1
空水彼方が
モノリスの画面のなかでは、神官服に身を包んだニースと空水彼方に変身したツバメとが壮絶な戦いを演じている。これは、昨日アリアの助言を受けて完成した台本に沿って、ニースとツバメとがホンモノの戦いにも見紛う模擬戦を行ったときの様子を複数の視点から撮影したものだ。
ツバメは、同じ動きを映した複数の映像を並べ、動かしては止め、止めては動かして比較する。これは、と思う一瞬を見つけると、画面に鼻がつきそうなほど顔を近づけてぶつぶつと何ごとかつぶやくときがある。かと思うと、背もたれにおもいきりもたれかかって呻吟するときもある。
実は彼女は、ニースとツバメが戦っている様子を収めた動画を映像作品として公開するため、編集を行っているのだった。
Vtuberが動画編集を行うこと自体はなんら不思議なことではない。しかし、なぜ今になって? その理由を明らかにするためには、7番勝負の2日目、レンラーラが戦った日の午前中まで話をさかのぼる必要がある。
2
その日、ニースは昼前にツバメの自室を訪れていた。ニースは、通い慣れた友人の部屋らしい気楽さで、無言のまま来客用の籐編みの椅子に腰かけ、腕組みをする。ツバメは、配信用モノリスの椅子のほうをニースのほうへ向けなおして腰かける。ニースはいたっていつも通りの冷静な調子で、ツバメに問いかけた。
「ときに、ツバメ」
「なにかな、あらたまって」
「創造する者と、創造される者とがいるとしよう。このとき、創造する者は、どんな事物をどんな風に創造するのかを、しばしば選ぶことができる」
「それは、例えばひとがフィクションのキャラクターとかを生み出すとき、そのキャラクターを男にするか女にするか、とか、黒髪にするか金髪にするか、とかをそのひとは選ぶことができる、みたいな意味? それはそうだろうけど」
「うん。では逆に、創造される者のほうが――たとえばキャラクター自身が――どのような特徴を持った事物として自分が創造されるかを決定することはできるだろうか?」」
「どうも込み入った疑問だね。えーと……“創造”という行為において、創造する者と創造される者との関係が一方通行であれば、創造される者が創造する者の側にはたらきかけることはどんな意味でも不可能かもしれない。でも、仮に間世界対称律が正しければ――私には聞きかじった知識しかないけれど――創造される者が同時に創造する者でもあるかもしれないわけで。そう考えれば、創造される者が創造する者に対してなんらかのはたらきかけを行うことも不自然なことではない、むしろどこででも起こっていること、と言えるのかもしれない。とか、こんな答えで満足?」
「うん……。ありがとう」
「私なんかより、うるふ老師のほうがこういう話、好きそうだけどね。それか、ツグミちゃんとか」
「……」
「そんなに気を遣わないでよ。ニースも知っている通り、ツグミちゃんは私の人生で一番の親友だった。でも、悲しむのは、ひとりのときにゆっくりと満足いくまで悲しむから、さ」
ツバメは、なんとなく配信用モノリスの画面にちらりと目線を送る。画面には、ツバメがこれまで自分のチャンネルで配信してきた動画のサムネイルが数十個並んでいた。少なくない数の動画が、ツグミが編集してくれた動画だった。
「それなら、いいんだけど。いずれにせよ、うるふ老師や、先に逝ったツグミではなく、これから一緒に戦う君の答えを訊きたかった」
「というのは、その込み入った疑問が空水彼方との戦いのためにニースが考えている作戦の内容にかかわることだから?」
「そう。まだ、作戦というほどたいしたアイデアじゃない、ただ、うまく行くかもしれないことはなんでもやっておきたいっていう、それだけのアイデアなんだけど……。でも、ツバメの協力が欲しい」
「とりあえず内容を聞かせて」
ニースが語った作戦は次のようなものだ。
