心は見極めがたし推測せよ乙女

前回:彼方の反撃カウンターアタック

 

1

アリアの半独立空間チャンネルは、どこか見慣れた印象がありながら、ここ以外のどこにも実在しない、そんな街並みによって構成されている。もう少し具体的に言うと、レンガ造りの建物がやや目立つ西洋風の街並みで総じて絵画のように美しかったが、時代や地域を特定するに足る個性がいまひとつ乏しい、そんな場所だ。アリアの配信を観る視聴者たちのなかには、この街並みがヨーロッパの歴史ある観光地のように見える、という者もいれば、日本のどこか、できたばかりのニュータウンの一角のように見える、という者もいる。

そんな街並みのなかでアリアが特に気に入っている場所の一つが、町の一角の小さな林の中を通る、イチョウ並木のプロムナードだ。いま、アリアはこの空間の季節を秋に設定していたので、並木からはひらひらと落ち葉が舞い落ち続け、黄色いレンガで舗装された道の上に一枚一枚違った黄色を重ねている。

 

そのプロムナードの中央、ゆったりとした空気の流れを裂くように高速で動き回り、ぶつかり合う2人の人影がある。

一方は、トレンチコートを翻しながら駆ける銀髪の美少女・空水彼方……の姿を借りたツバメ。もう一方は、青い神官服を身にまとったポニーテールの美少女・ニース。2人はいま、事前に用意してきた台本に沿って練習試合を行っている。台本というのは、2日後に迫る空水彼方とニースとの戦闘の段取りを仮に決めた検討稿だ。2人は、検討稿に沿った戦闘が本当に空水彼方のふるまいとして自然に見えるかについて、アリアの助言を仰ぐため、アリアの前で練習試合を行っているのだ。

ときに、当のアリアは、2人からはやや離れた位置にあるベンチに座って、指でつまんだ落ち葉をくるくると回転させて遊んでいる。目のピントを、手前の落ち葉から奥の2人へ、奥の2人から手前の落ち葉へと行ったり来たりさせる。物思いにふけるときはそうするのが彼女のくせだった。

 

アリアは、ツグミからの要請を受けてからずっと、空水彼方という人間の心の在り方について考え続けてきた……空水彼方は、勝利そのもののためであれば他の何物をも犠牲にすることができる、という稀有な精神性を持つ。この精神性は、ある意味ではずば抜けて合理的であるとも評することができ、またある意味では絶望的に不合理であるとも評することができよう。いずれにせよ、その精神性が常人のそれからはかけ離れたものであることは間違いなく、それゆえに空水彼方は異物としてのみ世界に現れるのだ。だから、世界を移動する能力が空水彼方にインベーダーとしての身分を付加するのではない。インベーダーであるという空水彼方の素性がある側面に現れたとき、ひとはそれを世界移動としてしか認識できないのだ……そんな思考を巡らせていると、練習試合を中断したニースがアリアに呼びかけてくる。

 

「ちょっとアリア、ちゃんと見てる?」

 

アリアは落ち葉を離して、腕組みをしながらニースに応える。

 

「心配しなくてもちゃんと見てるわよ!」

 

空水彼方の精神性について考えるのと並行してではあったが、ツバメとニースの練習試合を観察することも決して忘れていたわけではない。

 

「じゃあ見てて気になったところを言わせてもらうけど。ツバメ、さっきニースが単発でファイアバリアを張ったとき、バリアを抜くためにアイスボルトを連発してたでしょ」

「うん。あまり空水彼方っぽくなかった?」

「いや、それ自体はいいのよ。問題はそのあと。ニースがファイアバリアをおとりにしてそこのイチョウの木の陰に滑り込んだとき、ツバメはその移動に気づいて、アイスボルトからメタルボルトに切り替えたわよね? 空水彼方ならあの状況でその選択はしないと思うわ」

 

不思議に思ったニースが口をはさむ。

 

「なぜそう考える? 私はあのとき防御手段をファイアバリアからイチョウの木に変えた、大雑把に言えば炎属性から植物属性に変えたわけだから、五行相克の魔法理論に従えば、攻撃手段をアイスボルトからメタルボルトに変えたツバメの判断は合理的だったと思うのだけど?」

「もちろん合理的なのよ。それに魔法戦闘の教本通り。でも、なんていうか、敵の都合に合わせすぎなのよ、空水彼方にしては」

「合わせすぎ?」

「そう。空水彼方だったら、敵が単純な防御を続ける限り、その属性が炎だろうが植物だろうが構わずアイスボルトを撃ち続けるわ。敵の属性に合わせて攻撃の属性を変えるとしたら、威力が足りないときよ。でも、パリラとの戦いを見たでしょう? 彼女のアイスボルトが連発されれば、ファイアバリアでもそこのイチョウでも問題なく打ち抜けるわ。あの状況では、属性相性は誤差でしかないの」

「なるほど」

 

ニースはアリアの説に納得してあごをさする。

いつの間にか変身を解いていたツバメは、一つ思い出してアリアに尋ねる。

 

「敵の都合に合わせすぎない、ということだったら、アリア、あの選択も間違っていたかな? 私の氷の牙による攻撃からニースが逃げていて、ニースが加速方法をマジックウィンドから風遁の術へと急に切り替えたとき、私、つまり空水彼方は、出方をうかがうために数秒間攻撃をやめてニースを泳がせた。いまにして思えば、マジックウィンドと風遁の術は原理が違うだけで効果は大して変わらないから、変化に気を取られずに攻撃を継続したほうがよかった、とか?」

