彼方の反撃

前回:一撃イチゲキ、のち沈黙

 

1

そこに立った者は、最初、そこを歴史ある城塞都市の一角か何かと勘違いするかもしれない。それは、石畳の道路の左右を、あちらこちらがツタに覆われた石造りの壁が挟んでおり、壁の向こうにはごつごつと不揃いなシルエットの城塞風の建物がのぞいているからだ。

しかし、ひとはすぐに違和感に気づくだろう。なぜなら、あらゆる道路は、少し歩いてみれば曲がり角や階段、行き止まりや短いトンネルや陸橋にやけに頻繫に突き当たるからだ。また、どれだけ歩いても、住居や店舗その他の生活感ある空間に行きつくことがない、それどころか、屋根のある場所を見かけることすらまれだからでもある。

そこは街などではなく、ただ人を惑わせるためにのみ複雑に造られた空間……要は迷路なのだ。この迷路に特定のスタートやゴールは設定されておらず、延々と地平線まで続いている。ただ、この場所をさまよう人々の目標としてちょうどいいランドマークがひとつある。それは、迷路のなかでもやや高くなった地点の中央に立っている高さ50mほどの展望塔だ。そして、この迷路が広がる空間こそがパリラの半独立空間であり、この展望塔の屋上こそがパリラがふだん配信を行っているお気に入りの場所だ。

 

屋上の中央にはマホガニーのティーテーブルと椅子が2脚出されている。ティーテーブルの上にはごく簡単なティーセット。椅子の片方には、いつも通り居住まいをただしたパリラが座っており、もう片方からは、アシルシア先生がちょうどいま立ち上がろうとしている。先生が着ている、簡素なデザインながら生地の良さを感じさせるキトンのひだが揺れる。

 

「じゃー、調整も終わったし、このへんで」

「まことに素晴らしい調整でしたわ、先生。本当に急なお願いになってしまって、ごめんなさい」

「いーよ。ま、パリラちゃんの今日のお願いは、レイちゃんのに比べたらずっと簡単だし」

 

パリラは、パリラが彼方と戦うこの日の朝早く、アシルシア先生に自分の身体の特別な調整を依頼したのだ。昨晩、レイと彼方との戦いを見ていて思いついた作戦を実行するためだった。

 

「本当に、アシルシア先生たちのおかげで可能になることがいくつもありますわ。感謝してもしきれません」

「ま、友達がいてはじめて試せることがあるのは私たちとしても同じだからね。ほら、不可能を可能にしてくれる人がもう一人」

 

そう言ってアシルシア先生が転移魔法で姿を消すと、ほぼ入れ違いに転移魔法で姿を現したのが、黒い着流しをまとった赤髪のオニ。ローチカ博士だ。なぜか転移してきた瞬間から、顎を目いっぱいあげて周囲を威嚇する視線を放っている。

 

「……おい、アシルシアあたりがあたしの悪口言ってなかったか?」

「先生がいたこと、よくおわかりになりますね。でも、悪口ではありませんでしたわ」

「はっ、どうだか」

「ようこそおいでくださいました、ローチカ博士」

 

ローチカ博士は、屋上の中央にある椅子へ迷いなく歩み寄り、彼女の下駄がガチリガチリと音を立てる。この空間の基礎設計を担ったのがローチカ博士であるので、歩くのに迷いがないのは当たり前のことではあるのだが、それにしても足音が必要以上に大きい。この足音は、もはや博士の不随意行動と化している、周囲の不特定多数の人間への威嚇行動の一環だ。より平たく言うなら、ローチカ博士は、“ナメられないようにしていないと死んでしまう”たぐいの人間なのだ。パリラは、自分自身とは大きく隔たった哲学を持つこの博士の見慣れた行動につい苦笑する。

 

両ひざでたっぷり幅を取って着席したローチカ博士は、着流しの袖に手を突っ込み、ガサゴソと袖の中を探る。やがて取り出したのは、スチール製の赤い大きな工具箱だ。ローチカ博士はティーテーブルが軋むのも構わず工具箱を上に置く。そしてふたを開けば、段違いになったいくつもの箱が展開し、その中には種々雑多な道具の数々が収まっている。ノコギリや金づちといった当たり前の大工道具から、絵筆や計算尺といった畑違いの道具、そして、パリラには名前も用途もわからない謎の器具の数々まで。そんな道具たちの数々の真ん中で特に目立っているのが、工具箱に据え付けになっているモニターとキーボードだ。これはローチカ博士が空間の構造をいじるときに最もよく用いる、汎用のコンソールであった。

