七つのテーブル

※この記事は

  • 『ゲーミング自殺、16連射アルマゲドン』
  • 『皇白花には蛆が憑いている』
  • 『席には限りがございます!』
  • 『魔法少女七周忌♡うるかリユニオン』

 のネタバレを含みます。

 

 

 

私の(ものではない)物語:製造フロア隅の事務机

『大人はみんな趣味で仕事をやっている』とか『働くひと自身の心がけ次第でどんな仕事でもクリエイティビティを発揮できる』とかなんとか、ありがたいお話を講釈してくださる大人の皆さんは数多い。が、実際のところ、プライドなど持ちようのない仕事……どれだけ贔屓目にみても平凡で単調で低評価としか言いようのない仕事が世の中にはたくさんある。これは、心がけの問題というよりはもっとずっと単純な算数の問題だ。少数の、特定の能力や資質が必要とされる特別な仕事を特別な人たちがこなさなければ社会が回らないのと同様に、もっとずっと多くの、ぶっちゃけ誰にでもできる仕事だって誰かがこなさなければ社会は回らない。社会に存在する仕事の種類が増えていっても、平凡で単調で低評価な仕事の需要が減るわけではない。むしろ増えているフシすらある。そこに圧倒的な需要がある以上、多くの人が低評価の仕事をこなさざるをえない。その仕事がなぜ低い評価をうけがちなのか、自分の手元で再確認しながら。

誰にでもできる仕事というのはしかし、誰にとっても簡単、というわけでは必ずしもない。誰にとっても簡単であるどころか、逆に、労働者個々人の能力の違いをこれ以上ないほどはっきりと浮かび上がらせていることすらある。考えてみれば当然のことだ。平凡で単調な仕事は、平凡で単調であるがゆえにその仕事への評価尺度が複雑化しにくい。複雑でない、比較的単純な評価尺度……ポカミスの多寡とか、仕事の早さとかで測られるようになったとき、どうも絶望的に仕事ができないやつっていうのはどの職場にも出現する(労働の義務は全国民に課せられているので、全国の職場は限られた有能な人材を奪い合っているのと同時に、一定数いる無能を押し付け合ってもいる)。そういうわけで、なんか何の仕事やらせてもめちゃめちゃ遅い私も、いまはとある工場に派遣で入っていて、仕事が遅いかどでしょっちゅう上司に訓戒を受けている。ちょうど昼休みが終わったいまもそうだ。

 

製造フロアの隅の半端なスペースに置かれた事務机が私の上司の定位置だ(正確には、彼は役職上は私の上司ではない。彼は管理職じゃないのに管理業務をやらされているかわいそうな人なので)。さっきまで愛妻弁当を食べていた同じ机で、上司はペン立てにささったハサミをいじりながら私に語りかけている。対する私は所在ない両手を時折もみあわせながら上司の話に「はい……はい……」と相槌を打っている。

話題はあちこちを行ったり来たりしているが、おおむね中心を占めているのは、私の仕事がクソ遅いことについてだ。上司は、具体的にどの仕事が遅かったとか、仕事を早くするためにこういう工夫を採用してはどうかとか、仕事が遅れそうなときは事前に相談しろとか、そもそも何をした代価に給金をもらっているつもりなのかとか、あの仕事は前よりちょっとだけ早くなっていたとか……とにかくもろもろについて私に問いかける。私としては、上司の考えや私の考えをもとに取り組んでいる工夫がいくつかあり、これはうまくいきそうですとかこれは実情にうまくフィットしませんとか、なるべく具体的に答えていくことになる。

そうした小さな工夫のなかには、たしかに成果を上げているものもある。しかし上司も私も、そんなチマチマした改善もどきではなくもっとラディカルな最後通告がほしいという気持ちをごまかすことが次第に難しくなってくる。『仕事やる気あんのか?』『逆にあると思ってんの?』そんなやり取りをお互いに3度ほどは飲み込んだあと、上司はだいたい次のようなことを歯切れ悪く語り始める。

 

「べつに私自身はいいけどね、君が仕事遅くて迷惑をかけること自体は。でもさ、私以外の、君の隣でやっている人は君が仕事遅いのいやだと思ってるかもしれないよね。君が遅かったぶん、君だけじゃなくて他の人も残業になるでしょ。そういうときみんなどう思ってるのかね。いや、本当わからないけどね、ひとにもよるし――」

 

そう、この段階! この段階に入るともう、本当に終わりだ。どうしようもない。

『てめえが不平等だと思ってんならてめえの責任で不平等だとはっきりいえよ、他の人の不都合を勝手に想像して持ち出してるんじゃねえよ』とつい言い返しそうになるが、そんなことをしてはいけない。上司だって……いや、上司のほうが辛いのだ。末端の現場責任者にすぎない彼には、派遣社員である私の給料をアップする権限も契約を解除する権限もありはしない(そもそもが、かなりランクの低い派遣社員である私と契約しているこの会社のことなので、ちょっと使えない派遣社員がいても、そいつを契約解除して代わりを用意する、というのが簡単ではないのだ)。彼はこの事務机の上で、私がする行動に対してなんのメリットもデメリットも提供することができない。

私のほうも、誰にでもできる仕事が私にとってはめちゃくちゃ難しいというシンプルな問題によって、劇的な業務効率改善を約束することができない。できるのは、ただ今まで通り、遅々とした成長を示唆することだけだ。私もまた、上司がする選択に対してなんのメリットもデメリットも提供することができない。

結局のところ、私が昨日よりちょっと早く仕事をこなせようがこなせまいが、上司のなかでの私の評価が上がろうが下がろうが、事態はほとんど動きはしないのだ。私の行動も上司の選択も、お互いの利得にほとんど関わってはいない。ここにステークホルダーはいない。だからこの事務机の上でなされた対話は、交渉という体をなすことができない。最後には、『もうちょっと早く仕事ができるといいよね』とお互いに願望を表明するだけして、私と上司はそれぞれの午後の業務に戻っていく。なんかもう、本当にすみません、小学校教師みたいなこと言わせてしまって……。


※フィクションです。

 

 

ゲーマゲ:廃研究所のスチール卓

対話で解決可能な課題は凡て対話で解決しなければならない、なぜなら対話こそが至高の課題解決手段だからだ……のような立場は(その論点先取じみた響きのわりに)現代ではそう珍しくもない。が、私はこの立場にそこまで賛同していない。

