三題噺

あ、この話、ヤマとかオチとかはないです。なんなら意味も。

 

1

最近、久しぶりにカタい本を読んでいるが、存外楽しくない。楽しくない?
新しい知識を得ることの快感が(昔と比較すれば)なくなったというよりかは、快感そのものはあるが快感と同じくらい不快感を感じるようになった。もはや小学生や中学生のときのようには読書を楽しめない。当たり前といえば当たり前かもしれない。

 

不快というのは、本を読んでいると、過去に自分がブログ等で展開しはじめようとしていた議論がすでにその道のプロによって精緻に展開されていて、その議論の利点も弱点も尽くされていた、ということを知ることがままあるからだ。
具体的に言うと……私は先々月『論理パラドクス 論証力を磨く99問』を、先月『改訂版 可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』を、今月は『虚構世界の存在論』を(いずれも三浦俊彦著)ちょっとずつ読み進めているのだが、これらを読んでいると「当ブログの過去記事のいくつかの疑問は端的に知識不足でカタが付く」ということがわかってくる。もっともっと具体的に言うなら、『デットンは存在し、かつ、弟であるのか』はウッズの代入的量化説とか房理論とかをカスタムしていくことで不要になるような気がするし、『○』で探ったような「完全性の定義云々」は「強い/弱い完全性、強い/弱い整合性、強い/弱い論理的閉鎖」の枠組みのなかでおおむね定義済みなような気がするし、『日記とか存在とか狐とか』で果たしたかったようなことはなにもあんなに苦戦しなくてもハインツの状況説とかをカスタムしていく方向で満たせたような気がする。過去の記事の内容の何割かは、哲学的に全く既知のアイデアであって、ブログでわざわざ書いてやる必要がない。

 

誤解されたくないが、私は何も「自分が第一発見者の栄光によくすることができなくて残念だ」とか言いたいのではない。もしそう思われているなら訊き返したいが、こと哲学というジャンルにおいて、私のようなトーシロが真に新奇な問題設定を行うことが現実的に可能だと思うか? 哲学においては、トーシロが思いつくような問題設定のすべてはすでに哲学者によって実践済みだと考えるのがどちらかと言えば妥当だろう*1
「私が私なりに頑張って考えたことが学会では既知の事象であった」なんてことは、そもそも当たり前なので残念がるにはあたらない。私が残念がっているのはむしろ、「私は、ちょっと調べたら知識として解決できる程度の問題を議論としてブログに載せてしまった」ということだ。私は、ちょっと調べたらわかる程度のことは既知の事実としてそれに触れるべきだった。さもなくば、私は専門外の学問の積み重ねを軽視したことになろう。

 

ただ、ここで『私は触れるべきだった』と述べているのは、ただ『触れることができればするべきだった』という意味のみで述べているのであって、『触れることが可能だった』という状況を含意していない。
現実問題として、複雑な哲学の議論の要点を全て押さえてから自身の議論を始める(ブログの記事を書く)ためには多大な努力を要するし、そもそもが単なる趣味以上のものではない当ブログのためにその多大な努力を払おうという気は正直言ってない。私がいままで、ある程度自分の無知を棚に上げて文章を書いてきたのなら、これからも自分の無知を棚にあげて文章を書き続けるだろう。ブログなんてテキトーでいいのだ。テキトーに書き続ければいい。
ただ、そのテキトーはテキトーとして意識的に妥協したとしても、自分がテキトーであったことを改めて知らされるのが全くこたえないということにはならない。だから、久しぶりにカタい本を読んで、新しい知識を得ると――過去の自分の無知を知らされると――不快感を感じずにはいられない。今はまだいいが、そのうちカタい本読めなくなっちゃうね、これは。

 

2

と、いうのは前置きで。
今月読んでいる『虚構世界の存在論*2で紹介されたアイデアのなかにいくつか気になるものがあった*3

 

