時間ものに関する覚書

 

時間ものが採用する様々な時間モデル

ふつう、日常を生きているときの私たちは、過去から未来にかけての時間に属するすべての瞬間を均質にとらえることはない。現在という瞬間だけがはっきりと感じられ、過去と未来は遠くなるにしたがってぼんやりとしか感じられなくなるのが日常を生きる私たちの感覚である。また、私たちが遠い過去を想うときの心の働きと、遠い未来を想うときの心の働きに共通する部分があるのかどうか、私たちは知らない。つまるところ、私たちの日常の中で、過去と現在と未来ははじめから一列に並んだ概念などではない。むしろ、それらはてんでバラバラに存在する概念である可能性を持っている。
しかし私たちは、過去・現在・未来を含んだものとして『時間』という概念を認識・表現することがある。そのとき私たちは、過去・現在・未来の3種類の概念を、一概念にくくれるだけの何らかの共通の基盤を持ったお互いに比較可能な概念であるとみなしていることになる。
つまり、過去・現在・未来をとりまとめて『時間』と呼びならわすとき、私たちはすでに日常を逸脱して、過去・現在・未来をとりまとめる概念のモデル化を行っていることになる。そして、『時間』を『時間』として認識するモデルは実は一つの絶対的解答を持っているわけではなく、とらえ方による無数のバリエーションを持っている。『時間』の捉え方は一通りではない。
『時間』という概念の理解を前提とするフィクション“時間もの”では、時間をモデル化する要請はよりはっきりと出やすい。ここでは、フィクションがフィクションのために用いる時間モデルとして、どんなモデルがあり、そのモデルにどんな分類を行うことが可能かについて検討していく。

 

歴史改変の可否に関わる5種のモデル

歴史改変の可否に注目することで、時間モデルを5種に分類した。
各モデルを「ものの見方」としてみたとき、5種は別々のモデルだが、「ロジック」としてみたときこの5種は必ずしも背反ではないことに注意されたい。
ぶっちゃけ分類としてはクソの役にも立たない。


モデル0 ROMモデル

「特殊な方法で遠い過去や遠い未来の絶対的事実を観測することができる」という点で時間ものではあるものの、タイムトラベルは行われず、歴史改変にかかわる諸問題も注目されることがない。

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このモデル0を用いた物語では、タイムトラベルは不可能であると断言されるか、タイムトラベルの実現可能性がこれといって注目されない。
ふつう、過去の絶対的事実の観測のみが可能であることが多い。未来の絶対的事実を観測できた場合、「未来で起こる出来事をふまえて現在で起こす行動を変化させる」といった歴史改変にかかわる諸問題が注目される場合が多いからだ。

 

モデル1 単線・改変不可モデル

時の流れは一本道である。たとえ未来から過去へタイムトラベルしても、いかなる事実も改変することはできない。

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1.1 予定調和 系

タイムトラベラーが意図して歴史改変を行おうとしても、その歴史改変の意図とそれによって引き起こされる行動までが「最初から」全て歴史に織り込み済みであった、とされるもの。こうした物語では、タイムトラベラーが、歴史に記されていることと食い違う行動をとったつもりでも、実はその行動こそが歴史に忠実な行動であった、と明らかになっていく。
具体的には「タイムトラベラーが無自覚にとった行動によって歴史上の偉人その人になっていく」というパターンがしばしば用いられる。
 例:映画『ライフ・オブ・ブライアン』(1979)

   映画『タイムライン』(2003)

1.2 ZAP 系

タイムトラベラーによって歴史改変が行われたあと、何らかの存在によって、タイムトラベラーの存在と「歴史改変そのもの」がなかったことにされる、というもの。
具体的には「タイムトラベラーが歴史改変を行った後、タイムトラベラーを殺すためにとてつもなく恐ろしい存在が現れる」だとか「過去で歴史改変を行ったタイムトラベラーが未来への帰路をとると、『時間の外側』にあるなぞの時空間に迷い込んで二度と出られなくなる」といったパターンが用いられている。
このモデルにとって、実はタイムトラベラーがひどい目に合うのはおまけであって、歴史改変が行われたという事実そのものが消されることが分類にとってはより重要である。
 例:ドラマ『新ドクター・フー(第1シリーズ)』(2005)
   あとなんか星新一の作品でこのパターン読んだことがある気がする

