大河内一楼: 一流の詐術
必ずそうでなければならないということではないが、多くのフィクション作品は思考実験としての性質を持っている。すなわち、多くのフィクション作品は“これこれこういう条件の下でこれこれこういう事象が起こったとする、そのとき妥当な推論としてこんな結果が導かれうるといえる”という主張として理解できるということだ。あるいは、“ひとりの人間がこれこれこういう経験をしたとする、そのとき妥当な推論としてその人間はこんな信念を抱きうるといえる”という主張として理解できるということでもいい。
あるフィクション作品が持っている思考実験としての性質がより洗練されているとみなせるとき、その作品に触れるひと――さしあたり、“視聴者”とでも呼ぼうか――は作品に対して『一考に値する主張として理解できる、すぐれた作品である』という評価を下せる。もちろん、すべての視聴者がそうである必要もない。が、少なくとも私はそういう評価をよく行う。
逆に言えば、あるフィクション作品がすぐれた作品であろうとするとき、ありうべき方法のひとつとして『作品が持っている思考実験としての側面を洗練させる』という方法があるわけだ。この、思考実験としての洗練を目標としたとき、作者がフィクション作品を語るうえで守るべき原則というものがいくつもある。そんな原則のなかでとくに重要なもののひとつが“すべてについて語ろうとするべきではない”ということだ。
“すべてについて語ろうとするべきではない”というのは、すべての条件で得られたすべての結果について記述するべきではないということだ。なぜこのような原則があるのか、その理由は説明するのがかえって難しいほどに単純なことだ……例えばサッカーを題材としたフィクション作品ならば、『転校生である主人公は学校でサッカー部を立ち上げたかもしれないし立ち上げなかったかもしれないしそもそも転校してなかったかもしれないが、その結果としてプロサッカー選手になった可能性もならなかった可能性もなんならプロ卓球選手になった可能性すらある』というような仕方でこれを語るべきではない。すぐれた作品であることを望むのならば、通常は、『サッカー部を立ち上げた場合は、結果はこう』とか『サッカー部を立ち上げなかった場合は、結果はこう』という仕方で語るのがよい。それこそ思考実験らしく、区切られた条件の下で区切られた結果を考察することで、はじめて一考に値する主張が得られる。
しかしながら、フィクション作品をつくるとき、不慣れなひとは“すべてについて語り”たくなりがちである。どうもひとは、フィクション作品が、すべての条件に対して成立するようななんらかの結果――すなわち、世の中の真理――について教えてくれるのではないか、という期待を抱かずにはいられないところがあるらしい、不慣れなうちは特に。
不慣れなひとについての話は置いておくとして、フィクション作品をつくるのに巧みなひと、とりわけ一流と言える脚本家なんかは、すべてについて語るのとは逆……区切られた状況について語るための技術が際立って美しい。私がとくにその技術の美しさを感じるのが大河内一楼であり、まずは彼の技術について話したいと思う。

私が知る(といっても何本かしか観たことはないのだが)限りでは、大河内一楼の作品のなかでは、作品に登場するキャラ自身が、序盤で作品のキーになる発言を行い、状況がしっかりと区切られる、といった場合が多い。
例を挙げるとするならば、やはり『コードギアス 反逆のルルーシュ』だろう。この作品は、植民地主義の超大国の皇子ながら、両親が絡んだゴタゴタに巻き込まれて家族を傷つけられその超大国を憎むに至った主人公が、テロあり殺人あり政治劇ありロボットバトルあり学園ラブコメありの戦いを挑んでいくピカレスク・ロマンだ。そしてこの作品の冒頭から、主人公であるルルーシュが何度も口にするセリフに次のようなのがある。
撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけだ!
これ、まさにこのセリフだ。このセリフこそがキーワードとなって、この作品が語るべき内容をその他すべての物事からしっかりと区切っている。なればこそ、このセリフはこの作品を代表する名ゼリフとなりうるし、実際に名ゼリフとして認知されている*1。
主人公・ルルーシュが「撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけだ!」と述べるのは、たいていの場合、自分に銃を向けてくる相手に対してその命を奪うことを辞さずに反撃を始めるときだ。つまり、相手に対して『俺を撃とうとしたということは、俺という他人を撃つ権利がお前自身にはあるとお前は考えているというわけで、つまりはお前自身が撃たれるという覚悟もあるはずであり、俺が今からお前を撃っても文句はないな』と確認をする意味で当のセリフは使われている。ルルーシュが相手にこのセリフを言った時点ですでに、ルルーシュが相手を撃つことの正当性は間違いなく保証されている。いまや相手を撃っていいか否かは問題ではない。残った問題は、相手に勝てるかどうかだけだ!