さっそくキーボードを叩き始めたローチカ博士が、モニターに目を落としたまま言う。

 

「前置きは抜きで、さっそくはじめるぜ。この半独立空間の構造を根っこから改造するんだったな」

「はい。大規模な改造になってしまうかと思いますが……今日じゅうに行けそうでしょうか」

「朝、メールで要件をもらったが、これ、たぶんお前が思ってるほど大改造ってわけじゃねえな。知らねえと思うが、もともとこの空間はこういう類の改造も視野に入れて基礎設計してあんだよ。まあ15時くらいにはカタがつくんじゃねえの」

「……そうでしたか。助かります、わ」

 

何か含むところがありそうなパリラの口ぶりに、ローチカ博士は視線だけ一瞬パリラに向ける。が、すぐにモニターに視線を戻してキーを叩き続ける。

 

「パリラ、権限をよこしてくれ。もうリアルタイムで空間に反映させるから」

「わかりましたわ」

「……来た。……ところでお前、今日の戦いを仮に生き残ったとして、Celestiaを解散したあと何すっか考えてんのか」

「来年のことなんて言ったらお笑いになるでしょう?」

「言いたくないならいいんだ。べつにそこまで興味もない」

「正直に申し上げますと、何も考えていませんわ」

「そうか。……多少は考えとけよ」

「どうもローチカ博士らしくない世間話ですわね」

「そうか?」

「先のことを考えろ、とか、生きがいをもって生きよう、とかいった、大人が子どもに言うテンプレをなぞりがちなお説教をくださるタイプではないと思っていましたわ」

「テンプレかどうかはわからねえが? しっかし、あたしはお前らが思ってるよりつまんねえ大人だよ。そんでお前らはあたしからすりゃまったくのガキだ。まあ、お前らとじゃあ寿命が違うから、見た目じゃわかりにくいがな」

「そうでしたか。わたくし、博士のこと、いささか誤解していたのかもしれませんね」

「ひとの心なんて、誰にだってわかったもんじゃねえよ」

 

しばらくの間、ローチカ博士がキーを叩く音だけが響く。沈黙に耐え切れず、パリラはすっかりテーブルの端に追いやられていたティーカップをとりあげ、口をつける。冷めている。

 

「未来のことではありませんが、今日やりたいことははっきりとありますわ。ささやかなトリックですが、おそらく、この世界でまだ誰も試したことのないトリック」

「そのためにこの改造が必要なんだろ」

「はい。博士のおかげで実現できそうです。しかし、少しだけ困っています」

「は?」

「15時に完成となると、15時から19時の間はツバメさんとの模擬戦の準備と実行のために割くとして、19時に彼方さんとの本番を開始……私が練習をする時間がありませんわ。ぶっつけでいくしかありませんね、不確実ですけれど」

「おい、はっきり言えよ」

「13時に改造を完了できないでしょうか?」

 

ほんの一瞬ではあったが、博士がキーを叩く音が止まり、そして博士は片眉を思いっきりゆがめる。

 

「はぁぁぁあ? ……ったく、どいつもこいつも、おだてたり泣いたりすりゃ納入が早くなると思いやがって。エンジニアが15時っつったら15時なんだよ、そこに遊びはねえんだよ」

「わたくしはおだてたり泣いたりはしません」

「そうだな。お前が言ってるのは、『この改造で、まだ誰もやったことのないことができる』とか、そういうことだったな。誰が喜ぶかとか悲しむかじゃない、ただ純粋に、ある特定の事態の実現可能性……そういうものを人質にすれば、あたしに無茶をさせられるとかふんでるんだろ、どうせ」

「お察しの通りです」

 

ローチカ博士は、パリラがこれまでも、これからも決して聞くことのない悪態の数々をつぶやきながら、しかしたしかにキーを叩くスピードを速くしている。

 

「そんな作戦をとっても何も変わりやしねえよ。何を人質に取ろうが、あたしの能力が上がったりはしねえからな。まあ、言っても14時だな。最大限急いでやったら、14時に完成する可能性はなくはない」

「本当に助かります」

「確約はしねえからな! ……なんか最近お前らみんなそういう手管を使いたがるよな。誰か『ローチカはちょろい』って言ってんだろ」

 

