敵か味方か?! キュアアルカナ・シャドウ!!

『名探偵プリキュア』、楽しいですね。みなさんそうだと思いますが、私もかつては自分のことを夢水清志郎だと思い込んでいる小学生だったりもしたのでね、“探偵”というモチーフには特別な愛着があります。だから『名探偵プリキュア』も毎週楽しんで観ています。

とくに眼を惹かれるのは小林みくるさん。彼女のファッションを構成するのは、キャスケットとディアストーカーの合いの子、ダブル(2列ボタン)の上着、目立たせすぎない胸のジャラジャラ……どれもこれも私の好きなものばかりです。

ただ、いまひとつ個性を出しきれていないなあ(性格も声質も前髪もあんなさんと似すぎ!)と思っているところもありました。しかし、迎えた第5・6話で彼女の個性がかなりはっきり伝わってきて、ここからいよいよ盛り上がってくるのではと思うところです。

 

さて、みくるさんが魅力的で、もちろんあんなさんも魅力的だったこれまでの『名探偵プリキュア』ですが、Twitterではとりわけキュアアルカナ・シャドウが大人気なようです。

キュアアルカナ・シャドウは、番組開始時点でのキービジュアルにも映っている正真正銘のプリキュアでありながら、敵方である怪盗団ファントムに身を置く謎の戦士、その目的は不明。本物かつ現役のプリキュアが敵方に身を置いているのはプリキュアシリーズの歴史のなかでもはじめての事態で、Twitterのみなさんが彼女の動向に注目しているのも当然といったところです。

 

ひとくちに注目するとはいっても様々な観点がありますが……やはりとくに気になるのは、キュアアルカナ・シャドウはいつになったらキュアアンサー、キュアミスティックの仲間になるのかというところではないでしょうか。

というわけで今日の記事は、これまでのプリキュアシリーズの歴史を踏まえて、かなり無益な類の推測をめぐらせ、そして『キュアアルカナ・シャドウがいつ仲間になるのかはよくわかんない』と結論づける感じの記事です。

 

1

キュアアルカナ・シャドウはいつ仲間になるのか? この謎を解き明かそうと思うのならば、一番の手がかりになりそうなのは、『過去のプリキュアシリーズ作品におけるキュアアルカナ・シャドウみたいなひとたちの動向』でしょう。というわけで、過去22作品に登場した、キュアアルカナ・シャドウのように「チーム入りまで時間がかかった戦士」27人について、登場時期とチーム入り時期をカレンダーにまとめました。

基本的に6月下旬~7月上旬のチーム入りが多いものの、妙にばらけていて傾向が読みづらいですね。なぜこのように傾向が読みづらいのか、順を追って説明しましょう。

 

まず、「チーム入りまで時間がかかった戦士」とは何でしょう? もっと通りのいい「追加戦士」という呼び方ではダメなのでしょうか。

いや、今日の記事の趣旨からいくと「追加戦士」と呼ぶのは好ましくなく「チーム入りまで時間がかかった戦士」でないといけないのです。

一方、プリキュアシリーズ作品には高い頻度で「中盤で誕生して主人公たちに追加でチーム入りするプリキュア」いわゆる「追加戦士」が登場します。「追加戦士」は中盤で誕生するので、ふつうは序盤のうちはその存在を知られず、番組放送開始前のキービジュアルなどにも映っていません。

他方、放送開始前からキービジュアルに映っている(視聴者は最初からその存在を知っている)にもかかわらず、なかなかチーム入りしないプリキュアというのも、しばしばプリキュアシリーズ作品には登場します。『ハピネスチャージプリキュア!』のキュアハニーや『わんだふるぷりきゅあ!』のキュアニャミーなどがそうです。こういったプリキュアは、一般的な「追加戦士」よりは早めにチーム入りすることもあるものの、『ひろがるスカイ!プリキュア』のキュアバタフライのように真正の「追加戦士」と同じくらいの遅い時期にチーム入りすることもあり、動向が読みづらいです。

そして、放送開始前からキービジュアルに映っているプリキュアは、一般的にはあまり「追加戦士」とは呼ばれません。まあべつに決まりなんかないので各自カッテな呼び方をすればよいのですが……。この記事では便益のために、真正の「追加戦士」中盤で誕生したプリキュア「追加戦士」ではないがチーム入りが遅かった戦士序盤から知られてはいたプリキュア とをひとくくりにして「チーム入りまで時間がかかった戦士」と呼んでいます。そして、われわれが気になっているキュアアルカナ・シャドウはここでいう、「追加戦士」ではないがチーム入りが遅かった戦士 としての「チーム入りまで時間がかかった戦士」です。キュアアルカナ・シャドウの動向を探るための参考を求めるなら、「チーム入りまで時間がかかった戦士」全般の事例をよく見て感じておくのがよいでしょう。

 

そうそう、キュアアルカナ・シャドウに関しては次のような推測をしている方もいるのではないでしょうか。

「キュアアルカナ・シャドウ、遅くてもキュアエクレールよりはさきにチーム入りするだろうから、そんなに遅いチーム入りにはならないんじゃないか」

これはなかなかいい着眼点の推理と思いますが、過去のデータからいけば、推理通りにいかない可能性は少なくありません。

というのも、『スイートプリキュア♪』のキュアミューズや『ハピネスチャージプリキュア!』のキュアフォーチュンなどのように、自分よりもあとに登場したプリキュアがさきにチーム入りし、自分はよりあとになってからチーム入りする、という場合がままあるのです。キュアアルカナ・シャドウも、さながらキュアミューズやキュアフォーチュンのように、キュアエクレールに追い越されてしまう可能性はあるでしょう。

 

2

と、ここまで「傾向が読みづらい」「推理通りにいかないかも」と煙に巻くようなことばかり言ってしまったようです。こんなことを言っていると、「過去作品のデータなんか観察しても意味はないんじゃないか」などとおっしゃる方もいるかもしれません。

しかし、データに意味なんかない・見つめてみたって何もわかりはしない、と述べてしまうのも強引に過ぎるところがあるのです。とくに、ほかのデータと組み合わせてより細かく観察してみると、物事の傾向はよりはっきりと見えてきます。

ここに挙げたのはプリキュアシリーズ直近13作品の主要おもちゃを発売月ごとにザックリとまとめたものです。

一般にアニメ製作よりも時間がかかる玩具制作においては、より固定的でよりはっきりとした販売スケジュールが組まれていることが多いと思われます*1。プリキュアシリーズ作品の場合も、アニメ本編中における「チーム入りまで時間がかかった戦士」の動向が作品ごとにまちまちなのに比べ、玩具の販売スケジュールはかなり規則的で例年似た動きをしています。

プリキュアの玩具は、基本的には1年チョッキリの期間のなかで4つの大きな波があります。この玩具販売の4つの波にあわせて、玩具のモデルになったアイテム*2がアニメ本編中にも登場します。そしてもちろん、アイテムが登場するときは、たいていその持ち主となるプリキュアたちは大きな転機を迎えます……その転機は、たとえば誕生、たとえばチーム入り、というわけです。

 

さきほどは類例のない不可解な動きに見えていたキュアハニーやキュアバタフライやキュアムーンライトのチーム入りも、玩具発売の波にあわせて転機を迎えているのだとわかればぐっとわかりやすくなります。キュアハニーは〈チーム技の3月・4月〉ハニーバトンを登場させるため、キュアバタフライは〈追加戦士の6月・7月〉ミックスパレットを獲得させるため、キュアムーンライトは〈強化フォームの9月・10月〉ココロポットを転用させるために転機を迎えていた、そういう側面もあるのだと考えれば、理解できる部分があります*3。なにもかもが理解不能なわけではないのです。データには意味がある。

 

3

キュアアルカナ・シャドウはいつごろチーム入りするのかを考えながら過去のデータを見つめてみれば、ちょっと推測がはかどる部分もあれば、どうしようもなく傾向がバラバラな部分もある。「じゃああなたはそんなことして何が得たいんですか? いつチーム入りするのか正確に当てたいんですか?」ともし問われたら、「いや、べつに当たっても当たらなくても、わかってもわからなくてもなんでもいい」と答えます、私は。

突き詰めるとなんでもいいのです。私はわりとデータ厨のオタクですが、自分の推測と食い違うものに遭遇して「僕のデータにないぞ?!!」って驚くためにデータ厨やってるところありますからね。キュアアルカナ・シャドウに関しても、だいたいこの時期にチーム入りかな~という答えを自分のなかで用意はしましたが、この答えが外れる未来も、それはそれでイーネ!

そもそもチーム入りするんですかキュアアルカナ・シャドウは? あからさまに仲良くするばかりが華じゃないと思いますよ。ジャン゠ピエールみたいに孤高を尊ぶのもまた一興じゃあありませんか。想像してみましょうよ、孤高のキュアアルカナ・シャドウ……孤高はさすがにもう無理か(笑顔でダンスするEDを観ながら)。

*1:言うことに責任が持てないのであいまいな書き方をしています。

*2:逆でもあります。

*3:もちろん、ひとりひとりのプリキュアが転機を迎えるときには、われわれの世界における玩具発売の波という側面があるのと同時に、作中世界において実際に彼女たちの人生が転機を迎えている、という側面もまたあります。世のオタクのなかには、プリキュアの転機が後者の側面だけでなく前者の側面にも規定されているということをことさらに嫌がるひとがいます……おもちゃ会社の事情で物語が決まるのが嫌だ、と。しかしながら、私は逆に、プリキュアたちの物語が単一の側面でなく複数の側面から規定されていることをいつも喜んでいます。複数の側面から規定された物語は、ときに人間の計算では生み出せないほどのドラマチックさをそなえたり、あるいは人間には理解しきれないヘンテコさをそなえたりするものです。キュアムーンライトの復活やキュアバタフライの覚醒は、それはそれはドラマチックなエピソードでした。キュアハニーが登場してチーム入りするときのエピソードはテレビでも映画でもたいそうヘンテコなことになっているのでみんなみてください。

『だけれども』における貢献度

『だけれども』という接続詞がある。逆接を表現する接続詞の一種ととらえればよい。私は性格上、文章を書くときにはやたらと譲歩を行いがちなところがあるので、『だけれども』という接続詞も頻繫に用いている。

 

『だけれども』を使うときによく思うのが、「この接続詞、あんまり仕事してない文字多くない?」ということだ。

『だけれども』は5文字で構成されているが、1文字抜いてもたいして意味が変わらない。『だけれど』でもいいし、『だけども』でもいい。なんなら2文字抜いて『だけど』なんかにしてみてもあまり問題がない。じゃあ抜かれた‘れ’とか‘も’とかは5文字のなかでいったい何の役割を果たしていたというのか。

抜けてもあんまり問題ない文字がいる一方で、こいつが抜けたら困る、という重要な文字もいる。例えば5文字の状態からいきなり‘け’とかを抜くと『だれども』となって途端に意味をなさなくなる。こいつら5文字も集まっておいて、その実質的な機能はというと‘け’1文字に頼りきりだ。

要は、『だけれども』を構成する5文字のなかに、チームに対する貢献度の高いメンバーと低いメンバーがいますよね、という話だ。超新塾みたいだね。

 

一体全体、5文字のなかでもっとも貢献度が高いメンバーは誰で、最も貢献度が低いメンバーは誰なのだろう。今回は、‘だ’から順番に全メンバーの貢献度を調べてみることにした。

 

~“貢献度”をどうやってはかるか~

今回は、『だけれども』に含まれる5種の文字それぞれについて、次に述べる手順で算出したポイントをその文字の“貢献度”と呼ぶことにした。

① まず、『だけれども』の5文字のうち、対象となる文字を含んだ何文字かを『だけれども』の順番でつないで『だけれども』とおおむね同じ意味になる語、つまり“チームが成立している語”がいくつあるか数える。なお、『だけれども』自体も“チームが成立している語”に含む。

② “チームが成立している語”それぞれから対象となる文字を除く。文字を除いた時点でおおむね同じ意味ではなくなってしまう語、つまり“対象となる文字が抜けるとチームが瓦解する語”を数える。

③ “抜けるとチームが瓦解する語”の数を“チームが成立している語”の数で割る。この割合こそ“その文字がいるチームがその文字のおかげで回っている割合”である。この割合を“貢献度”とする。

 

‘だ’を含めてチームが成立している語……4.5
〇: だけれども
〇: だけれど
〇: だけども
〇: だけど
△: だども(※なんか訛っているので0.5語と数えることにした 以下同じ)

 

‘だ’が抜けるとチームが瓦解する語……0.5
〇→〇: けれども
〇→〇: けれど
〇→〇: けども
〇→〇: けど
△→✖: ども

 

‘だ’の貢献度……0.11

 

‘け’を含めてチームが成立している語……8
〇: だけれども
〇: だけれど
〇: だけども
〇: だけど
〇: けれども
〇: けれど
〇: けども
〇: けど

 

‘け’が抜けるとチームが瓦解する語……7.5
〇→✖: だれども
〇→✖: だれど
〇→△: だども
〇→✖: だ
〇→✖: れども
〇→✖: れど
〇→✖: ども
〇→✖:

 

‘け’の貢献度……0.93

 

‘れ’を含めてチームが成立している語……4
〇: だけれども
〇: だけれど
〇: けれども
〇: けれど

 

‘れ’が抜けるとチームが瓦解する語……0
〇→〇: だけども
〇→〇: だけ
〇→〇: けども
〇→〇: け

 

‘れ’の貢献度……0.00

 

‘ど’を含めてチームが成立している語……8.5
〇: だけれども
〇: だけれど
〇: だけども
〇: だけど
△: だども
〇: けれども
〇: けれど
〇: けども
〇: けど

