日記とか存在とか狐とか

日記

議論を次に進めたくて、自分が書いた過去記事をふりかえって読んでるんですけど、難解すぎて衝撃を受けてます。とくに『〇』。自分が書いた文章なのに、書いてあることの9割までしか理解できない。悲しい。

 

白上フブキは存在するのか

存在します。私は白上フブキは存在すると主張します*1

 

LW氏は『フブかつ延長戦』において、「美少女キャラクターが別世界に住んでいる物理的存在者であると考える立場と、美少女キャラクターが我々と同じ現実世界に住んでいる概念的存在者であると考える立場とは二者択一である」と、また「いちおう、二者択一を抜け出し、美少女キャラクターはどこの世界に所属しているわけでもない物理的存在者であると考える立場をとりうる可能性もあるが、LW氏自身には現状理解できない」と述べた。
このLW氏の解釈のなかで、私の立場は「美少女キャラクターが我々と同じ現実世界に住んでいる概念的存在者であると考える立場」に措定されたようなのだが、私にはこの措定に異議を申し立てたい気持ちがあった。そのため、2万字ほどにもなる長大な記事『〇』で私自身のポジションのとりなおしを図ったわけである。
ところが、『〇』はその長大さにもかかわらず、「私がとろうとしている立場がどれか」をうっかり言い忘れていたものだったのかもしれない。私にはいまいちどはっきりと自分の立場を言い直す必要があると感じている。
今度こそはっきり述べるが、私は前掲した三つの立場のうち、第三の立場をとる。つまり、私の考えでは、「美少女キャラクターは物理的存在者であるが、『どこかの世界に属している』とみなす必要はさほどない」

 

私は白上フブキのような美少女キャラクターの虚構的実在を認める。私は私が認めている「美少女キャラクターの虚構的実在」が、どのような在り方の「実在」であるのかについて、以下の3文で表現する。
1. 美少女キャラクターは、多くの行動や属性を、特定の物語世界のなかに持っている。
この文が具体的にはいったい何を意味するのか、『ドキドキ!プリキュア』に登場する「相田マナ」という美少女を当てはめることで例えてみよう。
相田マナは、「中学2年生である」とか「キュアハートに変身する」とか「音痴である」とかいった行動・属性を、『ドキドキ!プリキュア』のテレビ本編のなかでみせている。
2. 美少女キャラクターはまた、いくつかの行動や属性を、基幹となる物語世界の外にも持つことがある。
例えば、相田マナは、(「キュアハート」名義で)キャラソン「Heart style」を歌っている。相田マナが「Heart style」を歌っている時間は、『ドキドキ!プリキュア』が描いている物語世界のうちのどこにも位置づけることができない。
3. 我々が美少女キャラクターの名を呼ぶとき、その名は彼女たちが物語世界の中で行ったことだけでなく、物語世界の外で行ったことをも、指し示すものでなければならない。定理によってではなく、定義によって。
例えば、我々が「相田マナ」という名前で“彼女”のことを指し示そうとするとき、「相田マナ」の名前は『ドキドキ!プリキュア』の劇中で「中学2年生である」ところの“彼女”や「キュアハートに変身する」ところの“彼女”だけでなく、『ドキドキ!プリキュア』の劇外で「Heart styleを歌っている」ところの“彼女”をも意味するものである、とする。この立場は、演繹によってでなく私の独断によって行うものである。

 

つまり、私が幻視したい、「キャラクターの実在」の在り方とは、(連続した時空間であるところの)特定の物語世界の外にまで広がっている(場合もある)ひとまとまりとしてキャラクターは「実在」している、という在り方である。
図にするならこうだ。

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そして、上図のように考えたとき、黒線とピンク線を区別するべき理由はないのではないか、と考え始めるひともいるだろう。私はそうだ。

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区別をなくした結果として、私は、キャラクターとはそれ自体一個の世界である、と考えるに至った。

 

白上フブキは狐であるのか

白上フブキは狐です。私は白上フブキが狐であることをみとめます。

 