 

モデル2 単線・条件付き改変可能モデル

時の流れは1本道である。未来から過去にタイムトラベルすれば、歴史改変は可能である。

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「親を殺したら体が透け始める」のようなおおらかなSFは、たいていこのモデル2にもとづくといえる。
観測条件によってはモデル3やモデル4と見分けがつかない。

2.1 抵抗力 系

歴史改変は可能だが、より大きな改変を行おうとすると、改変を行わせまいとして時間そのものがより大きな力で抵抗してくる、というもの。
「タイムトラベラーが歴史改変に向けて動き始めると立て続けに不運に見舞われる」といった因果的抵抗力や「歴史改変に向けて動き出すと急に体が重くなる」といった物理的抵抗力などがある。
 例:小説『クロノス・ジョウンターの伝説』(1994)

2.2 「歴史」と「全ての些末な事実」のあいだに区別を置く 系

未来から過去へタイムトラベルを行えば、過去に起こった些末な事実を改変することはできる。しかし、歴史の大筋を変化させることはできない、というもの。
さらに細かく分けると、「些末な事実は簡単に改変できるが、重大な歴史的事実になると改変させること自体が不可能になる」という場合と、「過去の些末な事実を改変すると、その改変によって歴史の大筋が変わらないように他の些末な事実が変わることで勝手に調整が入る」という場合がある。前者は、実質的には1.2.1とほぼ同義だと言っていいだろう。
 例:映画『戦国自衛隊1549』(2005)

 

モデル3 単線分岐モデル

歴史改変は可能である。改変によって変わったぶんの歴史は「もとの」時間から分岐した時間として考えられる。

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このモデル3を用いるとき、時間を前提とした「因果」とは別に「超時間的な因果」が存在する。「歴史改変はまだ行われていない/すでに行われた」という出来事が備えているのが超時間的な因果である。
仮に、「もともと「過去」から「もとの未来」にのみつながっていた歴史が、歴史改変によって「もとの未来」と「別な未来」へと分岐する歴史へと変化した」場合について考えてみよう。このとき、一方では、「もとの未来」と「別な未来」はいずれも平等に実在する未来の一つだ、という立場がありうる(このとき、「もとの未来」と「別な未来」はパラレルワールドの関係にある、という説明がなされることが多い)。他方では、超時間的な意味で「すでに」歴史改変が行われたのであれば、「別な未来」だけが唯一実在する未来であり、「もとの未来」は「すでに」なくなった未来である、と明確に実在性を比較する立場がありうる。場合によっては、「唯一実在する未来が複数存在する」という状況すら考えうる。

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このとき、前者の立場と後者の立場は、実のところ対立しない場合が多い。たとえ後者の立場をとった場合でも、「歴史改変が行われた」という超時間的事実を超時間的に認めるためには、「唯一実在する未来以外の未来が存在する」必要があるからである。ある物語が歴史改変ものである限り、何らかの意味で複数の未来が必ず存在するのだ。
このモデル3は、近年ジャンルを問わず非常に高い採用率を誇るモデルで、応用例も幅広く存在する。モデル1やモデル2との合わせ技や、パラレルワールドものへの応用などが特によく見られる。
※歴史改変にかかわる時間もの以外でも、「可能性の数だけ世界が存在する」などの世界観において分岐する時間というモデルはみられるが、ここでは複数の分岐の間で前後関係が存在するものにのみ注目した。

 

モデル4 複線モデル

時の流れは「もとから」複数通り存在する。タイムトラベルという行為は、ある流れから別の流れへと移動することとセットで考えられる。

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モデル3とは違い、いずれの歴史も唯一絶対の歴史とは言えないというところに特徴がある。
モデル3の応用として採用されることが多い。また、モデル3と差がないことも多い。
 例:ゲーム『STEINS;GATE』(2009)
   映画『仮面ライダー 平成ジェネレーションズFOREVER』(2018)

 

