところ、知らないものに対して「価値がある/ない」とか「好き/嫌い」とかいった立場を持ちようがなく、強いて言うなら「無関心」という立場をとっていることであろう。そういうわけで、この定義もオタクの本質をある程度捉えている可能性がある。

しかし、業界の人でもなく、個人的な関心を確かに持って年間100本アニメを見ているけれど、「アニメはアニメであるがゆえに全部カス」と述べるような人物は、ごく一般的に「オタク」という言葉で指すような人物に含まれるのであろうか? こういう人物を定義から外したい場合は、こんな定義が比較的ましなものになるだろう。

オタクとは、アニメ・漫画・ゲームを中心とした一定のコンテンツに対して、おおむねポジティブな価値判断を下しがちな人のことである・・・定義7

これで、オタクと言うことでなんらかの特徴を持った集団の輪郭を描出することはだいぶしやすくなっただろう(「おおむね」の加減によってその集団の大きさはまちまちだが)。

 

内的定義と外的定義

オタクとは、一方、個人でもオタクであり、オタクである理由はオタク個人の特徴に帰することができる。

オタクとは、アニメ・漫画・ゲームに関する膨大な知識を持った人のことである・・・定義8

オタクとは、アニメ・漫画・ゲームを愛する心を持った人のことである・・・定義9

オタクとは、他方、非オタの集団から追い出されることで初めて成立した存在でもある。そのため、オタクとは非オタとの関係の中でしか定義されえない、と主張することも可能になる。そのようにオタクを定義したとき、オタクと呼ばれる人びとが内的な共通項を持っている必要性は比較的薄くなっていく。

オタクとは、非オタでないもののことである。オタクの定義は本質的に空虚で構わない・・・定義10

オタクとは、人々が「変わった趣味を持って変わった生活様式をとる者たち」という言葉で作り出した、本来的に架空の集団である。オタク個々人が実際に「変わった趣味を持ち変わった生活様式をとっている」かどうかは全く問題ではない・・・定義11

「レッテル」という言葉には通常、「レッテルは本質ではない」という含意が含まれているが、私のこの文章は「レッテルも本質である」とか「レッテルこそ本質である」と述べうる可能性を否定しない(ありきたりなポストモダンだ)。

「およそオタクというものに関しては、レッテルこそ本質である」という立場を最も端的かつセンシティブに表現するなら、「オタクとは、10万人の宮崎勉である(それが実在するとしないとにかかわらず)」という言葉になるだろう*1。このような見方がいくぶん古くなってしまったことは間違いないが、歴史的経緯が何らかの形で今日まで続いていることもまた間違いない。

 

コミュニティ的オタクと仙人的オタク

私はさっき、「オタクとは、オタクコンテンツを消費する人のことである」のようなことを言った。ここで、百戦錬磨のオタク諸氏の中には、「この定義に対して、オタクコンテンツにきっちり限界をつけるとか、消費という言葉にきっちり定義をつけるのとかは、なんか違和感があるよ」と表明する人もいるだろう。「なんかこう、わかるだろ? 君もオタクなら、なんかこう、さ」と。つまりこういうことだ。

オタクとは、(実際共通点があるかないかはわからないのだが)オタク同士では間違いなく嗅ぎ分けられるような、「オタクのにおい」を持った人のことである・・・定義12

オタクかオタクでないかの違いを、明確に定義できる特徴でなく、実際にオタク同士がオタクであると感じられるかどうかの感覚に拠って打ち立てようとするのは、なかなか悪い戦略ではない(『レディ・プレイヤー1』にも、オタクはオタクと非オタを嗅ぎ分けられる、というオタクへの信頼をくさいくらい正直に表明したシーンがある)。

より進んで、こんな定義でもいいかもしれない。

オタクとは、オタクコミュニティのなかにあって明らかにオタクであるとみなされるような人のことである・・・定義13

この定義にあって、オタクとは「オタクコミュニティにいる人」以上でも以下でもなく、またオタクコミュニティとは「オタクが集まってるところ」以上でも以下でもない。オタクの定義をするにあたって、オタクの本質への言及を避け、「実際に人が集まっていてオタクと呼び合っている」という状況の方に目を向けるのは、アートワールド論にも似ている*2

この定義は、オタクが必ずオタクコミュニティに所属している、というイメージを抱かせる。しかし、オタクとはいつも少数派の価値観だったはず。この世で一人しか評価していないようなアニメに一人で向き合い続け、そのアニメへの論考を練り続けて、誰にもその論考の評価を求めることなく、オタクとしての研鑽を続ける、そういう孤高のオタクだっているはずではないのか? そんなさながら仙人のようなオタクは、その存在を証明することが原理的に不可能ではあるが、不可能であるがゆえにその存在を否定することができないし、第一私の理想とするオタク像にある意味一致している。ひいては、こんな定義が可能だろうか。