「いいえ、それは違うわ、たぶん。その状況なら、空水彼方でも出方をうかがいに来る可能性がある」

「うん」

「レンラーラとの戦いのときなんかすごく出てたわね、空水彼方は敵に対して、いつも新しいやり方を期待しているってこと。原理が違うだけで効果が変わらない風遁の術をあそこで使ったら、逆に空水彼方の注意を引ける可能性はあると思うわ。『なぜ技を変えたのか、なにか策があるのか』ってね。それに、いままで空水彼方が使ってきた魔法を見る限り、忍術系や方術系は使っていなかったから。ひょっとすると、風遁の術を見るのが初めて、という場合も少しは期待できるわ」

「理解したよ。でも、難しいね……。一方では敵の都合に合わせすぎないところもあり、また一方では敵の出方に興味を持つ場面もあり。言われてみればわかるけれど。アリアみたいな心理分析は私にはとても真似できないよ」

「い、いや、私もまだぜんぜん確信がなくて、そんな褒められるようなレベルじゃ……。でも、そうよね。敵のことをしっかり思いやるわけでも、まったく見ていないわけでもない、そういうところにあのひとの想像力の本質がある、ってところまでは自信を持って言えるわ。そう、想像力よ。レイのときも言っていた、あのひとは想像力というものにこだわりがある。そして、あのひとの言う想像力は、完全な思いやりを意味するわけでも完全な無視を意味するわけでもない。自分の視界を制御して、自分が見たい未来だけを選択的に視る、それが空水彼方にとっての想像力なのよ」

「……」

「なによその沈黙は。私が一方的にしゃべってるみたいになるじゃない」

「……汽笛が、聞こえない?」

「え?」

 

ツバメが髪をかき上げて形のよい耳を出し、音の出所を探して周囲を見回しはじめるので、アリアも話すのをやめて耳を澄ます。ニースもだ。

すると、確かに汽笛らしき音がかすかに響いている。それも、近づいてきているようだ。しかし妙なことだ。アリアにはこの空間に鉄道を敷設した覚えなどない。

やがて、汽笛だけでなく、車輪が駆動する音、車両の連結部が軋む音、そして、街並みや木々がめちゃめちゃに踏み砕かれる音が立ち上がってくる。

アリアがついに音の出所に気づく。

 

「見て、あれ」

「蒸気機関車、だっけ?」

 

そう、蒸気機関車。この世界には存在するはずのない異物が、その進路に存在するものすべてをなぎ倒しながら3人のほうへ走ってくる。

3人は、迫るその場違いな物体に対し、とりあえずの戦闘態勢をとりながら、警戒心を上回る困惑を抱える。やがて、蒸気機関車はゆっくりとスピードを落とし、3人の前で停止する。数秒の間の後、客車のドアが開いて、ネグリジェとも見まごう薄手の黒のワンピースを着た銀髪の女性が出てくる。

女性は3人の姿を認めると、ぱっと顔を明るくして気さくに話しかける。

 

「あっ、アリアちゃんに、ニースちゃんに、ツバメちゃんやんな。ごめんなー、こんな盛大にぶっ壊しながら登場するつもりやなかってんけど、この列車いっつもこんな感じやねん。ほんとゲーマーの作るもんはクセがすごくてなー。あ、みんなもゲーマーか。失礼なこと言うたかな?」

 

アリアがおずおずと口を開く。

 

「あなたひょっとして、レンラーラが呼びかけていた人? たしかS.S.とか――」

「うんうん、せやで。うちがS.S.こと、空水ソラミズ此岸シガン。よろしゅうな」

 

2

落ち葉舞い散るプロムナードに突如として現れた蒸気機関車は、定期的に蒸気を吐き出してそのありあまる膂力をアピールしながらも、さしあたりはおとなしく停車している。そんな蒸気機関車が見える位置にある古ぼけたあずまやの中で、アリアたち3人と空水此岸はテーブルをはさんで向き合っていた。3人が当惑を隠しきれず押し黙っているのとは対照的に、空水此岸は笑みを絶やさずよくしゃべる。

 

「いやー、来るのおそなってほんまごめんな。うち、レンラーラちゃんの配信はもちろんずっと観てて、レンラーラちゃんが来てーって配信で言うたときもすぐこっちの世界へ来る列車に乗ってんやけどな。方角だけ見て適当な路線に乗って寝てたらいつの間にか全然違う方向に行ってるやん? 何回か乗り継ぐ羽目になったわ。なんでここの近くこんなに路線が入り組んでんのやろな? レンラーラちゃんのラストバトルにも間に合えへんかったみたいやし、悲しいわ。みんなも、ほんまご愁傷さま、な」

 

ニースはアリア、ツバメと顔を見合わせてから、ひとこと目を切り出した。

 

「路線、というのは? あなたは、この機関車に乗ってこの世界にやってきたんですか?」

「此岸でええよ。そうや。これに乗ってきた。こういうの見るん初めてやないやろ?」

「こういうの、とは間世界転移魔法のことですか? 正直なところ、これほど大規模で無秩序な破壊を伴う転移は初めて見ましたが――」

「あーちゃうちゃう、転移の仕方がどうこういう話やなくて、間世界転移を本質とするような人間と会うのは初めてやないやろ、ってこと。ほら、みんなはもう彼方と会ってるから……といっても、さすがにわからへんか?」

 

空水此岸は言いながら首をかしげる。首をかしげる動きに少し遅れて、腰までの長い銀髪がさらりと音をたてて揺れる。そう、この美しい髪、顔立ち、そして名前も。空水彼方とあまりに似ている。ニースは気になっていたことを訊くことにした。

