よっしゃ、ゲーマゲの二次創作でも書くか!

『よっしゃ、ゲーマゲの二次創作でも書くか!』と私が思い始めたのは、そもそも私がゲーマゲを読む前のことだ。きっかけは、Twitterでどなたかが『ゲーマゲは二次創作しやすい』と発言していたことによる*1。私はこの発言を目にして、「そういえば俺って二次創作(小説)って書いたことないな~」「ここは二次創作がしやすいと噂のゲーマゲを読んで、ゲーマゲの二次創作を書くことで実績解除といくか」と考え、それからゲーマゲを読み始めた。いま考えてみると妙な順番で話が進んでるな。

 

二次創作をしてやろうしてやろうと思いながらゲーマゲを読了して、まず思ったことは、「いやこれ全然二次創作しやすくなくない?」だった。なぜって、ゲーマゲは主人公・空水彼方の問題系の始まりと終わりがきっちり物語に含まれていて、蛇足以外の形で非公式外伝を妄想する余地が少ないからだ。いやもちろん、非公式外伝以外にも二次創作をやるフォーマットはいろいろあるし、そもそも蛇足であってはいけないなんてルールも二次創作にはありやしないんだが……。

 

まあいいんだよそんなことは。蛇足だろうが面白くなかろうが、好きにやればいいんだよ二次創作なんて。こんなもん趣味ですから趣味。

 

ともかくも開き直り、私はゲーマゲの二次創作を書き始めた。1年2か月の格闘の末、どうにかこうにか書き上げた(私はゲーマゲの二次創作をいったん書き上げて、その直後にこの記事を書いている。だからこの記事は私なりの「くぅ疲」でもある)。書き上げた二次創作は下のほうにあります。

 

 

 

書くにあたっては、LW氏の原作に対するなんらかの切り返しとか、本作の新味といえるものをたくさん含めて、少しは面白くあるよう努力はした。
しかしながら、何度も言うがこんなもん趣味なので、ひとに「読んで」と言えるような確実に面白いものでは全くない。この二次創作におけるあらゆる設定や展開は私の都合・好みを優先して決定されており、(LW氏の原作ぐらい)純粋に面白いものを期待するひとがこれを読めば肩透かしを食うこと必至である。

 

とくに多くの読者の期待に添わないであろう部分を三点だけ具体的にあげる。

一点目は、この二次創作では、原作主人公・空水彼方の魅力はあまり引き出されていないということ。理由は、先述した通り、空水彼方の問題系は原作においてきちんと開いてきちんと閉じているからだ。空水彼方について私から付け足したい言葉はそんなにない。彼方 is GODDESS.
二点目は、原作から導入した多くのキャラに対して、私オリジナルのキャラ性をたくさん付加してしまったということ。このことについて、私は『二次創作ってそういうもんでしょ』という感じでほとんど悪いとは思っていないが、ただしパリラについてはさすがに申し訳ないことをしたと思うところは若干ある。
三点目は、わけがわからない理屈によって進行するバトルがたくさん出てくるというところ。これは多分に私の好みの問題だ。私は『ストーンオーシャン』とか『仮面ライダージオウ』とかで頻出する、まるでわけがわからない理屈の提示によって決着がつく、人を食ったバトル展開がとても好きで、私自身の二次創作においてもそういったバトルの実現を積極的に目指した。もしあなたが私の二次創作を読み、バトル展開がわけがわからないと感じるならば、私もわけがわからないままに書いていると思ってくださって相違ない。

以上、読者の期待に添わないであろう点を述べてはきたが、これらの点は先に予告しておくことによってその免罪を意図するものではない。私が狙って行ったことによってあなたがつまらないと感じるならば、その話はやはり、つまらないのである。『つまんねーよカス!』と私をののしるのが妥当だ。

 

 

 

言いたいことは以上なので、以下が二次創作の本文へのリンク。二次創作への許容度とかルビの振りやすさなどを考慮して、当はてなブログでの公開というかたちにした。プロローグ、エピローグをあわせて全9章あるが、今回はゲーマゲ原作に倣って1日1章ずつ公開してみる。たぶん全部で11万字くらい。

 

序:Once Upon a Time in a Multiverseむかしむかし、あるせかいで
1:亜人フェアリーゴッドマザーズ
2:未練者リビングデッドの夜
3:一撃イチゲキ、のち沈黙
4:彼方の反撃カウンターアタック
5:心は見極めがたし推測ゲスせよ乙女
6:私がやるアイ・シュート
7:戦線になおも異常者ノイエあり
終:Once Again from Underdogs’ SNS

 

 

 

やっと二次創作を書く趣味から解放されたことだし、こんどはすめうじでも読もうかな……。

*1:サイゼリヤでの記述を参照する限り、ゲッタ~氏の発言だったか? 参照:https://saize-lw.hatenablog.com/entry/2022/11/26/184443

七つのテーブル

※この記事は

  • 『ゲーミング自殺、16連射アルマゲドン』
  • 『皇白花には蛆が憑いている』
  • 『席には限りがございます!』
  • 『魔法少女七周忌♡うるかリユニオン』

 のネタバレを含みます。

 

 

 

私の(ものではない)物語:製造フロア隅の事務机

『大人はみんな趣味で仕事をやっている』とか『働くひと自身の心がけ次第でどんな仕事でもクリエイティビティを発揮できる』とかなんとか、ありがたいお話を講釈してくださる大人の皆さんは数多い。が、実際のところ、プライドなど持ちようのない仕事……どれだけ贔屓目にみても平凡で単調で低評価としか言いようのない仕事が世の中にはたくさんある。これは、心がけの問題というよりはもっとずっと単純な算数の問題だ。少数の、特定の能力や資質が必要とされる特別な仕事を特別な人たちがこなさなければ社会が回らないのと同様に、もっとずっと多くの、ぶっちゃけ誰にでもできる仕事だって誰かがこなさなければ社会は回らない。社会に存在する仕事の種類が増えていっても、平凡で単調で低評価な仕事の需要が減るわけではない。むしろ増えているフシすらある。そこに圧倒的な需要がある以上、多くの人が低評価の仕事をこなさざるをえない。その仕事がなぜ低い評価をうけがちなのか、自分の手元で再確認しながら。

誰にでもできる仕事というのはしかし、誰にとっても簡単、というわけでは必ずしもない。誰にとっても簡単であるどころか、逆に、労働者個々人の能力の違いをこれ以上ないほどはっきりと浮かび上がらせていることすらある。考えてみれば当然のことだ。平凡で単調な仕事は、平凡で単調であるがゆえにその仕事への評価尺度が複雑化しにくい。複雑でない、比較的単純な評価尺度……ポカミスの多寡とか、仕事の早さとかで測られるようになったとき、どうも絶望的に仕事ができないやつっていうのはどの職場にも出現する(労働の義務は全国民に課せられているので、全国の職場は限られた有能な人材を奪い合っているのと同時に、一定数いる無能を押し付け合ってもいる)。そういうわけで、なんか何の仕事やらせてもめちゃめちゃ遅い私も、いまはとある工場に派遣で入っていて、仕事が遅いかどでしょっちゅう上司に訓戒を受けている。ちょうど昼休みが終わったいまもそうだ。

 

製造フロアの隅の半端なスペースに置かれた事務机が私の上司の定位置だ(正確には、彼は役職上は私の上司ではない。彼は管理職じゃないのに管理業務をやらされているかわいそうな人なので)。さっきまで愛妻弁当を食べていた同じ机で、上司はペン立てにささったハサミをいじりながら私に語りかけている。対する私は所在ない両手を時折もみあわせながら上司の話に「はい……はい……」と相槌を打っている。

話題はあちこちを行ったり来たりしているが、おおむね中心を占めているのは、私の仕事がクソ遅いことについてだ。上司は、具体的にどの仕事が遅かったとか、仕事を早くするためにこういう工夫を採用してはどうかとか、仕事が遅れそうなときは事前に相談しろとか、そもそも何をした代価に給金をもらっているつもりなのかとか、あの仕事は前よりちょっとだけ早くなっていたとか……とにかくもろもろについて私に問いかける。私としては、上司の考えや私の考えをもとに取り組んでいる工夫がいくつかあり、これはうまくいきそうですとかこれは実情にうまくフィットしませんとか、なるべく具体的に答えていくことになる。

そうした小さな工夫のなかには、たしかに成果を上げているものもある。しかし上司も私も、そんなチマチマした改善もどきではなくもっとラディカルな最後通告がほしいという気持ちをごまかすことが次第に難しくなってくる。『仕事やる気あんのか?』『逆にあると思ってんの?』そんなやり取りをお互いに3度ほどは飲み込んだあと、上司はだいたい次のようなことを歯切れ悪く語り始める。

 

「べつに私自身はいいけどね、君が仕事遅くて迷惑をかけること自体は。でもさ、私以外の、君の隣でやっている人は君が仕事遅いのいやだと思ってるかもしれないよね。君が遅かったぶん、君だけじゃなくて他の人も残業になるでしょ。そういうときみんなどう思ってるのかね。いや、本当わからないけどね、ひとにもよるし――」

 

そう、この段階! この段階に入るともう、本当に終わりだ。どうしようもない。

『てめえが不平等だと思ってんならてめえの責任で不平等だとはっきりいえよ、他の人の不都合を勝手に想像して持ち出してるんじゃねえよ』とつい言い返しそうになるが、そんなことをしてはいけない。上司だって……いや、上司のほうが辛いのだ。末端の現場責任者にすぎない彼には、派遣社員である私の給料をアップする権限も契約を解除する権限もありはしない(そもそもが、かなりランクの低い派遣社員である私と契約しているこの会社のことなので、ちょっと使えない派遣社員がいても、そいつを契約解除して代わりを用意する、というのが簡単ではないのだ)。彼はこの事務机の上で、私がする行動に対してなんのメリットもデメリットも提供することができない。

私のほうも、誰にでもできる仕事が私にとってはめちゃくちゃ難しいというシンプルな問題によって、劇的な業務効率改善を約束することができない。できるのは、ただ今まで通り、遅々とした成長を示唆することだけだ。私もまた、上司がする選択に対してなんのメリットもデメリットも提供することができない。

結局のところ、私が昨日よりちょっと早く仕事をこなせようがこなせまいが、上司のなかでの私の評価が上がろうが下がろうが、事態はほとんど動きはしないのだ。私の行動も上司の選択も、お互いの利得にほとんど関わってはいない。ここにステークホルダーはいない。だからこの事務机の上でなされた対話は、交渉という体をなすことができない。最後には、『もうちょっと早く仕事ができるといいよね』とお互いに願望を表明するだけして、私と上司はそれぞれの午後の業務に戻っていく。なんかもう、本当にすみません、小学校教師みたいなこと言わせてしまって……。


※フィクションです。

 

 

ゲーマゲ:廃研究所のスチール卓

対話で解決可能な課題は凡て対話で解決しなければならない、なぜなら対話こそが至高の課題解決手段だからだ……のような立場は(その論点先取じみた響きのわりに)現代ではそう珍しくもない。が、私はこの立場にそこまで賛同していない。

たしかに、対話は課題解決手段の一種として一定程度には有益ではある。しかし第一に、対話はあくまで解決手段の一種にすぎず、この世にはほかの解決手段も無数にある。第二に、対話が手段として有益であるというのも、あくまでいくつかの特定状況のなかでいくつかの手段よりは有益であるというだけの意味であって、常にどの手段よりも対話が優れているという意味ではない。対話とは、条件付きで●●●●●善いものにすぎないのだ、と私は信じている。こんなこと、あえて言い切る必要があるような積極的主張でもないけれど。

 

こう言い換えてもいいだろう。対話が善いものであるためには、つねになんらかの前提条件を満たす必要があるのだ、と。

ひとくちに対話といっても、そのなかには多くの種類の対話がある。想像するに、異なった種類の対話は異なった種類の前提条件を課されているだろう。例えば、“交渉”という対話には交渉が交渉であるための前提条件があるだろうし、“雑談”という対話には雑談が雑談であるための前提条件があるだろう。前提条件が満たされたうえで行われた対話は、われわれの課題の解決にとって悪くない選択肢になるに違いない。

一方で、適切な前提条件が満たされていない状態で行われた対話は、なにも生み出してはくれない。例えば、ステークホルダー不在で行われるふわふわした訓戒が、まるでビジネスの様相を呈していないように……。

 

前提条件を満たして行われる会話はわれわれにとって善きものである。ならば、前提条件が何なのかをはっきりと意識して対話に臨む人びともまた、われわれにとって善き人びとでありうべきだろう。私はここで、いつも誠実に対話に臨んでいた一人の善きゲーマーのことを思い出さずにはいられない。何を隠そう、空水彼方のことだ。

 

空水彼方は対話への誠実さにおいて善きゲーマーであった、などと私が述べると、次のようにいぶかしむ人は少なくないだろう――彼方の特徴はむしろ、対話拒否の姿勢にこそある、というのが共通見解ではないのか――と。いや、たしかに彼方がゲーマゲ本編中でとっている行動がある種の対話拒否であることはまったく間違いではない。相手の気持ちも事情もポテンシャルも考慮せず、出会い頭に殴りかかる、そういう行いをためらわないし、必要ならばガチで実行するのが彼方という女だ。これが対話拒否でなくてなんだというのか。ただ、その対話拒否は対話という手段が持っている価値の軽視に因るものではなく、むしろ逆に、対話という手段の前提条件を過度に尊重したことに因るものと言えるのではないか、と私は思うのだ。

 

こと彼方において、対話とは何か? 彼方にとっての対話は、9割は交渉のことを意味している*1

こと彼方において、対話の前提条件とは何か? 彼方の対話は交渉なので、その前提条件とは、自分と相手がお互いに対して提供できる何らかのメリットを持っていることだ。

彼方はボス戦に挑むとき、ボスと対話を行ったりしない。「倒してもいいですか?」とボスに訊いたりしない。それは、ボスのことをくだらない存在だと思っているからでは全くなく――いや、それもあるか――くだらない存在だと思っているからだけ●●ではなく、彼方の側からボスに提供できるメリットが何も思いつかないからだ。

対話拒否と呼ばれる態度が浮かび上がってくるのは、相手がくだらない存在であるときではない。自分から相手に対して提供できるメリットがないときだ。こういうとき、アスペは対話を行わない。彼らはべつに対話を行いたくないのではない、単に対話という可能性を思いつかないのだ。こちらから提示できるメリットが何もないにもかかわらず対話に応じてくれる相手、というものは彼らの想像の範疇にはまったくない存在であるから。私にはわかる。私もたいがいアスペだから*2

 

私という人間は、その性格において空水彼方と少しだけ似ていることを認めるので*3、彼方の性格特徴についてかなりの確信をもって邪推を走らせることができる。しかし、私個人の確信はさておいて、客観的な分析で彼方の性格特徴を描写するのは――とくに、彼方が対話を拒否するのは相手に対してメリットを提供できないときである、と述べるのは――いささか難しい。それは、ゲーマゲ劇中で彼方が対話の可能性を思いつかないとき、思いつかない理由が彼方自身の言葉で語られることはありえないからである。

それでも辛うじてゲーマゲ劇中から彼方の性格特徴を分析しようとするなら、重要になる分析対象は、彼方がいままさに対話を立ち上げようとしている場面だろう。それは例えば、氷に覆われた大地の一隅にある廃研究所の一室で彼方がローチカ博士と相対したシーンなどだ。

 

描写によればその部屋は“薄暗くてだだっ広い”。また、声がよく反響することなども示唆されていて、どうも寒々しい印象を与える空間だ。部屋の真ん中にある鉄製のテーブルをはさんで彼方とローチカ博士は語り合う。

彼方はローチカ博士の話から情報を集め、『ローチカはどんなメリットを見込んで彼方を用意したのか』とか『彼方自身にとってのメリットとは何か』とか『彼方はどんなメリットを見込んでいると他人に見せるべきなのか』とか『メリットを提供できることによって誰がこの空間で優位となるのか』とか、そんなことばかり考えている。彼方は、この対話が彼方にとって善き交渉であるように、各々にとってメリットが違うということに自覚的だ。

一方のローチカ博士は、目的合理的とはあまり言えない、むしろ高度に価値合理的な判断を暗黙の前提にして彼方に語りかける。『人類の生活圏を取り戻すために戦ってほしい』ということ(前提:人類は永続すべきである)。『彼方が送ってきた人生を無意味にしないためにある情報を隠すつもりだ』ということ(前提:人間が送ってきた人生の尊厳は守られるべきである)。博士はどこまでも“倫理的な”研究者であって、人類にとっての善や人間にとっての善が実在するという大きすぎる前提をまるで疑っていない*4

当然、両者の会話は滑稽なくらいにすれ違っている。なんらかのメリットを起点にして交渉を開始できると踏んでいる彼方。損得勘定抜きに、彼方に対して純粋な厚意を与える用意があるローチカ博士。最終的に彼方は、最初から言いくるめる必要などない、普通に“いいひと”であるローチカ博士をなぜか不必要に言いくるめてしまう。まるで、対戦ゲーマーが生まれてはじめてTRPGをやって、交渉スキルを使う必要がないところで勝手にダイスを振り始めるときのようだ。私にはわかる。私もはじめてのときはそうだった。

熱いローチカ博士の言葉は彼方には届かず、冷たい壁に、床に、テーブルに反響して消えていく……。

 

彼方は、特定の前提条件のもとに生起する(一部の)対話に対して誠実であるがゆえに、あらゆる対話がそれだと誤認してしまう。前提条件が揃っていない瞬間には、対話が生起しうる可能性に気づきすらしない、だから対話を試みない……こうした私の見立てが仮に正しいとすれば、彼方の態度は、“対話拒否”と非難されるより先に“対話における視野狭窄”として喜ばれるべきだろう。

そう、喜ばれるべきなのだ! 会話をするとき、彼方は自分のなかでの目的をはっきりさせずにしゃべり始めたりはしないし、自明でない価値合理的判断を勝手に前提にしたりもしない。むしろ、彼方が何を欲しがっているかを(フェイクやブラフも交えるが)何らかの意味では相手に伝えようとする。仮に、彼方とわれわれがもし対話することがあれば、彼方がさしあたりわれわれにどうしてほしいのか、それはわれわれに可能なことなのか、といったことはたちどころにわかるだろう。そして、対話がひと段落ついた瞬間から、われわれは次なる対話までに達成すべきミッションが何なのかを迷わず、全力で取り組むことができるだろう。話していてこれほどやりやすい人はそういない。

また、もっとありえそうな仮定として、彼方がわれわれに与えるべきものが何もないとき、彼方はわれわれと一言も交わさないだろう。用がないから話しかけない、結局それが一番助かる、ということを私は否定できない。それはそれでやりやすい。

 

しかし、彼方の性格はある種理想的な人物像である、と言葉の上ではいくら表現してみたところで、みんなが彼方を気に入るようになるわけではない。実際のところ、彼方のような対話スタンスについていけないひととか、一方的に言いくるめられて本意でない行動をとらされてしまうひとというのは、社会の半分以上を占めている。ローチカ博士もその一人だったわけだ。

私は、ローチカ博士はふだん研究所のどこでどんな風に飯を食っているのだろうか、などとどうでもいい妄想を最近よくしている。ローチカ博士の唯一の同居人である桜井さんは、彼方に負けず劣らずアスペっぽい雰囲気をまとっているから、実はそこまで博士とは話が合わないだろう。だから博士は食事中も桜井さんとしゃべることはあまりなく……なんなら一人で食べているだろうか?

ひょっとすると、あの部屋の鉄製のテーブルに一人向かい、毎日同じレーションをかじっていたりするのかもしれない。その場所で熱のこもった対話が行われたことはいままでなく、これからも、ない。


※妄想です。

 

 

すめうじ:サイゼリヤの12番テーブル

交渉を仕掛けようとする者と純粋な厚意を与える用意がある者とが向かい合ったとき、その対話は、必ずしも悪い結果を生むというわけではないが、たいていはチグハグな雰囲気を漂わせる。例えば、ローチカ博士と向かい合った彼方がその冷静さと裏腹に、不必要に力んでエネルギーを空回りさせていたように。

対して、対話に臨む両者がいずれも交渉を旨としているときは、対話はその内的な論理においてはいくぶんスムーズに進行するものだ。具体例が必要なら、そう、椿と遊希が喧々諤々の議論を交わしていたあのシーンを思い出すのがいい。

 

白花が殺害予告と初襲撃をうけた翌朝、白花の家の近所のサイゼリヤのテーブルで重要な交渉が行われる。この交渉に臨む主要な役者は二人。アロスティチーニをほおばりながら、“管理局”なる公権力の立場を代表して席につく新人公務員・椿。ハンバーグにかぶりつきながら、“アンダーグラウンド”なる地下コミュニティの立場を代表して席につく女子小学生・遊希だ。彼女たちは、誰が白花を殺すべきか殺さざるべきか、誰に白花が殺されるのを看過するべきかせざるべきかなどについて、お互いが抱いている指針を探る。そして、場合によってはある特定の指針を採るように相手に対して迫る。所属組織の立場と自己自身の立場を混在させずに並べ立てながら。

われわれは対話の字面を一見したときに、論点ずらしや意見の対立などをそこに認め、この対話はうまくいっていないのだと早合点しそうになる。しかし、そんな対立はせいぜい表面上のものでしかない。実際のところ、この対話がいかにスムーズに行われていることか! 椿と遊希は対話を通して、互いの置かれた立場についてより理解を深めているのだ。だからこの対話は、両者が承服可能な結論へ向けて漸近している。

 

この二人が交渉の場を交渉の場として正しく認識し、スムーズに進行できている理由の一つは、交渉の内容がある程度までは単純なものに保たれていることにある。そして、この場での交渉がそのような単純な内容に終始できる理由は――すこし意外なことに、彼女たちが大人だからではなく、むしろ――彼女たちが二人ともまだ若いことに拠っているだろう。

若いというステータスは、その単純さにおいて、得難き価値である。椿は幸運にしてまだ新人の公務員であり、管理局の内外における人びとと複雑な利害関係を持っていないので、管理局のメリットをストレートに代理することができる(もしヴァルタルさんがこの交渉の場にいれば、管理局の立場だけでなく、管理局の上に位置する省庁の立場や、管理局と横並びの警察組織の立場、管理局と裏で癒着しているかもしれない一部アンダーなどの立場なども勘案したうえでの立ち回りを陰に陽に要求されていただろう)。椿も『管理局内も一枚岩ではない』などと言ってみせはするが、代理している組織が管理局というひとつの組織にとどまっている時点で椿の立場は単純なのだ。だから椿はわりと理想を語れるし、椿が交渉の場で追求すべきメリットも簡明になる。

遊希も立場はいくぶん単純だ。いくらアンダーグラウンド育ちの小学生が異常だとはいっても、遊希はまだ若いので、アンダーグラウンド全体に広範な影響力を持つ有力者というわけでは全くない(もしジュリエットがこの交渉の場にいれば、望むと望まざるとにかかわらずその一挙手一投足がアンダーグラウンド全体に影響を及ぼす、『著名な殺し屋』としての立ち回りをしてみせただろう)。だから、『アンダーグラウンドにも色々な立場がいる』と外野目線での解説を加えながら、交渉としては自身の周囲のメリットのみにフォーカスすることができる。

テーブルに座る二人が代理している利害関係が必要以上に複雑でないからこそ、交渉は交渉という体を崩さず、円滑に進行されているのだ。

 

そして、交渉の円滑な進行は、交渉にまつわる利害関係の単純さ――その単純さは交渉の参加者によって提供される――という内的な要因によって支えられるだけでなく、単純な交渉が単純なままに進行することを許す“場”がそこにある、という外的な要因によっても支えられている。

椿と遊希の交渉が行われた場、その具体的な状況を思い返そう。そこでは、椿はアロスティチーニをほおばり、遊希はハンバーグにかぶりつき、当然二人の間にはテーブルがありそして……あまりにも当然のことであるのですめうじ本文で描写されることはないのだが、テーブルの端には必ずメニューがささっているはずだ。メニューをいざ開けば、どの料理にも決まった値段が表示されているだろう。アロスティチーニ:364円。ハンバーグステーキ+ライス:501円。

そう、決まった値段がついていること、これが重要なのだ。決まった値段がついていることによって、交渉の場で付随的にやり取りされるメリット・デメリットの総量は無際限に膨れ上がることなく、有限で計量可能な範囲に収まる。

ふつう、同じ業界に属するもの同士の交渉とか、これからお得意さんになるかもしれない人に対して行われる交渉では、値段がつかない、あいまいな恩と恩返しの応酬が繰り返される傾向にある。そんな応酬が繰り返されがちな理由は、恩と恩返しを繰り返すなかでは“借りを完全に返す”といったことが難しいため、恩を売る側も受ける側も簡単には関係を切ることができなくなるからであろう。こちらから関係を切れない代わりに相手からも関係を切れなくする、といったかたちで、人びとが関係性を維持するために施した安全装置(あるいは関係性そのものが自己保存のために獲得した性質)がここには働いている。

しかし、異なるコミュニティに属するもの同士が、いつ関係が切れるかわからない緊張感のもとで行う最初の交渉においては、恩とか恩返しとかいったあいまいなやり取りは好ましくない。むしろ、異論なく値段が付くような明確なメリット・デメリットのやり取りが好ましい。“いつでも貸し借りをチャラにできる”という状況のほうこそ、ここではお互いにとっての安全装置になる。

それは、交渉に付随して食事をおごる、といった場合に関してもそうだ。件の交渉の場で椿は(白花からのトスに応じて)遊希に対して食事をおごっている。このとき遊希は椿に対して501円ぶんの借りができたことになる。ここで、『遊希はこんなささいなことで椿に借りを作ってしまっていいのか?』と心配する読者もいるだろうが、実は、借りを作ること自体はたいして問題ではない。重要なのは、この借りにきちんと値段がついているということだ。

なぜなら――これはべつに501円でも501,000円でもいいのだが――値段がつけられる時点で、借りというものは潜在的に返済可能であるからだ。返済が可能なのであれば、貸し借りなどというものは恐るるに足らない。もし借りがある相手との関係を解消する必要があれば、お金を用意して口座なりなんなりに振り込めばいいだけの話なので*5

 

椿と遊希の間で行われる件の交渉は、その内容の単純さによって、また交渉の場が持つ性質によって、内的な論理においてはスムーズな進行に成功している。彼方とローチカ博士とのやり取りとは大違いだ。

しかし、彼方とローチカ博士との間にはあったような不和がこの空間ではまったく生まれずにすんだのかというと、そうではない。そうした不和はテーブルの縁まで追いやられているだけだ。テーブルの縁からみれば、交渉が円滑に進行しているということ自体がひとつの異常である。すなわち、すっかり蚊帳の外にいる白花からすれば、椿と遊希との対話は依然としておかしなやり取りであるのだ。

 

対話が秘めた異常性はいまだ消え去っていない。椿と遊希は、“正常な”対話……レストランというフォーマルな空間で大人流の対話を行っているように見えて、実は、蜘蛛の巣というどこにでも仮設できる子ども部屋で若者流の対話を行っているに過ぎない。

子ども部屋でのおしゃべりは、終わるときはたいてい唐突な終わりを迎えることで知られている。唐突というのは例えば、値段のつかないオレンジジュースを盆にのせたお母さんが乱入してくるとか、値段のつかない発煙弾を盆にのせた銀髪のお姉さんが乱入してくるといった状況のことだ。

 

 

ゲーマゲ:特等客車のガラステーブル

思えば、彼方とVAISの対話に乱入してきたのも、値段のつかないお手紙を携えた銀髪のお姉さんであった。

 

ゲーマゲの中盤、真の敗北――それは敗北の顔をしてすらいない――を目の前にして自分を見失ったとき、彼方は次元鉄道の客車に乗り込み、ガラステーブルをはさんでVAISと対話を行う。

次元鉄道はVAISが自身のこだわりを詰め込んで作った鉄道であり、その客車内はさながら大人の秘密基地とでもいうべき空間だ。あるいは単純に、子どもの子ども部屋?

