デットンは存在し、かつ、弟であるのか

以下の文章*1は、LW氏の論文『白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか』に対する応答を意図して書かれたものです。『白上フブキは~』を読んでいないと意味が通らない記述もいくらかあると思いますが、ご了承ください。『白上フブキは~』を読むにあたり『デットンは~』を読む必要などは特にありません。

『デットンは~』が『白上フブキは~』というA面に対するB面であるなどとは万が一にも思っていただきたくないです。それはB面にしてはA面に対してはるかにパワー不足なので。『デットンは~』がB面とかではなく、『白上フブキは~』のあとに群がってきた無数の金魚の糞になれるよう、「フィクションキャラの存在論」という話題が盛り上がることを望みます。

 

 

 

 

デットンは存在し、かつ、弟であるのか

美少女コンテンツ好きかつVtuberのオタクであるところのLW氏(この理解であってるのか?)が「Vtuber存在論」を構想するなら、(怠惰で無知な三流オタクとはいえど)怪獣オタクである私には全く別の存在論が見えてくる。その「怪獣の存在論」は、LW氏が着想の源としたものとは別のコンテンツ・別のキャラクターを念頭に構築されるがゆえに(いや全く当然の話だが)別な主張を持つ*2

 

公式設定

例えばLW氏は『Vtuberやソシャゲキャラの特徴である』ところの『性質の束の流動性』を『技術的変化に基づいたコンテンツ展開の枠組みの変化』に帰した。この論理展開と(完全に同一ではないが)近いところで、『設定の流動性』を現代に特有な現象であると考えるオタクは多いだろう。
私にはこの考えを正しいとか間違っているとか述べる理由も必然もとくにはないが、ただ、いち怪獣オタクが見える景色はまったく違っている、と言うことはできる。怪獣オタクに見えるのは、以下のような景色だ。設定というものは、かつて流動的で、一時固定的になっていき、近年また流動的になってきたものである。
私がすぐに思い浮かべるのは、ウルトラシリーズの設定・ウルトラ怪獣たちの設定についてのざっくりした歴史である。以下、私が思い浮かべている過程について簡単にまとめていく。

 

かつて――端的には、1960年代から1970年代を指す――『設定』というものは、テレビ本編や児童向け雑誌や怪獣図鑑やお菓子のおまけカード、その他さまざまな媒体でばらばらに発表されるものであった。ばらばらに開示されていく設定の数々は、テレビ本編に注釈を加えるものであったり、本編とは無関係に勝手に企画されたものであったりと、その整合性の度合いはさまざまであった。
様々な媒体・様々な“作者”から発表され、ときに整合しない複数の情報のなかで、どの情報を設定として共通認識のなかに置き、どの情報には疑義を挟むのか。その判断において、一般的な怪獣オタクには統一的なルールは存在しなかった。少なくとも、怪獣オタクの多くに共有された設定のなかには、テレビ初出の情報・雑誌初出の情報・怪獣図鑑初出の情報などがごちゃごちゃに入り混じっていた*3*4。怪獣の設定とは、無貌の作者が作り出したパッチワークである。また、設定がつぎはぎであるということは、設定というものにとって最も“普通”な状態だった。
時代は変わる。明確にいつから変わった、ということもないだろうが、いつの間にか、『設定』は『公式設定』と『公式設定ではない設定』に分けられるようになった*5。少なくとも私の子ども時代には、設定というものは公式設定とそれ以外とに分けられることが“普通”だった*6
長く続いたこの時代、フィクションの内容に関する信頼できる情報は情報源をたどることができ、たどり着いた一次情報源が公式サイドによって送り出されたものかどうかで情報の正誤は端的に決まった。いや、本当は逆だ。この時代、「情報源をたどることができる」ということが「情報が信頼できる」という状態の定義になる。そして、話者が公式サイドかどうか、という“自明に”区別できるステータスが、情報の正誤というステータスに正確に結びつく。
具体的には、『ウルトラマンに関する間違いない公式設定』を初出できる情報源というものは、テレビ本編映像とか講談社発行の超全集とか「円谷プロ責任編集」と書かれているムック本とか、そういった一部の媒体に限られるようになった。
しかし、またも時代は変わる。いま、公式設定とそれ以外との境界は再び揺らぎつつある。その理由とは、現在、「明確に情報源をたどることができるが、一次情報源が『公式サイド』かどうかが一意には定まらない」というケースが爆発的に増えたからだ。
具体的に言うと、私は「監督や脚本家などの個人が、本編には反映されなかったが個人の脳内では有効な設定をTwitterに発表する」という状況のことを「一次情報源が『公式サイド』かどうかが一意には定まらないケース」と呼んでいる。
例えば、『アナと雪の女王』の監督のひとりは、Twitterで「船で難破し行方不明になったエルサとアナの両親はターザンの両親である」ことを示唆する旨のツイートをしたという。この情報に対して、「この設定が公式サイド全体の総意ではない以上、この情報は公式設定ではない」という態度をとるファンもいれば、「作品を(ある程度)思い通りに作り変えられる『作者』であるところの監督が採用している理解であるから、公式設定とみなせる」という態度をとるファンもいれば、はたまた「公式非公式で言えば非公式だが正誤で言えば正」という態度をとるファンもまたいるだろう。かつての、「公式設定(正) VS それ以外(正誤不定)」という二項対立は揺るがされつつある。