LW氏は『フブかつ』第3節において、(私の知る限り)以下2つのことを主張した。

「フィクションのキャラクターを含む存在者について語るとき、記述説(間接指示)の考え方よりも因果説(直接指示)の考え方のほうが都合がよい」

「フィクションのキャラクターについて語るときのなかでも、Vtuberについて語るときとくに、記述説(間接指示)の考え方よりも因果説(直接指示)の考え方のほうが都合がよい」

この2つの主張が認められるのならば、ことVtuberについて語る限りは、記述説を排して因果説を取り上げ、因果説に基づいて議論を進めることが正当とみなしうる。

 

実際LW氏は、記述説の難点を挙げ、より優れた代案として因果説を持ち出すというかたちで『フブかつ』の議論を進めたわけだ。しかし、私に対しては、記述説を排する当の議論の説得性はいささか低かった(記述説を排する議論を否定したいほどではないが、かといって積極的に賛同する理由もないかな、ぐらいの気持ちだった)。理由は3点ある。
1点目は、話題の範囲を「フィクションのキャラクター一般」から「Vtuber一般」にまで限定するだけの合理性をいまいち感じられないから、という理由だ。「話題をVtuberに限定する意味がよくわからない」というのは、『フブかつ』の大前提をひっくり返そうとする問題発言なわけだが、これには気持ちの面と論理の面二つの原因がある。まず気持ちの面では、「私が(かつては)まるでVtuberに興味がなかったから」という原因。そして論理の面では、「Vtuberに特有のインタラクティヴィティの独特さから、Vtuberの存在様態そのものの独特さを引き出そうとする議論への疑義があった」という原因*2だ。
2点目は、LW氏の議論のなかで『記述説の難点の指摘』から『代案として記述説とは異なる説の提示』までの議論の流れがやや飛んでいるから、という理由だ。LW氏の議論を読む側の人間としては、「筆者LW氏が因果説を肯定しようとする根拠はまあわかるが、記述説を否定するための根拠がやや不足している」という印象をぬぐえない*3
3点目は、あえて因果説を肯定することによって発生する理論的恩恵を感じないから、という理由だ(いや、多少は感じるのだが、LW氏が主張しているほどには恩恵を感じられない、という感じだ)。LW氏が主張している因果説の理論的恩恵とは、例えば「性質の束が変化しやすいものに対しても適用しやすい」とか「命名儀式という概念の導入」とか「命名儀式の強力さという尺度の導入」とかになるだろう。しかし、「性質の束の流動性」を(Vtuberに独特なものとして)措定しようとする議論はいささか性急に思えたし*4、「命名儀式」という新概念がどのような発展的な議論を生み出すのかについてLW氏はあまり多くを語っていないように思えたし*5、「命名儀式の強力さ」という尺度に関しては「強力な場合と強力でない場合ではなにが変わるのか」という重要な点がいまだ曖昧なままであるように思える。

 

以上3点の理由によって記述説を排する議論にいまいちノれない私が、いますべきこととはなんであったのか。
それは、記述説を丸ごと投げ捨てる前に、改良できないか探ってみることであろう。私には――まあ神威ちゃんさんほどではないだろうが――可能性フェチなところが多少ある。記述説を改良したものから自分の望む理論がひきだせないか、とりあえずは試してみるべきだ。
記述説改良……というより記述説温存の、私にとって最初の試みは『デトかつ』だった。しかし『デトかつ』で行ったのは、「記述説の運用、もうちょい遊びを持たせてもいいんじゃない?」という至極あいまいかつ臆病なもので、書いていて自分自身歯切れの悪さを感じていた。
そこで今日は、記述説を改良する試み・改良したい試みの第二弾である。

 

記述説original【forフブかつ】

まず、我々は『フブかつ』において記述説の難点が挙げられるまでの流れをおさらいしよう。
『フブかつ』が例文として用いたのは、この命題だ。
命題F:「白上フブキは狐である」
『フブかつ』の議論は、『フブかつ』で想定される記述説に従ったとき、命題Fが解釈不能になるという点を挙げて、記述説の難点とする。
では、記述説に従って命題Fを読むとはどういうことで、ある読み方をしたとき命題Fが解釈不能になるとはどういうことなのだろうか。

