私は当初、2つの目的において以下の文章を企画しました。
第一には、名短編へささやかなオマージュをささげるために。
第二には、フィクションキャラの実在をいかに定位すべきか悩む方のためのハンドブックとするために。
文章の概形を最初に思いついたときは、これはいいアイデアだと思ったのですが、いざ書いてみるとその内容は、心の哲学や科学論や文芸批評で聞き飽きたようなトピックを、基盤なしに無理に寄せ集めたようなものにしかならず、残念に思っているところです。
目的の不達成を嘆きながら、この文章をアップロードする理由はといえば、一度生まれたアイデアに対するせめてもの愛にほかなりません。
明日の自分もこの文章を愛していることを祈って……

――――――――――――――――

 

 

 

私はオタクになりたかった。遠く星のかなたに居るキャラクターを夢見る者、境界を閉じられた狭い世界のなかでひとり夢を見続ける者に、私はなりたかった。
しかし、成人し、卒業し、就職し……日々に量を増していく仕事・仕事・仕事のなかにあって、夢を見る時間は次第に失われていく。プリキュア仮面ライダーウルトラマンを血眼になってみることも、観終わった後にしばし目を閉じ、遠くに当然実在するキャラクターたちに思いをはせることも、年を追うごとに難しくなっていく。かつては「あまりにナイーブだ」ととりあわなかった『現実と虚構は相克する』というアイデアさえ、今では私の心を侵しつつある。

 

かのような日々のなか、LW氏のある発言が私の気にかかった。

「美少女キャラクターは商業的なプロダクトや単なるイラストというよりは、どこか別の世界に実際に存在していると考えた方が望ましい」っていう世界観、俺はオタクの大多数が自明に共有している前提だと勝手に思っていたが別にそういうわけでもないということがわかってきた

LW氏もLW氏で「大人になる」。最近とみに「いろいろなことが分かってきた」LW氏がまた一つ分かったこととして、「オタクならばキャラクターの実在を希求するとは限らない」ということがある、らしい。
本当にそうなのか?
いや、論理的に反駁する気はない。確かにオタクは実際のところ多様だろう。知識も、経験も、愛もコミュニティも技術も、どれもが単体で人をオタクにするものであり、実際に存在する複数のタイプのオタクに貴賤はない。
ただ、私は「オタクの大多数はキャラクターが実在すると思っているのだ」と主張するポジションをあえて取ろう。私が夢見る者でありたいと願うのならば、私が目指すべきものは「実態としてのオタク」ではなく「どこにもいない、幻影としてのオタク」だろう。私はかつてLW氏が思っていたような「キャラクターは実在すると思っている大多数のオタク」にならなければならない。私はまた、オタクの多様さを肌で知りながら、なおも強硬に「オタクの大多数は云々」と自説をぶたなければならない。
そこに学説セオリーはいらない。教条ドグマだけがあればいい。オタクとは狂信者ファンなのだから。

 

私は夢見たオタクになるために、キャラクターの実在を誠実に希求しよう。二次元とか、Virtualとか、その他あらゆる言葉で我々の世界から区別される彼ら / 彼女らに、我々の世界とは違った在り方のままで、確かな手触りを与えよう。触れえぬ彼ら/彼女らに、我々の触れうる隣人たちに対してするように、最大限の敬意を捧げよう。
その道がつらく険しいのは、あなた方も知っての通りだ。張僧繇は完璧に現実的な虚構の龍を創造したが、そのこの上なく現実的な虚構性のために、創造したばかりの龍を取り逃がさざるを得なかった。フレノフェールもまた、虚構の女をして完璧な現実性を手にさせたが、ほどなくして自身が現実(=虚構)を失わざるを得なかった――彼は客観的な眼を失ったのだ。手触りを持った虚構は、手触りを持たない現実は、いかにして生み出され得、維持され得るのか。我々の父親にはその秘儀を教えてきたコッペリウスも、我々自身には何も教えてはくれない。
だが、険しい道も、道なき道も、進んでしまえばこっちのものだ。時間の連続・空間の連続が途切れていても、困難を踏み越えて進んださきにキャラクターたちに出会えたならば、そこで彼ら / 彼女らの実在は保証される。道なき密林に点在する神殿を探し出し、それぞれの神殿で夢を見よう。我々は神殿に踏み入り、神殿のなかを見渡すごとに、神殿ひとつひとつが閉じた世界であることを知るだろう。すなわち、時空間の連続が保証されない可能世界の集合に存在するすべてのキャラクターが、ひとつの独立した世界なのである*1

 

神殿にたどり着いた私が、ひとりのキャラクターを完璧に夢見ることに成功したならば――私が、キャラクターの実在を確かなものにしたならば――私は彼ら / 彼女らの実在を肌身で知ると同時に、私は私がすでにオタクであったことを知るだろう。繰り返される営みのなかで、私がオタクでなかったことなど一度もなかったのだと気づくだろう……。

 

 

1. ふたつの誤解

『「白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか」延長戦』を読んだ方はある誤解をするのではないかと私は危惧している。その誤解というのは、『絶えず自壊する泥の反論集』の筆者は、フィクションキャラたちのことを、我々の手が(完全には)届かない場所で自律して存在している存在者でなく、我々AWの住人にとっての対象としてのみ成り立つのだ、と考えている」という読み方だ。これは全き誤解で、私は(LW氏と同じく、かどうかは知らないが)演繹的にでなく立場的必然性に拠って、フィクションキャラの実在と自律とを意固地になって主張する者である。

 

私に理解できる限りで言えば、LW氏の立場は、

  • 立場A1 オタクとは美少女キャラの実在に執着する者であり、
  • 立場B1 美少女キャラの実在は、美少女キャラが特定の連続した時空間を占める物理的存在者であることを要請し、
  • 立場C1 美少女キャラが物理的存在者であるためには、美少女キャラが占める時空間を内包するような所属先虚構世界が指定されることが望ましい、

というものである*2
また、LW氏のとった枠組みにおいて、
ある者が実在するならば、基本的に、物理的存在者か概念的存在者のいずれかである
ある者が実在し、かつ物理的存在者であるならば、虚構世界に所属する
ある者が実在し、かつ概念的存在者であるならば、現実世界に所属する
は正しい。
私は、『絶えず自壊する泥の反論集』において、「キャラクターが最低一つの虚構世界に所属する」というアイデアの必要性について疑問を呈した(指摘④:LW氏は、キャラクターが世界に所属するものという前提をとっているが、果たしてこの前提は我々にとって有益だろうか)。LW氏の枠組みに従うならば、立場C1をとらない私は、「キャラクターは実在する」という主張にコミットしていないか、「キャラクターは実在し、現実世界に所属する概念的存在者である」という立場をとっているかのいずれかになる。『~延長戦』の読者の多くは、そのいずれかとして私を理解しただろう。
しかしながら、私は、自身がキャラクターの実在に執着する者であり*3、またキャラクターが完璧に特定の虚構・現実世界に所属している必要はないと主張する。

 

LW氏はおそらく、「迫真性リアリティ」を自明としたうえで、「迫真性」の要件としての『完全性』を重視する度合いの彼我の違いから、私キーラを「キャラクターは実在する」という主張にコミットしていないか「キャラクターは実在し、現実世界に所属する概念的存在者である」という立場をとっているかのいずれかとして理解しただろう。だが、私からすれば、問題はむしろ、「迫真性」の要件に『完全性』が含まれるか否かというところにある。

 

2. 迫真性

私が無用の誤解を受けることを避けるためには……ついでに、LW氏との間に越えがたい断絶〈前提の違い〉をもうひとつ追加するためには……私はLW氏の立場をどう描写しどう対立していけばいいのか。
第一に私は、LW氏が、ある者が実在しているための要件の一つとしてきた『完全性』を、要件から取り外そう。この性質を取り外せば、「フィクションキャラが実在している」という性質のうちに『完全性』が必ずしも含まれるとは限らないということになる。私たちがフィクションキャラに求めてきた「ある者が実在している」というこの性質に、「迫真性」という名前を新たに与えよう*4
第二に私は、『絶えず自壊する泥の反論集』のなかでいくぶん粗雑に扱ってしまった概念「(論理的)完全性」について、この内実を精査しよう。精査するなかで複数の異なる概念に同じ『完全性』という名前が充てられていた場合には、わかりやすさのためそれらに区別可能な新たな名前を付けよう。

 