 

「此岸さんは空水彼方と近しい存在なんですか? ご家族とか……」

「よくぞ聞いてくれました! そう、彼方はうちの妹なんよ。たったひとりの自慢の妹。顔かたちとかも似てると思ったらそのおかげやね。性格とかはあんまし似いひんかったけど」

「すると、あなたがたは世界を越える能力を持った種族?みたいな……だから同じ転移能力を?」

「うーん、そういうことでもないねんな。能力は血筋とは多分関係ないし。実はこの列車もほんとはうちのもんちゃうし。うちの能力は、こっち」

 

言いながら此岸はどこからともなく虹色の封筒を取り出す。これを見て3人は、あ、と小さく声を上げた。

 

「ほら、見たことあるやろ。この封筒と便箋でどんな異世界にでも手紙を送り届けて、絶対に誤配も誤読もされない。これが能力。うちの能力。名づけて世界便セグメントや。でも、言うたらあれやけど、うちはふだんあちこちの世界にじゃんじゃんこの世界便セグメントを送ってて、どの世界に送ったことがあるかなんて全部は覚えてないねんな。だからみんなんとこの世界にも送ってたのは最近知ったわ。
言うたらあれやけどでいえば、もうひとつ。レンラーラちゃんへのスパチャな。今日は一応、あれの件で謝るために来たんよ」

「そうでしたね。もうレンラーラもいないので、彼女が満足するかどうかはわかりませんが、私たち3人としても事情はお聞きしておきたいです。いったいなぜスーパーチャットがあの挙動になったのか」

「とりあえずは、ほんまごめんな。で、あの挙動になった理由なんやけど、ぶっちゃけるとうちにもようわからへんねん」

「はい?」

「いや、うちの能力、世界便セグメントが変なかたちで発動してああなったっていうところまではわかってるんよ。ただ、なんでチャットなんかで世界便セグメントが発動したのかがわからへん。まあ、チャットも手紙の一種と考えればうちが打ち込んだチャットが世界便セグメントの効果を発揮するのはありえへんくもないかな、とは思うねんけど、いつもは私の便箋でしか発動してへんからな。レンラーラちゃん以外のチャット欄であんなんなったこともないし。おかげでけっこう迂闊なことも書いてまってな。『いつも観てます♡』なんて書いたから、公開されてる配信はほんまに一回も欠かさずに見ることになってまってん。レンラーラちゃんの配信、もともと好きやったからええんやけどな」

 

少し眉根を寄せたアリアが口をはさむ。

 

「此岸さん、あなたほんとに悪かったと思ってます? レンラーラはあなたのスパチャでどれだけ気に病んでたと……」

「だからほんまにすまんかったて。な。此岸お姉さんにできることならお願いとかも聞くから」

「ま、いいですけど」

 

笑顔を崩さないまま、両手を合わせて謝罪のポーズをとる空水此岸に対して、アリアは存外はやく怒りの矛先を収める。

ニースが言う。

 

「お願いを聞いてもらえるということであれば。まずは空水彼方……彼方さんに、この世界を滅ぼすのをやめるように言ってもらえませんか」

「それはできひん」

 

此岸は即答する。

 

「なぜ? 彼方さんからすれば此岸さんはお姉さんですよね? 言うことを聞いていただけるような関係ではないんですか」

「そういう関係ではないっていうのもあるけど、それ以前に、うちがやりたくないから、できひん」

「そんな。できる願いなら聞くって言っているのに」

「やりたくないもんはできひんわ。借りがある相手からのお願いでも絶対にやりたくないことはあんねん。うちはいつでも彼方の意思を一番に尊重する。なんといってもひとりきりの妹やからね。あちこちの世界に存在してるニースちゃんとかとは、申し訳ないねんけど大事さが桁違いやねん」

「待ってください。普通の人間は、あちこちの世界に存在しているから、比較的に言って大事ではない、あなたのような旅人がそういった価値観になるということまでは納得しましょう。しかし、先ほども言っていましたね、彼方さんは『たったひとりの妹』だと。彼方さんは複数の世界に一人しかいないんですか?」

「そうや。ほんで、うち自身もそう。複数の世界に一人しかいない。
ええか? うちらが暮らしてるこの世界……世界群には2種類の存在者がおんねん。一方は、ニースちゃんたちみたいな、あちこちの世界のなかに無数のバリエーションが存在する存在者。もう一方は、うちや彼方みたいな、世界群のなかに一人だけ存在してて、その本質となる能力で世界をまたいで行動する存在者。もちろん、両者はどっちがエラいエラくないってもんでもないけど、うちみたいな後者の側の人間からすれば、後者の、よりかけがえのない人間たちとの付き合いのほうが大事にはなってくるんや。ひとにわかってもらえるとは思うてへんけどな」

「ふむ……まだはっきりとつかめていませんが、なにかすごく重要なことを教えてくださっている気がします」

「あいまいやね」

「すみません。しかし、わからないことがひとつ出てきました」

「うんうん、言うてみて」

「此岸さんは、どうやって此岸さん自身が世界群にひとりしかいないことを知ったのですか?」

「あー、それはなー、正確に言うとべつに断言はできひんのやけど。しいて言うなら経験則かなー。うち、列車やら世界便セグメントやらであちこちの世界を覗くようになってからまあまあ久しゅうてな、たぶんこの世界群に存在するたいていの世界は見て回ったと思うねんけど。いまだにうち自身とは会ったことがないからね」

 

そこでアリアが口をはさむ。

 

