絶えず自壊する泥の反論集:インタラクティヴィティと論理的(不)完全性

saize-lw.hatenablog.com

この記事では、LW氏の論考『白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか』について、とくに、この論考のなかの「Vtuberにある程度独特なものとして見られるインタラクティヴィティによって、Vtuberには論理的完全性がもたらされる」というアイデアについて、以下の4つの疑問を提示し、考えていきます。

  • ①LW氏は、「正典に依拠する情報かどうか」と「公式設定かどうか」とを混同しているのではないか
  • ②LW氏は、発言の信頼性と正しさとを混同しているのではないか
  • ③LW氏は、フィクションがもつ時間と我々が持つ時間とを混同しているのではないか
  • ④LW氏は、キャラクターが世界に所属するものという前提をとっているが、果たしてこの前提は我々にとって有益だろうか

この4つの疑問は、表面的にはLW氏のアイデアに対する反論というニュアンスを含みます。「LWさん、論理展開がちょっと乱暴ちがうん?」と言いたい気持ちが私のなかにほんの少しあることは否定できません。
しかし、より正確には、私の4つの疑問は、LW氏が「Vtuberを議題として当該論考を執筆する」と決めた時点から正当に排除されてきたトリヴィアルな状況への言及でもあります。私はいわばLW氏のとった前提のちょっと外側に位置する話をしようというわけで、私の“反論”は反論として完璧に成立することはありません。私の議論が、純粋な反論というよりかは、LW氏の行った議論の境界を広げていこうとする試みの一つとして受け取られることを私は望みます。

 

1.インタラクティヴィティによってもたらされる論理的完全性

LW氏は、『白上フブキは~』において、Vtuberが多くの事例において持っているとみなせるインタラクティヴィティ――視聴者がVtuberに対して任意の内容の問いかけを行えば、Vtuberはその問いかけに答える可能性が常にあり続けるという性質――が、Vtuberに論理的完全性をもたらしうると主張している。

Vtuberには世界の完全性を担保できる可能性、すなわち世界内のあらゆる命題について真偽を定められる可能性があるということだ。何故なら、我々は命題Hのように真偽の判然としない命題を見つけたら、当事者のVtuberにそれが真か偽かを聞けばよいだけだからである。「白上フブキの髪の本数は奇数である」という命題の前で頭を悩ませるよりも前に、白上フブキに直接「髪の本数は奇数ですか?」と聞けばよいのだ。しつこく赤スパを送り続ければ、白上フブキが自分の髪の毛の本数を数えて「奇数でした」とか返答してくれることもあるだろう。それでめでたく命題の真偽が確定する。原理的には、これを繰り返すことで世界と存在者の完全性を担保できる。

「インタラクティヴィティが論理的完全性をもたらす」というこのアイデアは、いちおう、「Vtuberは一世界に所属すると考えるよりも世界の集合と考える」方策を最終的にはとる『白上フブキは~』の論理展開において、ひとつの脇道として機能している。ただ、件のアイデアは脇道とはいっても、Vtuberがかかわる命題の真理値決定可能性を論じる上において、真理値決定可能性がそもそもないといけないのかという問題にかかわる重要なアイデアである*1*2

 

2.「正典に依拠する情報かどうか」と「公式設定かどうか」との混同

LW氏は、もし任意の視聴者が白上フブキに対して質問をし、白上フブキがその質問に対して嘘をつくことなく返答すれば、返答が含む情報は白上フブキが所属する世界の事実――公式設定になるであろう、と考えている。果たしてそうだろうか。
私が問いかけたいことをもう少し詳細に述べるなら、こうだ。あるフィクションの登場人物は、フィクション世界の事実に関する発言を行うことができるだろう、しかし、事実そのものを行うことはできるのだろうか。

 

この問題をよりわかりやすく(そして私にとってより都合よく)するために、私たちはまず、三人称で記述されたある小説について考えよう。この小説の語り手は、作品内の特定の誰かをイメージさせることがないような透明な“誰か”である。
仮に、この小説のなかで『北極は南極よりも寒い』という命題に相当する情報が提示されるとする。この提示の状況に2つのパターンを考える。
ひとつめの状況は、小説の地の文で
――北極は南極よりも寒い。
と述べた場合。ふたつめの状況は、小説中の登場人物Aの会話文として
――「北極は南極よりも寒い」
と述べた場合。ふたつの状況は、どちらもこの小説の世界における『北極は南極よりも寒い』という“事実”を指示しているのだろうか。
私には、そうではないと思われる。前者の状況は、作品世界においては『北極は南極よりも寒い』ということを事実として確定できるが、後者の状況は、作品世界において『北極は南極よりも寒いとAは述べた』ということ、それ以上でも以下でもない情報のみを事実として確定していると感じられる。

 