一つ目は、「自然種 / 名目種」という区分(を可能にするアイデア)だ。
三浦の紹介によると、言語によって指示されたり同定されたりしうる対象には、「水」とか「虎」とか「独身男」とか「複素数」とか「スループ帆船」とか、われわれがぱっと思いつく事物がおおよそ含まれる。このとき、この事物たちを、言語による指示・同定の在り方によって2つのタイプに分けることができる。タイプの1つは、「もともと人間の知覚や思惑から独立した自然界の実在物」(p16)である「自然種」、タイプのもう1つは、「われわれの生活と関心に相対的な、一定の性質と機能を備えていることを条件にそのものとして同定される」(p18)「名目種」だ。ここで、「水」や「虎」は自然種にあたり、「独身男」や「複素数」や「スループ帆船」は名目種にあたる*4
自然種と名目種との間の顕著な違いとして、それに対して従来の知見(ステレオタイプ)とは根本的に一致しないような新たな知見が発見され得るか否か、という違いがある。自然種についてはそうした新たな知見が発見され得る一方、名目種については根本的に従来の知見と一致しない知見は発見され得ない。

虎は自然種である。よってステレオタイプによって定義できない。世界中の虎の毛皮から縞模様がある日突然消えたとしても、虎は実は草食だったと判明したとしても、爬虫類だったと判明したとしても、また生物ですらなく太古に外惑星から送られてきた精巧なロボットが自己繫殖したものだったと判明したとしても、一連の時空的連続の系統を保っているかぎり、虎は虎であろう。われわれは「虎は実は存在しなかった」とは言わず、「虎の性質はわれわれが思っていたものとは全然異なるものだった」と言うだろう。(中略)しかし独身男とは実は女であったとか、独身男とは実は結婚しているものだったとかいうことが判明するなどということは考えられない。名目種名の指示対象は、確かにあらかじめ性質の連言によって定義されているのである。(p17)

 

『虚構世界の存在論』の議論はここから、芸術作品や美的対象の指示・同定に関して、対象が自然種である、あるいは名目種であるという前提に基づいてなんらかの立場を選ぶ方向へと向かっていく。しかし、私としては、こういった哲学的あるいは言語学的な関心を離れた単なるアナロジーとして「さまざまな事物を自然種と名目種に分けることができる」というアイデアを利用できないかと考えたくなる。例えば「われわれは普段、人間を自然種として取り扱っているのか、名目種として取り扱っているのか」とか……。

 

気になったアイデアの二つ目は、「記述句の属性的用法 / 指示的用法」という区分(を可能にするアイデア)だ。
ここも三浦の紹介を引用しよう。

ドネランによれば、記述句には属性的用法attributive use, 指示的用法referential useという二種類の用法がある(Donnellan, 1966; 46)。前者は話者が記述に当てはまる対象を選び出すものであり、後者は話者が意中の対象を記述を用いて指示するものである。スミスの惨殺死体が残された異常なほど凄惨な現場を見て「スミスを殺した奴は気違いだ」と言った人は、おそらく、誰であれこんなことをした奴は気違いだ、という意味で「スミスを殺した奴」という記述句を属性的に用いている。一方、スミスを殺した罪で起訴され法廷に立っている人物の異様な振舞いを見て「スミスを殺した奴は気違いだ」と言った人はおそらく、その特定の人物を指し示すために、記述を指示的に用いたのである。そして後者の場合、起訴された被告が真犯人でないとしても、さらには彼が真犯人でないと話者が知っている場合にすら、話者の「スミスを殺した奴は気違いだ」は指示に成功し、真(または偽)となりうる。(p247)

 

ざっくりと説明を流し読みする限り、この「記述句の属性的用法 / 指示的用法」というアイデアは「自然種 / 名目種」というアイデアとよく似ている……似ているのは、ある事物がある事物の本性であると一見思われるような特徴を持たないことがありうるか否か、という点だ。一方、指示的用法で記述された事物ならびに自然種に属する事物は、「殺人者」でありながら殺人を犯していないとか「虎」でありながらしましま模様じゃないとかいったことが(いちおう)ありうる。他方、属性的用法で記述された事物ならびに名目種に属する事物は、「殺人者」でありながら殺人を犯していないとか「独身男」でありながら男じゃないとかいったことが原理的にあり得ない。
二つのアイデアは、下手をすると混同を起こしそうなくらいには似ているが、しかしながら同じではない。両者は(同一の)議論の異なるレイヤーに位置するアイデアであって、それぞれのアイデアが区分しようとする対象は一致していない。あくまで「属性的用法 / 指示的用法」というのは記述句に対する分類であり、また直接指示という説を前提にしているアイデアであるのに対し、「自然種 / 名目種」というのは種(名)に対する分類であり、また直接指示と間接指示どちらの説を採るかという選択に関わるアイデアである*5
私はふたたび、哲学や言語学を離れて――直接指示という説に前提を置くか置かないか、などの違いにはあまり注目せずに――両者のアイデアを敷衍したい。思うに、両者のアイデアの違いを「われわれが、事物のなかに、事物が持っているあらゆる性質とも異なる『そのもの性』を認めるか否かという問題を、言葉が使われる個別の状況に即して判断する(「属性的用法 / 指示的用法」)か、普遍的に使われる言葉そのものに即して判断する(「自然種 / 名目種」)か」の違いと表現することも可能なのではないか。となれば逆に、「個別の状況に即して考えるか普遍的な言葉そのものに即して判断するか」という違いを除いたとき、両者のアイデアは構造的に同じではあると言えるのではないか。

