Vtuberの命名儀式はいつ・どこで?

『白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか:Vtuberの存在論と意味論』の主に第3節において、LW氏はVtuberに対して直接指示の理論が有用であると主張している。具体的には『別世界に存在するであろうVtuberの固有名を用いた命題を解釈可能であることなどからすると、「われわれはVtuberの固有名とVtuberそのひととを結び付けて考えることができる」という状況に対してより適合するのは直接指示・因果説の考え方である』と主張している(私の理解があっているといいのだが)。この記事ではこの主張について検討する。

とくだんこれといった結論を出す記事ではないのでもし読む方がいたらそのつもりで読んでください。

 

 

1.直接指示・因果説のあらまし

前掲のLW氏の記事から私が解釈した限りで言えば、直接指示・因果説とは以下のような考え方である。

  • 前提……仮に、山田太郎という名の人がいたとして、われわれは『山田太郎』という固有名と山田太郎そのひととを疑いなく結びつけることができる
  • 直接指示……『山田太郎』という固有名は、(なんらかの性質などによって山田太郎を表現しているよりかは)それそのものとして山田太郎そのひとと結びつけられている
  • 因果説……われわれが固有名『山田太郎』とそれがあらわす山田太郎とを結びつけられるのは、誰かが最初に固有名を山田太郎そのひとに結びつけた(命名した)時点から、誰かがその結びつきを別の誰かに伝える(名前の受け渡し)という連鎖がわれわれまで途切れることなくつながってきたからである

大雑把に図示するなら以下のような形でよいだろう。

図1 AWの住人 - 通常の例

 

2.直接指示・因果説の成立根拠

それが友人の名前であれ、歴史上の偉人の名前であれ、われわれは現実世界に実在する人物について、その人物の固有名と人物そのものがこれといった取り違えなく結びついているということをさほど疑わずにいることができる。
しかし、直接指示・因果説が主張するような因果連鎖の全体像をわれわれが把握していることは少ない(言い換えると、われわれが山田太郎という人物の名前を知っているとして、われわれが「山田太郎の名付け親が誰で、誰と誰をどの順番で経由してわれわれまで伝言ゲームが続いてきたのか」を把握している可能性は限りなく少ない)。われわれが因果連鎖の全体像を把握していないにもかかわらず、固有名とひととの結びつきを疑わずに運用できるとするならば、われわれは、固有名を判断するうえではわれわれに直に手渡された結びつきのみを参照すればだいたい大丈夫だと信じているということになる*1
これは少し不思議にも思える事態だ。なぜわれわれに直に手渡された情報のみでわれわれは判断ができるのか。この疑問に対する回答として、この記事では3通りの仮説を用意した。

 

仮説1 言語が用いられる社会全般への信頼がある
これは、われわれが直に交流することができる相手だけでなく、見ず知らずの無数の人間に対しても「まあそんなに頻繁にウソはつかんやろ……」と一定の信頼を置いていることによって、因果連鎖における伝達の精度がある程度保証されているのではないかという考え方だ。

言語とは(私はこれについて細かい議論ができる自信がないがとりあえずのところ)制度であり、同じ言語をしゃべっている(ぽく見える)人間に対しては、われわれは「自分と同じ制度に従っているであろう」という一定の信頼を置くことができる。この信頼は、われわれと同じ言語を用いているひと全体に対して持つことができ、そこには見ず知らずの人も含まれるだろう。
仮に、山田太郎の名付け親からわれわれまでの間に(n-1)人のひとが伝言ゲームを行った結果、われわれがある人間のことを『山田太郎』という固有名で認識しているとしよう。もし、ひとりのひとが『山田太郎』という固有名とその結びつきを正確に次のひとに伝える確率がp(もちろん0≦p≦1)だったとすると、名付け親からわれわれまで『山田太郎』という固有名とその結びつきが正確に伝えられる確率はp^nになる*2*3。もしもp≒1だったとすれば当然p^n≒1であって、われわれまで至る伝達はわりと正確で信用がおけるということになる。

さて、この仮説を採用したとき、われわれは「pが小さければ小さいほどp^nは小さくなる」という発見から「われわれが社会への全般的信頼が薄い人(社会に住む人々を無条件に信頼することができない性格の人)であるほど固有名の使用に問題をきたすかもしれない」といった推論を展開できるのだろうか? あるいは、「nが小さければ小さいほどp^nは大きくなる」という発見から「名付け親からわれわれまでの距離が近しいほど固有名の結びつきは信用できる」といった推論を展開できるのだろうか?
否、少なくともこの議論の枠組みでは、そういった推論は展開できない。思い出していただきたい、この議論では、「われわれは固有名とひととを疑いなく結びつけることができる」ということを前提にしている。つまり、前提からしてp^nはそれなりに高い(p^n≒1)のだ。だから、われわれはひとまず仮説1のなかにp≒1であるという仮定を含まざるをえない。「pが小さかったり大きかったりするとp^nはどう変化しうるか」とか「nが小さかったり大きかったりするとp^nはどう変化しうるか」といった興味深い問いは、この記事とは別の枠組みの議論で行わなければならない。

 

仮説2 因果連鎖において実は伝達の正確さは必須ではない
仮説1が、信頼とかいういわば人間の人間性に基盤を置いた考え方だとするならば、仮説2は人間の機械性を仮定してこれを基盤とした考え方だ。
われわれは、過去の伝言ゲームが正確なものであったか否かにはさほど関係なく、ほかならぬ自分に直に与えられた情報をもとに生きるしかないし、実際そのように生きている、とこの仮説では考える。

これはものの例えだが、仮に、次のような全10行のプログラムがあるとしよう。まず、1行目には「var a = 1」と書いてある。次に、2行目から10行目までのすべて行には「var a = a + 1」と書いてある。さて、10行目を処理する瞬間、コンピューターは1行目ではじめてaが定義されてからの9行のすべての歴史をたどって「ははーん、aは最初は1だったけどかくかくしかじかでいまのところ9になってるから、この行ではa = 9 + 1でaに10を代入すればいいんだな」と判断するだろうか? おそらくしないだろう。コンピューターは、それが何度再定義された変数であろうと関係なく、そのときそのときで、直前までの情報のみに従って「いまのところa = 9」と判断して計算を進めるだろう。
私が仮説2として考えたいのも、このコンピューターのような人間の姿だ。ひとりひとりのひとは、ここではプログラムの各行に対応する。
コンピューターがそのときそのときで直前までの情報のみに従うように、人間もそのひとそのひとが前の人の情報に従うしかない。前の人がもたらした情報は、名付け親が意図した情報(1行目で定義された情報)と一致しているかもしれないし違うかもしれないが、一致していようがいまいが、われわれが固有名を使ってしまえるということには本質的な関係はないのだ。

