Johny-Johny over the Rainbow - version 3.0

本記事は、LW氏の論文『白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか:Vtuber存在論と意味論』『「白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか」延長戦』を念頭に書かれたものです。

saize-lw.hatenablog.com

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私が当該論文を念頭に書いたいままでの記事としては、『絶えず自壊する泥の反論集:インタラクティヴィティと論理的(不)完全性』とか『デットンは存在し、かつ、弟であるのか』とか『○』とかがありますが、本記事の主張は必ずしもこれら過去記事の主張と一致しません。本とか読んで考え方変わりました。

また、本記事とやはり主張は一致しないけれど、興味関心が結構被る記事として『Vtuberの命名儀式はいつ・どこで?』とか『反事実性を分解したい』とかがあります。

 

本記事、ブログにしては野放図に長々しき文章にはなったのかもしれませんが……内容としてはかなりこじんまりとした主張を試みることが下では意図されています。すなわち、“時間”の取り扱いを重視することで、フィクションと現実との交流を描き出す方策を一つでっち上げることができはしないか、という主張(主張未満ならば妄想)です。その主張はささやかな主張ゆえに、道具立てはいささか不足し、また正直に申し上げるといくつかの循環論法もそのなかには除去しきれずに残っているのですが、さりとて私は無知と怠惰ゆえの批難からの免罪を求める気はありません。万が一、不幸にして本記事を読み、また私がおかしなことを言っていると発見する人がいたなら指摘してください、腹を切って死にます。

 

LW氏のように明晰とはいかずとも、自分の興味関心に応じてカスタムされたキャラクター存在論を構想していきたいものですね。

 

 

序. 各論と別論

Vtuberとはどのような存在か。
言い換えるなら、Vtuberという存在にわれわれが感じる独特さを、われわれはどのような理屈で説明できるのか。
この問いに対し、LW氏は『白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか』(『フブかつ』)のなかで、Vtuberという存在の独特さの一端は、Vtuberに関して述べられた命題の真偽を確定する条件が複数の次元で同時に揺れ動くことにある」という結論に対し、Vtuberという存在のあり方を直接指示と因果説の理論において説明する」という理屈のなかでこの結論に対して見事に迫っていった。
しかしながら、LW氏が『フブかつ』において提唱した理論には、Vtuberの多くに顕著な特徴であるにもかかわらずそれを説明しきれずに例外とみなしてしまうような「不十分な点」があるように思われる。理論のそうした「不十分な点」は無論、あらゆる理論に必然的に存在すべきものであり、LW氏は「『フブかつ』を“頑強な原論”たらしめるためにこの理論が多少不十分な点には目をつぶり、理論の拡張・修正は後に続くかもしれない各論に任せる」と断言している。LW氏の理論の何割かを原論として受け入れたうえで、各論としての拡張・修正――『フブかつ』の延長線上の議論――を行うことが、本記事の目的の第一である。
また、私がかねてから興味を持っていたこととして、フィクションにおけるキャラクターが、しばしば“世界”(ひとまとまりの時間・空間)に縛られずに存在しているように感じられるが、この感覚はどのような理屈でもって説明されるか、という問題がある。この、「必ずしも“世界”には縛られない」という特徴は、一方、現在人気を博しているVtuberのほとんど全員における顕著な特徴でもあり、他方、Vtuber以外の何割かのフィクションのキャラクターたちも持っているような特徴でもある。この、必ずしもVtuberには限られないがVtuberに本質的でもあろう「必ずしも“世界”には縛られない」という独特さを説明するための理論の構築――『フブかつ』とは平行関係にある議論――を行うことが、本記事の第二の目的である。
本記事は以上の二つの目的のもとに議論を展開していく。よって本記事の概要を述べるならば、Vtuberに代表されうるある種のキャラクターの独特さは、“世界”を分ける壁に穴を開けたり壁を乗り越えたりできることにある」という結論に対し、Vtuberに直接指示と因果説を適用するうえで“そのもの性”の理論が必要とされる」という理屈のなかで、キャラクターが壁に穴を開けたり壁を乗り越えたりということの定式化を行い、迫っていこうという試みである。

 

1. 既存理論への不満と本記事の目標

観念論によれば、生きると夢みるという動詞は厳密には同義である。何千という現象から、私は一つの現象へと移行するだろう。一つのきわめて複雑な夢から、一つのきわめて単純な夢へと。他の者たちは狂人としての私を、その私はザーヒルを夢見るだろう。地上のすべての人間が昼夜の別なくザーヒルを夢見るとすれば、地上とザーヒルの、どちらが夢で、どちらが現実だということになるのだろう?
――――J・L・ボルヘス鼓直 訳)「ザーヒル」『アレフ』1952:2017 岩波書店 p146-147

1.1. キャラクターとの相互干渉という奇跡

われわれがVtuberというコンテンツを鑑賞するとき、独特に感じることの第一は、「虚構世界に住む人物はふつう現実世界に住むわれわれと相互干渉することができないはずなのに、Vtuberは虚構世界に住むにもかかわらずわれわれと相互干渉できているように感じられる」ということであるだろう。

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例えば、この動画はVtuberである白上フブキ女史の動画の一例である。この動画中でフブキ女史は「白髪ケモミミなオタク狐」というフィクションのキャラクターであるにもかかわらず、現実世界でYouTubeを視聴しているリスナーに対して話しかけ、YouTubeのチャット機能を通じてリスナーの“声”を聞き取りすらする。このように明らかに別世界に住む人物でありながらわれわれとコミュニケーションをとるということは、フブキ女史に限らず多くのVtuber(特に配信型Vtuber)にあてはまるだろう。

 

「相互干渉できないはずのものと相互干渉できる」ことはなんなら奇跡と呼んでも差し支えないだろうが、語用論的に、あるいは心理学的にみたとき、この奇跡は端的にわれわれの認知がもたらすある種の勘違いとして説明されるだろう。「現実世界のなにかが虚構世界のなにかであると見せかけられているに過ぎないのだから、それがわれわれと相互干渉できたとしても何の問題もないさ」とかなんとか。それはそれでいい。
では、LW氏が『フブかつ』においてそうしていたように、話題を意味論の領域に絞った場合でも、この奇跡は単なる勘違いとして切って捨てることができるだろうか。おそらくそうではない。意味論の見地からみたとき、LW氏の理論は「Vtuberは虚構世界に住んでいる」と言えるからこそ成立するものであり、件の奇跡は「Vtuberは虚構世界に住んでいるはずなのに虚構世界の住人にはできないはずのことができる」という矛盾であるからこれと対決せざるを得ない。

 

われわれにとってどうしてこの奇跡が問題たりうるのか、もう少し正確な言い方をしておいたほうがいいだろう。
「虚構世界に住む人物は現実世界に住むわれわれと相互干渉することができないはず」というわれわれの感覚は、いくつかの分野のいくつかの概念にその正体を見出すことができるだろう*1。こと意味論という分野では、われわれのこの感覚は「“世界”とは、定義からして、“世界”をまたいだ事物同士の因果関係があるようなものではありえない」という論理的な帰結に対応しているのではないかと考える。
そう、“世界”に類する述語を用いる(すべてではないにしろ、多くの)理論には「ある点を含む“世界”とはある点から連続した時空間のすべてを含むものである」言い換えれば「ある点から連続した時空間であるならばある点と同じ“世界”に必ず含まれる」という前提がある(可能世界の独立性)。もしわれわれがあるVtuberと仲良くおしゃべりをしたとするならば、Vtuberはわれわれと時空間的つながりのある範囲にいるといってよいだろう。しかし、われわれと時空間的つながりがある範囲ということは、Vtuberは虚構世界でなく現実世界にいるということになるのか? LW氏の理論の肝は、さきほども述べた通り、「Vtuberは現実世界とは違う世界である虚構世界に住んでいる」という点にあり、ここを譲るわけにはいかないのだが……。しかし、『フブかつ』においては、「異なる世界に属する者同士が相互干渉する」という事態の問題性についてはこれといって触れられず、われわれとVtuberとが相互干渉できるということを前提に議論が進んでいく。

 

われわれが『フブかつ』の議論を受けて、しかし不十分な点を拡張・修正しながら議論を進めようとするならば、キャラクターとの相互干渉問題に関してわれわれが採るべき戦略は、①たしかに定義上可能世界の独立性は破られ得ないが、われわれとキャラクターとが相互干渉できるかのような感覚は可能世界の独立性を破ることなく説明できるような理屈を考える(感覚を定義に合わせる)か、②われわれとキャラクターとがたしかに相互干渉しているいう感覚を(適度な頻度で)許すように、必ずしも独立性を前提としない可能世界論モドキを構想する(定義を感覚に合わせる)かのいずれかであろう。
一方、①の方策は、われわれがキャラクターと相互干渉できるという件の奇跡が単なる勘違いとして説明される結論を引き出しそうである……その結論がたとえ真理であろうとそうでなかろうと、そのようなあまりに常識的な結論をわざわざ引き出す文章に対して紙幅を割いた場合、ブログとしての意義を失うであろう。他方、②の方策……『可能世界論モドキ』と言ってしまえば、それはまだなんらかの意義がある理論のように思えるかもしれないが、実際のところ、独立性を前提としないことによる理論的喪失は大きかろう(独立性が前提とされないとき、例えば因果関係の定式化などが困難になる)。そのため、可能世界論モドキを構想することによってわれわれが確保する立場は(まえがきにも示唆したように)相応にこじんまりしたものにならざるを得ない。しかしながら、あくまでわれわれとキャラクターは相互作用しているという奇跡から出発するこの方策には(前者よりはまだ)文章技巧上の魅力を期待できる。本記事では、②の道を選ぶこととしよう。

なお、本記事の論旨とは直接関係はないが、問題関心のいくらかを共有するパラレルな議論として『Vtuberの命名儀式はいつ・どこで?』を行った。そちらの記事は「われわれとVtuberとの相互干渉が端的に可能であるという前提に従順に従ったとき、Vtuberに関する因果説がどのように認められるべきか」を検討した内容で、いささか奇妙な議論として読めるだろう。

 

1.2. キャラクターの侵入という奇跡

虚構世界のキャラクターが現実世界の事物と相互干渉をする、といった奇跡の延長上には、虚構世界のキャラクター自身が、虚構的存在者としてのアイデンティティを維持したまま現実世界に飛び出してくる、といった奇跡もあるだろう。

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例えば、映画『映画プリキュアドリームスターズ!』の物語は、異世界を渡り歩く能力を持ったゲストキャラに関連して展開するのだが、このなかで、プリキュアの一人が複数の世界を渡り歩くうちに映画館(まさしくこの映画が上映されている空間)にやって来る、というシーンがある。映像としては、全体が暗くなった無地の画面にスポットライトで照らされたプリキュアだけが描かれている、というもので、これが劇場のスクリーンに映るとさもスクリーンの手前にプリキュアが現れたかのように見える、というしかけを使っている*2。われわれがこの映画を大画面で観て「プリキュアが現実世界にやってきた」という感動をもし覚えるのならば、その感動を下支えするものとして、映像的なしかけももちろん重要だが、「虚構世界のキャラクターが現実世界に飛び出してくる」というアイデアがもっている公共性(とびぬけて突飛で理解不能なアイデアではない)もまた重要であるのは間違いない。

 

「キャラクターたちが現実世界の事物と相互干渉する」という事態を前提に可能世界論モドキをものしたいとすでに決めているわれわれとしては、新たに出てきた「キャラクターそのものが現実世界のなかに入ってくる」という事態はこれを前者の事態の特殊例とか応用例としてモドキのなかに組み込みたいところである。

 

1.3. 反実仮想と虚構世界との違い

われわれは、フィクション作品を鑑賞するとき、「単なる反実仮想に過ぎなかったものが一個の虚構世界に転化する」というような現象をしばしば目にするだろう。
この現象をはっきりと表現するのは比較的難しいように思われるが、例えばこんなことだ。

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アニメ『風都探偵』には、毎話の最後に本編の内容と遊離したコントのようなものを行うミニコーナーがある。このミニコーナーにはいくつかのフォーマットがあるが、そのフォーマットのひとつ「ハードボイルド妄想日記」では、まさしく妄想としか表現しようのない不合理な状況がアニメとして描写される。
第3話のミニコーナーも「ハードボイルド妄想日記」のフォーマットをとっており、「もしもときめがアメーバだったらぁぁぁ!!」と題して、レギュラーキャラのときめ女史がアメーバであり、常に2人、4人、8人……というように指数関数的に増殖している、という状況が描かれた(“本来の”ときめ女史は人間であり、理由もなく増殖することはない)。
このミニコーナーで描かれた状況は、もちろん本編とも正史ともみなされることはない。本編のストーリーを理解するうえで関係ない情報であるという点では、このコーナーの内容の重要度は視聴者の妄想の重要度となんら違いはないだろう。しかし、短い尺とはいえ、現にアニメーションとして映像化していることによってはじめて、この妄想的内容は単なる妄想以上のものになった――ひとつの“世界”を占めるに至った――というような気はしないだろうか? 単なる妄想にすぎなかった可能性が、「ときめ」というキャラクター名を聞いたとき当然に想起すべき可能世界群のなかに新たに加えられた、というような感覚がしないだろうか? これについて私は感覚に訴えかけるようなことしか言えないのだが……。

 

ここからは、「妄想」という概念をより範囲の広そうな概念「反実仮想」で言い換えよう。私の考えでは、反実仮想のなかでもある種の特別な反実仮想のみが「虚構世界」と呼ぶべき特徴を持っている。つまり、反実仮想が虚構世界と呼ぶべきものになるための何らかの条件があるのであって、ロマンチックに言えば、虚構世界はすべて単なる反実仮想から何らかの理由で虚構世界へと転化してきたものなのだ。
そしてその転化のきっかけとして、例えばアニメーションとして映像化することなどが有効であるらしい。また、一人のキャラクターの固有名に対して複数の可能世界が参照されるとき、反実仮想とみなしうるすべての可能世界ではなく、そのうちの虚構世界と呼ぶべき可能世界のみが参照されているらしい。

 

ある反実仮想が虚構世界に転化するか否かを決める条件とは何なのか。これは多少興味深い問いではあるが、本記事ではこの問いに最終的で決定的な解答を与えることは目指さない。
代わりに本記事でこれから検討したいのは、単なる反実仮想と単なる反実仮想にとどまらない虚構世界、なんとなく区別できそうなこのこの両者を、やはり区別して取り扱わねばならないといえるような理由――感覚的な違いでなく論理的な定義――を用意することである*3

 

この点、『フブかつ』においては、単なる反実仮想と虚構世界との関係は、ただ似ていると語られるだけで両者が何によって分けられるのかは語られていない。
確かに反実仮想と虚構世界はよく似ている。が、両者の間になんとなく違いを感じることもまた(少なくとも私にとっては)事実であり、端的に同じものであるかのように語られている理論は少々実感にそぐわない。単なる反実仮想と虚構世界との間に当然あるべき相似は認めたまま、両者の違いをも描き出す方向で本記事の理論を進めていきたい。

なお、本記事の論旨とは直接関係はないが、問題関心のいくらかを共有するパラレルな議論として『反事実性を分解したい』を行った。そちらの記事は「『フブかつ』では比較的ごちゃごちゃに扱われていた感のある複数の反事実性を分類整理する」という目的を持った記事である。

 

1.4. 現実と虚構との相対性

フィクションを作りだす人間の想像力は、無際限にではないがかなり自由なものだ。だから世のフィクション作品の中には、作品それ自体が示す虚構世界のなかにまた小さな虚構世界があることがあり、こうした世界は虚構内虚構世界とでもいえる。また、そうした虚構内虚構の世界のキャラクターが虚構世界に住む人物と相互干渉を行ったり虚構世界へと飛び出してきたり、といった作品もしばしば存在する。