犯人は主にアリアとニースだ。彼女たちは、Celestiaメンバーが集まる場で『ローチカ博士にお願いを聞いてもらう方法』といったものを講釈したりしなかったりしている。

 

「ところで、全然関係ないことですが、アリアさんは、人物評というか、ひとの性格の本質を見抜くのが巧いですわね、わたくしたちのなかではとくに」

「呆れたガキどもだな。お前ら、そんな調子で空水彼方に勝てるのか? あいつは見た感じ、お前らが好きそうな小手先の細工で倒せる相手じゃない」

「ふふ。勝てるにせよ勝てないにせよ、すべきことはそう変わりませんわ。それに、やりたいことだって変わりません」

「やりたいことだあ?」

「いまは彼方さんに勝ちたい以上に、博士が実現してくださるこの空間を実戦で使ってみたくてうずうずしていますの」

「手段と目的が入れ替わりがちなのも感心しねえ」

「耳が痛いですわ」

 

ローチカ博士は、会話を打ち切って、袖の中をまたガサゴソと探り始める。次に博士が取り出したのは、アルミ製の折りたたみテーブル2つと、大きなパソコンモニター2つ。博士はテーブルを手早く組み立てて、モニターを上に置き、モニターから伸びたケーブルを工具箱につなぐ。マルチスクリーン体勢を整えて、博士は作業を続行する。

 

「ひとつ、よろしくて?」

「なんだよ」

「前々から気になっていたのですが、ローチカ博士の袖って一体どれだけのものが入りますの?」

「三次元の物体なら無限に入るな」

「まあ! 四次元ポケットそのものですわね。わたくしたちの地元でも、それほど高度な空間拡張魔法はなかなか見ません」

「お前らんとこのインチキな空間拡張と一緒にすんじゃねえよ。あたしのは、トポロジー的な整合性をきちんととったうえで等方的な空間同士を接続してるんだ、お前らんとこみたいに強引に空間を歪曲させてるわけじゃない。そんなやり方すると、1リットル拡張するときと1億リットル拡張するときで違う魔法陣が必要になるだろ? やり口が場当たり的で意味不明なんだよ」

「場当たり的かもしれませんが、日用品を収納する程度の容量ならどの家庭でも同じ魔法陣を使っていますよ?」

「……」

 

パリラは思う、ローチカ博士もなかなか、手段と目的を入れ替えがちなところがあるのではないか、と……。

 

2

結局のところ、ローチカ博士は13時半にはもう改造を終えていた。パリラはその後1時間半、彼方との戦闘のための練習をみっちりと行い、それからツバメとの打ち合わせ、次いで模擬戦を行い、時刻はあっという間に19時30秒前。

展望塔の屋上と、塔から200mほど離れた迷路のただなかとで、パリラと空水彼方は向かい合う。

 

「ごきげんよう、空水彼方さん。ようこそわたくしの迷宮へ」

 

屋上に陣取ったパリラは、特別な配信ではいつも用いてきた緑のドレスを着ている。そのドレスは、ロココ調とバッスルスタイルを折衷したようないくぶん不思議な様式の一品だ。フリルやレースがふんだんにあしらわれて柔らかなシルエットを形作っていたが、さりとて戦いの中にあってパリラの動きを阻害しそうでもない。パリラ自身は、両手を腰の前のオーバースカートの下に隠してゆったりと立っていて、ドレスのデザインと相まって彼女の余裕をアピールしている。

 

「挨拶はいい。何度も確認をするのは好みじゃないが、19時きっかりから開始でいいだろうな、パリラ?」

 

迷路のただなかに現れた空水彼方は、今日も今日とて、黒のセーラー服にトレンチコートのいでたちだ。足には特製のローラーブレードを履いているが、その車輪は、彼方が爪先で地面をせわしなく叩く合間に時折高速で空転している。車輪は、ひょっとすると、彼方の戦いを待ちきれない想いを伝えているのかもしれず、あるいは、ここ数日強い敵に巡り合えていない苛立ちを伝えているのかもしれない。

 

「もちろん。事前の取り決め通りに参りましょう」

「知っているだろうが、私は容赦はしない」

「わたくしもです」

「さあ、時間だ――」

 