 

いち怪獣オタクとして、私が言うべきこととは何なのだろう?
それはひとつには、「『公式設定』の決まり方は時代によって変化してきた」ということだろう。ただ、ここで話してきた経過は単に「ウルトラマン界隈の場合」当てはまる一例にすぎず*7、フィクションキャラの存在論にはさほどつながらないので今回は置いておく。
もうひとつには――これが今回私が言っておきたいことの一つなのだが――「『公式設定かそうでないかははっきりと決まる』という考え方は一部の時代に特有のものであり、自明な考え方ではない」ということだ。この指摘は言い換えれば、「『公式設定』という概念はそれ自体何らかの前提を含んでいる」という指摘でもある。
仮に、あるオタクが「公式設定かそうでないかははっきりと区別できる」「(公理的に言って)公式設定はつねに正しい」と考えているとしよう。こうしたオタクは、フィクションキャラが有限の情報によって截然と定義される、という考え方に導かれやすいだろう。また、こうしたオタクは、「固有名というものを、真偽がはっきりと決まる有限個の記述の束だ」と考える記述説に最初接近するだろうし、やがては、「記述に多少の遊びをも許さない」性質ゆえに記述説を用いて存在論を語ることの限界を感じ、やがては記述説から離れるだろう。
一方、私のような怪獣オタクはどうなのか。私は、設定が正しいかどうかと設定が公式かどうかは厳密には別のパラメータであると考えているし、また、ある設定が公式かどうかはイチゼロではなくグラデーションとして決まると考えている(そして、こうした考え方は、「真理」どころか「全怪獣オタクにとっての真理」ですらなく、単に「特定の時代に縛られた一個人=わたしの個人的見解」にすぎないということを理解してもいるつもりだ)。私は、少なくとも、現実に存在する複数のファンが虚構に存在する同一のキャラクターを指示する過程において、設定が隅々までの厳密さを持っている必要性は感じない。だから、私がフィクションキャラの存在論を扱ううえで、「厳密さを前提とする」正しく理解した記述説ははなから役に立たないし、逆に言えば、「厳密さを要件としない」記述説【改】のようなものがあったらけっこう納得してしまえる。
例えば、細部において異なる「グリム版のシンデレラ」と「ペロー版のシンデレラ」を、「同じ世界線の話」として理解する人はまあいないだろうが*8、(素朴には)「同じシンデレラ」として受容する人は多い。シンデレラのことを「あるものがただ一つ存在し、それは昔々に生きた人物であり、母親を早くに亡くし、継母とその連れ子にいじめられ、そしてそのようなものは舞踏会で金の靴を履く」と理解してその名を呼ぶ人も、「あるものがただ一つ存在し、それは昔々に生きた人物であり、母親を早くに亡くし、継母とその連れ子にいじめられ、そしてそのようなものは舞踏会でガラスの靴を履く」と理解してその名を呼ぶ人も、まったく同一の「シンデレラ」を指している、と私は考える*9*10。私のイメージでは、固有名が示すところの記述の束は、記述の数も不定なら、一個二個の異同があっても指示機能に問題なく*11、またどの記述が入れ替え可能であるかも不定である。
だから、繰り返しになるが、私は、記述説が本来持っている「記述は厳密なものとして考える」という要件にはさして価値を感じないし、だからこそ「固有名を記述の性質の束として考える」という記述説のコアの部分だけを都合よく受け取ることができるのだ*12

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「重ね合わせ」としての記述

私は上で、「互いに矛盾する複数の記述の束が、それぞれ別の世界線を指示しているが、“同一人物”を指示している」というような場合について例示しようとした。怪獣オタクであることを負う私はここで、誤解を避けるために、「互いに矛盾する複数の記述の束が、同一の世界線を指示し、“同一人物”を指示している」というような場合についても補足的に記しておかなくてはならない。