「ねえ、それって逆じゃないんですか?」

「逆? どういうことや?」

「なんて言えばいいのか……あなたの言い方だと、世界群が先に在って、その世界群のなかのほとんどの世界を列車や世界便セグメントで見て回った、みたいな感じですけど。本当は、列車や世界便セグメントで見て回った範囲が世界群のほとんどだと、あなたが勝手に決めつけてるんじゃないですか、ってことです」

「面白い考え方やね。たしかに、うちの立場からすれば、世界群の全域にアクセスできる能力が世界便セグメントなのか、世界便セグメントでアクセスできる領域を世界群の全域とみなさざるをえないだけなのか、判別はつけへんね。ただしそれは、判別をつける意味があれへんいうことでもあるねんけど」

 

急に込み入ってきた会話の内容に、ニースはやや感嘆して鼻を鳴らす。

 

「なるほど、空水彼方や此岸さんのような転移者は、自らが能力等によって転移できる範囲を世界群の全域とみなさざるをえない、のかもしれない。仮にそうならば、ある転移者が他の世界の自分自身と出会えないということは、世界群のなかにおけるその人物の絶対的な性質――世界群のなかに一人しかいない、ということ――を意味するのではなく、単にその人物の転移能力が世界群に対して相対的に持つ性質――もう一人の自分がいる世界には到達できない――を意味しているわけだ」

 

アリアがさらにニースの言葉の後を継ぐ。

 

「空水彼方や此岸さんには、もう一人の自分がどこにもいないんじゃなくて、ただもう一人の自分と出会えないだけ……。そうよ、空水彼方がもう一人の自分と出会えないとして、それは世界群に関する真実ではなくて、単に空水彼方の能力の限界を示しているのね。もう一人の自分と出会う能力をもしも想像力と呼ぶのなら、ほんとうに想像力が欠如していたのは空水彼方のほうだったのかもしれないわ。どんな世界に行っても自分じゃない自分と出会うことができないひと。たった一人ぶんの可能性のなかにある世界を行き来するばかりで、いま自分がいない世界に行くことができないひと。でも彼女の在り方は、ある意味で、いちばん強い想像力だともいえる――」

 

アリアはそこまで言ったところで、両ひじをついた此岸が妙ににこにことしながらアリアのことを見ているのに気づいて、また眉根を寄せる。

 

「なんです? 気分を害しました?」

「とんでもない。なんやアリアちゃん、彼方のことよく見てくれてんのやなーって思って」

「べつに好感からくるものじゃありませんけどね。あのひとは、私の大事な人を危険にさらし続けている、敵だから」

 

言い切るアリアの顔にはみじんの照れもためらいもなかった。

 

「敵や言うてもねえ。ほら、ツバメちゃんなんか寝てるし」

「寝てないです」

 

目を半分閉じかけながら話を聞いていたツバメは居住まいをただす。

 

「まあええわ。何の話やっけ? そうや、うちは、彼方を説得してゲームを辞めさせるとかでなければ、いちおうできる限りはお願い聞こうと思うとるから。なんやほかにお願いしたいことある?」

 

ニースは、一連の会話のなかで、この7日間の戦いの最終作戦に対するわずかな光明を見つけかけていた。

 

「はい、あります。お願いしたいこと」

 

3

時刻は19時。空水彼方は件のプロムナードを一人で歩いていた。彼方が足を踏み出すたびに、がさりと無思慮な足音が立つ。それは、レンガ敷きの路面がなにかとてつもない重量物に踏み荒らされたかのように荒れているからであり、またその上にまばらに落ち葉が積もっているからだ。しかし、無論というべきか、彼方は自分が立てる足音に動じることもない。この空間の招かれざる客は彼方であり、この空間の主は息をひそめて彼方の首を狙っているのにもかかわらず。

 

空水彼方は敵のペースで様子見の時間が続くことを好まない。だからやることはいつも同じだ。彼方はわずかに声を張り、まだ姿を見せないこの空間の主を挑発する。

 

「よく舗装した黄色いレンガの道だったろうに、壊してあるな。私にローラーブレードを使わせないためか? おもてなしの準備としては悪くないが、私は走ってもまずまず速いぞ」

 

彼方の声はわずかな反響を伴いながら、イチョウの木々のなかへ沁みこんでいく。そのわずかな反響が消えたとき、彼方の左斜め前方から1本の矢が飛んできた。あぶなげなくサイドステップを踏んで矢を避けながら、存外簡単に釣れたな、と彼方は思う。

 

「要撃戦か? そういうのはもうレンラーラでやったんだが」

 

敵は彼方の言葉には答えず、代わりに2本の矢を続けざまに放ってくる。1本は彼方の正面から、もう1本は右斜め前方から。彼方はまたも危なげなくこれらを避けながら、敵の姿を確認しようとする。第二撃と第三撃との間に、木々の間を人影のようなものが移動するのが見えた。しかし一瞬だ。

敵は木々に姿を隠しながら彼方に矢を射かけてきている。動きはなかなか素早く、視認が難しい。矢が着弾した一瞬後に弦が弾かれる音が聞こえるところをみると、矢自体の速度もなかなかのものだろう。着弾した3本の矢を見ると、かなり大きい矢じりを使っているが、その割には狙いも正確だ。総じて、機動性・貫通力・狙撃性能を兼ね備えた射手というアリアの一般傾向に違わない。彼方に挑むうえでのの最低限の実力は持っているといえよう。

あくまで最低限の、だが。

 

「避けるだけならわけはない。受け止めることだってできるぞ。次はどうするんだ――」

 