 

‘ど’が抜けるとチームが瓦解する語……8.5
〇→✖: だけれ
〇→✖: だけれ
〇→✖: だけ
〇→✖: だけ
△→✖: だ
〇→✖: けれ
〇→✖: けれ
〇→✖: け
〇→✖: け

 

‘ど’の貢献度……1.00

 

‘も’を含めてチームが成立している語……4.5
〇: だけれども
〇: だけども
△: だども
〇: けれども
〇: けども

 

‘も’が抜けるとチームが瓦解する語……0.5
〇→〇: だけれど
〇→〇: だけど
△→✖: だど
〇→〇: けれど
〇→〇: けど

 

‘も’の貢献度……0.11

 

結論

‘ど’はとても頑張ってる。彼がいないと始まらない。

‘れ’はいてもいなくてもいい。俺はお前みたいなやつのほうが好きだぜ。

 

 

 

捌きのテクニック

 

大河内一楼: 一流の詐術

必ずそうでなければならないということではないが、多くのフィクション作品は思考実験としての性質を持っている。すなわち、多くのフィクション作品は“これこれこういう条件の下でこれこれこういう事象が起こったとする、そのとき妥当な推論としてこんな結果が導かれうるといえる”という主張として理解できるということだ。あるいは、“ひとりの人間がこれこれこういう経験をしたとする、そのとき妥当な推論としてその人間はこんな信念を抱きうるといえる”という主張として理解できるということでもいい。

あるフィクション作品が持っている思考実験としての性質がより洗練されているとみなせるとき、その作品に触れるひと――さしあたり、“視聴者”とでも呼ぼうか――は作品に対して『一考に値する主張として理解できる、すぐれた作品である』という評価を下せる。もちろん、すべての視聴者がそうである必要もない。が、少なくとも私はそういう評価をよく行う。

逆に言えば、あるフィクション作品がすぐれた作品であろうとするとき、ありうべき方法のひとつとして『作品が持っている思考実験としての側面を洗練させる』という方法があるわけだ。この、思考実験としての洗練を目標としたとき、作者がフィクション作品を語るうえで守るべき原則というものがいくつもある。そんな原則のなかでとくに重要なもののひとつが“すべてについて語ろうとするべきではない”ということだ。

 

“すべてについて語ろうとするべきではない”というのは、すべての条件で得られたすべての結果について記述するべきではないということだ。なぜこのような原則があるのか、その理由は説明するのがかえって難しいほどに単純なことだ……例えばサッカーを題材としたフィクション作品ならば、『転校生である主人公は学校でサッカー部を立ち上げたかもしれないし立ち上げなかったかもしれないしそもそも転校してなかったかもしれないが、その結果としてプロサッカー選手になった可能性もならなかった可能性もなんならプロ卓球選手になった可能性すらある』というような仕方でこれを語るべきではない。すぐれた作品であることを望むのならば、通常は、『サッカー部を立ち上げた場合は、結果はこう』とか『サッカー部を立ち上げなかった場合は、結果はこう』という仕方で語るのがよい。それこそ思考実験らしく、区切られた条件の下で区切られた結果を考察することで、はじめて一考に値する主張が得られる。

しかしながら、フィクション作品をつくるとき、不慣れなひとは“すべてについて語り”たくなりがちである。どうもひとは、フィクション作品が、すべての条件に対して成立するようななんらかの結果――すなわち、世の中の真理――について教えてくれるのではないか、という期待を抱かずにはいられないところがあるらしい、不慣れなうちは特に。

 

不慣れなひとについての話は置いておくとして、フィクション作品をつくるのに巧みなひと、とりわけ一流と言える脚本家なんかは、すべてについて語るのとは逆……区切られた状況について語るための技術が際立って美しい。私がとくにその技術の美しさを感じるのが大河内一楼であり、まずは彼の技術について話したいと思う。

私が知る(といっても何本かしか観たことはないのだが)限りでは、大河内一楼の作品のなかでは、作品に登場するキャラ自身が、序盤で作品のキーになる発言を行い、状況がしっかりと区切られる、といった場合が多い。

 

例を挙げるとするならば、やはり『コードギアス 反逆のルルーシュ』だろう。この作品は、植民地主義の超大国の皇子ながら、両親が絡んだゴタゴタに巻き込まれて家族を傷つけられその超大国を憎むに至った主人公が、テロあり殺人あり政治劇ありロボットバトルあり学園ラブコメありの戦いを挑んでいくピカレスク・ロマンだ。そしてこの作品の冒頭から、主人公であるルルーシュが何度も口にするセリフに次のようなのがある。

撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけだ!

これ、まさにこのセリフだ。このセリフこそがキーワードとなって、この作品が語るべき内容をその他すべての物事からしっかりと区切っている。なればこそ、このセリフはこの作品を代表する名ゼリフとなりうるし、実際に名ゼリフとして認知されている*1

主人公・ルルーシュが「撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけだ!」と述べるのは、たいていの場合、自分に銃を向けてくる相手に対してその命を奪うことを辞さずに反撃を始めるときだ。つまり、相手に対して『俺を撃とうとしたということは、俺という他人を撃つ権利がお前自身にはあるとお前は考えているというわけで、つまりはお前自身が撃たれるという覚悟もあるはずであり、俺が今からお前を撃っても文句はないな』と確認をする意味で当のセリフは使われている。ルルーシュが相手にこのセリフを言った時点ですでに、ルルーシュが相手を撃つことの正当性は間違いなく保証されている。いまや相手を撃っていいか否かは問題ではない。残った問題は、相手に勝てるかどうかだけだ!

 

ここでもしあなたが『いや、そんなセリフを述べたくらいで、ルルーシュの正当性は本当に保証されるだろうか? 保証なんかされないのでは?』と思ったなら、あなたの疑念は正しい。

そもそも『撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけ』という宣言が、かなり独特な倫理的立場を示している。『撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけ』というのはつまり『相手を撃っていいかは相手が撃たれてもいいと思っているかどうかにかなりの部分依存する』という考えなわけだ。この考え、世の中で一定程度の共感を受ける考えである可能性はあるが、決して世の中の全員の同意を受けるような考えではない。例えば、ルルーシュの考えに対立する考えとして『相手がどのような言動をとったか、どのような信念を持っているかにはさほど関係なく、すべてのひとは一定の権利を持っており、尊重されるべきだ』といったような考えを持つひともまた世の中にはいるだろうし、いていい。

世の中にいろいろな考えがありうることに比して、ルルーシュの宣言はかなり疑いの余地があるというか、少なくとも自明ではない。よって、ルルーシュが『撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけ』と主張しているのも、ルルーシュが勝手に言っているだけの話で、繰り返しこのセリフを叫んでみたところで、ルルーシュが相手を撃ったり殺したりすることには何の正当性も与えられはしない。

 

しかしながら、ルルーシュには、『コードギアス 反逆のルルーシュ』という作品には、このセリフが必要なのだ。このセリフだけが、彼とこの作品を今あるかたちにかたどることができる。

仮にこのセリフがなかったなら、視聴者は次のようなことを思うだろう……『相手が自分に銃を向けているからといって、私は相手を殺してもいいのだろうか?』とか、『この場合ならば人間を殺してもいい、というような条件がはたしてこの世にありうるのだろうか?』とか。こうしたひっかかりが視聴者の側にもしあるのなら、ルルーシュの側でも、そういったことにはひっかかって貰わないと困る。迷ってもらわないと困るのだ。目の前に敵があらわれるたびにルルーシュがいちいち『俺は相手を殺してもいいのか?』と悩むのでなければ、彼の物語は説得力を失う。

こんな具合にいちいち悩むようになると、物語はすぐに“すべてを語ろう”としてしまう。だが、先ほども述べたように、たいていの物語は“すべてを語る”べきではない。

『この場合ならば他人に危害を加えてもよい、という条件がこの世にあるのか否か』とか『殺人という行為そのものの是非』とかいった問題はもちろん重要だ、重要なハナシではあるが、この物語が語るべきハナシではない。そういったハナシについて考えを巡らせるのは別の物語に任せておけばいいのだ。とりあえず『場合によっては人間を殺してもいい』という前提条件をとったなかで生まれる様々な状況に対して戦いを挑むのがルルーシュであり、そんなルルーシュを主人公とするのが『コードギアス 反逆のルルーシュ』だ。それ以外のなにかである必要はない。だからこそ、前提条件を明確に定めるものとして、件のセリフがこの作品にはある*2

 

ある物語が語る必要のあること・語る必要のないことについて明確に定めることで、その物語の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。こういったテクニックのことを、私は個人的に“捌きのテクニック”と呼んでいる*3。語る必要のない物事を捌いていって語る必要のある物事のみを残すテクニック、という程度の意味だ。

この“捌きのテクニック”、いろいろなやり方が世の中にはあるようだが、大河内一楼はキャラ自身のセリフを使って捌くというタイプの“捌きのテクニック”がとりわけ巧い、と私はみている。

 

『コードギアス 反逆のルルーシュ』のほかにも例を挙げるとするならば、例えば『機動戦士ガンダム 水星の魔女』なんかが印象的だった。

この作品では、主人公は母親特製のモビルスーツ(巨大ロボット)に乗って辺境から中央まで出てきて、軍需産業傘下の産業高校(みたいなやつ)に住み込んで勉強をすることになる。色々やっているうちに、母親特製のモビルスーツというやつが世界的に禁止されている危険な兵器GUND-ARMガンダムであることが判明し、主人公も血生臭いゴタゴタに巻き込まれていくことになる。

GUND-ARMの危険性というのは、リミッターを外すとパイロットが重大な障害を負ったり死んだりしてしまうというものであり、まあ禁止されるのもやむなしといったところではある。実際にGUND-ARMが禁止されるときの経緯は物語の前日譚にあたる『PROLOGUE』で語られている。この『PROLOGUE』のなかで軍需産業関連団体の偉いさんであるデリング・レンブランが演説している内容がすごい。

私はこれまで数多の戦場を経験し、ひとつの結論を得ました。兵器とは、人を殺すためだけに存在するべきだと。一点の言い訳もなく、純粋に殺すための道具を手にすることで人は罪を背負うのです。
しかし、ヴァナディースとオックスアースのモビルスーツは違う。相手の命だけでなく、乗り手の命すら奪う。
これは道具ではなく、もはや呪いです。
命を奪った罰は、機械ではなく人によって課されなければならない。人と人が命を奪いあうことこそ、戦争という愚かしい行為における最低限の作法であるべきです。

令和に生きているわれわれ視聴者としては『命を奪うことはおしなべていけないことであり、ひとの命を奪うための道具である兵器を作っている人間など、等しく全員悪いやつだろ』とか思ってしまいがちだ。しかし、『水星の魔女』という作品のなかでは『軍需産業関係者は全員悪』という状況ではダメで、『軍需産業関係者がそこら中にいる高校のなかでも、GUND-ARM使いである主人公にだけやたらと風当たりが強い』という状況が発生しなければならない。言い換えれば、『兵器を作ることそのものの是非』とかいった問題を置いておいて、『GUND-ARMを使うことの是非』という問題に物語をフォーカスさせなければならないわけだ。そのとき必要なのが、デリング・レンブランの演説である。この演説、文字に起こしてみればなんとも奇妙なことを言っている。戦争に作法? しかし、こんな奇妙な内容でも、デリング・レンブランのような男が力強くそれを言い放ってしまえば、少なくとも“捌きのテクニック”としては成立してしまうのだ。だから私は納得できた、この物語は『兵器を作ることそのものの是非』とかいったすべてについて語る物語ではないのだと*4

 

LW: 空回りする気遣い?