我々が、ある存在者に関して、それが実在すると(演繹によってか教条によってかを問わず)強く主張せねばならないとき、「ある存在者に迫真性がある」と述べることにしよう。
LW氏にとっては、迫真性とは、多くの部分『(それが属する世界の)完全性』に因るものであった。『完全性』とは、ここでは(まだ)、「物理的に定義しうるすべてのパラメータについて答えが定まる」くらいの意味だ(たぶん)。
例えば、「キズナアイには迫真性がある」とはLW氏の枠組みでは「キズナアイが属する世界には『完全性』がある」という言い方に(ほぼ)言い換えることができ、「キズナアイが属する世界には『完全性』がある」ということは例えば、キズナアイの髪の毛の本数とか、背中のほくろの有無とか、キズナアイが存在する宇宙全体でのある時点での原子の総数であるとかいった疑問全てについて(我々やキズナアイが答えを知れるかどうかは別として)答えが一意に定まるということだ*5*6
LW氏にとって「迫真性=『完全性』」であった背景には3段階の事情があると思われる。ひとつは、LW氏の議論がVtuberを主な対象としていたという事情。ひとつは、Vtuberの特徴として、とくにYouTuberの特徴から受け継いだものを重視していたという事情。ひとつは、YouTuberの特徴を、「自律性によって、画面の先の交渉不能な存在でありながら迫真性を担保する」という理屈でとらえようとしたという事情だ。
私は、Vtuberにさして興味がないので*7、この文章は私の愛さんとするフィクションキャラ全般を対象としてとる。よって、私には、LW氏の議論へ反論ができなくなる代わりに、LW氏とは違う事情に基づいて迫真性のありうる複数の定義を探るという道がある。

 

例えば、ツイッター上で某氏(直接の引用は避ける、気になるならば探してみるがよい)は、デカルト的な懐疑主義から発する独我論的なものの見方に基づいてVtuberの実在を定義づけようとした*8。「Vtuberが実在する」とは、とどのつまり、「いま・ここにいる“わたし”に、Vtuberが実在するらしく感じられる」というところに還元されるものである。ここで、迫真性とは実在感のことだといってよい。
繰り返しになるが、私を含むオタクがフィクションキャラに『完全性』を求めないとき、それはフィクションキャラに迫真性を求めていないということを必ずしも意味しない。迫真性の要件が人によって異なり、場合によってそこには『完全性』は含まれないというのが実際のところだ。
フィクションキャラにいかにして迫真性を求めるか……この問題を、「我々が暮らす現実世界でともに暮らす隣人たちには、迫真性がある」という前提を出発点にして語ることは簡明なやり方であろう*9。つまりここにおいて、(粗雑ではあるが)「フィクションキャラに迫真性を求める」は「フィクションキャラに現実世界の人物と同じような迫真性を求める」と言い換えることが可能になる。
はたして、ひとびとが我々の暮らす世界とその住人たちが持つ迫真性の内実は、迫真性を考えるひとにより様々である。それは哲学の歴史が証明するだろう。隣人たちの実在を、連続した時空間を占めているという状態として理解するひともいれば、すべては“わたし”の認識においてのみ保証されるという意味で確かに“わたし”は実在すると認識している状態だと理解する人もいる(例えば、物理主義を“了解”しているひとびとにとって、独我論を“理解”にとどまらず“了解”しているひとびとがいるということは想像しがたいであろうし、独我論を“了解”しているひとびとにとって、物理主義を“理解”にとどまらず“了解”しているひとびとがいるということは想像しがたいであろう……私はこの事実をこれまでの人生経験から事実だと信じているが、証明は困難だ)。もしあなたが迫真性のことを「物理的実在であることと自明に言い換え可能」だと考えているとするなら……それはいかにも理系的というか……(偏見に満ち満ちた発言!)。
これから私は、上で「迫真性=実在感」となるパターンを挙げたように、ひとにより様々になるであろう迫真性のパターンを3つだけ挙げてみよう。そのリストは網羅的にはならないだろうが、私の愛のためには役に立つ。

 

2.1. 迫真性=実在感

最初に私は、前節でふれた「迫真性=実在感」となるタイプの迫真性について、もう少しだけ考えておこう。
このタイプの迫真性では、“わたし”が実在していると感じるかどうかが迫真性の有無の決め手になる。白上フブキの実在や自分の母親の実在やブラジルの実在やあるいは自然演繹の正しささえ、“わたし”の感じ方のなかに畳み込まれる。この考え方のなかに自明な公理は少ない。「我思うゆえに我あり」が入るか入らないかくらいだろうか。「ある者に迫真性があるか否か」という問いをより基礎的な定理から導くのは難しく、どちらかと言えば「ある者に迫真性がある」ということがそのまま公理になってしまいそうだ。
よってこのタイプの迫真性を念頭にフィクションキャラの迫真性について考えるなら、あるフィクションキャラにの迫真性の有無は答えるべき問いであるよりもむしろ議論の出発点になるだろう。「まず、現に白上フブキは実在してるんだが、これってよく考えたら不思議だよね、どうやって実在してるんだろう?」*10
また、「迫真性=実在感」として位置づけてフィクションキャラの迫真性の有無について考えたとき、フィクションキャラが時空間的連続性を持っているかどうかは比較的問題になりにくいだろう。ある人が、私が直に見ていない間はこの世界から消滅しているか否かとか、私がどれだけ歩いても泳いでも到達できない土地に住んでいるか否かとかは、実在感には(少なくとも私が感じる実在感には)必ずしも関係ない*11。すなわち、このタイプの迫真性は『完全性』を要件としては含まない。

 

2.2. 迫真性=応答完備性

次のタイプにいこう。このタイプでは、迫真性のことを、“わたし”がする任意の入力に対して、“きちんとした”出力を返すという性質であると考える。当該性質のことを、ここからは簡便のために「応答完備性」とでも呼ぼう。
「迫真性=応答完備性」という考え方の例として、私たちの目の前に1脚の椅子がある、というような場合を考えよう。その椅子が実在する(迫真性を持つ)か、よく練られたVR技術か何かによって見せかけられた非実在の椅子である(迫真性を持たない)か、私たちにはわからないとする。さて、このときあなたはどうやってその迫真性を確かめるだろうか。
私なら――これはどうしても「私なら」という話にしかならないのだが――こうする。私は目の前の椅子を、触ったり殴ったりこすったり炙ったりなめたりして、思いつく限りすべての操作をその椅子に対して行う。もし、その椅子がよくできたVR技術によって見せかけられたものならば、VRシステムの開発者が予期しなかったような入力に対しては何らかのエラー――“きちんとしていない”出力――を返すだろう。だからなるべく常人の予想外を目指して行動する。セレクトでも連打すれば案外ボロが出るかもしれない。
つまり、私の言わんとする応答完備性とは、それに対して(それが関わる)どんな行動をとっても、整合性と一貫性を持った応答が返ってくるということだ。実在するものならば返すはずの応答を返してこないとか、実在するものにしては応答がワンパターンすぎるとかいった場合は、そういったものは迫真性を持っているとは認められない*12
思慮ぶかき読者にあられてはお気づきかと思うが、このタイプの迫真性では、「実在している」という性質の焦点を「少なくとも粗雑な作りごとフィクションではない」ということに絞っている。この段落の中において、「実在」に相対するものがあるとすれば、「作りごとフィクション」である。
ならば、アクターによって立案されるVtuberや漫画家によって描かれるマンガキャラやアニメ制作者によって動かされるアニメキャラは、即座に迫真性がないと言われてしまうのだろうか? ……そうならないように、定義を微調整しよう。応答完備性とは、“わたし”がする任意の入力に対して、“きちんとした”出力を返すという性質である――ただし、実際に“わたし”が任意の入力を行えるかどうかには関わらない。
我々は確かにマンガキャラやアニメキャラに話しかけたり握手を求めたり食事をおごったりすることはできない。しかし、その不可能性は、入力がもしできたら出力を必ず返すだろうという意味における応答完備性を損なうものではないのだ。もし可能ならば、彼ら / 彼女らは、我々が話しかけたとき、しゃべり返してくれるとか、意思を持って無視してくれるとか、我々の声が聞こえないのが自然な状況において我々の声が聞こえなかったとか、何らかの妥当な出力を返すのだ。予想外な入力だって、可能な入力であれば必ず返す。
Vtuberに対してだって、全ての入力が不可能なわけではない。Vtuberの特異性は、マンガキャラやアニメキャラよりは応答完備性が比較的傍証しやすいというところにあるのであって、実態としての応答完備性の多寡が本質的にマンガキャラやアニメキャラと異なるわけではない。

