じゃがいも警察って違法になったんですか?

オタクのコミュニティのなかには、いつだって正当な戦いと不当な争いがある。それは男でも女でも変わらない。

どちらがオタクとしてより上のランクにいるのか、オタクは常に戦う。その尺度がコミュニティで重視される徳目であったならば、その戦いは正当なものとなる。オタク女ならば、どちらがより深い愛を持っているのかをお互いに誇ること、オタク男ならば、どちらがより多くの知識と経験を持っているかを競うこと、これらは正当な戦いであって、常に熾烈な競争を生み、そしてオタク同士の敵意にはつながらないものであった。これがオタクの理想的な在り方だ(かつてこのようなコミュニティが実在したことこそなかったが、つねにオタクの理想として存在はしていた)。

 

と、思っていたけれど。「オタク男の徳目は知識と経験」なんて考え方は、すっかり旧くなってしまったか、あるいは最初から私の偏見にすぎなかったのかもしれない。

 

そう思い始めたのは、「弓道警察」「じゃがいも警察」等々の警察シリーズについての最近の記事を読んでからだ。

https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/39227.html

https://dic.pixiv.net/a/%E5%BC%93%E9%81%93%E8%AD%A6%E5%AF%9F

実在するにせよ、しないにせよ……警察行為っていつからこんな大罪になったの? 昔からそうだった? そう、それは……ごめん……。

 

私は元来、「警察行為」は「批評」や「分析」や「批判」とならぶオタクの基本的なパフォーマンスのひとつであって、なおかつそれが本気の作品非難や好悪の表明にはあたらないものだと認識してきた。多少皮肉っぽい言い回しになったとしても、それは根本的には愛すべきパフォーマンスだ。なぜならば、オタクの徳目は知識と経験なのだから。「○○警察」が実在するにせよ、実在しないにせよ、それは愛すべき連中なのだ。

昔のオタクたちも、どちらかといえば私と似た考え方をしていたように思う(実証するのがかなり難しい憶測)。「警察行為」はみんなして当然だし、されて傷つく要素もないのだ、と。

ところが、最近のオタクは変わってきた(あるいは、最初からそうだったけど私の見方が変わってきた)。いまでは「警察行為」は非難かあるいは非難より質の悪い嫌がらせだという考え方のほうが優勢だ(ぱっと見た感じ)。「○○警察」は、それが実在するにせよ実在しないにせよ、オタクコミュニティの敵だとみなされるようになってしまった。「○○警察」がいる限り、門戸開放というコミュニティの「共益」は果たされえないのだ。

オタクが考え方を変えたこと、これ自体はいいこと/悪いことではないだろう。ひょっとすると、オタクコミュニティはよりまっとうな考え方の方へ向かっているという可能性もある。

ここで困ってしまうのは、俺みたいな旧いタイプのオタクだけだ。くそ、やっぱりオタクは長生きするもんじゃねえ……。

 

警察行為がギャグになる時代と界隈

https://togetter.com/li/1018698

警察行為は当たり前のことだと思って育ったオタク(つまり私だ)にとっては、私が設定の正誤・整合性の観点から過度なツッコミを入れることは、ギャグとしてやっているつもりだし、ギャグとして受け取られて欲しいと思っている。私が「それは科学的にあり得ませんねえ」とか「それは文化人類学的に不自然ですねえ」とか言ったとして、言われた側はそれを真面目にとらえて落ち込んだりしないでほしいし、へこへこされても逆に私が困るってものだ。

しかし、ある行為がハラスメントか否かというのは、常に受けた側が決めることだ。私がいかにギャグのつもりでも、それを言われた側がハラスメントとして受け取るなら、私はそれを言うことをどう頑張っても正当化できない。警察行為はもはや許されない。困った。

 

警察行為が違法であることがはっきりしても、なお、私は警察行為を完全には手放せないでいる。警察行為がオタクにとって本質的な行動の一つだと認めたい気持ちがある。

それは、警察行為が比較的オタクの本質に合致していた時代や界隈がどこかには存在しているということだろう。

それはいつ、どこなのか。

警察行為がオタクの基本行動として成り立ちうるのは、作品として「これが正しい」「これが間違っている」という尺度を示しやすく否定しやすい場合だ*1

時代で言えば、昔なら昔なほど、警察行為は成り立ちうる。

界隈で言えば、第一にはSF要素が強い作品、第二にはブランクのある長期シリーズほど、警察行為は成り立ちうる。

以上3つの条件からすれば、警察行為が成り立ちやすい作品というものが見えてくる。SF要素が強い、という条件に合致するのは、例えば『宇宙戦艦ヤマト』のような作品を想定すればよい。ブランクのある長期シリーズというなら、『ウルトラシリーズ』が適当だろう。そして、すべての条件に合致するのは、『ガンダムシリーズ』とか『ゴジラシリーズ』ということになる……。

なんてこった。私が小学生の頃に夢中になっていたのは、ウルトラマンガンダムじゃないか……*2*3

 

警察行為は「俺ルール」の押し付けじゃない……原理的には

私は、オタクたちが「みんなで楽しく警察行為」をする未来を、どうしても捨てきれない。ここでは、無謀ながら、“正しい”警察行為と“誤った”警察行為があるのだ、と主張してみよう。

 

“誤った”警察行為とはーーこのような警察行為の存在こそ、警察行為が親の仇のように憎まれてしまう最大の原因なのだがーーフィクション作品の、それ自体自由であるべき領域に対して、観る人が勝手に「俺ルール」を押しつけて「それは間違いだ」というような場合だ。「この世界ではビーム兵器より実弾の方が強いです」というルールを明確に提示している作品に対して「いやビーム兵器が実弾より弱いとかありえないから」と言ってみたり、「この世界には魔法があります」という作品に対して「魔法とかwwバロスwww」と言ってみたりすることは、明確な侵犯であって、これが許される環境はどの時代にも界隈にもありはしない。