時間のモデルにかかわるいくつかのフレーバー

時間というものは、川や砂や織物や旅人や空間や数に例えられる。言い換えれば、時間にはなんらかのイメージがついて回る。
イメージというものは厄介で、譬えとして持ち出せば、なんらかの「ものの見方」や「ロジック」を強烈にサジェストするくせに、実はイメージそれ自体には特定の「ものの見方」や「ロジック」が正解であると証明する能力は全くない。イメージによって何かを例えると、ほとんど根拠なしに、特定の「ものの見方」や「ロジック」が正しいかのように見せかけることができてしまうのだ。譬えというものは往々にして危険である。
時間のイメージも同じだ。ある時間のイメージを抱くことは、特定の時間モデルを採用することを強制したりはしない。ただ、ある一つの時間イメージは、いくつかの時間モデルと、ただただ妙に相性がいいのである。また、ある一つの時間イメージは、いくつかの別のイメージとも妙に相性がいい。
だから、これから列挙する複数の時間イメージは、先に分類した時間モデルに対して、あくまでただのフレーバーでしかない。注意されたい。

 

フレーバー:過去・未来の不在vs過去・現在・未来の同時性

過去はとうに消え去り未来はいまだ存在しない、現在だけが唯一手元に存在する、というイメージは、少なくとも一面では、私たちの日常感覚によく合致する。他方、超時間的にみれば、過去・現在・未来は「同時に」この世に存在している、というイメージもまた、時間をとらえるモデルとして一般的であり、ある一面では日常的であると言える。前者と後者は対立する2種類のイメージであるようにと思われるのだが、本当に対立しうるのだろうか。私は答えを持っていない。

 

フレーバー:現在の特異性vs時間の均質性

一方、過去から未来にわたって続く時間の中で、現在だけが特別な生々しさを持っているように、日常の私たちには感じられる。他方、時間は過去から未来にわたって一様な濃度で存在し続けているようにも、日常の私たちには感じられる。
前者のイメージは「過去・未来の不在」というイメージの言い換えであるかもしれない。また、後者のイメージは「過去・現在・未来の同時性」というイメージの言い換えかもしれない。

 

フレーバー:液体vs固体

一方、時間を止まることなく動き続ける流体だととらえるイメージがある。このイメージは「過去・未来の不在」「現在の特異性」と相性がいい傾向にある。ヘラクレイトスいわく「同じ川に二度入ることはできない」。また、鴨長明いわく「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの流れにあらず」。
他方、時間を、超時間的な意味では停止しているひとまとまりの固体だととらえるイメージがある。このイメージは「過去・現在・未来の同時性」「時間の均質性」と相性がいい傾向にある。タイムトラベルものの始祖の一つ、ウェルズの『タイムマシン』(1895)は、時間を「空間に続く第4の次元」としてとらえ、時間移動を空間移動と本質的には変わらないものとしてとらえた。(空間が均質なものであるという旧来の見方にのっとれば)時間のこうした見方もまた、『タイムマシン』の時間モデルもまた、時間を固体としてとらえる見方の傍流の一つだとも考えられるかもしれない。

 

フレーバー:離散的vs連続的

歴史改変や、行為選択によるパラレルワールド生成を考慮に入れた時間モデルについて考えるとする。具体的には、「サイコロを振るという行為に対してありうる全ての可能性のパラレルワールドが生まれる」というような物語に関して、その物語がとりうる時間モデルについて考える。
一方では、1回サイコロをふるごとに6通りのパラレルワールドが生まれる、といった時間イメージをすることができる。行為選択ごとに与えられる可能性は離散的に存在する。隣り合った2つの未来の間には距離があり、交わることがない。
他方では、1回サイコロをふるごとに無限のパラレルワールドが生まれる、といった時間イメージをすることができる。例えば、放られたサイコロが落ちる地点の座標は実数の数と同じ通りの可能性を持つ、というようにイメージすれば、無限のパラレルワールドは理解しやすい。このとき、隣り合った2つの未来の間には必ず中間の未来があり、交わることがない。
二つのイメージは必ずしも対立するものとは限らない。

 

