ファニーゲームの感想的な

よく知らない人とよく知らない人が『ファニーゲーム』(1997)の感想を話しているのを聞くという機会(どういう機会?)に遭遇して、その内容の一部に私は同意できたので、その他人の意見を整理しなおすという形で『ファニーゲーム』の解釈を書いてみたいと思う*1。以下、全部『私』の意見というていで記事を書いていく(書きやすいので)が、実際のところは、他人からの完全な受け売りとか、他人とのおしゃべりのなかで固まった意見なんかも多分に含まれている。「へー」と思ってください。

 

具体的には、『ファニーゲーム』において一体何が“ゲーム”だったのか、みたいな切り口で、映画の時系列に沿って順に考えていくつもり。

 

先に言っておくが、私はこれから『ファニーゲーム』という映画に対してまあまあの分量(10,000字)の記事をこれから書こうとしているわけだが、かといって私がこの映画を誰かにオススメするような気持ちはみじんもない。この映画はマジで退屈なので。それが意図された退屈であると私には理解されるので、「この映画は退屈」と述べてみたところでべつにこの映画の価値を否定することには当たらないのだが、それはそれとして、この記事を読んだ人が『ファニーゲーム』観て「つまんなかった」「しんどかった」などの損害(それらはある意味損害だ)を仮に被ったとしても私には責任がとれない。この映画が退屈だということははっきり言っておくので、退屈だったという理由で私には文句を言わないでほしい。
あと、まれにこの映画が全然退屈じゃない人もいるらしいということも言い添えておく。この映画があなたにとってめちゃくちゃ面白かった場合でも、私は当然責任を取らないので、文句を言わないでほしい。

 

1.非-ゲーム:退屈な日常 VS ゲーム:刺激的な非日常

アンナ(妻)、ゲオルク(夫)、ショルシ(息子)の三人家族(あと犬もいる)が郊外の別荘に遊びにやってくる。その別荘へ行く車中の一家の風景から映画が始まる。
アンナとゲオルクは、カーステレオでクラシックのカセットを次々かけて指揮者当てクイズ(たぶん)を楽しんでいる。ただそれだけのシーンがまあまあの時間続く。後部座席のショルシは指揮者当てクイズには興味ないようで、どこともなく視線を泳がせている。うーん、退屈。
別荘に着くと、まずゲオルクとショルシはすぐそこの湖までボート遊びに繰り出す。残ったアンナは料理の支度。この料理のシーンでキッチンの置時計が壊れていることがわかるのだが、この時はまだそんなに重要じゃない。
料理の支度をしていたアンナのもとにガリガリとデブの二人組の若者たち(名前は全然覚えてない)が訪ねてくる。彼らは最初は卵を分けて欲しいとお願いにきている様子で、卵を割ったりアンナのケータイを壊したりと、ただの愚図かと思われた。が、若者たちはぺらっぺらぺらっぺら正論を喋りながらアンナに無礼な行動をとり続け、「あ、こいつら意図的にアンナを挑発してるな」と私たち観客にもすぐにわかってくる。やがてゲオルクとショルシが湖から戻ってくると、なんやかんやあって、若者たちはゲオルクの膝をゴルフクラブで殴って立てなくさせる。
父親の膝をつぶされて抵抗力を奪われ、ケータイを壊されて外部への連絡手段も失った一家は、別荘のなかで若者に脅されていわれるがままになる。若者たちが初対面の家族に容赦なく暴力をふるう理由はガリガリいわく「楽しいから」。ガリガリは宣言した、「これは楽しいゲームだ、一家のうちひとりでも一定時間(12時間とかだっけ?)を生き残ったら一家の勝ち」と。
退屈な日常は終わりを告げ、理不尽な暴力がルールを書き換える。さあ、ゲームの始まりだ!

 

2.ゲーム:有閑階級の日常 VS 非-ゲーム:ヤク中どものゲー無

と、思いきや。だんだんとわかってくるのは、若者たちがやっていることがあまり“ゲーム”らしくないということだ。
例えば若者たちは、妻アンナに「服を脱いで裸になる」という内容のゲームを強制する……これのどこがゲームなん? 若者たちは圧倒的な暴力で主導権を握っており、特段のハンディを家族に与えることはないし、プレイヤーであるアンナがやることは「服を脱いで裸になる」以上でも以下でもなくて、そこになんの戦略も駆け引きもない。これ、若者たちはやってて楽しいのか?
とりあえずアンナは楽しくなさそうだ。映像でアンナの下着姿とか裸とかが映ることはなくて、アンナが服を脱いでいるあいだカメラはひたすらアンナの顔にクロースアップしているのだが、このときのアンナの表情がもうひどくて「え、かわいそう」となること請け合い。
彼らのしていること・彼らが一家に対して強制していることは“ゲーム”とはとても言えない……しいて言うなら、『罰ゲーム』というものがなんの罰でもなく単体で行われているようなものを“ゲーム”と呼べる限りにおいてなら、彼らのしていることは辛うじて“ゲーム”といえる。この若者たち、“ゲーム”をやるセンスというものがまるでない!

