貞子DX / すずめの戸締まり の感想など

ネタバレはある。

 

 

ふたつ連続で映画を観ると、めっちゃ似たような映画だったな~と錯覚するとき、あるよね。

貞子DX

最近『貞子DX』を観たんだが、これがすごく面白かった。なんかいろいろと面白いところがあったけれど、なかでもひとつ、特にぐっときたのが、この映画の主人公である天才女子大生・一条文華というキャラクターがやたら面白おかしく描かれていたところだった。

一条文華さん、それはもうコテコテの“天才キャラ”として描かれている。彼女は天才なのでIQが200ある(いまどきIQがどうこうとか言っているのがもうすでに面白い)。彼女は天才なので自然科学を信奉している。「この世には科学で説明できないことがある」と主張する霊媒師に対して、彼女は「この世のすべては科学によって説明できる」と反論する。しかし彼女は天才なので説明がとてもそれっぽい。彼女の口から出てくるのは、『プラセボ効果』や『サブリミナル効果』といったいかにもな科学用語ばかりである……。

↑『貞子DX』のポスター もちろん「E=mc^2」はストーリーとは全く関係ない

あまり回りくどい言い方をしても皮肉っぽく聞こえるだけだし、ここはひとつ、はっきりと言おう。『貞子DX』の主人公は“天才キャラ”なのだが、彼女が「どのくらい天才なのか」「どういうタイプの天才なのか」「頭の良さを事件解決にどう役立てるのか」「そもそも頭が良いとはどういうことか」という中身はまるで描かれない。とりあえず『すぐに“天才キャラ”だってわかる記号』ばっかりこすってくる。

そんな調子だから、作品全体の雰囲気としては、「なるほど、人間は科学的知識に裏打ちされた実践的知恵によって怪異に対処することができるのか」という態度が感じられるわけではない。むしろ、「へー、おいらは無学だから天才さんの考えてることはよくわかんねえけど、天才さんに任せときゃあ安心なんだね!」という卑屈な態度をしみじみと感じる。われわれ一般人には天才の考えてることなどよくわからないが、天才はまあうまくやってくれているみたいだし、われわれは天才と怪異との戦いを面白おかしいものとして外野から見ていればいいのだ。われわれが貞子という怪異を理解しなくていいのと同様に、われわれは貞子と闘っている一条文華という天才のことも理解する必要はない。

 

さて、このように『貞子DX』は、“天才キャラ”を主人公に据えておきながら、天才を理解せずむしろ遠巻きに見つめるような態度を促すんだが、この態度、監督や脚本家が持っている態度をそのまんま反映しているものである――監督や脚本家が天才に対してすごい偏見を持っているから出てきたものである――とは、あまり思えない。むしろ、監督や脚本家は(それが現実の天才に対して失礼であるとはわかりつつも)あえてコテコテの“天才キャラ”を主人公にしたのではないかと思う。というより、わざとやったと信じたい。

それというのも、『貞子DX』は、貞子という名の、暗がりにあって仕組みがよくわからない怪異を白日のもとにさらすことによってスパッと解決する話ではなく、仕組みがよくわからない怪異を仕組みがよくわからない“おまじない”によってなんかいい感じにしておく話なのだ。

『貞子DX』は、表面上、一条文華さんが科学的思考法によって貞子の仕組みを解き明かしたっぽいテイのストーリーではある。しかし、この文華さんの科学的思考法というのが、冷静に考え直すとあんまり科学的じゃない。このひと、口ではなんかそれっぽい言葉を言っているだけだし、真相究明にかかわる重要なキーワードであっても2, 3回は耳にしないと気づかないし、条件を明確にしないままに雑なトライアル・アンド・エラーを繰り返すし*1……。そして、文華さんが考え抜いて明らかにした『貞子の呪いへの対処法』というのが、化学薬品でもコンピュータプログラムでもなんでもなく*2、「一度呪いのビデオを観てしまった人も、毎日1回呪いのビデオを見直すことで死には至らなくなる」という日常感あふれるものだった。「毎日1回ビデオ観れば死なない」って、それもう「毎日ちゃんとごはん食べたりしっかり睡眠をとったりすれば死なないっぽい」と同じカテゴリのやつじゃん! いや、食事や睡眠とは危険性が段違いだけどさ!

わりとどうでもいい話なんだが、示唆的なのが、この映画、主人公に「科学で何でも説明できる」というポーズをとらせるわりには案外迷信深いこともさせるというか、そこまで科学的ではないおまじないをやたら気にしているふしがある。一条文華さんは「いただきます」「ごちそうさま」はちゃんと言うし、お弁当を残すときにはお弁当に手を合わせながら「あとでちゃんと全部いただきますので……」なんて言ったりもする*3。ちょっと緊迫しているシーンでも「そこは土足禁止だから靴脱いで」っていうセリフが妙にしっかり挟まっていたりもする。極端な話、口では「科学 is パワー」といっておいて、最後には「ご先祖さまは大切にしましょう」とか「お天道様はいつも見ている」とかいった“おまじない”レベルの規範が効力を発揮するのがこの映画なのだ。

なんか微妙に脱線してしまったが、要はこういうことだ……『貞子DX』において「貞子」という“よくわからないもの”を倒すのは、われわれ自身の理性ではない。むしろ、“毎日の習慣”とか“天才キャラ”といった“これはこれでよくわからないもの”をとりあえずあてがっておくことこそが“よくわからないもの”を制するための有効な手段になる。だから、この映画の主人公は、本物の天才であってはいけないし、本物の科学的思考法を駆使してはいけない。「一般人には理解できない」という側面ばかり強調された“天才キャラ”である必要があったし、そのために監督や脚本家は、はっきりと意図して“天才キャラ”を作り上げてみせたのだ*4

 

すずめの戸締まり

しょっぱなからネタバレしていくんだが、『すずめの戸締まり』というのは、地脈みたいな災いの化身みたいな謎の自然神“みみず”が放っておくと大地震を起こしてしまうので、古来より日本を守り続けてきた秘密の専門家“閉じ師”が日本全国めぐりながらこの神を鎮めていく、みたいな話だ。いや、他にもいろいろと込み入っていたけど……。

最近、知り合いとこの映画の感想など話す機会があった。その知り合いは「実は、日本で起きている地震はある特定の神のしわざである」という部分であるとか「地震は人間のはたらきによって未然に防ぐことができる」という部分であるとかを評して、『すずめの戸締まり』を“陰謀論的な映画”であると評していた。

彼が言わんとしているところはよくわかる、私も『すずめの戸締まり』を“陰謀論的な映画”と評することは妥当だと思う。しかし、ちょっと見方を変えれば、“陰謀論とは対極にある映画”と評してみることも、またひとつ可能ではないか、などと思っている。

↑『すずめの戸締まり』のポスター 椅子は関係ある

というのも、この映画では、地震という出来事の原因は、プレートテクトニクスプルームテクトニクスではなく、神々に帰せられているのだ。それも、人間の罪に対して激怒して災いを起こすタイプの単一神ではなく、基本的に何考えてんだかよくわからない自然神だ。この映画において「地震は神のしわざ」という“説明”は完全な理解をするための“説明”ではなく、むしろ完全な理解をあきらめるための“説明”という感じがする。実際、劇中で主人公のひとりである“閉じ師”の宗像草太さんは「気まぐれは神の本質」であるのだとはっきりと口にしている。何を考えているんだかわからない自然神が災いを振りまくとき、人間たちは有職故実にしたがって対処をしていくしかない。有職故実に従っても駄目なら、なんか適当にいろいろな手段を試してみて、たまたまうまくいくのを期待するしかない。もしうまくいったら後世のために記録に残してあげよう。

つまり、この映画において、”みみず”という神を鎮めるのが”閉じ師”という人間の仕事になっているのは、「人類は地震の原因も完璧な対処法も理解している」という自信のあらわれではなく、むしろ逆、「人類には地震の根本原因なんてどうせわかりっこない」というあきらめの反映なのではないだろうか。だとすれば、そのあきらめがちな態度――反知性主義的な態度と言ってもいいかもしれない――は、(性急さゆえに間違いやすかったとしても)いちおうものごとの真相を理解しようとすることに本質がある『陰謀論』とは対極に位置する態度だ。

 

ところで、“みみず”という“よくわからないもの”に対して有職故実などなどの”これはこれでよくわからないもの”をもって対処する、というのは、『すずめの戸締まり』が『貞子DX』と意外に似ているところかもしれない。もうちょっと補足しておくと、『すずめの戸締まり』のラストバトル(?)においては、この映画を象徴するセリフである「行ってきます」を筆頭に「ただいま」や「いただきます」などなど、日常を象徴する決まり文句が大量に聞こえてくる演出がある。”みみず”とか”閉じ師”とか非日常的な色付けが表面的には施されていても、やはり最後に力を発揮するのは、「毎日『行ってきます』と言う」みたいな”おまじない”レベルの規範なのだ……はさすがにちょっと言い過ぎか。

ただ、”おまじない”レベルの規範が効力を発揮する、とか、世の人々は根本的な理解をあきらめたうえで怪異に対処しようとしていく、といった態度のうちに両者の類似点を発見するにしても、現場で怪異に対処していく専門職のひとに対して世の人々がどのように振る舞っているか、という点で両者には際立った差異もある。

『貞子DX』においては、世の人々は一条文華さんという人間の存在をわりにはっきりと認識したうえで、自分たちには理解の及ばない”天才キャラ”として彼女を取り扱っていた。そうした取り扱いは、映画中では、たくさんの人々がSNS上で無責任に一条文華さんを持ち上げたり霊媒師との対決構図をあおったりする、というシーンとして描かれた。一方、『すずめの戸締まり』では世の人々は”閉じ師”なる人間たちの存在を端的に知らない。一般人たちは、『貞子DX』において”天才キャラ”を持ち上げたり焚きつけたりしていた人々よりもいっそう無自覚に、”閉じ師”という人間たちの不可視化に貢献している(知らないんだから「不可視化に貢献している」などと批判されようがなんとも応答しようがないのだが)。”閉じ師”がなぜ現代において秘密の仕事と化しているのか、という理由は劇中でははっきりとはわからないが、おそらくは過去、世の人々の側から、怪異を自分自身で根本的に理解することをいやがって一部の人の専門職として丸投げしたがった傾向もあるのだろうし、また、閉じ師の側としても、縁起の悪いものは隠しておいて一部の人だけでその対処を引き受けたほうが仕事をしやすい、という要請もあったのだろう。そんな憶測をすると、”閉じ師”とは、かつては”天才キャラ”みたいな扱いを受けていた人々の成れの果て、あるいはいずれ”天才キャラ”みたいな扱いを受けることになる人々の予感でもあるのかもしれない*5

 

いつの時代であれ、“よくわからないもの”は“これはこれでよくわからないもの”に対処させるに限る。もっと露悪的に言えば、バケモンにはバケモンをぶつけるのだ。貞子が出たら“天才キャラ”をぶつけるし、”みみず”が出たら”閉じ師”をぶつけるし、ゴジラが出たらコングをぶつけるし、グリーザが出たらデルタライズクローをぶつける。大事なのは、いつだって怪異に対処するのはわれわれ自身ではないということだ*6

 

”天才キャラ”や”閉じ師”のうちに、そして彼らを理解したがらずに怪異への対処を丸投げしてきたのかもしれない世の人々(しばしばわれわれ自身に擬せられる)のうちに、ある種のあきらめの匂いを嗅ぎとるのは、まあまあ屈辱的なことだ。口で「科学で説明できる」と述べることでさえ、状況によっては、内容と裏腹に反知性主義に与する言説と化してしまうかもしれないというのは、まあまあ悲しいことだ。しかし、こういった反知性主義は少なくとも陰謀論よりはマシではある。ほんとうは、『反知性主義 or 陰謀論』という極端すぎる二択に傾くのは私だっていやだ。「人々自身が自分の言葉で理解している知識には限りがあるが、ゼロではないし、これから増える」といった穏健な漸進主義を採りたい。しかし、自分自身がそうした穏健な漸進主義を採っていると確信できるほど傲慢な人間になることは、この複雑な現代社会では難しい*7陰謀論に対する雑な安全弁として、私は反知性主義を選ぼう。かくして反知性主義は栄えゆく……。

*1:この過程で何万人何億人の命が危険にさらされます!

*2:クライマックスで、文華さんと同じく“天才キャラ”のチャトランが高速でキーボードをたたいて何かをプログラムするシーンがありますが、そのプログラムは本筋とはもちろん関係ありません!

*3:ま、ピーマンは食べられないから残すんですけど。

*4:つい筆がのって断言してしまったが、もうちょっと冷静に考えると、主人公が本物の天才では本当にダメなのか、監督や脚本家が本当にわざと“天才キャラ”を描いたのか、といったことは(少なくともこの記事の論旨から言えば)なんとも判断できない。「いただきますとかごちそうさまとかいった日々のおまじない」と「毎日呪いのビデオを観続けるというソリューション」と「天才キャラ」とを“これはこれでよくわからないもの”というラベリングで同列だとみなすのは、(私個人はこの見方にけっこう自信があるが)客観的にはいまひとつ根拠が薄い。だから、主人公が天才ではなく“天才キャラ”にとどまっていた理由は、『あえてそうした』からではなく、単に監督や脚本家の頭が悪かったからである、という可能性もなくはない。

*5:いちおう譲歩しておくと、『すずめの戸締まり』における”閉じ師”は、(“天才キャラ”やコングやデルタライズクローほどには)単純に“よくわからないもの”の側にカテゴライズできるわけではない。まず一点、「閉じ師」は科学的な知識に基づいて「みみず」を鎮めているわけではないが、かといっていかなる知識にも基づかずに全くの適当で「みみず」を封じているわけでもない、という点。とくに草太さんは、「閉じ師」として受け継がれてきた封印マニュアルと、おそらくは彼自身が民俗学・地学等々を研究して得たであろう知識との両面で主体的に「みみず」への対処法を探っている気配はある。世の中、自然科学の知識ばかりが知識だというわけではないので、『「閉じ師」だってある種の堅実な知識の積み重ねによって怪異に対処しているのであるから、“よくわからないもの”などではない』という反論は可能だ。ただし、よりによって『閉じ師で受け継がれてきた最重要文献』が読んでみると黒塗りだらけだった、という事情もあるので、私からは『やはり「閉じ師」の本質は怪異の根本的理解とは相反する方向に向かっているのでは?』という再反論を行っておきたい。

もう一点、『すずめの戸締まり』は『よくわからない「みみず」 VS よくわからない「閉じ師」』という単純な関係にとどまらず、「みみず」と「閉じ師」の間に「ダイジン」というポジションが存在しているという点。この「ダイジン」という存在、いちおう神であるらしいのだが、もとは人間であったような示唆もあり、行動原理もところどころ理解可能でところどころ理解不能、さながら神と人間の中間項といった風情がある。この「ダイジン」の存在をも考慮に入れるなら、『よくわからない「みみず」 - ちょっとだけわかる「ダイジン」 - わりとよくわかる「閉じ師」』という関係としてとらえるほうがしっくりくるのかもしれない。

*6:ただ、すずめさんのことを「一般人であるわれわれの代表」として解釈することもそれはそれで可能ではあるだろう。彼女は、”閉じ師”として地震現象の真相”みみず”のことを知っているわけではないからだ。しかし、幼少期から異界には縁があった、ということもあり、すずめさんのことを全面的に一般人代表とみなせるのかは微妙なところだろう。また、東日本大震災という実在の災害の被災者であるという点からは、彼女はわれわれと最も近しい新海キャラだという結論も、われわれから最も共感しづらい新海キャラだという結論も引き出しうるだろう。

*7:「地球人が地球の言葉で理解している知識には限りがあるが、ゼロではないし、これから増える」という穏健な漸進主義を提示しようとはしたが、いまいちぱっとしなかったのが『シン・ウルトラマン』だ。この作品のラストは「地球人がたまたま出会った宇宙人・ウルトラマンが善良な存在だった」という不明な前提に全面的に依存していて、この記事の文脈から言えば、素朴すぎる作品だったとしか言いようがない。

頼む、キミだけのオリジナル辞書を作ってくれ……!!

人それぞれに読む文章の好みというのはあるものだが、私が特に好む文章の一種が、さりげない引用や暗喩や仄めかしに富んだ文章だ。はっきりと『○○みたいな××』などと言わずに、それとなくキーワードをちらつかせたり不自然なルビを振ったりといった少々回りくどい手段で本文とは別のあるテクストの存在を指し示す、そういった技巧が凝らされている文章が私は好きだ。


この手段は回りくどい手段であるから、筆者の意図が読者にひとかけらも伝わらないことが意図されているわけでもなく、さりとて筆者の意図が100%読者に伝わってしまうことが意図されているわけでもないのだろう。だから、引用や暗喩や仄めかしは、明晰で浅薄な知性よりかは、いささか韜晦で深重な知性と相性がいい。例えばみそ氏しましま氏の文章などは、引用や暗喩や仄めかしが深重さと嚙み合っている文章として、ひとつの理想形として私には記憶されている。あなたが読んでどう思うかは知らない*1

 

読む文章の好みとある程度響きあうかたちで、自分で書く文章の好みというのもある。私が好んで書く文章、いや、できることなら書きたい文章というのは、読むときの理想よりも、もっと極端に、過剰に、引用や暗喩や仄めかしを満載した文章というものだ。みそ氏やしましま氏ならば分を守ってするであろう引用や暗喩や仄めかしを、私は分を守らずに、文法上可能な限り詰め込むに詰め込んでみたい。装飾過剰ゴシックな文章をできることなら書いてみたい。


過剰であることは、むろん、文章が“佳く”なるという結果を導かない。過剰を目指すことによって私の文章はひどくなる一方であろう。佳くもならないのに過剰を目指すというのは、一種自己満足的な衝動に過ぎない。だがそれでいいのだ、ブログに書く文章など。他者を楽しませる、愛にあふれた日記ダイアリーである必要がどこにある? 利己的な執着心にまみれた記録ウェブログでさえあればいい。


しかしながら、私の望みは果たされない。ほかならぬ私の無知によって。

言うまでもないことだが、筆者として知識をそれとなく見せびらかすためには、表に見せびらかされるぶんの10倍以上の知識が筆者の頭のうちには必要になる。私はみそ氏やしましま氏のように博識ではないので、彼らと同程度の仄めかしを行うことは出来うべくもない。ましてや彼ら以上になどとは!

 

ま、無知な己の限界を悟ったにしても、そこで希望がすべて絶たれるというものでもない。希望はつづくのだ、私の理想が完ぺきには再現できないとしても、少しでも理想に近づける手段はもろもろ検討できるのだから。この手段の検討と構築が今日の記事の主題である。

 

  • 手段① もっと知識をつける

この手段は忘れてはならないが、別の手段も持っておけ。

  • 手段② いかにもありそうだけど実在しない引用先をでっちあげる

最終手段。
名誉のために言っておくと、私はまだこの手段を使ったことがありません。たぶん。 

  • 手段③ 引用や暗喩や仄めかしをしやすい媒体を選ぶ

仮に豊富な知識を持っていたとしても、引用や暗喩や仄めかしを表現しづらい媒体では筆者はそれを表現できない。具体的に言えば、noteやアメブロのような、ルビもふれない脚注もリンクできない媒体を使っていると、仄めかしの幅が非常に制限されてしまう*2。逆に言うと、私がはてなブログを使っている理由の第一は「ルビがふれるし脚注もリンクできる」ということにこそある。はてなブログさんいつもありがとうございますこれからもよろしくお願いいたしします。
特にルビというのはいい。ごちゃごちゃと過剰にふられたルビは、文章を全く佳くしないが、必ずや読者をして目を凝らさせる。およそルビをふって書かれた言葉はすべて宝石ジュエリーであるのだと言っても過言ではないだろう。

 

ここまでの3つはいままでも私の考慮のうちにあった手段である。これらの手段を極めていく(あるいはまだまだとっておく)ことはこれまでも大事であったし、これからも大事であり続けるだろう。
しかしながら、何事も、いつまでもいままで通り行くとは限らない。情勢が変化の兆しを見せるならば別のやり方を探さなくてはならない。
昨今世間に目立って見える変化と言えば、例えばAIの技術の進展などであろう。たいていの場合、AIは変化を味方につけてしまうことにおいて比類なき力を発揮するので、いまは文章AIが引用や暗喩や仄めかしなどを得意としないとしても、近未来の文章AIが引用や暗喩や仄めかしを得意とするであろうことは間違いない。そこで私は先日、AIが、マザーAIが、私に代わって私の理想の文章を大量生産する未来に少しだけ先んじて、新たな手段を第4の手段として検討することにした。その手段とは、AIやマザーAIのやり口を少しだけ真似た、しかしいかにも人間的な手段である。

 

  • 手段④ 必要な引用先を効率よく思い出すためのツールを使う

私がイメージしているのはこういうことだ……私が気のおもむくままに文章を打ち込んでいくと、打ち込んでいくにしたがって、打ち込んだ単語に関連のある名句やキーワードが私の文章の脇に自動的にリストアップされていく。私はそのリストをちらちら見ながら、「お、これはいま引用できるぞ」などと思ってその名句・キーワードを引用していく。そんなことを可能にするツールがあったら便利だろうな、と。そして、もう少しヨクバルならば、そこで表示される名句やキーワードは、シェイクスピアゲーテとかいった定番の引用先ではなく、もっとニッチな需要に答えた引用先だったらいいな――例えば私にとっては、ウルトラマンに登場するクリシェであるとかプリキュアに登場するエピソードを引用先にしてしまいたい――とも思う。

 

そういうわけで。
じゃあ自分でなんとか作ってみるか、と思い、プログラミングを勉強し始めたのが1ヶ月ほど前のこと(言語はJavaとかいうのにしました)。勉強と何度かの練習を挟んで、つい先日、私の求めるツールがいちおう最低限の完成をみた。これこそmy new gear......その名もGammaAllusionである。

 

https://ux.getuploader.com/changer_observatory/download/1

↑こっからダウンロードできます

Windows用です これがMacでも動くようなものなのかどうか全くわかっていない

 

概要

文章を打ち込んでいくと、文章に出てきた単語に直接関係するフレーズやキーワードをリストアップして表示してくれるツール。関係するフレーズやキーワードの設定は、Excelを使って自分で追加・調整することができる……たぶん。
現状用意しているのは『プリキュアシリーズ関連フレーズ・キーワード』のみ。だいたい800種類くらいの言葉に反応して200種類くらいのプリキュア関連フレーズ・キーワードを返してくれる(実際使ってみるとわかるがこの程度の単語数では全然役に立たない)。

 

使い方

  • 上のスロットで辞書を選びます(現状は『プリキュアシリーズ関連フレーズ・キーワード』対応辞書のみ)。

  • 下のテキストエリアに文章を打ち込みます。打ち込むごとに上の3つのゲージがたまっていきます。

  • やがてゲージが満タンになり、その後さらに入力するとゼロに戻ります(満タンじゃなくても[検索]ボタンを押すとゼロに戻ります)。ゲージがゼロに戻ると、入力している文章に含まれる単語が集計されて、その単語の関連フレーズ・キーワードがリストに表示されます。
    なお、一番左のリストは「現在入力している箇所の直前50文字」の関連フレーズ・キーワードを、真ん中のリストは「直前250文字」の関連フレーズ・キーワードを、一番右のリストは「直前1000文字」の関連フレーズ・キーワードを表示します(この文字数は50文字から無制限まで選べます)。

ね、カンタンでしょ?
ちなみに、形態素解析にはkuromojiという神システムを利用させていただいています。自プログラムにkuromojiを組み込むだけで精度の高い形態素解析ができるのすごくないですか。プログラミングをする人からしたらひょっとしたら普通なのかもしれないですけど、プログラミングとかほとんどしたことない自分にはけっこうな衝撃でした。

 

 

 

 

いま私は2つの気持ちを強く感じている……一つ目は、プログラミングというやつを勉強し始めてから初めて、一個のツールを(いちおうは)完成させたことへの達成感・満足感。そして二つ目は、こんなツール要るのか、という疑念。誰がこんなツール必要とするんだろう、という疑念。誰が、という以前に、そもそも自分が、このツールを使うのだろうか、という疑念。

 

俺からみんなへのお願いだ!

  • ① このツールを使って文章を書きたい人は遠慮なく使ってくれ
    そしてできればこのツールを使って書いた文章を俺に教えてくれ。こっそり読んでにやにやするぞ。
  • ② キミだけのオリジナル辞書を作ってくれ
    前述したように、いまはまだプリキュアシリーズ対応の辞書しかないし、その辞書もまだまだ小さすぎて使い物にならないぞ。みんなのオリジナル辞書を作ってくれ。そしてできれば俺に見えるところで公開してくれ。ウルトラマン対応辞書とか仮面ライダー対応辞書とかの場合はたぶん俺自身も使わせてもらうぞ。
  • ③ なんならGammaAllusion本体を改良してくれ
    ソースコード公開したら誰か改良してくれたりするの? 助けてくれ。

そんなこと以前に、プログラミングなんて初めてなので、本当にこれが他人のパソコン上でも動くのかどうかから全く自信がありません。DLしてみたけど全然動かなかったら殺してください(嘘)。いや勝手に修復してください(無茶)。

みんな、頼んだぞ!!!!!

 


(完)


(続編はありません)

*1:ひとの文章を読んで韜晦に思うかどうかは、当たり前のことだが、筆者の意図よりかは読者の知識量の多寡によって決まる。私はみそ氏の文章を読んで「たぶん俺はみそ氏が仕込んだネタの50%くらいしか理解できてないな」と感じてみそ氏の文章の“韜晦さ”を味わうのだが、それは単に私がみそ氏の想像よりもずっと無知であるというだけのことなのかもしれない。かもしれないというか、それは間違いなく一面の事実ではある。

*2:厳密にはnoteやアメブロにもルビや脚注のやり方が存在するのかもしれない。そこらへんよく知らない。

今日はお題がある

お題:恋愛観

これは真偽がさだかでないが、少年漫画等々、バトルもののフィクション作品を鑑賞している人が、その作品の主人公や敵があまねく命を懸けて戦っているその動機というものにごく素朴な共感を寄せながらそれを鑑賞している、といったような場合はごく少ないだろう。もう少し具体的に言えば……『世界を守りたい』とか『無益な争いを止めたい』とか、そういった世界に広がるビッグな展望を持った登場人物に対して、「俺も力さえあればお前と一緒に世界を守りたいぜ!」とか「確かに無益な争いを止めたいぜ、頑張れよお前」とか感じ入っている観客・読者など100人に1人もいないだろう。また、『大切な人にだけは笑っていてほしい』とか『このささやかな日常を守りたい』といった比較的謙虚な欲望にしたって、それに文字通りに共感できる観客・読者などそうはいない。いや、いないよな? いないと思いたいんだが……。

だから、バトルものを鑑賞するときひとは、戦っている人々に文字通りの共感を寄せているわけではあまりなく、むしろ記号化されたやり取りを介して戦っている人々の行動原理を理解・予測しているのだと思う。『勝ったら得られるものが多い』とか『負けたらコストがかかる』とか『戦略に合致しない勝ち方をすると予想外のコストがかかる』とか『信念(という名の広義の戦略の一種)に合致しない勝ち方をするとめちゃくちゃコストがかかる』とかいった次元でのみ、戦っている人々の思考というものは共感可能で、この次元より下の次元(なんのために・誰のために戦うのか)も、より上の次元(どういう戦術によってその場の勝利を収めることができるか)も、形式的な理解こそすれ、心底から共感する必要などはありはしないのだ。だから、必ずしも武藤遊戯と同じ価値観を持っていなくても『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』は楽しく観られるし、遊戯王OCGのルールなど全く知らなくても『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』はやはり楽しく観られる。

いつだって真偽はさだかでないが、以上のことはバトルもの等々に限らず、例えば恋愛ものにだって成り立っていいはずだろう。つまり、『人を好きになる』とかいった感情にはまるで公共性がないが、この感情に深い共感を寄せる必要などべつにない。また、『適切なタイミングでキスなりなんなりしておけば好感度が稼げる傾向にある』とかいった細かい手管は、その手管に実現性があるのか否かなどべつに知っている必要はない。ただ、「この主人公は誰それというやつが好きで付き合いたいらしい」という基礎的なルールのみ理解して、そこからの演繹で下の次元(誰を・どうして好いているのか)や上の次元(どんな行動をとれば関係を先にすすめられるのか)に順次推測をかけていけばいい。もし、「好意そのものへの共感がなければ恋愛ものは楽しめないハズ」とか「実際の恋愛経験がなければ恋愛ものは楽しめないハズ」とか言うひとがあれば、むしろそのひとこそが恋愛ものを楽しむ能力に欠けている。

……などと言ってはみたものの、私自身、恋愛ものをいつも楽しんで鑑賞しているのか、と問われれば、事実はそうではない。私は、武藤遊戯に共感もしないしOCGのルールもおぼつかないのに『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』を観ていたころがあり、それはなかなか楽しかったが、私が『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』を楽しむのと全く同じように恋愛ものを楽しめるのかといえば、そのように楽しめる場合はけっこう少ない。

前者と後者に差異が生まれる理由は、ぱっと考えてみても二つほどあるだろう。一つ目の理由としては、『素朴な共感を持てるということは、あるジャンルを楽しむための必要条件では全くないが、素朴な共感を持てたほうがあるジャンルを楽しめる確率は上がる』ということ。『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』の場合はたまたま素朴な共感抜きでも楽しめたが*1、そのたまたまはいつも起こるわけではないということだ。

二つ目の理由としては、『恋愛ものにおいては、素朴な共感抜きでも演繹的に理解可能な作劇よりは、素朴な共感に全面的に依存した作劇が選択されがち』ということ。恋愛ものではどういうわけか、狡知に長けた優秀なプレイヤーの物語よりかは、『自分が相手のことをなぜ好きかもわからない』『どうしたら関係性を先にすすめられるのかわからない』のような不安げなビギナーの物語ばかりが描かれがちな傾向があるらしい。だから、基礎的なルールから上の次元と下の次元を演繹することは、観客・読者のミッションであるよりかは物語る側のミッションになってしまう。観客・読者としては『幼稚園のころにヒロインと一度会ってるから主人公はこいつのこと好きなんだよなー』とか『このタイミングでキスなりなんなりしとけば関係前に進むんだろうなー』とか完全にわかりきっている状況でも、あくまでも主人公には最善手が分かっていないことが多い。「より小さいコスト・予測可能なコストでより大きなリターンを得るにはどの手段を選べばいいか」という細かい利害調整ではなく、「俺にとって許容できないコストって何だろう」とか「一般的にリターンが期待できる手段といえばどんなものがあるんだろう」とかのレベルでのみ永遠に話が回っていて、観客・読者にはもう素朴な共感を寄せるぐらいの仕事しか残っていない。素朴な共感ができない人間にとっては――要するに私にとっては――虚無の時間である。まあ、ビギナーの苦手や失敗がそれ自体面白いこともまれにはあるけど……。

その点、『クズの本懐』というマンガ(5年くらい前に読んだ)なんかは私にとっても楽しみやすかった。例えば、人を好きになるという感情については、素朴な共感に依存しすぎず、登場人物ごとに別々なタイプの『好き』を作ってあって、理解もしやすかったし、『好き』のタイプごとに異なる戦術が選択されることに合理性もあったように思う。中盤は『いくらなんでも理屈に傾きすぎてきたか?』とも思い始めたが、終盤にいささか意外な結末が用意されていて、最終的には理屈に傾きすぎないバランスもとれていたと思う。当たり前だけど、ジャンルによってのみ作品の好悪は決まらないなあとか思いましたっ。

*1:それはたまたまというよりは、アニメ製作者の努力のたまものでもあるかもしれない。

Johny-Johny over the Rainbow - version 3.0

本記事は、LW氏の論文『白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか:Vtuber存在論と意味論』『「白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか」延長戦』を念頭に書かれたものです。

saize-lw.hatenablog.com

saize-lw.hatenablog.com

私が当該論文を念頭に書いたいままでの記事としては、『絶えず自壊する泥の反論集:インタラクティヴィティと論理的(不)完全性』とか『デットンは存在し、かつ、弟であるのか』とか『○』とかがありますが、本記事の主張は必ずしもこれら過去記事の主張と一致しません。本とか読んで考え方変わりました。

また、本記事とやはり主張は一致しないけれど、興味関心が結構被る記事として『Vtuberの命名儀式はいつ・どこで?』とか『反事実性を分解したい』とかがあります。

 

本記事、ブログにしては野放図に長々しき文章にはなったのかもしれませんが……内容としてはかなりこじんまりとした主張を試みることが下では意図されています。すなわち、“時間”の取り扱いを重視することで、フィクションと現実との交流を描き出す方策を一つでっち上げることができはしないか、という主張(主張未満ならば妄想)です。その主張はささやかな主張ゆえに、道具立てはいささか不足し、また正直に申し上げるといくつかの循環論法もそのなかには除去しきれずに残っているのですが、さりとて私は無知と怠惰ゆえの批難からの免罪を求める気はありません。万が一、不幸にして本記事を読み、また私がおかしなことを言っていると発見する人がいたなら指摘してください、腹を切って死にます。

 

LW氏のように明晰とはいかずとも、自分の興味関心に応じてカスタムされたキャラクター存在論を構想していきたいものですね。

 

 