“捌きのテクニック”やそれに類するものは、大河内一楼の作品だけでなく、いろいろな作家のいろいろな作品のなかで使われている。次は、大河内一楼のそれのように私が好きだった“捌きのテクニック”ではなく、むしろ私がやや苦手としているタイプの“捌きのテクニック”について触れたいと思う。

 

LWの書いたラノベ『不・死亡遊戯の成れの果て』は、主人公たち8人が謎の館で執り行われるデスゲームに巻き込まれるのだが、どういうわけかこの8人は、8人とも殺しても死なない不死者だった、はたしてなぜこんな奇妙なデスゲームが行われているのか、8人はデスゲームを楽しみながら謎に迫っていく……みたいな感じの物語だ。この物語のなかで、あるキャラに関する描写を私は苦手としていた。

そのキャラというのは、妖精のようなマスコットのような、謎の生き物・クロケルである。クロケルはこの物語中で執り行われるデスゲームの運営を一手に引き受けている。それではクロケルが物語のすべての謎に対する答えを知っているのかというとそうではなくて……以下のような描写が登場する。

「死なないんだから何でもいいっちゃいいんだけど。てかクロケルはこれでいいわけ?」
「いいって何がだ?」
クロケルがパタパタ飛びながら振り返って応じる。
「いや、不死者が参加してるのってさ。デスゲームにならないじゃん」
「おいらは書いてあるルール通りに進めるだけだからな」
(中略)
クロケルは思ったよりNPC的というか、ゲーム進行以外の事柄は全く管轄ではないらしい。
*5

「クロケルはどう思う? てかこれってクロケルが付けたの?」
「おいらは知らないぞ。おいらの仕事はデスゲームを進めることだけだからな」
「ふーん」
案の定、クロケルのレスポンスは淡白だ。愛らしいマスコットのような見た目をしていながら、ゲームの進行以外には関与しない姿勢を貫いている。
*6

デスゲームを取り扱った多くの作品では、デスゲームの進行役――それは往々にしてGMを自称する仮面の男だったりするのだが――はデスゲームの真相について少なからぬ情報を持っているものだ。だから、デスゲームの参加者がデスゲームの謎に迫ろうとするときは、まずは進行役を追い詰めるのがセオリーになる。しかしながら、この『不・死亡遊戯の成れの果て』では進行役を追い詰めることはとくに意味が無い。別の方法で真相に迫る必要がある。だから、この作品には『この作品における進行役はデスゲームの真相をなにも知りませんよ~』と、主人公たちを、また視聴者を、丁寧に誘導する描写が何度かある。

これも一種の“捌きのテクニック”といえよう。すなわち、『進行役が真相を知っているかもしれない』という可能性を前提条件からあらかじめ排除しておいたうえで『じゃあ誰が真相を知っているのか』というミステリを進行する、というテクニックだ。そして私は、この作品で行われているこのテクニック・この丁寧な誘導が若干苦手だ。

何と表現すればよいのだろう……この作品がしているような丁寧な仕方で前提条件を制限されてしまうと、まるで一本道を歩かされているような気持ちに、私はなる。

『不・死亡遊戯の成れの果て』を読んでいるときの私の意識とまったく逆なのが、よい推理小説を読んでいるときの私の意識だ。よい推理小説に触れているとき、私の目の前にはいつも無数に分岐した道が広がり、私は自分の意志で、ひとつずつ、真相につながらない道をつぶしていく。思いつく限りの道をつぶした後、私の前にたったひとつ残った道が、その作品なりの真相につながっていれば、私は自分の有能さに満足するし、つながっていなければ、私は作者の有能さに舌を巻く。そんな楽しみがよい推理小説にはある。

ひるがえって『不・死亡遊戯の成れの果て』は、作者による誘導が丁寧に過ぎて、視聴者である自分が自分で推理したという実感がやや少ない。まるで、作者から『真相がどれか迷わないで済むように』と過剰な気遣いを受けているような感じだ*7

 

実際のところ、作者は何を考えてあのような丁寧な誘導をするに至ったのだろう。これはどうやら、作者から視聴者へ向けて『すぐに思いつくような安直な真相ではありませんよ~』と宣誓する意図が大きかったらしい。そう、あの丁寧な描写は“宣誓”によるものであり、私が先述したような“気遣い”によるものではなかったのだ。どうも私は、勝手に作者の意図やらなにやらに踏み入りすぎて若干の邪推をしてしまったらしい。

そもそも、『不・死亡遊戯の成れの果て』を推理小説の尺度で測ろうとしているのも私の勝手であり、べつにこの作品に対する自明な評価軸ではない。私の主観を外してもう少し客観的にみるなら、この作品は幻想怪奇小説ミステリではあっても推理小説ミステリではなかった、というのが“真相”なのかもしれない。私は私の勝手な尺度のみで評価をしきってしまうべきではない。

 

しかし。しかしだ。私がこの作品に若干の不満を感じていることもやはり、依然として事実ではあって。

私はどのような作品を前にしたらこれに満足できたのだろう? 単純に、誘導をしすぎないように気を付ければよい、ということでもない気がする。LWの書いた作品における比較的丁寧な誘導は、それはそれで独自の味を出しているようにも感じるからだ。

もっと何か、取り除くべき可能性を“捌い”ていながら、“捌い”ているということそのものにもう一度出会いなおすようなやり方がなにかないものだろうか?

 

ヒロアカの感想とか

言うてアニメ版しか観たことないけど。

以前の私は『僕のヒーローアカデミア』の作者のことをもう少しせせこましい作家だと思っていた。

なぜかというと、第一には、この作品のなかで描かれる“悪”がどいつもこいつも理解可能すぎたからだ。

そもそも、私は日頃、特撮やなんかのスーパーヒーローものをよく見ていて、いろいろなフィクション作品を観るときも、そこに出てくる“正義”や“悪”がどのようなものであるかを気にすることが多い。もちろん、“悪”として描かれるキャラに魅力を感じることもしばしばなのだが、なかでも『理解可能な理由とかはなく、生まれたときからすでに悪だったキャラ』というやつに惹かれることが多い。

まず前提として、人間は生まれたときから“悪”たりうるのである。生まれたときからものを壊すことに至上の喜びを見出している人間がいたっていいし、生まれたときから他人を苦しめることにしか楽しみを見出せない人間がいたっていい。生まれつきの“悪”が実在したっていいのだ。それは、生まれたときからものやひとを守ることに喜び・楽しみを見出しているような生まれつきの“善”がいたっていいことと、同じくらい確かなことだ。性善説や性悪説は根本からしてばかげている。人間はいつだって、それこそその始めの瞬間から、多様な性質をもちうるし、現に持っている。

仮に人間が生まれたときから“悪”たりうるのならば、世の中には生まれつきの“悪”と後天的に“悪”になった者と、二通りの“悪”がいることになる。世の中がそうであるように、フィクション作品のなかにも二通りの“悪”がいていいはずだが、私はフィクション作品に触れるとき、とりわけ前者の“悪”――生まれつきの“悪”――を好む。その理由は、後者の“悪”よりも前者の“悪”のほうが相対的に多くの可能性を示しているからだ。可能性というのはつまり、『人間はこんな風に生まれてくることもできるんだぜ』『人間にはこんなことを思いつく能力があるんだぜ』という、人間がなれるもの・考えることの可能性のことだ。

ひるがえって、後者の“悪”ばかりが登場する作品に触れると、『この作品は人間の可能性を信じていないな……』と私は悲しくなる。そして、かつて観ていた『僕のヒーローアカデミア』は後者の“悪”がかなり多めだった。ステインは作中社会で制度化されたヒーロー観に腐敗を見てとってその思想を歪ませたし、マグネは作中社会の少数者への抑圧に反発して暴力に訴えたし、オーバーホールは作中社会における価値観の変容を受け止めきれなかったために旧来の価値観の復権を目論んだし……どいつもこいつも“社会”ばかりではないか*8

つまるところ、『“悪”とは、あくまで理解可能な過程を通じて生み出される“社会の病理”であって、理解不能な過程を通じて生み出される“個人の個性の発露”などではない』というのが、『僕のヒーローアカデミア』という作品に通底する哲学であったように思う*9。この哲学を極端な言い方で言い換えれば、『“悪”は合理的なものである』ということになる。もっとずっと極端に言い換えるのなら、『不合理な“悪”などない』ということにもなる。そんな哲学を示されると、私なんかは『そんなわけあるかい、“社会”などとは関係なく自分の意志でポジティブに“悪”を志す人間だってたくさんいるわい』と言ってしまいたくなるのだが。

 

話を広げると、この漫画家にみられる、“不合理”なものを否定して“合理的”なものばかり期待している傾向というのは“悪”の描き方だけでなく“正義”の描き方にも垣間見えている。

『僕のヒーローアカデミア』では、場面々々でヒーローがとっさにとったある行動がいかに合理的な行動であったかがしつこく説明される、といったくだりが多い。

例えば、オールマイトが、今後の世界の平和に関わる“個性”であるワンフォーオールを一般的に言って期待が持てない相手である無個性の若者・緑谷出久に譲り渡した、という行動について。この行動、一見すると不合理な選択に見えるが、実はワンフォーオールを有効活用するためにありうる唯一最善の選択であったのだ、というフォローが本編中盤ではさまってくる。しかし、私なんかはこういうフォローを見聞きすると『そんなもんあとからフォローしなくていいんだよ! いいじゃねえか“最善の選択だったかはわからないけどその場でよいと思う選択をしました”と本人が信じているだけで』とか言いたくなってしまう。

例えば、イレイザー・ヘッドが、敵の放った特殊な薬剤が自分の右腿に当たったとき、薬剤の影響を受けて戦闘力を落とすことを防ぐために腿から下を切り落とした、という行動について。この行動、それ自体でも十分合理的な選択で間違いないのだが、どういうわけか、この行動が合理的である理由がダメ押しのようにもう一つ説明されている。それは、『直前の戦闘で受けたダメージですでに右足の機能がマヒしていたから』というものだ。これについても、私なんかは『そんなダメ押しいらねえだろ! 状況をパズルみたいにガチガチに組んでるんじゃないよ』とか言いたくなってしまう*10

 

イレイザー・ヘッドといえば、“合理的な人間”を自称する人物でもあった。多くのキャラが登場する『僕のヒーローアカデミア』のなかで“合理的”を看板として掲げているくらいだから、彼こそがヒロアカにおける“合理性”の極致を表現しているキャラだとみなしても間違いはないだろう。

彼のいう“合理性”とはどんなものなのかというと、それは例えば日常生活のちょっとしたタイミングであっても体力を温存することを忘れないことである。実際、彼は自身が担任を務めるクラスでのホームルームの最中にも仮眠をとるなどする……。

書いてみて、私は思う、イレイザー・ヘッドって言うほど合理的な人間だろうか?

これは私個人の意見にすぎないが、“合理的”という言葉が意味しているのは、複数ある未来のうちから自分に都合のいい未来を選び出そうとする積極的な態度だ。しかしイレイザー・ヘッドの態度は、都合のいい未来を引き寄せるというよりも、あとで後悔することを恐れて現在を調整しているだけのすこぶる消極的な態度に見える。彼は“合理的”というよりも、単に“臆病”な人間なのではないか。

 

イレイザー・ヘッドは“合理的”なのではなく“臆病”なのではないか、と一度考えてみると、ヒロアカという作品全体も“合理的”というよりは“臆病”な作品というふうに思えてくる。

ヒロアカという作品は“臆病”な作品で、自分の行動を自分で選ぼうとする人間の意思とか、人間がその場で与えられた情報だけからなにかを判断しようとするその判断の妥当性に対して、いまひとつ信頼を持てていない。結果、自分の意思よりかは社会からの要請に因って何らかの行動を起こす人間の姿だとか、すべてが終わった後の視点から見ても妥当と思える判断をする人間の姿だとかばかりを描きがちなのだ。

 

と、まあこんなふうに、かつての私はヒロアカという作品に対してややネガティブな印象を持っていたのだった。

しかし、私が持っていた印象は、死柄木弔がオリジンを思い出したシーンのあたりからだんだんと変わってくる。

死柄木弔のオリジンとして語られた内容は、ヒーローという存在に対してコンプレックスを抱いていた父親が中心となって家庭内に抑圧を生んでしまい、抑圧され続けた少年があるきっかけからため込んでいたストレスを爆発させて家族を手にかけ、死柄木弔へと変貌する、というものだった。この内容自体は、ステインやマグネやオーバーホールのそれと、その示す意味においてはそう変わりない。すなわち、原因はいつも社会にこそあるのだ(ヒーローが存在する社会もまた一種の社会であり、家庭もまた一種の社会である)。

しかし、死柄木弔がオリジンを思い出したシーンが感動的だったのは、彼が自身のオリジンを思い出したときに『自分はこれこれこういう悲惨な過去に強いられて悪人を演じているのだ』と悟ったのではなく『過去はそれはそれで意味のあるものだが自分は自分の意思で“悪”をなす』と決意を新たにした、というところだ。なんと力強い自由意思の肯定だろう。たとえ悲惨な過去があったとしても、そのうえで人間は自ら“悪”の道を選びうるのだ。

終盤で明らかになったトガヒミコのオリジンもかなりよかった。

彼女のオリジンは、彼女には生まれつき好きな相手の血を吸わずにはいられないという嗜好があったために社会から抑圧され、やがて社会に対する“悪”を選んだというシンプルなものだった。彼女のオリジンは、100%が自由意思とはいいがたい(社会のほうが抑圧してくるので仕方なく戦っているという面がある)という点で死柄木弔のそれとは違う。しかし、社会に抑圧されるに至った理由が、完全に生まれつきの変更しがたい嗜好として説明されているのがよかった。このオリジンは真実をよく示している。どんな社会にも必ず異分子が生まれてくるのだ……何の合理性もなく、純粋な偶然として!