当初、Celestiaは一日一人ずつ空水彼方と戦い、その戦闘の様子を異世界の視聴者に向けて生配信する予定だった(すでにツグミと空水彼方との戦闘の様子は生配信された)。しかし、本日以降は、Celestiaのメンバーは予定通り空水彼方との戦闘を行っていくものの、この戦闘の様子は配信には乗せず、Celestiaのメンバー内だけでこれを観ることにする。異世界にいる視聴者たちには、ホンモノの空水彼方との戦闘の生配信映像ではない、一定の台本通りに“演じられた”空水彼方とCelestiaメンバーとの戦いの様子を事前に撮影し、一本ずつ動画に編集して公開することにする。つまり、視聴者たちには、ホンモノの空水彼方との間に行われる一発勝負の場面ではなく、それより前に行われる台本通りの模擬戦の場面を“空水彼方との戦い”として届けるのだ。
これは、Celestiaのメンバーにとっては、ホンモノとの間で行われる勝負の前にもう一試合を別に行わなければならないことを意味するが、本番前のある種の練習として許容してもらう。なにより、当初からツバメ演じる空水彼方との練習試合は企画されていたので、ただその練習試合が動画撮影も兼ねるだけ、ということで……。
動画の内容としては『空水彼方との戦いのなかでCelestiaのメンバーは一人また一人と倒れていくが、それぞれが少しずつ残していった布石によって逆転の目が生まれ、最後にはひとり残されたメンバーが空水彼方を倒す』といったストーリー仕立てのものを想定している。
無論、空水彼方の能力と戦いの経過は、視聴者たちが『これがラストバトル』と納得できるような、真に迫った、かつドラマチックなものでなくてはならない。台本を書くのは、うるふ老師に頼んでやらせればいいだろう。ごく短納期にはなるが、嫌とは言わせない。また、監督というか、動画撮影全体のマネジメントはニースが行う。そして、空水彼方を演じるのはツバメだ。
ここまでの内容を聞いたツバメは、この作戦の核心に触れる。
「どうしてホンモノの戦いと別に公開用の模擬戦をもう一回やるの? Vtuberとして、自分たちでコントロールした企画で最後を飾りたい、とか?」
「それもある、けど。一番の目的は、視聴者たちの世界に空水彼方を行かせないため」
「ああ、やっぱりそこが目的なんだね」
そう、ツバメも、ニースも、Celestiaのメンバーは全員、それが最優先事項だということに最初から合意していた。空水彼方に視聴者たちの世界を滅ぼさせないこと。それが7人にとって一番大事なことだった。
「うるふ老師の推測を信じるならば、空水彼方は、空水彼方がフィクションとして創造された世界にやがて現れる。私たちの引退企画として空水彼方との戦いをそのまま配信してしまうと、私たちの世界を滅ぼした後、空水彼方が視聴者たちの世界――Vtuberの引退企画の登場人物として空水彼方が創造された世界――に現れる可能性が排除できなくなってしまう。だから、ホンモノの空水彼方をこれ以上配信に乗せないことにする。代わりに、うるふ老師が新しく書いたホンに沿って、ツバメが演じた空水彼方をお届けすれば、視聴者たちの世界ではそれが空水彼方のカノンになる。視聴者たちにとっての空水彼方は、私たちが知っている空水彼方とは似て非なる新たなキャラクターにして、ここで殺す」
「なるほど。ただ、視聴者たちにこれ以上ホンモノの空水彼方を見せない、っていうことが目的なら、べつに代わりのカノンを作る必要はないようにも思えるけど、きっとそれじゃ何かが足りないんだよね」
「うん。問題は、すでに空水彼方という存在は2回の配信に乗っていて、視聴者たちの世界ではこのキャラクターの始まりが認識されている、というところ。仮に私たちが空水彼方というキャラクターの続きの物語を用意せず、尻切れとんぼな状態のまま引退してしまった場合、ホンモノの空水彼方はキャラクター性に矛盾をきたすことなく視聴者たちの世界に転移可能なままだろう。空水彼方が視聴者たちの世界に転移するのを防ぐためには、視聴者たちの世界で知られている空水彼方のカノンが、私たちにとってのホンモノの空水彼方とは明白に矛盾している必要がある、と考える。だから代わりの物語を作る」