序. 各論と別論

Vtuberとはどのような存在か。
言い換えるなら、Vtuberという存在にわれわれが感じる独特さを、われわれはどのような理屈で説明できるのか。
この問いに対し、LW氏は『白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか』(『フブかつ』)のなかで、Vtuberという存在の独特さの一端は、Vtuberに関して述べられた命題の真偽を確定する条件が複数の次元で同時に揺れ動くことにある」という結論に対し、Vtuberという存在のあり方を直接指示と因果説の理論において説明する」という理屈のなかでこの結論に対して見事に迫っていった。
しかしながら、LW氏が『フブかつ』において提唱した理論には、Vtuberの多くに顕著な特徴であるにもかかわらずそれを説明しきれずに例外とみなしてしまうような「不十分な点」があるように思われる。理論のそうした「不十分な点」は無論、あらゆる理論に必然的に存在すべきものであり、LW氏は「『フブかつ』を“頑強な原論”たらしめるためにこの理論が多少不十分な点には目をつぶり、理論の拡張・修正は後に続くかもしれない各論に任せる」と断言している。LW氏の理論の何割かを原論として受け入れたうえで、各論としての拡張・修正――『フブかつ』の延長線上の議論――を行うことが、本記事の目的の第一である。
また、私がかねてから興味を持っていたこととして、フィクションにおけるキャラクターが、しばしば“世界”(ひとまとまりの時間・空間)に縛られずに存在しているように感じられるが、この感覚はどのような理屈でもって説明されるか、という問題がある。この、「必ずしも“世界”には縛られない」という特徴は、一方、現在人気を博しているVtuberのほとんど全員における顕著な特徴でもあり、他方、Vtuber以外の何割かのフィクションのキャラクターたちも持っているような特徴でもある。この、必ずしもVtuberには限られないがVtuberに本質的でもあろう「必ずしも“世界”には縛られない」という独特さを説明するための理論の構築――『フブかつ』とは平行関係にある議論――を行うことが、本記事の第二の目的である。
本記事は以上の二つの目的のもとに議論を展開していく。よって本記事の概要を述べるならば、Vtuberに代表されうるある種のキャラクターの独特さは、“世界”を分ける壁に穴を開けたり壁を乗り越えたりできることにある」という結論に対し、Vtuberに直接指示と因果説を適用するうえで“そのもの性”の理論が必要とされる」という理屈のなかで、キャラクターが壁に穴を開けたり壁を乗り越えたりということの定式化を行い、迫っていこうという試みである。

 

1. 既存理論への不満と本記事の目標

観念論によれば、生きると夢みるという動詞は厳密には同義である。何千という現象から、私は一つの現象へと移行するだろう。一つのきわめて複雑な夢から、一つのきわめて単純な夢へと。他の者たちは狂人としての私を、その私はザーヒルを夢見るだろう。地上のすべての人間が昼夜の別なくザーヒルを夢見るとすれば、地上とザーヒルの、どちらが夢で、どちらが現実だということになるのだろう?
――――J・L・ボルヘス鼓直 訳)「ザーヒル」『アレフ』1952:2017 岩波書店 p146-147

1.1. キャラクターとの相互干渉という奇跡

われわれがVtuberというコンテンツを鑑賞するとき、独特に感じることの第一は、「虚構世界に住む人物はふつう現実世界に住むわれわれと相互干渉することができないはずなのに、Vtuberは虚構世界に住むにもかかわらずわれわれと相互干渉できているように感じられる」ということであるだろう。

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例えば、この動画はVtuberである白上フブキ女史の動画の一例である。この動画中でフブキ女史は「白髪ケモミミなオタク狐」というフィクションのキャラクターであるにもかかわらず、現実世界でYouTubeを視聴しているリスナーに対して話しかけ、YouTubeのチャット機能を通じてリスナーの“声”を聞き取りすらする。このように明らかに別世界に住む人物でありながらわれわれとコミュニケーションをとるということは、フブキ女史に限らず多くのVtuber(特に配信型Vtuber)にあてはまるだろう。

 

「相互干渉できないはずのものと相互干渉できる」ことはなんなら奇跡と呼んでも差し支えないだろうが、語用論的に、あるいは心理学的にみたとき、この奇跡は端的にわれわれの認知がもたらすある種の勘違いとして説明されるだろう。「現実世界のなにかが虚構世界のなにかであると見せかけられているに過ぎないのだから、それがわれわれと相互干渉できたとしても何の問題もないさ」とかなんとか。それはそれでいい。
では、LW氏が『フブかつ』においてそうしていたように、話題を意味論の領域に絞った場合でも、この奇跡は単なる勘違いとして切って捨てることができるだろうか。おそらくそうではない。意味論の見地からみたとき、LW氏の理論は「Vtuberは虚構世界に住んでいる」と言えるからこそ成立するものであり、件の奇跡は「Vtuberは虚構世界に住んでいるはずなのに虚構世界の住人にはできないはずのことができる」という矛盾であるからこれと対決せざるを得ない。

 

われわれにとってどうしてこの奇跡が問題たりうるのか、もう少し正確な言い方をしておいたほうがいいだろう。
「虚構世界に住む人物は現実世界に住むわれわれと相互干渉することができないはず」というわれわれの感覚は、いくつかの分野のいくつかの概念にその正体を見出すことができるだろう*1。こと意味論という分野では、われわれのこの感覚は「“世界”とは、定義からして、“世界”をまたいだ事物同士の因果関係があるようなものではありえない」という論理的な帰結に対応しているのではないかと考える。
そう、“世界”に類する述語を用いる(すべてではないにしろ、多くの)理論には「ある点を含む“世界”とはある点から連続した時空間のすべてを含むものである」言い換えれば「ある点から連続した時空間であるならばある点と同じ“世界”に必ず含まれる」という前提がある(可能世界の独立性)。もしわれわれがあるVtuberと仲良くおしゃべりをしたとするならば、Vtuberはわれわれと時空間的つながりのある範囲にいるといってよいだろう。しかし、われわれと時空間的つながりがある範囲ということは、Vtuberは虚構世界でなく現実世界にいるということになるのか? LW氏の理論の肝は、さきほども述べた通り、「Vtuberは現実世界とは違う世界である虚構世界に住んでいる」という点にあり、ここを譲るわけにはいかないのだが……。しかし、『フブかつ』においては、「異なる世界に属する者同士が相互干渉する」という事態の問題性についてはこれといって触れられず、われわれとVtuberとが相互干渉できるということを前提に議論が進んでいく。

 

われわれが『フブかつ』の議論を受けて、しかし不十分な点を拡張・修正しながら議論を進めようとするならば、キャラクターとの相互干渉問題に関してわれわれが採るべき戦略は、①たしかに定義上可能世界の独立性は破られ得ないが、われわれとキャラクターとが相互干渉できるかのような感覚は可能世界の独立性を破ることなく説明できるような理屈を考える(感覚を定義に合わせる)か、②われわれとキャラクターとがたしかに相互干渉しているいう感覚を(適度な頻度で)許すように、必ずしも独立性を前提としない可能世界論モドキを構想する(定義を感覚に合わせる)かのいずれかであろう。
一方、①の方策は、われわれがキャラクターと相互干渉できるという件の奇跡が単なる勘違いとして説明される結論を引き出しそうである……その結論がたとえ真理であろうとそうでなかろうと、そのようなあまりに常識的な結論をわざわざ引き出す文章に対して紙幅を割いた場合、ブログとしての意義を失うであろう。他方、②の方策……『可能世界論モドキ』と言ってしまえば、それはまだなんらかの意義がある理論のように思えるかもしれないが、実際のところ、独立性を前提としないことによる理論的喪失は大きかろう(独立性が前提とされないとき、例えば因果関係の定式化などが困難になる)。そのため、可能世界論モドキを構想することによってわれわれが確保する立場は(まえがきにも示唆したように)相応にこじんまりしたものにならざるを得ない。しかしながら、あくまでわれわれとキャラクターは相互作用しているという奇跡から出発するこの方策には(前者よりはまだ)文章技巧上の魅力を期待できる。本記事では、②の道を選ぶこととしよう。

なお、本記事の論旨とは直接関係はないが、問題関心のいくらかを共有するパラレルな議論として『Vtuberの命名儀式はいつ・どこで?』を行った。そちらの記事は「われわれとVtuberとの相互干渉が端的に可能であるという前提に従順に従ったとき、Vtuberに関する因果説がどのように認められるべきか」を検討した内容で、いささか奇妙な議論として読めるだろう。

 

1.2. キャラクターの侵入という奇跡

虚構世界のキャラクターが現実世界の事物と相互干渉をする、といった奇跡の延長上には、虚構世界のキャラクター自身が、虚構的存在者としてのアイデンティティを維持したまま現実世界に飛び出してくる、といった奇跡もあるだろう。

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例えば、映画『映画プリキュアドリームスターズ!』の物語は、異世界を渡り歩く能力を持ったゲストキャラに関連して展開するのだが、このなかで、プリキュアの一人が複数の世界を渡り歩くうちに映画館(まさしくこの映画が上映されている空間)にやって来る、というシーンがある。映像としては、全体が暗くなった無地の画面にスポットライトで照らされたプリキュアだけが描かれている、というもので、これが劇場のスクリーンに映るとさもスクリーンの手前にプリキュアが現れたかのように見える、というしかけを使っている*2。われわれがこの映画を大画面で観て「プリキュアが現実世界にやってきた」という感動をもし覚えるのならば、その感動を下支えするものとして、映像的なしかけももちろん重要だが、「虚構世界のキャラクターが現実世界に飛び出してくる」というアイデアがもっている公共性(とびぬけて突飛で理解不能なアイデアではない)もまた重要であるのは間違いない。

 

「キャラクターたちが現実世界の事物と相互干渉する」という事態を前提に可能世界論モドキをものしたいとすでに決めているわれわれとしては、新たに出てきた「キャラクターそのものが現実世界のなかに入ってくる」という事態はこれを前者の事態の特殊例とか応用例としてモドキのなかに組み込みたいところである。

 

1.3. 反実仮想と虚構世界との違い

われわれは、フィクション作品を鑑賞するとき、「単なる反実仮想に過ぎなかったものが一個の虚構世界に転化する」というような現象をしばしば目にするだろう。
この現象をはっきりと表現するのは比較的難しいように思われるが、例えばこんなことだ。

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アニメ『風都探偵』には、毎話の最後に本編の内容と遊離したコントのようなものを行うミニコーナーがある。このミニコーナーにはいくつかのフォーマットがあるが、そのフォーマットのひとつ「ハードボイルド妄想日記」では、まさしく妄想としか表現しようのない不合理な状況がアニメとして描写される。
第3話のミニコーナーも「ハードボイルド妄想日記」のフォーマットをとっており、「もしもときめがアメーバだったらぁぁぁ!!」と題して、レギュラーキャラのときめ女史がアメーバであり、常に2人、4人、8人……というように指数関数的に増殖している、という状況が描かれた(“本来の”ときめ女史は人間であり、理由もなく増殖することはない)。
このミニコーナーで描かれた状況は、もちろん本編とも正史ともみなされることはない。本編のストーリーを理解するうえで関係ない情報であるという点では、このコーナーの内容の重要度は視聴者の妄想の重要度となんら違いはないだろう。しかし、短い尺とはいえ、現にアニメーションとして映像化していることによってはじめて、この妄想的内容は単なる妄想以上のものになった――ひとつの“世界”を占めるに至った――というような気はしないだろうか? 単なる妄想にすぎなかった可能性が、「ときめ」というキャラクター名を聞いたとき当然に想起すべき可能世界群のなかに新たに加えられた、というような感覚がしないだろうか? これについて私は感覚に訴えかけるようなことしか言えないのだが……。

 

ここからは、「妄想」という概念をより範囲の広そうな概念「反実仮想」で言い換えよう。私の考えでは、反実仮想のなかでもある種の特別な反実仮想のみが「虚構世界」と呼ぶべき特徴を持っている。つまり、反実仮想が虚構世界と呼ぶべきものになるための何らかの条件があるのであって、ロマンチックに言えば、虚構世界はすべて単なる反実仮想から何らかの理由で虚構世界へと転化してきたものなのだ。
そしてその転化のきっかけとして、例えばアニメーションとして映像化することなどが有効であるらしい。また、一人のキャラクターの固有名に対して複数の可能世界が参照されるとき、反実仮想とみなしうるすべての可能世界ではなく、そのうちの虚構世界と呼ぶべき可能世界のみが参照されているらしい。

 

ある反実仮想が虚構世界に転化するか否かを決める条件とは何なのか。これは多少興味深い問いではあるが、本記事ではこの問いに最終的で決定的な解答を与えることは目指さない。
代わりに本記事でこれから検討したいのは、単なる反実仮想と単なる反実仮想にとどまらない虚構世界、なんとなく区別できそうなこのこの両者を、やはり区別して取り扱わねばならないといえるような理由――感覚的な違いでなく論理的な定義――を用意することである*3

 

この点、『フブかつ』においては、単なる反実仮想と虚構世界との関係は、ただ似ていると語られるだけで両者が何によって分けられるのかは語られていない。
確かに反実仮想と虚構世界はよく似ている。が、両者の間になんとなく違いを感じることもまた(少なくとも私にとっては)事実であり、端的に同じものであるかのように語られている理論は少々実感にそぐわない。単なる反実仮想と虚構世界との間に当然あるべき相似は認めたまま、両者の違いをも描き出す方向で本記事の理論を進めていきたい。

なお、本記事の論旨とは直接関係はないが、問題関心のいくらかを共有するパラレルな議論として『反事実性を分解したい』を行った。そちらの記事は「『フブかつ』では比較的ごちゃごちゃに扱われていた感のある複数の反事実性を分類整理する」という目的を持った記事である。

 

1.4. 現実と虚構との相対性

フィクションを作りだす人間の想像力は、無際限にではないがかなり自由なものだ。だから世のフィクション作品の中には、作品それ自体が示す虚構世界のなかにまた小さな虚構世界があることがあり、こうした世界は虚構内虚構世界とでもいえる。また、そうした虚構内虚構の世界のキャラクターが虚構世界に住む人物と相互干渉を行ったり虚構世界へと飛び出してきたり、といった作品もしばしば存在する。

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例えば、映画『ラスト・アクション・ヒーロー』では、大ヒットアクション映画シリーズ「ジャック・スレイター」シリーズが映画館で上映されている虚構世界に、シリーズの主役ジャック・スレイター氏が飛び出してきて大騒動を巻き起こす。
このように「虚構内虚構世界から虚構世界へとキャラクターが飛び出す」というフィクション作品は、さきほど述べた「虚構世界から現実世界へとキャラクターが飛び出す」というフィクション作品に比べれば比較的簡単に受け容れられるだろう。虚構内虚構世界からキャラクターが飛び出すという状況全体は確かにフィクショナルだが、フィクショナルな世界のなかでフィクショナルな状況が実現することになんの問題があるというのか。

 

虚構世界から現実世界へと飛び出す奇跡があるように、虚構内虚構世界から虚構世界へと飛び出す奇跡もあるとするのなら、両者の奇跡があえて別物であると考える動機はわれわれにとって薄いだろう。二つの奇跡は単にスタート地点が違うだけで同種の現象が起こっているのだともし理解できるのならば、そう理解したほうがシンプルでよい。
つまり、われわれが「ある“世界”から別の“世界”へと飛び出す奇跡」について考えるとき、求められるのは次のような考え方だ。すなわち「われわれが考えているのは、相対的に虚構であるほうから相対的に現実であるほうへキャラクターが飛び出す現象一般であり、本質的に異なる2種の現象ではない」。ならば、ことキャラクターの飛び出しに関しては、現実世界をあらゆる虚構世界に比して特権的な位置にあえて置く必然性もわれわれにはないだろう。「虚構と現実との別は、キャラクターの飛び出しに対して相対的なものであり、“世界”同士の推移的な関係というわけではない*4

現実世界をあえて特権的な位置に置く必然性もないのならば、われわれの現実世界でさえ、ある世界から見れば相対的に虚構でありうることをわれわれは肯定するだろう。つまり「夢の夢はうつつ」だということだ。しかし、シンプルな理解を行おうという理由だけで、そんな胡蝶の夢のような話を受け容れることはできるのだろうか?
私の考えでは、胡蝶の夢のような話を受け入れることで得られるメリットは単に理論を単純化できるという点にはとどまらず、いくつかのフィクション作品が持っている独特さと整合するという点にまで及んでいる。

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例えば、比較的有名な逸話として以下のようなものがある。Vtuberである月ノ美兎委員長の動画において、「Vは絵だから心なんてない」というリスナーからのチャットに対し月ノ美兎委員長は「わたくしが絵ならテメエらは文字だろうがよ。なあ、一次元が二次元に何言ってんだ?」と切り返したという*5。この逸話は、現実世界に住むわれわれにとってVtuberがフィクショナルな表象であるように、Vtuberにとってわれわれがなんらかのフィクショナルな表象であるかもしれないという可能性を、確証しないまでも、示唆しているとは言えないだろうか*6

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また、例えば、映画『仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』のストーリーも示唆的な構造を持っている。この映画では「仮面ライダーが実在して戦っている世界(ふだんの作品世界*7)」と「仮面ライダーが実在せずテレビ番組として放映されている世界(われわれの現実世界のパロディ)」の二つの“世界”が登場するのだが、展開としては「ティード氏が行う歴史介入によって前者の“世界”から後者の“世界”へと世界改変する」という展開と「フータロス氏の超能力によって後者の“世界”から前者の“世界”へと世界改変する」という展開の両方が描かれる。双方の世界改変のなかで、前者が本来の“世界”ととられるか後者が本来の“世界”ととられるかは世界改変の主体の立場にのみ依存しており、どちらの世界が本来の世界であるかを決める絶対的な審級は存在しない。つまり、現実と虚構との関係を相対化したフィクション作品として本作を解釈することができる。

 

以上の事情から、本記事では、こと「キャラクターが虚構世界を飛び出す」といった現象に関して、現実と虚構との関係を単に相対的なものとして処理できる理論を志向する。

 

1.5. 反実仮想 - 虚構世界 - 現実世界

1節から4節まで、既存理論が区別せず曖昧に済ませていた領域や既存理論ではいくつかのフィクション作品の特徴を捉え損ねる領域を追ってきた。これらの領域を説明の範疇に加えることが本記事の議論の目標である。
さて、既存理論に対する不満点として各節で得られた領域を本記事の議論で巧く説明できたとするならば、それは、フィクション作品が取りうる可能性として以下のように表現されるあり方を示唆するだろう。

  • 「“世界”xが“世界”yに対する反実仮想である」ということは、“世界”xと“世界”yとの関係である*8
  • 「“世界”xが“世界”yに対する反実仮想である」というような関係は、対称的ではなく*9、推移的ではなく*10、反射的ではない*11
  • 「ある“世界”xがある“世界”yに対する虚構世界である」ということは、“世界”同士の関係であり、「ある“世界”xがある“世界”yに対する反実仮想である」という関係を含む*12
  • “世界”xが“世界”yに対して虚構世界であるとき、ある事物(人物が生み出した声や情報や人物そのものを含む)が所属先を“世界”yから“世界”xへと移すということはありうる。

以上のあり方に従うフィクション作品では、例えばこんな状況が描かれるかもしれない……妄想とでもいうべきアドホックな状況設定のもとで生み出されたキャラクターが、単なる反実仮想と虚構世界との間の、曖昧ではあるが確かに存在する溝を越えてひとつの所属先虚構世界を獲得するという状況。あるいは、虚構内虚構世界に生み出されたキャラクターが“世界”を分ける壁を一枚二枚と乗り越えていき、虚構内虚構世界のキャラクターと虚構世界のキャラクターと現実世界の人物とが同じ文脈のなかで相互干渉するような状況。
そしてこうした突飛な状況は、単に私が自ら設定した目標のなかで「考えられなくもないあり方」というだけでなく、実際にいくつかのフィクション作品において描かれたことのある状況の中に含まれており、こうした状況を考察できるということには積極的な意義がある、と私は主張したい。

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例えば、Vtuberであるしぐれうい先生のこれらの動画である。一つ目の動画で「安価で決めたキャラ設定の女子高生のイラスト」としてうい先生に描かれた安堂=R=ジョニージョニー女史は、二つ目の動画のなかで「うい先生と会話することが可能な一個のキャラクター」として確立し、三つ目の動画においてはうい先生を介さずに直接リスナーとコミュニケーションをするに至った。これは、単なる虚構内反実仮想が虚構内虚構世界へと脱皮する過程、また単なる虚構内虚構のキャラクターが現実世界まで侵入してくる過程のわかりやすい例の一つである。さきほどは件の状況を“突飛”だと表現したが、実のところ件の状況は突飛なものでもなんでもなく、かつてキズナアイ女史が構想した“究極のフラット”なる未来――あるいはすでに実現した現在――の一側面ですらあるのかもしれない。

 

それにしても、本記事の議論が示唆しようとするあり方の極致と合致するフィクション作品があり、なおかつその作品がVtuberであるということからは、なんだかんだと言っても本記事の議論はLW氏によるVtuber特化の存在論の拡張・修正としての色彩を強く持っている、と主張したくもなる。
私は、Vtuberに限らずアニメや特撮等の幅広いフィクション作品とそのキャラクターに適用することを念頭に本記事での議論を展開するが、かといって、本記事で得られるべきモデルがVtuberの独特さを表現しないということでもないだろう。本記事の議論で広く適用できるモデルを構想するにしても、構想されたあり方がVtuberにとりわけ顕著な特徴を際立たせる可能性は高い。

 

2. そのもの性と不完全性

終わりが迫ると、もはや記憶のイメージは残らない。残るのはただ言葉だけである。かつてわたしを表現していた言葉と、何世紀も私と共にあった者の象徴であった言葉とを、時間が混同したとしても不思議ではない。私はホメーロスであった。間もなく、オデュッセウスのように〈何物でもないもの〉になるだろう。間もなく、すべての者になるだろう。すなわち、死者となるだろう。
――――J・L・ボルヘス鼓直 訳)「不死の人」『アレフ』1952:2017 岩波書店 p34

彼をここへ引きずってきた目的は、確かに超自然的ではあったが、不可能なものではなかった。彼の望みは、一人の人間を夢みることだった。つまり、細部まで完全なかたちでそれを夢みて、現実へと押しだすことだった。彼の心は、この神秘的な計画ですっかり占められていた。
――――J・L・ボルヘス鼓直 訳)「円環の廃墟」『伝奇集』1944:1993 岩波書店 p72

2.1. そのもの性

記述説ではなく因果説、つまり、キャラクターの固有名は偽装された確定記述ではなく固定指示子であり、性質の記述の束を介して特定のキャラクターに紐づけされるのではなく直接に特定のキャラクターと結びついているのだ、という主張は『フブかつ』のなかでもかなり重要な主張だ。
一方、固有名とはあるキャラクターが具えているいくつかの性質でもってそのキャラクターと結びついているのだ、という記述説の考え方は理解しやすい。白上フブキ女史を例にとるなら、『白上フブキ』という名前は白上フブキ女史が持っている「白髪である」「狐である」「オタクである」etc...の性質を捕まえているというわけだ。他方、固有名はあるキャラクターが持っているいかなる性質にも依存せずにあるキャラクターと結びついている、という因果説の考え方は容易には理解しがたい。『白上フブキ』という名前が「白髪である」とも「狐である」とも「オタクである」とも直截には関係ないとするなら、『白上フブキ』という名前は白上フブキ女史のいったいどの要素を捕まえているのか?
本記事では、因果説において『白上フブキ』という名前は、白上フブキ女史が具えているいかなる性質にも還元されない、しかし白上フブキ女史が必ず具えている何らかの要素を捕まえているのだ、と考える。この何らかの要素を、白上フブキ女史の「そのもの性」と呼ぶことにしよう。
私がここでこの何らかの要素を「そのもの性」と名付けた意図についてもう少し説明しよう。ある個物のそのもの性はその個物に固有であり、その個物が自身の性質のいくつかをたとえ失ったとしても保存される。例えば、なんらかの理由で白上フブキ女史が白髪でなくなり、狐でなくなり、オタクでなくなり……「白上フブキ」と聞いて人が想像できるすべての特徴を失ったとしても、なおそのものがそのものであるところの根本的な同一性(そんなものが実在するのか実在しないのかは現状では断言できないが)があるとすれば、そういった根本的同一性は「そのもの性」と呼ばれていいだろう。

  • 定義I(仮):ある個物がそのもの性を具えているとは、その個物が具えているようなようなあらゆる性質には依存せず、「その個物である」と認めさせるような根本的同一性をある個物が具えているということである*13

そのもの性が、ある個物をして「その個物である」と認めさせるような根本的同一性であるとして、ではその根本的同一性とは何であるのか? これは非常に興味深い問いではあるように思われるが、われわれが今すぐに取り扱うにはいささか難解すぎる問いではある。この記事では、そのもの性がいったい何であるのか、その疑問に過不足ない解答を与えることは目標とはしない。しかし、そのもの性を具えるということが一面ではどう理解されるかについて、ここからいくばくかの考察を与えていく。

 

ひとまずわれわれは、われわれが暮らす現実世界の日常において固有名の指示はどのように行われているかを考えてみればよいだろう。

 

現実世界の日常において、個物が具えているいくつかの性質は、そのもの性が果たす役割とは微妙に異なるがよく似た役割を果たしている、ということがあると思われる。いわば、『そのもの性モドキ』とでも言うべき性質だ。そのもの性モドキとして、思い浮かぶのは、ある個物が同じ原子で構成され続けているという性質であろう。
例えば、われわれと同じ現実世界に『佐藤和真』という名前の人物がいて、佐藤和真氏と知り合いであるわれわれはふだんから彼を『佐藤和真』と呼んでいたとしよう。このとき、もしも不幸にして佐藤和真氏が亡くなり、遺体となってしまったとしても、われわれのうち(全員ではないが)何割かはその遺体を依然として『佐藤和真』と呼ぶだろう。また、佐藤和真氏が亡くなっただけでなく火葬されて灰になったとしても、われわれのうち何割かはその灰を依然として『佐藤和真』と呼ぶだろう。ここで、『佐藤和真』という名前が捕まえているのは、たとえ佐藤和真氏が生命活動を止めようと酸化しようと変わりなくそのなにものかを構成し続けている特定の原子の集合ではないだろうか*14

  • 定義I(ニセ)①:ある個物がそのもの性を具えているとは、ある個物が同じ一そろいの原子で構成され続けているということである

しかしながら、ここで述べている性質はあくまで限定状況下で「そのもの性」とほぼ同等の役割を演じる「モドキ」に過ぎず、そのもの性とそのもの性モドキとの違いはすぐに露呈する。ある個物が具えるそのもの性が簡単に/常に失われるわけではない一方、原子レベルでの同一性は簡単に/常に失われているのだ。
人間は(たいていの場合)生き物であるので、常に外界から一定数の原子を自分の身体に取り入れ、また常に一定数の原子を手放して外界に送っている。ある一瞬に佐藤和真氏を構成していたような原子の何割かは、次の一瞬には呼気や汗や抜け毛として外界に放出され、「かつて佐藤和真だったもの」として世界に散逸していく。同じ原子で構成されているということによってなにか人間を特定するというのはかなり難しい。原子レベルの同一性というそのもの性モドキがホンモノとはだいぶ異なるとするなら、もっとホンモノに近しいモドキは他にないのだろうか。

 

よりマシなそのもの性モドキとして、同じ物体を構成し続けているという性質が挙げられるのではないだろうか。そして、ある物体が同じであるか否かを判断するうえで、単位時間内である程度以下の原子や分子の入れ替えは無視されるのではないだろうか。
例えば、昨日の佐藤和真氏と今日の佐藤和真氏の間で、身体を構成する原子が10%しか共通していなかったとする。原子レベルでの同一性が10%しかなかったときくと、瞬間、われわれは昨日の佐藤和真氏と今日の佐藤和真氏を同じ『佐藤和真』の名で呼ぶことをたっめらってしまいそうになる。しかし、昨日から今日までのすべての1秒間で、入れ替わった原子が例えば1%以下だったとするならば、われわれはやはり安心して昨日の佐藤和真氏と今日の佐藤和真氏は同じ物体であるとみなすことができるのである*15
例えば、亡くなって灰になって骨壺に入った佐藤和真氏をわれわれは依然として『佐藤和真』と呼ぶとしよう(火葬によって身体から大量の水素原子・酸素原子が失われることも、一瞬一瞬でみれば許容範囲だとみなしたということだ)。このとき、骨壺に入っている灰ならばまだ『佐藤和真』と呼んだとしても、骨壺から出されて海に散骨されたとき、その散逸していく灰を『佐藤和真』と呼ぶ人はかなり少ないだろう。これは、灰が散逸していくことでもはや同じ物体とはみなせなくなったからこそ、『佐藤和真』という名前が捕まえていたそのもの性が失われたということであろう。
多少の原子・分子レベルでの異同を許したうえでの物体の同一性のことを、ここからは物理的連続性と呼ぶことにしよう。

  • 定義I(ニセ)②:ある個物がそのもの性を具えているとは、ある個物が物理的連続性を維持しているということである

しかし、このモドキにもそれはそれで問題らしきものがある。われわれは、ある個物が持っているいかなる性質にも還元され得ないものとして“そのもの性”なる概念を用意したわけだが、②のような定義を行ったとき、このそのもの性モドキはやはりなんらかの性質であり、ある個物が持つあらゆる性質のなかに含まれてしまうのではないだろうか? ある個物が持つあらゆる性質に含まれないようなかたちでそのもの性を定義する文、あるいはせめて、ある個物が持つそのもの性モドキとその他すべての性質とを簡単に区別できるような定義を行う文は考案できないだろうか?
ここで、われわれがこれまでに得た比較的マシなニセモノである②の対偶をとってみるというのはいいヒントになるだろう。すなわち、ある個物が物理的連続性を維持しなくなったとき、その個物はいったいどうであるのか?
例えば、佐藤和真氏が亡くなって灰になり骨壺に入っているようなとき、佐藤和真氏には(見方によるところはあるが)まだそのもの性がある。しかし、骨壺から出されて海にまかれたとき、かろうじて残っていたかもしれないそのもの性は確実に失われる。そのもの性が失われた佐藤和真氏とはいったいどうであるのか?
そのもの性が失われたとき、佐藤和真氏はもはや何物でもない……それが答えなのではないだろうか。考えてみれば、そのもの性がかろうじて残っている間は、佐藤和真氏は様々に姿を変えはしたが常に何物かではあった。あるときの佐藤和真氏は人間であり、あるときの佐藤和真氏は遺体であり、あるときの佐藤和真氏は灰である、というように(ひょっとすると、命名前かつ誕生前のある時期の佐藤和真氏についても、このときの佐藤和真氏は胎児である、というようなことが言えるかもしれない)。しかしながら、散骨されたあとで「現在の佐藤和真は灰である」という認識は持ちづらい。現在の佐藤和真氏が何であるかと問われれば、「いまや何物でもない」と答える者が多いだろう*16
物理的連続性を維持していないということが「何物でもない」ということならば、「何物でもない」ということはないということは、そのもの性モドキとしてホンモノにかなり近い役割を果たせるのではないか。

  • 定義I(ニセ) ③:ある個物がそのもの性を具えているとは、ある個物が「何物でもない」ということはないということである

この③は、そのもの性モドキが(ひいてはホンモノも)ある個物が具えている性質の一つではない、ということを示唆するだろう(後にもう一度述べる通り、これは全く当たり前のことなのだが)。具体的にどのように考えれば、③から「そのもの性モドキは性質ではない」ということが示唆されうるのか、以下に詳しく述べていこう。
まず、可能世界論に従えば、「性質」とは“世界”が与えられたときにその“世界”のなかの個物の集合を返すような関数として定義できるという)。そして、個物の側から考えたとき、返された集合の要素としてある個物が属していればその個物はその性質を持っており、含まれなければその性質を持っていないということになる。例えば、ある世界をw、「赤い」という性質をRとおいたなら、
R(w) = {リンゴ, ポスト, 消防車, トマト, ......}
のようなイメージで「赤い」という性質が返す集合をイメージできる(“性質”を、“個物”を変数にとる関数ではなく“世界”を変数にとる関数として表現したことに注意)*17*18
さて、ここで「性質」「個物」「世界」という概念を組み替えて、「個物」という概念を関数として表現することができるだろう。すなわち、「個物」とは、(ある世界を定義域に含む)すべての性質によって構成される順序集合が与えられたとき、その個物が「それぞれの性質が世界に対して返す個物の集合に含まれている」か「その補集合に含まれている」かの2種類の値によって構成される順序集合を返すような関数である。例えば、ある世界をw、(wを変数にとれる)すべての性質によって構成される順序集合として以下のようなSをおいて、
S = {赤い, 丸い, 車である, 生きた動物である, 死んだ動物である, 灰である......}
「それぞれの性質が世界に対して返す個物の集合に含まれている」をT、「(wに含まれるすべての個物で構成された集合を全体集合として)その補集合に含まれている」をFとあらわすことにして、リンゴ・ポスト・消防車・トマトのそれぞれを関数としてあらわすと以下のようになるだろう。
リンゴ(S) = {T, T, F, F, F, F, ......}
ポスト(S) = {T, F, F, F, F, F, ......}
消防車(S) = {T, F, T, F, F, F, ......}
トマト(S) = {T, T, F, F, F, F, ......}
われわれの現実世界にあるような個物のうち、すぐに思いつくようなものはすべて、このような関数にしたときにTとFで構成された順序集合を返すであろう。そして、そのもの性モドキを具えているときの佐藤和真氏もこれらの個物と変わらず、このような関数にできる。例えば、生前の佐藤和真氏であれば
佐藤和真(S) = {F, F, F, T, F, F, ......}
遺体となった時点の佐藤和真氏であれば
佐藤和真(S) = {F, F, F, F, T, F, ......}
灰となった時点の佐藤和真氏であれば
佐藤和真(S) = {F, F, F, F, F, T, ......}
のような順序集合をそれぞれ返すであろう*19
では、何物でもなくなった時点の佐藤和真氏はどのような順序集合を返すだろうか? 何物でもない佐藤和真氏は赤くもなく丸くもなく車でもなく……そんなものなので、要素として無数のFだけを持つ(Tを一つも含まない)集合を返すだろうか?
おそらくそうではない。「何物でもない」ものとは、定義からして何物でもないので、「任意の性質が世界に対して返す個物の集合」にも「その補集合」にも含まれないのだ。そのため、何物でもない佐藤和真氏を関数にしたとき、その関数は「TでもFでもない」を要素として持つ順序集合を返す。
佐藤和真(S) = {TでもFでもない, TでもFでもない, TでもFでもない, TでもFでもない, ......}
これが何物でもない時点の佐藤和真氏である*20。何物でもない個物は『何物でもない』のだから性質が返す個物の集合にもその補集合にも含まれないのである。つまり、何物でもない個物は個物の全体集合に含まれないのである*21
と、こんな風に述べてみることは、もちろん単なる言葉遊びに過ぎない。われわれが考えてきたように、何物でもない個物はもはやそのもの性モドキを失っている、つまり個物ではないのだから、個物の全体集合に含まれないことは当たり前である。
もはや個物ではない個物はどんな個物であるのか、そのような考え方をすることは、まあ基本的にナンセンスではあるが、しかしながらわれわれに「ある個物が個物たるための条件としてどんなものがあるか」をよく教えてくれる。ある個物が個物たるための条件として、「任意の性質が返す個物の集合か、その補集合に含まれる」という条件があるのだ。これこそ、われわれが探ってきたそのもの性モドキ③なのだ。
本来、個物はすべての性質の集合を与えられたとき必ずTかFのみで構成された順序集合を返すわけであり、「必ずTかFのみで構成された順序集合をかえすようなもの」こそが個物であると定義することも可能であろう*22。ここまでの議論は実のところ、この定義をわざわざ分解して、個物が個物たるための条件に「TでもFでもない値を返すことはない」「TかFのどちらかを返す」の2段階を作ってみせたに過ぎない。
しかし、そうすることで、われわれはある個物がその個物たるための根本的同一性……自体ではないにしろ、そういった同一性の一端であるところのそのもの性モドキをはっきりとイメージできるようになったのではないだろうか*23