ともかく、その空間のいたるところにはVAISが愛するものたちが配置されており、ガラステーブルにも当然、VAISが愛してやまないものであるゲームにまつわる品が収納されている。すなわち、ガラスの天板の下に、いくつものゲーム盤が置かれている。

ゲーム盤を見下ろすというのは傲慢な体験だ。われわれに、ゲームをゲームたらしめる枠線を天上から眺め渡すことが許されるとでもいうのか? われわれに、ゲームの駒でなくゲームのプレイヤーとしてふるまうことが許されるというのか? われわれがとるべき立場がなんであるにせよ、彼方とVAISはわれわれとは違う。彼女たちはプレイヤーであることが許されると信じて疑わない。だからこそ努めてプレイヤーであり続けようとし、敵にもプレイヤーであり続けることを求めようとした。しかし、敵をどうやってプレイヤーであり続けるように仕向けるのか、その手段を見つけられず、彼方は苦しむことになる。そこに彼方の姉・此岸が乱入する。

 

此岸の登場は、VAISにとっては予想外の出来事ではなかっただろうが、彼方の物語のなかでは正しく“乱入”と呼ばれるべき事件であった。なぜなら、此岸が携えてきたお手紙というのが、まさしく彼方の想像力の範疇において思いもよらないものであったからだ。では、彼方には思いもよらないものとは一体なんであったか? それは純粋な厚意だ。

此岸は、彼方の悩みを解決する手段として、自身の能力でゲームへの召集令状を発行することを彼方にオファーする(オファーする以前からすでに発行しているが)。召集令状が発行されれば、理論上はあらゆる人間が彼方と戦うプレイヤーになってくれるはずであり、彼方には大きなメリットがある。一方、召集令状を発行した此岸本人には、少なくとも直接的なメリットは何もない。言い換えれば、召集令状を発行してくれる此岸に対して、彼方から提供できるメリットは何もない。

こちら側から提供できるメリットが何もないにもかかわらず、対話らしきものに応じてくれる相手というのは、彼方の世界観には存在しないはずの他者だったはずだ。だから彼方はいぶかしみ、アスペっぽい当惑を口にする。“何故そこまで姉さんが私に協力的なのかがわからない”とかなんとか。この当惑に対して此岸は『見返りを伴わない純粋な厚意を送るのはただ彼方が自分の妹であるからであるし、妹でありさえすれば十分だ』といったような答えを返す。

そして、彼方はこの答えにさしあたり満足して自分を取り戻していくわけなのだが……この答えに満足してしまうあたりが、彼方の、なおいっそうアスペっぽいところだ! 彼方は、通常の人間関係において、無私の厚意といったものが存在するという可能性をほとんど考慮していないし、考慮できないのだが、姉妹などの超特殊な人間関係においては、無私の厚意といったものが存在するとしても『まあ姉妹ならそういうこともあるか』とすぐさま満足してしまうくらいには想定が振り切れている。彼方のまえに現れる世界では、彼方に対する厚意をちょっとだけ持てるひとからかなり持てるひとまでグラデーションが存在するのではなく●●●●、彼方への厚意が0%の多数の他者と厚意が100%の少数の身内の間で厳然たるギャップが存在するのだ*6

極端な2種の集合として人間関係を想定するであろう彼方の考え方を、異常な思考だ、と断罪するのはたやすいことだ。しかしながら、状況を一歩引いてみたとき、その考え方は異常であると本当に言えるのだろうか? 廃研究所やサイゼリヤの場合と違い、いまこの場でテーブルを囲む3人の中には、その考え方にあらためて異を唱える人はいない。違和感を覚える人すら。何よりここは、どこの世界にも属さない時空の狭間に浮かぶ客車の中であるのだから、あらゆる価値観は停止しているべきだろう。ならば、彼方の実感を越えてまで『そんな考え方はありえない、異常だ』とストップをかけるような常識だってここにはない。そこに実感が伴う限り、彼方の考え方には一定の正当性がある。

 

だから悩んだり交渉したり厚意を送ったりするのはこれでおしまい。ゲーム盤だっていまは出さなくていい。代わりにビールとおつまみとオレンジジュースを並べて、ささやかな飲み会の準備をしよう(アルコールとソフトドリンク、両方を用意しておくのは、純粋な厚意を知る大人とあまり知らない若者、どちらも楽しめる場にするためだ)。この時間がいつまで続くのか、そもそもこの客車に通常の時間が流れているのかすら定かではないが、それでもしばらくは対話のことなんか忘れて飲み会を楽しめるだろう。

 


すめうじ:旧カテドラルのレイジィスーザン

世界と世界の間の狭間へと! 世界を越えた世界を越えた世界へと! ひたすらに外側へと走り出していく空水彼方という女の前では、あらゆる価値観は停止する。信仰その他が持っていた権力が失効したあとのニヒリズムの戦場、そここそが彼女の生きる場所だ。

しかしながら、至極当然なことに、誰もが彼方のように生きているわけではない。もっとより多くの人びとは、信仰というものが一度は力を失ったあとの世界でも、信仰がかつて持っていたような大きな力を回復させるわけでもなく、かといって完全に信仰を捨ててしまうでもなく、中途半端にその残滓を利用しながらその後の生活を続けていく。それはまるで、一度は打ち棄てられた教会が完全に解体されてしまうでもなく、職場兼住居として利用され続けるように。

かつての権力が中途半端に利用され続けるそこは、“聖”でも“遊”でもない“俗”の世界だ。より正確にいうなら、世界ではなく、世間だ。俗世間と呼ばれるべきそこでは、特定の宗教に帰依したつもりもなければ、ゲーマーの矜持に身をささげたつもりもないたくさんの大人と子どもが、互いに区別されない複数のルールの混淆のなかで今日も対話を続けている。

 

黒華が主催した白花の“葬式”も、そんな対話の一場面だった。

黒華は、かねてより廃村の教会を改装して作りかけていた自身のアジトに、6人の客人を招いて“葬式”を執り行う。招かれた6人は、白花を“殺した”ジュリエットから、白花を守ろうとした遊希に紫、BGMの演奏を依頼されたサミーとレイスに、“殺された”当の本人である白花に至る、なんとも雑多な組み合わせ。“葬式”の主目的は、黒華とジュリエットの間で殺害証拠品を取引するという、完全にビジネスの側に属する手続きにあるが、それに付随するビジネス的でない段取りがこの儀式には無数に存在する。アンダーグラウンド流の世間話に花を咲かせるというのもそうだし、背景にはムーディーな音楽が流れているというのもそうだし、なにより、この席にはたくさんの料理が並んでいる。

そう、この席は食事会でもあるのだ。参加者たちは、取引に興じるより情報交換をするより音楽を聴くよりまず先に、テーブルに並んだ料理を楽しむことになる。シチューやらテリーヌやらスモークサーモンやら。そこで主役を演じているのは(悪い意味で)値段のつかない家庭料理の群れだ。

 

この“葬式”にて供される料理が値段のつかないシロモノであるのは、黒華が専門の料理人でないジュスティーヌに料理を依頼したからなのだが。もしも黒華のこの選択にあえて意図を読み取るとするなら、そこにあるのは、皆さん今後とも長いおつきあいをというメッセージだ。

サイゼリヤで出てくる値段の付いた食事が、いつでも切れる関係を担保するように、どうも適切な値段がつけづらい食事というのは、簡単には切れない関係を演出しうる。黒華が依頼してジュスティーヌに作ってもらった料理は、『これがプロの仕事か?』という疑念を抱かせるその中途半端なクオリティによって、逆に『代価を期待しない親身な心遣いの産物かもしれない』という可能性をはらむ。こういった食事を出されて受け取るひとは、それを返済可能な貸し借りであるとも返済不可能な恩であるとも断定できず、最終的には、その食事を出してきた相手とずるずる付き合いを続けざるを得なくなる。これこそが、完全にドライなビジネスパートナーでもなく、かといって無私の厚意を確信できる身内でもない、どっちつかずの関係を結んだり結ばなかったりする俗世間のやり取りなのだ。今日も俗世間では、恩と恩返しの連鎖がぐるぐると回り続ける……さながら中華テーブルのように。

 

そういったグダグダな関係・ふわふわなやり取りというものが好まれるかどうかは、まあ人と状況によるところではある。ここでいう“葬式”のような場面を好む人もいれば、好まない人もいるだろう。

しかし、ビジネスライクな交渉の場にも、無私の厚意が披露される場にもなじめなかった白花という人物にとっては*7、この関係・この対話こそが心地よい居場所だったのかもしれない。すめうじの展開としては、白花の白花としての人生はその後まもなく終わりを告げるので(一般に、殺された人物は人生を終えることが多いとされている)、実際この関係・この対話が白花の居場所たり得たのかどうかは不明ではあるのだが、希望は持っておくに越したことはない。

 


にはりが:櫻家の食卓

一方、一度は他者に“殺され”はしたがどういうわけかまだ死んでいないので、いまだこの世界に居場所を探している乙女が白花だとするのなら、他方、この世界に自分のいるべき場所はないと確信して死んだが、どういうわけか他者を殺さざるを得なくなった乙女たちがにはりがの主人公たちであり――意味ありげに書き出してはみたものの、私はこの対照関係になんの意味も見いだせない――そんな彼女たちが目指すハッピーエンドは、たいていのところ、ここではないどこかに自分の居場所を作ることを意味している。

にはりがの主人公たちが面白いのはこの点だ。上述したようなハッピーエンドを目指していることによって、彼女たちの対人関係における行動基準はかなりの振れ幅を持つ。彼女たちは、一方では、そもそも“ここではないどこか”を目指しているということによって、いま・ここにある人間関係はすべて壊しても構わないという破壊的な選択肢を持てる。他方では、“自分の居場所”を作りたがっているということによって、いま・ここにある人間関係を異世界にも持ち込める限り温存したいという保守的な選択肢を持てる。こういった振れ幅の広さは彼方や白花にはなかったものだ。

彼方がゲーマゲ劇中で何を目指していたかといえば、それは第一には勝敗を決することであった。だから彼方にとって、いま・ここにおいて他者との間に結んでいる人間関係(まだ勝敗が決まっていない関係!)は近い将来において必ず棄却されなければならない。彼方は破壊的な選択肢しか持てない。

白花がすめうじ劇中でちょっと惹かれていたアンダーグラウンド流の人間関係がどんな関係かといえば、それは一面を切り取ってみれば、恩義に縛られて簡単には切れない関係であった。だから、首尾よくアンダーグラウンドになじむことができた未来の白花にとって、アンダーグラウンドにおける人間関係はその多くが切っても切れないものになる。未来の白花は保守的な選択肢しか持てない(それは白花自身の意思や技巧に関係なくそうなる)。

 

だからゲーマゲやすめうじよりにはりがのほうが面白いのだ、というつもりは私にはない……断じてないが、にはりがにはゲーマゲやすめうじですでに演じられたような喜劇を発展的に再演しているような側面があるようだ、というのも私の素直な感想ではある。

例えば、あの愛すべき“合理主義者”・涼くんが、あちらこちらに取引を持ち掛けては、思い通りにならなかったりならなかったりならなかったりするところ。そこでは、必ずしもメリット・デメリットのために動くわけではない多種多様な人間たちに対して、あくまで表層的なメリット・デメリットのやり取りを押し通そうとする人物の滑稽さが描かれている。そしてこの滑稽さこそは、彼方とローチカ博士の対話においてはローチカ博士の側に押し付けられていた役回りが、今度は“合理主義者”の側に跳ね返って来たものなのだ。どうせ再演するなら道化役は交代したほうがより面白いだろう?*8

 

そんな、ゲーマゲのなりそこないである涼くんのことを完全に子ども扱いして微笑するのが撫子であり、姫裏である。が、撫子や姫裏が単純な意味で大人らしい対話・大人らしい関係構築を行っているのかというと――すめうじにおけるアンダーグラウンド流のやり取りをしているのかというと――けしてそんなことはなく、彼女たちはむしろ、ゲーマゲ的にもすめうじ的にもなれる緊張状態のなかで関係を遷移させ続けている。繰り返すが、にはりがの魅力は単にゲーマゲ的やすめうじ的であるのではなく、その両者を発展して演じているところにあるのだ。

撫子と姫裏(あとついでに切華)の対話は、まずは契約から始まる。その契約の内容は『撫子・切華と姫裏は、いま・ここでは互いに攻撃をできなくなることに同意する』というものであり、またその契約の履行は姫裏の特殊能力によって確実に保証される。この契約こそが、これから始まる対話の場で行使されうる手段を絞り込み、かつ、姫裏が相手に提供できるメリットが何なのかを開示するという二重の意味において、撫子と姫裏の対話をビジネスライクな交渉に仕立て上げる重要な一手だ。

しかしながら、撫子の選択に注目したとき、対話は件の契約によってビジネスライクな性質を強めているばかりではなく、より親密な間柄でのおしゃべりとしての性質をも強めている。というのは、姫裏から『姫裏の特殊能力の内容を確認するためにも、これこれこういう契約を交わしましょう』というまるで信頼に足らない提案を受けた撫子が、ほいほいとその提案に乗って契約を結んでしまっているからだ。この撫子の判断は、姫裏が能力を開示する以前から姫裏のことをある意味信用していなければできない判断(さもなくば不用意で無防備な判断)であり、撫子が、場合によっては姫裏に対して見返りを伴わない厚意を与える可能性もあることを示唆している*9*10

合理的な交渉の場としても、もっと親密に無根拠に相手の厚意を期待する場としても、あなたとの対話を始める用意がこちらにはある……そんな余裕をアピールするように、撫子は家族の食卓に姫裏を誘う。食卓に並んでいるのは撫子特製のカレーだ。そのカレーは、ジュスティーヌの手料理が『仕事で作ってる割に素人臭い味』なのとは真逆で、『家庭料理らしい節約志向のくせに洗練された味』をした奇妙な一品であるために、ビジネスの場としても家族の憩いの場としてもその場を演出できる。

撫子が両義的に演出したこの場・この食卓に姫裏が座るということは、撫子が提供するような両義性を姫裏も受け入れて演じるということだ。その選択がどの程度姫裏の好みに合ったものだったかは定かではないが、ともかく姫裏は誘いに応じて、セールスマンであると同時に櫻家の客人でもあるという二重の立場を演じる。姫裏は客人でもあるので、対話にあっては自身が提供できるメリットを話すばかりではなく、セールスにはさほど関係のない自身の弱みについてもポロリとこぼす。例えば両親を早くに亡くしていることであるとか……(本当のところ姫裏がどう思っているかはともかく、一般論としてはその経歴は弱みと捉えられがちである)。

単にビジネスであることを越え、よりプライベートな話題も登場しうる彼女たちの対話は、当然、カレーを食べ終わって食後のコーヒーが出てきてもまだ続く。姫裏は話が本題に近づくと、発言の途中でおもむろにコーヒーを飲んで対話のテンポを整える、おそらくは意図的に。すると撫子は、そのコーヒーを飲む動作が意図的なテクニックであることをあけすけに指摘してしまう。姫裏もこれがテクニックであることを即座に認める*11

このように、テクニックがテクニックであることを暴露してその場の公然な認識にしてしまうという行為は、なんというか……見ていて、非常にほほえましい。以下に述べるのは私の個人的経験にだけもとづく邪推だ。きっと、対話のテクニックをテクニックとして理解したいと考えたことがある多くのひとは『テクニックがテクニックであることを暴露するという一段階メタなテクニックがあり、このメタなテクニックによってひとはより大きなイニシアチブを握れるのではないか』と妄想したことがあるだろう。しかしこのメタなテクニック、よくよく考えてみれば、対話中に本題から脱線することを前提としているので、関係が薄い人との対話で用いようとしてもあまりいい印象を与えないというか、そんなに実践的ではない。むしろ、お互いの論調をよく知っている間柄のひととの対話でのみ使える、不必要な魅せプレイである……くらいの認識を持っているひとも多いだろう。だから、テクニックがテクニックであると暴露される一連の流れは、撫子や姫裏の話術の巧みさを表現するよりまず先に、撫子と姫裏はお互いに魅せプレイを披露できるくらいの関係であった、ということを表現しているのだ。その関係は、幸運によって結ばれた友人関係と表現しても、おそらく差し支えない。

 

さまざまなテクニックの応酬や噓偽りのない友情がみられたこの楽しい対話だが、終わりの時というのはやってくる。コーヒーを飲み終わり、セールスも不首尾に終わってしまえば、姫裏が櫻家にとどまっていられる理由はない。最後に姫裏は、それまでは両義的だったこの場のルールを、家族と客人との親密なやり取りの側からビジネスライクな交渉の側へと完全に倒すことを選ぶ。

姫裏は、手製のカレーをふるまってもらった“恩”をこの場できっちりと返済したい旨を告げる。ここで彼女が“恩”と呼んでいるのは、私がこれまで『完全な返済は不可能である』という意味で述べてきた恩と恩返しのことではなく、逆に『完全に返済できる可能性が常にある』という意味で述べてきた貸し借りのことだ。だから姫裏は、『あなたがたにカレーをふるまってもらったことは返済可能な貸し借りの一端であるし、ここで生まれた関係はここでチャラにすることができる』と櫻家に対して告げているのだ。

これは場合によっては非常に無礼なふるまいにあたるのだが、結局のところ、姫裏はそのふるまいを選ぶしかなかったし、撫子もこのふるまいを受け入れるしかなかった。なぜなら、姫裏が、あいまいさのない完全な貸し借りの関係からしか活力を得られない人種であることは、他ならぬ撫子の言葉によって確定してしまったのだから。曰く、“どうして随分歪んでいるのね”。

姫裏は自身の特殊能力をもう一度使って借りを返し、櫻家から去る。家から去るときは上がりこむときと違い、家人からの誘いを確認して敷居をまたぐ、という手続きは行われない。あとにはカーテンがはためくだけ。

 


うるユニ:麗華の家(?)のダイニングテーブル

うるユニの序盤、主人公の麗華は、何割かの必然と残り何割かの偶然によって、7年来会って話したかった相手である芽愛と再会し、その日のうちに夕飯に招くことになる。芽愛はその招きを受けて麗華の住んでいる家を訪れ、リビングで麗華の手料理を前にする。はたしてその料理は、芽愛が感じる限り“食欲をそそる匂い”だが“何とも微妙にまとまりがない”ものだった。

それもそのはず、そのテーブルにはそこにいる2人(+1人)では食べきれないほどの量の皿が出ているうえ、料理の品目は、ジャンルでいえば和食・洋食・中華のすべてが、カテゴリでいえば主食・主菜・副菜その他もろもろが、種々雑多に並んでいて統一感がない。そこに並んでいたのは、1人暮らしの女子高生の生活には馴染まない、コンセプト不明の料理の群れだったのだ。

その料理の群れがコンセプト不明のシロモノになるのも無理からぬことではあった。麗華は、芽愛と2人でテーブルを囲んでじっくりともてなすためにこの料理の群れを作ったのではなかったのだから。これらは近所の子供たちやその他の住人とともに楽しめるように作り置きしていたものであり、近所の子供たちが楽しめることを第一に調整されたメニューであったのだから、急遽この家を訪問することになった芽愛とともにこの料理の群れを囲んでも、場にチグハグな印象を残してしまうことは仕方がない。そして、こんな場違いな料理の群れなんかとは違う、麗華にとっての本命――真実、芽愛と2人きりでいただくために作ったデザート――は別にきちんと用意してあったわけなのだが、それをテーブルに乗せる前に麗華は重大なミスを犯す。

 

ミスの内容は単純で、単に麗華が芽愛に言うべきことを言わなかった、というそれだけのことだ。

これはうるユニという物語の核心も核心なのだが、作中で麗華が取り組むべき課題はすべて、『私はあなたのことが好きだがあなたは私のことを好き(になってくれる)か?』と一言たずねるだけで解決する。しかし、ただ一言たずねる、それだけのことを実行するまでに麗華はミスを犯すし、さらにそのミスから生まれた状況をおかしな方向に転がしていく。そうこうするうち、目先の課題が対話では決着がつかないものになりはじめ、バトルが避けられなくなってくる。バトル満載の青春物語が加速していく。

 

無責任な読者から言わせてもらうなら、麗華が課題を解決するために本当に必要なものはバトルではなく対話……いや、対話ですらなく、たった一言の適切な発言だ。麗華には彼方のように、対話に先立って前提を明確にして交渉の場を整える、なんて必要はないし、黒華のように、相手が容易には関係を切れないように対話の場でほんのささいな恩を売っておく、といった必要もない。マジでない。小手先の細工などなしにただ言うべきことを言えばそれで課題は解決だ。

それでも、その一言を言う前にミスを犯すのが麗華というひとだ。思うに、彼女は対話や発言が下手なのではなく、むしろ余計なテクニックを覚えすぎているのだ。彼女は対話や発言を有利に進めるためのテクニックをたくさん知っているから(そしてそれらのテクニックを習得してきた7年間に誇りを持っているから)、テクニックが必要ない場面であっても、少しでも不安があればテクニックを弄してしまう。だからクリティカルな一言を芽愛に伝える前に余計な“ゲーム”やらなにやらを始めてしまうし、芽愛のために作ったデザートを出す前にコンセプト不明の料理の群れを出してしまう。それら“ゲーム”や料理の群れが、どういう理由でテクニックたりうるのかを自慢げに解説しながら!

 

肝心なときに余計なテクニックを披露してはミスを犯す麗華の、いかに滑稽なことか。ただ、その滑稽さというのは、われわれのうち誰もが胸に覚えがある痛々しい記憶としての滑稽さだ。若い頃は誰しもこういうミスを犯すものだし、年をとってもやはり、こういうミスを犯してしまうときはある。べつに犯す頻度が減っているわけでもない気がする。増えている気がしないでもない。結局は若さの問題でもないのか? われわれはどうすればいい? 私は? どうすればいい?

 

もちろん、つぶしのきく答えはここにはない。仮に麗華がうるユニの終盤でミスを取り返すためのソリューションをつかんだとして、うるユニを読む私に直接的で具体的なソリューションが与えられるわけではない。別のテーブルで起こっている課題は、私の目の前のテーブルで起こっている課題と多少似ていて参考になったとしても、やはり別の課題なのだから。

 

今日もたくさんのテーブルの上にたくさんの課題やたくさんの料理が山積みになっている。それぞれのテーブルをそれぞれ別の人びとが囲んでいて、対話を行ったり行わなかったりしながら目の前の課題や料理に向き合っている。私はそんな複数のテーブルを横目に見ながら、今日も自分のテーブルで、自分の課題や自分の料理をやっつけようと努力している。あなたもそうであるように。

 

 

*1:9割といったのは盛りで本当は6割くらい[要出典]。彼方がする残り4割の対話には𠮟責とか睦言とか質疑応答とかが含まれているが、これらの対話をしてるときの彼方はあまり巧くないので今回は深く立ち入らない。

*2:ここで“アスペ”というラベルを実在・非実在の人びとに貼りつけることは三重の意味でインコレクトであり、私にはその免罪を願う気もないのだが、このラベルを使うことがいったいどのような意味でインコレクトだと私は思っているのか、ここに書いておく必要があるだろう。それがインコレクトである理由は、第一に、ネガティブな意味でこのラベリングを行うことで、アスペルガー症候群などの名前で名指される実在の障害を抱える人びとに対する疎外・差別を助長しうるからである。第二に、十分な知識と一貫した判断基準なく実在の障害(を想起させる)ラベルを使うことで、医学的に誤った判断が行われてしまうからである。第三に、(とくに精神医学系の)障害という概念は、障害を抱える人々やその周りの人びとが日々対処している困難が少しでも合理化されて楽なものになるように利用されてきた概念であり、とくだんの困難にさらされていない人びとが実在の障害(を想起させる)ラベルを使うことは、“障害”概念の本来の効用を阻害してしまう可能性が高いからである。

*3:スペックにおいてはまったく似ていない、残念なことに。

*4:博士の名誉のために付言しておくと、博士も、人間のなかにはもっと具体的なメリットに基づいて動くひともいる、ということをまったく想定していないわけではない。ただ、想定したところで出てくるのが「(あなたにとってのメリットは)金か? 飯か?」という言葉であるくらいなので、どうも想像力が足りていない。

*5:貸し借りを行う主体にとっての返済可能性の有無を別にしても、値段が付く貸し借りというのが値段がつかない恩義に比べて優れているであろうポイントは他にある。それは例えば、メリット・デメリットを享受する主体を適切な人物まで適宜交代できるという点だ。件の交渉の場で、椿は遊希に対して食事をおごっているお金が管理局の経費で落ちるであろうことを示唆していた。このように、遊希に食事をおごるという行為のコストを支払う主体を椿という個人から管理局という法人へと交代しているのは、まずまず妥当な判断だろう。なぜなら、椿個人にとっては遊希に対して食事をおごる動機がいまいち薄弱であるために、椿個人が遊希に食事をおごってしまうと、それは貸し借りというよりかは一方的に恩を売る行為に近くなってしまうからである。遊希(あるいはその代理人)からの返済を受けるであろう人物が、椿という個人から管理局という法人へと再設定されることではじめて、この貸し借りが何らかのメリット・デメリットを企図して行われたものであると理解しやすくなるのだ。

*6:彼方のような、人間関係と厚意の多寡に関する想定が簡単に振り切れるキャラクターとして、他にすめうじの黒華やにはりがの穏乃などが存在している。彼女たちの存在は、ある意味でLW作品の一貫した作風を形作っているように私には感じられる。

*7:それは白花が無私の厚意を持てないからではなく、厚意の有無などに関係なくおのずから無私であったからであるのだが。

*8:これはまるで余談だが、涼くんというキャラクターがにはりがの劇中で担っている面白さは、『アベンジャーズ』(2012)のなかでロキが担っている面白さに少し似ている。涼くんが劇中でしている行動、ひとつひとつをとってみれば、どれも策謀家キャラの行動としてまあまあ妥当と言えるぐらいには頭いいのだが、涼くん以外の登場人物が強キャラすぎて相対的にめちゃめちゃ小物に見えてくる。そんじょそこらの策謀家は、魔境にあっては道化にならざるを得ない。

*9:ただ、もう少し細かいことを言えば、撫子の判断もフツーに世間一般のビジネスライクな交渉の域を出ていない、という見方はできる。なぜなら、『仮にどれほどビジネスライクで合理的な交渉を志向したとしても、その交渉を開始する瞬間だけは相手に根拠なき信頼を寄せなければならない』という説は一般論として提示可能であり、その説に従えば撫子の判断も、交渉の場を交渉の場として成立させるために必要最低限のコストを払ったに過ぎない、と理解できるからだ。

*10:これは本筋にあまり関係ない話なので註にまわすが、姫裏のまるで信頼に足らない提案に撫子が乗ることは、客観的に見ればかなり不用意で無防備な行動だが、おそらく撫子の主観から見ればそこまで不用意で無防備なものではないのだろう。というのも、撫子には『ひとがついた噓を見抜ける』という特殊能力があるので。撫子の能力をもってすれば、姫裏の提案はわりと額面通りの提案であり、裏に陰謀などがあるわけではない、ということを確証できる。姫裏の言葉を信用して提案を受けてしまってもそう大きな危険はない。

*11:実はあのジュリエットも、発言の途中で飲食を挟むというテクニックを使ったことがある。が、その行為を間近に見た白花は、それがテクニックであるとあえて指摘するほど粋でも野暮でもなかった。

Once Again from Underdogs’ SNS

そこは、平穏な日常が続くどこかの世界。

 

単身者向けのマンションの一室で、黒髪の女性が遅めの朝食を食べ終わり、パソコンの電源を入れる。起動が完了すると、Discordが自動で立ち上がり、いつものサーバーに接続する。

サーバーのメインのボイスチャットには、すでに6人が入室している。女性も、パソコンの横に据え付けられたマイクの角度を整え、チャットに参加する。

 

「おはよう。……すまない、遅くなって」

 

そのサーバーは、Vtuberグループ『Celestiaセレスティア』を演じる7人が活動用に使っているサーバーだった。いま接続した女性を含めた7人はみな、Celestiaのメンバーの誰かを担当する演者である。

しかし、それも今日までのことだ。昨日公開された動画のなかで、ツバメが自らの命と引き換えに空水彼方を倒したことでCelestiaは全滅、ということになった。最後までゲームの中に生きたCelestiaの7人は事実上の引退となり、7人を演じた演者たちもまた、今日、内々にボイスチャットで別れの言葉を言い合い、あとは解散する、ということになっていた。

 

誰かがためらいがちに口火を切る。

 

「じゃあ、みんな揃ったことだし、お別れの言葉でも……みんな、いままで本当にありがとう」

「私も、みんなに感謝したい! ありがとう!」

「……一番みなさんに感謝しないといけないのは、私です。……みなさんに、助けられてばかりで……」

「なによ、助け合ってきたのはお互い様じゃない。水臭いこと言わないでよ」

「感謝の言葉は言い尽くせません。しかし、悔いを残さずやってきたことはお互い確認の上です」

「そう、悔いを残さずやって、有終の美を飾ることが私たちには大事だったから。もう、言い残したことがある人はいないかな」

 

なにとはなく訪れた数秒の沈黙の後、誰かが答える。

 

「ひとつ、いい? 言い残したというか、気になっていること」

「なに?」

「私は、ずっと考えていた。なぜあの日、ニースたちのところに虹色の便箋が届いたのかって。なぜあの日以前には届かなくて、あの日に届いたのかって」

「どういうこと? 虹色の便箋が届いたのにはなにか理由があるってこと?」

「理由というか、あの便箋……世界便セグメントが届くのには条件がある、らしい。その条件っていうのが、読んだ人が、送り主が書いた意図通りにその文面を解釈する、っていうこと。でもニースたちは当初は、世界便セグメントが届くための条件を満たしているのか否か、微妙だった。なぜなら――」

「彼女たちには自分がフィクションであるという認識があったから」

「そう。その認識は『自分たちの現実は唯一の取り換え不可能な現実であるから失いたくない』と考えるか否か……つまり死生観とも関わっていて。でも、あの日」

「彼女たちのところには世界便セグメントが届いた」

「届いた、ということは……彼女たちの認識、死生観には、あの頃変化があったんじゃないか、という推測を私はしている。可能性レベルの話だけど」

「……死生観の変化。……それはつまり、彼女たちはあの日、自分たちの現実を失いたくないと願っていた……ということでしょうか?」

「そう、ニースたちは……私たちの大切な相棒たちは、死にたくないと、彼女たちの人生を続けたいと、知らず知らず思い始めていたんじゃないか」

「だとしたら――」

「ねえ、みんな。Vtuberとしてまだやりたいこと、続けたいことがある人もこの中にいるんじゃないかな。そんなこと言うのは、一度終えた人生のくせして、恥ずかしいことではあるけれど……」

 

核心を突かれたような気がして、みな一様に押し黙る。

やがて、また誰かがしゃべり始める。

 

「……転生しよう」

「え?」

「別のVtuberとして転生しよう。もちろん、やりたい人だけで。もし望めるなら、またこの7人がいいけど……」

 

くすくすと笑い声が聞こえはじめる。あはは、というよりはっきりした笑い声が遅れて重なってくる。笑い声は次第に重なっていき、最後には7人全員の笑い声がボイスチャットにのっていた。

 

「そうだね、転生しよう」

「私も転生しますわ」

「……転生しましょう」

「あら、7人とも?」

「そうだね!」

「また新しいユニットとして、再出発だ」

「ユニットか。そしたら何か新しい名前を……ちょっと待って……うん。新しい、新しいユニット名は、新天地への希望を込めて『Arcadiaアルカディア』というのはどうだろう?」

 

遠からず、もとCelestiaだったどこかの誰かはArcadiaとして転生し、新たな人生を歩むことになる。

そこは、死の概念が微妙にバグっているどこかの世界。ひとは死んでも、転生してまたどこかで戦いを続けたり、続けなかったりする。

だから、またある異世界の言葉を借りるなら、こういうことだ。

 

さあ、コンティニュー!