フレーバー:線vs面

一方では、時間を、限りなく細い(=「細さを持たない」)線としてとらえるイメージができる。可能性の集合が無限通りの未来を許容するとしても、「時間」として実際に実現するのは1つだけである。全ての可能な可能性の中で、実現した可能性のみが「時間」としての特権性を持つ。そのため「時間」は細さを持たない。超時間的な手続き(例えば歴史改変など)が行われた場合、実現した可能性が超時間的には複数ある場合も考えられるが、その場合も、超時間的に一度は実現した可能性と、超時間的に一度も実現したことのない可能性との間には厳然たる格差がある。だから時間は線である。
他方では、時間を、無限の線の集合である面としてとらえるイメージができる。可能性の集合は、それすなわち時間と同義である。超時間的な見方を許容するのであれば、一度は実現したとか一度も実現していないとかいった区別は時間に対して行いえない。特定の可能性がほかの可能性に対して特権性を持つことなどありえないのである。だから時間は面である。
時間を線としてとらえるイメージは、時間を離散的なものだとイメージすることの言い換えになりうるだろう。また、時間を面としてとらえるイメージは、時間を連続的なものだとイメージすることの言い換えになりうるだろう。
時間を線としてとらえるイメージは図示しやすい。図示しやすいということは理解しやすい。理解しやすいということは、実際に私たちの日常的な時間への理解のしかたを規定してもいる。だから時間を線としてとらえるイメージはある意味私たちの時間理解に最も即したイメージである(なんのことはない、ほかの全ての時間イメージにも同じことが言える、ただの循環論法にすぎない)。そのため、このイメージには応用例も多い。ギリシャの運命の女神モイライは、線、もとい糸を切って結んで織り上げることで、織物という形での「運命」を形作っている。このイメージの中には、時間を線としてとらえる見方との共通項も見られそうだ。
時間を面としてとらえるイメージは、どちらかといえば、時間を液体としてとらえるイメージと相性がいい傾向にある。時間を川の流れや砂の流れとしてとらえるイメージは、時間を面としてとらえるイメージとも密接に結びついていると言える。

 

フレーバー:循環vs直線

循環的な時間イメージを用いたフィクションって、ループもの以外でなんかあったような気がするんだけどなー。思い出せねーなー。


フレーバー:時計とか

ときに、時計は時間の表示器であるにとどまらず、時間のメタファー、あるいは時間そのものとして考えられることもある。かなり珍しいが。
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(2008)では、冒頭に、とある理由で逆向きに回る時計が登場する。この時計は主人公ベンジャミンバトンの物語に何の関係もない。そのくせ、逆向きに回る時計というシーンが挟み込まれることで、なぜか「老人から年を経るごとに若くなっていく」という主人公の体質に奇妙に説得力が出てくる。私たちは「時計は逆回しにできるんだから時間が逆転したっておかしくないよな」と無意識に納得してしまうのだ。とんだイメージウェポンである。
仮面ライダージオウ』(2018)は、本編中でループが起こるわけではないが、実はループものの構造の中で起こっている物語であることが終盤で明らかになる(しかしまどマギのように本編中でメタ化することもない)という、少し珍しい物語だったが、その最終回で「時計の針が一周回って同じところに戻ったように見えても. ちゃんと進んでるんだ」というセリフが登場する。一見、ただの人を食ったポエムと思わせて、実は作品全体を貫く真理が開帳されている、なかなか味わい深いセリフになっている。さすがはわが魔王(洗脳済み)。
このように、時計というものは特定の構造を持っているため、時計のイメージを用いると、「循環的なイメージ」「直線的なイメージ」「流体的なイメージ」などなど、ほかの複数のイメージを連鎖的に大量に呼び寄せることがある。時計イメージが必ずしもわかりやすい世界観にはつながらないのはこのためであろう。
ほか、『仮面ライダー』(1971)には、全国の花時計を正午に一斉に爆破すると、連鎖して日本中の時計が爆発するというショッカーの作戦が描かれた。
いや、もう時間もの関係ないな……。

 