 

2.2. 反実仮想と虚構世界

ここまで、そのもの性とそのもの性モドキの定義にかかわる議論を行ってきたが、現実世界を念頭においたなかでのそのもの性とそのもの性モドキの本性はまずまず解き明かされてきたと思われるので、この議論をいったん中断して、現実世界の外、反実仮想と虚構世界にかかわる議論を始めよう。
予告した通り、本記事では反実仮想と虚構世界を区別して語ることができる理論を構築しようとしているわけだが、その前にいったん、本記事が想定している虚構世界はどのようなものであるのか、宣言しておこう。

 

  • 虚構世界は不完全なものである

『フブかつ』では、Vtuberというフィクション作品が表現する“世界”が完全であるかもしれないという可能性も検討しつつ、議論の本筋としてはフィクション作品が表現する“世界”は不完全であるということを認めている。本記事でも『フブかつ』にならって、Vtuberを含めたフィクション作品のキャラクターは各々の作品が表現する不完全な世界に住んでいるということにする。フィクション作品が表現する“世界”という呼び方は長いので、以後『虚構世界』と呼ぶ(この用語法は『フブかつ』の用語法とは一致していない可能性があることに注意。次節を参照せよ)。
では不完全とはどういうことなのか、と気になるかもしれないが、本記事では、『フブかつ』における定義*24とは若干趣向を変えて次のように定義する。「ある“世界”が不完全であるとは、その“世界”内の個物に関する命題が必ずしも真か偽には定まらないということである」つまり、完全であるということは次のように定義される。「ある“世界”が完全であるとは、その“世界”内の個物に関する命題はすべて真か偽に定まっているということである」*25
虚構世界において真か偽か定まらない命題というのは、例えば次のようなものを指す。「シャーロック・ホームズの背中にはホクロがある」この命題は、「シャーロック・ホームズ」シリーズにはホームズ氏の背中にホクロがあるか否かをはっきりと述べた描写が(おそらく)存在しないため、真であるとも偽であるとも言い切ることができないだろう。これは、「シャーロック・ホームズ」シリーズが表現する虚構世界が不完全であるために起こる事態である。
また、「シャーロック・ホームズ」シリーズが表現する虚構世界においてホームズ氏の背中にホクロがあるともないとも言えないということと、われわれの現実世界においてソクラテス氏の背中にホクロがあるともないとも言えないということとは違う(区別できる)。前者の状況では、ホームズ氏が背中にホクロを持つとも持たないとも言い切れないような“世界”として虚構世界がすでに完成しているために、現実世界のわれわれが虚構世界におけるある命題の真偽を確信できないことは必然的だが、後者の状況では、実際のところソクラテス氏が背中にホクロを持っていたか持っていなかったかは定まっている“世界”こそが現実世界だが、その情報は偶然現代まで伝えられていないためにわれわれが現実世界におけるある命題の真偽を確信できない。

さて、『フブかつ』においてLW氏は「ホームズ氏の髪の毛の数が奇数であるとも偶数であるともわれわれは確信できないが、虚構世界の個物について述べた命題が通常の推論規則に従うとするなら、ホームズ氏の髪の毛の本数は少なくとも『奇数または偶数』ではあろう」という趣旨のことを述べている。本記事の流儀に従って別な例文を作るなら、次のような例文でも意図は同じだろう。「ホームズ氏の背中にホクロがあるともないともわれわれは確信できないが、ホームズ氏の背中のホクロは少なくとも『ある、あるいはない』ではあろう」
この例文が示すところの意図は、われわれの直観によく合致しているように思われる。以下を公理として採用しよう。

  • 理II(仮) ある虚構世界の個物について述べた任意の命題Pについて、(P∨~P)はその虚構世界に対して真

しかし、われわれはなぜ、「シャーロック・ホームズ」シリーズのなかで書かれていないことであるのにもかかわらず、「少なくとも『ある、あるいはない』ということは真である」などと感じられるのであろうか? 「『ホクロがある、あるいはない』ということ」ですら拒否する道を選んでしまわないのだろうか?
この疑問には、「フィクション作品には常に“外挿”できる可能性がある」という考え方で回答することができるだろう。外挿とは、あるフィクション作品に関して、そのフィクション作品に既に含まれている情報と矛盾しないようなかたちで、そのフィクション作品が表現する世界についての追加情報を与えることだ。そして、そういった追加情報はしばしば、その作品の本筋とまるで関係がないようなトリヴィアルな虚構的事実に対する言及であることが歓迎されすらする*26
例を挙げよう。『緋色の研究』において巻き起こる事件はホームズ氏の背中のホクロの有無などとはまるで関係なく進行するものであり、作者サー・アーサー・コナン・ドイルも『緋色の研究』において背中のホクロの有無について記述することはなかった。しかし、作者が何かの気まぐれで『緋色の研究』の途中に「私ワトソンはこのとき知る由もなかったが、この日このときもホームズの背中の真ん中には大きなホクロが鎮座していたわけだ」のような文を突然挿入する、といったようなことは、実際にはなかったが可能性としてはありえた、とわれわれは思えるだろう。われわれはトリヴィアルな情報の開示を文学的テクニックとして受け入れられるからだ(私の例文が巧いテクニックか下手くそなテクニックかは別として)*27
もっと極端な例のほうが分かりやすいかもしれない。太宰治氏が何かの気まぐれで『走れメロス』の冒頭を「いまは佐賀県と呼ばれる場所で、一人の村人がくしゃみをした。ちょうどそのとき、遠く海を越えたある場所で、メロスは激怒した」から開始した、といったようなことは、実際にはなかったが可能性としてはありえただろう。
このように、われわれがフィクション作品をフィクション作品として受け入れるときは常に、ある虚構世界に関するトリヴィアルな事実が開示されてもおかしくはないと感じている(実際に開示されることこそまれかもしれないが)。もう少し踏み込んで言うなら、あるフィクション作品は、虚構世界において起こっているあらゆる物事について確信できる答えを用意しているわけではないが、あらゆる物事についてそれを突然確定させられるような準備ができている。なおかつ、これは言い換えれば、「この物事に関しては、突然答えが確定するというようなことは絶対に起こりえない」という特別な物事はひとつもない、ということでもある。この、「いつだってどんな物事だって外挿されうる」「なにがなんでも外挿され得ない、というものはない」という感覚こそが、「少なくとも(P∨~P)は真であるはずだ」という確信の正体ではないだろうか*28

しかし、この「いつだってどんな物事だって外挿されうる」「なにがなんでも外挿され得ない、というものはない」という感覚、虚構世界だけでなく反実仮想にもあてはまるだろうか? いや、われわれがふつう反実仮想と呼ぶところの文章に、外挿ができる場合はいささか限定的であるように思われる。
例えば、「ソクラテスが女性だったら、妻に文句を言うことはなかっただろう」という反実仮想に、むりやり外挿を行ってみよう。「ソクラテスが女性だったら、妻に文句を言うことはなかっただろう。ところで、アリストテレスは結婚している」はて、この文はいったい何が言いたいのであろうか? フィクション作品が、本筋とかなり無関係な事実を突然挿入しても文学的テクニックと解釈できる、否、するしかなかったのに比べれば、単なる反実仮想に対しては、それに文学的テクニックを見出すことは全く前提されないため、本筋と無関係なことを言い出せば不必要な添加物にしかならない。そう、“不必要”なのだ。フィクション作品に外挿がもし行われれば、そのフィクション作品は添加された情報を抜きにしてはもはや考えることができないのに対して、フィクション作品と言うほどの体をなしていない単なる反実仮想に外挿が行われても、「この情報なくてもこの反実仮想はこの反実仮想として成り立つよね?」というように添加された情報抜きに反実仮想を考えることができてしまうのだ。
ただし、虚構以外のあらゆる反実仮想があらゆる外挿を許容しないかと言えば、そうではないだろう。反実仮想であると言えて、なおかつ外挿が不可欠なものとして表現されているような文は全く存在しないというわけではない。例えば、「もし俺に妻がいたら、休みの日に黒のカットソーと青のロングスカートで一緒にお出かけしてくれたり、仕事帰りに帰り道で偶然会って一緒にラーメン食べに行ってくれたり、壁紙の色の好みが合わなくて口げんかになったりとかするんだろうなあ……」という妙に細部が細かい反実仮想の文などは、外挿と呼ぶべきものがなされている*29とみなしても問題はないだろう。まあ、これは反実仮想のうちでも文学に片足を突っ込んでいる部類だ、ともいえるが……*30

 

虚構世界を表現するところのフィクション作品には外挿が行えるが、虚構世界でないような反実仮想を表現するような文章には外挿が比較的行えない傾向にあるのだとすれば、われわれは、単なる反実仮想において文面にはっきりと出てこない物事に関する命題について、「少なくとも『真または偽』は真である」という確信を得ないことがあるのではないだろうか。ある単なる反実仮想がひとそろいの命題であらわされるとして、そのひとそろいの命題に含まれない任意の命題Pについて、(P∨~P)が真とは限らないのではないだろうか。また、逆に、ひとそろいの反実仮想に含まれない命題Pについてでも(P∨~P)は真であろうと確信できるようなとき、その反実仮想は反実仮想のなかでもとくべつに虚構世界と認められるべき反実仮想であるといえるのではないか。
表現をもう少しシンプルにするなら、以下のような公理、もとい定義文を提案できる。

  • 理II 改め 定義II(仮) ある反実仮想の任意の個物について述べた任意の命題Pについて(P∨~P)が真であるとき、その反実仮想を虚構世界と呼ぶ

「(P∨~P)は必ず真である」というルールを排中律と呼んでもし差支えなければ*31、以下のように言い換えられる。

  • 理II 改め 定義II(仮) 反実仮想のうち排中律が成り立つものを虚構世界と呼ぶ*32

この定義文を見たとき、こんなことを期待する人もいるだろう。「それ自体のうちで排中律が成り立っていないような命題のうちには、反実仮想としては表現できるが虚構世界としては表現できないようなものがあるのではないだろうか」
素朴に考えるなら、「それ自体のうちで排中律が成り立っていないような命題」とは、次のようなものでいいのだろうか? 「赤くないものが、赤くなくもない」そしてこの命題は、まずフィクション作品に組み込むのはかなり困難だとして、なんらかの反実仮想に組み込むことは果たしてできるだろうか? 例えば、次のような反実仮想だ。「この世のすべての赤くないものが、赤くなくもなかったら、この世はすべて赤いのになあ」……この文を私は、排中律が成り立っていないために、反実仮想とはみなしうるがフィクション作品に組み込むことは不可能であるような文の好例だと感じる。が、この文が好例だと感じられるということに関してはもう、私は論理的説得の限界を感じており、曖昧な共感を読者に期待せざるを得ない*33
あるいはこんな例を考えてみよう。よく使われる表現として、ありえない仮定を行うことですべての命題を真にしてしまうという表現がある。「(相手が絶対に東大に入れっこないという前提のもとに)お前が東大に入れるんだったら、俺なんて螺旋丸が撃てるぜ」この表現の意図はおそらく、「『お前が東大に入れない』は真であるという前提Aと『お前が東大に入れないことはない』は真であるという前提Bとを同時に認めるとしよう。すると、前提Aから『お前が東大に入れない』または『俺に螺旋丸が撃てる』のいずれかが真、というのは認められるが、前提Bと排中律から『お前が東大に入れない』は偽であるので、『俺に螺旋丸が撃てる』は必然的に真だよなあ」ということであろう。この表現の特質を、「排中律が必ずしも成り立たない」という反実仮想の特色と「排中律は必ず成り立つはず」という最小離脱世界の特色とをむりやり連結したという点にある、とは言えないだろうか*34*35
虚構世界でない反実仮想は「排中律が現に成り立っていない」という状況を提示できるため、「排中律が必ず成り立つはず」である最小離脱世界のルールと接触させたときに、爆発的な化学反応を起こすことがある――たった二つの命題を真だと認めることでありとあらゆる命題の真偽が揺るがされてしまうような化学反応を。しかし、虚構世界は「排中律が成り立っていない」という状況を提示できないため、爆発的な化学反応を起こすことはかなり少ない――ひとつふたつの命題の真偽のせいで“世界”全体の秩序さえ突然に破壊されてしまうような、そんな極端にセンシティブな虚構世界をわれわれが見ることはまず叶うまい*36

 

ところで、(真または偽)が真であるか否かによってある“世界”が虚構世界かそうでないかが切り替わるというアイデアは、先般議論していた(TまたはF)が真であるか否かによってある個物のそのもの性モドキの有無が切り替わるというアイデアとよく似ている。TやFの意味するところとは、ある性質が返す個物の集合のなかにその個物が入っているか、補集合に入っているか――つまり、ある個物について述べた(単項述語)命題が真か偽か――ということであったので、われわれはいまや、虚構世界とそのもの性モドキとを以下のように結びつけることができるだろう。

  • 理III(仮) 反実仮想のうち、そのうちに属する個物すべてにそのもの性モドキが付されているような“世界”はすべて虚構世界である*37
  • 定義I(ニセ) ④:ある個物がそのもの性を具えているとは、ひとつの個物を変項に持つ任意の単項述語命題について、ある個物を代入したときに表されるすべての出来事のそれぞれが、排中律に従っている、ということである

 

2.3. 反実仮想の相対性

いくつかの命題が「一概に真である」とも「一概に偽である」とも定まらない(ものの、「真か偽かではある」とはいえる)ような不完全な“世界”のことを『フブかつ』では「フィクション作品が提示する世界」などのように表現した。ここでフィクション作品が提示する世界について、いくつかの命題が「真である」とも「偽である」とも定まらないために推論規則がハチャメチャに崩壊してしまうのを防ぐため、LW氏はフィクション作品が提示する“世界”を「それぞれの命題について真であるような単一世界と偽であるような単一世界の両方を含む世界群」であるとみなしたのだった。本記事の議論において、私もこれにならい、あるフィクション作品が表現するところに従って(ひとつひとつは完全な)単一世界を無数に集めた世界群を虚構世界と呼ぶことにする(LW氏の用語法において、単一の世界でない世界群を『虚構世界』と呼びならわすことは妥当だとされるか否か、確認は取れていない)。また、本記事独自の見解として、ある反実仮想的文章に従って(完全でない単一世界をも含めて)世界を無数に集めた世界群を反実仮想と呼ぶことにする。そしてある虚構世界は何らかの反実仮想に含まれる。

 

ここで、反実仮想とはどんなものか、また虚構世界とはどんなものかなどを考える上で、現実世界の完全性がとくべつに前提とされるわけではないことには注意せよ。反実仮想や虚構世界を生み出す想像力がこのわれわれの現実世界にだけ与えられた特別なチカラであるなどと考える理由は特にない。なんなら、われわれの現実世界が他のどこかの“世界”にとっての反実仮想という世界群に含まれる一つの完全な世界である可能性もある。そのため、ある“世界”が現実世界そのものであるか虚構世界を構成しているか反実仮想を構成しているか、ということは、“世界”そのものの本性によっては決まらない、見方の問題ということになる*38。ここで、われわれの当初の目標のうちひとつは、以下のように少しだけ表現を変えながら達成されるだろう。

  • 「“世界”xが“世界”yに対する反実仮想である」ということは、(“世界”と呼ばれる)単一世界と(“世界”と呼ばれる)世界群との関係である

 

2.4. 虚構世界の不完全性

私がここまで主張してきたのは「虚構世界と反実仮想には確かに類似点があるが、本記事で述べているような枠組みに従えば、虚構世界と虚構世界でない反実仮想とを区別できるのではないか」ということだった。この主張の一側面を取り出せば、このように言うこともできよう。「虚構世界と反実仮想とはいずれも不完全だが、虚構世界と虚構世界でないような反実仮想との間では不完全性の程度が違う」
しかし、本記事が依拠しているところの『フブかつ』では「Vtuber(が属する“世界”)は小説などのキャラクターと違って完全であるとみなせるかもしれない」という示唆が行われているのだった。もしもVtuberが属する“世界”が完全であるとすると、虚構世界と反実仮想との類似性の一端が反証され、これまでの本記事の議論が成り立たなくなってしまう。ここから、虚構世界の不完全性についてより詳細な分類を行うことで、Vtuberが属する“世界”は間違いなく不完全であると主張し、本記事の立場を確保していきたい。

 

『フブかつ』においてLW氏が「Vtuber(が属する“世界”)は完全かもしれない」と主張する理由は以下のようなものだ。
白上フブキが属する“世界”をSW、われわれの現実世界をAWとする。
一般に虚構世界に関しては真偽の判然としない命題が無数にある(=不完全)が、われわれがもしもSWに関して真偽の判然としない命題があれば、それがどんな命題であれ、Vtuber本人に訊いて答えを得ることで真偽を確定させることができる。つまり、(実際的には不可能だとしても)原理的にはあらゆる命題の真偽を確定させることができる。あらゆる命題の真偽を確定できる以上、SWは完全なのかもしれない。
なお、実際はあらゆる命題の真偽がきちんと確定できるのに、一見すると真偽が判然としない命題があるように思える、といったことは完全であるAWでも起こることである。そのため、「実際的にはあらゆる命題の真偽を確定できない」という理由だけでは、SWは不完全であると結論付ける根拠としては薄い。
ここで、「SWに関して真偽の判然としない任意の命題に対して真偽を確定させることができる」ということを本記事としては「SWには外挿を行う余地がある」と呼んでいいだろう。そして、先ほど述べたように、外挿を行えるということはフィクション作品の基本的な性質である。フィクション作品に外挿が行えるということは、虚構世界が完全であるというよりかは不完全であるということを示しており、完全であると想定されるところの現実世界はむしろ外挿が行えない。LW氏がしているように「SWには外挿を行う余地がある」という事実を確認することは、ただSWがそのときどきで不完全であることを証明するのみで、SWが完全であることを示唆したりはしない。
なるほど確かに、LW氏が指摘するように「実際は真偽が確定できるのに一見真偽が判然としない」という事態はAWでも起こる。しかし、われわれがAWに関するいくつかの命題についてその真偽を知らないのは偶然今日までその真偽を知らなかったというだけのことであり、偶然今日までにその命題の真偽を知っているという可能性もあった(ブラジルの今日の天気であれ宇宙の原子の総数であれ、われわれがたまたま知っていてもおかしくはない*39)。いわば、すでに確定している情報をわれわれの側の怠惰によって今日まで知らずにいただけのことなのである。対して、SWに関してまだ全く語られていない事実について、われわれがその事実を述べた命題の真偽を今日まで知らないのはわれわれにとって必然的である。虚構世界に関していまだ語られていない情報は、われわれのうちいかに勤勉な者であっても知りようがない。AWにおいて「真偽が判然としない」ということとSWにおいて「真偽が判然としない」ということとは全く違う意味を持っているのだ。ウンベルト・エーコ曰く、「物語の可能世界こそは、その内部で起こる出来事について絶対確実な知識を得ることができる唯一の宇宙であり、この世界に入り込んでいる限り、我々は非常に強い〈真実〉の観念を手にすることができるのだ(三谷武司訳 2013=2015 p440)」*40*41*42

 

しかしながら、「旧来の小説キャラクターなどと、Vtuberなどのキャラクターとが、完全性についてなにかしら質的に異なる特徴を持っている」とは私にもなんとなくわかる感覚である。そのため、LW氏の示唆を単なる勘違いであるとして掃いて捨ててしまうのはいささか早計であるという気もする。予告した通り、虚構世界の不完全性にもう少し細かい分類を加えて、この独特な感覚の正体を探ろう。
まずは、「外挿が行える」ということは虚構世界の不完全性に基づくものであったが、この外挿を2種類に分けることで不完全性の分類につなげることができるだろう。
われわれがもしも、「シャーロック・ホームズ」シリーズのような完結済みの作品*43について、「シリーズ作品のどこにも書かれていない情報を外挿できる可能性がある」というとき、その外挿とは、「シャーロック・ホームズ」シリーズの本質を損なうようなかたちのものを意味するだろう。すなわち、「私ワトソンはこのとき知る由もなかったが、この日このときもホームズの背中の真ん中には大きなホクロが鎮座していたわけだ」のような文が書き加えられた『緋色の研究ひいろのけんきゅう』はもはや厳密な意味で『緋色の研究ひいろのけんきゅう』そのものではなく、『緋色の研究'ひいろのけんきゅう プライム』であるということだ。このように、行われたとして正典に加わるわけではない、すでに現実によって否定されている外挿のことを『真性の外挿』と呼ぼう。
われわれがもしも、「Vtuber白上フブキしらかみフブキ」のような現在進行中のコンテンツについて、「今までコンテンツのどこを見ても設定されていなかった情報が今後公式設定として外挿される可能性がある」というとき、その外挿とは、いまわれわれが「Vtuber白上フブキしらかみフブキ」と呼んでいるところのものの本質を損なうことのないかたちのものを意味するだろう。すなわち、「Vtuber白上フブキしらかみフブキ」にどんな設定が追加されても、「Vtuber白上フブキ'しらかみフブキ プライム」のような亜種は必ずしも想定されない。このように、正典に加わる可能性を持った、未来に許されている外挿のことを『仮性の外挿』と呼ぼう(仮性と呼ぶのは、その情報が正典に加えられたあととなってはその外挿はもはや外挿でなくなるからである)。
明らかに完結済み(正典が追加される見込みがない)であるようなフィクション作品が表現する虚構世界についての外挿は真性の外挿であるのに対し、現在進行中のフィクション作品が表現する虚構世界についての外挿は仮性の外挿となる、そのため、虚構世界の不完全性には真性の外挿を許すような不完全性と仮性の外挿を許すような不完全性があるともいえる。こうすれば、Vtuberが属する虚構世界の不完全性の独特さはさしあたり表現できただろう。
ひょっとすると、私はこのような反論を受けるかもしれない。「筆者は『真性の外挿を許す世界』『仮性の外挿を許す世界』『外挿を許さない世界』を並べて、前者2つを不完全、後者1つを完全と決めつけているが、分類さえきっちりできているなら、前者1つを不完全、後者2つを完全と呼ぶことに決めつけたとしても問題はないのではないか。LW氏の立場を、前者1つ後者2つに分けて呼ぶ立場だと理解すればLW氏への反論はできないのではないか」と。もしこのような反論を受けるなら、私は「前者1つ後者2つに分けるのはLW氏の説明に照らして不自然だ」と再反論しよう。
具体的には、外挿の自由度を3種類に分け、なおかつ時間感覚を整理することでこの分け方の不自然さを明らかにできる。
われわれがある虚構世界への外挿を考えるとき、それがある特定の命題を真だと決めるものであるのか偽だと決めるものであるのかの2通りの外挿を考えることができるだろう。例えば、われわれは「シャーロック・ホームズ」シリーズに対して「ホームズ氏の背中にはホクロがある」という特定の命題に関して、これを真と定める外挿が行われる場合と、偽と定める外挿が行われる場合との両方を考えることができる。これを、外挿の『真偽選択自由度』と呼ぶことにする(この真偽選択自由度という概念は、次に述べる2種類の自由度と区別するためにここで定義して名前を与えておく必要があったのだが、今後の議論にはほとんど関係ない概念なのでもう名前を忘れてもらっていい)。
われわれがある虚構世界への外挿を考えるとき、どのような特定の命題を外挿するのかについて無数の場合を考えることができるだろう。例えば、われわれは「シャーロック・ホームズ」シリーズに対して「ホームズ氏の背中にはホクロがある(は真である)」という外挿を行う場合や、「ホームズ氏の髪の毛の本数は奇数である(は真である)」という外挿を行う場合や、「ホームズ氏は実は螺旋丸を撃てる(は真である)」という外挿を行う場合などなどを考えることができる。これを、外挿の『命題選択自由度』と呼ぶことにする。
われわれがある虚構世界への外挿を考えるとき、一体いくつの命題を外挿するのかについてさまざまな場合を考えることができるだろう。これを、外挿の『回数選択自由度』と呼ぶことにする*44
さて、ここから、今現在のわれわれからみたときのSWの完全性について、二つの見方から検討し、どちらの見方を採ったところでSWは不完全であるということを明らかにしよう。
まず、あくまで、AWにおいて2022年現在までに明かされている情報のみからSWの本性を構成するという見方で考えよう。フィクション作品の正典で述べられていない命題は、それが真性の外挿として許される内容であれ、仮性の外挿として許される内容であれ、端的に、現在までに明かされていないという理由によって真とも偽とも決まらないであろう。SWは不完全である。
次に、AWにおける遠未来、白上フブキ女史が登場しうるすべてのストーリーが完結したあとの時点での情報をもとにSWの本性を構成するという見方で考えよう*45。現在から遠未来に至るまでの有限長の時間のなかで、SWに関する有限個の新情報がAWにもたらされたことだろう。そのため、SWについて真か偽か定まるような命題は、現在のわれわれが真か偽か知っている命題よりも有限個多いことだろう。ただ、真偽が定まる命題がたかだか有限個増えた程度ではSWは完全にはならない。SWはやはり不完全である*46
SWが完全であると誤解しやすいのは、現在から遠未来に至るまでの有限長の時間のなかで行う仮性の外挿の命題選択自由度が無制限であるためである。われわれには、次の瞬間に白上フブキ女史に対して「背中にホクロありますか?」という赤スパを送る自由も「髪の毛の本数って奇数ですか?」という赤スパを送る自由も「螺旋丸って撃てますか?」という赤スパを送る自由もある。現在からは無数の未来がつながっているため、無数の未来のなかでは無数の赤スパに対する回答が網羅されており、SWが原理的には完全であるかのような錯覚をも感じる。しかし、現在からみた無数の未来は、それぞれ不完全なSWを無数に集めたものに過ぎない。「背中にホクロありますか?」という赤スパは送ったが「髪の毛の本数って奇数ですか?」とは送らなかった未来では、髪の毛の本数について質問しなかったがゆえにSWは不完全であり、「背中にホクロありますか?」という赤スパは送らず「髪の毛の本数って奇数ですか?」とは送った未来では、背中のホクロについて質問しなかったがゆえにSWはやはり不完全なのだ。そしてそれぞれの未来からみて、自分とは別の選択肢をとった未来における「Vtuber白上フブキしらかみフブキ」はもはや「Vtuber白上フブキしらかみフブキ」そのものとは思えず、「Vtuber白上フブキ'しらかみフブキ プライム」であろう*47
われわれが、遠未来における情報の充実を根拠にSWの完全性を担保できると信じるためには、仮性の外挿の回数選択自由度が無制限でなければならない。つまり、有限時間内に無限個の命題について真偽を確かめることさえできれば、SWの完全性は担保されうる、ということだ。しかし、Vtuberを主な対象として議論を進めるうえで、「有限時間内に無限個の命題について真偽を確かめることさえできれば……」という仮定を行うのは無益だと言わざるを得ない。Vtuberには「生配信をよく用いる」という明らかな特徴があるにもかかわらず、当の仮定はVtuberの特徴をまるっきり無視している*48

 

3. 世界の壁を越えるとき

「文書館は真理と誤謬の証人である」そのとき、私たちの背後から一つの声が沸き起こった。ホルヘだった。またしても私は驚かされてしまった(しかもこれから先、まだ何度も、驚かされねばならないであろう)、突如として現われ出るあの老人の不意打ちによって。私たちからは彼が見えないのに、彼のほうからは私たちが見えているみたいだった。いったい盲目の人間が写字室へ来て何をしようと言うのであろうか。私は自分にそう問い質してみたが、後になってホルヘは僧院の至るところへ出没することを知った。
――――U・エーコ(河島英昭 訳)『薔薇の名前(上)』1980:1990 東京創元社 p206

3.1. 連続性?と自律性?

2章3節では、『フブかつ』の議論に対してどちらかといえば批判的に、Vtuberが持つ形式がVtuber(とそれが属する世界)の完全性を担保することはない、と主張してきた。しかしながら、LW氏が注目しているように、VtuberVtuberの形式をとることによってVtuber存在論的な意味が何らかの意味で独特なものになっているという感じは確かにある。

 

LW氏の見立てでは、Vtuberが旧来の小説キャラクターなどと根本的に違うのは「性質リストの更新が離散的にでなく、連続的に行われること」と「作者の存在を前提とせずとも性質リストの提示が説明できること」という二つの特徴によって実現しているという。私の考える限り、前者の特徴は貴重な示唆ではあるがまだ具体性に欠け、後者の見立てははっきりと定式化できそうだがVtuberに独自であるとは少し言いにくい*49。本記事では、二つの特徴を以下に示すような一つの特徴に置き換えてVtuberに独特さを与えたいと思う。
Vtuberの多くは、生配信形式をとることを通じ、現実世界の特定の一瞬に「何物でもない」かのような位置を占めている。

 

3.2. そのもの性モドキ

われわれはここから、Vtuberが生配信形式などによって実現しているようなある種の性質に関してそのもの性モドキをからめて考察を加えていく*50。そのために、2章1節から中断していたそのもの性モドキに関する議論を再開して定義文にさらなる調整を加えよう。
われわれは先ほどの定義文③でそのもの性(モドキ)を『ある個物が「何物でもない」ということはないということ』であると結論付けたが、この定義づけにはまだ問題が残っているだろう。『フブかつ延長戦』1章3節で指摘されている通り、真か偽かは時間に依存して変化するものだが、この③のように時間に対してあいまいな態度をとっていると、ある一定の時間内に真になったり偽になったりの変化をするような個物を反例として持ち出されて、「この個物は、ある一定期間を通じて見たときこの個物は一概に真であるとも偽であるともいえないため『真でもなくかつ偽でもない』にあたるのだが、しかしこの個物はそのもの性を具えているように思われる」という反論を受ける可能性がある。そこで、時間経過によって真偽があいまいになるのを避けるため、新バージョンは以下のような定義文にしよう。

  • 定義I(ニセ) ⑤:ある個物がある十分に短い期間にそのもの性を具えているとは、ひとつの個物とひとつの十分に短い期間を変項に持つ任意の二項述語命題について、ある個物とある十分に短い期間を代入したときに表されるすべての出来事のそれぞれが、ある世界内のすべての出来事と時間順序的関係を持ち、かつ、排中律に従っている、ということである*51

真か偽かが時間に依存するとなると、われわれのそのもの性(モドキ)も時間に依存せざるを得ない。そのもの性とは、個物がずっと一つを持ち続けるものであるというよりかは、ある十分に短い期間を与えられたときに都度「何物でもない」ということはないという答えを返すようなものであるということだ。「ある十分に短い期間」という呼び名は長いのでここから“一瞬”と呼ぶことにしよう*52。つまり、そのもの性と一瞬とにはある程度の対応関係が認められる(一対一対応であるかはまだわからない)。

 

もし仮に、時間の流れが“世界”をまたいで存在しており、“世界”をまたいだ同時性が無根拠に仮定されうるとすると、ある“世界”に存在する個物は、ひとつの“世界”においては“十分に短い期間”の間じゅう「何物でもない」ことはなかったとしても、また別の世界で同時に「何物でもなかった」、という事態がありうる。これでは、ひとつの“十分に短い期間”のなかで一つの個物がそのもの性を具えていたり具えていなかったりするわけで、定義文の不備が示されている。ここは、時間の流れは“世界”ごとにある程度独立に存在し、そのもの性について調べるときわれわれは特定の“世界”の時間の流れに含まれるある一瞬についてのみ考えているのだ、ということをはっきり示したほうがいいだろう。
ふつう、ひとつの“世界”のある一瞬に起こる出来事のすべては、その世界固有の時間軸にのっとって時系列として整列させることができるだろう*53。これは言い換えれば、ある“世界”のなかで起こる2つの任意の一瞬の出来事は、反射性・反対称性・推移性・完全性を持つある関係を満たす、ということだろう。この関係をその“世界”内の時間順序的関係と呼ぶことにする*54。このとき、ある出来事が“世界”wの時間の流れのなかで特定の一瞬に起こったか否かは、「ある出来事がw内で起こったすべての出来事と時間順序的関係を持っているか否か」と表現できる*55。いま、われわれはそのもの性モドキのことを「」そして、われわれはこれからそのもの性モドキについて考えるとき、「特定の“世界”内で起こったすべての出来事と時間順序的関係を持っている」ような出来事に限定してこれを考えることにしよう。

  • 定義I(ニセ) ⑥:ある個物がある世界である一瞬にそのもの性を具えているとは、ひとつの個物とひとつの一瞬を変項に持つ任意の三項述語命題について、ある個物とある一瞬を代入したときに表されるすべての出来事のそれぞれが、ある世界内のすべての出来事と時間順序的関係を持ち、かつ、排中律に従っている、ということである*56

 