 

両者のアイデアは「事物が持っているあらゆる性質とも異なる『そのもの性』を認めるか否か」で立場を分けるという構造を、ひょっとすると共通して持っているかもしれない。そして、「事物が持っているあらゆる性質とも異なる『そのもの性』を認めるか否か」で立場が分けられるという考え方は、例えば、「人間に対してわれわれがどうふるまうか」という問題に応用できはしないだろうか。

 

3

これはどれだけ強調してもしすぎることはないくらいの事実だが、「人間存在とはどういうものか」という問いは、いつでもどこでも高尚で深遠な問題というわけではない。
人間存在の本性云々という話は、いつなんの話をしていても頻繫に通過・経由する羽目になる、ある意味かなり凡庸な問題設定だ。個人的には、この問題はそれ単独で問うような問題ではなく、ある問題とある問題とをどのようにつなぐかを決める中継に過ぎないのではないかとすら感じている。「人間とは何か」なんてものは、駅ではなく切り替えポイントに過ぎないのではないか、ということだ(いま私は単なる個人の感じ方の話をしている)。
まあ、「人間とは何か」という問題をただ言葉の響きだけで過大評価してはいけないのだとしても、それでこの問題を語る意義が失われてしまうわけでもない。それが切り替えポイントに過ぎないのだとしたら、切り替えポイントに過ぎないとはっきり認識したうえで、その切り替えポイントに対する議論をとことん精緻化していくのはよい。

 

だいぶ話は飛ぶが、私の倫理的スタンスについてちょっと書いてみる。
私には、これと決めて信仰している宗教も哲学もないから、「私が私自身にそういうルールを課している」という以上の絶対的な道徳とか倫理の実在を、全く信じていないが、それでも「私が私自身にそういうルールを課している」という意味においての倫理的スタンスは存在する。要は、個人的な道徳律みたいなものがあって、(わりに弱い人間なので)その個人的道徳律をときによって守れたり守れなかったりしながら、それでも全体としてはなるべく守るように努力して生きているわけだ。
この、私にとっての個人的道徳律のなかには、私が実在の人間に対して行ってもいいこと・行ってはいけないことを定めた部分もある。この「私は実在の人間に対して○○をしてもよい / してはいけない」といった無数の細則に関して、私が重要にしていることとして、「私が○○してもよい / してはいけない理由は、ただその相手が実在の人間であることに尽きる」という信条がある。言い換えると、「実在の人間が持っている特徴の一部分を理由にして、私は○○してもよい / してはいけない、と解してはいけない」という信条でもある。それは具体的にいうなら、例えば「イルカは人間並みに頭がいいから、人間を殺してはいけないのと同様にイルカを殺してはいけない」といった主張が仮にあったとして、私はこの主張を積極的に棄却するし、例えば「非実在のキャラクターは実在の人間並みに共感できるから、人間を侮辱してはならないのと同様に非実在のキャラクターを侮辱してはならない」といった主張が仮にあったとして、私はこの主張も積極的に棄却する。「頭がいい」とか「共感できる」といった特徴はそれぞれ実在の人間(の一部)が持つ特徴(のさらにまた一部)に過ぎないし、「頭がいい」ことや「共感できる」ことは文明や文化の枠を超えるほど普遍的な価値などではないことに至っては言うまでもない。私は「実在の人間を殺してはいけない」という規範を抱えているが、その理由は単に「相手が実在の人間であるから」のみによるし、私は「実在の人間を侮辱してはいけない」という規範を抱えているが、その理由も単に「相手が実在の人間であるから」のみによる。

