なおも戦線に異常者あり

前回:私がやるアイ・シュート

 

1

天上界セレスティアルワールドの一隅に作られた7つの半独立空間チャンネルも、そのうちの6つは昨日までにその主を失った。いまも主を失っていないのは、もっとも小規模でもっとも殺風景な空間である、ニースの半独立空間だけだ。

そこには、7日前、“新人”空水彼方がゲリラ配信を開始したあのときと変わらず、雲一つない青空と白茶けた砂地が広がっている。真っ平らな地面のうえで目立ったものと言えば、配信用モノリスが一組置かれているくらいだ。いま、ニースはそのモノリスの机面に便箋の束を広げて、愛用の羽ペンで黙々と書きものをしている。

この便箋の束、奇妙なことに、一枚々々がそれ自体虹色に発光している。いや、もはやその特徴を奇妙とは言えないか。なんのことはなく、その便箋はニースが一昨日会ったときに空水此岸から分けてもらった世界便セグメントなのだった。

 

ニースがペンを走らせている背後で、やにわに一陣の風が吹き、うるふ老師が現れる。転移魔法でこの半独立空間を訪れたのだ。ニースはこの来客を気にも留めずに、目の前の便箋に集中し続ける。うるふ老師は、無言のまま、ニースの頭の横からニースが書いている文面を覗き込む。大味にセットされている老師の髪が1、2本ニースの頬をくすぐり、彼女を少し不安な気分にさせる。3分ほどもそのままの体勢で文章を書き続けたあと、ニースはようやくペンを置いて、老師に話しかけた。

 

「どう思いますか」

「どう、って?」

「この、私の文章です。よい文章だといえるでしょうか」

「それは、目的にかなった文章かどうかってえことかね? そりゃまあ、君がどういう意図でその文章を書いているのかによるだろうけども」

「老師は、どういう意図を感じますか」

「そりゃあ全文を読んでみんことにゃあわからんわね」

「そうですか」

 

ニースはそれだけ言って、またペンを手に取ろうとする。彼女は早いうちに目の前の文章を完成させたいのだ。一方のうるふ老師は、ニースに構ってほしくてしょうがないようで、ニースの手の先から羽ペンをかすめ取ると、くるくると指先でもてあそびながらニースに尋ねる。

 

「ねえねえニースちゃん、この私、うるふ老師に何か言いたいことない?」

 

ニースは真顔のまま首をひねり、数秒ののち言う。

 

「……今日は何しに来たんですか?」

「なんだ君冷たいな。そういうのじゃなくてさ、『この前老師が爆速であげてくださった脚本、すごい面白かったです』とか、『筆は早かったですけど相応につまんなかったです』とか、感想が聞きたいんよな、正直に言うとさ」

「なるほど、それは思い至りませんでした」

「で、どうだったの? あの脚本。引退企画のやつ」

「老師の書いた脚本は、なんというか、とても……しっくりきました。私はまだ空水彼方と出会って間もないですけど、老師の脚本を読んでいると、そこに出てくる“空水彼方”はかなり彼女らしい彼女に思えました。ただひとつ、最終回でツバメに負けそうになって第2形態に変身するあたりとかはちょっと違和感ありましたけど、あれはそもそも――」

「君が『そうしてくれ』って言ったから加えた展開なんよね。うーんまーでもー、違和感を感じさせてしまったならそれは書き手の私の落ち度はあるな、今後の反省やね」

「ともかく、総じて納得感のある脚本でした。老師がきっちり脚本をあげてくださったおかげで、肝心の映像もちゃんと完成して、今日19時の最終回もすでに公開予約されています。公開されたら、出来を確認してくださると嬉しいですけど」

「うん、観るみる。ちょっと今日じゃないかもしれないけど、近いうち必ず観るわ」

「……なんか、老師は軽いですね」

「私の、ヘンに遠慮しすぎたりしないところ、君も好きでしょ?」

「否定はしません」

「くっくっく、素直な子だね君は」

 

老師はいったい何が愉快なのやら。ニースは表情を変えず、老師の手のなかのペンを指して言う。

 