私が同意を得たいことの第一は、かぎかっこの中に配置された命題は、直接にその小説の世界における事実を指示できないのではないか、ということだ。なぜならば、小説を構成する文の中の任意のひとつを(ごくごくラフな意味で)意味論的に解釈するとき、
――「○○」
という一文は
――○○と(この世界のなかの誰かが)述べた。
という一文に変換可能であり、また逆に
――○○。
という一文を
――○○と(この世界のなかの誰かが)述べた。
という一文へと正当な理由なく変換することは不可能であるから*3
第二は、ある命題をかぎかっこでくくってできた一文の内容は、その小説の世界における事実を間接的にすら指示できないのではないか、ということだ。なぜならば、
――○○と述べた
という命題と
――○○
という命題は同一ではないから。
――Aは言った。「○○」と。
という描写は、○○という内容が作品世界における事実と内容が一致することがあっても、○○という事実そのものになることはないのだ。たとえ、どんな手段を用いても噓をつくことができない人物Tを小説中に創造し、Tの発言内容が作品世界における事実と一致する確率を100%に限りなく近づけたとしても、Tの発言が事実そのものになるということは起こらない。

 

私のこの考え(ほとんど直感に近い)は、裏返せば、地の文に会話文に対する特権性を認めているようにも見えるだろう。地の文はそのまま事実になれるが、会話文は事実そのものにはなれないのだ、と。だがこの見え方は少し誤解であり、むしろ私が言いたいのは、“地の文”も“会話文”もとくに区別などなく、一文一文はそれぞれがひとつまでの事実を指示できる能力があるのだ、ということだ。そのとき会話文が指示する事実とは「~と述べた。」という事実のみになるがゆえに、~の部分を重視すると、~の部分がいかなる事実をも指示することもできていないという当たり前の事項が際立って見えるという、ただそれだけの話だ*4

 

三人称の小説において地の文と会話文にはこういった性質の違いがあるという話について、(端的に言って、このブログは学問的価値を持っている必要が特にないので)正式な前提付けと論証はだれか興味のある人に任せるとしよう。ここからは、こうした“基礎的な”見方をVtuberという特殊な(特殊かもしれない)フィクションに適用したとき、事態をどうとらえるべきなのか、という話に移る*5
私たちが、ある「Vtuberというキャラクター」のことを、ある「Vtuberという物語」の(しばしば、唯一の)登場人物としてとらえることが、もし許されるならば。あるVtuberの発言は、ただ、そのVtuberの所属する世界のなかでいち人物によって述べられた発言でしかなく、その世界における真実をも、虚偽をも、特権的に確定することはないだろう。たとえ、白上フブキが「私に持ちうる限り最大の認識能力でもって私の髪の毛の本数を数え、私に持ちうる限りの誠実さでもって私の髪の毛の本数が奇数であったことをここに宣言する」と述べたとしても、それは白上フブキが所属する世界における絶対的真実を示しはしない。

 

私は上で、小説の地の文には見かけ上の特権性しかない、しかし見かけ上の特権性はある、ということを述べた。換言すれば、小説における地の文は、あるフィクション世界における絶対的な事実を提示できる*6。小説の場合、「ある命題が、正統的に小説の一部に属する一文であるかどうか」と「ある命題が、小説の世界における事実であるかどうか」はふつう一致する。「正典に依拠する情報」は「公式設定」とみなせる。
この『小説を満たすもっとも基本的な構成要素』である(でありそう)ところの『地の文』が事実を提示する、ということをVtuberの場合に引き写したとき、誤解を招くのは、「Vtuberという物語」が主として「Vtuberというキャラクターの発言」によって構成されるということだ。VtuberにおけるVtuberの発言が、小説における地の文に相当するとするなら、Vtuberの発言は直接に事実でありうる。しかし、私は、VtuberVtuberの(しばしば唯一の)登場人物である、と考える。いわば、Vtuberとはすべての文にかぎかっこがついている小説である。Vtuberの発言からは、Vtuberの世界における事実と一致する可能性が高い命題を引き出すことはできるが、事実そのものを引き出すことはできない。Vtuberの発言のなかで示された情報――たとえば、白上フブキの髪の毛の本数が奇数であるとか――言った情報は、「正典に依拠する情報」ではあり、「公式設定」と一致する可能性もあるが、「公式設定」ではない*7

 

しかし、Vtuberの発言が、Vtuberという物語における地の文だとみなすべきだとしたなら?
そこには、Vtuberの発言を地の文とみなすか否かという前提の違いが避けがたく横たわる*8。予告した通り、私の議論は反論として成立することはない。

 

3.発言の信頼性と正しさとの混同

LW氏は、他の実在人物や虚構的実在人物でなく、Vtuber自身によってVtuberの名前が語られることは、名前からVtuberへの指示をより“強力に”すると主張した。

繰り返すと、記述に依らない固有名の指示が有効であると考えるに際して必要な命名儀式におけるポイントは「指示を固定すること」であった。よって、目下の問題は「初配信は指示を固定するか否か」に帰着される。わたくしの答えは以下の通りである。「初配信は指示を固定する。それも、フィクション一般よりも更に強力に」。