死柄木弔やトガヒミコのオリジンは、放っておくと“合理的”に解釈できるエピソードに堕してしまいそうなところをギリギリで回避しているようにみえる。とすると、作者はこの作品に見え隠れする“合理性”を自覚したうえでそれを制御して描こうとしている……のかもしれない。まあ作者が何を思っているにせよ、少なくとも、この作品の“合理性”には、“臆病”という言葉では置き換えきれない部分が何割かはある。

 

そして、2人のオリジンにもまして非常に感動的だったのが、この作品における最強最後の敵が、死柄木弔の身体を乗っ取ったAFOだったということだ。

このときAFOはとんでもないことを暴露する。先ほども述べた死柄木弔のオリジンと、このオリジンを通して死柄木弔が自由意思を高らかに宣言したという事実、いずれもが、実は偶然の産物でも自由意思のたまものでもなく、AFOによって最初から仕組まれていたことだったというのだ。そして、そんな暴露を行って人間の自由意思を嘲弄するAFOに対して、デクたちヒーローが総力戦を挑む。

つまり、最後の敵は、自由意思を否定するような類の“合理性”そのものだったのだ。私がさんざ批判した例の“合理性”は、単純に消し去られてしまうのではなく、作品のなかでこの上なく重要なパーツとして、しかし打倒すべき敵として、舞台上で出会いなおしたのだ。

これは誇るべき達成だと私は思う。ヒロアカという作品には、一方では、他人にやすやすと真似できない作家の個性『しばしば臆病さにもなりうる合理性』がたしかに息づいている。他方では、作家の個性だけで物語を語りきってしまうことなく、むしろ作家の個性に含まれないものをも含んだかたちで作品世界を構成してもいる。結果としてこの作品は、“すべて”を語っているとは言わないが、多くのものを語っている。こういった作品はなかなかつくれるものではない。

しかしこういった誇るべき作品の存在こそが、不慣れな創作者に対して『君も“すべて”を語ってみないか』とささやいて誘惑してもいるのだろう*11

 

堀越耕平: いただけない臆病さ

『僕のヒーローアカデミア』という作品に対する印象、また堀越耕平という作家に対する印象はかくのごとく変化してきたものだったが、さりとて今でも、どちらかといえば苦手な作家性であることに変わりはない。ヒロアカのことを絶賛したみたいな調子で言及を終えるのもなんか癪なので(???)、この作品の“合理性”または“臆病さ”をまた別の角度から述べなおしてみよう。

具体的には、ヒロアカには『リアルに描こうとするあまりに逆にリアルでなくなっているシーン』というのがしばしばあると私は思っていて、そういうシーンの話をする。

 

そんなシーンのひとつは、イレイザー・ヘッドこと相澤消太が、警察の拘束下にあるとある犯罪者の正体が、亡き旧友の遺体に改造を施して生まれたフランケンシュタイン様の怪人であったことを知るシーンだ。この犯罪者には生前の性格や記憶は引き継がれていないように見えるのだが、生前親しかった相澤たちがはたらきかけることで少しでも性格や記憶がよみがえるのではないか、という作戦を提示されて、相澤はなんともつれないことを言う。

「なんで、われわれをここに? 絆による奇跡でも期待してるなら、大衆映画の見過ぎでは?」
*12

一見、リアルに思える描写だ。映画やマンガのなかでは、かつての友人が怪人に改造された場合、絆の力で洗脳が解けることはままあるが、現実は映画やマンガとは違う。相澤は自分がマンガの世界の住人だとは知らないので、自分が住んでいる世界のことも映画やマンガではないと認識しているだろう。だから相澤の住む世界では映画やマンガの世界で起こるようなことは起こらない、と考えるのがリアルな描写である……。

しかし、よくよく考えてみるとこの描写、実はリアルではないと思える。なぜならば、普通に現実を生きている人間にとって、『現実は映画やマンガとは違う』ということはさほど自明な前提ではないからだ。自分が今まさに生きている現実に対して、映画やマンガはそもそも比較対象ですらないのだ。だから、現実世界で突飛な出来事が起こったとき、現実世界の住人がその出来事に対して抱く感想は『映画やマンガとは違った経過をたどるに違いない』といったものではなく単に『どうなるかさっぱりわからない』というものになるだろう。ひるがえって相澤は、自分が住んでいる世界で起こった突飛な出来事に対して『映画みたいにいくはずがない』といきなり否定的な見解を示している、まるで自分の住んでいる世界がマンガであることを知っているかのように!

 

この相澤の発言、作品世界のなかを生きている人物の思考をトレースするのではなく、作者の怖れが漏れ出てしまった例なのではないかと私はにらんでいる。怖れというのはつまり、読者から『絆の力で記憶が戻るなんてありふれた展開はマンガっぽすぎる、リアルじゃない』と言われることへの怖れだ。リアルでないと言われることを怖れてその怖れに対する作家の応答を作品にのせてしまうと、物語はますますリアルでなくなってしまう。『そんなのリアルじゃない』といわれそうなときこそ、作家の怖れではなく、鉄の意思で作品世界内の人物の心情のトレースに努めるべきなのだ、と私は思う*13

 

似たようなシーンはほかにもある。例えば、数多の人から“個性”(異能みたいなやつ)を奪ってきた悪の権化・AFOが死んでその身体が崩壊するとき、AFOの身体の内部にいた、ホークスの“個性”に宿るホークスの意思(まあ生霊と思えばよい)が言うセリフ。

「奪われた因子が持ち主の元に戻る、なんてサービス、あるわけないか」
*14

AFOが死んでもAFOがこれまで奪い取ってきた“個性”が持ち主に帰るわけではないということをホークス(の生霊)が悟っているわけなのだが、このシーンもよくよく見ればリアルではない。

今消えゆくAFOの体内にいる生霊が思うことがあるとすれば『生霊の自分が本来の持ち主の手に戻るかどうかはわかりようがない』ということくらいだろう。ひるがえって『サービスがあるわけない』と勝手にあきらめている作中のホークス(の生霊)はやはり、自分がマンガの住人だと知っているかのようだ。

 

相澤のシーンやホークスのシーンをヒロアカという作品に盛り込むことは、『この作品のなかで起こりうる事象は何か・起こりえない事象は何か』という前提条件を定めているという意味で、“捌きのテクニック”の変種であるといえる。ただ、先述した大河内一楼の詐術とは明らかに違うところもある。それは、大河内のそれが定める前提条件は、視聴者が自然に想定するすべての条件よりも狭まった条件であったのに対して、堀越耕平のそれが定める前提条件は、視聴者の自然な想定と比べてべつに狭まってはいないというところだ。べつにわざわざ定めなくてもいいようなところをわざわざ定めなおしているようなテクニックであるがゆえに、堀越耕平のそれには、作品世界の雰囲気よりも先に作者の意図がちらついて、どうもうっとうしく感じるのだ。いや、視聴者一般がそう感じているのかどうかはよくわからないが、少なくとも私はそう感じている。

 

細田守: マジでこれは何?

『果てしなきスカーレット』は公開3日目くらいで観に行った。観終わった当初は『なかなか理解に苦しむ作品だけど、素材の味が活かされててまあ退屈はしなかったかな』くらいに思っていたのだが、そのあと半月くらいかけて何度か思い返しているうち、徐々に胸の中で不満点が膨らんできていまはやや怒っている。あの映画、素材の味を活かしてるとかじゃなくてただ調理を放棄していただけじゃないのか?

 

不満点はいろいろあるが、ここであえて語るのは“捌きのテクニック”に関するところだけにしよう。

この映画は二重にストレスフルな映画だ。第一には、この映画は“捌きのテクニック”らしいものを行わないので、視聴者は何が前提条件かわからないまま長い物語を見せられることになり、作中で起こるいろんな出来事に対してこれといった評価や感想を抱くのが難しい。第二には、“捌きのテクニック”らしいものがないくせに、なぜか作者の言い訳はやけにはっきりと聞こえてくるのですごくうっとうしい。以下、もうちょっと具体的に説明しよう。

 

まず、映画の冒頭は、異世界にいる謎の婆さまの意味深なナレーションから始まる。『生と死は対立関係ではなくて……』うんたらかんたら。

このナレーション、めちゃくちゃ萎える。なぜって、この内容は『映画の終盤で生者と死者が交錯するギミックを使う予定なんですよ』という宣言以外のなにものでもない。作品世界に生きているキャラのセリフとか作品の世界観の説明とかになっていなくて、ただただ作者の言い訳でしかない。作者が何をやりたいかとかは一旦いいからまずは異世界の話をしてくれ。異世界の話がちゃんと成立したあとだったら、作者の我が若干漏れ出ててもいいから、まず最初だけは異世界の話を真剣に語ってくれ。

そして、作者の言い訳代弁キャラとしてデビューを飾ったこの婆さまは、その後も物語の要所要所で作者に都合のいい動きをする。例えば、主人公が敵に追い詰められて進退窮まったときに突然現れて鼻くそで爆撃して(婆さまの鼻くそは爆弾になっているらしい)敵を散らしてくれるとか。

婆さまのこの動きもだいぶ萎える。ふつう、映画冒頭から意味深なこと言ってる謎の婆さまなんていたら、そいつは超自然的なトリックスター系キャラだと期待してしまうものだ。で、超自然トリックスターが超自然トリックスターたるゆえんは、誰の味方とも敵ともつかない動きをしていて人間にはその意図を説明できないというところにこそあるはずだ。しかしこの婆さまは、かなり明確に主人公の味方としかいえない動きをし、なおかつその行動の意図は『作者にとって都合がいい動きをしている』という一点で説明ができすぎてしまう。この映画、超自然トリックスターを描くのが下手すぎる。

婆さまのついでに言うと、ドラゴンとかいう存在もかなり萎えるキャラだった。こいつも婆さまと同じで、人間には計り知れない存在みたいな面をして登場しておいて、実際には、天罰を下してほしくなるやつに、天罰を下してほしいタイミングで、天罰を下す、という作者の都合100%みたいな装置だった。

 

この記事の最初のほうで『多くのフィクション作品はある種の思考実験として評価しうる』みたいな話をしたが、『果てしなきスカーレット』は思考実験として評価した場合、最悪の部類に属する作品だ。

思考実験で絶対にやってはいけないことは2つほどあり、1つは前提条件をはっきり定めずに推論をはじめることで、もう1つは得られた結果のなかから都合のいい結果のみを恣意的にピックアップすることだ。この映画は見事に両方をやっている。まず『生と死は対立しない』とか言ってむやみやたらと前提条件を広げっぱなしにして、次にキャラを都合よく動かして恣意的に結末を選んでいる。

この映画のように、思考実験として洗練されていない物語は説得力を失う。『この作品のなかで示されたような原理はわれわれの住む世界でも適用されるかもしれない』とは誰も思えない。ただただ『この作品のなかで示されていることは何かどうもヘンテコだな』という印象が残り、それだけだ。そんな作品について『素材の味を感じる』などと述べたのは、間違いではないにしろ、鈍感であったといまは言えよう。

*1:実はこのセリフ、この作品のオリジナルではなく、ほかの既存作品からの引用なのだが。

*2:『撃っていいのは~』というセリフ、これまで述べたように『反逆のルルーシュ』という物語の輪郭をはっきりさせているのがいいところなんだが、『反逆のルルーシュ』(劇場版)の続編である『復活のルルーシュ』ではこれまでとはまったく違った意味で再演されていて、またいいんだこれが。みんなも『復活のルルーシュ』を観よう。

*3:これはあくまで個人的な呼び名だ。これだけ一般的なテクニックに、私が歴史上はじめて名前をつけたわけであるはずはないので、このテクニックにはなにか別の名前がすでにあるはずのことと思う。しかし私はその名前を知らないので、詳しいひとはぜひ教えてくださるとうれしい。

*4:このように書いてしまうと、デリング・レンブランの言っていることはシンプル詭弁でしかないようにも見える。ただ、『PROLOGUE』全体で見ると、デリング・レンブランの演説は『機械による人殺しはダメで人間による人殺しはOKだとして、じゃあ分別のつかない子どもによる人殺しはどう考えるべきなのだろう?』という問題を浮上させてもいる。なかなかテクニカルなことをしている。

*5:『不・死亡遊戯の成れの果て』第5話

*6:『不・死亡遊戯の成れの果て』第13話

*7:まあ、作者による誘導が丁寧だったとはいっても? 私は? 『不・死亡遊戯の成れの果て』の最終盤になるまで真相を当てることはできませんでしたけどね! エラソーなことを言っておいてなんだが、実のところ私は推理小説の真相当てがあまり得意なほうではない。

*8:まあ、初期ヒロアカの“悪”には“社会”が生んだ“悪”が多いとは言っても、一応例外はいるっちゃいる。ムーンフィッシュとかマスキュラーあたりが好例になるかと思う。ただ、こうした例外は、“社会”が生んだほうの“悪”に比べてまだ活躍が足りなかったと私は思っている。

*9:仮に“悪”なるものが社会の病理であって個人の個性の発露ではないとするのならば、これを『悪』という単語で呼びならわすのはあまりふさわしくないだろう。なぜなら、『悪』という単語には、『正義』との絶対的かつ必然的な対立がどうしても含意されるからである。こういった“悪”はむしろ、『正義』との相対的かつ偶然的な対立を含意する『敵』みたいな単語で呼びならわすほうがふさわしい。そう考えると、『僕のヒーローアカデミア』が“敵(ヴィラン)”という独自用語を採用しているのはなかなか鋭い用語法であると評価できる。

*10:イレイザー・ヘッドの右足を麻痺させたわけ、ひょっとすると、右足を切り落とす理由にもう一押し欲しかった、という事情のほかに、クラストというキャラを物語により密接に絡ませるため、という事情もあったのかもしれない。なるほど確かに、仮にイレイザー・ヘッドの右足が麻痺するくだりが物語になかった場合を考えると、クラストの物語内での重要度はやや減ぜられてしまう。だから『クラストの見せ場という意味ではイレイザー・ヘッドの右足が麻痺するくだりはやはり必要だった』と主張するひともいるかもしれないが、そのとき私は『そもそもすべてのキャラに見せ場が設けられている必要はないんじゃないか』と再反論するだろう。

*11:ひょっとするとあなたは、次のようなことを指摘するかもしれない。『緑谷出久の性格として言及される“困っているひとがいたら後先考えず突っ込んでいってしまうという特質”こそは、作品の序盤から登場し、かつ“合理的”には説明できないものではないのか』『ヒロアカという作品は最初の時点から、“合理性”に回収しきれないものをきちんと提示できていたのではないか』と。正直なところ、緑谷出久の例の特質については、どう考えるべきかよくわからなかったので、本論では触れないでおいた。あなたが言うように、緑谷出久は物語の最初の時点ですでに“合理性”では回収しきれない人物だったのかもしれないし、あるいは逆に、緑谷出久すら『一流ヒーローはみんなそう』という言葉で強引に回収していくのがヒロアカという作品の“合理性”であり、緑谷出久はヒロアカの“合理性”の引力圏から脱していないのかもしれない。よくわからない。

*12:『僕のヒーローアカデミア』第107話「誰よりもおまえはヒーローに」

*13:ただ、件の相澤の発言にしても、作者の狙い通りよく描けているシーンであると評価できる読みは2通りほどある。ひとつは、過去の経験から平均以上に“臆病”な人間になってしまった相澤消太の発言である、ということを考慮すればかのような発言をすることは全くもってリアルである、という読み。もうひとつは、ヒロアカという作品全体の構造が、『現実はコミックみたいな善いものにはならない』と無根拠に思い込んでいる社会が、『現実をコミックみたいな善いものに変えることができる』と気づくまでの物語であることを踏まえれば、中盤の時点で『現実はコミックとは違う』と思い込んでいる人間が登場することは不自然ではない、という読み。

*14:『僕のヒーローアカデミア』第163話「“個性”!! 爆破!!」

三途で見る夢

以下、

  • 不・死亡遊戯の成れの果て
  • 席には限りがございます!