「それでいくと、ホンモノの空水彼方と矛盾してさえいれば、どんな空水彼方を作り上げてもいいのかな?」
「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない……というのも、空水彼方という人物の本質からあまりにも逸脱したキャラクターを創造した場合、逆に、それはそれでホンモノの空水彼方と矛盾しなくなってしまう、という懸念があるから」
「どういうこと?」
「視聴者たちの目線で考えてみよう。視聴者たちはまず、私たちの引退企画に登場する“空水彼方”というキャラクターを一個の確立したフィクションとして知っている。では視聴者たちは、その“空水彼方”とは微妙に細部が異なるだけのキャラクターを、“空水彼方”とはまったく別のキャラクターとして新たに認識できるだろうか?」
「うーん、言葉の使い方の問題な気もするけど、まったく別、っていうのは難しいかもね。微妙に細部が異なるキャラクターは、“空水彼方”に関する間違った記憶とか、あるいは非公式な二次創作としてしか認識できないと思う」
「では、私たちの引退企画に登場する“空水彼方”とはまったく異なる特徴を持ったキャラクターであれば、まったく別のキャラクターとして新たに認識できるだろうか?」
「それはできるだろうね、ほとんどトートロジーだから。っていうことは、なるほど、ニースが言いたいのはこういうことか。私たちがこれから創造する代わりのキャラクターがホンモノの空水彼方からかけ離れていたとき、ホンモノの空水彼方は、私たちが創造したキャラクターとは単に別のキャラクターとして、視聴者たちの世界に創造されてしまう可能性が否めない、という」
「そう。でも、正直に言って、私たちがこれから創造すべきカノンが、ホンモノの空水彼方からどの程度まで離れたキャラであるべきで、どの程度までは近しいキャラであるべきなのか、というラインは断言できない。だから、これはあくまで私の感覚、というか、不合理なこだわりになってしまうかもしれないけど……私たちが作り上げる空水彼方は、性格面ではホンモノにできるだけ寄せたい。で、性格を寄せるためにはアリアの力を借りたい。得意そうなひとの力を」
「ニースも、ひとの行動を分析してエミュレートするのはけっこう得意じゃない?」
「いや、私にはアリアみたいに人の心を見つめる才能はないよ。あんなにまっすぐな瞳でずっと見つめるような才能は」
「たしかにアリアには劣るか。それにニース、自分がひとからどう見られてるかとか、わかってないときもすごくあるし」
「それは、そうなのかな」
「ほら、ニースって、『いつも真顔で、ひとからは何考えてるのかよくわからない』っていうキャラだと自分では思ってるでしょ」
「え」
しばし言葉に詰まるニースの前で、ツバメはくすくすと笑う。
「ま、それはともかく。私は、うるふ老師が書いた台本をもとに空水彼方を演じて、みんなと模擬戦をしていけばいいんだね」
「そう」
「わかった、まかせて。あと、ほかになにか、ここで決めておきたいことはある?」
「小さいことだけど、2点ある」
1点目は、ツバメが空水彼方と戦う回において、誰が空水彼方を演じるのか、という問題について。2人で話し合った結果、ツバメの回においてのみニースが空水彼方を演じることとなった。ニースにはいちおう変身魔法は使えるが、ツバメほどの名手ではない。そのため、ニースが演じた空水彼方だけ、ほかの回の空水彼方に比べて再現度が落ちてしまうことになるが、そこであえて、ニースはほかの回とはがらっとデザインを変えた空水彼方に変身してこれを演じることにした。『追い詰められて最終形態に変身した空水彼方』という設定のもとでである。