私はこの主張にはひっかかるものがある。まず、(これは当初、LW氏が意図的に表現をぼかしているようにしか感じられなかったのだが)指示の固定が“強力に”なるとは一体どういうことなのだろうか。また、その“強力さ”とはどのような意味でポジティブな価値であると認められるのだろうか。

 

私は以前、幸運にも、LW氏に直接この疑問をぶつける機会に恵まれた。(いくぶん前になされた質問なので、いまもLW氏が同様の回答をする保証はないが)LW氏はいささか混乱した私の質問に親切に回答を寄せてくださったのだが、その回答というのは、「ここでいう“強力さ”とは、ある命名儀式について、その儀式で得られる固有名への信頼度の高さのこと」といった内容であった。

 

つまり、LW氏の主張をよりわかりやすく言い換えるなら、こうだ。あるVtuberが「白上フブキ」であるという情報は、他の誰かが述べた場合よりも、Vtuber自身が述べた場合に、より“信ずべきである”。

 

しかし、ここにもまた、LW氏の混同があると私には思われる。ここで混同されているのは、「ある命題を信じるべきかどうか」と「ある命題が正しいかどうか」である。
「ある命題を信じるべきかどうか」と「ある命題が正しいかどうか」は違う。このことは、「ある命題を信じるべきかどうか」を「任意の人が、ある命題が正しいという可能性を正しくないという可能性に比べて重視するか否か」と言い換え、「ある命題が正しいかどうか」を「ある命題が実際に正しいかどうか」と言い換えれば、はっきりと伝わるだろうか。

 

誤解を生みがちなのは、“信ずべきである”という表現が「信じるという選択肢と信じないという選択肢がどちらもありうるうえで、信じるという選択肢を選ぶべき理由がある」という意味でも、また「最初から信じるという選択肢しかありえない」という意味でも解釈できることだ。この表現の厄介さは英語でも変わらない。'must believe ~'という表現は、'had better believe ~'に近い意味でも'have no choice but to believe ~'に近い意味でも使われるだろう*9
はたして、私はこの文章中では(基本的には)、「ある命題が信頼すべきである」という表現は「完全ではない理由によってある命題が正しいと予期される」という意味で用い、「ある命題が正しい」という表現は「ある命題が正しいという可能性しか想定できない」という意味で用いることにする。そして両者は区別される。なぜなら、もし「ある命題が正しいという可能性しか想定できない」のだとすれば、「この命題は正しいと予期されるのだろうか」という疑問は提示できない(ナンセンス)はずだからである。

 

なるほど、もし、あなたが又聞きよりも本人から聞いた情報により重きを置く立場であれば、Vtuber自身によるVtuber命名儀式は「より信頼すべき」であろう。しかしその「より信頼すべき」は、「Vtuberの間違いない公式設定である」ということとは本質的にはつながっていない。Vtuber自身の発言である、という状況はその発言の正しさを上昇させない*10

 

ところで、ここからはこの節の余談に当たる部分なのだが、『Vtuber自身による発言であることが正しさを上昇させない』以前に、そもそも、『Vtuber自身による発言であることは発言の信頼性を上昇させる』のだろうか?
Vtuber自身が「私は白上フブキです」と述べるよりも、配信動画に突然挿入されたナレーションにおいて「彼女の名前は白上フブキである」と述べられたほうが信頼がおける、と思うのは私だけだろうか? Vtuber自身のセリフよりも配信動画に挿入されたナレーションよりも、本編外、ホロライブ公式サイトに「←白上フブキ」と書いてあったほうが信頼がおける、と思うのは私だけだろうか?*11
LW氏はひょっとすると、私とは真逆で、本編外の設定資料よりも本編中の描写により信頼を置き、ただの本編中の描写よりも本編中のVtuberの発言そのものにより信頼を置くのかもしれない。
このようなLW氏の理解でポイントになるのは、おそらく、その発言が誰に対して行われたか――きちんと私たち自身に対して行われているか、だ。LW氏において、Vtuberは(同じ虚構世界に属する虚構的実在人物に対してでなく)私たちに向かってしゃべりかけていることが、その発言に信頼を置くための最大の理由になる。

もともと因果説とは固有名が流通するような社会的なコミュニティを前提したものであるから、固有名を受け渡す企図が明確に存在することは今後の因果連鎖の有効性を担保するにあたって大きな加点要素となる。これに比べれば、小説を読んで我々が固有名をキャラクターに結び付けるのは、それが語り手が第四の壁を突破しているようなメタフィクションでもない限り、せいぜい不当な盗み聞きに過ぎないと言わざるを得ない。

私はここで、LW氏と真っ向から対立する立場をとってもいいと思っている。すなわち、私たちを意識して述べられた内容よりも、私たちを意識せずに述べられた内容のほうが安心して信じられるのである。誰かに向けて述べられた内容よりも、独り言のほうが安心して信じられるのである*12*13

 