 

さて、私があくまで禁欲的に、「相手が実在の人間であるから」という理由のみによって「○○を行う / 行わない」と決めるとして、当の相手が実在の人間であることを確かめる方法には、少なくとも二種類がある。一種類目の方法は、われわれがその相手をすでに人間と呼んでいた、ということを思い出すという方法。二種類目の方法は、相手は実在の人間なら必ず持っているはずの特徴を余さず持っていてなおかつ実在の人間なら持っていてはいけないはずの特徴を一つも持っていない、ということを証明するという方法だ*6
この二種類の方法の間には、たいていの場合大した違いはない……ただし、比較的まれな事態のなかでは二つの方法のギャップが目立つこともある。まれな事態とは、例えば地球人類に異常に近いメンタリティを持った宇宙人が来訪したときであるとか、チューリングテストをゆうゆう突破するAIが完璧な肉体を持ったときとかであろう。こういった「人間かどうかの境界事例になるかもしれない者たち」が現れたとき、われわれは「それらが人間であることを単に思い出して、人間が持ちうる特徴のひとつとして新たな特徴を新発見する」のかその逆か、それとも「人間が持ちうる特徴に照らしてそれらが人間であることを証明する」のかその逆か?
つまり、私がこの話で意図しているのは、「人間」とは自然種であるのか名目種であるのか、どちらの立場なのかは一概には言えないよね、というそれだけの確認だ(あるいは、われわれは「人間」という言葉をときに属性的用法ときに指示的用法で都合よく使い分けているよね、という確認だと解釈されてもよいということにしよう)。少なくとも私はふたつの立場の間で揺れてしまうことがある。例えば、Vtuberについて語るときだ。私が、Vtuberに対して行う行為の倫理的是非を考えるうえで、Vtuberを実在の人間とみなすか否かというカテゴリー判断は、そもそも「実在の人間」を自然種と考えるのか名目種と考えるのかという厄介な別問題――人間とは新たな外延を発見すべきものなのか、それとも既知の外延によってのみ人間が決まるのか、という問題――を引き連れてくる。

 

一方、倫理的判断から発して人間とは何かを考えるうえで、人間は自然種であると考える立場は、一種傲慢にも聞こえる。倫理など、せいぜい人間が社会のために取り決めるものでしかないだろうに、それが適用されるかの判断に、人間の知覚に関係なく存在する「人間らしさ」なるものが絡んでくるとはどういうことなのか? 人間の決める良し悪しの公準は人間の決めた概念に尽きるべきではないのか?
他方、人間は名目種であると考える立場もそれはそれで傲慢に聞こえる。人間をなんらかの必要十分条件に分解したうえで倫理を打ち立てようとしたとき、そこでなんらかの特徴を価値化してしまうことからわれわれは逃れえないのではないか? 「人間」らしさなるものは人間が自分で決めることは、恣意的に選んだ一部の特徴を称揚することにつながりはしないか?

 

そういうわけで、例えば宇宙人やアンドロイドやVtuberなどのような、人間との境界事例になるかもしれないしならないかもしれないものが現れたとき、私は人間を自然種とみなすか名目種とみなすかの次元で多少なりと動揺するのである*7

 

4

多くの自分語りは好まれないものだ。しかしながら、自分が述べようとしている内容のなかにどれだけの数の自明でない前提が含まれているか、また自分はそれら自明でない前提の存在をどれだけの数見過ごしてきたのかということを明らかにするためならば、好まれようが好まれまいが自分語りが選択されることはある。

そんなわけで自分語り……なぜ私は怪獣が好きか、どういう怪獣モノが好きかみたいな話をする。
私にとって理想の怪獣モノというのは、

  • 怪獣は人間ごときの支配も理解も及ばない、絶対的な存在である
  • 人間こそがあらゆる怪獣のなかでももっとも強力でクレイジーな怪獣である

という2つの命題を高度に両立させたもののことである。この2つの命題は、必然的に矛盾するわけではないのだが、それでも油断すると一瞬で矛盾してしまうような非常に両立の難しい命題ではある。

 