ここでもしあなたが『いや、そんなセリフを述べたくらいで、ルルーシュの正当性は本当に保証されるだろうか? 保証なんかされないのでは?』と思ったなら、あなたの疑念は正しい。
そもそも『撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけ』という宣言が、かなり独特な倫理的立場を示している。『撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけ』というのはつまり『相手を撃っていいかは相手が撃たれてもいいと思っているかどうかにかなりの部分依存する』という考えなわけだ。この考え、世の中で一定程度の共感を受ける考えである可能性はあるが、決して世の中の全員の同意を受けるような考えではない。例えば、ルルーシュの考えに対立する考えとして『相手がどのような言動をとったか、どのような信念を持っているかにはさほど関係なく、すべてのひとは一定の権利を持っており、尊重されるべきだ』といったような考えを持つひともまた世の中にはいるだろうし、いていい。
世の中にいろいろな考えがありうることに比して、ルルーシュの宣言はかなり疑いの余地があるというか、少なくとも自明ではない。よって、ルルーシュが『撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけ』と主張しているのも、ルルーシュが勝手に言っているだけの話で、繰り返しこのセリフを叫んでみたところで、ルルーシュが相手を撃ったり殺したりすることには何の正当性も与えられはしない。
しかしながら、ルルーシュには、『コードギアス 反逆のルルーシュ』という作品には、このセリフが必要なのだ。このセリフだけが、彼とこの作品を今あるかたちにかたどることができる。
仮にこのセリフがなかったなら、視聴者は次のようなことを思うだろう……『相手が自分に銃を向けているからといって、私は相手を殺してもいいのだろうか?』とか、『この場合ならば人間を殺してもいい、というような条件がはたしてこの世にありうるのだろうか?』とか。こうしたひっかかりが視聴者の側にもしあるのなら、ルルーシュの側でも、そういったことにはひっかかって貰わないと困る。迷ってもらわないと困るのだ。目の前に敵があらわれるたびにルルーシュがいちいち『俺は相手を殺してもいいのか?』と悩むのでなければ、彼の物語は説得力を失う。
こんな具合にいちいち悩むようになると、物語はすぐに“すべてを語ろう”としてしまう。だが、先ほども述べたように、たいていの物語は“すべてを語る”べきではない。
『この場合ならば他人に危害を加えてもよい、という条件がこの世にあるのか否か』とか『殺人という行為そのものの是非』とかいった問題はもちろん重要だ、重要なハナシではあるが、この物語が語るべきハナシではない。そういったハナシについて考えを巡らせるのは別の物語に任せておけばいいのだ。とりあえず『場合によっては人間を殺してもいい』という前提条件をとったなかで生まれる様々な状況に対して戦いを挑むのがルルーシュであり、そんなルルーシュを主人公とするのが『コードギアス 反逆のルルーシュ』だ。それ以外のなにかである必要はない。だからこそ、前提条件を明確に定めるものとして、件のセリフがこの作品にはある*2。
ある物語が語る必要のあること・語る必要のないことについて明確に定めることで、その物語の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。こういったテクニックのことを、私は個人的に“捌きのテクニック”と呼んでいる*3。語る必要のない物事を捌いていって語る必要のある物事のみを残すテクニック、という程度の意味だ。
この“捌きのテクニック”、いろいろなやり方が世の中にはあるようだが、大河内一楼はキャラ自身のセリフを使って捌くというタイプの“捌きのテクニック”がとりわけ巧い、と私はみている。
『コードギアス 反逆のルルーシュ』のほかにも例を挙げるとするならば、例えば『機動戦士ガンダム 水星の魔女』なんかが印象的だった。
この作品では、主人公は母親特製のモビルスーツ(巨大ロボット)に乗って辺境から中央まで出てきて、軍需産業傘下の産業高校(みたいなやつ)に住み込んで勉強をすることになる。色々やっているうちに、母親特製のモビルスーツというやつが世界的に禁止されている危険な兵器GUND-ARMであることが判明し、主人公も血生臭いゴタゴタに巻き込まれていくことになる。