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例えば、映画『ラスト・アクション・ヒーロー』では、大ヒットアクション映画シリーズ「ジャック・スレイター」シリーズが映画館で上映されている虚構世界に、シリーズの主役ジャック・スレイター氏が飛び出してきて大騒動を巻き起こす。
このように「虚構内虚構世界から虚構世界へとキャラクターが飛び出す」というフィクション作品は、さきほど述べた「虚構世界から現実世界へとキャラクターが飛び出す」というフィクション作品に比べれば比較的簡単に受け容れられるだろう。虚構内虚構世界からキャラクターが飛び出すという状況全体は確かにフィクショナルだが、フィクショナルな世界のなかでフィクショナルな状況が実現することになんの問題があるというのか。

 

虚構世界から現実世界へと飛び出す奇跡があるように、虚構内虚構世界から虚構世界へと飛び出す奇跡もあるとするのなら、両者の奇跡があえて別物であると考える動機はわれわれにとって薄いだろう。二つの奇跡は単にスタート地点が違うだけで同種の現象が起こっているのだともし理解できるのならば、そう理解したほうがシンプルでよい。
つまり、われわれが「ある“世界”から別の“世界”へと飛び出す奇跡」について考えるとき、求められるのは次のような考え方だ。すなわち「われわれが考えているのは、相対的に虚構であるほうから相対的に現実であるほうへキャラクターが飛び出す現象一般であり、本質的に異なる2種の現象ではない」。ならば、ことキャラクターの飛び出しに関しては、現実世界をあらゆる虚構世界に比して特権的な位置にあえて置く必然性もわれわれにはないだろう。「虚構と現実との別は、キャラクターの飛び出しに対して相対的なものであり、“世界”同士の推移的な関係というわけではない*4

現実世界をあえて特権的な位置に置く必然性もないのならば、われわれの現実世界でさえ、ある世界から見れば相対的に虚構でありうることをわれわれは肯定するだろう。つまり「夢の夢はうつつ」だということだ。しかし、シンプルな理解を行おうという理由だけで、そんな胡蝶の夢のような話を受け容れることはできるのだろうか?
私の考えでは、胡蝶の夢のような話を受け入れることで得られるメリットは単に理論を単純化できるという点にはとどまらず、いくつかのフィクション作品が持っている独特さと整合するという点にまで及んでいる。

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例えば、比較的有名な逸話として以下のようなものがある。Vtuberである月ノ美兎委員長の動画において、「Vは絵だから心なんてない」というリスナーからのチャットに対し月ノ美兎委員長は「わたくしが絵ならテメエらは文字だろうがよ。なあ、一次元が二次元に何言ってんだ?」と切り返したという*5。この逸話は、現実世界に住むわれわれにとってVtuberがフィクショナルな表象であるように、Vtuberにとってわれわれがなんらかのフィクショナルな表象であるかもしれないという可能性を、確証しないまでも、示唆しているとは言えないだろうか*6

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また、例えば、映画『仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』のストーリーも示唆的な構造を持っている。この映画では「仮面ライダーが実在して戦っている世界(ふだんの作品世界*7)」と「仮面ライダーが実在せずテレビ番組として放映されている世界(われわれの現実世界のパロディ)」の二つの“世界”が登場するのだが、展開としては「ティード氏が行う歴史介入によって前者の“世界”から後者の“世界”へと世界改変する」という展開と「フータロス氏の超能力によって後者の“世界”から前者の“世界”へと世界改変する」という展開の両方が描かれる。双方の世界改変のなかで、前者が本来の“世界”ととられるか後者が本来の“世界”ととられるかは世界改変の主体の立場にのみ依存しており、どちらの世界が本来の世界であるかを決める絶対的な審級は存在しない。つまり、現実と虚構との関係を相対化したフィクション作品として本作を解釈することができる。

 

以上の事情から、本記事では、こと「キャラクターが虚構世界を飛び出す」といった現象に関して、現実と虚構との関係を単に相対的なものとして処理できる理論を志向する。

 

1.5. 反実仮想 - 虚構世界 - 現実世界

1節から4節まで、既存理論が区別せず曖昧に済ませていた領域や既存理論ではいくつかのフィクション作品の特徴を捉え損ねる領域を追ってきた。これらの領域を説明の範疇に加えることが本記事の議論の目標である。
さて、既存理論に対する不満点として各節で得られた領域を本記事の議論で巧く説明できたとするならば、それは、フィクション作品が取りうる可能性として以下のように表現されるあり方を示唆するだろう。

  • 「“世界”xが“世界”yに対する反実仮想である」ということは、“世界”xと“世界”yとの関係である*8
  • 「“世界”xが“世界”yに対する反実仮想である」というような関係は、対称的ではなく*9、推移的ではなく*10、反射的ではない*11
  • 「ある“世界”xがある“世界”yに対する虚構世界である」ということは、“世界”同士の関係であり、「ある“世界”xがある“世界”yに対する反実仮想である」という関係を含む*12
  • “世界”xが“世界”yに対して虚構世界であるとき、ある事物(人物が生み出した声や情報や人物そのものを含む)が所属先を“世界”yから“世界”xへと移すということはありうる。

以上のあり方に従うフィクション作品では、例えばこんな状況が描かれるかもしれない……妄想とでもいうべきアドホックな状況設定のもとで生み出されたキャラクターが、単なる反実仮想と虚構世界との間の、曖昧ではあるが確かに存在する溝を越えてひとつの所属先虚構世界を獲得するという状況。あるいは、虚構内虚構世界に生み出されたキャラクターが“世界”を分ける壁を一枚二枚と乗り越えていき、虚構内虚構世界のキャラクターと虚構世界のキャラクターと現実世界の人物とが同じ文脈のなかで相互干渉するような状況。
そしてこうした突飛な状況は、単に私が自ら設定した目標のなかで「考えられなくもないあり方」というだけでなく、実際にいくつかのフィクション作品において描かれたことのある状況の中に含まれており、こうした状況を考察できるということには積極的な意義がある、と私は主張したい。

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例えば、Vtuberであるしぐれうい先生のこれらの動画である。一つ目の動画で「安価で決めたキャラ設定の女子高生のイラスト」としてうい先生に描かれた安堂=R=ジョニージョニー女史は、二つ目の動画のなかで「うい先生と会話することが可能な一個のキャラクター」として確立し、三つ目の動画においてはうい先生を介さずに直接リスナーとコミュニケーションをするに至った。これは、単なる虚構内反実仮想が虚構内虚構世界へと脱皮する過程、また単なる虚構内虚構のキャラクターが現実世界まで侵入してくる過程のわかりやすい例の一つである。さきほどは件の状況を“突飛”だと表現したが、実のところ件の状況は突飛なものでもなんでもなく、かつてキズナアイ女史が構想した“究極のフラット”なる未来――あるいはすでに実現した現在――の一側面ですらあるのかもしれない。

 

それにしても、本記事の議論が示唆しようとするあり方の極致と合致するフィクション作品があり、なおかつその作品がVtuberであるということからは、なんだかんだと言っても本記事の議論はLW氏によるVtuber特化の存在論の拡張・修正としての色彩を強く持っている、と主張したくもなる。
私は、Vtuberに限らずアニメや特撮等の幅広いフィクション作品とそのキャラクターに適用することを念頭に本記事での議論を展開するが、かといって、本記事で得られるべきモデルがVtuberの独特さを表現しないということでもないだろう。本記事の議論で広く適用できるモデルを構想するにしても、構想されたあり方がVtuberにとりわけ顕著な特徴を際立たせる可能性は高い。

 

2. そのもの性と不完全性

終わりが迫ると、もはや記憶のイメージは残らない。残るのはただ言葉だけである。かつてわたしを表現していた言葉と、何世紀も私と共にあった者の象徴であった言葉とを、時間が混同したとしても不思議ではない。私はホメーロスであった。間もなく、オデュッセウスのように〈何物でもないもの〉になるだろう。間もなく、すべての者になるだろう。すなわち、死者となるだろう。
――――J・L・ボルヘス鼓直 訳)「不死の人」『アレフ』1952:2017 岩波書店 p34

彼をここへ引きずってきた目的は、確かに超自然的ではあったが、不可能なものではなかった。彼の望みは、一人の人間を夢みることだった。つまり、細部まで完全なかたちでそれを夢みて、現実へと押しだすことだった。彼の心は、この神秘的な計画ですっかり占められていた。
――――J・L・ボルヘス鼓直 訳)「円環の廃墟」『伝奇集』1944:1993 岩波書店 p72

2.1. そのもの性

記述説ではなく因果説、つまり、キャラクターの固有名は偽装された確定記述ではなく固定指示子であり、性質の記述の束を介して特定のキャラクターに紐づけされるのではなく直接に特定のキャラクターと結びついているのだ、という主張は『フブかつ』のなかでもかなり重要な主張だ。
一方、固有名とはあるキャラクターが具えているいくつかの性質でもってそのキャラクターと結びついているのだ、という記述説の考え方は理解しやすい。白上フブキ女史を例にとるなら、『白上フブキ』という名前は白上フブキ女史が持っている「白髪である」「狐である」「オタクである」etc...の性質を捕まえているというわけだ。他方、固有名はあるキャラクターが持っているいかなる性質にも依存せずにあるキャラクターと結びついている、という因果説の考え方は容易には理解しがたい。『白上フブキ』という名前が「白髪である」とも「狐である」とも「オタクである」とも直截には関係ないとするなら、『白上フブキ』という名前は白上フブキ女史のいったいどの要素を捕まえているのか?
本記事では、因果説において『白上フブキ』という名前は、白上フブキ女史が具えているいかなる性質にも還元されない、しかし白上フブキ女史が必ず具えている何らかの要素を捕まえているのだ、と考える。この何らかの要素を、白上フブキ女史の「そのもの性」と呼ぶことにしよう。
私がここでこの何らかの要素を「そのもの性」と名付けた意図についてもう少し説明しよう。ある個物のそのもの性はその個物に固有であり、その個物が自身の性質のいくつかをたとえ失ったとしても保存される。例えば、なんらかの理由で白上フブキ女史が白髪でなくなり、狐でなくなり、オタクでなくなり……「白上フブキ」と聞いて人が想像できるすべての特徴を失ったとしても、なおそのものがそのものであるところの根本的な同一性(そんなものが実在するのか実在しないのかは現状では断言できないが)があるとすれば、そういった根本的同一性は「そのもの性」と呼ばれていいだろう。

  • 定義I(仮):ある個物がそのもの性を具えているとは、その個物が具えているようなようなあらゆる性質には依存せず、「その個物である」と認めさせるような根本的同一性をある個物が具えているということである*13

そのもの性が、ある個物をして「その個物である」と認めさせるような根本的同一性であるとして、ではその根本的同一性とは何であるのか? これは非常に興味深い問いではあるように思われるが、われわれが今すぐに取り扱うにはいささか難解すぎる問いではある。この記事では、そのもの性がいったい何であるのか、その疑問に過不足ない解答を与えることは目標とはしない。しかし、そのもの性を具えるということが一面ではどう理解されるかについて、ここからいくばくかの考察を与えていく。

 

ひとまずわれわれは、われわれが暮らす現実世界の日常において固有名の指示はどのように行われているかを考えてみればよいだろう。

 

現実世界の日常において、個物が具えているいくつかの性質は、そのもの性が果たす役割とは微妙に異なるがよく似た役割を果たしている、ということがあると思われる。いわば、『そのもの性モドキ』とでも言うべき性質だ。そのもの性モドキとして、思い浮かぶのは、ある個物が同じ原子で構成され続けているという性質であろう。
例えば、われわれと同じ現実世界に『佐藤和真』という名前の人物がいて、佐藤和真氏と知り合いであるわれわれはふだんから彼を『佐藤和真』と呼んでいたとしよう。このとき、もしも不幸にして佐藤和真氏が亡くなり、遺体となってしまったとしても、われわれのうち(全員ではないが)何割かはその遺体を依然として『佐藤和真』と呼ぶだろう。また、佐藤和真氏が亡くなっただけでなく火葬されて灰になったとしても、われわれのうち何割かはその灰を依然として『佐藤和真』と呼ぶだろう。ここで、『佐藤和真』という名前が捕まえているのは、たとえ佐藤和真氏が生命活動を止めようと酸化しようと変わりなくそのなにものかを構成し続けている特定の原子の集合ではないだろうか*14

  • 定義I(ニセ)①:ある個物がそのもの性を具えているとは、ある個物が同じ一そろいの原子で構成され続けているということである

しかしながら、ここで述べている性質はあくまで限定状況下で「そのもの性」とほぼ同等の役割を演じる「モドキ」に過ぎず、そのもの性とそのもの性モドキとの違いはすぐに露呈する。ある個物が具えるそのもの性が簡単に/常に失われるわけではない一方、原子レベルでの同一性は簡単に/常に失われているのだ。
人間は(たいていの場合)生き物であるので、常に外界から一定数の原子を自分の身体に取り入れ、また常に一定数の原子を手放して外界に送っている。ある一瞬に佐藤和真氏を構成していたような原子の何割かは、次の一瞬には呼気や汗や抜け毛として外界に放出され、「かつて佐藤和真だったもの」として世界に散逸していく。同じ原子で構成されているということによってなにか人間を特定するというのはかなり難しい。原子レベルの同一性というそのもの性モドキがホンモノとはだいぶ異なるとするなら、もっとホンモノに近しいモドキは他にないのだろうか。

 

よりマシなそのもの性モドキとして、同じ物体を構成し続けているという性質が挙げられるのではないだろうか。そして、ある物体が同じであるか否かを判断するうえで、単位時間内である程度以下の原子や分子の入れ替えは無視されるのではないだろうか。
例えば、昨日の佐藤和真氏と今日の佐藤和真氏の間で、身体を構成する原子が10%しか共通していなかったとする。原子レベルでの同一性が10%しかなかったときくと、瞬間、われわれは昨日の佐藤和真氏と今日の佐藤和真氏を同じ『佐藤和真』の名で呼ぶことをたっめらってしまいそうになる。しかし、昨日から今日までのすべての1秒間で、入れ替わった原子が例えば1%以下だったとするならば、われわれはやはり安心して昨日の佐藤和真氏と今日の佐藤和真氏は同じ物体であるとみなすことができるのである*15
例えば、亡くなって灰になって骨壺に入った佐藤和真氏をわれわれは依然として『佐藤和真』と呼ぶとしよう(火葬によって身体から大量の水素原子・酸素原子が失われることも、一瞬一瞬でみれば許容範囲だとみなしたということだ)。このとき、骨壺に入っている灰ならばまだ『佐藤和真』と呼んだとしても、骨壺から出されて海に散骨されたとき、その散逸していく灰を『佐藤和真』と呼ぶ人はかなり少ないだろう。これは、灰が散逸していくことでもはや同じ物体とはみなせなくなったからこそ、『佐藤和真』という名前が捕まえていたそのもの性が失われたということであろう。
多少の原子・分子レベルでの異同を許したうえでの物体の同一性のことを、ここからは物理的連続性と呼ぶことにしよう。

  • 定義I(ニセ)②:ある個物がそのもの性を具えているとは、ある個物が物理的連続性を維持しているということである

しかし、このモドキにもそれはそれで問題らしきものがある。われわれは、ある個物が持っているいかなる性質にも還元され得ないものとして“そのもの性”なる概念を用意したわけだが、②のような定義を行ったとき、このそのもの性モドキはやはりなんらかの性質であり、ある個物が持つあらゆる性質のなかに含まれてしまうのではないだろうか? ある個物が持つあらゆる性質に含まれないようなかたちでそのもの性を定義する文、あるいはせめて、ある個物が持つそのもの性モドキとその他すべての性質とを簡単に区別できるような定義を行う文は考案できないだろうか?
ここで、われわれがこれまでに得た比較的マシなニセモノである②の対偶をとってみるというのはいいヒントになるだろう。すなわち、ある個物が物理的連続性を維持しなくなったとき、その個物はいったいどうであるのか?
例えば、佐藤和真氏が亡くなって灰になり骨壺に入っているようなとき、佐藤和真氏には(見方によるところはあるが)まだそのもの性がある。しかし、骨壺から出されて海にまかれたとき、かろうじて残っていたかもしれないそのもの性は確実に失われる。そのもの性が失われた佐藤和真氏とはいったいどうであるのか?
そのもの性が失われたとき、佐藤和真氏はもはや何物でもない……それが答えなのではないだろうか。考えてみれば、そのもの性がかろうじて残っている間は、佐藤和真氏は様々に姿を変えはしたが常に何物かではあった。あるときの佐藤和真氏は人間であり、あるときの佐藤和真氏は遺体であり、あるときの佐藤和真氏は灰である、というように(ひょっとすると、命名前かつ誕生前のある時期の佐藤和真氏についても、このときの佐藤和真氏は胎児である、というようなことが言えるかもしれない)。しかしながら、散骨されたあとで「現在の佐藤和真は灰である」という認識は持ちづらい。現在の佐藤和真氏が何であるかと問われれば、「いまや何物でもない」と答える者が多いだろう*16
物理的連続性を維持していないということが「何物でもない」ということならば、「何物でもない」ということはないということは、そのもの性モドキとしてホンモノにかなり近い役割を果たせるのではないか。