「そろそろいいですか、書き物に戻っても? 昨日のツバメちゃんみたいに切羽詰まってはいませんが、これ、いちおう今日の17時が締め切りのやつなんです」

「だめだめ。私もニースちゃんに訊きたかったことあんのね」

「はあ」

「君さ、引退企画の脚本、君自身が書いてもよかっただろうに、なんで私に発注してくれたのかなーって私思っててさ。もちろん、私がプロの物書きで、なおかつノってるときは筆が早い、っていう理由もあるんだろうけど。でも、どっちかっていうと君、そういうの自分で書きたがるほうちゃう?」

「そうですね」

「なのに脚本を外部の私に発注したってことは、ニースちゃんは動画の監督とか、監督だけじゃないべつのことに時間を割かれてたんやろなって思っててね。その便箋とかもたぶん関係あるんでしょ。なに書いてんのか教えてくんない?」

「……」

「あ、べつにマジで時間がないとかだったら教えてくんなくてもいいっす。言うてそんなめっちゃ気になってるかと言えばそこまででもないから」

 

ニースはモノリスのうえの便箋の束に目を落とし、やや逡巡する。彼女は、自分がいまその文章を書いている意図が、いまひとつ成功の確証に欠けるある作戦のためであるということをまだ少し恥じている。だから、ひとにその文章の仔細を話してしまいたくない。しかし、もしもうるふ老師に仔細を話せば、ニースの狙いをよく理解したうえでなんらかのアドバイスをくれるという可能性も感じないではない。なんだかんだと言って、ニースにとってうるふ老師はArtisanアーチザンのなかでは一番話が合う大人なのだ。結局ニースは話すことにする。

 

「まあいいでしょう、お話しします」

「嬉しいね」

「お察しの通り、私はこれを書く時間が欲しかったので、脚本のほうは老師に発注しました。でも、これはべつに最初から筋道を立てて考えていたわけではないんです……」

 

2

空水彼方からの突然の宣戦布告により始まったこの7日間の戦いにおいて、ニースたち7人が当初から共有している最優先目標というのは、Celestiaセレスティアの視聴者がいる世界に空水彼方を到達させないこと、それのみだった。この目標の達成のため、彼女たちは大きく分けて三つの戦略をとってきた。一つ目は、空水彼方と戦うなかで空水彼方という存在が持つ能力や本質を探ること。二つ目は、各人なりの全力をもって空水彼方と戦うことで“Celestiaは勝ちに来ていない”という事実を空水彼方に悟らせないこと。そして三つ目は、視聴者たちの世界に、ニースたち7人の本当の闘いとは別の“Celestiaが空水彼方に辛くも勝利する”というストーリーを届けて、視聴者たちの世界で“ホンモノの空水彼方”を創造させないこと。

三つの戦略は、Celestiaメンバーの協力のおかげで、まずまず満足できる水準で進行してきた。まあ、“Celestiaは勝ちに来ていない”という事実が空水彼方にばれていないか、いくつか不安な場面がないわけではなかったが……。

しかし、ニースにはこれら三つの戦略だけで目的が本当に達成できるのか、確信がなかった。空水彼方を視聴者たちの世界へ侵攻させないためには、視聴者たちの世界で空水彼方が創造される要因を排除するだけではなく、空水彼方が次に訪れる場所をどこか別の世界に確定させる、そんなダメ押しをする必要があると彼女は感じていた。何かわからないそのダメ押しの手段のために、自分の時間を空けておきもした。

 

そんな折、ニースはアリアの半独立空間において空水此岸と遭遇する機会に恵まれた。この遭遇は実りの多いものとなった。まず、空水彼方と近しい存在である空水此岸と話すことで、“空水彼方”という貫世界存在の在り方、それもうるふ老師さえ知らなかった部分について新しい知見を得た。次に、世界を越えてメッセージを届け、なおかつ誤読も誤配も遅配も起こさない――と此岸が主張するところの――能力として例の虹色の便箋が存在することを知った。そして、空水此岸と交渉し、白紙の虹色の便箋をニースに渡し、また、ニースが虹色の便箋に書いた手紙を此岸の手で適当な世界に配達する、という約束を取り付けた。

 