言い切る前に次の矢が飛んでくる。今度は正面。彼方は宣言通り、飛んできた矢を片手でつかみ、顔の前で止めた。そのとき、彼方は今度の矢がさきの3本とは異なっていることに気づく。矢じり表面に精緻な魔方陣が刻まれているのだ。

 

仕掛け矢トリックアローか」

 

即、矢を前方に投げ捨てると、間髪入れずその矢が爆発する。腕で頭を爆風からかばいつつ、横っ跳びに跳ぶと、彼方の進行方向にすかさず次の矢が飛んでくる。

彼方は空中で体をひねり、軌道を変えながら着地する。矢は彼方に直撃せず、地面に着弾したが、これにも魔方陣が刻まれている。着弾点からはたちまち植物のツルが湧きあがるように生えてきて、彼方の足に絡みつく。

ツルはものの数秒で彼方の全身をからめとろうとする勢いだ。彼方は力を込めて脚を振り、ツルを引きちぎると、今度は上向きに飛び上がる。敵の追撃はやまない。立て続けに放たれた3本の矢がトレンチコートの裾をかすめて彼方の背後の木に突き刺さる。アリアにしては狙いが甘いな、と彼方が思うのもつかの間、3本の矢を結んだ直線上に電撃がほとばしり、延長線上の彼方を襲う。

彼方は木の幹を思いきり蹴って電撃を避ける。そして、着地と同時に手近な木の背後に滑り込む。背中は幹にぴたりとつける。多彩な仕掛け矢を立て続けに射かけてくる射手を相手にするならば、数秒間と姿をさらし続けるのは賢明ではない。

 

彼方は慎重に、しかしためらわず、幹から顔をわずかに出してアリアの様子をうかがう。一見すると無人の木立のなかで、舞い落ちる落ち葉がときおり不意に切り裂かれる。ちらりと人影も見える。どうやらアリアは、数秒間木の陰で息をひそめ、一瞬で木々の間を移動し、また数秒間木の陰で息をひそめる、といった動きを繰り返して、彼方を射撃可能なポイントを探しているらしい。

ふいに、ローラーブレードのつま先が小石に触れる。彼方は、何気ない思い付きで、小石を蹴りあげて十数mさきの木に当てる。ちょっとしたデコイだ。

彼方の立てた物音が静かな林によく響くが、そこに矢が飛んでくることはない。さすがに彼方の居場所をよくつかんでいる、この程度のデコイには引っかからない。

 

アリアがよい射撃ポイントを見つけるまで待ってやる義理は彼方にはない。ここは、立ち位置をこまめに更新しつつアリアとの距離を縮めるべきだろう。しかし、不用意に走りだせばそれは明確な隙になる。

彼方は、アリアが木々の間を移動するタイミングに合わせて自分も移動することに決めた。すこし集中すれば、アリアが走りだす直前、空気が張り詰めるような独特の気配を感じることができる。彼方はその左のまぶたを一度閉じて、開く。今だ。

 

木から木へ、走りこもうとする両者の視線が交錯する。アリアは、移動のタイミングを合わせてきた彼方にすこし驚くが、しかし動揺している場合でもない、無駄のない動きで矢をつがえて彼方を射る。仕掛け矢ではない、通常の矢だ。対する彼方は腕からアイスボルトを放つ。2人はほぼ同時に木の陰に滑り込んだ。

攻撃は互いのかかとをかすめはしたが、当たってはいない。彼方がこの瞬間に移動したことはアリアにはやや予想外だったが、まだ慌てるわけにはいかない。アリアは彼女自身不思議に思うほど冷えた頭で次の動きを考える……目論見はやや崩れたが、また一から射撃位置を探し始めるべきか? いや、仮にそうしてもまた空水が動けばいたちごっこになるだけだ。ここはあえて、休止を挟まず、即座にもう一回移動するべきだ……そう腹を決め、アリアは木の陰から飛び出す。

しかし、このアリアの一瞬の判断も、彼方には想定内だ。アリアが飛び出すのにあわせ、彼方も再度飛び出してくる。またも両者の視線は交錯するが、両者の距離は一瞬前よりもぐっと短い。アリアはできる限りの速さで、今度は“鏑矢”を一本つがえて彼方を射る。彼方は相も変わらずアイスボルトだ。

彼方はアイスボルトを放った腕をそのまま振って矢をたたき落とす。すると、矢に一瞬遅れて、怪鳥の鳴き声のような甲高い騒音があたりに響き渡る。アリアのつがえた“鏑矢”は、魔法的に増幅された風切り音によって相手を驚かせ、威嚇し、隙を作ることを狙ったものなのだ。アリアは首をすくめてアイスボルトを避けながら、騒音の効果を期待して彼方を見やるが、彼方には動揺の色は見えない。一瞬のやり取りの後、両者はまたも木の陰に滑り込む。

木に背中を預けながら、アリアはさすがに少し歯嚙みする。くそ、この程度で動揺する相手じゃないってわかっていたはずなのに!