 

LW氏はVtuberの『完全性』を漸進的に傍証する手段として赤スパを考えたが*13、「=応答完備性」であるところの迫真性については、それを傍証する手段は赤スパでなくてもいい。むしろ、赤スパでないほうがいい。「作者」がいないことを証明するには、赤スパという予想可能な手段よりも未知の法外な手段のほうがいい。

 

「=応答完備性」としての迫真性が、「=『完全性』」としての迫真性とは異なるということを示すために、もう少し説明を加えておこう。
いくら予想外の入力予想外の入力といっても、“わたし”の想像力には限りがある。“わたし”が想定しうる全ての入力に対して、すでに“きちんとした”出力を用意して入力に備えているライブラリがあるとして、そういったライブラリによって応答完備性を実現するようなVtuberは実在するといえるか? 「迫真性=応答完備性」というこの見方においては、いえる(「迫真性=『完全性』」の場合、この問いには「いえない」と答える可能性が高いだろう。仮に、自身がケモ耳JKであることを主張しながら、その本性はライブラリであるようなVtuberを、「迫真性=『完全性』」の立場は噓つきとみなすのではないか)。また、“わたし”が斬新な出力を思いつくたびに、ボロが出ないような回答をその都度案出する優秀なAIがいたとして、そういったAIによって応答完備性を実現するようなVtuberは実在するといえるか? これまた、いえる(「迫真性=『完全性』」の場合、この問いには「いえない」と答える可能性が高いだろう。仮に、その応答の完璧さが都度案出されるものであると認めるのならば、自ずから完璧でなければならない「『完全性』を持ったVtuber」とは異なる)。
ある存在者を関数に例えるならば、「迫真性=応答完備性を持っているような存在者」とは、定義域に含まれるすべての入力に対してあらかじめ出力が決まっている必要はない。せいぜい、入力するひとを超える速度の演算能力でもって出力らしいものをこしらえればいい*14。ああ、私は存在者を関数で例えようとしたが、この試みは3行で破綻してしまった。
よりラディカルに言えば、もっと卑怯なVtuberにも、迫真性を認められる。例えば、全ての視聴者の背後に同意のもとエージェントを派遣し、配信を行うVtuber。このVtuberの演者は、視聴者が予想の範囲内の入力をしてきた場合には、きちんとVtuber自身の設定に基づいて応答を行い、もし視聴者が予想外の入力を行った場合には、直ちに全視聴者の背後のエージェントに連絡し、エージェントの熟達した技能によって視聴者の後頭部を殴る!……これによって全視聴者が前後5分間の記憶をなくすのだが、こういったVtuberにも、迫真性は認められるべきだろう。

 

このタイプの迫真性の奇妙な点は、実在と作りごとフィクションとを対置したうえで案出された概念であるにもかかわらず(いや、むしろ、そのように案出された概念だからこそ?)、巧妙な作りごとに対しては脆弱で、簡単にその実在を認めてしまう、という点だ。まあ、それは全く定義にのっとったことなので、騙されたには当たらないのだが*15

 

2.3. 迫真性=『完全性』

最後に、「迫真性=『完全性』」となるようなタイプの迫真性について考えよう。
私に理解できる限りで言えば、LW氏にとっての迫真性とはかなりの部分「(それが属する世界全体の)完全性」と一致する。ここで『完全性』とは、先ほど述べたように「物理的に定義しうるすべてのパラメータについて答えが定まる」という意味であろうと、私は解釈している。「あるVtuberに「(それが属する世界全体の)完全性」がある」という状況をわかりやすく言い換えるなら、「あるVtuberが属する世界について、完璧に客観的に表現できる、曖昧さを含まない任意の命題について、真偽が定まる」といったところだろう。
このように『完全性』を理解するうえで焦点となっているのは、「それぞれの命題が真なのか偽なのか」といったところではなく、また「ちゃんと真偽が定まる」というところでもなく、「「真偽が定まらない」という状態には陥らない」というところである。というのも、『キズナアイは論理的に完全』を読む限り、LW氏がVtuberをある程度独特なコンテンツとして定義づけようとするとき、もっとも基本的な態度とは「「真偽が定まらない」という状態を持っている通常のフィクション」との対照からスタートする態度だったからだ。極端な言い方をすれば、(世の中のたいていの新語がそうであるように)LW氏にとっての“Vtuber”は“通常のフィクション”の(部分的)否定語としてのみ機能する*16。「迫真性=『完全性』」と考えたとき、「実在」に相対するのは「不在(を含んだ存在)ヴェイカンシィ」なのである。

 

「=『完全性』」であるところの迫真性と「=応答完備性」であるところの迫真性は、雰囲気的にはよく似ている。私がいま行っている議論の都合・説教の都合としては、両者の間にもっと目立った違いを発見するか、作ってしまいたい。私は今回、(両者の細かい共通点と相違点をリストアップして迫真性の要件をより小さく基礎的なものへ分解していく代わりに)LW氏にとっての迫真性をベースにした(一応私はベースにしているつもりである)『完全性: type.lw』と私がたまたま念頭に置いている「応答完備性: type.keylla」との偶然的だが目立った違いを描写していくことで、問題の単純化を図ろうと思う。

 

LW氏は、「キズナアイは『(論理的に)完全』」と述べるとき、「キズナアイが完全性を持っているかどうかを検証する行為」を仮想し、「「キズナアイは『完全性』を持っている」は証明できる」ということばでもって「キズナアイは『(論理的に)完全』」ということばにかえようとする傾向が強い。このニュアンスを、『完全性: type.lw』の際立った特徴の一つとしてみなしたいと思う。
「え、「A性がある」と「A性が証明できる」が同値なのは自明じゃないの?」と即座に思った読者もいただろう。そう、「正しい」ということと「証明できる」ということはいくつかの場合において自明として構わないだろう。しかし――この節は自信をもって書けない、本当に――この文章は、「正しい」ということと「証明できる」という2つのことを区別して論じなければならない多くの例外の一つであり、LW氏がここにおいて「正しい」と「証明できる」とを接着していることはなんらかの立場だとみなすことができるような気がしている。
「それにおいて、証明できるということは、正しいということである」という性質には健全性サウンドネスという名前がすでにつけられているらしい。LW氏の議論は、LW氏が用いている何らかの公理系の健全性を前提として進行しているということだ。
私が何度か用いようとしてきた「応答完備性: type.keylla」という概念には、「Vtuberになにかしら予測困難なムーブをしかける」という仕方で応答完備性のあるなしを判断しようとしているニュアンスが読み取れる。「応答完備性: type.keylla」もまた、ある程度は健全性を前提としているわけだ。しかしながら、私の言いたかったニュアンスをもう少し掘り下げるなら、私の態度は「おそらく定義可能な仕方で既に存在する概念「迫真性」をなにか別の概念で説明・計測しようとする」よりかは「迫真性とでも言うべき概念が欲しいから別の概念と等式を結んで定義づけてしまおう」というものに近かった、ような気がする。いわば、私は「迫真性」という“有”を積極的に発見したかったわけではなく、“迫真性の有無”という区別をつけたかっただけなわけだ。だから、LW氏と比較したとき、私は「「迫真性が証明できるならば迫真性はある」は定理としてでなく定義として正しい」という逃げの一手がちょっと打ちやすい。「=応答完備性: type.keylla」では、健全性を自明とする必要性が若干薄い。
わりに健全性を自明としなければならない「迫真性=「完全性」」や、若干は健全性を自明としたい「迫真性=応答完備性」と比べて、「迫真性=実在感」では、健全性を自明とする必要性はほぼない*17。この説は、演繹によって接近するのが困難な代わりに、演繹それ自体の正当性を検証する難行から解放されている*18

 