  • 定義I(ニセ) ③:ある個物がそのもの性を具えているとは、ある個物が「何物でもない」ということはないということである

この③は、そのもの性モドキが(ひいてはホンモノも)ある個物が具えている性質の一つではない、ということを示唆するだろう(後にもう一度述べる通り、これは全く当たり前のことなのだが)。具体的にどのように考えれば、③から「そのもの性モドキは性質ではない」ということが示唆されうるのか、以下に詳しく述べていこう。
まず、可能世界論に従えば、「性質」とは“世界”が与えられたときにその“世界”のなかの個物の集合を返すような関数として定義できるという)。そして、個物の側から考えたとき、返された集合の要素としてある個物が属していればその個物はその性質を持っており、含まれなければその性質を持っていないということになる。例えば、ある世界をw、「赤い」という性質をRとおいたなら、
R(w) = {リンゴ, ポスト, 消防車, トマト, ......}
のようなイメージで「赤い」という性質が返す集合をイメージできる(“性質”を、“個物”を変数にとる関数ではなく“世界”を変数にとる関数として表現したことに注意)*17*18
さて、ここで「性質」「個物」「世界」という概念を組み替えて、「個物」という概念を関数として表現することができるだろう。すなわち、「個物」とは、(ある世界を定義域に含む)すべての性質によって構成される順序集合が与えられたとき、その個物が「それぞれの性質が世界に対して返す個物の集合に含まれている」か「その補集合に含まれている」かの2種類の値によって構成される順序集合を返すような関数である。例えば、ある世界をw、(wを変数にとれる)すべての性質によって構成される順序集合として以下のようなSをおいて、
S = {赤い, 丸い, 車である, 生きた動物である, 死んだ動物である, 灰である......}
「それぞれの性質が世界に対して返す個物の集合に含まれている」をT、「(wに含まれるすべての個物で構成された集合を全体集合として)その補集合に含まれている」をFとあらわすことにして、リンゴ・ポスト・消防車・トマトのそれぞれを関数としてあらわすと以下のようになるだろう。
リンゴ(S) = {T, T, F, F, F, F, ......}
ポスト(S) = {T, F, F, F, F, F, ......}
消防車(S) = {T, F, T, F, F, F, ......}
トマト(S) = {T, T, F, F, F, F, ......}
われわれの現実世界にあるような個物のうち、すぐに思いつくようなものはすべて、このような関数にしたときにTとFで構成された順序集合を返すであろう。そして、そのもの性モドキを具えているときの佐藤和真氏もこれらの個物と変わらず、このような関数にできる。例えば、生前の佐藤和真氏であれば
佐藤和真(S) = {F, F, F, T, F, F, ......}
遺体となった時点の佐藤和真氏であれば
佐藤和真(S) = {F, F, F, F, T, F, ......}
灰となった時点の佐藤和真氏であれば
佐藤和真(S) = {F, F, F, F, F, T, ......}
のような順序集合をそれぞれ返すであろう*19
では、何物でもなくなった時点の佐藤和真氏はどのような順序集合を返すだろうか? 何物でもない佐藤和真氏は赤くもなく丸くもなく車でもなく……そんなものなので、要素として無数のFだけを持つ(Tを一つも含まない)集合を返すだろうか?
おそらくそうではない。「何物でもない」ものとは、定義からして何物でもないので、「任意の性質が世界に対して返す個物の集合」にも「その補集合」にも含まれないのだ。そのため、何物でもない佐藤和真氏を関数にしたとき、その関数は「TでもFでもない」を要素として持つ順序集合を返す。
佐藤和真(S) = {TでもFでもない, TでもFでもない, TでもFでもない, TでもFでもない, ......}
これが何物でもない時点の佐藤和真氏である*20。何物でもない個物は『何物でもない』のだから性質が返す個物の集合にもその補集合にも含まれないのである。つまり、何物でもない個物は個物の全体集合に含まれないのである*21
と、こんな風に述べてみることは、もちろん単なる言葉遊びに過ぎない。われわれが考えてきたように、何物でもない個物はもはやそのもの性モドキを失っている、つまり個物ではないのだから、個物の全体集合に含まれないことは当たり前である。
もはや個物ではない個物はどんな個物であるのか、そのような考え方をすることは、まあ基本的にナンセンスではあるが、しかしながらわれわれに「ある個物が個物たるための条件としてどんなものがあるか」をよく教えてくれる。ある個物が個物たるための条件として、「任意の性質が返す個物の集合か、その補集合に含まれる」という条件があるのだ。これこそ、われわれが探ってきたそのもの性モドキ③なのだ。
本来、個物はすべての性質の集合を与えられたとき必ずTかFのみで構成された順序集合を返すわけであり、「必ずTかFのみで構成された順序集合をかえすようなもの」こそが個物であると定義することも可能であろう*22。ここまでの議論は実のところ、この定義をわざわざ分解して、個物が個物たるための条件に「TでもFでもない値を返すことはない」「TかFのどちらかを返す」の2段階を作ってみせたに過ぎない。
しかし、そうすることで、われわれはある個物がその個物たるための根本的同一性……自体ではないにしろ、そういった同一性の一端であるところのそのもの性モドキをはっきりとイメージできるようになったのではないだろうか*23

 

2.2. 反実仮想と虚構世界

ここまで、そのもの性とそのもの性モドキの定義にかかわる議論を行ってきたが、現実世界を念頭においたなかでのそのもの性とそのもの性モドキの本性はまずまず解き明かされてきたと思われるので、この議論をいったん中断して、現実世界の外、反実仮想と虚構世界にかかわる議論を始めよう。
予告した通り、本記事では反実仮想と虚構世界を区別して語ることができる理論を構築しようとしているわけだが、その前にいったん、本記事が想定している虚構世界はどのようなものであるのか、宣言しておこう。

 

  • 虚構世界は不完全なものである

『フブかつ』では、Vtuberというフィクション作品が表現する“世界”が完全であるかもしれないという可能性も検討しつつ、議論の本筋としてはフィクション作品が表現する“世界”は不完全であるということを認めている。本記事でも『フブかつ』にならって、Vtuberを含めたフィクション作品のキャラクターは各々の作品が表現する不完全な世界に住んでいるということにする。フィクション作品が表現する“世界”という呼び方は長いので、以後『虚構世界』と呼ぶ(この用語法は『フブかつ』の用語法とは一致していない可能性があることに注意。次節を参照せよ)。
では不完全とはどういうことなのか、と気になるかもしれないが、本記事では、『フブかつ』における定義*24とは若干趣向を変えて次のように定義する。「ある“世界”が不完全であるとは、その“世界”内の個物に関する命題が必ずしも真か偽には定まらないということである」つまり、完全であるということは次のように定義される。「ある“世界”が完全であるとは、その“世界”内の個物に関する命題はすべて真か偽に定まっているということである」*25
虚構世界において真か偽か定まらない命題というのは、例えば次のようなものを指す。「シャーロック・ホームズの背中にはホクロがある」この命題は、「シャーロック・ホームズ」シリーズにはホームズ氏の背中にホクロがあるか否かをはっきりと述べた描写が(おそらく)存在しないため、真であるとも偽であるとも言い切ることができないだろう。これは、「シャーロック・ホームズ」シリーズが表現する虚構世界が不完全であるために起こる事態である。
また、「シャーロック・ホームズ」シリーズが表現する虚構世界においてホームズ氏の背中にホクロがあるともないとも言えないということと、われわれの現実世界においてソクラテス氏の背中にホクロがあるともないとも言えないということとは違う(区別できる)。前者の状況では、ホームズ氏が背中にホクロを持つとも持たないとも言い切れないような“世界”として虚構世界がすでに完成しているために、現実世界のわれわれが虚構世界におけるある命題の真偽を確信できないことは必然的だが、後者の状況では、実際のところソクラテス氏が背中にホクロを持っていたか持っていなかったかは定まっている“世界”こそが現実世界だが、その情報は偶然現代まで伝えられていないためにわれわれが現実世界におけるある命題の真偽を確信できない。

さて、『フブかつ』においてLW氏は「ホームズ氏の髪の毛の数が奇数であるとも偶数であるともわれわれは確信できないが、虚構世界の個物について述べた命題が通常の推論規則に従うとするなら、ホームズ氏の髪の毛の本数は少なくとも『奇数または偶数』ではあろう」という趣旨のことを述べている。本記事の流儀に従って別な例文を作るなら、次のような例文でも意図は同じだろう。「ホームズ氏の背中にホクロがあるともないともわれわれは確信できないが、ホームズ氏の背中のホクロは少なくとも『ある、あるいはない』ではあろう」
この例文が示すところの意図は、われわれの直観によく合致しているように思われる。以下を公理として採用しよう。

  • 理II(仮) ある虚構世界の個物について述べた任意の命題Pについて、(P∨~P)はその虚構世界に対して真

しかし、われわれはなぜ、「シャーロック・ホームズ」シリーズのなかで書かれていないことであるのにもかかわらず、「少なくとも『ある、あるいはない』ということは真である」などと感じられるのであろうか? 「『ホクロがある、あるいはない』ということ」ですら拒否する道を選んでしまわないのだろうか?
この疑問には、「フィクション作品には常に“外挿”できる可能性がある」という考え方で回答することができるだろう。外挿とは、あるフィクション作品に関して、そのフィクション作品に既に含まれている情報と矛盾しないようなかたちで、そのフィクション作品が表現する世界についての追加情報を与えることだ。そして、そういった追加情報はしばしば、その作品の本筋とまるで関係がないようなトリヴィアルな虚構的事実に対する言及であることが歓迎されすらする*26
例を挙げよう。『緋色の研究』において巻き起こる事件はホームズ氏の背中のホクロの有無などとはまるで関係なく進行するものであり、作者サー・アーサー・コナン・ドイルも『緋色の研究』において背中のホクロの有無について記述することはなかった。しかし、作者が何かの気まぐれで『緋色の研究』の途中に「私ワトソンはこのとき知る由もなかったが、この日このときもホームズの背中の真ん中には大きなホクロが鎮座していたわけだ」のような文を突然挿入する、といったようなことは、実際にはなかったが可能性としてはありえた、とわれわれは思えるだろう。われわれはトリヴィアルな情報の開示を文学的テクニックとして受け入れられるからだ(私の例文が巧いテクニックか下手くそなテクニックかは別として)*27
もっと極端な例のほうが分かりやすいかもしれない。太宰治氏が何かの気まぐれで『走れメロス』の冒頭を「いまは佐賀県と呼ばれる場所で、一人の村人がくしゃみをした。ちょうどそのとき、遠く海を越えたある場所で、メロスは激怒した」から開始した、といったようなことは、実際にはなかったが可能性としてはありえただろう。
このように、われわれがフィクション作品をフィクション作品として受け入れるときは常に、ある虚構世界に関するトリヴィアルな事実が開示されてもおかしくはないと感じている(実際に開示されることこそまれかもしれないが)。もう少し踏み込んで言うなら、あるフィクション作品は、虚構世界において起こっているあらゆる物事について確信できる答えを用意しているわけではないが、あらゆる物事についてそれを突然確定させられるような準備ができている。なおかつ、これは言い換えれば、「この物事に関しては、突然答えが確定するというようなことは絶対に起こりえない」という特別な物事はひとつもない、ということでもある。この、「いつだってどんな物事だって外挿されうる」「なにがなんでも外挿され得ない、というものはない」という感覚こそが、「少なくとも(P∨~P)は真であるはずだ」という確信の正体ではないだろうか*28

しかし、この「いつだってどんな物事だって外挿されうる」「なにがなんでも外挿され得ない、というものはない」という感覚、虚構世界だけでなく反実仮想にもあてはまるだろうか? いや、われわれがふつう反実仮想と呼ぶところの文章に、外挿ができる場合はいささか限定的であるように思われる。
例えば、「ソクラテスが女性だったら、妻に文句を言うことはなかっただろう」という反実仮想に、むりやり外挿を行ってみよう。「ソクラテスが女性だったら、妻に文句を言うことはなかっただろう。ところで、アリストテレスは結婚している」はて、この文はいったい何が言いたいのであろうか? フィクション作品が、本筋とかなり無関係な事実を突然挿入しても文学的テクニックと解釈できる、否、するしかなかったのに比べれば、単なる反実仮想に対しては、それに文学的テクニックを見出すことは全く前提されないため、本筋と無関係なことを言い出せば不必要な添加物にしかならない。そう、“不必要”なのだ。フィクション作品に外挿がもし行われれば、そのフィクション作品は添加された情報を抜きにしてはもはや考えることができないのに対して、フィクション作品と言うほどの体をなしていない単なる反実仮想に外挿が行われても、「この情報なくてもこの反実仮想はこの反実仮想として成り立つよね?」というように添加された情報抜きに反実仮想を考えることができてしまうのだ。
ただし、虚構以外のあらゆる反実仮想があらゆる外挿を許容しないかと言えば、そうではないだろう。反実仮想であると言えて、なおかつ外挿が不可欠なものとして表現されているような文は全く存在しないというわけではない。例えば、「もし俺に妻がいたら、休みの日に黒のカットソーと青のロングスカートで一緒にお出かけしてくれたり、仕事帰りに帰り道で偶然会って一緒にラーメン食べに行ってくれたり、壁紙の色の好みが合わなくて口げんかになったりとかするんだろうなあ……」という妙に細部が細かい反実仮想の文などは、外挿と呼ぶべきものがなされている*29とみなしても問題はないだろう。まあ、これは反実仮想のうちでも文学に片足を突っ込んでいる部類だ、ともいえるが……*30

 

虚構世界を表現するところのフィクション作品には外挿が行えるが、虚構世界でないような反実仮想を表現するような文章には外挿が比較的行えない傾向にあるのだとすれば、われわれは、単なる反実仮想において文面にはっきりと出てこない物事に関する命題について、「少なくとも『真または偽』は真である」という確信を得ないことがあるのではないだろうか。ある単なる反実仮想がひとそろいの命題であらわされるとして、そのひとそろいの命題に含まれない任意の命題Pについて、(P∨~P)が真とは限らないのではないだろうか。また、逆に、ひとそろいの反実仮想に含まれない命題Pについてでも(P∨~P)は真であろうと確信できるようなとき、その反実仮想は反実仮想のなかでもとくべつに虚構世界と認められるべき反実仮想であるといえるのではないか。
表現をもう少しシンプルにするなら、以下のような公理、もとい定義文を提案できる。

