人(々)と神(々)

1.シン・ウルトラマンの感想

ネタバレ避けとかしたほうがいいの?

 

 

 

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実際、私は個人の感想などはどうだっていいと思っているのだが、この感想は文脈上必要なので、手短に。

 

しょっぱなゴメスからスタートした時点でもう百点満点だったというところはある。ラルゲユウスもゴーガもツボだった。私はラルゲユウスとゴーガがずっと観たかったのだ。にせウルトラマン戦での「原典の動きオマージュ芸」とか、ネロンガ戦での「あえてオマージュしない芸」とか、一見あからさまなオタク受け要素もストーリーに奉仕するようよくコントロールされていた。浅見女史を包囲する露悪的なフェティッシュ描写には辟易したところもあるが、1960年代の背徳感をなぞるためには2020年代基準だとあれほどの描写をやらなきゃ足りないのかもしれない*1


まあ百点満点ではある、あるのだけれど……例えば『シン・ゴジラ』のような厚みを期待して観に行って、若干の肩透かしを食らった感もある、というのは否定できない。なんというか、『この映画で何をしたいか』『何をすべきか』『どういう問題設定にしてどう回答するか』が総監修その他の方々の頭の中で定まりすぎているというような印象だった。『シン・ゴジラ』とは違う作品を作るという意識が強すぎて、根っこの理念がこじんまりとまとまってしまったというか。理念が小規模、というか。理念が小規模なわりにプロットはやることめっちゃあるやん、というか。

 

『シン・ウルトラマン』中で問題となった理念は比較的シンプルであり、単発の映画にしては回答がいささか性急であった。『シン・ウルトラマン』の理念を乱暴にまとめると以下の3点に集約されるだろう。
ウルトラマンは人間を超越しているが、全能でも不死でも無謬でもない」
ウルトラマンは人間を超越しているが、人間になんらかの価値観を押し付ける偽神になってはいけない」
ウルトラマンは人間を超越しているが、人間は彼を偽神にして自らを従僕に貶めてはいけない」
しかし、このシンプルな理念を、『シン・ウルトラマン』といういち映画の小規模性を示唆する「全体」としてでなく、むしろ「ウルトラシリーズ」というシリーズ全般の思想史に目を向けさせる「切断面」として解釈してみるというのは、まったく無益な読みというわけでもないと私は考える*2
そういうわけで、この記事は、いささか凡庸な歴史観で申し訳ないが、私の目線で簡単にまとめた『人間-ウルトラマンの関係』小史にしたいと思う*3*4

 

 

2.ウルトラシリーズの前提

ウルトラシリーズマルチバース設定を採用している(シリーズ最初期から、異なる作品間で世界観のつながりはあいまいにされがちだったが、マルチバース設定が明文化されたのは2010年以降)。いくつもの異なる宇宙に、異なる出自と定義づけを持ったウルトラマンたちがいる。
最も代表的な出自・定義づけとしては、「(種族としての)ウルトラマン=M78星雲光の国から来訪した宇宙人」というもの。
その「宇宙人」タイプのウルトラマンは、超能力を用いて、地球人と一体化する・あるいは地球人に変身するという方法を用い、普段は地球人の姿で活動する。

 

ウルトラマンの、“変身前”の人間としての精神と“変身後”のウルトラマンとしての精神にはいくつかのパターンがある。表にすると以下のような種別になる。

 

3.人と神々――昭和

3.1.初代ウルトラマン:悩みとは無縁な“嗤うマージナルマン”

ウルトラマン』第33話『禁じられた言葉』で、宇宙の侵略者メフィラス星人は、侵略計画が地球人の思わぬ抵抗にあって進まないなか、ウルトラマン(の変身前であるハヤタ・シン隊員)とこんなやり取りを交わす。

「黙れウルトラマン。貴様は宇宙人なのか、人間なのか」
「両方さ」

このやり取り、この「両方さ」というセリフこそは、地球文明にとっての部外者でもあり当事者でもあるところのウルトラマンの本質を巧みに言い表した名ゼリフであると認識されているところのものである。ただ、今日の記事では、この「両方さ」に続く言葉にも注目していきたい。

「両方さ。貴様のような宇宙の掟を破るやつと戦うために生まれてきたのだ」*5

一個の生命が、なんらかのイデオロギーを体現する戦いのために生まれてきた、という話は、文字通りに聞くと、一種のロマンではあるが、少々噓くさく都合のいい話でもある。しかし、初代ウルトラマンに関しては、まさしくこのロマンを噓くさく言うために、彼は宇宙人でもあり人間でもあるという在り方を選択したのだと、この記事では考える。

初代ウルトラマンは、先ほど挙げた種別で言えば、一体化?乗っ取り?タイプである。
初代ウルトラマンは怪獣退治に連なる任務のなかで地球に初飛来したとき、誤って地球人のハヤタ隊員を死なせてしまい、ハヤタ隊員を蘇生させる代償として、彼と一つの命を共有することになる。その手段が、ウルトラマンとハヤタ隊員との一体化である。
彼は通常時はハヤタ隊員として振る舞い、非常時にはためらわずウルトラマンに変身して怪獣・宇宙人と戦う。ハヤタ隊員として振る舞っているとき・ウルトラマンとして戦っているとき、彼 / 彼らの心のなかで、ハヤタ隊員とウルトラマンの意識が分離して存在しているのか、それとも完全に一個の精神として成り立っているのかは謎である(最終話、2人分の命が用意されたことでハヤタ隊員と分離できるようになったウルトラマンは分離を選ぶ。分離後、ハヤタ隊員にはウルトラマンであった時期の記憶はなかったため、悪意的に読み取れば、終始ウルトラマンとしての精神がハヤタ隊員の身体とウルトラマンの身体の両方を乗っ取っていたようにも解釈できる)。

 

さて、鞍馬天狗の時代から(あるいはもっと前から)ヒーローとはあからさまな仮面で正体を隠すものであった。なぜ、ヒーローは正体を隠すのか……その理由について議論した論考は多数あるだろうが、注意せよ。石ノ森章太郎に代表されるような短調のヒロイズムは、石ノ森章太郎以前の時代である1950年代や1960年代には必ずしもドミナントだったわけではない。
ウルトラマンのような1960年代のヒーローが正体を隠した理由は、必ずしも「人間社会に背を向けて孤独に戦う」という短調のヒロイズムばかりでなく、むしろ「人間社会に対する闖入者として哄笑しつつ戦う」という長調のヒロイズムである場合も多かった。初代ウルトラマンはどちらかといえば、黄金バットがそうであったように、正体不明をいいことに有利に立ち回り、哄笑しつつ敵を討つ、そんな闖入者ではなかったか。

 

ウルトラマンのような、宇宙人でもあり人間でもあるという在り方はそれを耳にした人を端的に混乱させる。ウルトラマン自身の説明が「宇宙の掟を破るやつと戦うために生まれてきた」ならばなおさらである。この説明が文字通りに捉えるべきものかはともかくとして、人を食った説明なのは間違いない。
しかしウルトラマンはこんな説明をして、宇宙人の味方でもない、しかし地球人の味方とも言い切れない妖しさで敵にも味方にも一定の距離を置く。初代ウルトラマンは、「どちらでもない」というマージナルマン*6の特性を一種の優位性として引き受けていたのではないかと、私には思われる。

 

しかし、メタ的な意味で――企画成立までの過程で――ウルトラマンはどうしてマージナルマンとして成立してきたのか、という話は、いささか込み入っている。
元来、『ウルトラマン』という企画の出発点にあったのは、「頻々と現れる怪獣に対して、科学の力で立ち向かう専門チームの物語」という着想である。注意すべきことには、当初、この企画に「ウルトラマン」にあたる上位者は存在しなかった。
この「怪獣に立ち向かう専門チーム」という『怪獣VS人間』の構図に対して、「人間の科学が怪獣に対して100%勝利を収めるというのはおこがましい」という視点から、第三勢力となる「お助けキャラとしての上位怪獣」が組み入れられ、「上位怪獣」はやがて「宇宙人」ひいては「地球人と一体化した宇宙人」として結実することになる*7*8
ウルトラマンが宇宙人であるという特徴、また、ウルトラマンがただの宇宙人ではないという特徴は、「第三勢力」「お助けキャラ」という彼の立ち位置が定まった後に獲得されたわけだ。ここから、ウルトラマンが地球人でもあり宇宙人でもあった最大の理由は、「第三勢力」「お助けキャラ」としての立場を純化するためであったのだ、と邪推してみるのも悪くない。
どうやら、メタ的な情報は、「ウルトラマンがマージナルマンであることの意義が嗤う優位者であることに結実する」というこの記事の議論の証拠とするには十分ではないようだ。とはいえ、メタ的な情報はこの記事と目立って矛盾するというわけでもなく、ささやかな傍証として受け取っていただけるのではないかとも思っている。

 

3.2.ウルトラセブン:悩み多き“泣くマージナルマン”

ウルトラセブン』最終話『史上最大の侵略(後編)』で、地球の危機・仲間の危機が迫るなか、ウルトラセブンという正体を隠すことに限界を迎えたモロボシ・ダン隊員はアンヌ隊員に自ら正体を明かす。

「アンヌ、僕は、僕はね、人間じゃないんだよ。M78星雲から来た、ウルトラセブンなんだ」光に包まれる2人。沈黙。「びっくりしただろう」
「……ううん、人間であろうと宇宙人であろうと、ダンはダンに変わりないじゃない。たとえウルトラセブンでも」
「ありがとう、アンヌ」*9

純然たる宇宙人でありながら、地球人を装ってきたことに多少なりと苦悩し、仲間にも正体を明かせない状況に苦しんだのがウルトラセブンであり、彼が出自に関係ない個人として承認されることが物語としての終着点になった。
マージナルな境遇に対して(少なくとも表面上は)悩むそぶりを見せず、あまつさえ利用すらしていた初代ウルトラマンとは対照的に、ウルトラセブンは、自分が地球人としても宇宙人としても振る舞えないことに(多少なりと)悩んできた。この記事では、ウルトラセブンをこのように悩み多き非-地球人としてとらえていく。