これはまったく憶測になるが、「より信頼がおける発言」の要件がLW氏と私とで違うのは、正しさに営為を感じるか噓に営為を感じるかの違い、感性の違いに拠るのではないだろうか。
もし、正しさは営為である――人は、文法的に可能な無数の命題のうちから、意識して選び取らなければ真なる命題を述べることはできない、と考えるならば、真なる命題を述べることには相応のコストがいることになる。「誰かに対して言う」などの特別な企図がなければ、そのようなコストは支払われえないだろう。
もし、噓は営為である――人は、文法的に可能な無数の命題のうちから、意識して選び取らなければ偽なる命題を述べることはできない、と考えるならば、偽なる命題を述べることには相応のコストがいることになる。「誰かをだます」などの特別な企図がなければ、そのようなコストは支払われえないだろう。

 

4.フィクションがもつ時間と我々が持つ時間との混同

私はこれから、まったく十分ではない証拠によってLW氏をある嫌疑にかけようとしているのだが、まえもって証拠の不足を暴露しておくことでどうか許してほしい。

 

仮に、(私たちが日常使う年号において)ある特定の日時に、白上フブキの公式設定が追加されたとする。例えば、2021年12月31日までは、白上フブキに髪の毛の本数の設定はなかったが、2022年1月1日に、白上フブキの髪の毛の本数が奇数だという設定が公式のものとなった、というようなシナリオを考えてみよう(具体的にどのようにして公式設定になったかは、「白上フブキが配信動画中で奇数だと述べた」でも「ホロライブ公式サイトのライバー紹介に項目が追加された」でも、納得できるほうを想定してくださればよい)。
このとき、私たちの日常暮らす世界(AWと呼んだほうがわかりやすい方もいるだろうか)において、「ある時点までなかったもの〈髪の毛の本数の設定〉がある時点に生まれた」という事件は、あった。もし任意の事件が特定の時間に生起すべきものならば、この事件は私たちの暮らす世界におけるある時間に生起した。
対して、白上フブキの暮らす世界、「Vtuber白上フブキの物語」において、「ある時点までなかったものがある時点に生まれた」という事件はなかった。それがその世界における事実であるなら、白上フブキの髪の毛の本数は最初から奇数であり、これからも奇数である。なぜなら、件の「設定変更事件」は私たちの暮らす世界の特定の時間に生起したのであり、白上フブキの世界のどの特定の時間にも生起していないのだから。
私たちの暮らす世界と白上フブキの暮らす世界には違う時間が流れている。いかに、実践的な意味において「私たちが過ごす日々と白上フブキが過ごす日々をまたぐ共時性を定義しても問題ない」としても、両者が同じ時間を経験していることにはならない、少なくとも「ある可能世界に実在するVtuber」という前提を用いる限りは。私たちは、例の設定変更事件を通じて、ある世界では存在した時間的前後関係が、ある世界では存在しない、という場合を知ったはずだ。

 

しかし、LW氏は両者の時間を混同している。私たちの暮らす世界で、事実でも虚偽でもなかった情報がある日事実になったのと、“同時に”、ある可能世界でも、事実でも虚偽でもなかった情報がある日事実になったかのような混同を、文章ににじませている。その情報は彼女の暮らす世界においてははじめからおわりまで事実であったというのに。
こういった混同は、『白上フブキが~』の中においてはニュアンスどまりだが、同氏の小説作品『Vだけど、Vじゃない!』においてはかなりはっきりと見られる*14

 

待った!
早めに白状してしまうが、LW氏は本当のところ、両者の時間を混同しているわけではない。件の小説は、むしろLW氏が両者を混同していない証左である。両者の時間が本当は別の時間であるとわかっていたからこそ、それらが一見同一のものかに見える瞬間にパラドックスを読み取れたはずだ。

 

Vtuberが仮に特殊なフィクションであるとしよう。他の形態をとるフィクションからVtuberを区別する特徴を積極的に探すとするなら、Vtuberが持つ時間と私たちが持つ時間との同一性――それが見せかけの同一性であれ、本質的な同一性であれ――を仮定してそれに着目するのは、まったく正当な行いだ。
一方、私が指摘しているのは、Vtuberが他の形態のフィクションと(程度は違うかもしれないが)共通して持っている特徴「私たちの暮らす世界とは別の時間軸を持つ」である。私の反論は、ほとんどちゃぶ台返しですらありうる。

 

ただし、私が潔く譲歩して、Vtuberが私たちと同じ時間を生きているとしよう。Vtuberの世界においてそれまで事実でも虚偽でもなかった情報がある日事実になりうるとしよう。その場合でも、Vtuberという物語は「すべての未確定情報が事実や虚偽になりうる」ということによって「論理的完全性」を得たりはしない。「部分的に不完全性を持っていた物語が、部分的な完全性を得る」だけの話である*15。「すべての命題が事実か虚偽になりうる」という動的な状態を「すべての命題が事実か虚偽である」という静的な状態と同一視するというのは、ε-δ論法のアナロジーを聞いても意味不明……というか、アナロジー元の事例とVtuberの事例との差が際立って、むしろLW氏の主張にうなづきづらくなる*16Vtuberの事例では、「不完全性があった状態から不完全性が減った状態への変化」というものを想定してしまうために、よりいっそうVtuberの不完全性が否定できなくなる。Vtuberは、本質的に不完全であり、不完全性の度合いを変化させられるという特徴はむしろVtuberの不完全性を(絶えず切り売りしながら)強化しているのではないだろうか*17