この小細工に伴って、動画の公開順も、実際に空水彼方がCelestiaメンバーと戦う順番とは変えることにした。つまり、実際には空水彼方の(仮に行われるとして)6戦目は対ツバメ、7戦目は対ニースという予定だが、ニースがシナリオを書く公開用の動画では、6戦目を対ニース、7戦目を対ツバメにするということだ。
2点目は、ツバメ演じる空水彼方とCelestiaとの模擬戦の様子を、誰が撮影し、編集するのか、という問題について。ニースは、戦闘の映像は、模擬戦でツバメに相対するそれぞれのメンバーがそれぞれの責任で撮影・編集するのがいいだろう、と述べた。つまり、たとえばレンラーラの回はレンラーラが、レイの回はレイが編集する、ということだ。そして、各人の忙しさを鑑みるに、公開される映像は“撮って出し”に近い無骨なものになるかもしれないが、それもやむなし、とニースは付け加えた。しかし、ツバメはこれに異を唱える。
「ダメだよ。ちゃんと体裁を整えたストーリー動画じゃないと。視聴者のみんなが不満を覚えるような出来のものだったら、それはカノンにはならない」
「一理ある。でも、みんなには、動画作りよりもホンモノの空水彼方との戦いのほうに注力してほしい。もしも中途半端な戦いをして、私たちが“勝ちに来ていない”ってことが空水彼方にばれることのリスクは看過できない」
「そうだよ。だから、みんなに付き合ってもらうのは、模擬戦を行うところまででいい。撮影・編集まではやってもらわなくていい。撮影・編集は、私がやる」
ツバメは、ニースとまっすぐ目を合わせてそう言った。根拠はないが、やる気をみなぎらせたひとの目だと、ニースには思えた。いつもツグミのあとを一歩遅れてついていく、そんな印象を勝手に抱いていたあのツバメがそんな目をして言ったものであるから、ニースには少しだけ驚きだった。
「ツバメ、それは全員ぶんの映像、6本を君ひとりで完成させるという意味か?」
「うん。そういう意味」
「それはあまりにも負担が大きい。それに、こういう言い方はなんだけど、ツバメはここ数年は本格的な編集作業をしていないから、慣れないんじゃ」
「そうだね、確かに私たちは……私とツグミちゃんは、2人で分担して動画を作ることが多かった。私が企画と下準備、ツグミちゃんが編集、って。そういう分担になったのは、私にはツグミちゃんみたいな映像センスはないって、ずっと思っていたから。でも、いまならできる。なんでかわからないけど、いまならできるんだよ、私にも、ツグミちゃんに引けを取らない編集が! だから、私がやる」
「君の自信がいまひとつ理解できない。けど」
「止めないで」
「止められるものかよ、君がそれだけはっきり“私がやる”と言うのなら。私たちはゲーマーでVtuberなのだから、最後の最後はやっぱり、自己決定権を尊重するさ」
「ありがとう、ニース……ふふっ、いまわかったよ。最初ニースが私に尋ねたかったことって、要は、『私たち自身が、視聴者たちの世界における私たちの物語を決定することはできるだろうか』っていうことでしょう?」
「うん。はっきりまとめるならそういうことだ」
「できるよ。それは創造する者かされる者かなんて関係なく、もっとずっと単純なことなんだよ。私たちは選んで、決めることができる。いつでも、どこの世界でも」
「それはまた……望ましい答えだよ」
そんなこんなで当面の方針をまとめた2人は、その後、レンラーラを皮切りに、Celestiaのほかのメンバーにも順次作戦の概要を伝えた。全員が賛同してくれた。
それから5日の間、ツバメとニースの2人は6つの半独立空間をあわただしく飛び回り、アリアをはじめとしたCelestiaメンバーと打ち合わせを重ねた。また、練習を兼ねた模擬戦を行い、それを撮影した。
