脇に関する否認と妄想

架空の事物が『完全性』を持つことはアンビバレントである。

 

架空のキャラクターがどこかの世界では確かにそこにいてそこで生き続けている、という状況は、“オタク”を惹きつける独特の香気を放つと同時に……いやむしろその香りこそが見方を変えると悪臭でもある。
具体的にいうなら、例えば匂いの問題である。全く架空の美少女を考えたとき、彼女が確かな重みと手触りを持ってどこかにいる、ということは確かに安堵にも似た喜びを我々に与えるが、しかし我々は同時に受け入れがたい複数の属性をもその美少女のうちに認めなければならない。それは、美少女だって臭くて仕方ない状況では臭いということだ。

このことは二重にやっかいだ。第一には、これは美少女を理想化しているひとにとってだが、美少女が臭いということを認めることは非常な苦痛を伴いうる。一部の人びとは熱心に主張するだろう、美少女はどんな状況であれどんな理由であれ臭いはずはないのだと。(私自身は、まあ、美しいひとや好きなひとが特定の状況で臭かろうと別にいいんじゃないのという立場だが、それでも問題なのが)第二には、たとえ美少女が臭くてもとくに問題ないとしても、美少女が誰も見ていない状況下でも臭かったり臭くなかったりするということはそれ自体、幻想の幻想性を損なうということだ。幻想は、賢明にも完全性から距離を置いていることによってその自律性と寓意性とを保っているのだと、私は――あくまで「私は」だが――考える*1。はたして、完全性を持った幻想は、自律性と寓意性とを失った幻想になってしまうか、あるいは単に幻想でない。「アイドルはトイレなんか行かない」とはよく言ったものである。

 

LW氏はブログに寄せられた質問への返答として、こう語っている。

53.ワキじゃなくて横乳が好きなだけなんじゃないですか?
いや、それは有り得ないですよ。これは完全否定できます。
萌えキャラの腋がいい匂いっていうのはそれなりに一般的条理を捻じ曲げているという自覚はあるんですが、萌えの起源は完全性なのでその捻じ曲げによって担保される節があるわけですね。

18/3/16 新世代バーチューバーの動向 - LWのサイゼリヤ

どうも、LW氏のような(二次元限定の)脇フェチというものは「美少女の脇はいい香りがする」という認識を介して脇を愛するのだそうだ。ここで、キャラクターに完全性をもっていてほしい気持ちともっていてほしくない気持ち、また美少女が臭いはずがないという確信とときには臭いはずだという確信の、二つのねじれが崇拝者フェティシストたちをしてそのような教条へと向かわせるのではないか、と私は邪推してみたりもするのだが、門外漢の私には真相は不明である。崇拝者たち自身にしたって真相はわかっていないだろうが。

 

まあ少なくとも「匂い/香り」がひとつのファクターとなっているのは間違いない。おなじみWikipediaの『脇フェチ』のページ は、「匂い / 香り」と「性器の暗喩」の二本柱で脇フェチを解説しようとしている。
このことを知って腑に落ちるところが個人的にはある。私は脇フェチをまるで解さないのだが、その無理解はひょっとすると私の感覚の鈍さによるものなのかもしれない。
私は生来嗅覚がかなり鈍い。料理や薬品や獣には確かに匂いを感じるので、嗅覚が全くないとかいうことはないのだが、それでも世の人の平均よりはかなり鈍い……らしい。6人いる部屋のなかで私一人だけ料理が焦げているのに気が付かなかったとか、自分ではほぼ無臭の酒を飲んでいるつもりなのに背後にいる連れだけが酒の匂いを感じるだとか、そういったことはよく起こる。ただ、私と平均的な人との違いのうち、もっとわかりにくいが重要なのは、はっきりした「特異な鈍感エピソード」よりは、むしろ「ある種の普通なエピソードの欠如」だ。例えば私は、「ひとの体臭を感じて不快に思った」という思い出が、人生を通してみても思いあたらない(人間の匂いって、そりゃ汗だくの人を近くで嗅いだらわかりますけど、そんな日常で感じることってあります? 普通はあるんでしょうね)。例えば私には「父母の実家に帰ったときに感じる独特の匂い~」みたいなクリシェにいまいちぴんとこない。『きみの髪の香りはじけた』とかいった歌詞も、私にはずっと意味が分からなくて、他の人にも意味が分からないのだろうと長らく思っていた。

 