なおも戦線に異常者あり

前回:私がやるアイ・シュート

 

1

天上界セレスティアルワールドの一隅に作られた7つの半独立空間チャンネルも、そのうちの6つは昨日までにその主を失った。いまも主を失っていないのは、もっとも小規模でもっとも殺風景な空間である、ニースの半独立空間だけだ。

そこには、7日前、“新人”空水彼方がゲリラ配信を開始したあのときと変わらず、雲一つない青空と白茶けた砂地が広がっている。真っ平らな地面のうえで目立ったものと言えば、配信用モノリスが一組置かれているくらいだ。いま、ニースはそのモノリスの机面に便箋の束を広げて、愛用の羽ペンで黙々と書きものをしている。

この便箋の束、奇妙なことに、一枚々々がそれ自体虹色に発光している。いや、もはやその特徴を奇妙とは言えないか。なんのことはなく、その便箋はニースが一昨日会ったときに空水此岸から分けてもらった世界便セグメントなのだった。

 

ニースがペンを走らせている背後で、やにわに一陣の風が吹き、うるふ老師が現れる。転移魔法でこの半独立空間を訪れたのだ。ニースはこの来客を気にも留めずに、目の前の便箋に集中し続ける。うるふ老師は、無言のまま、ニースの頭の横からニースが書いている文面を覗き込む。大味にセットされている老師の髪が1、2本ニースの頬をくすぐり、彼女を少し不安な気分にさせる。3分ほどもそのままの体勢で文章を書き続けたあと、ニースはようやくペンを置いて、老師に話しかけた。

 

「どう思いますか」

「どう、って?」

「この、私の文章です。よい文章だといえるでしょうか」

「それは、目的にかなった文章かどうかってえことかね? そりゃまあ、君がどういう意図でその文章を書いているのかによるだろうけども」

「老師は、どういう意図を感じますか」

「そりゃあ全文を読んでみんことにゃあわからんわね」

「そうですか」

 

ニースはそれだけ言って、またペンを手に取ろうとする。彼女は早いうちに目の前の文章を完成させたいのだ。一方のうるふ老師は、ニースに構ってほしくてしょうがないようで、ニースの手の先から羽ペンをかすめ取ると、くるくると指先でもてあそびながらニースに尋ねる。

 

「ねえねえニースちゃん、この私、うるふ老師に何か言いたいことない?」

 

ニースは真顔のまま首をひねり、数秒ののち言う。

 

「……今日は何しに来たんですか?」

「なんだ君冷たいな。そういうのじゃなくてさ、『この前老師が爆速であげてくださった脚本、すごい面白かったです』とか、『筆は早かったですけど相応につまんなかったです』とか、感想が聞きたいんよな、正直に言うとさ」

「なるほど、それは思い至りませんでした」

「で、どうだったの? あの脚本。引退企画のやつ」

「老師の書いた脚本は、なんというか、とても……しっくりきました。私はまだ空水彼方と出会って間もないですけど、老師の脚本を読んでいると、そこに出てくる“空水彼方”はかなり彼女らしい彼女に思えました。ただひとつ、最終回でツバメに負けそうになって第2形態に変身するあたりとかはちょっと違和感ありましたけど、あれはそもそも――」

「君が『そうしてくれ』って言ったから加えた展開なんよね。うーんまーでもー、違和感を感じさせてしまったならそれは書き手の私の落ち度はあるな、今後の反省やね」

「ともかく、総じて納得感のある脚本でした。老師がきっちり脚本をあげてくださったおかげで、肝心の映像もちゃんと完成して、今日19時の最終回もすでに公開予約されています。公開されたら、出来を確認してくださると嬉しいですけど」

「うん、観るみる。ちょっと今日じゃないかもしれないけど、近いうち必ず観るわ」

「……なんか、老師は軽いですね」

「私の、ヘンに遠慮しすぎたりしないところ、君も好きでしょ?」

「否定はしません」

「くっくっく、素直な子だね君は」

 

老師はいったい何が愉快なのやら。ニースは表情を変えず、老師の手のなかのペンを指して言う。

 

「そろそろいいですか、書き物に戻っても? 昨日のツバメちゃんみたいに切羽詰まってはいませんが、これ、いちおう今日の17時が締め切りのやつなんです」

「だめだめ。私もニースちゃんに訊きたかったことあんのね」

「はあ」

「君さ、引退企画の脚本、君自身が書いてもよかっただろうに、なんで私に発注してくれたのかなーって私思っててさ。もちろん、私がプロの物書きで、なおかつノってるときは筆が早い、っていう理由もあるんだろうけど。でも、どっちかっていうと君、そういうの自分で書きたがるほうちゃう?」

「そうですね」

「なのに脚本を外部の私に発注したってことは、ニースちゃんは動画の監督とか、監督だけじゃないべつのことに時間を割かれてたんやろなって思っててね。その便箋とかもたぶん関係あるんでしょ。なに書いてんのか教えてくんない?」

「……」

「あ、べつにマジで時間がないとかだったら教えてくんなくてもいいっす。言うてそんなめっちゃ気になってるかと言えばそこまででもないから」

 

ニースはモノリスのうえの便箋の束に目を落とし、やや逡巡する。彼女は、自分がいまその文章を書いている意図が、いまひとつ成功の確証に欠けるある作戦のためであるということをまだ少し恥じている。だから、ひとにその文章の仔細を話してしまいたくない。しかし、もしもうるふ老師に仔細を話せば、ニースの狙いをよく理解したうえでなんらかのアドバイスをくれるという可能性も感じないではない。なんだかんだと言って、ニースにとってうるふ老師はArtisanアーチザンのなかでは一番話が合う大人なのだ。結局ニースは話すことにする。

 

「まあいいでしょう、お話しします」

「嬉しいね」

「お察しの通り、私はこれを書く時間が欲しかったので、脚本のほうは老師に発注しました。でも、これはべつに最初から筋道を立てて考えていたわけではないんです……」

 

2

空水彼方からの突然の宣戦布告により始まったこの7日間の戦いにおいて、ニースたち7人が当初から共有している最優先目標というのは、Celestiaセレスティアの視聴者がいる世界に空水彼方を到達させないこと、それのみだった。この目標の達成のため、彼女たちは大きく分けて三つの戦略をとってきた。一つ目は、空水彼方と戦うなかで空水彼方という存在が持つ能力や本質を探ること。二つ目は、各人なりの全力をもって空水彼方と戦うことで“Celestiaは勝ちに来ていない”という事実を空水彼方に悟らせないこと。そして三つ目は、視聴者たちの世界に、ニースたち7人の本当の闘いとは別の“Celestiaが空水彼方に辛くも勝利する”というストーリーを届けて、視聴者たちの世界で“ホンモノの空水彼方”を創造させないこと。

三つの戦略は、Celestiaメンバーの協力のおかげで、まずまず満足できる水準で進行してきた。まあ、“Celestiaは勝ちに来ていない”という事実が空水彼方にばれていないか、いくつか不安な場面がないわけではなかったが……。

しかし、ニースにはこれら三つの戦略だけで目的が本当に達成できるのか、確信がなかった。空水彼方を視聴者たちの世界へ侵攻させないためには、視聴者たちの世界で空水彼方が創造される要因を排除するだけではなく、空水彼方が次に訪れる場所をどこか別の世界に確定させる、そんなダメ押しをする必要があると彼女は感じていた。何かわからないそのダメ押しの手段のために、自分の時間を空けておきもした。

 

そんな折、ニースはアリアの半独立空間において空水此岸と遭遇する機会に恵まれた。この遭遇は実りの多いものとなった。まず、空水彼方と近しい存在である空水此岸と話すことで、“空水彼方”という貫世界存在の在り方、それもうるふ老師さえ知らなかった部分について新しい知見を得た。次に、世界を越えてメッセージを届け、なおかつ誤読も誤配も遅配も起こさない――と此岸が主張するところの――能力として例の虹色の便箋が存在することを知った。そして、空水此岸と交渉し、白紙の虹色の便箋をニースに渡し、また、ニースが虹色の便箋に書いた手紙を此岸の手で適当な世界に配達する、という約束を取り付けた。

 

いま、ニースは第四の戦略として次のようなことをもくろんでいる。ニースは、ニースたち7人が空水彼方と戦って敗北するという真実、その実際の経緯を、物語としてまとめ、虹色の便箋に書き記す。空水此岸は、ニースがこの物語を書いた手紙を、Celestiaの視聴者が存在しないどこかの世界に配達する。どこかの世界でその手紙を受け取ったひとは、ニースが書いた物語を一個の創作として理解することになる。つまり、その世界では、ニースたちが出会った“ホンモノの空水彼方”が物語として創造されることになる。このとき、空水彼方が天上界を滅ぼしたあとに訪れる世界としてふさわしい世界が少なくとも一つは生まれることになる。そうなれば、空水彼方は視聴者たちの世界ではなく、きっとその別の世界を訪れることになるだろう。いや、訪れると思いたい。この戦略がほんのダメ押しにすぎないとしても……。

 

事前の約束では、此岸は本日の17時にニースの半独立空間を訪れ、ニースが書いた手紙を回収していく手はずになっている。そのため、ニースは17時までに、7人の7日間の戦いの物語を便箋にまとめる必要があるのだった。

 

3

ニースの説明を聞いたうるふ老師は、羽ペンで自分のあごをさわさわとなでながら、小さく唸り声をあげる。

 

「うーむ……どうもあいまいな作戦だね。成否が確かめづらいというか」

「私らしくもなかったでしょうか?」

「いや、むしろ君らしいんじゃない? ほら、君はアドミンスキルだって、発動条件と効果範囲がおっそろしくあいまいで、7人のうちでも戦闘にはいちばん向いてないやつだったでしょ。そういう、何がしたいのかわからない感じこそがニースちゃんのニースちゃんらしさなんよな……」

「煽ってます?」

 

無表情でそう言い返すニースだったが、言葉の端にはどうにもまんざらではなさそうな感じがにじんでいる。

急に神妙な顔になったうるふ老師が、人差し指を立て、ニースに言う。

 

「ひとつ、でかい懸念がある」

「はい」

「それは、此岸ちゃん? とかいうひとの用意した便箋に、此岸ちゃんじゃないほかのひとが文章を書いてそれを此岸ちゃんが配達しても、世界便セグメントとしての効果は本当に発動するのか、っていうところ。話を聞く限り、空水彼方や此岸ちゃんの世界を越える能力はあくまでその子たち個人に由来してるっぽいんだわな。だから、ほかのひとが此岸ちゃんの便箋に何かを書きつけたとして、その便箋がいつも通りの世界便セグメントの効果を持つかどうかは非常に怪しい」

「此岸さんも、一般人が世界便セグメントを使えるかどうかは試したことがないからわからない、と言っていました」

「ほいで、もし世界便セグメントの効果がちゃんと発動しなかった場合はいろいろ厄介なことが起こりかねない。例えば、致命的な誤読……世界便セグメントを送ったさきの世界における文法規則がこことは根本的に異なってて、君が一生懸命書いた空水彼方勝利のストーリーが、まったく逆、空水彼方敗北のストーリーとして理解されてしまう、とか。あるいは、致命的な遅配……空水彼方が世界を転移するまでに世界便セグメントがどの世界にも届かない、とか」

「その懸念は私も考えました。だから、私が文面を書く必要があります」

「ほう?」

「老師もよくご存じの通り、私のアドミンスキル『双唱起句ディメンションキック』は、特定の事物に対して発動させると、その事物が作られた意図に沿って正しく効果を発揮できるように、その特性をブーストします」

「なるほど? だから君がこの半独立空間のなかでその便箋に書き込んだ言葉は、君がその言葉を書き込んだ意図通りにその効果を発揮する、ひいては世界便セグメントも、君の意図通りに機能する可能性が高まる、っていう計算なのね。いやはや」

「言われるまでもなく、あいまいな作戦です。あいまいなスキルに基づいていますから……。でも、いまの私に思いつくなかではいちばん期待できる作戦で、やってみない理由はない」

「まったく、こんな使いづらいスキルを持たせちゃって、産みの親の一人としては申し訳ない限りだね」

「老師ごとき●●●が謝ることではないです。老師にとっては、Celestiaメンバーの能力は老師が決めた設定かもしれませんが、私たちにとっては、自分の魔法はそれぞれがそれぞれの人生で選んで、研究・開発してきた魔法です。誇りこそすれ、後悔はありません」

「それでも、頭を痛めて産んだ子に対して一抹程度の憐れみは持っているのが現役ラノベ作家ってものよ」

「一抹しかないんですね」

「あーそれは作家によるかも」

「ともかく、憐れみついでにひとつお願いがあるんですが」

「私の世界にその手紙を持ち帰って読んでくれ、とか言わんよね?」

「それは言えませんね。この手紙は、届けたさきの世界を滅ぼす手紙、空水彼方を押しつける手紙になるはずですから。老師がふだんいる世界にもCelestiaの視聴者はいたはずです、犠牲になってもらうわけにはいきません」

「安心したわ。持ち帰って読めっていうんじゃないとすると、あとはあれだな、君は、ここで読んでいけって私にお願いしたいんだわな」

「その通りです」

「君が書いてる、Celestia引退の真実の物語、それがきちんと物語らしい物語になってるかどうか、私の査読が欲しい、とそういうことね。
よっしゃ、読むよ。そんで忌憚のない意見を述べさせてもらうよ」

「……ありがとうございます」

「そんな申し訳なさそうな顔しなさんな。これでも一種の親ではあるんだ、たまには躊躇なくお願いでも何でもすりゃあいいのよ」

 

それから2人は、17時までゆっくりと、Celestiaの物語を書き記し、推敲を重ねたのだった。

 

4

時刻は19時。ついに最後の戦いのときがやってくる。

ニースの半独立空間の全体には、昼間と全く同じ角度の陽光が降り注ぐ。そこはまるでふざけた作り物の世界で、太陽とされるものは空に張り付いた円いライトにすぎず、空とされるものは大地にかぶさった巨大なお椀上の物体にすぎず、大地とされるものは直径がたかだか2km程度の円形の範囲にすぎなかった。普段はその中心に鎮座している配信用モノリスさえもいまはどこかに片付けられていて、半独立空間の簡素さが際立っている。

 

そんな空間のどこかで、ニースはひとり息を整えている。不安がないわけではない。

Celestiaの真実の物語を手紙に書き記すうえで、書き記さなければならないことは大きく分けて二種類あった。一種類目は、Celestiaのメンバーのそれぞれが戦いの直前までに経験した数時間の出来事。これらは、ニースが打ち合わせの合間などにメンバー自身から直接聞いた話を中心にして構成することができた。二種類目は、Celestiaのメンバーがホンモノの空水彼方と戦っているそのときその場で起こっていた出来事。これらは、自分以外の6人が経験した戦いについては、ニースはその目で確かめた中継映像をもとにして、事後的に構成することができた。しかし、ニース自身の戦いについては、自分自身が戦いをはじめる前に、その戦いの経過をできるだけ正確に物語に起こす必要がある。ニースが戦い始める19時よりも前、17時には手紙を完成させなければならないからだ。

ニースは17時までに、自分の戦いの最後を含めたすべての経緯を手紙にきちんと書き記していた。つまり、ニースはこれから起こる戦いで、さきほど虹色の便箋に予言した通りの筋書きを再現しなければいけないということだ。それは生死を賭けた戦いにおいてはひときわ困難なことだったが、しかしできるとすればCelestiaの7人のなかではニースだけだった。大丈夫、私ならできる、いつもと同じことだ……とニースは自分に言い聞かせる。

 

この空間の無表情な大地の真ん中に立って、空水彼方は周囲の様子をうかがっている。時刻が19時なのは確かだが、ニースの姿は見当たらない。まさか、逃げたか? そんな可能性が一瞬脳裡によぎるが、彼方はすぐに打ち消す。どんな形であれ、ニースは戦いから逃げるタイプではない。彼方はすでに100人以上のニースを知っていた。

 

しばらくすると、彼方の頭上から声が降ってくる。ニースの声だ。

 

「こんにちは、こんにちは。こちらの準備は万端です。戦いを始めましょうか、空水彼方さん」

 

彼方はわずかに片眉を上げて不機嫌そうな表情を作り、答える。

 

「是非もない。が、君の姿が見当たらない。こそこそと隠れまわるのが君に必要な“準備”なのか?」

 

ニースの声はくすくすと笑ったあと、次の言葉を継ぐ。

 

「期待通りの戦闘向けの個性がこの世界には少なくて、いらだつのもわかります。が、こらえてください。これからお相手をする私も、戦闘向けのスキルを披露できるわけではありませんが……それでも私は私のスキルを活かせる戦いをご用意したので! 今日は私のシナリオで、めいっぱい戦っていってください」

「思惑通りにしたいなら、してみせるといい。まずはありきたりなかくれんぼからか?」

「まずは、というよりメインがそれです。かくれんぼ。彼方さんには、もし私を倒したければ、私を見つけてもらいます。見つけられたら、私を倒して、それで終わり。見つけられるか、見つけられるかどうかだけがこの戦いの焦点です。簡単ですね?」

「ふん」

「もちろん、このあまり特徴のない空間から完全にランダムに選んだどこかに透明化魔法で隠れてしまっては、このかくれんぼは無理ゲーになってしまいます。もしもあなたが無理ゲーに興味をなくしてあっさりと範囲攻撃を始めてしまっては一瞬でこの戦いが終わってしまうので、私はこの空間のどこか、特定可能な場所に隠れました。さあ、勝負の始まりです。まずはどうやって探しますか?」

 

この問いに答えるというのは、敵のペースに乗るようなことで、いささか気分が悪い彼方ではあったが、ほかにやれることも少なく、あきらめて問いに答える。

 

「目だ。目で見て君がいないか探す」

「そう、そう、まずは目、異世界から来たあなたであっても、基本的には光を感知するごく普通の視覚を具えているんですよね。レイとの戦闘を見ていて不安だったんですが、アリアとの戦闘において確信が持てたのでよかったです。
もしいま、私の姿が目に見える状態であれば、障害物が少ないこの環境をぐるりと見回せば私なんてすぐに見つかってしまうでしょう。どうですか、見つかりましたか」

「いや、周囲を見回す限りではいない」

「はい。私は、一見そうとは見えない障害物の後ろに隠れているか、あるいは透明化魔法を使って隠れているわけですね。では、ほかの手がかりが必要です。次は何を使って探しますか?」

「耳だ。君の声が聞こえてくる方向がどちらか調べる」

「なるほど、耳ですか。では四方に耳を向けて、音源が分かるかどうか試すしかありませんね。ときに彼方さん、あなたが着ているセーラー服、なぜそんなに襟が大きいかご存知ですか?」

「知らないし興味ない」

「一説には、昔の水夫は、遠くの音を聞きたいときにはあの襟を立てて効率よく収音しようとしてたらしいですよ。ですから……ですから、彼方さんもそのセーラーの襟を立ててパラボラを作れば音がよく聞こえるかもしれませんね」

「……」

「あ、彼方さんが襟を立てたところで大音量を出して鼓膜を破壊しようとか、そういうのを考えてるわけじゃないですよ、念のため」

 

彼方はアドバイスを無視して、おのれの耳のみで、四方の音を聞き取ろうと努める。前後左右どの方角からより大きい声がするということもなく、しいて言うなら、上のほうから声がするという感覚がやや強いか。

 

「ずっと話しかけていたらやはりうっとうしいでしょうか。彼方さん……彼方さんは干渉は控えめがいいと思うタイプですか。たしかに干渉が少ないほうが、なんでも直進性は高まるものですから、あなたには都合がいいのでしょうか。“我を通す”ということが彼方さんの想像力のカタチだと、レイとの戦いのときにも垣間見えていましたから……」

 

立ち位置を変えて音を聴き比べてみれば音源の位置が分かるかもしれない……そう考えた彼方は、ローラーブレードのモーターを駆動させ、小走り程度のスピードで移動を始める。

おおむね思惑通りの展開なのか、ニースの声はどことなく楽しげだ。

 

「おや、移動して回るんですね、それはいいアイデアかもしれません……いいアイデアということは、私は追い詰められてしまうので、なにか対抗策をとったほうがいいのかもしれません。ふむ、どうしたものか」

「……」

「そうだ、風雨で行動を妨害しましょう。彼方さんの動きを完全に止めるほどではないかもしれませんが、何もしないよりはまし」

 

すると、作り物の空には濃い灰色の雨雲が映し出され、空間全体に雨が振り始める。やや強めの雨で、傘なしに動き回るにはうっとうしいが、彼方が行動を阻害されるほどのものではない。彼方のいらだちの度が増していく。

 

「風雨にあっているくらいですから、そのトレンチコートの襟を立て、ボタンを閉めてはいかがですか。トレンチとは塹壕のこと。つまり、つまりは、その襟も、ボタンも、塹壕戦につきものの厳しい風雨から着用者を守るためのものです。意図に沿って使わなければもったいない」

「どうでもいい。ことファッションにおいて、意図なんてものはデザイナーと歴史学者の手前勝手な想定にすぎないから」

「なるほど。あなたはデザイナーでも歴史学者でもないと」

「私はゲーマーだ。デザインの意図を理解してそれがよりよい利用法の参考になるときはするが、それ以上を求めない。ゲーマーは、デザインの意図がどうこうとかいう枷に縛られるべきではない」

「彼方さんは哲学者ですね」

「この程度の会話で私を哲学者と評する? ニースが? 笑わせるな」

 

空とみえたものが前方で壁になっていることに気づいた彼方は、壁に衝突するよりもかなり手前でゆるやかに90度のターンをかける。見上げれば、風雨で視界が悪いため確認しづらいが、この空間に本物の空はなく、青空らしき映像が表面に映し出されたドームで囲われているに過ぎないことにも気づく。

書き割りの空に沿って走り続けながら、彼方は問う。

 

「雨を降らせた本当の狙いはこれか? 勢いを出したまま壁に突っ込ませようとか」

「どうでしょう」

「さすがに違うか……」

 

彼方はローラーブレードを少し加速させる。ニースの声は、相変わらず真上から聞こえている。

 

「なぜ私がどうでもいいことをしゃべり続けているか、怪訝に思っているでしょうか」

「多少は。君のアドミンスキルが関係あるのか」

「正解です。私のアドミンスキルは文や文章を通して発動するスキルなので、さっきから大事なこともそうじゃないことも口に出してしゃべり続けています」

「寛大なヒントだな」

「何事も、言葉にしなければ始まりませんから。このスキルの名前は『双唱起句ディメンションキック』。私がこの半独立空間のなかでなにかを言葉にするとき、その文や文章の先頭を2回繰り返すと発動します。効果内容としては、その文や文章に含まれる事物が本来持っているとされる特性をブーストします」

「なら、さっき君が、『つまり、つまりは』と言っていたのも」

「そうです。あの発言によって、いまこの空間にあるトレンチコートの襟とボタンの、風雨を遮るという特性は非常に強くなっているはずです。なのに彼方さんは襟もボタンも用途通りに使わおうとしない。忠告は素直に聞けばいいのに」

「なんだそのスキルは。効果がきちんと発動しているかどうか、君自身にはわかるのか」

「確信できないことのほうが多いですね」

「信じがたい無能さだ」

 

いずれにせよ、いまや彼方の服は、コートの下のセーラー服までぐっしょりと濡れてしまっている。コートの襟とボタンを用途に沿って使うにはもう遅かったらしい。

 

「弱いスキルで失望しましたか。ツグミちゃんのときは、勝敗が決まった後にそんなようなことを言っていましたが」

「ああ、失望した。君のスキルは、戦闘において弱いどころではない。まるで役に立たない。君でなくとも、7人もいれば誰かひとりくらいは、貫存在トランセンドに通じるような特異で新奇な能力を持っているようなやつもいるかと思っていたのに」

貫存在トランセンド。あなたのような存在をそう呼ぶと、一昨日私も知りました。しかし、しかしですよ、私たちが貫存在トランセンドの域に達するとすれば、それは7人の力を合わせたときでしょう。私たちのうちの誰かが、ではない」

「お互いに、叶わぬ夢だったというわけか」

「それはまだわかりません」

「は?」

 

そのとき、書き割りの空に映し出された雲が途切れ、風がやみ、太陽が顔を出す。雨足も次第に弱くなり、やがて完全に止まる。

「降雨を続けるのはもう限界ですね。この空間は水のストックがあまり多くないのです。でも、景色を変えるのには十分でした」

「景色を変える? それが本当の目的か」

「はい」

 

雨が止むと、そこには雨が降る前とは様変わりした美しい景色が広がっていた。見渡す限り平らな地面が浅い水たまりに覆われ、凪いでいるので、地面全体が鏡のようになって空を映し出しているのだ。いまや空水彼方の上にも、下にも、青い空と白い雲だけがどこまでも広がっている。空水彼方は、さながら空を飛ぶような格好で、水面にV字の波を立てながら滑っていた。

その景色のあまりの没個性ぶり●●●●●●●●●に、彼方は困惑する。

 

「こんな景色に何の意味が……」

「嫌がらせです。彼方さん、ツグミちゃんとの戦いでも漏らしていたでしょう、陳腐なのは嫌いだと。だから思いきり陳腐なやつを今日のために用意しておきました」

「……はあ」

 

壁に沿って走っていた彼方は、進路を大地の中心に向けて傾ける。彼方の身体は、水面に黄金螺旋を浮かび上がらせながら、寄る辺ない空のただ中へと滑りだしていく。
ニースの声はいまだ真上から降ってきている。

 

「彼方さん……彼方さんは、かわいそうだと私、少しだけ思うんです。彼方さんは『トゥルーマン・ショー』って観たことありますか?」

「……」

「それは私が知っているある異世界に存在する映画で。主人公のトゥルーマンは、生まれてからずっと、直径数kmの小さなドームのなかで、ひとが書いたシナリオ通りの人生を送っているんです。でもトゥルーマンの周りの人たちはそうではない。彼らにもトゥルーマン同様シナリオが用意されているけれど、彼らはあくまで演技として、トゥルーマンの目の前でだけそのシナリオを演じる。彼らは本当はドームの外にも生活を持っている。トゥルーマンだけが、彼らの外での顔を知らない」

「……」

「トゥルーマンは、彼方さんと似ています。彼方さんは、この小さな世界の全てを賭けさせれば誰もがゲームに真面目に取り組むと思っている。でもそう思い込んでいるのは彼方さんだけで、みんなこの世界の外にもたくさん大事なものがあるんです。みんなが本気でゲームに取り組んでいると思っているのは彼方さんだけ」

「……私も、ちょうど『トゥルーマン・ショー』のことを考えていた」

「はい?」

「この書き割りの空。そのどこかに、あの映画よろしく、君のいる場所へつながる扉が開いている、という可能性を想定して、この空間をわざわざ一周した。だが、扉はなかった。すると、ほかに君がいそうな場所と言えば、私に思いつくのは一つだけだ」

 

彼方は水面に手を置き、透き通った氷の槍を一本作り出す。

 

「答えが解ったと思うのなら、試してみることです。果たして、ここであなたの勝ちが決まるのか」

「頼むから、こんな簡単な謎解きで終わってくれるなよ……!」

 

彼方は、書き割りの空がつくるドームの中央あたり、ある一点に向かって、槍を投げ放つ。彼方が狙うのは、ドームがパラボラ面だと仮定したときの焦点にあたる点だ。

これまでニースの声は、彼方が地面のどこを走り回っても、終始真上から聞こえてきていた。空間中のどこか一点から放射状に音波が伝播しているとすると、このようなことは考えづらい。考えうるとすれば、この空間を覆うドームがパラボラ面になっており、ニースはパラボラ面の焦点に当たる場所からパラボラ面に向かって音波を放ち、空間の直上から平行に降り注ぐ音波に変換していた、という可能性だ。もちろん、そのような環境を通常の物理法則下で実現するのは容易ではない。が、ニースが双唱起句ディメンションキックによって“焦点”や“パラボラ”といった概念が持つ特性をブーストした状況下では、ありえなくもない、のかもしれない。

こんな単純で胡乱な謎解きがもし正解ならば、彼方が放った氷の槍は透明化して空中に静止しているであろうニースを貫き、戦いは終わるだろう。自身の謎解きが間違っていて、戦いが続き、より骨のある展開につながってほしい、と願う彼方であったが、はたして●●●●槍は●●ニースに●●●●命中した●●●●

致命傷を負ったニースは透明化魔法も浮遊魔法も維持できなくなり、落下していく。落ちていくニースを見ながら、彼方はつぶやかずにはいられない。

 

「なあ、君は……お前は本当にニースなのか? 本当はお前は――」

 

彼方の問いかけが届くはずもなく、落ちていくニースは最後の作戦の成否ばかりを気にしていた。貫存在トランセンド・空水彼方を視聴者たちの世界に行かせない、というニースの、またCelestiaの作戦ははたして成功したのか?