の内容に触れている。

 

1

明晰夢をみるひとは、自分の夢が『自分には夢を制御するスキルがある、という設定であるだけの非-明晰夢』であるわけではないとなぜ言えるのだろう?

 

2

のれのては不死者たち8人がデスゲームを行う話であり、不死者はそれぞれ自分の不死性をかたどるスキル(異能)を持っているのだが、主人公・及川オイカワ三途サンズが持つスキル〈リングカーネーション〉はいくぶん奇妙なスキルだ。一体何がどう奇妙なのかというのは、今からするリングカーネーションの説明を読めばおわかりいただけると思う。

 

いきなりネタバレになるが、三途はとあるゲーム中、ふとした拍子にマグカップを落として割ってしまったとき、マグカップの持ち主だった見知らぬ少女の記憶を垣間見る。ある種のサイコメトリーのような現象に遭遇し、三途は最初驚くのだが、すぐに確信を得る……この現象は三途自身が、自身のスキルによって起こしたものであると。三途のスキルとは、記憶を任意の物体にセーブし、またその物体を壊すことで自分の頭脳にロードするスキルだったのだ。以降、三途はこのスキルを利用して、他人の頭脳から特定の記憶を取り除いて特定の物体にセーブしたり、自身が好きに捏造した記憶をセーブした物体を他人に壊させることで偽りの記憶をロードしたりと、与えられた自由の限りを尽くす。記憶をセーブ&ロードするスキルとはすなわち、神である三途がアカシックレコードを任意に編集するスキルであるのだ。かくのごとくスキルの核心が明かされたとき、デスゲームの真相も見え始める……。

 

さて、私はなるべくのれのて本文に忠実にリングカーネーションの概要を説明してみたつもりだが、この説明であなたはリングカーネーションがどういうスキルなのか理解できただろうか。たぶん、無理だろう。というのも、説明を読んでもいまいちよくわからない・ピンとこないところが多い、というのが、私が言わんとしているこのスキルの奇妙さなのだ。

のれのて作中で語られているリングカーネーションの説明には、論理の飛躍がいくつもある。そもそも、三途がマグカップを壊して他人の記憶を自分の頭脳にロードした、という現象に触れたとき、たいていのひとは、三途のスキルは『物体を壊した』時点で初めて発動して『記憶を自分の頭脳にロードする』という結果をもたらすものだと考えるだろう。物体を壊す以前、記憶がセーブされる時点で三途のスキルが発動していると考えるひとはあまりいない*1。しかしながらのれのて作中では『記憶をロードできたということは、記憶をセーブできてもおかしくない』というように話が進んでいく。これが第一の飛躍だ。また、三途は自身のスキルに気づいてからすぐ、自分の頭脳に記憶をロードするだけでなく、他人の頭脳にも記憶をロードしてみせる。『自身が記憶をロードできたのだから、他人に記憶をロードさせられてもおかしくはない』というわけだ。第二の飛躍である。さらに、このとき三途が他人にロードさせた記憶は三途による捏造なので『記憶をセーブ&ロードできるということは記憶の捏造や消去もできておかしくない』という主張がここにはある。第三の飛躍だ。果ては、『記憶を自在にセーブ&ロード&捏造&消去できるということは、宇宙の歴史を自在に書き換えられてもおかしくない』と続く。当たり前だが、たいていのひとはこれに同意しない。たいていのひとは“記憶”と“歴史”を区別するからだ*2。第四の飛躍がここにあるとみてよいだろう。

このように何回も論理の飛躍を繰り返しながら語られるのがリングカーネーションというスキルなのだが、私のこの記事は、この飛躍を語りの瑕疵としてあげつらうことを目的としたものではない。どちらかと言えば逆で、この飛躍こそがリングカーネーションの本質に、ひいては及川三途の本質によくかなったものであるのだ、という話をしたい。

リングカーネーションに限らず、物語を支配するスキルには論理の飛躍がつきものだ。ジョジョなんかをみているとあなたも思うだろう、強いスキルの持ち主はたいてい不合理な強迫観念を抱いているものだと。いや、本当は逆で、不合理な強迫観念だけがその持ち主のスキルを強力たらしめるのだろう。なぜなら、不合理でない、誰でも納得できるような結果をもたらす原因はなんの異常でもなく、スキルとして名指すことができないのだから。リングカーネーションにしたって、その説明が不合理であるということは、『リングカーネーションの正常さに説明が追い付いていない』という事実ではなく『リングカーネーションの異常さに応じて説明も異常になっている』という事実を指し示す。リングカーネーションは正しく異常な能力である。

 

3

にはりがに、石落セラアカリという人物がいた。彼女は、大学時代の終わりにある手痛い過ちを犯したことで気を病み、自分からブラック企業に入って自分を殺すように働いている、そんな人物だ。

私はこのキャラクターに屈折した愛着を持っている。持たずにはいられない……だってそうだろう? 彼女は『自分を罰するため、自己実現とか社会的評価とかそういったものが一切ない、苦しみだけみたいな仕事を選んだ元エリート』なのだ。マジでインテリの妄想でしかない。

 

よいか、世の中はな、どんな仕事に就いたとしても、その場所にはその場所なりの浮き沈みがあるものなのだ。日々の暮らしがあるものなのだ。しかしながら、一部の仕事ではそういった浮き沈みがなくさながら受刑者のような暮らしを送れるものと、思い込んでしまうインテリはいる。常にいる。インテリの成りそこないにもそういうやつは多い。私はなぜそんなことを知っている? なんででしょうね。

繰り返すが、実際には“さながら受刑者のような暮らし”というものは存在しない。本当にごく一部の例外(受刑者とか? 私はよく知らない)を除いて、人間が暮らしていればそこにはいつも日々の浮き沈みのある暮らしというものがある。どこにだって暮らしがある! それは、現実にそれまでとは違った仕事をしてみればわかってくることだ。私にはわかる。なんででしょうね。

何かのきっかけで、まるでそれまでとは違った仕事を始めた人間というのは、あなたの周りにもいるはずだ。あなたがいまどんな場所でどんな仕事をしていようが。

 

ところが、“さながら受刑者のような暮らし”をしたことがない人間は、しばしば物語などのなかにこういった暮らしを登場させる、実際には存在しないものであるにもかかわらず。いかにも不思議な事態であるが、よくよく考えてみれば当たり前のことだ。“さながら受刑者のような暮らし”は実際には存在しないのだから、“さながら受刑者のような暮らし”を妄想しうるものだけが物語に登場させることができる。

では、なぜ一部の人間はそれを妄想しうるのか、という問題が残る。あなたの周りに、すべての人の周りに、『それは存在しない』という証拠を示す人びとはたくさんいるはずなのに、なぜ『それが存在する』と妄想できるのか?

推測するに、きっと、一部の人間はその●●卓越した●●●●記憶力に●●●●よって●●●、反証を示す人々のことを忘れ去っていくのだろう。

 

4

のれのての舞台設定は、リングカーネーションの説明に負けず劣らず奇妙だ。

 

これは重大なネタバレになるが、のれのての舞台は熱的死を迎えたあとの宇宙、すなわち、すでにあらゆる可能性を使い果たした後の世界だ。だからこの世界には他の何かと区別できるような物体も、生命ももはや存在しない、不死者たちを除いて。

だからこの世界になにかが存在するように見えても、それは不死者たちのスキルを使って条件付きで仮構されたものにすぎない。デスゲームが行われている館が存在するように見えるが、それは遊道楽のスキルで仮構されたものにすぎないし、デスゲームを運営している生命体が息をしているように見えるが、それはHEAVENのスキルで仮構されたものにすぎないし、デスゲームには斬新なルールが採用されているように見えるが、それはシャルリロの心遣いで仮構されたものにすぎない。本当に新たなもの、不死者たちを心から楽しませてくれるようなものは、この世界にはもうないし、今後も現れることはないのだ……。

 

以上の説明に違和感を感じた人も多いだろう。『世界はすでに終わっている』ということを示すだけなのに、例外規定が多すぎる! 多くの穏当な読者は、この舞台設定を読んで『それべつに世界終わってなくない?』と疑義を呈することだろう。

しかし、この違和感こそは――リングカーネーションの説明と同じく――及川三途の本質、ひいては、及川三途が見ている世界の本質によくかなっていると言えるだろう。

 

のれのては、三途を実質的な語り手として進行しており、のれのての世界設定は三途が認識している世界とほぼ同義であると言ってもよい(要審議)。この作品のなかでは、三途以外の7人の不死者も、三途と同じ課題を抱えて過ごしていることになっていた。つまり、『世界はすでに終わっていて、無限の退屈が我々のまえにある』という課題は三途だけでない、8人共通の課題だということになっていた。

しかし、実際のところは、三途がその卓越した記憶力によって忘れ去ってしまったものがあったのだろう。三途が忘れてしまったことというのは要するに、『世界はべつに終わっていない』ということだ。三途以外は、世界が終わっていると認識しているわけでも、無限の退屈を前提としているわけでもない。世界が終わったと思っているのは三途だけなのだ。まだ全員の瞳のなかから火が失われてしまったわけではない。そうだろう、シャルリロ?

そんな具合だから、三途が語る世界設定は矛盾だらけの奇妙なものになる……三途以外の人間にとっては。はたから見れば奇妙な世界には、ただ三途一人だけが取り残されている。ただ一人の世界では、全能の神も無力な不死者も、たいして変わりはしない。

 

孤独な神の見る夢は、いつか醒めるものだっただろうか?

*1:ここを書きながら思ったのだが、世間の多くのフィクション作品のなかで描かれるサイコメトリー能力が、能力の異常性を『記憶をロードする』という点にばかり見ていて、『記憶が物体にセーブされる』という現象の異常性にフォーカスをあてないのは実は不思議なことなのかもしれない。

*2:“ひとの記憶=宇宙の歴史”というアイデアは、なるほど世の多くのフィクション作品でみられるアイデアではあるだろう(『仮面ライダー電王』とか)。とはいえ、作品固有の世界観とかを抜きにして、自明に認められるものではさすがにないと、私は思う。

コナン映画好きは余裕で正解できるんだろクイズ

以下、コナン映画の複数作品へのネタバレがある。

 

俺はコナンのことあんま詳しくないんだが、『天国へのカウントダウン』神映画すぎん?

『天国へのカウントダウン』の何がいいって、劇中で舞台の上下動がしっかり描かれるんよな。俯瞰とかあおりとか駆使して主人公たちがぐいーんって空間を上下する感じ。あれがまじでたまんないのよな。

というわけで、『天国へのカウントダウン』の上映時間1時間40分のなかでの劇中の舞台の上下動をグラフにしてみた。もうこれ見るだけで劇中のぶちあがりポイントが脳裏に浮かんでくるね。

せっかくなのでぶちあがりポイントを4つだけ紹介するんだが、まず1つ目が、コナンたちが最初にツインタワービルに登ったとき、最上層のパーティー会場で黒の組織の構成員・ジンらしき人物の目撃情報を耳にしたコナンがあわてて地上まで降りるシーン。このとき、映画の観客としては、状況説明シーンから事件の予感がするシーンへとテンポが切り替わるのが否応なしに意識されるのよな。着実にギアが入るこの感じ、たまんねえよ。

2つ目。少年探偵団が事件の関係者3人それぞれの自宅を訪問して話を聞くパート。このパート、上下動そのものがダイナミックに描かれるわけじゃないんだが、関係者3人がそれぞれ違う高さに居を構えてるのが細かいけれど技ありなんよな。すかした建築家がマンションの10階前後、気難しい日本画家が丘の上の平屋の邸宅、子どもにやさしいプログラマがマンションの4階、という風に、それぞれの人物の近寄りやすさとか堅実さとかをイメージさせる自宅になっているのが巧い*1

3つ目。ビル火災から逃れるためにコナンを抱いた蘭さんが45階からバンジーするシーン。最近の映画ではオールラウンドコマンドとして描かれがちな蘭さんだが、まだ『天国へのカウントダウン』の頃は45階からのバンジーとかをしっかり怖がってる感じがあっていいんだよな。だから飛び降りるシーンの演出も、ハラハラドキドキ、という感じもありつつもむしろメインとしてはか弱いコナンくんを必死で守ろうとする蘭さんの聖性にフォーカスをあてている。そういう聖らかなイメージのシーンに対して20m以上の上下動を取り合わせてるところがギャップがあってグッとくる。

4つ目。いまさっき蘭さんのバンジーで45階から脱出したばかりのコナンが、少年探偵団を助けるために爆速で60階まで戻るシーン。ほんとにいまさっき45階がやばいっつって逃げてきたばかりだからね、60階に戻るときの危険さと、危険に飛び込むコナンのヒーロー性が際立つこと際立つこと。コナンお前あんまり蘭さんを心配させんなよ?