いま、ニースは第四の戦略として次のようなことをもくろんでいる。ニースは、ニースたち7人が空水彼方と戦って敗北するという真実、その実際の経緯を、物語としてまとめ、虹色の便箋に書き記す。空水此岸は、ニースがこの物語を書いた手紙を、Celestiaの視聴者が存在しないどこかの世界に配達する。どこかの世界でその手紙を受け取ったひとは、ニースが書いた物語を一個の創作として理解することになる。つまり、その世界では、ニースたちが出会った“ホンモノの空水彼方”が物語として創造されることになる。このとき、空水彼方が天上界を滅ぼしたあとに訪れる世界としてふさわしい世界が少なくとも一つは生まれることになる。そうなれば、空水彼方は視聴者たちの世界ではなく、きっとその別の世界を訪れることになるだろう。いや、訪れると思いたい。この戦略がほんのダメ押しにすぎないとしても……。

 

事前の約束では、此岸は本日の17時にニースの半独立空間を訪れ、ニースが書いた手紙を回収していく手はずになっている。そのため、ニースは17時までに、7人の7日間の戦いの物語を便箋にまとめる必要があるのだった。

 

3

ニースの説明を聞いたうるふ老師は、羽ペンで自分のあごをさわさわとなでながら、小さく唸り声をあげる。

 

「うーむ……どうもあいまいな作戦だね。成否が確かめづらいというか」

「私らしくもなかったでしょうか?」

「いや、むしろ君らしいんじゃない? ほら、君はアドミンスキルだって、発動条件と効果範囲がおっそろしくあいまいで、7人のうちでも戦闘にはいちばん向いてないやつだったでしょ。そういう、何がしたいのかわからない感じこそがニースちゃんのニースちゃんらしさなんよな……」

「煽ってます?」

 

無表情でそう言い返すニースだったが、言葉の端にはどうにもまんざらではなさそうな感じがにじんでいる。

急に神妙な顔になったうるふ老師が、人差し指を立て、ニースに言う。

 

「ひとつ、でかい懸念がある」

「はい」

「それは、此岸ちゃん? とかいうひとの用意した便箋に、此岸ちゃんじゃないほかのひとが文章を書いてそれを此岸ちゃんが配達しても、世界便セグメントとしての効果は本当に発動するのか、っていうところ。話を聞く限り、空水彼方や此岸ちゃんの世界を越える能力はあくまでその子たち個人に由来してるっぽいんだわな。だから、ほかのひとが此岸ちゃんの便箋に何かを書きつけたとして、その便箋がいつも通りの世界便セグメントの効果を持つかどうかは非常に怪しい」

「此岸さんも、一般人が世界便セグメントを使えるかどうかは試したことがないからわからない、と言っていました」

「ほいで、もし世界便セグメントの効果がちゃんと発動しなかった場合はいろいろ厄介なことが起こりかねない。例えば、致命的な誤読……世界便セグメントを送ったさきの世界における文法規則がこことは根本的に異なってて、君が一生懸命書いた空水彼方勝利のストーリーが、まったく逆、空水彼方敗北のストーリーとして理解されてしまう、とか。あるいは、致命的な遅配……空水彼方が世界を転移するまでに世界便セグメントがどの世界にも届かない、とか」

「その懸念は私も考えました。だから、私が文面を書く必要があります」

「ほう?」

「老師もよくご存じの通り、私のアドミンスキル『双唱起句ディメンションキック』は、特定の事物に対して発動させると、その事物が作られた意図に沿って正しく効果を発揮できるように、その特性をブーストします」

「なるほど? だから君がこの半独立空間のなかでその便箋に書き込んだ言葉は、君がその言葉を書き込んだ意図通りにその効果を発揮する、ひいては世界便セグメントも、君の意図通りに機能する可能性が高まる、っていう計算なのね。いやはや」

「言われるまでもなく、あいまいな作戦です。あいまいなスキルに基づいていますから……。でも、いまの私に思いつくなかではいちばん期待できる作戦で、やってみない理由はない」

「まったく、こんな使いづらいスキルを持たせちゃって、産みの親の一人としては申し訳ない限りだね」

「老師ごとき●●●が謝ることではないです。老師にとっては、Celestiaメンバーの能力は老師が決めた設定かもしれませんが、私たちにとっては、自分の魔法はそれぞれがそれぞれの人生で選んで、研究・開発してきた魔法です。誇りこそすれ、後悔はありません」