オタクとは、たとえそれが他人によって認められようが認められまいが関係なく、ひたすらにある作品を見つめ続けられることのできる人である・・・定義14

このようなオタクは、実在するかどうかはともかくとして、少なくとも尊敬には値する。彼は本質的に議論を必要としないので、彼が真に大事にしている意見は、誰にも覆すことができない。このようなオタクに対しては、「狂信者」と呼ぶことさえ非難の言葉にはならないだろう。

 

鳥の目の熱情と虫の目の愛情

例えば、こんなかたちでオタクを定義しようともくろむ方がいる。

http://lwlwlwlwlw2.seesaa.net/article/448496792.html

かなり乱暴な形ではあるが、この記事が述べているいくつかの事項から、私にとって都合のいい部分を取り出してみると、こんな風になるだろう。「世界全体に対して通用する一つの統一的なルールを探そうとしたとき、その瞬間がオタク人生の契機になる場合がある」と*3

統合的志向がどのようなオタク性につながるのかについて、(議論の範囲でなく)妄想の範囲内で、いくつかの相反するかのようなシナリオが導かれる。

 

一つは、鳥の目を持ったオタクだ。鳥の目を持ったオタクは、作品や作品を構成する諸要素に出会ったとき、それらをより広い文脈の中で理解しようとする。

オタクとは、なんでもかんでも文脈や界隈に組み入れて「理解」する人のことである・・・定義15

なんでもかんでも文脈に組み入れようとすることが仮にパラノイアであるとすれば(この仮定は全く正確ではない)、オタクは病気である。

 

もう一つは、虫の目を持ったオタクだ。虫の目を持ったオタクは、作品全体を愛する以前に、作品に登場するキャラのみへの愛情を最大化するとか、第〇話のアバンに出てくるあるワンカットへの愛情を最大化するとかいったことによって、作品を愛そうとする。

オタクとは、全体とのつながりを失った一部に向ける愛情が最大化している人のことである・・・定義16

「本来全体に向けるべきものである」愛情が一部に向いてしまっているという意味において、こうしたオタクの愛情はフェティッシュ的であるということができる*4。仮にフェティシズムが病気だとすれば、オタクはやはり病気である。

 

鳥の目の熱情と虫の目の愛情は、こう書いてみるといかにも対立するものであるかのようだが、本当はオタク人生の中で混とんとした形で両方が表現されている。「フィクションは世界の写しである」ということは「フィクションは世界の全てと対応している」ということと「フィクションは世界の一部に収まる」ということとの間に橋をかけ、オタクをして、鳥の目にも虫の目にも転びうる分岐点を成している。金閣寺の中に金閣寺を見る、というような『金閣寺』的倒錯は、オタク人生のそこかしこに存在している。そういうわけで、「なんでも「それってアイカツだね」でつなげていくオタク」とか、「全てを「顔がいいんだよなあ」で投げ上げようとするオタク」というのは、私たちからはずっと離れた道を歩んでいるように見えて、本当はほんのついさっきまで私たちと同じ道を歩んできている……。

*1:「10万人の宮崎勉」という「伝説」の中心に存在するのは、どうやらデマであるらしい、ということは最近よく知られるようになってきた。しかしここでも再度強調しておくことは悪いことではないだろう。実際にこんな無思慮なことを言ったアナウンサーはいない。

*2:アートワールド論とは(私の理解が合っているといいのだが)、「芸術とは何か」という積年の課題に対して、美学のある一派が出した一つの解答だ。これによれば、芸術作品とは、作品それ自体の特徴によって芸術となるのではなく、作家と批評家とパトロンその他からなる芸術を評価するコミュニティ「アートワールド」に組み入れられることによってのみ芸術となるのだという。

*3:ルールはなるべく統一的で体系的であることを好み、状況ごとに細かい例外を持っているようなルールはこれを拒否したがるような人物は、非常に大雑把に見て、知能が高い人間に多い――これは、私がこれまでの人生で得た曖昧な経験則の一つである。また、これは事実ならばまあまあデリケートな情報ではあるが、東大や京大で教鞭をとった精神科医が講義の中でこのように述べたところを聞いた、「自閉症傾向の有無を調べるかんたんなスクリーニング検査を、東大や京大で行うと、平均をはるかに超える50パーセント以上のヒット率が記録される」と。

*4:フェティッシュという言葉は、人類学、精神分析、性科学、記号論の各分野で遊ばれ続けてきた概念であるために、今ここで誰もが納得する定義を行うというのは非常に難しい。「フェティシズムとは、全体への愛情を普通とした場合の、一部に向けられた歪んだ愛情」という解釈で容赦してほしい。