 

『フブかつ』を読む限り、記述説とは以下のようなものである。
記述説:あるものの固有名を、あるものが持つ性質の記述の束と同一視する
具体的には、「白上フブキ」という固有名を適当な性質の記述のリストに分解すればわかりやすい。本当は、「白上フブキ」を分解したところの性質の記述は無数になるのだが、今回は簡便のため、10個の記述からなる記述の束を「白上フブキ」と同一視することにする。
固有名「白上フブキ」
=「あるものが存在し、それはVtuberであり、狐であり、女の子であり、頭頂部近くに尖った耳を持ち、白い毛が生えていて、そしてそのようなものは四足歩行せず、エキノコックス症を媒介せず、食事を穴に埋めず、昆虫を食べない」*6
さて、記述説に従ったとき、固有名「白上フブキ」を上のように分解することにはそう大きな問題はないだろう。だから、このように分解できるところの「白上フブキ」を命題Fにあてはめても問題はないはずだ。
命題F’:「あるものが存在し、それはVtuberであり、狐であり、女の子であり、頭頂部近くに尖った耳を持ち、白い毛が生えていて、そしてそのようなものは四足歩行せず、エキノコックス症を媒介せず、食事を穴に埋めず、昆虫を食べないのだが、そのようなものは狐である」
はたして、よくよく考えなおしてみれば、「白上フブキ」と同値でいいはずの性質の記述の束を命題Fにあてはめたとき、奇妙なことが起こっている。
ここでひとまず、LW氏が採用しているであろう前提に従って、我々も定義V1「狐とは、ふつう頭頂部近くに尖った耳を持ち、ふつう白や金の毛を持ち、ふつう四足歩行し、しばしばエキノコックス症を媒介し、しばしば食事を穴に埋め、しばしば昆虫を食べる」という条件をみとめよう。このとき、命題Fは以下のような主張を含むことになる。
命題F’’①:「あるものが存在し、それは狐であり、狐である」
命題F’’②:「あるものが存在し、それは女の子であり、狐である」
命題F’’③:「あるものが存在し、それは頭頂部近くに尖った耳を持ち、ふつう頭頂部近くに尖った耳を持つ」
命題F’’④:「あるものが存在し、それは白い毛が生えていて、ふつう白色や金色の毛を持つ」
命題F’’⑤:「あるものが存在し、それは四足歩行せず、ふつう四足歩行する」
命題F’’⑥:「あるものが存在し、それはエキノコックス症を媒介せず、しばしばエキノコックス症を媒介する」
この6つの主張のうち、3つまでは(トートロジーであるという点を除けば)あまり問題がなさそうな主張に見える。①と③と④だ。
②は少し微妙な主張に聞こえる。女の子でありなおかつ狐であるところのものは、存在しうるのだろうか。例えば若いキツネのメスのことを、我々は“女の子”と呼びうるのだろうか。これはまあまあ微妙な問題だが、今回は不問に処す。
明確に矛盾していると思われるのは、⑤と⑥だ。この主張のなかで、白上フブキは四足歩行しないと同時に四足歩行する存在者であるとか、エキノコックス症を媒介しないのにエキノコックス症を媒介する存在者であるといわれている。奇妙な話だといっていいだろう*7
もし我々が記述説を認めるならば――固有名は性質の記述を経由してなんらかの存在者を支持するのだと仮定すれば――まさしく記述説を認めるがゆえに、命題Fのような命題のなかには矛盾が生まれることをも認めなければならない。そして、仮に、矛盾した記述は固有名を正常に存在者へと結びつけられないのだとすれば、およそ固有名というものには命題Fのような特殊な命題のなかにあっては固有名としての最低限の役割すら果たせない、ということになる。
そして、問題なのは『命題Fのような特殊な命題』が実はさほど特殊ではないということだ。『命題Fが矛盾のなかに陥ろうとしている』事態は、おそらく『反事実的条件が矛盾を生む』という事態の一変種にしか過ぎない。白上フブキでなくても、Vtuberでなくても、反事実的条件の提示はたいていのものに対して行えるのだ。
また、さらに問題なのは『命題Fのような特殊な命題』はVtuberに関してはほかの存在者一般よりも頻発しうる事態であるということだ。突飛さを旨とするかのコンテンツにあっては、「狐である」とか「海賊である」とか「神々より作られし最初の概念『空間』の代弁者である」とかいった自由な設定が跋扈しており、エキノコックス症どころではない無数の矛盾がそこには発見できるだろう。