GUND-ARMの危険性というのは、リミッターを外すとパイロットが重大な障害を負ったり死んだりしてしまうというものであり、まあ禁止されるのもやむなしといったところではある。実際にGUND-ARMが禁止されるときの経緯は物語の前日譚にあたる『PROLOGUE』で語られている。この『PROLOGUE』のなかで軍需産業関連団体の偉いさんであるデリング・レンブランが演説している内容がすごい。
私はこれまで数多の戦場を経験し、ひとつの結論を得ました。兵器とは、人を殺すためだけに存在するべきだと。一点の言い訳もなく、純粋に殺すための道具を手にすることで人は罪を背負うのです。
しかし、ヴァナディースとオックスアースのモビルスーツは違う。相手の命だけでなく、乗り手の命すら奪う。
これは道具ではなく、もはや呪いです。
命を奪った罰は、機械ではなく人によって課されなければならない。人と人が命を奪いあうことこそ、戦争という愚かしい行為における最低限の作法であるべきです。
令和に生きているわれわれ視聴者としては『命を奪うことはおしなべていけないことであり、ひとの命を奪うための道具である兵器を作っている人間など、等しく全員悪いやつだろ』とか思ってしまいがちだ。しかし、『水星の魔女』という作品のなかでは『軍需産業関係者は全員悪』という状況ではダメで、『軍需産業関係者がそこら中にいる高校のなかでも、GUND-ARM使いである主人公にだけやたらと風当たりが強い』という状況が発生しなければならない。言い換えれば、『兵器を作ることそのものの是非』とかいった問題を置いておいて、『GUND-ARMを使うことの是非』という問題に物語をフォーカスさせなければならないわけだ。そのとき必要なのが、デリング・レンブランの演説である。この演説、文字に起こしてみればなんとも奇妙なことを言っている。戦争に作法? しかし、こんな奇妙な内容でも、デリング・レンブランのような男が力強くそれを言い放ってしまえば、少なくとも“捌きのテクニック”としては成立してしまうのだ。だから私は納得できた、この物語は『兵器を作ることそのものの是非』とかいったすべてについて語る物語ではないのだと*4。
LW: 空回りする気遣い?

“捌きのテクニック”やそれに類するものは、大河内一楼の作品だけでなく、いろいろな作家のいろいろな作品のなかで使われている。次は、大河内一楼のそれのように私が好きだった“捌きのテクニック”ではなく、むしろ私がやや苦手としているタイプの“捌きのテクニック”について触れたいと思う。
LWの書いたラノベ『不・死亡遊戯の成れの果て』は、主人公たち8人が謎の館で執り行われるデスゲームに巻き込まれるのだが、どういうわけかこの8人は、8人とも殺しても死なない不死者だった、はたしてなぜこんな奇妙なデスゲームが行われているのか、8人はデスゲームを楽しみながら謎に迫っていく……みたいな感じの物語だ。この物語のなかで、あるキャラに関する描写を私は苦手としていた。
そのキャラというのは、妖精のようなマスコットのような、謎の生き物・クロケルである。クロケルはこの物語中で執り行われるデスゲームの運営を一手に引き受けている。それではクロケルが物語のすべての謎に対する答えを知っているのかというとそうではなくて……以下のような描写が登場する。
「死なないんだから何でもいいっちゃいいんだけど。てかクロケルはこれでいいわけ?」
「いいって何がだ?」
クロケルがパタパタ飛びながら振り返って応じる。
「いや、不死者が参加してるのってさ。デスゲームにならないじゃん」
「おいらは書いてあるルール通りに進めるだけだからな」
(中略)
クロケルは思ったよりNPC的というか、ゲーム進行以外の事柄は全く管轄ではないらしい。
*5
「クロケルはどう思う? てかこれってクロケルが付けたの?」
「おいらは知らないぞ。おいらの仕事はデスゲームを進めることだけだからな」
「ふーん」
案の定、クロケルのレスポンスは淡白だ。愛らしいマスコットのような見た目をしていながら、ゲームの進行以外には関与しない姿勢を貫いている。
*6