 

仮説3 複数のソースからの情報が一致したとき伝達の正確さを信頼している
この仮説で言わんとしていることは、われわれは固有名とその結びつきについて複数の人物から一致する情報を得たとき、その情報が(何らかの意味で)“正しい”ものだと信用しているのではないかということだ。
この考え方は、おそらく仮説1や仮説2と併用することもできるだろう。

もし、われわれがあるひとりの人物からある固有名とその結びつきについて伝え聞いたとしても、名付け親からその人物に至るまでに何らかの伝達ミスが起こっている可能性、またはその人物が端的に信用のおけない人物である可能性を考慮すると、その固有名と結びつきを信用することはしづらいだろう。しかし、何人かの人物から、ある固有名と結びつきに関しておおむね一致する内容を伝え聞いたとき、そのような懸念は無視できるようになる。複数のルートで全く同様の伝達ミスが起こる可能性は低いし、複数の噓つきが示しあわせ抜きに全く同様の噓をつく可能性は低いからだ。

図2 AWの住人 - 仮説3

われわれがなにか固有名を認識するとき、完全に単一の情報源からその認識を得る、ということは少ないといってもいいかもしれない。誰かの名前をひとから聞いて覚えるときは、特定の誰かから聞いて覚えるというよりもたくさんのひとが使っているのをみて覚えるというようなフシがある気もするし、人物からでなく書籍などから何かの名前を聞いて覚えるときは、書籍そのものは単一であっても、書籍化されたものが多くの人の校正の手を通っているとすればそこでは間接的に複数の人間が情報の正確性を保証していると強弁できなくもないかもしれない。ならば、われわれが普段用いる固有名のほとんどを疑問を抱かず使用できている理由というのは、われわれが普段用いる概念の多くが、複数の人からある程度同時に得られる情報として触れるものであるからなのかもしれない。

 

3.直接指示・因果説によるVtuberの固有名因果連鎖のいくつかの解釈

直接指示・因果説にのっとってVtuberを解釈するとき、誰がどこで命名を行い、どこからわれわれまで因果連鎖が続いていると想定するのかにはいくつかのパターンがあるだろう。いくつかのパターンがあるのは、Vtuberという虚構的存在と実在するわれわれとの間に因果連鎖を認められるのか・どのような因果連鎖なら認められるのか・虚構的存在はそもそも“存在する”のか、などについての解釈が複数あり、またどれも自明でないからだ*4

この記事では、「白上フブキが自枠の初配信で自分が白上フブキだとリスナーに対して名乗った」という状況を仮定し、この状況をどう解釈するかについて3つの想定を挙げて検討していく*5*6

 

想定1

  • ①白上フブキが住まう世界SWに、ふつうわれわれは知ることのない、「語られざるキャラクター」として白上フブキの名付け親が存在し、まず名付け親が銀髪の美少女に『白上フブキ』と命名
  • ②名付け親から白上フブキまでSW内で連鎖的に名前が受け渡される。
  • ③白上フブキの配信を通して、SWに住まう白上フブキがAWに住まうわれわれに対して名前を受け渡す。

図3 白上フブキ - 想定1

*7

 

想定2

  • ①初配信において、白上フブキ自身が白上フブキの実質的名付け親となる。
  • ②名付け親であり、SWに住まう白上フブキが、AWに住まうわれわれに対して名前を受け渡す。

図4 白上フブキ - 想定2

*8

 

想定3

  • ①初配信以前、AWに住まうホロライブの企画者がSW中に銀髪の美少女を創造して『白上フブキ』と名付ける。
  • ②AWに住まうホロライブの企画者がAWに住まう演者に名前を受け渡す(企画者と演者が同一の場合この段階は省略可)。
  • ③演者が「SWからAWに住まうひとびとへと名前を受け渡そうとする美少女」として銀髪の美少女ならびにSW全体を調整する。
  • ④(少なくともわれわれから見る限り)SWの方向からわれわれに対して名前が受け渡される。

図5 白上フブキ - 想定3

 

4.各想定の妥当性について

次にわれわれは、先に挙げた想定1~3のそれぞれが、われわれが持ちうる問題意識に対して妥当な推論たりうるか、仮説1~3に沿ってその妥当性を評価していこう。

 

4.1.想定1

想定1について。想定1が妥当な推論たりうるかどうかに大きくかかわるのは、想定1においてVtuberという作品の中で登場しない・言及もされない「語られざるキャラクター」の存在が要請されるという点であろう。あるフィクション作品を分析するにあたって、その作品中で語られないことをあれこれ勝手に妄想して事実扱いするというのは大雑把に言ってあまり褒められたことではないのだが、はたしてわれわれが動画に登場しない名付け親や登場しないSWの住人が勝手にいることにして議論を進めることは許されるのだろうか。

 

まず、仮説1に従った場合。われわれは、動画中に登場しないSWの住人を、勝手にいることにすることが許されようが許されまいが、いることにするのが自然なのである。

ある名前をわれわれに対して直に手渡してくれるひとのことを、仮に「われわれの前任者」と呼ぶことにしよう。
われわれの前任者がAWの住人であるとき(われわれの日常はたいていの場合そうだ)について考えよう。前任者からわれわれがなんらかの固有名を受け渡されたとき、ふつう、われわれが存在すると確信できるのはわれわれの前任者までであって、前任者の前任者とか、前任者の前任者の前任者といった、われわれの前任者から名付け親まで連なる無数の人々が存在するかどうかは不確かだ(少なくとも、存在するということを直接には確認できない)。では、われわれはこれら不確かな人々の存在を認めず、確かに存在するわれわれの前任者こそが名付け親に違いないと考えるだろうか。いや、そんなことはない。(われわれの前任者がある固有名の名付け親であるような事態はどちらかといえばまれで)われわれはむしろ、なんらかの固有名を受け取ったとき直接は確認できない不確かな人々の存在をさしあたり信じるだろう。