たしかに、対話は課題解決手段の一種として一定程度には有益ではある。しかし第一に、対話はあくまで解決手段の一種にすぎず、この世にはほかの解決手段も無数にある。第二に、対話が手段として有益であるというのも、あくまでいくつかの特定状況のなかでいくつかの手段よりは有益であるというだけの意味であって、常にどの手段よりも対話が優れているという意味ではない。対話とは、条件付きで●●●●●善いものにすぎないのだ、と私は信じている。こんなこと、あえて言い切る必要があるような積極的主張でもないけれど。

 

こう言い換えてもいいだろう。対話が善いものであるためには、つねになんらかの前提条件を満たす必要があるのだ、と。

ひとくちに対話といっても、そのなかには多くの種類の対話がある。想像するに、異なった種類の対話は異なった種類の前提条件を課されているだろう。例えば、“交渉”という対話には交渉が交渉であるための前提条件があるだろうし、“雑談”という対話には雑談が雑談であるための前提条件があるだろう。前提条件が満たされたうえで行われた対話は、われわれの課題の解決にとって悪くない選択肢になるに違いない。

一方で、適切な前提条件が満たされていない状態で行われた対話は、なにも生み出してはくれない。例えば、ステークホルダー不在で行われるふわふわした訓戒が、まるでビジネスの様相を呈していないように……。

 

前提条件を満たして行われる会話はわれわれにとって善きものである。ならば、前提条件が何なのかをはっきりと意識して対話に臨む人びともまた、われわれにとって善き人びとでありうべきだろう。私はここで、いつも誠実に対話に臨んでいた一人の善きゲーマーのことを思い出さずにはいられない。何を隠そう、空水彼方のことだ。

 

空水彼方は対話への誠実さにおいて善きゲーマーであった、などと私が述べると、次のようにいぶかしむ人は少なくないだろう――彼方の特徴はむしろ、対話拒否の姿勢にこそある、というのが共通見解ではないのか――と。いや、たしかに彼方がゲーマゲ本編中でとっている行動がある種の対話拒否であることはまったく間違いではない。相手の気持ちも事情もポテンシャルも考慮せず、出会い頭に殴りかかる、そういう行いをためらわないし、必要ならばガチで実行するのが彼方という女だ。これが対話拒否でなくてなんだというのか。ただ、その対話拒否は対話という手段が持っている価値の軽視に因るものではなく、むしろ逆に、対話という手段の前提条件を過度に尊重したことに因るものと言えるのではないか、と私は思うのだ。

 

こと彼方において、対話とは何か? 彼方にとっての対話は、9割は交渉のことを意味している*1

こと彼方において、対話の前提条件とは何か? 彼方の対話は交渉なので、その前提条件とは、自分と相手がお互いに対して提供できる何らかのメリットを持っていることだ。

彼方はボス戦に挑むとき、ボスと対話を行ったりしない。「倒してもいいですか?」とボスに訊いたりしない。それは、ボスのことをくだらない存在だと思っているからでは全くなく――いや、それもあるか――くだらない存在だと思っているからだけ●●ではなく、彼方の側からボスに提供できるメリットが何も思いつかないからだ。

対話拒否と呼ばれる態度が浮かび上がってくるのは、相手がくだらない存在であるときではない。自分から相手に対して提供できるメリットがないときだ。こういうとき、アスペは対話を行わない。彼らはべつに対話を行いたくないのではない、単に対話という可能性を思いつかないのだ。こちらから提示できるメリットが何もないにもかかわらず対話に応じてくれる相手、というものは彼らの想像の範疇にはまったくない存在であるから。私にはわかる。私もたいがいアスペだから*2

 

私という人間は、その性格において空水彼方と少しだけ似ていることを認めるので*3、彼方の性格特徴についてかなりの確信をもって邪推を走らせることができる。しかし、私個人の確信はさておいて、客観的な分析で彼方の性格特徴を描写するのは――とくに、彼方が対話を拒否するのは相手に対してメリットを提供できないときである、と述べるのは――いささか難しい。それは、ゲーマゲ劇中で彼方が対話の可能性を思いつかないとき、思いつかない理由が彼方自身の言葉で語られることはありえないからである。

それでも辛うじてゲーマゲ劇中から彼方の性格特徴を分析しようとするなら、重要になる分析対象は、彼方がいままさに対話を立ち上げようとしている場面だろう。それは例えば、氷に覆われた大地の一隅にある廃研究所の一室で彼方がローチカ博士と相対したシーンなどだ。

 

描写によればその部屋は“薄暗くてだだっ広い”。また、声がよく反響することなども示唆されていて、どうも寒々しい印象を与える空間だ。部屋の真ん中にある鉄製のテーブルをはさんで彼方とローチカ博士は語り合う。

彼方はローチカ博士の話から情報を集め、『ローチカはどんなメリットを見込んで彼方を用意したのか』とか『彼方自身にとってのメリットとは何か』とか『彼方はどんなメリットを見込んでいると他人に見せるべきなのか』とか『メリットを提供できることによって誰がこの空間で優位となるのか』とか、そんなことばかり考えている。彼方は、この対話が彼方にとって善き交渉であるように、各々にとってメリットが違うということに自覚的だ。

一方のローチカ博士は、目的合理的とはあまり言えない、むしろ高度に価値合理的な判断を暗黙の前提にして彼方に語りかける。『人類の生活圏を取り戻すために戦ってほしい』ということ(前提:人類は永続すべきである)。『彼方が送ってきた人生を無意味にしないためにある情報を隠すつもりだ』ということ(前提:人間が送ってきた人生の尊厳は守られるべきである)。博士はどこまでも“倫理的な”研究者であって、人類にとっての善や人間にとっての善が実在するという大きすぎる前提をまるで疑っていない*4

当然、両者の会話は滑稽なくらいにすれ違っている。なんらかのメリットを起点にして交渉を開始できると踏んでいる彼方。損得勘定抜きに、彼方に対して純粋な厚意を与える用意があるローチカ博士。最終的に彼方は、最初から言いくるめる必要などない、普通に“いいひと”であるローチカ博士をなぜか不必要に言いくるめてしまう。まるで、対戦ゲーマーが生まれてはじめてTRPGをやって、交渉スキルを使う必要がないところで勝手にダイスを振り始めるときのようだ。私にはわかる。私もはじめてのときはそうだった。

熱いローチカ博士の言葉は彼方には届かず、冷たい壁に、床に、テーブルに反響して消えていく……。

 