ニースは、いまや確かめようがないその作戦の成功を、それでも信じることにした。彼女たち7人が協力することで、愛する異世界をインベーダーの手から守ることができたのだ。7人が合わせた力、この能力を、『次元放逐ディメンションキック』と名づけよう、とニースは思った。

 

ニースの眼前に鏡のような水面が迫ってくる。いよいよこれに激突すれば最後か、と思ったニースはつい、水面から目をそらす。

そのときニースは、天上に七色の虹が架かるのを見た。

私がやる

前回:心は見極めがたし推測ゲスせよ乙女

 

1

空水彼方がCelestiaセレスティアのメンバーを次々に打ち倒し、ついに残すところはツバメとニースだけとなった。空水彼方の思い通りにはさせないために、残された2人は最期まで戦い抜かなければならない。そして今日は、ツバメが彼方の相手をする番。しかし、というべきなのか、この日、ツバメは鍛錬をするでもなく、模擬戦をするでもなく、ひとり、自室で配信用モノリスに向かい、キーボードのようなインターフェースをたたいていた。

モノリスの画面のなかでは、神官服に身を包んだニースと空水彼方に変身したツバメとが壮絶な戦いを演じている。これは、昨日アリアの助言を受けて完成した台本に沿って、ニースとツバメとがホンモノの戦いにも見紛う模擬戦を行ったときの様子を複数の視点から撮影したものだ。

ツバメは、同じ動きを映した複数の映像を並べ、動かしては止め、止めては動かして比較する。これは、と思う一瞬を見つけると、画面に鼻がつきそうなほど顔を近づけてぶつぶつと何ごとかつぶやくときがある。かと思うと、背もたれにおもいきりもたれかかって呻吟するときもある。

 

実は彼女は、ニースとツバメが戦っている様子を収めた動画を映像作品として公開するため、編集を行っているのだった。

 

Vtuberが動画編集を行うこと自体はなんら不思議なことではない。しかし、なぜ今になって? その理由を明らかにするためには、7番勝負の2日目、レンラーラが戦った日の午前中まで話をさかのぼる必要がある。

 

2

その日、ニースは昼前にツバメの自室を訪れていた。ニースは、通い慣れた友人の部屋らしい気楽さで、無言のまま来客用の籐編みの椅子に腰かけ、腕組みをする。ツバメは、配信用モノリスの椅子のほうをニースのほうへ向けなおして腰かける。ニースはいたっていつも通りの冷静な調子で、ツバメに問いかけた。

 

「ときに、ツバメ」

「なにかな、あらたまって」

「創造する者と、創造される者とがいるとしよう。このとき、創造する者は、どんな事物をどんな風に創造するのかを、しばしば選ぶことができる」

「それは、例えばひとがフィクションのキャラクターとかを生み出すとき、そのキャラクターを男にするか女にするか、とか、黒髪にするか金髪にするか、とかをそのひとは選ぶことができる、みたいな意味? それはそうだろうけど」

「うん。では逆に、創造される者のほうが――たとえばキャラクター自身が――どのような特徴を持った事物として自分が創造されるかを決定することはできるだろうか?」」

「どうも込み入った疑問だね。えーと……“創造”という行為において、創造する者と創造される者との関係が一方通行であれば、創造される者が創造する者の側にはたらきかけることはどんな意味でも不可能かもしれない。でも、仮に間世界対称律が正しければ――私には聞きかじった知識しかないけれど――創造される者が同時に創造する者でもあるかもしれないわけで。そう考えれば、創造される者が創造する者に対してなんらかのはたらきかけを行うことも不自然なことではない、むしろどこででも起こっていること、と言えるのかもしれない。とか、こんな答えで満足?」

「うん……。ありがとう」

「私なんかより、うるふ老師のほうがこういう話、好きそうだけどね。それか、ツグミちゃんとか」

「……」

「そんなに気を遣わないでよ。ニースも知っている通り、ツグミちゃんは私の人生で一番の親友だった。でも、悲しむのは、ひとりのときにゆっくりと満足いくまで悲しむから、さ」

 

ツバメは、なんとなく配信用モノリスの画面にちらりと目線を送る。画面には、ツバメがこれまで自分のチャンネルで配信してきた動画のサムネイルが数十個並んでいた。少なくない数の動画が、ツグミが編集してくれた動画だった。

 

「それなら、いいんだけど。いずれにせよ、うるふ老師や、先に逝ったツグミではなく、これから一緒に戦う君の答えを訊きたかった」

「というのは、その込み入った疑問が空水彼方との戦いのためにニースが考えている作戦の内容にかかわることだから?」

「そう。まだ、作戦というほどたいしたアイデアじゃない、ただ、うまく行くかもしれないことはなんでもやっておきたいっていう、それだけのアイデアなんだけど……。でも、ツバメの協力が欲しい」

「とりあえず内容を聞かせて」

 

ニースが語った作戦は次のようなものだ。

当初、Celestiaは一日一人ずつ空水彼方と戦い、その戦闘の様子を異世界の視聴者に向けて生配信する予定だった(すでにツグミと空水彼方との戦闘の様子は生配信された)。しかし、本日以降は、Celestiaのメンバーは予定通り空水彼方との戦闘を行っていくものの、この戦闘の様子は配信には乗せず、Celestiaのメンバー内だけでこれを観ることにする。異世界にいる視聴者たちには、ホンモノの空水彼方との戦闘の生配信映像ではない、一定の台本通りに“演じられた”空水彼方とCelestiaメンバーとの戦いの様子を事前に撮影し、一本ずつ動画に編集して公開することにする。つまり、視聴者たちには、ホンモノの空水彼方との間に行われる一発勝負の場面ではなく、それより前に行われる台本通りの模擬戦の場面を“空水彼方との戦い”として届けるのだ。

これは、Celestiaのメンバーにとっては、ホンモノとの間で行われる勝負の前にもう一試合を別に行わなければならないことを意味するが、本番前のある種の練習として許容してもらう。なにより、当初からツバメ演じる空水彼方との練習試合は企画されていたので、ただその練習試合が動画撮影も兼ねるだけ、ということで……。

動画の内容としては『空水彼方との戦いのなかでCelestiaのメンバーは一人また一人と倒れていくが、それぞれが少しずつ残していった布石によって逆転の目が生まれ、最後にはひとり残されたメンバーが空水彼方を倒す』といったストーリー仕立てのものを想定している。

無論、空水彼方の能力と戦いの経過は、視聴者たちが『これがラストバトル』と納得できるような、真に迫った、かつドラマチックなものでなくてはならない。台本を書くのは、うるふ老師に頼んでやらせればいいだろう。ごく短納期にはなるが、嫌とは言わせない。また、監督というか、動画撮影全体のマネジメントはニースが行う。そして、空水彼方を演じるのはツバメだ。

 

ここまでの内容を聞いたツバメは、この作戦の核心に触れる。

 

「どうしてホンモノの戦いと別に公開用の模擬戦をもう一回やるの? Vtuberとして、自分たちでコントロールした企画で最後を飾りたい、とか?」

「それもある、けど。一番の目的は、視聴者たちの世界に空水彼方を行かせないため」

「ああ、やっぱりそこが目的なんだね」

 

そう、ツバメも、ニースも、Celestiaのメンバーは全員、それが最優先事項だということに最初から合意していた。空水彼方に視聴者たちの世界を滅ぼさせないこと。それが7人にとって一番大事なことだった。

 

「うるふ老師の推測を信じるならば、空水彼方は、空水彼方がフィクションとして創造された世界にやがて現れる。私たちの引退企画として空水彼方との戦いをそのまま配信してしまうと、私たちの世界を滅ぼした後、空水彼方が視聴者たちの世界――Vtuberの引退企画の登場人物として空水彼方が創造された世界――に現れる可能性が排除できなくなってしまう。だから、ホンモノの空水彼方をこれ以上配信に乗せないことにする。代わりに、うるふ老師が新しく書いたホンに沿って、ツバメが演じた空水彼方をお届けすれば、視聴者たちの世界ではそれが空水彼方のカノンになる。視聴者たちにとっての空水彼方は、私たちが知っている空水彼方とは似て非なる新たなキャラクターにして、ここで殺す」

「なるほど。ただ、視聴者たちにこれ以上ホンモノの空水彼方を見せない、っていうことが目的なら、べつに代わりのカノンを作る必要はないようにも思えるけど、きっとそれじゃ何かが足りないんだよね」

「うん。問題は、すでに空水彼方という存在は2回の配信に乗っていて、視聴者たちの世界ではこのキャラクターの始まりが認識されている、というところ。仮に私たちが空水彼方というキャラクターの続きの物語を用意せず、尻切れとんぼな状態のまま引退してしまった場合、ホンモノの空水彼方はキャラクター性に矛盾をきたすことなく視聴者たちの世界に転移可能なままだろう。空水彼方が視聴者たちの世界に転移するのを防ぐためには、視聴者たちの世界で知られている空水彼方のカノンが、私たちにとってのホンモノの空水彼方とは明白に矛盾している必要がある、と考える。だから代わりの物語を作る」

「それでいくと、ホンモノの空水彼方と矛盾してさえいれば、どんな空水彼方を作り上げてもいいのかな?」

「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない……というのも、空水彼方という人物の本質からあまりにも逸脱したキャラクターを創造した場合、逆に、それはそれでホンモノの空水彼方と矛盾しなくなってしまう、という懸念があるから」

「どういうこと?」

「視聴者たちの目線で考えてみよう。視聴者たちはまず、私たちの引退企画に登場する“空水彼方”というキャラクターを一個の確立したフィクションとして知っている。では視聴者たちは、その“空水彼方”とは微妙に細部が異なるだけのキャラクターを、“空水彼方”とはまったく別のキャラクターとして新たに認識できるだろうか?」

「うーん、言葉の使い方の問題な気もするけど、まったく別、っていうのは難しいかもね。微妙に細部が異なるキャラクターは、“空水彼方”に関する間違った記憶とか、あるいは非公式な二次創作としてしか認識できないと思う」

「では、私たちの引退企画に登場する“空水彼方”とはまったく異なる特徴を持ったキャラクターであれば、まったく別のキャラクターとして新たに認識できるだろうか?」

「それはできるだろうね、ほとんどトートロジーだから。っていうことは、なるほど、ニースが言いたいのはこういうことか。私たちがこれから創造する代わりのキャラクターがホンモノの空水彼方からかけ離れていたとき、ホンモノの空水彼方は、私たちが創造したキャラクターとは単に別のキャラクターとして、視聴者たちの世界に創造されてしまう可能性が否めない、という」

「そう。でも、正直に言って、私たちがこれから創造すべきカノンが、ホンモノの空水彼方からどの程度まで離れたキャラであるべきで、どの程度までは近しいキャラであるべきなのか、というラインは断言できない。だから、これはあくまで私の感覚、というか、不合理なこだわりになってしまうかもしれないけど……私たちが作り上げる空水彼方は、性格面ではホンモノにできるだけ寄せたい。で、性格を寄せるためにはアリアの力を借りたい。得意そうなひとの力を」

「ニースも、ひとの行動を分析してエミュレートするのはけっこう得意じゃない?」

「いや、私にはアリアみたいに人の心を見つめる才能はないよ。あんなにまっすぐな瞳でずっと見つめるような才能は」

「たしかにアリアには劣るか。それにニース、自分がひとからどう見られてるかとか、わかってないときもすごくあるし」

「それは、そうなのかな」

「ほら、ニースって、『いつも真顔で、ひとからは何考えてるのかよくわからない』っていうキャラだと自分では思ってるでしょ」

「え」

 

しばし言葉に詰まるニースの前で、ツバメはくすくすと笑う。

 

「ま、それはともかく。私は、うるふ老師が書いた台本をもとに空水彼方を演じて、みんなと模擬戦をしていけばいいんだね」

「そう」

「わかった、まかせて。あと、ほかになにか、ここで決めておきたいことはある?」

「小さいことだけど、2点ある」

 

1点目は、ツバメが空水彼方と戦う回において、誰が空水彼方を演じるのか、という問題について。2人で話し合った結果、ツバメの回においてのみニースが空水彼方を演じることとなった。ニースにはいちおう変身魔法は使えるが、ツバメほどの名手ではない。そのため、ニースが演じた空水彼方だけ、ほかの回の空水彼方に比べて再現度が落ちてしまうことになるが、そこであえて、ニースはほかの回とはがらっとデザインを変えた空水彼方に変身してこれを演じることにした。『追い詰められて最終形態に変身した空水彼方』という設定のもとでである。

この小細工に伴って、動画の公開順も、実際に空水彼方がCelestiaメンバーと戦う順番とは変えることにした。つまり、実際には空水彼方の(仮に行われるとして)6戦目は対ツバメ、7戦目は対ニースという予定だが、ニースがシナリオを書く公開用の動画では、6戦目を対ニース、7戦目を対ツバメにするということだ。

 

2点目は、ツバメ演じる空水彼方とCelestiaとの模擬戦の様子を、誰が撮影し、編集するのか、という問題について。ニースは、戦闘の映像は、模擬戦でツバメに相対するそれぞれのメンバーがそれぞれの責任で撮影・編集するのがいいだろう、と述べた。つまり、たとえばレンラーラの回はレンラーラが、レイの回はレイが編集する、ということだ。そして、各人の忙しさを鑑みるに、公開される映像は“撮って出し”に近い無骨なものになるかもしれないが、それもやむなし、とニースは付け加えた。しかし、ツバメはこれに異を唱える。

 

「ダメだよ。ちゃんと体裁を整えたストーリー動画じゃないと。視聴者のみんなが不満を覚えるような出来のものだったら、それはカノンにはならない」

「一理ある。でも、みんなには、動画作りよりもホンモノの空水彼方との戦いのほうに注力してほしい。もしも中途半端な戦いをして、私たちが“勝ちに来ていない”ってことが空水彼方にばれることのリスクは看過できない」

「そうだよ。だから、みんなに付き合ってもらうのは、模擬戦を行うところまででいい。撮影・編集まではやってもらわなくていい。撮影・編集は、私がやる」

 

ツバメは、ニースとまっすぐ目を合わせてそう言った。根拠はないが、やる気をみなぎらせたひとの目だと、ニースには思えた。いつもツグミのあとを一歩遅れてついていく、そんな印象を勝手に抱いていたあのツバメがそんな目をして言ったものであるから、ニースには少しだけ驚きだった。

 

「ツバメ、それは全員ぶんの映像、6本を君ひとりで完成させるという意味か?」

「うん。そういう意味」

「それはあまりにも負担が大きい。それに、こういう言い方はなんだけど、ツバメはここ数年は本格的な編集作業をしていないから、慣れないんじゃ」

「そうだね、確かに私たちは……私とツグミちゃんは、2人で分担して動画を作ることが多かった。私が企画と下準備、ツグミちゃんが編集、って。そういう分担になったのは、私にはツグミちゃんみたいな映像センスはないって、ずっと思っていたから。でも、いまならできる。なんでかわからないけど、いまならできるんだよ、私にも、ツグミちゃんに引けを取らない編集が! だから、私がやる」

「君の自信がいまひとつ理解できない。けど」

「止めないで」

「止められるものかよ、君がそれだけはっきり“私がやる”と言うのなら。私たちはゲーマーでVtuberなのだから、最後の最後はやっぱり、自己決定権を尊重するさ」

「ありがとう、ニース……ふふっ、いまわかったよ。最初ニースが私に尋ねたかったことって、要は、『私たち自身が、視聴者たちの世界における私たちの物語を決定することはできるだろうか』っていうことでしょう?」

「うん。はっきりまとめるならそういうことだ」

「できるよ。それは創造する者かされる者かなんて関係なく、もっとずっと単純なことなんだよ。私たちは選んで、決めることができる。いつでも、どこの世界でも」

「それはまた……望ましい答えだよ」

 

そんなこんなで当面の方針をまとめた2人は、その後、レンラーラを皮切りに、Celestiaのほかのメンバーにも順次作戦の概要を伝えた。全員が賛同してくれた。

それから5日の間、ツバメとニースの2人は6つの半独立空間をあわただしく飛び回り、アリアをはじめとしたCelestiaメンバーと打ち合わせを重ねた。また、練習を兼ねた模擬戦を行い、それを撮影した。

ツバメは、密なスケジュールのなかにわずかな時間を見つけては、自分の半独立空間の自分の部屋に帰って、撮影した映像を編集する。

そして、時間は今に至る。

 

3

この5日間は、ツバメにとってまさしく目の回るような5日間だった。打ち合わせに撮影、撮影しては編集、また打ち合わせ、撮影、編集……ろくに寝る時間もない。

コントまがいの適当な動画を編集するだけなら、現状のように大変な思いをすることもなかっただろう。しかしツバメは適当な動画を公開することを選ばなかった。単発の映像作品として、Celestiaがこれまで世に出してきた映像のなかでももっとも見ごたえのあるものを作ろうとしていた。それらの動画が、ある世界ではCelestiaの活動の最後を締めくくるものになると、はっきりわかっていたから。

 

締めくくりにふさわしい映像を形づくるために、必要なものは数知れずある。よい脚本も必要だし、よい照明効果も必要だし、よい音響効果も必要だ。しかし、自分たちの最後の動画のためにツバメがとりわけ心から求めていたものは、よいテンポだ。ストーリーを、画面を、音声を、過不足なく切って貼り合わせ、作品に変えていくその完璧なテンポが欠かせないと、ツバメは知っていた。

このテンポをつかむことに関して、Celestiaのなかで一番秀でていたのは、これまではツグミだった。だがツグミが逝ったとき、ツバメはふいに気づいた。いままでツグミの陰に隠れて見えなかったが、このテンポをつかむ才能がツバメのなかにも眠っており、たったいま目覚めたのだ。理由はうまく説明できなかったが。

 

5日間をかけて、ありとあらゆる出来事がぎらぎらと輝く残像を残しながらツバメの目の前を飛び去って行く。涙をこらえるレンラーラや、歯を見せて笑うレイや、余裕ぶったパリラや醒めた目のアリア、何を考えているかわからないニース。もはやそれらが、ツバメの目の前でいま起こっていることなのか、編集中のクリップなのかすらわからない。ただ、切ってつなげるべきタイミングだけはわかる。まさしく、時間を操る能力の真髄に到達した者の思考で、ありうべきカット割りをほんの二、三択にしぼりこみながら、それでもなお吟味して、ツバメは映像を編集していく。

ここまで、レンラーラ、レイ、パリラ、アリアの4人分の映像はすでに完成し、それぞれがホンモノと戦闘している裏でプレミア公開された。ニースのぶんの映像も完成はしており、今日、ツバメの戦闘の裏でプレミア公開するために公開予約がセットされている。いまだ完成していないのは、ニース演じる空水彼方とツバメが戦う最終回の映像だけであり、それもおおかたの編集は終わり、あとは細かいチェックのうえレンダリングを行うだけ、という状態だ。

 

レンダリングを目前に、ツバメは自室の壁に掛けられた時計をちらと見る。時刻は18時。空水彼方がツバメの半独立空間に攻めてくるまではまだ余裕がある。ツバメは、戦闘開始までに余裕を持って動画を完成させることができたらしい。これまで寝る間を惜しんで編集に打ち込んできた甲斐があったというものだ。ツバメの顔から数日ぶりの笑みがこぼれる。

しかし、時計から目を離したツバメが再度モノリスの画面に目を落とすと、彼女はそこにレンダリング設定のちょっとした間違いを発見する。それは本当にちょっとした間違いで、ここで具体的にこんな間違いだと説明するほどのこともない些細なミスだ。しかし、たったいま気を緩めそうになったツバメを絶叫させるには十分な間違いだった。

ツバメの部屋に叫びが響く。

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」

 

戦いが始まるまであと1時間。

 

4

ツバメの半独立空間は、群青色の空全体にゆらゆらと妖しい光がゆらめく下に、サンゴやイソギンチャクを思わせる前衛的な建築が立ち並ぶ海底都市のような空間なのだが、その詳しい様子はこれから起こる戦いにはとくに関係ない。

時刻は19時1分前。10分ほど前から探索がてら海底都市の街角をぶらついていた空水彼方の100mほど前方に、ちょうど自室を出てきたところのツバメが現れる。

そのときツバメは、およそどの配信でも見せたことのないタイプの表情をしていた。髪はところどころが跳ね、目の下には濃いクマができ、唇は苛立たしげに引き結ばれている。半目に閉じたまぶたの下で、やや上向いた眼球が白目ばかりをらんらんと光らせる。ツバメが、寝不足とそこからくるイライラで爆発寸前であることは、誰の目にも明らかだった。空水彼方の目すら例外ではない。

彼方が、彼方らしくもなく第一声に迷っているうちに、ツバメがその苛立たしげな唇を開く。

 

「来ましたね、空水彼方」

「……彼方でいい」

「時間に遅れないご到着でなによりです。ツグミちゃんも言っていましたが、私も時間を守れる人は好きです」

 

あたりさわりのない内容をしゃべるツバメだが、その声色にはいらだちが隠しようもなくにじんでいる。

 

「君のほうは、何かしら時間に追われていたような様子だが……」

「そうですね。ですが何とか間に合いました。レンダリング設定がおかしいと気づいたときには気も狂わんばかりでしたが、ちゃんと気づいて修正できて、レンダリングも間に合ってよかったです。まったく、フレームレートがマイナーな規格になっているクリップなんて全部滅んでしまえばいいですね」

「何を言いたいのかわからないが、準備が万端ならそれに越したことはない」

「準備ができていようといまいと、敵に気を遣うあなたではないでしょう」

「それはそうだ」

 

彼方の無思慮を責めるような口調ではあるがしかし、ツバメのほうだって、いまは彼方に毛ほども気を遣ってはいない。その証拠にツバメは、会話の途中にもかかわらず、首から肩にかけてのコリをほぐそうと、右手をあてがいながら肩をぐるぐると回す。すると肩からはバキバキとはっきりとした異音がする。

 

「悪いですが、いまは私も敵に気を遣っている余裕がないんです。正直なところ、こんな戦い早く終わらせて眠りたい。巻きでいきましょう」

「早く終わらせたいのなら、早く私を倒して見せろ。敵に言うことを聞かせる方法はいつもそれだけだ」

「違いありません。さあ、今日の勝負は小細工抜きです。始める前に、私のアドミンスキルを説明しましょう。この空間全体に、好きなBGMをかけることができる。それが私のアドミンスキルです」

「……は?」

「そのままの意味です。19時ですね。始めましょう」

 

言葉とともに、ツバメは頭の横で手を2回、打ち鳴らす。すると、どこからともしれず、音楽が聞こえはじめる。その曲はおもちゃの兵隊のマーチ。言わずと知れた「3分クッキング」のテーマソングである。

時刻はたしかに19時だ。ツバメはにべもなく彼方に襲いかかる。

 

まずツバメが狙うのは彼方の足もとだ。6日前の緒戦と同じく、接近しながらのごく低い蹴りで彼方に足払いをかけることを狙う。彼方は、向かってくるツバメに対し、あえて自分から距離を詰め、ツバメに踏みつけを食らわせようとする。ツバメは彼方の狙いを即座に理解し、身体にきりもみ回転をかけて進行方向を真横へ転じる。回転をかけたまま起き上がって彼方の後ろに回り込み、背中をしたたかに殴りつけようとする。しかし彼方はこのパンチを通さない。振り返りながら肘鉄を割り込ませてツバメの動きを強引に止める。しかしツバメの攻撃の意志は止まらない。ツバメは一歩だけ退がって体勢を整え、どこからともなく取り出した木製の杖を両手で持ち、力任せに彼方を殴る。彼方は、この杖の打撃を片腕を立てて受け止める。躊躇のない殺意と殺意のぶつかり合いに耐え切れず、杖は粉々にはじけ飛んだ。ここまでわずか数秒の攻防。バックステップを踏んで、つかの間彼方から距離を取りながら、ツバメは一撃で杖が失われた現状に対していささかの悪態を吐く。

 

「ちくしょう、オソロだった杖がもうおじゃんかよ」

「木製など使うな」

 

手に握っていた杖の残骸を投げ捨て、ツバメは彼方のほうを斜に睨む。そして、口の中で攻撃呪文の詠唱を始める。何かしら威力の高い魔法の準備を察知した彼方は、妨害のため、ツバメに走り寄ろうとする。もう彼方の拳がツバメに届くか、というタイミングで、ツバメは詠唱を終え、両腕を振り上げて彼方に向ける。すると、手の平から赤紫の火花が飛び散って彼方を襲う。彼方は迷わず後退に転じて火花の直撃を避ける。しかし、火花は彼方を追うように空中で方向を変える。また、彼方が避けようとするうちにもツバメの手の平からは次の火花、またその次の火花が飛び出して途切れることがない。

ツバメが放ったのは、手の平から同時に放たれる複数の火花が短時間敵を追尾する短・中距離向け攻撃魔法だ。この回避不能の弾幕に、並の魔法戦士であれば10秒と経たないうちにハチの巣にされてしまうところであるが、彼方には焦りはない。彼方は、すでに他の世界で似たような技を見たことがある。