3

19時になると同時に、彼方は塔を目指して全速力で走り出す。何はともあれパリラに接近して直接攻撃を仕掛ける腹積もりだ。

走り出して1秒で、彼方が走っていた通路は行き止まりに突き当たる。この入り組んだ迷路にそれほど長い直線の通路はないことは、彼方も訪れてすぐにわかっていたことだ。彼方はジャンプして壁を飛び越えていこうとする。

 

そのとき、パリラがにこりと笑う。

 

ジャンプのために踏み切った瞬間、彼方の全身に強烈な違和感が走る。完璧に踏み切ったはずだが体が全く浮かない! 彼方は両手を振り上げて背筋を伸ばした格好のままで音を立てて地面を滑っていく。あわや正面の壁に激突、というところで、片足で壁を蹴ってどうにか身体を止める。

彼方にはいまだ経験のない現象だ。パリラは鈴を鳴らすような声で笑う。

 

「こんな魔法は珍しいでしょう? 最強の技とはいいがたいですが、私の代名詞、私だけのアドミンスキルですわ」

「たしかに珍しい。が、これでは決め手にはならない」

「ええ。だからこんな武器も用意しましたわ」

 

パリラは、オーバースカートから右手を出すと、空中で見えない布をつかんで取り去るような動きをする。すると、実際に透明マントのようななにかで隠されていたのだろう、パリラの背後に2mほどの槍が数十本現れる。パリラは一本の槍を軽々とつかんで、一片の迷いもなく、彼方へ向けて投擲する。

彼方は、右にすばやくステップを踏んで、槍を危なげなく避ける。この槍のスピードは、彼方が見切れないほどの速さでは決してないから。しかし、避ける動きの直前、彼方にほんのわずかだけ迷いがあったことをパリラは見逃さない。

 

「迷いましたわね? いましがたジャンプを封じられたように、左右の移動をも封じられるのではないか、とあなたは危惧した。答えは……こうです」

 

パリラがまた一本の槍を掴み、彼方に投げつける。まっすぐ飛んできた槍を避けようとして、彼方は右にステップを踏もうとしたが、またも違和感。足が地面でずるずると滑るばかりで左に進めない。彼方はすぐさま進行方向を左に切り替え、ぎりぎりで槍を回避する。

 

「この空間でのみわたくしに許された特殊な魔法を用いれば、あなたの特定方向への移動を封じることができます。上方向だけではありません。前後左右の移動も封じられます。これが私のアドミンスキル『脊柱落としアクシズドロップ』です」

「は?」

「昨日のレイさんにならって、かっこいい技名を付けたのですが……不自然でしたか?」

「……いや、べつに構わない」

「まあ、ともかく、あなたにはナイト・ツアーよろしくこの迷宮の中を跳ね回っていただきましょう。ご覚悟ください……ねっ!」

 

パリラは言いながら、立て続けに2本の槍を投げつける。彼方は左に急加速したが、1本目の槍を避けたところで車輪が急にスリップして左に進めなくなり、間髪入れず2本目の槍が飛んでくる。彼方はとっさに垂直にジャンプして2本目を避ける。

彼方は冷えた頭で状況を分析する……一度はジャンプの動きを封じられたが、いまはジャンプできた。“脊柱落としアクシズドロップ”とやらで進行方向を封じるのは永続効果ではないらしい。長く見積もっても十数秒程度の効果か? いままで上、右、左の計三方向に対する動きを封じられたが、ほかのあらゆる方向に対して進行を封じられるのか? 同時に複数の方向を封じることは可能か? 進行を封じる対象は私ひとりのみなのか? なにはともあれ、動くことだ。動き続けて、何度もこのスキルを使わせれば、限界はすぐに露呈するはず……目的を整理し、走り始めた彼方に、次々と槍が襲い掛かる。

 

入り組んだ通路を縦横無尽に駆け回り、空水彼方はパリラのいる展望塔に迫ろうとする。しかし、彼方の行方には数秒おきに正確な軌道で槍が飛んできて、また、不定期にどこかの進行方向が封じられもする。槍を回避したり、移動方向に急制動を掛けられたりするうち、彼方の走る経路はぐにゃぐにゃと折れ曲がっていってなかなか展望塔に近づかない。