 

記述説ambiguous【forデトかつ】

記述説が『反事実的条件の提示』やその変種としての『突飛な設定』と相性が悪い、という話は、なるほどもっともだが、逆に言えば『反事実的条件の提示』に耐えうるような修正案ならば記述説の骨子を活かしたまま運用できるかもしれないということでもある。
そこで私は第一の修正案を提出したい。第一の修正は、『デトかつ』でも触れたものだが、「固有名はある特定の『性質の記述の束』と正確に一致することによってのみ有効なのではなく、ある特定の『性質の記述の束』とだいたい一致することによって固有名としての機能を十分果たしうる」という改案だ。要するに、『性質の記述の束に多少の異同を許容する』ということだ。
具体的に言おう。ここから、修正した新しい記述説に従って、命題Fを重大な矛盾なく解釈することを目標にする。
新しい説に基づいて書き直すのは、固有名「白上フブキ」の中身を改変するよりも、「狐」の中身を改変したほうが理解が簡単だ*8
定義V2「狐とは、次の6つの特徴のうちだいたい2つ以上を満たすものである:頭頂部近くに尖った耳を持つ、白や金の毛を持つ、四足歩行する、エキノコックス症を媒介する、食事を穴に埋める、昆虫を食べる」
「狐」という語の内実をこのように操作すれば、命題Fを変形して、無矛盾に「白上フブキが狐である」という命題を導くことは可能であろう。
もちろん、語「狐」の内実は、実際には「6つ中2つ満たせば合格」という甘々な条件ではなく、もっと膨大な条件に対して複雑な合格基準を持ったものにはなるだろう。性質の記述ひとつひとつに重みづけも必要かもしれない。上の定義V2は、あくまで説明のための簡易な例にすぎない*9

 

ただ、このように曖昧さを許容していくのは逃げの一手ではないかという気もする。もうちょっとうまい修正案を考えたい……。

 

記述説superficial【forデトかつ】

第二の修正案も、『デトかつ』で触れたものだ。
詳しくは『デトかつ』を参照されたいが、私はフィクションのキャラクターにおける「設定」というものがしばしば内実を持たないかに見えることにかなり興味があり、この皮相な事態をうまく説明できるモデルを探している。
そこで提出するのが次のような改案だ。「固有名はなんらかの『性質の記述の束』として存在者を指示するのだが、個々の『性質の記述』じたいは解釈不可能なものであっても、『束』にしたとき固有名は固有名としての機能を十分果たしうる」これはつまり、極端なことを言えば、「冷静に考えれば意味不明な記述でも、固有名を形成しうる」ということだ。
命題Fを例に考えるならば、ここで我々がとる立場とは、すでに述べた
命題F’:「あるものが存在し、それはVtuberであり、狐であり、女の子であり、頭頂部近くに尖った耳を持ち、白い毛が生えていて、そしてそのようなものは四足歩行せず、エキノコックス症を媒介せず、食事を穴に埋めず、昆虫を食べないのだが、そのようなものは狐である」
の後半部である「狐である」をそれ以上分解せず、「狐だというのなら狐なのだろう」と納得する、という立場だろう。
ここで、「狐である」は内実としての定義を追及されずに、ただ「狐である」という性質そのものとしてのみ記述される。ここで追及の手を止めるのは、(命題Fを無矛盾に解釈するという我々の目標に対して)あまりに都合がよすぎないか、と批判する向きもあるかもしれない。しかしながら、私にはどうにも、追及の手が止まるのはむしろフィクションのキャラクター特有の存在様態であり、追及の手が止まりがちであるということを重視しなければならないような気がしている。