ウルトラセブンは、先ほど挙げた種別に従えば擬態タイプである。
ウルトラセブンは、ある任務のために地球に来訪した際、趣味で登山中の地球人ふたりが事故にあう場面にたまたま遭遇、事故のなかにあって自分の命を顧みず仲間を救おうとした姿に感銘を受けることになる。おそらくはその体験に影響を受け、本来の任務になかった「侵略者からの地球防衛」に従事することを決意し、地球人の姿「モロボシ・ダン」に変身して地球に留まることにする。
地球人への変身はウルトラセブン自身の超能力によるものであり、彼がダン隊員として振る舞っているときもウルトラセブンとして振る舞っているときも、彼のうちには宇宙人として生まれてきた彼自身の精神しかない。

 

さて、ウルトラセブンを彼の先達である初代ウルトラマンと比較したとき、目立つのは擬態にかかる自発性・自主性だ。一方、初代ウルトラマンにとって地球人との一体化はひとつの事故に起因するものであり、不可抗力的なものだ(事故が起こってしまったことへの初代ウルトラマン自身の責任は大きいが)。換言すれば、任務中に出先で地球人を死なせてしまった初代ウルトラマンには、その地球人と一体化する以外の選択肢はなかった。他方、ウルトラセブンが地球人に変身するにあたっては、地球防衛という目的も、地球人への変身という手段も、任務外のものである。換言すれば、彼は、義務ではなくただ自分の意志で、地球人に変身する道を選んだ。
自発的・自主的に擬態を選んだウルトラセブンのことであるから、あえて地球人の姿を装っているという欺瞞の責任はまぎれもなく彼自身に降りかかってくる。ウルトラセブンが、曲がりなりにも仲間をだましてしまっているということに罪の意識を感じる可能性は、初代ウルトラマンの何倍にもなる。

 

利害関係においても、ウルトラセブンの自発性・自主性は彼自身を悩ませる方向にはたらく。前述したとおり、彼が地球並びに人類を守ろうとしたのは、上層部の意志ではなく彼自身の選択だ。そのため、地球人類が正義・平等にのっとっているとはいえない行動をとろうとしたとき、彼は地球人の側に立つのか、客観的な正義・平等の側に立つのかという二択を迫られることになる。例えば地球側の過失に対して宇宙からの復讐の手が伸びてきたとき*10、例えば現生人類が地球の先住民かもしれない種族をせん滅する行動をとろうとしたとき*11、彼は悩まずにはいられない。彼は最後にはいつも、愛する隣人たちを守ることに決めるのだが……*12

 

ウルトラセブンにおいて、マージナルな境遇が一抹のもの悲しさを呼び込みがちな理由は、『ウルトラセブン』という企画の成立経緯にその一端を見ることができる。
ウルトラセブン』という企画の前身のひとつである『ウルトラアイ』は、必ずしも怪獣モノとは限らない超能力変身モノとして企画されていた。『ウルトラアイ』の中で、主人公は異星人の父と地球人の母との間に生まれたハーフとして設定され、異星人の父から受け継いだ超能力を用いて事件を解決しつつ、行方不明の母を探すという構想であった*13。ハーフである主人公は、仲間を得てもいつもどこか孤独である。
完成形としてのウルトラセブンこそ純粋な宇宙人ではあるが、その起源には宿命を帯びたハーフ、直球ど真ん中のマージナルマンの姿が見えてくる。ウルトラセブンが地球人を装った宇宙人であることに苦悩するのは、この地球人と宇宙人のハーフという造形を一部受け継いでいるからであろう。

 

3.3.ジャック、エース、タロウ:試練の神から半神半人の英雄へ

帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』の3作に登場するウルトラマンであるジャック、エース、タロウは、変身前の地球人と変身後の宇宙人との関係として、いくぶん似た関係を見せる。

3名は、ウルトラセブンとは違い、明白に地球防衛の任を帯びて怪獣・宇宙人との戦闘のために地球へと派遣される。地球へと派遣された彼らは、地球来訪時に、怪獣から誰かを守るために勇敢な行動をとって命を落とした*14若者と一体化する。
ジャック、エース、タロウが先述した初代ウルトラマンと大きく異なる点は、変身前、地球人として振る舞っているとき、地球人としての意識が前面に出ていることだ(種別としては非常時に一体化タイプにあたる)。地球人としての意識が前面に出ているため、地球人としての理屈で「ウルトラマンに変身しよう」と意識しても、隠された宇宙人の精神がその変身の意志に同意せず、変身できない、ということはままある。とりわけ『帰ってきたウルトラマン』初期におけるジャックはこの傾向が顕著で、たとえ怪獣が暴れて防衛隊が窮地に陥っていても、変身者である地球人・郷秀樹隊員自身が命の危機に陥っているという条件を満たさなければ変身できなかった。地球人の精神と宇宙人の精神が混交していた印象の初代ウルトラマンと比べると、3名においては地球人と宇宙人の精神はより別々に思われる。
ただ、3名の関係性は、いずれも作品中で緩やかに変化していく。変身前の地球人がウルトラマンとしての立場で思考するかのような場面が増え、変身後のウルトラマンが地球人らしい感傷で行動するかのような場面が増え、さながら地球人の精神と宇宙人の精神が融合していくような印象があるのである。最初は渋かった変身条件も徐々に緩和していく。はじめは命の危機に陥らないと変身できなかった郷秀樹 / ウルトラマンジャックも、やがては特定のポーズをとるだけで確実に変身できるようになる*15
ウルトラマンタロウ本人が、タロウに変身する東光太郎隊員との一体感について語っている文章がある。第34話『ウルトラ6兄弟最後の日!』におけるテンペラー星人との戦いを後年になって振り返る内容だ。

先輩である五人の助力があったとも知らず、独力でテンペラー星人を倒したと思った私……いや、光太郎は(責任逃れしているわけではないぞ)、増長し、そして兄たちに甘えてしまう。だが、私は兄弟の真意を知り、本当の意味でのチームワークを学ぶことになった……いや、違った。すまない。私ではなく、あくまでも光太郎なのだが……いや、待ってくれ……正直、この頃には私と光太郎のパーソナリティはかなり近づき、場合によってはほぼ一体化していたといってもいい。光太郎が慢心した時は私も慢心し、彼が反省した時は私も反省する。すでにそんな関係になっていた。*16

極めつけは彼らの物語の終着点だ。これはジャック、エースの2名について当てはまるのだが、彼ら――もはやジャックとアイデンティティを共有した郷秀樹と、エースとアイデンティティを共有した北斗星司――は、最終話、ジャックとエースが使命のために地球を離れなければならない状況になったとき、宇宙人であるウルトラマンと分離せずに彼ら自身として地球を離れることを選ぶ。これは、郷秀樹が自身とジャックを同一視、北斗星司が自身とエースを同一視していなければなしえない選択だ*17

 

ジャック、エース、タロウに変身した3人の地球人は、宇宙人としての能力を所与のものとしておらず、自由には行使できていないという点で、初代ウルトラマン / ハヤタ以上に人間的だった。あくまで人間であった地球人に対して、宇宙人としてのジャック、エース、タロウはさながら試練の神と言ったところか。
しかしながら、試練を幾度も乗り越えるごとに、地球人の精神は宇宙人と、宇宙人の精神は地球人と、その寄り添い絡み合いを深めていく。物語の終盤で彼らがたどり着くのは、さながら半神半人の英雄とでもいうべきありさまだ。
初代ウルトラマンが越境するトリックスターたるロキ、ウルトラセブンが人間を愛するがゆえに責め苦を負ったプロメテウスだったとするならば、ジャック、エース、タロウは試練を経て最後には天上に揚げられたヘラクレスであろう*18

 

4.人々と神――昭和

ここまで、ウルトラマンに変身するいち個人とウルトラマンとの関係性を主に論じてきた。では、ウルトラマンに変身する個人以外の人々の集団にとって、ウルトラマンとはどのような存在であったのだろうか。この記事では、ウルトラマンを取り巻く人々、とりわけ防衛隊の人々に焦点を絞ってその関係の変遷を追っていきたい。
昭和において、人々とウルトラマンの関係として比較的多くの作品にみられたのは、“天佑”としてのウルトラマンという考え方だ。ここでいう“天佑”とはすなわち、「人間側から神側に対して期待するものではない、ただ与えられるのみ」「最初から与えられることはなく、人間の相応の努力のあと、神側の意志でのみ与えられるもの」「利害関係などではなく、純粋な正義感から行われていると期待すべき行為」の三条件を満たすような現象のことだ。

 

1点目、「人間側から期待すべきものではない」という条件について考えよう。
ウルトラマン』第37話『小さな英雄』において、防衛隊に所属するイデ隊員は、防衛隊の努力如何にかかわらず最後にはウルトラマンが状況を解決すると思い込み、防衛隊としての職務に無力感を募らせる*19。募らせに募らせた結果、イデ隊員は、巨大怪獣が暴れる危険な現場で、人間を守るため友好的な怪獣が身体を張っているなかで自分は勝手に戦闘を放棄するという行動に至る。

ウルトラマン助けてくれー!」
何もせず怯えてわめき散らすだけのイデに、ハヤタはフラッシュビームの手を止める。その時、ピグモンがイデを救うために囮となるが、そのためにドラコにやられて命を落としてしまう。ただ呆然とそれを見ていたイデは、怒りのハヤタに地面へたたきつけられる。
「イデ! お前はピグモンのこの姿を見て何も思わないのか!!」*20