 

まあ他にも見どころはあるが『天国へのカウントダウン』に関する話はここらへんで区切っておこう。

コナン映画って、『天国へのカウントダウン』に限らず上下動が魅力的に描かれた作品多くない?

いやあ自分、上下動が面白い映画が好きなんよな。およそ映画というものに欠かせない要素として“非日常”ってものがあると思うんだが、普段地表という2次元平面のなかだけで生きている*2一般人のわれわれにとって、コナンワールドの登場人物が3次元空間を自由に躍動しながらストーリーを紡いでいる様子っていうのは文字通りの異次元であり、究極の“非日常”なんだよな。だから毎年、今年のコナン映画ではどんな上下動が描かれるんだろうって楽しみにしながら観に行ってる。

 

今日は、ランダムに選んだ3本のコナン映画について、上映時間中の劇中の舞台の高さを調べてグラフにしてみたので、このグラフをもとにそれぞれどの作品か当ててみてほしい。各4択になっている。きっと、コナン映画好きな方からすれば、映画のどこらへんでどの程度の上下動があったかをグラフから読み取って、簡単に作品をあててしまうんだろうね(挑発)。


    ~グラフの細かいルール~

  • Amazon Prime Videoでそれぞれの映画作品を視聴し、30秒ごとに、舞台となっている場所の高さをプロットした。
  • 『舞台となっている場所の高さ』は、30秒ごとの瞬間に映像に映っている場所がワンフロアに絞れる場合(ほとんどはそう)はそのフロアの高さを採用する。俯瞰気味の画面ではっきりワンフロアにしぼれないときは、その瞬間にストーリーが動いている地点の高さを採用する。ストーリー性がうすい、かなり遠い俯瞰の画面だった場合は記録なしとする。特定の場所に還元できない完全なイメージカットの場合も、記録なしとする。
  • 高さは地面(または海面)からの高さ。海抜高度ではない。
  • それぞれの場所の高さは、劇中で語られている建物の情報やモデルとなった場所のデータから総合的に推測した。ただし、ビルのなかの何階かわからない場所を舞台にしたカットなど、推測が難しい場所に関しては、ざっくりとそのビルの中層階を舞台にしているという前提で高さを記録した。
  • ちなみに、頻出する警視庁捜査一課のカットに関しては、20mの高さで記録している*3


問題①

A.ベイカーストリートの亡霊
B.迷宮の十字路クロスロード
C.銀翼の奇術師マジシャン
D.水平線上の陰謀ストラテジー

 

問題②

A.天空の難破船ロスト・シップ
B.沈黙の15分クォーター
C.11人目のストライカー
D.絶海の探偵プライベート・アイ

 

問題③

A.ゼロの執行人
B.紺青のフィスト
C.緋色の弾丸
D.ハロウィンの花嫁

*1:まあ、ストレートにステレオタイプをなぞってるだけ、という評価もできるが。

*2:一般人のわれわれは、たとえ階段やエレベーターを使ったとしても、その使用は純粋な移動であり、使用にストーリー性がつくことはない。

*3:参考資料 FBIjobs Japan https://www.fbijobs.jp/police/keishityou/kanrikan 2025年8月16日閲覧

ドッチ~ニョ?

我が家の家電のうちの一台、電源ボタンがこういう感じ↓なんだが

電源を点けようとするときも切ろうととするときも、『どっちがONでどっちがOFFだったっけ?』と一瞬考えてしまう。ちなみに電源ランプとかは特にない。

 

ある日、電源を切ろうとしたしたときにふと思いついたことがあった。

『そういえば、楽園で蛇がリンゴを食べるようにアダムとイブをそそのかしたとき、蛇から最初にリンゴを受け取ったイブは周りの果肉部分を食べて、アダムは余った芯の部分を食べた、というエピソードがあったな』

イブが口をつけた時点のリンゴと、アダムが口をつけた時点の芯、考えてみると電源マークに似ている。つまり、アダムとイブのエピソードに関連づけることで、電源マークのどっちがONでどっちがOFFだったかがわかるようになる……

……

……

……

いや別にそんなことないな。


アダムとイブを連想しても、どっちがONでどっちがOFFかはよくわからない。今日はこんな感じのゴミ情報をみなさんにお届けします。

 

 

∩と∪

数学の集合論とかで使う記号。集合Aと集合Bみたいな2つの集合があったときに、和集合や共通部分を『AB』とか『AB』とか表せるわけだが、どっちが和集合でどっちが共通部分だったかぱっとわかるだろうか? これを直感でぱっとわかるようになりたい。

集合について直感的に理解しようとするなら、いつも役に立つのはやはりベン図である。そしてベン図から民主党へと発想を飛ばす。

※ 立憲民主党と国民民主党の両党は、それぞれの党を応援する目的以外で公式ロゴマークを転載・改変することを許容していない。そのため、転載でも改変でもない範囲で両党のロゴを表現している。

若い方はご存じないかもしれないが、かつて日本に存在した民主党のロゴマークはベン図みたいなデザインだった。この民主党、2016年から2020年にかけて何度か合流・分裂し、現在の立憲民主党と国民民主党につながっている。現在の立憲民主党のロゴマークを見ると、党名の頭文字“C” “D” “P”のうち“C”の書き方が“∩”“∪”に似ている。一方、現在の国民民主党のロゴマークを見ても、“∩”“∪”に似ている部分を見つけることはできない。

立憲民主党には“∩”あるいは“∪”が含まれているが国民民主党には含まれていない、このことを覚えておいても、どっちが和集合でどっちが共通部分かはよくわからないのでオススメ。

 


Excelとかで≦を表したいとき

Excelの関数で“≦”を表したいとき、“<=”が正しいのか“=<”が正しいのか、ぱっとわかるだろうか?

こんなときは、“<=”が矢印のように見えることに注目すればよい。矢印のように見えるということは、矢のように見えるということである。“<=”は左に向かって飛んでいく矢のように見える。

では“=<”は矢には見えないのかというとそんなことはなく、“=<”も矢に見える。古来使われてきた矢じりのなかには、先端がとがっていて目標に突き刺さることを目的にしている尖矢とがりやだけでなく、先端が二股に分かれていて目標を切り裂くことを目的としている雁股かりまたという種類もある(鏑矢かぶらやも雁股の一種らしい)。“=<”は右に向かって飛んでいく雁股そのものである。

“<=”は尖矢、“=<”は雁股、このことを覚えておいても、正しいのがどっちかはよくわからないのでオススメ。

 

 

鳥取と島根の位置関係

鳥取島根、どっちが西でどっちが東かぱっとわかるだろうか?

ここで、鳥取島根のそれぞれの名前に注目してみる。“とっとり”という名前には、“TRI”つまり“3”が含まれている。対して、“しまね”という名前には、“SHI”つまり“4”が含まれている。

鳥取が“3”、島根が“4”、このことを覚えておいても、どっちが西でどっちが東かはよくわからないのでオススメ。

 


オーストラリアの首都

シドニーメルボルン、オーストラリアの首都はどっちかぱっとわかるだろうか?

この場合は頭文字を考えればいい。シドニーの頭文字はS、メルボルンの頭文字はMだ。“S”と“M”とくればもう、考えることは何もない。

シドニーは“S”でメルボルンは“M”、このことを覚えておいてもオーストラリアの首都がどっちかはよくわからないのでオススメ。

 


エクゾディアとエグゾディア

封印されし神の名前、エゾディアとエゾディアのどっちが正しかったか、ぱっとわかるだろうか?

ことエジプト神話において、相手が人であれ神であれ、名前を知っているということはその相手の生死を掌握しているということを意味する。例の封印されし神はエジプト神話に登場する神ではないが、その雰囲気はあきらかにエジプト風を意識している。この神を操ろうというのなら正確に、また見落としがないようにその名前を知っていなければいけない。

しかし、見落としがないように、ということでいうと、われわれが考慮すべきなのはエゾディアとエゾディアの2択にはとどまらないはずだ。

日本語用の発音記号として定義されている文字のなかには、(クに濁点)だけではなくク゚(クに半濁点)もある。われわれは封印されし神の名前がエゾディアである可能性やエゾディアである可能性だけでなく、エク゚ゾディアである可能性も考慮しないといけない。

そもそもとは、何が同じで何が違うのか。これは、音声学的に(とくに子音に注目して)いうと、調音点と調音方法が同じで、無声音か有声音かが違うということになる。

調音点と調音方法が同じというのは、の場合で言うと、『舌で上あごの後ろの方を一度ふさいで、開くときに口から子音を出し、そのまま母音を出している、ということに関しては同じ』ということになる。対して、無声音か有声音かが違うというのは、『の出だしの子音はあまり声帯を震わせないで出しているが、の出だしの子音は肺からの空気できっちり声帯を震わせて出している』ということになる。みなさんも、人差し指を口でくわえたままの音を発音してみよう。舌の動きはだいたい同じで、息の出ぐあいが微妙に違う、というのがわかるかもしれない。

ではク゚はどんな音なのかというと、と調音点は同じだが調音方法が微妙に違い、また有声音である音である。具体的には、『舌で上あごの後ろの方を一度ふさいで、そのまま鼻から子音を出し、開いて母音を出す』音であり『肺からの空気できっちり声帯を震わせて出している』音である。単独でク゚という発音を聞いたときの印象としては、『ング』みたいな感じに近い(大空スバルさんがこんな感じの音をよく出している)。

こう書くとク゚はずいぶん特殊な音かのように思える。しかし、実際のところ、われわれのうちの何割かは日本語(とくに標準語)をしゃべるとき無意識にク゚を区別して両方を使っている。今回のように封印されし神の名前について考えるときは、いつものように無意識で使い分けるのではなく、ちゃんと意識して使い分けたほうがいいだろう。だから、考慮すべきはエゾディアとエゾディアとエク゚ゾディアの3択。このことを考慮してもどれが正しいのかはよくわからないのでオススメ。

 


ここまで読んだみなさんも、結局どっちだったかよくわからなくなる感じのゴミ情報を知っていたら教えてね!!

なぜ文系の学問が社会に不可欠だといえるかみたいな話

ほんとうはきちんと文献にあたって明確な引用をつけなければいけないのだが、私にはこの記事でそこまでする熱意はないのだ、すまんな。

 

1

この記事では、なぜ文系の学問が社会に不可欠だといえるかについて、私の考えを書く。

 

個人的な話だが、きっかけを話しておく。最近、職場での雑談のなかで『文系の学問は社会の発展に資していない、社会に必要ない学問なのではないか』という提起を受けることが何度かあった。私がいまいる職場には、文系の括りで大学に入学・卒業した人間は少ない。だから、提起を行った複数の同僚は、めずらしく文系である私に対して半分はささやかな挑発として、半分は素朴な疑問としてこの提起を行ったのだろう。私としては、文系の学問は社会に必要ないどころか不可欠なものであると信じているし、そのことに関連して言いたいこともいろいろあるのだが、その場での同僚への反論にはいささか苦戦した。反論しようとしてみてわかったことだが、ある種の学問が社会に不可欠であるというのはやや込み入ったアイデアであり、説明には文字数を要する。そこで、今後似たような状況に置かれたときのために、私の知る限りでの“文系の学問が不可欠である理由”というやつを整理して文章におこしておこうというわけである。

 

はたして、この記事でこれから述べるようなことを述べる資格が私にあるものかどうか、当惑を覚えるところが多少ある。私はたしかに文系の括りで大学に入学・卒業しはしたが、一般的な大学生と比べてよく勉強に励みよく学問に精通してきたかといわれるとそうではない。大学生活を通じて私はずっと遊び呆けており、並の大学生に要求される程度の学識を持ち合わせることなくここまで来てしまったのである。ある種の学問が不可欠である理由について語るのも、私よりも適任であろうひとはゴマンといると思っている。適任でない私がここに記事をおこすのは、はたしてこの社会にふさわしいことだろうか? 私は確信を得ていない。

ともあれ私は筆を執った。私は私の学識の深度によってではなく、述べようとする内容の凡庸さによって、この記事の内容が読者と同僚に受け入れられることを期待するとしよう。

 

なお、この記事においては、『社会は、その構成員のうちの少なくない数にとっての幸福を生み出す限りにおいてそれ自身の目的に適っているといえる』『学問は、社会が幸福を生み出すのに資する限りにおいて社会の目的に適っているといえる』という前提をとる。

実を言うと、私自身はこの前提につねに賛同するわけではない。より詳しく言うなら、学問は必ずしも社会で幸福を生み出すためのものでなくていい、と思っている。にも関わらず先に挙げたような2つの前提を置くのは、この記事の論点が無分別に拡大するのを避けるためである。論点が定まらない議論は私が望むところではない、今日のところは。

なお、この記事で文系の学問といって私が想定しているのは、社会科学と哲学である。人文科学については(正直なことをいうと、私は人文科学になじみが薄いので)この記事で述べるところの“文系の学問”のうちから積極的に除外しているわけではないが、積極的に包含しているわけでもない。

また、この記事で理系の学問といって私が想定しているのは自然科学のことである。

 

2

社会のなかに幸福を生み出していこうと活動するとき、文系の学問はどのようにしてその活動に寄与するのだろうか? あるいは、文系の学問が存在しないとき、社会のなかに幸福を生み出すうえでどのような困難が想定されるのだろうか? この問いに対する私の第一の回答は、ある種ちゃぶ台返しにも近い回答だが、それでも芯を食った回答である……すなわち、文系の学問が存在しないとき、幸福を生み出すという活動は困難になるわけではなく、単に意味不明になる。

 