『怪獣は支配も理解も及ばない絶対的な存在で』なければならないという価値観は、具体的には、人間から怪獣に対して「すごーい! 獣のくせに人間並みに賢いね!」とかいう人間基準での上から目線を発動しないこと、また人間が怪獣をただ一方的に「助けてやる」ような構造にはしないことなどを要請する。
この点、ピーター・ジャクソン版『キング・コング』やモンスターバース版『キングコング: 髑髏島の巨神』といった作品は(日本の特撮ファンにも高い評価を下している人は結構多いような気がするんだが)私にとってはかなりの地雷作品だ。ピーター・ジャクソン版ではキング・コングがどういうわけか人間の金髪美女に恋をするし(は?)、モンスターバース版では主人公たち人間が危機に陥ったキング・コングを「助けてあげよう」と思いあがり、本当に助けたっぽい雰囲気で話が進むし(は?)……これらの作品は、根本的に「人間はすごい! 人間は万物の霊長!」という見方から抜け出さないまま、人間ならされたらうれしいようなことを人間より劣るはずの獣にあてがってやり、「人間並みの獣を発見した!」と驚いたフリをしているだけの人間礼賛映画である、と私には感じられる*8

 

『人間こそもっとも強力でクレイジーな怪獣で』なければならないという価値観は、具体的には、完全な超越者としての怪獣が暴れるだけ暴れて終わり、みたいな物語にはしないことなどを要請する。
この点、『クローバーフィールド / HAKAISHA』とかスピルバーグの『宇宙戦争』とかいった作品は――まあ正直そこまで嫌いってわけでもないのだが――微妙に興味が湧かないというか、私が求めているような意味での怪獣モノには含まれない、という感じがする。両作品では、人間たちは大局がつかめないままにただただ蹂躙され続け、(名目的には勝利しているが)実質的にはただただ負けたまま物語が終わる。こういった作品は、怪獣(とか宇宙人とか)を徹底的に理解不能なものとして描いていることこそ好感が持てるものの、私がよく知るタイプの怪獣モノっぽさをあまり感じない(理解不能なものの恐怖だったら他ジャンルでもよくない?)というところでどうしても興味がわかない*9

 

『怪獣は支配も理解も及ばない絶対的な存在である』と『人間こそもっとも強力でクレイジーな怪獣である』をいち作品内で両立させるバランスというものはきわめて精妙であり、ほんのささいな描写の違いでこのバランスは壊れてしまう……というか、作品の作る段階だけでなく作品を読解する段階においてもこのバランスは崩れやすく、ある作品にこのバランスが取れているか否かはこまかい読解の違いでいかようにも揺れ動くだろう。とどのつまり、私と同じ価値観で怪獣モノを愛している人がいたとしても、私が絶賛する怪獣モノをそのひとが最低最悪の作品だとみなすことはままあるだろうし、逆もまたしかりだ。
しかしながら、勇気(あるいは蛮勇)を持って自分語りをしたい、この精妙なバランスを極めた作品として、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』や『ジュラシック・ワールド』や「アニメゴジラ三部作」などがあるのであり、これらはMy Favorite怪獣モノなのである。
これらの映画は、「人間の作った機械で怪獣を操る」とか「人間が怪獣を作り出す」とかいった危険領域に突入しつつも、怪獣が人間の支配下に置かれてしまうことをギリギリのところで回避してみせる。怪獣はいつも人間の予想を(量的にだけでなく質的に)裏切り、理解の外から来た来訪者〈外なる神〉としての性質を全うする。しかしながらこれらの映画では人類もやられっぱなしではなく、いつも最期にカタを付けるのは人類の科学技術と過信に基づく理性的な愚行、〈神なき知恵〉とでも呼ぶべきものである。理解不能な他者『怪獣』と理解不能な自己『人間』がバチバチにやりあう関係がここにはあり、私は「そうそうこれこれ! これが観たかったんだよ!」と喝采をあげる。

 