「それでも、頭を痛めて産んだ子に対して一抹程度の憐れみは持っているのが現役ラノベ作家ってものよ」

「一抹しかないんですね」

「あーそれは作家によるかも」

「ともかく、憐れみついでにひとつお願いがあるんですが」

「私の世界にその手紙を持ち帰って読んでくれ、とか言わんよね?」

「それは言えませんね。この手紙は、届けたさきの世界を滅ぼす手紙、空水彼方を押しつける手紙になるはずですから。老師がふだんいる世界にもCelestiaの視聴者はいたはずです、犠牲になってもらうわけにはいきません」

「安心したわ。持ち帰って読めっていうんじゃないとすると、あとはあれだな、君は、ここで読んでいけって私にお願いしたいんだわな」

「その通りです」

「君が書いてる、Celestia引退の真実の物語、それがきちんと物語らしい物語になってるかどうか、私の査読が欲しい、とそういうことね。
よっしゃ、読むよ。そんで忌憚のない意見を述べさせてもらうよ」

「……ありがとうございます」

「そんな申し訳なさそうな顔しなさんな。これでも一種の親ではあるんだ、たまには躊躇なくお願いでも何でもすりゃあいいのよ」

 

それから2人は、17時までゆっくりと、Celestiaの物語を書き記し、推敲を重ねたのだった。

 

4

時刻は19時。ついに最後の戦いのときがやってくる。

ニースの半独立空間の全体には、昼間と全く同じ角度の陽光が降り注ぐ。そこはまるでふざけた作り物の世界で、太陽とされるものは空に張り付いた円いライトにすぎず、空とされるものは大地にかぶさった巨大なお椀上の物体にすぎず、大地とされるものは直径がたかだか2km程度の円形の範囲にすぎなかった。普段はその中心に鎮座している配信用モノリスさえもいまはどこかに片付けられていて、半独立空間の簡素さが際立っている。

 

そんな空間のどこかで、ニースはひとり息を整えている。不安がないわけではない。

Celestiaの真実の物語を手紙に書き記すうえで、書き記さなければならないことは大きく分けて二種類あった。一種類目は、Celestiaのメンバーのそれぞれが戦いの直前までに経験した数時間の出来事。これらは、ニースが打ち合わせの合間などにメンバー自身から直接聞いた話を中心にして構成することができた。二種類目は、Celestiaのメンバーがホンモノの空水彼方と戦っているそのときその場で起こっていた出来事。これらは、自分以外の6人が経験した戦いについては、ニースはその目で確かめた中継映像をもとにして、事後的に構成することができた。しかし、ニース自身の戦いについては、自分自身が戦いをはじめる前に、その戦いの経過をできるだけ正確に物語に起こす必要がある。ニースが戦い始める19時よりも前、17時には手紙を完成させなければならないからだ。

ニースは17時までに、自分の戦いの最後を含めたすべての経緯を手紙にきちんと書き記していた。つまり、ニースはこれから起こる戦いで、さきほど虹色の便箋に予言した通りの筋書きを再現しなければいけないということだ。それは生死を賭けた戦いにおいてはひときわ困難なことだったが、しかしできるとすればCelestiaの7人のなかではニースだけだった。大丈夫、私ならできる、いつもと同じことだ……とニースは自分に言い聞かせる。

 

この空間の無表情な大地の真ん中に立って、空水彼方は周囲の様子をうかがっている。時刻が19時なのは確かだが、ニースの姿は見当たらない。まさか、逃げたか? そんな可能性が一瞬脳裡によぎるが、彼方はすぐに打ち消す。どんな形であれ、ニースは戦いから逃げるタイプではない。彼方はすでに100人以上のニースを知っていた。

 

しばらくすると、彼方の頭上から声が降ってくる。ニースの声だ。

 

「こんにちは、こんにちは。こちらの準備は万端です。戦いを始めましょうか、空水彼方さん」

 

彼方はわずかに片眉を上げて不機嫌そうな表情を作り、答える。

 

「是非もない。が、君の姿が見当たらない。こそこそと隠れまわるのが君に必要な“準備”なのか?」

 

ニースの声はくすくすと笑ったあと、次の言葉を継ぐ。

 

「期待通りの戦闘向けの個性がこの世界には少なくて、いらだつのもわかります。が、こらえてください。これからお相手をする私も、戦闘向けのスキルを披露できるわけではありませんが……それでも私は私のスキルを活かせる戦いをご用意したので! 今日は私のシナリオで、めいっぱい戦っていってください」