イデ隊員は己が人間としての努力を怠っていたことを恥じ、発奮して、クライマックスでは強豪怪獣を自慢の科学力で撃破するに至る。
イデ隊員のように、ウルトラシリーズにおいては、ウルトラマンによる助けをただ受動的に期待しているだけの態度は何らかのしっぺ返しを食らうことが半ばお約束となっている*21
これは、事態を私たちの身に引き写してみても、実際的観点から大いに納得できるお約束であろう。第一に、人類はウルトラマンに対して気軽に連絡を取ることができない。第二に、ウルトラマンの力は絶大だが時間制限がきつい。二つの理由から、ウルトラマンを織り込み済みで防衛計画を練るというのはまったくもって不合理であり、万全な計画にはなりえない。

 

2点目、「人間の相応の努力のあと、神側の意志で与えられる」という条件について考えよう。これは、1点目と重なる部分が多い条件であるが、あえて2点目としての特徴を強調するなら、「人間が努力した後であれば、ウルトラマンの助けというものを否定するわけではない」という点になるだろうか。
ウルトラマン80』第37話『怖れていたバルタン星人の動物園作戦』というエピソードは、防衛隊であるUGMに取材に来た小学生たちが「UGMが負けそうになるとエイティが出現するのはどうして?」と問い詰め、UGMのメンバーが答えに窮するという展開が一つの縦糸となっている*22。この疑問に対して防衛隊のチーフが答えたのが「人事を尽くして天命を待つ」という答えであった。この答えににじむある種の弱気さは小学生たちからも笑われてしまうのだが、エピソードの最後にはウルトラマン80に変身する矢的隊員からも「理想のうえでは人間の力のみで頑張りたい」という意志を肯定的に評価される。
例えば青柳・赤星は以下のような言葉でこの第二の条件を示唆した。

人間が成長していく過程において、まだ伸びる可能性を秘めているにもかかわらず、現時点での限界に達してしまったとき、そんなときにこそ現れる奇跡の化身がウルトラマンなのだ。「人類の力はここまで」とささやくのが怪獣たちとするならば、「まだまだ可能性はある」とささやくのがウルトラマンではないだろうか。*23

 

3点目、「純粋な正義感から行われているという期待」について考えよう。この点は、ともすれば1点目と矛盾するようにも思われる条件だ。なぜなら、1点目として先に挙げた「ウルトラマンの行動を人間側から期待するものではない」というスタンスは「ウルトラマンが実際何を考えて戦っているかはよくわからない」という意識と強固に結びついているだろうからだ。
しかし、ウルトラシリーズにおける防衛隊がウルトラマンに向ける目線は、「いまのところ地球と人類の味方である可能性が高いが明日には何をするかわからない宇宙人」という消極的な目線でなく、「平和と進歩の使者」といういっこう好意的な目線だ。
こういった目線は、ウルトラマンが急に破壊活動を始めたときに確認できるだろう。『ウルトラマン』第18話『遊星から来た兄弟』において、宇宙人が化けたにせウルトラマンが破壊活動を始めたとき、防衛隊は困惑した、すぐには迎撃を開始しない。にせウルトラマン二度目の出現の報を受けてようやく「たとえウルトラマンでも、この地球上で暴力をふるうものとは戦わなくてはならん」と覚悟を決めて迎撃に赴く。やがて本物のウルトラマンが現れ、にせウルトラマンの化けの皮が剝がれて敵性宇宙人の正体が明かされると防衛隊の隊員たちは「やっぱり奴の仕業だったのか」「思った通りだ」と語り、『ウルトラマンが破壊活動などするわけがない』という信頼をにじませる。
まあ、偽物だと分かってから「思った通りだ」なんて言うのはかなり虫のいいセリフではある。また、にせウルトラマンの暴挙以前に本物のウルトラマンは10回以上の戦闘を行っているから、突然ウルトラマンが暴れだしたら変に思うのは当然と言えば当然でもある。ただ、(にせウルトラマンという策略の稚拙さを抜きにして考えるなら)「実はウルトラマンこそ悪なのではないか」という疑念を喚起しようとする悪役の行動に対し「これまでも人類と共に戦ってくれたウルトラマンをまずは信じること」が正解として提示されるこのエピソードの構造は、やはり「ウルトラマンの内心はわからないけれど、ウルトラマンの行動にもまずは純粋な正義感を期待すべき」という価値観が読み取れる。
もちろん、人間とは根本的に違う価値観を持っているはずのウルトラマンの思考を理解することは難しいだろうし、理解したと思うことは傲慢ですらあろう。しかし、根本的に理解は不可能である相手に対して、とくにこれといって疑う理由がないのならまずは善意を期待するのが、ある種倫理的に妥当な態度であろう、と私は個人的には考えている。また、実利的にいっても、善意を期待しておいたほうが相手が善意で応えてくれる可能性は高まるかもしれない。

 

「人間側から期待すべきものではない」「人間の相応の努力のあと、神側の意志で与えられる」「純粋な正義感から行われているという期待」という3点の条件を総合して、歴代の防衛隊はおよそ、多かれ少なかれ、あるイデオロギーを示すに至った。それは、「人類はいつまでもウルトラマンに頼っていてはだめで、いつかは人類が人類自身の手で困難に立ち向かう能力を得なければならない」というイデオロギーだ。
ウルトラマン』最終話『さらばウルトラマン』において、初代ウルトラマンが故郷へ帰還することを知った防衛隊のキャップは「地球の平和はわれわれ科学特捜隊の手で守り抜いていこう!」と述べた。『ウルトラセブン』最終話『史上最大の侵略(後編)』において、ウルトラセブンが故郷へ帰還することを知った防衛隊の隊長は「地球はわれわれ人類の手で守り抜かねばならないんだ!」と述べた*24ウルトラマンが地球から離れることは、いつかは望まれる事態として防衛隊に認識されており、そこではウルトラマンが心残りなく帰還できるようにとののび太さながらの気遣いすらなされる。ウルトラマンゼットンに敗れたとき、ゼットンを破ったのは科学特捜隊である。さきほど「人事を尽くして天命を待つ」の気弱さを取り上げたUGMでさえ、ウルトラマン80が傷ついていることを知った最終話『あっ! キリンも象も氷になった!!』ではウルトラマンの助けなしで強豪怪獣を粉砕しているのだ。

 

5.人と神々――平成

5.1.ティガ、ダイナ、ガイア:人間の拡張としてのウルトラマン

昭和において、細かい変節こそあれ、人間とウルトラマンとの関係は人間と神々のそれに近かった(これは、昭和のウルトラマンたちが一神教の神のように全知全能として振る舞ったという意図の記述ではない。私が意図しているのは、昭和のウルトラマンたちは多神教の神々のように、人間とは別の世界観のルールに従いながら、しかし人間と独特なかたちで交渉しつづけたということだ)。すなわち、ウルトラマンは人間とは根本的に異なる世界観からやってきて、人間以上の能力を持つ一個の個性として振る舞う。端的に、昭和のウルトラマンたちはほぼ例外なく“宇宙人”だった。
しかし、平成の前期を象徴する3人のウルトラマンは、いずれも“宇宙人”ではなかった。平成最初のウルトラマンたちは、宇宙人としてとか、人間と宇宙人の混交としてでなく、人間の拡張として現れたのである。

ウルトラマンティガは、“宇宙”という異世界の代わりに“超古代”という異世界に起源を持つウルトラマンだった。
ウルトラマンティガ』第1話『光を継ぐもの』において、防衛隊に所属するマドカ・ダイゴ隊員は、突如現れた超古代の遺跡に遺されていたウルトラマンの石像に、光となって吸い込まれたときからウルトラマンに変身する能力を得ることになる。こうして変身するティガは、変身前も変身後も、純然たる地球人であるマドカ・ダイゴとしての精神で行動する(先の種別に従えば進化タイプだ)。ここでの「ウルトラマン」は、人間とは独立に存在する一個の個性ではなく、人間を拡張する一種の能力に近い。
また、マドカ隊員がティガに変身できる理由は実は彼が超古代人の遺伝子を色濃く受け継いでいるからである。ある特定の個人がウルトラマンに変身できる理由が、他者の意志に因らず、また“宇宙”にも因らず、ある人間がたまたま持っていた資質に因っていたということは、「ウルトラマン」という現象をあくまで人間が持つ可能性の範疇にとどめようという強い意図が感じられる*25
なおかつ、『ウルトラマンティガ』作中において、「人間がウルトラマンになる可能性」はマドカ隊員個人を超えて拡散していくことになる。第44話『影を継ぐもの』においては、マドカ隊員と同じく超古代人の遺伝子を色濃く受け継いでいた科学者マサキ・ケイゴが、科学的方法論によってウルトラマンもどきに変身してしまう過程とその結果が描かれる。また、最終話『輝けるものたちへ』では、世界中の子供たちが(おそらく遺伝的資質には関係なく)マドカ・ダイゴ同様に光となり、ウルトラマンに融合する展開をたどる。『ウルトラマンティガ』において、ウルトラマンになるということは光になるということと同義であり、光になる可能性はすべての人間が当たり前のものとして具えているものなのだ。

 