以上のように、今日ここで私はMy Favorite怪獣モノのなかに自分が持っている怪獣の理想像を再発見するのだが、これは言い換えれば、私にとっての“怪獣の理想像”が(観念的な演繹によるよりかは)“怪獣モノの鑑賞”という実践のなかでいくぶん功利的に彫琢されてきたということでもある。
そして、実は私にとっての“怪獣の理想像”は私にとっての“動物の理想像”にも応用され、ひいては“人間以外のものたちの理想像”にも応用されていっている。
具体的には、私は怪獣というものに対して「理解不能であり」「理解してやるべきでもなく」「強くて」「人間と種族単位で相対し、戦う」という期待を抱いているのだが、動物に対しても同様に「理解してやるべきでない戦う相手」であってほしいという期待を抱いており、人間以外のもの全般に対してもそうなのだ。
だから、私が先般述べた「人間扱いする理由はただ人間であることによって、それ以外の理由ではない」という価値観の裏側には、「人間以外のものを人間の基準で語るという失礼をはたらきたくない」という価値観が張り付いており、なおかつその価値観は「人間以外のものは理解不能な戦う相手であってほしい」という願望に根っこを持っているわけだ。
人間の条件に対する禁欲的(かのよう)な態度が、突き詰めれば、冷静な演繹でなく、エゴイスティックな期待に基づいているということを、私はよく覚えておくべきだ*10

 

5

「自然種としての人間を想定しようが、名目種としての人間を想定しようが、たいていの場合違いはない……比較的まれな事態においては違いがある」のようなことを先ほど述べたが、このまれな事態として想定されたのはわりにフィクショナルな事態のことだった。
そう、ある種のフィクションは自然種としての人間と名目種としての人間が一致しないような特殊状況をわれわれのまえにありありと見せる。これは大げさに言うのなら、人間が人間たる条件がかく乱されているということだ。いくつかのよくできたフィクションは、われわれのうちに「どこからどこまでが人間と言える……?」のような困惑を呼び込むだろう。

 

なんの話をしたいかというと、『メイドインアビス』面白いですよね、という話だ。

 

メイドインアビス』では自然種としての人間の条件は当然かく乱される。
明らかに生きている人間から、物理的に連続しており、なおかつ生命活動らしきものを行っている物体として『成れ果て』が登場したとき、われわれはこれを人間とみなすか否かで惑う。自然種という前提にこだわる限り、物理的に連続している物体を恣意的に区別することはあまり妥当だとは思われない。しかし、成れ果てになる前の人間と成れ果てになった後の成れ果てが物理的に連続しており、なおかつ生命活動らしきものも続いているとしたならば、われわれはある人間とある成れ果てを違うものだとはみなせないのか……?
メイドインアビス』が加えて最悪なのは、成れ果てになる前の人間を主人公は個人として知悉しているということだ。もしも主人公たちが知らない人間が成れ果てになるだけのことであったなら話は比較的のみこみやすいが、主人公たちが個人としてはっきり認識している人間が成れ果てになった場合、主人公たちは「その人間を人間であるとはっきり認識していた記憶」があるために、成れ果てを人間だとみなすべき必然性がかなり高まってしまう。これはしんどい話だ。
……いま私は当たり前の話をしている。

 

メイドインアビス』では名目種としての人間の条件もかく乱されている。
言葉が通じず、共感しあうことも期待できない野生生物こそ危険である、という正常な思い込みを持っている読者にとって、野生生物よりも何百倍も悪質で危険な存在としてボンドルドという男が登場したとき、われわれはこんなのが人間であるという事実を前にして惑う。名目種として人間をとらえたとき、「言葉が通じる」「共感しあえる」などといった特徴を人間の条件に含める人が多数派だと思われるのだが、しかしボンドルドは「言葉が通じる(めっちゃ頭がいい)」「共感性を持っている(愛情はガチ)」であるようなまあまあ人間らしい人間であると同時にとても人間であるとは認めたくない怪物でもある。われわれはボンドルドをあくまで人間だと認められるのか……?*11
メイドインアビス』が加えて最悪なのは、ボンドルドが持っている邪悪さの原因の一部として「精神分割行為の副作用」というファクターを曖昧にほのめかしていることだ。もしも、ボンドルドの邪悪さの原因が、100%本人の性格由来であるか、または100%怪しい機械の副作用によるものであるか、どちらかであれば、われわれはかくも邪悪な男が人間に含まれるのかどうか、多少なりと楽に判断できるであろう。しかし、彼の邪悪さの原因らしきものは(まるで現実世界のように)あいまいかつ複雑であり、その何割が人間存在に本質的な部分(本人の性格)でありその何割が人間存在に本質的でない部分(機械の副作用)であるのかがわからない。これまたしんどい話だ*12
……いま私は当たり前の話をしている。

