最強議論の下準備

 

 

 序:野暮で無益で無際限と知りながら

この空の下で最強なのは
That's my pride 自分のみ
――LORD OF THE SPEED 作詞:藤林聖子

Everybody 絶対的存在
全員、何かの天才
――P.A.R.T.Y.~ユニバース・フェスティバル~ 作詞:shungo.

「最強議論」って楽しいよね。君がもし「最強議論なんて全然楽しくない」とか思ってるなら、それは単に強がっているか、人生の10割を損しているかのどちらかだ。
言うまでもない、最強議論っていうのはいつだって多少野暮なものだ。この世にはたくさんのヒーローがいて、それぞれのヒーローはそれぞれ違った背景を持っている。だからヒーローの強さの内容もヒーローの数だけ存在して、そういう意味ではヒーローの強さは比較不可能だ。だから、全てのヒーローがみんな最強だ、という立場は「粋」で、ヒーローの強さを比較しようなんていう立場は「野暮」だ。
しかしながら、他の個性と戦うこともまたヒーローの本質だ。戦うことを本質としているということは、ヒーローの強さは根本的には何かと比較可能であるということだ。本質的に比較可能なものとしてヒーローの強さがあるなら、ヒーローの強さを比較したくなる気持ちにだって、何の間違いもない。
言うまでもない、最強議論っていうのはいつだって無益なものだ。(少なくとも私は)どのヒーローが最強か考えていてお金をもらったり人生の難題を解決したことなんて一度もない。そして最強議論というものは、していても得をしないばかりか、損をする可能性すらある。実際、最強議論なんてはじめたばっかりに、喧嘩なんてする必要がなかったはずの2人のオタクが絶交までしなければいけなくなる、なんてことはネットのあちこちでみられる。
しかしながら、「そんなことしたって無益だよね」というツッコミは、「そんなことする」ことに対するラディカルな批判には全くなりえない。というかツッコミですらない。有益か無益かなんてことは、それ自体、「そんなこと」をしたいか否かとか「そんなこと」を実際してるか否かとかにたいして関係がない。私たちが何かをしたくなる理由は、「それをすると有益だから」以外にいくらでもあるし、べつにはっきりと理由が先立っている必要もない。
言うまでもない、最強議論っていうものに終わりはない。全てのヒーローに対して詳細かつ広範な検討を極めたところで、「誰が最強のヒーローなのか」という問いに誰もが認める究極の解答が得られることなんてあるはずがない。万一あったとしても、その解答は新しいヒーローの登場によってすぐに再考を迫られるだろう。
しかしながら、「そんなことしたって結論は出ないよね」というツッコミもまた、ラディカルな批判にはなっていない。問いというのは、答えが出るから気になるとか答えが出ないから気になるとかそういうものではない(好みの違いはあるけど)。気になるから問う、それだけのことだ。それともあれか、君は、生きるという行為に最終回答はないからすぐさま生きるのをやめるというようなくちか?
というわけで、私は最強議論を楽しむ。何かこれじゃなきゃいけない理由があるからでもなく、何かの結果を得ることを見込んでいるわけでもなく、ただ単に、最強議論を楽しむ。最近の私のもっぱらの標的は平成仮面ライダーだ。平成仮面ライダーの最強議論は、これはもう間違いなく『仮面ライダージオウ』という作品の登場によって、ある意味非常に盛り上がった(同時にある意味沈静化した)。こんなに盛り上がったフィールドで最強議論を楽しまない手はない。
果たして、平成仮面ライダーの最強議論には独特の難しさがある。平成仮面ライダー最強議論の対象になるヒーローなりヴィランなりは、複数の世界観にまたがっていて、それぞれ別の法則に従っている。また、それら法則のなかにはメタ的な方向性を持った法則もたくさんある。人間が物事を比較するためには(ふつう)共通の基準というものが必要だが、平成仮面ライダーにあってはその共通する基準というものが非常に少ない。この複雑怪奇なマルチバースマルチバースでない可能性をも含んでいるという点において複雑怪奇なマルチバース)において最強のヒーローを捜し出すことは、一つの統一した世界観に基づくような作品群のなかで捜し出すより、はるかに難しい。
よって、ここから私は「平成仮面ライダー最強議論」を行ううえでのレギュレーション作りの準備を行うためのそのまた準備を行おうと思う。ほとんど自分のためのメモ書きのようなもので、「要するに誰が最強か」知りたいあなたにとってこのメモ書きはほとんど何の意味もない。そういえばさっき、最強議論に親しまない人は人生の10割損してるとか言ったけれど、あれは嘘だ。最強議論をしなくても人生は甘美だ。あたりまえだ。
だからここまで読んでしまった人の大半にとって、ここまで読んだ時間は無駄だったということになる。参ったな。だが私は謝らない。

終わりのない戦いを 決して恐れはしない
必ず立ち上がれるのさ 逆境でも
――果てなき希望 作詞:青山紳一郎

※文章のそこここで歌詞をエピグラム的に引用しているのは、洒落みたいなものです。あまり真に受けないでください。

 

 

1:作品-世界観-設定

存在しない存在を
証明し続けるためには
ゼロというレール駆け抜け
止まることなど許されない
――Action-ZERO 作詞:藤林聖子

心、リラックスして未来をイメージ
行方、自由自在
――P.A.R.T.Y.~ユニバース・フェスティバル~ 作詞:shungo.