 

例えば、(これは『デトかつ』でも使った例だ)こんな命題。
命題D:「デットンはテレスドンの弟である」
例えば、(これは『LWのサイゼリヤ』の某記事から引っ張ってきた例)こんな命題。
命題N:「ネプギアはネプテューヌの妹である」
どちらも、「弟」とか「妹」とかの語が持っている(はずの)内実は不明なままに「弟である」「妹である」だけを主張しようとしてきてかわいい*10

 

ただ、この改案は、命題の解釈の試みを寸断していくものであって、解釈によって命題の意味を間違いないひとつへと分解しようとした記述説のうまみをいささか減じているような気もする。ひょっとすると、記述説の改良のつもりでやったが単に因果説に接近しているだけの改案だったのかもしれない。

 

記述説relative【for日記とか存在とか狐とか】

ここから第三の修正案について述べる。

 

実は、私には「反事実的条件の提示に難あり」という点以外にも、LW氏が紹介した記述説originalに対する不満が一点ある。その不満は、「例えば『狐』でいえば、生物学的な意味でのキツネに該当する特徴ばかりが『狐』の定義の内包として重視されており、社会的な意味での狐の特徴や象徴的な意味での狐の特徴があまり重視されていない」という点だ。
例えば、『狐』の特徴として世間に理解されていることのなかには、「四足歩行する」「エキノコックス症を媒介する」といった生物学的な特徴のほかにも、「油揚げを好む」とか「幻術で人を化かす」といったもろもろの特徴が含まれるはずだ。私は、生物学的な特徴とその他もろもろの特徴とを区別して、『狐』という語の内包として前者のみを選び取るのは恣意的に過ぎると思う。生物学的に定義可能ないわゆるキツネVulpes vulpesは確かに我々の『狐』認識の中心を占めてはいるだろうが、かといってキツネVulpes vulpesが持つ特徴はその他もろもろの特徴――例えば寓話に登場する狐が持っている特徴とか――から截然と区別可能なものなのだろうか?
できることならば、生物学的に解釈できる特徴をも、寓意的に解釈できる特徴をも、両方を取り込んだかたちで『狐』その他の定義を行いたいという気持ちが私にはあり、これから述べる修正案はそうした統合的な定義を志向したものでもある。

 

さて、記述説originalにおいて、我々は『狐』を以下のように定義した。
定義V1「狐とは、ふつう頭頂部近くに尖った耳を持ち、ふつう白や金の毛を持ち、ふつう四足歩行し、しばしばエキノコックス症を媒介し、しばしば食事を穴に埋め、しばしば昆虫を食べる」
定義に含まれる6つの記述はそれぞれ現実のキツネに当てはまる。しかし、この6つの記述は、我々が『狐』と言われたときに思い浮かべるイメージとしては具体的過ぎる気もする。我々が『狐』と言われたとき、思い浮かべる特徴群は、むしろ以下のような6つの特徴ではないだろうか。

  • 食肉類一般が持つ耳のなかでは、それはわりに尖ってるほうの耳
  • 山に住む獣のなかでは、それはわりに薄いほうの色の毛
  • 多くの哺乳類は四足歩行するが、それはその点ふつう
  • 野生動物はしばしば病気を媒介するが、それについて考えるならエキノコックス症なんかが特に目立つ
  • 野生動物はしばしば食事を穴に埋めそうだが、それも食事を穴に埋める
  • 野生動物はいろいろなものを食べるが、それの場合食べ物には昆虫が含まれる