デスゲームを取り扱った多くの作品では、デスゲームの進行役――それは往々にしてGMを自称する仮面の男だったりするのだが――はデスゲームの真相について少なからぬ情報を持っているものだ。だから、デスゲームの参加者がデスゲームの謎に迫ろうとするときは、まずは進行役を追い詰めるのがセオリーになる。しかしながら、この『不・死亡遊戯の成れの果て』では進行役を追い詰めることはとくに意味が無い。別の方法で真相に迫る必要がある。だから、この作品には『この作品における進行役はデスゲームの真相をなにも知りませんよ~』と、主人公たちを、また視聴者を、丁寧に誘導する描写が何度かある。
これも一種の“捌きのテクニック”といえよう。すなわち、『進行役が真相を知っているかもしれない』という可能性を前提条件からあらかじめ排除しておいたうえで『じゃあ誰が真相を知っているのか』というミステリを進行する、というテクニックだ。そして私は、この作品で行われているこのテクニック・この丁寧な誘導が若干苦手だ。
何と表現すればよいのだろう……この作品がしているような丁寧な仕方で前提条件を制限されてしまうと、まるで一本道を歩かされているような気持ちに、私はなる。
『不・死亡遊戯の成れの果て』を読んでいるときの私の意識とまったく逆なのが、よい推理小説を読んでいるときの私の意識だ。よい推理小説に触れているとき、私の目の前にはいつも無数に分岐した道が広がり、私は自分の意志で、ひとつずつ、真相につながらない道をつぶしていく。思いつく限りの道をつぶした後、私の前にたったひとつ残った道が、その作品なりの真相につながっていれば、私は自分の有能さに満足するし、つながっていなければ、私は作者の有能さに舌を巻く。そんな楽しみがよい推理小説にはある。
ひるがえって『不・死亡遊戯の成れの果て』は、作者による誘導が丁寧に過ぎて、視聴者である自分が自分で推理したという実感がやや少ない。まるで、作者から『真相がどれか迷わないで済むように』と過剰な気遣いを受けているような感じだ*7。
実際のところ、作者は何を考えてあのような丁寧な誘導をするに至ったのだろう。これはどうやら、作者から視聴者へ向けて『すぐに思いつくような安直な真相ではありませんよ~』と宣誓する意図が大きかったらしい。そう、あの丁寧な描写は“宣誓”によるものであり、私が先述したような“気遣い”によるものではなかったのだ。どうも私は、勝手に作者の意図やらなにやらに踏み入りすぎて若干の邪推をしてしまったらしい。
そもそも、『不・死亡遊戯の成れの果て』を推理小説の尺度で測ろうとしているのも私の勝手であり、べつにこの作品に対する自明な評価軸ではない。私の主観を外してもう少し客観的にみるなら、この作品は幻想怪奇小説ではあっても推理小説ではなかった、というのが“真相”なのかもしれない。私は私の勝手な尺度のみで評価をしきってしまうべきではない。
しかし。しかしだ。私がこの作品に若干の不満を感じていることもやはり、依然として事実ではあって。
私はどのような作品を前にしたらこれに満足できたのだろう? 単純に、誘導をしすぎないように気を付ければよい、ということでもない気がする。LWの書いた作品における比較的丁寧な誘導は、それはそれで独自の味を出しているようにも感じるからだ。
もっと何か、取り除くべき可能性を“捌い”ていながら、“捌い”ているということそのものにもう一度出会いなおすようなやり方がなにかないものだろうか?
ヒロアカの感想とか
言うてアニメ版しか観たことないけど。

以前の私は『僕のヒーローアカデミア』の作者のことをもう少しせせこましい作家だと思っていた。
なぜかというと、第一には、この作品のなかで描かれる“悪”がどいつもこいつも理解可能すぎたからだ。
そもそも、私は日頃、特撮やなんかのスーパーヒーローものをよく見ていて、いろいろなフィクション作品を観るときも、そこに出てくる“正義”や“悪”がどのようなものであるかを気にすることが多い。もちろん、“悪”として描かれるキャラに魅力を感じることもしばしばなのだが、なかでも『理解可能な理由とかはなく、生まれたときからすでに悪だったキャラ』というやつに惹かれることが多い。
まず前提として、人間は生まれたときから“悪”たりうるのである。生まれたときからものを壊すことに至上の喜びを見出している人間がいたっていいし、生まれたときから他人を苦しめることにしか楽しみを見出せない人間がいたっていい。生まれつきの“悪”が実在したっていいのだ。それは、生まれたときからものやひとを守ることに喜び・楽しみを見出しているような生まれつきの“善”がいたっていいことと、同じくらい確かなことだ。性善説や性悪説は根本からしてばかげている。人間はいつだって、それこそその始めの瞬間から、多様な性質をもちうるし、現に持っている。