また、『完全性: type.lw』では、それが特定の連続した時空間を占めているかどうかが比較的重要になる。「特定の連続した時空間を占めている」は「物理的存在である」ことの言い換えであるといってもおおむね問題ないだろう。
「ある者が『完全』であるためには、特定の連続した時空間を占めている必要がある」は結果として「ある者が特定の連続した時空間を占めるために、占める対象としての時空間として適切な連続体をあてがえなければならない」を導くだろう。よって、「迫真性=『完全性』」である場合、「『完全』である」ことは「特定の世界に所属する」を導く可能性が極めて高い*19
また、『完全性』を持って特定の連続した時空間を占めている存在者は、『完全性』を損なわないために、ある特定の瞬間の特定の地点に2重3重に存在することは(基本的に)あってはならないだろう*20。また、『完全性』を損なわないために、存在者がいる特定の瞬間の特定の地点に同時に他のナニカが存在してはならないだろう。よって、ある者が『完全』かどうかを確かめる作業は、ある者が占める時空間だけでなくある者が属する世界全体が『完全』かどうか確かめる作業を直ちに要請する可能性が極めて高い。

 

上記2つの事情によって、『完全性: type.lw』においては赤スパはかなり複雑で困難な機能を果たすことを期待される。
まず、赤スパが「証明作業」であるという事情によって、赤スパは、赤スパとそれに付随する手続きのなかからなんらかの客観的正しさをひきだせるという定理なり公理を、赤スパとそれに付随する手続きの内部か外部に設置しなければならない。私が以前「Vtuber自身による発言って正しさにつながるのか?」みたいな話を延々17,000字もしてしまったのも、理由の半分くらいはここにある。私はかつて「主観と客観のギャップに混乱の原因を見出し」たが、その気持ちは今も変わってはいない*21
次に、証明作業としての赤スパは、Vtuber自身の『完全性』にとどまらず、Vtuberが属する世界全体の『完全性』を証明しなければならないという事情によって、赤スパは、Vtuberに関連した内容だけでなくVtuberが属する世界の全ての事物について話題にできなければならない*22

 

2.4. 取り出された側面

ここまで我々は3タイプの迫真性について考えてきたが、以下では3種類の関係性について簡単に探っておこう。
フィクションキャラをして迫真性を手にさせたいと願うとき――そのやり方には、「迫真性を前提とする」「迫真性を自ずから有効な形で定義づける」「迫真性を証明する」さまざまなバリエーションがあるにしろ――どうしても我々の想像力は、現実世界に暮らす隣人たちを基準として迫真性を考えざるを得ない。我々が隣人たちに想定する迫真性がひとによって違うことは既に述べたとおりだが、それははたして、隣人たちがもっている性質のうちどの性質を我々が迫真性の本質とみなしたかがひとにより違うということでもある。
ここから、隣人たちがもっている性質や我々が暮らす現実世界からある側面を切り取ったものとして、3タイプの迫真性を捉えなおしていこう。

 

我々は、(「実在とは何か」という、気になって当然の疑問はここでは不問にして)我々が暮らす現実世界について考えてみよう。
まず、我々が暮らす現実世界の事物の多くに対して、我々(のうちの多くのひと)は実在感を感じられる。また、現実世界に属さないいくつかのものについて、我々は実在感を感じられない。つまり、経験則的に「実在感を持つならば現実(世界に属する事物)である」は言える(この命題は、それが純粋な論理でなく我々の感覚に基づく誤謬である可能性を示すためにあえて用語の定義を曖昧なままで記述する)*23*24。ここでもちろん、逆命題「現実だから実在感を持つ」は保証されない。ただ、逆もまた真であろうと考える誤謬を犯すことはかなり自然なことだ――もう少しはっきりと言うのならば、誰であれこの間違い(後件肯定)を犯すことはある*25。もし誤謬が犯されたなら、当の逆命題がたまたま真であったにせよ、不幸にして偽であったにせよ――実在感が“現実”というものの本質であったにせよ、“現実”の副産物に過ぎなかったにせよ――「現実の本質」についての必要十分条件が提示されることになる。すなわち、「現実である」⇔「実在感がある」。こうして、迫真性を実在感だとみなす見方が醸成される。

 

次に我々は、ほとんど全く逆の事態を考えてみてもいいだろう。
我々が現実世界で出会える事物のほとんどは、我々が過去どこか特定の場所にいたときから、一定の時間経過と一定の場所移動を経た結果として、その事物に出会うことになる。もう少しくだけた言い方をしよう。我々が何かに出会うときは、その瞬間まで人生を生き続けてきた結果として、またその場所まで歩いてきた結果として、それに出会っている。つまりは、もし過去にどこか“わたし”が確かにいた時間と場所(「現実」のポジションゼロ)があったなら、その“わたし”から連続した時間・空間のなかに、現実世界の多くの事物は属している。一方、現実世界にはないもののいくつかについて、私たちは“わたし”から連続した時空間のなかでそれらに出会ったことがないであろう。つまり、ここでもまた、現実に関する一つの経験則が導かれる。すなわち、「“わたし”から連続した時空間のなかに位置するならば現実である」ということだ*26。また、実在感の場合と同様の誤謬を犯すのならば、「現実であれば“わたし”から連続した時空間のなかに位置する」もまた真であると考えがちになる。
我々はついでにもうひとつだけ誤謬を犯してみてもいいだろう。条件を緩くするのだ。「現実であれば連続した時空間のなかに位置する」と。かくして、迫真性は時空間の連続性であるとみなす見方が醸成される。

 

一方、もしあなたが物理的な宇宙を支持するならば、迫真性を実在感だとみなす立場をこう非難してもいいだろう。「実在感なるものは、現実のせいぜい副産物にすぎない。なぜ実在感などを現実の本質であると誤解するのか。説明は物理的宇宙のみでじゅうぶんであるのに」
他方、もしあなたが独我論的な宇宙を支持するならば、迫真性を『完全性』だとみなす立場をこう非難してもいいだろう。「時空間の連続性なるものは現実のせいぜい副産物にすぎない。なぜ時空間の連続性などを現実の本質であると誤解するのか。説明は独我論でじゅうぶんであるのに」
かくして、独我論的な現実観と物理実在論的な現実観との対立をイデオロジカルな対立のなかに押し込んだところで*27、迫真性の理解のバリエーションについて語ることは締めにしよう。
今私が行っている、必然的な対立を無化しようとするしぐさは、哲学としては無粋で不法なものになるかもしれないが、この文章の目的にはかなっている。駒を先に進めよう。

 

3. 完全性

私はここで、多分に余談めいた話にはなるが、ここまでの議論(『絶えず自壊する泥の反論集』を含む)でいささか乱暴に使ってしまった感のある『完全性』という語の意味を再確認し、整理する*28

 

3.1. 構文論的完全性

一連の文脈に対して、『完全性』という単語を最初に持ち込んだのはLW氏である。LW氏が用いている『完全性』の意味を再確認しよう。LW氏がおそらくもっともはっきりと自身の用いる単語の意味を述べているのは以下の箇所だ。

一般に,虚構世界においては世界の完全性が保たれないことが知られている(以下,セクション 2 までの議論は [1] に準拠).世界の完全性とは,世界の中で任意の命題 p に対して p が真か偽のいずれかが定まることを示す.我々の世界は基本的には完全であるが(どのような命題を有効とみなすかや自然科学の未解決問題をどう扱うかは自明ではないが通常はそのように考えられている),テクストにおいては,明確に言及されている命題に関しては真偽が定まるが,そうでない命題に対してはその限りではない.
――『ユーザーの集合データを用いたテクスト論的に正統な虚構世界の体験システム』

「あるものの完全性とは,それの中で任意の命題 p に対して p が真か偽のいずれかが定まることである」
このような定義に当てはまる『完全性』とは、『完全性』と名の付く数ある概念のなかでも、数理論理学における構文論的完全性コンプリートネス(証明論的完全性)にあたる。
「あるものの構文論的完全性とは,それの中で任意の命題 p に対して p が真か偽のいずれか一方は証明できることである」*29
例えば、キズナアイの髪の毛の数がある瞬間に奇数でも偶数でもないとき、キズナアイが属する世界は構文論的に完全ではない*30
注意すべきは、少なくとも数理論理学において、無矛盾性コンシステンシィは構文論的完全性とは別の概念であるということだ。無矛盾性とは、あるものが矛盾を含まないことを言う*31
「あるものの無矛盾性とは,それの中で任意の命題 p に対して p が真だと証明できるとき、同時に偽だとは証明できないことである」
LW氏の言う『完全性』が確かに数理論理学における構文論的完全性と一致するとすれば、キズナアイの髪の毛の本数が偶数でもあり奇数でもある場合、なおもキズナアイが属する世界は『完全』である可能性はある。LW氏の言う『完全性』が数理論理学における一般的な定義とは違い、構文論的完全性と無矛盾性とを両方含むとすれば、キズナアイの髪の毛の本数が偶数でもあり奇数でもある場合、キズナアイが属する世界は『完全』ではない。
はたして、LW氏がどちらの意味で『完全性』を使っていたかだが……LW氏の書き方を見る限り、どちらにもとれるように私には思える。この懸案はいずれ払しょくすることとしよう(時期未定)。