  • 理II 改め 定義II(仮) ある反実仮想の任意の個物について述べた任意の命題Pについて(P∨~P)が真であるとき、その反実仮想を虚構世界と呼ぶ

「(P∨~P)は必ず真である」というルールを排中律と呼んでもし差支えなければ*31、以下のように言い換えられる。

  • 理II 改め 定義II(仮) 反実仮想のうち排中律が成り立つものを虚構世界と呼ぶ*32

この定義文を見たとき、こんなことを期待する人もいるだろう。「それ自体のうちで排中律が成り立っていないような命題のうちには、反実仮想としては表現できるが虚構世界としては表現できないようなものがあるのではないだろうか」
素朴に考えるなら、「それ自体のうちで排中律が成り立っていないような命題」とは、次のようなものでいいのだろうか? 「赤くないものが、赤くなくもない」そしてこの命題は、まずフィクション作品に組み込むのはかなり困難だとして、なんらかの反実仮想に組み込むことは果たしてできるだろうか? 例えば、次のような反実仮想だ。「この世のすべての赤くないものが、赤くなくもなかったら、この世はすべて赤いのになあ」……この文を私は、排中律が成り立っていないために、反実仮想とはみなしうるがフィクション作品に組み込むことは不可能であるような文の好例だと感じる。が、この文が好例だと感じられるということに関してはもう、私は論理的説得の限界を感じており、曖昧な共感を読者に期待せざるを得ない*33
あるいはこんな例を考えてみよう。よく使われる表現として、ありえない仮定を行うことですべての命題を真にしてしまうという表現がある。「(相手が絶対に東大に入れっこないという前提のもとに)お前が東大に入れるんだったら、俺なんて螺旋丸が撃てるぜ」この表現の意図はおそらく、「『お前が東大に入れない』は真であるという前提Aと『お前が東大に入れないことはない』は真であるという前提Bとを同時に認めるとしよう。すると、前提Aから『お前が東大に入れない』または『俺に螺旋丸が撃てる』のいずれかが真、というのは認められるが、前提Bと排中律から『お前が東大に入れない』は偽であるので、『俺に螺旋丸が撃てる』は必然的に真だよなあ」ということであろう。この表現の特質を、「排中律が必ずしも成り立たない」という反実仮想の特色と「排中律は必ず成り立つはず」という最小離脱世界の特色とをむりやり連結したという点にある、とは言えないだろうか*34*35
虚構世界でない反実仮想は「排中律が現に成り立っていない」という状況を提示できるため、「排中律が必ず成り立つはず」である最小離脱世界のルールと接触させたときに、爆発的な化学反応を起こすことがある――たった二つの命題を真だと認めることでありとあらゆる命題の真偽が揺るがされてしまうような化学反応を。しかし、虚構世界は「排中律が成り立っていない」という状況を提示できないため、爆発的な化学反応を起こすことはかなり少ない――ひとつふたつの命題の真偽のせいで“世界”全体の秩序さえ突然に破壊されてしまうような、そんな極端にセンシティブな虚構世界をわれわれが見ることはまず叶うまい*36

 

ところで、(真または偽)が真であるか否かによってある“世界”が虚構世界かそうでないかが切り替わるというアイデアは、先般議論していた(TまたはF)が真であるか否かによってある個物のそのもの性モドキの有無が切り替わるというアイデアとよく似ている。TやFの意味するところとは、ある性質が返す個物の集合のなかにその個物が入っているか、補集合に入っているか――つまり、ある個物について述べた(単項述語)命題が真か偽か――ということであったので、われわれはいまや、虚構世界とそのもの性モドキとを以下のように結びつけることができるだろう。

  • 理III(仮) 反実仮想のうち、そのうちに属する個物すべてにそのもの性モドキが付されているような“世界”はすべて虚構世界である*37
  • 定義I(ニセ) ④:ある個物がそのもの性を具えているとは、ひとつの個物を変項に持つ任意の単項述語命題について、ある個物を代入したときに表されるすべての出来事のそれぞれが、排中律に従っている、ということである

 

2.3. 反実仮想の相対性

いくつかの命題が「一概に真である」とも「一概に偽である」とも定まらない(ものの、「真か偽かではある」とはいえる)ような不完全な“世界”のことを『フブかつ』では「フィクション作品が提示する世界」などのように表現した。ここでフィクション作品が提示する世界について、いくつかの命題が「真である」とも「偽である」とも定まらないために推論規則がハチャメチャに崩壊してしまうのを防ぐため、LW氏はフィクション作品が提示する“世界”を「それぞれの命題について真であるような単一世界と偽であるような単一世界の両方を含む世界群」であるとみなしたのだった。本記事の議論において、私もこれにならい、あるフィクション作品が表現するところに従って(ひとつひとつは完全な)単一世界を無数に集めた世界群を虚構世界と呼ぶことにする(LW氏の用語法において、単一の世界でない世界群を『虚構世界』と呼びならわすことは妥当だとされるか否か、確認は取れていない)。また、本記事独自の見解として、ある反実仮想的文章に従って(完全でない単一世界をも含めて)世界を無数に集めた世界群を反実仮想と呼ぶことにする。そしてある虚構世界は何らかの反実仮想に含まれる。

 

ここで、反実仮想とはどんなものか、また虚構世界とはどんなものかなどを考える上で、現実世界の完全性がとくべつに前提とされるわけではないことには注意せよ。反実仮想や虚構世界を生み出す想像力がこのわれわれの現実世界にだけ与えられた特別なチカラであるなどと考える理由は特にない。なんなら、われわれの現実世界が他のどこかの“世界”にとっての反実仮想という世界群に含まれる一つの完全な世界である可能性もある。そのため、ある“世界”が現実世界そのものであるか虚構世界を構成しているか反実仮想を構成しているか、ということは、“世界”そのものの本性によっては決まらない、見方の問題ということになる*38。ここで、われわれの当初の目標のうちひとつは、以下のように少しだけ表現を変えながら達成されるだろう。

  • 「“世界”xが“世界”yに対する反実仮想である」ということは、(“世界”と呼ばれる)単一世界と(“世界”と呼ばれる)世界群との関係である

 

2.4. 虚構世界の不完全性

私がここまで主張してきたのは「虚構世界と反実仮想には確かに類似点があるが、本記事で述べているような枠組みに従えば、虚構世界と虚構世界でない反実仮想とを区別できるのではないか」ということだった。この主張の一側面を取り出せば、このように言うこともできよう。「虚構世界と反実仮想とはいずれも不完全だが、虚構世界と虚構世界でないような反実仮想との間では不完全性の程度が違う」
しかし、本記事が依拠しているところの『フブかつ』では「Vtuber(が属する“世界”)は小説などのキャラクターと違って完全であるとみなせるかもしれない」という示唆が行われているのだった。もしもVtuberが属する“世界”が完全であるとすると、虚構世界と反実仮想との類似性の一端が反証され、これまでの本記事の議論が成り立たなくなってしまう。ここから、虚構世界の不完全性についてより詳細な分類を行うことで、Vtuberが属する“世界”は間違いなく不完全であると主張し、本記事の立場を確保していきたい。

 

『フブかつ』においてLW氏が「Vtuber(が属する“世界”)は完全かもしれない」と主張する理由は以下のようなものだ。
白上フブキが属する“世界”をSW、われわれの現実世界をAWとする。
一般に虚構世界に関しては真偽の判然としない命題が無数にある(=不完全)が、われわれがもしもSWに関して真偽の判然としない命題があれば、それがどんな命題であれ、Vtuber本人に訊いて答えを得ることで真偽を確定させることができる。つまり、(実際的には不可能だとしても)原理的にはあらゆる命題の真偽を確定させることができる。あらゆる命題の真偽を確定できる以上、SWは完全なのかもしれない。
なお、実際はあらゆる命題の真偽がきちんと確定できるのに、一見すると真偽が判然としない命題があるように思える、といったことは完全であるAWでも起こることである。そのため、「実際的にはあらゆる命題の真偽を確定できない」という理由だけでは、SWは不完全であると結論付ける根拠としては薄い。
ここで、「SWに関して真偽の判然としない任意の命題に対して真偽を確定させることができる」ということを本記事としては「SWには外挿を行う余地がある」と呼んでいいだろう。そして、先ほど述べたように、外挿を行えるということはフィクション作品の基本的な性質である。フィクション作品に外挿が行えるということは、虚構世界が完全であるというよりかは不完全であるということを示しており、完全であると想定されるところの現実世界はむしろ外挿が行えない。LW氏がしているように「SWには外挿を行う余地がある」という事実を確認することは、ただSWがそのときどきで不完全であることを証明するのみで、SWが完全であることを示唆したりはしない。
なるほど確かに、LW氏が指摘するように「実際は真偽が確定できるのに一見真偽が判然としない」という事態はAWでも起こる。しかし、われわれがAWに関するいくつかの命題についてその真偽を知らないのは偶然今日までその真偽を知らなかったというだけのことであり、偶然今日までにその命題の真偽を知っているという可能性もあった(ブラジルの今日の天気であれ宇宙の原子の総数であれ、われわれがたまたま知っていてもおかしくはない*39)。いわば、すでに確定している情報をわれわれの側の怠惰によって今日まで知らずにいただけのことなのである。対して、SWに関してまだ全く語られていない事実について、われわれがその事実を述べた命題の真偽を今日まで知らないのはわれわれにとって必然的である。虚構世界に関していまだ語られていない情報は、われわれのうちいかに勤勉な者であっても知りようがない。AWにおいて「真偽が判然としない」ということとSWにおいて「真偽が判然としない」ということとは全く違う意味を持っているのだ。ウンベルト・エーコ曰く、「物語の可能世界こそは、その内部で起こる出来事について絶対確実な知識を得ることができる唯一の宇宙であり、この世界に入り込んでいる限り、我々は非常に強い〈真実〉の観念を手にすることができるのだ(三谷武司訳 2013=2015 p440)」*40*41*42

 

しかしながら、「旧来の小説キャラクターなどと、Vtuberなどのキャラクターとが、完全性についてなにかしら質的に異なる特徴を持っている」とは私にもなんとなくわかる感覚である。そのため、LW氏の示唆を単なる勘違いであるとして掃いて捨ててしまうのはいささか早計であるという気もする。予告した通り、虚構世界の不完全性にもう少し細かい分類を加えて、この独特な感覚の正体を探ろう。
まずは、「外挿が行える」ということは虚構世界の不完全性に基づくものであったが、この外挿を2種類に分けることで不完全性の分類につなげることができるだろう。
われわれがもしも、「シャーロック・ホームズ」シリーズのような完結済みの作品*43について、「シリーズ作品のどこにも書かれていない情報を外挿できる可能性がある」というとき、その外挿とは、「シャーロック・ホームズ」シリーズの本質を損なうようなかたちのものを意味するだろう。すなわち、「私ワトソンはこのとき知る由もなかったが、この日このときもホームズの背中の真ん中には大きなホクロが鎮座していたわけだ」のような文が書き加えられた『緋色の研究ひいろのけんきゅう』はもはや厳密な意味で『緋色の研究ひいろのけんきゅう』そのものではなく、『緋色の研究'ひいろのけんきゅう プライム』であるということだ。このように、行われたとして正典に加わるわけではない、すでに現実によって否定されている外挿のことを『真性の外挿』と呼ぼう。
われわれがもしも、「Vtuber白上フブキしらかみフブキ」のような現在進行中のコンテンツについて、「今までコンテンツのどこを見ても設定されていなかった情報が今後公式設定として外挿される可能性がある」というとき、その外挿とは、いまわれわれが「Vtuber白上フブキしらかみフブキ」と呼んでいるところのものの本質を損なうことのないかたちのものを意味するだろう。すなわち、「Vtuber白上フブキしらかみフブキ」にどんな設定が追加されても、「Vtuber白上フブキ'しらかみフブキ プライム」のような亜種は必ずしも想定されない。このように、正典に加わる可能性を持った、未来に許されている外挿のことを『仮性の外挿』と呼ぼう(仮性と呼ぶのは、その情報が正典に加えられたあととなってはその外挿はもはや外挿でなくなるからである)。
明らかに完結済み(正典が追加される見込みがない)であるようなフィクション作品が表現する虚構世界についての外挿は真性の外挿であるのに対し、現在進行中のフィクション作品が表現する虚構世界についての外挿は仮性の外挿となる、そのため、虚構世界の不完全性には真性の外挿を許すような不完全性と仮性の外挿を許すような不完全性があるともいえる。こうすれば、Vtuberが属する虚構世界の不完全性の独特さはさしあたり表現できただろう。
ひょっとすると、私はこのような反論を受けるかもしれない。「筆者は『真性の外挿を許す世界』『仮性の外挿を許す世界』『外挿を許さない世界』を並べて、前者2つを不完全、後者1つを完全と決めつけているが、分類さえきっちりできているなら、前者1つを不完全、後者2つを完全と呼ぶことに決めつけたとしても問題はないのではないか。LW氏の立場を、前者1つ後者2つに分けて呼ぶ立場だと理解すればLW氏への反論はできないのではないか」と。もしこのような反論を受けるなら、私は「前者1つ後者2つに分けるのはLW氏の説明に照らして不自然だ」と再反論しよう。
具体的には、外挿の自由度を3種類に分け、なおかつ時間感覚を整理することでこの分け方の不自然さを明らかにできる。
われわれがある虚構世界への外挿を考えるとき、それがある特定の命題を真だと決めるものであるのか偽だと決めるものであるのかの2通りの外挿を考えることができるだろう。例えば、われわれは「シャーロック・ホームズ」シリーズに対して「ホームズ氏の背中にはホクロがある」という特定の命題に関して、これを真と定める外挿が行われる場合と、偽と定める外挿が行われる場合との両方を考えることができる。これを、外挿の『真偽選択自由度』と呼ぶことにする(この真偽選択自由度という概念は、次に述べる2種類の自由度と区別するためにここで定義して名前を与えておく必要があったのだが、今後の議論にはほとんど関係ない概念なのでもう名前を忘れてもらっていい)。
われわれがある虚構世界への外挿を考えるとき、どのような特定の命題を外挿するのかについて無数の場合を考えることができるだろう。例えば、われわれは「シャーロック・ホームズ」シリーズに対して「ホームズ氏の背中にはホクロがある(は真である)」という外挿を行う場合や、「ホームズ氏の髪の毛の本数は奇数である(は真である)」という外挿を行う場合や、「ホームズ氏は実は螺旋丸を撃てる(は真である)」という外挿を行う場合などなどを考えることができる。これを、外挿の『命題選択自由度』と呼ぶことにする。
われわれがある虚構世界への外挿を考えるとき、一体いくつの命題を外挿するのかについてさまざまな場合を考えることができるだろう。これを、外挿の『回数選択自由度』と呼ぶことにする*44
さて、ここから、今現在のわれわれからみたときのSWの完全性について、二つの見方から検討し、どちらの見方を採ったところでSWは不完全であるということを明らかにしよう。
まず、あくまで、AWにおいて2022年現在までに明かされている情報のみからSWの本性を構成するという見方で考えよう。フィクション作品の正典で述べられていない命題は、それが真性の外挿として許される内容であれ、仮性の外挿として許される内容であれ、端的に、現在までに明かされていないという理由によって真とも偽とも決まらないであろう。SWは不完全である。
次に、AWにおける遠未来、白上フブキ女史が登場しうるすべてのストーリーが完結したあとの時点での情報をもとにSWの本性を構成するという見方で考えよう*45。現在から遠未来に至るまでの有限長の時間のなかで、SWに関する有限個の新情報がAWにもたらされたことだろう。そのため、SWについて真か偽か定まるような命題は、現在のわれわれが真か偽か知っている命題よりも有限個多いことだろう。ただ、真偽が定まる命題がたかだか有限個増えた程度ではSWは完全にはならない。SWはやはり不完全である*46
SWが完全であると誤解しやすいのは、現在から遠未来に至るまでの有限長の時間のなかで行う仮性の外挿の命題選択自由度が無制限であるためである。われわれには、次の瞬間に白上フブキ女史に対して「背中にホクロありますか?」という赤スパを送る自由も「髪の毛の本数って奇数ですか?」という赤スパを送る自由も「螺旋丸って撃てますか?」という赤スパを送る自由もある。現在からは無数の未来がつながっているため、無数の未来のなかでは無数の赤スパに対する回答が網羅されており、SWが原理的には完全であるかのような錯覚をも感じる。しかし、現在からみた無数の未来は、それぞれ不完全なSWを無数に集めたものに過ぎない。「背中にホクロありますか?」という赤スパは送ったが「髪の毛の本数って奇数ですか?」とは送らなかった未来では、髪の毛の本数について質問しなかったがゆえにSWは不完全であり、「背中にホクロありますか?」という赤スパは送らず「髪の毛の本数って奇数ですか?」とは送った未来では、背中のホクロについて質問しなかったがゆえにSWはやはり不完全なのだ。そしてそれぞれの未来からみて、自分とは別の選択肢をとった未来における「Vtuber白上フブキしらかみフブキ」はもはや「Vtuber白上フブキしらかみフブキ」そのものとは思えず、「Vtuber白上フブキ'しらかみフブキ プライム」であろう*47
われわれが、遠未来における情報の充実を根拠にSWの完全性を担保できると信じるためには、仮性の外挿の回数選択自由度が無制限でなければならない。つまり、有限時間内に無限個の命題について真偽を確かめることさえできれば、SWの完全性は担保されうる、ということだ。しかし、Vtuberを主な対象として議論を進めるうえで、「有限時間内に無限個の命題について真偽を確かめることさえできれば……」という仮定を行うのは無益だと言わざるを得ない。Vtuberには「生配信をよく用いる」という明らかな特徴があるにもかかわらず、当の仮定はVtuberの特徴をまるっきり無視している*48

 

3. 世界の壁を越えるとき

「文書館は真理と誤謬の証人である」そのとき、私たちの背後から一つの声が沸き起こった。ホルヘだった。またしても私は驚かされてしまった(しかもこれから先、まだ何度も、驚かされねばならないであろう)、突如として現われ出るあの老人の不意打ちによって。私たちからは彼が見えないのに、彼のほうからは私たちが見えているみたいだった。いったい盲目の人間が写字室へ来て何をしようと言うのであろうか。私は自分にそう問い質してみたが、後になってホルヘは僧院の至るところへ出没することを知った。
――――U・エーコ(河島英昭 訳)『薔薇の名前(上)』1980:1990 東京創元社 p206

3.1. 連続性?と自律性?