仮に人間が生まれたときから“悪”たりうるのならば、世の中には生まれつきの“悪”と後天的に“悪”になった者と、二通りの“悪”がいることになる。世の中がそうであるように、フィクション作品のなかにも二通りの“悪”がいていいはずだが、私はフィクション作品に触れるとき、とりわけ前者の“悪”――生まれつきの“悪”――を好む。その理由は、後者の“悪”よりも前者の“悪”のほうが相対的に多くの可能性を示しているからだ。可能性というのはつまり、『人間はこんな風に生まれてくることもできるんだぜ』『人間にはこんなことを思いつく能力があるんだぜ』という、人間がなれるもの・考えることの可能性のことだ。
ひるがえって、後者の“悪”ばかりが登場する作品に触れると、『この作品は人間の可能性を信じていないな……』と私は悲しくなる。そして、かつて観ていた『僕のヒーローアカデミア』は後者の“悪”がかなり多めだった。ステインは作中社会で制度化されたヒーロー観に腐敗を見てとってその思想を歪ませたし、マグネは作中社会の少数者への抑圧に反発して暴力に訴えたし、オーバーホールは作中社会における価値観の変容を受け止めきれなかったために旧来の価値観の復権を目論んだし……どいつもこいつも“社会”ばかりではないか*8。
つまるところ、『“悪”とは、あくまで理解可能な過程を通じて生み出される“社会の病理”であって、理解不能な過程を通じて生み出される“個人の個性の発露”などではない』というのが、『僕のヒーローアカデミア』という作品に通底する哲学であったように思う*9。この哲学を極端な言い方で言い換えれば、『“悪”は合理的なものである』ということになる。もっとずっと極端に言い換えるのなら、『不合理な“悪”などない』ということにもなる。そんな哲学を示されると、私なんかは『そんなわけあるかい、“社会”などとは関係なく自分の意志でポジティブに“悪”を志す人間だってたくさんいるわい』と言ってしまいたくなるのだが。
話を広げると、この漫画家にみられる、“不合理”なものを否定して“合理的”なものばかり期待している傾向というのは“悪”の描き方だけでなく“正義”の描き方にも垣間見えている。
『僕のヒーローアカデミア』では、場面々々でヒーローがとっさにとったある行動がいかに合理的な行動であったかがしつこく説明される、といったくだりが多い。
例えば、オールマイトが、今後の世界の平和に関わる“個性”であるワンフォーオールを一般的に言って期待が持てない相手である無個性の若者・緑谷出久に譲り渡した、という行動について。この行動、一見すると不合理な選択に見えるが、実はワンフォーオールを有効活用するためにありうる唯一最善の選択であったのだ、というフォローが本編中盤ではさまってくる。しかし、私なんかはこういうフォローを見聞きすると『そんなもんあとからフォローしなくていいんだよ! いいじゃねえか“最善の選択だったかはわからないけどその場でよいと思う選択をしました”と本人が信じているだけで』とか言いたくなってしまう。
例えば、イレイザー・ヘッドが、敵の放った特殊な薬剤が自分の右腿に当たったとき、薬剤の影響を受けて戦闘力を落とすことを防ぐために腿から下を切り落とした、という行動について。この行動、それ自体でも十分合理的な選択で間違いないのだが、どういうわけか、この行動が合理的である理由がダメ押しのようにもう一つ説明されている。それは、『直前の戦闘で受けたダメージですでに右足の機能がマヒしていたから』というものだ。これについても、私なんかは『そんなダメ押しいらねえだろ! 状況をパズルみたいにガチガチに組んでるんじゃないよ』とか言いたくなってしまう*10。
イレイザー・ヘッドといえば、“合理的な人間”を自称する人物でもあった。多くのキャラが登場する『僕のヒーローアカデミア』のなかで“合理的”を看板として掲げているくらいだから、彼こそがヒロアカにおける“合理性”の極致を表現しているキャラだとみなしても間違いはないだろう。
彼のいう“合理性”とはどんなものなのかというと、それは例えば日常生活のちょっとしたタイミングであっても体力を温存することを忘れないことである。実際、彼は自身が担任を務めるクラスでのホームルームの最中にも仮眠をとるなどする……。
書いてみて、私は思う、イレイザー・ヘッドって言うほど合理的な人間だろうか?