争い抜きに(準備の準備というような)大事を為さんと欲するなら、まずは用語の定義から始める、というのは悪い手ではなさそうに思える。今日、私は、区別しておかなければいけない3つの概念を截然と区別するところから始めてみよう(用語の定義から始めるという方法は、物事を論じる方法の一つにしかすぎないことはここで明記しておこう。多くの場面で非常に有効な方法ではあるが)。
「作品」と「世界観」と「設定」、これらは別のものである。このことは一見当たり前にも思えるが、確認する価値のある大事な事項だ。
「作品」とは……どう定義したらいいんだろう? テクスト論に足を踏み入れるまでもなく、その定義はすこぶる難しい。ここでは、「作品とは、ある特定のタイトルのもとに紐づけられる情報とその他もろもろの集合である」くらいに定義してお茶を濁しておこうか。これはまず間違いなく、情報は作品を形作っている。「五代雄介はクウガに変身する」とか「クウガグロンギを封印できる」といった情報は、明らかに『仮面ライダークウガ』という作品を構成している。また、作品は情報だけから形作られているわけではない。「テレビ朝日系列で日曜朝8:00~8:30に放送していた」という形態とか、「仮面ライダーシリーズの復活を期して制作された」という経緯とか、「オダギリジョーが五代雄介を演じている」という事実もまた、『仮面ライダークウガ』を構成している。
「世界観」とは、作品の物語内で起こる事象について記述した情報の集合で、物語内で起こる事象が従うべきひとまとまりのルールとみなせるものである、と定義しよう。世界観を構成する情報のうちいくつかは「設定」である。例えば、「カードデッキを破壊されると仮面ライダーの体は消滅する」という設定は、『仮面ライダー龍騎』という作品内で起こる事象が従う世界観の一部をなしている。また、世界観を構成する情報の全てが設定ではない。例えば、「人間はみな仮面ライダーとしてバトルロワイヤルに参加しうる可能性と資質を持っている」という情報は、曖昧ではあるが確かに『仮面ライダー龍騎』の事象が従うべきルールの一つである。しかし、「人間はみな仮面ライダーである」は世界観を構成してはいても、設定ではない。
「設定」とは、物語内で起こる事象について記述した情報のうち、世界観の内部でその真偽を区別できる情報である、と定義しよう。例えば、一方、「クウガとダグバはクワガタムシに似た姿を持っている」は物語内で起こる事象について記述した情報であり、なおかつ『仮面ライダークウガ』の世界観の“中”にいる人がその真偽を確かめることができる。他方、「石森プロはクウガとダグバをクワガタムシをモチーフとしてデザインした」という情報もまた、物語内で起こる事象について記述した情報だが、『仮面ライダークウガ』の世界観の“中”でその真偽を区別できない。だから、前者は設定と言えて後者は設定とは言えない。

からっぽの星 時代をゼロから始めよう
――仮面ライダークウガ! 作詞:藤林聖子

 

 

2:公式設定-公認設定-非公認設定

また信じること疑うこと
Dilemmaはキリがない…さまよい続ける
――Justiφ's 作詞:藤林聖子

誰もみんな信じている
「真実」それだけが
正しいとは限らないのさ
――Action-ZERO 作詞:藤林聖子

公式設定-公認設定-非公認設定

ひとつの作品に対し、設定と言える情報は無数に存在する。無数の設定は、しばしば「公式設定か否か」「公認設定か否か」というように区別される。この文章では、「公式設定」「公認設定」を以下のように定義する(あくまで『最強議論の下準備』というこの文章の中だけで行う定義だ、念のため)。
「公式設定」とは、設定のなかでも、世界観の内部で常に真実だと制作者がみなしている設定のことである
「公認設定」とは、その設定が真実だとみなす立場があることを、制作者が能動的に認知している設定のことである
公式設定⊂公認設定⊂設定 である。
公認設定でない設定のことを、非公認設定と呼ぶ
例えば、『仮面ライダーシリーズ』という作品に対して、本編であるところの映像作品『仮面ライダー』の物語中で起こった出来事を真実とするのは公式設定であり、外伝であるところの小説『S.I.C. HERO SAGA』の物語中で起こった出来事を真実とするのは公式設定ではないが、公認設定である。例えば、(これは非常にややこしいことに)『スーパー戦隊シリーズ』に対して、『秘密戦隊ゴレンジャー』の存在は公式設定であり、『非公認戦隊アキバレンジャー』の存在は公式設定ではないが公認設定ではある。
そして、これは非常にあたりまえのことで、しかしこの項で最も重要なことでもあるのだが、ある設定が公式設定か公認設定か非公認設定かを明確に決めることはできない。公式設定と公認設定を分ける基準がはっきりしていることは、ある設定をどちらかに分類するうえで異論がないことを必ずしも意味しない。ある設定が公式設定か公認設定か非公認設定かは、人によっても変わるし、時代によっても変わる。また、特定の人と時代にとって設定が公式であるかどうか、公認であるかどうかもまたはっきりと区別される状態ではなく、「公式度が高い/低い」「公認度が高い/低い」のようなグラデーションを持った値として表現される。
ある設定の「公式度」「公認度」は何によって決まるのだろうか。「公式度」「公認度」に大きく影響する要素は2つある。情報が発信された媒体と、情報を発信した人物である。媒体の影響とはつまり、ある設定の「公式度」は「本編映像中で発信された」か「講談社のムック本で発信された」か「Twitter上で発信された」かなどなどによってある程度は量られる、ということだ。人物の影響とはつまり、ある設定の「公式度」は「脚本家が発信した」か「プロデューサーが発信した」か「映像制作に直接かかわっていない東映社員が発信した」かなどなどによってある程度は量られる、ということだ。そしてもちろん、「本編よりもムック本の公式度が高い」とみなす流派もいれば「ムック本よりも本編の公式度が高い」とみなす流派もいる。「脚本家よりもプロデューサーの公式度が高い」とみなす流派もいれば「プロデューサーよりも脚本家の公式度が高い」とみなす流派もいる。「すべて公式度というものはオレ的整合性によって評価されるのであって、媒体も人物も全く関係ない」というタカ派だっているだろう。流派はあくまで流派でしかないが、自分の属する流派だけが真実だと勝手に思い込んで、前提抜きに議論を始めると、その議論は紛糾する(全く余談だが、ごく個人的にはこういう紛糾は大好きだ)。もし最強議論のレギュレーションを行うなら、共通見解を得るべき事項の一つは、「公式度」「公認度」を量る要素として何を重視するかだろう。そして、(まあ十中八九そうなのだが)ある議論の場において採用された共通見解が気にいらなくても、それに文句を言うのは筋違いだ。その共通見解はべつにあなたの流派の見解を否定しているわけではなく、「最強議論」という作業のために仮に共通見解を採用しているだけなのだから。


