オタクはなぜロボット化したのか?

オタクについて。とくに、アニメや漫画やゲームのオタクであるという意味で、オタクについて。

「いま、オタクと呼ばれる者たちの多くは、作品について浅薄で単純な感想を垂れ流すことしかせず、そういう定型化した短い感想に共感を寄せ合うことがオタクの言論を支配しようとしている」

「昔はそうではなかった」

という言説がある。

誠実と正確を期するなら、この言説には細かい部分でツッコミどころが山ほどある(オタクと呼ばれる者たちの範囲は? どこからが浅薄で単純? 浅薄で単純なのは悪いことか? その傾向は本当にオタクの言論を支配してしまうのか? 昔は違ったとなぜ言える? etc...)し、大枠でみても、この言説が正しいと証明してみせるのが非常に難しい。

それでもなお、この言説は「ぱっと見た感じは」「おおむね」「正しそう」だと私には思える。というか、私には、この言説が正しいと思えると表明しなければいけない義務があるかのような気がする。なぜだ。それは、この言説が正しいからとか間違っているからではなく、この言説が「20代前半にしてはやや古風なオタク」という私のアイデンティティと結びついているからだ……。

 

「オタクは浅薄で単純な感想しか垂れ流さないようになった」という変化について、これが真実であるかはさておいて、名前を付けてしまおう。これは、「オタクのロボット化」と呼ぶべき現象である。

「ロボット化」という言葉には、不当にも、「ロボットは人間よりアホ」という価値的な含意が含まれてしまうが、これは私の意図するところでは(あまり)ない。あなたがもし「パターン化しているということは、知能の低さや価値の低さに直ちに結びつくものではない。偏見をなくして物事をみるべきだ」と思うのならば、「ロボット化という言葉に悪い意味は含まれていない」と思いながら読むがよい(それができるならば)。

 

オタクはなぜロボット化したのか

オタクはなぜロボット化したのか。ある作品やあるキャラクターを無条件にほめるような定型文が氾濫するようになったのはなぜなのか。

オタクのロボット化という現象には、(他のあらゆる社会現象と同様)様々な側面があるはずだし、様々な側面からの説明が可能なはずだろう。

 

深くて複雑な批評を書きづらくなったから

https://blogos.com/article/455925/

オタクが辛口批評を書くことは、いまやコストに見合っていない(かつてはコストに見合っていたのか?)、らしい。

 

オタクがロボット化した理由とは、ずばり、深くて複雑な批評を書くということのコストがあまりにも高くなってしまったからだ。

「オタクが深くて複雑な批評を書くことのコストが高くなった」という条件は、「オタクが浅薄で単純な感想を垂れ流し始めた」という現象に対する十分条件としてはまあまあ悪くない説明だと言ってよいのだろう(必要条件としてはまだ足りていないが、その不足はここでは不問に処す)。

要は、オタクたちは、なにかしら客観的なこと(論理的に否定されうること)を言うということの痛みに耐えかねて、主観的なこと(他人には否定しえないこと)のみを語る場所へと撤退戦を行っているのだ。オタクのロボット化とは撤退戦であるという見方が仮に正しいとすれば、この闘いに明確な勝利はないということもまた、理解される。この撤退戦はまだ完遂されておらず、依然進行中なのである。ロボット化は当分の間続く*1

ところで、ロボット化の理由が批評行為のコスト増大によるものなのだとすれば、ロボット化という現象を非難することはいくぶん難しくなる。なぜなら、第一に、痛みを避けるのが悪いことだなどとはまあなかなか言えないし、第二に、ロボット化することは自分の痛みを避けると同時に他人の痛みを避ける行為でもあるからだ。オタクはロボット化することによって一種の「共益」を得ているのだ、と述べてみることも、まあ、不可能ではないのである。

 

この説明の長所(短所にもなる)の一つは、「ネット社会」「SNSの興隆」という今の時代状況と結びついているところだ。歴史への適度な目くばせがきいていると、一見正しそうな説は、なおさらその強度を増していく。

 

自分の感情に聖域を作りたいから

一方、歴史に絡めた説明が必要になるとすれば、他方、歴史に絡むことなく、どの時代にも当てはまるような説明も必要になるときがある。歴史に絡まない説明とは、ここでは、オタク個人の内面にフォーカスした説明のことだ。