 

5.世界に所属するキャラクターという前提について

LW氏は、キャラクターはある可能世界(あるいは、ある可能世界の集合)に所属するものだと考えて『白上フブキは~』における議論を展開した。Vtuberは世界(真なる命題の集合)のなかにいるのである。そして私もここまで、キャラクターは世界の中にいるものと考えてここまでの議論を書いてきた。
しかしながら、Vtuberは論理的完全性を持つ――Vtuberが所属すべき「真なる命題の集合」の輪郭ははっきりと決まる――というLW氏の主張を繰り返し揺るがすにつけ、気になるのは、「はたしてキャラクターが特定の世界の中にいる必要はどの程度あるのか」である。
私は最後に、「キャラクターが世界に所属するという説の反例」ではないにしろ、「キャラクターが世界に所属しないと考えたほうが自然に感じられる例」を少しだけ提出して、「世界」という術語を取り除いたキャラクター存在論の地平を幻視したい。

 

最初に私が考えたいのは、キャラソンについてだ。
アニメなどのフィクション作品に、キャラソンというものがしばしば付随する。キャラソンとは、ここでは、アニメに登場するキャラクターがキャラクター自身の名義で歌っている歌、とでもしておけばいいだろう。そういったソングは、自律した一作品でもあり、またアニメ作品の一部でもある(ように私には思われる)。
ここではアニメ『ドキドキ!プリキュア』に対するキャラソンを例にしよう。
まずキャラソンには、本編中でもキャラクターが歌っている曲、というタイプの曲がある。例えば剣崎真琴(CV. 宮本佳那子)の歌う「~SONG BIRD~」や「こころをこめて」などがそうだ。剣崎真琴は『ドキドキ!プリキュア』作中で人気アイドルとして設定されている。彼女が商業作品としてのクオリティを持ったオリジナルの持ち歌を持っていることは、彼女がアイドルであるということから容易に了解される。つまり、「~SONG BIRD~」や「こころをこめて」は剣崎真琴というキャラ本人が歌っている曲であるということに違和感はない。
次に、本編中では歌われない、歌われえない、というタイプの曲も、キャラソンのなかには存在する。『ドキドキ!プリキュア』で言えば、菱川六花(CV. 寿美菜子)が歌う「COCORO◆Diamond」であるとか四葉ありす(CV. 渕上舞)が歌う「CLOVER〜オトメの祈り〜」なんかがそうだ*18。菱川六花や四葉ありすは、アイドルとかではない普通の女子中学生(いや、普通じゃないけど……)として設定されているので、本編中で歌われない以上に、『ドキドキ!プリキュア』という物語のなかのいつにもどこにもこの曲は位置していないと思われる。
にもかかわらず、「COCORO◆Diamond」や「CLOVER〜オトメの祈り〜」は、寿美菜子渕上舞が歌っているよりかは(いや、寿美菜子さんや渕上舞さんがこの曲を歌っていることも私は普通に認めるのだが)菱川六花本人や四葉ありす本人が歌っているものとして理解したくはならないだろうか。菱川六花や四葉ありすが「COCORO◆Diamond」や「CLOVER〜オトメの祈り〜」を歌っている時間と空間は、『ドキドキ!プリキュア』の基幹となる物語とは時間的にも空間的にも連続していないにもかかわらず。
つまり、私が幻視したいのは、世界の中に位置して真正性を議論できるような「キャラクター」概念ではなく、それ単体で実在し、場合により特定の世界の中に移入することもできるような「キャラクター」概念である。

 