これは私個人の意見にすぎないが、“合理的”という言葉が意味しているのは、複数ある未来のうちから自分に都合のいい未来を選び出そうとする積極的な態度だ。しかしイレイザー・ヘッドの態度は、都合のいい未来を引き寄せるというよりも、あとで後悔することを恐れて現在を調整しているだけのすこぶる消極的な態度に見える。彼は“合理的”というよりも、単に“臆病”な人間なのではないか。
イレイザー・ヘッドは“合理的”なのではなく“臆病”なのではないか、と一度考えてみると、ヒロアカという作品全体も“合理的”というよりは“臆病”な作品というふうに思えてくる。
ヒロアカという作品は“臆病”な作品で、自分の行動を自分で選ぼうとする人間の意思とか、人間がその場で与えられた情報だけからなにかを判断しようとするその判断の妥当性に対して、いまひとつ信頼を持てていない。結果、自分の意思よりかは社会からの要請に因って何らかの行動を起こす人間の姿だとか、すべてが終わった後の視点から見ても妥当と思える判断をする人間の姿だとかばかりを描きがちなのだ。
と、まあこんなふうに、かつての私はヒロアカという作品に対してややネガティブな印象を持っていたのだった。
しかし、私が持っていた印象は、死柄木弔がオリジンを思い出したシーンのあたりからだんだんと変わってくる。
死柄木弔のオリジンとして語られた内容は、ヒーローという存在に対してコンプレックスを抱いていた父親が中心となって家庭内に抑圧を生んでしまい、抑圧され続けた少年があるきっかけからため込んでいたストレスを爆発させて家族を手にかけ、死柄木弔へと変貌する、というものだった。この内容自体は、ステインやマグネやオーバーホールのそれと、その示す意味においてはそう変わりない。すなわち、原因はいつも社会にこそあるのだ(ヒーローが存在する社会もまた一種の社会であり、家庭もまた一種の社会である)。
しかし、死柄木弔がオリジンを思い出したシーンが感動的だったのは、彼が自身のオリジンを思い出したときに『自分はこれこれこういう悲惨な過去に強いられて悪人を演じているのだ』と悟ったのではなく『過去はそれはそれで意味のあるものだが自分は自分の意思で“悪”をなす』と決意を新たにした、というところだ。なんと力強い自由意思の肯定だろう。たとえ悲惨な過去があったとしても、そのうえで人間は自ら“悪”の道を選びうるのだ。
終盤で明らかになったトガヒミコのオリジンもかなりよかった。
彼女のオリジンは、彼女には生まれつき好きな相手の血を吸わずにはいられないという嗜好があったために社会から抑圧され、やがて社会に対する“悪”を選んだというシンプルなものだった。彼女のオリジンは、100%が自由意思とはいいがたい(社会のほうが抑圧してくるので仕方なく戦っているという面がある)という点で死柄木弔のそれとは違う。しかし、社会に抑圧されるに至った理由が、完全に生まれつきの変更しがたい嗜好として説明されているのがよかった。このオリジンは真実をよく示している。どんな社会にも必ず異分子が生まれてくるのだ……何の合理性もなく、純粋な偶然として!
死柄木弔やトガヒミコのオリジンは、放っておくと“合理的”に解釈できるエピソードに堕してしまいそうなところをギリギリで回避しているようにみえる。とすると、作者はこの作品に見え隠れする“合理性”を自覚したうえでそれを制御して描こうとしている……のかもしれない。まあ作者が何を思っているにせよ、少なくとも、この作品の“合理性”には、“臆病”という言葉では置き換えきれない部分が何割かはある。
そして、2人のオリジンにもまして非常に感動的だったのが、この作品における最強最後の敵が、死柄木弔の身体を乗っ取ったAFOだったということだ。
このときAFOはとんでもないことを暴露する。先ほども述べた死柄木弔のオリジンと、このオリジンを通して死柄木弔が自由意思を高らかに宣言したという事実、いずれもが、実は偶然の産物でも自由意思のたまものでもなく、AFOによって最初から仕組まれていたことだったというのだ。そして、そんな暴露を行って人間の自由意思を嘲弄するAFOに対して、デクたちヒーローが総力戦を挑む。
つまり、最後の敵は、自由意思を否定するような類の“合理性”そのものだったのだ。私がさんざ批判した例の“合理性”は、単純に消し去られてしまうのではなく、作品のなかでこの上なく重要なパーツとして、しかし打倒すべき敵として、舞台上で出会いなおしたのだ。
これは誇るべき達成だと私は思う。ヒロアカという作品には、一方では、他人にやすやすと真似できない作家の個性『しばしば臆病さにもなりうる合理性』がたしかに息づいている。他方では、作家の個性だけで物語を語りきってしまうことなく、むしろ作家の個性に含まれないものをも含んだかたちで作品世界を構成してもいる。結果としてこの作品は、“すべて”を語っているとは言わないが、多くのものを語っている。こういった作品はなかなかつくれるものではない。
しかしこういった誇るべき作品の存在こそが、不慣れな創作者に対して『君も“すべて”を語ってみないか』とささやいて誘惑してもいるのだろう*11。