図6 AWの住人 - われわれの前任者と不確かな人々

われわれの前任者がSWの住人であるとき、われわれの前任者がAWの住人であるときとまるで別のことが起きるというだけの積極的な理由はないだろう。われわれが、日常の言語使用において「われわれは同じ言語を用いるAWの住人全般に対して信頼をおいている」ことを前提にするのが仮説1ならば、仮説1にのっとる限り、われわれはVtuberを相手にした言語使用に関しても「われわれは同じ言語を用いるSWの住人全般に対して信頼をおいている」を前提にするのが自然だろう。つまり、SWの住人である前任者からわれわれがなんらかの固有名を受け取ったとき、われわれは(われわれの前任者が名付け親であるとはっきり宣言しているようなまれな例を除いて)われわれの前任者よりもまえに無数のSW住人がいることをさしあたり信じるだろう*9

図7 白上フブキ - 想定1 - われわれの前任者と不確かな人々

わかりにくいので、AW住人とSW住人の性質の共通点と相違点に注意しながらもう一度整理しよう。
われわれ自身が直接交流できないひとびとに関して、そのひとびとがAWの住人であろうとSWの住人であろうと、われわれはそのひとびとが存在するか否か、知ることはない。しかし、そのひとびとがAWの住人である場合、それらは存在するかしないかの二択であり、そのひとびとがSWの住人である場合、それらは存在するともしないとも言うことができない*10。これがわれわれから見たAWの住人とSWの住人の共通点と相違点だ。
直接交流できない・存在するか不確かなひとびとが仮にAWの住人である場合『不確かなひとびとが存在する』と(あるいは『存在しない』と)さしあたり信じることはナンセンスではない一方、存在するか不確かなひとびとが仮にSWの住人である場合『不確かなひとびとが存在する』と(あるいは『存在しない』と)主張することはナンセンスである、とわれわれは思い込んでしまうかもしれない。しかし、仮説1とは、われわれには命題の真偽がなぜ判定できる(かのように思われる)のかを説明するための仮説であって、仮説1にのっとって語るうえで『AWの住人の存在は(その真偽がわれわれに検証できようができまいが)真偽が定まる』を持ち出すのは若干論点先取的だ。論点先取を避け、仮説1にきちんとのっとるなら――客観的真偽を基準に考えるのでなく、社会的信頼どうこうを基準に考えるなら――存在するか否かが定まらない対象であろうが、直接交流できない相手であろうが、それらに対して社会的信頼を置いていることはありうる、もとい、現においているのだ*11

 

つぎに、仮説2に従った場合。われわれが問題にすべきは、われわれの前任者がまともなことを言っているか否か、それだけであって、白上フブキの前任者やそのまた前任者がいるか否かということはさほど問題にはならない。
仮説1に従った場合と同様に、SW住人との言語コミュニケーションが可能であると考える限り、仮説2に従ったとき想定1はそれなりに妥当な推論である。

 

つぎに、仮説3に従った場合。複数のソースから整合する情報が得られる限りにおいてわれわれが固有名と個物とのつながりを確信できるのだとすれば、SWにおける語られざるキャラクターがいるとみなすのといないとみなすのとでは、いるとみなすほうが比較的都合がよい。白上フブキが名付け親でありわれわれの前任者でもあると考えるよりも、白上フブキ以前に名付け親がおり白上フブキはわれわれの前任者たちのひとりであると考えた方が、同一の名付け親から複数のルートを通ってわれわれまで固有名が受け渡される蓋然性が高いからだ。

(これは設定解釈としてあまり正確ではないような気もするが)仮に、アキ・ローゼンタールと夏色まつりが白上フブキと同じくSWに住んでいるとしよう。もしもわれわれがひとりの銀髪の美少女のみから「私の名前は白上フブキであり、狐であり、美少女である」のような言明を聞いていたとしたなら、われわれは「自分のことを狐であり美少女であると思っているやばげなひとがいる」と思いつつこの言明に注意を払わなかったかもしれない*12。しかし実際には、われわれは銀髪の美少女のみからでなく、アキ・ローゼンタールや夏色まつりからも「狐であり美少女であるようなVtuberが存在して、彼女の名前は白上フブキという」という状況に整合する情報を得ている。このように複数のソースから整合的な情報を得られているためにわれわれは『白上フブキ』という固有名と銀髪の美少女とを結びつけられるのではないか。

図8 白上フブキ - 想定1 - 仮説3

しかし、もうお気づきの方もいるだろうが、仮説3に特有の弱点もここではあらわになっている。特有の弱点とは、「現実に、ほぼ単一のルートでSWからAWへとわれわれに固有名を手渡すようなVtuberもおり、そういったVtuberの固有名をわれわれが違和感なく解釈できることの説明がつかない」というものだ。なぜなら、仮説3は名付け親からわれわれにいたる因果連鎖のルートが複数である限り、固有名と指示対象との結びつきを保証する考え方であり、仮説3が正しいとすると、ルートが複数でない例では固有名と指示対象との結びつきが多少なりと弱まっていなければならないはずであるからだ。
例えば、「真っ白い空間にいつもひとりぼっち」だった初期キズナアイには、白上フブキにとってのアキ・ローゼンタールや夏色まつりのような傍証担当がおらず、まさしくキズナアイ本人の言動によってのみ固有名『キズナアイ』とAI美少女とを結びつける必要があったし、実際に結びつけていた。初期キズナアイを引き合いに出さずとも、Vtuberでないフィクション作品(小説など)の多くのキャラクターはフィクション作品の本文という限られたソースのみで固有名とそのひととを結びつけられるものであって、こうしたキャラクターの一般的な在り方が仮説3によっては説明しづらいというのは弱点ではある*13

 