ティガが“超古代”から来たなら、“近未来”から来たのがウルトラマンダイナだった。
ウルトラマンダイナ』第1話『新たなる光(前編)』において、防衛隊に所属するアスカ・シン訓練生は宇宙空間で謎の光と遭遇・一体化して、ウルトラマンに変身する能力を得るに至る。ダイナはティガ同様、変身前も変身後も一貫してアスカ・シンとしての精神で振る舞う。ダイナとアスカは、実質的にイコールで結ばれるのだ。
ときに、『ウルトラマンダイナ』の世界観は、人類が太陽系の全域まで進出しようとしている近未来世界を基調としている。アスカが謎の光と出会ったのも、防衛隊の任務で宇宙航行中のことであり、人間のウルトラマン化には近未来の技術という触媒が不可欠だったことがわかる。
実は、裏設定的には、アスカが謎の光と一体化する以前にも、ダイナは一個のダイナであった……しかも、その正体は行方不明とされているアスカの父であった、という話が語られることがある。ダイナが、アスカの存在がなくともウルトラマンとして独立して存在し、なおかつそれが一種の『不在の父』から『息子』へと受け渡されるパワーであったなら、ダイナは「“近未来”に起源を持つ人間の拡張」ではなく「プリミティブな価値観のなかで現れる、いち人間に対する上位者」とみなすべきではないか、という反論には一定の説得力がある。とはいっても、『ウルトラマンダイナ』劇中において、ダイナのなかにアスカ以外の精神が感じられるシーン――精神世界のなかでアスカと父が対話する、とか――はないし、またアスカの父がダイナとなった理由は、次世代型宇宙航行システムの実験中、実験用の宇宙航空機に乗っている最中に謎の光に出会ったためであった。だから、実際の演出上において、ダイナ=アスカは徹底されていたといえるし、アスカの事例でも父の事例でもダイナは常に人間の進化の延長上に位置づけられるのだ。
ダイナが人間の進化として現れるからには、その戦いは人間の抱える悩みや成長と無縁のものではもちろんなかった。ダイナは、変身後のウルトラマンとして抱える戦闘上の課題を、変身前の人間の状態にまで引きずり、人間としての一種の特訓によってウルトラマンとしての課題を解決する、というようなことがあった(第5話『ウイニングショット』が好例であろう*26)。また、ウルトラマンとしての戦闘中に抱いた「怪獣への怖れ」が変身前の人間ドラマを貫通してエピソードの主題になったこともあった(劇場版『光の星の戦士たち』のことである)。ウルトラマンが人間として課題解決にいそしんだり人間らしい成長課題を持ったりということは、決して昭和のウルトラマンに皆無だったわけではないが(『帰ってきたウルトラマン』や『ウルトラマンレオ』にこうした成長エピソードは顕著である)、それでもなお、『ウルトラマンダイナ』を特徴づけるトーンのひとつであり、ダイナが人間の進化であったという議論を裏付けるものだ。
いち人間としてのダイナ=アスカの物語は「宇宙規模の巨悪と戦うなかでも、内心としては個人的な動機・欲求に基づいたヒロイズムで戦う」という終着点を迎える。第50話『最終章II 太陽系消滅』において、太陽系を消滅させようとする超巨大怪獣に対して戦いを挑むなかで、アスカは同僚のユミムラ・リョウ隊員に「オレはいま、キミだけを守りたい」と告げるというシークエンスが存在する*27。ここでは、ウルトラマンという巨大な能力・巨大な正義が、宇宙規模の大問題に着地させるのではなく個人的な動機・欲求から連なる正義として着地させられている。このように、正義をより大きな社会から小さな社会へと回帰させる手法は、こと人間化するウルトラマンたちにとどまらず、平成のスーパーヒーローの大半が多かれ少なかれ描いていたモチーフの一端であっただろう。

 

ウルトラマンが“宇宙”からでなく“超古代”や“近未来”からやって来るというコンセプトは、ウルトラマンという存在を、より身近な世界、人間の知りうる世界の内側から誕生させようという流れだったといえよう。その流れのなかでウルトラマンガイアはついに、なんらかの“異世界”でなく、“地球”を起源として誕生したウルトラマンだった。
ウルトラマンガイア』第1話『光をつかめ!』で、若年科学者の高山我夢は、科学実験中に入り込んだ謎の精神世界でガイアに変身するための光を得ることになる。光とははたして、地球の意志がなんらかの目的でいち人間に託したものだった。
ガイアは、ティガやダイナと同様に変身前も変身後も高山我夢としての意志で行動する。また、ガイアの力は完全に地球起源のものであり、その証拠は例えばガイアが地球で活動する限りにおいて一律の活動時間制限を科されていないことなどに現れる。
ところで、ガイアが人類の総意とかではなく地球の意志によって選ばれ、力を与えられたことはひとつの懸念を呼ぶ。すなわち、ウルトラセブンが人間と客観的正義・平等との間で揺れたように、ガイアが人類の利益と地球の利益との間で揺れるのではないか、という懸念だ。
この懸念は、ガイアというウルトラマン単体でなく、ガイアともう一人のウルトラマンとの対立という構造によって実現した。実は『ウルトラマンガイア』にはガイアともう一人のウルトラマンが登場するのだ。もう一人のウルトラマンであるアグルは、高山我夢と同じ若年科学者の藤宮博也がやはり地球の意志から力を与えられ、生まれたウルトラマンだ。
ガイアが、地球の中に暮らす人類や地球産怪獣たちの生命に実感を持って、人類やときには地球怪獣を守ろうとしたのに対し、アグルは、総体としての地球環境を維持することにこだわり、ときには直截に人類を滅ぼそうとしたり地球産怪獣の個体を利用しようとしたりした*28。二人のウルトラマンは、当然当初は対立することになり、やがては協調路線をとることにもなる。二人のウルトラマンが対立・和解・共闘する一連の流れは、利己と利他の間で悩み、両者を止揚した解決策を模索するというまさしく人間らしい悩み*29の変形であろう。

 

6.人々と神――平成

ウルトラマンたちと彼らに変身する人間たちの関係が平成に入って変化したように、ウルトラマンと防衛隊との関係も平成に入って変化する。
しかし、ウルトラシリーズにおける防衛隊は、ざっくりと“防衛隊”と呼びならわしたとしてもその組織としての内実は様々で、軍隊ふうの組織もあれば、警察ふうの組織、レスキュー隊ふうの組織、研究機関由来の組織、開拓団的な組織などなど、その設立経緯や行動原理は千差万別だ。そうした千差万別の防衛隊が、昭和よりも一層の厚みを持って描かれた平成では、組織ごとにウルトラマンとの関係も様々であって、一概に言えることは(昭和に比べて)だいぶ少ない。
それでも、平成の防衛隊の特徴を一点あえて取り上げるなら、平成の防衛隊は、ある特定の個人がウルトラマンに変身しているという秘密まで共有し、強い仲間意識でウルトラマンと協力することが多かった。

 

例えば、『ウルトラマンガイア』における特捜チームXIG*30は、とくにウルトラマンとの協力関係が厚いチームだった*31。またXIGメンバーの一部は、『ウルトラマンガイア』全51話中の第26話『決着の日』で早くもガイアの正体=高山我夢という真実を知ることになる。正体を知ったあとも、防衛隊とガイアとの協力関係は崩れるどころかより強まることになる。
ウルトラマンメビウス』におけるCREW GUYS*32も、メビウスの正体=ヒビノ・ミライ隊員という真実を早期に知ることになったチームだった。彼らは全50話中の第29話『別れの日』でメビウスの正体を知ることになり、やはり正体を知ったあと、同じ隊員であるミライ隊員を再度仲間として迎え入れ、ともに戦った。
曲がりなりにも、ウルトラマンその人である人間 / 宇宙人が防衛隊という組織に参入することを受け入れているこれらの作品は、ウルトラマンたちが神々同然だった昭和の在り方からすれば、ウルトラマンがかなり世俗化しているといってもいいだろう。世俗化は、一方、ウルトラマンが宇宙人としてかつて持っていた神秘性や根本的な理解不可能性を損なうという点で、ネガティブな効用もあろう。しかし他方、正体不明なままで人類に都合のいい関係をずるずる続けるのではなく、組織関係などを介してなんらかの一定した関係を主体的に構築しようと努めることは、人類とウルトラマンの関係の健全化の第一歩という見方もできるかもしれない*33

 

かなり例外的にはなるが、ウルトラマンがほぼ登場しないウルトラシリーズ作品である『ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル』では、ZAP SPACY*34のメンバーは、辺境の惑星で出会った記憶喪失の青年・レイを、彼が明らかに人間離れした身体能力を持っていることなどを当初から知りながら仲間に加えることになる。レイははたして、ある宇宙人の遺伝子を持った地球人であり、怪獣を操って戦うことができる能力者、つまりは、非常に広い意味でウルトラマンに連なる存在であった。ZAP SPACYはある男がウルトラマンだと知ったうえで仲間に引き入れたわけである。
これほどまで世俗化した関係性は、もちろん、人間たちが人間以上の存在に付き合う上での何らかの試練を呼び込む。『ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル Never Ending Odyssey』において、レイはたびたびその力を暴走させ、敵味方なく周囲の人に襲いかかるようになる(この“暴走”は、レイがウルトラマン似の異形の姿へと変身することをともなっているのがなかなかにあからさまだ)。ZAP SPACYとしては、当然仲間であるレイの暴走を鎮めなければならない。はたして、人間がウルトラマン(に類するもの)の暴走を止める立場になろうとは、驚くべき関係性の逆転である。
やがて、正真正銘ウルトラマンであるところのウルトラセブンの力を借り、ZAP SPACYはレイの暴走を止めることに成功する。少なくともこの作品においては、暴走しがちな「人間たちと超人の関係」を調停するのは、より長い間人類と付き合ってきた先輩超人とその年季であったということか。

 

7.人と神々――新世代

7.1.ゼロ、ギンガ、エックス:人間と対話するウルトラマン

前述したように、ティガ、ダイナ、ガイアの時代には、ウルトラマンは独立した個性を持たない人間の拡張として描かれる傾向があった。対して、これから取り上げようとするニュージェネレーションと呼ばれる時代のウルトラマンたち*35においては、ウルトラマンたちを人間からは独立した個性として描くという傾向が(大まかに言えばではあるが)再び顕著になってくる。しかし、それはジャック、エース、タロウの時代のような、「寡黙な試練の神」の再演ではなく、むしろ人間たちと同じ目線に立って積極的に対話を行う「身近な宇宙人」という新しいスタイルだった。
そして、このような新しいスタイルは、はじめから狙って構成されてきたものではなく、ウルトラマンゼロがもたらしたイメージ・ウルトラマンギンガがもたらしたイメージを取り込んでいくなかでウルトラマンエックスが偶然に完成させたスタイルではなかったかと私はにらんでいる。