つまり、私が述べたいのは次のようなことだ。『狐』は、確かに種に本質的な特徴として「頭頂部近くに尖った耳を持つ」のような特徴を持っている。しかし、我々が『狐』と名前を呼ぶとき、『狐』という名前は「頭頂部近くに尖った耳を持つ」という特徴を直截に意味しているのではなく、「(もし頭頂部近くに耳を持つならば)その耳は尖っている」というようなかたちで、いわばベース条件に対する付加情報としての特徴を意味しているのではないか。
つまり、この改案において、『狐』の定義とは次のようなものだ。
定義V3「狐とは、(もし頭頂部近くに耳があるなら)耳が尖っていて、(全身に毛が生えているなら)毛の色が白色とか金色で、(近縁の種がn足歩行の場合)n足歩行で、(もし病気を媒介するなら)その病気はエキノコックス症の可能性が高く、(それが自然な環境に生息している限りにおいて)食事を穴に埋め、(動物一般が昆虫を食べるわけではないことに比して)昆虫を食べ、(近縁種に比して)賢く、(賢い動物ならば幻術くらい使うという前提のなかで)当然幻術を使う」
私がこの定義で目指すのは、生物学的な意味で言うキツネVulpes vulpesであれ*11イソップ寓話に出てくるキツネであれ同じ定義を変更することなく適用可能にするということだ。そしてこの試みはまあまあ成功したのではないかと思っている。
あなたが、(これ単体ではあいまいだと言わざるを得ない)定義V3を用いて生物学的なキツネVulpes vulpesを導き出したいというならば、あなたは「動物の最大公約数」あるいは「食肉類の最大公約数」的なイメージを頭の中に呼び出して、これに定義V3を適用すればいいだろう。適用したとき、定義V3が含んでいた8つの特徴のなかで、励起すべき特徴は励起し(それは頭頂部近くに尖った耳を持つだろうし、四足歩行だろう)、励起すべきでない特徴は励起しないだろう(生物学的な見方を使うならば、動物は幻術を使わないのでそれも当然幻術は使わないだろう)。
あなたが定義V3を用いて寓話に出てくる狐を導き出したいというならば、あなたは「寓意化された動物の最大公約数」的なイメージを頭の中に呼び出して、これに定義V3を適用すればいいだろう。適用したならば、励起すべき特徴は励起し(それは一様に人語を介する動物たちの中にあっても、いっそうずる賢い動物としてあらわれるだろう)、励起すべきでない特徴は励起しないだろう(伝染病という概念が存在しない寓話世界ならば、あらゆる動物のうちで狐のみがエキノコックス症を媒介するということは起こりえないだろう)。

 

我々が当初の問題としていたのは、定義を用いて内包としての『狐』のイデアを得ることではなく、命題Fのような特殊な(特殊ではない)命題を解釈可能にすることだった。だから、今度はある特定の存在者が『狐』の外延としてあてはまるかどうかを確認する手法について考えよう。
例えば白上フブキが狐であるかどうかを考えるとき、我々は、白上フブキが狐であると仮定して、狐であるための特徴をすべて失った白上フブキを想像してみればよい。定義を逆にたどるのだ。もしそうして白上フブキから狐的な特徴のすべてをはぎとったとき、ある程度プレーンな特徴の集合体――例えばそれは、「擬人化美少女の最大公約数」とか――が得られたなら、白上フブキは狐だと考えてほぼ間違いない。白上フブキから狐的な特徴のすべてをはぎとったとき、意味不明な特徴の集合体がそこに残れば、白上フブキが狐である可能性は限りなく低い*12*13。この方法でなら、「白上フブキは狐である」だろうが「ニック・ワイルド(『ズートピア』の主人公)は狐である」だろうが「コウシロウ(よこはま動物園ズーラシアで飼育されていた実在のホンドギツネ)は狐である」だろうが、同じ手順で真偽を確かめることができる。

 

語の定義を、ベース条件に対する付加情報として記述するこの方法は、『フブかつ』のなかでも使われている、共有信念世界を経由することで反事実的条件の取り扱いを整理してしまうあのやり方にも少し似ている。ただ、私の改案には共有信念世界概念とは差別化できるポイントが、少なくとも2点はあるつもりである。
1点目は、「世界」という概念を導入するためのコストがいらないこと。
2点目は、同一世界観に属する別な意味での『狐』を、同じ定義を用いて解釈できることだ。

 