4.2.想定2

想定2について。想定2が妥当な推論であり、なおかつVtuberの独特さをよくとらえていると感じられるとするなら、それは想定2で描かれる因果連鎖のかたちがよくある因果連鎖のかたちと比べて三つの顕著な特徴を持っていることに因るだろう。まずはその三つの特徴を切り分けてみたい。
一つ目の特徴は、われわれの前任者が名付け親その人であるということだ。ここまでの議論では、どちらかといえば珍しい事態であるとして例外としてきたが、実際のところ、われわれが生きる日常のなかでも、珍しいには珍しいがさりとて起こらないわけでは全くない、ごく普通の事態だというべきではある*14

図9 AWの住人 - 一つ目の特徴

二つ目の特徴は、われわれの前任者が名付けられるところのひとそのひとであるということだ。わかりやすく言えば、山田太郎さんから「私の名前は山田太郎です」とじかに聞くような事態に代表される。こんな事態もまた、われわれの日常でしばしば起こるものであり、ごく普通の事態だ。

図10 AWの住人 - 二つ目の特徴

三つ目の特徴は、われわれの前任者はわれわれに対して固有名を受け渡すというはっきりした意図を持って受け渡しを行う(場合が多い)ということだ。逆に言えば、われわれが因果連鎖と聞いて通常考えるべき固有名の受け渡しとは、行為者・被行為者のはっきりした意図を伴った行動(行為)であることを必ずしも求められていない。考えてもみよう、われわれが名前を知っているひとのいったい何割が、われわれに向かってはっきりと自己紹介をしてくれたことがあっただろうか。いや、むしろわれわれの知る名前のほとんどは、気負わずにごく自然になされたまた聞きや盗み聞きの結果としてわれわれのところまで受け渡されたものではないだろうか*15。その点、想定2は際立っていて、Vtuberからリスナーへはじめて名前が受け渡されるとき(それはたいてい初配信内であろう)、Vtuberの受け渡し行為の意図ははっきりとリスナーに向いていることが非常に多いといえるだろう(ただし絶対そうというわけでは全くない)。

 

【再掲】図4 白上フブキ - 想定2

さて、仮説1に従った場合。われわれが交流しているところのものであるVtuberに対して一定の信頼を置くのであれば、Vtuberがたまたま名付け親その人であったり、たまたま名付けられる人そのひとであったり、たまたま意図的に名前を受け渡してくるひとであったりしたからといって、名前の受け渡しの効力が疑われることはないだろう。よって、仮定1に従った場合想定2は成り立つ。

ただ、思いつく限りでもこの想定の難点は二つ思いつく。一つは、「白上フブキというSW住人に信頼をおくなら、白上フブキ以外のSW住人(語られざるキャラクターたち)には信頼をおかないほどの特別な理由はないのではないか。想定2が想定1よりとりわけ妥当であるような根拠が存在するのか」という懸念(註11で触れた)。そしてもう一つは、「われわれは、複数であるところのAW住人たち全般や複数であるところのSW住人たち全般に信頼をおけるように、単体で定義されるようなSW住人にも信頼を置けるのか」という懸念だ。
二つ目の難点についてもう少し詳しく述べておこう。私はこの記事中で、われわれが社会全般に対して寄せている信頼、社会的信頼なるものの内実をまだはっきりとは述べていない。社会的信頼なるものがあるとして、それはわれわれが実際のところ誰に対して寄せているものなのだろうか。
社会的信頼とは――現段階では、論理の不徹底を承知で曖昧なことを私は語らざるを得ないと信じるのだが――同じ社会に生きるミクロな個人々々に対して寄せるものではなく、個人が相互作用をして形成しているマクロな社会全体に対して寄せるものなのではないだろうか? そのひとたった一人のみで構成されるような社会が仮にあったとして(正確にはこれは形容矛盾である)、そのような社会やそのような社会に属する個人に対しては、われわれは社会全体に対して寄せるようなタイプの信頼を寄せることができないのではないか? この世で一人によってのみ使われるように定義された言語が仮にあったとして*16、われわれはそれを言語とみなせるのだろうか? もし『白上フブキ』という固有名が、「白上フブキを含む複数人の社会」からもたらされたものでなく「白上フブキだけで構成される社会」からもたらされるものであるなら、われわれがこの固有名をシリアスに受け取らない理由になるかもしれない。そして、「われわれは『白上フブキ』を受け取らないはずだ」という結論を導くような想定は与件と整合しない。
ただ、前述しているように、「われわれはVtuberと言語を用いてコミュニケーションできるし、Vtuberに対して現に一定の信頼を置いている」というのは推論の結果でなく前提とすべきことでもある。だから当の懸念はいまのところ懸念どまりということで、想定2に対する決定的な反論ではないだろう*17
ここで、想定2が持っている三つの特徴を思い出そう。三つの特徴のうちの一つ目と二つ目は、場合によると「われわれが信頼を寄せるだけの“(複数人で構成される社会)社会”が存在しないかもしれない」といった疑念をわれわれのうちに呼び込みかねないため、仮説1とは少しだけ相性が悪かった。しかし、三つ目の特徴である「われわれの前任者はわれわれに受け渡そうというはっきりした意図を持って名前を受け渡している」は仮説1と相性がさほど悪くはないだろう。仮にわれわれの前任者がはっきりとわれわれを認識したうえでわれわれに名前を受け渡しているのだとするなら、固有名と指示対象との結びつきが命名儀式の時点と全く同じで誤りなく伝達されている可能性は高まりこそすれ、致命的に低くなることはないからだ。

 

つぎに、仮説2に従った場合。前述したように、仮説2において重要なのはわれわれの前任者がまともなことを言っているか否か、それだけであるのだから、想定1が仮説2に従って成り立つのと同じように、想定2も仮説2に従って成り立つだろう。
ただ、懸念というか、私の個人的な疑問がひとつだけある。それは、想定2の一つ目の特徴と二つ目の特徴の複合「われわれの前任者が名付け親でありなおかつ名付けられるところのものでもある」は可能なのか、という疑問だ*18
仮に、山田太郎さんが自分自身の名付け親になろうとするならば、彼が行うべきなのは「この人(ここで自分を指さす)は山田太郎です」と述べることであるわけだが、ここでいう『この人』には「ある日ある場所で「この人は山田太郎です」と述べたことがある」という事実も含まれていそうであり、ここには自己言及らしきものがある。名付けという行為は、自己言及を含んだかたちでも成り立つのだろうか?*19 さきほどのプログラムのアナロジーに従う限り、このような自己言及を含んだ構文が成り立つような気はしないのだが……*20