 

3.2. 意味論的完全性

構文論的完全性について述べてしまったならば、これと混同されかねない概念である意味論的完全性コンプリートネス(モデル論的完全性)についても(当記事ではさほど重要でないながら)触れておかなければならないだろう。
意味論的完全性は、構文論的完全性と同じく数理論理学における概念だが、その意味するところはまあまあ違う。
意味論的完全性は弱い意味論的完全性と強い意味論的完全性に分けられる。弱い意味論的完全性とは、正しいことは証明できる(証明できないのならば正しくはない)ということを言う*32
「あるものの意味論的完全性とは,それの中で任意の命題 p が正しいとき、 p が真だとそれのなかで証明できることである」*33
ときに、弱い意味論的完全性は健全性サウンドネスとは異なる概念である。健全性とは、証明できることは正しい(正しくなければ証明できない)ということを言う。
「あるものの健全性とは,p が真だとそれのなかで証明できるとき、任意の命題 p が正しいということである」
あるものに弱い意味論的完全性がありなおかつ健全性があるとき、あるものにおいて「真だと証明できる」ということと「正しい」ということは初めて同値になる。弱い意味論的完全性がありなおかつ健全性があるということを、強い意味論的完全性コンプリートネスがあるという。

 

3.3. データ完全性

ところで、かつてLW氏の議論と接続したことがある議論として、こんな議論もあった。

not-miso-inside.netlify.app

この議論は、哲学的にでなくあくまでエンタメとしてVtuberをとらえた議論であるとみそ氏(慣例に従って『みそは入ってませんけど』の著者のことをこう呼ぶ*34)自身は語っている。しかしながら、この議論のなかには一箇所だけ『完全性』という言葉が登場した。LW氏はこうした哲学的な語彙の利用をみそ氏の否認の身振りとしてとらえ、同じく『完全性』という用語を用いているLW氏の議論との接点のひとつとした。みそ氏が『完全性』を用いたのは以下の箇所である。

これらの特徴が哲学的にどう、みたいなのはどうでもいい。重要なことは、この特徴は演者に綿密さを要求することだ。彼らはどうにかして整合的なキャラクターを演じなければならず、それはもしかしたら設定集の一行かもしれないし、自分が昔、口を滑らした一節かもしれないし(「あんこが好きなんですー」)、もしかしたらファンの間で勝手に醸成された設定かもしれない。それらを適切に守らなければ、キャラクターの完全性インテグリティが担保されない。

いささか一方的な気がしないでもないが、ここでいわれる『完全性』もまたLW氏の議論の一部として取り込まれているので、ここでの『完全性』の意味についても探っておいたほうが無難だろう。

 

みそ氏における『完全性』の意味として第一に疑わしいのは、データ完全性インテグリティである。データ完全性は実は哲学の用語でなく、情報処理分野で用いられる用語だが、電脳世界との相性が良かった頃のVtuberたちをVtuberのひな型としてみなしているかもしれないみそ氏の腹のうちを勘ぐるなら、彼が情報処理における『完全性』のことを指しているという可能性は低くない。
データ完全性とは何か。私は怠惰なのでWikipediaを使ってしまうが、以下のようなことである。
「データ完全性(データかんぜんせい、英: Data integrity)は、情報処理や電気通信の分野で使われる用語であり、データが全て揃っていて欠損や不整合がないことを保証することを意味する」
「データ完全性とは、データが一貫していて正しく、アクセス可能であることを保証するものである」

ja.wikipedia.org

これだけではデータ完全性の定義はしごく曖昧なので、他の分野における『完全性』と比較できるようにもう少し内容をつめていこう。
まず、データが全て揃っているということ。これは、こと世界の『完全性』に関して言うなら、弱い意味論的完全性に対応する概念ではないか。弱い意味論的完全性がない=正しい命題でも証明できない場合がある=ある世界に関する正しい命題であっても「○○は正しいか」という質問がVtuberに対して行えない場合、Vtuberが属する世界のデータはすべて揃えられない。
次に、データが一貫しているということ。これは、数理論理学における無矛盾性に近いものであろう。Wikipediaの件の記事では、データ完全性の要件のひとつとして参照整合性を挙げている。
次に、データが正しいということ。これは、数理論理学における無矛盾性と健全性をあわせたものに近いだろう。こと論理学に限らない文脈において、「正しい」ということばが出てきたとき、それは無矛盾性と健全性とを含む場合が多いと、少なくとも私には思える。
次に、データがアクセス可能であること。これは、Vtuberが属する世界の『完全性』について例えれば「Vtuberが属する世界における全ての定義可能なパラメータについて、質問すれば正確な回答が得られるという性質」といったところだろうか。アクセス可能性の有無、というのはLW氏の議論にはなかった要素であろう(LW氏は、SWを構成しなければならない全ての要素について、我々が言語を用いてそれについて質問できるのかといった議論をしていない。また、LW氏の枠組みでは、『完全性』は「質問できる」という可能性を前提にしてのみ現れ、質問できようができまいが世界自体が自律して有している性質としては『完全性』を定義していない)。
また、上に挙げなかったこととして、データが改ざんされていないということ。この性質も場合によりデータ完全性の定義のうちに含まれるようなのだが、これもまた、LW氏の議論にはなかった要素であろう。いや、むしろ、LW氏は慎重な前提づけによってデータ改ざんの可能性を消し去ろうとした。「Vtuberは信頼できない語り手ではないということにしよう」というのがその前提づけであり、この前提の妥当性の有無についてはすでに『絶えず自壊する泥の反論集』と『~延長戦』において格闘したとおりである*35

 

3.4. 誠実さ

みそ氏における『完全性』の定義として第二に疑わしいのは、倫理学における誠実さインテグリティだ。
またもWikipediaに頼ってしまうが、倫理学においては『正直さの実践と共に、高い道徳・倫理的な原則と価値観を持って一貫し、妥協なくそれらを遵守する振る舞い』がインテグリティとして価値づけられるのだという。

ja.wikipedia.org

要は、倫理的に優れた価値観をただ持っているだけでもダメで、また倫理的に妥当な行いを実行するだけでもダメで、内的な価値観と外的な実践が一致する限りにおいて誠実さインテグリティとでも言うべき価値が認められるのだということだ。
誠実さという意味での完全性を用いるとき、Vtuberに完全性を求めるならば、アクターの言動というものがどうしても話題に上ってくる(Vtuberの誠実さと言ったとき、外部から観測できるアバターの言動と内的なアバターの世界認識との間の一貫性のことを指してもいいのだが、むしろしっくりくるのは外部から観測できるアバターの言動とアクターの認識との間の一貫性を指している場合ではないだろうか)。アクターがもしも「アバターの設定が一貫している」とこころから信じ、一貫した設定どおりにアバターを演じたならば、Vtuberは比較的誠実であるといえる(倫理的に(?)賞賛すべき態度である)。アクターがもしも「アバターの設定が一貫するか否かなどはアクターである私の匙加減次第だし、アバターの設定など一貫していなくてもどうでもよい」と考えて、整合性を意識せずにアバターを演じたならば、Vtuberは比較的誠実ではない(倫理的(?)非難の対象になる)。アクターが「もしアクターである私がVtuberに誠実さをもたらしたいのならば、一貫した設定のもとにアバターを演じるべきであろう」という打算にもとづきVtuberを行ったなら、その誠実さの程度は中間的である。
LW氏の立場はここでも異なっている。LW氏は、Vtuberにおける言動と内心の不一致といった可能性を慎重に排除しており、結果としてアクターの存在は議論から綿密に消し去られている。あるいは逆で、アクターの存在が議論から綿密に消し去られているために、結果としてVtuberにおける言動と内心の不一致といった可能性は慎重に排除されている*36。LW氏の議論では誠実さの有無ははじめから問題にならない。言動と一致しない内心などどこにもありはしないのだ*37

 