月光怪獣 再生エレキング

ウルトラマンタロウ

「再生エレキング」という怪獣がいる。この怪獣は、互いに矛盾する2通りの出自を持つ怪獣である。一方、『ウルトラマンタロウ』第28話によれば、この怪獣は、かつてウルトラセブンによって倒されたエレキングの遺骸の一部(もとより地球に放置されていた)が月の光を浴びることで生まれた怪獣である。この話には、(エレキング自身の怨念を別にすれば)怪獣の遺骸から新たな怪獣を生み出そうという明らかな意思を持った主体の存在はまったく示唆されていない。他方、『ウルトラマンタロウ』と同時期(わずかに後追い)に展開されていた児童雑誌の記述によれば、この怪獣は、ウルトラマンタロウ打倒を目的とした怪獣たちの組織「怪獣軍団」に自らの意思を持って所属している怪獣であり、「怪獣軍団」がタロウ打倒のための明確な作戦を持って拠点から派遣し、地球に出現するに至った怪獣である。ここでは、怪獣の出現はヒーロー対悪の組織という大きな枠組みの中に整然と配置され、意図的なものとして理解される。
素朴に考えたとき、2つの設定は両方とも真であるとは考えられない。「ほんとうのところどうだったのか」と考えるなら、「本編の描写のみが真実であり、児童誌が述べていることは根も葉もないでっち上げである」と考えるのはひとつの道ではある。実際、そのように考える怪獣オタクは一定数いる*13
しかし、私からすれば、そのような見方はいささか“もったいない”。というのも、「怪獣軍団からの派遣怪獣」としての設定は、「遺骸からの復活怪獣」としての設定が発表されてから間もなく、矛盾を承知で投入された設定なのだ。それは『公式設定』を知らなかったがゆえに誤って投入してしまった誤情報ではないのだ。双方の設定に意図があるとするなら――「復活怪獣」かつ「派遣怪獣」として再生エレキングを受容させようとする“作者”の意図を感じるならば――2通りの設定を同時に真だとして認める道を探してみるのも一興ではないのか。
私はこう考える。ひとつの現象に対して複数の互いに矛盾する設定が同時に立ち上がることもあるのだ、と。「日本社会に再生エレキングが登場した」という現象に対して、「再生エレキングは遺骸からオカルト的によみがえったもの」というものの見方と「再生エレキングは悪の組織から送り込まれた戦士である」というものの見方とは同時に真なのだ、と*14
こうした考え方は、さながら量子力学の「重ね合わせ」にも似ている*15。ある素粒子は、ツブであり、かつ波である。二つの状態は(少なくともマクロな世界に生きる私たちには)互いに矛盾する状態であると思えるが、いずれも真である。「ものの真の在り方」と「ものの見方」はまったく別のものであると私たちは思いがちだが、実は同じである場合があるのだ*16
もちろん、私のように強い使命感を持って読み解き方を発明しなくても、フィクション受容に際して「同一世界線に対して複数通りの異なる理解を求められる」という状況を、単に特殊な例外として片づけることもまた、可能だろう。しかし、こうした理解を求められる状況は果たして怪獣オタクだけが経験しているものなのか、疑問に思うところではある*17

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設定のオンオフ

ここまで、『ある設定が公式設定である / 公式設定ではない』というパラメータの存在は自明ではないということ、また、『ある設定が公式設定である / 公式設定ではない』というパラメータは『虚構的事実に対して正しい / 誤りである』というパラメータとは厳密には別のパラメータであることを私は主張してきた。
ならば、『設定』というものに対して読み取れるパラメータは『公式設定かどうか』と『正誤』の2つだけなのだろうか。私はそう考えてはいない*18。この節では、いささかトリヴィアルで発展性のない議論にはなるが、設定には『オン / オフ』というパラメータがある(と私は考えている)という話をしておく。

ウルトラセブン

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ウルトラの母

ウルトラセブンの母親はウルトラの母の姉」という設定がある。いや、あった、と言うべきか?
この設定の取り扱い方というのはわりに微妙なものになる。この設定は、初出の媒体も時期もいまいちはっきりしない情報(少なくとも本編では語られていない)であるのだが、一時期はかなり公式寄りの媒体でもフォローアップされており、「この情報が公式設定であった時期は確かにあった」といえる。しかし、この情報は現在も公式設定である、とは断言しづらい。近年の公式寄りの媒体ではめったにフォローされないのだ。仮にこの情報が“現在も”公式設定であるとすれば、かなり細かい設定まで扱った近年の資料で「セブンと母は甥-叔母の関係」という重大な情報を記述していないということはかなり奇妙な空白に思える。
もしも、ある設定が、後発のほかの公式設定と矛盾するとか、制作サイドによって明確に否定されたとかであれば、「この設定はかつて公式設定だったがいまは黒歴史として葬り去られた」と片づけることができるのだが*19、この情報に関してはそのいずれの事態も起こっていない。真ととらえるのは不自然だが、かといって偽ととらえるだけの積極的根拠もない……そんな設定に出会ったとき、私は「現状、有効であるかどうか」というやや恣意的な変数を新たに持ち込む。それがつまり『オン / オフ』である。私の理解のなかでは、「ウルトラセブンの母親はウルトラの母の姉」という記述は、「ウルトラセブン」という固有名が意味する記述の束のなかから抹消されることなく、ただ『オフ』にされている。

 

虚構世界の存在が持つ性質についての記述が、私たちが暮らす世界で過ぎていく時間に依存した変数『オン / オフ』を持っているというのは、いささか噓くさく聞こえる主張ではある。しかし、私たちがフィクションキャラを指すときの固有名の働きとして、「設定には『オン / オフ』があると考えるモデルのほうが実情により合致していると私には感じられる。
歴史は不可逆なものであり、否定された設定も、言及されなくなった設定も、少なくとも私たちの認識には残り続ける。私たちが固有名を用いてなにかを指示するということ…それが正確にはどのような現象なのか、私には深い理解はできていない。そのつたない理解のなかで言うならば、私たちがなにかの名を呼ぶとき、否定された設定も言及されなくなった設定も名前のなかにその痕跡を残しており、歴史は消えない。私たちの理解が、認識が、固有名が意味する記述の束と一致しないというのならば、固有名とは果たしてなんであるというのか?*20