2章3節では、『フブかつ』の議論に対してどちらかといえば批判的に、Vtuberが持つ形式がVtuber(とそれが属する世界)の完全性を担保することはない、と主張してきた。しかしながら、LW氏が注目しているように、VtuberVtuberの形式をとることによってVtuber存在論的な意味が何らかの意味で独特なものになっているという感じは確かにある。

 

LW氏の見立てでは、Vtuberが旧来の小説キャラクターなどと根本的に違うのは「性質リストの更新が離散的にでなく、連続的に行われること」と「作者の存在を前提とせずとも性質リストの提示が説明できること」という二つの特徴によって実現しているという。私の考える限り、前者の特徴は貴重な示唆ではあるがまだ具体性に欠け、後者の見立てははっきりと定式化できそうだがVtuberに独自であるとは少し言いにくい*49。本記事では、二つの特徴を以下に示すような一つの特徴に置き換えてVtuberに独特さを与えたいと思う。
Vtuberの多くは、生配信形式をとることを通じ、現実世界の特定の一瞬に「何物でもない」かのような位置を占めている。

 

3.2. そのもの性モドキ

われわれはここから、Vtuberが生配信形式などによって実現しているようなある種の性質に関してそのもの性モドキをからめて考察を加えていく*50。そのために、2章1節から中断していたそのもの性モドキに関する議論を再開して定義文にさらなる調整を加えよう。
われわれは先ほどの定義文③でそのもの性(モドキ)を『ある個物が「何物でもない」ということはないということ』であると結論付けたが、この定義づけにはまだ問題が残っているだろう。『フブかつ延長戦』1章3節で指摘されている通り、真か偽かは時間に依存して変化するものだが、この③のように時間に対してあいまいな態度をとっていると、ある一定の時間内に真になったり偽になったりの変化をするような個物を反例として持ち出されて、「この個物は、ある一定期間を通じて見たときこの個物は一概に真であるとも偽であるともいえないため『真でもなくかつ偽でもない』にあたるのだが、しかしこの個物はそのもの性を具えているように思われる」という反論を受ける可能性がある。そこで、時間経過によって真偽があいまいになるのを避けるため、新バージョンは以下のような定義文にしよう。

  • 定義I(ニセ) ⑤:ある個物がある十分に短い期間にそのもの性を具えているとは、ひとつの個物とひとつの十分に短い期間を変項に持つ任意の二項述語命題について、ある個物とある十分に短い期間を代入したときに表されるすべての出来事のそれぞれが、ある世界内のすべての出来事と時間順序的関係を持ち、かつ、排中律に従っている、ということである*51

真か偽かが時間に依存するとなると、われわれのそのもの性(モドキ)も時間に依存せざるを得ない。そのもの性とは、個物がずっと一つを持ち続けるものであるというよりかは、ある十分に短い期間を与えられたときに都度「何物でもない」ということはないという答えを返すようなものであるということだ。「ある十分に短い期間」という呼び名は長いのでここから“一瞬”と呼ぶことにしよう*52。つまり、そのもの性と一瞬とにはある程度の対応関係が認められる(一対一対応であるかはまだわからない)。

 

もし仮に、時間の流れが“世界”をまたいで存在しており、“世界”をまたいだ同時性が無根拠に仮定されうるとすると、ある“世界”に存在する個物は、ひとつの“世界”においては“十分に短い期間”の間じゅう「何物でもない」ことはなかったとしても、また別の世界で同時に「何物でもなかった」、という事態がありうる。これでは、ひとつの“十分に短い期間”のなかで一つの個物がそのもの性を具えていたり具えていなかったりするわけで、定義文の不備が示されている。ここは、時間の流れは“世界”ごとにある程度独立に存在し、そのもの性について調べるときわれわれは特定の“世界”の時間の流れに含まれるある一瞬についてのみ考えているのだ、ということをはっきり示したほうがいいだろう。
ふつう、ひとつの“世界”のある一瞬に起こる出来事のすべては、その世界固有の時間軸にのっとって時系列として整列させることができるだろう*53。これは言い換えれば、ある“世界”のなかで起こる2つの任意の一瞬の出来事は、反射性・反対称性・推移性・完全性を持つある関係を満たす、ということだろう。この関係をその“世界”内の時間順序的関係と呼ぶことにする*54。このとき、ある出来事が“世界”wの時間の流れのなかで特定の一瞬に起こったか否かは、「ある出来事がw内で起こったすべての出来事と時間順序的関係を持っているか否か」と表現できる*55。いま、われわれはそのもの性モドキのことを「」そして、われわれはこれからそのもの性モドキについて考えるとき、「特定の“世界”内で起こったすべての出来事と時間順序的関係を持っている」ような出来事に限定してこれを考えることにしよう。

  • 定義I(ニセ) ⑥:ある個物がある世界である一瞬にそのもの性を具えているとは、ひとつの個物とひとつの一瞬を変項に持つ任意の三項述語命題について、ある個物とある一瞬を代入したときに表されるすべての出来事のそれぞれが、ある世界内のすべての出来事と時間順序的関係を持ち、かつ、排中律に従っている、ということである*56

 

3.3. キャラクターの干渉

ある固有名が命名されるとき、名付けられる個物はまさしく命名の一瞬を与えられてそのもの性を返すであろう。命名の一瞬から長い時間が経ったとき、命名儀式に立ち会っていたわけでもない人は、その個物をその個物の固有名で呼びならわせる範囲がどこからどこまでなのかを知りたいときに、全ての一瞬の集合に対してその個物がそのもの性を返す一瞬の部分集合を調べることで目的を達するであろう(われわれはホンモノのそのもの性について詳しく知らないので、以後ホンモノの代わりにそのもの性モドキをイメージしつつ議論を進めるかもしれないが、これで著しく直観に反することはないだろうと私は期待する)。
われわれが、『ソクラテス』という名前を聞いて何から何までを思い浮かべるか迷っているとしよう。こんなときわれわれは、まず『ソクラテス』は個物の名前なので『ソクラテス』という名前に想定できる命名儀式を考え、その命名儀式において固有名と結びつけられたそのもの性が時間的にいつからいつまで有効であるかを考えればよいだろう。ソクラテス氏はAWにおける紀元前470年ごろから紀元前399年ごろまで生きていたと考えられているので、命名儀式は紀元前470年ごろにあり、ソクラテス氏のそのもの性もだいたい紀元前470年ごろから紀元前399年ごろまで保たれていて、それ以前とそれ以後の『ソクラテス氏にあたるもの』はもはや何物でもなかったはず、といえるだろう(強いて具体的に言うなら、胎児として構成される前の分子であったり、遺体を構成することをやめたあとの分子であったりするだろう)。だから、AWに住むわれわれとしては、ひょっとすると本棚の上の塵芥のなかのひとつの分子がかつてソクラテス氏を構成していたかもしれないなどと思ったとしても、その塵芥を『ソクラテス』と呼ぶ必要はない。
われわれが、なにかほどほどにリアルな世界観の現代劇……例えば、『けいおん!』のキャラクター『平沢唯』の名前を聞いて何から何までを思い浮かべるか迷っているとしよう。こんなときわれわれは、やはり『平沢唯』という名前に想定できる命名儀式を考え、その命名儀式において固有名と結びつけられたそのもの性が時間的にいつからいつまで有効であれば考えればよいだろう。命名儀式が、虚構世界において平沢女史が生まれた直後に執り行われたと考えるか、それとも漫画『けいおん!』の第1話に当たるエピソード中に行われたと考えるか、などはこの際どうでもいい。いずれにせよ、平沢女史が仮に2007年ごろに高校1年生だったとすると、平沢女史のそのもの性は1991年ごろから数十年にわたる有限の期間保たれていて、それ以前とそれ以後の『平沢女史にあたるもの』はもはや何物でもなかっただろう。ただ、今度の場合気を付けるべきは、平沢女史がそのもの性を維持するであろうのは『けいおん!』が表現する世界……いうなればKWにおける特定の期間だけであって、AWにおけるいつの時点をも含まないということだ。AWのなかに限定して考えたとき、いかなる時点においても平沢女史は彼女自身のそのもの性を持っていない。もちろん、あなたの本棚の中に入っている『けいおん!』の1巻が平沢女史の本体であることもない。
さて、ここから考えていくのが、ひょっとするとVtuberの独特さをあらわにするかもしれない箇所だ。われわれが、誰かVtuberの名前を……例えば、『白上フブキ』の名前を聞いて何から何までを思い浮かべるか迷っているとしよう。こんなときわれわれは、ソクラテス氏や平沢女史にそうしたように、『白上フブキ』の命名儀式を考え、『白上フブキ』のそのもの性が時間的にいつからいつまで有効であるか考えるだろう。平沢女史と同様、フブキ女史のそのもの性がSWにおける有限の期間中に絶え間なく有効であることはまず間違いない*57。しかしフブキ女史の場合は平沢女史とは違う点として、女史がそのもの性を維持する時間的範囲――『何物でもない』ことはないという状態を維持する時間的範囲――がSW内の一定期間だけで尽きていないかのように思える。AWにおいてもいくつかの一瞬でフブキ女史が何物かであるとでも言えそうな錯覚を覚える。

 

例えば、フブキ女史が2022年1月1日の生配信においてリスナーからの『いま現在髪の毛の本数奇数ですか偶数ですか』という質問に対し『奇数でした』などと応答し、リスナーも『わざわざありがとうございます』と感謝した、としよう。このとき、まさにフブキ女史が応答した一瞬というものは、SW内で何時何分何秒単位で特定できるのみならず、AW内でも何時何分何秒単位で特定できるように思える。これは、フブキ女史の(おそらくSW内で行っている)『奇数でした』という発言を、『いま現在髪の毛の本数奇数ですか偶数ですか』というAW内の発言より前にも『わざわざありがとうございます』というAW内の発言より後にも置くことができないからだ。AW内で確かに特定の時間に行われた二つの発言の間でしかありえないために、フブキ女史の発言の時間的位置は、SW内での発言であるのに、AW内の十分に短い時間のなかに拘束される。
このようなことは小説キャラクターにはなかなか起こらない。小説のなかで起こることはふつう、AW内の特定の一瞬に拘束されることはない。なぜなら小説は、刊行初日に買って読んだか刊行の10年後に買って読んだかで作品の同一性が損なわれるようなものだとは(ふつう)みなされないからだ。たとえ、読者の存在を認識して積極的に話しかけてくるメタキャラであったとしても、読者によってそのメタキャラから声を掛けられるタイミングはまちまちであるために、メタキャラが自らの発言をAW内の特定の一瞬に拘束されることはまずない。よって、作者の存在を前提とせずにキャラクター自身が性質リストの更新を行うことはキャラクターを必ずしもVtuberのようにはしない(言ってしまえば当たり前だが)。
Vtuberの発言がAWの特定の一瞬に拘束されるかのように思えるのは、「作者の存在を前提とせずにわれわれに話しかけられるから」のみではなく、むしろ、「AWの特定の一瞬に特定できるわれわれの発言の間に挟まることによって発言の時間的範囲を厳しく限定しているから」であるだろう。このようにフィクション作品のキャラクターが自身の行動をAWの特定の一瞬に拘束させることは、AWの人物とのリアルタイムコミュニケーションによって最も効率的に実現されるのかもしれない。

 

本当のところをいえば、フブキ女史がそのもの性を返すのはやはりSW内の特定の一瞬に対してのみであって、AW内の一瞬に対しては、それがどの一瞬であれ、そのもの性を返すことはないだろう。たとえいま現在AWに『奇数でした』と声を響かせているひとが間違いなくフブキ女史だったとしても、依然としてAW内の『人間である』個物の集合のうちにも『人間ではない』個物の集合のうちにもフブキ女史を見つけることはかなわない。やはりフブキ女史はAWにおいて「何物でもない」。
しかしながら、フブキ女史のある発言がAW内のほかでもないある一瞬に拘束されているということは、そのもの性そのものとまではいかないまでも、そのもの性モドキとまではいかないまでも、女史がAWにおけるそのもの性を具えるための第一条件をクリアしている。第一条件とは、「ひとつの個物とひとつの一瞬を変項に持つ」一部の二項述語命題について「ある個物とある一瞬を代入したときに表される出来事のひとつはAW内のすべての出来事と時間順序的関係を持っている」ということだ。

 

Vtuberがしばしばとる行動が、「現実世界における出来事と時間順序的関係を持つ」という点において旧来のキャラクターにはあまりみられないことなのであれば、この行動を特別視することも許されるだろう。よって本記事では、「あるフィクション作品のキャラクターがとる行動が現実世界におけるすべての出来事と時間順序的関係を持つこと」を「虚構世界の人物が現実世界に干渉する」と呼ぶことにする*58

 

3.4. キャラクターとの相互干渉

「あるフィクション作品のキャラクターがとる行動が現実世界におけるすべての出来事と時間順序的関係を持つこと」が「虚構世界の人物が現実世界に干渉する」と呼ばれうるのだとすれば、「われわれがとる行動が虚構世界におけるすべての出来事と時間順序的関係を持つこと」は「われわれにとっての現実の人物が虚構世界に干渉する」ということ、つまり、われわれにとっての現実世界を相対的虚構として、われわれにとっての虚構世界を相対的現実としてみなすこともあながち不合理ではないだろう。
問題は、われわれの行動の一部がときに虚構世界における特定の一瞬に厳しく拘束されていたとして、その拘束をわれわれが確認できるのか、という問題だ。なにせ、虚構世界は時間的にも不完全であり、連続的でも緻密でもないのである。たとえわれわれの行動が虚構世界において何らかの意味を持っていたとしても、その行動を虚構世界におけるただ一瞬に特定することはめったにできない。
われわれの行動が虚構世界内で拘束されるような例として、映画やドラマ等においては、「シーン転換による作中時間のスキップなどがあまり起こらない、クライマックスシーンにおいて」「観客の選択によって物語が変化する」という特殊な形式がこれに当てはまるかもしれない。それなりに珍しい事例なので確信はないが、例えば『仮面ライダー龍騎』のテレビスペシャルである『13 RIDERS』などは、テレゴング方式を用いて視聴者によるリアルタイムでの結末選択が行われたため、「現実世界の人物による虚構世界への干渉」とみなせる可能性がある。
その点、Vtuberというフィクション作品ではぐっとわかりやすい。われわれが虚構世界SWに対して効果を及ぼした何らかの行動が、SWにおけるかなり狭い期間のなかに拘束されることがある。例えば、われわれが『わざわざありがとうございます』と述べたスパチャがフブキ女史による2つの発言『奇数でした』と『どういたしまして』の間に挟まれており、それ以外の一瞬に置けないとしたらどうだろう。われわれの『わざわざありがとうございます』がSWにおけるすべての出来事と時間順序的関係を持っているとみなすべき見込みが俄然高まってくる。このことは、Vtuberの配信の多くがカット割りなどをはさまないために不断のSW時間を表現できるという特徴に支えられている*59

 

つまり、現実世界から虚構世界への干渉は、虚構世界から現実世界への干渉と同一の枠組みで定式化できるだろうが、その定式化に従っているとはっきり確かめられる例は虚構世界から現実世界への干渉に比べてやや少ない。少ない例の一つがVtuberの生配信におけるリスナーとのリアルタイムコミュニケーションである、ということである。ここで、

  • 「ある“世界”xがある“世界”yに対する反実仮想である」というような関係は、対称的ではなく、推移的ではなく、反射的ではない。

という当初の目標のひとつは果たされているだろう。

 

3.5. キャラクターの侵入

キャラクターがとる行動の一部がAWにおけるすべての出来事と時間順序的関係を持つことを「キャラクターの現実への干渉」と呼べるのならば、キャラクターが具える性質のすべて(キャラクターを主語にして言える二項述語命題のすべて)がAWにおけるすべての出来事と時間順序的関係を持つことを「キャラクターの現実への侵入」と呼びたくはある。実際、時間順序的関係の確立によってキャラクターが現実へと侵入しているとみなせる例はあるだろうか。

 

虚構内虚構世界のキャラクターが虚構世界へと“侵入”してくる事態には、例として優秀なものはあまりない。虚構内虚構世界のキャラクターが虚構世界という相対的現実に侵入してきたとき、その虚構世界のなかでキャラクターの行動・性質は虚構世界の時間のなかで厳しく拘束されているのか否か、といったことはAWのわれわれからはわかりにくいからだ。AWからみたとき、虚構世界の時間軸は必ずしも連続的でも緻密でもないため(行間やシーン間に語られざる時間がいくらでも存在する)、キャラクターの行動・性質の厳しい時間的拘束は虚構世界の出来事を使って行われているのかもしれないし、行われていないかもしれないといったことしか言えない。
では、われわれは虚構世界のキャラクターがAWへと“侵入”してくる事態に例を求めることになろう。しかし、虚構内虚構世界でなく現実内虚構世界のキャラクターがわれわれのAWに侵入してくる、なんてファンタジーな事態、はたしてわれわれの経験のうちに存在するだろうか? そしてその経験は、キャラクターが侵入するとき確かに厳しく時間的拘束を受けているといった形で私の主張を裏付けるだろうか?