この鈍さは副産物として二つの特徴を私に与えている*2。第一に私は、他人が感じる不快感への想像力が平均からいって(おそらく)かなり欠如している。ひとの体臭に不快感を感じる、みたいな気持ちがとくに想像しづらい。私は、職場で昼休憩の間にニンニクたっぷりのコンビニパスタを食べることを――まあ頭では他人の不快を理解しているから避けるのだが――我慢するためにいつも多大な精神的労力を払っている。そのとき、私のなかには「午後じゅうニンニクの匂いしてたら自分だったらいやだな、他人にもそんな気持をさせないであげよう」という基盤が存在しないので、私は純粋に理性のみでニンニクの誘惑と闘わなければならない*3*4

 

第二に、多くの人がいくぶん感覚に基づいて“実在”をとらえようとしているのに対して、私はかなり観念に頼って“実在”をとらえようとする傾向がある。感覚に基づいた認識が結局のところ特定の時空間意識を自明視させるのだとすれば、私には、多くの人がするような時空間の認識を素直に受け入れることが比較的少ない傾向にある。抽象的な言い方ばかりしてしまって申し訳ないから、少しだけはっきりと言うと、私個人は迫真性を同定するうえでは時空間の連続性よりかは実在感や応答完備性に軍配を上げがちだということだ。
当たり前だが、嗅覚の存在はひとが時間と空間を認識する在り方に深く影響する(これは五感のすべてと体性感覚についていえることだろうが、今ここでは嗅覚についていうのが特に言いやすい)。
例えば、嗅覚は五感のなかでもとくに記憶と結びつきやすいという話はよく聞くものだが(私はこの話の典拠を知らない)、「思い出と言えば匂いがあるよね」という感覚がわかる人とわからない人との間では、当然時間に対する感覚は異なるだろう。持たざる側の人間である私には憶測しかできないが、前者の人々は、思い出ひとつひとつの実在感を個別に感じられるために、それらに整序性がなくても不安を抱きにくいが、後者の人々は思い出ひとつひとつでは実在感を感じにくいので、思い出の人生単位での整序性を比較的強く必要とする……みたいな違いはありうるだろうか?
例えば、嗅覚は空間の内容を意味あるものにせしめる*5。また、嗅覚は(他の感覚ほどには)空間の構造を意味あるものにはしない。空間のことを、おおむね内容によって…情報の「有」のみによってとらえようとする人と、おおむね構造によって…(それが十分にミクロである限り)均質に広がっている情報の「容れもの」としてのみとらえようとしている人との間では、やはり空間に対する感覚は異なるだろう。前者の人々は「有る」情報だけが敷き詰められたヒエログリフ的な空間を、後者の人々は均質な容れもののなかに情報の「有無」だけが点在する透視図法的な空間を想定しがちである……みたいな違いはありうるだろうか?*6

 

それが若干の自分語りを含むために、ついつい嗅覚に関連した話をしすぎてしまった*7。私がこの記事で述べておきたいことはもう残り少ない。いちおうかたちだけ、話を本題「脇」に戻したうえで、締めとしよう。


このブログの目下の課題である(???)Vtuberだが、キズナアイや白上フブキといった、それぞれの時代をけん引したVtuberたちがノースリーブであったのは、べつに脇フェチたちの要求にこたえるためではなく、技術的選好によるものが大きかったと私はにらんでいる。
ノースリーブは、一般的な様式の3Dモデル・Live2Dモデルに非常に向いた構造である。いやむしろ、袖が存在する服が3Dモデル・Live2Dモデルに向いていないというべきか?
もしも、「美少女として魅力的である」という目標とは別の目標によって*8選択されたノースリーブが、偶然にして幾人かの脇フェチの心をとらえているのだとすれば、なかなか官能的な事態ではないだろうか?*9*10

*1:いまどき多くのひとは「想像の余地があったほうが想像できるから」などといって幻想の不完全性を尊ぶだろうが、私からすれば不完全性の価値は単に我々が想像を許されるという程度のことにとどまらないのである。