3.3. キャラクターの干渉

ある固有名が命名されるとき、名付けられる個物はまさしく命名の一瞬を与えられてそのもの性を返すであろう。命名の一瞬から長い時間が経ったとき、命名儀式に立ち会っていたわけでもない人は、その個物をその個物の固有名で呼びならわせる範囲がどこからどこまでなのかを知りたいときに、全ての一瞬の集合に対してその個物がそのもの性を返す一瞬の部分集合を調べることで目的を達するであろう(われわれはホンモノのそのもの性について詳しく知らないので、以後ホンモノの代わりにそのもの性モドキをイメージしつつ議論を進めるかもしれないが、これで著しく直観に反することはないだろうと私は期待する)。
われわれが、『ソクラテス』という名前を聞いて何から何までを思い浮かべるか迷っているとしよう。こんなときわれわれは、まず『ソクラテス』は個物の名前なので『ソクラテス』という名前に想定できる命名儀式を考え、その命名儀式において固有名と結びつけられたそのもの性が時間的にいつからいつまで有効であるかを考えればよいだろう。ソクラテス氏はAWにおける紀元前470年ごろから紀元前399年ごろまで生きていたと考えられているので、命名儀式は紀元前470年ごろにあり、ソクラテス氏のそのもの性もだいたい紀元前470年ごろから紀元前399年ごろまで保たれていて、それ以前とそれ以後の『ソクラテス氏にあたるもの』はもはや何物でもなかったはず、といえるだろう(強いて具体的に言うなら、胎児として構成される前の分子であったり、遺体を構成することをやめたあとの分子であったりするだろう)。だから、AWに住むわれわれとしては、ひょっとすると本棚の上の塵芥のなかのひとつの分子がかつてソクラテス氏を構成していたかもしれないなどと思ったとしても、その塵芥を『ソクラテス』と呼ぶ必要はない。
われわれが、なにかほどほどにリアルな世界観の現代劇……例えば、『けいおん!』のキャラクター『平沢唯』の名前を聞いて何から何までを思い浮かべるか迷っているとしよう。こんなときわれわれは、やはり『平沢唯』という名前に想定できる命名儀式を考え、その命名儀式において固有名と結びつけられたそのもの性が時間的にいつからいつまで有効であれば考えればよいだろう。命名儀式が、虚構世界において平沢女史が生まれた直後に執り行われたと考えるか、それとも漫画『けいおん!』の第1話に当たるエピソード中に行われたと考えるか、などはこの際どうでもいい。いずれにせよ、平沢女史が仮に2007年ごろに高校1年生だったとすると、平沢女史のそのもの性は1991年ごろから数十年にわたる有限の期間保たれていて、それ以前とそれ以後の『平沢女史にあたるもの』はもはや何物でもなかっただろう。ただ、今度の場合気を付けるべきは、平沢女史がそのもの性を維持するであろうのは『けいおん!』が表現する世界……いうなればKWにおける特定の期間だけであって、AWにおけるいつの時点をも含まないということだ。AWのなかに限定して考えたとき、いかなる時点においても平沢女史は彼女自身のそのもの性を持っていない。もちろん、あなたの本棚の中に入っている『けいおん!』の1巻が平沢女史の本体であることもない。
さて、ここから考えていくのが、ひょっとするとVtuberの独特さをあらわにするかもしれない箇所だ。われわれが、誰かVtuberの名前を……例えば、『白上フブキ』の名前を聞いて何から何までを思い浮かべるか迷っているとしよう。こんなときわれわれは、ソクラテス氏や平沢女史にそうしたように、『白上フブキ』の命名儀式を考え、『白上フブキ』のそのもの性が時間的にいつからいつまで有効であるか考えるだろう。平沢女史と同様、フブキ女史のそのもの性がSWにおける有限の期間中に絶え間なく有効であることはまず間違いない*57。しかしフブキ女史の場合は平沢女史とは違う点として、女史がそのもの性を維持する時間的範囲――『何物でもない』ことはないという状態を維持する時間的範囲――がSW内の一定期間だけで尽きていないかのように思える。AWにおいてもいくつかの一瞬でフブキ女史が何物かであるとでも言えそうな錯覚を覚える。

 

例えば、フブキ女史が2022年1月1日の生配信においてリスナーからの『いま現在髪の毛の本数奇数ですか偶数ですか』という質問に対し『奇数でした』などと応答し、リスナーも『わざわざありがとうございます』と感謝した、としよう。このとき、まさにフブキ女史が応答した一瞬というものは、SW内で何時何分何秒単位で特定できるのみならず、AW内でも何時何分何秒単位で特定できるように思える。これは、フブキ女史の(おそらくSW内で行っている)『奇数でした』という発言を、『いま現在髪の毛の本数奇数ですか偶数ですか』というAW内の発言より前にも『わざわざありがとうございます』というAW内の発言より後にも置くことができないからだ。AW内で確かに特定の時間に行われた二つの発言の間でしかありえないために、フブキ女史の発言の時間的位置は、SW内での発言であるのに、AW内の十分に短い時間のなかに拘束される。
このようなことは小説キャラクターにはなかなか起こらない。小説のなかで起こることはふつう、AW内の特定の一瞬に拘束されることはない。なぜなら小説は、刊行初日に買って読んだか刊行の10年後に買って読んだかで作品の同一性が損なわれるようなものだとは(ふつう)みなされないからだ。たとえ、読者の存在を認識して積極的に話しかけてくるメタキャラであったとしても、読者によってそのメタキャラから声を掛けられるタイミングはまちまちであるために、メタキャラが自らの発言をAW内の特定の一瞬に拘束されることはまずない。よって、作者の存在を前提とせずにキャラクター自身が性質リストの更新を行うことはキャラクターを必ずしもVtuberのようにはしない(言ってしまえば当たり前だが)。
Vtuberの発言がAWの特定の一瞬に拘束されるかのように思えるのは、「作者の存在を前提とせずにわれわれに話しかけられるから」のみではなく、むしろ、「AWの特定の一瞬に特定できるわれわれの発言の間に挟まることによって発言の時間的範囲を厳しく限定しているから」であるだろう。このようにフィクション作品のキャラクターが自身の行動をAWの特定の一瞬に拘束させることは、AWの人物とのリアルタイムコミュニケーションによって最も効率的に実現されるのかもしれない。

 

本当のところをいえば、フブキ女史がそのもの性を返すのはやはりSW内の特定の一瞬に対してのみであって、AW内の一瞬に対しては、それがどの一瞬であれ、そのもの性を返すことはないだろう。たとえいま現在AWに『奇数でした』と声を響かせているひとが間違いなくフブキ女史だったとしても、依然としてAW内の『人間である』個物の集合のうちにも『人間ではない』個物の集合のうちにもフブキ女史を見つけることはかなわない。やはりフブキ女史はAWにおいて「何物でもない」。
しかしながら、フブキ女史のある発言がAW内のほかでもないある一瞬に拘束されているということは、そのもの性そのものとまではいかないまでも、そのもの性モドキとまではいかないまでも、女史がAWにおけるそのもの性を具えるための第一条件をクリアしている。第一条件とは、「ひとつの個物とひとつの一瞬を変項に持つ」一部の二項述語命題について「ある個物とある一瞬を代入したときに表される出来事のひとつはAW内のすべての出来事と時間順序的関係を持っている」ということだ。

 

Vtuberがしばしばとる行動が、「現実世界における出来事と時間順序的関係を持つ」という点において旧来のキャラクターにはあまりみられないことなのであれば、この行動を特別視することも許されるだろう。よって本記事では、「あるフィクション作品のキャラクターがとる行動が現実世界におけるすべての出来事と時間順序的関係を持つこと」を「虚構世界の人物が現実世界に干渉する」と呼ぶことにする*58

 

3.4. キャラクターとの相互干渉

「あるフィクション作品のキャラクターがとる行動が現実世界におけるすべての出来事と時間順序的関係を持つこと」が「虚構世界の人物が現実世界に干渉する」と呼ばれうるのだとすれば、「われわれがとる行動が虚構世界におけるすべての出来事と時間順序的関係を持つこと」は「われわれにとっての現実の人物が虚構世界に干渉する」ということ、つまり、われわれにとっての現実世界を相対的虚構として、われわれにとっての虚構世界を相対的現実としてみなすこともあながち不合理ではないだろう。
問題は、われわれの行動の一部がときに虚構世界における特定の一瞬に厳しく拘束されていたとして、その拘束をわれわれが確認できるのか、という問題だ。なにせ、虚構世界は時間的にも不完全であり、連続的でも緻密でもないのである。たとえわれわれの行動が虚構世界において何らかの意味を持っていたとしても、その行動を虚構世界におけるただ一瞬に特定することはめったにできない。
われわれの行動が虚構世界内で拘束されるような例として、映画やドラマ等においては、「シーン転換による作中時間のスキップなどがあまり起こらない、クライマックスシーンにおいて」「観客の選択によって物語が変化する」という特殊な形式がこれに当てはまるかもしれない。それなりに珍しい事例なので確信はないが、例えば『仮面ライダー龍騎』のテレビスペシャルである『13 RIDERS』などは、テレゴング方式を用いて視聴者によるリアルタイムでの結末選択が行われたため、「現実世界の人物による虚構世界への干渉」とみなせる可能性がある。
その点、Vtuberというフィクション作品ではぐっとわかりやすい。われわれが虚構世界SWに対して効果を及ぼした何らかの行動が、SWにおけるかなり狭い期間のなかに拘束されることがある。例えば、われわれが『わざわざありがとうございます』と述べたスパチャがフブキ女史による2つの発言『奇数でした』と『どういたしまして』の間に挟まれており、それ以外の一瞬に置けないとしたらどうだろう。われわれの『わざわざありがとうございます』がSWにおけるすべての出来事と時間順序的関係を持っているとみなすべき見込みが俄然高まってくる。このことは、Vtuberの配信の多くがカット割りなどをはさまないために不断のSW時間を表現できるという特徴に支えられている*59

 

つまり、現実世界から虚構世界への干渉は、虚構世界から現実世界への干渉と同一の枠組みで定式化できるだろうが、その定式化に従っているとはっきり確かめられる例は虚構世界から現実世界への干渉に比べてやや少ない。少ない例の一つがVtuberの生配信におけるリスナーとのリアルタイムコミュニケーションである、ということである。ここで、

  • 「ある“世界”xがある“世界”yに対する反実仮想である」というような関係は、対称的ではなく、推移的ではなく、反射的ではない。

という当初の目標のひとつは果たされているだろう。

 

3.5. キャラクターの侵入

キャラクターがとる行動の一部がAWにおけるすべての出来事と時間順序的関係を持つことを「キャラクターの現実への干渉」と呼べるのならば、キャラクターが具える性質のすべて(キャラクターを主語にして言える二項述語命題のすべて)がAWにおけるすべての出来事と時間順序的関係を持つことを「キャラクターの現実への侵入」と呼びたくはある。実際、時間順序的関係の確立によってキャラクターが現実へと侵入しているとみなせる例はあるだろうか。

 

虚構内虚構世界のキャラクターが虚構世界へと“侵入”してくる事態には、例として優秀なものはあまりない。虚構内虚構世界のキャラクターが虚構世界という相対的現実に侵入してきたとき、その虚構世界のなかでキャラクターの行動・性質は虚構世界の時間のなかで厳しく拘束されているのか否か、といったことはAWのわれわれからはわかりにくいからだ。AWからみたとき、虚構世界の時間軸は必ずしも連続的でも緻密でもないため(行間やシーン間に語られざる時間がいくらでも存在する)、キャラクターの行動・性質の厳しい時間的拘束は虚構世界の出来事を使って行われているのかもしれないし、行われていないかもしれないといったことしか言えない。
では、われわれは虚構世界のキャラクターがAWへと“侵入”してくる事態に例を求めることになろう。しかし、虚構内虚構世界でなく現実内虚構世界のキャラクターがわれわれのAWに侵入してくる、なんてファンタジーな事態、はたしてわれわれの経験のうちに存在するだろうか? そしてその経験は、キャラクターが侵入するとき確かに厳しく時間的拘束を受けているといった形で私の主張を裏付けるだろうか?

 

ここからは、やや強引な主張にはなるが、先ほども挙げた映画『映画プリキュアドリームスターズ!』を例として考えよう。述べてきた通りこの映画では、プリキュアが(虚構内虚構世界から虚構世界へ、でなく)虚構世界から現実世界へ侵入してくるシーンがある。この侵入は、あるキャラクターのあらゆる行動・性質が(虚構世界の時間にでなく)現実世界の時間に拘束されることによって実現しているといえるだろうか。
一見、そうではない、と言いたくなるかもしれない。小説などと同様、映画という媒体も、封切直後に観ようが興行終了ギリギリに観ようがある程度同じ作品だとみなされるものである。映画内でどんなシーンがあろうがどんな演出をしようが、観客によってその映画を観た時間がバラバラである以上、そのシーンやその演出はプリキュアをAWの特定の時間に拘束することはできないように思われる。
しかし、映画という媒体にはまだ、プリキュアをAWの特定の時間に拘束できる際立った特徴があるのだ、と私は考える。それは、映画が通常は区切られた空間内で大勢で観るものであるという特徴だ。プリキュアが映画館にやってくるシーンというものは、それを映画館で観る限り、ひとりで確認されるのでなく、その場にいる全員の同期された体験のなかで確認されることになる。もしもわれわれが「プリキュアがあの日あのときに映画館に来たと思ったのは私だけであって、本当は特定の一瞬にプリキュアが来たとは定位できないのかもしれない」などと疑った場合は、同席していた観客に確認をとればいい。可能であれば、プリキュアが侵入してくるシーンの直前と直後に周囲のAWの住人とコミュニケーションをとっておいて、プリキュアがAWのいつ侵入したかをもっと厳しく拘束しておく、というのもいいだろう。そうすれば、プリキュアが侵入に成功したはずの時間は、AW内のある短い期間よりも前にも後にも置けないことが明らかになるだろう*60

 

はたして、この主張を逆に考えるなら、われわれは「区切られた空間内で大勢で同時に鑑賞するようなフィクション作品には、キャラクターをして現実世界に侵入しやすくさせるような素地がある」ということをも認めざるを得ないだろう。例えば、ある種の演劇においてはキャラクターが現実世界に侵入するという展開を説得的に描くのかもしれない。私は演劇のことをよく知らないので、これに関する分析は私でない誰かに譲るとしよう。

 

ところで、キャラクターが現実世界に侵入するということが「キャラクターがとる行動・性質のすべてが現実世界のすべての出来事に対して時間順序的関係を持つ」だとみなせるのだとしたならば、あるキャラクターは虚構世界から現実世界に侵入したあと、現実世界の特定の一瞬においてそのもの性を獲得しうる。それはまあいいとして、キャラクターが現実世界への転移を遂げた“あと”の虚構世界にも依然としてそのキャラクターの相対的分身が存在し続けるといった可能性はとりたてて否定はされないだろう。つまり、虚構世界と現実世界において同時に――同時ではないのだが――ある同一のキャラクターがそれぞれ存在するということは、ありうるのだと現状では結論付けなければならない。
私が当初掲げた目標のひとつは、以下のように但し書きをつけたうえで達成されることになるだろう。

  • “世界”xが“世界”yに対して虚構世界であるとき、ある事物(人物が生み出した声や情報や人物そのものを含む)が所属先を“世界”yから“世界”xへと移すということはありうる。ただし、あるキャラクターが同時に一つまでの世界にしか所属できないということは必ずしも意味されていない。

 

3.6. 反例かもしれないもろもろの例

以上、本記事ではあるキャラクターが行う行動が現実世界の特定の一瞬に拘束されることに注目して「キャラクターの干渉」や「キャラクターの侵入」を定式化することをもくろんできた。しかし、多様なフィクション作品のなかには、キャラクターが行う行動がどちらかといえば現実世界の特定の一瞬に拘束できないようであるにもかかわらず、キャラクターが現実世界に干渉していたり侵入していたりすると表現したくなる事態が描写される作品も少なからずある。いわば私の主張に対する反例、弱点とでも言うべき例を最後に挙げておきたい。

 

私がしてきた主張からすれば、虚構世界のキャラクターが現実世界に干渉・侵入するうえでは、いつ干渉していたのか・いつから侵入していたのかがはっきりとAWの特定の一瞬に帰せられなければならないはずである。しかしながら、特定の一瞬に帰せられない「いつの間にか干渉していた」「いつの間にか侵入していた」という干渉・侵入をみせるフィクションはままある。
例えば、「だいだらぼっちが地面に大穴を掘ってできた穴が琵琶湖、余った土が富士山である」というようなフィクションは、キャラクターが現実世界に侵入・干渉したという事態を示すフィクションの例であると言えなくもない。しかし、だいだらぼっちが実際に「琵琶湖と富士山を作り出す」という干渉をはっきりと行った一瞬は「むかしむかし」のヴェールに覆われてはっきりとその輪郭を見せることはない。
また、「いつだって干渉している」「いつだって侵入している」という干渉・侵入をみせるフィクションもまた反例になりうるだろう。
例えば、『はたらく細胞』シリーズで語られるような細胞たちの世界は、一種のフィクションでありながら、われわれの現実世界と因果関係を持っているとみなされることを志向しているように感じられる。しかし、細胞たちがわれわれ人間の生理現象を成立させているのは、われわれにとっての特定の一瞬であるよりかは、むしろ「生きている間ずっと」であって、特定の一瞬に帰せられることがない。
ひょっとすると「だいだらぼっちや『はたらく細胞』の例は、自律した虚構世界ではなく、あくまで現実世界を変形して作られた寓話的現実世界に過ぎないので、これらの反例は無効だ」と再反論する方もいるかもしれない(ではそこでいう虚構世界の“自律”って何?という疑問もわいてくるが……)。では、現実の変形ではない、あくまで虚構とみなすべき虚構世界が現実に「いつの間にか」「いつだって」干渉・侵入するものである、という態度を作品全体のトーンとして持っているフィクション作品として映画『パプリカ』をも例に挙げておこう。

 

今後の議論は(あったとして)、これらの例は実は反例にはあたらないとみなして積極的にこれらの例に再反論を試みていくという道を選べるだろう。また、いっそのこと、これらの例においては「虚構世界のキャラクターが現実世界に干渉・侵入する」という図式は破られている、と素直に認めてしまい、「だからこれらの例は『この物語は現実に干渉・侵入するフィクションではない、現実なのである』と自らを位置づけようとしている詐欺的フィクションなのである」と切り返す*61、という道も選べるだろう。

 

また、「いつの間にか干渉・侵入していた」以上に厄介な例として、異世界転生モノがある。異世界転生モノを現実世界と虚構世界との関わりを積極的に描いているジャンルとしてとらえたい気持ちはあるものの、これを「現実世界のひと・ものが虚構世界における特定の一瞬に拘束される」という本記事の図式に当てはめる方策は今のところ全く思いつかない。

 

最初に述べたように、本記事の議論は(だいぶ贔屓目にいっても)こじんまりとした立場を確保することしかできなかっただろう。もしも、私が本記事でもくろんできたような考え方を、ふざけにふざけて「虚構世界観光学における時間主義」とでも呼ぶことが許されたならば、そのとき、時間主義に対するものとして、空間主義や因果律主義等々が定立されうるのかもしれない。今日のところは、示唆的な例外たちは、まだみぬ空間主義や因果律主義のもとで美しく説明されるために残しておくのがよかろうか……?

 

付. 参考文献

本記事は複数のブログ記事・論文・書籍から知識・アイデア・用語法その他もろもろを拝借して成り立っている。この記事がもし学位とか実績とかに関わる論文であったなら(私のためというより、学問的誠実さのために)拝借した箇所ごとに参考文献と参照箇所を明記しなければならないのだが、私には学問に奉仕しようという気はそんなになく、この記事は余暇の思考ゲームに過ぎないものである*62。よって、すべてのリファレンスを追跡可能な形で整理することはあきらめ、参考文献としてタイトルだけ挙げておく非礼をもってこれに代えることとする。

 

  • ブログ記事など

LW『白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか:Vtuber存在論と意味論』2021
https://saize-lw.hatenablog.com/entry/2021/09/05/190000

LW『「白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか」延長戦』2021
https://saize-lw.hatenablog.com/entry/2021/09/23/205415

LW『キズナアイは論理的に完全』2018
https://saize-lw.hatenablog.com/entry/11753332
http://blog.livedoor.jp/saize_lw/archives/11753332.html 【←たぶん初出はこっち】

SAK『三浦俊彦『虚構世界の存在論』』2007
https://sakstyle.hatenadiary.jp/entry/20070526/1180161470

  • Web上で閲覧できるかもしれない学術論文など

伊佐敷隆弘『反実仮想とフィクション ――実在する物個体をめぐって――』2008
http://www.wakate-forum.org/data/tankyu/35/35_01_isashiki.pdf
※チザムのパラドックスの解釈はここを参考にさせていただいた
※この論文は「フィクションについての反実仮想」や「フィクション内フィクション」や「フィクション内反実仮想」や「フィクションと現実をまたぐ文」などについては一様に立場を留保しているため、本記事の関心と被る部分は比較的少ない

三木那由他『個体概念説による固有名の意味論』2011
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/173199

伊佐敷隆弘『現在は瞬間か』2005
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj1968/38/1/38_1_31/_article/-char/ja/
※こちらもそこまで関心が被っていない

岡本吉央『離散数学 第12回 順序関係』2017
http://dopal.cs.uec.ac.jp/okamotoy/lect/2016/discretemath_w/handout12.pdf
※順序関係の定義をおさえるために参考にした

  • 書籍など

三浦俊彦『虚構世界の存在論』1995 勁草書房
※おそらくいちばん参考にさせていただいた本
※この本が純粋な学問的興味を持っている人にとって必携の一冊かどうかはもちろん興味によるが、LW氏の人対を極めたいという人にとっては必携の一冊ではないかと思う

三浦俊彦『可能世界の哲学』二見書房
※奥付に何年発行か書いてなくて驚いた
※あとがきから推測するにたぶん2017年発行だと思う

三浦俊彦『論理パラドクス 論証力を磨く99問』二見書房
※たぶん2016年発行

前原昭二『記号論理入門 [新装版]』2005 日本評論社
※“格言”の引用はここから

河田学「虚構的言説の記号論」『コレクション記号論』2001 東海大学出版会

ウンベルト・エーコ(三谷武司訳)『異世界の書――幻想領国地誌集成』2013=2015 東洋書林

*1:語用論や心理学であれば、われわれが「キャラクターと相互干渉することなんてできないはず」と感じることを、単に経験則からくる確信だとみなすかもしれない。

*2:また、この作品では「ふだんプリキュアがいる世界は作画で、その世界以外の異世界に入るとプリキュア含め3DCGに切り替わる」という演出上のルールが映画を通して使われてもいる。プリキュアが映画館にやってくるシーンではプリキュアは3DCGで描かれており、この工夫も「プリキュアが本当に世界の壁を越えた!」という驚きを生み出すことに奉仕している。

*3:ある反実仮想が虚構世界に転化するか否かを決める条件とは何なのか。この問いに対して「作品という形でガッツリ尺をとって描かれたかどうか」というのが条件だ、と答えて、さらに切り返し、「虚構世界とは、反実仮想のなかでも作品という形でガッツリ尺をとって描かれたもののことである」という定義を行う、という戦略もあるだろう。この戦略はそれなりに妥当なものだと思えるが、しかし私としてはこの単純な戦略に落ち着けたくはない。というのも、私には、ある反実仮想が虚構世界と言えるかどうかが、単に尺の長さや映像のクオリティだけでは決まっていないように思われるからだ。例えば、あるフィクション作品において、いち登場人物の妄想が10分にわたり描写された状況と妄想的な内容が誰の妄想でもなくミニコーナーとして10分にわたり描写された状況の2つが含まれているとして、前者は虚構世界でない単なる反実仮想に思われるのに後者は反実仮想のなかでも一個の虚構世界であり、並行世界を移動する能力者ならこの世界に到達できるのではないかとすら思える、そんな顕著な違いを感じる場合がありえるのではないだろうか。

*4:ただ、キャラクターの存在論を扱う議論全体において現実世界の特権性が失われたわけではないことに注意せよ。完全性や唯一性の問題等々において現実世界の特権性はまだ前提とされている。

*5:私は本来は、ある程度以上にテクニカルな文章の作法としては、文章中に登場する人名は苗字呼び捨てで表現するのを好んでおり、呼び捨てにすることが一種の礼儀だとも考えてもいる。しかし、もしも本記事の文章中で最も頻出する人名である「LW」を呼び捨てにすると、この記事の文脈上、この「LW」という文字列が人名だかテクニカルタームだかよくわからないことになってしまう。そのためこの記事では「LW」に当たる人物を一貫して「LW氏」と呼び、また「LW氏」にあわせて他の人名も特定の敬称付きでこれを呼びならわすことにした。というのは表向きの理由で、裏の理由としては、月ノ美兎委員長やうい先生を「委員長」や「先生」と呼びならわすRPにたまには参加してみたくなっただけのことである。

*6:ただ、Vtuberの所属先世界の整合性を保つ、という視点でみたとき、「Vtuberにとってわれわれがなんらかのフィクショナルな表象である」という戦略をとるのはVtuberの全員ではない。例えば、月ノ美兎委員長と似ているが明確に違う戦略として、動画『クラスメイトのしぐれさんが何か言いたいことがあるらしい』https://www.youtube.com/watch?v=wGkVfc1N4R4
におけるうい先生の戦略を取り上げることができるだろう。うい先生は動画中でリスナーのことを「パソコン画面に向かっている人間」としてではなく「放課後の教室にいる高校生」として認識している、というRPを行っている。このRPにおいて、リスナーはフィクショナルな表象ではなく、うい先生の所属世界内のルールに整合的ななにかとして解釈されている。リスナーをうい先生の所属世界の外部としてでなく内部に取り込んでその“世界”の整合性を保つというタイプの戦略がここにはあるわけで、こういった戦略もVtuberがとりうる戦略の一つとして理解されるべきだろう。

*7:映画のプロデューサーは「ふだんのテレビ版の作品世界とはパラレルワールド」と解釈しているため、厳密には「ふだんの作品世界のパロディ」

*8:「“関係”とは何か?」というまっとうな疑問を抱く読者もあるかもしれない。その疑問に対しては、ここでは、「“世界”同士の関係」とは、論理空間が与えられたとき順序2組の“世界”の集合を返すような関数のことをいう、と回答しておけばいいと思う、たぶん。

*9:本文中で詳しく述べなかったが、“世界”xが“世界”yに対して虚構世界であるとき、“世界”yも“世界”xに対して虚構世界である、というような事態は常に妥当というわけではないだろう。例えばわれわれの現実世界に対して虚構世界である「シャーロック・ホームズシリーズ」の登場人物がわれわれの現実世界のことをフィクション作品だと認識しているというようなことはかなりまれであり、常に妥当というわけではない。

*10:“世界”xが“世界”yに対して虚構世界であり“世界”yが“世界”zに対して虚構世界であるようなとき、“世界”xが“世界”zに対していつも虚構世界である、とはわれわれは言い切れない、本記事ではさしあたりそう考えることにする。ときに、われわれの現実世界に対して虚構世界であるような“世界”の人物が、われわれの現実世界のことを彼ら自身の世界に対してフィクションだと認識しているというような事態はまれではあるが存在する(例えば、『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』の登場人物の一部はわれわれの世界をフィクションだと認識していると言えなくもないだろう)。このとき“世界”z = “世界”xであるから“世界”xが“世界”zに対する虚構世界であるとは断言しづらい。いや、そう断言してしまってもべつに構わないのだが、そうして推移性を認めたときときわれわれは同時に反射性をも認めることになろう。

*11:“世界”xが“世界”x自身に対して虚構世界であるというような事態を、われわれはふつう認めないだろう。認めてはいけないという演繹的な根拠はないかもしれないが、ここは直観に従って、反射的であることを認めないことにする。

*12:「概念の内包と外延は反対の方向に増減す」という格言があるが、“世界”同士の関係にしても、「虚構世界である」ということが「反実仮想である」を含んでいるとき、虚構世界であるような“世界”群は反実仮想であるような“世界”群の部分集合である。

*13:ここで、「そのもの性」は「丸い」「3で割り切れる」などのように時間の流れに依存せずに定義できるような特徴なのか、それとも「不老ではない」「加速度が一定である」などのように定義が時間の流れに依存しているような特徴なのかについてはいったん曖昧にしておく。時間という概念を加えた詳細な議論は追って行う。

*14:本記事では、人物の固有名のはたらきについて間接指示でなく直接指示で説明を行うため、佐藤和真氏が「亡くなる」「灰になる」などのように性質を変化させた場合でも依然として固有名『佐藤和真』が佐藤和真氏の本質を捕まえ続ける、という側面を重視している。しかしながら、実践の場面における人物の固有名の取り扱いが直接指示によって100%説明されるわけではないことも確かではある。穏当なことを言うなら、日常において、人間というカテゴリーに属する個物は、そのもの性のみによって特定されるような場面と、ある種の性質によって定義されるような場面の両方があるだろう。だから、佐藤和真氏が亡くなって遺体になった場合でも、そのもの性が維持されていることを重視して「この遺体は依然として佐藤和真である」と判断する人もいれば、『佐藤和真』が当然持っているべき性質が失われたことを重視して「この遺体はかつて佐藤和真だったものにすぎない」と判断する人もいるだろう。本記事では後者の捉え方を特に重視しないが、日常においてそうした捉え方がありえないと主張するつもりは私にはない。

*15:「構成物が90%入れ替わったとしても入れ替えがちょっとずつであれば佐藤和真氏は依然として佐藤和真氏である」と考えるこの例は、チザムのパラドックスをモデルにしている。チザムが考えたのは「ある人物が持つ性質が他の人物が持つ性質へと100%入れ替えられたとしても入れ替えがちょっとずつであればその人物は依然としてその人物であると言えるか?」という疑問であり、チザムはこれに「たとえちょっとずつであってもたくさんの要素を入れ替えたら同一性は失われる」と答えたらしい。つまり、チザムとしては「あらゆる性質に無関係な『そのもの性』などない」と結論付けたわけだが、本記事ではそのもの性はあるという前提でその本性を考察する。

*16:いや、実際「現在の佐藤和真氏が何であるか」と問われたら、佐藤和真氏の物理的状態である「何物でもない」という情報よりも社会的取り扱いである「天国にいる」という情報のほうを答える人のほうが多いのではないか、という反論もあるかもしれない。だが、個物の居場所が社会的取り扱いに依存しているという考え方を強めたこの意見は直接指示よりも間接指示に相性がいい考え方であると思われるので、『遺体はもはや佐藤和真ではない』という考え方と同様にこれを棄却する。

*17:正確にはこのようなイメージではよくない。リンゴやポストなどは、世界にたかだか一つ存在する“個物”ではなく、複数の個物が該当しうる“種”なので、厳密には赤いか赤くないかが必ずしも定まらないと思われる。本文では煩雑な表記を避けて「リンゴ, ポスト, ......」のように書いたが、正確には「ある特定のリンゴA, ある特定のポストB, ......」のように書かなければいけない。

*18:なお、『赤い』や『リンゴ』や『ポスト』などの言葉が抱える文脈依存の曖昧さについては考えないこととした。例えば、ひとくちに『赤い』といったとき正確にどの色までが赤に含まれるのか、「#c71585」は赤なのか、赤い環境光に照らされたときすべてのものは赤なのか、といったことは一様には決まらないが、ここでは個物の性質のみに依存して一様に決まるのだと考えて欲しい。また、例えば、ひとくちに『リンゴ』と言ったときにリンゴ属の落葉高木がつける果実のことを指すのか、リンゴ属の落葉高木それ自体を指すのかは文脈によって異なるが、ここでは前者のみを指すのだと考えて欲しい。

*19:このやり方を使うとき、Sにおけるn番目の要素に当たる性質が個物Aに対するカテゴリーミステイクであるような場合には、A(S)のn番目の要素にはFが入る(「TでもFでもない」が入るわけではないことに注意)。例えば、S = {...... 3で割り切れる, ......} 
であるようなときには 
佐藤和真(S) = {...... F, ......} 
となる。

*20:しかし、何物でもない佐藤和真氏が返す順序集合が少なくとも1つは「TでもFでもない」を要素として持つことはまず間違いないとして、すべての要素が「TでもFでもない」になるのだろうか、という問いは多少興味深い疑問だろう。例えば、「灰になったあと瀬戸内海に撒かれて何物でもなくなった佐藤和真氏」といったものを考えてみるとき、佐藤和真氏は「灰である」のような性質にはもはやTやFを返さないかもしれないが、「瀬戸内海のなかにあってそれ以外の場所にはいない」というような性質には依然としてTを返すかもしれない。返さないかもしれない。私はこの問いに対して確かな答えをいまだ持っていない。

*21:この文脈において“個物”とはあくまで個物の全体集合に対する要素であって部分集合ではないということに注意せよ。“何物でもない個物”も全体集合の部分集合であるような空集合を指しているわけではなく、なんらかの要素を指さなければならないい。

*22:個物がもしそのように定義できるのであれば、ちょっと趣向を変えて「Tなる性質の集合」として個物を定義したとしても問題はないだろう。しかし、本記事のように、個物が個物たるためには、現にTかFを返す前に、そもそも「TかFは返す」ということが保証されるのだというイメージを持つなら、個物を「Tなる性質の集合」と定義することは(外延に不都合はないが)内包としては微妙にニュアンスがずれていることになるだろう。ところで、われわれが「TでもFでもない」をわざわざ考えなければいけなくなったそもそものきっかけとは、直接指示の理論を成り立たせるためであったわけだが、あらためて「TでもFでもない」を考慮から外したときに、『個物は「Tなる性質の集合」として定義しても問題ない』という結論が得られるということは、間接指示の理論が『個物を「Tなる性質の集合」として定義している』ということを改めて示すだろう。これまた、当たり前と言えば当たり前なのだが。