彼方は、特定の前提条件のもとに生起する(一部の)対話に対して誠実であるがゆえに、あらゆる対話がそれだと誤認してしまう。前提条件が揃っていない瞬間には、対話が生起しうる可能性に気づきすらしない、だから対話を試みない……こうした私の見立てが仮に正しいとすれば、彼方の態度は、“対話拒否”と非難されるより先に“対話における視野狭窄”として喜ばれるべきだろう。

そう、喜ばれるべきなのだ! 会話をするとき、彼方は自分のなかでの目的をはっきりさせずにしゃべり始めたりはしないし、自明でない価値合理的判断を勝手に前提にしたりもしない。むしろ、彼方が何を欲しがっているかを(フェイクやブラフも交えるが)何らかの意味では相手に伝えようとする。仮に、彼方とわれわれがもし対話することがあれば、彼方がさしあたりわれわれにどうしてほしいのか、それはわれわれに可能なことなのか、といったことはたちどころにわかるだろう。そして、対話がひと段落ついた瞬間から、われわれは次なる対話までに達成すべきミッションが何なのかを迷わず、全力で取り組むことができるだろう。話していてこれほどやりやすい人はそういない。

また、もっとありえそうな仮定として、彼方がわれわれに与えるべきものが何もないとき、彼方はわれわれと一言も交わさないだろう。用がないから話しかけない、結局それが一番助かる、ということを私は否定できない。それはそれでやりやすい。

 

しかし、彼方の性格はある種理想的な人物像である、と言葉の上ではいくら表現してみたところで、みんなが彼方を気に入るようになるわけではない。実際のところ、彼方のような対話スタンスについていけないひととか、一方的に言いくるめられて本意でない行動をとらされてしまうひとというのは、社会の半分以上を占めている。ローチカ博士もその一人だったわけだ。

私は、ローチカ博士はふだん研究所のどこでどんな風に飯を食っているのだろうか、などとどうでもいい妄想を最近よくしている。ローチカ博士の唯一の同居人である桜井さんは、彼方に負けず劣らずアスペっぽい雰囲気をまとっているから、実はそこまで博士とは話が合わないだろう。だから博士は食事中も桜井さんとしゃべることはあまりなく……なんなら一人で食べているだろうか?

ひょっとすると、あの部屋の鉄製のテーブルに一人向かい、毎日同じレーションをかじっていたりするのかもしれない。その場所で熱のこもった対話が行われたことはいままでなく、これからも、ない。


※妄想です。

 

 

すめうじ:サイゼリヤの12番テーブル

交渉を仕掛けようとする者と純粋な厚意を与える用意がある者とが向かい合ったとき、その対話は、必ずしも悪い結果を生むというわけではないが、たいていはチグハグな雰囲気を漂わせる。例えば、ローチカ博士と向かい合った彼方がその冷静さと裏腹に、不必要に力んでエネルギーを空回りさせていたように。

対して、対話に臨む両者がいずれも交渉を旨としているときは、対話はその内的な論理においてはいくぶんスムーズに進行するものだ。具体例が必要なら、そう、椿と遊希が喧々諤々の議論を交わしていたあのシーンを思い出すのがいい。

 

白花が殺害予告と初襲撃をうけた翌朝、白花の家の近所のサイゼリヤのテーブルで重要な交渉が行われる。この交渉に臨む主要な役者は二人。アロスティチーニをほおばりながら、“管理局”なる公権力の立場を代表して席につく新人公務員・椿。ハンバーグにかぶりつきながら、“アンダーグラウンド”なる地下コミュニティの立場を代表して席につく女子小学生・遊希だ。彼女たちは、誰が白花を殺すべきか殺さざるべきか、誰に白花が殺されるのを看過するべきかせざるべきかなどについて、お互いが抱いている指針を探る。そして、場合によってはある特定の指針を採るように相手に対して迫る。所属組織の立場と自己自身の立場を混在させずに並べ立てながら。

われわれは対話の字面を一見したときに、論点ずらしや意見の対立などをそこに認め、この対話はうまくいっていないのだと早合点しそうになる。しかし、そんな対立はせいぜい表面上のものでしかない。実際のところ、この対話がいかにスムーズに行われていることか! 椿と遊希は対話を通して、互いの置かれた立場についてより理解を深めているのだ。だからこの対話は、両者が承服可能な結論へ向けて漸近している。

 

この二人が交渉の場を交渉の場として正しく認識し、スムーズに進行できている理由の一つは、交渉の内容がある程度までは単純なものに保たれていることにある。そして、この場での交渉がそのような単純な内容に終始できる理由は――すこし意外なことに、彼女たちが大人だからではなく、むしろ――彼女たちが二人ともまだ若いことに拠っているだろう。

若いというステータスは、その単純さにおいて、得難き価値である。椿は幸運にしてまだ新人の公務員であり、管理局の内外における人びとと複雑な利害関係を持っていないので、管理局のメリットをストレートに代理することができる(もしヴァルタルさんがこの交渉の場にいれば、管理局の立場だけでなく、管理局の上に位置する省庁の立場や、管理局と横並びの警察組織の立場、管理局と裏で癒着しているかもしれない一部アンダーなどの立場なども勘案したうえでの立ち回りを陰に陽に要求されていただろう)。椿も『管理局内も一枚岩ではない』などと言ってみせはするが、代理している組織が管理局というひとつの組織にとどまっている時点で椿の立場は単純なのだ。だから椿はわりと理想を語れるし、椿が交渉の場で追求すべきメリットも簡明になる。

遊希も立場はいくぶん単純だ。いくらアンダーグラウンド育ちの小学生が異常だとはいっても、遊希はまだ若いので、アンダーグラウンド全体に広範な影響力を持つ有力者というわけでは全くない(もしジュリエットがこの交渉の場にいれば、望むと望まざるとにかかわらずその一挙手一投足がアンダーグラウンド全体に影響を及ぼす、『著名な殺し屋』としての立ち回りをしてみせただろう)。だから、『アンダーグラウンドにも色々な立場がいる』と外野目線での解説を加えながら、交渉としては自身の周囲のメリットのみにフォーカスすることができる。

テーブルに座る二人が代理している利害関係が必要以上に複雑でないからこそ、交渉は交渉という体を崩さず、円滑に進行されているのだ。

 

そして、交渉の円滑な進行は、交渉にまつわる利害関係の単純さ――その単純さは交渉の参加者によって提供される――という内的な要因によって支えられるだけでなく、単純な交渉が単純なままに進行することを許す“場”がそこにある、という外的な要因によっても支えられている。