 

空虚な指示

私がもし、「固有名であるところの記述の束は、公式設定ではない記述や有効ではない記述を含みうる」と主張するのならば、必然的な帰結として、より人を食った事態についても、これを例外として退けることなく、言及しておかなければならないだろう。その事態というのは、設定=記述*21が“適切”な指示対象を持っていないという状態だ。

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地底怪獣 デットン

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地底怪獣 テレスドン

デットンという怪獣がいる。『帰ってきたウルトラマン』に登場するこの怪獣には、「『ウルトラマン』などに登場する怪獣「テレスドン」の弟である」という設定がある。
この設定は、児童雑誌に由来する設定だといわれているのだが、その解釈は微妙だ。そもそも、『デットン』や『テレスドン』といった怪獣名が、生物学的な種名に当たるのか、社会的な個体名に当たるのか、怪獣界隈ではその区別は基本的にはっきりとなされない。その、種だか個体だかわからないテレスドンに対して、さらによくわからない「弟である」という特徴でもってアクセスを図るのがこの設定なのである。
テレビ本編中には、デットンとテレスドンとの関係を示唆する描写はない(せいぜいが形態的類似である)。全く別の状況下で個別に登場した野生の生き物であるデットンとテレスドンに対して、「家系的に言って実の兄弟である」という解釈を施すことには、ちょっとした抵抗がある(実の兄弟であることが明らかになっている怪獣というのは多少はいるが、基本的には珍しい)。また、「デットン」や「テレスドン」が種名だとすると、「デットンはテレスドンの弟である」という記述は「インドゾウElephasはアフリカゾウLoxodontaの実の弟である」のような意味不明な文になってしまう。かといって、「弟である」を「生物学的に同種である」ことの比喩だとか「生物学的に亜種である」ことの比喩だと断言するだけの情報もまた、作品には不足している。
実践の立場から言えば、怪獣オタクのなかには、デットンをテレスドンの実の弟である個体だとみなすオタクもいれば、テレスドンと同種の個体だとみなすオタクも、テレスドンの亜種に当たる種だとみなすオタクもいる。そして、こうして設定の解釈が割れていることは、単に制作側の言葉足らずだと――最初に「デットンはテレスドンの弟だ」と述べた人の頭の中にはなんらかの正解があったのだと――理解してもいいのかもしれない。
しかし、私がこの設定から模索したいのは、解釈の可能性が“開きすぎている”記述を、解釈の可能性が“開きすぎた”記述のまま受け入れる道である。

 

そろそろ結論を言おう。固有名を構成する「記述=設定」は、必ずしも特定の性質を「実際に指示している」必要はない。「指示しているっぽさがある」ことだけが、記述が記述たるための要件である。「テレスドンの弟である」という言葉は、「デットン」という固有名を構成するうえで、「一意に解釈できる意味」という中身を持っている必要はない。ただ、「解釈できそう」という外面だけで十分なのである*22
例えば、「ヘヅラーイルブカ」という言葉(今でっち上げた)を何らかの固有名として成立させる場合を考えてみよう。私はこれから、「ヘヅラーイルブカ」というシニフィアンが指すところのものに「設定」を与えることで「ヘヅラーイルブカ」を何らかの記述の束として成立させようと思う。このとき、「設定=記述」は、現実世界の事実を指している必要がないばかりか、虚構世界の事実を指している必要すらない。せいぜい「~である」「~する」が末尾につくような適当な音の羅列で、固有名を固有名に仕立て上げるのには十分である、ということだ。

「ヘヅラーイルブカ」
=「あるものがただひとつ存在し、それはデルマーシュをグライし、ドンプスをウェックスし、ガンパロースであり、なおかつデスタ・グラキエ」*23

「記述は指示していることではなく指示しているっぽさによって役目を果たす」という逆説は、岩井克人貨幣論にも似ている*24。(私の理解が正しければ)岩井の貨幣論では、貨幣の価値は、「金」とか「労働」とかいったなにかによって、終端でその価値を明確に保証されている必要はない。ただ、「価値があるらしい」と信じ込まされている人が次の人に手渡す、その過程においてのみ価値が保証されている。固有名もそれと同じで、「内実としての記述が本当に指示対象を持っている」必要はない。ただ、「内実っぽい何かが書きつけられている」だけで固有名は固有名としての役割を果たすのだ*25


イデア的な実在?