*23:もしも「TでもFでもない値を返すことはない」がホンモノのそのもの性の定義であるとしてしまった場合、ある個物がその個物たるための条件が記述的に理解できることにもなるだろう。われわれはあくまで直接指示と因果説をスタート地点にしているため、「TでもFでもない値を返すことはない」はそのもの性のすべてを記述的に解したものではなくそのもの性の一端を記述的に解したもの――そのもの性モドキ――でなければならない。
ところで、先ほど「性質は可能世界に対して個物の集合を返す関数とみなせる」という可能世界論的な前提を用いたが、この前提自体が記述説の見方のみをサポートしており直接指示・因果説の味方をサポートしていないのではないか、という批判はありうるのかもしれない。正直なところ、この可能世界論的な見方と直接指示・因果説の見方が接続可能なものなのか否かは私にはよくわかっていない。
なお、記述説的な見方と因果説的な見方を折衷する方法として、「一つの固有名から、状況によって、性質の束を取り出したり性質に依存しない個体そのものを取り出したりが別々にできる」という考え方を開発するより穏当な方法もあるだろう。例えば三木那由他博士の『個体概念説による固有名の意味論』は、おおざっぱに言えばそんな方向性を模索した議論であるように思える(私の理解が間違っていないといいのだが)。しかしながら、私はのちに「個物そのものの一端を記述的に解したとき、その一端は、同じく記述的に解された“世界”群のなかである位置に位置する」のような話をすることをもくろんでいるため、記述の束と個物そのものが別々に出てくるような穏当な方法をとることはできない……たぶん……。

*24:『フブかつ』では世界のことを「真なる命題の集合」と定義している。『フブかつ』4節を参照。

*25:その“世界”に含まれていないかもしれない個物に関する命題が与えられたとき、完全な“世界”や不完全な“世界”は真や偽を返すのか、返さないのか、という問題は興味深いが、ややこしいので今は立ち入らない。つまり、『緋色の研究』が表現する虚構世界において命題「エルキュール・ポアロは実在する」は真か偽か、というような問題に対する私の立場はいまは保留しておく。

*26:この“外挿”とかいう単語、ここから頻出することになるが、このタームがどの程度の射程を持ったどのような意味のタームであるのか私にはまだあまりわかっていない。ちゃんと使える自信がないならそんな単語使うなよって感じではあるが、とはいえLW氏の思考の背後に見え隠れするピースの一つでもあって、あまりこの議論から外したくない。
なお、「どのような射程を持っているのかわからない」というのはどういうことかというと、私は三浦俊彦先生の『虚構世界の存在論』のなかで(そしてこのなかでのみ)この概念を知るに至ったのだが、どうやらSF批評の文脈にもよく使われるスーヴィンの“外挿”という概念があるらしく、双方の概念が親子関係にあるのか兄弟関係にあるのか赤の他人であるのかが私にはまだわかっていないということだ。また、「どのような意味なのかわからない」というのはどういうことかというと、ある小説のなかで実際に記述されている描写をこそ外挿と呼ぶのか、実際には記述されていない可能性としての描写をこそ外挿と呼ぶのか、私にはまだわかっていないということだ。本記事を書いている段階では後者「まだ実現はしていない可能性としての描写」のみを外挿と呼んでいるが、あとから読み直していて「あっ、これ単語の意味合ってるかよくわからんな……」と思い始めた。タームの使い方がもしも誤っていた場合には、私は新しいタームを用意しなければならないだろう。

*27:私の例文は、「シャーロック・ホームズ」シリーズが実際に記述している情報とまるで無関係な追加情報の例を意図しているのだが、「ワトソン博士がホームズ氏の背中のホクロの有無を知っているという情報は両者のキャラクター性と全く無関係な追加情報とは言えないのではないか?」という反論もひょっとするとあるかもしれない。念のため次にもうひとつ例文を用意しておこう。

*28:この主張は憶測に過ぎないことを私は現状では認めざるを得ないが……。

*29:すでになされている以上、正確な意味での外挿そのものではないが。

*30:なお、本記事では「ソクラテスが女性だったら」のような前件と「妻に文句を言うことはなかっただろう」のような後件をひとつにまとめて“反実仮想”と呼んでいるのだが、本記事と異なり、前件に当たる部分のみを“反実仮想”と呼ぶ用語法をとるのならば、「反実仮想にも外挿ができるのではないか」という反論は完璧に棄却できるのではないかと思われる。

*31:実際のところ、差支えはある。われわれが可能世界論の語彙を用いるならば、『排中律』などの論理法則が指すのはある一群の可能世界すべてに当てはまることによって定義されるような必然的なルールであって、ひとつの世界内の命題すべてが何らかの特徴を充たすことはいわば偶然的なルールに過ぎず、論理法則そのものではない。だから『排中律』という呼び方に不満がある方は適宜名前を呼び変えていただいて……。

*32:この定義文はまた、三浦俊彦先生が『虚構世界の存在論』で用いている完全性の分類を援用して、次のように言い換えることもできるだろう。「反実仮想のうち弱い完全性が成り立つようなものを虚構世界と呼ぶ」

*33:なお、「もしソクラテス氏じゃないひとがソクラテス氏じゃなくもなかったら~」のような命題を例文にしたい気持ちはあるが、この例文ではうまくいかないかもしれない。前節の議論からして、ソクラテス氏からソクラテス氏らしい特徴をすべて取り去ったとしても「そのもの性」が根拠になって“それ”が依然としてソクラテス氏であるとみなせるからである。ソクラテス氏がどれだけ特徴を改変しても依然として何らかの意味でソクラテス氏であるのならば、「ソクラテス氏じゃなくてなおかつソクラテス氏じゃなくもない」という状態が排中律を破っていない可能性がぬぐえなくなる。

*34:単に排中律が成り立たないだけであれば、任意の命題を真だと認めさせる件の推論は成り立たない。ある場面では排中律を認めず、しかしある場面では排中律を推論に利用する、キメラ的態度であるからこそ件の推論ができる。

*35:東大 - 螺旋丸の例文で特にはっきりしていることだが、排中律を認めない立場と排中律を認める立場とをむりやり連結する文について考えることは、矛盾律を認めない立場と矛盾律を認める立場とをむりやり連結する文について考えることとさして変わりがなくなる。

*36:いや、ひょっとすると、『だっておれ螺旋丸できたから』は、一つの命題の真偽がきっかけになって世界全体の秩序が破壊されるような虚構世界の実例になってしまうのだろうか……?

*37:本記事における私の意図としては、虚構世界を「個物すべてにそのもの性モドキが付されているような反実仮想」であると考えている一方、虚構世界でない単なる反実仮想は「いかなる個物もそのもの性を持っていないような反実仮想」も「いくつかの個物だけがそのもの性を持っているような反実仮想」も含んでいるものだと考えている。ところで、本記事の立場とは別に、虚構世界は「個物すべてにそのもの性モドキが付されている」反実仮想は「いかなる個物もそのもの性を持っていない」と真っ二つに裁断する立場などは構築しがいがある立場かもしれない。
(私の読みが間違っていなければいいのだが)河田学博士は『虚構的言説の記号論』において、パヴェルの議論などを参照しながら「虚構的対象はほんらい属性の束であって直接指示の対象にはならないのだが、フィクション作品の受容に特有の態度である『不信の停止』がこの属性の束に直接指示が可能かのように見せかける」という考え方を示唆していると思われる。この河田博士の考え方などは虚構世界と反実仮想を真っ二つに裁断する上記の立場を裏面から補強するものになりうるかもしれない。ただ、河田博士の考え方に従えば、われわれはおそらく、反実仮想のなかに出てくる個物への貫世界同定をあきらめなければならなくなるのだが。

*38:ただし、完全な単一の“世界”が現実世界そのものでも虚構世界の構成物でも反実仮想の構成物でもありうるのに対して、不完全な単一の“世界”は反実仮想の構成物でしかありえない。

*39:「宇宙の原子の総数は原理的に知りえない」等々の反論があるのかどうか、また、それがクリティカルな反論になるのかどうかについては正直なところよくわかっていない。物理学の領分なんですかね?

*40:ひょっとすると、私の議論に対する反論として「われわれがブラジルの今日の天気について知っている“世界”とわれわれがブラジルの今日の天気について知らない“世界”とは別々の世界なのではないか。AWに関する命題の真偽をわれわれが知らないということも、われわれにとって必然的な事態なのではないだろうか」と述べるひとがいるかもしれない。これはなかなかクリティカルな反論だと思える。では、このように例を変えてみるのはどうだろうか。「AW内の、地球から遠く離れた宙域に人類には想像もつかないほど高性能なスーパーウルトラコンピュータを開発した宇宙人がいて、この宇宙で現在までに実現した事態すべてを計算によって算出することができる。この宇宙人が計算を行えば、AWに関して現在までに起こったすべてのことが明らかにできるが、AWにおいてまだ誰も設定を決めていないSWの事実については明らかにできないはずだ」これでAWにおける「真偽が判然としない」とSWにおける「真偽が判然としない」との違いが明らかになっただろうか。

*41:現実世界にいるわれわれにとって、AWに関するいくつかの命題の真偽が不明であることが偶然的であり、SWに関するいくつかの命題の真偽が不明であることは必然的である、という主張にはしかし、いくつかの反論の余地もあるだろう。一つの反論としては、SWが完全な単一の世界でありフィクション作品は統計のようにその一部を取り出してみせているものである、という立場をとる人から「SWの事実のうちどの事実が作品中に描かれどの事実が描かれなかったかは偶然的であり、作品はSWの別の箇所を取り出すこともできた」と言われる可能性があるだろう。この反論については、偶然性と必然性という論点よりも、そもそも虚構世界を完全で単一な“世界”と考えるか否かという論点で争うべきかもしれない。またもう一つの反論としては、われわれと同じようにSWを総体としては不完全な世界群とみなしながらも「われわれがもし可能性としての“外挿”を認めるのであれば、どの可能世界からみるかによって『Vtuber白上フブキ』という世界群の成員のリストは異なっている可能性があり、どのような世界の集合でSWが構成されているかは偶然的である」といわれるおそれがある。この反論はなかなか厄介だ。例えば、われわれの住んでいる現実世界とはほんの少ししか違わないどこか別の世界で書店に並んでいる『緋色の研究』のなかにはシャーロック・ホームズ氏の背中のホクロについて記述がある、というような空想はさほど突飛なものではないように思われる(外挿をフィクションの本質的な要素のひとつだとみなす限りは、われわれはこの空想を突飛だとはみなせないはずだ)。この近傍可能世界の住人たちが読んでいる『緋色の研究'』は、われわれが『緋色の研究』と呼んでいるものが持つ可能性のなかにまったく含まれていない別物だといえるのだろうか? というか、わざわざ近傍可能世界を考える必要もないかもしれない。例えば「ハリー・ポッターシリーズ」のアメリカ版のなかには、原典では黒人だと断言されていなかったキャラクターを黒人として描写する、明確な追加記述があるらしい(申し訳ないが私は直接確かめたわけではない)。このことによって、イギリスの読者とアメリカの読者はそれぞれ全く別の魔法界を描き出した全く別の小説を読んでいることになるのだろうか? ひとつの再反論の戦略としては、まさしく今述べたように、背中のホクロについて書いてある『緋色の研究'』はもはや『緋色の研究』とは全く異なるし、特定のキャラクターの人種同定が行われた「ハリー・ポッター'」はもはや「ハリー・ポッター」とは全く異なる、と断言する戦略であろう。さもなくば、“偶然”を定義づける全称量化を可能世界に関してでなく認識主体に関して行う、という戦略もあるだろう。要は、実はすでに前註で述べているように、ある出来事が「どの可能世界であっても成り立つか否か」ではなく「この可能世界にいるどの認識主体であっても成り立つか否か」を考えて、たまに成り立つことを“偶然的”とさしあたり呼ぶことにするのだ。これは“偶然”という単語の本来の定義から外れる可能性はあるのだが……。

*42:以上はAWが完全な世界であるという前提のもとになされた議論である。もしも、不完全であるわれわれの主観的現実をAWと呼ぶのであれば、AWにおいて「真偽が判然としない」ということとSWにおいて「真偽が判然としない」ということとは同じ意味を持っているのだと述べても致命的な問題はない。というか、主観を基準にするのならば、どんな“世界”であれ不完全であるし真偽が判然としない命題であふれていると言わざるを得ない。

*43:今後、サー・アーサー・コナン・ドイル以外の人物が「シャーロック・ホームズ」シリーズを書き継いで、それが世間から正当な続編だとみなされる、といった可能性は今回は無視することにする。

*44:なお、命題がなんであるのかは文としての表現形式に依存しない。そのため、ここで「いくつの命題」として問われている命題の個数について考えるとき、問答が何回行われたかではなく問答が一体いくつの命題に相当するかで考える。例えば、フブキ女史に対して、1月1日に「背中にホクロありますか?」と訊いて答えを得て、また1月2日に「ホクロって背中にあるんか?」と訊いて答えを得たとすれば、選択された命題の個数は1個である(ここでは背中のホクロの数は短い時間にはあまり依存しない事象であると想定している)。とすると、私が件の自由度のことを『回数選択自由度』と名付けているのは若干ミスリーディングであったかもしれない。よい名前があれば適宜改名していただきたい。

*45:この見方は、『フブかつ延長戦』1章3節でLW氏が提示したような真理値関数の取り扱い方針と整合すると私は考えている。

*46:なお、「Vtuberコンテンツが永遠に続く」という可能性は棄却する。つまり、Vtuberというコンテンツは有限長の時間のうちに終わりを迎えると本記事では考える。しかし、LW氏が「Vtuberコンテンツが永遠に続く」という可能性を棄却していないために『フブかつ』での示唆に至ったという可能性はある。詳しくは次々註に続く。

*47:次の瞬間にたかだか一つの赤スパを送ったすべての未来で得られる虚構世界から構成される虚構世界群をSWとして取り扱うことで、SWの完全性を担保する、という道もなくはない(真偽選択自由度さえなければ、この虚構世界群は矛盾を含まずに構成できる)。ただ、この道を選ぶと、無数の未来に等しく正当性を与えるためにAWのほうを不完全にしなければならないという妙なことになると思われる。

*48:LW氏は『フブかつ』において、「Vtuberに完全性が担保できるというのは、物理的に可能だということでなく、原理的に可能だということ」だと繰り返し注意を促している。本記事で、私はまず「現実世界について知りえない事実があることとフィクション作品について知りえない事実があることとは偶然的無知と必然的不可知とにはっきり区別できる」と、物理的制約によらない原理的な反論をしたつもりである。しかし、私は続けて、「Vtuberが永遠に続くとは想定しない(無限長の時間を使ってVtuberに赤スパし続けることはできない)」という角度からの反論と「有限長の時間で無限個の赤スパを送ることはできない」という角度からの反論、計2つの反論をも行った。この2つの反論は、ひょっとするとLW氏の『フブかつ』における前提を認めずに差し戻したにすぎず、前件否定のせこい反論に過ぎないのかもしれない。
はたして、LW氏が「無限長の時間で無限個の赤スパ」とか「有限長の時間で無限個の赤スパ」とかいった状況を許容していたのか、していなかったのかはかなり微妙なところだ。『フブかつ』の前身のひとつであると思われる記事『キズナアイは論理的に完全』においてLW氏は、「Vtuberには完全性が担保されうる」という主張をするうえでε-δ論法を用いたたとえ話をしている。しかし、もしLW氏が「無限長の時間で無限個の赤スパ」などの状況を許容しているのであれば、ε-δ論法のたとえ話など全くする必要がないはずなのだ。「無限長の時間で無限個の赤スパ」によってVtuberの完全性が担保できるのだとすれば、われわれは「xに無限個の実数を当てはめてみる」によって「xを∞に近づけると1/xは0になる」を担保できることになる。ε-δ論法のかなめである“一般化”という概念をわざわざ持ち出す必要がない。よって、少なくとも『キズナアイは論理的に完全』を著した時点でのLW氏はなんらかの一般化を介することによってはじめてVtuberの完全性は担保されるという主張を行おうとしているはずだ(しかし、私の考えでは、一般化の網のなかに捕らえられるのは無制限の回数選択自由度ではなく、無制限の命題選択自由度に過ぎないので、Vtuberの完全性はやはり担保されないはずだ、というのは本文にも書いた通りなのだが)。ただ、『フブかつ』においてε-δ論法がどうこうという話は特に出てこないので、LW氏は考えを変えており、「無限長の時間で無限個の赤スパ」を許容して考えるようになったのだ、という可能性もある。ただ、そう仮定したらしたで問題になんdなるのは、「無限長の時間」によって完全性を主張するのであれば、べつに双方向コミュニケーション(重言か?)がとれるVtuber相手でなくても、未完結の作品であればなんでも完全性が担保されてしまうということだ。仮性の外挿の回数選択自由度さえ無制限ならば、虚構世界の完全性はじゅうぶん担保されてしまう。だからわれわれ読者から任意の質問をチョイスできるという命題選択自由度はべつにあってもなくても構わない。そのときわれわれには「まだ完結してない作品はすべて等しく完全な世界になる可能性を秘めている」くらいのことしか言えないだろう。

*49:「作者の存在を前提とせずとも性質リストの提示が説明できること」は、LW氏自身も述べている通り、例えばくまモンのようなゆるキャラにも当てはまりかねない特徴である。また、(まれなので無視しても問題ないと思うが)小説キャラクターのなかにさえ作者の存在を無視して直接性質リストを提示しようとする者はいる。例えば、斉藤洋氏の児童文学『ルドルフとイッパイアッテナ』において、主人公ルドルフ氏は、猫でありながら、数奇な運命のなかで人間の言葉の読み書きを覚え、自伝的小説を書いて人間である斉藤洋氏に託したとされている。本書の記述に従う限り、斉藤洋氏の功績はあくまでルドルフ氏の書いた文章が世間で広く読まれるように出版の采配をしたことにあり、ルドルフ氏の物語は斎藤氏以外の手を通って紹介される可能性もあった。そしてこのような“モキュメンタリー”形式をとる小説作品は『ルドルフとイッパイアッテナ』が唯一のものでもなければ初めてのものでもない。代わりにスウィフトの『ガリバー旅行記』やルキアノスの『本当の話』を挙げてもいいだろう。

*50:私はさっきからそのもの性モドキの話ばかりしていてホンモノのそのもの性の話をあまりしていない。このありさまをみて、「この議論を“そのもの性”ということばから開始する必要あったか?」という疑問を抱くひとは少なくないのかもしれない。かくいう私もそのひとりで、“そのもの性”というこの手に余る概念を放逐したかたちで議論を再構築できないかと考えてはみたものの、二つの理由によってこれを断念した。ひとつには、他者の説得というよりかは私が自身の思考の流れを追ううえで、“そのもの性”から議論をひらくのが適当な手順であると思われたこと。もうひとつには、この文章の最大のふざけどころであるエピグラフがすべてしっくりと配置されるようにするため。

*51:本文で明示しなかったが、「ある個物とある十分に短い期間を二項述語命題に代入したもの」は“出来事”と呼べる、ということにした。例えば、「佐藤和真はある十分に短い期間の間じゅうずっと赤かった(は真である)」とか「佐藤和真はある十分に短い期間の間じゅうずっと3で割り切れた(は偽である)」とかをわれわれは“出来事”と呼ぶ、ということである。後者の例の論理的妥当性はさておき、それらがある意味“出来事”と呼べるということには直感的には同意を得られるのではないか(キビシイですかね?)。

*52:どうも、分析哲学の文献では、ゼロあるいは無限小の幅しか持たない時間のことを“瞬間”と呼びならわす例があるらしい。私が「ある十分に短い期間」ということばで意図しているところは多少の幅を持っていてもいいのではないかと思っているので、ここでは“瞬間”という用語を避けて“一瞬”と呼んでみるが、“瞬間”のほうがニュアンスが通じやすいかもしれない。

*53:われわれの現実世界に対して現代の物理学が持っている知見によるなら、比較的マクロなスケールでみたとき、“世界”全体で起こるすべての出来事を時系列に整列させることはできない、という反論はできるかもしれない。これに対する再反論は目下検討中である。

*54:正確には、出来事そのものが(順序)関係を持つのではなく出来事の順序が(順序)関係を持つ。まどろっこしいのでここでは、「出来事の順序が順序関係を持つ」ということを「出来事が順序“的”関係を持つ」と呼ぶ。

*55:このとき、ある出来事とすべての出来事との間の関係をしらみつぶしに一つずつ調べる必要はもちろんない。ある出来事が起こった一瞬をxとしたとき、xに限りなく近くかつs<xであるような一瞬sに起こった出来事よりもある出来事のほうが“後”であって“前”でなく、またxに限りなく近くかつt>xであるような一瞬tに起こった出来事よりもある出来事のほうが“前”であって“後”でなければ、あとはw内の時間的順序関係の推移性や完全性を利用して、w内のたいていの出来事との間に時間順序的関係を確立できる(ここで出てくる「sからtまでの時間」をぐっとファジーに表現すると先ほどの『十分に短い期間』という表現にもつながってくる)。ここで、ある出来事より“前”でも“後”でもない残りの出来事には反対称的関係が成り立つか調べていく。これがうまくいけば、ある出来事とw内のすべての出来事との時間順序的関係のあるなしははっきりするはずだ。

*56:この定義文が成り立つためには、われわれのいう“一瞬”とやらが“世界”全体で流れている時間などに依存せずに定義されなければならないであろう。つまり、時間の一部を切り取ったものとして一瞬を定義するのではなく、時間順序的関係を持っている一瞬の集合が時間であるとみなされなければならない。ちなみに、伊佐敷隆弘博士は『現在は瞬間か』において「人間が、“出来事個体”を指示するということは、変化・消滅しないものである“出来事個体”をある程度恣意的に生ぜしめることであり、また“出来事個体”を指示することが変化・消滅しないものとしての過去を生ぜしめてもいる」のような議論を展開している。この議論を“出来事個体”をもとに過去を定義しようとする議論であると受け取ってよければ、一瞬から時間を定義したいわれわれの方針の参考にはなるかもしれない。ただ、伊佐敷博士のいう“出来事個体”とは(“過去”の定義上)過去にしかあらわれないので、われわれの取り扱いたい“出来事”全般がこれに含まれているかは疑わしいところがある。

*57:ここで私は『虚構世界内でのVtuberの現年齢は有限』という前提をさしあたり用いているが、Vtuberのオーロ・クロニー女史は『時間の概念そのもの』とでもいうべき設定を持ち、現年齢も有限ではないらしい。女史の存在が本記事での議論の致命的な反例になるか否かは目下検討中である。

*58:時空間ありきで物事の順序を考えることが「感覚を定義に合わせる」にもしも相当するならば、物事の順序ありきで時空間を考えることこそが「定義を感覚に合わせる」に相当する、といえるのではないだろうか?

*59:LW氏が『Vtuberの性質リストの更新が離散的ではなく連続的である』という言葉によって述べようとしたのが、『いくつかの一瞬を表現するのでなく流れる時間を表現している』という意図にとどまっているのであれば私とは考えが異なるし、『流れる時間を表現しているし、なおかつカット割りなどがなかなか挟まれない』ということをも意図しているのであれば私と軌を一にしているとみなせるだろう。

*60:私の主張はまた、『映画プリキュアドリームスターズ!』を映画館でなく自宅で、小さなテレビモニターで観た場合などでは、プリキュアが現実世界に侵入してくるという展開の説得力は減ぜられることになるということをも示唆しているだろう。

*61:ここでいう『詐欺的』にさほど悪い意味はない。

*62:この思考ゲームはあくまでゲームであって、私自身の人生における現世利益とはなんらの関係もないので、本記事中で行ってきた私の主張に反論を述べたい方がもしあれば遠慮なく反論を述べてほしいと願うところでもある。

反事実性を分解したい

こんな記事をわざわざ書かなくても、私が検討したいような明快さを旨とした整理はマリー・ロール・ライアンあたりがもっとずっとうまくやっているのではないかという怖れがある。マリー・ロール・ライアンの本を探して読むのはそれだけで一苦労なので、読んで比べて確かめようという気はないが。

私は己の無知を正直に告白しておくが、無知による免罪を願うところではないので、無知ゆえの誤りあらば無知ゆえにこれを罵ってもらって構わない。

 

 

 

 

LW氏による自説の説明に対して私が抱く不満のひとつは、反実仮想と虚構的な事実と世界の不完全性とを、ときにはっきりと区別しときにはっきりと区別していないという中途半端さにある。
LW氏は、「反事実的条件を含んだ命題(反実仮想)を間接指示によって説明するのは困難だが、直接指示によって比較的合理的に説明できる」旨と「ある種の固有名がフィクションのキャラクター(虚構的に実在する人物)を指示できるということは、直接指示によって比較的合理的に説明できる」旨とを述べている。

実際、「シャーロック・ホームズが男性でなかったら」「白上フブキが女性でなかったら」といった反事実的条件も、毒杯を飲まなかったソクラテスと同様に明らかに有効に作用するものであるから、固有名「シャーロック・ホームズ」「白上フブキ」も記述とは無関係に直接指示してもよいという主張は筋が通っているように思われる。

ここまでのLW氏の主張には同意するが、ここから先のLW氏の主張はいささか誤解を招きやすい表現だった。

そして、こうした反事実的条件の取り扱いに関しては、実在する人物やフィクション一般の固有名よりもVtuberの固有名がとりわけ親和的である。すなわち、ソクラテスシャーロック・ホームズよりも白上フブキの方が反事実的条件を想定しやすいのだ。というのも、Vtuberは時々刻々と変化するコンテンツであるために記述説であれば固有名が還元されるところの性質の束が極めて流動的だからである。更に、Vtuberは現実に存在する人物に対しては物理的な制約を受けないという点において、既存のフィクション一般に対しては正典とされるテクストを固定されないという点において、潜在的な可変性が相対的に高い。

この部分からは、「現実において事実である/事実でない」と「虚構的に事実である/事実でない」と「規定されている / まだ規定されていない」という三つの“反事実性”を一緒くたに取り扱い、『“ソクラテスは女である”も“シャーロック・ホームズは女である”も“白上フブキは男である”も全部おなじくらい反事実的だけど、なかでも“白上フブキは男である”が一番反事実的』のようなどっちつかずのことを言っている印象をうける。
予想するに、ことの責任はLW氏にあるのではないのだろう。LW氏が参照している先行の議論がそもそも現実世界の事物について説明することに特化した理論であり、虚構世界の事物について説明するうえでの精密さをあまり持っていなかったのだが、LW氏としてそうした先行の議論をふまえてなおかつ読者に分かりやすい説明を追求した結果、もろもろの反事実性を一緒くたに扱わざるを得なかったのだろう。
以下、私はLW氏による自説の説明では不幸にして取りこぼされかねなかったもろもろの反事実性の区別について検討し、LW氏の議論の拡張の方向性の一つとして提案したいと思う。

 

1. 現実における事実 / 虚構における事実

第一に検討するのは、「現実において事実である / 事実でない」と「虚構的に事実である / 事実でない」を区別するという方向性だ。私に読み取れる限り、LW氏の議論では本来両者は区別されるべきであるのに、一部その区別を曖昧にしている箇所がある。
出発点として、区別があいまいになっていると思しき箇所を参照してみよう。

まず現実世界においては物理的な制約は非常に強固であり、いくらわたくしが「ソクラテスが男ではなかったら」と述べたところで、ソクラテスのペニスがヴァギナに変わることなど起こり得ない。現実世界で性質の実現可能性を規定している物理法則なるものが自然科学という近代的イデオロギーが作り出した擬制であるかどうかはともかくとして、フィクション一般に比して相対的に実現される性質の幅が狭いということくらいは抵抗なく認めて頂けるだろう。
その一方、小説や劇台本においては虚構的存在者が持つ性質は物理的制約から解き放たれて想像の翼を纏う。小説内の話であればソクラテスが性転換することはいくらでもあり得よう。

ここでLW氏の意図としては、おそらく

  • 主張A … “ある特定の実在人物がある瞬間に突然女になる”も“ある特定のフィクションのキャラクターがある瞬間に突然女になる”も反事実的条件である
  • 主張B … “ある特定の実在人物がある瞬間に突然女になる”はありえそうもないが“ある特定のフィクションのキャラクターがある瞬間に突然女になる”はありえそう

のふたつの主張が同時に妥当であると主張することにあるのだろう。この二つの主張は、なるほど、同時に満たされている(かのようにみえる)ときも確かにある。例えば、“ある特定の実在人物”と“ある特定のフィクションのキャラクター”のそれぞれに以下のように人名を代入してみよう。

ここで、われわれは“反事実的である”ということを“現実において事実ではない”ととらえた場合、主張A’と主張B’が同時に妥当である(っぽく見える)ことを発見するだろう。すなわち、われわれの現実世界のどこを探しても『突然女になるようなソクラテス』も『突然女になるようなシャーロック・ホームズ』も見つかりはしないが、われわれが知っているソクラテスそのひとが実は『突然女になるようなソクラテス』であると判明するような場合よりもわれわれが知っているシャーロック・ホームズそのひとが『突然女になるようなシャーロック・ホームズ』であると判明するような場合のほうがありうべく感じるだろう。
しかし、“反事実的である”ということが“現実において事実ではない”ばかりでなく“虚構的に事実でない”ともとらえうる場合、反例も存在する。ここで“ある特定の実在人物”と“ある特定のフィクションのキャラクター”のそれぞれに恣意的にとある人名を代入して反例にしよう。

  • 主張A’’ … “ソクラテスがある瞬間に突然女になる”も“早乙女らんまがある瞬間に突然女になる”も反事実的条件である
  • 主張B’’ … “ソクラテスがある瞬間に突然女になる”はありえそうもないが“早乙女らんまがある瞬間に突然女になる”はありえそう

まず、“反事実的である”ということを“現実において事実でない”ととらえよう。このとき、主張A’’と主張B’’とはやはり同時に妥当である(っぽく見える)。
しかし、“反事実的である”ということを“虚構的に事実でない”ととらえよう*1。このとき、主張B’’が妥当である一方、主張A’’は妥当ではない。なぜなら、“早乙女らんまがある瞬間に突然女になる”は端的に事実であって、反事実的条件を構成しえないからだ。
つまり、早乙女らんまのような特殊な事例について反事実的条件を例に挙げたい場合、また、シャーロック・ホームズと早乙女らんまの反事実的性を区別して語りたい場合などは、“現実において事実ではない”と“虚構的に事実でない”を区別しなければならないということだ*2

 

では、“現実において事実ではない”と“虚構的に事実でない”とを区別できる形で両方含んだ反実仮想の考え方としては、どのようなものを考えればよいか。
まずひとつ、ありえそうな考え方は、反事実性を以下の図のように2×2のクロス表の4つのマスをまたいだ5つの矢印としてとらえる考え方だ。
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※この考え方では、虚構的にのみ存在し現実には存在しないような人物(シャーロック・ホームズや早乙女らんまなど)の存在を前提としていると思しき命題は「現実において事実でない(偽である)」として扱う。すなわち、「シャーロック・ホームズは男である」も「シャーロック・ホームズは女である」も「シャーロック・ホームズは男か女である」も一様に「それは現実においてそもそも存在しないのだから、現実において事実ではない」ということだ*3

われわれが、ある反実仮想らしきものがいかなる反事実性に基づいているのか知りたいと思ったときは、基準となるべき事実と比較されるべき仮想とをクロス表のどこかに置き、事実から仮想へとのびる矢印を引くことで反事実性の本性を知ればよい。矢印ができなかったとき(2点が同じマスに位置してしまったとき)、その条件は反事実的条件ではない。

 

例えば、“シャーロック・ホームズが突然女になる”という仮想について、これを“シャーロック・ホームズがそもそも存在しない”現実における事実を始点にして考えるならば以下のような反事実的条件になるであろうし、

シャーロック・ホームズが存在するが、突然女になったりはしない”虚構における事実を始点にして考えるならば以下のような反事実的条件になるだろう。

例えば、“早乙女らんまが突然女になる”という仮想について、これを“早乙女らんまがそもそも存在しない”現実における事実を始点にして考えるならば以下のような反事実的条件になるであろうし、

“早乙女らんまが存在し、突然女になったりもする”虚構における事実を始点にして考えるならば以下のように反事実的条件は生まれないだろう。

例えば、“織田信長が実は女だった”という虚構は世の中にいくらか存在するわけだが、こうした虚構を念頭に考えるとき、“織田信長は男である”という仮想について、これを“織田信長は男である”現実における事実を始点にして考えるならば以下のように反事実的条件は生まれないであろうし、

織田信長が実は女だった”虚構における事実を始点にして考えるならば以下のような反事実的条件になるであろう。

 

また、「現実世界においては物理的な制約は非常に強固であり」「小説や劇台本においては虚構的存在者が持つ性質は物理的制約から解き放たれて想像の翼を纏う」というLW氏のニュアンスをなるべく温存するならば――物理法則に縛られるか否かを尺度の一つとして取り入れるならば――(私自身はこの考え方に賛同するわけではないが)以下のような考え方も候補としては挙げられるだろう。すなわち、ある命題についてこれを“ある命題が(物理)法則としての現実に含まれている / 含まれていない”か“ある命題が個別事象としての事実(現実における事実か虚構的事実かは問わない)に含まれている / 含まれていない”の2×2のクロス表で分類し、このうちの右上・左下のマスに当てはまるものをそれぞれ反事実的条件とみなすという考え方だ。

※ここで、矛盾律は「クロス表の全体に関して自明」というわけでないこととする。

われわれが、ある反実仮想らしきものがいかなる反事実性に基づいているのか知りたいと思ったときは、まず基準としてなんらかの確からしき全称命題を設定し、その命題を左上・左下のマスに、その命題の否定を右上・右下のマスに書く。次に、命題の主語に関する既知の事実(それが現実における事実であれ、虚構的事実であれ)を単称命題として設定し、その命題を右上・左上のマスに、その命題の否定を右下・左下のマスに書く。そして反実仮想らしきものが右上・左下のマスのいずれかに位置していると思われるたならそれは反実仮想であり、そうでなければそれは反実仮想ではないだろう。

 