椿と遊希の交渉が行われた場、その具体的な状況を思い返そう。そこでは、椿はアロスティチーニをほおばり、遊希はハンバーグにかぶりつき、当然二人の間にはテーブルがありそして……あまりにも当然のことであるのですめうじ本文で描写されることはないのだが、テーブルの端には必ずメニューがささっているはずだ。メニューをいざ開けば、どの料理にも決まった値段が表示されているだろう。アロスティチーニ:364円。ハンバーグステーキ+ライス:501円。

そう、決まった値段がついていること、これが重要なのだ。決まった値段がついていることによって、交渉の場で付随的にやり取りされるメリット・デメリットの総量は無際限に膨れ上がることなく、有限で計量可能な範囲に収まる。

ふつう、同じ業界に属するもの同士の交渉とか、これからお得意さんになるかもしれない人に対して行われる交渉では、値段がつかない、あいまいな恩と恩返しの応酬が繰り返される傾向にある。そんな応酬が繰り返されがちな理由は、恩と恩返しを繰り返すなかでは“借りを完全に返す”といったことが難しいため、恩を売る側も受ける側も簡単には関係を切ることができなくなるからであろう。こちらから関係を切れない代わりに相手からも関係を切れなくする、といったかたちで、人びとが関係性を維持するために施した安全装置(あるいは関係性そのものが自己保存のために獲得した性質)がここには働いている。

しかし、異なるコミュニティに属するもの同士が、いつ関係が切れるかわからない緊張感のもとで行う最初の交渉においては、恩とか恩返しとかいったあいまいなやり取りは好ましくない。むしろ、異論なく値段が付くような明確なメリット・デメリットのやり取りが好ましい。“いつでも貸し借りをチャラにできる”という状況のほうこそ、ここではお互いにとっての安全装置になる。

それは、交渉に付随して食事をおごる、といった場合に関してもそうだ。件の交渉の場で椿は(白花からのトスに応じて)遊希に対して食事をおごっている。このとき遊希は椿に対して501円ぶんの借りができたことになる。ここで、『遊希はこんなささいなことで椿に借りを作ってしまっていいのか?』と心配する読者もいるだろうが、実は、借りを作ること自体はたいして問題ではない。重要なのは、この借りにきちんと値段がついているということだ。

なぜなら――これはべつに501円でも501,000円でもいいのだが――値段がつけられる時点で、借りというものは潜在的に返済可能であるからだ。返済が可能なのであれば、貸し借りなどというものは恐るるに足らない。もし借りがある相手との関係を解消する必要があれば、お金を用意して口座なりなんなりに振り込めばいいだけの話なので*5

 

椿と遊希の間で行われる件の交渉は、その内容の単純さによって、また交渉の場が持つ性質によって、内的な論理においてはスムーズな進行に成功している。彼方とローチカ博士とのやり取りとは大違いだ。

しかし、彼方とローチカ博士との間にはあったような不和がこの空間ではまったく生まれずにすんだのかというと、そうではない。そうした不和はテーブルの縁まで追いやられているだけだ。テーブルの縁からみれば、交渉が円滑に進行しているということ自体がひとつの異常である。すなわち、すっかり蚊帳の外にいる白花からすれば、椿と遊希との対話は依然としておかしなやり取りであるのだ。

 

対話が秘めた異常性はいまだ消え去っていない。椿と遊希は、“正常な”対話……レストランというフォーマルな空間で大人流の対話を行っているように見えて、実は、蜘蛛の巣というどこにでも仮設できる子ども部屋で若者流の対話を行っているに過ぎない。

子ども部屋でのおしゃべりは、終わるときはたいてい唐突な終わりを迎えることで知られている。唐突というのは例えば、値段のつかないオレンジジュースを盆にのせたお母さんが乱入してくるとか、値段のつかない発煙弾を盆にのせた銀髪のお姉さんが乱入してくるといった状況のことだ。

 

 

ゲーマゲ:特等客車のガラステーブル

思えば、彼方とVAISの対話に乱入してきたのも、値段のつかないお手紙を携えた銀髪のお姉さんであった。

 

ゲーマゲの中盤、真の敗北――それは敗北の顔をしてすらいない――を目の前にして自分を見失ったとき、彼方は次元鉄道の客車に乗り込み、ガラステーブルをはさんでVAISと対話を行う。

次元鉄道はVAISが自身のこだわりを詰め込んで作った鉄道であり、その客車内はさながら大人の秘密基地とでもいうべき空間だ。あるいは単純に、子どもの子ども部屋?

ともかく、その空間のいたるところにはVAISが愛するものたちが配置されており、ガラステーブルにも当然、VAISが愛してやまないものであるゲームにまつわる品が収納されている。すなわち、ガラスの天板の下に、いくつものゲーム盤が置かれている。

ゲーム盤を見下ろすというのは傲慢な体験だ。われわれに、ゲームをゲームたらしめる枠線を天上から眺め渡すことが許されるとでもいうのか? われわれに、ゲームの駒でなくゲームのプレイヤーとしてふるまうことが許されるというのか? われわれがとるべき立場がなんであるにせよ、彼方とVAISはわれわれとは違う。彼女たちはプレイヤーであることが許されると信じて疑わない。だからこそ努めてプレイヤーであり続けようとし、敵にもプレイヤーであり続けることを求めようとした。しかし、敵をどうやってプレイヤーであり続けるように仕向けるのか、その手段を見つけられず、彼方は苦しむことになる。そこに彼方の姉・此岸が乱入する。

 

此岸の登場は、VAISにとっては予想外の出来事ではなかっただろうが、彼方の物語のなかでは正しく“乱入”と呼ばれるべき事件であった。なぜなら、此岸が携えてきたお手紙というのが、まさしく彼方の想像力の範疇において思いもよらないものであったからだ。では、彼方には思いもよらないものとは一体なんであったか? それは純粋な厚意だ。

此岸は、彼方の悩みを解決する手段として、自身の能力でゲームへの召集令状を発行することを彼方にオファーする(オファーする以前からすでに発行しているが)。召集令状が発行されれば、理論上はあらゆる人間が彼方と戦うプレイヤーになってくれるはずであり、彼方には大きなメリットがある。一方、召集令状を発行した此岸本人には、少なくとも直接的なメリットは何もない。言い換えれば、召集令状を発行してくれる此岸に対して、彼方から提供できるメリットは何もない。