ツバメは、密なスケジュールのなかにわずかな時間を見つけては、自分の半独立空間の自分の部屋に帰って、撮影した映像を編集する。
そして、時間は今に至る。
3
この5日間は、ツバメにとってまさしく目の回るような5日間だった。打ち合わせに撮影、撮影しては編集、また打ち合わせ、撮影、編集……ろくに寝る時間もない。
コントまがいの適当な動画を編集するだけなら、現状のように大変な思いをすることもなかっただろう。しかしツバメは適当な動画を公開することを選ばなかった。単発の映像作品として、Celestiaがこれまで世に出してきた映像のなかでももっとも見ごたえのあるものを作ろうとしていた。それらの動画が、ある世界ではCelestiaの活動の最後を締めくくるものになると、はっきりわかっていたから。
締めくくりにふさわしい映像を形づくるために、必要なものは数知れずある。よい脚本も必要だし、よい照明効果も必要だし、よい音響効果も必要だ。しかし、自分たちの最後の動画のためにツバメがとりわけ心から求めていたものは、よいテンポだ。ストーリーを、画面を、音声を、過不足なく切って貼り合わせ、作品に変えていくその完璧なテンポが欠かせないと、ツバメは知っていた。
このテンポをつかむことに関して、Celestiaのなかで一番秀でていたのは、これまではツグミだった。だがツグミが逝ったとき、ツバメはふいに気づいた。いままでツグミの陰に隠れて見えなかったが、このテンポをつかむ才能がツバメのなかにも眠っており、たったいま目覚めたのだ。理由はうまく説明できなかったが。
5日間をかけて、ありとあらゆる出来事がぎらぎらと輝く残像を残しながらツバメの目の前を飛び去って行く。涙をこらえるレンラーラや、歯を見せて笑うレイや、余裕ぶったパリラや醒めた目のアリア、何を考えているかわからないニース。もはやそれらが、ツバメの目の前でいま起こっていることなのか、編集中のクリップなのかすらわからない。ただ、切ってつなげるべきタイミングだけはわかる。まさしく、時間を操る能力の真髄に到達した者の思考で、ありうべきカット割りをほんの二、三択にしぼりこみながら、それでもなお吟味して、ツバメは映像を編集していく。
ここまで、レンラーラ、レイ、パリラ、アリアの4人分の映像はすでに完成し、それぞれがホンモノと戦闘している裏でプレミア公開された。ニースのぶんの映像も完成はしており、今日、ツバメの戦闘の裏でプレミア公開するために公開予約がセットされている。いまだ完成していないのは、ニース演じる空水彼方とツバメが戦う最終回の映像だけであり、それもおおかたの編集は終わり、あとは細かいチェックのうえレンダリングを行うだけ、という状態だ。
レンダリングを目前に、ツバメは自室の壁に掛けられた時計をちらと見る。時刻は18時。空水彼方がツバメの半独立空間に攻めてくるまではまだ余裕がある。ツバメは、戦闘開始までに余裕を持って動画を完成させることができたらしい。これまで寝る間を惜しんで編集に打ち込んできた甲斐があったというものだ。ツバメの顔から数日ぶりの笑みがこぼれる。
しかし、時計から目を離したツバメが再度モノリスの画面に目を落とすと、彼女はそこにレンダリング設定のちょっとした間違いを発見する。それは本当にちょっとした間違いで、ここで具体的にこんな間違いだと説明するほどのこともない些細なミスだ。しかし、たったいま気を緩めそうになったツバメを絶叫させるには十分な間違いだった。
ツバメの部屋に叫びが響く。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
戦いが始まるまであと1時間。
4
ツバメの半独立空間は、群青色の空全体にゆらゆらと妖しい光がゆらめく下に、サンゴやイソギンチャクを思わせる前衛的な建築が立ち並ぶ海底都市のような空間なのだが、その詳しい様子はこれから起こる戦いにはとくに関係ない。