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キバーラ

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キバットバットIII世

2009年1月、『仮面ライダーディケイド』の放送を目前に控えた私は、オープンしたばかりの公式サイトを隅々まで眺めていた。
私の記憶が正しければ、サイトオープンから何日かは「キバーラ」は「キバットバットIII世の妹」という設定が記述されていたはずなのだが、何日かするといつの間にか「キバットバットIII世と同族」という記述にすげ変わっていた。なに、テレビ本編の放送前から『公式設定』がコロコロ変わっていた、というそれだけの話なのだが。私にとっては「あー、設定ってものは3日もあれば変わるんだな」ということを初めて知った、ちょっとした思い出だ*26

 

なぜこの節をいきなり思い出話から始めてしまったかというと、それは、私が「設定というものが流動的である」ということをわりに自然な状態として受け入れてきたということを知っていただきたかったからだ。
この思い出話は――ひいては、私が「設定ってわりと流動的」と素朴に感じるに至った環境は――まったく個人的にすぎないが、個人的であるがゆえに根深い感覚の相違をもたらす。具体的に言うと、私にはLW氏が「設定がリアルタイムで更新されること」を特定のコンテンツが持つ特徴とみなしてやたらとこだわるということにどうも共感できないのだ。

 

LW氏にはどうやら、キャラクターの実存とキャラクターの設定とをかなり近い位置で接着する(あるいは同一視する)という発想の傾向があるらしい。そしてなおかつ、時間軸上で発生する「設定の変更」という現象と「キャラクターの実際的あり方の変化」の間にも“必然的”つながりを読み取る。そして、「キャラクターの実際的あり方の変化」が(疑似的にだが)時間軸上で起こっているかのように感じ、これに驚く。こういった発想の傾向は『Vだけど、Vじゃない!』からも端的に伝わってくる。
私が素朴に受け入れている発想というのは、LW氏のそれとはだいぶ違っていて、「設定による記述とキャラクターの実際的あり方との間には多少の遊びがあり」、「設定の変更によって、(時間的に)ただちに指示対象のキャラクターが変化するわけではなく、記述の流動性に対してキャラクターの実在はある程度固定的である」というものである。公式サイトの記述が今日変わったからと言って、今日のキバーラが昨日のキバーラと別人というわけではない*27*28

 

鍵は、「記述=設定」と「実際的あり方」との関係を、厳密に一致した(当然タイムラグもない)関係・言い換えととるか、前者が後者を一方向的に指示する関係ととるか、の違いではないだろうか。
私がとろうとしている後者の考え方は、言うなれば、「記述=設定」の厳密な総和とは別の位置にわざわざもう一つ、「キャラクターが実在する場所」を想定している。記述の束とは別に、イデア界にキャラクターが実在していると換言してもいいかもしれない。そして、イデア論者が唯物論者から受けるべき指摘を私もまた受けなければいけない。「記述の束の時点でじゅうぶんに一定の実態があるのに、それとは別にイデア的な実態などというものを持ち出すのは“余計”ではないのか?」
私は現在、この指摘に対して有効な再反論を行うことができない。せいぜい「キャラクターの実在を記述そのものからは(ある程度まで)自由なものとして規定したほうが、私の直感には合致する」と述べることができるのみだ。あなたにはどちらのとらえ方のほうがしっくりくるだろうか? 設定がころころ変わるとその瞬間ごとに別人になるVtuberか? あるいは、多少設定が変わっても(さまざまな物理的実体から密輸してきた諸性質でもって)同一性をしぶとく維持するVtuberか?*29*30*31

*1:論文とか論考とかいったものには達していない、せいぜいただの“文章”である。謙遜も傲慢も抜きにして、ただひとつのまともなサイテーションもない文章が論文とか論考であるはずがない!

*2:いや、そもそも、ここでする話は存在論とはみなせないのかもしれないし、そもそも言語哲学的興味から外れているかもしれない。そこらへん、私には詳しいことはさっぱりなので、議論のフレームから何から全部おかしかったときは遠慮なくそう言ってください。

*3:児童雑誌などの周辺媒体で初出の情報が十数年後に公式にフォローアップされる、といった現象じたいは、別に現在に限った現象でもなければウルトラシリーズに限った現象でもない。例えば、ガンダムシリーズアッガイというモビルスーツには、個人の二次創作サイト初出の「スウィネン社で開発された」という設定が公式に逆輸入された、といったような経緯がある。
しかし、60~70年代のウルトラシリーズにおけるこうした事例について語るとき、『逆輸入』といった言葉はいささか不適当だ。というのも、当時のコンテンツは「ここまでが正典でここからは二次創作」といった区分は一般的ではなかったし、かつ、テレビや映画などのコンテンツでは“作者”が明瞭でなかった(少なくとも“作者”を特定個人に帰することはできない)のだ。
特に怪獣ジャンルではこの2つの性質が特に強かった。『ウルトラマン』を例にとれば、番組『ウルトラマン』の立ち上げに深くかかわった大伴昌司氏が、児童雑誌という媒体でテレビ本編からは想像しえない自由奔放な設定を発表しまくった、ということがある。“作者”のひとりである大伴氏の述べた情報を、一概に非公式として退けるオタクはそう多くないし、また一概に公式として受け入れるオタクもそう多くはない。
「作者と作者以外との区別が明瞭でないために、公式設定と非公式設定との差も明瞭でなくなる」といった事態は、「白上フブキは~」のなかではLW氏が例外として意図的に議論から除いた部分ではある。この文章『デットンは~』では、怪獣オタクとして話すうえで「作者と作者以外が区別できない」事態を例外にしてしまうのはあまりにもったいないので議論に含めることにした。