図11 AWの住人 - 自己言及らしきものを含んだ命名

 

つぎに、仮説3に従った場合。複数のソースから整合する情報が得られる限りにおいてわれわれが固有名と個物とのつながりを確信できるのだとすれば、われわれの前任者が名付け親その人である想定2は、固有名とひととの結びつきを保証してくれそうにないため、想定2はさほど妥当な推論と言えない。なぜなら、想定2におけるわれわれと名付け親との連鎖は短すぎるので、名付け親からわれわれのところまで辿り着くまでに情報が複数のルートをとる蓋然性が低いからだ*21
仮定3に従った場合の想定2の問題点を解決するには、ややこじつけではあるが、「Vtuberがひとつの完結作品でなく未完の作品群である(場合が多い)」ということを利用してみるのがいいかもしれない。というのは、われわれは単一のソースからでなく複数のソースから整合する情報を得ないと固有名を受け取れないのだが、Vtuberの固有名において、「複数のソース」とは「複数の動画」であり、われわれは単一の動画でなく複数の動画からVtuberの固有名を知らされるためにVtuberの固有名を認識できるのだ、と考えてみるということだ。「複数のソース」とはいっても同一人物が複数回同じことを言ってるだけなので、言い訳としてはかなり苦しいが……*22

 

4.3.想定3

想定3について。この想定を採用することによる最大の強みとはおそらく、名付け親がAWの住人であることだろう。
想定1や想定2のように、名付け親がSWの住人であった場合、われわれがそのような名付け親がいることを素直に受け取れるかどうかには議論の余地があるだろう。SWの住人とかいう、虚構的にしか存在しない者が名付けを行うといった事態ははたしてありうるのか。虚構的にしか存在しないものが名付けたり名付けられたりを行うという事態は、直感的にはなかなか理解しづらい*23。しかし想定3ならば、名付け親はわれわれと同じ世界に存在する者である。SW住人とかいう存在するんだかしないんだかよくわからないものが名付け親であると主張するような想定と比べたとき、AW住人が名付け親であると主張するような想定は直感的にかなり理解しやすい*24

 

【再掲】図5 白上フブキ - 想定3

まず、仮説1に従った場合。われわれが社会全般に対する信頼に基づいて固有名と指示対象との結びつきを信じているとするならば、想定3が妥当な推論といえるかはかなり微妙なものになる。
というのも、想定3のなかでは、因果連鎖(とみなすべきもの)がひとつの社会のなかで行われているとは考えづらいからだ。想定3における因果連鎖は、何人かのAW住人とひとりのSW住人によって担われている。このとき「何人かのAW住人とひとりのSW住人が同じひとつの社会に属していて、そのひとつの社会全般に対してわれわれが信頼を寄せている」とみなすことは可能だろうか?
さらに問題をややこしくするのは、想定3における因果連鎖のなかでは、通常の因果連鎖では現れないはずのよくわからない鎖がまぎれこんでいるという点だ。
よくわからない鎖というのは、演者とVtuberとの間にある「演者がVtuberの言動を調整する」という段階のことだ。仮に白上フブキの演者をMさんとすると、想定3に従う限り因果連鎖のどこかで「Mさんから白上フブキへと固有名“白上フブキ”を受け渡す」という段階が必要になるわけだが、この段階がどうみても他の段階とは性質を異にしている。少なくとも、言語コミュニケーションだとは思われない(Mさんと白上フブキが対話するなかで固有名“白上フブキ”が伝えられているというようには考えられない)。このよくわからない鎖をふくんだ因果連鎖ははたして因果連鎖とみなしうるのか……? できればまぎれこんでいてほしくない鎖ではあるが、しかしながら、AW住人からSW住人へとひとつの因果連鎖で結ぶためには、どこかで必要になる鎖ではある。「名付け親がAW住人である」という“強み”の副作用がさっそく牙をむいている*25*26

 

つぎに、仮説2に従った場合。前述したように、仮説2において重要なのはわれわれの前任者がまともなことを言っているか否か、それだけであるのだから、想定1や想定2が仮説2に従って成り立つのと同じように、想定3も仮説2に従って成り立つだろう。

 

つぎに、仮説3に従った場合。複数のソースから整合する情報が得られる限りにおいてわれわれが固有名と個物とのつながりを確信できるのだとすれば、想定3はさほど妥当な推論とはいえないだろう。基本的に、想定3ではわれわれの前任者であるところのVtuberは一人であると考えられるからだ。
ただし、想定2と比較したとき、想定3のほうが仮説3に従って成立する可能性は高いだろう。というのも、われわれの前任者が単一ではなく複数であると考えるために、われわれへの固有名の受け渡しは単一の動画でなく複数の動画で行われるのだと考えた場合、想定2においては命名儀式が複数回行われるかのようなイメージが浮かんで議論が破綻してしまうが、想定3においては命名儀式が単一であるかのようなイメージがまだ可能である(ような気が比較的する)からだ。

 

4.4.まとめ

ここまで、想定1~3を仮説1~3のそれぞれに沿ってその妥当性を評価してきた。表にまとめると以下のようになる。

表1 各想定の評価まとめ

この結果から私個人としては、現状では、Vtuber存在論を語るうえで「Vtuberの実態に整合的」かつ「Vtuberの特徴を洗い出すことに資する」であろう考え方は想定1であろうと考えている。

 

ただ、想定1にも、問題点というか、理論として疑わしい部分はまだ数多く残っているだろう。
一つは、SW住人からAW住人への固有名の受け渡しといったことは本当に成立するのか、という問題。註25でも述べた通り、われわれは可能世界論の語彙を用いる上ではSWとAWをまたいだ因果関係を仮定することはあまり得策ではない。そのため、SW住人からAW住人への固有名の受け渡しなるものを論じるには「可能世界論の語彙を用いない」「この受け渡しは因果関係にはあたらない」「Vtuber存在論を論じる上ではある種の因果関係は世界間で成り立つものとする」のいずれかの道を選んで舗装する必要があるだろう。
またべつの一つは、想定1によってVtuberの存在をほかの存在者の存在と際立って異なるものとして描き出せるのか、という問題。仮に、ある議論が「白上フブキは坂本龍馬存在論的になんら変わりない位置を占めている」という結論や「白上フブキは惑星ヴァルカンと存在論的になんら変わりない位置を占めている」という結論を導くとするならば、その議論が正しかったとしても、あえて議論する意味はそんなにない*27。はたして、想定1は、白上フブキを坂本龍馬同然とか惑星ヴァルカン同然とみなしてしまうようなタイプの議論なのではないか、という懸念はいまのところ拭えていない。