*1:そもそも、哲学は問題設定の新奇性を争っているタイプの学問では(意外と)ない、ということにも注目すべきだろう。核心を突いた問題設定とその回答――要はアフォリズムの提示――だけなら、案外、そこら辺の人にだって簡単にできる。専門性のある哲学というものはむしろ、アフォリズムの表面に、どのようにして実証可能で議論可能な枠組みを与えていくかというところにこそあるだろう。

*2:読み進めるのにはまあまあ苦戦している。論旨も語り口もわかりやすいと思うのだけれど、思考の物量がすごいというか……。第4章で16種類の学説をずらっと並べて順に紹介・比較検討していく部分がごっつくてなかなか脱出できないでいる。

*3:以下、引用はすべて三浦俊彦『虚構世界の存在論』(1995, 勁草書房)による。

*4:ただし、「複素数」のような数学的概念がほんとうに人間の知覚に依存してのみ同定されているの否かなどは議論の余地がある、と三浦は述べている。

*5:「属性的用法 / 指示的用法」と「自然種 / 名目種」が同じアイデアではないことの証拠として、「独身男」という事物について今一度検討してみるのもいいだろう。(「独身男」という種名が「独身である男」という記述句と同値であるとさしあたり認めた場合)「属性的用法 / 指示的用法」という考え方に従った場合、「独身男」という記述句がどちらの用法で使われているのかは場合によって変わるだろうが、「自然種 / 名目種」という考え方に従った場合、「独身男」という種名は後者に属するだろうとふつうは考えられる。

*6:われわれは、「頭がいい」とか「(複雑な)心を持つ」といったごく少数の特徴のあるなしで人間か否かを判断する態度を棄却したとしても、「人間が持ちうる特徴の必要十分」でもって人間か否かを判断するという態度をいまだ棄却してはいないだろう。後者の態度は、実践のうえでは前者の態度と大して変わらないものに堕してしまう可能性が高いかもしれない……しかし、実践上の懸念をいくつか指摘したところで、後者の態度が前者の態度と同じものだと言えるわけでもない。

*7:まあ、倫理的判断の基準を決めかねて動揺するとはいっても、行動を決定する次元で迷うなんてことはそう頻繫ではないものだ。それは倫理的に是か非か悩ましい行動とひとが積極的にやりたい行動とが必ずしも一致しているわけではないからだ。ある人が「動物を殺してはいけない理由はない」と信じているからといって積極的に犬猫をいじめるとは限らない。

*8:まあしかし、もっと慎重にこれらの映画を評価するならば、「キングコングシリーズ」が持っている歴史性なども冷静に考慮にいれていかなければならない。キング・コングが金髪美女に惹かれるとかキング・コングを人間が助けるとかいった要素は、ピーター・ジャクソン版やモンスターバース版以前にもあったりなかったりした要素であり、キング・コングのキャラクター性に深くかかわるものなのだから、個々の作品が簡単に否定できるものではない、ともいえるのだ。

*9:ただし、『宇宙戦争』における宇宙人の描写が「人間の理解の外から来た者」として貫徹していたか否かはけっこう微妙なところだ。私には、いくつかのシーンで宇宙人は地球人の映し鏡として描かれていたのではないかという疑いを持っている。

*10:ちなみに、ことこの記事の内容に限らずとも、倫理的態度はエゴイスティックなものとしてしか説明できないとは思っている。

*11:とは書いてみたものの、「言葉が通じる」「共感しあえる」といった特徴が人間の必要条件に含まれるのだと、個人的には信じていない。言葉が通じない人間も共感性を持たない人間も、多少レアなだけでごく普通に実在しているし、ボンドルドの人間性にしたって、ただレアなだけで本質的に人間の枠を外れるものではないと私は思っている。ただ若干レアな特徴を持っているくらいで、実在する人間たちをさも「人間じゃない」「実在しない」かのように扱う態度は厚顔無恥と言われるべきだ。なおかつ、仮にそうした人間たちが「人間じゃない」「実在しない」と排斥されたとき、私は排斥する側ではなく排斥される側の人間でもある。

*12:まあ、ボンドルドの場合、おそらくは自分の意志で怪しい機械を使っているので、ボンドルドの邪悪さは100%ボンドルド自身の所産ということでもいいんですけどね。