キャラソンが論理的に本編と断絶しているという事態は、本編と食い違う事態を提供するキャラソンにおいて一層はっきり示される。
例えば、キュアハートに変身する相田マナ(CV. 生天目仁美)はひどい音痴であるという設定がある。にもかかわらず、相田マナは「Heart style」という音程もリズムも外さない素敵なキャラソンを歌っている(少なくとも私は本人が歌っているとみなす)*19
例えば、キュアエース(CV. 釘宮理恵)というキャラクター、変身後は18歳の姿をとる彼女は、変身前である円亜久里の姿は小学4年生の姿であり、かつ、変身前と変身後では明らかに別なメンタリティ持っている。キュアエースは、キャラクター設定自体が、変身前の「日常」からある程度断絶したキャラクター性を強化しているわけであり、キュアエースが戦闘以外の何かをしているすべての時空間は本編の時空間に対して宙吊りになる。にもかかわらず、キュアエースはキュアエースの名義で「愛の力」というキャラソンを歌っている。
例えば、アイちゃん(CV. 今井由香)というキャラクター、彼女はまだしゃべるのもおぼつかない赤ん坊とであるとして設定され、実際本編でもそう流暢にしゃべる描写はない。にもかかわらず、彼女はアイちゃんという名義で「きゅぴらっぱ~」というバキバキの日本語ラップを披露している。
そして、私はここまで挙げてきた5人全員のキャラソンについて、本編における彼女たち本人と連続性を持った彼女たち本人が、どこか宙吊りにされた時空間内においてそのキャラソンを歌っているものであると主張する。いや、むしろ、彼女たちは間違いない本人とみなす、という前提をあえてとる。それは、私にとっては、彼女たちが本人であるとみなした場合の理論のほうが直観に合致し、便利だからである。

そして、私が主張しようとしているように、一個のキャラクター性が、「連続した時空間」=「真である命題の集合」の範囲を超えて続きうるのだとすれば、キャラクターを世界の内部にわざわざ住まわせる必要はないということになる*20

 

ことは物語の登場人物、キャラクターには限らず、もっと一般名詞的な概念についてもあてはめることができる。例えば、LW氏は「ペガサス」という一般名詞*21の指示するところのものを、共有世界信念という考え方を用いて説明しようとした。私は同様に「ペガサス」を例に用いて、共有信念世界という考え方をとることが、むしろ都合が悪いような例を提出してみたいと思う。

例えば、あるサイバーパンク世界を舞台にしたSF小説にペガサスをロゴに採用した企業があるとする。私たちは「このロゴのペガサスは飛ぶ能力を持っていると思うか」と聞かれたとき、「持っていると思う」と答えるだろう。もし共有信念世界という考え方を採用するなら、この私たちの回答は「私たちの世界→共有信念サイバーパンク世界→個別のサイバーパンク世界→個別のサイバーパンク世界における共有信念ファンタジー世界」みたいなくそややこしい参照チェーンを経て発生したことになる(いや、私がそんな例を作ったからだが)。
この理解には2点違和感がある。第一には、「サイバーパンク小説における共有信念ファンタジー」という当初の例でも、いま新しく提出する「ファンタジー小説における共有信念サイバーパンク」という例でも、「ペガサスは飛ぶかどうか」という問いを考えるうえで私たちが悩む度合いはそう変わらなく思えるということ。もし共有信念世界を用いた考え方が妥当ならば、前者よりも後者のほうが「ペガサスは飛ぶかどうか」という問いへの回答は難しいはずである。
第二には、参照チェーンが3個だけしか続かない場合でも、100個続く場合でも、「ペガサスは飛ぶかどうか」という問いを考えるうえで私たちが悩む度合いはそう変わらなく思えること。もし共有信念世界を用いた考え方が妥当ならば、前者よりも後者のほうが「ペガサスは飛ぶかどうか」という問いへの回答は難しいはずである。
だから、私には、ことペガサスの問題に注目する限りでは、「ペガサス」という名前が、ファンタジー世界の一般的な法則を集めた共有信念世界を介して「空を飛べる」という情報を得ている、という考え方よりも、「ペガサス」という名前そのものに「空を飛べる」という情報が含まれているという考え方のほうが都合がよく思われる*22*23

 

ここまで論じておいてなんだが、実は、ほかならぬVtuberさえ、特定の世界に属さないと考えたほうが都合がよい場合があるという話はLW氏からもすでに何度かされている。『新世代バーチューバーの動向』という記事において、新世代Vtuberに比して旧世代Vtuberがいっそう、というかたちではあるのだが、Vtuberが(紐づけられる世界抜きに)キャラクター単体で存在していた、という話がなされている。

大雑把に言うと新世代設定がキャラクター+ワールドで構成されるのに対して、旧世代設定はキャラクターだけで構成されるということになる。

また、『キズナアイは論理的に完全』という記事では、「物語から完全に独立したキャラクター論は少ない」と述べられているが、その理由は単に歴史的な状況に拠っているのみで、演繹的な理由を持っているわけではない……というような含みがあるように感じられるのだが、これは私が都合よく読みすぎだろうか?*24

まあ、世界から独立にキャラクター性を論じるには、まだ先達が少なく、やったとしても非常に難しい作業になるだろう、くらいのことは言えるだろう。

*1:重要なわりに、LW氏にしてはえらくあっさりとこのアイデアを提示しているものだと私は思う。このあっさりさは、LW氏が一度このアイデア『キズナアイは論理的に完全』という記事のなかで丁寧に説明したことがあるということに、ひょっとしたら拠っているのかもしれない。このアイデアの内容についてもう少し詳細に知りたい方はこの記事を読んでおくのがいいかと思われる。