 

ここからは、やや強引な主張にはなるが、先ほども挙げた映画『映画プリキュアドリームスターズ!』を例として考えよう。述べてきた通りこの映画では、プリキュアが(虚構内虚構世界から虚構世界へ、でなく)虚構世界から現実世界へ侵入してくるシーンがある。この侵入は、あるキャラクターのあらゆる行動・性質が(虚構世界の時間にでなく)現実世界の時間に拘束されることによって実現しているといえるだろうか。
一見、そうではない、と言いたくなるかもしれない。小説などと同様、映画という媒体も、封切直後に観ようが興行終了ギリギリに観ようがある程度同じ作品だとみなされるものである。映画内でどんなシーンがあろうがどんな演出をしようが、観客によってその映画を観た時間がバラバラである以上、そのシーンやその演出はプリキュアをAWの特定の時間に拘束することはできないように思われる。
しかし、映画という媒体にはまだ、プリキュアをAWの特定の時間に拘束できる際立った特徴があるのだ、と私は考える。それは、映画が通常は区切られた空間内で大勢で観るものであるという特徴だ。プリキュアが映画館にやってくるシーンというものは、それを映画館で観る限り、ひとりで確認されるのでなく、その場にいる全員の同期された体験のなかで確認されることになる。もしもわれわれが「プリキュアがあの日あのときに映画館に来たと思ったのは私だけであって、本当は特定の一瞬にプリキュアが来たとは定位できないのかもしれない」などと疑った場合は、同席していた観客に確認をとればいい。可能であれば、プリキュアが侵入してくるシーンの直前と直後に周囲のAWの住人とコミュニケーションをとっておいて、プリキュアがAWのいつ侵入したかをもっと厳しく拘束しておく、というのもいいだろう。そうすれば、プリキュアが侵入に成功したはずの時間は、AW内のある短い期間よりも前にも後にも置けないことが明らかになるだろう*60

 

はたして、この主張を逆に考えるなら、われわれは「区切られた空間内で大勢で同時に鑑賞するようなフィクション作品には、キャラクターをして現実世界に侵入しやすくさせるような素地がある」ということをも認めざるを得ないだろう。例えば、ある種の演劇においてはキャラクターが現実世界に侵入するという展開を説得的に描くのかもしれない。私は演劇のことをよく知らないので、これに関する分析は私でない誰かに譲るとしよう。

 

ところで、キャラクターが現実世界に侵入するということが「キャラクターがとる行動・性質のすべてが現実世界のすべての出来事に対して時間順序的関係を持つ」だとみなせるのだとしたならば、あるキャラクターは虚構世界から現実世界に侵入したあと、現実世界の特定の一瞬においてそのもの性を獲得しうる。それはまあいいとして、キャラクターが現実世界への転移を遂げた“あと”の虚構世界にも依然としてそのキャラクターの相対的分身が存在し続けるといった可能性はとりたてて否定はされないだろう。つまり、虚構世界と現実世界において同時に――同時ではないのだが――ある同一のキャラクターがそれぞれ存在するということは、ありうるのだと現状では結論付けなければならない。
私が当初掲げた目標のひとつは、以下のように但し書きをつけたうえで達成されることになるだろう。

  • “世界”xが“世界”yに対して虚構世界であるとき、ある事物(人物が生み出した声や情報や人物そのものを含む)が所属先を“世界”yから“世界”xへと移すということはありうる。ただし、あるキャラクターが同時に一つまでの世界にしか所属できないということは必ずしも意味されていない。

 

3.6. 反例かもしれないもろもろの例

以上、本記事ではあるキャラクターが行う行動が現実世界の特定の一瞬に拘束されることに注目して「キャラクターの干渉」や「キャラクターの侵入」を定式化することをもくろんできた。しかし、多様なフィクション作品のなかには、キャラクターが行う行動がどちらかといえば現実世界の特定の一瞬に拘束できないようであるにもかかわらず、キャラクターが現実世界に干渉していたり侵入していたりすると表現したくなる事態が描写される作品も少なからずある。いわば私の主張に対する反例、弱点とでも言うべき例を最後に挙げておきたい。

 

私がしてきた主張からすれば、虚構世界のキャラクターが現実世界に干渉・侵入するうえでは、いつ干渉していたのか・いつから侵入していたのかがはっきりとAWの特定の一瞬に帰せられなければならないはずである。しかしながら、特定の一瞬に帰せられない「いつの間にか干渉していた」「いつの間にか侵入していた」という干渉・侵入をみせるフィクションはままある。
例えば、「だいだらぼっちが地面に大穴を掘ってできた穴が琵琶湖、余った土が富士山である」というようなフィクションは、キャラクターが現実世界に侵入・干渉したという事態を示すフィクションの例であると言えなくもない。しかし、だいだらぼっちが実際に「琵琶湖と富士山を作り出す」という干渉をはっきりと行った一瞬は「むかしむかし」のヴェールに覆われてはっきりとその輪郭を見せることはない。
また、「いつだって干渉している」「いつだって侵入している」という干渉・侵入をみせるフィクションもまた反例になりうるだろう。
例えば、『はたらく細胞』シリーズで語られるような細胞たちの世界は、一種のフィクションでありながら、われわれの現実世界と因果関係を持っているとみなされることを志向しているように感じられる。しかし、細胞たちがわれわれ人間の生理現象を成立させているのは、われわれにとっての特定の一瞬であるよりかは、むしろ「生きている間ずっと」であって、特定の一瞬に帰せられることがない。
ひょっとすると「だいだらぼっちや『はたらく細胞』の例は、自律した虚構世界ではなく、あくまで現実世界を変形して作られた寓話的現実世界に過ぎないので、これらの反例は無効だ」と再反論する方もいるかもしれない(ではそこでいう虚構世界の“自律”って何?という疑問もわいてくるが……)。では、現実の変形ではない、あくまで虚構とみなすべき虚構世界が現実に「いつの間にか」「いつだって」干渉・侵入するものである、という態度を作品全体のトーンとして持っているフィクション作品として映画『パプリカ』をも例に挙げておこう。

 

今後の議論は(あったとして)、これらの例は実は反例にはあたらないとみなして積極的にこれらの例に再反論を試みていくという道を選べるだろう。また、いっそのこと、これらの例においては「虚構世界のキャラクターが現実世界に干渉・侵入する」という図式は破られている、と素直に認めてしまい、「だからこれらの例は『この物語は現実に干渉・侵入するフィクションではない、現実なのである』と自らを位置づけようとしている詐欺的フィクションなのである」と切り返す*61、という道も選べるだろう。

 

また、「いつの間にか干渉・侵入していた」以上に厄介な例として、異世界転生モノがある。異世界転生モノを現実世界と虚構世界との関わりを積極的に描いているジャンルとしてとらえたい気持ちはあるものの、これを「現実世界のひと・ものが虚構世界における特定の一瞬に拘束される」という本記事の図式に当てはめる方策は今のところ全く思いつかない。

 

最初に述べたように、本記事の議論は(だいぶ贔屓目にいっても)こじんまりとした立場を確保することしかできなかっただろう。もしも、私が本記事でもくろんできたような考え方を、ふざけにふざけて「虚構世界観光学における時間主義」とでも呼ぶことが許されたならば、そのとき、時間主義に対するものとして、空間主義や因果律主義等々が定立されうるのかもしれない。今日のところは、示唆的な例外たちは、まだみぬ空間主義や因果律主義のもとで美しく説明されるために残しておくのがよかろうか……?

 

付. 参考文献

本記事は複数のブログ記事・論文・書籍から知識・アイデア・用語法その他もろもろを拝借して成り立っている。この記事がもし学位とか実績とかに関わる論文であったなら(私のためというより、学問的誠実さのために)拝借した箇所ごとに参考文献と参照箇所を明記しなければならないのだが、私には学問に奉仕しようという気はそんなになく、この記事は余暇の思考ゲームに過ぎないものである*62。よって、すべてのリファレンスを追跡可能な形で整理することはあきらめ、参考文献としてタイトルだけ挙げておく非礼をもってこれに代えることとする。

 

  • ブログ記事など

LW『白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか:Vtuber存在論と意味論』2021
https://saize-lw.hatenablog.com/entry/2021/09/05/190000

LW『「白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか」延長戦』2021
https://saize-lw.hatenablog.com/entry/2021/09/23/205415

LW『キズナアイは論理的に完全』2018
https://saize-lw.hatenablog.com/entry/11753332
http://blog.livedoor.jp/saize_lw/archives/11753332.html 【←たぶん初出はこっち】

SAK『三浦俊彦『虚構世界の存在論』』2007
https://sakstyle.hatenadiary.jp/entry/20070526/1180161470

  • Web上で閲覧できるかもしれない学術論文など

伊佐敷隆弘『反実仮想とフィクション ――実在する物個体をめぐって――』2008
http://www.wakate-forum.org/data/tankyu/35/35_01_isashiki.pdf
※チザムのパラドックスの解釈はここを参考にさせていただいた
※この論文は「フィクションについての反実仮想」や「フィクション内フィクション」や「フィクション内反実仮想」や「フィクションと現実をまたぐ文」などについては一様に立場を留保しているため、本記事の関心と被る部分は比較的少ない

三木那由他『個体概念説による固有名の意味論』2011
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/173199

伊佐敷隆弘『現在は瞬間か』2005
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj1968/38/1/38_1_31/_article/-char/ja/
※こちらもそこまで関心が被っていない

岡本吉央『離散数学 第12回 順序関係』2017
http://dopal.cs.uec.ac.jp/okamotoy/lect/2016/discretemath_w/handout12.pdf
※順序関係の定義をおさえるために参考にした

  • 書籍など

三浦俊彦『虚構世界の存在論』1995 勁草書房
※おそらくいちばん参考にさせていただいた本
※この本が純粋な学問的興味を持っている人にとって必携の一冊かどうかはもちろん興味によるが、LW氏の人対を極めたいという人にとっては必携の一冊ではないかと思う

三浦俊彦『可能世界の哲学』二見書房
※奥付に何年発行か書いてなくて驚いた
※あとがきから推測するにたぶん2017年発行だと思う

三浦俊彦『論理パラドクス 論証力を磨く99問』二見書房
※たぶん2016年発行

前原昭二『記号論理入門 [新装版]』2005 日本評論社
※“格言”の引用はここから

河田学「虚構的言説の記号論」『コレクション記号論』2001 東海大学出版会

ウンベルト・エーコ(三谷武司訳)『異世界の書――幻想領国地誌集成』2013=2015 東洋書林

*1:語用論や心理学であれば、われわれが「キャラクターと相互干渉することなんてできないはず」と感じることを、単に経験則からくる確信だとみなすかもしれない。

*2:また、この作品では「ふだんプリキュアがいる世界は作画で、その世界以外の異世界に入るとプリキュア含め3DCGに切り替わる」という演出上のルールが映画を通して使われてもいる。プリキュアが映画館にやってくるシーンではプリキュアは3DCGで描かれており、この工夫も「プリキュアが本当に世界の壁を越えた!」という驚きを生み出すことに奉仕している。

*3:ある反実仮想が虚構世界に転化するか否かを決める条件とは何なのか。この問いに対して「作品という形でガッツリ尺をとって描かれたかどうか」というのが条件だ、と答えて、さらに切り返し、「虚構世界とは、反実仮想のなかでも作品という形でガッツリ尺をとって描かれたもののことである」という定義を行う、という戦略もあるだろう。この戦略はそれなりに妥当なものだと思えるが、しかし私としてはこの単純な戦略に落ち着けたくはない。というのも、私には、ある反実仮想が虚構世界と言えるかどうかが、単に尺の長さや映像のクオリティだけでは決まっていないように思われるからだ。例えば、あるフィクション作品において、いち登場人物の妄想が10分にわたり描写された状況と妄想的な内容が誰の妄想でもなくミニコーナーとして10分にわたり描写された状況の2つが含まれているとして、前者は虚構世界でない単なる反実仮想に思われるのに後者は反実仮想のなかでも一個の虚構世界であり、並行世界を移動する能力者ならこの世界に到達できるのではないかとすら思える、そんな顕著な違いを感じる場合がありえるのではないだろうか。

*4:ただ、キャラクターの存在論を扱う議論全体において現実世界の特権性が失われたわけではないことに注意せよ。完全性や唯一性の問題等々において現実世界の特権性はまだ前提とされている。

*5:私は本来は、ある程度以上にテクニカルな文章の作法としては、文章中に登場する人名は苗字呼び捨てで表現するのを好んでおり、呼び捨てにすることが一種の礼儀だとも考えてもいる。しかし、もしも本記事の文章中で最も頻出する人名である「LW」を呼び捨てにすると、この記事の文脈上、この「LW」という文字列が人名だかテクニカルタームだかよくわからないことになってしまう。そのためこの記事では「LW」に当たる人物を一貫して「LW氏」と呼び、また「LW氏」にあわせて他の人名も特定の敬称付きでこれを呼びならわすことにした。というのは表向きの理由で、裏の理由としては、月ノ美兎委員長やうい先生を「委員長」や「先生」と呼びならわすRPにたまには参加してみたくなっただけのことである。

*6:ただ、Vtuberの所属先世界の整合性を保つ、という視点でみたとき、「Vtuberにとってわれわれがなんらかのフィクショナルな表象である」という戦略をとるのはVtuberの全員ではない。例えば、月ノ美兎委員長と似ているが明確に違う戦略として、動画『クラスメイトのしぐれさんが何か言いたいことがあるらしい』https://www.youtube.com/watch?v=wGkVfc1N4R4
におけるうい先生の戦略を取り上げることができるだろう。うい先生は動画中でリスナーのことを「パソコン画面に向かっている人間」としてではなく「放課後の教室にいる高校生」として認識している、というRPを行っている。このRPにおいて、リスナーはフィクショナルな表象ではなく、うい先生の所属世界内のルールに整合的ななにかとして解釈されている。リスナーをうい先生の所属世界の外部としてでなく内部に取り込んでその“世界”の整合性を保つというタイプの戦略がここにはあるわけで、こういった戦略もVtuberがとりうる戦略の一つとして理解されるべきだろう。

