しくじったかも

日記みたいな内容。

 

 

 

 

この前自分がしたことの是非について、深刻ではないが容易には打ち消しがたいもやもやを感じている。

 

この前、Twitterで知り合いの知り合いくらいの人*1が「○○さんのエロ絵がほしいな*2」みたいなことを仰っていて、私はなんとはなしにその「○○」のビジュアルを画像検索してみて「ふーん、この○○さんという方の淫靡な絵を描いたらちょっと楽しいかもな~」と思った。そこで、まあ個人的な興味でその○○さんという方の、エロ絵ってほどじゃないがちょっと淫靡な絵を描いてTwitterにアップした。私の描いたもののなかではほどほどには描けたほうで、個人的にお絵描きの勉強にもなったから、その時は満足した。

 

もやもやしだしたのはちょっと後になってからだ。
一応言っておくと、私が今もやもやしているのは、私の描いた絵が多くの人の目に触れて社会に対して実際的なインパクトを与えたというたぐいの問題ではない*3。私がもやもやしているのは、強いてどちらかというならば倫理的な方の問題であって、倫理的な方の問題というのは「実際社会的に問題になったか否か」とは関係なく、それ自体で問題になったりならなかったりする(と私は思っている)。
○○さんの絵を描くにあたって、私は当然、単なる画像検索にとどまらず、○○さんの公式サイトや公式コンテンツやPixivのファンアートやTwitterのファンアートを多角的に参照して、○○さんを構成する記号を理解するよう努めた(当然だよな?)。そのため、私が絵を描く前後で○○さんへの理解はだんだん高まっていったわけなのだが、無事絵を描き終わってTwitterにアップした後、ひと段落してからぼんやりと思い浮かんだことがある。
「もしかして○○さんって半ナマモノ?」

 

私は、ごく個人的な倫理的判断として『フィクションのキャラクターの性的な絵を描いて発表することは別に構わないが、実在人物(ナマモノ)の性的な絵を描いて発表することは、私は私に許さない』というルールを持っている。その点で、「普通にフィクション(非ナマ)だと思って絵を描いたキャラがあとから半ナマ(かもしれない)と判明した」という今回の事態はまあまあのダメージだった。私は私に禁じていることを不注意に行ってしまったのか?

 

私が、キャラや人間等に対して性的な関心を惹起するような表現を公に行う(ちょっと淫靡な絵を描いてTwitterにあげるとか)ときのスタンスは、以下のように整理される*4*5

諸般の事情のため、2022/6/9に表の一部表現を更新した。

この表の内実が実際どうなのかとかいったことは今回は割とどうでもいい。今回問題にすべきなのは、この表であらわされる私のスタンスが「フィクションのキャラと実在人物は截然と区別できる」ことを自明な前提としていることだ。「半ナマ」という中間カテゴリー?がいるなんてこと、この表は想定していないし、「フィクションだと思ってたけどあとから半ナマだとわかる」なんていう状況も想定していない。今回は想定していないことが起こってしまった。私がこの前したことは私的にアリなのかナシなのか、現状自信がない。

 

何が問題かと言えば、「○○さんはどういうキャラなのか」を十分に理解する前にラフを描き始めた私が9割5分悪くて、「フィクションキャラと実在人物が区別できる」ことを自明視していた私も4分ぐらい悪くて、残り1分は「Vtuberとかバーチャルアイドルとか、中間カテゴリーを急にたくさん作り出してきた“いま”という時代」が悪い。
ここであなたの言いたいであろうこともよくわかる。「べつに半ナマなんて今に始まったことじゃないでしょ、昔からあるじゃない」それはもちろんそうだ。事態は今始まったことじゃあない。この前までの私だって「半ナマ」というカテゴリーが存在することを知らなかったわけじゃあない。でも……でも、自分は自分のことを半ナマやナマモノには興味ないと知っていたし、一生縁がないだろうなと思っていたから、見た目がキャラキャラしいキャラにはかえってコロッとだまされてしまって、「実は半ナマ(かも)」とは露ほども思わなかったのだ。
くそ、昔はもっと単純なことだったんだ、キャラっぽい見た目してればみんなフィクションで……あれだけたくさんの記号が組織化されているキャラが、まさか半ナマかもしれないなんて思うわけないじゃんか……。

 

正確には、私が今もやもやしている問題というのは、倫理的判断の問題ではないようだ。
むしろ、倫理的判断の問題であったなら、それはそれで大変ではあるが、初めて遭遇する問題ではない……私には、自分で悪いと思いながら実在人物に対して害を及ぼしてしまった経験や、先に悪いことだとは判断できなかったがのちに悪いことだと判断するような害を及ぼしてしまった経験もあり、現在進行中で悩んでいたり倫理的判断の基準を更新していたりすることもある。こういった「倫理的判断の問題」もそれはそれで悩ましいが、私が今もやもやしている方の問題は、まるで質の違った、いままでそう何度も経験したことのないタイプの悩ましさがある。
「○○さんのちょっと淫靡な絵を描いて発表すること」に抵抗がなかった過去の自分とちょっと抵抗を感じている今の自分との間で違うのは、倫理的判断の基準ではなく、カテゴリー判断の基準だ。過去の自分と現在の自分とは、お互いにカテゴリー錯誤を犯しているように見えるわけで、この溝は倫理的判断基準の違いよりもある意味深い。自分にカテゴリー錯誤が存在する(かも)ということは、倫理的判断の基準が怪しいという次元にとどまらず、倫理的判断そのものの不可能性をつきつけてくるからだ。
他ならぬ自分が〈認知のゆがみ〉*6に陥っているように感じられるというのは気分が悪い。まあ、自分自身の〈認知のゆがみ〉を問うというのも、人生で定期的に直面する事態ではありますけどね……。

*1:相手さんが私に言及された場合不都合かどうかよくわからないので具体的に誰とは言及しないでおくが、私はこの件について相手さんに言及されても特に問題ない。

*2:いや、この表現も不正確なんかな……。相手さんのスタンスが読み切れない部分もある。

*3:自分でわかるものだが、私の絵の巧さは「どこのクラスにも一、二人はいる」くらいのレベルであって、巧くないということはないがさりとて驚くほど巧いわけでもない。

*4:私は道徳の実在を信じていないので、「倫理的判断」といってもカギカッコつきのものにしかならない。この表のなかで「倫理的判断」が「個人的」であるうえに階層化されているのは大雑把に言うとそういう事情のためだ。

*5:ちなみに、「個人的に思い入れのある実在人物」の欄が存在しないのは、単に私が該当者をぱっと思いつかなかったからだ。

*6:もちろん双方向性の