*2:ここからする話“も”、冷静に考えればわりと普通の話なので、変に議論の新奇性を求めて読まないでほしいというのは私が読者に望んでいるところである。

*3:誤解を招きたくないので言っておくが、私は、倫理そのものは、「自分だったらいやだな」とかいった原理によって駆動させるべきではないと思っている。倫理が、客観的に正しいことをし客観的に正しくないことをしないというルールならば、倫理は「自分ならどうか」とか「共感できるか」とかいった状況に依存するべきではない。黄金律はクソで、黄金律によって倫理を基礎づけようというのは単なる甘えだ。たいがい、「人間として当然の思いやりが云々」とか軽々しく口にして性善説性悪説を唱えるような人間は、人間なるもののバリエーションを狭く捉えすぎなのだ。
そういうわけで、「自分だったらいやだな」とかいう感情は、倫理的配慮をなすうえでべつに必須ではなく、むしろ配慮を簡単に遂行するための外部付属品であると私は考えている。本文においても、その程度の付属品として「自分だったらいやだな」のことを取り扱っているので、注意されたし。

*4:五感によって、嗅覚によって、己の信念を支えようとする人というのが(まるで理解できないので)私はかなり苦手で、いったい何が言いたいのかというと「炭治郎とかいう男めちゃくちゃ怖い」ということです。怖くない?

*5:ほかの感覚……例えば視覚は、空間の構造を生みはしても、空間の内容を生むことにおいては嗅覚に比べてかなり劣っているだろう。
視覚においては、「どこに固体があってどこに液体があって、その他の場所は空気で満たされている(かあるいは空虚である)」といった情報は生まれ得る。だが、(高山の尾根や都庁周辺や灼けた道路の向こうなどといった比較的大規模な空間を除いたとき)「一見空虚にみえる空間に、空気はあるのかないのか、空気にはなんらかの微粒子が含まれているのか、湿度は高いのか低いのか、あるいは本当に真空なのか」といった情報は生み出せない。空気は無色透明なので。一方で、嗅覚は、視覚ならば単なる空虚として処理してしまう場所についても、何らかの匂いという情報を生み出す場合がある。視覚は、「そこに固体・液体がある / ない」という情報に終始することが多いが、嗅覚は嗅ぎうる小さな空間に何らかのアナログなパラメータを生みだしうる。
などと書きながら、本当は私は半信半疑だ。嗅覚のような、指向性が低く即応性にむらがある情報が空間に対する感覚を生むことなど本当にあるのだろうか。第四宇宙のマジョラや斑木方のガブリール、あるいは実在する哺乳類などが嗅覚でもって彼我の位置や運動を認識し、戦闘行為に活かしていることなどが、どの程度リアルでどの程度ファンタジーなのか、生物による嗅覚の利用に詳しい識者に聞いてみたいところである。

*6:あわせて気になる⇒写真や写真の子孫としての映画やテレビでなく、匂いを伝達する媒体によって複製技術時代がもしも到来していたら、その世界線の人びとの空間意識はどのようなものになっていたのだろうか?

*7:正直に言ってしまうと、私は、物理的/構造的要因による決定論を連想させるような話を一面的に展開したために『いまどきサピア=ウォーフですか?wwww』とか『ヴェブレン信者乙wwww』とか冷笑されることを恐れている。たとえそれがいかに冷静で慎重な議論であれ、極端な(ととられかねない)相対主義を述べることによるリターンは反論を受けるリスクに見合っていない。

*8:私は「袖が存在する服は3Dモデル・Live2Dモデルによって再現することが不可能である」と言っているわけではない。袖が存在する服は3Dモデル・Live2Dモデルと相性が悪く、一定の技術と覚悟がなければ抜きんでて魅力的な3Dモデル・Live2Dモデルにするのは困難だ、というのが私の言わんとすることだ。だから、新たにVtuberを作るうえでノースリーブを選択するというのも、一応ある意味では「Vtuberを美少女として魅力的にする」という目的に対する手段の一種であるとはいえる。やや間接的ではあるが。

*9:ただし、脇フェチは一般に「脇が見えやすければ見えやすいほどいい」というものではない。この事実は当記事の雑な締めに対して膨大な反論を提供するであろう。

半袖や長袖によって脇が「普段は」隠されているという状況は、匂いの源としても、性器の暗喩としても、脇の神性をより強化する。具体例としては、LW氏がツイッター上でなんか触れてた気がするこの記事が参考になるかもしれない。『間違いなく屈強な腋フェチがイラスト班にいる【ガールフレンド(仮)】』

*10:とはいえ、たとえノースリーブの技術的選好と脇フェチとの出会いが運命的に官能的な出会いだったとしても、その出会いばかりを指摘して持ち上げるのは恣意的に過ぎるというところがある。似たような出会いはいくらでも例示しうるのだ。例えば美少女の胸のふくらみだって、かなり3D・Live2Dと相性がいい造形であると同時に、多くの崇拝者を擁する物神でもある。