こちら側から提供できるメリットが何もないにもかかわらず、対話らしきものに応じてくれる相手というのは、彼方の世界観には存在しないはずの他者だったはずだ。だから彼方はいぶかしみ、アスペっぽい当惑を口にする。“何故そこまで姉さんが私に協力的なのかがわからない”とかなんとか。この当惑に対して此岸は『見返りを伴わない純粋な厚意を送るのはただ彼方が自分の妹であるからであるし、妹でありさえすれば十分だ』といったような答えを返す。

そして、彼方はこの答えにさしあたり満足して自分を取り戻していくわけなのだが……この答えに満足してしまうあたりが、彼方の、なおいっそうアスペっぽいところだ! 彼方は、通常の人間関係において、無私の厚意といったものが存在するという可能性をほとんど考慮していないし、考慮できないのだが、姉妹などの超特殊な人間関係においては、無私の厚意といったものが存在するとしても『まあ姉妹ならそういうこともあるか』とすぐさま満足してしまうくらいには想定が振り切れている。彼方のまえに現れる世界では、彼方に対する厚意をちょっとだけ持てるひとからかなり持てるひとまでグラデーションが存在するのではなく●●●●、彼方への厚意が0%の多数の他者と厚意が100%の少数の身内の間で厳然たるギャップが存在するのだ*6

極端な2種の集合として人間関係を想定するであろう彼方の考え方を、異常な思考だ、と断罪するのはたやすいことだ。しかしながら、状況を一歩引いてみたとき、その考え方は異常であると本当に言えるのだろうか? 廃研究所やサイゼリヤの場合と違い、いまこの場でテーブルを囲む3人の中には、その考え方にあらためて異を唱える人はいない。違和感を覚える人すら。何よりここは、どこの世界にも属さない時空の狭間に浮かぶ客車の中であるのだから、あらゆる価値観は停止しているべきだろう。ならば、彼方の実感を越えてまで『そんな考え方はありえない、異常だ』とストップをかけるような常識だってここにはない。そこに実感が伴う限り、彼方の考え方には一定の正当性がある。

 

だから悩んだり交渉したり厚意を送ったりするのはこれでおしまい。ゲーム盤だっていまは出さなくていい。代わりにビールとおつまみとオレンジジュースを並べて、ささやかな飲み会の準備をしよう(アルコールとソフトドリンク、両方を用意しておくのは、純粋な厚意を知る大人とあまり知らない若者、どちらも楽しめる場にするためだ)。この時間がいつまで続くのか、そもそもこの客車に通常の時間が流れているのかすら定かではないが、それでもしばらくは対話のことなんか忘れて飲み会を楽しめるだろう。

 


すめうじ:旧カテドラルのレイジィスーザン

世界と世界の間の狭間へと! 世界を越えた世界を越えた世界へと! ひたすらに外側へと走り出していく空水彼方という女の前では、あらゆる価値観は停止する。信仰その他が持っていた権力が失効したあとのニヒリズムの戦場、そここそが彼女の生きる場所だ。

しかしながら、至極当然なことに、誰もが彼方のように生きているわけではない。もっとより多くの人びとは、信仰というものが一度は力を失ったあとの世界でも、信仰がかつて持っていたような大きな力を回復させるわけでもなく、かといって完全に信仰を捨ててしまうでもなく、中途半端にその残滓を利用しながらその後の生活を続けていく。それはまるで、一度は打ち棄てられた教会が完全に解体されてしまうでもなく、職場兼住居として利用され続けるように。

かつての権力が中途半端に利用され続けるそこは、“聖”でも“遊”でもない“俗”の世界だ。より正確にいうなら、世界ではなく、世間だ。俗世間と呼ばれるべきそこでは、特定の宗教に帰依したつもりもなければ、ゲーマーの矜持に身をささげたつもりもないたくさんの大人と子どもが、互いに区別されない複数のルールの混淆のなかで今日も対話を続けている。

 

黒華が主催した白花の“葬式”も、そんな対話の一場面だった。

黒華は、かねてより廃村の教会を改装して作りかけていた自身のアジトに、6人の客人を招いて“葬式”を執り行う。招かれた6人は、白花を“殺した”ジュリエットから、白花を守ろうとした遊希に紫、BGMの演奏を依頼されたサミーとレイスに、“殺された”当の本人である白花に至る、なんとも雑多な組み合わせ。“葬式”の主目的は、黒華とジュリエットの間で殺害証拠品を取引するという、完全にビジネスの側に属する手続きにあるが、それに付随するビジネス的でない段取りがこの儀式には無数に存在する。アンダーグラウンド流の世間話に花を咲かせるというのもそうだし、背景にはムーディーな音楽が流れているというのもそうだし、なにより、この席にはたくさんの料理が並んでいる。

そう、この席は食事会でもあるのだ。参加者たちは、取引に興じるより情報交換をするより音楽を聴くよりまず先に、テーブルに並んだ料理を楽しむことになる。シチューやらテリーヌやらスモークサーモンやら。そこで主役を演じているのは(悪い意味で)値段のつかない家庭料理の群れだ。

 

この“葬式”にて供される料理が値段のつかないシロモノであるのは、黒華が専門の料理人でないジュスティーヌに料理を依頼したからなのだが。もしも黒華のこの選択にあえて意図を読み取るとするなら、そこにあるのは、皆さん今後とも長いおつきあいをというメッセージだ。

サイゼリヤで出てくる値段の付いた食事が、いつでも切れる関係を担保するように、どうも適切な値段がつけづらい食事というのは、簡単には切れない関係を演出しうる。黒華が依頼してジュスティーヌに作ってもらった料理は、『これがプロの仕事か?』という疑念を抱かせるその中途半端なクオリティによって、逆に『代価を期待しない親身な心遣いの産物かもしれない』という可能性をはらむ。こういった食事を出されて受け取るひとは、それを返済可能な貸し借りであるとも返済不可能な恩であるとも断定できず、最終的には、その食事を出してきた相手とずるずる付き合いを続けざるを得なくなる。これこそが、完全にドライなビジネスパートナーでもなく、かといって無私の厚意を確信できる身内でもない、どっちつかずの関係を結んだり結ばなかったりする俗世間のやり取りなのだ。今日も俗世間では、恩と恩返しの連鎖がぐるぐると回り続ける……さながら中華テーブルのように。

 

そういったグダグダな関係・ふわふわなやり取りというものが好まれるかどうかは、まあ人と状況によるところではある。ここでいう“葬式”のような場面を好む人もいれば、好まない人もいるだろう。