「思惑通りにしたいなら、してみせるといい。まずはありきたりなかくれんぼからか?」

「まずは、というよりメインがそれです。かくれんぼ。彼方さんには、もし私を倒したければ、私を見つけてもらいます。見つけられたら、私を倒して、それで終わり。見つけられるか、見つけられるかどうかだけがこの戦いの焦点です。簡単ですね?」

「ふん」

「もちろん、このあまり特徴のない空間から完全にランダムに選んだどこかに透明化魔法で隠れてしまっては、このかくれんぼは無理ゲーになってしまいます。もしもあなたが無理ゲーに興味をなくしてあっさりと範囲攻撃を始めてしまっては一瞬でこの戦いが終わってしまうので、私はこの空間のどこか、特定可能な場所に隠れました。さあ、勝負の始まりです。まずはどうやって探しますか?」

 

この問いに答えるというのは、敵のペースに乗るようなことで、いささか気分が悪い彼方ではあったが、ほかにやれることも少なく、あきらめて問いに答える。

 

「目だ。目で見て君がいないか探す」

「そう、そう、まずは目、異世界から来たあなたであっても、基本的には光を感知するごく普通の視覚を具えているんですよね。レイとの戦闘を見ていて不安だったんですが、アリアとの戦闘において確信が持てたのでよかったです。
もしいま、私の姿が目に見える状態であれば、障害物が少ないこの環境をぐるりと見回せば私なんてすぐに見つかってしまうでしょう。どうですか、見つかりましたか」

「いや、周囲を見回す限りではいない」

「はい。私は、一見そうとは見えない障害物の後ろに隠れているか、あるいは透明化魔法を使って隠れているわけですね。では、ほかの手がかりが必要です。次は何を使って探しますか?」

「耳だ。君の声が聞こえてくる方向がどちらか調べる」

「なるほど、耳ですか。では四方に耳を向けて、音源が分かるかどうか試すしかありませんね。ときに彼方さん、あなたが着ているセーラー服、なぜそんなに襟が大きいかご存知ですか?」

「知らないし興味ない」

「一説には、昔の水夫は、遠くの音を聞きたいときにはあの襟を立てて効率よく収音しようとしてたらしいですよ。ですから……ですから、彼方さんもそのセーラーの襟を立ててパラボラを作れば音がよく聞こえるかもしれませんね」

「……」

「あ、彼方さんが襟を立てたところで大音量を出して鼓膜を破壊しようとか、そういうのを考えてるわけじゃないですよ、念のため」

 

彼方はアドバイスを無視して、おのれの耳のみで、四方の音を聞き取ろうと努める。前後左右どの方角からより大きい声がするということもなく、しいて言うなら、上のほうから声がするという感覚がやや強いか。

 

「ずっと話しかけていたらやはりうっとうしいでしょうか。彼方さん……彼方さんは干渉は控えめがいいと思うタイプですか。たしかに干渉が少ないほうが、なんでも直進性は高まるものですから、あなたには都合がいいのでしょうか。“我を通す”ということが彼方さんの想像力のカタチだと、レイとの戦いのときにも垣間見えていましたから……」

 

立ち位置を変えて音を聴き比べてみれば音源の位置が分かるかもしれない……そう考えた彼方は、ローラーブレードのモーターを駆動させ、小走り程度のスピードで移動を始める。

おおむね思惑通りの展開なのか、ニースの声はどことなく楽しげだ。

 

「おや、移動して回るんですね、それはいいアイデアかもしれません……いいアイデアということは、私は追い詰められてしまうので、なにか対抗策をとったほうがいいのかもしれません。ふむ、どうしたものか」

「……」

「そうだ、風雨で行動を妨害しましょう。彼方さんの動きを完全に止めるほどではないかもしれませんが、何もしないよりはまし」

 

すると、作り物の空には濃い灰色の雨雲が映し出され、空間全体に雨が振り始める。やや強めの雨で、傘なしに動き回るにはうっとうしいが、彼方が行動を阻害されるほどのものではない。彼方のいらだちの度が増していく。

 

「風雨にあっているくらいですから、そのトレンチコートの襟を立て、ボタンを閉めてはいかがですか。トレンチとは塹壕のこと。つまり、つまりは、その襟も、ボタンも、塹壕戦につきものの厳しい風雨から着用者を守るためのものです。意図に沿って使わなければもったいない」