(想像を交えて)歴史の話を少しだけ

若い人にはとくに想像しづらいことなのだが(かくいう私もまあまあ若い)、媒体が「公式度」「公認度」に与える影響の多寡というものは、時代によってかなり変化してきた。
その昔、公認設定と非公認設定の境目は非常にあいまいだった。それは、各種媒体で語られる設定のすべてに制作者が目を通してはいなかったからでもあり、「本編」の持つ特権性が現在ほど高くなかったからでもある。
例えば、『第2期ウルトラシリーズ』にとって、児童誌上で語られた数々の設定は、少なくとも当時、公式とも非公式ともつかなかった。児童市場の設定は、児童誌の編集を主導した人物が映像作品本編の製作にも深くかかわってきた人物であるため一概に好き勝手な産物とは言えず、かといって本編の設定とは整合性が取れない設定が数多くあるため全てを公式とは認めがたく、はたまた本編が児童誌に影響を受けて設定を変化させることもあるため、児童誌はある意味で「外伝ではなく本編」ですらあったのだ。結果として、ウルトラシリーズで70年代に生まれた設定には、現在では / 現在でもどこにも位置づけできないものが非常に多くなった。例えば、「セブンとタロウはいとこ関係」という設定が公式に今でも存在するのかは誰も知らないし、『ウルトラマンメビウス』に登場したツインテールもエビの味がするのかはわかりようがない。「デットンはテレスドンの弟」という設定に至っては文の意味すら分からない。それは何、「母親が同じ個体」ってことなの? それとも「近縁種」ってこと?
やがて、制作者によるムック本の統制が進み、並行して(オタクにとっての)本編の特権性が上昇していくと、公式設定とそうでない設定の境界ははっきりしたものだとみなされるようになる。息の長いコンテンツになると、それまで矛盾していた設定が制作者によってはっきりと取捨選択される「設定の整理」も行われるようになる。設定が整理されると、それまで別の世界観に基づいていたヒーローたちの共演も行いやすくなる。そのため、「設定の整理」は多数のヒーローのクロスオーバーに際して行われることが多く、今でもそうだ。
「設定の整理」に便利な解釈として、マルチバースというメタ世界構造が発見され、普及していった(今に至るマルチバース普及の起源はアメコミヒーローかトランスフォーマーあたりにあるのではないかと思っているのだが、私は確かめるすべを持っていない)。マルチバースの普及は必然的にメタ的な設定と能力を持ったヒーローの出現を導く。ディケイドはこうしたヒーローの代表と言っていいだろう。
時代が流れて現在に至ると、公式設定と非公式設定の差はまたあいまいになってきた。この変化は、作品にかかわる情報が発信される媒体が非常に多様化し、また書き直し可能になったことによる。
書籍に記載された設定は容易には変更しづらい。しかし、ネット上で記載された設定は比較的容易に変更されうる。例えば、私の記憶では、2009年初め『仮面ライダーディケイド』放送以前、『ディケイド』の公式サイトに記載された情報では「キバーラはキバットの妹」だった。その記載は『ディケイド』の放送すら始まらないうちにあっさりと「キバーラはキバット族」という消極的な記述にまで変更されていた(何事もなかったかのように設定をあっさりと変えることが当時は衝撃的だった)。発信源がネットの場合、その設定は容易に変わりうる。ちなみに現在、webサイト『仮面ライダー図鑑』によれば「キバーラはキバットの妹(ただしどこの世界のキバットかは不明)」となっている。
とくに揺れやすいのはTwitter上で語られる設定だ。こと仮面ライダーに関して言えば、「プロデューサーがTwitterで語った内容」「脚本家がTwitterで語った内容」「演者がTwitterで語った内容」などと公式度評価に悩むような情報が氾濫している。あらゆる制作者が個人的に情報を発信できる媒体を持っていると、「制作者としての発信」と「制作者でない人の発信」は明確に区別できなくなり、何が公式かの境界ははっきりしなくなっていく。こうした状況はほかのジャンルでも変わらないらしい。例えばディズニー映画ファンのなかには、『アナと雪の女王』の監督のTwitter上での「アナとエルサは『ターザン』のターザンと兄弟姉妹関係にあると考えて制作している」という発言をどう受け止めるか悩んでいる人がいるらしい。お互い大変ですね。
念のため言っておくと、公式設定と公認設定と非公認設定の差があいまいになっているという現在の状況について、私は悪いことだとは全く思っていない。むしろ楽しいよね。楽しくない?

正解は1つじゃない 闇夜に耳澄ませ
――Over "Quartzer" 作詞:Shuta Sueyoshi・溝口貴紀

 

 