フレーバー:非限定の時間と限定された時間

ゾロアスター教の神話は、時間が生まれるところから始まる。世界のはじめ、そこには時間は流れてはおらず、ただ非限定の時間がどこまでも続いていた。善なる神が非限定の時間を区切って有限の時間にしたことで、はじめて時間は流れ出し、過去と未来ができた。
この物語はある意味で、認識作用によってはじめて時間は存在する、という宣言にも思えて、非常に興味深い。
ひょっとすると、はるか昔に一度だけ行われたものとしての創世を表現すると同時に、私たちが瞬間瞬間に行う、記号論的な創世のことを、よりうまく表現した神話なのではないかとすら思ってしまう。


フレーバー:記憶とか記録とか

一部の物語では、人間が持つ記憶や記録が時間そのものと密接な関係を持っていたり、また時間そのものであったりする。
そうした時間の見方は、フレーバーにとどまることなく、モデルにまで発展していることもある。
例えば、『仮面ライダー電王』(2007)では、時間そのものを破壊する行為(歴史改変とは異なる)に対して、一部の人間の記憶は耐性があり、またそうした特殊な記憶をもとに破壊された時間の再生を行うことができるとされる。つまり、人間の記憶は超時間的な存在であり、また時間を生み出す源泉にもなりうるということだ。
また同作では、記憶が超時間的な存在であることを表現してなのか、「記憶はもう一つの時間」という表現がある。記憶は時間そのものでもあるのだ。


フレーバー:複素空間

複素空間の考え方を用いて時間をイメージすることがある。近年一部で特に愛されるイメージであって、ここで言及しないわけにはいくまい。ただ私はあまりよく知らない。
それは(ほかの全ての時間モデルがそうであるのと同じように)ロジックであると同時に、ただのフレーバーでもあるということに、注意が必要である。


特定の時間軸を真正だと保証する難しさ

物語の構造が、複数の未来が存在することを要請するとき、特に、物語に歴史改変が組み込まれているとき、しばしば問題になるのが、いかにして特定の時間軸を真正だとして特権化するのか、ということだ。
シュタゲを例に挙げよう。(これは全部また聞きだが)シュタゲでは、主人公は愛する人が死ぬという一度見た未来を回避するために、「世界線」にもとづく時間モデルを理解した上で複数回歴史改変に挑む。ここで問題になるのは、シュタゲの時間モデルでは、主人公の歴史改変はある世界線から異なる世界線への移動として考えられるのだが、仮に主人公が歴史改変を繰り返して愛する人が死なない世界線へとたどり着いたとして、その物語は愛する人が生き残る未来にたどり着いた物語だと言えるのだろうか。愛する人が死ぬという未来を否定したことになるのだろうか。世界線というモデルをとる限り、いかに主人公が歴史改変を繰り返そうが、愛する人が死ぬ未来は温存され続け、どの未来も変えたことにはならないのではないだろうか。これでは、主人公の主観的経験しか変更できないのではないか。
こうした難しさは、主体的に未来を切り開くことが求められる多くの物語にとっては、当然問題となる。また、この問題に対して多くの回答が考えられてもいる。
例えばシュタゲの場合は(やっぱりこれもまた聞きなんだが)、世界線を移動しなかった人物に対して、より多くの世界線を移動した主人公の方が、相対的に強く真正性を保証できる、と考えることで、この問題を回避しようとした。歴史改変をしなかった人にとっては、あらゆる世界線は平等で順番を持たない複数の可能性にすぎないが、歴史改変を行った主人公にとっては、「世界線はA→B→Cの順に変化していった」という超時間的な因果が存在し、最終Cの世界線のみが「いま」唯一実在する未来だと言えることになる。歴史改変によって、主人公が(主観的に)超時間的な視点を持つ、ということが、モデル4からモデル3への書き換えを行っている、と言い換えてもいいのかもしれない。
このような回答の仕方は、とどのつまり、世界の超時間的な構造の決定権が主人公の主観にゆだねられているということでもある。外的な論理よりも、ただ経験やそれに基づくものの見方が決定権を持つ、というのは私たちの日常のある面には非常に合致したありかたであり、非常に共感しやすいところである。
よく似たほかの回答例として、主人公の行動の影響力をメタレベルに発散させることによって、特定の世界が真正でなければいけない状況を回避する、という回答がある。例えばまどマギでは、「魔法とは既知の因果を超えた力である」という設定が伏線になって、最終的には主人公の行動の影響範囲が全ての可能な世界にまで広がった。これによって主人公は平等に存在しうる全ての世界の歴史を「同時に」改変することができるようになった。いわば、超々時間的な歴史改変というべきだろうか。この歴史改変のなかでは、特定の時間軸が真正である必要はない。
メタレベルへの発散という方法は『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』でも用いられているらしい。
主観に頼るにせよ、メタレベルへ逃げるにせよ、「因果的行為の結果が超時間的な因果につながる」という点で、通常の因果の範疇で筋の通った説明はできない、という点は変わりない。