脊柱落としアクシズドロップを受ける感覚というのは、いくぶん奇妙なものだった。彼方は最初、この魔法の正体を、魔法によって物理的な障壁を作り出す典型的な結界魔法かと思っていたが、そうではないことがすぐにわかった。このスキルが発動したとき、ある特定の方向に向かって進めなくなるのだが、このとき物理的な抵抗はいっさいなく、身体の各部も思い通りに動かせる。発動時に感じるのはむしろ、手や足や胴でなく、体の重心を空間に直接ひっかけられているような感覚だ。推測するに、この魔法は、物体の移動を物体の外部から阻害しているのではなく、物体のポテンシャルに特定の移動量を書き込むことそのものを無効化しているのだろう。パリラが空間自体に対する管理者権限を持っているからできる荒業であり、いかに他人の魔法を簡単に模倣する彼方といえど、根本的に再現することが不可能な裏技である。

 

はたから見る限りでは、パリラは余裕を崩していない。左手をオーバースカートに隠して直立したまま、右手だけで槍をつかんではテンポよく投げていく。槍の残弾もまだ多い。

 

「さすがは彼方さん、といったところですわ。もう30本は投げましたのに、うまく避け続けますね」

 

しかし、パリラの側からでしか見えない景色もある。パリラからは、彼方がこれまで走ってきた経路に沿って、点々と、壁や地面に槍が突き立っているのが見える。彼方の足跡はたしかにかなり蛇行してはいたが、着実に展望塔へ向けて近づいている。

パリラは内心苦々しい想いを抑えきれない。半端な敵ではないと知っていたが、これほどとは。

 

「避けてばかりでも始まらない。まだまだ試すべき手札は無数にある」

 

彼方はそうつぶやくと、詠唱らしい詠唱もなく、ただ右腕を無造作に振る。右腕からアイスボルトが飛び出す。

その動きのあまりのそっけなさにぎょっとさせられながら、パリラは努めて平静を装い、脊柱落としアクシズドロップを発動する。空中で前方向の動きを封じられたアイスボルトは不自然に軌道を曲げ、垂直に跳ね上がり、垂直に落ちていく。

 

「よい着眼点ですわ。試していただいた通り、脊柱落としアクシズドロップの効果は生きた敵の身体だけでなく、物体や魔力の塊を含めたすべてのものに対して適用されます。わたくしがこのスキルを発動している間、この空間中のすべてのものは特定の方向に動けません」

「ならこれはどうだ?」

 

彼方は両腕を左右に広げて、指先を軽く振る。パリラはつい、身構える。

見れば、塔の両側から、塔とほぼ変わらない太さの氷の牙が、湾曲しながら伸長していく。放置すれば、10秒ほどで塔の屋上は2本の氷の牙に挟まれて圧壊するだろう。パリラは、氷の牙の根元をめがけて槍を投擲する。右、ついで左と、落ち着いて、順番に。氷の牙は塔を嚙み砕く前に根元から崩れ落ちる。

 

「重ねがさね、さすがですわ。物体が移動する現象ではなく、物体が増殖したり角度を変えたりする現象に基づいている攻撃は脊柱落としアクシズドロップでは防げません。しかし、これだけ遅いスピードの攻撃であれば槍だけで対処できますわ。レンラーラさんのようにはいきませんことよ」

「ふん」

「さあ、まだまだわたくしの攻撃は終わりませんわ」

 

またも、パリラは彼方に向けて槍を放ち、彼方はジグザグに迷路を走り抜けながら槍を回避していく。

じわじわと、しかし着実に塔に近づきながら、彼方は考える……敵は、脊柱落としアクシズドロップとかいう珍しいだけで●●●●●● たいして●●●● つぶしも●●●● きかなそうな●●●●●● 能力●●を、分析しがいのある難解な能力だと思わせたがっている。その狙いはなんだ? “脊柱落としアクシズドロップの謎”とかいうあからさまな謎解き要素にまぎれた、もう一段階手の込んだ騙しが仕掛けられているのではないか? いずれにせよ、敵の謎解きごっこにいつまでも付き合い続ける義理はない……彼方は、曲がり角を駆け抜ける一瞬に、スピードを殺さずしゃがみこんで、ローラーブレードの上に手を走らせる。たちまちローラーブレードから翼が生え、彼方は空に舞い上がる。

すぐさまパリラが上方向への移動を封じる。身体の重心が見えない天井にぶつかるような錯覚が生じる。しかし騙されてはいけない、上昇ができないだけで、前後左右、それに下方向への飛翔は自由自在だ。彼方は音速にも迫るスピードで空中をまっすぐ前進する。