ウルトラマンゼロは、当初『大怪獣バトル THE MOVIE ウルトラ銀河伝説』のオリジナルキャラクターとして登場したウルトラマンだ。『ウルトラ銀河伝説』は、ウルトラシリーズの歴史上(映像作品としては)珍しい、全編地球外で進行する宇宙人たちの物語である。その上映時間の何割かは、ウルトラマンたちのあいだで展開するドラマ、とくに、宇宙人として背景を強固に持っている昭和ベースのウルトラマンのあいだで展開するドラマに割かれている。ウルトラマンたちにだって故郷の星があり、文明があり、人間関係がある、そのなかでのドラマを主に扱ったのが『ウルトラ銀河伝説』だったわけだ。その『ウルトラ銀河伝説』オリジナルのキャラクターであるゼロであるから、当然、宇宙人が地球人に対してしばしばみせるような神秘的な在り方でも示唆的な在り方でも意味深な在り方でもなかった。彼はむしろ、地球人が同じ地球人に対して普段見せているように、よく悩み、よく成長し、そしてよく喋った。
このゼロという男、若々しく、まあまあヤンチャで、戦いではめっぽう強かったので当時から大きな人気を博し、『ウルトラ銀河伝説』以降の作品にも様々な立ち位置で出演することとなった。この、2作目以降の出演作、とくに『ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦! ベリアル銀河帝国』と『ウルトラマンサーガ』において、彼の特徴はもう一段階の変化を遂げることになる。
ウルトラマンゼロ』と『ウルトラマンサーガ』の双方において、ゼロは並行宇宙へと旅立ち、勇敢な行動で命を落としかけた人間の若者と一体化することを選ぶ。一体化するというだけなら、初代ウルトラマンのような一体化?乗っ取り?タイプやジャックのような非常時に一体化タイプでもよかっただろうが、ゼロの場合は、すでに過去作で描かれてきてしまっていた強すぎる個性があり、初代ウルトラマンやジャックのように黙りこくっているのは不自然だった。だから彼は、人間の若者たちと一体化したときは、ゼロとしての精神が表に出ていない変身前でも、精神世界で若者たちと対話した。とくに『ウルトラマンサーガ』のときに一体化したタイガ・ノゾム隊員との関係が顕著で、ゼロとタイガはある状況ではウルトラマンに変身するしないで意見が割れすらした。そして彼らの場合、驚くべきことに、ジャックのように「人間が変身しようとするがウルトラマンが承服しない」のではなく「ウルトラマンは変身してもらおうとするが人間が承服しない」展開だったのである。これは、昭和のウルトラマンがしばしばそうであったような「未熟な人間による能力の行使を上位者であるウルトラマンが裁定する」構造の明確な棄却ではないだろうか。「未熟な人間と未熟なウルトラマンとが対話のなかで打開策を模索する」構造の萌芽ではなかっただろうか。

 

ゼロは、よくしゃべるぶん非常に親しみやすく、しかし反面神秘性を損なっているという批判も受けていた。そこで、よくしゃべるゼロの直後は、反動としてあまりしゃべらないウルトラマンであるウルトラマンギンガが登場した。
ギンガはあまりしゃべらない。あまりしゃべらないというよりも、説明をしないという方がイメージに合致しているかもしれないが。
ウルトラマンギンガ』第1話『星の降る町』で、高校生の礼堂ヒカルは遠い昔のいん石衝突のころから神社にご神体としてまつられていた謎のアイテム「ギンガスパーク」を手にすることになる。この「ギンガスパーク」は、特殊な方法でフィギュア化した怪獣たちの身体に人間が乗り移ることを可能にするアイテムであり、ウルトラマンギンガの身体と精神もまた、そのなかに宿されていた。ヒカルは「ギンガスパーク」を用いて、ときに怪獣に、ときにギンガに変身して身近な脅威と戦うことになる。
実のところ、ギンガは宇宙のような未来のようなところから来た一個のウルトラマンであり、昭和の多くの「宇宙人ウルトラマン」同様、ヒカルと出会う前から独立した個性を持った存在だった。しかし、『ウルトラマンギンガ』劇中において、変身前のヒカルにも、変身後のギンガにも、目立って観察されるのはヒカルとしての精神のみである。例外は、変身前たまに精神世界でギンガ本人がヒカルに語りかけるときくらいだ。このように、人間と宇宙人ふたつの個性でありながらつねに人間の意識が前面に出ているギンガのスタイルは、昭和ふうの「宇宙人ウルトラマン」と平成ふうの「人間ウルトラマン」の奇妙な折衷であり、種別から言えば身体だけ貸与タイプとでも言えよう。
旧来、主人公が人間の姿でいるとき、ウルトラマンの身体はそれそのものが人間の身体へと変化しているのだ、という理解は、半ば暗黙の了解であっただろう。しかしギンガの身体だけ貸与タイプはギンガ以降のウルトラマンの一部にいっぷう変わった印象を呼び込む。それは、主人公が人間の姿でいるとき、ウルトラマンの身体は変身アイテムのなかに内蔵されているという印象、ひいては、ウルトラマンの精神もまた変身アイテムのなかに内蔵されているという印象だ*36ウルトラマンはここにきて、変身アイテムという至極ソリッドな媒介物メディアを介して交渉できる相手になったのだ。

 

ゼロ、ギンガ(とギンガに連なるビクトリー)に続いて現れたウルトラマンであるウルトラマンエックスは、ゼロ、ギンガそれぞれのやり方を取り込んで独自のやり方を完成させた、というように私には感じられる。
ウルトラマンX』第1話『星空の声』によって語られるところによれば、ウルトラマンエックスは十数年前、怪獣との戦いのなかで身体を失い、データ生命体になった。現在、地球で怪獣が平和を脅かす場面に遭遇したエックスは、防衛隊に所属する大空大地隊員の情報端末「ジオデバイザー」に憑依し、彼に語りかけて協力を要請する。大地隊員は協力を決意し、エックスと一体化することでごく短時間エックスの肉体を実体化し、ウルトラマンとして共に戦うことになる。
まず、エックスがゼロから受け継いだ点として、彼はよくしゃべる。変身前でも変身後でも、彼は大地隊員とは別個の人格として描写され、大地隊員からの呼びかけに積極的に応じる。異なる個性のふたりが協力しあうことが『ウルトラマンX』のキモである。
次に、エックスがギンガから受け継いだ点として、彼は通常時変身アイテム「ジオデバイザー」改め「エクスデバイザー」に憑依する。変身前、彼の精神は基本的に「エクスデバイザー」のなかにのみ存在するものであり、彼の発言も「エクスデバイザー」を通して行われる。卑近なたとえをすれば、彼はアレクサやSiriのように情報端末から語りかけてくるキャラクターなのだ*37
人間とコミュニケーションが可能な宇宙人が、普段は何かしらソリッドなアイテムのなかにおり、いざとなればともにウルトラマンの能力を得て、やはり対話しながら困難に対処する。これが、人と神々との関わり、否、人とまれびととの関わりの最新版(のひとつ)である対話タイプなのだ*38

 

8.人々と神――新世代

新世代において、防衛隊はしばしば後景化しがちで、ともすれば存在しなかった。新世代にあたるテレビシリーズ7作のうち、『ウルトラマンギンガ』『ウルトラマンジード』『ウルトラマンR/B』『ウルトラマンタイガ』の4作においては人類の手になる公設の防衛隊は(ほぼ)存在しなかった。よって、この記事においては、「防衛隊とウルトラマン」という目線で新世代について語ることはとくにない*39

 

9.シン・ウルトラマンの感想2 REQUIEM

話題を『シン・ウルトラマン』に戻ろう。
ウルトラシリーズのいち作品としてみたとき、『シン・ウルトラマン』で採用されている「人と神々」観・「人々と神」観というのは、案外コンサバティブなものだった。

 

9.1.人と神々――シン・ウルトラマン

巨大人型生物ウルトラマンと神永新二との関係は、初代ウルトラマンとハヤタ隊員とのそれを踏襲した一体化?乗っ取り?タイプだった(「乗っ取り」寄りのニュアンスがちょっと強かったが)。換言すれば、彼は、人間と宇宙人との心身両面の一体化、という点では初代ウルトラマンとよく似ている。『シン・ウルトラマン』が前述した『ウルトラマン』第33話『禁じられた言葉』から「両方さ」を引用してみせたのも、初代ウルトラマンとハヤタ隊員との関係性をなぞるという明確なアピールであろう。
しかしながら、彼が初代ウルトラマンと顕著に異なるのはここからで、彼はマージナルマンとしての己の性質を利用してみせるだけでなく*40、マージナルマンという己の状況に苦しみもした。人間を愛してしまったことによって、上層部である“光の星”の意に反することを行ったからだ。人間を愛するがゆえに、ときに人類が客観的正義・平等(あるいは宇宙人的正義・平等)にもとる行為を行うときには、マージナルマンである自分がどこまで介入していいものか葛藤することになる。この悩み多きキャラクター造形は、初代ウルトラマンのそれではなく、むしろウルトラセブンのそれ(もっといえば、『平成ウルトラセブン』で後付け的に強調されたセブンのキャラクター性)である。
ウルトラマンのなかにウルトラセブン的キャラクターを読み取った(おそらく)庵野氏の判断というのは、いささかキャラクター性の魔改造がすぎるのではないか、と私は思う。とくに、『シン・ウルトラマン』はウルトラマンを冠する単発映画なのだから、オマージュという意味でも、キャラクターの内面の変化は丁寧に描きたいという意味でも、初代ウルトラマン的キャラクターとウルトラセブン的キャラクターのキメラという選択には批判の余地があった。とはいえ、最大限好意的な読み取り方をすれば、主人公を半分セブン的なキャラクター性にしたのは、『シン・ウルトラマン』の物語のあとにウルトラセブン的なキャラクター性を持った巨人があの世界に現れる、ということをスムーズに予感させるための工夫だったと言えるのかもしれない。実際、庵野氏は『シン・ウルトラマン』の企画初期には『シン・ウルトラマン』『続・シン・ウルトラマン』『シン・ウルトラセブン』からなる三連作を予定していたようである*41