*4:正確には、「テレビ本編のみ『正典』とみなし、テレビ本編中で示された情報のみを公式設定とみなす」という原典主義の怪獣オタクも一定数いる。しかし、私の意見を言わせてもらえば、怪獣の持ちうる性質を映像中ではっきりと示されるわずかな特徴のみに限ってしまうことは、怪獣の実在感と寓意性との双方を大幅に低減させてしまう非常にもったいない行為である。ここではこういう原典主義については深く考慮しない(考慮しないが、べつに間違いだとまで言う気もない)。

*5:ここで、「分けられる」という言葉は、受け身と可能、両方の意味を含む。

*6:ただし、ここで言う「私の子ども時代」は、現在大人の私が事後的に再構成している“子ども時代”であるという可能性を含む。

*7:というか、わりに雑に話したので、私が描いてきた経過については私以外の怪獣オタクからたくさんの反論があるだろうし、あるならぜひ聞きたいところでもある。

*8:しかし、この「世界線」なる概念も怪しい概念だ。
私はいま、「世界線という概念を用いたフィクション理解というものも、現代のオタクに特有な感覚であり、決して自明ではない」などと述べてみたい気持ちに駆られているが、そうした指摘は議論を無用に長引かせるばかりか私の議論能力をかなり超えてもいるため、ここでは自重しておく。

*9:ここで、いうまでもなく、「フィクションキャラの同一性」の要件の中に「ある一つの世界線のなかを生きている」と考えるかどうか、という立場の違いが問題となる。現実世界では、「現実世界」だととらえうる世界線は(通常)一つしかないと考えられているので、現実の人物を指す固有名について考えるときこうした立場の違いはここまで露骨にはならないのだろう、たぶん。しかし、フィクションキャラについて考えるときはこの立場の違いはわりとすぐに顕かになる。
結論から言えば、私はたまたま世界線が違っても物語が違ってもあるキャラクターを同一だとみなす場合はある」と考えるので、そういう前提のもとで「グリム版のシンデレラもペロー版のシンデレラも同じシンデレラとして認識できる」と書いた。ここについてのまじめな議論を私がしようとしたら、「世界線という概念がいかに操作的な概念か」という話題にかかわってくるので、前註で述べた通り今回は無視する。

*10:ところで、複数の世界線で複数の互いに異なる出自を持っているが、同一人物である、という理屈を、キャラ自身の設定として咥えこんでいるキャラクターというものも世の中には存在する。例えばトランスフォーマーシリーズに登場するユニクロンがそうだ。トランスフォーマーシリーズはアメコミのように(というよりアメコミなので)シリーズ全体を包括するマルチバースを世界観として採用しているのだが、いくつもの世界で異なる出自を語られる宇宙の神ユニクロンはしかし、すべての並行世界で“同一人物”だと設定されている。
このユニクロンの例は多少は興味深いと思うが、制度化されたマルチバースは物語の枠内に収まって(めったに)その枠から出てこないので、この文章ではユニクロンのことを「単に込み入った構造を持った物語のなかで込み入った設定を持ったキャラクター」と考えて詳しい言及は行わない

*11:「実践的には問題がない」という意味にとどまらず、「原理的にいって問題がない」という意味で述べているつもりだ。

*12:門外漢なので断言はできないのだが、ひょっとすると『「名辞による指示」という連続的な値を持った現象を、真理値のみで測れる論理学でうまく説明する』ことこそが言語哲学が哲学たる要件の一つなのだろうか。だとすると、私の言わんとすること――固有名はわりにふわふわと何かを指示しているということ――ははなから議論のフレームを失っていることになる。「そういうのは認知言語学でやってください」って言われちゃうんだろうか。

*13:ここまで「テレビ番組と児童雑誌の間には、どちらかが絶対公式でどちらかが絶対非公式という区別はない」ということをさんざん言ってきた。しかし、私がここでテレビ番組『ウルトラマンタロウ』のことを本編と呼んでいることには「絶対的でこそないものの、相対的にはどちらがより公式寄りでどちらがより非公式寄りみたいな差はある」という含意がある。
しかし、テレビでの描写を「非公式寄り」雑誌等周辺媒体での説明を「公式寄り」だと位置づけたいようなときすら、怪獣ファンにはある。
例えば、『ウルトラマンタロウ』第1話では、現代に生きる地球人の青年 東光太郎が命を落とした時にウルトラの母が新たな命を与えたことで転生した姿がウルトラマンタロウであるかのように描写されている。しかし、児童雑誌の説明では、ウルトラマンタロウは純然たる宇宙人として12,000年前に生を享け、現代に地球に来訪して東光太郎と一体化したことになっている。ウルトラシリーズという大きな作品群のなかで、ほかの設定や描写と整合性が取りやすいのは圧倒的に後者の設定であり、前者の設定を唯一の真実として受け入れるオタクはまずいない。