3:作品と世界観の参照性

見上げる星
それぞれの歴史が 輝いて
星座のよう 線で結ぶ瞬間
始まるLegend
――Journey through the Decade 作詞:藤林聖子

目の前を行き交う vector space
何処で始まり 何処で終わる?
――time 作詞:松岡充

 相互参照性について

ここまで、「作品」「世界観」という用語のそれぞれについて、この文章独自の定義を行ってきた。ここで、用語を使いやすくするためにもう一つ定義を行おう。ある一つの作品は、必ず一つの世界観を参照するある一つの作品が直接に参照する世界観は必ず一つである(推論の結果として「作品」「世界観」とはそういうものだと判明した、ということではなく、「作品」「世界観」をそういうものとして定義する、という意味)。ここでいう「世界観」とは、複数の世界が大きな世界に含まれる、という構造の世界観をも含むことに注意してほしい。
作品と世界観は別のものであり、作品は必ず一つの世界観を参照する、と考えた場合、作品と世界観の参照性のあり方について、いくつかの考え方がありうる。
一つの考え方は、作品と世界観の参照関係は必然的に相互参照であるという考え方だ。それはつまり、『仮面ライダークウガ』という作品が『仮面ライダークウガ』の世界観を参照するとき、『仮面ライダークウガ』の世界観も『仮面ライダークウガ』という作品を必ず参照する、ということを意味している。この考え方によって、複数の作品が同じ世界観を共有することにひとつの理解ができる。例えば、『仮面ライダーアギト』本編は『仮面ライダーアギト』の世界観を参照する。『仮面ライダーアギト PROJECT G4』もまた、『仮面ライダーアギト』の世界観を参照する。つまり『仮面ライダーアギト』の世界観は『仮面ライダーアギト』と『仮面ライダーアギト PROJECT G4』の2つの作品をいずれも参照しており、2つの作品が参照している世界観は同じである。
作品と世界観は相互参照するという考え方は素朴であり、自明と考えられることも多いが、実は考え方の一つに過ぎない。オルタナティブな考え方があることには、例えば白倉Pの発言から気づくことができる(と、ここで引用しようとしてどこかで見た白倉Pのツイートを引用しようと思ったのだけれど、ツイートが多すぎて発見できない……! こういう風に旺盛に発言してくれる制作者さん好きです。これからもよろしくお願いします)。
つまり、もう一つの考え方は、作品は特定の世界観を参照するが、世界観からは作品を参照することはない、という考え方である。例えば、『仮面ライダージオウ』には『仮面ライダーディケイド』に登場した門矢士本人が登場する。このとき、『仮面ライダージオウ』という作品は『仮面ライダージオウ』の世界観を参照し、『仮面ライダージオウ』の世界観は『仮面ライダーディケイド』の世界観を参照するといえる。このとき、『仮面ライダージオウ』の世界観からは『仮面ライダーディケイド』の世界観の存在は認めるところだが、『仮面ライダーディケイド』の世界観からは『仮面ライダージオウ』の世界観は全くあずかり知らぬところである。『ジオウ』からすれば『ディケイド』で起こった事象は真実だが、『ディケイド』からすれば『ジオウ』で起こった事象は、「起こったかもしれないし、起こらなかったかもしれない」くらいの出来事だ。世界観の参照は相互的でなく、一方通行なのである。
参照性に関してのこの2つの異なる立場について、これをレギュレーションの設定に役立てるために、名前を付けよう。ここから、「作品と世界観の参照は相互参照である」という考え方はこれをニュートン・レギュレーションと呼ぶ。「世界観の参照は一方通行である」という考え方はこれをアインシュタイン・レギュレーションと呼ぶ(こういった名前にしたのは単に粗雑なアレゴリーにすぎない。だから論理的な正確性については保証しない、念のため)。

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ニュートン・レギュレーションに基づく解釈の例①

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ニュートン・レギュレーションに基づく解釈の例②

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アインシュタイン・レギュレーションに基づく解釈の例

また、ニュートン・レギュレーションとアインシュタイン・レギュレーションの内部にはそれぞれ細かい立場の違いがあるだろう。それは、参照可能な領域を全て参照する積極的な立場か、参照しなければ説明がつかない限りにおいてのみ参照する消極的な立場かの違いだ。
この立場の違いは例えば、『仮面ライダーゴースト』の世界の最強キャラは誰か、という議論を行うことを例にすれば理解しやすい。『仮面ライダーゴースト』という作品にはジュウオウイーグルが登場する。これを、『仮面ライダーゴースト』の世界観が『動物戦隊ジュウオウジャー』の世界観を参照していると理解したとき、もし積極的ニュートン・レギュレーションに基づくなら、「ゴーストの世界にはジュウオウイーグルが存在し、ジュウオウキングが存在し、ジニスも存在している」ことになる。一方、もし消極的ニュートンレギュレーションに基づくなら、「ゴーストの世界に現れたジュウオウイーグルを説明するうえで、ゴーストの世界にジュウオウイーグルが存在するとは言わなければいけないが、ジュウオウキングやジニスが存在するかどうかについては問わない」ということになる。もちろん、ここで「積極的/消極的」と言っていることは相対的な違いであって、絶対的な違いではない(ジュウオウイーグルの存在を説明するうえで必要最低限の設定を考えたとき、「ジューマンが存在する」という設定がそこに入るか否かは人によって判断が分かれるところだろう)。

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ジュウオウイーグル

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ジュウオウキング

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ジニス

このように、積極的/消極的ニュートン・レギュレーションと積極的/消極的アインシュタイン・レギュレーションの4つの立場を明確にすると、もう1つだけ、はっきりとさせておく立場があることに気づくだろう。
その立場とは、およそ全ての作品が参照している世界観は作品ごとにばらばらであり、作品が違えば世界観は全てパラレルである、という立場だ。言い換えれば、この立場は世界観の共有を全く許容しない。人によっては「ロマンが足りない」と評するかもしれないが、非常にすっきりして利用しやすい考え方でもある。この考え方は、デカルト・レギュレーションとでも名付けておこう。


複次参照性について

ここまで当然のことのように書いてきてしまったが、この文章で期しているところに従えば、ある作品が参照する世界観がまた別の世界観を参照することがある。それは、多くの場合、ある世界観にとって、別の世界観が同じ世界であるという前提を持って言及することを意味する(ほかに複次参照と思われる例(作中作やIFの世界など)はこの文章では扱わない)。作品からすれば間接的に複数の世界観を段階を作りながら参照していることになる。ここから、この「複次参照性」について考えていく。
最強議論を行う上で、先に同意が必要であろうと思われることは、この複次参照を何段階まで許容するかということだ。
これについては、例を挙げて説明していく方がよいだろう。例えば、『仮面ライダーオーズ/OOO』の世界の中で最強が誰かを議論する機会があったとしよう。このとき、いったい『オーズ/OOO』の世界とは、どの作品のどこまで同一な世界として広がっているのだろう。

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これは、『オーズ/OOO』の世界観として考えられる領域を図示したものだ。ニュートン・レギュレーションとアインシュタイン・レギュレーションは部分的にまじりあっており、細かいチェーンはかなり捨象してあるので、この世界観解釈はあくまで粗雑な解釈の一つでしかないのだが、それでも『オーズ/OOO』の世界でありうる領域の何パターンかを明らかにしていると思う。ここで、それぞれの世界観は『オーズ/OOO』の世界観を始点にして段階を区別することができる。この場合、いったい何次の参照までが『オーズ/OOO』の世界と同一だとみなせるのだろう。
もちろんはっきりとした回答などない。1次参照までしか認められない、という人もいれば、何次参照だろうと同一世界だ、という考え方をする人もいるだろう。各世界観に関連した作品の制作会社や原作者を基準に腑分けをはかる人もいるかもしれない。ここでも、個人的にどの流儀にのっとるかは自由で構わない。ただ、議論のためにのみ、さしあたりの同意をとればよい。

たとえ遠く 離れていても
出会うはずさ 重ねたその痛み
刻んだ誓いと
流星追う軌跡と
果てなき旅路で
――Over "Quartzer" 作詞:Shuta Sueyoshi・溝口貴紀

 

 

4:メタ時間-メタ空間-メタ因果律

24時間という一日 過ごしていても
誰でも気付かない
一秒があるだろう
――LORD OF THE SPEED 作詞:藤林聖子

どんなミラクルも起き放題
――P.A.R.T.Y.~ユニバース・フェスティバル~ 作詞:shungo.