例えば、「ペガサスは空を飛べる」という命題をなんらかの意味で反事実的な条件としてとらえるときを考える。
まず、基準として「すべての馬は空を飛ぶことができない(部分否定ではなく全部否定の意)」という全称命題を設定する。この全称命題はそれなりに確からしいと思える。
次に、ペガサスに関する既知の事実の一つである「ペガサスは空を飛べる」を設定する(このときは既知の事実が当初の反実仮想と一致しているが、常に一致するわけではない)。もしも、物理法則が馬に対して空を飛ぶことを許さないとするならば――馬の体重の重さや翼が発揮できる揚力の限界などの物理的な要因で「馬は飛べない」という帰結が導けるとするのならば――この命題はそれなりに確からしいと思える。また、この命題をわかりやすさのため「ある種の馬は空を飛べる」という単称命題に設定しなおす。ペガサスがある種の馬であると考える限り、この再設定はそれなりに確からしいと思えるだろう。
そして、得られた全称命題と単称命題を先述した手順通りに2×2のクロス表に配置しよう。以下のような表が得られる。

「ペガサスは空を飛べる」という反実仮想らしきものについて考えられるべきは、左上のマス「すべての馬は空を飛ぶことができない。また、ある種の馬は空を飛ぶことができる」という矛盾らしきものであろう。つまり「ペガサスは空を飛べる」は左上のマスに位置する反事実的条件である。

 

例えば、「シャーロック・ホームズは女である」という命題をなんらかの意味で反事実的な条件としてとらえるときはどうしたらよいだろうか(「シャーロック・ホームズは突然女になったりする」という命題とはべつの命題であることに注意)。ペガサスのときのように「シャーロックホームズは女であれない」ということを物理的な要因によって導くことが可能だとは考えにくいが……。
手段はいくつかあるだろう。さしあたり、ここまでは「法則としての現実」を主に「物理法則としての現実」という意味で運用してきたが、これを拡張して「論理法則としての現実」という意味で運用してみるという手段を試してみよう。ただし、標準論理に属する全ての論理法則を「法則としての現実」として取り扱うのでなく、論理法則のごく一部を「法則としての現実」として取り扱う。
まず、基準として「女でないものはすべて、女であるということはない」という全称命題(強い整合性)を設定する。この全称命題はそれなりに確からしいと思える*4
次に、シャーロック・ホームズに関する既知の事実の一つである「シャーロック・ホームズは女であるということはない」を設定する。この命題はそれなりに確からしいと思える。また、この命題をわかりやすさのため「ある種の女でないものは女であるということはない」という単称命題に設定しなおす。シャーロック・ホームズが女ではないと考える限り、この再設定はそれなりに確からしいと思えるだろう。
そして、得られた全称命題と単称命題を先述した手順通りに2×2のクロス表に配置しよう。以下のような表が得られる。

シャーロック・ホームズは女である」という反実仮想らしきものについて考えられるべきは、左下のマス「女でないものはすべて、女であるということはない。また、ある種の女でないものは女である」という矛盾らしきものであろう。つまり「シャーロック・ホームズは女である」は左下のマスに位置する反事実的条件である。

 

“ある命題が法則としての現実に含まれている / 含まれていない”か“ある命題が個別事象としての事実(現実における事実か虚構的事実かは問わない)に含まれている / 含まれていない”かという二軸を用いて反事実的条件を分類しようとした後者のやり方は、“現実において事実ではない”と“虚構的に事実でない”の二軸を直接に用いた前者のやり方よりも単純で扱いやすくも見える。後者のやり方は反事実的条件を表中の一点においてとらえており、前者のやり方のように表中の二点をつなぐといった操作がないからだ。
しかしながら、冷静に両者のやり方を観察しなおしたとき、後者において前者の複雑さが痕跡を残さず消えているかと言えばそんなことはない。後者においては、複雑さを「全称命題の設定」という著しく恣意的な手続きにしわ寄せしているだけであるようだ。「全称命題の設定」が恣意的に見えるという点では、後者のやり方の信頼性(誰が判断しても同じ分類ができる蓋然性)はあまり高くない。
また、後者のやり方が使いづらいような反実仮想も存在するだろう。たとえば、われわれのうちに「夜に口笛を吹くと必ず蛇が現れる」という全称命題を文字通りの意味で現実に成り立つと思っているひとは少ないだろうが、「もしも夜に口笛を吹くと必ず蛇が現れる世界があったとしたら」という反事実的条件を後者のやり方で分類することはかなり難しい*5
前者と後者それぞれの見方を総合し、かつ弱点の少ないやり方がほかにないのかについては、後にもう一度探ることにしよう。

 

2. 既知の事実に否定される可能性 / 既知の事実に規定されない可能性

第二に検討するのは、「事実に含まれる / 事実の否定に含まれる」と「既知の事実か既知の事実の否定に含まれる / 含まれない」を区別するという方向性だ。私に読み取れる限り、LW氏の議論では両者の区別を曖昧にしている箇所があるが、これを区別できるようにLW氏の理論を拡張することには一定の意義がある。
ここでも、区別があいまいになっていると思しき箇所を参照してみよう。

つまり、「ソクラテスが男性でなかったら」「ホームズが男性でなかったら」という反事実的条件は機能するが、これらはまさしく起こり得ない反事実として措定されるものに過ぎず、我々はただ言説としてこれらを理解できるに過ぎない。それらに比べると、Vtuberにおいては、おたくどもがいみじくもよく言うようにコンテンツが「開いている」。それは二次創作ではなくVtuberのオリジナルが日々様々な媒体によって更新されるというほどの意味であり、具体的には毎日の動画投稿ないし配信やツイートで思いもよらぬ新情報が開示されることを挙げておけば十分だろう。我々が寝たり食ったりしている瞬間にも白上フブキが持つ性質は唐突に更新される可能性が常にあり、それは墓より蘇ったコナン・ドイルが突然シャーロック・ホームズの設定を更新することに比べればよほど現実的だ。

ここではLW氏はおそらく

  • 主張CX … “これまで男だと知られていたある特定の小説キャラクターが未来のいつかの時点で女だと再設定される”も“これまで男だとも女だとも知られていなかったある特定のVtuberが未来のいつかの時点で女だと設定される”も反事実的条件である
  • 主張DY … “これまで男だと知られていたある特定の小説キャラクターが未来のいつかの時点で女だと再設定される”はありえそうもないが“これまで男だとも女だとも知られていなかったある特定のVtuberが未来のいつかの時点で女だと設定される”はありえそう

の両方が妥当であると主張したいのだろう。しかし、このように明文化してみると、この例はあまりきれいな対称性を持っているとはいえない。対称的な例になるように、以下のような2組の主張に分解してみるのはどうだろう。

  • 主張C  “これまで男だと知られていたある特定のキャラクターが未来のいつかの時点で女だと再設定される”も“これまで男だとも女だとも知られていなかったある特定のキャラクターが未来のいつかの時点で女だと設定される”も反事実的条件である
  • 主張D  “これまで男だと知られていたある特定のキャラクターが未来のいつかの時点で女だと再設定される”はありえそうもないが“これまで男だとも女だとも知られていなかったある特定のキャラクターが未来のいつかの時点で女だと設定される”はありえそう
  • 主張X  “これまで男だと知られていたある特定の小説キャラクターが未来のいつかの時点で女だと再設定される”も“これまで男だと知られていたある特定のVtuberが未来のいつかの時点で女だと設定される”も反事実的条件である
  • 主張Y  “これまで男だと知られていたある特定の小説キャラクターが未来のいつかの時点で女だと再設定される”はありえそうもないが“これまで男だと知られていたある特定のVtuberが未来のいつかの時点で女だと設定される”はありえそう

主張C・Dと主張X・Yがそれぞれペアを組む。
まず主張X・Yのペアについてだが、正直なところ、主張Yがさほど妥当だと思えない。なるほど確かに、小説キャラクターとVtuberとを比較した場合、全体に占める現在進行中のキャラクターの割合はVtuberのほうが多いのかもしれない。だがそれはせいぜい程度問題であり、両者の本質的な違いではないのではないかと思っている。だから一概に「小説キャラクターよりもVtuberのほうが未来の設定更新の可能性が高い」とか「未来の設定更新の幅が広い」とか「設定更新が離散的ではなく連続的だ」とか言うほどのことはない。よって、ここから先は主張X・Yについては特に触れない*6
次に主張C・Dのペアについて。主張Cが妥当であるか否かにおいて重要なことは、「事実的」という言葉に「現在までのすべての事実に含まれる」という含みがあるのか「過去から未来までの全ての時間の事実に含まれる」という含みがあるのか、どちらなのかということであろう。もしも「事実的」という言葉が後者の意味であるのならば主張Cはさほど妥当ではなく思えるが、ここでは単に「事実的」とは前者の意味であると定義してしまえばよいだろう。「事実的」が前者の意味であると確認したうえでなら、主張Cで話題になっている2つの命題はいずれも未来にありうべきこと――現在までの事実に含まれない――ことについて云々言っているので、どちらも反事実的条件であるとみてさしあたり問題なかろう*7*8
そして、主張Dにも私はそれなりな妥当性を感じる。主張Dでは話題にしている2つの命題に対してなんらかの質的違いを認めようとしているわけだが、この違いを「ありえそうもなく思える / ありえそうに思える」と曖昧な言葉で語っているわけだ……。この違いをもう少しだけはっきりと定式化することがこの節のさしあたりの目標になる。

 

さて、目標を果たすためには反実仮想をどのように考えればよいのか。ここで私が提案したいのが、「事実に含まれる / 事実の否定に含まれる」と「既知の事実か既知の事実の否定に含まれる / 含まれない」の二軸で反実仮想を考えるという考え方である。

この考え方を理解するにあたり、われわれは一度、単純化のために「われわれの現実において事実」と「虚構的に事実」の区別を忘れて、「事実は事実、事実でないものは事実でない」と一からげに考えてしまおう。
われわれはあるキャラクターに関する反事実条件を考えるにあたり、その反事実条件をこの新しいクロス表のどこかに配置することでその反事実条件を分類できるだろう。すなわち、ある条件があるキャラクターに関して真なる命題であれば「事実に含まれる」に、偽なる命題であれば「事実の否定に含まれる」に配置し、またある条件があるキャラクターに関してこれまで正典のなかで真か偽かはっきり述べられたことかはっきり述べられたことから必然的に推測される内容であれば「規定済み」に、述べられておらず必然的に推測もされない内容であれば「未規定」に配置するような仕方で、その反事実条件はクロス表のどこかに位置を占めるだろう。ただし、現在などの時点を現在と考えたとき、ある種の命題が右下に位置を占めるか左下に位置を占めるかはよくわからないことのほうが多いだろう。こういった場合、右下か左下かは曖昧に処理しておくほかない*9*10

 

例えば、いささか突飛ではあるが、次のようなフィクションのキャラクターを仮定してみよう。そのキャラクターは白上フブキという名前であり、現在まで、「白上フブキの髪の毛の本数は時間的変化をしない」「白上フブキの髪の毛の本数は自然数である」という文のみで正典における白上フブキの記述は尽くされている。また、未来のある時点で正典に白上フブキに関する以下のような記述が追加される。「白上フブキの髪の毛の本数は奇数である」
さてこのとき、例えば「白上フブキはつるっぱげである(髪の毛の本数が0である)」とか「白上フブキの髪の毛の本数は奇数である」とか「白上フブキの髪の毛の本数は偶数である」とかいった命題は、現在という現在からみて、いかなる反事実的条件として考えられるだろうか。答えは以下の通りである。

「白上フブキはつるっぱげである」は既知の事実「白上フブキの髪の毛の本数は自然数である」に明らかに矛盾するので、既知の事実の否定に含まれ、右上のマスに属する反事実的条件である。「白上フブキの髪の毛の本数は奇数である」は現在において既知ではないが、やがて事実に含まれるので左下のマスである。「白上フブキの髪の毛の本数は偶数である」は現在において既知でなく、やがて「白上フブキの髪の毛の本数は奇数である」によって否定されるので右下のマスである。

 

私があえて尺度を追加して反事実的条件を細かく分類しようとしているのは、右上に含まれるような反事実的条件と右下や左下に含まれるような反事実的条件とでは、未来のある時点で設定に加えられやすいか否かが変動するからである。
例えば、『ジョジョの奇妙な冒険』第1部刊行時点を現在としたときのウィル・A・ツェペリを例にしてみよう。ウィル・A・ツェペリは第1部本編中ではっきりと「私には妻も子どももいない」といった旨を発言しており、また子どもを作る描写のないまま亡くなったため、「ウィル・A・ツェペリには生涯を通して子どもはいない」という命題は既知の事実としてクロス表の左上に書き込めることになる。

さて、このとき「ウィル・A・ツェペリには子どもがいる」「ウィル・A・ツェペリは亡くなった瞬間に髪の毛の本数が奇数だった」という2つの命題は、それぞれ反事実的条件とみなせるだろうが、そのどちらも未来のある時点において既知の事実に加えられる可能性があるだろうか?

いや、どちらもその可能性が十全にあるとはいいがたい。左下のマスに位置する命題はのちに既知の事実に加えられる可能性がまだある一方、右上のマスに位置する情報はのちに既知の事実に加えられる可能性がかなり低いのである。キャラクターの設定更新は矛盾を抱え込むことを避ける傾向にあるのだ。いや、言ってしまえば当たり前の話なのだが……。
ただし、矛盾を抱え込むようなかたちで設定更新がなされることは避けられるとはいっても、全く起こらないわけではない。そして行われてしまった場合、その設定更新は多くの場合“作者のうっかりミス”として虚構作品の本性から例外的な扱いを受けるだろう。ウィル・A・ツェペリについても、「ウィル・A・ツェペリの息子が登場する」という設定更新は行われたが、この設定更新は作者のうっかりミスと読者に受け止められたうえで矛盾を含まないような特殊な解釈が付け加えられた。
見方を変えれば、設定更新とは、ふつう、件のクロス表の上段と下段を分ける横棒を下げていく方向に進行するものであり、横棒を上げる方向や縦棒を左右させる方向には進みにくい、ということでもあろう。

 

われわれがもし、ある反事実的条件について、「厳密な意味で、反事実的条件であると言えるか、言えないか」だけでなく「いずれ現実化しそうだと思えるか、思えないか」までもを問題にするのであれば、われわれは右上に位置する反事実的条件と左下に位置する反事実的条件とを区別しなければならないだろう*11

 

3. より一般的なモデルの構築を目指して

前節と前々節で議論してきた内容を総合し、より一般的な一つのモデルのなかにすべての区別を押し込めることはできないだろうか。
例えば、以下のような3×3のクロス表である。

「偶然的事実に含まれる」とは、それぞれの世界で事実として起こった状況すべてを指している。例えば、われわれの現実世界においていえば「ソクラテスは毒杯をあおって死んだ」とか「今日は太陽は東のほうから登ってきた」などがこれに含まれるだろう。例えば、「シャーロック・ホームズ」シリーズが示す虚構世界においていえば「シャーロック・ホームズは『まだらのひも』事件を解決した」とか「モリアーティはライヘンバッハの滝で死んだ」などがこれに含まれるだろう。

「偶然的事実すべてから示唆される物理法則・論理法則の許容内」とは、われわれがこれまで触れてきた多数の偶然的事実の積み重ねから「こういった法則があるのではないか」と帰納されるところの普遍的法則について、それら普遍的法則のなかで可能であるすべての個別的な状況から偶然的事実を除いたものを指す。そしてここには、未来のある時点で起こりうる状況もすべて含まれるだろう。
例えば、(これはかなり極端に単純化した見方ではあるが)われわれがもし「リンゴから手を離したら地面に落下した」「みかんから手を離したら地面に落下した」「月から手を離したら地球に向けて落下した」などなどの大量の個別的経験を持っていれば、それら大量の個別的経験から『万有引力の法則』などのような物理法則が帰納されることもあろう。また、われわれがもし「ある年は台風が1個だけ上陸した」「ある年は台風が10個だけ上陸した」などなどの大量の個別的経験を持っていれば、それら大量の個別的経験から推測される未来のなかには「来年は台風が1個だけ上陸する」も「来年は台風が10個だけ上陸する」も含まれていることだろう*12

そして残りの「物理法則・論理法則の許容外」には、いままでの歴史に否定されたすべての個別的状況と、未来において絶対に起こりえないすべての個別的状況が含まれる。

要は、物理法則・論理法則を過去の事実に基づく経験則に過ぎないと考えることで、偶然性と完璧に区別できるような必然性の存在を否定しようとしているわけだ。まあ、物理法則・論理法則が“本当に”一種の込み入った経験則に過ぎないのか否かは科学哲学の難解な議論を呼ぶであろうし、私は科学哲学の議論に乗るだけの準備が十分でないが……。

*1:ここで「ソクラテスに関して虚構的に事実であるか否かを考える」をどうとらえるかで二つの戦略が存在する。一つ目は、早乙女らんまに関する命題の真偽を『らんま1/2』という虚構において考えるのと対称的に、ソクラテスに関する命題の真偽は「われわれの生きる現実世界の全歴史」という(完全な)虚構において考える、という戦略。二つ目は、早乙女らんまソクラテスも一様に『らんま1/2』というひとつの虚構において考える、という戦略。どちらの戦略がより妥当であるかはいずれ明らかにもなろうが、いまのところはどちらの戦略で解釈しても変わりはない。

*2:「“現実において事実ではない”と“虚構的に事実でない”を区別しなければならない」ということは、言い換えれば、「“ある虚構世界が現実世界とは別様なあり方を持ちうる”ということは“ある虚構世界がその虚構世界自身とは別様な持ち方を持ちえない”ということとは別の水準で理解されなければならない」ということでもあろう。関連する主張として、三浦俊彦『虚構世界の存在論』p23-24に以下の記述がある。『現象主義のもとでは作品Aが{a1 a2 a3......an}以外になることはありえない、ということは、作品Aが{a1 a2 a3......an}以外でありえた、ということと矛盾しないことに注意しよう。現象主義の言う「Aは{a1 a2 a3......an}以外ではありえない」というのは、「現実世界では作品Aは{a1 a2 a3......an}以外の特徴の束であることはありえない」という意味である。他の可能世界では、Aは{a1 a2 a3......bi......an}かもしれないし、{a1 b2 m3......ti......kn}ですらあるかもしれない。』

*3:この取り扱いは言うまでもなくかなり例外の多い暫定的な取扱いに過ぎない。本当のところは、現実において存在しないものの存在を前提にした言明が現実において「偽である」のか「真でも偽でもない」のかについては議論によるのだが、ここでは立ち入らない。

*4:議論の進行のため、この部分を始め、本記事のいくつかの箇所で「すべて人間は男か女である(排中律)」「人間は女でありかつ女でないということはない(矛盾律)」を言外の前提にしているが、実際のわれわれの社会がジェンダーに関してもセックスに関してもこのような単純な二分法が成立していないことは明らかではある。実際に男でも女でもない人間というのはいるし、女でありかつ女でない人間というのもいるし、そうした人間は容易に例外と決めつけられるほど少なくもない。ただ、人間というカテゴリで広きにわたる二分法をイメージしてもらいたいとき、例として男女二分法を挙げるのはことは効率的であることは認めざるを得ない。説明の効率を考えて、私は実際には成り立ちえない男女二分法がさも現実でも虚構でも成り立っているかのような表現をするが、気に食わない方は各自の胸中でなにかべつな二分法に置き換えていただいて結構である。

*5:不可能だとまでは思われないが。

*6:私はLW氏の主張Yを受け入れないし、主張Yに密接に関係するアイデアである「設定更新が離散的 / 連続的」というアイデアも受け入れない。だが、「設定更新が離散的 / 連続的」の代わりになるようなアイデアを別の記事に述べるつもりではある。

*7:“これまで男だとも女だとも知られていなかったある特定のキャラクター”の何割かは、単に作中で男か女かが明言されなかっただけで、男か女かの少なくともどちらかではあるだろう。そうしたキャラクターの性別が確定する状況は“反事実的”といえるのか……? 直観には反するが、本記事の議論としては、こういった状況も反事実的と呼びならわすことにする。例えば、原作中で男だとも女だとも明言されない(らしい)ハンジ・ゾエについては「もしもハンジ・ゾエが男だったら」も「もしもハンジ・ゾエが女だったら」もどちらも反実仮想である。どうしても違和感を感じる方は適宜理論を拡張・修正してほしい。

*8:ある性別不明のキャラクターについて、現在まで作品中で男だとも女だとも明言されておらず、なおかつ現在までの作品中の事実から男であるということも女であるということも演繹できないが、しかし女であると考えるよりも男であると考えるほうが顕著にストーリー的整合性が高い、という場合、そうしたキャラクターの性別が改めて男であると確定することは反事実的であるとみなせるだろうか? 難しい問題ではあるが、本記事の議論としては、こういった状況も反事実的と呼びならわすことにする。例えば、『名探偵コナン』の黒の組織のボスは2021年の第1008話でとある男性であることが判明したわけだが、2020年時点で「黒の組織のボスが男だったら」は反実仮想である。これについても、どうしても違和感を感じる方は適宜理論を拡張・修正してほしい。

*9:厳密には、「右下と左下を一個のマスとする」という扱いや「右下か左下か少なくともどちらかではある」という扱いや「右下とも左下とも言えないが『右下または左下』という一個の状態とする」という扱いがあるだろうが、ここではそれらの区別に立ち入らない。曖昧と言ったら曖昧なのである。

*10:もし仮に、キャラクターに関して言えるすべての命題によって無矛盾で完全で論理的に閉じた一つの集合を形作れるとするならば、キャラクターに関していえる命題のすべてがこのクロス表のどこかに位置を占めることができるだろう。だが、逆に言えば、キャラクターに関していえるすべての命題の集合が矛盾をはらんだり不完全だったり論理的に閉じていなかったりすると、いくつかの命題はこのクロス表のどこにもいれることができない状態になってしまうかもしれない。これは少し困った事態だ。「キャラクターが無矛盾であるとか完全であるとか論理的に閉じているのは当たり前のことだから気にしなくていいのでは?」と言う人もあるだろうが、こと虚構存在論においてキャラクターの無矛盾性(整合性)・完全性・論理的閉鎖性はちっとも自明ではない。また、前節の議論で、矛盾律を部分的に「自明ではない」とみなすことで議論を都合よく進めたような部分もある。だからできればこの節の議論についても無矛盾性や完全性や論理的閉鎖性を自明でなくした形に拡張したいのだが、具体的方策はまだ考えられていない。

*11:「右上に位置する反事実的条件と左下に位置する反事実的条件とは区別されなければならない」とは、別の言い方で表現すれば「ある作品に関して、“今現にあるような姿とは矛盾するような別の姿であったかもしれない”という可能性があることと“今現にあるような姿は複数のありうべき姿を含んでいる”という可能性があることとは別な水準で理解されなければならない」ということになろう。関連する主張として、三浦俊彦『虚構世界の存在論』p37-38に以下の記述がある。『テクストをこのような形の真正現象主義のもとで捉えながら、それでも未規定領域が描写されることが可能だった、と言うとしたら、それは一体どういう意味での可能性を主張していることになるのか。(中略)「別の可能世界においてはテクストが別様の記述内容を持っていたかもしれない」という自然な意味での可能性に訴えることはあまり役に立たない。なぜならその意味での可能性でなら、この現実世界におけるテクストの規定箇所がそもそも異なっているという可能性をも認められることになるから。しかしすべての規定箇所を本質的部分として保持しながらさらに未規定箇所のどれもが規定箇所でありえた、と言いたいのが現象主義的なT-1の眼目なのである。』

*12:しかし、あらゆる物理法則・論理法則が根本的には帰納でしかなく、明日突然裏切られるかもしれない、ということもわれわれは認めなければならないだろう。明日から突然この宇宙のすべての物理定数が書き変わるとか、定数でなくなるとか、標準論理が通用しなくなるとかいった無駄にアナーキーな状況は誰にも否定できない(ただ、宇宙で本当に論理法則がある日突然通用しなくなったとして、われわれにはその変化を認知できないという可能性はある)。普遍的に思われる法則もその普遍性を根本的に保証できるものなど何もない、ということは虚構世界においても同様で、われわれがある種の虚構世界のなかで通用する特有の法則――Fateの世界における魔術の発動原理とか、ドラゴンボールの世界における宇宙の大規模構造とか――をさしあたり信じられる根拠は、当該のフィクション作品中に法則から外れるような事態がたまたま描写されておらず、また登場人物たちも法則にたまたま疑義を呈していない、という虚構的経験則にのみ拠っている。ならば逆に、あるフィクション作品中において例外を許さない強固な経験則は、われわれの住む現実世界において物理法則や論理法則がそうであるような、絶対不可侵の法則として成り立っているのではないかと邪推してみることもわれわれにはできるだろう。例えば、『鋼の錬金術師』において「等価交換の原則」は質量保存等々の定量化できる範囲を超えて、人生における価値や人間の運命にまで敷衍されがちな傾向がある。われわれの世界で「等価交換の原則」を人生における価値や人間の運命にまで敷衍することは単に寓意か盲信とみなされるものではあるが、『鋼の錬金術師』においてはそれが端的に真理であるのかもしれない。フィクション作品は、虚構世界という限定状況において、寓意を物理法則や論理法則などに遜色のない真理にしてみせる、そんな可能性を持っているのだろう。

Vtuberの命名儀式はいつ・どこで?

『白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか:Vtuberの存在論と意味論』の主に第3節において、LW氏はVtuberに対して直接指示の理論が有用であると主張している。具体的には『別世界に存在するであろうVtuberの固有名を用いた命題を解釈可能であることなどからすると、「われわれはVtuberの固有名とVtuberそのひととを結び付けて考えることができる」という状況に対してより適合するのは直接指示・因果説の考え方である』と主張している(私の理解があっているといいのだが)。この記事ではこの主張について検討する。

とくだんこれといった結論を出す記事ではないのでもし読む方がいたらそのつもりで読んでください。

 

 

1.直接指示・因果説のあらまし

前掲のLW氏の記事から私が解釈した限りで言えば、直接指示・因果説とは以下のような考え方である。

  • 前提……仮に、山田太郎という名の人がいたとして、われわれは『山田太郎』という固有名と山田太郎そのひととを疑いなく結びつけることができる
  • 直接指示……『山田太郎』という固有名は、(なんらかの性質などによって山田太郎を表現しているよりかは)それそのものとして山田太郎そのひとと結びつけられている
  • 因果説……われわれが固有名『山田太郎』とそれがあらわす山田太郎とを結びつけられるのは、誰かが最初に固有名を山田太郎そのひとに結びつけた(命名した)時点から、誰かがその結びつきを別の誰かに伝える(名前の受け渡し)という連鎖がわれわれまで途切れることなくつながってきたからである

大雑把に図示するなら以下のような形でよいだろう。

図1 AWの住人 - 通常の例

 

2.直接指示・因果説の成立根拠

それが友人の名前であれ、歴史上の偉人の名前であれ、われわれは現実世界に実在する人物について、その人物の固有名と人物そのものがこれといった取り違えなく結びついているということをさほど疑わずにいることができる。
しかし、直接指示・因果説が主張するような因果連鎖の全体像をわれわれが把握していることは少ない(言い換えると、われわれが山田太郎という人物の名前を知っているとして、われわれが「山田太郎の名付け親が誰で、誰と誰をどの順番で経由してわれわれまで伝言ゲームが続いてきたのか」を把握している可能性は限りなく少ない)。われわれが因果連鎖の全体像を把握していないにもかかわらず、固有名とひととの結びつきを疑わずに運用できるとするならば、われわれは、固有名を判断するうえではわれわれに直に手渡された結びつきのみを参照すればだいたい大丈夫だと信じているということになる*1
これは少し不思議にも思える事態だ。なぜわれわれに直に手渡された情報のみでわれわれは判断ができるのか。この疑問に対する回答として、この記事では3通りの仮説を用意した。

 

仮説1 言語が用いられる社会全般への信頼がある
これは、われわれが直に交流することができる相手だけでなく、見ず知らずの無数の人間に対しても「まあそんなに頻繁にウソはつかんやろ……」と一定の信頼を置いていることによって、因果連鎖における伝達の精度がある程度保証されているのではないかという考え方だ。

言語とは(私はこれについて細かい議論ができる自信がないがとりあえずのところ)制度であり、同じ言語をしゃべっている(ぽく見える)人間に対しては、われわれは「自分と同じ制度に従っているであろう」という一定の信頼を置くことができる。この信頼は、われわれと同じ言語を用いているひと全体に対して持つことができ、そこには見ず知らずの人も含まれるだろう。
仮に、山田太郎の名付け親からわれわれまでの間に(n-1)人のひとが伝言ゲームを行った結果、われわれがある人間のことを『山田太郎』という固有名で認識しているとしよう。もし、ひとりのひとが『山田太郎』という固有名とその結びつきを正確に次のひとに伝える確率がp(もちろん0≦p≦1)だったとすると、名付け親からわれわれまで『山田太郎』という固有名とその結びつきが正確に伝えられる確率はp^nになる*2*3。もしもp≒1だったとすれば当然p^n≒1であって、われわれまで至る伝達はわりと正確で信用がおけるということになる。

さて、この仮説を採用したとき、われわれは「pが小さければ小さいほどp^nは小さくなる」という発見から「われわれが社会への全般的信頼が薄い人(社会に住む人々を無条件に信頼することができない性格の人)であるほど固有名の使用に問題をきたすかもしれない」といった推論を展開できるのだろうか? あるいは、「nが小さければ小さいほどp^nは大きくなる」という発見から「名付け親からわれわれまでの距離が近しいほど固有名の結びつきは信用できる」といった推論を展開できるのだろうか?
否、少なくともこの議論の枠組みでは、そういった推論は展開できない。思い出していただきたい、この議論では、「われわれは固有名とひととを疑いなく結びつけることができる」ということを前提にしている。つまり、前提からしてp^nはそれなりに高い(p^n≒1)のだ。だから、われわれはひとまず仮説1のなかにp≒1であるという仮定を含まざるをえない。「pが小さかったり大きかったりするとp^nはどう変化しうるか」とか「nが小さかったり大きかったりするとp^nはどう変化しうるか」といった興味深い問いは、この記事とは別の枠組みの議論で行わなければならない。

 

仮説2 因果連鎖において実は伝達の正確さは必須ではない
仮説1が、信頼とかいういわば人間の人間性に基盤を置いた考え方だとするならば、仮説2は人間の機械性を仮定してこれを基盤とした考え方だ。
われわれは、過去の伝言ゲームが正確なものであったか否かにはさほど関係なく、ほかならぬ自分に直に与えられた情報をもとに生きるしかないし、実際そのように生きている、とこの仮説では考える。

これはものの例えだが、仮に、次のような全10行のプログラムがあるとしよう。まず、1行目には「var a = 1」と書いてある。次に、2行目から10行目までのすべて行には「var a = a + 1」と書いてある。さて、10行目を処理する瞬間、コンピューターは1行目ではじめてaが定義されてからの9行のすべての歴史をたどって「ははーん、aは最初は1だったけどかくかくしかじかでいまのところ9になってるから、この行ではa = 9 + 1でaに10を代入すればいいんだな」と判断するだろうか? おそらくしないだろう。コンピューターは、それが何度再定義された変数であろうと関係なく、そのときそのときで、直前までの情報のみに従って「いまのところa = 9」と判断して計算を進めるだろう。
私が仮説2として考えたいのも、このコンピューターのような人間の姿だ。ひとりひとりのひとは、ここではプログラムの各行に対応する。
コンピューターがそのときそのときで直前までの情報のみに従うように、人間もそのひとそのひとが前の人の情報に従うしかない。前の人がもたらした情報は、名付け親が意図した情報(1行目で定義された情報)と一致しているかもしれないし違うかもしれないが、一致していようがいまいが、われわれが固有名を使ってしまえるということには本質的な関係はないのだ。

 

仮説3 複数のソースからの情報が一致したとき伝達の正確さを信頼している
この仮説で言わんとしていることは、われわれは固有名とその結びつきについて複数の人物から一致する情報を得たとき、その情報が(何らかの意味で)“正しい”ものだと信用しているのではないかということだ。
この考え方は、おそらく仮説1や仮説2と併用することもできるだろう。

もし、われわれがあるひとりの人物からある固有名とその結びつきについて伝え聞いたとしても、名付け親からその人物に至るまでに何らかの伝達ミスが起こっている可能性、またはその人物が端的に信用のおけない人物である可能性を考慮すると、その固有名と結びつきを信用することはしづらいだろう。しかし、何人かの人物から、ある固有名と結びつきに関しておおむね一致する内容を伝え聞いたとき、そのような懸念は無視できるようになる。複数のルートで全く同様の伝達ミスが起こる可能性は低いし、複数の噓つきが示しあわせ抜きに全く同様の噓をつく可能性は低いからだ。

図2 AWの住人 - 仮説3

われわれがなにか固有名を認識するとき、完全に単一の情報源からその認識を得る、ということは少ないといってもいいかもしれない。誰かの名前をひとから聞いて覚えるときは、特定の誰かから聞いて覚えるというよりもたくさんのひとが使っているのをみて覚えるというようなフシがある気もするし、人物からでなく書籍などから何かの名前を聞いて覚えるときは、書籍そのものは単一であっても、書籍化されたものが多くの人の校正の手を通っているとすればそこでは間接的に複数の人間が情報の正確性を保証していると強弁できなくもないかもしれない。ならば、われわれが普段用いる固有名のほとんどを疑問を抱かず使用できている理由というのは、われわれが普段用いる概念の多くが、複数の人からある程度同時に得られる情報として触れるものであるからなのかもしれない。

 

3.直接指示・因果説によるVtuberの固有名因果連鎖のいくつかの解釈

直接指示・因果説にのっとってVtuberを解釈するとき、誰がどこで命名を行い、どこからわれわれまで因果連鎖が続いていると想定するのかにはいくつかのパターンがあるだろう。いくつかのパターンがあるのは、Vtuberという虚構的存在と実在するわれわれとの間に因果連鎖を認められるのか・どのような因果連鎖なら認められるのか・虚構的存在はそもそも“存在する”のか、などについての解釈が複数あり、またどれも自明でないからだ*4

この記事では、「白上フブキが自枠の初配信で自分が白上フブキだとリスナーに対して名乗った」という状況を仮定し、この状況をどう解釈するかについて3つの想定を挙げて検討していく*5*6

 