*14:もちろん、私とは別の解決法もあるだろう。LW氏が意図せずして指摘したところで言えば、片方の設定を客観的・物質的な真実として、もう片方の設定を寓意として理解する、というのが一つの方法だ。
しかしながら、私は構築主義寄りであり、物理還元主義とは相性が悪いので、物理的な理解を唯一確かだとして特権的地位に置きかねないこの方法には魅力を感じなかった。

*15:こんなこと述べてたらソーカルに鼻で笑われそうだ。こういう例示はなにかを説明しているようで実は何も説明してないからあまり使いたくはない。しかしこの例が一番しっくり来たんだ、許してくれ……。

*16:これはわりに余談だが、「同一ジャンルで理解される2通りの設定」よりも「互いに異なる“お約束”を持った別のジャンルとして理解される2通りの設定」のほうが、「同一世界線に対しての複数通りの事実」として理解しやすい、という傾向はあるように思える。
例えば、同一世界線上の同一キャラクターに対して、互いに矛盾する2通りのSF的な設定があるというのはたいていダメで、互いに交差しないSF的設定・オカルト的設定があるというのはわりに話が通りやすい。気がする。
怪獣というのは比較的ジャンル混交に相性がいいジャンルだ。ハードSF的宇宙生物も、かつて倒された怪獣の怨霊も、幽世から来た王子様も、妖怪も、メタフィクション的舞台装置も、同じ“怪獣”というくくりに入れて同じ番組内で活躍するということが非常に許されやすい。その理由の一つは、怪獣には「直接戦闘」という共通言語があり、勝敗という同じ土俵を共有することで無理やり世界の同一性を担保できるからであろう。
ただ、怪獣というジャンルの独自性を強調しても、この議論全体の応用性を下げるばかりなので、この話はここら辺にしておこう。

*17:ちなみに、『ウルトラマンタロウ』には複数通りの設定を持っている怪獣は特に多い。数ある中で再生エレキングを例に選んだのは何となくであり、深い理由はない。

*18:これは言うまでもないことだが、なんでもかんでもパラメータを増やせばいいものになるというものではないだろう。単純な見方は、単純であるがゆえにいっそう真実である。私は恣意的に新たなパラメータを開発することに対してなんらかの免罪符を用意しなければならない。が、この文章ではそういった用意は控えめに、ややナイーブに、新たなパラメータを発表していく。

*19:黒歴史」も「世界線」なんかと同様操作的な概念のひとつだなあ、と書きながら思った。

*20:この節は語用論や認知言語学にかなり接近してしまったのだろうか?

*21:このすり替えは本来もっと丁寧に論ずるべき事項なのだろうが、めんどくさいのであまり深く考えなかった。「固有名=記述の束」って言うときの「記述」ってフィクションキャラの場合要するに設定のことでしょ?

*22:なんだかよくわからない設定の例として、「デットンはテレスドンの弟である」のほかに、「ゼットンテンペラー星人の牛であるらしい」というのがある(場合によってはこの設定には「頭の角がその証拠だ」という文が続く場合もあった気がする)。
「ここで『牛である』って言ってるのは、たぶん『家畜である』の言い換えだよな……でもなんでそこでストレートに『地球人にとっての牛みたいな家畜である』と言わなかったんだ……?」というところがよくわからないポイントになるのだが、この設定にはそれ以上に面白いところがある。
それは、誰視点で言っているのかさっぱりわからない「~らしい」が末尾にくっついていることだ。LW氏が指摘するように、小説のようなフィクションにおいては「本人でしか知りえないことを知っているかのような全知の語り手」が登場することは多い。しかし、ゼットンの例のような「作品世界内の人物しかなしえないであろう、中途半端な理解をしている語り手」が登場することはいささか珍しいだろう。この語り手は、一方では、地球人の誰も知りえないことを知っているために、物語世界の外に特権的に存在すると考えたくなる。しかし他方では、伝聞調で話をしているために、物語世界内に降り立って限定的な情報下でコミュニケーションを行っていると考えたくなる。いったいこの話者はどこにいるのだろう?((この話を友人にしたところ、語り手がはっきりと特権化されず、中途半端な伝聞調をとるのはレアケースではなくむしろ文学の原初的あり方なのではないか、という指摘を受けた。なるほど確かに。

*23:ただ、この例がデットンの例と比べて圧倒的に劣るのは、新しいシニフィアンをでっちあげることで、新しいシニフィエがどうしても同時にでっちあげられてしまうということだ。「シニフィエなきシニフィアン」を例示するのは非常に難しい(というか公理に反するのか?)。
シニフィアンのみをでっちあげようとしてもシニフィエとそれが属する虚構世界がセットでついてきてしまう、というようなことは、「ズンドコベロンチョ」でも「くしゃがら」でも「しろうるり」でも「アタオコロイノナ」でも「エルマ族のケムチャ」でも容易にわかることだ。その点、新しいシニフィアンを生むことなく、なおかつシニフィアンシニフィエとの接続が不明瞭なままで完成している(と私には思われる)「弟である」という記述はよい例である。