 

いま抱いている曖昧な予感としては、SW住人とAW住人とのやり取りがどのような時間関係のなかで行われているかについて探ることが、これら問題点を解決する足がかりになっていくのではないかという感覚があるが、その議論は今後の課題である。

*1:もちろん、ある固有名の“現在の用法”が原義にのっとった用法なのかどうかを確かめるため、われわれが固有名の因果連鎖を命名時点まで遡って調べていく、ということをする場合(流行りの言葉で言うなら、一種のファクトチェック)はまれにはある。だが、この記事では「因果連鎖が誤りなく行われたか調べなおす」といった事態は例外として捨象することにした。

*2:なお、「名付け親でも名前の伝達間違いを起こしうる」という仮定で本文を書いているが、この仮定には反論があるかもしれない。

*3:なお、伝言ゲームの参加者のなかに「前の人からは間違った情報を教えられたが、勘違いから偶然にも正確な情報を次の人に伝えた」のようなひとがいる可能性は無視できるほど小さいということにした。

*4:もちろん、「虚構的存在は実在しないのだから、虚構的存在を含めたような因果連鎖は無効である」とあっさり切って捨てる立場もある。三浦俊彦は『虚構世界の存在論』p248で物理主義者ドネランの見解を紹介している。『一方、ラッセルの論理的固有名が指示に失敗することがありえないのに対して、指示の因果説においては、指示的用法の指示句は、命名現場へでなくドネランが閉塞blockと呼ぶ状況へと歴史的に遡る場合、指示に失敗することとなる。閉塞は、(1)実在物への命名なしに名前が捏造されたような場合(虚構創造)、(2)思い違いや幻覚による場合、(3)歴史的な伝承が混乱して複数の対象が混合され一つの名で呼ばれるようになった場合(よく「ホメロス」という名がこの場合の被疑者として挙げられる)、のようなときに生じている。指示句が閉塞に至ると、それを主語とする文は、性質を帰属させる文ならばドネランによると全く命題を実現せず(Donnellan, 1974; 20-21)、存在文ならば、否定文のとき真なる命題を表わし、肯定文のとき偽なる命題を表わすのである。』本記事ではこれ以上検討しないが、簡明な立場だといえよう。

*5:なお、記事中ではっきりと述べると混乱を招きそうなのでやめておいたが、この記事の議論ではさしあたり「白上フブキがかつて自分で自分に『白上フブキ』と名付けたという可能性」や「白上フブキは存在し始めたときから自動的に『白上フブキ』であり名付けの瞬間は存在しないという可能性」などは考慮せずに進めた。これはこれらの可能性に検討の価値がないということではなく、単に今回の記事の論旨を整理するために議論の範囲から除外したのみである。

*6:なお、Vtuberのなかには「自分で自分の名前をつけたという設定」や「AWの人物に配信用の芸名をつけてもらったという設定」のキャラクターもあり、状況は多様であるから、この記事での例(白上フブキを用いた例)に対する例外は多いようだ。この記事中で例外に触れることはかなわないが許してほしい。

*7:この図は「SWがAWに内在している」かのような印象を与える描き方になっているが、この描き方については深い意図はない。私はSWがAWのなかに存在する小宇宙であるのかそれともAWからは全く独立な宇宙であるのかについて現状でははっきりとした立場を持っていない。読者にあられては、SWがAWのなかにあるようなモデルを考えていただいても、AWがSWのなかにあるようなモデルを考えていただいても、SWとAWが対等に存在するモデルを考えていただいてもけっこうである。

*8:この想定は、LW氏が『フブかつ』において行っている想定に合わせたものであるつもりだ。そしてLW氏がVtuber命名儀式をこのように想定したのは、小説キャラクターの命名儀式を本文中に想定するという伝統的な想定からのストレートな敷衍によるものであると思われる……実際このような想定には先行例があるらしい。私はウンベルト・エーコ異世界の書――幻想領国地誌集成』p440に『アーサー・コナン・ドイルの小説を読むとき、読者は「ワトソン博士」という人名が出てくれば、それは『緋色の研究』でスタンフォードという人物に初めてその名で呼ばれる男性と同一人物であることに疑問を抱かない。ワトソンのことを考えるとき、ホームズと読者は同様にこの命名のエピソードを想起することになる』(三谷武司訳)との記述を発見した。
伝統的にもかかわらず、私にはこの想定に多少の違和感を感じずにはいられなかったのだが、その発端の違和感はあくまで感覚的なものであり、単に私の頭がおかしいのかもしれない。

*9:これは余談だが、「言語行為として白上フブキの名付けがいつ行われたのか」という疑問はいったん脇において、「白上フブキの作中設定としては白上フブキの名付けはいつ行われたのか」という疑問について考えたとき、白上フブキという特定のVtuberに関しては、白上フブキの初配信以前から白上フブキは白上フブキという名前を持っていたことははっきりしている。実は、白上フブキの初配信『【初放送】フブキCh。(^・ω・^§)ノ 白上フブキのみんなのお耳にちょコンっと放送!』において、白上フブキ自身が「幼少期は自分のことをフブキと呼んでいたが最近わたしと呼ぶように改めた」という趣旨のことを語っているのだ。

*10:ただしこの主張は、AWが完全でありSWが不完全であると仮定した場合に限る。本記事では深く立ち入らないが、「SWにおいては存在するともしないとも言えない」と述べる代わりに、「SWにおいては存在するともしないともいえないが、少なくとも存在するかしないかのどちらかである」とか「SWにおいては存在するともしないともいえないし存在するかしないかのどちらかですらない」とか「SWにおいては存在しない」とか述べる戦略が存在する(三浦俊彦『虚構世界の存在論』の第2章などを参考にした)。