2点目について詳しく説明しよう。例えば、ハローキティの世界観におけるハローキティとチャーミーキティについて考える。
まず、ハローキティはぶっちゃけ猫である。いちおう、公式設定では『ハローキティは女の子である』以外の記述は存在しないのだが、我々の日常感覚からして、ハローキティは猫キャラに見える。
次に、ハローキティの世界観において、ハローキティは猫を飼っており、その飼い猫の名前がチャーミーキティという。チャーミーキティは、やはり猫である。

我々が、ハローキティやチャーミーキティについて述べた命題を、我々の日常感覚に沿うようなかたちで操作したいとする。そのときネックになるのは、命題H「ハローキティは猫である」と命題C「チャーミーキティは猫である」をいかにして両立させるかであろう。同一世界観に属するハローキティとチャーミーキティだが、明らかに別のベースラインを基準にしておのおのが『猫である』のだから。
共有信念世界概念を用いて命題Hと命題Cを両立させるのは、やや困難だろう。両立させるためには、「動物キャラクターが2足歩行するのは普通である」という条件と「動物キャラクターが4足歩行するのは普通である」という条件、その他いくつかの条件がそろった、こみいった共有信念世界を想定しなければならないだろう。あるいは、命題Hと命題Cに対して別々の共有信念世界からアプローチしなければならないか。
対して、記述説relativeの考え方に従って命題Hと命題Cを解釈するのは、やや楽だ。ハローキティから『猫』的な特徴をすべてはぎとれば、二頭身キャラクターの最大公約数的なイメージが浮かび上がるだろうし、チャーミーキティから『猫』的な特徴をすべてはぎとれば、四足歩行キャラクターの最大公約数的なイメージが浮かび上がるだろうからだ。

 

私が考えた記述説の改案は、以上の3つである。

 

明日の日記

記述説の改案なんて生意気なものを書いてしまったが、書いてみると、すでに誰かが考えついてそうなことだよなあとか思った。言説は他の言説とつながりを持って初めて価値を持つ。今度、自分の改案によく似た説にすでに名前が与えられていないか、これまでどんな問題点が指摘されてきたか調べてみないといけないなあとか思った。次回は“裏付け編”にできたらいいな。

*1:『フブかつ』から始まった一連のやりとりの影響で、かつてVtuberを全く知らなかった私は、いまではたまにフブキングの配信アーカイブやボカロカバーを聴くようになりました。彼女はかわいらしいですね。彼女のカバーした「シル・ヴ・プレジデント」は目下のところお気に入り作業用BGMです。

*2:疑義の内容をもう少しかみ砕いていうと、「Vtuberがスパチャでコミュニケーションをとることは確かにVtuber独特かもしれないが、LW氏がそこから『Vtuberが属する世界の完全性』とか『Vtuberが持つ性質の束の流動性』を引き出そうとしている議論はいささか性急すぎないか?」というものだ。この疑義に基づく反論としては『絶えず自壊する泥の反論集』を参照せよ。

*3:ただ、以前LW氏に確認した限りでは、『記述説の問題を指摘→因果説を採用』という流れは、純粋に演繹によってでなく、『因果説で議論する』という目的のためにやや論点先取的に選択したものであり、またその選択はLW氏自身によって自覚的になされたものであるらしい。だから、LW氏がLW氏の議論を因果説肯定の流れで進めること自体は、私としてはべつに構わない(議論の完成度を損なうものではない)と思う。

*4:私は現状ではVtuberのことを「フィクションキャラ一般と同様に不完全である」と考えているし「性質の束が流動的であるという特徴もせいぜい程度問題だ」と考えている。ここについても『絶えず自壊する泥の反論集』を参照せよ。

*5:この問題は単に議論が途上であることに拠っているのだろう、したがってこのことでLW氏を批難するにはあたらない。

*6:下位種を生成しがちであるというVtuberの特性を考慮して、この定義では「あるものがただひとつ存在し~」という書き方はしなかったが、この判断については妥当だったかどうか少し迷っている。