ツバメから10mほど距離をとり直したところで、彼方は火花を避けるのをやめ、迎撃に転じた。ツバメが放つものとそっくりな赤紫の火花を、ロクな詠唱もせずに放ったのだ。ツバメが次々に放つ火花は彼方の火花に当たって激しく煌めきながらかき消え、もはや彼方の身体に届くことはない。それも、最初のうちは彼方の眼前でぶつかり合っていたはずの火花が、数十秒と魔法を撃ち合ううちに、ツバメの眼前でぶつかり合うようになる。明らかに彼方の魔法が押している。

彼方はこのとき、自分の気分がいつもの調子に戻っていることに気づく。すなわち、彼方は対戦相手の弱さにイライラしていた。

 

「魔法戦士を名乗る割にその程度の魔法か? まさか、杖がなくなると何もできないとかいう手合いじゃないだろうな」

 

対するツバメも、そのイライラの度合いは増し続けている。彼女は舌打ちをして、言う。

 

「うるさいですね。私は杖使うやつは得意じゃなかったんですよずっと。どうせ! ツグミちゃんみたいには! できないから!」

 

ツバメは怒気を込め、一瞬前の二倍、三倍にもなろうかという量の火花を放ち始める。それでもまだ彼方に焦りはない。彼方も三倍、四倍の火花を放ってツバメに対抗する。いまやツバメの視界は赤紫の光で塗りつぶされて空の欠片さえ見ることができない。このまま火花の撃ち合いで押し切ってくるつもりなのか……とツバメはちらりと考える。その瞬間、その考えこそが彼方の思う壺であった。彼方は突如、火花を放つのをやめ、その右足で地面を思いきり踏みつける。すると、地面から氷筍が列をなして飛び出し、ツバメのほうに向かっていく。突然の攻撃手段の変更に、ツバメは少なからず驚き、それでも即座に火花を出すのをやめて、横ざまに倒れこんで氷筍の直撃を避ける。

体勢を崩したツバメに対し、彼方は容赦なく、再度地面を踏みつける。鋭い氷筍がもう一列、凄まじい勢いでツバメのほうへ向かっていく。ツバメは、今度は避けるのではなく、彼方と同じ氷筍攻撃をくり出して迎撃しようとする。両者が出した氷筍は、どうにかツバメの眼前でぶつかり合って動きを止めた。ここ数日、空水彼方を演じるために氷結魔法を練習してきた成果だった。

彼方は口の端に薄い笑みを浮かべ、言う。

 

「君は言うほど人真似が下手ではない、自信を持つといい」

「それはどうも」

「あくまで人真似の域を出ないが」

「余計なことばかり言いますね!」

 

おもちゃの兵隊のマーチはいまも2人を急き立てるように鳴り響いている。

彼方は、三度目の氷筍攻撃を仕掛けようかと一瞬考えたが、やめる。同じことばかり繰り返すものではない、とくに、敵がよき先生ではないときは……彼方はそんなことを思いながら、自分が作った氷筍を踏み割りながら前進し、ツバメに再度接近することを試みる。

ツバメは、接近してくる彼方を見て、ツバメ自身も前進することを選ぶ。ツバメも氷筍を踏み割りながら走る、彼方のように。

彼方は、走りながら、手に当たった氷筍の一本を引き抜いて手元で氷の剣に作り替える。ツバメもほぼ同時にそうする。互いに氷の剣を携えた2人が、そのちょうど中間にあたる場所でついに接触する。

2人は、接触の瞬間から、その氷の剣で猛烈に切り結ぶ。剣と剣とが1秒間のうちに2回3回と打ち合わさり、軋んだ音を立てる。

斬り合う手も止めず、彼方が言う。

 

「君はツバメだろ? 全ての技を使えよ。君ならもう少し器用貧乏なはずだ」

 

彼方は、左手で剣を下から上に振りぬきながら、右手で赤紫の火花を一発放つ。剣技と魔法を組み合わせた簡単な連撃だ。ツバメは、剣は剣で横に受け流しながら、魔法にも魔法を当てて自身への直撃を避ける。

 

「余計なお世話ですね。こんなゲームに“全て”を賭けてられるほどみんなヒマじゃないんですよ」

世界便セグメントが届いたとき、持てる全てを賭けることを選ぶしかなかったはずだ。あれは誤読を許さない」

「あの便箋はそんな大したものじゃない。ただ、誤読されうる場所には届かないだけの紙屑です」

「……どうだかな」

 

このときツバメは、彼方の攻撃が一段と苛烈になったことを感じる。途切れなく続く剣技のなかに、ときおり攻撃魔法を織り交ぜる、というスタイルは変わらないが、全体的な勢いというか、殺意の程度が、少しだけ強くなっている。ツバメは、すべての攻撃をかろうじて捌き続けながら、心の中で、ああ、私はこの人には勝てないな、とつぶやく。さりとて、いまツバメがすべきことは変わらない。彼方に勝てようと勝てまいと、ツバメには最初から関係などない。ツバメにはただ、彼方に『そこそこ本気で戦っている』と思わせ続けることだけが必要だった。だから彼女は、勝利に全てを賭けてはいなかったが、この戦いに全てを賭けている。この戦いがニースの作戦に希望をつなぐことを信じて。ツバメは叫ぶ。

 

「ともあれ私は全てを賭けます」

 

ツバメが言い終える瞬間、彼方はひときわ大きい振りで剣を叩きつける。ツバメはこの重い斬撃を自身の剣で受けたが、こらえきれず、二歩、三歩と後ずさってしまう。彼方はすかさず剣を構えなおし、とどめの一撃に入ろうとする。

瞬間、ツバメは時の流れが急に緩慢になったような感覚を味わう。ツバメの目の前では、たったいままで空気を引き裂く音を立てていた彼方の剣が、一転してハエでも剣先に止まりそうな緩慢さでツバメの首に近づいている。言うまでもない、この景色は、死を目前にしたツバメの脳が打開策を探して一時的に反応速度を急上昇させているからこそ見える景色だ。しかしこのときツバメは、彼方の攻撃を防ぐ妙案とか、反撃方法とかではなく、あることに気づいてしまう。

 

いま流れているBGM、もうすぐ終わる。次の曲をかけなければ。

 

死の目前で垣間見た超高速の世界のなかで、ツバメは決意する。まずは氷の剣を手から離し、両手を自由にする。そして、その両手を頭の横に持ち上げて、しっかりと2回打ち合わせる。

 

直後、彼方の剣がツバメの首を刎ねる。即死だ。自分の手が打ち合わさる音がツバメの鼓膜に届くことすらない。

 

体から離れて飛んでいったツバメの頭部が近くにあった氷筍に突き刺さる。頭部をなくした体は、数秒のあいだ血を噴き上げながら直立していたが、やがてバランスを崩して仰向きに倒れる。どこからどう見てももう死んでいるが、彼方は念のためツバメの体をつま先で小突いてみる。頭部もだ。それでも動かないことを確認する。

すぐに血だまりが広がり、彼方はその真ん中でひとり立ち尽くす。またしても、彼方にとってやや期待はずれな相手であった。しかしながら、彼方が一方的に滅ぼしてしまうにはどこか惜しい、ごくわずかな可能性は感じさせる相手だった。この世界で戦ってきた6人は、ずっとそうだった。そして、おそらく7人目も。

 

彼方以外の全てが動きを止めたその空間では、きちんと次のBGMが流れていた。そのBGMは別れのワルツ。アレンジ版が「蛍の光」の名で知られている、終末の定番曲だった。

心は見極めがたし推測せよ乙女

前回:彼方の反撃カウンターアタック

 

1

アリアの半独立空間チャンネルは、どこか見慣れた印象がありながら、ここ以外のどこにも実在しない、そんな街並みによって構成されている。もう少し具体的に言うと、レンガ造りの建物がやや目立つ西洋風の街並みで総じて絵画のように美しかったが、時代や地域を特定するに足る個性がいまひとつ乏しい、そんな場所だ。アリアの配信を観る視聴者たちのなかには、この街並みがヨーロッパの歴史ある観光地のように見える、という者もいれば、日本のどこか、できたばかりのニュータウンの一角のように見える、という者もいる。

そんな街並みのなかでアリアが特に気に入っている場所の一つが、町の一角の小さな林の中を通る、イチョウ並木のプロムナードだ。いま、アリアはこの空間の季節を秋に設定していたので、並木からはひらひらと落ち葉が舞い落ち続け、黄色いレンガで舗装された道の上に一枚一枚違った黄色を重ねている。

 

そのプロムナードの中央、ゆったりとした空気の流れを裂くように高速で動き回り、ぶつかり合う2人の人影がある。

一方は、トレンチコートを翻しながら駆ける銀髪の美少女・空水彼方……の姿を借りたツバメ。もう一方は、青い神官服を身にまとったポニーテールの美少女・ニース。2人はいま、事前に用意してきた台本に沿って練習試合を行っている。台本というのは、2日後に迫る空水彼方とニースとの戦闘の段取りを仮に決めた検討稿だ。2人は、検討稿に沿った戦闘が本当に空水彼方のふるまいとして自然に見えるかについて、アリアの助言を仰ぐため、アリアの前で練習試合を行っているのだ。

ときに、当のアリアは、2人からはやや離れた位置にあるベンチに座って、指でつまんだ落ち葉をくるくると回転させて遊んでいる。目のピントを、手前の落ち葉から奥の2人へ、奥の2人から手前の落ち葉へと行ったり来たりさせる。物思いにふけるときはそうするのが彼女のくせだった。

 

アリアは、ツグミからの要請を受けてからずっと、空水彼方という人間の心の在り方について考え続けてきた……空水彼方は、勝利そのもののためであれば他の何物をも犠牲にすることができる、という稀有な精神性を持つ。この精神性は、ある意味ではずば抜けて合理的であるとも評することができ、またある意味では絶望的に不合理であるとも評することができよう。いずれにせよ、その精神性が常人のそれからはかけ離れたものであることは間違いなく、それゆえに空水彼方は異物としてのみ世界に現れるのだ。だから、世界を移動する能力が空水彼方にインベーダーとしての身分を付加するのではない。インベーダーであるという空水彼方の素性がある側面に現れたとき、ひとはそれを世界移動としてしか認識できないのだ……そんな思考を巡らせていると、練習試合を中断したニースがアリアに呼びかけてくる。

 

「ちょっとアリア、ちゃんと見てる?」

 

アリアは落ち葉を離して、腕組みをしながらニースに応える。

 

「心配しなくてもちゃんと見てるわよ!」

 

空水彼方の精神性について考えるのと並行してではあったが、ツバメとニースの練習試合を観察することも決して忘れていたわけではない。

 

「じゃあ見てて気になったところを言わせてもらうけど。ツバメ、さっきニースが単発でファイアバリアを張ったとき、バリアを抜くためにアイスボルトを連発してたでしょ」

「うん。あまり空水彼方っぽくなかった?」

「いや、それ自体はいいのよ。問題はそのあと。ニースがファイアバリアをおとりにしてそこのイチョウの木の陰に滑り込んだとき、ツバメはその移動に気づいて、アイスボルトからメタルボルトに切り替えたわよね? 空水彼方ならあの状況でその選択はしないと思うわ」

 

不思議に思ったニースが口をはさむ。

 

「なぜそう考える? 私はあのとき防御手段をファイアバリアからイチョウの木に変えた、大雑把に言えば炎属性から植物属性に変えたわけだから、五行相克の魔法理論に従えば、攻撃手段をアイスボルトからメタルボルトに変えたツバメの判断は合理的だったと思うのだけど?」

「もちろん合理的なのよ。それに魔法戦闘の教本通り。でも、なんていうか、敵の都合に合わせすぎなのよ、空水彼方にしては」

「合わせすぎ?」

「そう。空水彼方だったら、敵が単純な防御を続ける限り、その属性が炎だろうが植物だろうが構わずアイスボルトを撃ち続けるわ。敵の属性に合わせて攻撃の属性を変えるとしたら、威力が足りないときよ。でも、パリラとの戦いを見たでしょう? 彼女のアイスボルトが連発されれば、ファイアバリアでもそこのイチョウでも問題なく打ち抜けるわ。あの状況では、属性相性は誤差でしかないの」

「なるほど」

 

ニースはアリアの説に納得してあごをさする。

いつの間にか変身を解いていたツバメは、一つ思い出してアリアに尋ねる。

 

「敵の都合に合わせすぎない、ということだったら、アリア、あの選択も間違っていたかな? 私の氷の牙による攻撃からニースが逃げていて、ニースが加速方法をマジックウィンドから風遁の術へと急に切り替えたとき、私、つまり空水彼方は、出方をうかがうために数秒間攻撃をやめてニースを泳がせた。いまにして思えば、マジックウィンドと風遁の術は原理が違うだけで効果は大して変わらないから、変化に気を取られずに攻撃を継続したほうがよかった、とか?」

「いいえ、それは違うわ、たぶん。その状況なら、空水彼方でも出方をうかがいに来る可能性がある」

「うん」

「レンラーラとの戦いのときなんかすごく出てたわね、空水彼方は敵に対して、いつも新しいやり方を期待しているってこと。原理が違うだけで効果が変わらない風遁の術をあそこで使ったら、逆に空水彼方の注意を引ける可能性はあると思うわ。『なぜ技を変えたのか、なにか策があるのか』ってね。それに、いままで空水彼方が使ってきた魔法を見る限り、忍術系や方術系は使っていなかったから。ひょっとすると、風遁の術を見るのが初めて、という場合も少しは期待できるわ」

「理解したよ。でも、難しいね……。一方では敵の都合に合わせすぎないところもあり、また一方では敵の出方に興味を持つ場面もあり。言われてみればわかるけれど。アリアみたいな心理分析は私にはとても真似できないよ」

「い、いや、私もまだぜんぜん確信がなくて、そんな褒められるようなレベルじゃ……。でも、そうよね。敵のことをしっかり思いやるわけでも、まったく見ていないわけでもない、そういうところにあのひとの想像力の本質がある、ってところまでは自信を持って言えるわ。そう、想像力よ。レイのときも言っていた、あのひとは想像力というものにこだわりがある。そして、あのひとの言う想像力は、完全な思いやりを意味するわけでも完全な無視を意味するわけでもない。自分の視界を制御して、自分が見たい未来だけを選択的に視る、それが空水彼方にとっての想像力なのよ」

「……」

「なによその沈黙は。私が一方的にしゃべってるみたいになるじゃない」

「……汽笛が、聞こえない?」

「え?」

 

ツバメが髪をかき上げて形のよい耳を出し、音の出所を探して周囲を見回しはじめるので、アリアも話すのをやめて耳を澄ます。ニースもだ。

すると、確かに汽笛らしき音がかすかに響いている。それも、近づいてきているようだ。しかし妙なことだ。アリアにはこの空間に鉄道を敷設した覚えなどない。

やがて、汽笛だけでなく、車輪が駆動する音、車両の連結部が軋む音、そして、街並みや木々がめちゃめちゃに踏み砕かれる音が立ち上がってくる。

アリアがついに音の出所に気づく。

 

「見て、あれ」

「蒸気機関車、だっけ?」

 

そう、蒸気機関車。この世界には存在するはずのない異物が、その進路に存在するものすべてをなぎ倒しながら3人のほうへ走ってくる。

3人は、迫るその場違いな物体に対し、とりあえずの戦闘態勢をとりながら、警戒心を上回る困惑を抱える。やがて、蒸気機関車はゆっくりとスピードを落とし、3人の前で停止する。数秒の間の後、客車のドアが開いて、ネグリジェとも見まごう薄手の黒のワンピースを着た銀髪の女性が出てくる。

女性は3人の姿を認めると、ぱっと顔を明るくして気さくに話しかける。

 

「あっ、アリアちゃんに、ニースちゃんに、ツバメちゃんやんな。ごめんなー、こんな盛大にぶっ壊しながら登場するつもりやなかってんけど、この列車いっつもこんな感じやねん。ほんとゲーマーの作るもんはクセがすごくてなー。あ、みんなもゲーマーか。失礼なこと言うたかな?」

 

アリアがおずおずと口を開く。

 

「あなたひょっとして、レンラーラが呼びかけていた人? たしかS.S.とか――」

「うんうん、せやで。うちがS.S.こと、空水ソラミズ此岸シガン。よろしゅうな」

 

2

落ち葉舞い散るプロムナードに突如として現れた蒸気機関車は、定期的に蒸気を吐き出してそのありあまる膂力をアピールしながらも、さしあたりはおとなしく停車している。そんな蒸気機関車が見える位置にある古ぼけたあずまやの中で、アリアたち3人と空水此岸はテーブルをはさんで向き合っていた。3人が当惑を隠しきれず押し黙っているのとは対照的に、空水此岸は笑みを絶やさずよくしゃべる。

 

「いやー、来るのおそなってほんまごめんな。うち、レンラーラちゃんの配信はもちろんずっと観てて、レンラーラちゃんが来てーって配信で言うたときもすぐこっちの世界へ来る列車に乗ってんやけどな。方角だけ見て適当な路線に乗って寝てたらいつの間にか全然違う方向に行ってるやん? 何回か乗り継ぐ羽目になったわ。なんでここの近くこんなに路線が入り組んでんのやろな? レンラーラちゃんのラストバトルにも間に合えへんかったみたいやし、悲しいわ。みんなも、ほんまご愁傷さま、な」

 

ニースはアリア、ツバメと顔を見合わせてから、ひとこと目を切り出した。

 

「路線、というのは? あなたは、この機関車に乗ってこの世界にやってきたんですか?」

「此岸でええよ。そうや。これに乗ってきた。こういうの見るん初めてやないやろ?」

「こういうの、とは間世界転移魔法のことですか? 正直なところ、これほど大規模で無秩序な破壊を伴う転移は初めて見ましたが――」

「あーちゃうちゃう、転移の仕方がどうこういう話やなくて、間世界転移を本質とするような人間と会うのは初めてやないやろ、ってこと。ほら、みんなはもう彼方と会ってるから……といっても、さすがにわからへんか?」

 

空水此岸は言いながら首をかしげる。首をかしげる動きに少し遅れて、腰までの長い銀髪がさらりと音をたてて揺れる。そう、この美しい髪、顔立ち、そして名前も。空水彼方とあまりに似ている。ニースは気になっていたことを訊くことにした。

 

「此岸さんは空水彼方と近しい存在なんですか? ご家族とか……」

「よくぞ聞いてくれました! そう、彼方はうちの妹なんよ。たったひとりの自慢の妹。顔かたちとかも似てると思ったらそのおかげやね。性格とかはあんまし似いひんかったけど」

「すると、あなたがたは世界を越える能力を持った種族?みたいな……だから同じ転移能力を?」

「うーん、そういうことでもないねんな。能力は血筋とは多分関係ないし。実はこの列車もほんとはうちのもんちゃうし。うちの能力は、こっち」

 

言いながら此岸はどこからともなく虹色の封筒を取り出す。これを見て3人は、あ、と小さく声を上げた。

 

「ほら、見たことあるやろ。この封筒と便箋でどんな異世界にでも手紙を送り届けて、絶対に誤配も誤読もされない。これが能力。うちの能力。名づけて世界便セグメントや。でも、言うたらあれやけど、うちはふだんあちこちの世界にじゃんじゃんこの世界便セグメントを送ってて、どの世界に送ったことがあるかなんて全部は覚えてないねんな。だからみんなんとこの世界にも送ってたのは最近知ったわ。
言うたらあれやけどでいえば、もうひとつ。レンラーラちゃんへのスパチャな。今日は一応、あれの件で謝るために来たんよ」

「そうでしたね。もうレンラーラもいないので、彼女が満足するかどうかはわかりませんが、私たち3人としても事情はお聞きしておきたいです。いったいなぜスーパーチャットがあの挙動になったのか」

「とりあえずは、ほんまごめんな。で、あの挙動になった理由なんやけど、ぶっちゃけるとうちにもようわからへんねん」

「はい?」

「いや、うちの能力、世界便セグメントが変なかたちで発動してああなったっていうところまではわかってるんよ。ただ、なんでチャットなんかで世界便セグメントが発動したのかがわからへん。まあ、チャットも手紙の一種と考えればうちが打ち込んだチャットが世界便セグメントの効果を発揮するのはありえへんくもないかな、とは思うねんけど、いつもは私の便箋でしか発動してへんからな。レンラーラちゃん以外のチャット欄であんなんなったこともないし。おかげでけっこう迂闊なことも書いてまってな。『いつも観てます♡』なんて書いたから、公開されてる配信はほんまに一回も欠かさずに見ることになってまってん。レンラーラちゃんの配信、もともと好きやったからええんやけどな」

 

少し眉根を寄せたアリアが口をはさむ。

 

「此岸さん、あなたほんとに悪かったと思ってます? レンラーラはあなたのスパチャでどれだけ気に病んでたと……」

「だからほんまにすまんかったて。な。此岸お姉さんにできることならお願いとかも聞くから」

「ま、いいですけど」

 

笑顔を崩さないまま、両手を合わせて謝罪のポーズをとる空水此岸に対して、アリアは存外はやく怒りの矛先を収める。

ニースが言う。

 

「お願いを聞いてもらえるということであれば。まずは空水彼方……彼方さんに、この世界を滅ぼすのをやめるように言ってもらえませんか」

「それはできひん」

 

此岸は即答する。

 

「なぜ? 彼方さんからすれば此岸さんはお姉さんですよね? 言うことを聞いていただけるような関係ではないんですか」

「そういう関係ではないっていうのもあるけど、それ以前に、うちがやりたくないから、できひん」

「そんな。できる願いなら聞くって言っているのに」

「やりたくないもんはできひんわ。借りがある相手からのお願いでも絶対にやりたくないことはあんねん。うちはいつでも彼方の意思を一番に尊重する。なんといってもひとりきりの妹やからね。あちこちの世界に存在してるニースちゃんとかとは、申し訳ないねんけど大事さが桁違いやねん」

「待ってください。普通の人間は、あちこちの世界に存在しているから、比較的に言って大事ではない、あなたのような旅人がそういった価値観になるということまでは納得しましょう。しかし、先ほども言っていましたね、彼方さんは『たったひとりの妹』だと。彼方さんは複数の世界に一人しかいないんですか?」

「そうや。ほんで、うち自身もそう。複数の世界に一人しかいない。
ええか? うちらが暮らしてるこの世界……世界群には2種類の存在者がおんねん。一方は、ニースちゃんたちみたいな、あちこちの世界のなかに無数のバリエーションが存在する存在者。もう一方は、うちや彼方みたいな、世界群のなかに一人だけ存在してて、その本質となる能力で世界をまたいで行動する存在者。もちろん、両者はどっちがエラいエラくないってもんでもないけど、うちみたいな後者の側の人間からすれば、後者の、よりかけがえのない人間たちとの付き合いのほうが大事にはなってくるんや。ひとにわかってもらえるとは思うてへんけどな」

「ふむ……まだはっきりとつかめていませんが、なにかすごく重要なことを教えてくださっている気がします」

「あいまいやね」

「すみません。しかし、わからないことがひとつ出てきました」

「うんうん、言うてみて」

「此岸さんは、どうやって此岸さん自身が世界群にひとりしかいないことを知ったのですか?」

「あー、それはなー、正確に言うとべつに断言はできひんのやけど。しいて言うなら経験則かなー。うち、列車やら世界便セグメントやらであちこちの世界を覗くようになってからまあまあ久しゅうてな、たぶんこの世界群に存在するたいていの世界は見て回ったと思うねんけど。いまだにうち自身とは会ったことがないからね」

 

そこでアリアが口をはさむ。

 

「ねえ、それって逆じゃないんですか?」

「逆? どういうことや?」

「なんて言えばいいのか……あなたの言い方だと、世界群が先に在って、その世界群のなかのほとんどの世界を列車や世界便セグメントで見て回った、みたいな感じですけど。本当は、列車や世界便セグメントで見て回った範囲が世界群のほとんどだと、あなたが勝手に決めつけてるんじゃないですか、ってことです」

「面白い考え方やね。たしかに、うちの立場からすれば、世界群の全域にアクセスできる能力が世界便セグメントなのか、世界便セグメントでアクセスできる領域を世界群の全域とみなさざるをえないだけなのか、判別はつけへんね。ただしそれは、判別をつける意味があれへんいうことでもあるねんけど」

 

急に込み入ってきた会話の内容に、ニースはやや感嘆して鼻を鳴らす。

 

「なるほど、空水彼方や此岸さんのような転移者は、自らが能力等によって転移できる範囲を世界群の全域とみなさざるをえない、のかもしれない。仮にそうならば、ある転移者が他の世界の自分自身と出会えないということは、世界群のなかにおけるその人物の絶対的な性質――世界群のなかに一人しかいない、ということ――を意味するのではなく、単にその人物の転移能力が世界群に対して相対的に持つ性質――もう一人の自分がいる世界には到達できない――を意味しているわけだ」

 

アリアがさらにニースの言葉の後を継ぐ。

 

「空水彼方や此岸さんには、もう一人の自分がどこにもいないんじゃなくて、ただもう一人の自分と出会えないだけ……。そうよ、空水彼方がもう一人の自分と出会えないとして、それは世界群に関する真実ではなくて、単に空水彼方の能力の限界を示しているのね。もう一人の自分と出会う能力をもしも想像力と呼ぶのなら、ほんとうに想像力が欠如していたのは空水彼方のほうだったのかもしれないわ。どんな世界に行っても自分じゃない自分と出会うことができないひと。たった一人ぶんの可能性のなかにある世界を行き来するばかりで、いま自分がいない世界に行くことができないひと。でも彼女の在り方は、ある意味で、いちばん強い想像力だともいえる――」

 

アリアはそこまで言ったところで、両ひじをついた此岸が妙ににこにことしながらアリアのことを見ているのに気づいて、また眉根を寄せる。

 

「なんです? 気分を害しました?」

「とんでもない。なんやアリアちゃん、彼方のことよく見てくれてんのやなーって思って」

「べつに好感からくるものじゃありませんけどね。あのひとは、私の大事な人を危険にさらし続けている、敵だから」

 

言い切るアリアの顔にはみじんの照れもためらいもなかった。

 

「敵や言うてもねえ。ほら、ツバメちゃんなんか寝てるし」

「寝てないです」

 

目を半分閉じかけながら話を聞いていたツバメは居住まいをただす。

 

「まあええわ。何の話やっけ? そうや、うちは、彼方を説得してゲームを辞めさせるとかでなければ、いちおうできる限りはお願い聞こうと思うとるから。なんやほかにお願いしたいことある?」

 

ニースは、一連の会話のなかで、この7日間の戦いの最終作戦に対するわずかな光明を見つけかけていた。

 

「はい、あります。お願いしたいこと」

 

3

時刻は19時。空水彼方は件のプロムナードを一人で歩いていた。彼方が足を踏み出すたびに、がさりと無思慮な足音が立つ。それは、レンガ敷きの路面がなにかとてつもない重量物に踏み荒らされたかのように荒れているからであり、またその上にまばらに落ち葉が積もっているからだ。しかし、無論というべきか、彼方は自分が立てる足音に動じることもない。この空間の招かれざる客は彼方であり、この空間の主は息をひそめて彼方の首を狙っているのにもかかわらず。

 

空水彼方は敵のペースで様子見の時間が続くことを好まない。だからやることはいつも同じだ。彼方はわずかに声を張り、まだ姿を見せないこの空間の主を挑発する。

 

「よく舗装した黄色いレンガの道だったろうに、壊してあるな。私にローラーブレードを使わせないためか? おもてなしの準備としては悪くないが、私は走ってもまずまず速いぞ」

 

彼方の声はわずかな反響を伴いながら、イチョウの木々のなかへ沁みこんでいく。そのわずかな反響が消えたとき、彼方の左斜め前方から1本の矢が飛んできた。あぶなげなくサイドステップを踏んで矢を避けながら、存外簡単に釣れたな、と彼方は思う。

 

「要撃戦か? そういうのはもうレンラーラでやったんだが」

 

敵は彼方の言葉には答えず、代わりに2本の矢を続けざまに放ってくる。1本は彼方の正面から、もう1本は右斜め前方から。彼方はまたも危なげなくこれらを避けながら、敵の姿を確認しようとする。第二撃と第三撃との間に、木々の間を人影のようなものが移動するのが見えた。しかし一瞬だ。