*7:映画のプロデューサーは「ふだんのテレビ版の作品世界とはパラレルワールド」と解釈しているため、厳密には「ふだんの作品世界のパロディ」

*8:「“関係”とは何か?」というまっとうな疑問を抱く読者もあるかもしれない。その疑問に対しては、ここでは、「“世界”同士の関係」とは、論理空間が与えられたとき順序2組の“世界”の集合を返すような関数のことをいう、と回答しておけばいいと思う、たぶん。

*9:本文中で詳しく述べなかったが、“世界”xが“世界”yに対して虚構世界であるとき、“世界”yも“世界”xに対して虚構世界である、というような事態は常に妥当というわけではないだろう。例えばわれわれの現実世界に対して虚構世界である「シャーロック・ホームズシリーズ」の登場人物がわれわれの現実世界のことをフィクション作品だと認識しているというようなことはかなりまれであり、常に妥当というわけではない。

*10:“世界”xが“世界”yに対して虚構世界であり“世界”yが“世界”zに対して虚構世界であるようなとき、“世界”xが“世界”zに対していつも虚構世界である、とはわれわれは言い切れない、本記事ではさしあたりそう考えることにする。ときに、われわれの現実世界に対して虚構世界であるような“世界”の人物が、われわれの現実世界のことを彼ら自身の世界に対してフィクションだと認識しているというような事態はまれではあるが存在する(例えば、『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』の登場人物の一部はわれわれの世界をフィクションだと認識していると言えなくもないだろう)。このとき“世界”z = “世界”xであるから“世界”xが“世界”zに対する虚構世界であるとは断言しづらい。いや、そう断言してしまってもべつに構わないのだが、そうして推移性を認めたときときわれわれは同時に反射性をも認めることになろう。

*11:“世界”xが“世界”x自身に対して虚構世界であるというような事態を、われわれはふつう認めないだろう。認めてはいけないという演繹的な根拠はないかもしれないが、ここは直観に従って、反射的であることを認めないことにする。

*12:「概念の内包と外延は反対の方向に増減す」という格言があるが、“世界”同士の関係にしても、「虚構世界である」ということが「反実仮想である」を含んでいるとき、虚構世界であるような“世界”群は反実仮想であるような“世界”群の部分集合である。

*13:ここで、「そのもの性」は「丸い」「3で割り切れる」などのように時間の流れに依存せずに定義できるような特徴なのか、それとも「不老ではない」「加速度が一定である」などのように定義が時間の流れに依存しているような特徴なのかについてはいったん曖昧にしておく。時間という概念を加えた詳細な議論は追って行う。

*14:本記事では、人物の固有名のはたらきについて間接指示でなく直接指示で説明を行うため、佐藤和真氏が「亡くなる」「灰になる」などのように性質を変化させた場合でも依然として固有名『佐藤和真』が佐藤和真氏の本質を捕まえ続ける、という側面を重視している。しかしながら、実践の場面における人物の固有名の取り扱いが直接指示によって100%説明されるわけではないことも確かではある。穏当なことを言うなら、日常において、人間というカテゴリーに属する個物は、そのもの性のみによって特定されるような場面と、ある種の性質によって定義されるような場面の両方があるだろう。だから、佐藤和真氏が亡くなって遺体になった場合でも、そのもの性が維持されていることを重視して「この遺体は依然として佐藤和真である」と判断する人もいれば、『佐藤和真』が当然持っているべき性質が失われたことを重視して「この遺体はかつて佐藤和真だったものにすぎない」と判断する人もいるだろう。本記事では後者の捉え方を特に重視しないが、日常においてそうした捉え方がありえないと主張するつもりは私にはない。

*15:「構成物が90%入れ替わったとしても入れ替えがちょっとずつであれば佐藤和真氏は依然として佐藤和真氏である」と考えるこの例は、チザムのパラドックスをモデルにしている。チザムが考えたのは「ある人物が持つ性質が他の人物が持つ性質へと100%入れ替えられたとしても入れ替えがちょっとずつであればその人物は依然としてその人物であると言えるか?」という疑問であり、チザムはこれに「たとえちょっとずつであってもたくさんの要素を入れ替えたら同一性は失われる」と答えたらしい。つまり、チザムとしては「あらゆる性質に無関係な『そのもの性』などない」と結論付けたわけだが、本記事ではそのもの性はあるという前提でその本性を考察する。

*16:いや、実際「現在の佐藤和真氏が何であるか」と問われたら、佐藤和真氏の物理的状態である「何物でもない」という情報よりも社会的取り扱いである「天国にいる」という情報のほうを答える人のほうが多いのではないか、という反論もあるかもしれない。だが、個物の居場所が社会的取り扱いに依存しているという考え方を強めたこの意見は直接指示よりも間接指示に相性がいい考え方であると思われるので、『遺体はもはや佐藤和真ではない』という考え方と同様にこれを棄却する。

*17:正確にはこのようなイメージではよくない。リンゴやポストなどは、世界にたかだか一つ存在する“個物”ではなく、複数の個物が該当しうる“種”なので、厳密には赤いか赤くないかが必ずしも定まらないと思われる。本文では煩雑な表記を避けて「リンゴ, ポスト, ......」のように書いたが、正確には「ある特定のリンゴA, ある特定のポストB, ......」のように書かなければいけない。

*18:なお、『赤い』や『リンゴ』や『ポスト』などの言葉が抱える文脈依存の曖昧さについては考えないこととした。例えば、ひとくちに『赤い』といったとき正確にどの色までが赤に含まれるのか、「#c71585」は赤なのか、赤い環境光に照らされたときすべてのものは赤なのか、といったことは一様には決まらないが、ここでは個物の性質のみに依存して一様に決まるのだと考えて欲しい。また、例えば、ひとくちに『リンゴ』と言ったときにリンゴ属の落葉高木がつける果実のことを指すのか、リンゴ属の落葉高木それ自体を指すのかは文脈によって異なるが、ここでは前者のみを指すのだと考えて欲しい。

*19:このやり方を使うとき、Sにおけるn番目の要素に当たる性質が個物Aに対するカテゴリーミステイクであるような場合には、A(S)のn番目の要素にはFが入る(「TでもFでもない」が入るわけではないことに注意)。例えば、S = {...... 3で割り切れる, ......} 
であるようなときには 
佐藤和真(S) = {...... F, ......} 
となる。

*20:しかし、何物でもない佐藤和真氏が返す順序集合が少なくとも1つは「TでもFでもない」を要素として持つことはまず間違いないとして、すべての要素が「TでもFでもない」になるのだろうか、という問いは多少興味深い疑問だろう。例えば、「灰になったあと瀬戸内海に撒かれて何物でもなくなった佐藤和真氏」といったものを考えてみるとき、佐藤和真氏は「灰である」のような性質にはもはやTやFを返さないかもしれないが、「瀬戸内海のなかにあってそれ以外の場所にはいない」というような性質には依然としてTを返すかもしれない。返さないかもしれない。私はこの問いに対して確かな答えをいまだ持っていない。

*21:この文脈において“個物”とはあくまで個物の全体集合に対する要素であって部分集合ではないということに注意せよ。“何物でもない個物”も全体集合の部分集合であるような空集合を指しているわけではなく、なんらかの要素を指さなければならないい。

*22:個物がもしそのように定義できるのであれば、ちょっと趣向を変えて「Tなる性質の集合」として個物を定義したとしても問題はないだろう。しかし、本記事のように、個物が個物たるためには、現にTかFを返す前に、そもそも「TかFは返す」ということが保証されるのだというイメージを持つなら、個物を「Tなる性質の集合」と定義することは(外延に不都合はないが)内包としては微妙にニュアンスがずれていることになるだろう。ところで、われわれが「TでもFでもない」をわざわざ考えなければいけなくなったそもそものきっかけとは、直接指示の理論を成り立たせるためであったわけだが、あらためて「TでもFでもない」を考慮から外したときに、『個物は「Tなる性質の集合」として定義しても問題ない』という結論が得られるということは、間接指示の理論が『個物を「Tなる性質の集合」として定義している』ということを改めて示すだろう。これまた、当たり前と言えば当たり前なのだが。

*23:もしも「TでもFでもない値を返すことはない」がホンモノのそのもの性の定義であるとしてしまった場合、ある個物がその個物たるための条件が記述的に理解できることにもなるだろう。われわれはあくまで直接指示と因果説をスタート地点にしているため、「TでもFでもない値を返すことはない」はそのもの性のすべてを記述的に解したものではなくそのもの性の一端を記述的に解したもの――そのもの性モドキ――でなければならない。
ところで、先ほど「性質は可能世界に対して個物の集合を返す関数とみなせる」という可能世界論的な前提を用いたが、この前提自体が記述説の見方のみをサポートしており直接指示・因果説の味方をサポートしていないのではないか、という批判はありうるのかもしれない。正直なところ、この可能世界論的な見方と直接指示・因果説の見方が接続可能なものなのか否かは私にはよくわかっていない。
なお、記述説的な見方と因果説的な見方を折衷する方法として、「一つの固有名から、状況によって、性質の束を取り出したり性質に依存しない個体そのものを取り出したりが別々にできる」という考え方を開発するより穏当な方法もあるだろう。例えば三木那由他博士の『個体概念説による固有名の意味論』は、おおざっぱに言えばそんな方向性を模索した議論であるように思える(私の理解が間違っていないといいのだが)。しかしながら、私はのちに「個物そのものの一端を記述的に解したとき、その一端は、同じく記述的に解された“世界”群のなかである位置に位置する」のような話をすることをもくろんでいるため、記述の束と個物そのものが別々に出てくるような穏当な方法をとることはできない……たぶん……。

*24:『フブかつ』では世界のことを「真なる命題の集合」と定義している。『フブかつ』4節を参照。

*25:その“世界”に含まれていないかもしれない個物に関する命題が与えられたとき、完全な“世界”や不完全な“世界”は真や偽を返すのか、返さないのか、という問題は興味深いが、ややこしいので今は立ち入らない。つまり、『緋色の研究』が表現する虚構世界において命題「エルキュール・ポアロは実在する」は真か偽か、というような問題に対する私の立場はいまは保留しておく。

*26:この“外挿”とかいう単語、ここから頻出することになるが、このタームがどの程度の射程を持ったどのような意味のタームであるのか私にはまだあまりわかっていない。ちゃんと使える自信がないならそんな単語使うなよって感じではあるが、とはいえLW氏の思考の背後に見え隠れするピースの一つでもあって、あまりこの議論から外したくない。
なお、「どのような射程を持っているのかわからない」というのはどういうことかというと、私は三浦俊彦先生の『虚構世界の存在論』のなかで(そしてこのなかでのみ)この概念を知るに至ったのだが、どうやらSF批評の文脈にもよく使われるスーヴィンの“外挿”という概念があるらしく、双方の概念が親子関係にあるのか兄弟関係にあるのか赤の他人であるのかが私にはまだわかっていないということだ。また、「どのような意味なのかわからない」というのはどういうことかというと、ある小説のなかで実際に記述されている描写をこそ外挿と呼ぶのか、実際には記述されていない可能性としての描写をこそ外挿と呼ぶのか、私にはまだわかっていないということだ。本記事を書いている段階では後者「まだ実現はしていない可能性としての描写」のみを外挿と呼んでいるが、あとから読み直していて「あっ、これ単語の意味合ってるかよくわからんな……」と思い始めた。タームの使い方がもしも誤っていた場合には、私は新しいタームを用意しなければならないだろう。

*27:私の例文は、「シャーロック・ホームズ」シリーズが実際に記述している情報とまるで無関係な追加情報の例を意図しているのだが、「ワトソン博士がホームズ氏の背中のホクロの有無を知っているという情報は両者のキャラクター性と全く無関係な追加情報とは言えないのではないか?」という反論もひょっとするとあるかもしれない。念のため次にもうひとつ例文を用意しておこう。

*28:この主張は憶測に過ぎないことを私は現状では認めざるを得ないが……。

*29:すでになされている以上、正確な意味での外挿そのものではないが。

*30:なお、本記事では「ソクラテスが女性だったら」のような前件と「妻に文句を言うことはなかっただろう」のような後件をひとつにまとめて“反実仮想”と呼んでいるのだが、本記事と異なり、前件に当たる部分のみを“反実仮想”と呼ぶ用語法をとるのならば、「反実仮想にも外挿ができるのではないか」という反論は完璧に棄却できるのではないかと思われる。

*31:実際のところ、差支えはある。われわれが可能世界論の語彙を用いるならば、『排中律』などの論理法則が指すのはある一群の可能世界すべてに当てはまることによって定義されるような必然的なルールであって、ひとつの世界内の命題すべてが何らかの特徴を充たすことはいわば偶然的なルールに過ぎず、論理法則そのものではない。だから『排中律』という呼び方に不満がある方は適宜名前を呼び変えていただいて……。

*32:この定義文はまた、三浦俊彦先生が『虚構世界の存在論』で用いている完全性の分類を援用して、次のように言い換えることもできるだろう。「反実仮想のうち弱い完全性が成り立つようなものを虚構世界と呼ぶ」

*33:なお、「もしソクラテス氏じゃないひとがソクラテス氏じゃなくもなかったら~」のような命題を例文にしたい気持ちはあるが、この例文ではうまくいかないかもしれない。前節の議論からして、ソクラテス氏からソクラテス氏らしい特徴をすべて取り去ったとしても「そのもの性」が根拠になって“それ”が依然としてソクラテス氏であるとみなせるからである。ソクラテス氏がどれだけ特徴を改変しても依然として何らかの意味でソクラテス氏であるのならば、「ソクラテス氏じゃなくてなおかつソクラテス氏じゃなくもない」という状態が排中律を破っていない可能性がぬぐえなくなる。

*34:単に排中律が成り立たないだけであれば、任意の命題を真だと認めさせる件の推論は成り立たない。ある場面では排中律を認めず、しかしある場面では排中律を推論に利用する、キメラ的態度であるからこそ件の推論ができる。

*35:東大 - 螺旋丸の例文で特にはっきりしていることだが、排中律を認めない立場と排中律を認める立場とをむりやり連結する文について考えることは、矛盾律を認めない立場と矛盾律を認める立場とをむりやり連結する文について考えることとさして変わりがなくなる。

*36:いや、ひょっとすると、『だっておれ螺旋丸できたから』は、一つの命題の真偽がきっかけになって世界全体の秩序が破壊されるような虚構世界の実例になってしまうのだろうか……?

*37:本記事における私の意図としては、虚構世界を「個物すべてにそのもの性モドキが付されているような反実仮想」であると考えている一方、虚構世界でない単なる反実仮想は「いかなる個物もそのもの性を持っていないような反実仮想」も「いくつかの個物だけがそのもの性を持っているような反実仮想」も含んでいるものだと考えている。ところで、本記事の立場とは別に、虚構世界は「個物すべてにそのもの性モドキが付されている」反実仮想は「いかなる個物もそのもの性を持っていない」と真っ二つに裁断する立場などは構築しがいがある立場かもしれない。
(私の読みが間違っていなければいいのだが)河田学博士は『虚構的言説の記号論』において、パヴェルの議論などを参照しながら「虚構的対象はほんらい属性の束であって直接指示の対象にはならないのだが、フィクション作品の受容に特有の態度である『不信の停止』がこの属性の束に直接指示が可能かのように見せかける」という考え方を示唆していると思われる。この河田博士の考え方などは虚構世界と反実仮想を真っ二つに裁断する上記の立場を裏面から補強するものになりうるかもしれない。ただ、河田博士の考え方に従えば、われわれはおそらく、反実仮想のなかに出てくる個物への貫世界同定をあきらめなければならなくなるのだが。

*38:ただし、完全な単一の“世界”が現実世界そのものでも虚構世界の構成物でも反実仮想の構成物でもありうるのに対して、不完全な単一の“世界”は反実仮想の構成物でしかありえない。

*39:「宇宙の原子の総数は原理的に知りえない」等々の反論があるのかどうか、また、それがクリティカルな反論になるのかどうかについては正直なところよくわかっていない。物理学の領分なんですかね?