メタ時間

私たちが暮らす日常に起こる出来事の全ては時間の中で起こる。時間の中で起こる2つの出来事は、必ず、前後関係にあるか同時という関係にある(相対論によれば、例えば何百万光年とかいったとても遠いところで起こる出来事同士は、前後とか同時とか言った関係を自明には持たないらしい。このことについて私たちは、宇宙で起こる出来事は日常とはルールが違うんだなあ、ともいえるし、あるルールが適用できる範囲を私たちは日常と呼んでいるんだなあ、ともいえる)。
平成仮面ライダーの世界では、歴史改変という出来事がしばしば起こる。歴史改変という出来事を出来事としてとらえるには、歴史改変を前後関係や同時関係におくための何らかの尺度が必要である。言い換えると、「改変される前の歴史」が前であり、「改変された後の歴史」が後であるための領域が必要である。
その領域は私たちが生きる時間の中にはない。私たちが生きる時間のなかからすれば、「改変される前の歴史」と「改変された後の歴史」どちらが時間的に前でどちらが時間的に後なんだろう、などと考えるのはナンセンスだ。その問いは、どちらが正しいとか間違っているとかいう問題ではなくて、ただただ意味を持たない。
歴史改変の前後関係は、私たちが生きる時間にとっては意味を持たないことでも、いくつかの物語にとっては必要不可欠なものだ。歴史改変が出来事となる必要があるいくつかの世界観では、時間を超えたメタ時間が存在する。歴史改変といった超時間的出来事は、メタ時間のなかにおいて前後関係や同時性を与えられるというわけだ。
となれば容易に想像されるように、時間軸を超えたメタ時間軸をも超えた超メタ時間的な出来事が起こる領域が必要になる場合も考えられる。例えば、『仮面ライダージオウ』最終回では、「歴史改変が行われたメタ歴史」から「歴史改変が行われなかったメタ歴史」への改変が行われた。この改変が行われる領域を、通常の歴史改変が行われる領域とはっきり区別したいのならば、私たちはその領域を2次メタ時間と名づけることが許されるだろう。もちろん、3次、4次と、メタに次ぐメタはいくらでも想定しうる。
例えばこんな考え方ができるだろう。『仮面ライダーカブト』の設定では、クロックアップとは別の時間軸に侵入することだとされている。私たちは、「別の時間軸」とは私たちの生きる時間からみて一種のメタ時間であると考える(メタ時間は必ずしも歴史改変に絡んだものであると考える必要はない)。クロックアップの時間軸を1次メタ時間と数えれば、ハイパークロックアップは2次メタ時間、フリーズは3次以上のメタ時間内の行為だと考えられる。そう考えれば、1次メタ時間を自由に行き来するハイパークロックアップも、2次メタ時間を止めるフリーズには対抗できない、ということが理解できる。通常の時間感覚で生きる人類には、何次メタで行われるフリーズであろうと同じ時間停止にしか思えないのだが。
注意すべきは、メタ時間は、私たちが存在を(あるいは存在しないことを)立証できるようなものではなく、ただ、「歴史改変という出来事に前後関係を認めたいなら」そこに立ち現れるものの見方だということだ。実は、私たちが生きる時間そのものも、証明すべき「対象」ではなくあくまで「ものの見方」にすぎないということには変わりない(哲学的には、時間という「対象」の実在を肯定する立場、否定する立場、いくらでもあるだろうが、当然この文章がそこまで立ち入る必要はない。この文章は下準備さえできればいい)。


メタ空間

普通に考えるなら、空間というものは宇宙の中にしか広がっていない。だから、宇宙の中のあらゆるものに位置があったとしても、宇宙そのものには位置はない。
私たちが、世界の融合や破壊や、その他の奇械な出来事の数々を考えるうえで、空間そのものの位置だとか宇宙そのものの位置だとかを措定する必要があるならば、その位置関係はメタ空間に基づく。メタ空間の中において、それぞれの宇宙は一定の位置を占めている。
メタ時間と同じように、2次メタ空間、3次メタ空間とより高次の空間を考えてもいいだろう(1段階ずつ進むのが億劫なら、ヒルベルト空間とかそういう概念に手を出すのもまた楽しいかもしれない)。


メタ因果律

私たちの日常に起こる出来事は、必ず一定の論理に基づいている。論理学は正しい。原因より先に結果が来ること(因果逆転)はないし、結果がそれ自体の原因を生み出すこと(循環論法)はないし、一つの原因が両立不可能な二つの結果を導くこと(矛盾)だってない。身近な出来事はたいてい、いちおう、可能性としては、「なぜ他の結末でなくその結末に至ったか」を論理的に説明することができる。
論理の中でも、公理とでもいうべきものがある。公理には「なぜ他の結末でなくその結末に至るのか」は問うことができないか、あるいはナンセンスである。「なぜ因果逆転はありえないのか」や「なぜ循環論法には論証能力はないのか」や「なぜ矛盾は間違いなのか」について、論理の中で回答を行うことはできない(正確には何が公理とされて何が定理とされているのか、私は知らないが)。
私たちが暮らす世界で通用する公理が、なぜ他の論理でなくこの論理なのか……その理由が存在する領域について考えなければいけないとすれば、その領域は、私たちが知る因果律の外、メタ因果律とでも言うべき領域であるだろう。
私たちが、歴史改変や宇宙の融合や、その他超スケールの出来事の妥当性について考えるとき、その妥当性を評価すべき基準は、因果律ではなくメタ因果律である。なぜなら、私たちに認識できる限りの通常の因果律は通常の時空間と不可分に結びついているのだから。メタ因果律には因果逆転や循環論法や矛盾を禁じるルールは(少なくとも自明では)ない。だから歴史改変や宇宙の融合について論じるとき、数々のパラドックスを恐れる理由はない。やった、好き勝手なことが言えるぞ!
逆に言えば、メタ因果律が一体どういう前提でありどういうルールであるのかも、私たちは知らない。何がメタ因果的に可能な現象で、何が不可能な現象なのか、わかりようがない。結局のところ、私たちはメタ因果律に属する出来事の経過について、あまり話すことはない。
だから、メタ因果律を楽しみたいというなら、あまり正確さを追い求めすぎないことだ。なお、2次でも3次でもご自由に。