時刻は19時1分前。10分ほど前から探索がてら海底都市の街角をぶらついていた空水彼方の100mほど前方に、ちょうど自室を出てきたところのツバメが現れる。
そのときツバメは、およそどの配信でも見せたことのないタイプの表情をしていた。髪はところどころが跳ね、目の下には濃いクマができ、唇は苛立たしげに引き結ばれている。半目に閉じたまぶたの下で、やや上向いた眼球が白目ばかりをらんらんと光らせる。ツバメが、寝不足とそこからくるイライラで爆発寸前であることは、誰の目にも明らかだった。空水彼方の目すら例外ではない。
彼方が、彼方らしくもなく第一声に迷っているうちに、ツバメがその苛立たしげな唇を開く。
「来ましたね、空水彼方」
「……彼方でいい」
「時間に遅れないご到着でなによりです。ツグミちゃんも言っていましたが、私も時間を守れる人は好きです」
あたりさわりのない内容をしゃべるツバメだが、その声色にはいらだちが隠しようもなくにじんでいる。
「君のほうは、何かしら時間に追われていたような様子だが……」
「そうですね。ですが何とか間に合いました。レンダリング設定がおかしいと気づいたときには気も狂わんばかりでしたが、ちゃんと気づいて修正できて、レンダリングも間に合ってよかったです。まったく、フレームレートがマイナーな規格になっているクリップなんて全部滅んでしまえばいいですね」
「何を言いたいのかわからないが、準備が万端ならそれに越したことはない」
「準備ができていようといまいと、敵に気を遣うあなたではないでしょう」
「それはそうだ」
彼方の無思慮を責めるような口調ではあるがしかし、ツバメのほうだって、いまは彼方に毛ほども気を遣ってはいない。その証拠にツバメは、会話の途中にもかかわらず、首から肩にかけてのコリをほぐそうと、右手をあてがいながら肩をぐるぐると回す。すると肩からはバキバキとはっきりとした異音がする。
「悪いですが、いまは私も敵に気を遣っている余裕がないんです。正直なところ、こんな戦い早く終わらせて眠りたい。巻きでいきましょう」
「早く終わらせたいのなら、早く私を倒して見せろ。敵に言うことを聞かせる方法はいつもそれだけだ」
「違いありません。さあ、今日の勝負は小細工抜きです。始める前に、私のアドミンスキルを説明しましょう。この空間全体に、好きなBGMをかけることができる。それが私のアドミンスキルです」
「……は?」
「そのままの意味です。19時ですね。始めましょう」
言葉とともに、ツバメは頭の横で手を2回、打ち鳴らす。すると、どこからともしれず、音楽が聞こえはじめる。その曲はおもちゃの兵隊のマーチ。言わずと知れた「3分クッキング」のテーマソングである。
時刻はたしかに19時だ。ツバメはにべもなく彼方に襲いかかる。
まずツバメが狙うのは彼方の足もとだ。6日前の緒戦と同じく、接近しながらのごく低い蹴りで彼方に足払いをかけることを狙う。彼方は、向かってくるツバメに対し、あえて自分から距離を詰め、ツバメに踏みつけを食らわせようとする。ツバメは彼方の狙いを即座に理解し、身体にきりもみ回転をかけて進行方向を真横へ転じる。回転をかけたまま起き上がって彼方の後ろに回り込み、背中をしたたかに殴りつけようとする。しかし彼方はこのパンチを通さない。振り返りながら肘鉄を割り込ませてツバメの動きを強引に止める。しかしツバメの攻撃の意志は止まらない。ツバメは一歩だけ退がって体勢を整え、どこからともなく取り出した木製の杖を両手で持ち、力任せに彼方を殴る。彼方は、この杖の打撃を片腕を立てて受け止める。躊躇のない殺意と殺意のぶつかり合いに耐え切れず、杖は粉々にはじけ飛んだ。ここまでわずか数秒の攻防。バックステップを踏んで、つかの間彼方から距離を取りながら、ツバメは一撃で杖が失われた現状に対していささかの悪態を吐く。