*2:また、この文章ではほぼ「普通のフィクション作品は論理的に不完全である」という前提をとるが、フィクション作品一般が不完全であるという考え方にはまだいろいろオプションがあることには注意されたい。LW氏はレポート『ユーザーの集合データを用いた テクスト論的に正統な虚構世界の体験システム』において「状況説」「集合説」「一世界説」の3つのオプションを提示してくださっているので、参考にされたい。

*3:いうまでもなくこの論証はごく粗雑になされたものだ。というのも、私は、小説におけるかぎかっこの使用を会話文の表現に限定し、かつ会話文を意味論的に同値な地の文に変換できるものだとする前提を検証抜きに採用しているから。この文章全体のわかりやすさのためにいささか性急な書き方をしてしまったが、私の前提がいかなる範囲で成り立つものなのか、他者の詳細な分析を聞きたいので、この点に関する反論はむしろ歓迎するところである。この興味が何という名の学問分野に相当するのかだけでも聞きたい。厚かましいが、自分は無学なもので……。

*4:地の文の特権性は見かけ上のものにすぎないという話だが、もちろん、地の文には見かけ上は特権性がある、という話でもいい。

*5:本文としては無視してしまうのだが、Vtuberについて考える前に当然気になることがあるだろう。それは、語り手が一人称や二人称の小説においては地の文が見かけ上の特権性を持つことはあるのだろうか、という点、また、語り手がはっきりとキャラクター付けされている小説においては地の文が見かけ上の特権性を持つことはあるのだろうか、という点だ。
非常に雑なことを言えば、あなたがもし独我論的な傾向を持つならば、一人称や二人称のわかりやすい語り手による地の文も、ある世界における事実として受け止めることに抵抗がない可能性が高いだろう。つまり、地の文は見かけ上の特権性を持つ。あなたがもし実在論的な傾向を持つならば、それと意識されるキャラクター性を持った語り手による地の文は、一個のキャラクターによる真偽不明な命題として受け止めようとする可能性が高いだろう。つまり、地の文は見かけ上の特権性を失い、(かぎかっこでくくられているものとはただレベルが違うだけの)一種の会話文にまで堕していくだろう。
正直なところこれ以上の分析は骨が折れるので、小説の語り手のタイプによる地の文の取り扱い方の違いについては今回は論じない。

*6:といってもこの主張は、『フィクション世界における絶対的事実』とかいう概念の定義の問題にすぎないだろう。『地の文から予断を許さずに解釈できるところの命題』を『事実』と呼ぶとかなんとか、そういうスタンスを宣言するか、しないかに議論が依存する。しかしながらこの主張は定義の問題であるがゆえにいっそう否定することが難しい……のではないだろうか。

*7:ここで、『ある作品世界における事実』程度の意味で『(ある作品の)公式設定』という言葉を使ったが、この『事実』や『公式設定』といった概念をどのように取り扱うかについて、本来ならば、ひとびとの意見は分かれるところだろう。これらの概念の取り扱い方について私が述べられることは、私が私の人生でたまたま多く触れてきた作品群に拠るところが大きいので、詳説は別記事『デットンは存在し、かつ、弟であるのか』に持ち越す。

*8:LW氏が私と異なる前提をとっているであろうことは、『白上フブキは~』のなかで比較的はっきり示されている。
『この作業はそこまで困難ではないと思われるかもしれない。というのも、当の作品がはっきり提示するものを前者、そうでないものを後者とすればよいだけのように思われるからだ。小説においては単にテクストに表記されているかどうか、Vtuberにおいては主にVtuber自身が自己申告したかどうかで区別できるだろう。概ね、白上フブキ自身が断定している事柄については真であるとしてよいように思われる』

*9:beleiveもhad betterも難しい単語・連語なので冷や冷やしながらここ書いてます。もっとふさわしい例文があったら優しく教えてください……。

*10:「信じるべきかどうか」と「正しいかどうか」は違う、と本文では断言してしまったが、本当は簡単には言い切れない問題かもしれない。少なくとも私は、「任意の人がそれを正しいと信じる」ということと「正しい」ということとをうまく区別する有効な前提を知らない。もし、「正しい」ということが根本的には「特定の視点から信じる」ということと区別できないのだとしたならば、ここでも私の反論は崩れ去ることになる。

*11:さきほどの粗雑なアナロジーを再度使えば、こうだ。「小説の登場人物が会話文で自己紹介するよりも、地の文で名前を指示したほうがより信頼がおけるし、地の文で名前を指示するよりも、登場人物紹介で名前を紐づけられたほうがより信頼がおける」

*12:ここで、LW氏が引用箇所で話している内容と私が話している内容とではテーマが全く違うことには注意せよ。前者は「発言の信頼性と命題の正しさをほぼ同一視したうえで、直接説にもとづき、Vtuber自身の発言はより正しい」と主張し、後者は「発言の信頼性と正しさを区別したうえで、(直接説を積極的に採用はせず)Vtuber自身の発言はより信頼できない」と述べている。両者は同じ問題に対して対立する意見を述べているのではなく、違う問題に対して互いに相性の悪そうな意見を述べている。