敵は木々に姿を隠しながら彼方に矢を射かけてきている。動きはなかなか素早く、視認が難しい。矢が着弾した一瞬後に弦が弾かれる音が聞こえるところをみると、矢自体の速度もなかなかのものだろう。着弾した3本の矢を見ると、かなり大きい矢じりを使っているが、その割には狙いも正確だ。総じて、機動性・貫通力・狙撃性能を兼ね備えた射手というアリアの一般傾向に違わない。彼方に挑むうえでのの最低限の実力は持っているといえよう。

あくまで最低限の、だが。

 

「避けるだけならわけはない。受け止めることだってできるぞ。次はどうするんだ――」

 

言い切る前に次の矢が飛んでくる。今度は正面。彼方は宣言通り、飛んできた矢を片手でつかみ、顔の前で止めた。そのとき、彼方は今度の矢がさきの3本とは異なっていることに気づく。矢じり表面に精緻な魔方陣が刻まれているのだ。

 

仕掛け矢トリックアローか」

 

即、矢を前方に投げ捨てると、間髪入れずその矢が爆発する。腕で頭を爆風からかばいつつ、横っ跳びに跳ぶと、彼方の進行方向にすかさず次の矢が飛んでくる。

彼方は空中で体をひねり、軌道を変えながら着地する。矢は彼方に直撃せず、地面に着弾したが、これにも魔方陣が刻まれている。着弾点からはたちまち植物のツルが湧きあがるように生えてきて、彼方の足に絡みつく。

ツルはものの数秒で彼方の全身をからめとろうとする勢いだ。彼方は力を込めて脚を振り、ツルを引きちぎると、今度は上向きに飛び上がる。敵の追撃はやまない。立て続けに放たれた3本の矢がトレンチコートの裾をかすめて彼方の背後の木に突き刺さる。アリアにしては狙いが甘いな、と彼方が思うのもつかの間、3本の矢を結んだ直線上に電撃がほとばしり、延長線上の彼方を襲う。

彼方は木の幹を思いきり蹴って電撃を避ける。そして、着地と同時に手近な木の背後に滑り込む。背中は幹にぴたりとつける。多彩な仕掛け矢を立て続けに射かけてくる射手を相手にするならば、数秒間と姿をさらし続けるのは賢明ではない。

 

彼方は慎重に、しかしためらわず、幹から顔をわずかに出してアリアの様子をうかがう。一見すると無人の木立のなかで、舞い落ちる落ち葉がときおり不意に切り裂かれる。ちらりと人影も見える。どうやらアリアは、数秒間木の陰で息をひそめ、一瞬で木々の間を移動し、また数秒間木の陰で息をひそめる、といった動きを繰り返して、彼方を射撃可能なポイントを探しているらしい。

ふいに、ローラーブレードのつま先が小石に触れる。彼方は、何気ない思い付きで、小石を蹴りあげて十数mさきの木に当てる。ちょっとしたデコイだ。

彼方の立てた物音が静かな林によく響くが、そこに矢が飛んでくることはない。さすがに彼方の居場所をよくつかんでいる、この程度のデコイには引っかからない。

 

アリアがよい射撃ポイントを見つけるまで待ってやる義理は彼方にはない。ここは、立ち位置をこまめに更新しつつアリアとの距離を縮めるべきだろう。しかし、不用意に走りだせばそれは明確な隙になる。

彼方は、アリアが木々の間を移動するタイミングに合わせて自分も移動することに決めた。すこし集中すれば、アリアが走りだす直前、空気が張り詰めるような独特の気配を感じることができる。彼方はその左のまぶたを一度閉じて、開く。今だ。

 

木から木へ、走りこもうとする両者の視線が交錯する。アリアは、移動のタイミングを合わせてきた彼方にすこし驚くが、しかし動揺している場合でもない、無駄のない動きで矢をつがえて彼方を射る。仕掛け矢ではない、通常の矢だ。対する彼方は腕からアイスボルトを放つ。2人はほぼ同時に木の陰に滑り込んだ。

攻撃は互いのかかとをかすめはしたが、当たってはいない。彼方がこの瞬間に移動したことはアリアにはやや予想外だったが、まだ慌てるわけにはいかない。アリアは彼女自身不思議に思うほど冷えた頭で次の動きを考える……目論見はやや崩れたが、また一から射撃位置を探し始めるべきか? いや、仮にそうしてもまた空水が動けばいたちごっこになるだけだ。ここはあえて、休止を挟まず、即座にもう一回移動するべきだ……そう腹を決め、アリアは木の陰から飛び出す。

しかし、このアリアの一瞬の判断も、彼方には想定内だ。アリアが飛び出すのにあわせ、彼方も再度飛び出してくる。またも両者の視線は交錯するが、両者の距離は一瞬前よりもぐっと短い。アリアはできる限りの速さで、今度は“鏑矢”を一本つがえて彼方を射る。彼方は相も変わらずアイスボルトだ。

彼方はアイスボルトを放った腕をそのまま振って矢をたたき落とす。すると、矢に一瞬遅れて、怪鳥の鳴き声のような甲高い騒音があたりに響き渡る。アリアのつがえた“鏑矢”は、魔法的に増幅された風切り音によって相手を驚かせ、威嚇し、隙を作ることを狙ったものなのだ。アリアは首をすくめてアイスボルトを避けながら、騒音の効果を期待して彼方を見やるが、彼方には動揺の色は見えない。一瞬のやり取りの後、両者はまたも木の陰に滑り込む。

木に背中を預けながら、アリアはさすがに少し歯嚙みする。くそ、この程度で動揺する相手じゃないってわかっていたはずなのに!

 

2人の距離は確実に狭まっていた。数秒間の沈黙。そして、アリアはなにかあきれたような声色でため息をつく。

 

「……はあ」

 

アリアは戦いを次の段階に進めることにした。アリアは彼方にも聞こえるように、落ち葉を踏みしめ、ゆっくり、はっきりと足音を立てて木の陰から一歩出る。

続いて、彼方も木の陰から一歩出る。彼方はどこか不遜な面持ちで、腕組みをしてアリアと向き合った。

彼方の薄く瑞々しい唇が開く。

 

「どうした、かくれんぼはもう終わりか?」

 

4

彼方はやっとアリアの姿を落ち着いて観察することができた。アリアは、モスグリーンで合わせた袖なしのチュニックとズボンの上から、黄土色のポンチョを羽織り、足には皮の編み上げブーツを履いている。実用的かつ素朴な装いだ。しかし、彼方のような練達の士にとっては、アリアの細く、しかし強靭な腕をそれとなく見せつける、小粋なファッションと感じられなくもない。

また、アリアは石造りの魔導弓を左手に持ち、腰の後ろ側には魔法の箙を着けている。アリアの右手は、一見所在なく垂れているようにも見える。だが、これまでの射撃をみる限り、彼女が射ると決めてから矢を抜き、弓から放つまでには三分の一秒とかからないだろう。

 

アリアは彼方の目を見て語りかける。

 

「そうね、精神の削り合いみたいな戦いをしかけたのは間違いだったわ。あなた、まるで心がないみたいだもの」

「君は、たかだか敵がこけおどしにひるまなかった程度で『敵には心がない』とうそぶくようなたちか? 思い通りにはならない相手をこそ“敵”と呼ぶのだと、君の通っていた魔法学校では教えていないのか?」

「まるで心がないみたいだけど、ほんとに心がないとは思っていないわ。自分の心にウソをつく……恐れていても恐れていないようにふるまうことは、案外誰でもしていることだって、私は職業ジョブ柄よく知っているもの。だから、次の手札を出すわ。今度はホンモノの●●●●●こけおどし」

「それならはやく出すといい。前置きなどいらない。わざわざ姿をさらすからなにかと思えば」

「ごめんなさい。このスキルは、目と目が合っていないと発動しないから」

 

彼方は目をそらそうとしたが、アリアが指を鳴らすほうが早かった。彼方は、アリアがなんらかの術をかけたことを察する。

 

「『眼魔術ガンマイリュージョン』。これが私のアドミンスキルよ」

 

アリアはつぶやき、即座に腰の箙に手を伸ばす。アリアが一本の矢を弓につがえた瞬間、彼方の目の前で奇妙なことが起こる。

弓を構えたアリアが突如として2人に増えたのだ。2人のアリアは、微妙に異なる角度から同じ動きとタイミングで彼方に向けて矢を放つ。彼方は、2本の矢を避けるか、弾くか、つかむか、わずかに考え、事態の奇妙さを鑑み結局は避けることを選ぶ。身をかがめて矢を避けた彼方の後方で爆発音が響く。いまの矢は“爆発する矢”だったらしい。

彼方は前傾したまま、猛禽のように駆けて1本の木の後ろに身を隠そうとする。しかし、2人に増えたアリアの動きはいままでの“かくれんぼ”とは明らかに違う。身をさらすことを恐れずに彼方の目の前に回り込んでくるのだ。彼方の鼻先まで接近した1人のアリアが彼方の足許に矢を放つのと、彼方が垂直に跳びあがるのが同時だった。彼方が地面を蹴ったまさにその地点に矢が着弾し、ツルが猛烈な勢いで生えてくる。

ツルはあと少しのところで彼方の足を捕らえられない。彼方は前方宙返りをして1人のアリアの背後に着地し、振り返って彼女を見る。するとそこにいたのは、またも増殖して、今度は1人が3人になったアリアだった。3人のアリアは前方、右後方、左後方の3方向を向き、同じ動きで今しも矢をつがえようとしている。無論、彼方の位置も3人の死角ではない。彼方は袖のなかで適当に氷のナイフを5、6本生成し、3人のアリアにばらまくように投げつける。ナイフが当たると、弓を構えた3人のアリアは霧のように消えた。

 

満足する間もなく、彼方は耳がしびれるような独特の感覚を覚える。殺気だ。

直感的に身体をそらした彼方のすぐ横を3本の矢が通り過ぎていく。直後に爆発音。矢が飛んできたほうをみれば、3人のアリアが並んで弓に次の矢をつがえているところだった。どうやら、最初に2人に増殖したアリアのうち、彼方が氷のナイフで消した方でないもう一人のアリアも3人に増殖していたらしい。彼方はいったん手近な木の陰に入って3本の射線から逃れる。直後、木に矢が突き刺さる音がする。彼方は木から顔を出してもう一度アリアの様子を確認する。今度はそこに12人のアリアがいた。彼方はひとりごちる。

 

「敵が増えるなら好ましくもあるが……増えるに任せるのも健全なプレイではないか」

 

彼方は思いきってアリアの群れに接近し、直接攻撃をしかけることを選ぶ。彼方は木の陰から飛び出し、弓に矢をつがえている途中の1人のアリアに近づいて魔導弓をもぎ取ろうとする。しかし、彼方が触れようとするとそのアリアはかき消えてしまった。そうこうするうちに残り11人のアリアはまたも増殖して、彼方を取り囲みつつある。いまは50人以上か、数えるべくもない。

50人以上のアリアが、わずかにタイミングをずらしながら彼方に矢を放つ。数十本の矢が四方八方から襲いかかってくれば、これを避けきる手段は彼方にもそう多くはない。彼方は念力じみた魔法で50本の矢をいちどきに空中に止めてみせた。静止した矢のうち、一本からにわかに電撃がほとばしり、電撃が伝った周辺の矢が消失していく。

 

「本物の矢は本体が放った一本きりか。どうもありふれた分身能力の類らしいな」

 

アリアたちが次の矢をつがえる前に、彼方は包囲がひときわ厚い一角に踏み込む。彼方が右足を勢い良く地面にたたきつけると、この右足から放射状に地面に亀裂が走り、亀裂から鋭い氷筍が列をなして飛び出してくる。とても避けられる攻撃ではない。数十人のアリアが串刺しにされたかと思うと、霧のようにかき消えていく。がら空きになった一角から彼方は包囲を突破して走る。

 

木の陰に入ったり出たりを繰り返して、彼方は意図的に射線を遮る。そんな彼方の背中に、くり返す波のように数十本、数百本の矢が飛んでくる。彼方は木を盾にし、念力で矢を止め、または氷のナイフをばらまくなどを織り交ぜて、巧みにこれらの矢の命中を防ぐ。ときおり、広範囲に氷筍を生やしてアリアの数を削ることをも試みる。

しかし、アリアが増えていく勢いは増すばかりだ。彼方があらためて振り返って観察すると、彼方を狙うアリアの群れは優に2000人を超えていた。2000人をとらえるため、最大範囲で氷筍を生やして9割5分のアリアを削っても、次の瞬間には、討ち漏らした100人がまた2000人にふくれあがる。彼方は、より丁寧に、なるべく一人も残さずアリアを殺すように心がけ、また次の氷筍を生やす。そうこうしているうちにも、いったいどのアリアが飛ばしたのか、正真正銘本物の矢が飛んできて彼方の耳をかすめる。

 

彼方は考える……なるほど少し珍しい能力ではある。実体を伴わない分身、それも、本体に不完全に同期した動きをする分身を生み出す能力とだけ表現すれば、多くの世界に存在する平凡な魔法ではあるが、分身の増殖ペースがかなり速い。実のところ、アリアが指を鳴らしてからまだ1分ほどしか経っておらず、また氷筍の攻撃でそこそこ間引いてはいるはずなのだが、アリアの人数はすでに数千人を数えている。加えて、いくつかの流派の幻術に完全な耐性を持つ彼方に対しても効果を発揮していることも特筆すべきだ。これは、眼魔術ガンマイリュージョンが敵の認識機能にはたらきかけるものではなく、空間そのものの基礎的な管理情報にはたらきかけるものであるからこそ可能なことなのか。

しかし、この魔法がはたらく原理など、どうでもいいことだ。大事なのは、どうやって攻略するかということだけ……彼方はアリアの群れに向き直り、片腕を勢い良く振って幾千人のアリアを消し飛ばす。音もなく消えていくアリアの大軍を見ながら、ふいに彼方は攻略法に気づいた。そんな気がした。彼方は左目を見開き、宣言する。

 

「私に見てほしいのか何なのか、知らないが。君は私にまばたきをさせたくないらしいな。私はまばたきをやめる。それがこの幻術を解くカギだろ?」

 

アリアの姿は、彼方がまばたきをするごとに増えていたのだ。それも、彼方が1回まばたきをすれば、アリアの人数は2倍に、2回まばたきをすれば3倍に、3回まばたきをすれば4倍に……と、まばたきの回数ごとに増加率も上がっていく。間引きを行わなければ、1分もしないうちにアリアの数は3000万人を超えるだろう。

しかし攻略は簡単だ。まばたきを我慢すればいい。彼方は必要であれば10分程度はまばたきを任意に止めることができた。

 

アリアの群れが一斉に鼻で笑い、不完全なユニゾンを作る。どうやら彼方がまばたきを止めることは想定内らしい。

 

「どうぞ、やめてみれば? それで私の増殖は止まるのか、それとも……」

 

しゃべりながらもアリアはまた矢をつがえ、彼方に浴びせかける。対する彼方は走り回りながら矢の雨を避け、止め、あるいは弾き返す。

まばたきをやめてから10秒が経ち、彼方の視界が変化し始める。この変化した視界にはさすがに彼方も驚愕した。目の前の数百人のアリアの輪郭が、水面に落とした油滴のように、歪み、溶け合い、流れ出したのだ。

さっきまで目の前に数百人いたアリアは、いまや1人とも10000人ともつかない不明瞭な黄土色のかたまりと化している。空間を埋めつくそうとする黄土色の奔流のなかに、ときおり思い出したかのようにアリアの身体の残骸がちらつく。ブーツのようにも見える赤茶色の影。細い腕のようにも見える肌色の影。意志の強い瞳のようにも見える橙色の影。

そして、矢の影までも。空間を埋め尽くす塊と化してからも、アリアの攻撃はやまない。はっきりしない輪郭の、しかし確かに殺気を伴った、矢のようなナニカが彼方のほうへ飛んでくる。彼方の脳裡に疑問符が浮かぶ。こんなものを避けられるのか? つかめるのか? 彼方はたまらず、一度まばたきをした。

すると、視界は突如正常に戻る。いまや数千人ものアリアが……しかし、割り切れる人数のアリアが彼方に向けて矢を飛ばしているだけだ。彼方は有限の本数の矢を袖で適当にはたき落とした。

 

アリアたちはさもおかしそうに、笑いをこらえた風な顔で説明する。

 

「私の眼魔術ガンマイリュージョンは、あなたのまばたきの回数に応じて分身の人数が増えていく、幻術の一種よ。あなたが普通にまばたきをしている場合、まばたきとまばたきの間、目を開けている時間には分身の人数は整数値をとる。でも、まばたきの瞬間、目を閉じている間にはその限りじゃないわ」

「本来、この術にかけられた人間が目を閉じている間、分身の人数は連続値をとるのか。だから、意識してまばたきを我慢すると、人数が連続値をとっている間の分身を私は認識せざるを得ないことになる。ほとんどの瞬間には分身の人数は無理数。だから視覚もエラーを起こす」

「ほら、またまばたきを止めてるでしょ。そろそろ分身が歪みはじめたはず」

 

アリアの言葉は正しい。彼方の視界では、またもアリアの輪郭が不明瞭になっている。

 

「しかし実に人間依存のギミックだ」

「人間依存というより、身体依存ね。あなたの身体があなたにまばたきをさせようとする意志に応じて、分身の回数は重なっていく。たとえあなたが意識の上でまばたきを我慢しても、身体にウソはつけないのよ」

 

さっきまでアリアだった黄土色の塊は、いつのまにか彼方を取り囲み、四方八方から矢のようなナニカを投げつけてくる。彼方は片腕で、片足で、舞うようにこの何かをはたき落としていく。ほとんどのナニカは腕や足に当たっても手ごたえがない。しかし、その手ごたえのなさに油断して適当に四肢を振り続けていると、唐突に袖を切り裂かれる瞬間もある。もはや命中かそうでないかもあいまいな領域のなかに溶け出しつつある。強敵ではないが、面倒な相手だ。彼方は左手をゆっくりと自身の後頭部へ手を伸ばす。その動きが奇妙にためらいがちなのを見逃すアリアではなかった。

 

「頭の後ろに何か隠してるの? それともその眼帯を●●●●● 外して●●● くれるのかしら●●●●●●●? ほら、はやく奥の手を見せなさいよ」

「……まさかこんなことのために使うとは思わなかった」

「私たちを見くびってた、って?」

「違う。君は、強さそのものに関しては私の想定を超えていない。ただ、さすがに面倒だから」

 

彼方は左目を閉じるとともに、眼帯を結んでいた紐を切る。眼帯の下から現れた彼方の右目は、ほどほどに赤く輝いていた。

 

「魔眼? いや、違う……」

「私の右目は機械でできている。渇きも疲れもしない。だから、もうまばたきをしたい意志に襲われることもない」

 

彼方は、眼帯の下にこの右目を封印してから初めて、純粋にものを見るためにその封印を解いていた。結果、この右目は、そこまで画質が良いほうではなかったが、しかし最低限正常な視界を彼方に提供していた。すなわち、たかだか数千人の整数人数のアリアを彼方は目にしていた。

 

「整数値なら全滅させるのにわけはない」

 

彼方はどこか吹っ切れたような面持ちで、右足を勢い良く地面にたたきつける。続いて左足、さらに右足をもう一回、たたきつける。すると、例の氷筍攻撃が、三回、かつてない広範囲に敷き詰められる。見渡す限りのアリアたちが次々と串刺しにされて消えていく。しかし、黙ってやられるアリアでもない。

 

「たった1人を射抜く側ならもっと簡単よ」

 

かき消えていくアリアたちのなかで、わずかな生き残りは一斉に彼方に矢を放つ。狙いはいささか大味だ。放たれた矢のなかで一本だけが彼方に命中する角度で飛んでいく。
彼方は顔の前でこの矢を掴んだ。

 

「狙いさえよければいいというものじゃない。受けとめられたら終わりだろ、こんな風に。君には教えたはずだが」

「何言ってんの。よく見なさいよ」

「? おいこれは――」

 

突如、彼方がつかんでいた矢の矢じりが閃光を放つ。常人が至近距離で目にすれば完全失明を免れない大光量。それは、アリアが最後まで温存していた、“閃光弾”とでも呼ぶべき仕掛け矢だった。

彼方の右目は閃光に耐えかね、視界を失っている。失われた視界は1分後に回復するのか、1時間後に回復するのか、もう二度と戻らないのか? いずれにせよ、いま彼方には何も見えない。左目をもう一度開いてもいいが、分身の増殖を許してしまっては相手のペースだ。彼方は完全な暗闇の中でアリアたちと戦い続けることを選ぶ。

 

「ふーん、目を開けないのね。姿も見えないのに私の音速の矢を防げるの?」

「やりようはある」

 

彼方は自分の周囲に背の高い氷筍を生やして囲わせる。直後、氷筍が砕ける音がする。アリアが放った矢を氷筍で防いだらしい。

 

「あなたでも何も見えないと怖いのかしら」

「なにかを怖いと感じたことは人生でもほとんどないが、今の状況は不都合だとは思う」

 

彼方はまたも繰り返し地面を踏んで、広範囲に氷筍を敷き詰める。だが、アリアの本体がやられた気配はない。

 

「あなたも目でものを見てるのね。ひとつ勉強になったわ」

「君がその知識を家に持ち帰る明日は来ない」

 

彼方は地面を踏んで、さらに氷筍を増やす。まだ本体がやられた気配はない。

 

「私とは限らないわ、この知識を活かす人」

「他人の成果に期待するばかりのやつがいくら集まっても同じことだ」

 

彼方はしつこく地面を踏む。でこぼこになってきた足元に、彼方はやや足を取られる。ふいに、彼方のほど近くで、何かががさりと倒れる音がした。ついに本体をやったのか。

 

彼方はアリアが抗弁してくるのを待つが、10秒ほど待ってもその気配はない。やがて、存外に早く復旧した右目がノイズ交じりの映像を彼方の脳に送信し始める。彼方はつい先ほど音がした地点を見やった。

 

そこには、地面から伸びた氷筍に貫かれ、息絶えたアリアの姿があった。

見る限り、即死だったらしかった。なぜなら、氷筍は心臓を正確に貫いていたからだ。この世界のアリアが、義眼や何かではなく、本当に射抜きたかった人体最高の急所である心臓を。

彼方の反撃

前回:一撃イチゲキ、のち沈黙

 

1

そこに立った者は、最初、そこを歴史ある城塞都市の一角か何かと勘違いするかもしれない。それは、石畳の道路の左右を、あちらこちらがツタに覆われた石造りの壁が挟んでおり、壁の向こうにはごつごつと不揃いなシルエットの城塞風の建物がのぞいているからだ。

しかし、ひとはすぐに違和感に気づくだろう。なぜなら、あらゆる道路は、少し歩いてみれば曲がり角や階段、行き止まりや短いトンネルや陸橋にやけに頻繫に突き当たるからだ。また、どれだけ歩いても、住居や店舗その他の生活感ある空間に行きつくことがない、それどころか、屋根のある場所を見かけることすらまれだからでもある。

そこは街などではなく、ただ人を惑わせるためにのみ複雑に造られた空間……要は迷路なのだ。この迷路に特定のスタートやゴールは設定されておらず、延々と地平線まで続いている。ただ、この場所をさまよう人々の目標としてちょうどいいランドマークがひとつある。それは、迷路のなかでもやや高くなった地点の中央に立っている高さ50mほどの展望塔だ。そして、この迷路が広がる空間こそがパリラの半独立空間であり、この展望塔の屋上こそがパリラがふだん配信を行っているお気に入りの場所だ。

 

屋上の中央にはマホガニーのティーテーブルと椅子が2脚出されている。ティーテーブルの上にはごく簡単なティーセット。椅子の片方には、いつも通り居住まいをただしたパリラが座っており、もう片方からは、アシルシア先生がちょうどいま立ち上がろうとしている。先生が着ている、簡素なデザインながら生地の良さを感じさせるキトンのひだが揺れる。

 

「じゃー、調整も終わったし、このへんで」

「まことに素晴らしい調整でしたわ、先生。本当に急なお願いになってしまって、ごめんなさい」

「いーよ。ま、パリラちゃんの今日のお願いは、レイちゃんのに比べたらずっと簡単だし」

 

パリラは、パリラが彼方と戦うこの日の朝早く、アシルシア先生に自分の身体の特別な調整を依頼したのだ。昨晩、レイと彼方との戦いを見ていて思いついた作戦を実行するためだった。

 

「本当に、アシルシア先生たちのおかげで可能になることがいくつもありますわ。感謝してもしきれません」

「ま、友達がいてはじめて試せることがあるのは私たちとしても同じだからね。ほら、不可能を可能にしてくれる人がもう一人」

 

そう言ってアシルシア先生が転移魔法で姿を消すと、ほぼ入れ違いに転移魔法で姿を現したのが、黒い着流しをまとった赤髪のオニ。ローチカ博士だ。なぜか転移してきた瞬間から、顎を目いっぱいあげて周囲を威嚇する視線を放っている。

 

「……おい、アシルシアあたりがあたしの悪口言ってなかったか?」

「先生がいたこと、よくおわかりになりますね。でも、悪口ではありませんでしたわ」

「はっ、どうだか」

「ようこそおいでくださいました、ローチカ博士」

 

ローチカ博士は、屋上の中央にある椅子へ迷いなく歩み寄り、彼女の下駄がガチリガチリと音を立てる。この空間の基礎設計を担ったのがローチカ博士であるので、歩くのに迷いがないのは当たり前のことではあるのだが、それにしても足音が必要以上に大きい。この足音は、もはや博士の不随意行動と化している、周囲の不特定多数の人間への威嚇行動の一環だ。より平たく言うなら、ローチカ博士は、“ナメられないようにしていないと死んでしまう”たぐいの人間なのだ。パリラは、自分自身とは大きく隔たった哲学を持つこの博士の見慣れた行動につい苦笑する。

 

両ひざでたっぷり幅を取って着席したローチカ博士は、着流しの袖に手を突っ込み、ガサゴソと袖の中を探る。やがて取り出したのは、スチール製の赤い大きな工具箱だ。ローチカ博士はティーテーブルが軋むのも構わず工具箱を上に置く。そしてふたを開けば、段違いになったいくつもの箱が展開し、その中には種々雑多な道具の数々が収まっている。ノコギリや金づちといった当たり前の大工道具から、絵筆や計算尺といった畑違いの道具、そして、パリラには名前も用途もわからない謎の器具の数々まで。そんな道具たちの数々の真ん中で特に目立っているのが、工具箱に据え付けになっているモニターとキーボードだ。これはローチカ博士が空間の構造をいじるときに最もよく用いる、汎用のコンソールであった。

さっそくキーボードを叩き始めたローチカ博士が、モニターに目を落としたまま言う。

 

「前置きは抜きで、さっそくはじめるぜ。この半独立空間の構造を根っこから改造するんだったな」

「はい。大規模な改造になってしまうかと思いますが……今日じゅうに行けそうでしょうか」

「朝、メールで要件をもらったが、これ、たぶんお前が思ってるほど大改造ってわけじゃねえな。知らねえと思うが、もともとこの空間はこういう類の改造も視野に入れて基礎設計してあんだよ。まあ15時くらいにはカタがつくんじゃねえの」

「……そうでしたか。助かります、わ」

 

何か含むところがありそうなパリラの口ぶりに、ローチカ博士は視線だけ一瞬パリラに向ける。が、すぐにモニターに視線を戻してキーを叩き続ける。

 

「パリラ、権限をよこしてくれ。もうリアルタイムで空間に反映させるから」

「わかりましたわ」

「……来た。……ところでお前、今日の戦いを仮に生き残ったとして、Celestiaを解散したあと何すっか考えてんのか」

「来年のことなんて言ったらお笑いになるでしょう?」

「言いたくないならいいんだ。べつにそこまで興味もない」

「正直に申し上げますと、何も考えていませんわ」

「そうか。……多少は考えとけよ」

「どうもローチカ博士らしくない世間話ですわね」

「そうか?」

「先のことを考えろ、とか、生きがいをもって生きよう、とかいった、大人が子どもに言うテンプレをなぞりがちなお説教をくださるタイプではないと思っていましたわ」

「テンプレかどうかはわからねえが? しっかし、あたしはお前らが思ってるよりつまんねえ大人だよ。そんでお前らはあたしからすりゃまったくのガキだ。まあ、お前らとじゃあ寿命が違うから、見た目じゃわかりにくいがな」

「そうでしたか。わたくし、博士のこと、いささか誤解していたのかもしれませんね」

「ひとの心なんて、誰にだってわかったもんじゃねえよ」

 