ガイブンっぽい文章技巧(なんだそれは?)を巧みに操るみそ氏のことであるから、『完全性』にルビをふっている件の表現は、いくつかの意味の『完全性』のダブルミーニングを狙ったもの――例えば「データ完全性 & 誠実さ」とか――ではなかったかという気もする。だとすればそこには、データの正しさと一貫性がVtuberを取り巻く環境と時代のなかにあっては一種の徳目*38であるという信条の表明――あるいは皮肉――が含まれているのかもしれない*39

 

4.キャラクター、世界

最後の章である。ここまで、我々は迫真性についていくつかの異なる立場があることを知った。ここから、私はいくつかの異なる立場が、結局のところある一つの知見に収斂していくということを述べたいと思う。

 

4.1.世界

私は、我々の教条の核心セントラルドグマを開帳する前に、もうひとつだけタームの定義をはっきりさせておかなくてはならないだろう。「世界」という語の定義である。

 

LW氏は、「真なる命題の集合」として『世界』を定義した。我々の『世界』の定義もこれに従う。世界とは真なる命題の集合である*40*41
ここで、完全性のありうる複数の定義についてすでに整理した我々は、『世界』の定義についても以下二つの但し書きを加えなければならないだろう。
①「真なる命題の集合」として定義された世界は、強い意味論的完全性を自明に持つ可能性がある*42。しかしこのとき、世界が構文論的完全性を持つことは自明ではない*43
②「真なる命題の集合」として世界を定義しようと我々がもくろむとき、ここでいう「真なる」がいったい何を意味するのかはいまだ明確でない。「真であるが偽でもある」といった直観に反する状況を検討すべきか否かが自明でなく、また検討すべきか否かについて積極的に立場を確定しなければ議論ができない状況もおそらく(フィクションの存在論では)容易に出現するからだ。よって、「真なる」という形容の意味するところについては議論の大枠では確定させず、都度検討する(忘れている方もいるかもしれないが、私は、当記事を理論としてでなく教条として展開しようとしている)。

 

4.2.応答完備性を持つキャラクターについて

もし、我々が、我々の愛するところのキャラクターについて、その実在を誠実に希求するとするなら。我々が行うべきこととは何なのだろう。

 

応答完備性こそが迫真性の正体だとみなす人ならば、こう言うだろう。「我々は、キャラクターたちの応答完備性を奉ずるによってのみ、間違いなく実在するキャラクターたちに出会うであろう*44
我々が過たずにこの応答完備性を奉じんとするならば、注意せよ、我々が奉ずるのは、キャラクターたちが住まう世界やキャラクターたちが住まう世界の物理法則の応答完備性ではなく、キャラクター自身の応答完備性である。もしあなたが実在するキャラクターに出会おうとしてキャラクターが住む世界や従う物理法則に触れて手応えを確かめるという目標を掲げたならば、その目標は不要であるか過大である。応答完備性を重視するならば、結局のところ、注意すべき対象が「キャラクターがいる場所からつながっている時空間全体」から「応答にかかわる領域」にまで縮退する。
つまり、ある意味で、我々はキャラクターを(彼 / 彼女を内包するような)世界に住まわせる必要はない。

 

もしもキャラクターを世界に住まわせる必要がないならば――いちキャラクターが、キャラクターの外部に存在するルールに一方向的に順い続ける必要がないならば――キャラクターについてのある命題は、キャラクターの外部に存在するルールに従うか否かで真偽を判断することができるだろうか? キャラクターについてなにかを語らんとする命題は、ある世界のなかに位置づけられて――外的に――その真偽を決められるのだろうか? そうではない、と私は思いたい。
いま、我々は「真なる」という単語の意味の座を空けておいたことを思い出そう。この節では、「真なる」という形容に関して、「それは偽ではないということである」とか「公理から推論規則にのっとって到達すべきものである」とかいった思い込みを避け、ただ「真なる」という言葉の手触りのみに基づいて話を進めよう。
あるフィクション作品に明確に所属しているあるキャラクターがいるとき、そのキャラクターについての真なる命題は、フィクション作品が提示するひとまとまりの時間と空間には必ずしも含まれない。私はそう宣言する。このとき、「世界とは真なる命題である」という定義を固持するならば、キャラクターについて考えるべき真なる命題の集合とは、キャラクターについて考えるべき世界である。
つまり、ある意味で、キャラクターとは世界そのものである。

 

4.3.完全性を持つキャラクターについて

完全性こそが迫真性の正体だとみなす人ならば、こう言うだろう。「我々は、キャラクターたちの完全性を奉ずるによってのみ、間違いなく実在するキャラクターたちに出会うであろう」
はたして、完全性を奉ずるのは難行である。とくに、我々とキャラクターとの相互作用を基礎において完全性を定義づけようとした場合、多大な困難を伴う。
というのも、前述したように、我々がキャラクターの迫真性を得たいとき、キャラクター自身の完全性にとどまらずキャラクターを内包するひとまとまりの時空間全体の完全性までが要請されてしまう可能性が高いからだ。
ある意味で、我々はキャラクターを世界と整合的な形で解釈する必要がある。
「キャラクターとの対話」というごく小さな範囲の出来事から完全性を求めるとき(それがそもそも可能なのか否かを置いておくとしたなら)、より小さそうな完全性[キャラクターの完全性]を求めるよりもより大きそうな完全性[世界全体の完全性]を求めるほうがどうやら難しそうだ、という話には同意していただけるであろう。

 

キャラクターとの対話から世界全体の完全性を導くために、我々は「キャラクターの発言」から「世界全体のありよう」への全射を実現させるようななんらかの魔法を立案しなければならない。
こうした魔法の一端を担うべき手法の候補は少なくとも二つある。一つ目は、キャラクターの発言の信頼度と真理値とを無理やり一致させてしまうというものだ。これはつまり、ことキャラクターの発言について、信頼度の多寡を「=真理値」と定義づけてしまうということであり、キャラクターが噓をつく可能性の強引な剝ぎ取りであり、LW氏が譲歩付きで行ってきた「信頼できない語り手の排除」である。「信頼できない語り手の排除」(と「フィクションの完全性についてのε-δ論法*45)が成功裏に行われたとき、晴れて「Vtuberがそう言った=真である」が成立し、Vtuberの発言は世界をその内につかみ取ってしまう。
二つ目は、キャラクターの発言から全射させようとする範囲を限界まで縮退させてしまうというものだ。これはつまり、「時空間全体」でなく「少なくともVtuberにはそう見えている世界」を、「時空間全体」でなく「少なくともVtuberは抱いていた意図」を、「時空間全体」でなく「少なくともVtuberはそう述べた」を「世界全体のありよう」として措定しなおすということだ。これこそは、LW氏がヘドロな選択肢の第二として提出した「事実レベルの退却」である*46。「事実レベルの退却」(と「演者の排除」)が成功裏に行われたとき、晴れて「Vtuberがそう言った=真である」が成立し、世界はVtuberの発言のうちにまるめ込まれてしまう。
いずれの手法を用いるにせよ、我々が求めてきた「世界全体」は、キャラクターとの相互作用を必ず経由するがゆえにキャラクターの発言から全射される。「発言」という概念の意味をもう少し広くとるのならば、世界は、いつだってキャラクターのありようの中にある。
つまり、ある意味で、キャラクターとは世界そのものである。

*1:演説はさておき、私が「すべての独立したキャラクターがそれ自体一つの独立した世界である」という主張を展開しようとする背景には、「狂信者として」以外にもいくつかの動機が存在する。ここでは註というかたちではあるがそれらの動機にも少しだけ触れておく。

動機の一つはLW氏の『~延長戦』への再々反論……というかポジションの取り直しである。LW氏は『~延長戦』1-2において「自身の議論の混乱(?)の原因はキーラの言う『主観と客観のギャップ』ではなく『Vtuberに実在していてほしい気持ちの多寡』である」と述べた(正確にはそうは言っていないがそう解釈しても問題ないと私は思っている)。私はいまでも(そもそもLW氏の議論は本質的には混乱していないということは置いておいて)混乱の原因の一端は『主観と客観のギャップ』にあるという意見を変えていないし、また『主観と客観のギャップ』と『Vtuberに実在していてほしい気持ちの多寡』とは(かなり高い関連性を持つものの)同時に個別に存在する二つの問題であると考えている。だから私としては、『主観と客観のギャップ』の問題と『Vtuberに実在していてほしい気持ちの多寡』の問題とを丁寧に切り分けて、私キーラ自身が「キャラクターにめっちゃ実在していてほしい者である」というポジションを維持したまま『主観と客観のギャップ』問題を議論したいという思いがあった。そのため、この記事では当の切り分けとオタクアピールとに紙幅が割かれている。ただ、当記事の終盤において、LW氏言うところの「存在論的な感性のギャップ」は新しい解釈で議論の場に舞い戻ってくるようなきらいもあり、注意が必要だ。