*24:またソーカルに笑われる……。『貨幣論』、不誠実な使い方かもしれないですけど、ものの例には使いやすいお話なのでいつも重宝しています。

*25:しかし、注意すべきなのは、すべての議論が「固有名と現に存在する事物とのつながりをどう説明するか」に始まっていたということだ。もし、私の述べてきたことから「固有名は現に存在する事物と何のつながりも持っていない」という素朴な理解をあなたが得たとしたなら、記述説(の一部)を仮採用して議論してきた意味がないばかりか、言語哲学の語彙を用いる意義すらないということになる。
このように考えるのはどうだろう。固有名は、内実としての記述によって存在する何かを指示することに成功してはいるが、存在する何かを指示するうえでは不必要な追加項目も、固有名自身が固有名であるために持っているのだ、と。固有名は必要十分ぴったりな定義ではないのだ。
しかし、「不必要な追加項目」としての記述も、なにかを指示するうえで自由に着脱できるというわけではない(???)……むしろ、空虚な記述ほど、勝手な判断で記述の束から除外することができない傾向にあるのではないか(直感)。ここは実は、私がかろうじて意味論の範囲内にとどまって話していたいと主張する根拠でもある。

*26:ちなみにキバーラの設定は2020年にWEBサイト『仮面ライダー図鑑』の発表によってまたも更新された。いまでは、「キバットバットIII世の妹である(ただしどの並行世界のキバットバットIII世かは不明)。」という折衷的な表現が公式設定になっている。

*27:「記述が流動的であっても実存は固定的だ」というのは、LW氏は現実世界の事物が虚構世界の事物から際立って異なっている点として挙げた特徴であったように記憶しているが、私が言っていることは「程度の差こそあれ虚構世界の事物だって固定的だ」ということであり、LW氏とすれ違う意見だ。
むろん、両者の意見は異なる前提を採用しようとしており、究極的には対立点を持っていない、ということは言うまでもあるまい。

*28:ただし、「記述=設定からある程度自由な実存」というものの見方は、「設定の(虚構的)正しさ」というパラメータを無理に解体して、「連続値としての公式度」といったパラメータを新たに導入したからこそ初めてできる見方にすぎない、といった反論はありうる。

*29:あなたはあるいは「記述そのものとは別に実存を規定しようとするのは、物語中で示されたことから離れて独自解釈を推し進めているだけなのでは?」と言うかもしれない。これは微妙に違うと私は思う。ねぎしそ氏が「原典主義者」かつ「『キャラクターが持つ全性質という母集団から特定の描写というサンプルを取り出す』という譬えの発案者」でもあったことを思い出そう。原作で示されたことのみに真実性を認めるストイックな立場からも、イデア的実在は夢想しうる。かなり込み入ったモデルにはなっていくだろうが……。

*30:私がわざわざこんな見方を提唱している理由の一つは、ねぎしそ氏に端を発する「統計の譬え」を接続してなんとか利用できないか、ともくろんでいるためではある。
例えば、イデア界に「完全な形で実在して」いるVtuberは、(「実在」という言葉の定義からして)物理的実体が持ちうるすべてのパラメータに対して具体的な値を持っている。しかし、私たち視聴者や、制作者や、演者でさえも、すべての値について知ることはない。一部の特定の値についてのみ知ることができるわけで、これが母集団に対するサンプルになる。

実は、私がしつこく記述説(の一部)に執着してきた理由も、この「記述そのものと実存とを区別して別の場所に置く」見方について語りたかったからではある。だが、それについて理論だてる用意は当分整いそうにない。

*31:私がLW氏の議論でよくわかっていないところのひとつは、「Vtuberにおいては、すべてのパラメータについて、具体的な値を(実践的には不可能だが原理的には)特定できる」ということにやたら注目しているところだ(ただし、この特徴を議論の本筋に用いたわけではないことに注意)。LW氏はこの特徴は「小説のような固定的テクストでは、存命中かつオープンな作者でもない限りめったに起こりえない現象であり、起こったとしてもVtuberとは起こるレベルが隔絶している」と考えているらしいのだが、私にはシンプルに「程度問題だな」としか受け取れない(反論としては別記事『絶えず自壊する泥の反論集』として別の視点からいくらか触れているので、どうしてもこの齟齬が気になったなら参照いただきたい)。
もっとも、これは単に、LW氏と私の間で念頭に置いている / 置くことができる作品媒体が違うというだけのことで、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。LW氏は丁寧なことに「古典的な小説を念頭に置く」と但し書きを行っているし、私も丁寧なことに「この文章は怪獣オタクだから言えることにすぎない」と但し書きを行ってきたはずだ。