しばらくの間、ローチカ博士がキーを叩く音だけが響く。沈黙に耐え切れず、パリラはすっかりテーブルの端に追いやられていたティーカップをとりあげ、口をつける。冷めている。

 

「未来のことではありませんが、今日やりたいことははっきりとありますわ。ささやかなトリックですが、おそらく、この世界でまだ誰も試したことのないトリック」

「そのためにこの改造が必要なんだろ」

「はい。博士のおかげで実現できそうです。しかし、少しだけ困っています」

「は?」

「15時に完成となると、15時から19時の間はツバメさんとの模擬戦の準備と実行のために割くとして、19時に彼方さんとの本番を開始……私が練習をする時間がありませんわ。ぶっつけでいくしかありませんね、不確実ですけれど」

「おい、はっきり言えよ」

「13時に改造を完了できないでしょうか?」

 

ほんの一瞬ではあったが、博士がキーを叩く音が止まり、そして博士は片眉を思いっきりゆがめる。

 

「はぁぁぁあ? ……ったく、どいつもこいつも、おだてたり泣いたりすりゃ納入が早くなると思いやがって。エンジニアが15時っつったら15時なんだよ、そこに遊びはねえんだよ」

「わたくしはおだてたり泣いたりはしません」

「そうだな。お前が言ってるのは、『この改造で、まだ誰もやったことのないことができる』とか、そういうことだったな。誰が喜ぶかとか悲しむかじゃない、ただ純粋に、ある特定の事態の実現可能性……そういうものを人質にすれば、あたしに無茶をさせられるとかふんでるんだろ、どうせ」

「お察しの通りです」

 

ローチカ博士は、パリラがこれまでも、これからも決して聞くことのない悪態の数々をつぶやきながら、しかしたしかにキーを叩くスピードを速くしている。

 

「そんな作戦をとっても何も変わりやしねえよ。何を人質に取ろうが、あたしの能力が上がったりはしねえからな。まあ、言っても14時だな。最大限急いでやったら、14時に完成する可能性はなくはない」

「本当に助かります」

「確約はしねえからな! ……なんか最近お前らみんなそういう手管を使いたがるよな。誰か『ローチカはちょろい』って言ってんだろ」

 

犯人は主にアリアとニースだ。彼女たちは、Celestiaメンバーが集まる場で『ローチカ博士にお願いを聞いてもらう方法』といったものを講釈したりしなかったりしている。

 

「ところで、全然関係ないことですが、アリアさんは、人物評というか、ひとの性格の本質を見抜くのが巧いですわね、わたくしたちのなかではとくに」

「呆れたガキどもだな。お前ら、そんな調子で空水彼方に勝てるのか? あいつは見た感じ、お前らが好きそうな小手先の細工で倒せる相手じゃない」

「ふふ。勝てるにせよ勝てないにせよ、すべきことはそう変わりませんわ。それに、やりたいことだって変わりません」

「やりたいことだあ?」

「いまは彼方さんに勝ちたい以上に、博士が実現してくださるこの空間を実戦で使ってみたくてうずうずしていますの」

「手段と目的が入れ替わりがちなのも感心しねえ」

「耳が痛いですわ」

 

ローチカ博士は、会話を打ち切って、袖の中をまたガサゴソと探り始める。次に博士が取り出したのは、アルミ製の折りたたみテーブル2つと、大きなパソコンモニター2つ。博士はテーブルを手早く組み立てて、モニターを上に置き、モニターから伸びたケーブルを工具箱につなぐ。マルチスクリーン体勢を整えて、博士は作業を続行する。

 

「ひとつ、よろしくて?」

「なんだよ」

「前々から気になっていたのですが、ローチカ博士の袖って一体どれだけのものが入りますの?」

「三次元の物体なら無限に入るな」

「まあ! 四次元ポケットそのものですわね。わたくしたちの地元でも、それほど高度な空間拡張魔法はなかなか見ません」

「お前らんとこのインチキな空間拡張と一緒にすんじゃねえよ。あたしのは、トポロジー的な整合性をきちんととったうえで等方的な空間同士を接続してるんだ、お前らんとこみたいに強引に空間を歪曲させてるわけじゃない。そんなやり方すると、1リットル拡張するときと1億リットル拡張するときで違う魔法陣が必要になるだろ? やり口が場当たり的で意味不明なんだよ」

「場当たり的かもしれませんが、日用品を収納する程度の容量ならどの家庭でも同じ魔法陣を使っていますよ?」

「……」

 

パリラは思う、ローチカ博士もなかなか、手段と目的を入れ替えがちなところがあるのではないか、と……。

 

2

結局のところ、ローチカ博士は13時半にはもう改造を終えていた。パリラはその後1時間半、彼方との戦闘のための練習をみっちりと行い、それからツバメとの打ち合わせ、次いで模擬戦を行い、時刻はあっという間に19時30秒前。

展望塔の屋上と、塔から200mほど離れた迷路のただなかとで、パリラと空水彼方は向かい合う。

 

「ごきげんよう、空水彼方さん。ようこそわたくしの迷宮へ」

 

屋上に陣取ったパリラは、特別な配信ではいつも用いてきた緑のドレスを着ている。そのドレスは、ロココ調とバッスルスタイルを折衷したようないくぶん不思議な様式の一品だ。フリルやレースがふんだんにあしらわれて柔らかなシルエットを形作っていたが、さりとて戦いの中にあってパリラの動きを阻害しそうでもない。パリラ自身は、両手を腰の前のオーバースカートの下に隠してゆったりと立っていて、ドレスのデザインと相まって彼女の余裕をアピールしている。

 

「挨拶はいい。何度も確認をするのは好みじゃないが、19時きっかりから開始でいいだろうな、パリラ?」

 

迷路のただなかに現れた空水彼方は、今日も今日とて、黒のセーラー服にトレンチコートのいでたちだ。足には特製のローラーブレードを履いているが、その車輪は、彼方が爪先で地面をせわしなく叩く合間に時折高速で空転している。車輪は、ひょっとすると、彼方の戦いを待ちきれない想いを伝えているのかもしれず、あるいは、ここ数日強い敵に巡り合えていない苛立ちを伝えているのかもしれない。

 

「もちろん。事前の取り決め通りに参りましょう」

「知っているだろうが、私は容赦はしない」

「わたくしもです」

「さあ、時間だ――」

 

3

19時になると同時に、彼方は塔を目指して全速力で走り出す。何はともあれパリラに接近して直接攻撃を仕掛ける腹積もりだ。

走り出して1秒で、彼方が走っていた通路は行き止まりに突き当たる。この入り組んだ迷路にそれほど長い直線の通路はないことは、彼方も訪れてすぐにわかっていたことだ。彼方はジャンプして壁を飛び越えていこうとする。

 

そのとき、パリラがにこりと笑う。

 

ジャンプのために踏み切った瞬間、彼方の全身に強烈な違和感が走る。完璧に踏み切ったはずだが体が全く浮かない! 彼方は両手を振り上げて背筋を伸ばした格好のままで音を立てて地面を滑っていく。あわや正面の壁に激突、というところで、片足で壁を蹴ってどうにか身体を止める。

彼方にはいまだ経験のない現象だ。パリラは鈴を鳴らすような声で笑う。

 

「こんな魔法は珍しいでしょう? 最強の技とはいいがたいですが、私の代名詞、私だけのアドミンスキルですわ」

「たしかに珍しい。が、これでは決め手にはならない」

「ええ。だからこんな武器も用意しましたわ」

 

パリラは、オーバースカートから右手を出すと、空中で見えない布をつかんで取り去るような動きをする。すると、実際に透明マントのようななにかで隠されていたのだろう、パリラの背後に2mほどの槍が数十本現れる。パリラは一本の槍を軽々とつかんで、一片の迷いもなく、彼方へ向けて投擲する。

彼方は、右にすばやくステップを踏んで、槍を危なげなく避ける。この槍のスピードは、彼方が見切れないほどの速さでは決してないから。しかし、避ける動きの直前、彼方にほんのわずかだけ迷いがあったことをパリラは見逃さない。

 

「迷いましたわね? いましがたジャンプを封じられたように、左右の移動をも封じられるのではないか、とあなたは危惧した。答えは……こうです」

 

パリラがまた一本の槍を掴み、彼方に投げつける。まっすぐ飛んできた槍を避けようとして、彼方は右にステップを踏もうとしたが、またも違和感。足が地面でずるずると滑るばかりで左に進めない。彼方はすぐさま進行方向を左に切り替え、ぎりぎりで槍を回避する。

 

「この空間でのみわたくしに許された特殊な魔法を用いれば、あなたの特定方向への移動を封じることができます。上方向だけではありません。前後左右の移動も封じられます。これが私のアドミンスキル『脊柱落としアクシズドロップ』です」

「は?」

「昨日のレイさんにならって、かっこいい技名を付けたのですが……不自然でしたか?」

「……いや、べつに構わない」

「まあ、ともかく、あなたにはナイト・ツアーよろしくこの迷宮の中を跳ね回っていただきましょう。ご覚悟ください……ねっ!」

 

パリラは言いながら、立て続けに2本の槍を投げつける。彼方は左に急加速したが、1本目の槍を避けたところで車輪が急にスリップして左に進めなくなり、間髪入れず2本目の槍が飛んでくる。彼方はとっさに垂直にジャンプして2本目を避ける。

彼方は冷えた頭で状況を分析する……一度はジャンプの動きを封じられたが、いまはジャンプできた。“脊柱落としアクシズドロップ”とやらで進行方向を封じるのは永続効果ではないらしい。長く見積もっても十数秒程度の効果か? いままで上、右、左の計三方向に対する動きを封じられたが、ほかのあらゆる方向に対して進行を封じられるのか? 同時に複数の方向を封じることは可能か? 進行を封じる対象は私ひとりのみなのか? なにはともあれ、動くことだ。動き続けて、何度もこのスキルを使わせれば、限界はすぐに露呈するはず……目的を整理し、走り始めた彼方に、次々と槍が襲い掛かる。

 

入り組んだ通路を縦横無尽に駆け回り、空水彼方はパリラのいる展望塔に迫ろうとする。しかし、彼方の行方には数秒おきに正確な軌道で槍が飛んできて、また、不定期にどこかの進行方向が封じられもする。槍を回避したり、移動方向に急制動を掛けられたりするうち、彼方の走る経路はぐにゃぐにゃと折れ曲がっていってなかなか展望塔に近づかない。

脊柱落としアクシズドロップを受ける感覚というのは、いくぶん奇妙なものだった。彼方は最初、この魔法の正体を、魔法によって物理的な障壁を作り出す典型的な結界魔法かと思っていたが、そうではないことがすぐにわかった。このスキルが発動したとき、ある特定の方向に向かって進めなくなるのだが、このとき物理的な抵抗はいっさいなく、身体の各部も思い通りに動かせる。発動時に感じるのはむしろ、手や足や胴でなく、体の重心を空間に直接ひっかけられているような感覚だ。推測するに、この魔法は、物体の移動を物体の外部から阻害しているのではなく、物体のポテンシャルに特定の移動量を書き込むことそのものを無効化しているのだろう。パリラが空間自体に対する管理者権限を持っているからできる荒業であり、いかに他人の魔法を簡単に模倣する彼方といえど、根本的に再現することが不可能な裏技である。

 

はたから見る限りでは、パリラは余裕を崩していない。左手をオーバースカートに隠して直立したまま、右手だけで槍をつかんではテンポよく投げていく。槍の残弾もまだ多い。

 

「さすがは彼方さん、といったところですわ。もう30本は投げましたのに、うまく避け続けますね」

 

しかし、パリラの側からでしか見えない景色もある。パリラからは、彼方がこれまで走ってきた経路に沿って、点々と、壁や地面に槍が突き立っているのが見える。彼方の足跡はたしかにかなり蛇行してはいたが、着実に展望塔へ向けて近づいている。

パリラは内心苦々しい想いを抑えきれない。半端な敵ではないと知っていたが、これほどとは。

 

「避けてばかりでも始まらない。まだまだ試すべき手札は無数にある」

 

彼方はそうつぶやくと、詠唱らしい詠唱もなく、ただ右腕を無造作に振る。右腕からアイスボルトが飛び出す。

その動きのあまりのそっけなさにぎょっとさせられながら、パリラは努めて平静を装い、脊柱落としアクシズドロップを発動する。空中で前方向の動きを封じられたアイスボルトは不自然に軌道を曲げ、垂直に跳ね上がり、垂直に落ちていく。

 

「よい着眼点ですわ。試していただいた通り、脊柱落としアクシズドロップの効果は生きた敵の身体だけでなく、物体や魔力の塊を含めたすべてのものに対して適用されます。わたくしがこのスキルを発動している間、この空間中のすべてのものは特定の方向に動けません」

「ならこれはどうだ?」

 

彼方は両腕を左右に広げて、指先を軽く振る。パリラはつい、身構える。

見れば、塔の両側から、塔とほぼ変わらない太さの氷の牙が、湾曲しながら伸長していく。放置すれば、10秒ほどで塔の屋上は2本の氷の牙に挟まれて圧壊するだろう。パリラは、氷の牙の根元をめがけて槍を投擲する。右、ついで左と、落ち着いて、順番に。氷の牙は塔を嚙み砕く前に根元から崩れ落ちる。

 

「重ねがさね、さすがですわ。物体が移動する現象ではなく、物体が増殖したり角度を変えたりする現象に基づいている攻撃は脊柱落としアクシズドロップでは防げません。しかし、これだけ遅いスピードの攻撃であれば槍だけで対処できますわ。レンラーラさんのようにはいきませんことよ」

「ふん」

「さあ、まだまだわたくしの攻撃は終わりませんわ」

 

またも、パリラは彼方に向けて槍を放ち、彼方はジグザグに迷路を走り抜けながら槍を回避していく。

じわじわと、しかし着実に塔に近づきながら、彼方は考える……敵は、脊柱落としアクシズドロップとかいう珍しいだけで●●●●●● たいして●●●● つぶしも●●●● きかなそうな●●●●●● 能力●●を、分析しがいのある難解な能力だと思わせたがっている。その狙いはなんだ? “脊柱落としアクシズドロップの謎”とかいうあからさまな謎解き要素にまぎれた、もう一段階手の込んだ騙しが仕掛けられているのではないか? いずれにせよ、敵の謎解きごっこにいつまでも付き合い続ける義理はない……彼方は、曲がり角を駆け抜ける一瞬に、スピードを殺さずしゃがみこんで、ローラーブレードの上に手を走らせる。たちまちローラーブレードから翼が生え、彼方は空に舞い上がる。

すぐさまパリラが上方向への移動を封じる。身体の重心が見えない天井にぶつかるような錯覚が生じる。しかし騙されてはいけない、上昇ができないだけで、前後左右、それに下方向への飛翔は自由自在だ。彼方は音速にも迫るスピードで空中をまっすぐ前進する。

ふいに上昇が解禁され、彼方の身体はふわりと浮くような錯覚を得る。続けて、前方向への移動が封じられ、さながら見えない壁に叩きつけられたかのように急制動が加えられる。彼方の全身を流れる血が頭部に押し寄せ、視界が真っ赤に染まる。しかし意識を失う程ではない。彼方はすぐさま上昇に転じる。

パリラがここぞとばかりに槍を投げるが、右へ左へと蛇行しながら空を駆け上がる彼方を捉えることはできない。その姿はいまや雲をつかんだ龍にもたがわない。

上昇し続けた彼方が、ついに屋上のパリラと同じ目線の高さまで到達する。

 

パリラは空中の彼方とはじめて目が合う。その冷たい殺意をたたえた紅い瞳を見て、即、次の行動を決める。前方向への移動を封じたまま、同時に上方向の移動も封じる。脊柱落としアクシズドロップによって封じられる移動方向は、なにも、同時に一方向までと決まっているわけではない。二方向や三方向を同時に封じることもできる。ただ、より多くの方向を同時に封じようとすればするほど、持続時間は短く、消費魔力は大きくなるため、同時使用は切り札としてとっておいたのだが。

 

加速しきった状態で前方向と上方向の移動を封じられ、またも彼方の視界は真っ赤に染まる。さすがの彼方も、今度ばかりはコンマ数秒間は意識の混濁を免れない。しかし、急速にかすんでいく視界のなかでもはっきりと確認できたことがある。それは、二方向同時に脊柱落としアクシズドロップをかけた瞬間のパリラの左腕の腱のこわばりだ。そのこわばりは、指を曲げたときに特有の動きだとみて相違ない。左手の先をオーバースカートでずっと隠していても、指につながった腱の動きで、指を曲げていることがわかってしまう場合があるのだ。

彼方は確信を得る。パリラは脊柱落としアクシズドロップを発動するトリガーとして、一方向につき一本、特定の指を折る動作を行っている可能性が高い。ただ、上下左右前後の六方向を封じる技のトリガーとして、5本しかない片手の指の動きを利用していると仮定すると、やり方としてはいささか不調和には思えるのだが。まあ、どれか一方向のトリガーを省略したとしても、実用上は問題ないだろう。

 

いくつかの閃きを得るとともに、彼方は鮮明な意識を取り戻す。コンマ数秒間の混濁のうちに彼方の身体は数m落下していて、そこへさらにパリラの槍による追い討ちが飛んでくる。瞬く間に、彼方はさらに十数m下降させられ、それでもしっかりと空中にとどまっていて、不遜にパリラを睨みすらしている。

 

「汝の正体見たり、とでもいった表情でしょうか? 正直なところ、二方向同時制限はもうちょっととっておくつもりでしたわ」

「複数方向同時制限ができるとかできないとか、その程度の謎解きを遊んでやってるつもりはない。もう、君のやりたいことはだいたい見えた。つまらない手管だ」

「……強がりかしら、それとも?」

「前方向も上方向も、いつまでも塞いでいられないだろ? 終わりにしよう」

 

彼方は再びパリラに向かって飛翔する。パリラは立て続けに槍を投げ、彼方がこれを回避するのに従って彼方の行く手となる方向を封じていく。右と下。左と後ろ。前と下。上と右と左……。しかし彼方は、動きが封じられるとすばやくそれを察知して、封じられていない方向へ逃げる。脊柱落としアクシズドロップ発動の察知とその対処に、明らかに慣れてきている。

彼方は目に見えない立体迷路を解くように、空中を幾度も直角に曲がりながら、ついにはパリラが立っている地点までたどり着く。もう手が届く。彼方は右手を大きく振りかぶって、目前のパリラを殴りつけにいく。パリラは突如、走りだすような動きをする。

 

そのとき、ありえないはずのことが起こる。彼方の拳はそこにいるはずのパリラをすり抜ける、しかしパリラはそこから一歩も動いてはいない。彼方とパリラが完全に同じ場所にいる。なおかつ、お互いの身体は触れ合っていない。

パリラの姿が幻影だったのか? 違う。パリラの姿は彼方の姿とまったく同じ場所に現れていながら、互いに重なり合ってもいないし、輪郭も鮮明だ。第一、並大抵の幻影魔法は彼方には効かない。

 

パリラが満面の笑みで言う。

 

「つかまえましたわ」

 

彼方は床を蹴ってその場から動こうとする。しかし、パリラの言う通りだ。身体自体は自由に動かせるが、重心が空間に縫い付けられたように、上下左右前後どちらにも移動できない。

 

「あなたにはこの最後の攻撃は避けられませんし、受け止めることもできません。ごきげんよう、空水彼方さん」

 

パリラは早口で言い切って、手にした槍を彼方に向かって投げつける。それはごく近い距離、まるで理外の方向から放たれる攻撃だ。パリラの言う通り、誰にも避けられないし、受け止められないはずだった。しかし。

彼方はこの槍の穂先をたしかに掴んで、止める。

 

「こんなもの、飛んでくる方向が見えれば止めるのは造作ない」

 

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彼方は、片手で受け止めた槍を、飛んできた方向に投げ返す。その方向は、上下左右前後のどれでもない、第七の方向だ。

彼方は、理外の攻撃に対して、ただしく理外の反撃を返したに過ぎない。しかしパリラはこの反撃を予期できなかった。彼方の投げ返した槍が腹部を貫通し、パリラは激痛に崩れ落ちる。

彼方はいたって冷静な表情のまま、つかつかと足音を立てて歩み寄っていく。彼方から見て第七の方向にいるパリラへ。

 

「君の能力、脊柱落としアクシズドロップとか言ったな、あれは、空間中にある敵などの物体、その移動方向を制限する技の一種だ。移動を制限する技といえば、その応用法は様々考えられるが、究極的にやりたいことは誰だって同じだろう。敵の完全な捕縛だ。もし、移動を制限する技を多用する敵が、敵の完全な捕縛を速攻で実現して即死技を使ってはこないとすれば、たいていの場合、すぐには敵を完全に捕縛できないなんらかの理由がある、という予測が立つ。君を相手にした場合も例外ではない。君は能力を小出しにしながら戦って、能力の発動条件をはぐらかしていたつもりかもしれないが……」

 

パリラは喉奥から血があふれてくるのを感じる。彼方の講評に相槌を打つこともできない。

 

「君が完全な捕縛をすぐには使わなかった理由は、脊柱落としアクシズドロップの効果が、敵だけでなく空間中の物体全て……それこそ君の槍も含めて適用されるから、だな。ひょっとすると、魔力消費量の問題もあるのかもしれないが。いずれにせよ、君は完全な捕縛――普通に考えれば六方向の制限だが――を使うまでに、それを使うのにベストなポイントまで私を誘導する必要があった。そこで、この空間を使った小細工だ。
この空間、実際には四次元空間だが、視覚的には完全に三次元空間として表現される。この空間のなかにいる人間にとって、物体の位置におけるW軸方向のズレはすべて捨象されて、すべてがXYZ空間上に存在しているように見える。本当はW座標が違うのにもかかわらず。パリラ、君が最後に立っていた場所もそうだ」

 

彼方は天を仰ぐ。この迷路、かろうじて見た目以上の迷路ではあった、と思いながら。

 

「君は、君が立っている場所とXYZ座標を同じくする直線上まで私を誘い込んだうえで六方向の同時制限をかけ、私の移動を完全に封じ、その槍でとどめを刺すつもりだった。六方向を封じられたら、君以外誰にも動くことはできないはずだったからな。しかし、私には一度見た動きならばたいていは真似できる。ただ一度見ることだけが必要だった、君がW軸方向に槍を投げるところを。だから一度見て、受け止めて、そっくり逆に投げ返した。
ただそれだけの戦いだ。決着はついた。本当は指の動きだって関係ないんだろ? ただ私を、スキルの同時使用は最多五方向までだとミスリードするために、魔法の発動にトリガーが必要なふりをしていただけのことだ。
頼まれもしないのにぺらぺらしゃべってしまったな。さあ、君が聞きたいだろう謎解きごっこは終わりだ。君のほうは言い残すことはないか」

 

パリラは思いきり吐血する。美しい緑の光沢を放っていたドレスも真っ赤になる。もう10秒と持たずに死が訪れると、パリラにははっきりとわかる。

血みどろになった顔で力なく微笑むと、かろうじて聞き取れる声でパリラは言う。

 

「彼方さんは……わたくしを買いかぶっています……トリガーがないと……ダメだったんです……」

 

パリラは左手をオーバースカートから出す。その手には6本の指。

 

「わたくし……修行不足……でしたから……」

 

それきりパリラはこと切れた。

一撃、のち沈黙

前回:未練者リビングデッドの夜

 

1

大陸を縦断する巨大な山脈の中でもひときわ高く、雲すら眼下に望む、そんな峰の頂上付近に、赤い瓦葺きの寺院が建っている。この寺院、設定から言えば、拳法の精髄を極めようとする者たちが修行を行うための場、ということになっている。そして、この寺院の境内が、ふだんレイが配信などを行っているエリアでもある。

寺院の本堂の前には石畳が敷かれた大きな中庭が広がっている。石畳のあちこちは、幾千年と人々に踏まれてきた証拠としていびつに削れ、へこんでいる。石畳がとくにへこんでいる一隅はレイが修練をするときの定位置だ。そして、いまこの時もレイはその定位置に一人たたずんでいる。

目を閉じ、身体の芯をしっかり意識して立ち、ゆっくりと深呼吸。息を吐き切って一拍。次、目を開くと同時に、重心を落として身構え、存在しない敵に向かって突きを打ち込む。間髪入れずに上段回し蹴り。反撃を手刀で捌きながら肘鉄を一発。続いて膝蹴り……。

 

空水彼方との7番勝負の3日目、レイが彼方と戦う日の早朝。レイは、いつもそうしてきたように、この日も日課の演武を行っている。わずかに霧がかった境内で、動いているのはレイだけだ。レイは、何千回何万回と繰り返してきた動きにしか出せない鋭さで、突き・蹴り・その他すべての攻撃を敵に打ち込んでいく。一撃ごとに空気がびりりと震え、レイの頬はゆっくりと上気していく。

 

15分ほどでレイは演武を終える。直立して息を整えるレイに対して、霧の向こうから近づいてきた人影が声をかける。

 

「おはよー、レイちゃん。今朝も精が出るね」

「アシルシア先生! おはようございます!」

 

レイは笑顔で挨拶をして頭を下げる。

現れた人物は、美少女エルフVtuberのアシルシアだ。レイに近づいてくる彼女の歩みに合わせてツインテールがさらさらと音を立てて揺れ、エルフ特有のとがった耳はひょこひょこと角度を変える。

 

「いやー、レイちゃんが演武をしてるときの動き、いつ見てもほれぼれするねー。さすが私が作った身体」

 

こう言って満足そうに頷くアシルシアだが、対するレイの表情は少しだけ曇る。

 

「おかげさまで、いつもいい動きができます! ……そう、いい動き、させてもらってるんですけど……アシルシア先生から見て、私の動きが私の身体のポテンシャルを引き出し切れていないところってありませんか?」

「レイちゃんらしくもない、遠回しに言ったりして。要は、先月の調整だと、身体がレイちゃんの動きについてこれてないんでしょ」

「はい」

「それは正直すぎ」

「すみません!」

「いや、いーよ。たしかに、プロの私から見ても? 調整の余地はまだまだあるかにゃー。いまちょっと見させてもらった感じだと――」

 

言いながら、アシルシア先生は両手でレイの肘や膝に触れ、曲げ伸ばしをして変形の具合を確かめながらぶつぶつと所見をつぶやき始める。

 

「正拳突きとかしたとき正中線から少しずれる感じがあるね。やっぱり肩甲骨にあたるボーンの支点はもう少し胸側にずらしたほうがいい感じ? あと膝を曲げたときのぎくしゃく感もけっこう気になる。やっぱり二重関節に戻したほうがいいかなー、でも腿の捻りに関与するボーンこれ以上増やしたくないしなー。あ、足首のIKはけっこうシンプルなやつでもうまくいったよね、これみたいなのを膝にも持ってきて、ついでにシェイプキーで大腿四頭筋の表現も盛っていって……あーでもそれやるならウェイトも塗りなおしたほうがいいし……」

 

一人の世界に入り込みつつあるアシルシア先生に、レイはさながらお人形のようにもてあそばれる。ここ5年間、アシルシア先生とレイの間で毎月のように行ってきたことではあるのだが、レイはいまだに、これが始まると少し照れて上のほうを向く。そして不思議に感じる。アシルシア先生が、“ボーン”とか“メッシュ”とか“ウェイト”とかいった謎の理論でもってレイの肉体を調整すること。そしてその調整がほかの手段とは比べ物にならないほどレイの肉体の動きを滑らかにすること。

 

かつて、アシルシア先生はレイに語ったことがある……天上界の論理に当てはめるならば、自分がレイに対してする仕事は医師と鍼灸師と整体師とマッサージ師の仕事を合わせたようなものだ、と。レイはその言葉を聞いて、アシルシア先生よりも前に出会ってきた幾人かの医師や鍼灸師を思い出していた。

医師にせよ鍼灸師にせよ、天上界を見渡せば様々な流派がある。そしてそれぞれの流派はそれぞれに違う見方で人体を分析しアプローチする。ある流派は、人体には4種類の体液が流れていてその循環が身体の調子を決定している、などと考えるし、またある流派は人体表面に無数に存在する“ツボ”と呼ばれるスイッチが身体のあらゆる機能を引き出すと考える。あるいは、ある種の虫が人体に出入りすることがあらゆる心身の好調不調の原因だと考える流派もあるし、はたまた、精神・感情・五感のすべてのはたらきを脳のみに帰する流派すらある。それら無数の流派はどれも、レイのような一般人が見たままに見てとるような仕方とは違う仕方で人体を見つめていたが、どの見方にも一面の真実が含まれていることをレイは認めざるを得なかった。換言すれば、どんな医術でも鍼灸術でも、効くときはわりと効いた。