「ちくしょう、オソロだった杖がもうおじゃんかよ」
「木製など使うな」
手に握っていた杖の残骸を投げ捨て、ツバメは彼方のほうを斜に睨む。そして、口の中で攻撃呪文の詠唱を始める。何かしら威力の高い魔法の準備を察知した彼方は、妨害のため、ツバメに走り寄ろうとする。もう彼方の拳がツバメに届くか、というタイミングで、ツバメは詠唱を終え、両腕を振り上げて彼方に向ける。すると、手の平から赤紫の火花が飛び散って彼方を襲う。彼方は迷わず後退に転じて火花の直撃を避ける。しかし、火花は彼方を追うように空中で方向を変える。また、彼方が避けようとするうちにもツバメの手の平からは次の火花、またその次の火花が飛び出して途切れることがない。
ツバメが放ったのは、手の平から同時に放たれる複数の火花が短時間敵を追尾する短・中距離向け攻撃魔法だ。この回避不能の弾幕に、並の魔法戦士であれば10秒と経たないうちにハチの巣にされてしまうところであるが、彼方には焦りはない。彼方は、すでに他の世界で似たような技を見たことがある。
ツバメから10mほど距離をとり直したところで、彼方は火花を避けるのをやめ、迎撃に転じた。ツバメが放つものとそっくりな赤紫の火花を、ロクな詠唱もせずに放ったのだ。ツバメが次々に放つ火花は彼方の火花に当たって激しく煌めきながらかき消え、もはや彼方の身体に届くことはない。それも、最初のうちは彼方の眼前でぶつかり合っていたはずの火花が、数十秒と魔法を撃ち合ううちに、ツバメの眼前でぶつかり合うようになる。明らかに彼方の魔法が押している。
彼方はこのとき、自分の気分がいつもの調子に戻っていることに気づく。すなわち、彼方は対戦相手の弱さにイライラしていた。
「魔法戦士を名乗る割にその程度の魔法か? まさか、杖がなくなると何もできないとかいう手合いじゃないだろうな」
対するツバメも、そのイライラの度合いは増し続けている。彼女は舌打ちをして、言う。
「うるさいですね。私は杖使うやつは得意じゃなかったんですよずっと。どうせ! ツグミちゃんみたいには! できないから!」
ツバメは怒気を込め、一瞬前の二倍、三倍にもなろうかという量の火花を放ち始める。それでもまだ彼方に焦りはない。彼方も三倍、四倍の火花を放ってツバメに対抗する。いまやツバメの視界は赤紫の光で塗りつぶされて空の欠片さえ見ることができない。このまま火花の撃ち合いで押し切ってくるつもりなのか……とツバメはちらりと考える。その瞬間、その考えこそが彼方の思う壺であった。彼方は突如、火花を放つのをやめ、その右足で地面を思いきり踏みつける。すると、地面から氷筍が列をなして飛び出し、ツバメのほうに向かっていく。突然の攻撃手段の変更に、ツバメは少なからず驚き、それでも即座に火花を出すのをやめて、横ざまに倒れこんで氷筍の直撃を避ける。
体勢を崩したツバメに対し、彼方は容赦なく、再度地面を踏みつける。鋭い氷筍がもう一列、凄まじい勢いでツバメのほうへ向かっていく。ツバメは、今度は避けるのではなく、彼方と同じ氷筍攻撃をくり出して迎撃しようとする。両者が出した氷筍は、どうにかツバメの眼前でぶつかり合って動きを止めた。ここ数日、空水彼方を演じるために氷結魔法を練習してきた成果だった。
彼方は口の端に薄い笑みを浮かべ、言う。
「君は言うほど人真似が下手ではない、自信を持つといい」
「それはどうも」
「あくまで人真似の域を出ないが」
「余計なことばかり言いますね!」
おもちゃの兵隊のマーチはいまも2人を急き立てるように鳴り響いている。
彼方は、三度目の氷筍攻撃を仕掛けようかと一瞬考えたが、やめる。同じことばかり繰り返すものではない、とくに、敵がよき先生ではないときは……彼方はそんなことを思いながら、自分が作った氷筍を踏み割りながら前進し、ツバメに再度接近することを試みる。
ツバメは、接近してくる彼方を見て、ツバメ自身も前進することを選ぶ。ツバメも氷筍を踏み割りながら走る、彼方のように。