しかし、ビジネスライクな交渉の場にも、無私の厚意が披露される場にもなじめなかった白花という人物にとっては*7、この関係・この対話こそが心地よい居場所だったのかもしれない。すめうじの展開としては、白花の白花としての人生はその後まもなく終わりを告げるので(一般に、殺された人物は人生を終えることが多いとされている)、実際この関係・この対話が白花の居場所たり得たのかどうかは不明ではあるのだが、希望は持っておくに越したことはない。

 


にはりが:櫻家の食卓

一方、一度は他者に“殺され”はしたがどういうわけかまだ死んでいないので、いまだこの世界に居場所を探している乙女が白花だとするのなら、他方、この世界に自分のいるべき場所はないと確信して死んだが、どういうわけか他者を殺さざるを得なくなった乙女たちがにはりがの主人公たちであり――意味ありげに書き出してはみたものの、私はこの対照関係になんの意味も見いだせない――そんな彼女たちが目指すハッピーエンドは、たいていのところ、ここではないどこかに自分の居場所を作ることを意味している。

にはりがの主人公たちが面白いのはこの点だ。上述したようなハッピーエンドを目指していることによって、彼女たちの対人関係における行動基準はかなりの振れ幅を持つ。彼女たちは、一方では、そもそも“ここではないどこか”を目指しているということによって、いま・ここにある人間関係はすべて壊しても構わないという破壊的な選択肢を持てる。他方では、“自分の居場所”を作りたがっているということによって、いま・ここにある人間関係を異世界にも持ち込める限り温存したいという保守的な選択肢を持てる。こういった振れ幅の広さは彼方や白花にはなかったものだ。

彼方がゲーマゲ劇中で何を目指していたかといえば、それは第一には勝敗を決することであった。だから彼方にとって、いま・ここにおいて他者との間に結んでいる人間関係(まだ勝敗が決まっていない関係!)は近い将来において必ず棄却されなければならない。彼方は破壊的な選択肢しか持てない。

白花がすめうじ劇中でちょっと惹かれていたアンダーグラウンド流の人間関係がどんな関係かといえば、それは一面を切り取ってみれば、恩義に縛られて簡単には切れない関係であった。だから、首尾よくアンダーグラウンドになじむことができた未来の白花にとって、アンダーグラウンドにおける人間関係はその多くが切っても切れないものになる。未来の白花は保守的な選択肢しか持てない(それは白花自身の意思や技巧に関係なくそうなる)。

 

だからゲーマゲやすめうじよりにはりがのほうが面白いのだ、というつもりは私にはない……断じてないが、にはりがにはゲーマゲやすめうじですでに演じられたような喜劇を発展的に再演しているような側面があるようだ、というのも私の素直な感想ではある。

例えば、あの愛すべき“合理主義者”・涼くんが、あちらこちらに取引を持ち掛けては、思い通りにならなかったりならなかったりならなかったりするところ。そこでは、必ずしもメリット・デメリットのために動くわけではない多種多様な人間たちに対して、あくまで表層的なメリット・デメリットのやり取りを押し通そうとする人物の滑稽さが描かれている。そしてこの滑稽さこそは、彼方とローチカ博士の対話においてはローチカ博士の側に押し付けられていた役回りが、今度は“合理主義者”の側に跳ね返って来たものなのだ。どうせ再演するなら道化役は交代したほうがより面白いだろう?*8

 

そんな、ゲーマゲのなりそこないである涼くんのことを完全に子ども扱いして微笑するのが撫子であり、姫裏である。が、撫子や姫裏が単純な意味で大人らしい対話・大人らしい関係構築を行っているのかというと――すめうじにおけるアンダーグラウンド流のやり取りをしているのかというと――けしてそんなことはなく、彼女たちはむしろ、ゲーマゲ的にもすめうじ的にもなれる緊張状態のなかで関係を遷移させ続けている。繰り返すが、にはりがの魅力は単にゲーマゲ的やすめうじ的であるのではなく、その両者を発展して演じているところにあるのだ。

撫子と姫裏(あとついでに切華)の対話は、まずは契約から始まる。その契約の内容は『撫子・切華と姫裏は、いま・ここでは互いに攻撃をできなくなることに同意する』というものであり、またその契約の履行は姫裏の特殊能力によって確実に保証される。この契約こそが、これから始まる対話の場で行使されうる手段を絞り込み、かつ、姫裏が相手に提供できるメリットが何なのかを開示するという二重の意味において、撫子と姫裏の対話をビジネスライクな交渉に仕立て上げる重要な一手だ。

しかしながら、撫子の選択に注目したとき、対話は件の契約によってビジネスライクな性質を強めているばかりではなく、より親密な間柄でのおしゃべりとしての性質をも強めている。というのは、姫裏から『姫裏の特殊能力の内容を確認するためにも、これこれこういう契約を交わしましょう』というまるで信頼に足らない提案を受けた撫子が、ほいほいとその提案に乗って契約を結んでしまっているからだ。この撫子の判断は、姫裏が能力を開示する以前から姫裏のことをある意味信用していなければできない判断(さもなくば不用意で無防備な判断)であり、撫子が、場合によっては姫裏に対して見返りを伴わない厚意を与える可能性もあることを示唆している*9*10

合理的な交渉の場としても、もっと親密に無根拠に相手の厚意を期待する場としても、あなたとの対話を始める用意がこちらにはある……そんな余裕をアピールするように、撫子は家族の食卓に姫裏を誘う。食卓に並んでいるのは撫子特製のカレーだ。そのカレーは、ジュスティーヌの手料理が『仕事で作ってる割に素人臭い味』なのとは真逆で、『家庭料理らしい節約志向のくせに洗練された味』をした奇妙な一品であるために、ビジネスの場としても家族の憩いの場としてもその場を演出できる。

撫子が両義的に演出したこの場・この食卓に姫裏が座るということは、撫子が提供するような両義性を姫裏も受け入れて演じるということだ。その選択がどの程度姫裏の好みに合ったものだったかは定かではないが、ともかく姫裏は誘いに応じて、セールスマンであると同時に櫻家の客人でもあるという二重の立場を演じる。姫裏は客人でもあるので、対話にあっては自身が提供できるメリットを話すばかりではなく、セールスにはさほど関係のない自身の弱みについてもポロリとこぼす。例えば両親を早くに亡くしていることであるとか……(本当のところ姫裏がどう思っているかはともかく、一般論としてはその経歴は弱みと捉えられがちである)。