動機のもう一つは、これはLW氏の議論への反論でもなんでもなく、私がかねてより案出しようと策をめぐらせていたある理論のパーツとして「キャラクターはそれ自体世界である」といういささか人を食った命題が必要だったからである。その理論というのは、主に平成仮面ライダーの解釈を目標としたものだ。平成仮面ライダーでは「このキャラクターはいるだけで世界を滅ぼします」とか「このキャラクターはいるだけで世界が消えずに維持されます」といった大言壮語がまかり通っている。そのため、私には、「世界全体が消える / 消えない」とかいったメタ的な現象にかかわるいくつものルールを、特定の範囲の時空間に対してでなく、特定のキャラクターに帰属させてこれを理解する方法を探している。この方法として私のなかでいまもっとも有力なのが「キャラクターに関する設定はある意味でなんらかの世界全体にかかわる設定である」と考える方法であり、「キャラクターはそれ自体世界である」という主張だったわけだ。

*2:LW氏は②のありうる選択肢として、いちおう

  • 立場B1∪B2 美少女キャラの実在は、(美少女キャラが特定の連続した時空間を占める物理的存在者であることか、あるいは)美少女キャラが特定の連続した時空間を占めない概念的存在者であることを要請し、

をも提示してはいる。ただ、LW氏は「B2よりもB1のほうが夢があるので」と述べて立場B1を取る。

*3:漢字の原義に従って言い換えるなら、「自身がキャラクターを愛する者であり」

*4:「ある者が実在している」という性質には、本当は「実在性」という名前を付けたかったのだが、「実在性」にはすでにいくつかの学問で特定の定義が与えられているので、これを避けることにした。

*5:正確には、相対論にのっとれば、宇宙全体の共時性は定義できない(だからAWでさえある時点での宇宙全体の原子の総数は定義できない)のかもしれない。困りますね。他にわかりやすい例思いついた人は教えてください。

*6:正確には、キズナアイが属する世界に原子が自明に存在するとは言い難い。電脳世界と言っているくらいだし、ひょっとするとキズナアイは「正の質量をもった物体は重力によって真空中を等速で落下していく」ような特殊な宇宙で生きているのかもしれない。困りますね。他にわかりやすい例思いついた人は教えてください。

*7:これは余談だが、私はVtuberという表記を用いるべきかVTuberという表記を用いるべきかずっと迷っている。現状、私のVtuberに対する認識の50%以上が『LWのサイゼリヤ』に拠っているという事情のために、「私の用いんとするVtuberという概念は、実態としてのそれであるよりもむしろ、特定の文研群で用いられているある程度操作的概念としてのそれであろう」という予測をこめてVtuberという表記を選択している。

*8:デカルトの思想自体は、デカルト的な懐疑主義から独我論ではなく観念論へと向かっている(らしい)ことには、倫理・哲学を学んでいる中高生は注意せよ。

*9:もちろんこの前提は自明ではない。今回この文章では扱わないが、この前提を取り外したうえでの議論も、時と場合によっては有益であろう。

*10:非常に雑なアナロジーだが、「迫真性はあるのか否か」に対して「まず、現に迫真性はあるんだが…」で切り返すこのやり方、ホッブズ問題にエスノメソドロジーの立場から無理やり回答させたらちょっと似てるかもしれない。似てないかな? ともかくもこのやり方、妙に人文的というか社会科学的というか……。

*11:これはつまり、現実世界に実在する隣人についても、目にしていない間消滅しようが到達不可能な土地に住んでいようが違和感を感じないということである。

*12:この文を「迫真性」の定義文として見た場合、論点先取になってしまう。この文は定義文でなく言い換えによる説明文として書いているつもりなので、注意されたし。

*13:LW氏は、漸進的にでなく完璧に『完全性』を証明する手段として赤スパを構想している気もするのだが、その理屈については私の理解は及んでいない。

*14:キズナアイがシンギュラリティを名乗ったのはいまさらながら示唆的である。いや、むしろ私は当たり前すぎることを再発見しているのか?

*15:余談だが、私は「中国語の部屋」に対してでも心の実在を認める立場である。

*16:私がLW氏の議論をよそのジャンルに応用しようとするたび、LW氏の前提を破棄せざるを得ないのも、当然の話である。

*17:……ないよね?

*18:……されてるよね?

*19:余談:逆も言えるかについては検討中である。

*20:ちなみに、一般的な(?)タイムトラベル――特定の瞬間の別の地点に同時に存在するとか――は、ただちには問題にならないように思われる。

*21:ちなみに理由のもう半分は、素朴に、現実の対人関係としてみても、本人による口頭での発言(特定のシーンに紐づけられる)よりも字に残る発言(特定のシーンに紐づけないで真偽を検討できる)のほうが信頼できると考えているからだ。私は現実の対人関係でも、自己紹介なんかよりも消せないボールペンで書いた履歴書のほうに信頼を置くし、履歴書なんかよりも前職上司の推薦状のほうを重要視するし、前職上司の推薦状よりも死神の目の取引によって見え得た名前を信じる(「死神の目の取引」が虚構だとすれば、「客観的な真実」なるものもまた虚構だ)。

まあ、「お前は新書の表紙ソデの著者紹介を信じるのか」と訊かれたら私の立場はかなり微妙だが……。

*22:私の「本人の口頭での発言よりも書面での発言のほうが信頼できる」という表明に対して、ありうる反論として「たとえ年齢や職歴やその他の性質について書面のほうが信頼がおけたとしても、名前についてだけは、本人から聞いたほうが信頼がおけるのではないか」が挙げられるだろう。(私個人は、日常感覚的にいってもこの反論にはあまりぴんとこないが)ところがこのタイプの反論は、こと『完全性: type.lw』に関しては使えなくなってしまう。このタイプの迫真性では、必然的に名前以外のあらゆる事物についてもVtuberの発言から正しさを引き出す必要性があるので。

*23:もちろん、これは経験則なので純粋な演繹ではありえず、せいぜいのところ帰納だ。

*24:我々のこうした経験則が裏切られる日常的な例は無数にあるだろう。例えば、一部の精神病では――それは存外に日常的なものだ――ひとは現実であるところのものに対して現実感を感じられなくなるのだと私は聞いている。

*25:もちろん、私のように注意力散漫な人間はなおのことそうだ。

*26:こうした経験則についてもやはり、我々の日常においてそれが裏切られる場面というものはある。例えば、主要なものは「眠り」と「飛行機」だ。「眠り(をはじめとした意識喪失)」によって人間の連続した時間意識は途切れる。また、「飛行機(をはじめとした、出発地と目的地との間の連続性が体感しにくい移動手段全般)」によって、人間の連続した空間意識は途切れる。

*27:残る立場「迫真性=応答完備性」という見方は、いまや「迫真性=実在感」と「迫真性=『完全性』」との間の可能な中間項のひとつとしてとらえられるのではないだろうか。

*28:私は大学で論理学を学ばなかったことを自身のコンプレックスとして感じていて、ゆえにこの章をこれから書くのは非常に気が重い。要は自信がないのだ、数理論理学の用語を、あろうことか人文っぽい領域で使おうとするための詳説を行うには。だが、この詳説は私の議論の展開に必要で、かつ私に理解可能なかたちでこれを整理してくれた記事はほかに見当たらないので、私はしょうがなくこれを自分で書くことにする。

私はいま『数学ガール:ゲーデルの不完全性定理』を死んだ目でめくりながらこの章を書いている。億劫だから愚痴の一つも吐いてしまうが、かといってそれによる免罪を願うところではない。情報の正しさのために、もし私の文章に間違いがあれば容赦なくこれを指摘してくれることを願う。

*29:正確には、数理論理学における構文論的完全性は、形式論理のみに当てはまる概念であって、形式論理以外の○○に対して軽々しく「○○の完全性」と述べてしまうのはあまりよくない(私の管見では数理論理学以外でLW氏の言うような『完全性』を用いている学問分野を発見できなかったが、どこかの分野にはもっと拡張された『完全性』概念があるのかもしれない)。数理論理学の用語としてみればこの用法は不当なわけだが、この記事ではなんらかの定義の拡張を経て別分野に応用している概念だという理解でこの先を読み進めてほしい。