 

2人の距離は確実に狭まっていた。数秒間の沈黙。そして、アリアはなにかあきれたような声色でため息をつく。

 

「……はあ」

 

アリアは戦いを次の段階に進めることにした。アリアは彼方にも聞こえるように、落ち葉を踏みしめ、ゆっくり、はっきりと足音を立てて木の陰から一歩出る。

続いて、彼方も木の陰から一歩出る。彼方はどこか不遜な面持ちで、腕組みをしてアリアと向き合った。

彼方の薄く瑞々しい唇が開く。

 

「どうした、かくれんぼはもう終わりか?」

 

4

彼方はやっとアリアの姿を落ち着いて観察することができた。アリアは、モスグリーンで合わせた袖なしのチュニックとズボンの上から、黄土色のポンチョを羽織り、足には皮の編み上げブーツを履いている。実用的かつ素朴な装いだ。しかし、彼方のような練達の士にとっては、アリアの細く、しかし強靭な腕をそれとなく見せつける、小粋なファッションと感じられなくもない。

また、アリアは石造りの魔導弓を左手に持ち、腰の後ろ側には魔法の箙を着けている。アリアの右手は、一見所在なく垂れているようにも見える。だが、これまでの射撃をみる限り、彼女が射ると決めてから矢を抜き、弓から放つまでには三分の一秒とかからないだろう。

 

アリアは彼方の目を見て語りかける。

 

「そうね、精神の削り合いみたいな戦いをしかけたのは間違いだったわ。あなた、まるで心がないみたいだもの」

「君は、たかだか敵がこけおどしにひるまなかった程度で『敵には心がない』とうそぶくようなたちか? 思い通りにはならない相手をこそ“敵”と呼ぶのだと、君の通っていた魔法学校では教えていないのか?」

「まるで心がないみたいだけど、ほんとに心がないとは思っていないわ。自分の心にウソをつく……恐れていても恐れていないようにふるまうことは、案外誰でもしていることだって、私は職業ジョブ柄よく知っているもの。だから、次の手札を出すわ。今度はホンモノの●●●●●こけおどし」

「それならはやく出すといい。前置きなどいらない。わざわざ姿をさらすからなにかと思えば」

「ごめんなさい。このスキルは、目と目が合っていないと発動しないから」

 

彼方は目をそらそうとしたが、アリアが指を鳴らすほうが早かった。彼方は、アリアがなんらかの術をかけたことを察する。

 

「『眼魔術ガンマイリュージョン』。これが私のアドミンスキルよ」

 

アリアはつぶやき、即座に腰の箙に手を伸ばす。アリアが一本の矢を弓につがえた瞬間、彼方の目の前で奇妙なことが起こる。

弓を構えたアリアが突如として2人に増えたのだ。2人のアリアは、微妙に異なる角度から同じ動きとタイミングで彼方に向けて矢を放つ。彼方は、2本の矢を避けるか、弾くか、つかむか、わずかに考え、事態の奇妙さを鑑み結局は避けることを選ぶ。身をかがめて矢を避けた彼方の後方で爆発音が響く。いまの矢は“爆発する矢”だったらしい。

彼方は前傾したまま、猛禽のように駆けて1本の木の後ろに身を隠そうとする。しかし、2人に増えたアリアの動きはいままでの“かくれんぼ”とは明らかに違う。身をさらすことを恐れずに彼方の目の前に回り込んでくるのだ。彼方の鼻先まで接近した1人のアリアが彼方の足許に矢を放つのと、彼方が垂直に跳びあがるのが同時だった。彼方が地面を蹴ったまさにその地点に矢が着弾し、ツルが猛烈な勢いで生えてくる。

ツルはあと少しのところで彼方の足を捕らえられない。彼方は前方宙返りをして1人のアリアの背後に着地し、振り返って彼女を見る。するとそこにいたのは、またも増殖して、今度は1人が3人になったアリアだった。3人のアリアは前方、右後方、左後方の3方向を向き、同じ動きで今しも矢をつがえようとしている。無論、彼方の位置も3人の死角ではない。彼方は袖のなかで適当に氷のナイフを5、6本生成し、3人のアリアにばらまくように投げつける。ナイフが当たると、弓を構えた3人のアリアは霧のように消えた。

 

満足する間もなく、彼方は耳がしびれるような独特の感覚を覚える。殺気だ。

直感的に身体をそらした彼方のすぐ横を3本の矢が通り過ぎていく。直後に爆発音。矢が飛んできたほうをみれば、3人のアリアが並んで弓に次の矢をつがえているところだった。どうやら、最初に2人に増殖したアリアのうち、彼方が氷のナイフで消した方でないもう一人のアリアも3人に増殖していたらしい。彼方はいったん手近な木の陰に入って3本の射線から逃れる。直後、木に矢が突き刺さる音がする。彼方は木から顔を出してもう一度アリアの様子を確認する。今度はそこに12人のアリアがいた。彼方はひとりごちる。

 

「敵が増えるなら好ましくもあるが……増えるに任せるのも健全なプレイではないか」

 

彼方は思いきってアリアの群れに接近し、直接攻撃をしかけることを選ぶ。彼方は木の陰から飛び出し、弓に矢をつがえている途中の1人のアリアに近づいて魔導弓をもぎ取ろうとする。しかし、彼方が触れようとするとそのアリアはかき消えてしまった。そうこうするうちに残り11人のアリアはまたも増殖して、彼方を取り囲みつつある。いまは50人以上か、数えるべくもない。

50人以上のアリアが、わずかにタイミングをずらしながら彼方に矢を放つ。数十本の矢が四方八方から襲いかかってくれば、これを避けきる手段は彼方にもそう多くはない。彼方は念力じみた魔法で50本の矢をいちどきに空中に止めてみせた。静止した矢のうち、一本からにわかに電撃がほとばしり、電撃が伝った周辺の矢が消失していく。

 

「本物の矢は本体が放った一本きりか。どうもありふれた分身能力の類らしいな」

 

