プリキュアはとくに新しくなかったかもしれないが、俺の頭は古かった

 

negishiso.hatenablog.com

以下の文章は、上掲した記事をいくぶんか意識して書いたものだ。しかし、内容的つながりはそんなにないので、上掲記事を読んでいても読んでいなくても、私のこの記事の理解にそう変わりはない(と思う)。

 

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私にとって、よい作品とは遠くに輝く星であって、私自身の人生に直接的なアドバイスを与える指南書ではない。だから、私が特別に愛着を寄せる作品について顕彰しようとするとき、顕彰する言葉の中に“現に生きる私”という項が含まれることはあまり好ましい事態ではない。

しかしながら、ときに、作品について語るとき“私”の存在がどうしても絡みついてくるといったような事態はあるもので、今回のヒープリ42話もそうだった。

 

作品の新しさよりも、自分の古さが気にかかる。

 

「ヒーリングっど♥プリキュア!」あらすじ

地球をむしばむ病原菌のような生きものの集団「ビョーゲンズ」。彼らは地球に暮らす生きものや自然界の精霊に感染し、苦しめ、環境を悪化させる。

地球の環境をむしばんで自分たちが過ごしやすい環境にして移り住もうともくろんだビョーゲンズは、キングビョーゲンを中心として何度か地球を襲撃するが、地球を治療する医者である妖精の集団「ヒーリングアニマル」に阻まれてきた。

あるときの襲撃で、女王をはじめとしたヒーリングアニマルの主要部隊が傷つき倒れ、ビョーゲンズの地球への本格進行が開始。見習いゆえ前線にいなかったラビリンはじめ3人のヒーリングアニマルが、伝説の戦士「プリキュア」とパートナーになって状況を打開するために地球に旅立つ。

それぞれの縁でパートナーをみつけたラビリン達と、見出された花寺のどか達はプリキュアとなって戦う。

途中、のどかが長年苦しめられた病気が実はビョーゲンズの感染によるものであり、ビョーゲンズの一員ダルイゼンはのどかを宿主として育っていたことが判明する。

やがて、キングビョーゲンとの最終決戦がはじまる。

41話「すこやか市の危機!! 忍びよるキングの影」あらすじ

39話で倒されたと思われたキングビョーゲンは実は生きており、部下を吸収してより強大に復活を遂げた。

プリキュアはキングビョーゲンの繰り出す怪物たちと戦うことになる。その戦いには勝利を収めたプリキュアだったが、キングビョーゲンはいつの間にか姿を消し、脅威は残ったままその日を終えることになる。

一度家に帰ったプリキュアたちは、帰りが遅くなっていた自分を心配していた家族に対面し、申し訳なく思う。

翌日、のどかとラビリンは森で傷ついたダルイゼンに遭遇した。キングビョーゲンは、忠誠心が薄い幹部であるダルイゼンを排除し、自信を強化するためにダルイゼンに融合を迫ったのであり、ダルイゼンはそこから命からがら逃げてきたのだった。ダルイゼンはかつてのように自身をのどかの体内に住まわせてくれと頼むが、のどかは答えに窮し、ダルイゼンの手を払いのけて逃げてしまう。

42話「のどかの選択! 守らなきゃいけないもの」あらすじ

ダルイゼンの頼みを拒絶したことで、のどかは自分を責め、食欲をなくしたり日常でミスを重ねたりする。かつて、「自分だけがよければ何をしてもいいのか」とダルイゼンを批判したこともあるのどかにとっては、病気の恐ろしさのためにダルイゼンを拒絶したことは自分勝手だと思われ、罪の意識に苦しむことになる。

事情を知るラビリンは強い口調で「のどかは自分が苦しまないことを第一に考えていい。いままで自分を苦しめてきた人を、さらに苦しんでまで救う義務はないのでは」とはげました。

やがて、ダルイゼンは追いつめられ、怪物と化して暴れだす。対峙したプリキュアは「あなたを救うためには自分が多大な苦痛を背負うことになるうえ、あなたを救うとまた他のだれかを苦しめる公算が高い」とはっきりとダルイゼンを拒絶し、戦って浄化する。

浄化されて元の姿に戻ったダルイゼンはキングビョーゲンに吸収され、キングビョーゲンはさらなる強化を遂げるのだった。

 