単にビジネスであることを越え、よりプライベートな話題も登場しうる彼女たちの対話は、当然、カレーを食べ終わって食後のコーヒーが出てきてもまだ続く。姫裏は話が本題に近づくと、発言の途中でおもむろにコーヒーを飲んで対話のテンポを整える、おそらくは意図的に。すると撫子は、そのコーヒーを飲む動作が意図的なテクニックであることをあけすけに指摘してしまう。姫裏もこれがテクニックであることを即座に認める*11

このように、テクニックがテクニックであることを暴露してその場の公然な認識にしてしまうという行為は、なんというか……見ていて、非常にほほえましい。以下に述べるのは私の個人的経験にだけもとづく邪推だ。きっと、対話のテクニックをテクニックとして理解したいと考えたことがある多くのひとは『テクニックがテクニックであることを暴露するという一段階メタなテクニックがあり、このメタなテクニックによってひとはより大きなイニシアチブを握れるのではないか』と妄想したことがあるだろう。しかしこのメタなテクニック、よくよく考えてみれば、対話中に本題から脱線することを前提としているので、関係が薄い人との対話で用いようとしてもあまりいい印象を与えないというか、そんなに実践的ではない。むしろ、お互いの論調をよく知っている間柄のひととの対話でのみ使える、不必要な魅せプレイである……くらいの認識を持っているひとも多いだろう。だから、テクニックがテクニックであると暴露される一連の流れは、撫子や姫裏の話術の巧みさを表現するよりまず先に、撫子と姫裏はお互いに魅せプレイを披露できるくらいの関係であった、ということを表現しているのだ。その関係は、幸運によって結ばれた友人関係と表現しても、おそらく差し支えない。

 

さまざまなテクニックの応酬や噓偽りのない友情がみられたこの楽しい対話だが、終わりの時というのはやってくる。コーヒーを飲み終わり、セールスも不首尾に終わってしまえば、姫裏が櫻家にとどまっていられる理由はない。最後に姫裏は、それまでは両義的だったこの場のルールを、家族と客人との親密なやり取りの側からビジネスライクな交渉の側へと完全に倒すことを選ぶ。

姫裏は、手製のカレーをふるまってもらった“恩”をこの場できっちりと返済したい旨を告げる。ここで彼女が“恩”と呼んでいるのは、私がこれまで『完全な返済は不可能である』という意味で述べてきた恩と恩返しのことではなく、逆に『完全に返済できる可能性が常にある』という意味で述べてきた貸し借りのことだ。だから姫裏は、『あなたがたにカレーをふるまってもらったことは返済可能な貸し借りの一端であるし、ここで生まれた関係はここでチャラにすることができる』と櫻家に対して告げているのだ。

これは場合によっては非常に無礼なふるまいにあたるのだが、結局のところ、姫裏はそのふるまいを選ぶしかなかったし、撫子もこのふるまいを受け入れるしかなかった。なぜなら、姫裏が、あいまいさのない完全な貸し借りの関係からしか活力を得られない人種であることは、他ならぬ撫子の言葉によって確定してしまったのだから。曰く、“どうして随分歪んでいるのね”。

姫裏は自身の特殊能力をもう一度使って借りを返し、櫻家から去る。家から去るときは上がりこむときと違い、家人からの誘いを確認して敷居をまたぐ、という手続きは行われない。あとにはカーテンがはためくだけ。

 


うるユニ:麗華の家(?)のダイニングテーブル

うるユニの序盤、主人公の麗華は、何割かの必然と残り何割かの偶然によって、7年来会って話したかった相手である芽愛と再会し、その日のうちに夕飯に招くことになる。芽愛はその招きを受けて麗華の住んでいる家を訪れ、リビングで麗華の手料理を前にする。はたしてその料理は、芽愛が感じる限り“食欲をそそる匂い”だが“何とも微妙にまとまりがない”ものだった。

それもそのはず、そのテーブルにはそこにいる2人(+1人)では食べきれないほどの量の皿が出ているうえ、料理の品目は、ジャンルでいえば和食・洋食・中華のすべてが、カテゴリでいえば主食・主菜・副菜その他もろもろが、種々雑多に並んでいて統一感がない。そこに並んでいたのは、1人暮らしの女子高生の生活には馴染まない、コンセプト不明の料理の群れだったのだ。

その料理の群れがコンセプト不明のシロモノになるのも無理からぬことではあった。麗華は、芽愛と2人でテーブルを囲んでじっくりともてなすためにこの料理の群れを作ったのではなかったのだから。これらは近所の子供たちやその他の住人とともに楽しめるように作り置きしていたものであり、近所の子供たちが楽しめることを第一に調整されたメニューであったのだから、急遽この家を訪問することになった芽愛とともにこの料理の群れを囲んでも、場にチグハグな印象を残してしまうことは仕方がない。そして、こんな場違いな料理の群れなんかとは違う、麗華にとっての本命――真実、芽愛と2人きりでいただくために作ったデザート――は別にきちんと用意してあったわけなのだが、それをテーブルに乗せる前に麗華は重大なミスを犯す。

 

ミスの内容は単純で、単に麗華が芽愛に言うべきことを言わなかった、というそれだけのことだ。

これはうるユニという物語の核心も核心なのだが、作中で麗華が取り組むべき課題はすべて、『私はあなたのことが好きだがあなたは私のことを好き(になってくれる)か?』と一言たずねるだけで解決する。しかし、ただ一言たずねる、それだけのことを実行するまでに麗華はミスを犯すし、さらにそのミスから生まれた状況をおかしな方向に転がしていく。そうこうするうち、目先の課題が対話では決着がつかないものになりはじめ、バトルが避けられなくなってくる。バトル満載の青春物語が加速していく。

 

無責任な読者から言わせてもらうなら、麗華が課題を解決するために本当に必要なものはバトルではなく対話……いや、対話ですらなく、たった一言の適切な発言だ。麗華には彼方のように、対話に先立って前提を明確にして交渉の場を整える、なんて必要はないし、黒華のように、相手が容易には関係を切れないように対話の場でほんのささいな恩を売っておく、といった必要もない。マジでない。小手先の細工などなしにただ言うべきことを言えばそれで課題は解決だ。

それでも、その一言を言う前にミスを犯すのが麗華というひとだ。思うに、彼女は対話や発言が下手なのではなく、むしろ余計なテクニックを覚えすぎているのだ。彼女は対話や発言を有利に進めるためのテクニックをたくさん知っているから(そしてそれらのテクニックを習得してきた7年間に誇りを持っているから)、テクニックが必要ない場面であっても、少しでも不安があればテクニックを弄してしまう。だからクリティカルな一言を芽愛に伝える前に余計な“ゲーム”やらなにやらを始めてしまうし、芽愛のために作ったデザートを出す前にコンセプト不明の料理の群れを出してしまう。それら“ゲーム”や料理の群れが、どういう理由でテクニックたりうるのかを自慢げに解説しながら!