一方、“正しい”警察行為とは、フィクション作品の作者が、彼自身提示した「作品ルール」とそれ自身自己矛盾を起こしているような場合に行われる。「この世界ではビーム兵器が実弾より弱いです」と同時に「この世界でビーム兵器が発展したのは実弾より強かったからです」などと言っているような作品に対しては、僭越ながら「は?」と言わせていただくことが許されるだろうし、「魔法があります」と言った1週間後には「魔法なんてあるわけないじゃん」と言い始めるような作品に対しても、「お前は何を言っているんだ」と言うことが可能になるだろう。

そしてーーここには慎重にならなければいけないーー「作品ルール」と呼ばれるものは、作品がルールを明言している範囲にのみ広がっていて、明言していない範囲には広がっていない、のではない。「作品ルール」が広がる範囲というのは、作品がある物語を語るうえで過不足ない範囲である。「作品ルール」が広がっていない領域に関しては、作品の設定は「現実世界と差がない」かせいぜい「普通である」ことを求められる。だから、ある作品が、物語にとって不可欠でない領域ーー「作品ルール」が広がっているわけがない領域ーーについてまるで普通でないことを行っていたら、それもまた自己矛盾であり、“正しい”警察行為の対象となる。例えば、人間の足の指の本数が別段問題とならないような現実準拠の世界観において、唐突に「この世界では人間の足の指はみな8本である」とか言うようなことだ。

現代において、“正しい”警察行為の例を見せてくれるのは、『ガンダムビルドダイバーズ』のシャフリヤールさんだ。第5話において、シャフリヤールさんは、コンセプト抜きにやたらめったら武装をのっけるだけの“カスタム”を施されたザムドラーグについて、これを「美しさの欠片もない」と批判する。ひょっとするとこれは、シャフリヤールさんが「モビルスーツは兵器なのだからデフォルトで過積載はあり得ない」というように「俺ルール」を振り回しているという状況なのだろうか。実はそうではないことは、(ザムドラーグより前の)別のシーンを観ることで明らかになる。シャフリヤールさん自身が、プチッガイを愛情込めて作っており、シャフリヤールさんが単なる一元的な俺ルール「モビルスーツはこうあるべき論」を振り回しているわけではないことがわかるのだ。ザムドラーグが批判されたのは、私の言い方で言えば、ザムドラーグ自身に物語が感じられない(作品ルールをミニマムな領域にしか展開していない)*4のに対し、作品ルールをはみ出す形で不合理な設計をとっていることが、完全な自己矛盾を呈していたのだ。これを自己矛盾として非難するのは、“正しい”警察行為なのである*5

私がこんな風に「“正しい”警察行為はある」と主張すると、このような反論が返ってくるだろう。「物語を語るうえで過不足ない範囲を勝手に決めることこそ、俺ルールを振り回しているということではないのか」と。「物語を語るうえで過不足ない範囲は、複数のオタクの間で一致すると言い切れるのか」と。

確かにそうかもしれない。物語に対して設定が、設定に対して物語が、どの程度の濃度で存在すべきなのか、という問題に対しては、様々な意見がありうる(←マクガフィンとチェーホフの銃)。「作品ルール」の適用範囲はオタク同士で一致すると考えるのはナイーブな見方なのかもしれない。

しかし、「なぜ、あるオタクが、他のオタクと作品ルールの適用範囲について一致すると言い切れるのか」と問われたならば、私はこう返したい。「いや、それが一致する人たちを、私たちはオタクというのだよ」と。シャフリヤールさんの「プチッガイはアリで、ザムドラーグはナシ」という判定に、完全に公平な形で根拠を与えることはできない。でも、あの世界のオタクたちには「なぜか」その判定は了解可能なこととして映った。この「結局は説明できない、匂いで嗅ぎ分ける同族感」にこそ、「オタクかオタクでないか」を、私は託したいと思うのだ。

*1:それは、その作品の界隈は保守派(ここでは、オタクとして、作品解釈や作品評価に対して保守的という意味)が先鋭化しやすいということでもある。

*2:ここまでの論の展開からすると、ウルトラマン界隈とガノタ界隈では、警察行為は比較的許されうる、ということにもなりかねない。しかし、実際のところ、ウルトラマン界隈もガノタ界隈も、極端な保守派は昔と比べてめっきり減ったものだ。あなたがこれから両界隈に突撃してSF警察なりミリタリー警察なりをしたところで、それがギャグとして受け取ってもらえる可能性はそう高くない。

*3:この文章では、一次創作に対して行う警察行為と二次創作に対して行う警察行為を区別することを意図的に避けているが、この区別は無視できないはずだ、という意見もあるだろう。二次創作に対して行う警察行為はオタク同士のやり取りとしてギャグになるだろうけど、一次創作に対して行う警察行為はギャグにならないのでは、と。あるいはその逆で、一次創作に対する警察行為は、作品の今後の展開への実際的影響につながるわけがないからギャグになるだろうけど、二次創作に対する警察行為は、あまりにも容易に作品本体に影響するからギャグにならない、と。これら2つの意見は、どちらも、観る側と作る側との関係に関連した問題であるようだ。→高度に商業化したコンテンツが行き着くところは本当に悪夢だけなのか?

*4:メタ的にはすごく物語を感じられるデザインになっちゃってたけど、それはアニメ制作側のミスというものだ。

*5:本当は、劇中でシャフリヤールさんがザムドラーグに対して行っていた批判は私の論理とは様相が異なる。彼は、物語が感じられないことそれ自体を批判の対象としていた。本文では論理の流れを優先してシャフリヤールさんとは違うことを言ってしまった。