アリアたちが次の矢をつがえる前に、彼方は包囲がひときわ厚い一角に踏み込む。彼方が右足を勢い良く地面にたたきつけると、この右足から放射状に地面に亀裂が走り、亀裂から鋭い氷筍が列をなして飛び出してくる。とても避けられる攻撃ではない。数十人のアリアが串刺しにされたかと思うと、霧のようにかき消えていく。がら空きになった一角から彼方は包囲を突破して走る。

 

木の陰に入ったり出たりを繰り返して、彼方は意図的に射線を遮る。そんな彼方の背中に、くり返す波のように数十本、数百本の矢が飛んでくる。彼方は木を盾にし、念力で矢を止め、または氷のナイフをばらまくなどを織り交ぜて、巧みにこれらの矢の命中を防ぐ。ときおり、広範囲に氷筍を生やしてアリアの数を削ることをも試みる。

しかし、アリアが増えていく勢いは増すばかりだ。彼方があらためて振り返って観察すると、彼方を狙うアリアの群れは優に2000人を超えていた。2000人をとらえるため、最大範囲で氷筍を生やして9割5分のアリアを削っても、次の瞬間には、討ち漏らした100人がまた2000人にふくれあがる。彼方は、より丁寧に、なるべく一人も残さずアリアを殺すように心がけ、また次の氷筍を生やす。そうこうしているうちにも、いったいどのアリアが飛ばしたのか、正真正銘本物の矢が飛んできて彼方の耳をかすめる。

 

彼方は考える……なるほど少し珍しい能力ではある。実体を伴わない分身、それも、本体に不完全に同期した動きをする分身を生み出す能力とだけ表現すれば、多くの世界に存在する平凡な魔法ではあるが、分身の増殖ペースがかなり速い。実のところ、アリアが指を鳴らしてからまだ1分ほどしか経っておらず、また氷筍の攻撃でそこそこ間引いてはいるはずなのだが、アリアの人数はすでに数千人を数えている。加えて、いくつかの流派の幻術に完全な耐性を持つ彼方に対しても効果を発揮していることも特筆すべきだ。これは、眼魔術ガンマイリュージョンが敵の認識機能にはたらきかけるものではなく、空間そのものの基礎的な管理情報にはたらきかけるものであるからこそ可能なことなのか。

しかし、この魔法がはたらく原理など、どうでもいいことだ。大事なのは、どうやって攻略するかということだけ……彼方はアリアの群れに向き直り、片腕を勢い良く振って幾千人のアリアを消し飛ばす。音もなく消えていくアリアの大軍を見ながら、ふいに彼方は攻略法に気づいた。そんな気がした。彼方は左目を見開き、宣言する。

 

「私に見てほしいのか何なのか、知らないが。君は私にまばたきをさせたくないらしいな。私はまばたきをやめる。それがこの幻術を解くカギだろ?」

 

アリアの姿は、彼方がまばたきをするごとに増えていたのだ。それも、彼方が1回まばたきをすれば、アリアの人数は2倍に、2回まばたきをすれば3倍に、3回まばたきをすれば4倍に……と、まばたきの回数ごとに増加率も上がっていく。間引きを行わなければ、1分もしないうちにアリアの数は3000万人を超えるだろう。

しかし攻略は簡単だ。まばたきを我慢すればいい。彼方は必要であれば10分程度はまばたきを任意に止めることができた。

 

アリアの群れが一斉に鼻で笑い、不完全なユニゾンを作る。どうやら彼方がまばたきを止めることは想定内らしい。

 

「どうぞ、やめてみれば? それで私の増殖は止まるのか、それとも……」

 

しゃべりながらもアリアはまた矢をつがえ、彼方に浴びせかける。対する彼方は走り回りながら矢の雨を避け、止め、あるいは弾き返す。

まばたきをやめてから10秒が経ち、彼方の視界が変化し始める。この変化した視界にはさすがに彼方も驚愕した。目の前の数百人のアリアの輪郭が、水面に落とした油滴のように、歪み、溶け合い、流れ出したのだ。

さっきまで目の前に数百人いたアリアは、いまや1人とも10000人ともつかない不明瞭な黄土色のかたまりと化している。空間を埋めつくそうとする黄土色の奔流のなかに、ときおり思い出したかのようにアリアの身体の残骸がちらつく。ブーツのようにも見える赤茶色の影。細い腕のようにも見える肌色の影。意志の強い瞳のようにも見える橙色の影。

そして、矢の影までも。空間を埋め尽くす塊と化してからも、アリアの攻撃はやまない。はっきりしない輪郭の、しかし確かに殺気を伴った、矢のようなナニカが彼方のほうへ飛んでくる。彼方の脳裡に疑問符が浮かぶ。こんなものを避けられるのか? つかめるのか? 彼方はたまらず、一度まばたきをした。

すると、視界は突如正常に戻る。いまや数千人ものアリアが……しかし、割り切れる人数のアリアが彼方に向けて矢を飛ばしているだけだ。彼方は有限の本数の矢を袖で適当にはたき落とした。

 

アリアたちはさもおかしそうに、笑いをこらえた風な顔で説明する。

 

「私の眼魔術ガンマイリュージョンは、あなたのまばたきの回数に応じて分身の人数が増えていく、幻術の一種よ。あなたが普通にまばたきをしている場合、まばたきとまばたきの間、目を開けている時間には分身の人数は整数値をとる。でも、まばたきの瞬間、目を閉じている間にはその限りじゃないわ」

「本来、この術にかけられた人間が目を閉じている間、分身の人数は連続値をとるのか。だから、意識してまばたきを我慢すると、人数が連続値をとっている間の分身を私は認識せざるを得ないことになる。ほとんどの瞬間には分身の人数は無理数。だから視覚もエラーを起こす」