 

ところで、『シン・ウルトラマン』作中においては、「ウルトラマン」に該当する存在はあくまで宇宙に一人きりだというスタンスが表現されていたような気がする。
もしも、いつものウルトラシリーズであったなら、ウルトラマンの故郷にウルトラマンと生物学的同種である個体がいたなら、そういった個体はとりあえず「ウルトラマン」と呼ばれていいはずだ。しかし『シン・ウルトラマン』においては、巨大人型生物の体をなす例の種族のなかでも、地球人との融合を果たしたあの個体だけが「ウルトラマン」である、そういったスタンスは徹底して守られていた。例えば、巨大人型生物ウルトラマンの故郷は“光の星”であるし(“光の星”という用語は既存のウルトラシリーズでほとんど使用されない)*42、例えば、巨大人型生物ウルトラマンの同族はゾフィーではなくゾーフィだった(ゾフィーはシリーズキャラとして既存のウルトラシリーズでキャラクター性を確立しているが、ゾーフィはアンオフィシャルな形でしか存在しないキャラクターだった)*43。『シン・ウルトラマン』の世界において、「ウルトラマン」は厳密には同族が存在しない、ワンアンドオンリーの存在なのである*44
こうして、ウルトラマンを徹底して独自の存在にすることは、ウルトラマンウルトラセブン的な悩み多きキャラクター性を付与するうえで必要な導線でもあったと理解している。既存ウルトラシリーズ初代ウルトラマンが行う「地球人との合体」は、同族がいくらでもやっていることであるので、初代ウルトラマンはマージナルではあっても孤独ではない。しかし『シン・ウルトラマン』の巨大人型生物ウルトラマンが行った「地球人との合体」は、おそらくは、あとにもさきにも彼しか実行する可能性のない特殊例であって、そのため彼はマージナルであるうえにそのマージナル性ゆえに孤独にもなるのだ。『シン・ウルトラマン』が、既存のウルトラシリーズから隔離されていることの最大の意義も、おそらくここ――史上最も孤独なウルトラマンの実現――にある。

 

9.2.人々と神――シン・ウルトラマン

さきに断っておくが、この記事では、人類と巨大人型生物ウルトラマンとの関係を、安保体制下における日本とアメリカとの関係になぞらえるというよくある見方を採用しない。
実際のところ、ウルトラマンアメリカとみなすような見方はウルトラマン批評においてわりに昔から一定数存在する見方ではある*45*46。だからこの読みを無益だとも的外れだとも私は思わない。
しかし2点において、この「ウルトラマンアメリカ」説は私の実感にそぐわない部分がある。1点目として、『ウルトラマン』という企画がウルトラマンのようなヒーローの存在を前提として生まれたわけではなく、むしろ「怪獣VS人間」という基本構造に後付けされてきたとみなせる点。2点目として、『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』の文芸やデザインには、人間的なヒーロー性・明朗さよりも日本土着の神々のような理解不能性・神秘性をなんとなく感じるという点だ*47。そのため、この記事ではより抽象化した「ウルトラマン=神(にも等しい力を持った存在)」という見方を採用して記述していく*48

 

禍特対と巨大人型生物ウルトラマンとの関係は、最初は人間側の困惑から始まった。日本社会にウルトラマンが初めて現れた状態を再現するのがこの映画の主要コンセプトの一つであるのだから*49、彼らの最初の反応が困惑であるのは当然のことだろう。
しかし、次の反応として、禍特対は意外に早くウルトラマンを信用……信用までいかなくとも、当座有害な存在ではないと断定することになる。この判断を、ナイーブにすぎると批判することもできるだろうが、私はとりあえず「まあ結果オーライではあった」と評価したい。善意か悪意かわからない相手に対して、いたずらに善意を期待するのも馬鹿だが、かといって無根拠に悪意を想定すると、負のピグマリオン効果で悪意が生まれ出てきかねないものだ。例えばにせウルトラマンが出現して暴れ始めたときに「いままでの行動原理と違いすぎる」と感じて迎撃をためらったのはまずまず妥当な判断だった。かくして、ウルトラマンに対するときの態度として「ほかに特別疑うべき理由がない限り、純粋な正義感で行動していると期待する」という条件が醸成され始め、ウルトラマンは禍特対にとっての“天佑”となっていく……。
かと思いきや、外星人メフィラスの突然の登場で*50、物語は「ウルトラマンが“天佑”になっていく過程」から「ウルトラマンとメフィラスとの“神”の座をかけたバトル」へとシフトする。
メフィラスとは、その原典であるメフィラス星人からして、悪魔メフィストフェレスのパロディである。悪魔は悪魔らしく、実利に基づいた取引で神の座を手に入れようとする。ウルトラマンは勇敢にもそのたくらみに対抗したため、ウルトラマン自身が望んだわけではないが、「ウルトラマンとメフィラスどちらが神となるか」という二者択一の構図が組みあがってしまう。しかし、他ならぬメフィラスがウルトラマンの正体が神永新二であると明らかにしてしまった副作用として、禍特対はウルトラマンを“天佑”とか“神”としてでなく、ある種対等な“仲間”としてみなすことになる。禍特対は、メフィラスを信奉しなかっただけでなく、「どちらが神となるか」という二者択一の構図にも組み入れられることはなかった。このとき禍特対は確かに独立愚連隊であった。独立愚連隊の働きで、事態はもろもろ結果オーライな方向に進んでいく。
『シン・ウルトラマン』のように、防衛隊がウルトラマンのことを“仲間”とみなす態度は、『ウルトラセブン』最終話で見られた特徴か、ともすれば平成のウルトラシリーズが持っていた特徴である。このような友情賛美のムードが、平成ウルトラシリーズに触れながら成長してきた私にとっては「穏健だな」「案外コンサバティブだな」と思えた点であった*51*52

 

ところで、劇中、ウルトラマンは人類の自発的な成長を期待して“神”の座を自ら降りようとするような態度を見せる。しかしこれが、正直なところ(作中的にも作劇的にも)成功しているとは言い難かった。彼が、「与えられた発展・与えられた平和では人類のためにならない」と口では言って、実際にしていることは「半分人間である立場を利用してメフィラスとの交渉に過干渉する」とか「(自分とは折り合いの悪い)地球人の代表に手渡された物品を(自分と折り合いのいい)地球人に勝手に渡しなおす」とか「教えたくなかったと言い訳しながら秘匿技術を教える」とか、お仕着せの発展や平和を人類に手渡すような行動ばかりだ。結局のところ、彼がしていることはパターナリズムのそしりをまぬがれない。彼が自分でも警戒しているところの“神”になってしまうことから逃れられていない。
クライマックスには、前述した『ウルトラマン』第37話『小さな英雄』の展開をなぞりながら、人類の自発的成長をウルトラマンが促す物語――促している以上、それはまるで自発的ではない――が描かれることになる。かくしてウルトラマンは、“神”ってほど偉そうではないが“仲間”と呼ぶには偉大すぎる、“ひかえめな天佑”という立場に落ち着くことになる。やんぬるかな。

 

9.3.人(々)と神(々)――【シン】ウルトラ【マン】

ただ、このように『シン・ウルトラマン』の感想を構造化して再度語ってみると、気づかされることもある。
巨大人型生物ウルトラマンは、初代ウルトラマンのように「地球人との心身の一体化」を果たしたにもかかわらず、初代ウルトラマンのようなあっけらかんとしたトリックスターにはなれなかった。巨大人型生物ウルトラマンにはまた、いっときは“神”でもない“天佑”でもない“仲間”になりかけたにもかかわらず、ウルトラセブンのように「人類の“仲間”」として物語を終えることはできなかった。巨大人型生物ウルトラマンは様々なウルトラマン観を垣間見せてくれたが、最後には“ウルトラセブン的な悩みを持った”“天佑”という、意外にも初期型の(しかし折衷された)ウルトラマン観に還っていくことになる。
巨大人型生物ウルトラマンは、決して人類を守るため地球に来たわけではないが、はたして人間を愛してしまったためにウルトラセブン的悩みを抱えることになった(ただ、セブンのように「人間を装っていることの欺瞞」を気に病んだわけでもないのだが)。また、彼ははっきりと“神”の座を降りようとしたが、結局は自分からパターナリスティックな行動をとったために、ほどほど“天佑”といえる存在になってしまった(彼を対等な“仲間”とみなせる地球人はもういまい)。これではまるで、“父”になりたくないのに“父”になろうとしている男だ。
ここに、人間になりたいと願ったわけでもないのに人間を愛してしまった男の苦労みたいなものが読み取れないだろうか。“神”になりたかったわけでもないのに“神”に祭り上げられかけた男の苦労みたいなものが読み取れないだろうか。それは苦悩と呼ぶほどウェットなものでもない。『シン・ウルトラマン』の爆速の展開が感じさせるのは、ウェットな苦悩ではなく、もっとドライでシュールな苦労だ。
その苦労は、すでに押しも押されもせぬ大ベテランである初代ウルトラマンにも、まだまだルーキーであるウルトラマンエックスにもきっと持つことができない、彼だけが持っている孤独な苦労だ。『シン・ウルトラマン』の世界観が既存のウルトラシリーズからは慎重に切り離されていることを、いまはあなたもよく知っているだろう?

*1:『シン・ウルトラマン デザインワークス』(三好寛編,2022,カラー)に収録されたインタビューによれば、実際のところ、庵野氏は当初の予定では浅見女史と神永新二との軽いラブロマンスを描くはずであり、そのために体臭を嗅ぐシーンなどが差し込まれていたらしい。しかし、あの流れでラブロマンスを描けると本当に思ってたのか?