想定1

  • ①白上フブキが住まう世界SWに、ふつうわれわれは知ることのない、「語られざるキャラクター」として白上フブキの名付け親が存在し、まず名付け親が銀髪の美少女に『白上フブキ』と命名
  • ②名付け親から白上フブキまでSW内で連鎖的に名前が受け渡される。
  • ③白上フブキの配信を通して、SWに住まう白上フブキがAWに住まうわれわれに対して名前を受け渡す。

図3 白上フブキ - 想定1

*7

 

想定2

  • ①初配信において、白上フブキ自身が白上フブキの実質的名付け親となる。
  • ②名付け親であり、SWに住まう白上フブキが、AWに住まうわれわれに対して名前を受け渡す。

図4 白上フブキ - 想定2

*8

 

想定3

  • ①初配信以前、AWに住まうホロライブの企画者がSW中に銀髪の美少女を創造して『白上フブキ』と名付ける。
  • ②AWに住まうホロライブの企画者がAWに住まう演者に名前を受け渡す(企画者と演者が同一の場合この段階は省略可)。
  • ③演者が「SWからAWに住まうひとびとへと名前を受け渡そうとする美少女」として銀髪の美少女ならびにSW全体を調整する。
  • ④(少なくともわれわれから見る限り)SWの方向からわれわれに対して名前が受け渡される。

図5 白上フブキ - 想定3

 

4.各想定の妥当性について

次にわれわれは、先に挙げた想定1~3のそれぞれが、われわれが持ちうる問題意識に対して妥当な推論たりうるか、仮説1~3に沿ってその妥当性を評価していこう。

 

4.1.想定1

想定1について。想定1が妥当な推論たりうるかどうかに大きくかかわるのは、想定1においてVtuberという作品の中で登場しない・言及もされない「語られざるキャラクター」の存在が要請されるという点であろう。あるフィクション作品を分析するにあたって、その作品中で語られないことをあれこれ勝手に妄想して事実扱いするというのは大雑把に言ってあまり褒められたことではないのだが、はたしてわれわれが動画に登場しない名付け親や登場しないSWの住人が勝手にいることにして議論を進めることは許されるのだろうか。

 

まず、仮説1に従った場合。われわれは、動画中に登場しないSWの住人を、勝手にいることにすることが許されようが許されまいが、いることにするのが自然なのである。

ある名前をわれわれに対して直に手渡してくれるひとのことを、仮に「われわれの前任者」と呼ぶことにしよう。
われわれの前任者がAWの住人であるとき(われわれの日常はたいていの場合そうだ)について考えよう。前任者からわれわれがなんらかの固有名を受け渡されたとき、ふつう、われわれが存在すると確信できるのはわれわれの前任者までであって、前任者の前任者とか、前任者の前任者の前任者といった、われわれの前任者から名付け親まで連なる無数の人々が存在するかどうかは不確かだ(少なくとも、存在するということを直接には確認できない)。では、われわれはこれら不確かな人々の存在を認めず、確かに存在するわれわれの前任者こそが名付け親に違いないと考えるだろうか。いや、そんなことはない。(われわれの前任者がある固有名の名付け親であるような事態はどちらかといえばまれで)われわれはむしろ、なんらかの固有名を受け取ったとき直接は確認できない不確かな人々の存在をさしあたり信じるだろう。

図6 AWの住人 - われわれの前任者と不確かな人々

われわれの前任者がSWの住人であるとき、われわれの前任者がAWの住人であるときとまるで別のことが起きるというだけの積極的な理由はないだろう。われわれが、日常の言語使用において「われわれは同じ言語を用いるAWの住人全般に対して信頼をおいている」ことを前提にするのが仮説1ならば、仮説1にのっとる限り、われわれはVtuberを相手にした言語使用に関しても「われわれは同じ言語を用いるSWの住人全般に対して信頼をおいている」を前提にするのが自然だろう。つまり、SWの住人である前任者からわれわれがなんらかの固有名を受け取ったとき、われわれは(われわれの前任者が名付け親であるとはっきり宣言しているようなまれな例を除いて)われわれの前任者よりもまえに無数のSW住人がいることをさしあたり信じるだろう*9

図7 白上フブキ - 想定1 - われわれの前任者と不確かな人々

わかりにくいので、AW住人とSW住人の性質の共通点と相違点に注意しながらもう一度整理しよう。
われわれ自身が直接交流できないひとびとに関して、そのひとびとがAWの住人であろうとSWの住人であろうと、われわれはそのひとびとが存在するか否か、知ることはない。しかし、そのひとびとがAWの住人である場合、それらは存在するかしないかの二択であり、そのひとびとがSWの住人である場合、それらは存在するともしないとも言うことができない*10。これがわれわれから見たAWの住人とSWの住人の共通点と相違点だ。
直接交流できない・存在するか不確かなひとびとが仮にAWの住人である場合『不確かなひとびとが存在する』と(あるいは『存在しない』と)さしあたり信じることはナンセンスではない一方、存在するか不確かなひとびとが仮にSWの住人である場合『不確かなひとびとが存在する』と(あるいは『存在しない』と)主張することはナンセンスである、とわれわれは思い込んでしまうかもしれない。しかし、仮説1とは、われわれには命題の真偽がなぜ判定できる(かのように思われる)のかを説明するための仮説であって、仮説1にのっとって語るうえで『AWの住人の存在は(その真偽がわれわれに検証できようができまいが)真偽が定まる』を持ち出すのは若干論点先取的だ。論点先取を避け、仮説1にきちんとのっとるなら――客観的真偽を基準に考えるのでなく、社会的信頼どうこうを基準に考えるなら――存在するか否かが定まらない対象であろうが、直接交流できない相手であろうが、それらに対して社会的信頼を置いていることはありうる、もとい、現においているのだ*11

 

つぎに、仮説2に従った場合。われわれが問題にすべきは、われわれの前任者がまともなことを言っているか否か、それだけであって、白上フブキの前任者やそのまた前任者がいるか否かということはさほど問題にはならない。
仮説1に従った場合と同様に、SW住人との言語コミュニケーションが可能であると考える限り、仮説2に従ったとき想定1はそれなりに妥当な推論である。

 

つぎに、仮説3に従った場合。複数のソースから整合する情報が得られる限りにおいてわれわれが固有名と個物とのつながりを確信できるのだとすれば、SWにおける語られざるキャラクターがいるとみなすのといないとみなすのとでは、いるとみなすほうが比較的都合がよい。白上フブキが名付け親でありわれわれの前任者でもあると考えるよりも、白上フブキ以前に名付け親がおり白上フブキはわれわれの前任者たちのひとりであると考えた方が、同一の名付け親から複数のルートを通ってわれわれまで固有名が受け渡される蓋然性が高いからだ。

(これは設定解釈としてあまり正確ではないような気もするが)仮に、アキ・ローゼンタールと夏色まつりが白上フブキと同じくSWに住んでいるとしよう。もしもわれわれがひとりの銀髪の美少女のみから「私の名前は白上フブキであり、狐であり、美少女である」のような言明を聞いていたとしたなら、われわれは「自分のことを狐であり美少女であると思っているやばげなひとがいる」と思いつつこの言明に注意を払わなかったかもしれない*12。しかし実際には、われわれは銀髪の美少女のみからでなく、アキ・ローゼンタールや夏色まつりからも「狐であり美少女であるようなVtuberが存在して、彼女の名前は白上フブキという」という状況に整合する情報を得ている。このように複数のソースから整合的な情報を得られているためにわれわれは『白上フブキ』という固有名と銀髪の美少女とを結びつけられるのではないか。

図8 白上フブキ - 想定1 - 仮説3

しかし、もうお気づきの方もいるだろうが、仮説3に特有の弱点もここではあらわになっている。特有の弱点とは、「現実に、ほぼ単一のルートでSWからAWへとわれわれに固有名を手渡すようなVtuberもおり、そういったVtuberの固有名をわれわれが違和感なく解釈できることの説明がつかない」というものだ。なぜなら、仮説3は名付け親からわれわれにいたる因果連鎖のルートが複数である限り、固有名と指示対象との結びつきを保証する考え方であり、仮説3が正しいとすると、ルートが複数でない例では固有名と指示対象との結びつきが多少なりと弱まっていなければならないはずであるからだ。
例えば、「真っ白い空間にいつもひとりぼっち」だった初期キズナアイには、白上フブキにとってのアキ・ローゼンタールや夏色まつりのような傍証担当がおらず、まさしくキズナアイ本人の言動によってのみ固有名『キズナアイ』とAI美少女とを結びつける必要があったし、実際に結びつけていた。初期キズナアイを引き合いに出さずとも、Vtuberでないフィクション作品(小説など)の多くのキャラクターはフィクション作品の本文という限られたソースのみで固有名とそのひととを結びつけられるものであって、こうしたキャラクターの一般的な在り方が仮説3によっては説明しづらいというのは弱点ではある*13

 

4.2.想定2

想定2について。想定2が妥当な推論であり、なおかつVtuberの独特さをよくとらえていると感じられるとするなら、それは想定2で描かれる因果連鎖のかたちがよくある因果連鎖のかたちと比べて三つの顕著な特徴を持っていることに因るだろう。まずはその三つの特徴を切り分けてみたい。
一つ目の特徴は、われわれの前任者が名付け親その人であるということだ。ここまでの議論では、どちらかといえば珍しい事態であるとして例外としてきたが、実際のところ、われわれが生きる日常のなかでも、珍しいには珍しいがさりとて起こらないわけでは全くない、ごく普通の事態だというべきではある*14

図9 AWの住人 - 一つ目の特徴

二つ目の特徴は、われわれの前任者が名付けられるところのひとそのひとであるということだ。わかりやすく言えば、山田太郎さんから「私の名前は山田太郎です」とじかに聞くような事態に代表される。こんな事態もまた、われわれの日常でしばしば起こるものであり、ごく普通の事態だ。

図10 AWの住人 - 二つ目の特徴

三つ目の特徴は、われわれの前任者はわれわれに対して固有名を受け渡すというはっきりした意図を持って受け渡しを行う(場合が多い)ということだ。逆に言えば、われわれが因果連鎖と聞いて通常考えるべき固有名の受け渡しとは、行為者・被行為者のはっきりした意図を伴った行動(行為)であることを必ずしも求められていない。考えてもみよう、われわれが名前を知っているひとのいったい何割が、われわれに向かってはっきりと自己紹介をしてくれたことがあっただろうか。いや、むしろわれわれの知る名前のほとんどは、気負わずにごく自然になされたまた聞きや盗み聞きの結果としてわれわれのところまで受け渡されたものではないだろうか*15。その点、想定2は際立っていて、Vtuberからリスナーへはじめて名前が受け渡されるとき(それはたいてい初配信内であろう)、Vtuberの受け渡し行為の意図ははっきりとリスナーに向いていることが非常に多いといえるだろう(ただし絶対そうというわけでは全くない)。

 

【再掲】図4 白上フブキ - 想定2

さて、仮説1に従った場合。われわれが交流しているところのものであるVtuberに対して一定の信頼を置くのであれば、Vtuberがたまたま名付け親その人であったり、たまたま名付けられる人そのひとであったり、たまたま意図的に名前を受け渡してくるひとであったりしたからといって、名前の受け渡しの効力が疑われることはないだろう。よって、仮定1に従った場合想定2は成り立つ。

ただ、思いつく限りでもこの想定の難点は二つ思いつく。一つは、「白上フブキというSW住人に信頼をおくなら、白上フブキ以外のSW住人(語られざるキャラクターたち)には信頼をおかないほどの特別な理由はないのではないか。想定2が想定1よりとりわけ妥当であるような根拠が存在するのか」という懸念(註11で触れた)。そしてもう一つは、「われわれは、複数であるところのAW住人たち全般や複数であるところのSW住人たち全般に信頼をおけるように、単体で定義されるようなSW住人にも信頼を置けるのか」という懸念だ。
二つ目の難点についてもう少し詳しく述べておこう。私はこの記事中で、われわれが社会全般に対して寄せている信頼、社会的信頼なるものの内実をまだはっきりとは述べていない。社会的信頼なるものがあるとして、それはわれわれが実際のところ誰に対して寄せているものなのだろうか。
社会的信頼とは――現段階では、論理の不徹底を承知で曖昧なことを私は語らざるを得ないと信じるのだが――同じ社会に生きるミクロな個人々々に対して寄せるものではなく、個人が相互作用をして形成しているマクロな社会全体に対して寄せるものなのではないだろうか? そのひとたった一人のみで構成されるような社会が仮にあったとして(正確にはこれは形容矛盾である)、そのような社会やそのような社会に属する個人に対しては、われわれは社会全体に対して寄せるようなタイプの信頼を寄せることができないのではないか? この世で一人によってのみ使われるように定義された言語が仮にあったとして*16、われわれはそれを言語とみなせるのだろうか? もし『白上フブキ』という固有名が、「白上フブキを含む複数人の社会」からもたらされたものでなく「白上フブキだけで構成される社会」からもたらされるものであるなら、われわれがこの固有名をシリアスに受け取らない理由になるかもしれない。そして、「われわれは『白上フブキ』を受け取らないはずだ」という結論を導くような想定は与件と整合しない。
ただ、前述しているように、「われわれはVtuberと言語を用いてコミュニケーションできるし、Vtuberに対して現に一定の信頼を置いている」というのは推論の結果でなく前提とすべきことでもある。だから当の懸念はいまのところ懸念どまりということで、想定2に対する決定的な反論ではないだろう*17
ここで、想定2が持っている三つの特徴を思い出そう。三つの特徴のうちの一つ目と二つ目は、場合によると「われわれが信頼を寄せるだけの“(複数人で構成される社会)社会”が存在しないかもしれない」といった疑念をわれわれのうちに呼び込みかねないため、仮説1とは少しだけ相性が悪かった。しかし、三つ目の特徴である「われわれの前任者はわれわれに受け渡そうというはっきりした意図を持って名前を受け渡している」は仮説1と相性がさほど悪くはないだろう。仮にわれわれの前任者がはっきりとわれわれを認識したうえでわれわれに名前を受け渡しているのだとするなら、固有名と指示対象との結びつきが命名儀式の時点と全く同じで誤りなく伝達されている可能性は高まりこそすれ、致命的に低くなることはないからだ。

 

つぎに、仮説2に従った場合。前述したように、仮説2において重要なのはわれわれの前任者がまともなことを言っているか否か、それだけであるのだから、想定1が仮説2に従って成り立つのと同じように、想定2も仮説2に従って成り立つだろう。
ただ、懸念というか、私の個人的な疑問がひとつだけある。それは、想定2の一つ目の特徴と二つ目の特徴の複合「われわれの前任者が名付け親でありなおかつ名付けられるところのものでもある」は可能なのか、という疑問だ*18
仮に、山田太郎さんが自分自身の名付け親になろうとするならば、彼が行うべきなのは「この人(ここで自分を指さす)は山田太郎です」と述べることであるわけだが、ここでいう『この人』には「ある日ある場所で「この人は山田太郎です」と述べたことがある」という事実も含まれていそうであり、ここには自己言及らしきものがある。名付けという行為は、自己言及を含んだかたちでも成り立つのだろうか?*19 さきほどのプログラムのアナロジーに従う限り、このような自己言及を含んだ構文が成り立つような気はしないのだが……*20

図11 AWの住人 - 自己言及らしきものを含んだ命名

 

つぎに、仮説3に従った場合。複数のソースから整合する情報が得られる限りにおいてわれわれが固有名と個物とのつながりを確信できるのだとすれば、われわれの前任者が名付け親その人である想定2は、固有名とひととの結びつきを保証してくれそうにないため、想定2はさほど妥当な推論と言えない。なぜなら、想定2におけるわれわれと名付け親との連鎖は短すぎるので、名付け親からわれわれのところまで辿り着くまでに情報が複数のルートをとる蓋然性が低いからだ*21
仮定3に従った場合の想定2の問題点を解決するには、ややこじつけではあるが、「Vtuberがひとつの完結作品でなく未完の作品群である(場合が多い)」ということを利用してみるのがいいかもしれない。というのは、われわれは単一のソースからでなく複数のソースから整合する情報を得ないと固有名を受け取れないのだが、Vtuberの固有名において、「複数のソース」とは「複数の動画」であり、われわれは単一の動画でなく複数の動画からVtuberの固有名を知らされるためにVtuberの固有名を認識できるのだ、と考えてみるということだ。「複数のソース」とはいっても同一人物が複数回同じことを言ってるだけなので、言い訳としてはかなり苦しいが……*22

 

4.3.想定3

想定3について。この想定を採用することによる最大の強みとはおそらく、名付け親がAWの住人であることだろう。
想定1や想定2のように、名付け親がSWの住人であった場合、われわれがそのような名付け親がいることを素直に受け取れるかどうかには議論の余地があるだろう。SWの住人とかいう、虚構的にしか存在しない者が名付けを行うといった事態ははたしてありうるのか。虚構的にしか存在しないものが名付けたり名付けられたりを行うという事態は、直感的にはなかなか理解しづらい*23。しかし想定3ならば、名付け親はわれわれと同じ世界に存在する者である。SW住人とかいう存在するんだかしないんだかよくわからないものが名付け親であると主張するような想定と比べたとき、AW住人が名付け親であると主張するような想定は直感的にかなり理解しやすい*24

 

【再掲】図5 白上フブキ - 想定3

まず、仮説1に従った場合。われわれが社会全般に対する信頼に基づいて固有名と指示対象との結びつきを信じているとするならば、想定3が妥当な推論といえるかはかなり微妙なものになる。
というのも、想定3のなかでは、因果連鎖(とみなすべきもの)がひとつの社会のなかで行われているとは考えづらいからだ。想定3における因果連鎖は、何人かのAW住人とひとりのSW住人によって担われている。このとき「何人かのAW住人とひとりのSW住人が同じひとつの社会に属していて、そのひとつの社会全般に対してわれわれが信頼を寄せている」とみなすことは可能だろうか?
さらに問題をややこしくするのは、想定3における因果連鎖のなかでは、通常の因果連鎖では現れないはずのよくわからない鎖がまぎれこんでいるという点だ。
よくわからない鎖というのは、演者とVtuberとの間にある「演者がVtuberの言動を調整する」という段階のことだ。仮に白上フブキの演者をMさんとすると、想定3に従う限り因果連鎖のどこかで「Mさんから白上フブキへと固有名“白上フブキ”を受け渡す」という段階が必要になるわけだが、この段階がどうみても他の段階とは性質を異にしている。少なくとも、言語コミュニケーションだとは思われない(Mさんと白上フブキが対話するなかで固有名“白上フブキ”が伝えられているというようには考えられない)。このよくわからない鎖をふくんだ因果連鎖ははたして因果連鎖とみなしうるのか……? できればまぎれこんでいてほしくない鎖ではあるが、しかしながら、AW住人からSW住人へとひとつの因果連鎖で結ぶためには、どこかで必要になる鎖ではある。「名付け親がAW住人である」という“強み”の副作用がさっそく牙をむいている*25*26

 

つぎに、仮説2に従った場合。前述したように、仮説2において重要なのはわれわれの前任者がまともなことを言っているか否か、それだけであるのだから、想定1や想定2が仮説2に従って成り立つのと同じように、想定3も仮説2に従って成り立つだろう。

 

つぎに、仮説3に従った場合。複数のソースから整合する情報が得られる限りにおいてわれわれが固有名と個物とのつながりを確信できるのだとすれば、想定3はさほど妥当な推論とはいえないだろう。基本的に、想定3ではわれわれの前任者であるところのVtuberは一人であると考えられるからだ。
ただし、想定2と比較したとき、想定3のほうが仮説3に従って成立する可能性は高いだろう。というのも、われわれの前任者が単一ではなく複数であると考えるために、われわれへの固有名の受け渡しは単一の動画でなく複数の動画で行われるのだと考えた場合、想定2においては命名儀式が複数回行われるかのようなイメージが浮かんで議論が破綻してしまうが、想定3においては命名儀式が単一であるかのようなイメージがまだ可能である(ような気が比較的する)からだ。

 

4.4.まとめ

ここまで、想定1~3を仮説1~3のそれぞれに沿ってその妥当性を評価してきた。表にまとめると以下のようになる。

表1 各想定の評価まとめ

この結果から私個人としては、現状では、Vtuber存在論を語るうえで「Vtuberの実態に整合的」かつ「Vtuberの特徴を洗い出すことに資する」であろう考え方は想定1であろうと考えている。

 

ただ、想定1にも、問題点というか、理論として疑わしい部分はまだ数多く残っているだろう。
一つは、SW住人からAW住人への固有名の受け渡しといったことは本当に成立するのか、という問題。註25でも述べた通り、われわれは可能世界論の語彙を用いる上ではSWとAWをまたいだ因果関係を仮定することはあまり得策ではない。そのため、SW住人からAW住人への固有名の受け渡しなるものを論じるには「可能世界論の語彙を用いない」「この受け渡しは因果関係にはあたらない」「Vtuber存在論を論じる上ではある種の因果関係は世界間で成り立つものとする」のいずれかの道を選んで舗装する必要があるだろう。
またべつの一つは、想定1によってVtuberの存在をほかの存在者の存在と際立って異なるものとして描き出せるのか、という問題。仮に、ある議論が「白上フブキは坂本龍馬存在論的になんら変わりない位置を占めている」という結論や「白上フブキは惑星ヴァルカンと存在論的になんら変わりない位置を占めている」という結論を導くとするならば、その議論が正しかったとしても、あえて議論する意味はそんなにない*27。はたして、想定1は、白上フブキを坂本龍馬同然とか惑星ヴァルカン同然とみなしてしまうようなタイプの議論なのではないか、という懸念はいまのところ拭えていない。

 

いま抱いている曖昧な予感としては、SW住人とAW住人とのやり取りがどのような時間関係のなかで行われているかについて探ることが、これら問題点を解決する足がかりになっていくのではないかという感覚があるが、その議論は今後の課題である。

*1:もちろん、ある固有名の“現在の用法”が原義にのっとった用法なのかどうかを確かめるため、われわれが固有名の因果連鎖を命名時点まで遡って調べていく、ということをする場合(流行りの言葉で言うなら、一種のファクトチェック)はまれにはある。だが、この記事では「因果連鎖が誤りなく行われたか調べなおす」といった事態は例外として捨象することにした。

*2:なお、「名付け親でも名前の伝達間違いを起こしうる」という仮定で本文を書いているが、この仮定には反論があるかもしれない。

*3:なお、伝言ゲームの参加者のなかに「前の人からは間違った情報を教えられたが、勘違いから偶然にも正確な情報を次の人に伝えた」のようなひとがいる可能性は無視できるほど小さいということにした。

*4:もちろん、「虚構的存在は実在しないのだから、虚構的存在を含めたような因果連鎖は無効である」とあっさり切って捨てる立場もある。三浦俊彦は『虚構世界の存在論』p248で物理主義者ドネランの見解を紹介している。『一方、ラッセルの論理的固有名が指示に失敗することがありえないのに対して、指示の因果説においては、指示的用法の指示句は、命名現場へでなくドネランが閉塞blockと呼ぶ状況へと歴史的に遡る場合、指示に失敗することとなる。閉塞は、(1)実在物への命名なしに名前が捏造されたような場合(虚構創造)、(2)思い違いや幻覚による場合、(3)歴史的な伝承が混乱して複数の対象が混合され一つの名で呼ばれるようになった場合(よく「ホメロス」という名がこの場合の被疑者として挙げられる)、のようなときに生じている。指示句が閉塞に至ると、それを主語とする文は、性質を帰属させる文ならばドネランによると全く命題を実現せず(Donnellan, 1974; 20-21)、存在文ならば、否定文のとき真なる命題を表わし、肯定文のとき偽なる命題を表わすのである。』本記事ではこれ以上検討しないが、簡明な立場だといえよう。

*5:なお、記事中ではっきりと述べると混乱を招きそうなのでやめておいたが、この記事の議論ではさしあたり「白上フブキがかつて自分で自分に『白上フブキ』と名付けたという可能性」や「白上フブキは存在し始めたときから自動的に『白上フブキ』であり名付けの瞬間は存在しないという可能性」などは考慮せずに進めた。これはこれらの可能性に検討の価値がないということではなく、単に今回の記事の論旨を整理するために議論の範囲から除外したのみである。

*6:なお、Vtuberのなかには「自分で自分の名前をつけたという設定」や「AWの人物に配信用の芸名をつけてもらったという設定」のキャラクターもあり、状況は多様であるから、この記事での例(白上フブキを用いた例)に対する例外は多いようだ。この記事中で例外に触れることはかなわないが許してほしい。

*7:この図は「SWがAWに内在している」かのような印象を与える描き方になっているが、この描き方については深い意図はない。私はSWがAWのなかに存在する小宇宙であるのかそれともAWからは全く独立な宇宙であるのかについて現状でははっきりとした立場を持っていない。読者にあられては、SWがAWのなかにあるようなモデルを考えていただいても、AWがSWのなかにあるようなモデルを考えていただいても、SWとAWが対等に存在するモデルを考えていただいてもけっこうである。

*8:この想定は、LW氏が『フブかつ』において行っている想定に合わせたものであるつもりだ。そしてLW氏がVtuber命名儀式をこのように想定したのは、小説キャラクターの命名儀式を本文中に想定するという伝統的な想定からのストレートな敷衍によるものであると思われる……実際このような想定には先行例があるらしい。私はウンベルト・エーコ異世界の書――幻想領国地誌集成』p440に『アーサー・コナン・ドイルの小説を読むとき、読者は「ワトソン博士」という人名が出てくれば、それは『緋色の研究』でスタンフォードという人物に初めてその名で呼ばれる男性と同一人物であることに疑問を抱かない。ワトソンのことを考えるとき、ホームズと読者は同様にこの命名のエピソードを想起することになる』(三谷武司訳)との記述を発見した。
伝統的にもかかわらず、私にはこの想定に多少の違和感を感じずにはいられなかったのだが、その発端の違和感はあくまで感覚的なものであり、単に私の頭がおかしいのかもしれない。

*9:これは余談だが、「言語行為として白上フブキの名付けがいつ行われたのか」という疑問はいったん脇において、「白上フブキの作中設定としては白上フブキの名付けはいつ行われたのか」という疑問について考えたとき、白上フブキという特定のVtuberに関しては、白上フブキの初配信以前から白上フブキは白上フブキという名前を持っていたことははっきりしている。実は、白上フブキの初配信『【初放送】フブキCh。(^・ω・^§)ノ 白上フブキのみんなのお耳にちょコンっと放送!』において、白上フブキ自身が「幼少期は自分のことをフブキと呼んでいたが最近わたしと呼ぶように改めた」という趣旨のことを語っているのだ。

*10:ただしこの主張は、AWが完全でありSWが不完全であると仮定した場合に限る。本記事では深く立ち入らないが、「SWにおいては存在するともしないとも言えない」と述べる代わりに、「SWにおいては存在するともしないともいえないが、少なくとも存在するかしないかのどちらかである」とか「SWにおいては存在するともしないともいえないし存在するかしないかのどちらかですらない」とか「SWにおいては存在しない」とか述べる戦略が存在する(三浦俊彦『虚構世界の存在論』の第2章などを参考にした)。

*11:LW氏は、『フブかつ延長戦』において「Vtuberには言語が通じる(一定の社会的信頼をおける)という仮定を論点先取的に用いてVtuber存在論を論じようとした」のような趣旨のことをおっしゃっている。私としては、論点先取はまあべつに構わないと思うのだが、その論点先取が中途半端なのではないかと指摘したい。信頼を問題にするのであれば、白上フブキを信頼できるのならばわれわれがついぞ見たことのない語られざるSW住人を信頼できない特別な理由はなく(まあとくべつ高い信頼を寄せるだけの理由もないのだが)、因果連鎖にかかわる人物を白上フブキのみに限定した理由が見当たらないと、私には思われる。

*12:言うまでもないが、AWに住むわれわれにとって、美少女なるものは言葉をしゃべる狐と同じくらいファンタジックでレアな存在だ。

*13:こんな考え方もあるだろう……われわれは、固有名『キズナアイ』とAI美少女を結びつける情報を、キズナアイからのみ受け取っているのではなく、(おそらくはキズナアイの動画を観ている)ほかのリスナーたちからも『キズナアイ』と美少女とを結びつける情報を得ている。キズナアイだけが言っている妄言でなく、複数のリスナーたちに認められている情報だからこそ、われわれはこれを信用して固有名を正確に運用できるのだ、と。このタイプの主張――われわれの前任者はキズナアイだけでなく、キズナアイとリスナーである――は仮説3を擁護するうえではおそらく間違ってはいないが、想定1の妥当性を損ねてしまいかねない主張であるためあまり認めたくない。というのも、「われわれの前任者を複数人だとみなすために、ひとりのSW住人とたくさんのAW住人を用意する」という方策をとるぐらいだったら、「そもそもわれわれの前任者にSW住人なんてひとりもいなくても仮説3は成り立つのでは」という疑念が生まれてくるのだ。もし「SW住人であるキズナアイからわれわれへの名前の受け渡し」といった状況を想定せず、「AW住人たちのあいだで同じものを『キズナアイ』と呼ぶ取り決めが行われているだけ」と考えるとするならば(そしておそらくこの考えはある側面では完全に正しいのだが)、そのときキズナアイは惑星ヴァルカンなどといった理論的対象と別段変わらないふつうの存在者でしかなくなる。キズナアイと惑星ヴァルカンとの間に際立った違いを見出せないような議論であれば、たとえ正しい推論だったとしてもわざわざここで紙幅を割いて論じる必要はない。

*14:具体的には、われわれは理論書を読んでいるときに「われわれの前任者が名付け親その人である」状況に頻繫に遭遇するだろう。例えば、われわれが論文を読んで「観測データから、水星よりも太陽に近い惑星が存在すると考えられ、筆者はこの惑星をヴァルカンと名付ける」のような文章と遭遇し、なおかつ論文というものがわれわれと論文著者との間での言語コミュニケーションとみなしうるとするなら、“ヴァルカン”という固有名について、この論文の著者はわれわれの前任者でもあり名付け親その人でもある。

*15:とは書いてみたものの、直接指示・因果説の有力な提唱者が名前の受け渡しを本質的にいつもどこか意図的なものだとみなしていたか実際的にさほど意図的ではないものとみなしていたか、いずれであるのかは私はよく知らない。

*16:「実際問題としていま現在一人しか使っていない言語」ではなく「定義上この世で一人しか使うことができない言語」の意。そのような言語が単なる形容矛盾に過ぎないのかあるいは思考実験の対象になるようなものなのかについては、私はまだ細かく検討できていない。

*17:ところで、私の懸念に対する再反論として、われわれの前任者であるところの白上フブキを「単体で社会を構成している名付け親」でなく「われわれと同じようにAW社会に属している名付け親」として定義しなおそうとする戦略もありうるだろう。すなわち、白上フブキがわれわれに固有名『白上フブキ』を受け渡すとき、白上フブキのみで構成される社会での運用を前提にその固有名を手渡しているのではなく、むしろAW住人を含めた複数人で構成される社会での運用を前提に手渡しているのであって、こと固有名『白上フブキ』を手渡す限りにおいては白上フブキは「白上フブキのみで構成される社会」の一員などではないし、むしろわれわれとさして変わらないAW世界の一員である、ということだ。なるほど、ある固有名が複数人で構成される社会中で運用されることを前提にしているのであれば、われわれがたとえその固有名を名付け親から直接うけとったのだとしてもさしたる問題はないような気もする(というか、理論書などで研究者が独自の用語を定義するときなどはたいていこのようなかたちで行われている)。しかし、白上フブキを端的にわれわれと同じ社会の構成員としてしまうとそれはそれで困った事態も起こりかねない。特に困るのは、白上フブキをあくまでAWとは別のルールに従わせたいとき、例えば、「白上フブキと坂本龍馬は所属世界が違うので『白上フブキは狐である』は真だが『坂本龍馬は狐である』が偽であるような違いも生まれる」というロジックを組みたいようなときだ。まあ、議論の工夫次第ではあるが。

*18:ここで主語が「われわれの前任者」であることはさほど重要ではない。私の意図としては、「任意の者が名付け親でありなおかつ名付けられるところのものである」という表現で十分ではある。文章の流れ的に本文のような書き方になったが。

*19:『この人』の構成要素として「ある日ある場所で「この人は山田太郎です」と述べたことがある」が含まれている、という発想が記述説的であり、因果説が前提としないものであるため、ぜんぜん問題ないのかもしれない。

*20:しかし私にはプログラミングのことはちんぷんかんぷんなので成り立たないとか断言することはできない。そもそもアナロジーはアナロジーに過ぎないだろという問題もある。

*21:「白上フブキが名付け親であり、なおかつ白上フブキ以外にもわれわれの前任者がいる(アキ・ローゼンタールや夏色まつりなど)という状況は想定できるのではないか」という反論があるかもしれないが、おそらくその反論を述べるためには想定2のうまみをひとつ捨てなくてはならないだろう。そのうまみとは、「SWを配信中で実際に述べられたことのみに基づく不完全な世界として考える」見方と想定2がよく整合するといううまみだ。もし、アキ・ローゼンタールや夏色まつりもわれわれの前任者になりうるのだとすれば、ごく自然に考えられるのは「われわれの知らないところで白上フブキとアキ・ローゼンタールや夏色まつりが交流している」という可能性であり、その可能性を積極的に認めていくにはSWを「配信内で語られないことも起こっている世界として考える」ほうがしっくりくる。そう考えるなら想定1とたいして変わりがない。