私はここで、ロボット化という現象に対して「そんな説明どの時代にも当てはまるじゃねーか」と言われてしまうような説明も一つ用意しておきたい。私の作り出した説明がうまくいくといいのだが……。

 

オタクがロボット化する理由とは、ずばり、自分に生々しい感情があると信じたいがためである。

普段さんざん理屈っぽいことを言っている人でも(あるいは、理屈っぽいことを言っている人ほど)、「自分は理屈でないものに突き動かされている」と信じてみたい瞬間がある。「自分だって、ときには自分で説明のつかない行動をしてしまうことがある」といってみたい瞬間がある。ときに理屈を外れる人というのは、いかにも「人間的」だからだ。「人間的」な人物は、積極的にみれば好感が持てる人物だし、消極的に見ても、比較的害のなさそうな人物と思える。

自分で自分を好きになりたい人、あるいは、少なくとも危険のない人物であると自分のことを思いたい人は、「ときに理屈を外れる人物」として自分を演出する。具体的には「例外」を作る。「ガルパンのこととなると冷静さを失う人物」として自分を演出するのだ。ほかのことには冷淡でも、なにかひとつのことについては骨抜きになってしまう自分、というのはほかならぬ自分にとってすごく居心地がいい。そして例外となる部分をくっきりゾーニングすると、なお居心地がいい。だから今、多くのオタクは、「ガルパンはいいぞ」をロボットのように繰り返すようになったのだ*2

 

この説明は、必要的に見ても、十分的に見ても、それほど確からしい説明とは言えないだろう(そんな使えない説明をここでしゃべってしまったのはなぜなんだろう……。それは、私自身に最もよくあてはまる説明に対して、わずかでも共感を得たかったということなのかもしれない。そうじゃないかもしれない……)。

 

オタクの垣根が下がったから

浅いことばかり言うオタクが目立つのは、いままでオタク界の外にいた比較的ライトなオタクたちがオタク界に流入し、ライトオタクの割合が相対的に増えたからだ、という説明。

この説明がもし正しければ、浅い感想が大量に流通しているという現象はオタクの垣根が実際に下がったということの証拠になる。「オタクの垣根が下がった」ということに対して、我々は特別に喜んだり悲しんだりするべきなのかもしれない*3

 

オタクに限らず、日本語全体が浅薄で単純な使用に傾いているから

清少納言も言っていたという、「最近の若者は言葉遣いがなっとらん」というアレだ。要するに、原因は若者全体にあるのであって、オタクが特別悪いわけではない、という説明だ。

1000年前から言われ続けている割には、「若者の言葉が雑になった」と実証的に証明してみせた議論はまだ誰も出せてはいない。

しかし、1000年誰も証明できなかったからといって、この説が間違いだと決めつけてしまうのはもったいないというものだ。違うかね?

*1:ロボット化という現象がいつから始まり何年単位で進行していく現象なのか、は慎重に設定する必要がある。というのも、インターネットは、短い目で見れば、経験の浅い弱小オタクによる批評行為の最大の障害でもあり、長い目で見れば、経験の浅い弱小オタクによる批評行為の最大の擁護者・母体でもあるからだ。述べようとする主張の時間単位を設定せずに、安直に「インターネットが悪い」と主張することは、多くの反論を招く。私たちが仮に、「経験の浅い弱小オタクも批評ができる世界」を理想とするなら、私たちが回帰すべきなのは、90年代なのか、80年代なのか、70年代なのか、それとも既存のどの時代でもないのか……私にはまだわからない。

*2:この説明を極論へと突き詰めていくと、こんなことが言えるようになるかもしれない。「あらゆる文化は、その成熟の極みにおいて、非知性主義へ転じる」。しかし私がここで書こうとしているのは不完全な実用書であって、完全な学術論文じゃない。不相応に壮大な議論は他の真面目な文章が語るのに任せよう。

*3:ひょっとすると一部の読者には、この説明はトートロジーに見えているかもしれない。「なぜオタクがライト化したかを知りたかったのに、オタクがライト化したから、という説明で納得できるか!」と。この説明がトートロジーになるかどうかは、「ライト化」を正確にどう定義するかで分かれるところなのだろう。