「どうでもいい。ことファッションにおいて、意図なんてものはデザイナーと歴史学者の手前勝手な想定にすぎないから」

「なるほど。あなたはデザイナーでも歴史学者でもないと」

「私はゲーマーだ。デザインの意図を理解してそれがよりよい利用法の参考になるときはするが、それ以上を求めない。ゲーマーは、デザインの意図がどうこうとかいう枷に縛られるべきではない」

「彼方さんは哲学者ですね」

「この程度の会話で私を哲学者と評する? ニースが? 笑わせるな」

 

空とみえたものが前方で壁になっていることに気づいた彼方は、壁に衝突するよりもかなり手前でゆるやかに90度のターンをかける。見上げれば、風雨で視界が悪いため確認しづらいが、この空間に本物の空はなく、青空らしき映像が表面に映し出されたドームで囲われているに過ぎないことにも気づく。

書き割りの空に沿って走り続けながら、彼方は問う。

 

「雨を降らせた本当の狙いはこれか? 勢いを出したまま壁に突っ込ませようとか」

「どうでしょう」

「さすがに違うか……」

 

彼方はローラーブレードを少し加速させる。ニースの声は、相変わらず真上から聞こえている。

 

「なぜ私がどうでもいいことをしゃべり続けているか、怪訝に思っているでしょうか」

「多少は。君のアドミンスキルが関係あるのか」

「正解です。私のアドミンスキルは文や文章を通して発動するスキルなので、さっきから大事なこともそうじゃないことも口に出してしゃべり続けています」

「寛大なヒントだな」

「何事も、言葉にしなければ始まりませんから。このスキルの名前は『双唱起句ディメンションキック』。私がこの半独立空間のなかでなにかを言葉にするとき、その文や文章の先頭を2回繰り返すと発動します。効果内容としては、その文や文章に含まれる事物が本来持っているとされる特性をブーストします」

「なら、さっき君が、『つまり、つまりは』と言っていたのも」

「そうです。あの発言によって、いまこの空間にあるトレンチコートの襟とボタンの、風雨を遮るという特性は非常に強くなっているはずです。なのに彼方さんは襟もボタンも用途通りに使わおうとしない。忠告は素直に聞けばいいのに」

「なんだそのスキルは。効果がきちんと発動しているかどうか、君自身にはわかるのか」

「確信できないことのほうが多いですね」

「信じがたい無能さだ」

 

いずれにせよ、いまや彼方の服は、コートの下のセーラー服までぐっしょりと濡れてしまっている。コートの襟とボタンを用途に沿って使うにはもう遅かったらしい。

 

「弱いスキルで失望しましたか。ツグミちゃんのときは、勝敗が決まった後にそんなようなことを言っていましたが」

「ああ、失望した。君のスキルは、戦闘において弱いどころではない。まるで役に立たない。君でなくとも、7人もいれば誰かひとりくらいは、貫存在トランセンドに通じるような特異で新奇な能力を持っているようなやつもいるかと思っていたのに」

貫存在トランセンド。あなたのような存在をそう呼ぶと、一昨日私も知りました。しかし、しかしですよ、私たちが貫存在トランセンドの域に達するとすれば、それは7人の力を合わせたときでしょう。私たちのうちの誰かが、ではない」

「お互いに、叶わぬ夢だったというわけか」

「それはまだわかりません」

「は?」

 

そのとき、書き割りの空に映し出された雲が途切れ、風がやみ、太陽が顔を出す。雨足も次第に弱くなり、やがて完全に止まる。

「降雨を続けるのはもう限界ですね。この空間は水のストックがあまり多くないのです。でも、景色を変えるのには十分でした」

「景色を変える? それが本当の目的か」

「はい」

 

雨が止むと、そこには雨が降る前とは様変わりした美しい景色が広がっていた。見渡す限り平らな地面が浅い水たまりに覆われ、凪いでいるので、地面全体が鏡のようになって空を映し出しているのだ。いまや空水彼方の上にも、下にも、青い空と白い雲だけがどこまでも広がっている。空水彼方は、さながら空を飛ぶような格好で、水面にV字の波を立てながら滑っていた。

その景色のあまりの没個性ぶり●●●●●●●●●に、彼方は困惑する。

 

「こんな景色に何の意味が……」

「嫌がらせです。彼方さん、ツグミちゃんとの戦いでも漏らしていたでしょう、陳腐なのは嫌いだと。だから思いきり陳腐なやつを今日のために用意しておきました」

「……はあ」

 