*40:ひょっとすると、私の議論に対する反論として「われわれがブラジルの今日の天気について知っている“世界”とわれわれがブラジルの今日の天気について知らない“世界”とは別々の世界なのではないか。AWに関する命題の真偽をわれわれが知らないということも、われわれにとって必然的な事態なのではないだろうか」と述べるひとがいるかもしれない。これはなかなかクリティカルな反論だと思える。では、このように例を変えてみるのはどうだろうか。「AW内の、地球から遠く離れた宙域に人類には想像もつかないほど高性能なスーパーウルトラコンピュータを開発した宇宙人がいて、この宇宙で現在までに実現した事態すべてを計算によって算出することができる。この宇宙人が計算を行えば、AWに関して現在までに起こったすべてのことが明らかにできるが、AWにおいてまだ誰も設定を決めていないSWの事実については明らかにできないはずだ」これでAWにおける「真偽が判然としない」とSWにおける「真偽が判然としない」との違いが明らかになっただろうか。

*41:現実世界にいるわれわれにとって、AWに関するいくつかの命題の真偽が不明であることが偶然的であり、SWに関するいくつかの命題の真偽が不明であることは必然的である、という主張にはしかし、いくつかの反論の余地もあるだろう。一つの反論としては、SWが完全な単一の世界でありフィクション作品は統計のようにその一部を取り出してみせているものである、という立場をとる人から「SWの事実のうちどの事実が作品中に描かれどの事実が描かれなかったかは偶然的であり、作品はSWの別の箇所を取り出すこともできた」と言われる可能性があるだろう。この反論については、偶然性と必然性という論点よりも、そもそも虚構世界を完全で単一な“世界”と考えるか否かという論点で争うべきかもしれない。またもう一つの反論としては、われわれと同じようにSWを総体としては不完全な世界群とみなしながらも「われわれがもし可能性としての“外挿”を認めるのであれば、どの可能世界からみるかによって『Vtuber白上フブキ』という世界群の成員のリストは異なっている可能性があり、どのような世界の集合でSWが構成されているかは偶然的である」といわれるおそれがある。この反論はなかなか厄介だ。例えば、われわれの住んでいる現実世界とはほんの少ししか違わないどこか別の世界で書店に並んでいる『緋色の研究』のなかにはシャーロック・ホームズ氏の背中のホクロについて記述がある、というような空想はさほど突飛なものではないように思われる(外挿をフィクションの本質的な要素のひとつだとみなす限りは、われわれはこの空想を突飛だとはみなせないはずだ)。この近傍可能世界の住人たちが読んでいる『緋色の研究'』は、われわれが『緋色の研究』と呼んでいるものが持つ可能性のなかにまったく含まれていない別物だといえるのだろうか? というか、わざわざ近傍可能世界を考える必要もないかもしれない。例えば「ハリー・ポッターシリーズ」のアメリカ版のなかには、原典では黒人だと断言されていなかったキャラクターを黒人として描写する、明確な追加記述があるらしい(申し訳ないが私は直接確かめたわけではない)。このことによって、イギリスの読者とアメリカの読者はそれぞれ全く別の魔法界を描き出した全く別の小説を読んでいることになるのだろうか? ひとつの再反論の戦略としては、まさしく今述べたように、背中のホクロについて書いてある『緋色の研究'』はもはや『緋色の研究』とは全く異なるし、特定のキャラクターの人種同定が行われた「ハリー・ポッター'」はもはや「ハリー・ポッター」とは全く異なる、と断言する戦略であろう。さもなくば、“偶然”を定義づける全称量化を可能世界に関してでなく認識主体に関して行う、という戦略もあるだろう。要は、実はすでに前註で述べているように、ある出来事が「どの可能世界であっても成り立つか否か」ではなく「この可能世界にいるどの認識主体であっても成り立つか否か」を考えて、たまに成り立つことを“偶然的”とさしあたり呼ぶことにするのだ。これは“偶然”という単語の本来の定義から外れる可能性はあるのだが……。

*42:以上はAWが完全な世界であるという前提のもとになされた議論である。もしも、不完全であるわれわれの主観的現実をAWと呼ぶのであれば、AWにおいて「真偽が判然としない」ということとSWにおいて「真偽が判然としない」ということとは同じ意味を持っているのだと述べても致命的な問題はない。というか、主観を基準にするのならば、どんな“世界”であれ不完全であるし真偽が判然としない命題であふれていると言わざるを得ない。

*43:今後、サー・アーサー・コナン・ドイル以外の人物が「シャーロック・ホームズ」シリーズを書き継いで、それが世間から正当な続編だとみなされる、といった可能性は今回は無視することにする。

*44:なお、命題がなんであるのかは文としての表現形式に依存しない。そのため、ここで「いくつの命題」として問われている命題の個数について考えるとき、問答が何回行われたかではなく問答が一体いくつの命題に相当するかで考える。例えば、フブキ女史に対して、1月1日に「背中にホクロありますか?」と訊いて答えを得て、また1月2日に「ホクロって背中にあるんか?」と訊いて答えを得たとすれば、選択された命題の個数は1個である(ここでは背中のホクロの数は短い時間にはあまり依存しない事象であると想定している)。とすると、私が件の自由度のことを『回数選択自由度』と名付けているのは若干ミスリーディングであったかもしれない。よい名前があれば適宜改名していただきたい。

*45:この見方は、『フブかつ延長戦』1章3節でLW氏が提示したような真理値関数の取り扱い方針と整合すると私は考えている。

*46:なお、「Vtuberコンテンツが永遠に続く」という可能性は棄却する。つまり、Vtuberというコンテンツは有限長の時間のうちに終わりを迎えると本記事では考える。しかし、LW氏が「Vtuberコンテンツが永遠に続く」という可能性を棄却していないために『フブかつ』での示唆に至ったという可能性はある。詳しくは次々註に続く。

*47:次の瞬間にたかだか一つの赤スパを送ったすべての未来で得られる虚構世界から構成される虚構世界群をSWとして取り扱うことで、SWの完全性を担保する、という道もなくはない(真偽選択自由度さえなければ、この虚構世界群は矛盾を含まずに構成できる)。ただ、この道を選ぶと、無数の未来に等しく正当性を与えるためにAWのほうを不完全にしなければならないという妙なことになると思われる。

*48:LW氏は『フブかつ』において、「Vtuberに完全性が担保できるというのは、物理的に可能だということでなく、原理的に可能だということ」だと繰り返し注意を促している。本記事で、私はまず「現実世界について知りえない事実があることとフィクション作品について知りえない事実があることとは偶然的無知と必然的不可知とにはっきり区別できる」と、物理的制約によらない原理的な反論をしたつもりである。しかし、私は続けて、「Vtuberが永遠に続くとは想定しない(無限長の時間を使ってVtuberに赤スパし続けることはできない)」という角度からの反論と「有限長の時間で無限個の赤スパを送ることはできない」という角度からの反論、計2つの反論をも行った。この2つの反論は、ひょっとするとLW氏の『フブかつ』における前提を認めずに差し戻したにすぎず、前件否定のせこい反論に過ぎないのかもしれない。
はたして、LW氏が「無限長の時間で無限個の赤スパ」とか「有限長の時間で無限個の赤スパ」とかいった状況を許容していたのか、していなかったのかはかなり微妙なところだ。『フブかつ』の前身のひとつであると思われる記事『キズナアイは論理的に完全』においてLW氏は、「Vtuberには完全性が担保されうる」という主張をするうえでε-δ論法を用いたたとえ話をしている。しかし、もしLW氏が「無限長の時間で無限個の赤スパ」などの状況を許容しているのであれば、ε-δ論法のたとえ話など全くする必要がないはずなのだ。「無限長の時間で無限個の赤スパ」によってVtuberの完全性が担保できるのだとすれば、われわれは「xに無限個の実数を当てはめてみる」によって「xを∞に近づけると1/xは0になる」を担保できることになる。ε-δ論法のかなめである“一般化”という概念をわざわざ持ち出す必要がない。よって、少なくとも『キズナアイは論理的に完全』を著した時点でのLW氏はなんらかの一般化を介することによってはじめてVtuberの完全性は担保されるという主張を行おうとしているはずだ(しかし、私の考えでは、一般化の網のなかに捕らえられるのは無制限の回数選択自由度ではなく、無制限の命題選択自由度に過ぎないので、Vtuberの完全性はやはり担保されないはずだ、というのは本文にも書いた通りなのだが)。ただ、『フブかつ』においてε-δ論法がどうこうという話は特に出てこないので、LW氏は考えを変えており、「無限長の時間で無限個の赤スパ」を許容して考えるようになったのだ、という可能性もある。ただ、そう仮定したらしたで問題になんdなるのは、「無限長の時間」によって完全性を主張するのであれば、べつに双方向コミュニケーション(重言か?)がとれるVtuber相手でなくても、未完結の作品であればなんでも完全性が担保されてしまうということだ。仮性の外挿の回数選択自由度さえ無制限ならば、虚構世界の完全性はじゅうぶん担保されてしまう。だからわれわれ読者から任意の質問をチョイスできるという命題選択自由度はべつにあってもなくても構わない。そのときわれわれには「まだ完結してない作品はすべて等しく完全な世界になる可能性を秘めている」くらいのことしか言えないだろう。

*49:「作者の存在を前提とせずとも性質リストの提示が説明できること」は、LW氏自身も述べている通り、例えばくまモンのようなゆるキャラにも当てはまりかねない特徴である。また、(まれなので無視しても問題ないと思うが)小説キャラクターのなかにさえ作者の存在を無視して直接性質リストを提示しようとする者はいる。例えば、斉藤洋氏の児童文学『ルドルフとイッパイアッテナ』において、主人公ルドルフ氏は、猫でありながら、数奇な運命のなかで人間の言葉の読み書きを覚え、自伝的小説を書いて人間である斉藤洋氏に託したとされている。本書の記述に従う限り、斉藤洋氏の功績はあくまでルドルフ氏の書いた文章が世間で広く読まれるように出版の采配をしたことにあり、ルドルフ氏の物語は斎藤氏以外の手を通って紹介される可能性もあった。そしてこのような“モキュメンタリー”形式をとる小説作品は『ルドルフとイッパイアッテナ』が唯一のものでもなければ初めてのものでもない。代わりにスウィフトの『ガリバー旅行記』やルキアノスの『本当の話』を挙げてもいいだろう。

*50:私はさっきからそのもの性モドキの話ばかりしていてホンモノのそのもの性の話をあまりしていない。このありさまをみて、「この議論を“そのもの性”ということばから開始する必要あったか?」という疑問を抱くひとは少なくないのかもしれない。かくいう私もそのひとりで、“そのもの性”というこの手に余る概念を放逐したかたちで議論を再構築できないかと考えてはみたものの、二つの理由によってこれを断念した。ひとつには、他者の説得というよりかは私が自身の思考の流れを追ううえで、“そのもの性”から議論をひらくのが適当な手順であると思われたこと。もうひとつには、この文章の最大のふざけどころであるエピグラフがすべてしっくりと配置されるようにするため。

*51:本文で明示しなかったが、「ある個物とある十分に短い期間を二項述語命題に代入したもの」は“出来事”と呼べる、ということにした。例えば、「佐藤和真はある十分に短い期間の間じゅうずっと赤かった(は真である)」とか「佐藤和真はある十分に短い期間の間じゅうずっと3で割り切れた(は偽である)」とかをわれわれは“出来事”と呼ぶ、ということである。後者の例の論理的妥当性はさておき、それらがある意味“出来事”と呼べるということには直感的には同意を得られるのではないか(キビシイですかね?)。

*52:どうも、分析哲学の文献では、ゼロあるいは無限小の幅しか持たない時間のことを“瞬間”と呼びならわす例があるらしい。私が「ある十分に短い期間」ということばで意図しているところは多少の幅を持っていてもいいのではないかと思っているので、ここでは“瞬間”という用語を避けて“一瞬”と呼んでみるが、“瞬間”のほうがニュアンスが通じやすいかもしれない。

*53:われわれの現実世界に対して現代の物理学が持っている知見によるなら、比較的マクロなスケールでみたとき、“世界”全体で起こるすべての出来事を時系列に整列させることはできない、という反論はできるかもしれない。これに対する再反論は目下検討中である。

*54:正確には、出来事そのものが(順序)関係を持つのではなく出来事の順序が(順序)関係を持つ。まどろっこしいのでここでは、「出来事の順序が順序関係を持つ」ということを「出来事が順序“的”関係を持つ」と呼ぶ。

*55:このとき、ある出来事とすべての出来事との間の関係をしらみつぶしに一つずつ調べる必要はもちろんない。ある出来事が起こった一瞬をxとしたとき、xに限りなく近くかつs<xであるような一瞬sに起こった出来事よりもある出来事のほうが“後”であって“前”でなく、またxに限りなく近くかつt>xであるような一瞬tに起こった出来事よりもある出来事のほうが“前”であって“後”でなければ、あとはw内の時間的順序関係の推移性や完全性を利用して、w内のたいていの出来事との間に時間順序的関係を確立できる(ここで出てくる「sからtまでの時間」をぐっとファジーに表現すると先ほどの『十分に短い期間』という表現にもつながってくる)。ここで、ある出来事より“前”でも“後”でもない残りの出来事には反対称的関係が成り立つか調べていく。これがうまくいけば、ある出来事とw内のすべての出来事との時間順序的関係のあるなしははっきりするはずだ。

*56:この定義文が成り立つためには、われわれのいう“一瞬”とやらが“世界”全体で流れている時間などに依存せずに定義されなければならないであろう。つまり、時間の一部を切り取ったものとして一瞬を定義するのではなく、時間順序的関係を持っている一瞬の集合が時間であるとみなされなければならない。ちなみに、伊佐敷隆弘博士は『現在は瞬間か』において「人間が、“出来事個体”を指示するということは、変化・消滅しないものである“出来事個体”をある程度恣意的に生ぜしめることであり、また“出来事個体”を指示することが変化・消滅しないものとしての過去を生ぜしめてもいる」のような議論を展開している。この議論を“出来事個体”をもとに過去を定義しようとする議論であると受け取ってよければ、一瞬から時間を定義したいわれわれの方針の参考にはなるかもしれない。ただ、伊佐敷博士のいう“出来事個体”とは(“過去”の定義上)過去にしかあらわれないので、われわれの取り扱いたい“出来事”全般がこれに含まれているかは疑わしいところがある。

*57:ここで私は『虚構世界内でのVtuberの現年齢は有限』という前提をさしあたり用いているが、Vtuberのオーロ・クロニー女史は『時間の概念そのもの』とでもいうべき設定を持ち、現年齢も有限ではないらしい。女史の存在が本記事での議論の致命的な反例になるか否かは目下検討中である。

*58:時空間ありきで物事の順序を考えることが「感覚を定義に合わせる」にもしも相当するならば、物事の順序ありきで時空間を考えることこそが「定義を感覚に合わせる」に相当する、といえるのではないだろうか?

*59:LW氏が『Vtuberの性質リストの更新が離散的ではなく連続的である』という言葉によって述べようとしたのが、『いくつかの一瞬を表現するのでなく流れる時間を表現している』という意図にとどまっているのであれば私とは考えが異なるし、『流れる時間を表現しているし、なおかつカット割りなどがなかなか挟まれない』ということをも意図しているのであれば私と軌を一にしているとみなせるだろう。

*60:私の主張はまた、『映画プリキュアドリームスターズ!』を映画館でなく自宅で、小さなテレビモニターで観た場合などでは、プリキュアが現実世界に侵入してくるという展開の説得力は減ぜられることになるということをも示唆しているだろう。

*61:ここでいう『詐欺的』にさほど悪い意味はない。

*62:この思考ゲームはあくまでゲームであって、私自身の人生における現世利益とはなんらの関係もないので、本記事中で行ってきた私の主張に反論を述べたい方がもしあれば遠慮なく反論を述べてほしいと願うところでもある。