君が願うことなら
すべてが現実になるだろう
選ばれし者ならば
――NEXT LEVEL 作詞:藤林聖子

 

 

5:世界(観)をどうとらえるか

いったい自分以外
誰の強さ信じられる
――NEXT LEVEL 作詞:藤林聖子

我ら思う、故に我ら在り
――我ら思う、故に我ら在り 作詞:綾小路翔

 平成仮面ライダーの最強議論をするうえで難題でもあり醍醐味でもあるところは、異なる世界観に属する仮面ライダー同士が戦うことであろう。この文章の立場からすると、世界観とはルールである。異なるルールに従う2人の戦士が戦うという状況をどうとらえればいいのだろうか。異なるルールに従っているとき、どんな戦士が勝利を収めるのだろうか。
この文章では、エセ哲学・エセ記号論っぽく世界と仮面ライダーの関係を考えていく。私はカントのこともソシュールのこともよく知らないし、これから真面目に勉強するつもりもないが、カントやソシュールを連想させるようないくつかの概念を利用していく。それはただ、こういう考え方をすると理解しやすい部分も(しにくくなる部分も)ある、という点において利用しようと試みるに過ぎない。私には何の真摯さもありはしない。


複数の世界観の存在

世界観とは、特定の時間・空間・因果律によって現れるところのものだ。それは、私たちが知る限りの時間・空間・因果律に従う領域全体が、私たちに認識できる全体だ、ということだ。時間・空間・因果律とは、その実在を証明すべき「対象」ではなくて、考え方のようなものだ。だから時間・空間・因果律のありようが一通りであることは自明ではない。私たちが知っている時間・空間・因果律とは別の時間・空間・因果律があるとするなら、その時間・空間・因果律に従う範囲のことを私たちは認識できない。その範囲は、私たちがいる世界観とは別の世界観といえる。世界観が複数あるということはそういうことだ。
ありうる全ての世界観が存在する領域――そこは、可能な全ての事象が、何の時間も空間も因果律も持たずに延々と広がっている、混沌とした連続体であろう。逆に言えば、混沌とした連続体の中から、時間・空間・因果律によって切り出した一定の領域のことを私たちは世界観と呼ぶ。私はちょっとスカして、この最も広い領域のことを可能性の海とでも呼んでみる。
ところで、私はこの文章で、「世界観」という用語に「世界」よりも広範な意味を与えておいた。世界観とは、一つの世界から成り立つこともあるが、複数の世界から成り立つこともある。例えば『ディケイド』や『ジオウ』の世界観は、複数の世界を内包するという性質が顕著だ。複数の世界を内包する世界観は、特定のメタ時間・メタ空間・メタ因果律によって自身のまとまりを保つ。
私はここで、先に挙げた定義文をもう少し広げる必要があるだろう。すなわち、世界観とは、特定の(メタ)時間・(メタ)空間・(メタ)因果律によって現れるところのものだ


複数の世界観の折衝

世界観とは、可能性の海をいくつかの領域に切り分けたものではない。可能性の海の切り分け方こそが世界である。
もしそう考えるなら、容易に想像がつくのは、可能性の海のなかにある一つの事象(本当は事象と呼ぶことさえ適切ではない。「可能性の一点」とでも呼ぶべきか?)を含む世界観が複数あるという状況がありうるということだ。「物事にはいろいろな見方がある」というのとたいして変わらない意味で、「ある瞬間のある地点にはいろいろな世界観が同時に存在している」。
一つの事象に対して複数の世界観が現れる、ということは、ストーリー的にはどのような状況のことを言うのだろう。時間的に言うなら、タイムトラベルの方式が複数ある、という状況はそういった状況の一つだろう。
タイムトラベルという行為は、おそらく、「どのようなメタ時間を想定するか」という考え方と密接に結びついている。だから、タイムトラベルが一定の方式をとっているということは、そこに小規模だが自律した一つの世界観があるということにほかならない。もし、ある物語の中で複数のタイムトラベルの方式が出てくるとしたら、タイムトラベルの方式によって「時間」というもののとらえ方が違い、なおかつ複数のタイムトラベルが同じ効果を生む、という状況が考えられる。例えば、『平成ジェネレーションズFOREVER』がそうだ。この物語では、『仮面ライダージオウ』のタイムマジーンと『仮面ライダー電王』の時の列車が時間移動中に遭遇するというシーンがある。そのとき、ジオウからすれば「タイムマジーンが通っているトンネル状の超空間にデンライナーも現れる」という描写にはなっていたが、これは文字通りの意味で「見方の問題」であって、電王からすれば全く同じシーンが「時の砂漠の中をタイムマジーンとデンライナーが走っている」光景に見えていたのかもしれない。かもしれないよね。
一つの事象に対して複数の世界線が現れる、ということは、空間的に言うなら、見る人によって世界の総数が変わる、という状況がその一つなのかもしれない。
世界は全部で何個あるのか、という問題は、「どのようなメタ空間を想定するか」という考え方と密接に関係している。だから、世界の総数は見方による。例えば、『スーパーヒーロー大戦』では『ディケイド』の門矢士と『海賊戦隊ゴーカイジャー』のキャプテン・マーベラスが邂逅した。『ディケイド』という作品では、世界は全部で9つあるとされている(これは作中で増減していくのだが、話を単純にするためにここでは9つと言ってしまおう)。『海賊戦隊ゴーカイジャー』という作品では、35ほどの複数の世界観が、とりあえずのところ1つの世界としてまとまっている。『スーパーヒーロー大戦』において、門矢士とキャプテン・マーベラスが出会った瞬間、全く同じ世界が、士からすれば9つに、マーベラスから見れば1つに見えていた、というのがこの文章での考え方だ。
このように書き続けてくると、ある人が特定のメタ時間・メタ空間・メタ因果律を想定していることは不利であることのようにも思える。そもそも可能性の海は無限に広がっているのに、ある一つの考え方に縛られてしまうと、人には有限の世界観しか見えなくなってしまう。本来9つでも1つでも21つでもない世界を、9つとしかみられなくなるなら、それは損失ではないのか?
おそらくそうではない。特定のメタ時間感覚を持つということは、タイムトラベルをする能力と不可分である。特定のメタ空間感覚を持つということは、パラレルワールド間移動をする能力と不可分である。特定のルールを持つから、無限の可能性のなかに初めて実在が生まれ、事象は事象となる。このことは私たちの日常にとっても変わらない。私たちは特定の時間・空間・因果律に縛られているから実在と非実在を区別できるのであって、私たちがいかなる時間も空間も因果律も認めなかったなら、私たちは全ての可能性を知るが、それは何も知らないことと同じである。