文系の学問が存在しないと幸福追求が意味不明になるとはどういうことか? これは、幸福というものが極度に抽象的なものであることを知れば理解しやすい。

そもそも幸福とは抽象的なものである。“抽象的である”とは難しい言葉であるが、とりあえずこの記事においては“相対的に多くの場合に当てはまる”と言い換えることにする。幸福とは相対的に多くの場合に当てはまるものである。例えばあるひとの人生にとっては、安定した暮らしを送ることが幸福であるし、あるひとにとっては挑戦のチャンスがあることが幸福である。またあるひとにとっては快楽を得る瞬間が多く長いことが幸福であるし、才能をより大きく開花させられる人生が幸福であるというひともいる。これら多くの場合・多くの状況に当てはまりうるのが、こと社会において幸福という単語が意味しているものである。

幸福は極度に抽象的なものであるのだが、少しだけ抽象的ではないものと置き換えることができる。“抽象的ではない”とは、やや乱暴に言い換えれば“具体的である”ということである。つまり、幸福という抽象的なものはやや具体的なものに置き換えることができる……例えば、“安定した暮らし”や“挑戦のチャンス”などといったものは、しばしば幸福の代名詞であるが、幸福そのものよりもやや具体的であろう。

そして、幸福などの抽象的なものはより具体的なものに置き換えられたとき、少しだけ実現しやすくなる。あなたにもきっとあなたの人生のなかで経験があるだろう、ただただ『幸福になろう!』と繰り返すよりかは『安定した暮らしを送ろう』とか『挑戦のチャンスを得よう』と決意したほうがよりはやくより着実にそこに近づける、といったようなことが。しかし、“安定した暮らし”にせよ“挑戦のチャンス”にせよ、ただこれだけの理解では、まだまだ実現することは難しい。なぜなら、“安定した暮らし”とか“挑戦のチャンス”にしたって、幸福そのものよりは具体的であるにせよ、見方を変えればまだまだ抽象的であるからである。これらを実現するためには、さらに具体的なものへとこれらを言い換えなければならない。例えば“安定した暮らし”はあるひとにとっては“いまより高い給与”を意味するだろうし、あるひとにとっては“どんな病気もすぐ治ること”を意味するろう。例えば“挑戦のチャンス”はあるひとにとっては“より多くの求人”を意味するだろうし、またあるひとにとっては“多種多様な教育機関”を意味するだろう。

もちろん、“いまより高い給与”であれ“どんな病気もすぐ治ること”であれなんであれ、もっと具体的なものに言い換えることができる。何度も具体的なものに言い換えていったさきには“ある製品を製造することである企業が利益をあげることができる”とか“ある薬を飲むとある病気が治る”とかいった極度に具体的な事象があり、こういった事象を通してわれわれはわれわれの幸福を実現することができる。

このように、社会において幸福を追求するうえでは極度に抽象的な段階から極度に具体的な段階まで無数の段階が分かれているわけだが、ここで重要なのは、いわゆる自然科学はこれらのうち具体的な数段階にしか関与できないということである。自然科学は、ある素材をある形状に加工する方法とか、ある化学物質が身体にある状態を引き起こすメカニズムなどを教えてくれる非常に強力なツールだが、それだけである。自然科学の枠組みでは、ある素材をある形状に加工することがどうしてわれわれの幸福と結びつくのか、ある化学物質によってある状態を引き起こすことがどうしてわれわれの幸福と結びつくのか、説明できない。なぜなら、自然科学は抽象的なものを抽象的な仕方で定義することをしないし、すべきでもないからだ*1

自然科学が説明できるような極度に具体的な段階と、やや抽象的な段階とを結びつけるのは社会科学の領分である。また、社会科学が説明できるようなやや抽象的な段階と、もっと極度に抽象的な段階とを結びつけるのは哲学の領分である*2

だから、社会科学や哲学が存在しない社会においては、たとえ素材の加工とか化学物質のはたらきについてよく理解していたとしても、『だから何』なのかがまったくわからないのである。

ここで、社会というものを幸福を生産する工場にたとえてみよう。自然科学はあっても社会科学が存在しない社会というのは、材料や加工機械はそろっているものの製品の設計図が存在しない工場のようなものである。こういった工場ではなんの製品も作ることはできない。また、自然科学はあっても哲学が存在しない社会というのは、材料や加工機械はそろっているものの、“そこが何を作る工場なのか”を誰も知らない工場のようなものである。そういった謎の施設は、“工場”と呼ばれることすらまれである。

 

3

と、ここまで、文系の学問が存在しなかった場合社会における幸福追求がいかに意味不明になるかを述べてきたが、ここで私に次のような反論を試みる方もいるだろう。『なるほど、たしかに文系の学問は、いったいどのような具体的な現象こそが抽象的な幸福を導きうるのか、をよく説明するだろう。しかし、何をどうすれば幸せになれるのかなど、ちょっと考えればすぐにわかることじゃないか。実際に、この社会で生きるほとんどの人間は文系の学問の内容をたいして知らなくても立派に生きている。わざわざ学者にややこしいことを言ってもらう必要はない』と。このような反論に対しては、私は次のように再反論しよう。『あなたの言う通り、文系の学問のことなどよく知らなくてもひとは生きていける……しかし、それはあくまで“あなたひとりが生きるか死ぬか”という論点に限った場合の話だ。私がいましているのは“あなたひとりが生きるか死ぬか”という論点のもとでの話ではなく“社会における幸福追求”という論点のもとでの話だ。そして、“社会における幸福追求”という論点のもとで考えたとき、文系の学問が存在しない社会というのはやはり、不十分なのだ』と。

 

“あなたひとりが生きるか死ぬか”ではなく“社会における幸福追求”について考えたとき、文系の学問が存在しないと不十分であるのはなぜなのだろう。それは、前者の論点には、後者の論点が含んでいるような複数の小さな論点――“生き残る確率を上げられるか”とか“他人を説得できるか”とか“広範な影響を制御できるか”とか――が含まれておらず、文系の学問はこれら複数の小さな論点について考えたときとりわけ不可欠だからである。

そして、これら複数の論点について考えるなら学問が不可欠、ということは、べつに文系の学問に限らずとも、理系の学問についてでもいえる。ここで、自然科学を例にとって、“社会における幸福追求”のためには学問が不可欠であることを説明しよう。

例えば、雷についてである。ある日、あなたが家の中から雷雨の兆しに気づいたとしよう。あなたは、まずあなた自身が死ぬことなく生きるために、いったい何をすればいいだろう? 答えは簡単だ、とにかく家から出なければいい。

ときにわれわれは、雷というものの正体がある種の気象条件が原因となって発生する高圧電流であることを知っている。しかし、こういった自然科学的な知識は、あなた自身が生きるうえではあってもなくてもいい。ただ『雷は直撃したらだいたい死ぬ』『家のなかにいれば直撃はまずない』この2点さえおさえていれば、雷の正体が電気だと信じていようが、神の怒りだと信じていようが、未知なるサイコパワーだと信じていようが関係ない。あなたは家に閉じこもり、無事に明日を迎えることができる。これが、“あなたひとりが生きるか死ぬか”という論点のもとでは自然科学の知見など必要ない、ということである。

しかし、それ以外のいくつもの論点のもとでは、自然科学の知見が必要になる。仮に、あなたが雷雨の兆しに気づいたとき屋外にいて、すぐには避難できなかったとしよう(つまり論点は“生きるか死ぬか”ではなく“(死ぬ可能性をゼロにはできないなかで、せめて少しでも)生き残る確率を上げられるか”だ)。こんなとき、あなたは雷の正体が電気であることを知っていることによってより有利な選択をすることができる。具体的には、人体と抵抗率が近くかつ背の高い物体の近くからは離れることであるとか、人体よりかなり抵抗率が低い物質で全面を覆われた自動車の内部にとどまることなどを選ぶことができる。

また、仮に、あなたが雷雨の兆しに気づいたとき、あなたと共に屋内にいたあなたの友人が外出しようとしていたとしよう(つまり論点は“(あなたや彼自身にとって不合理な選択をしようとする)他人を説得できるかどうか”だ)。こんなとき、あなたは雷の正体を知っていることによって、より高い説得力を持ってあなたの友人が外に出ていかないように諭すことができる。具体的には、雷というものは、空に近くかつ抵抗率が低い物体のみを選んで落ちてくるのであり、日ごろの行いが善い人間や運がいい人間を避けて通ろうとすることはない、だからもしもあなたの友人が外に出たら、あなたの友人が落雷を避けきれる保証はどこにもなくなるよ、などと伝えることができる。

はたまた仮に、あなたが雷雨の兆しに気づいたとき、その雷雨が影響を及ぼす範囲のなかにはあなただけではなくたくさんの人びとが暮らしていたとしよう(つまり論点は“(たくさんの人々が生きる社会における)広範な影響を制御できるか”だ)。こんなとき、あなたはべつに雷の正体を知らなくてもいいが、何人かの人は雷の正体をよく理解していなくてはならない。例えば医療従事者についていうなら、雷の正体が電気だと知っていなければ、雷雨のなか病院に運び込まれてきた急患の症状をみて感電を疑い、適切な処置を施すことはできないだろう。例えば変電所の設計に携わる人についていうなら、雷の正体が電気だと知っていなければ、雷雨のあとに決まって起こりがちな送電設備の不調の原因に思い当たらず、落雷への対策を施すことが永遠にないだろう。

 

このように、“あなたひとりが生きるか死ぬか”という限られた論点ではなく“社会における幸福追求”をふまえた複数の論点について考えるとき、考えなくても誰でもわかる範囲の直観だけでは課題を解決できない。直観よりももっと体系的で説得力のある、自然科学的な理解が必要になる。

そして、より多くの論点について考えるならば学問的な理解が必要になる、というのはべつに自然科学に限った話ではない。多くの現象と文系の学問との関連にしたってそうである。

例えば『頑張れば昇給が見込める今の会社で、給料をアップしたい』といったような課題があったとして、あなたひとりがあなたの給料を上げることのみを目指すのであれば、なんか目の前の仕事に全力で打ち込むとかしておけばいいだけの話だ。しかし、『会社の業績や景気の状況に左右されず、評価に即した昇給を今後長い期間にわたって確実にしたい』とか『あなたのはたらきに対して昇給は妥当であると上役を説得したい』とかいった場合には、状況に応じた社会科学的な知識をあなたは必要とするだろう。また、『あなただけでなく他の多くの労働者も給料がアップするような世の中にしたい』とかいった場合には、社会科学者に諮問している政治家や、大学で社会科学を修めた官僚などがその知識をうまく活用してくれることを祈るよりほかにない。

 

4

われわれの社会は、幸福追求を目的とするとき、直観に頼るばかりではなく体系的かつ説得的な知識――とどのつまり、学問――を持っていないといけない。その必要度は理系であれ文系であれ変わらない。

とはいえ、歴史上、文系の学問が実証主義的なかたちで単独のディシプリンとして確立したのは、理系の学問が確立したのに比べてだいぶ遅かったという話も事実ではある*3

この事実は、一方ではある真相を示唆している。すなわち、『理系も文系も、きちんと学問として成立していなければ現代社会の幸福追求は成り立たないという点については同じではあるが、理系よりも文系のほうが、学問として成立していなくてもまだなんとかごまかしがきいてしまう』という真相だ。ちゃぶ台を返すようで悪いが、なんだかんだといっても、文系の学問は理系の学問と同じような意味で不可欠なわけではないのだ。

そもそも、文系のほうが理系よりも抽象的な概念を相手にしているぶん、研究を通じて得られる知見も抽象的なものになりやすい。先ほど述べた通り、この記事において“抽象的である”とは“より多くの場合に当てはまる”ということを意味するので、文系の研究から得られる知見は、人生の特定の場面で強力に役立つよりも、人生の長い期間にわたってぼんやりと役立つことが多い、ということになる。これはいわば漢方薬のようなものだ。漢方薬は、長期的な効果をみたとき決して無力なわけではないが、近現代の合成薬のように短期的で劇的な効果を発揮するわけでもない。だから、人生のうちでただの一度も漢方薬を服用することがなくとも、なんとなく長生きしてしまうことはありうる。文系の学問(なかでもとくに古いもの)も同じで、この学問から得られる知見は、決して無用なものではないが、比較的効果を実感しづらく、知らなくても何とかなってしまいがちなのだ。

しかしながらこの事実は、もう一方で別の事情を反映してもいる。それは『現代の文系の学問が扱っているような対象に人類が出会ったのはかなり最近になってからのことだった』という事情だ。この事情を考慮に入れると、文系の学問の確立が理系のそれよりも遅かったからと言って、べつに文系の学者たちがずっとサボってきたわけではないということがわかる。単に、人類は文系が対象とすべきものに出会うのが遅かったのだ。

 

ここで、やや遠回りにはなるが、人口に膾炙したある実験のことを思い出してみよう。その実験とは、社会学という学問の黎明期に行われた実験、ホーソーン実験である。

ホーソーン実験は、シカゴにあった電気製品の工場であるホーソーン工場で、1924年から行われた実験である。実験が行われた目的は工場の生産性を上げる方法を探ることである。実験の方法としては、工員の作業効率に関わりそうな要素を実際に変更し、各条件にしたときの作業効率を測定した。もしある条件のとき有意に作業効率が高いのであれば、そのある条件を継続して実現することが工場の生産性アップにつながるはずである。

そして、具体的にはいったいどんな条件を変更したのかという話になるが、ここが面白いところだ。実験の序盤、研究者たちは、工場内の明るさ(などの物理的条件)が工員の作業効率に関係しているだろうと期待して、明るさを変えたうえで作業効率を測った。しかし、明るさによる作業効率の違いは期待したようには観測されない。やがて、研究者たちは、工場内の明るさ(などの物理的条件)よりも、工場における正式な役職・階級とは別に構築されている現場の人間関係のほうがずっと大きな影響を作業効率に影響を与えている可能性に気づき始める。研究者たちは実験で変化させる条件を当初のものとは変えながら実験を続け、人間関係のほうが大きな影響を与えているという見立てが正しそうだという結論を出すに至った。

以上のようなホーソーン実験の逸話は、現代のわれわれからすると、最初耳にしたときは拍子抜けしてしまうような話だ。なにせ、得られた結論(のひとつ)が『工場内の明るさよりも人間関係のほうが重要』というだけのものなのだ。そんなこと当たり前では?