ふいに上昇が解禁され、彼方の身体はふわりと浮くような錯覚を得る。続けて、前方向への移動が封じられ、さながら見えない壁に叩きつけられたかのように急制動が加えられる。彼方の全身を流れる血が頭部に押し寄せ、視界が真っ赤に染まる。しかし意識を失う程ではない。彼方はすぐさま上昇に転じる。

パリラがここぞとばかりに槍を投げるが、右へ左へと蛇行しながら空を駆け上がる彼方を捉えることはできない。その姿はいまや雲をつかんだ龍にもたがわない。

上昇し続けた彼方が、ついに屋上のパリラと同じ目線の高さまで到達する。

 

パリラは空中の彼方とはじめて目が合う。その冷たい殺意をたたえた紅い瞳を見て、即、次の行動を決める。前方向への移動を封じたまま、同時に上方向の移動も封じる。脊柱落としアクシズドロップによって封じられる移動方向は、なにも、同時に一方向までと決まっているわけではない。二方向や三方向を同時に封じることもできる。ただ、より多くの方向を同時に封じようとすればするほど、持続時間は短く、消費魔力は大きくなるため、同時使用は切り札としてとっておいたのだが。

 

加速しきった状態で前方向と上方向の移動を封じられ、またも彼方の視界は真っ赤に染まる。さすがの彼方も、今度ばかりはコンマ数秒間は意識の混濁を免れない。しかし、急速にかすんでいく視界のなかでもはっきりと確認できたことがある。それは、二方向同時に脊柱落としアクシズドロップをかけた瞬間のパリラの左腕の腱のこわばりだ。そのこわばりは、指を曲げたときに特有の動きだとみて相違ない。左手の先をオーバースカートでずっと隠していても、指につながった腱の動きで、指を曲げていることがわかってしまう場合があるのだ。

彼方は確信を得る。パリラは脊柱落としアクシズドロップを発動するトリガーとして、一方向につき一本、特定の指を折る動作を行っている可能性が高い。ただ、上下左右前後の六方向を封じる技のトリガーとして、5本しかない片手の指の動きを利用していると仮定すると、やり方としてはいささか不調和には思えるのだが。まあ、どれか一方向のトリガーを省略したとしても、実用上は問題ないだろう。

 

いくつかの閃きを得るとともに、彼方は鮮明な意識を取り戻す。コンマ数秒間の混濁のうちに彼方の身体は数m落下していて、そこへさらにパリラの槍による追い討ちが飛んでくる。瞬く間に、彼方はさらに十数m下降させられ、それでもしっかりと空中にとどまっていて、不遜にパリラを睨みすらしている。

 

「汝の正体見たり、とでもいった表情でしょうか? 正直なところ、二方向同時制限はもうちょっととっておくつもりでしたわ」

「複数方向同時制限ができるとかできないとか、その程度の謎解きを遊んでやってるつもりはない。もう、君のやりたいことはだいたい見えた。つまらない手管だ」

「……強がりかしら、それとも?」

「前方向も上方向も、いつまでも塞いでいられないだろ? 終わりにしよう」

 

彼方は再びパリラに向かって飛翔する。パリラは立て続けに槍を投げ、彼方がこれを回避するのに従って彼方の行く手となる方向を封じていく。右と下。左と後ろ。前と下。上と右と左……。しかし彼方は、動きが封じられるとすばやくそれを察知して、封じられていない方向へ逃げる。脊柱落としアクシズドロップ発動の察知とその対処に、明らかに慣れてきている。

彼方は目に見えない立体迷路を解くように、空中を幾度も直角に曲がりながら、ついにはパリラが立っている地点までたどり着く。もう手が届く。彼方は右手を大きく振りかぶって、目前のパリラを殴りつけにいく。パリラは突如、走りだすような動きをする。

 

そのとき、ありえないはずのことが起こる。彼方の拳はそこにいるはずのパリラをすり抜ける、しかしパリラはそこから一歩も動いてはいない。彼方とパリラが完全に同じ場所にいる。なおかつ、お互いの身体は触れ合っていない。

パリラの姿が幻影だったのか? 違う。パリラの姿は彼方の姿とまったく同じ場所に現れていながら、互いに重なり合ってもいないし、輪郭も鮮明だ。第一、並大抵の幻影魔法は彼方には効かない。

 

パリラが満面の笑みで言う。

 

「つかまえましたわ」

 