*11:LW氏は、『フブかつ延長戦』において「Vtuberには言語が通じる(一定の社会的信頼をおける)という仮定を論点先取的に用いてVtuber存在論を論じようとした」のような趣旨のことをおっしゃっている。私としては、論点先取はまあべつに構わないと思うのだが、その論点先取が中途半端なのではないかと指摘したい。信頼を問題にするのであれば、白上フブキを信頼できるのならばわれわれがついぞ見たことのない語られざるSW住人を信頼できない特別な理由はなく(まあとくべつ高い信頼を寄せるだけの理由もないのだが)、因果連鎖にかかわる人物を白上フブキのみに限定した理由が見当たらないと、私には思われる。

*12:言うまでもないが、AWに住むわれわれにとって、美少女なるものは言葉をしゃべる狐と同じくらいファンタジックでレアな存在だ。

*13:こんな考え方もあるだろう……われわれは、固有名『キズナアイ』とAI美少女を結びつける情報を、キズナアイからのみ受け取っているのではなく、(おそらくはキズナアイの動画を観ている)ほかのリスナーたちからも『キズナアイ』と美少女とを結びつける情報を得ている。キズナアイだけが言っている妄言でなく、複数のリスナーたちに認められている情報だからこそ、われわれはこれを信用して固有名を正確に運用できるのだ、と。このタイプの主張――われわれの前任者はキズナアイだけでなく、キズナアイとリスナーである――は仮説3を擁護するうえではおそらく間違ってはいないが、想定1の妥当性を損ねてしまいかねない主張であるためあまり認めたくない。というのも、「われわれの前任者を複数人だとみなすために、ひとりのSW住人とたくさんのAW住人を用意する」という方策をとるぐらいだったら、「そもそもわれわれの前任者にSW住人なんてひとりもいなくても仮説3は成り立つのでは」という疑念が生まれてくるのだ。もし「SW住人であるキズナアイからわれわれへの名前の受け渡し」といった状況を想定せず、「AW住人たちのあいだで同じものを『キズナアイ』と呼ぶ取り決めが行われているだけ」と考えるとするならば(そしておそらくこの考えはある側面では完全に正しいのだが)、そのときキズナアイは惑星ヴァルカンなどといった理論的対象と別段変わらないふつうの存在者でしかなくなる。キズナアイと惑星ヴァルカンとの間に際立った違いを見出せないような議論であれば、たとえ正しい推論だったとしてもわざわざここで紙幅を割いて論じる必要はない。

*14:具体的には、われわれは理論書を読んでいるときに「われわれの前任者が名付け親その人である」状況に頻繫に遭遇するだろう。例えば、われわれが論文を読んで「観測データから、水星よりも太陽に近い惑星が存在すると考えられ、筆者はこの惑星をヴァルカンと名付ける」のような文章と遭遇し、なおかつ論文というものがわれわれと論文著者との間での言語コミュニケーションとみなしうるとするなら、“ヴァルカン”という固有名について、この論文の著者はわれわれの前任者でもあり名付け親その人でもある。

*15:とは書いてみたものの、直接指示・因果説の有力な提唱者が名前の受け渡しを本質的にいつもどこか意図的なものだとみなしていたか実際的にさほど意図的ではないものとみなしていたか、いずれであるのかは私はよく知らない。

*16:「実際問題としていま現在一人しか使っていない言語」ではなく「定義上この世で一人しか使うことができない言語」の意。そのような言語が単なる形容矛盾に過ぎないのかあるいは思考実験の対象になるようなものなのかについては、私はまだ細かく検討できていない。

*17:ところで、私の懸念に対する再反論として、われわれの前任者であるところの白上フブキを「単体で社会を構成している名付け親」でなく「われわれと同じようにAW社会に属している名付け親」として定義しなおそうとする戦略もありうるだろう。すなわち、白上フブキがわれわれに固有名『白上フブキ』を受け渡すとき、白上フブキのみで構成される社会での運用を前提にその固有名を手渡しているのではなく、むしろAW住人を含めた複数人で構成される社会での運用を前提に手渡しているのであって、こと固有名『白上フブキ』を手渡す限りにおいては白上フブキは「白上フブキのみで構成される社会」の一員などではないし、むしろわれわれとさして変わらないAW世界の一員である、ということだ。なるほど、ある固有名が複数人で構成される社会中で運用されることを前提にしているのであれば、われわれがたとえその固有名を名付け親から直接うけとったのだとしてもさしたる問題はないような気もする(というか、理論書などで研究者が独自の用語を定義するときなどはたいていこのようなかたちで行われている)。しかし、白上フブキを端的にわれわれと同じ社会の構成員としてしまうとそれはそれで困った事態も起こりかねない。特に困るのは、白上フブキをあくまでAWとは別のルールに従わせたいとき、例えば、「白上フブキと坂本龍馬は所属世界が違うので『白上フブキは狐である』は真だが『坂本龍馬は狐である』が偽であるような違いも生まれる」というロジックを組みたいようなときだ。まあ、議論の工夫次第ではあるが。

*18:ここで主語が「われわれの前任者」であることはさほど重要ではない。私の意図としては、「任意の者が名付け親でありなおかつ名付けられるところのものである」という表現で十分ではある。文章の流れ的に本文のような書き方になったが。

*19:『この人』の構成要素として「ある日ある場所で「この人は山田太郎です」と述べたことがある」が含まれている、という発想が記述説的であり、因果説が前提としないものであるため、ぜんぜん問題ないのかもしれない。

*20:しかし私にはプログラミングのことはちんぷんかんぷんなので成り立たないとか断言することはできない。そもそもアナロジーはアナロジーに過ぎないだろという問題もある。

*21:「白上フブキが名付け親であり、なおかつ白上フブキ以外にもわれわれの前任者がいる(アキ・ローゼンタールや夏色まつりなど)という状況は想定できるのではないか」という反論があるかもしれないが、おそらくその反論を述べるためには想定2のうまみをひとつ捨てなくてはならないだろう。そのうまみとは、「SWを配信中で実際に述べられたことのみに基づく不完全な世界として考える」見方と想定2がよく整合するといううまみだ。もし、アキ・ローゼンタールや夏色まつりもわれわれの前任者になりうるのだとすれば、ごく自然に考えられるのは「われわれの知らないところで白上フブキとアキ・ローゼンタールや夏色まつりが交流している」という可能性であり、その可能性を積極的に認めていくにはSWを「配信内で語られないことも起こっている世界として考える」ほうがしっくりくる。そう考えるなら想定1とたいして変わりがない。