複数の世界観の戦闘

世界観とはルールであり、ものの見方である、という考え方を推し進めると、世界観というものは「観測者に関係なく静的に区切られたひとつの領域」であるよりもむしろ「物事を認識する主体を中心にした、認識するという行為の影響範囲」であるようになってきた。こうなると、「仮面ライダーとは世界(観)そのものである」というおなじみの命題も、大言壮語でなく文字通りの意味を持ってくる。だから「仮面ライダーが存在すると世界は消滅する(チノマナコルール)」とか「仮面ライダーがいないと世界は消滅する(ツクヨミルール)」とかいった設定もなかなか意義深げに思えてくる。
仮面ライダーとは世界(観)そのものである」という命題は、角度を変えれば以下のようにも読み取れる。
仮面ライダーが超常的な力をふるえる根拠は、仮面ライダーの設定にある。ある仮面ライダーが超常的な能力をふるっているということは、仮面ライダーが中心となって周りに世界観を展開しているということと同義である(また、世界観の周縁ははっきりした境界線ではなく、むしろグラデーションになっているのではないか、という想定もここから行えるだろう)。
ときには、異なる世界観に基づく仮面ライダー同士の戦いというものが行われる(というより、程度の差こそあれ、すべての仮面ライダーは本質的にはそれぞれ別の世界観だ)。異なるパワーソース、異なるオリジンを持つ者同士の戦いとは、互いに異なるルールの押し付け合いである。戦いに強いとは、ルールが違う相手に自分のルールを押し付けることにおいて優れているということである。
私たちはここで、仮面ライダーの「強さ」に対して、より広範に適用できる定義を新たに宣言しよう。「強さ」とは、「周りの事象や他の人にルールを押し付ける強さ」と「ルールを押し付けられる範囲の広さ」と「ルールの中身」の3要素の組み合わせである。可能性の海の中でより広い領域に対して、より強い強制力を持って、自分に有利なルールを押し付けられること、これが「強さ」である。この「強さ」のなかには、「物理的強さ」も「属性的強さ」も厳密な意味では含まれている。
ひょっとすると、自分のルールを押し付けられる領域が世界全体に及ぶような存在のことを、私たちは「神」と呼ぶのかもしれない。

 私たちは、特定の世界観に縛られない「強さ」の定義を得た。これで、互いにルールが違う2人についても、彼らの「強さ」を何らかの意味で比べることができるわけである。
私たちは、異なる世界観を持つ者同士の戦闘において勝利をおさめる条件を明らかにしようとしていた。「強さ」はその一つだろう。では、「強さ」が拮抗したら? 私たちは、世界観をまたいだ戦闘の勝敗を決める条件を、もう一つくらいは提示しておいてもいいだろう。
この文章で指摘しておくのは、こんな単純なルールがあることだ。「戦いはノリのいい方が勝つ」。このルールをモモタロスルールと名付けよう。ついでに、「「強さ」において伯仲した場合ノリのいい方が勝つ」という立場と「ノリの良さで伯仲した場合「強い」方が勝つ」という立場と、両方が現れるだろうから、前者を消極的モモタロスルールと、後者を積極的モモタロスルールとでも名付けておこう。


そしてふりだしへ

ここまでこの文章で述べてきたことは、このように言い換えることができるだろう。ライダーの違いとはルールの違いであり、能力の違いとはルールの違いである。この宣言は、異なるルールに基づくライダー同士の戦いを可能ならしめている一方、ライダー同士の戦いを解釈するうえでの非常に大きな問題を引き起こしてもいる。
ここまで述べてきたような考え方は、「ある能力は、異なるルールに基づく別の能力に対抗できる」と考える理由にもなると同時に、「ある能力は、異なるルールに基づく別の能力に対抗できない」と考える理由にもなってしまう。この文章は、アクセルフォームがクロックアップに対抗できるのかといった問題に対して何の指針を与えもしないのだ。
私たちは、「そもそもルールが違うのだから」という理由で、スーパータイムジャッカーの歴史改変によって野上良太郎が消滅しうるとも、スーパータイムジャッカーの歴史改変によって野上良太郎が消滅しようがないとも言える。というか実際、『平成ジェネレーションズFOREVER』で描かれていたのは、その2つの状況が同時に起こっている物語だったのかもしれない。『ジオウ』における始まりの男も、常盤ソウゴの継承によってある意味では消滅し、ある意味では生き続けたのかもしれない。そこに統一されたルールなどない。
だからこんな文章を隅から隅まで読んだところで、「オーロラカーテンで編集長が死ぬ前の龍騎の世界に行けるのか」とか「アルティメットクウガパイロキネシスはムテキゲーマーに有効なのか」とか「霊体化したゴーストは重加速を無効化できるのか」とかいった問題は全く解決しない。そういう端々の決定に役立つものは、第一には作品中の描写だが、あとは、頭を突き合わせて逐一レギュレーションを行う努力しかない。
そう、それが決まるのはあくまでレギュレーションとしてであって、異なるルール同士の闘争に自明に決まることなど一つもありはしない。だから、この文章でひとつだけ言うべきことがあるとすれば、何の能力の比較であれ、その比較基準を自明であるなどとは思わず、なにかの基準はすべて押し付けでなく提案として述べろ、ということだ。
あとはもう、この文章のなかに、最強議論をするうえで実際的に役立つ知見など何もない。もし最初からここまでずっと読んできた人がいるなら、たぶんそれは無駄な時間を過ごさせた。だから話は終わりだ。君の「議論」の場に戻れ。解散!