タイムパラドックスについて

(分野をはっきりと規定すればそうではないこともあるが)基本的に、パラドックスという言葉には複数の意味がある。そして複数の意味が、多くの場合区別されずにごちゃごちゃに使われている。
複数の意味とは、例を挙げると以下のようなものだ。

  • 論理的に正当でないにもかかわらず、正当であるかのように聞こえる内容。
  • 論理的に正当であるにもかかわらず、正当でないかのように思える内容。
  • 通常の因果の範疇では、正当かどうか判断できない内容。
  • 既知の因果とは異なる因果があることを強く要請する内容。
  • 問題設定が不十分で回答不能な(分野によって回答が異なりうるような)問題。

もちろんこれらの意味には互いに重なり合う部分も多いので、なおさら困りものだ。でも、どのタイプのパラドックスであれ、それぞれの面白味というものがある。

タイムパラドックスというものがある。個人的に、多くのタイムパラドックスの面白みというのは、ほかのパラドックスとは少し異なるのだと思っている。すなわち、タイムパラドックスに至っては、たいていの場合、上記5タイプのどれに当てはまるのかがまずわからないということ、そこが面白いのだ。
例をあげよう。例えば、「未来に起こったことが原因になって過去である結果を生む」という逆転因果はタイムパラドックスの一つだと言える。だが、このタイムパラドックスが具体的にどうパラドックスなのかはかなり説明しづらい。「ありえないはずなのに否定できないから面白い」のか「ありえるはずなのに直感に反するから面白い」のか、そのどちらであるのかがまずわからないのだ。なぜなら、「原因が結果に先行するという関係」と「時間的な前後関係」との2つの関係の間にどのような関係があるのか、私たちはまだよく知らないのだから。
なかなか倒錯的な遊びではないだろうか。


時間モデルと主観的時間感覚との交渉

さて、やっと本題だ。この覚書のなかで一番書きつけておきたかったのはここだ。
私は、時間ものであることが一番活かされる物語、時間ものらしさを堪能できる物語とは、主人公の持っている個人的信念が、時間モデルと対決したり啓示を受けたりする物語であると思う。
個人的信念が時間モデルと対決するとはどういうことか。それは例えば、分岐したり、もとから複線だったり、メタだったりループしていたりと、主人公を困惑させるような“時間の構造の真実”が、ある種の物語では開帳される。そこで主人公の周りの人物や、あるいは主人公自身は、人間の自由意思を否定するような時間の真実を前にして絶望したり挫折したりすることもある。しかし主人公はまた立ち上がる。それは、時間の構造がややこしいからといって、自分が信じているようなかたちの時間概念は侵襲されずに残り続けることを知るからだ。世界がどれほどややこしくても動揺する必要はない。主人公たちの胸の中に決して塗り替えられない原理が動いているのだから。だから、『仮面ライダージオウ Over Quartzer』(2019)で、時間を“対象”としてとらえて歴史改変を行おうとしたラスボスは、最後のところで、強烈な“主観的”時間の奔流のまえでなすすべなく敗れていった。正確に言うなら、個人的信念は、時間モデルと対決する必要すらなかったのだ。
個人的信念が時間モデルに啓示を受けるとはどういうことか。それは例えば、進歩主義に生きていた人間が、循環的な時間という今まで知らなかった時間モデルを知ることで、オルタナティブな生き方に気づくことで会ったり、またあるいは、快楽主義に生きていた人間が、直線的な時間という今まで知らなかった時間モデルを知ることで、オルタナティブな生き方に気づく、ということであろう。