今日はお題がある

お題:恋愛観

これは真偽がさだかでないが、少年漫画等々、バトルもののフィクション作品を鑑賞している人が、その作品の主人公や敵があまねく命を懸けて戦っているその動機というものにごく素朴な共感を寄せながらそれを鑑賞している、といったような場合はごく少ないだろう。もう少し具体的に言えば……『世界を守りたい』とか『無益な争いを止めたい』とか、そういった世界に広がるビッグな展望を持った登場人物に対して、「俺も力さえあればお前と一緒に世界を守りたいぜ!」とか「確かに無益な争いを止めたいぜ、頑張れよお前」とか感じ入っている観客・読者など100人に1人もいないだろう。また、『大切な人にだけは笑っていてほしい』とか『このささやかな日常を守りたい』といった比較的謙虚な欲望にしたって、それに文字通りに共感できる観客・読者などそうはいない。いや、いないよな? いないと思いたいんだが……。

だから、バトルものを鑑賞するときひとは、戦っている人々に文字通りの共感を寄せているわけではあまりなく、むしろ記号化されたやり取りを介して戦っている人々の行動原理を理解・予測しているのだと思う。『勝ったら得られるものが多い』とか『負けたらコストがかかる』とか『戦略に合致しない勝ち方をすると予想外のコストがかかる』とか『信念(という名の広義の戦略の一種)に合致しない勝ち方をするとめちゃくちゃコストがかかる』とかいった次元でのみ、戦っている人々の思考というものは共感可能で、この次元より下の次元(なんのために・誰のために戦うのか)も、より上の次元(どういう戦術によってその場の勝利を収めることができるか)も、形式的な理解こそすれ、心底から共感する必要などはありはしないのだ。だから、必ずしも武藤遊戯と同じ価値観を持っていなくても『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』は楽しく観られるし、遊戯王OCGのルールなど全く知らなくても『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』はやはり楽しく観られる。

いつだって真偽はさだかでないが、以上のことはバトルもの等々に限らず、例えば恋愛ものにだって成り立っていいはずだろう。つまり、『人を好きになる』とかいった感情にはまるで公共性がないが、この感情に深い共感を寄せる必要などべつにない。また、『適切なタイミングでキスなりなんなりしておけば好感度が稼げる傾向にある』とかいった細かい手管は、その手管に実現性があるのか否かなどべつに知っている必要はない。ただ、「この主人公は誰それというやつが好きで付き合いたいらしい」という基礎的なルールのみ理解して、そこからの演繹で下の次元(誰を・どうして好いているのか)や上の次元(どんな行動をとれば関係を先にすすめられるのか)に順次推測をかけていけばいい。もし、「好意そのものへの共感がなければ恋愛ものは楽しめないハズ」とか「実際の恋愛経験がなければ恋愛ものは楽しめないハズ」とか言うひとがあれば、むしろそのひとこそが恋愛ものを楽しむ能力に欠けている。

……などと言ってはみたものの、私自身、恋愛ものをいつも楽しんで鑑賞しているのか、と問われれば、事実はそうではない。私は、武藤遊戯に共感もしないしOCGのルールもおぼつかないのに『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』を観ていたころがあり、それはなかなか楽しかったが、私が『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』を楽しむのと全く同じように恋愛ものを楽しめるのかといえば、そのように楽しめる場合はけっこう少ない。

前者と後者に差異が生まれる理由は、ぱっと考えてみても二つほどあるだろう。一つ目の理由としては、『素朴な共感を持てるということは、あるジャンルを楽しむための必要条件では全くないが、素朴な共感を持てたほうがあるジャンルを楽しめる確率は上がる』ということ。『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』の場合はたまたま素朴な共感抜きでも楽しめたが*1、そのたまたまはいつも起こるわけではないということだ。

二つ目の理由としては、『恋愛ものにおいては、素朴な共感抜きでも演繹的に理解可能な作劇よりは、素朴な共感に全面的に依存した作劇が選択されがち』ということ。恋愛ものではどういうわけか、狡知に長けた優秀なプレイヤーの物語よりかは、『自分が相手のことをなぜ好きかもわからない』『どうしたら関係性を先にすすめられるのかわからない』のような不安げなビギナーの物語ばかりが描かれがちな傾向があるらしい。だから、基礎的なルールから上の次元と下の次元を演繹することは、観客・読者のミッションであるよりかは物語る側のミッションになってしまう。観客・読者としては『幼稚園のころにヒロインと一度会ってるから主人公はこいつのこと好きなんだよなー』とか『このタイミングでキスなりなんなりしとけば関係前に進むんだろうなー』とか完全にわかりきっている状況でも、あくまでも主人公には最善手が分かっていないことが多い。「より小さいコスト・予測可能なコストでより大きなリターンを得るにはどの手段を選べばいいか」という細かい利害調整ではなく、「俺にとって許容できないコストって何だろう」とか「一般的にリターンが期待できる手段といえばどんなものがあるんだろう」とかのレベルでのみ永遠に話が回っていて、観客・読者にはもう素朴な共感を寄せるぐらいの仕事しか残っていない。素朴な共感ができない人間にとっては――要するに私にとっては――虚無の時間である。まあ、ビギナーの苦手や失敗がそれ自体面白いこともまれにはあるけど……。

その点、『クズの本懐』というマンガ(5年くらい前に読んだ)なんかは私にとっても楽しみやすかった。例えば、人を好きになるという感情については、素朴な共感に依存しすぎず、登場人物ごとに別々なタイプの『好き』を作ってあって、理解もしやすかったし、『好き』のタイプごとに異なる戦術が選択されることに合理性もあったように思う。中盤は『いくらなんでも理屈に傾きすぎてきたか?』とも思い始めたが、終盤にいささか意外な結末が用意されていて、最終的には理屈に傾きすぎないバランスもとれていたと思う。当たり前だけど、ジャンルによってのみ作品の好悪は決まらないなあとか思いましたっ。

*1:それはたまたまというよりは、アニメ製作者の努力のたまものでもあるかもしれない。