*2:ただ、瞥見では、庵野氏のインタビュー等々から得られる情報は、この読み方と強烈に矛盾するわけでも強烈に裏付けるわけでもないようである。

*3:この記事中の引用・参考文献表記は、脚注とごちゃごちゃになったちょっとヘンな体裁になっている。はてなブログでの見やすさを考慮してこのような体裁にしたが、もしあなたにとって参照しづらかったなら「申し訳ないことをした」。

*4:この記事で参照・引用した文献は、硬質な批評論文ばかりでなく、もっとやわらかめの、ムック本や半エッセイ本なども多い。このような文献群になった最大の理由はもちろん「硬質な文献を大量に捜索して読み込むのは私には骨が折れるから」である。
ただ、第二の理由として、「私は設定を中心にしてウルトラシリーズを読み取る記事としてこの記事を書きたかった」という理由も少しある。硬質な批評論文は、頻度的に言って、脚本家・監督の作家論に傾きがちなところがある。私はそういった作家論もけっこう好きだが、この記事は作家論よりもむしろ作品の設定自体を中心にして議論を展開したかった(これは単に私の好みの問題である)。設定を重視し、作家論に踏み入りすぎないようにと努めたとき、参照・引用したい文献はムック本が多かったわけである。

*5:引用にあたっては『僕たちの好きなウルトラマン』(大場勝一ほか編,2003,宝島社)を参考にした。

*6:「いくつもの文化が併存する社会の中で、どの文化圏にも完全には同化できずに、複数の文化に不完全に属している人々をパークはマージナルマン(境界人)と呼びました。」『社会学用語辞典』(田中正人編,2019,プレジデント社,p92)近年ではマージナルパーソンと表記されることも多い語だが、この記事ではウルトラマンと韻を踏みたいという小さな理由でマージナルマンとの表記を選んだ。

*7:私はこの記事中で「『怪獣VS人間』の構図に「お助けキャラとしての上位怪獣」が組み入れられたのは、人間が怪獣に100%勝利できるのはおこがましかったから」という理屈で議論を進めているが、企画変遷に対するこの解釈には異説もある。例えば、『ウルトラマン99の謎』(青柳宇井郎・赤星政尚,2006,二見書房)では、「上位怪獣」が組み入れられたのは「怪獣が人間に毎回倒されてしまうと怪獣たちの魅力が半減するから」であるとしている。また、例えば、佐藤健志は『ウルトラマンは、なぜ人類を守るのか』と題した評論において『妖星ゴラス』を引き合いに出しながら「「上位怪獣」が組み入れられたのは、当時善玉怪獣と化しつつあったゴジラの構造をそのまま引き写すため」と結論づけている(『映画宝島 Vol.2 怪獣学・入門!』町山智浩編,1992,JICC出版局)。

*8:詳しい方には補足するまでもないが、第三勢力が「上位怪獣」「宇宙人」「地球人と一体化した宇宙人」へと変節を遂げていった過程は決して単線的なものではなかった。変節の過程では「地球人と対話・協調する気まぐれな宇宙人」というキャラクターを擁する『WOO』という未製作企画の影響もあった。

*9:セリフ引用にあたっては、『ウルトラ検定 公式テキスト』(ウルトラ検定実行委員会編,2008,ダイヤモンド社)を参考にした。

*10:第26話『超兵器R1号』

*11:第42話『ノンマルトの使者』

*12:「地球人の側に立つか、正義・平等の側に立つかを迫られる」という、ウルトラセブンがたまに直面する問題構造は、のちの続編『平成ウルトラセブンシリーズ』で事後的に強化されることになる。この続編(唯一の正統続編というわけではなく、ウルトラセブンがたどりうる可能性の一つに過ぎない)のなかにおいて彼は、正義・平等でなく地球人の側に立ったことで故郷の上層部から懲戒を受け、暗黒星雲に幽閉されすらする。これほどまでのシリアスさは、ファンダム的には評価の分かれる部分となる。

*13:ウルトラマン99の謎』(青柳宇井郎・赤星政尚,2006,二見書房)バージョン違いの多い書籍なので注意。

*14:ウルトラマンA』の南夕子は例外。

*15:この変化の最大の原因は、メタ的には、おそらくは毎週々々郷秀樹を命の危機に追い込むことが作劇的に無理が大きかったからであろうが。

*16:ウルトラマンの愛した日本』(ウルトラマンタロウ,和智正喜訳,2013,宝島社,p134)より引用。

*17:郷秀樹と北斗星司はいずれも冒頭に命を失っているため「地球人と宇宙人との分離を果たすにはどちらかが命を落とさなくてはならないため、分離できなかった」という不可抗力的な事情もあった可能性はある。しかし理由とみなすにはこの推測ではいささか不十分だ。なぜなら、ウルトラマンタロウに変身する東光太郎も同じく冒頭に命を落としたが、詳しい理由の説明なしに、地球人と宇宙人双方存命のままでの分離を果たしている(とも解釈できる)ので。

*18:ヘラクレスにとって、天上に揚げられることは神性の強化とともに人間性の喪失をも意味していたのだろうか。示唆的にも、『ウルトラマンA』最終話『明日のエースは君だ!』において地球を去ろうとするエース / 北斗星司は「さようなら、北斗星司」と述べて人間としての日常から決別している。

*19:この記事の内容からすれば余談なのだが、このエピソード、「イデ隊員の内的葛藤」以外にも「防衛隊の激務の実際的なブラックさ」という問題も解決すべきものとして横たわっていたように思われてならない。物語的には、イデ隊員の内的葛藤のみが解決されて終結を見るのだが。

*20:『ウルトラ検定 公式テキスト』(ウルトラ検定実行委員会編,2008,ダイヤモンド社)より引用。

*21:『ザ☆ウルトラマン』第49話『ウルトラの星へ!! 第3部 U艦隊大激戦』などが顕著。

*22:展開の引用にあたっては『僕たちの好きなウルトラマン』(大場勝一ほか編,2003,宝島社)を参考にした。

*23:ウルトラマン99の謎』(青柳宇井郎・赤星政尚,2006,二見書房,p137)より引用。

*24:両セリフの引用にあたっては『ウルトラマン99の謎』(青柳宇井郎・赤星政尚,2006,二見書房)を参考にした。

*25:ただし、本編でほとんど語られない裏設定的な領域では、ウルトラマンの起源は宇宙にあるらしいという説も語られることがある。

*26:両腕で防御を固める怪獣を倒すために、アスカが元野球部の仲間ヒムロのアドバイスを受けて特訓し、ウルトラマンとしてフォークボールを模した技を習得するエピソード。

*27:セリフ引用にあたっては『僕たちの好きなウルトラマン』(大場勝一ほか編,2003,宝島社)を参考にした。

*28:関口は『ガイアとアグルの思い出』と題したエッセイでこのように述べている。「藤宮はいつも、「人類」という大きな単位でものを考えてしまっていた。一人ひとりの顔は見えておらず、ひと括りに「愚かな人類」と言い切るセリフが何回も出てきた。このセリフには、個としての人は存在していなかった」『僕たちの好きなウルトラマン』(大場勝一ほか編,2003,宝島社,p127)

*29:ここで「人間らしい」という修飾語は、「人間だれしもが持つ」という意図ではなく「人間より上位の存在では持ちえない」という意図で述べている。

*30:「地球規模の防衛組織であるG.U.A.R.D.のなかでも、各分野に秀でた精鋭たちで構成された部隊」『平成ウルトラマン メカクロニクル』(斉藤秀夫・渡辺美樹編,2021,ぴあ株式会社,p40)比較的軍事色が強く、保有する技術力が現実のものよりかなり進んでいる。

*31:関口の『“人間ウルトラマン”を支えたXIG隊員たちの魅力とは』によれば、「怪獣との戦いの場面で、その個性は最も発揮された。これまでのウルトラマンとは比べ物にならないほど、ガイアは人間と協力して怪獣を倒すことが多いのだ。怪獣を倒したあと、飛び去るウルトラマンとXIGファイターのパイロットたちが敬礼を交わすシーンも、ごく自然に描かれていた。」『僕たちの好きなウルトラマン』(大場勝一ほか編,2003,宝島社,p131)

*32:「各国のGUYS支部に配備されている実戦部隊の総称で、日本支部の正式名称は「CREW GUYS JAPAN」。」『平成ウルトラマン メカクロニクル』(斉藤秀夫・渡辺美樹編,2021,ぴあ株式会社,p98)対怪獣・対宇宙人というニュアンスが強い軍事組織。保有する技術力が現実よりもかなり進んでいるが、異星由来の技術は多くがブラックボックス化している。

*33:ところで、防衛隊がウルトラマンの正体を知ったうえでその仲間に加え入れるということは、それまで「防衛隊とウルトラマン」という構図で展開されることが多かった「人々と神」の関係性が、「一般市民と防衛隊&ウルトラマン」という新たな構図で展開されるという可能性を含む。実際、『ウルトラマンメビウス』の終盤では、CREW GUYSとメビウス / ヒビノ・ミライはともに立って市民社会からの非難や応援にさらされることになった。具体的には、『ウルトラマンと「正義」の話をしよう』(神谷和宏,2011,朝日新聞出版,p112)によれば「番組終盤では、現代日本ポピュリズムが描かれ、大衆の脅威がウルトラマンメビウスの前に立ちはだかりました」。この展開は注目すべきものに思われるが、『シン・ウルトラマン』の感想に接続しづらいためこの記事ではこれ以上触れない。

*34:「スペースミッションのエキスパートたちで構成された組織で、ZAPは「Zata Astronomical Pioneers」の略称。」『平成ウルトラマン メカクロニクル』(斉藤秀夫・渡辺美樹編,2021,ぴあ株式会社,p114)地球外で惑星を開拓する開拓団の警備組織。未来を舞台にした作品らしく科学技術の水準は高い。