*22:ただ、Vtuberというコンテンツの主部が単一の動画からでなく複数の動画から成り立っているという事実はもう一つべつの問題を呼び込みもする。それは、『Vtuberというコンテンツは複数の動画から成り立っており、また、その動画群は通常どの順番で観るべきなのかを指示する単線的なストーリーも無いように思われる。このとき、われわれは命名儀式が行われる動画として「初配信動画」のみを特権的な位置に置くことは妥当なのか』という問題だ。Vtuberは「どの動画から観てもいい」「1作目から順番に観なくてもいい」コンテンツとして受容されていることは、少なくとも感覚的には了解されるであろうが、このコンテンツ中で特定の1本の動画で行われたやり取りのみが命名儀式としての特権性を持つことはありうるのか? 発表された全ての動画における初名指しの瞬間すべてがそれぞれに命名儀式としての効力を持つのではないのか? ……「すべての動画で個別に命名儀式が行われている」というこのアイデアは、それはそれで魅力的ではあるが、結果的には因果説の妥当性を揺るがすであろう。というのも、複数の動画中で個別に命名儀式が行われると認めると、それぞれ別の命名儀式によって名付けられた固有名たちの間に同一性が(少なくとも自明には)認められないからだ(われわれは、第1回動画で名指されている“白上フブキ”と第2回動画で名指されている“白上フブキ”が同じ固有名ではないかもしれない・他人の空似にすぎないかもしれない、という可能性を認めなければならなくなる)。なお、この問題はVtuberだけにはとどまらず、「シャーロック・ホームズ」のようなシリーズ作品にも成り立ってしまうだろう。「『シャーロック・ホームズ』は『緋色の研究』から読まなければならない」というような受容を、少なくともわれわれの多くはしていないからだ。

*23:想定2は、「作品中で描写されないSW住人を想定する必要がない」という点で想定1より多少マシではあるが、それでも想定1と同じく「名付け親がSW住人である」という問題を共有している。

*24:直感的にどうこうを抜きにしても、名付け親や名付けられるものが虚構的存在者であるような想定には特有の問題がある。それは、複数の世界に同一のキャラクターが登場するというような状況を説明しづらいということだ。というのも、直接指示においては、あるキャラクターの固有名は、キャラクターの特徴に基づいてキャラクターと結びつくといったようなことが許されない。あくまでキャラクター自体の『そうそう、まさにこれ』というような“そのもの性”でのみ固有名はキャラクターと紐づくことができる。ならば、『フブキCh。』に登場する白上フブキと『ホロライブ・オルタナティブ』に登場する白上フブキが別々の世界で別々の命名儀式のなかで名付けられたとして、われわれが『白上フブキ』という名前から2つでない1つの“そのもの性”で1つのまとまった美少女概念を導き出せるのはどういうことなのか? 名付け親と名付けられるものの双方が虚構世界住人であるとき、この疑問の解決は非常に難しい。せめて名付け親だけでもAW住人であれば、解決できる可能性は高まってくる。例えば、名付け親であるひとりのAWの住人が、複数の世界にそれぞれ存在している美少女のなかになんらかの共通する“そのもの性”を感じて、それらにまとめて『白上フブキ』の名を与えた、というような命名儀式を想定するのだ。こうすれば、例えば惑星ヴァルカンが複数の異なる思考実験のなかに共通して登場できるように、白上フブキを複数の世界に登場させることもぎりぎり不可能ではないと思われる。

*25:「AW住人からSW住人へと固有名を受け渡す段階が必要になる」ということは、「AW住人からSW住人への因果関係(?)が存在することを認めなくてはならなくなる」という問題をも誘発する。そもそも、可能世界論には「異なる可能世界どうしでは因果関係(正確には、因果関係などの「外的関係を含んでいると思しき関係」)を取り結べない」という前提(可能世界の独立性)があるため、世界をまたいだ因果関係(?)を想定するような議論をすることには「可能世界論の語彙を用いることができなくなる」というリスクがある。だから、可能世界論の語彙を便利に利用したいわれわれとしては、異なる世界どうしの因果関係(らしきもの)についてはその存在を想定しない方向で議論をすすめたいわけなのだが、「演者がVtuberの言動を調整する」というのはまさしく演者からVtuberへの因果関係である可能性がある。

*26:演者とVtuberの関係という「AWからSWへの因果関係」に問題があるならば、Vtuberとわれわれの関係のような「SWからAWへの因果関係」にも問題があるのではないか、と考える人もいるかもしれない……たぶん、問題ないことはないだろう、と私も思っている。しかし、「SWからAWへの因果関係」は「AWからSWへの因果関係」よりいくぶんマシ(込み入った議論を弄すれば解決できる)かもしれないと思えるところも少しだけある。というのも、これも三浦俊彦『虚構世界の存在論』を参考にしたアイデアなのだが、パーソンズらの主張するマイノング主義の一派においては「存在物は非存在物と核関係を持つことはできないが、非存在物は存在物と核関係を持つことができるのだ。ニューヨークは火星人に破壊されるという核関係を持つことができない。(中略)一方、火星人はニューヨークに対して破壊するという核関係を持つことができる」(p172)このような、フィクションとリアルにおける非対称性をもしもVtuberにも応用することができたなら……? 「Vtuberが設定としてわれわれにしゃべりかけたという事実を持ちえたとしても、われわれがVtuberに話しかけてもらったという事実が完全に成立していたわけではない」のような屁理屈は可能であるかもしれない。

*27:それはそれとして、「Vtuberの固有名は他の例と比べてもとりわけ確実に結びつきが担保されている」という結論を導くような議論はあまり妥当ではないと私は考える。なぜなら、私個人の実感として、われわれはVtuberの固有名に対してとくべつ大きく確信を得ているような感覚はせず、せいぜい他の人間やキャラクターと同程度に実在感を感じているだけだと思われるからである。

三題噺

あ、この話、ヤマとかオチとかはないです。なんなら意味も。

 

1

最近、久しぶりにカタい本を読んでいるが、存外楽しくない。楽しくない?
新しい知識を得ることの快感が(昔と比較すれば)なくなったというよりかは、快感そのものはあるが快感と同じくらい不快感を感じるようになった。もはや小学生や中学生のときのようには読書を楽しめない。当たり前といえば当たり前かもしれない。

 

不快というのは、本を読んでいると、過去に自分がブログ等で展開しはじめようとしていた議論がすでにその道のプロによって精緻に展開されていて、その議論の利点も弱点も尽くされていた、ということを知ることがままあるからだ。
具体的に言うと……私は先々月『論理パラドクス 論証力を磨く99問』を、先月『改訂版 可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』を、今月は『虚構世界の存在論』を(いずれも三浦俊彦著)ちょっとずつ読み進めているのだが、これらを読んでいると「当ブログの過去記事のいくつかの疑問は端的に知識不足でカタが付く」ということがわかってくる。もっともっと具体的に言うなら、『デットンは存在し、かつ、弟であるのか』はウッズの代入的量化説とか房理論とかをカスタムしていくことで不要になるような気がするし、『○』で探ったような「完全性の定義云々」は「強い/弱い完全性、強い/弱い整合性、強い/弱い論理的閉鎖」の枠組みのなかでおおむね定義済みなような気がするし、『日記とか存在とか狐とか』で果たしたかったようなことはなにもあんなに苦戦しなくてもハインツの状況説とかをカスタムしていく方向で満たせたような気がする。過去の記事の内容の何割かは、哲学的に全く既知のアイデアであって、ブログでわざわざ書いてやる必要がない。

 

誤解されたくないが、私は何も「自分が第一発見者の栄光によくすることができなくて残念だ」とか言いたいのではない。もしそう思われているなら訊き返したいが、こと哲学というジャンルにおいて、私のようなトーシロが真に新奇な問題設定を行うことが現実的に可能だと思うか? 哲学においては、トーシロが思いつくような問題設定のすべてはすでに哲学者によって実践済みだと考えるのがどちらかと言えば妥当だろう*1
「私が私なりに頑張って考えたことが学会では既知の事象であった」なんてことは、そもそも当たり前なので残念がるにはあたらない。私が残念がっているのはむしろ、「私は、ちょっと調べたら知識として解決できる程度の問題を議論としてブログに載せてしまった」ということだ。私は、ちょっと調べたらわかる程度のことは既知の事実としてそれに触れるべきだった。さもなくば、私は専門外の学問の積み重ねを軽視したことになろう。

 

ただ、ここで『私は触れるべきだった』と述べているのは、ただ『触れることができればするべきだった』という意味のみで述べているのであって、『触れることが可能だった』という状況を含意していない。
現実問題として、複雑な哲学の議論の要点を全て押さえてから自身の議論を始める(ブログの記事を書く)ためには多大な努力を要するし、そもそもが単なる趣味以上のものではない当ブログのためにその多大な努力を払おうという気は正直言ってない。私がいままで、ある程度自分の無知を棚に上げて文章を書いてきたのなら、これからも自分の無知を棚にあげて文章を書き続けるだろう。ブログなんてテキトーでいいのだ。テキトーに書き続ければいい。
ただ、そのテキトーはテキトーとして意識的に妥協したとしても、自分がテキトーであったことを改めて知らされるのが全くこたえないということにはならない。だから、久しぶりにカタい本を読んで、新しい知識を得ると――過去の自分の無知を知らされると――不快感を感じずにはいられない。今はまだいいが、そのうちカタい本読めなくなっちゃうね、これは。

 

2

と、いうのは前置きで。
今月読んでいる『虚構世界の存在論*2で紹介されたアイデアのなかにいくつか気になるものがあった*3

 

一つ目は、「自然種 / 名目種」という区分(を可能にするアイデア)だ。
三浦の紹介によると、言語によって指示されたり同定されたりしうる対象には、「水」とか「虎」とか「独身男」とか「複素数」とか「スループ帆船」とか、われわれがぱっと思いつく事物がおおよそ含まれる。このとき、この事物たちを、言語による指示・同定の在り方によって2つのタイプに分けることができる。タイプの1つは、「もともと人間の知覚や思惑から独立した自然界の実在物」(p16)である「自然種」、タイプのもう1つは、「われわれの生活と関心に相対的な、一定の性質と機能を備えていることを条件にそのものとして同定される」(p18)「名目種」だ。ここで、「水」や「虎」は自然種にあたり、「独身男」や「複素数」や「スループ帆船」は名目種にあたる*4
自然種と名目種との間の顕著な違いとして、それに対して従来の知見(ステレオタイプ)とは根本的に一致しないような新たな知見が発見され得るか否か、という違いがある。自然種についてはそうした新たな知見が発見され得る一方、名目種については根本的に従来の知見と一致しない知見は発見され得ない。

虎は自然種である。よってステレオタイプによって定義できない。世界中の虎の毛皮から縞模様がある日突然消えたとしても、虎は実は草食だったと判明したとしても、爬虫類だったと判明したとしても、また生物ですらなく太古に外惑星から送られてきた精巧なロボットが自己繫殖したものだったと判明したとしても、一連の時空的連続の系統を保っているかぎり、虎は虎であろう。われわれは「虎は実は存在しなかった」とは言わず、「虎の性質はわれわれが思っていたものとは全然異なるものだった」と言うだろう。(中略)しかし独身男とは実は女であったとか、独身男とは実は結婚しているものだったとかいうことが判明するなどということは考えられない。名目種名の指示対象は、確かにあらかじめ性質の連言によって定義されているのである。(p17)

 

『虚構世界の存在論』の議論はここから、芸術作品や美的対象の指示・同定に関して、対象が自然種である、あるいは名目種であるという前提に基づいてなんらかの立場を選ぶ方向へと向かっていく。しかし、私としては、こういった哲学的あるいは言語学的な関心を離れた単なるアナロジーとして「さまざまな事物を自然種と名目種に分けることができる」というアイデアを利用できないかと考えたくなる。例えば「われわれは普段、人間を自然種として取り扱っているのか、名目種として取り扱っているのか」とか……。

 

気になったアイデアの二つ目は、「記述句の属性的用法 / 指示的用法」という区分(を可能にするアイデア)だ。
ここも三浦の紹介を引用しよう。

ドネランによれば、記述句には属性的用法attributive use, 指示的用法referential useという二種類の用法がある(Donnellan, 1966; 46)。前者は話者が記述に当てはまる対象を選び出すものであり、後者は話者が意中の対象を記述を用いて指示するものである。スミスの惨殺死体が残された異常なほど凄惨な現場を見て「スミスを殺した奴は気違いだ」と言った人は、おそらく、誰であれこんなことをした奴は気違いだ、という意味で「スミスを殺した奴」という記述句を属性的に用いている。一方、スミスを殺した罪で起訴され法廷に立っている人物の異様な振舞いを見て「スミスを殺した奴は気違いだ」と言った人はおそらく、その特定の人物を指し示すために、記述を指示的に用いたのである。そして後者の場合、起訴された被告が真犯人でないとしても、さらには彼が真犯人でないと話者が知っている場合にすら、話者の「スミスを殺した奴は気違いだ」は指示に成功し、真(または偽)となりうる。(p247)

 

ざっくりと説明を流し読みする限り、この「記述句の属性的用法 / 指示的用法」というアイデアは「自然種 / 名目種」というアイデアとよく似ている……似ているのは、ある事物がある事物の本性であると一見思われるような特徴を持たないことがありうるか否か、という点だ。一方、指示的用法で記述された事物ならびに自然種に属する事物は、「殺人者」でありながら殺人を犯していないとか「虎」でありながらしましま模様じゃないとかいったことが(いちおう)ありうる。他方、属性的用法で記述された事物ならびに名目種に属する事物は、「殺人者」でありながら殺人を犯していないとか「独身男」でありながら男じゃないとかいったことが原理的にあり得ない。
二つのアイデアは、下手をすると混同を起こしそうなくらいには似ているが、しかしながら同じではない。両者は(同一の)議論の異なるレイヤーに位置するアイデアであって、それぞれのアイデアが区分しようとする対象は一致していない。あくまで「属性的用法 / 指示的用法」というのは記述句に対する分類であり、また直接指示という説を前提にしているアイデアであるのに対し、「自然種 / 名目種」というのは種(名)に対する分類であり、また直接指示と間接指示どちらの説を採るかという選択に関わるアイデアである*5
私はふたたび、哲学や言語学を離れて――直接指示という説に前提を置くか置かないか、などの違いにはあまり注目せずに――両者のアイデアを敷衍したい。思うに、両者のアイデアの違いを「われわれが、事物のなかに、事物が持っているあらゆる性質とも異なる『そのもの性』を認めるか否かという問題を、言葉が使われる個別の状況に即して判断する(「属性的用法 / 指示的用法」)か、普遍的に使われる言葉そのものに即して判断する(「自然種 / 名目種」)か」の違いと表現することも可能なのではないか。となれば逆に、「個別の状況に即して考えるか普遍的な言葉そのものに即して判断するか」という違いを除いたとき、両者のアイデアは構造的に同じではあると言えるのではないか。

 

両者のアイデアは「事物が持っているあらゆる性質とも異なる『そのもの性』を認めるか否か」で立場を分けるという構造を、ひょっとすると共通して持っているかもしれない。そして、「事物が持っているあらゆる性質とも異なる『そのもの性』を認めるか否か」で立場が分けられるという考え方は、例えば、「人間に対してわれわれがどうふるまうか」という問題に応用できはしないだろうか。

 

3

これはどれだけ強調してもしすぎることはないくらいの事実だが、「人間存在とはどういうものか」という問いは、いつでもどこでも高尚で深遠な問題というわけではない。
人間存在の本性云々という話は、いつなんの話をしていても頻繫に通過・経由する羽目になる、ある意味かなり凡庸な問題設定だ。個人的には、この問題はそれ単独で問うような問題ではなく、ある問題とある問題とをどのようにつなぐかを決める中継に過ぎないのではないかとすら感じている。「人間とは何か」なんてものは、駅ではなく切り替えポイントに過ぎないのではないか、ということだ(いま私は単なる個人の感じ方の話をしている)。
まあ、「人間とは何か」という問題をただ言葉の響きだけで過大評価してはいけないのだとしても、それでこの問題を語る意義が失われてしまうわけでもない。それが切り替えポイントに過ぎないのだとしたら、切り替えポイントに過ぎないとはっきり認識したうえで、その切り替えポイントに対する議論をとことん精緻化していくのはよい。

 

だいぶ話は飛ぶが、私の倫理的スタンスについてちょっと書いてみる。
私には、これと決めて信仰している宗教も哲学もないから、「私が私自身にそういうルールを課している」という以上の絶対的な道徳とか倫理の実在を、全く信じていないが、それでも「私が私自身にそういうルールを課している」という意味においての倫理的スタンスは存在する。要は、個人的な道徳律みたいなものがあって、(わりに弱い人間なので)その個人的道徳律をときによって守れたり守れなかったりしながら、それでも全体としてはなるべく守るように努力して生きているわけだ。
この、私にとっての個人的道徳律のなかには、私が実在の人間に対して行ってもいいこと・行ってはいけないことを定めた部分もある。この「私は実在の人間に対して○○をしてもよい / してはいけない」といった無数の細則に関して、私が重要にしていることとして、「私が○○してもよい / してはいけない理由は、ただその相手が実在の人間であることに尽きる」という信条がある。言い換えると、「実在の人間が持っている特徴の一部分を理由にして、私は○○してもよい / してはいけない、と解してはいけない」という信条でもある。それは具体的にいうなら、例えば「イルカは人間並みに頭がいいから、人間を殺してはいけないのと同様にイルカを殺してはいけない」といった主張が仮にあったとして、私はこの主張を積極的に棄却するし、例えば「非実在のキャラクターは実在の人間並みに共感できるから、人間を侮辱してはならないのと同様に非実在のキャラクターを侮辱してはならない」といった主張が仮にあったとして、私はこの主張も積極的に棄却する。「頭がいい」とか「共感できる」といった特徴はそれぞれ実在の人間(の一部)が持つ特徴(のさらにまた一部)に過ぎないし、「頭がいい」ことや「共感できる」ことは文明や文化の枠を超えるほど普遍的な価値などではないことに至っては言うまでもない。私は「実在の人間を殺してはいけない」という規範を抱えているが、その理由は単に「相手が実在の人間であるから」のみによるし、私は「実在の人間を侮辱してはいけない」という規範を抱えているが、その理由も単に「相手が実在の人間であるから」のみによる。

 

さて、私があくまで禁欲的に、「相手が実在の人間であるから」という理由のみによって「○○を行う / 行わない」と決めるとして、当の相手が実在の人間であることを確かめる方法には、少なくとも二種類がある。一種類目の方法は、われわれがその相手をすでに人間と呼んでいた、ということを思い出すという方法。二種類目の方法は、相手は実在の人間なら必ず持っているはずの特徴を余さず持っていてなおかつ実在の人間なら持っていてはいけないはずの特徴を一つも持っていない、ということを証明するという方法だ*6
この二種類の方法の間には、たいていの場合大した違いはない……ただし、比較的まれな事態のなかでは二つの方法のギャップが目立つこともある。まれな事態とは、例えば地球人類に異常に近いメンタリティを持った宇宙人が来訪したときであるとか、チューリングテストをゆうゆう突破するAIが完璧な肉体を持ったときとかであろう。こういった「人間かどうかの境界事例になるかもしれない者たち」が現れたとき、われわれは「それらが人間であることを単に思い出して、人間が持ちうる特徴のひとつとして新たな特徴を新発見する」のかその逆か、それとも「人間が持ちうる特徴に照らしてそれらが人間であることを証明する」のかその逆か?
つまり、私がこの話で意図しているのは、「人間」とは自然種であるのか名目種であるのか、どちらの立場なのかは一概には言えないよね、というそれだけの確認だ(あるいは、われわれは「人間」という言葉をときに属性的用法ときに指示的用法で都合よく使い分けているよね、という確認だと解釈されてもよいということにしよう)。少なくとも私はふたつの立場の間で揺れてしまうことがある。例えば、Vtuberについて語るときだ。私が、Vtuberに対して行う行為の倫理的是非を考えるうえで、Vtuberを実在の人間とみなすか否かというカテゴリー判断は、そもそも「実在の人間」を自然種と考えるのか名目種と考えるのかという厄介な別問題――人間とは新たな外延を発見すべきものなのか、それとも既知の外延によってのみ人間が決まるのか、という問題――を引き連れてくる。

 

一方、倫理的判断から発して人間とは何かを考えるうえで、人間は自然種であると考える立場は、一種傲慢にも聞こえる。倫理など、せいぜい人間が社会のために取り決めるものでしかないだろうに、それが適用されるかの判断に、人間の知覚に関係なく存在する「人間らしさ」なるものが絡んでくるとはどういうことなのか? 人間の決める良し悪しの公準は人間の決めた概念に尽きるべきではないのか?
他方、人間は名目種であると考える立場もそれはそれで傲慢に聞こえる。人間をなんらかの必要十分条件に分解したうえで倫理を打ち立てようとしたとき、そこでなんらかの特徴を価値化してしまうことからわれわれは逃れえないのではないか? 「人間」らしさなるものは人間が自分で決めることは、恣意的に選んだ一部の特徴を称揚することにつながりはしないか?

 

そういうわけで、例えば宇宙人やアンドロイドやVtuberなどのような、人間との境界事例になるかもしれないしならないかもしれないものが現れたとき、私は人間を自然種とみなすか名目種とみなすかの次元で多少なりと動揺するのである*7

 

4

多くの自分語りは好まれないものだ。しかしながら、自分が述べようとしている内容のなかにどれだけの数の自明でない前提が含まれているか、また自分はそれら自明でない前提の存在をどれだけの数見過ごしてきたのかということを明らかにするためならば、好まれようが好まれまいが自分語りが選択されることはある。

そんなわけで自分語り……なぜ私は怪獣が好きか、どういう怪獣モノが好きかみたいな話をする。
私にとって理想の怪獣モノというのは、

  • 怪獣は人間ごときの支配も理解も及ばない、絶対的な存在である
  • 人間こそがあらゆる怪獣のなかでももっとも強力でクレイジーな怪獣である

という2つの命題を高度に両立させたもののことである。この2つの命題は、必然的に矛盾するわけではないのだが、それでも油断すると一瞬で矛盾してしまうような非常に両立の難しい命題ではある。

 

『怪獣は支配も理解も及ばない絶対的な存在で』なければならないという価値観は、具体的には、人間から怪獣に対して「すごーい! 獣のくせに人間並みに賢いね!」とかいう人間基準での上から目線を発動しないこと、また人間が怪獣をただ一方的に「助けてやる」ような構造にはしないことなどを要請する。
この点、ピーター・ジャクソン版『キング・コング』やモンスターバース版『キングコング: 髑髏島の巨神』といった作品は(日本の特撮ファンにも高い評価を下している人は結構多いような気がするんだが)私にとってはかなりの地雷作品だ。ピーター・ジャクソン版ではキング・コングがどういうわけか人間の金髪美女に恋をするし(は?)、モンスターバース版では主人公たち人間が危機に陥ったキング・コングを「助けてあげよう」と思いあがり、本当に助けたっぽい雰囲気で話が進むし(は?)……これらの作品は、根本的に「人間はすごい! 人間は万物の霊長!」という見方から抜け出さないまま、人間ならされたらうれしいようなことを人間より劣るはずの獣にあてがってやり、「人間並みの獣を発見した!」と驚いたフリをしているだけの人間礼賛映画である、と私には感じられる*8

 

『人間こそもっとも強力でクレイジーな怪獣で』なければならないという価値観は、具体的には、完全な超越者としての怪獣が暴れるだけ暴れて終わり、みたいな物語にはしないことなどを要請する。
この点、『クローバーフィールド / HAKAISHA』とかスピルバーグの『宇宙戦争』とかいった作品は――まあ正直そこまで嫌いってわけでもないのだが――微妙に興味が湧かないというか、私が求めているような意味での怪獣モノには含まれない、という感じがする。両作品では、人間たちは大局がつかめないままにただただ蹂躙され続け、(名目的には勝利しているが)実質的にはただただ負けたまま物語が終わる。こういった作品は、怪獣(とか宇宙人とか)を徹底的に理解不能なものとして描いていることこそ好感が持てるものの、私がよく知るタイプの怪獣モノっぽさをあまり感じない(理解不能なものの恐怖だったら他ジャンルでもよくない?)というところでどうしても興味がわかない*9

 

『怪獣は支配も理解も及ばない絶対的な存在である』と『人間こそもっとも強力でクレイジーな怪獣である』をいち作品内で両立させるバランスというものはきわめて精妙であり、ほんのささいな描写の違いでこのバランスは壊れてしまう……というか、作品の作る段階だけでなく作品を読解する段階においてもこのバランスは崩れやすく、ある作品にこのバランスが取れているか否かはこまかい読解の違いでいかようにも揺れ動くだろう。とどのつまり、私と同じ価値観で怪獣モノを愛している人がいたとしても、私が絶賛する怪獣モノをそのひとが最低最悪の作品だとみなすことはままあるだろうし、逆もまたしかりだ。
しかしながら、勇気(あるいは蛮勇)を持って自分語りをしたい、この精妙なバランスを極めた作品として、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』や『ジュラシック・ワールド』や「アニメゴジラ三部作」などがあるのであり、これらはMy Favorite怪獣モノなのである。
これらの映画は、「人間の作った機械で怪獣を操る」とか「人間が怪獣を作り出す」とかいった危険領域に突入しつつも、怪獣が人間の支配下に置かれてしまうことをギリギリのところで回避してみせる。怪獣はいつも人間の予想を(量的にだけでなく質的に)裏切り、理解の外から来た来訪者〈外なる神〉としての性質を全うする。しかしながらこれらの映画では人類もやられっぱなしではなく、いつも最期にカタを付けるのは人類の科学技術と過信に基づく理性的な愚行、〈神なき知恵〉とでも呼ぶべきものである。理解不能な他者『怪獣』と理解不能な自己『人間』がバチバチにやりあう関係がここにはあり、私は「そうそうこれこれ! これが観たかったんだよ!」と喝采をあげる。

 

以上のように、今日ここで私はMy Favorite怪獣モノのなかに自分が持っている怪獣の理想像を再発見するのだが、これは言い換えれば、私にとっての“怪獣の理想像”が(観念的な演繹によるよりかは)“怪獣モノの鑑賞”という実践のなかでいくぶん功利的に彫琢されてきたということでもある。
そして、実は私にとっての“怪獣の理想像”は私にとっての“動物の理想像”にも応用され、ひいては“人間以外のものたちの理想像”にも応用されていっている。
具体的には、私は怪獣というものに対して「理解不能であり」「理解してやるべきでもなく」「強くて」「人間と種族単位で相対し、戦う」という期待を抱いているのだが、動物に対しても同様に「理解してやるべきでない戦う相手」であってほしいという期待を抱いており、人間以外のもの全般に対してもそうなのだ。
だから、私が先般述べた「人間扱いする理由はただ人間であることによって、それ以外の理由ではない」という価値観の裏側には、「人間以外のものを人間の基準で語るという失礼をはたらきたくない」という価値観が張り付いており、なおかつその価値観は「人間以外のものは理解不能な戦う相手であってほしい」という願望に根っこを持っているわけだ。
人間の条件に対する禁欲的(かのよう)な態度が、突き詰めれば、冷静な演繹でなく、エゴイスティックな期待に基づいているということを、私はよく覚えておくべきだ*10

 

5

「自然種としての人間を想定しようが、名目種としての人間を想定しようが、たいていの場合違いはない……比較的まれな事態においては違いがある」のようなことを先ほど述べたが、このまれな事態として想定されたのはわりにフィクショナルな事態のことだった。
そう、ある種のフィクションは自然種としての人間と名目種としての人間が一致しないような特殊状況をわれわれのまえにありありと見せる。これは大げさに言うのなら、人間が人間たる条件がかく乱されているということだ。いくつかのよくできたフィクションは、われわれのうちに「どこからどこまでが人間と言える……?」のような困惑を呼び込むだろう。

 

なんの話をしたいかというと、『メイドインアビス』面白いですよね、という話だ。

 

メイドインアビス』では自然種としての人間の条件は当然かく乱される。
明らかに生きている人間から、物理的に連続しており、なおかつ生命活動らしきものを行っている物体として『成れ果て』が登場したとき、われわれはこれを人間とみなすか否かで惑う。自然種という前提にこだわる限り、物理的に連続している物体を恣意的に区別することはあまり妥当だとは思われない。しかし、成れ果てになる前の人間と成れ果てになった後の成れ果てが物理的に連続しており、なおかつ生命活動らしきものも続いているとしたならば、われわれはある人間とある成れ果てを違うものだとはみなせないのか……?
メイドインアビス』が加えて最悪なのは、成れ果てになる前の人間を主人公は個人として知悉しているということだ。もしも主人公たちが知らない人間が成れ果てになるだけのことであったなら話は比較的のみこみやすいが、主人公たちが個人としてはっきり認識している人間が成れ果てになった場合、主人公たちは「その人間を人間であるとはっきり認識していた記憶」があるために、成れ果てを人間だとみなすべき必然性がかなり高まってしまう。これはしんどい話だ。
……いま私は当たり前の話をしている。

 

メイドインアビス』では名目種としての人間の条件もかく乱されている。
言葉が通じず、共感しあうことも期待できない野生生物こそ危険である、という正常な思い込みを持っている読者にとって、野生生物よりも何百倍も悪質で危険な存在としてボンドルドという男が登場したとき、われわれはこんなのが人間であるという事実を前にして惑う。名目種として人間をとらえたとき、「言葉が通じる」「共感しあえる」などといった特徴を人間の条件に含める人が多数派だと思われるのだが、しかしボンドルドは「言葉が通じる(めっちゃ頭がいい)」「共感性を持っている(愛情はガチ)」であるようなまあまあ人間らしい人間であると同時にとても人間であるとは認めたくない怪物でもある。われわれはボンドルドをあくまで人間だと認められるのか……?*11
メイドインアビス』が加えて最悪なのは、ボンドルドが持っている邪悪さの原因の一部として「精神分割行為の副作用」というファクターを曖昧にほのめかしていることだ。もしも、ボンドルドの邪悪さの原因が、100%本人の性格由来であるか、または100%怪しい機械の副作用によるものであるか、どちらかであれば、われわれはかくも邪悪な男が人間に含まれるのかどうか、多少なりと楽に判断できるであろう。しかし、彼の邪悪さの原因らしきものは(まるで現実世界のように)あいまいかつ複雑であり、その何割が人間存在に本質的な部分(本人の性格)でありその何割が人間存在に本質的でない部分(機械の副作用)であるのかがわからない。これまたしんどい話だ*12
……いま私は当たり前の話をしている。

*1:そもそも、哲学は問題設定の新奇性を争っているタイプの学問では(意外と)ない、ということにも注目すべきだろう。核心を突いた問題設定とその回答――要はアフォリズムの提示――だけなら、案外、そこら辺の人にだって簡単にできる。専門性のある哲学というものはむしろ、アフォリズムの表面に、どのようにして実証可能で議論可能な枠組みを与えていくかというところにこそあるだろう。

*2:読み進めるのにはまあまあ苦戦している。論旨も語り口もわかりやすいと思うのだけれど、思考の物量がすごいというか……。第4章で16種類の学説をずらっと並べて順に紹介・比較検討していく部分がごっつくてなかなか脱出できないでいる。

*3:以下、引用はすべて三浦俊彦『虚構世界の存在論』(1995, 勁草書房)による。

*4:ただし、「複素数」のような数学的概念がほんとうに人間の知覚に依存してのみ同定されているの否かなどは議論の余地がある、と三浦は述べている。

*5:「属性的用法 / 指示的用法」と「自然種 / 名目種」が同じアイデアではないことの証拠として、「独身男」という事物について今一度検討してみるのもいいだろう。(「独身男」という種名が「独身である男」という記述句と同値であるとさしあたり認めた場合)「属性的用法 / 指示的用法」という考え方に従った場合、「独身男」という記述句がどちらの用法で使われているのかは場合によって変わるだろうが、「自然種 / 名目種」という考え方に従った場合、「独身男」という種名は後者に属するだろうとふつうは考えられる。

*6:われわれは、「頭がいい」とか「(複雑な)心を持つ」といったごく少数の特徴のあるなしで人間か否かを判断する態度を棄却したとしても、「人間が持ちうる特徴の必要十分」でもって人間か否かを判断するという態度をいまだ棄却してはいないだろう。後者の態度は、実践のうえでは前者の態度と大して変わらないものに堕してしまう可能性が高いかもしれない……しかし、実践上の懸念をいくつか指摘したところで、後者の態度が前者の態度と同じものだと言えるわけでもない。

*7:まあ、倫理的判断の基準を決めかねて動揺するとはいっても、行動を決定する次元で迷うなんてことはそう頻繫ではないものだ。それは倫理的に是か非か悩ましい行動とひとが積極的にやりたい行動とが必ずしも一致しているわけではないからだ。ある人が「動物を殺してはいけない理由はない」と信じているからといって積極的に犬猫をいじめるとは限らない。

*8:まあしかし、もっと慎重にこれらの映画を評価するならば、「キングコングシリーズ」が持っている歴史性なども冷静に考慮にいれていかなければならない。キング・コングが金髪美女に惹かれるとかキング・コングを人間が助けるとかいった要素は、ピーター・ジャクソン版やモンスターバース版以前にもあったりなかったりした要素であり、キング・コングのキャラクター性に深くかかわるものなのだから、個々の作品が簡単に否定できるものではない、ともいえるのだ。

*9:ただし、『宇宙戦争』における宇宙人の描写が「人間の理解の外から来た者」として貫徹していたか否かはけっこう微妙なところだ。私には、いくつかのシーンで宇宙人は地球人の映し鏡として描かれていたのではないかという疑いを持っている。

*10:ちなみに、ことこの記事の内容に限らずとも、倫理的態度はエゴイスティックなものとしてしか説明できないとは思っている。

*11:とは書いてみたものの、「言葉が通じる」「共感しあえる」といった特徴が人間の必要条件に含まれるのだと、個人的には信じていない。言葉が通じない人間も共感性を持たない人間も、多少レアなだけでごく普通に実在しているし、ボンドルドの人間性にしたって、ただレアなだけで本質的に人間の枠を外れるものではないと私は思っている。ただ若干レアな特徴を持っているくらいで、実在する人間たちをさも「人間じゃない」「実在しない」かのように扱う態度は厚顔無恥と言われるべきだ。なおかつ、仮にそうした人間たちが「人間じゃない」「実在しない」と排斥されたとき、私は排斥する側ではなく排斥される側の人間でもある。

*12:まあ、ボンドルドの場合、おそらくは自分の意志で怪しい機械を使っているので、ボンドルドの邪悪さは100%ボンドルド自身の所産ということでもいいんですけどね。