堀越耕平: いただけない臆病さ
『僕のヒーローアカデミア』という作品に対する印象、また堀越耕平という作家に対する印象はかくのごとく変化してきたものだったが、さりとて今でも、どちらかといえば苦手な作家性であることに変わりはない。ヒロアカのことを絶賛したみたいな調子で言及を終えるのもなんか癪なので(???)、この作品の“合理性”または“臆病さ”をまた別の角度から述べなおしてみよう。
具体的には、ヒロアカには『リアルに描こうとするあまりに逆にリアルでなくなっているシーン』というのがしばしばあると私は思っていて、そういうシーンの話をする。
そんなシーンのひとつは、イレイザー・ヘッドこと相澤消太が、警察の拘束下にあるとある犯罪者の正体が、亡き旧友の遺体に改造を施して生まれたフランケンシュタイン様の怪人であったことを知るシーンだ。この犯罪者には生前の性格や記憶は引き継がれていないように見えるのだが、生前親しかった相澤たちがはたらきかけることで少しでも性格や記憶がよみがえるのではないか、という作戦を提示されて、相澤はなんともつれないことを言う。
「なんで、われわれをここに? 絆による奇跡でも期待してるなら、大衆映画の見過ぎでは?」
*12
一見、リアルに思える描写だ。映画やマンガのなかでは、かつての友人が怪人に改造された場合、絆の力で洗脳が解けることはままあるが、現実は映画やマンガとは違う。相澤は自分がマンガの世界の住人だとは知らないので、自分が住んでいる世界のことも映画やマンガではないと認識しているだろう。だから相澤の住む世界では映画やマンガの世界で起こるようなことは起こらない、と考えるのがリアルな描写である……。
しかし、よくよく考えてみるとこの描写、実はリアルではないと思える。なぜならば、普通に現実を生きている人間にとって、『現実は映画やマンガとは違う』ということはさほど自明な前提ではないからだ。自分が今まさに生きている現実に対して、映画やマンガはそもそも比較対象ですらないのだ。だから、現実世界で突飛な出来事が起こったとき、現実世界の住人がその出来事に対して抱く感想は『映画やマンガとは違った経過をたどるに違いない』といったものではなく単に『どうなるかさっぱりわからない』というものになるだろう。ひるがえって相澤は、自分が住んでいる世界で起こった突飛な出来事に対して『映画みたいにいくはずがない』といきなり否定的な見解を示している、まるで自分の住んでいる世界がマンガであることを知っているかのように!
この相澤の発言、作品世界のなかを生きている人物の思考をトレースするのではなく、作者の怖れが漏れ出てしまった例なのではないかと私はにらんでいる。怖れというのはつまり、読者から『絆の力で記憶が戻るなんてありふれた展開はマンガっぽすぎる、リアルじゃない』と言われることへの怖れだ。リアルでないと言われることを怖れてその怖れに対する作家の応答を作品にのせてしまうと、物語はますますリアルでなくなってしまう。『そんなのリアルじゃない』といわれそうなときこそ、作家の怖れではなく、鉄の意思で作品世界内の人物の心情のトレースに努めるべきなのだ、と私は思う*13。
似たようなシーンはほかにもある。例えば、数多の人から“個性”(異能みたいなやつ)を奪ってきた悪の権化・AFOが死んでその身体が崩壊するとき、AFOの身体の内部にいた、ホークスの“個性”に宿るホークスの意思(まあ生霊と思えばよい)が言うセリフ。
「奪われた因子が持ち主の元に戻る、なんてサービス、あるわけないか」
*14
AFOが死んでもAFOがこれまで奪い取ってきた“個性”が持ち主に帰るわけではないということをホークス(の生霊)が悟っているわけなのだが、このシーンもよくよく見ればリアルではない。
今消えゆくAFOの体内にいる生霊が思うことがあるとすれば『生霊の自分が本来の持ち主の手に戻るかどうかはわかりようがない』ということくらいだろう。ひるがえって『サービスがあるわけない』と勝手にあきらめている作中のホークス(の生霊)はやはり、自分がマンガの住人だと知っているかのようだ。
相澤のシーンやホークスのシーンをヒロアカという作品に盛り込むことは、『この作品のなかで起こりうる事象は何か・起こりえない事象は何か』という前提条件を定めているという意味で、“捌きのテクニック”の変種であるといえる。ただ、先述した大河内一楼の詐術とは明らかに違うところもある。それは、大河内のそれが定める前提条件は、視聴者が自然に想定するすべての条件よりも狭まった条件であったのに対して、堀越耕平のそれが定める前提条件は、視聴者の自然な想定と比べてべつに狭まってはいないというところだ。べつにわざわざ定めなくてもいいようなところをわざわざ定めなおしているようなテクニックであるがゆえに、堀越耕平のそれには、作品世界の雰囲気よりも先に作者の意図がちらついて、どうもうっとうしく感じるのだ。いや、視聴者一般がそう感じているのかどうかはよくわからないが、少なくとも私はそう感じている。
細田守: マジでこれは何?