*35:ウルトラマンゼロはニュージェネレーションヒーローズに含まれたり含まれなかったりする。この記事ではさしあたり含むものとして記述した。

*36:いちおう譲歩しておくと、ウルトラマンの精神が変身アイテムのなかに内蔵されているという印象は全くもってギンガが創始したものだとまではいえない。『ウルトラマンギンガ』よりも前の『ウルトラマンコスモス』でも、変身前の人間が変身アイテム「コスモプラック」に対して話しかける、というようなシーンは存在した。ただ、この記事ではウルトラマンエックスとの影響関係を重視して、エックス直前のヒーローであるギンガにスポットライトをあてる。

*37:『劇場版 ウルトラマンオーブ 絆の力、おかりします』においてはついに、ウルトラマンエックスがカーナビとして振る舞うというギャグまで用意された。

*38:友人にこの記事の草稿を読んでもらったところ「ウルトラマンがアイテムのなかに宿りがちであることの背景としては、電子機器の普及で子供含めた社会の想像力が変化してきたという要因のほうが強いのではないか」という指摘をもらった。確かに。

*39:本当は、『ウルトラマンZ』における「かなり漸進的ではあるが、防衛活動がたとえ加害を伴っても自己の責任において引き受けようとする態度」云々について語ってみたい気持ちは少しある。しかし、『ウルトラマンZ』は“新世代”の枠からは外れるし、作品ごとの各論に踏み込みすぎるのは本意ではないし、この記事としては遠慮しておこう。

*40:『シン・ウルトラマン』中で「ウルトラマンが自身のマージナル性をいいように利用した」シーンであると私がとらえているのは、「なんだかんだ言いつつも、半分は地球人であるという立場を利用してベータ―ボックスを強奪したシーン」である。この理屈は端的に詭弁だと私は考えている。

*41:『シン・ウルトラマン デザインワークス』(三好寛編,2022,カラー)で三連作だったころの企画書が確認できる。なお、同書によれば、三連作は企画をさらにさかのぼると、『帰ってきたウルトラマン』リメイクとその前日譚・後日譚として生まれてきており、『帰ってきたウルトラマン』リメイクであるところの『続・シン・ウルトラマン』こそが当初の本命作品であるらしい。

*42:『シン・ウルトラマン デザインワークス』(三好寛編,2022,カラー)での庵野氏へのインタビューによれば、「“光の国”だと狭そうな印象」「“光の国”だとおとぎ話っぽい」という2点が“光の星”へと名称変更した決め手であったらしい。また、「既存のウルトラシリーズとの用語の違いは意図して作った」「ウルトラマンの故郷は意図して曖昧にした」とも語っている。

*43:しかし「謎の宇宙人ゾーフィがゼットンを使役する」という構図には劇場でもつい笑ってしまった。

*44:「M八七」の歌詞を引くことはあえてすまい。この手はすでに使い古されている。

*45:『21世紀ウルトラマン宣言』(PAX ULTRAMANA編,1995,幻冬舎)中の『ウルトラマン』最終話『さらばウルトラマン』評において富田は「一方ではウルトラマンを若干アメリカになぞらえているふしもあり、ムラマツの発言などに『国際貢献なんでも大賛成』的なニュアンスが感じられるのは否めない」と述べている。また、佐藤健志の『ウルトラマンは、なぜ人類を守るのか』という評論では、脚本家・金城哲夫におけるナショナリズムとコスモポリタニズムの個人的相克から発して、沖縄と日本との関係、日本とアメリカとの関係、人類とウルトラマンとの関係が線で結ばれていく(『映画宝島 Vol.2 怪獣学・入門!』町山智浩編,1992,JICC出版局)。この評論は圧巻。

*46:ウルトラマンアメリカ」以外では、『ヌーヴェル・バーグは「特撮」に実を結んだ!』でまるたしょうぞうが展開する「ウルトラマン天皇制(に代表される抑圧の原理を持った社会制度)」という見立てであるとか、『ウルトラマンにとって正義とは何か?』で切通理作が展開する「ウルトラマン=自我が肥大化して大人の社会から疎外されがちな青年」という見立てであるとか、「ウルトラマン=国境や血縁に支配されない理想的キリスト者」という見立てがあるらしい(いずれも『映画宝島 Vol.2 怪獣学・入門!』町山智浩編,1992,JICC出版局)を参照)。ただし、これらの見立ては作品論というよりかは幾人かの脚本家の作家論としての性質が強いことに注意。

*47:これは強調しておきたいことだが、「明朗さよりも神秘性を感じる」という部分に関してはあくまで私の主観だ。
ひょっとすると、「ウルトラマンアメリカか、神仏か」を問うことは、作品に対する分析であるよりかは私自身の怪獣ファンとしての系統を確かめるものでしかないのかもしれない。以下はまったくの私見だが、昔から怪獣ファンの中にはいくつかの系統群がある。怪獣のなかに社会風刺としての対応物を見出したがる「社会学政治学派」や、日本古来の神仏妖怪を見出したがる「宗教学・民俗学派」や、架空生物としてのかぎかっこ付きのリアリティを見出したがる「生物学派」などが代表的な系統群だ。私自身は、『空想科学読本』やガンダムのエンタメバイブル(それは私の世代にとっての大伴昌司怪獣図解のようなものだ)によってオタクとして産まれ、『SCP』でオタクとして育ってきたような人間であったから、第一に「生物学派」第二に「宗教学・民俗学派」であり、過度に「社会学政治学」的なアプローチにはいつも違和感を感じてしまうのだ。

*48:これはわりに余談だが、「ウルトラマン=神」とみなす見方は、信仰と近代的合理主義との関連のなかではより両義的に作用する。
一方では、信仰と近代的合理主義は相反するとみなせる。そのため、未開・自然の象徴たる怪獣を倒す戦士であるウルトラマンは文明・近代的合理主義の使者である(『ウルトラマンと「正義」の話をしよう』(神谷和宏,2011,朝日新聞出版)など参照)。そこからさらに独自解釈を進めるなら、ウルトラマンは自身の神秘性を否定する存在であるのかもしれない。
他方では、戦後日本にとって科学技術は信仰の対象であったともみなせる。そのため、ウルトラマンは科学技術をその理論的過程にかかわらず信頼させる「科学信仰」のなかにおいてまぎれもなく神であるということになる。独自解釈するなら、ウルトラマンは、自身と科学とをもろともに神秘化し、科学を宗教へと高める存在であるということである。

*49:「イントロダクション・ストーリー」(映画『シン・ウルトラマン』公式サイト,カラー編,2022,2022年5月19日取得,https://shin-ultraman.jp/story/)によれば、『シン・ウルトラマン』は「「ウルトラマン」の企画・発想の原点に立ち還りながら、現代日本を舞台に、未だ誰も見たことのない“ウルトラマン”が初めて降着した世界を描く、感動と興奮のエンターテインメント大作」を意図している。

*50:映画を観ればわかる通り、真相から言えばメフィラスの登場は突然のものではなかったが。

*51:ウルトラマンの助けを最初から期待してはいけない / 期待することができない」という条件と「ウルトラマンは純粋な正義感で行動していると期待する」という条件の2点に支えられた友情賛歌のムードが、なぜ私には「穏健」「コンサバティブ」に感じられたのか、今しばしの説明が必要だろう。
それというのも、昭和・平成を経て特に多様なコンセプトが花開いた平成第2期(『コスモス』『ネクサス』『マックス』『メビウス』の4作。「ハイコンセプトウルトラマン」とも呼ばれる。この記事中の流れで言えば、『ガイア』と『ウルトラ銀河伝説』のあいだ)の最終作『ウルトラマンメビウス』において、多様なコンセプトを経験した先の究極の原点回帰として出てきたのが『シン・ウルトラマン』とも重なる友情賛歌というコンセプトだったのである。『ウルトラシリーズの全貌』と題した評論においてカベルナリア吉田はこう語っている。「21世紀は新たに4作品のウルトラマンが誕生した。そのキーワードは、試行錯誤を交えつつも「原点回帰」である。出身地は久々に「宇宙」そして「M78星雲」「光の国」に戻り、単純明快な「外敵退治」と「兄弟」が復活した。だがそこに至る新世紀のウルトラ世界は、複雑なカオスに満ちていたのも事実である。(中略)「地球の平和は自らの手で守る」「信じる心を捨てない」という2大テーマをメビウスは饒舌に語りかける。幾多の混沌を経て辿り着いたのは、忘れかけていた崇高な理念。過去のウルトラマンの様々な謎も解かれ、メビウスを経てウルトラ世界は大団円ともいうべきひとつの結晶に達したといえるだろう。」『ウルトラ検定 公式テキスト』(ウルトラ検定実行委員会編,2008,ダイヤモンド社,p38-41)

*52:私は、私が『シン・ウルトラマン』をして「穏健」「コンサバティブ」であると思ったこと自体は個人的な感想であるが、そう思った経緯の何割かにはいくぶんの共感を得られるのではないかと思ってその説明をしている。
ところで、『シン・ウルトラマン』がコンサバティブであったことを挙げて庵野氏のことを「古ければ何でもほめる原理主義者」と断ずるひともひょっとしたらいるかもと思うが、そうした断定にははっきり異を唱えておきたい。庵野氏は、ともすれば初期3作にばかり評価が傾きがちだったであろう過去のウルトラシリーズファンダムにあっても、初期3作には含まれない『帰ってきたウルトラマン』をおそらく一貫して評価し続けてきた人物である。過去のファンダムの雰囲気は、私にとっては想像してみるよりほかにないことではあるが、当時よりの庵野氏は「自身の価値基準をはっきりと持って、新しかろうがいいものはいいと言える」オタクであっただろうと推測している。