 

肝心なときに余計なテクニックを披露してはミスを犯す麗華の、いかに滑稽なことか。ただ、その滑稽さというのは、われわれのうち誰もが胸に覚えがある痛々しい記憶としての滑稽さだ。若い頃は誰しもこういうミスを犯すものだし、年をとってもやはり、こういうミスを犯してしまうときはある。べつに犯す頻度が減っているわけでもない気がする。増えている気がしないでもない。結局は若さの問題でもないのか? われわれはどうすればいい? 私は? どうすればいい?

 

もちろん、つぶしのきく答えはここにはない。仮に麗華がうるユニの終盤でミスを取り返すためのソリューションをつかんだとして、うるユニを読む私に直接的で具体的なソリューションが与えられるわけではない。別のテーブルで起こっている課題は、私の目の前のテーブルで起こっている課題と多少似ていて参考になったとしても、やはり別の課題なのだから。

 

今日もたくさんのテーブルの上にたくさんの課題やたくさんの料理が山積みになっている。それぞれのテーブルをそれぞれ別の人びとが囲んでいて、対話を行ったり行わなかったりしながら目の前の課題や料理に向き合っている。私はそんな複数のテーブルを横目に見ながら、今日も自分のテーブルで、自分の課題や自分の料理をやっつけようと努力している。あなたもそうであるように。

 

 

*1:9割といったのは盛りで本当は6割くらい[要出典]。彼方がする残り4割の対話には𠮟責とか睦言とか質疑応答とかが含まれているが、これらの対話をしてるときの彼方はあまり巧くないので今回は深く立ち入らない。

*2:ここで“アスペ”というラベルを実在・非実在の人びとに貼りつけることは三重の意味でインコレクトであり、私にはその免罪を願う気もないのだが、このラベルを使うことがいったいどのような意味でインコレクトだと私は思っているのか、ここに書いておく必要があるだろう。それがインコレクトである理由は、第一に、ネガティブな意味でこのラベリングを行うことで、アスペルガー症候群などの名前で名指される実在の障害を抱える人びとに対する疎外・差別を助長しうるからである。第二に、十分な知識と一貫した判断基準なく実在の障害(を想起させる)ラベルを使うことで、医学的に誤った判断が行われてしまうからである。第三に、(とくに精神医学系の)障害という概念は、障害を抱える人々やその周りの人びとが日々対処している困難が少しでも合理化されて楽なものになるように利用されてきた概念であり、とくだんの困難にさらされていない人びとが実在の障害(を想起させる)ラベルを使うことは、“障害”概念の本来の効用を阻害してしまう可能性が高いからである。

*3:スペックにおいてはまったく似ていない、残念なことに。

*4:博士の名誉のために付言しておくと、博士も、人間のなかにはもっと具体的なメリットに基づいて動くひともいる、ということをまったく想定していないわけではない。ただ、想定したところで出てくるのが「(あなたにとってのメリットは)金か? 飯か?」という言葉であるくらいなので、どうも想像力が足りていない。

*5:貸し借りを行う主体にとっての返済可能性の有無を別にしても、値段が付く貸し借りというのが値段がつかない恩義に比べて優れているであろうポイントは他にある。それは例えば、メリット・デメリットを享受する主体を適切な人物まで適宜交代できるという点だ。件の交渉の場で、椿は遊希に対して食事をおごっているお金が管理局の経費で落ちるであろうことを示唆していた。このように、遊希に食事をおごるという行為のコストを支払う主体を椿という個人から管理局という法人へと交代しているのは、まずまず妥当な判断だろう。なぜなら、椿個人にとっては遊希に対して食事をおごる動機がいまいち薄弱であるために、椿個人が遊希に食事をおごってしまうと、それは貸し借りというよりかは一方的に恩を売る行為に近くなってしまうからである。遊希(あるいはその代理人)からの返済を受けるであろう人物が、椿という個人から管理局という法人へと再設定されることではじめて、この貸し借りが何らかのメリット・デメリットを企図して行われたものであると理解しやすくなるのだ。

*6:彼方のような、人間関係と厚意の多寡に関する想定が簡単に振り切れるキャラクターとして、他にすめうじの黒華やにはりがの穏乃などが存在している。彼女たちの存在は、ある意味でLW作品の一貫した作風を形作っているように私には感じられる。

*7:それは白花が無私の厚意を持てないからではなく、厚意の有無などに関係なくおのずから無私であったからであるのだが。

*8:これはまるで余談だが、涼くんというキャラクターがにはりがの劇中で担っている面白さは、『アベンジャーズ』(2012)のなかでロキが担っている面白さに少し似ている。涼くんが劇中でしている行動、ひとつひとつをとってみれば、どれも策謀家キャラの行動としてまあまあ妥当と言えるぐらいには頭いいのだが、涼くん以外の登場人物が強キャラすぎて相対的にめちゃめちゃ小物に見えてくる。そんじょそこらの策謀家は、魔境にあっては道化にならざるを得ない。

*9:ただ、もう少し細かいことを言えば、撫子の判断もフツーに世間一般のビジネスライクな交渉の域を出ていない、という見方はできる。なぜなら、『仮にどれほどビジネスライクで合理的な交渉を志向したとしても、その交渉を開始する瞬間だけは相手に根拠なき信頼を寄せなければならない』という説は一般論として提示可能であり、その説に従えば撫子の判断も、交渉の場を交渉の場として成立させるために必要最低限のコストを払ったに過ぎない、と理解できるからだ。

*10:これは本筋にあまり関係ない話なので註にまわすが、姫裏のまるで信頼に足らない提案に撫子が乗ることは、客観的に見ればかなり不用意で無防備な行動だが、おそらく撫子の主観から見ればそこまで不用意で無防備なものではないのだろう。というのも、撫子には『ひとがついた噓を見抜ける』という特殊能力があるので。撫子の能力をもってすれば、姫裏の提案はわりと額面通りの提案であり、裏に陰謀などがあるわけではない、ということを確証できる。姫裏の言葉を信用して提案を受けてしまってもそう大きな危険はない。

*11:実はあのジュリエットも、発言の途中で飲食を挟むというテクニックを使ったことがある。が、その行為を間近に見た白花は、それがテクニックであるとあえて指摘するほど粋でも野暮でもなかった。