「ほら、またまばたきを止めてるでしょ。そろそろ分身が歪みはじめたはず」

 

アリアの言葉は正しい。彼方の視界では、またもアリアの輪郭が不明瞭になっている。

 

「しかし実に人間依存のギミックだ」

「人間依存というより、身体依存ね。あなたの身体があなたにまばたきをさせようとする意志に応じて、分身の回数は重なっていく。たとえあなたが意識の上でまばたきを我慢しても、身体にウソはつけないのよ」

 

さっきまでアリアだった黄土色の塊は、いつのまにか彼方を取り囲み、四方八方から矢のようなナニカを投げつけてくる。彼方は片腕で、片足で、舞うようにこの何かをはたき落としていく。ほとんどのナニカは腕や足に当たっても手ごたえがない。しかし、その手ごたえのなさに油断して適当に四肢を振り続けていると、唐突に袖を切り裂かれる瞬間もある。もはや命中かそうでないかもあいまいな領域のなかに溶け出しつつある。強敵ではないが、面倒な相手だ。彼方は左手をゆっくりと自身の後頭部へ手を伸ばす。その動きが奇妙にためらいがちなのを見逃すアリアではなかった。

 

「頭の後ろに何か隠してるの? それともその眼帯を●●●●● 外して●●● くれるのかしら●●●●●●●? ほら、はやく奥の手を見せなさいよ」

「……まさかこんなことのために使うとは思わなかった」

「私たちを見くびってた、って?」

「違う。君は、強さそのものに関しては私の想定を超えていない。ただ、さすがに面倒だから」

 

彼方は左目を閉じるとともに、眼帯を結んでいた紐を切る。眼帯の下から現れた彼方の右目は、ほどほどに赤く輝いていた。

 

「魔眼? いや、違う……」

「私の右目は機械でできている。渇きも疲れもしない。だから、もうまばたきをしたい意志に襲われることもない」

 

彼方は、眼帯の下にこの右目を封印してから初めて、純粋にものを見るためにその封印を解いていた。結果、この右目は、そこまで画質が良いほうではなかったが、しかし最低限正常な視界を彼方に提供していた。すなわち、たかだか数千人の整数人数のアリアを彼方は目にしていた。

 

「整数値なら全滅させるのにわけはない」

 

彼方はどこか吹っ切れたような面持ちで、右足を勢い良く地面にたたきつける。続いて左足、さらに右足をもう一回、たたきつける。すると、例の氷筍攻撃が、三回、かつてない広範囲に敷き詰められる。見渡す限りのアリアたちが次々と串刺しにされて消えていく。しかし、黙ってやられるアリアでもない。

 

「たった1人を射抜く側ならもっと簡単よ」

 

かき消えていくアリアたちのなかで、わずかな生き残りは一斉に彼方に矢を放つ。狙いはいささか大味だ。放たれた矢のなかで一本だけが彼方に命中する角度で飛んでいく。
彼方は顔の前でこの矢を掴んだ。

 

「狙いさえよければいいというものじゃない。受けとめられたら終わりだろ、こんな風に。君には教えたはずだが」

「何言ってんの。よく見なさいよ」

「? おいこれは――」

 

突如、彼方がつかんでいた矢の矢じりが閃光を放つ。常人が至近距離で目にすれば完全失明を免れない大光量。それは、アリアが最後まで温存していた、“閃光弾”とでも呼ぶべき仕掛け矢だった。

彼方の右目は閃光に耐えかね、視界を失っている。失われた視界は1分後に回復するのか、1時間後に回復するのか、もう二度と戻らないのか? いずれにせよ、いま彼方には何も見えない。左目をもう一度開いてもいいが、分身の増殖を許してしまっては相手のペースだ。彼方は完全な暗闇の中でアリアたちと戦い続けることを選ぶ。

 

「ふーん、目を開けないのね。姿も見えないのに私の音速の矢を防げるの?」

「やりようはある」

 

彼方は自分の周囲に背の高い氷筍を生やして囲わせる。直後、氷筍が砕ける音がする。アリアが放った矢を氷筍で防いだらしい。

 

「あなたでも何も見えないと怖いのかしら」

「なにかを怖いと感じたことは人生でもほとんどないが、今の状況は不都合だとは思う」

 

彼方はまたも繰り返し地面を踏んで、広範囲に氷筍を敷き詰める。だが、アリアの本体がやられた気配はない。

 

「あなたも目でものを見てるのね。ひとつ勉強になったわ」

「君がその知識を家に持ち帰る明日は来ない」

 

彼方は地面を踏んで、さらに氷筍を増やす。まだ本体がやられた気配はない。

 

「私とは限らないわ、この知識を活かす人」

「他人の成果に期待するばかりのやつがいくら集まっても同じことだ」

 

彼方はしつこく地面を踏む。でこぼこになってきた足元に、彼方はやや足を取られる。ふいに、彼方のほど近くで、何かががさりと倒れる音がした。ついに本体をやったのか。

 

彼方はアリアが抗弁してくるのを待つが、10秒ほど待ってもその気配はない。やがて、存外に早く復旧した右目がノイズ交じりの映像を彼方の脳に送信し始める。彼方はつい先ほど音がした地点を見やった。

 

そこには、地面から伸びた氷筍に貫かれ、息絶えたアリアの姿があった。

見る限り、即死だったらしかった。なぜなら、氷筍は心臓を正確に貫いていたからだ。この世界のアリアが、義眼や何かではなく、本当に射抜きたかった人体最高の急所である心臓を。