*13:私が前節と当節で続けてきた主張を、考え得る限り過激な方向に言い換えると、会話文である限り(ひょっとすると地の文ですら)信頼すべき理由はどこにもない、という主張にもなるかもしれない。この過激な主張はつまり、LW氏がきちんと理由を示して除外してきたあの条件「語り手が信頼できない語り手である場合」を、やはり原理的に除外できない条件であると言って議論に差し戻そうとする行為である。少なくとも気持ちの上では、私にはここまで勇敢な議論を展開する気はないが、場合によっては、私が「信頼できない語り手は除外できない」と主張しなければならないときも来るのだろうか……。

*14:なお、LW氏が『白上フブキは~』でにじませている時間感覚を単独で表現したものが『Vだけど、Vじゃない!』であるように、私がこの文章で主張しようとしている時間感覚の一端は、別記事『時間ものに関する覚書』で少しだけ近いことを語っている。私の直感がどこから来たのか知りたいという奇特な方がもしいたら、読んでくださってもいいかもしれない。ただこの別記事は存在論とはさして関係がない。

*15:「部分的な完全性」という言葉使いはかなり奇妙だし、たぶん、正確にはこの術語の定義と一致していないだろう。しかし、現状この表現が一番わかりやすいと私は信じるので、申し訳ないのだが、読者にあられてはよくよく注意してこの箇所を読んでいただきたい。

*16:ここまで来るとフツーに自分が読み間違えてる気がしてきた。論理学は難しいな、くそ!

*17:私は(結果的に)現実世界の完全性とVtuberを含めたフィクション全般との不完全性を対置し、Vtuberのどうしようもない不完全性を主張した。しかし、LW氏の主張でも私の主張でもない第三の道として、静的な不完全性と静的な完全性との間に、VtuberくまモンBLEACHなどの作品が持つ動的な完全性/不完全性を第3のカテゴリとして置く、という道もあるだろう。私は現状その道を選ぶメリットがとくにないので選ばないが、あなたがその道を選ぶことを止めるだけの理由もまだ発見してはいない。

*18:正確には、「COCORO◆Diamond」/「CLOVER〜オトメの祈り〜」の歌手名義は、変身前の名前である菱川六花 / 四葉ありすではなく、変身後の名前であるキュアダイヤモンド / キュアロゼッタである。そこらへん、重要な人にとっては重要な違いなので、注釈という形ではあるが、注意を促しておく。

*19:もちろん、外伝的に、相田マナが特訓によって音痴を克服するという挿話を妄想によって補完し、逆説的に強固な時空間的連続性を本編とキャラソンとの間に確保する、という戦略も、視聴者としては存在するだろう。実際、相田マナが歌の特訓をする絵本というのがあるらしい。

*20:キャラクター性は時空間の連続性を踏み越えて連続しうる、という考え方は、大幅に見方を変えると、以下のようにも表現できるだろう。「キャラクター性は、彼 / 彼女が所属している世界とは別に、それ単体でひとつの世界である」
この、「いちキャラクター=いち世界」という考え方は、別記事『最強議論の下準備』でもわずかに触れている。

*21:ペガサスという単語には固有名詞としての用法もあるが、ここでは一般名詞としての用法のみを話題にする。

*22:ただ、LW氏が用いるところの共有信念世界という考え方のほうが都合がよい場合もたくさんあるということには同意できる。例えば「ゴジラ」について考える時がそうで、ゴジラのように特定のテキストに帰しやすいキャラクターは「基本的には常に映画『ゴジラ(1954)』に準拠している」と考えても問題が起きにくい。

*23:本文では、固有名詞としてのキャラクター名を特定の所属先から解放する作業と、一般名詞としての名前を特定の所属先から解放する作業とを別々に行ったが、この2つの作業を「歴史や伝承に登場する英雄・偉人その人」という概念を介して接触させたのがFateである。例えば、Fateにおけるアルトリア・ペンドラゴンは、一方では血肉の通った特定の一個人である。しかし他方では、『アーサー王伝説』に残された「アーサー王」という、(まあ一般名詞とまではいかないまでも)LW氏言うところの「寓意としての」「種としての」「理論的対象としての」人物像をも指示している。
Fateという事例は非常に興味深く思われるのだが、これについて扱うと、同時に「stay nightのセイバーとZEROのセイバーは同一人物か否か」とか「stay nightのセイバーとZEROのセイバーは同一キャラクターか否か」といった多数の非常に厄介な問題をも同時に抱え込むことになるので、Fateをネタに論じることはFateに詳しい方にお任せしたい。

*24:キャラクターが外在的な物語によって定義されるのか、内在的な性質によって定義されるのか、という話題まで視野を広げれば、LW氏は『不在の百合と構造主義』という記事でも少しだけ関連することを述べている。キャラクターの世界への紐づけられ具合という問題はLW氏の継続的な関心のもとにあるとみていいだろう。