しかし、これまでレイが出会ってきた医師や鍼灸師のなかでも、アシルシア先生が人体を見つめる見方はとりわけ奇妙だった……先生曰く、人体を構成するものは主にボーンメッシュである。骨と皮は、空気も重力もないうつろな空間に浮かんでいて、お互いに直接の関わり合いはない。ウェイトという基礎的な魔法が仲立ちになって、はじめて骨と皮が連動し始めるのである。

筋肉も血液も内臓も登場しないどころか、あろうことかマナすら登場しない、そんなアシルシア先生の話しぶりを聞いていると、レイは「なぜこの人が身体を手入れしてくれたときが一番調子がいいんだろう」と当惑の念を新たにするのである。異世界から技術者を迎えるとは、こういうことだ。

 

そうこうしているうちにアシルシア先生は一通りの調整を終える。

 

「よーしできた。レイちゃんちょっと動いてみて」

「はい!」

 

レイは元気よく答え、正拳突きや回し蹴りなどを盛り込んだごく短い演武を即興で舞ってみせる。

 

「ばっちりです! 手も足も最短距離で敵に届いてる感じがします!」

「それはよかった。まあ、結局あんまり大規模な改修はしないことにしたけどね、それで十分みたい」

「もともと最高のボディだからですね!」

「はは、ありがとう。さあ、そのバージョンのボディはOKとして、今日は●●●まだ●●調整●●しなきゃ●●●●いけない●●●●ボディが●●●●50●●人分は●●●あるからね●●●●●、どんどん調整して行こう」

 

Vtuberレイの身体は一つではない。腕や足や目や耳など、パーツごとにそれぞれ10~50のバリエーションがあり、レイはそのバリエーションを任意に切り替えて組み合わせることができる。そして、この『事前に用意してあるパーツの組み合わせとして自分の身体を作り変えられる』ことこそがレイのアドミンスキルである。要は、自分が支配する空間内で発動できる肉体改造魔法だ。ツバメなどが得意とする一般的な変身魔法とも似ているが、これらとは違って、チャージ時間と遷移時間はほぼゼロで発動でき、魔力消費もほとんどないため、戦闘にはいくぶん役立つスキルである。ただし、肉体に刻まれたダメージはダメージ部位を交換してもそのまま引き継がれるため、回復用途には使えない。

 

「わがまま言ってごめんなさい! 使うかどうかもわからないのに、急に50人分も」

「いーよ、どんどんわがまま言ってくれて。私も好きでレイちゃんの身体調整してるしさ。それに――」

 

アシルシア先生は目を細めて笑い、レイの髪をくしゃくしゃとかき乱す。

 

「レイちゃんだって、彼方さんを倒してそれで終わりじゃないからさ。世界を滅亡の危機から救って、Vtuberも終わりにして、そのあとでもパーツ使うことあるかもしれないじゃん」

「……そっか。私、すぐ目の前の敵のことしか考えてなくて」

「そこがレイちゃんのいいところだけどね。あと、私と少しだけ似ているところ」

「アシルシア先生、いつも感謝してます!」

「ありがとう。さ、次はどの身体にしよっか……」

 

2

時は流れ、戦闘が開始する19時まで、あと5分。レイの拠点である寺院の塀の周りでは、修行僧らしき風貌の男女が数百人と列をなし、一糸乱れぬ動きで演武を行っている。

トレンチコート姿の女性が、寺院の正門そばの土塀にもたれかかって腕組みをしながら彼らの演武を見つめている。ついさっきこの半独立空間チャンネルを訪れたばかりの空水彼方だ。

やがて、木造りの門扉がその大きさには不釣り合いなほど勢い良く開かれ、レイが顔を出す。

 

「お、来てるね! 彼方さん……呼び捨てでもいいかな?」

「構わない」

「ありがとう、彼方。さ、入って!」

 

レイと彼方は連れ立って正門をくぐり、誰もいない中庭を横切って本堂へ向かう。元気のよい足音を響かせながら、レイは彼方に語りかける。

 

「いつもだったら中庭でも修練をさせてあげてるんだけどね。今日ばっかりは特別!」

「表にいる奴らのことだな。君の手駒ミニオンか?」

「手駒とは言えないね! あの人たちはもともと、この半独立空間を作ったときに、雰囲気づくりとか言ってローチカ博士が置いといてくれたNPC。容姿だけこっちでカスタムして、あとは放っておいたら勝手に修行してる。たまにNPC同士で組み手もするし、各個が自律的に判断して上達・進化もする。でも、私たち本物の人間と戦わせるような命令は無理。だから安心してよ、私はレンラーラみたいなことはできないから!」

「助かるな、楽勝の相手とばかり連戦にはなりたくない」

「手厳しいね!」

 

そのうちに2人は本堂に入っていく。

正面の扉を入ると、いきなり40m四方ほどの広間が広がっている。どうやら本堂の面積はほとんどこの広間で占められているらしい。

床は屋外と同じで石畳。ただ屋外よりはずっと平滑に加工されている。向かって奥側の壁には凝ったデザインの透かし窓がいくつもあけられていて、広間の隅々までほどよく外光が差し込む。両脇に当たる壁は全面が書棚になっていて、武術指南書らしき古めかしい巻物や冊子がいっぱいに詰められている。書棚の手前には古代中国風の多種雑多な武具・防具や、木人椿などの練習用具が並ぶ。また、10m程度の間隔で柱が立っており、それぞれの柱から香炉らしきものが鎖でぶら下がっている。ハッカに少し似た怜悧な香りが堂内に漂っているのはこの香炉のためだろう。

 

レイは広間の真ん中で立ち止まって、彼方のほうを振り返る。ポニーテールが揺れる。

 

「戦いの場所はここにしようと思って。19時で鐘が鳴るから、鳴り始めたら即開始! 異存は?」

「ない。君こそ、至近距離の真っ向勝負で私とやりあう覚悟はあるんだな?」

「どうなんだろうね?」

 

肩をすくめて見せるレイに、彼方はいぶかしげな視線を向ける。

 

「……」

「でも、どっちみち腹芸やなんかは性に合わないじゃん?」

「そういうことなら、君らしくもあるが」

 

それきり本堂に沈黙が訪れる。目を閉じ、深くゆっくりと呼吸しながら、全身から丹田へ、丹田から手足の指先まで気をみなぎらせていくレイ。醒めた目で敵を見つめながら、足を肩幅よりやや広く、両手を胸の高さに差し出し、いっこう楽に構える彼方。2人の間を乾いた風が吹き抜ける。

そして、戦いの鐘が鳴る。

 

3

戦いが始まるやいなや、レイは渾身の正拳突きを繰り出す。彼方は一切のタイムラグなく、交差した両腕でこのこぶしを受け止め、上に捌いて水平に手刀を打ち込む。レイはこの手刀が脇腹に入る前に左手で受け止め、そのまま手首を極めにかかる。彼方は地面を蹴って身体ごときりもみ回転、極めから逃げる。レイは極めを中止してすばやく彼方の体を引き寄せ、膝蹴りを叩き込む。彼方は膝蹴りを同じく膝蹴りで受け、打ち合った両者は互いに手の届かない位置まで後退する。

しかし、それも一瞬。彼方が一歩で間を詰めて回し蹴りを放つと、レイは右腕で大きく円を描いてこれをいなし、突きで反撃。彼方はすばやく膝を曲げて突きを受け、そのままレイの右腕を巻き取ろうとするが、レイは左右の足を踏みかえて身体を反転、彼方のリーチから逃れる。

そして、レイは間髪いれず彼方に踊りかかる……。

 

勝負が始まった瞬間から、攻撃と防御、あるいは防御を兼ねた反撃カウンターが数秒のうちに十数ターンも連鎖し、片時も止まることがない。レイは、今日の戦いを最初から全力全開で挑むことを決めていた。様子見などもってのほかだった。なぜなら、こと格闘戦となれば、空水彼方の攻撃なら急所に一発でも当たれば確実に死ぬ、ということをレイは感じ取っていたからだ。

一方、彼方にとっては、この序盤戦は一種の様子見なのかもしれない。彼方は、絶え間なく続く攻撃の応酬のなかで明白な隙こそ見せないものの、妙に大ぶりな突きや蹴りを時おり見舞う。

レイは、素早い攻撃も、大ぶりな攻撃も、慌てず騒がず、止め、捌き、いなしていく。万巻の武術書から読んで学んできた通りに。数多の名人たちから見て盗んできた通りに。

 

彼方が放った、何度目かの大ぶりな突きを、レイが腕で円を描く特徴的な動きでいなす。攻撃の手を止めず、彼方は語りかける。

 

「拳法使いなのは単なるファッションじゃあないらしいな」

「不満?」

「まさか。君のような手合いとやりあうのはいつも勉強になる。細かい流派の違いとかには疎いが……」

 

レイは歯を見せて笑う。もちろん、攻撃の手は止めない。

 

「教えようか! 今使っているのは、百を越える武術流派の精髄、それを束ねたもの! 私の背後には百人の達人がいると思ってよ!」

 

彼方は内心やや安堵する。よかった、事前の期待よりはいくぶんマシな対戦相手が出てきてくれた。

彼方が大ぶりな攻撃を放つたび、レイは単純な膂力ではなく、効率的な力の逃がし方によってこの攻撃を捌いていることを、彼方はいまやはっきりと認めている。この捌き方は熟練した拳法家のものに相違ない。

さて、彼方には、拳法家と戦うときの対処法として培ってきたものが、当然いくつもある。なにより目の前の拳法家を打ち倒すために、その対処法を使うときがいまだろう。

 

彼方とレイ、お互いの攻撃が届かなくなる瞬間がまた訪れる。それまでそっけなく立っていた彼方が、ついに明確に身体を構える。格闘技のシューティングのように、打点の高い足技を使うための構え。

 

「私も、そろそろ“技”を見せびらかしてもいいか?」

 

彼方がつぶやくのにかまわずレイは襲いかかってくる。そのレイに彼方は立ち回し蹴りを見舞う。レイはこれまで通り腕で大きく弧を描きながらこの蹴りをいなそうとして……何かの異変に気付く。この蹴りを普通にいなしたり捌いたりしてはいけない。バックステップで強引に距離をとる。

しかし彼方はレイの撤退を許さない。落ち着いた足取りで前進しながら、似たような立ち回し蹴りを2,3発。レイは後退して回避に徹する。

 

この数発で、レイは違和感の正体を完全に理解した。いまの彼方の蹴りは、標的にヒットするはずのところで直角に軌道を曲げる。下手にこの蹴りを腕や脚で受けようとすると、急に方向を変えるこの蹴りの衝撃をいなしきれず、それなりのダメージを負うだろう。また、その軌道は単に直角に曲がっているだけではない。レイがこの技を受けようとする腕や脚の可動域が存在しない方向へと的確に軌道を曲げている。人間の関節の構造的に、いなすことがそもそも不可能な技なのだ。

それは、人体の基本的な構造と機能を理解していながら、自分自身はその基本をはるかに越える筋力を持っている彼方にしか発明されえない技であった。

 

レイが叫ぶ。

 

「人間技じゃないよ、それ!」

「百人の達人もお手上げらしいな」

「たしかに百人じゃ、ね!」

 

そして、奇妙なことが起こる。レイが唐突に一歩踏み込み、彼方の蹴りをその腕でいなしたのだ、ダメージもなく。

人体ではいなせないはずの蹴りをいなせたのはなぜか。答えは明白だ。レイの腕が人体ではありえない方向に曲がったのだ。眉を顰める彼方。レイは叫び続ける。

 

「ずっと待ってた! この肘を、この肩を、実戦で振り回す日を!」

「そんな場当たりの人体改造で勝てる気なのか?」

「場当たりかどうか試してみてよ!」

「ふん」

 

彼方は件の“直角蹴り”をより鋭く速くレイに浴びせる。レイはこの猛烈な攻撃を、やはり、なんらかの武術流派と思しき、特徴的な弧を描く動きでいなし続ける。レイの額を汗が伝っていくが、そこに焦りはひとかけらも含まれていない。

 

レイはこの特殊な腕を信頼している。この信頼は、ただアシルシア先生がこの腕の製作と調整をになったということだけによるのではない。レイは、単にアシルシア先生にある構造の腕を発注しただけではなく、ある構造の腕が人類の腕として採用されるまでの歴史を自分でデザインしたので、この腕を信頼できるのだ。

レイがしたことを具体的に述べよう。レイは、霊長類が枝分かれして進化を遂げていくなかで、ある特殊な構造の肩と肘を具えたグループが人類として進化していき、その人類がいくつもの武術体系を互いに競わせるようになるまでのシナリオを描き、自分の半独立空間で簡単なシミュレーションを行って、そのシミュレーションの最後に覇権を握った武術の動きを学んだのだ。

 

レイがこの腕をよどみなく使いこなすのを見て、彼方も、その腕の背後に歴史があることをおぼろげながら理解する。

 

「わかる?」

「なるほど、場当たりと言ったのは失礼だったな」

「私の背後には、まだまだたくさんの達人がいるからさ!」

 

何度目かの彼方の蹴り、その衝撃を、レイはありえない角度に腕をよじりながら彼方の身体に投げ返す。彼方は自分自身の攻撃の何割かを自分の方向に返され、たっぷり5歩も後ずさる。これを好機ととったレイは、深く息を吸いながら腕をゆっくりとまわして独特の構えをとる。一瞬、レイの腕が6本に分裂したように見え……。

いや、それは幻覚ではない。いまやレイの腕は本当に6本だ。

 

「一万の達人と戦ってもらうよ!」

 

さらに多様さを増した技が彼方に襲いかかる。

 

4

絶え間なく続く拳の応酬のなかにあって、レイの脳裡には、いままで技を盗んできた幾百幾千の師たちの面影が浮かんでは消えていく。そんな師たちの中でも、格別に忘れ難い存在がひとりいる。

4年ほど前、ほんの短い期間教えをうけただけの関係だったが、その師は現在のレイの戦い方に大きな示唆を与えたものだった……。

 

現在、レイの半独立空間では、もっぱらレイが必要としている様々なシミュレーションのためにNPCが修練し続けているばかりなのだが、かつては、この半独立空間に異世界からの訪問者を受け入れる“ファン感謝祭”なども不定期に開いていたものだった。客人の多くは、人間ばかりが住む世界でレイの配信を観ている視聴者――思い思いのアバターに身をやつしていたが――が占めていた。

あるときの“ファン感謝祭”に、ひときわ目立つキャラ付けで参加してきた人物がいた。彼、あるいは彼女は、動物園から飛び出してきたようなリアル調のパンダの姿をしており、しかし直立していて、その身長は優に2mを越し、それでいて声はアニメの美少女のような軽やかな甘い声で、なおかつ妙な語尾をくっつけて会話してすらいた。当人曰く……

 

「いつもなら我自身の可愛い身体でやってくるあるね。でもこの世界、出来合いのアバターを着ないと入れないね。これどういうことある?」

 

とかなんとか。

ともかく、そんな珍妙なキャラ付けよりなによりこのパンダを目立たせていたのは、その圧倒的な格闘能力だった。そのときの“ファン感謝祭”のメインイベントはたまたま、ファン同士の武闘大会だったのだが、その大会で、中国拳法らしき戦い方で余裕の優勝を決めたのがこのパンダ姿の人物なのである。パンダはその武術の実力からレイの尊敬を受けるようになったのだ。

 

武闘大会の後の寺院の本堂。イベントの参加者たちが三々五々集まってアバター格闘術の意見交換などに励むなか、レイはパンダから一対一でその格闘術の簡単なレクチャーを受ける。もともといくつかの中華系武術に通じていたレイであったので、軽い組手を繰り返すだけですぐにパンダの技を吸収していく。

 

「汝、なかなかスジがいいあるな。力の向きがきちんと見えてるのね」

「ありがとうございます!」

「クラシックなVR格ゲーならまず負けなしよ、我が保証するある」

「へへ! でもパンダさんにはまだ遠く及びません!」

「うーん……こんなデカい身体じゃなくていつもの身体なら、こんなもんじゃないあるが……」

「もっと強いんですね!」

「強いあるよ。それに、我自身が言うのも何あるが、可愛いあるな。実に不可解ね、何故この世界にはいつもの我で来れないのか」

「あはは」

 

レイの笑いがややひきつるが、それに気づくパンダではない。VRコミュニティにおいて、やたら自分の正体について明かしたがる人物ならば、その正体は十中八九、容姿に厄介なコンプレックスを抱えたおじさんかなにかであろうが。

 

「しかし、我らしくもない身体を使っていると、勉強になることも多いある」

「そうなんですか?」

「そうあるよ。例えば」

 

パンダは壁に架かっていた剣を手に取り、おもむろに演武を披露する。少林達磨剣の有名な型の一つであり、レイも何度となく練習してきた演武であったが、最後に見慣れない動きがあることにレイは気づく。通常、手先の動きでそれぞれ違う方向に剣を三回転させて演武を終わるはずのところを、パンダはさらにもう一回転、計四回転している。

 

「余計に回ってる?」

「是。追加の一回転で、敵の首の腱もついでに切っておけるある」

 

パンダは手刀で首を切りつけるジェスチャーをしてみせる。

 

「でもその型、剣を四回転させようとしたら、剣を落としちゃうはず?」

「5本の指でやろうとすると、落とすあるな。しかし、すべての生き物が5本指とは限らないのね」

 

パンダが手のひらをレイに見せる。そこには6本の指がある。

 

「敵はいつも人間とは限らない。また、己もいつも人間とは限らない。いま持っている心技体に囚われず、豊かな想像力で武術の地平を広げること、これ肝要あるね」

「なるほど! パンダさん……いえ、我が師と呼んでもいいですか?」

「構わないある」

「今日だけと言わず、これからもあなたの技を教えてくれませんか?」

「それは値段次第あるな」

 

レイは内心突っ込まずにはいられない。報酬をもらう前提なのかよ。いや、これほどの技術を教授いただけるなら、謝礼を払うのはやぶさかではない。しかし、このシチュエーションで、貰う側が報酬を自明に前提にしているとは恐れ入る。

 

「あはは……」

 

やはりレイの笑いが多少ひきつるのだった。

 

さて、修行の日々の残りすべてをのんびりと思い出している暇もない。レイと彼方との戦いは激しさを増しながらなおも続いている。

 

腕が2本の時は、彼方が繰り出す一つの攻撃を腕一本でいなすことが多かったレイだが、腕を6本に切り替えてからは、もはや攻撃を逸らしはしない。一つの彼方の攻撃に対し、腕2本か3本でこれを受け止め、自分の懐へと巻き込んでいこうとする。なおかつ、レイの側から攻撃を仕掛けることも忘れはしない。彼方が完全に腕や足をとられて極められることこそないものの、ペースはたしかにレイのものになっている。

彼方は、自分の腕を、脚を繰り出すたびにそれがレイの懐へとめり込んでいくような感覚に若干の気色悪さを覚える。直角蹴りのような小細工はもうやめてしまう。レイと同じ平面上に立っている限りでは、どの角度から攻撃を打ち込もうが、レイの腕先の技術でとらえられ、吸収されてしまうだろう。いまこの状態のレイを攻略するには、より立体的に攻めなければ。そう判断した彼方は、隙を見て本堂の壁へ向けて走りこむ。

彼方に劣らないスピードでその後を追うレイ。

 

「逃げ……るわけないか!」

 

彼方は壁に据え付けの書棚に足をかけて大きく垂直にジャンプ。そのまま最上段からのムーンサルトキックをレイに浴びせかける。

腕を2本使ってこれをさばいたレイだったが、明らかに一瞬反応が遅れている。

 

「頼りの達人とやらは空中殺法も知らない奴らなのか?」

 

煽りながら、彼方は今度は柱を使って三角飛びを行い、レイの脳天へかかと落としを見舞う。

しかし、今度のレイはもう遅れない。彼方の足を頭上に差し上げた腕4本で受けて、蹴りの威力を利用してそのまま脚を巻き込みにかかる。彼方は体全体をひねってこの巻き込みを抜ける。彼方の筋力でなければ抜けられない場面だ。

 

「もちろん空中殺法対策もあるよ!」

 

見れば、レイの腕は、一瞬前は胴体側面に6本突き出ていたのにもかかわらず、今は胴体前面に2本、背面に2本の計4本になっている。そして、レイの額には赤く光る第三の目が開いている。

 

「相手の戦術によって姿を変える! これが私のスキルの真骨頂!」

「相手に合わせるばかりとは、とんだ想像力の貧困だな」

「どうかな? 自分じゃない自分を想像できるのが想像力じゃん?」

「君のは我を通せないだけだ。汎将ジェネラルの下位互換でしかない」

 

彼方はなおも立体的な攻撃をレイに加え続ける。レイの腕はもう少しで彼方をとらえられそうだが、この時間さえも彼方に様子を見られているだけかもしれず。

 

「ジェネラル?」

「ああ、すまない、私の敵たりうる者、その数少ないうちの一人が使う技だ。君は知らなくていいことだったな」

「なんだか妬けるな!」

 

ふいに、いままでとらえられなかったのが噓のように、レイの2本の腕が彼方の両腕をがっちりとつかむ。レイは、この好機を逃すまいと、即座に彼方の顔面目がけて頭突きを見舞おうとする。が、彼方はトレンチコートを脱ぐことでするりとこの拘束を抜け、一瞬でレイの手の届かない場所まで逃れる。

どこまでいっても余裕そうに見える女だ。

 

「コートを脱いでようやく本気、ってわけじゃないよね?」

「自分で思ったことを信じるといい。結果君は負けるわけだが」

 

レイは手に残ったトレンチコートを投げ捨てる。

 

「いや、誰が私より強くても、負けるわけにはいかない。ジェネラルとやらだって足で使ってやる。……決めた! 今から、私と私のスキルのことは『互換帝カイザー』と呼ばせ――」

 

突如、壁の書棚のひとつが倒れ、レイらしくもない長い口上は大きな物音でさえぎられる。続いてふたつ、みっつと書棚が倒されていく。彼方が書棚の上を飛び移りながら順に蹴倒しているのだ。

書棚が倒されるごとに床に武術書が散乱し、埃がもうもうと立ち込めていく。埃が目に入りそうになり、レイは目を細めて、彼方に言う。

 

「散らかして! ほんと自分勝手だな!」

「勝手は“本気”の必要条件だ」

「自分から足場の優位を捨てるんだ?」

「この程度の優位、なくても大差ない。それより、相手にとって都合が悪い状況の構築に注力すべきだから」

 

近くにある書棚をあらかた倒した彼方がふたたび床に降りてきて、レイは、なるほどね、と思った。もうもうと立ち込める埃にまぎれて彼方の輪郭がよく見えない。いま第三の目を開いているレイだが、そもそも視界が悪ければ、全方位から襲ってくるすべての攻撃に即応することはできない。

考える間もなく、いつの間にかレイの左側に回っていた彼方から、肩口に向けて強烈な蹴りが飛んでくる。レイはすんでのところでこの攻撃に気づき、大きくのけぞってなんとか避ける。レイが体勢を立て直す間もなく、彼方は半歩下がって埃にまぎれ、意外な方向から再度攻撃を加える。レイは倒立や宙返りを織り交ぜてなんとかこれを避けるしかない。

彼方は冷たく言い放つ。

 

「腕が足りないから増やすとか、目が足りないから増やすとか、君の対処は既存の器官の増殖でしかない。想像力の貧困だと言っただろ?」

 

レイはなおも歯を見せて笑う。

 

「増殖だけが互換帝カイザーの使用法だと、誰が言ったのかな?」

 

言葉とともに、レイの頬にそばかすのような小さな孔が無数に開き、レイの動きが明らかに変わる。レイはいまや、埃が立ち込めるなかでもはっきりと彼方の姿をとらえている。彼方の攻撃のひとつひとつに遅れずに対応している。

 

「音響定位か? ……いや、赤外線を視ているのか」

「正解!」

 

レイは、蛇のピット器官を模した赤外線感知器官を頬に出現させたのだ。もちろん、レイがこの器官の実装のため、爬虫類から単弓類の分化に始まる生物進化のシミュレーションを行ってきたことはいうまでもない。

 

「埃での目くらましは効かなくなったな。が、所詮それも視覚の拡張にすぎない。これはどうだ?」

 

彼方はそばにあった柱から香炉をもぎとり、無造作に床に投げ捨てる。床に散乱していた書物にすんなりと火がつく。たちまちあたり一面は火の海だ。

無論、本堂が焼け落ちるのは時間の問題であり、また本堂が焼け落ちるまえに空間の酸素が失われてしまうだろう。しかしこの瞬間なにより問題なのは、大量の熱源が突如出現したことで、レイの視界が再度奪われたことだ。

彼方は、炎と煙をまといながらレイに向けて突進する。

 

「視覚の拡張だけでもないよ!」

 

彼方は突進した勢いのままドロップキックを放ったが、レイはこの攻撃をも、完璧に認識して、4本の腕でこれをさばいて見せる。レイの額には、さきほどまではなかった大きなこぶのようなものが盛り上がっている。

 

「こんどは電流検知でもしたか?」

「さすが、正解!」

 

レイが額に出現させたのは軟骨魚類のロレンチーニ器官を強化再現したものだ。そして、もちろん、このために魚類からの生物進化のシミュレーションも行われている。

 

レイがその肉体の反応性をどこまでも高めていく一方、彼方の攻撃の激しさも、つねにレイの肉体の一歩先で加速し続ける。

炎と煙に惑わされ、断片的にではあったが、レイは味わう……彼方が攻撃を試みるとき、彼方の神経を走る電流を。彼方の周囲で渦巻く熱を。そして最後に現れる、彼方の瞳の輝きを。電流も、熱も、瞳の輝きも、レイへの確かな殺意をのせている。純粋で混じりけのない殺意が、レイの五感を通じて、また五感以上のすべての未知なる感覚を通じて流れ込んでいる。

レイは動きを止めない。止める余裕などない。しかし、動き続けながらも、全身が喜びに打ち震えてもいる。私はいままでずっとこの殺意を味わいたかったのだという確信が脳髄を支配する。

絶え間ない炎と攻撃を受け続けるその中心で、レイはついに声を上げて嗤う。

 

「はっはっはっはっはっ!」

 

その顔はさながら鬼神のごとく歪んでいる。しかし、見る人が見ればわかるだろう、その顔の造作には数万・数億年のシミュレーションに裏打ちされた確かな合理性があることを。人類に理解できる上限を超えた、まさしく絶世の美女の顔がその顔であることを。

 

そして、終わりは突然に訪れる。

彼方がレイの頭部を狙って放った渾身の蹴りが当たり、レイが六肢を投げ出してあおむけに倒れる。レイは、死んでこそいなかったが、もはや指一本動かすことすらかなわない。頚椎を損傷したのだ。

互換帝カイザーの能力では、すでに与えられた致命的ダメージを帳消しにすることはできない。レイの敗北だ。

 

彼方は唇を尖らせ、周囲に向かって一度だけ息を吹く。すると、本堂を雪交じりの風が吹き抜け、一面の炎がたちまち消える。火事はおさまったが、本堂の床も、柱も、焼損はすでに深刻だ。

視線を下げると、倒れたレイはいまだ不敵に笑っている。レイが先にしゃべる。

 

「彼方なら、決めるときは一撃だと思ってたけど?」

 

レイは、自分が戦いに負けるとき、即死以外の道があるとは思いもよらなかったのだ。

そして、実はその驚きの何割かは彼方も共有している。

 

「私も、最後の瞬間、即死だけを狙っていた。決めきれなかったのは、君の体術が最後の瞬間、私の想定を上回っていたからだ」

「ははっ! 負けは負けだけど、その一点だけは喜んでいいのかな?」

「君はもっと我を通せるようになるといい……」

 

彼方がそれだけ言って踵を返すと、たまたま、足元にトレンチコートが落ちているのを発見する。耐火性の強い素材で作られているだけあり、まだ燃えていない。彼方は、トレンチコートを拾って、適当に叩いて煤を落とすと、これを羽織りながらゆっくりと歩いて本堂を後にする。

中庭を抜けて正門まで差し掛かったあたりで、真っ黒になった本堂が崩れ落ちる。数億年にわたる武術の歴史と、一万の達人たちの記憶とともに、崩れ落ちていく。