感想

私の場合、観終わってから(というか観ながら)すぐに思ったのは、「この展開は新しいな」という新鮮な驚きではなくて、「俺の……俺の頭が……古かったか……」という苦い感覚だった。

 

私は、42話のクライマックスでのどかさん達が結論を出すまでずっと「まあダルイゼンを助けるだろうな」と信じて疑わなかったし、42話で出した結論が意外だったのみならず、41話でのどかさんが即座に助けなかっただけでもう完全に予想外だった。

しかしながら、のどかさんが「ダルイゼンを助けない」という選択を表明した瞬間、その選択は、私の倫理観とも作品がかたどってきた倫理観とも矛盾してはいなかった。より乱暴に言うなら、のどかさん達の選択は何も間違っていなかった(と私には感じられた)。「ダルイゼンを助ける」という選択のみを期待していた(助ける選択しか見えていなかった)私はまさしく、のどかさんに、ラビリンに、する必要のない無茶を強いていたわけで、非常に申し訳ない気持ちを感じた。

 

(ここはこの文章の意図からすると余談にあたるのだが、私は42話の最大の焦点は「苦難の中にある悪人を助けるべきか否か」ではなく「過大な自己犠牲を払ってなにかを助けることができるひと(他者であれ、自分自身であれ)に対して、どのような態度で接するのか」というところにあると思っている。つまりは、のどかさんがダルイゼンに対してかける言葉よりも、ラビリンがのどかさんにかける言葉、またのどかさん自身がのどかさんにかける言葉が重要であるということだ。

のどかさんは、本当に苦しんでいるダルイゼンを前にして、「自分はダルイゼンを助けるべきか否か」という問いにからめとられて、「助けるためのコストは過大ではないか」という問いまで発想を進められなかった(コストが大きいということを理解して恐怖したが、コストが大きいために義務の埒外であるとは考えなかった)。「助ける」という元来積極的な行為が、制度化されることによって消極的な義務に転化してしまうということ、これは古今東西のヒーローヒロインがかかえる重大なジレンマのひとつだ。対して、のどかさんを信頼し愛しているパートナーであるラビリンは「のどかさんがダルイゼンを助けるためのコストは過大ではないか」という発想に至ることができ、なおかつのどかさんに対して「あなたはあなたを第一に考えていい」という無条件の承認を与えることができた。そこからなされた件の選択は、まさしく、2人の選択 / 2人だからできた選択であって、バディものとしてのヒープリの極点であったと思う。

これはもっと余談だが、ヒープリはバディものとしてとにかく優秀だった。4組のコンビが4種類の仕方で結んできた友誼が、どれほど私を楽しませてきたことか!)

 

重大な決断を迫られたのどかさん達を目にして、「ダルイゼンを助けるべきか否か」だけに注目して「彼を助けるかどうか選ぶのどかさん」に目を向けられなかった私は、視野が狭い。そして、「助けるべきだ」と考えて結論を予想するどころか、「助けるんだろうな。プリキュアだし」と考えを硬直させていた私は、救いようもなく古い。

そう、古いのだ。思えばこんなことは、前にもあったはずなのに。

ハピネスチャージプリキュア!』の製作にあたっては、(pixiv百科事典の記述を信じるなら)『アガペーしか知らなかった、アンバランスだった少女がエロースを知る』という射程が存在していたはずだ。そしてのその展開は『アガペーの無制限な拡大がストレートに称揚されること』への危惧から要請されたものであったはずだ……。

いかにプリキュアが無垢な少女であるとはいっても、いや、無垢な少女であるからこそ、われわれ大人は彼女たちに「無垢にして無制限な善性」などといったものを一方的に期待してはいけない。彼女たちはきっと応えてくれるだろうから。そして、われわれの(けっして目には見えないが)すぐ隣でプリキュアを観ている現実の少女たちに、大人の一方的な期待が届くことなどはゆめゆめあってはならない。私は、どの世代の少女にも(少年にも)、自分のうえだけに輝く星としてプリキュアを観てほしいのだから。プリキュアを教科書なんかにしてたまるものか。

 

(これまた余談だが、プリキュアの内容の道徳性について少しばかり思うところを述べておく。

私は、ある物語が「ひとは○○すべき / ○○すべきでない」といった直接的なメッセージであろうとすることには強い忌避感を感じる。ありていに言えば、ほとんどすべての教訓話は私の嫌うところだ。教訓話を書く作者は(より正確に言えば、「物語を実際的直接的アドバイスとして構成しうると考えている作者は」)、キャラクターという実存を作者の思惑を満たす道具扱いするのに満足している、下らない作者だ。