○○に「世界」や「キャラクター」を当てはめるための「なんらかの定義の拡張」が実際のところどんな拡張でありうるのかについては、現時点での私に断言できる回答があるわけではないが、4章1節で再度検討する。

*30:数理論理学において、日本語で『完全性』という語に複数の意味が充てられていてややこしいために、構文論的完全性を『完全性』でなく『決定可能性』と訳そうという向きもあるらしい。ただ、困ったことに『決定可能性』という言葉にもすでに先約がいて、別の概念と位置がかぶってしまうのだそうだ。

*31:ちなみに、ゲーデルの第一不完全性定理は形式論理の構文論的完全性についての、ゲーデルの第二不完全性定理は無矛盾性についての議論である。

*32:ちなみに、ゲーデルの完全性定理は弱い意味論的完全性についての議論である。

*33:数理論理学における構文論的完全性が、ある形式論理のなかの「証明できる / 証明できない」に注目していたのに対し、意味論的完全性ではある形式論理のなかの「証明できる / 証明できない」が「正しい / 正しくない」とどのような関係を持つのかが注目されている。勘のいい方ならお分かりの通り、数理論理学において、「証明できる」ということと「正しい」ということは別の概念なのである。

余談だが、私は本当はこのデリケートな区別をも我々のフィクション理解のなかに取り込みたかった。しかし、その議論の繊細さによって、今回はこの区別の導入を見送ることにする。

*34:ほんとうは一階堂洋さんという名前がある、という説もあります。

*35:この節を書くうえでほぼ全面的に参考にしてしまったWikipedia『データ完全性』の記事だが、ひょっとすると、2種類の意味の『データ完全性』を区別して解説しているようなきらいもある。もしそうなら、私が今そうしているように2種類の『データ完全性』をごっちゃにして解説するのは不法なわけだが、実際2種が区別されているのか否か私には確信が持てないので識者による修正を待ちたい。

*36:そもそも、Vtuberに関する議論からアクターを排除することなどできるのか、という問題はあるだろうが、これについては「可能だ」と断言まではできないもののすでにいくつか手法は開発されている。「Vtuberが属しているなんらかの異世界は我々の世界とは因果関係を持たない」という文をVtuberが所属する異世界の定義に繰り込んでしまうか、あるいはこみいったメタ因果を措定してみるというのがいい。具体的には、アクターの言動とアバターの言動との部分的一致はこれを単なる偶然として冷たく切り捨てる、などの方法になる。LW氏いわく、『アクターに関しては僕なら「たまたま言動が似てる人がいるがそれは実は特に関係がない」説あたりを叩き台にして反論と再反論を積んでいきます』

*37:心の哲学における機能主義の立場をこれに比してもいいだろう。

*38:ここでは、「それができる状況でそれをやらなくても倫理的に非難されないが、それができる状況でそれをしたら倫理的に評価されるような事柄」くらいの意味。もっと詳細に議論を詰めるなら、ロスの倫理学あたりを参照するのがいいだろうか?

*39:みそ氏といえば、比較的新作に属するこんな記事もある。『狂うほどロリが好きな理由を教えてやる なぜセックスしないのかも なぜお前がこちら側に来うるかも』

この記事のなかでみそ氏は、ロリと非-ロリとの同伴関係によって実現する(実現しない)ある種の「完璧さ」について語っている。この「完璧さ」はつまり、少年期の理性には実現されると思っていた「完璧さ」であり、いかにもアンドロギュノス的な完全性パーフェクションそのものだ。いや、アリストファネスはすでにみそ氏によって死刑に処せられてしまったかもしれないが……。

私はここでみそ氏が言っているアンドロギュノス的完全性をも、『完全性』がとりうる定義の一候補としてこの章に並べようかと一時は思っていた。しかし、みそ氏のロリに関する議論はLW氏の議論に接続したことは(たぶん)ないので、自重して今回はやめておくことにした。はたしてこんな引用をしてみそ氏がどんな顔をするかもわからないし……。ちなみに私はそれを飲むと舌がかゆくなるので豆乳は飲みません。

*40:むろん、世界を真なる集合の命題として定義することは、(フレームのはっきりしていない当記事においては特に)疑問含みの前提ではある。私はこの定義に対して提起しうる疑問には3段階あると理解している。

第一には、世界を世界の集合として考えることは我々にとって妥当か、という疑問だ(虚構世界は世界の一種であるが、この「世界」がLW氏の議論のなかでは(最終的には)世界の集合として考えられているため、LW氏は世界の集合を世界だとみなしているといえる)。ただ、世界の集合をも世界として考えるという条件は、おそらくLW氏が『あるフィクションが提示する世界は読者の数だけ無数に存在し、天文学的に小さい確率でしか読者間で同じ世界を指示するという状況が起こらない』という状況を回避するためにのみ設置したオプションであり、当記事の議論ではさほど重要でないので、この考えの妥当性についての検討は今回は割愛する。

第二には、世界を命題の集合として考えることは我々にとって妥当か、という疑問だ。しかし、(その重要さにもかかわらず)この問題について私が現状答えられることは特にないので、次註としてその内容にふれるにとどめる。

第三には、世界を真なる命題の集合(真ではなく偽である命題や真ではなく偽でもない命題は含まない集合)として考えることは我々にとって妥当か、ということだ。というのは、実はここでもまた二つの選択肢があり、またどちらの選択肢を選んだとしてもそれなりに理解が難しい状況に直面することになるからだ。

選択肢は、世界の無矛盾性を自明な前提とできるかどうか(さきの『完全性』についての議論で言うなら「LW氏の言わんとする『完全性』は無矛盾性を含んでいるか否か」)だ。もし、我々が一方の選択肢[世界の無矛盾性を自明な前提とはしない]を選択するなら、我々の言わんとする「世界」は真であり偽でもある命題をそのうちに含みうることになる。そのとき我々には、真でもあり偽でもある命題を含んだ集合にも適用可能な理論を追求する必要が出てくるだろう。もし、我々が他方の選択肢[世界の無矛盾性を自明な前提とする]を選択するなら、我々の言わんとする「世界」は偽であるようないかなる命題をも含まないことになるだろう。そのとき我々は、真でもあり偽でもあるとしか読めない命題をすべて捨て去った小さな理論がいったいどこまで適用可能かを論じなければならないだろう。

はたして、この第三の問題も筆者の能力と当記事の射程を超えているので、今回はこの問題への立場をあいまいにしたまま議論を進めてしまう。

*41:数理論理学において「証明できる」ということと「正しい」ということとが区別される、という事態は、難しいながらもまだ理解しやすいうちだ(私にはこの理解はかつて難しかったし、他者への説明に至ってはいまでもできない)。もっと難しいのは、「真なる命題の集合としての世界」と「実存の集合という実存としての世界」との区別である。しかし、私は上で『完全性』(の一解釈)のことを数理論理学における構文論的完全性に相当すると位置づけた以上、対比関係を守るために、「真なる命題の集合としての世界」と「実存の集合という実存としての世界」との区別をしなければならないだろう。

*42:本当に強い意味論的完全性を自明に持つかどうかは、形式論理と世界との間のアナロジーにおいて「ある命題が証明可能である」という性質が一体なにに対応づけられるのかによって左右されるだろう。

*43:この但し書きは、「世界ははたして構文論的完全性を持っているだろうか」という立問をナンセンスにならずに実行するために必要である。

*44:ここで、『キャラクターたちの応答完備性を確かめることによってのみ~出会うであろう』でもなく『キャラクターたちの応答完備性を盲信することによってのみ~出会うであろう』でもないことには注意せよ。それは、もしキャラクターたちが実在することがまったくもって疑いようのない公理のなかの公理ならば、我々はそのテーゼを疑うことが叶わないはずであるし、またもし我々が目を曇らせているときのみキャラクターたちが実在するならば、我々は実在を見つめられないはずであるのだから(注意せよとは言っておいて、私にはこの『奉ずる』が具体的にはいったい何を指すのか、よくわかってはいない)。

*45:キズナアイは論理的に完全』を参照。

*46:この手法は極端になれば、やがて「=応答完備性」であるような立場とも区別がつかなくなるであろう。