『果てしなきスカーレット』は公開3日目くらいで観に行った。観終わった当初は『なかなか理解に苦しむ作品だけど、素材の味が活かされててまあ退屈はしなかったかな』くらいに思っていたのだが、そのあと半月くらいかけて何度か思い返しているうち、徐々に胸の中で不満点が膨らんできていまはやや怒っている。あの映画、素材の味を活かしてるとかじゃなくてただ調理を放棄していただけじゃないのか?
不満点はいろいろあるが、ここであえて語るのは“捌きのテクニック”に関するところだけにしよう。
この映画は二重にストレスフルな映画だ。第一には、この映画は“捌きのテクニック”らしいものを行わないので、視聴者は何が前提条件かわからないまま長い物語を見せられることになり、作中で起こるいろんな出来事に対してこれといった評価や感想を抱くのが難しい。第二には、“捌きのテクニック”らしいものがないくせに、なぜか作者の言い訳はやけにはっきりと聞こえてくるのですごくうっとうしい。以下、もうちょっと具体的に説明しよう。
まず、映画の冒頭は、異世界にいる謎の婆さまの意味深なナレーションから始まる。『生と死は対立関係ではなくて……』うんたらかんたら。
このナレーション、めちゃくちゃ萎える。なぜって、この内容は『映画の終盤で生者と死者が交錯するギミックを使う予定なんですよ』という宣言以外のなにものでもない。作品世界に生きているキャラのセリフとか作品の世界観の説明とかになっていなくて、ただただ作者の言い訳でしかない。作者が何をやりたいかとかは一旦いいからまずは異世界の話をしてくれ。異世界の話がちゃんと成立したあとだったら、作者の我が若干漏れ出ててもいいから、まず最初だけは異世界の話を真剣に語ってくれ。
そして、作者の言い訳代弁キャラとしてデビューを飾ったこの婆さまは、その後も物語の要所要所で作者に都合のいい動きをする。例えば、主人公が敵に追い詰められて進退窮まったときに突然現れて鼻くそで爆撃して(婆さまの鼻くそは爆弾になっているらしい)敵を散らしてくれるとか。
婆さまのこの動きもだいぶ萎える。ふつう、映画冒頭から意味深なこと言ってる謎の婆さまなんていたら、そいつは超自然的なトリックスター系キャラだと期待してしまうものだ。で、超自然トリックスターが超自然トリックスターたるゆえんは、誰の味方とも敵ともつかない動きをしていて人間にはその意図を説明できないというところにこそあるはずだ。しかしこの婆さまは、かなり明確に主人公の味方としかいえない動きをし、なおかつその行動の意図は『作者にとって都合がいい動きをしている』という一点で説明ができすぎてしまう。この映画、超自然トリックスターを描くのが下手すぎる。
婆さまのついでに言うと、ドラゴンとかいう存在もかなり萎えるキャラだった。こいつも婆さまと同じで、人間には計り知れない存在みたいな面をして登場しておいて、実際には、天罰を下してほしくなるやつに、天罰を下してほしいタイミングで、天罰を下す、という作者の都合100%みたいな装置だった。
この記事の最初のほうで『多くのフィクション作品はある種の思考実験として評価しうる』みたいな話をしたが、『果てしなきスカーレット』は思考実験として評価した場合、最悪の部類に属する作品だ。
思考実験で絶対にやってはいけないことは2つほどあり、1つは前提条件をはっきり定めずに推論をはじめることで、もう1つは得られた結果のなかから都合のいい結果のみを恣意的にピックアップすることだ。この映画は見事に両方をやっている。まず『生と死は対立しない』とか言ってむやみやたらと前提条件を広げっぱなしにして、次にキャラを都合よく動かして恣意的に結末を選んでいる。
この映画のように、思考実験として洗練されていない物語は説得力を失う。『この作品のなかで示されたような原理はわれわれの住む世界でも適用されるかもしれない』とは誰も思えない。ただただ『この作品のなかで示されていることは何かどうもヘンテコだな』という印象が残り、それだけだ。そんな作品について『素材の味を感じる』などと述べたのは、間違いではないにしろ、鈍感であったといまは言えよう。