しかしながら、教訓話とよく似た状態として、「作者が、作品を観る視聴者のその後の人生に深い配慮を寄せたうえで物語にいくつかの制約を設ける」ということは、私が心から喜ばしく思うところである。具体的には、プリキュア製作者が、若い視聴者が不健全な憧れを持つことがないように周到なルール作りを行っていることがこれにあたる。

例えば、プリキュアにおいては、嫌いな食べ物・食べられない食べ物がある登場人物は非常に少なく、嫌いな食べ物がある場合はその○○嫌いを克服するエピソードが必ず描かれる。また、プリキュアは食いしん坊キャラがやたら多く、ダイエットのために食べ物を残すような場面を描くことは慎重に避けられる。ここには、プリキュアを観ている子どもたちが「ははーんなんだかんだ理由つけて食べ物残すのがカッコイイ大人なんだな」と思うことを防ぐ明確な狙いがある。

例えば、プリキュアにおいては、(前後編の前編など)敗北や危機的状況のまま終了する回の前半部に強めのギャグパートが挿入されがちという構成上の特徴がある。これは、(おそらく)それぞれの回をかけがえのない1回として観る子どもたちが、完全に後味が悪いまま1週間を待つことがないようにするための配慮である。こういった配慮は、録画して一気に観るなんてことを日常的に行うオタクにはなかなか想像しづらいところであるが、しかし大事な配慮だ(そして、長編ストーリーのダイナミズムとギャグパートの挿入とは、実は容易に共存しうるものであると知らないオタクは多い)。

プリキュアには、物語上では無論語られず、しかし製作者は明確に意識している、無数のルールがある。それらルールは全て若い視聴者への配慮として成り立ってきたものである(定説では、こうしたルールは製作者の内部文書として実在しているとされている)。こうした配慮が、私には自分ごとのように嬉しい。もちろん、大人が決めたルールが次世代によって無批判に繰り返され続けることは怖ろしくはあるが、そうした危惧は、配慮の尊さを根本から損なうものではありえない。

また、作劇において、「制約」は必ずしも創造性を阻害するものでない、むしろ創造性を増幅させることすらある、ということについては、ここでは詳しく述べない)

 

大人は子どもに身勝手な期待をしてはいけない。無制限な愛などを期待するためだけにプリキュアを観てはいけない。

『HUGっと! プリキュア』を観たときも、私は学んだはずだろう? あれは、「大人がゆがめた未来を子どもがしりぬぐいする話、そして未来をゆがめてきた大人が子どものおかげで希望(という能力)を取り戻しすらする話」だった……少なくとも私にはそう見えた……。『HUGっと! プリキュア』を観ながら、私は「大人の一人としてふがいない」と思ったのではなかったのか? 「大人の事情に関係なく、もっと自分のためだけに夢を探す野乃はなさんを観たかった」と思ったのではなかったのか?

 

しかし、「大人」? 私は、プリキュアのいち視聴者であることを負うとき、同時に「大人」であることを負うというのか?

おそらくそうなのだろう……。いつからそうなってしまったのかわからないが、私はもはや、「大人の一人として」プリキュアを観るということから逃れられない。

かつて、私は「大人」とは能力であり、自分ではとうぶん手に入れられないものだと思っていたし、できれば一生距離をとっていたいとも思っていた。いや、今でも「大人」にはなりたくないと安い願望は抱き続けているが……。

しかし、「大人」とは実は能力ではなくて。今までと同じ、何もできない自分のまま、「大人」という呪いは課せられる。気づかないうちに。そしてその呪いをかけるのは、(かつて予想していたように、「社会」や「大人の先達」ではなくて)自分自身だったのだ。俺にははぐプリはああいう話だとしか思えなかったんだろ?

いまや、大人の一人としてプリキュアと向き合うことから逃れられない私は、せめて身勝手な期待で子どもを縛る大人にはならないように日々努めなければならない。私に許されている期待とは、より広い射程を持った「子どもたちに子どもたち自身のことだけを考えていてほしい」という期待だ。これもまた、究極的には身勝手な期待に過ぎないのかもしれないが。

 

古くなってはいけない。すでに学んだことを忘れるな。広く、遠く、期待せよ(期待するな)。遠く輝く星に憧れるのならば……。