壁に沿って走っていた彼方は、進路を大地の中心に向けて傾ける。彼方の身体は、水面に黄金螺旋を浮かび上がらせながら、寄る辺ない空のただ中へと滑りだしていく。
ニースの声はいまだ真上から降ってきている。

 

「彼方さん……彼方さんは、かわいそうだと私、少しだけ思うんです。彼方さんは『トゥルーマン・ショー』って観たことありますか?」

「……」

「それは私が知っているある異世界に存在する映画で。主人公のトゥルーマンは、生まれてからずっと、直径数kmの小さなドームのなかで、ひとが書いたシナリオ通りの人生を送っているんです。でもトゥルーマンの周りの人たちはそうではない。彼らにもトゥルーマン同様シナリオが用意されているけれど、彼らはあくまで演技として、トゥルーマンの目の前でだけそのシナリオを演じる。彼らは本当はドームの外にも生活を持っている。トゥルーマンだけが、彼らの外での顔を知らない」

「……」

「トゥルーマンは、彼方さんと似ています。彼方さんは、この小さな世界の全てを賭けさせれば誰もがゲームに真面目に取り組むと思っている。でもそう思い込んでいるのは彼方さんだけで、みんなこの世界の外にもたくさん大事なものがあるんです。みんなが本気でゲームに取り組んでいると思っているのは彼方さんだけ」

「……私も、ちょうど『トゥルーマン・ショー』のことを考えていた」

「はい?」

「この書き割りの空。そのどこかに、あの映画よろしく、君のいる場所へつながる扉が開いている、という可能性を想定して、この空間をわざわざ一周した。だが、扉はなかった。すると、ほかに君がいそうな場所と言えば、私に思いつくのは一つだけだ」

 

彼方は水面に手を置き、透き通った氷の槍を一本作り出す。

 

「答えが解ったと思うのなら、試してみることです。果たして、ここであなたの勝ちが決まるのか」

「頼むから、こんな簡単な謎解きで終わってくれるなよ……!」

 

彼方は、書き割りの空がつくるドームの中央あたり、ある一点に向かって、槍を投げ放つ。彼方が狙うのは、ドームがパラボラ面だと仮定したときの焦点にあたる点だ。

これまでニースの声は、彼方が地面のどこを走り回っても、終始真上から聞こえてきていた。空間中のどこか一点から放射状に音波が伝播しているとすると、このようなことは考えづらい。考えうるとすれば、この空間を覆うドームがパラボラ面になっており、ニースはパラボラ面の焦点に当たる場所からパラボラ面に向かって音波を放ち、空間の直上から平行に降り注ぐ音波に変換していた、という可能性だ。もちろん、そのような環境を通常の物理法則下で実現するのは容易ではない。が、ニースが双唱起句ディメンションキックによって“焦点”や“パラボラ”といった概念が持つ特性をブーストした状況下では、ありえなくもない、のかもしれない。

こんな単純で胡乱な謎解きがもし正解ならば、彼方が放った氷の槍は透明化して空中に静止しているであろうニースを貫き、戦いは終わるだろう。自身の謎解きが間違っていて、戦いが続き、より骨のある展開につながってほしい、と願う彼方であったが、はたして●●●●槍は●●ニースに●●●●命中した●●●●

致命傷を負ったニースは透明化魔法も浮遊魔法も維持できなくなり、落下していく。落ちていくニースを見ながら、彼方はつぶやかずにはいられない。

 

「なあ、君は……お前は本当にニースなのか? 本当はお前は――」

 

彼方の問いかけが届くはずもなく、落ちていくニースは最後の作戦の成否ばかりを気にしていた。貫存在トランセンド・空水彼方を視聴者たちの世界に行かせない、というニースの、またCelestiaの作戦ははたして成功したのか?

ニースは、いまや確かめようがないその作戦の成功を、それでも信じることにした。彼女たち7人が協力することで、愛する異世界をインベーダーの手から守ることができたのだ。7人が合わせた力、この能力を、『次元放逐ディメンションキック』と名づけよう、とニースは思った。

 

ニースの眼前に鏡のような水面が迫ってくる。いよいよこれに激突すれば最後か、と思ったニースはつい、水面から目をそらす。

そのときニースは、天上に七色の虹が架かるのを見た。