しかしながら、ホーソーン実験は社会学の黎明を象徴する実験として人口に膾炙している。この実験の重要性は強調してしすぎるということがないらしく、『当たり前じゃん』の一言で切って捨てられることなどはない。ならば、ついつい『当たり前じゃん』で片づけたくなるわれわれの認識を修正すべきであろう。ホーソーン実験はわれわれが一瞬思いつかないなんらかの意味で重要なものなのだ。

注目すべきは、ホーソーン実験が取り扱っている対象である近現代的な大規模工場というものが、われわれの時代にありふれているのと同じようにホーソーン実験の時代にもありふれたものである、とは限らないということだ。近現代的な大規模工場――言い換えると、表向きは互いに取りかえ可能だとされている多数の人間を集めてひとつの目的のために協同させている施設――は、現代のわれわれの多くにとっては生まれたころからどこにでもあるものだったが、1924年の人間の何割かにとっては、生まれたころから馴染んだものというわけではない。だから、1924年の人間が大規模工場にありがちな事実『仕事に際してはじめて集められた人間たちであっても、そこには複雑な人間関係が発生するし、その人間関係は集団の機能遂行に大きな影響を発揮する』をよく知らなかったとしても、まったく不思議なことはない、というわけだ*4

工場というものの在り方が、現代のわれわれからすれば当たり前に見えたとしても、それは存外新しく出現してきたものであり、それについて詳しく述べた学問(ここでは社会学)もまた新しく出現してきたものにならざるをえない。これはべつに工場の在り方に限らず、現代の文系の学問が対象としているような多くのものについてあてはまる。例えば核家族であったり、都市空間であったり、環境問題であったり……。

 

ところで、いま挙げたホーソーン実験の逸話からは『文系の学問が対象としているものの多くは存外新しいものである』以外にも、2つほど価値ある教訓を読みとることができるだろう。

1つ目。現代では当たり前に思っているアイデアであっても、誰かが世の中に普及させる前にひとが単独でそれを思いつくことは存外に困難であるということ。もしもわれわれがホーソーン実験のことも社会学という学問のことも知らず、なにかの機会に『あなたは今から工場の生産性を上げる方法を見つけ出してください』と言われたら、まずは物理的条件が重要なのではないかと疑ってしまうのは至極ふつうの考え方であって、特段に責められたものではない。答えを先に知っていれば別なのだが*5

2つ目。存在するに決まってるでしょ、と人びとが思っているものであっても、それが存在するという前提で議論を展開するためには、存在するということを証明するための実験なり研究なりが改めて必要であるということ。もしもわれわれが、われわれの職場の上司が『職場の生産性を向上するために照明の明るさを変化させます』などと言い出す場面に遭遇したとして、われわれは『照明の明るさがもたらす影響はたしかにひとつの要素ではあると思うが、ほかの要因と比べたら誤差の範囲でしかなく、生産性向上のために明るさを変化させるのは不合理だ』と反論したいかもしれない。しかし、もしもホーソーン実験やそれに続く実験が歴史上存在していなければ、われわれはなんの根拠もなく、ただただ大きい声で『誤差の範囲でしかないような気がします!』と主張するしかないだろう。上司が同じく大きい声で『照明の明るさは誤差の範囲にはとどまらないと思います!』と主張したときは、水掛け論をするしかない。実際のわれわれの世界の歴史にはホーソーン実験その他が存在しているので、どのような要因が強い影響を、どのような要因が弱い影響を、そしてどのような要因がそもそも存在しているのかについて、水掛け論ではない、根拠を持った議論を行うことができる。

 

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ホーソーン実験から教訓を受け取った後で、この記事の前半部で語ったことをもう一度思い出してみると、ひとつ、似通った論理構造があることに気づく。一方、ホーソーン実験からわかったように、存在するにきまってるでしょ、と思いがちなことでも議論に供するためには実験や研究が必要である、ということ。他方、社会における幸福追求という論点のもとで考えたとき、誰でもわかる範囲の直観ではなく学問的な理解が必要である、ということ。

二つの論理を、やや乱暴に一つの言葉に集約するとすれば、次のような言葉になるだろうか。『当たり前に思いがちなことでも、ちゃんと調べなければ使えない』。もっと乱暴にまとめるとすれば、こうだ。『当たり前なことなどない』。

 

この『当たり前などない』ということこそ、私が今日いちばん述べたいことであり、私が知る限り文系の学問の根底を支えている思想のひとつであり、また……結局のところ、理系も含めたすべての学問の根底を支えている思想のひとつだ。この記事は、文系の学問のなかでは『当たり前などない』という思想がいかに表現されているか――つまり、文系の学問が自身の根底をいかにして支えているのか――を確認して、しめくくりとしよう。

文系に属する多くの学問分野の根底を支える役割を担いがちなのは、哲学である(理系でこの役割を担いがちなのは数学あたりだろうか?)。哲学は『当たり前などない』ということを示すのにちょうどよい材料を各種取り揃えている。その各種のなかには、これまた人口に膾炙した思考実験なども含まれる。ここではそういった思考実験の例として“トロッコ問題”をとりあげる。

 

それは最近ではすっかり俗っぽい印象になってしまった思考実験である。そこでは次のようなことが問われる。

線路を爆走しているトロッコと、もうすぐトロッコが通りかかる分岐点の前にいる私。私が分岐点で進行方向を切り替えなければ、5人がトロッコに轢かれて死ぬが、私が進行方向を切り替えると1人がトロッコに轢かれて死ぬ。2択のほかに選択肢はない。私はどうするのが正しいか?

この思考実験には“~問題”という名前が与えられているため、初めてこの思考実験を耳にしたひとは『出題者は答えを知りたがっているのか?』と勘違いしがちである。しかしながら、この“問題”は(基本的には)誰もが納得する答えが見つかるだろうと出題者が期待しているものではあまりない。むしろこの“問題”は、誰もが納得する答えは(少なくとも、容易には)見つからないことをしらしめるためのものである。なぜなら、この問題に取り組んだとき、問題の答えがわかるよりまず先に人びとは気づくからだ、『人の命がかかった、重要かつ単純な問題設定なので、ごく一般的で明確な判断基準で答えが出そうな問題であるにもかかわらず、ひとによって答えが違う』ということに*6

ともすれば人は、重要かつ単純な問題の答えは決まりきっているものだと思いがちである。人の命がかかった場面なら『なるべく人数が多いほうを助けるのがいいと決まりきっているだろ!』とか『誰かを助けるために他の誰かを手段にするくらいなら、何もしないほうを選ぶべきだと決まりきっているだろ』とか言ってしまうものであるし、社会制度を設計する場面なら『より多くの人が安定した暮らしを送れる社会がいいに決まりきっているだろ!』とか『より多くのタイミングで挑戦の機会が巡ってくる社会がいいに決まりきっているだろ!』とか言ってしまうものである。しかし、この例示自体が矛盾を含んでいることからわかるように、なにも決まりきってはいない。当たり前などないのだ。このことを鮮やかに描き出してくれるもののひとつは、哲学の思考実験だ。

また、この当たり前などない世界のなかで、より限定された条件下のさまざまな真理を導き出すうえで役に立つのは、第一には哲学であり、第二には社会科学であり、第三には自然科学であるのだ。もしも、幸福がある種の限定された真理であるとするのならば、哲学や社会科学は、自然科学と同様、この社会の幸福追求のために不可欠であろう。

*1:ここで『いや、自然科学の枠組みで具体的に幸福を定義することはできる』と反論しようとするひともいるかもしれない。例えば、『幸福は、脳神経科学的に、神経細胞のある種の発火パターンとして定義できる』とか、『幸福は、進化心理学的に、生存・子孫繫栄に有利になる経験のパターンを強化していくシステムとして定義できる』とか言ってみることはできる。なるほどたしかに、神経の発火パターンや報酬系はわれわれが実際に幸福を感じる瞬間と非常に強く関連しているし、その関係は因果関係といっても差支えない場合もある。しかしながら、神経の発火パターンや報酬系が幸福の定義そのものであるといえるのか否かはもう少し難しい問題だ。なぜなら、神経の発火パターンや報酬系は、自分のものだろうが他人のものだろうが機械のものだろうが関係ない無機質な事実として理解されるのに対し、われわれが通常幸福と呼ぶものには今ここにいる自分の場合だけ特別ありありと感じられるという目立った違い(?)があるからだ。明確に自然科学的な枠組みのなかで語られる説明では、われわれが幸福と呼ぶものの重要な側面を取りこぼしている可能性がある。また、無機質な事実は価値論を含意しないので、無機質な事実の積み重ねは決して『~~~だから、幸福は追求すべきものである』のような言明を導かない、という問題もある。

ただし、仮に自然科学には幸福の直接的な定義を行えなかったとして、社会科学にはその直接的な定義が行えるのである、と述べるつもりが私にあるわけではないし、また、仮に自然科学が幸福を追求すべき理由を示さなかったとして、社会科学にはその理由が示せるし示すべきなのだ、と述べるつもりも私にはない。ここで言いたいことはあくまで、文系と理系のもたらす知見は何かが違い、その違いはどちらかが不十分であることによるものではない、ということである。

*2:この記事においては、さしあたっては『より抽象的なものは文系の学問の、より具体的なものは理系の学問の領分である』ということで話を進めているが、ここまで読んで次のように反論したくなった人もいることだろう。『いや、ほんとうはまったく逆で、より抽象的なものが理系の学問の、より具体的なものが文系の学問の領分ではないのか』と。

その反論はまずまず妥当だろう。例えば、ある種の自然科学的な定理が、21世紀の地球上でも紀元前の地球上でも遠く離れた火星の地表の上でも等しく成り立つ、つまり『より多くの場合に当てはまる』ように思われる一方で、ある種の社会科学的アイデアが、特定の歴史をたどった特定の時点の人間社会でしか成り立たない、つまり『より少ない場合に当てはまる』ようである、といったことがいえる。理系の知見がより多くの場合に当てはまり、文系の知見がより少ない場合に当てはまる、私が本文で言ったこととはまるで逆である。

どうやら『より多くの場合に当てはまる / より少ない場合に当てはまる』といった観点だけで理系と文系を分けようというのは無理筋であるらしい。しかし、無理筋であるとわかっているにもかかわらず、本文ではこのような分け方を行った。理由は2つあり、第一には、本記事の論旨に照らしたときこの分け方でもじゅうぶんに言わんとすることを伝えられると思ったから、第二には、より正確な分け方を説明するのは無学な私には少々手に余るからである。

深入りしたくはないが、文系と理系のより正確な分け方はどんな分け方でありうるのか、気になるところではある。案のひとつとして、『定性的か、定量的か』という分け方を支持するひともいるかもしれない……が、私はこの分け方にはやや疑念がある。また別の案として、『反証可能性がないか、あるか』という分け方を支持するひともいるかもしれない……が、私は文系の知見は宗教やエセ科学のそれとは異なるものだと信じているのでこの分け方も支持できない。またまた別の、より凝った案として、『人間がいる状況でのみ成り立つすべての状況を数え上げたとき、より多くの状況に当てはまるのが文系の知見、人間がいない状況でのみ成り立つ全ての状況を数え上げたとき、より多くの状況に当てはまるのが理系の知見』という分け方も提示しうるかもしれない……が、これはどうやら文系と理系の違いを説明するのではなく別の違いにすり替えているだけのようである。あとかなり目立った反例も多々ある。やはり正確な分け方は難しい。

*3:こう書くと、まるで自然科学は大昔から実証主義的だったかのような言いぐさだが、自然科学だって昔は実証主義的なものではなかった。ただ、自然科学等の理系の学問は文系のそれほどには研究史を重視していないので忘れられがちだが。

*4:イギリスで世界で初めて工場制手工業が盛り上がった第一次産業革命が18世紀後半、アメリカでも大規模工場での生産が盛り上がってきた第二次産業革命が19世紀後半、フォーディズムが20世紀後半。

*5:この記事の論旨からいくと、工場の生産性にかかわる要因として物理的条件を想定することは古くて愚かな考え方に見えてしまうかもしれない。しかしながら、忘れてはならないことのひとつは、物理的条件を想定する考え方もまた、それ以前の考え方よりも新しく、また一定の成果を上げた考え方のひとつであるということだ。この場合、物理的条件を想定する以前の考え方というと粗雑な経験則がそれにあたる。つまりは、ずっと前には、ざっくりしたカンで工場の生産性を上げようとしていた時代もあり、物理的条件を想定することでそうした時代は改善し、またそうした改善の一部は現在でも有効だということだ。

*6:私は『人びとはこれに気づくのだ』とかなり断定的に書きはした。が、これに気づかなかったからなにかマチガイというものではないし、他の感じ方をする人がいたっていいとは思う。思考実験ってそういうものだし。