*22:ただ、Vtuberというコンテンツの主部が単一の動画からでなく複数の動画から成り立っているという事実はもう一つべつの問題を呼び込みもする。それは、『Vtuberというコンテンツは複数の動画から成り立っており、また、その動画群は通常どの順番で観るべきなのかを指示する単線的なストーリーも無いように思われる。このとき、われわれは命名儀式が行われる動画として「初配信動画」のみを特権的な位置に置くことは妥当なのか』という問題だ。Vtuberは「どの動画から観てもいい」「1作目から順番に観なくてもいい」コンテンツとして受容されていることは、少なくとも感覚的には了解されるであろうが、このコンテンツ中で特定の1本の動画で行われたやり取りのみが命名儀式としての特権性を持つことはありうるのか? 発表された全ての動画における初名指しの瞬間すべてがそれぞれに命名儀式としての効力を持つのではないのか? ……「すべての動画で個別に命名儀式が行われている」というこのアイデアは、それはそれで魅力的ではあるが、結果的には因果説の妥当性を揺るがすであろう。というのも、複数の動画中で個別に命名儀式が行われると認めると、それぞれ別の命名儀式によって名付けられた固有名たちの間に同一性が(少なくとも自明には)認められないからだ(われわれは、第1回動画で名指されている“白上フブキ”と第2回動画で名指されている“白上フブキ”が同じ固有名ではないかもしれない・他人の空似にすぎないかもしれない、という可能性を認めなければならなくなる)。なお、この問題はVtuberだけにはとどまらず、「シャーロック・ホームズ」のようなシリーズ作品にも成り立ってしまうだろう。「『シャーロック・ホームズ』は『緋色の研究』から読まなければならない」というような受容を、少なくともわれわれの多くはしていないからだ。

*23:想定2は、「作品中で描写されないSW住人を想定する必要がない」という点で想定1より多少マシではあるが、それでも想定1と同じく「名付け親がSW住人である」という問題を共有している。

*24:直感的にどうこうを抜きにしても、名付け親や名付けられるものが虚構的存在者であるような想定には特有の問題がある。それは、複数の世界に同一のキャラクターが登場するというような状況を説明しづらいということだ。というのも、直接指示においては、あるキャラクターの固有名は、キャラクターの特徴に基づいてキャラクターと結びつくといったようなことが許されない。あくまでキャラクター自体の『そうそう、まさにこれ』というような“そのもの性”でのみ固有名はキャラクターと紐づくことができる。ならば、『フブキCh。』に登場する白上フブキと『ホロライブ・オルタナティブ』に登場する白上フブキが別々の世界で別々の命名儀式のなかで名付けられたとして、われわれが『白上フブキ』という名前から2つでない1つの“そのもの性”で1つのまとまった美少女概念を導き出せるのはどういうことなのか? 名付け親と名付けられるものの双方が虚構世界住人であるとき、この疑問の解決は非常に難しい。せめて名付け親だけでもAW住人であれば、解決できる可能性は高まってくる。例えば、名付け親であるひとりのAWの住人が、複数の世界にそれぞれ存在している美少女のなかになんらかの共通する“そのもの性”を感じて、それらにまとめて『白上フブキ』の名を与えた、というような命名儀式を想定するのだ。こうすれば、例えば惑星ヴァルカンが複数の異なる思考実験のなかに共通して登場できるように、白上フブキを複数の世界に登場させることもぎりぎり不可能ではないと思われる。

*25:「AW住人からSW住人へと固有名を受け渡す段階が必要になる」ということは、「AW住人からSW住人への因果関係(?)が存在することを認めなくてはならなくなる」という問題をも誘発する。そもそも、可能世界論には「異なる可能世界どうしでは因果関係(正確には、因果関係などの「外的関係を含んでいると思しき関係」)を取り結べない」という前提(可能世界の独立性)があるため、世界をまたいだ因果関係(?)を想定するような議論をすることには「可能世界論の語彙を用いることができなくなる」というリスクがある。だから、可能世界論の語彙を便利に利用したいわれわれとしては、異なる世界どうしの因果関係(らしきもの)についてはその存在を想定しない方向で議論をすすめたいわけなのだが、「演者がVtuberの言動を調整する」というのはまさしく演者からVtuberへの因果関係である可能性がある。

*26:演者とVtuberの関係という「AWからSWへの因果関係」に問題があるならば、Vtuberとわれわれの関係のような「SWからAWへの因果関係」にも問題があるのではないか、と考える人もいるかもしれない……たぶん、問題ないことはないだろう、と私も思っている。しかし、「SWからAWへの因果関係」は「AWからSWへの因果関係」よりいくぶんマシ(込み入った議論を弄すれば解決できる)かもしれないと思えるところも少しだけある。というのも、これも三浦俊彦『虚構世界の存在論』を参考にしたアイデアなのだが、パーソンズらの主張するマイノング主義の一派においては「存在物は非存在物と核関係を持つことはできないが、非存在物は存在物と核関係を持つことができるのだ。ニューヨークは火星人に破壊されるという核関係を持つことができない。(中略)一方、火星人はニューヨークに対して破壊するという核関係を持つことができる」(p172)このような、フィクションとリアルにおける非対称性をもしもVtuberにも応用することができたなら……? 「Vtuberが設定としてわれわれにしゃべりかけたという事実を持ちえたとしても、われわれがVtuberに話しかけてもらったという事実が完全に成立していたわけではない」のような屁理屈は可能であるかもしれない。

*27:それはそれとして、「Vtuberの固有名は他の例と比べてもとりわけ確実に結びつきが担保されている」という結論を導くような議論はあまり妥当ではないと私は考える。なぜなら、私個人の実感として、われわれはVtuberの固有名に対してとくべつ大きく確信を得ているような感覚はせず、せいぜい他の人間やキャラクターと同程度に実在感を感じているだけだと思われるからである。