彼方は床を蹴ってその場から動こうとする。しかし、パリラの言う通りだ。身体自体は自由に動かせるが、重心が空間に縫い付けられたように、上下左右前後どちらにも移動できない。

 

「あなたにはこの最後の攻撃は避けられませんし、受け止めることもできません。ごきげんよう、空水彼方さん」

 

パリラは早口で言い切って、手にした槍を彼方に向かって投げつける。それはごく近い距離、まるで理外の方向から放たれる攻撃だ。パリラの言う通り、誰にも避けられないし、受け止められないはずだった。しかし。

彼方はこの槍の穂先をたしかに掴んで、止める。

 

「こんなもの、飛んでくる方向が見えれば止めるのは造作ない」

 

4

彼方は、片手で受け止めた槍を、飛んできた方向に投げ返す。その方向は、上下左右前後のどれでもない、第七の方向だ。

彼方は、理外の攻撃に対して、ただしく理外の反撃を返したに過ぎない。しかしパリラはこの反撃を予期できなかった。彼方の投げ返した槍が腹部を貫通し、パリラは激痛に崩れ落ちる。

彼方はいたって冷静な表情のまま、つかつかと足音を立てて歩み寄っていく。彼方から見て第七の方向にいるパリラへ。

 

「君の能力、脊柱落としアクシズドロップとか言ったな、あれは、空間中にある敵などの物体、その移動方向を制限する技の一種だ。移動を制限する技といえば、その応用法は様々考えられるが、究極的にやりたいことは誰だって同じだろう。敵の完全な捕縛だ。もし、移動を制限する技を多用する敵が、敵の完全な捕縛を速攻で実現して即死技を使ってはこないとすれば、たいていの場合、すぐには敵を完全に捕縛できないなんらかの理由がある、という予測が立つ。君を相手にした場合も例外ではない。君は能力を小出しにしながら戦って、能力の発動条件をはぐらかしていたつもりかもしれないが……」

 

パリラは喉奥から血があふれてくるのを感じる。彼方の講評に相槌を打つこともできない。

 

「君が完全な捕縛をすぐには使わなかった理由は、脊柱落としアクシズドロップの効果が、敵だけでなく空間中の物体全て……それこそ君の槍も含めて適用されるから、だな。ひょっとすると、魔力消費量の問題もあるのかもしれないが。いずれにせよ、君は完全な捕縛――普通に考えれば六方向の制限だが――を使うまでに、それを使うのにベストなポイントまで私を誘導する必要があった。そこで、この空間を使った小細工だ。
この空間、実際には四次元空間だが、視覚的には完全に三次元空間として表現される。この空間のなかにいる人間にとって、物体の位置におけるW軸方向のズレはすべて捨象されて、すべてがXYZ空間上に存在しているように見える。本当はW座標が違うのにもかかわらず。パリラ、君が最後に立っていた場所もそうだ」

 

彼方は天を仰ぐ。この迷路、かろうじて見た目以上の迷路ではあった、と思いながら。

 

「君は、君が立っている場所とXYZ座標を同じくする直線上まで私を誘い込んだうえで六方向の同時制限をかけ、私の移動を完全に封じ、その槍でとどめを刺すつもりだった。六方向を封じられたら、君以外誰にも動くことはできないはずだったからな。しかし、私には一度見た動きならばたいていは真似できる。ただ一度見ることだけが必要だった、君がW軸方向に槍を投げるところを。だから一度見て、受け止めて、そっくり逆に投げ返した。
ただそれだけの戦いだ。決着はついた。本当は指の動きだって関係ないんだろ? ただ私を、スキルの同時使用は最多五方向までだとミスリードするために、魔法の発動にトリガーが必要なふりをしていただけのことだ。
頼まれもしないのにぺらぺらしゃべってしまったな。さあ、君が聞きたいだろう謎解きごっこは終わりだ。君のほうは言い残すことはないか」

 

パリラは思いきり吐血する。美しい緑の光沢を放っていたドレスも真っ赤になる。もう10秒と持たずに死が訪れると、パリラにははっきりとわかる。

血みどろになった顔で力なく微笑むと、かろうじて聞き取れる声でパリラは言う。

 

「彼方さんは……わたくしを買いかぶっています……トリガーがないと……ダメだったんです……」

 

パリラは左手をオーバースカートから出す。その手には6本の指。

 

「わたくし……修行不足……でしたから……」

 

それきりパリラはこと切れた。