彼方は、走りながら、手に当たった氷筍の一本を引き抜いて手元で氷の剣に作り替える。ツバメもほぼ同時にそうする。互いに氷の剣を携えた2人が、そのちょうど中間にあたる場所でついに接触する。
2人は、接触の瞬間から、その氷の剣で猛烈に切り結ぶ。剣と剣とが1秒間のうちに2回3回と打ち合わさり、軋んだ音を立てる。
斬り合う手も止めず、彼方が言う。
「君はツバメだろ? 全ての技を使えよ。君ならもう少し器用貧乏なはずだ」
彼方は、左手で剣を下から上に振りぬきながら、右手で赤紫の火花を一発放つ。剣技と魔法を組み合わせた簡単な連撃だ。ツバメは、剣は剣で横に受け流しながら、魔法にも魔法を当てて自身への直撃を避ける。
「余計なお世話ですね。こんなゲームに“全て”を賭けてられるほどみんなヒマじゃないんですよ」
「
「あの便箋はそんな大したものじゃない。ただ、誤読されうる場所には届かないだけの紙屑です」
「……どうだかな」
このときツバメは、彼方の攻撃が一段と苛烈になったことを感じる。途切れなく続く剣技のなかに、ときおり攻撃魔法を織り交ぜる、というスタイルは変わらないが、全体的な勢いというか、殺意の程度が、少しだけ強くなっている。ツバメは、すべての攻撃をかろうじて捌き続けながら、心の中で、ああ、私はこの人には勝てないな、とつぶやく。さりとて、いまツバメがすべきことは変わらない。彼方に勝てようと勝てまいと、ツバメには最初から関係などない。ツバメにはただ、彼方に『そこそこ本気で戦っている』と思わせ続けることだけが必要だった。だから彼女は、勝利に全てを賭けてはいなかったが、この戦いに全てを賭けている。この戦いがニースの作戦に希望をつなぐことを信じて。ツバメは叫ぶ。
「ともあれ私は全てを賭けます」
ツバメが言い終える瞬間、彼方はひときわ大きい振りで剣を叩きつける。ツバメはこの重い斬撃を自身の剣で受けたが、こらえきれず、二歩、三歩と後ずさってしまう。彼方はすかさず剣を構えなおし、とどめの一撃に入ろうとする。
瞬間、ツバメは時の流れが急に緩慢になったような感覚を味わう。ツバメの目の前では、たったいままで空気を引き裂く音を立てていた彼方の剣が、一転してハエでも剣先に止まりそうな緩慢さでツバメの首に近づいている。言うまでもない、この景色は、死を目前にしたツバメの脳が打開策を探して一時的に反応速度を急上昇させているからこそ見える景色だ。しかしこのときツバメは、彼方の攻撃を防ぐ妙案とか、反撃方法とかではなく、あることに気づいてしまう。
いま流れているBGM、もうすぐ終わる。次の曲をかけなければ。
死の目前で垣間見た超高速の世界のなかで、ツバメは決意する。まずは氷の剣を手から離し、両手を自由にする。そして、その両手を頭の横に持ち上げて、しっかりと2回打ち合わせる。
直後、彼方の剣がツバメの首を刎ねる。即死だ。自分の手が打ち合わさる音がツバメの鼓膜に届くことすらない。
体から離れて飛んでいったツバメの頭部が近くにあった氷筍に突き刺さる。頭部をなくした体は、数秒のあいだ血を噴き上げながら直立していたが、やがてバランスを崩して仰向きに倒れる。どこからどう見てももう死んでいるが、彼方は念のためツバメの体をつま先で小突いてみる。頭部もだ。それでも動かないことを確認する。
すぐに血だまりが広がり、彼方はその真ん中でひとり立ち尽くす。またしても、彼方にとってやや期待はずれな相手であった。しかしながら、彼方が一方的に滅ぼしてしまうにはどこか惜しい、ごくわずかな可能性は感じさせる相手だった。この世界で戦ってきた6人は、ずっとそうだった。そして、おそらく7人目も。
彼方以外の全てが動きを止めたその空間では、きちんと次のBGMが流れていた。そのBGMは別れのワルツ。アレンジ版が「蛍の光」の名で知られている、終末の定番曲だった。