*7:もちろん、字義を正確にとるならば、次のような反論もありうるだろう。「我々が先に認めたのはあくまで『狐はふつうは四足歩行しない』という記述までであって、ある特定の狐が四足歩行しない場合とは矛盾しない。白上フブキは“ふつうは”という表現が許容する例外にただ位置しているだけで、⑤は矛盾にはあたらない」と。この反論は正しい。
しかし、本文で私が表現したかったのは、「白上フブキは比較的レアな狐であるだけだ」という見方をフォローする例文ではなく、「白上フブキは狐が本来持つ性質と食い違う性質を持っている」という見方をフォローする例文である。願わくば、今日のところはこちらの意図を汲んで、後者の見方に従って⑤や⑥を解釈していただきたい。

*8:ここから先の議論は、固有名「白上フブキ」の定義の改変でなく「狐である」の定義の改変にもっぱら筆を割く。いちおう、ここから先の議論も、固有名の話であり、記述説の話であることに間違いはないと思っているのだが、少し自信がない。

*9:定義V2を用いるならば、野犬でもイタチでもリスでも皇白花でも「狐」に該当してしまう。排他性があまりに低い。

*10:通常、「弟である」とか「妹である」といった性質はその性質を持つ本人にも周囲の人々にも選択することができない・逃げられない性質として人に与えられるものだ。ただ、この「選択することができない・逃げられない」という特徴は、「内実は不明なままに弟とか妹を主張する」ことによって部分的に改変することができる。

例えば、イリヤスフィールは士郎の前に突然妹として現れ(定義不明な妹)、勝手に妹ムーブを始めるのだが、この勝手な行動が最終的には「士郎が自分の意志でイリヤスフィールの兄としてふるまう」という状況を導いたわけだ。本来「兄-妹」という関係は主体的に選ぶことができないため、「兄とは妹を守るものである」といった価値命題寄りの性質は「妹である」の定義には含まれない。しかしイリヤスフィールが「定義不明な妹」を強行したことで、イリヤスフィールと士郎は「兄-妹」の定義を主体的に再創造する権利を得ることになる(実はイリヤスフィールが士郎の妹であると主張することには若干の正統な根拠は存在したわけだが、この記事ではその点は無視してしまう)。かつては互いを縛りあっていたシニフィアンシニフィエが、シニフィエなきシニフィアンへと変質し、やがてシニフィアンは勝手なシニフィエを再掌握する。

ここで、もちろん、「弟である」とか「妹である」の代わりに「ガンダムである」のような性質を例にしてもよい。「ガンダムシリーズ」において、もともといち兵器に与えられた名前だった『ガンダム』は、いちど定義から遊離して一人歩きしたあと、政治的なイデオロギープロパガンダや個人の信条を込めた定義を新たに獲得することになる。
語の定義として外延を重視するであろう因果説において、「命名儀式」という概念はある存在者に対して時間的に最初に行われるだろう。この「命名儀式」という概念の、記述説における対応物を我々が探すならば、例えば「妹」や「ガンダム」といった語が後だしで内包を与えられたように、記述説における「命名儀式」とは時間的に最初に行われるとは限らない、ということになる。

*11:本当は、Vulpes vulpesと書いてしまうと、正確にはキツネ一般のことではなくアカギツネのことを指す学名になってしまうらしいのだが、学名っぽい見た目を重視してこんな書き方にしてみた。

*12:ただ、この検証方法には当然の弱点がある。それは、狐とわりに近い特徴を持った別のなにかと狐とを峻別する方法に乏しいということだ。例えば、「白上フブキは猫である」という仮定のもと、同様に『猫』の定義を逆にたどって「白上フブキが猫か否か」を検証したとしても、「白上フブキはやっぱり猫ではない」という正しい(?)回答を得られる可能性はそう高くない。

*13:この検証方法は、白上フブキから『狐』要素をはぎとったモノが比較的プレーンな特徴の集合体であるかどうかで命題Fの真偽を判定するのだが、「白上フブキから『狐』要素をはぎ取ったモノ」がプレーンかどうか判断するときに、白上フブキが持っている『狐』以外の特徴(「綾鷹を好む」とか「オタクである」とか)がノイズになる可能性はある。これもこの検証方法の弱点と言えるか。