can't deny その法則進んでって
世界中が空っぽになる可能性
――EGO ~eyes glazing over 作詞:藤林聖子

 

 

終:定理集

ゴールより
その先にあるスタートライン
――The Next Decade 作詞:藤林聖子

自由でいたいなら
強くなきゃダメさ
――Shout out 作詞:藤林聖子

 ここでは、私がこの文章で生意気にも述べてきた定義や定理をまとめておく。ついでに、ライダー同士が戦う舞台設定の例を並べて置く。ここから一定の立場を選び取れば、それは最強議論のレギュレーションになる。たぶんね。


定義

作品……ある特定のタイトルのもとに紐づけられる情報とその他もろもろの集合
世界観……作品の物語内で起こる事象について記述した情報の集合で、物語内で起こる事象が従うべきひとまとまりのルールとみなせるもの
設定……物語内で起こる事象について記述した情報のうち、世界観の内部でその真偽を区別できる情報
公式設定……世界観の内部で常に真実だと制作者がみなしている設定
公認設定……その設定が真実だとみなす立場があることを、制作者が能動的に認知している設定
非公認設定……公認設定でない設定
世界……特定の時間・空間・因果律によって現れるもの
「強さ」……周りの事象や他の人にルールを押し付ける強さ」と「ルールを押し付けられる範囲の広さ」と「ルールの中身」の3要素の組み合わせ


定理

ある一つの作品が直接に参照する世界観は必ず一つである
世界観とは一つの世界そのものか、複数の世界を含むものでありうる
仮面ライダーとは世界(観)そのものであり、ルールそのものである


大レギュレーションの例

ニュートン・レギュレーション……参照は常に相互参照
アインシュタイン・レギュレーション……参照は一方通行でありうる
デカルト・レギュレーション……世界観同士での参照関係はない

中レギュレーションの例

仮面ライダーが存在すると世界は消滅する(チノマナコルール)。
仮面ライダーが存在しないと世界は消滅する(ツクヨミルール)。
戦いはノリのいい方が勝つ(モモタロスルール)。
主人公は勝つ(主人公補正)。
新フォームは勝つ(新フォーム補正)。
時間移動を経験したアイテムには時間停止耐性がつく(MEGA MAXルール)。
  ←スーパータトバコンボ、タイプスペシャルの両者のロジックを一本化
並行世界の自分と融合するとパワーアップできる(バイカイザールール)。
  ←パラドックスロイミュードバイカイザー、ジオウIIのロジックを一本化


小レギュレーションの例

異なる世界に属するライダー同士の戦闘は、どちらのライダーも関与していない第三者世界を舞台として行う(舞台の選定)。
異なる世界に属するライダー同士の戦闘は、1次メタ時間において、オーマジオウによるセカイリセットが1度行われてから再度行われるまでのうちに行う(時間の制限)。
起点となる時間軸から数えて3次メタ時間までで「敵の消滅」が事象として確認できる場合、これを勝利とみなす(歴史改変による勝利の解釈)。
起点となる宇宙から数えて3次メタ空間までで「敵の消滅」が事象として確認できる場合、これを勝利とみなす(宇宙消滅による勝利の解釈)。
ある世界で命を落としたとしても、その世界から2次メタ時間までの範囲でそのライダーが復活した場合、負けとはみなさない(死の取り扱い)。
各種能力は、何次メタ時間・何次メタ空間までの範囲で作用すると考えるのか(能力の適用範囲)。
仮面ライダーとしての能力」と「変身した者の能力」と「物語がたどった具体的展開」をどこで分けるか(概念破壊・概念耐性の適用範囲)。
現に対峙しているライダーと同一のライダーなんらかのかたちで召喚できるのか否か(各種召喚能力・再現能力の解釈)。

take it a try
疑問に縛られて
不安になるなら 心を止めて
闘いをつづけよう
――take it a try 作詞:藤林聖子

 

 

補1:フィクションにおける時間モデル

メニ…ウツ…ル 森羅万象
ツナ…ガル… 思考回路
鮮やかなイマジネーション
――PEOPLE GAME 作詞:高橋悠也

刻む この時を
語れ この筋書
交差する運命を 読み解いてみせよう
――Black & White 作詞:平井眼鏡

keylla.hatenablog.com

俺が今手に入れた 力がどんなものでも
誰よりも先を行く 理屈に変わりはないさ
俺達が最強の 力手に入れたとして
その後にこの目には どんな世界映るのだろう
――乱舞Escalation 作詞:藤林聖子

 

 

補2:仮面ライダーシリーズの世界観一覧

嵐のような時代も 端から見りゃただのクロニクル
その度に 繰り返し 後悔をしたって
忘れたような顔して 仕掛けてくる誰かのEgoが…
――EGO ~eyes glazing over 作詞:藤林聖子

伝説を知るたび毎に
未知なる価値を飲み込むように
手に入れる
自分らしく新しい 強さを
――ジオウ 時の王者 作詞:藤林聖子

 以下に示すのは、仮面ライダーシリーズの世界(観)の一覧である。これは「いったい仮面ライダーっていくつの世界(観)があったんだっけ」という疑問に対して、回答を与える手がかりとして、ごく個人的に用意したものだ。公式設定でも公認設定でもないことは言うまでもない。
この一覧は、様々な作品で行われた細かな歴史改変についてそのすべてを網羅しているわけではない。ただ、あなたがそれを網羅したいならできるように、便利そうな分類番号が付されている。適宜の好みでこの番号を解釈して、一覧を書き足せばよい。

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keylla.hatenablog.com

動き出せ PEOPLE GAME
この世界 HERO GAME
君がいる 背景もステージに変わる
――PEOPLE GAME 作詞:高橋悠也