 

若者たちのセンスの欠如がはっきりと示されるのが、無人の隣家での戦闘シーンだ。映画中盤、頑張って別荘から逃げ出した息子ショルシは、無人の隣家に逃げ込む。ガリガリもショルシを追ってその隣家に入ってきて、恐怖のかくれんぼが始まる……はずなのだが、ここでガリガリがやることがどうも微妙にズレている。
ガリガリは「隠れてるのはわかってるんだぞ」とかなんとかお決まりのセリフを吐きながらショルシを探すのだが、このときガリガリは部屋の電気を点け、あろうことか部屋にヘビメタを流し始めるのだ。
これ、映像として観てないとピンと来ないかもしれないけど、観てるとすごく違和感のある行動だ。だって、もしガリガリが“ゲーム”を楽しみたいのなら(そして、サスペンス映画らしい展開を演じたいのなら)、電気を消したままにして、静かなままの屋内で、わずかな物音を頼りに敵を追いつめる、といった駆け引きを楽しむはずだ。ところが、彼は電気も点けるしヘビメタも流すから、駆け引き要素は限りなく縮減されて、“恐怖のかくれんぼ”は作業ゲーかさもなくば運ゲーと化してしまう。結果、ゲーマーとしても不自然、サスペンス映画としても不自然なシーンが誕生する。ガリガリよ、お前はヒットガールじゃないんだぞ。
ものすごく明るくてありえないほどうるさい部屋の中で、なんとなーくショルシを追い詰めたガリガリは、ショルシが隣家で拾った猟銃を持っているのを認めると、ショルシを「ほら撃ってみろよ」とけしかける。ショルシは、動揺しながらも引き金を引いたが、弾が込められてなかったか安全装置がかかってたかで(どっちか忘れた)発砲されない。ガリガリはなんということもなくショルシを捕らえる(さっき『無人の隣家での戦闘シーン』と書いたが、あれは嘘だ。戦闘らしい戦闘などない)。
銃を持った少年を挑発するというのも、一見アクション映画のお約束を忠実になぞっているようでいて、よく見ると微妙に違和感がある。どうも、ガリガリが「ショルシはどうせ発砲できない」と推測するための根拠がちょっと不足しているのだ。ガリガリは、ワンチャン少年が発砲するかもしれないと思ったうえであっさりと自分の生死を賭けてしまったのか、あるいは銃に弾が込められていないのを映像に描かれない部分で事前に確認していたのか……いずれにせよ、ガリガリがベットしているのは「完全な運ゲー」とか「完全なワンサイドゲーム」とかで、“ゲーム”としての深みがまるでない。もちろん、運ゲーだから面白いゲームとかワンサイドゲームだから面白いゲームってものも世の中にあるにはあるが、それらが面白いのは、たいていの場合、プレイヤーが人間にできる努力を最大限尽くしたあとに運要素や一方的な展開が訪れるからであって、「完全な運ゲー」とか「完全なワンサイドゲーム」が面白い場合というのはかなりまれだ。しかし、まだ努力しようがある、楽しみようがあるのにもかかわらず、ガリガリはそこにあるゲーム性をあっさりと投げ捨ててしまう。

 

当初、私たち観客は、この映画を、退屈な日常という“非-ゲーム”が刺激的な非日常という“ゲーム”によって転覆されるという話だと思っていた。しかし、実のところ事態は逆で、襲ってきた非日常は徹底した無秩序“非-ゲーム”であり、一家がふだんから自発的に従っていた秩序のほうにこそ“ゲーム”の生まれる余地があったということだ。
そう、“ゲーム”のゲーム性を支えるのは、特段意味のない秩序に自発的に従うことなのだ。それに従う必然性がないようなルールであるにもかかわらず、自分でルールを設定し、自分でルールを守ることにこそ、ゲーム性はある。例えば、湖でのボート遊びを考えてみよう。別荘を持てるくらいの身分ならば、当然安くて速いモーターボートを買うこともできるだろうに、そういった金持ちの何割かは、帆を張って櫓をこいで動かす不便なボートを選ぶ。この映画でのゲオルクとショルシもそうだった。文明の利器だって選べたであろう人が、あえて帆を選び、あえて櫓を選ぶからこそ優雅な有閑階級の遊びになる。
クラシックとヘビメタの音楽性の違いを取り上げてみるのもいいだろう。一方、クラシックは、歴史に裏打ちされた無数の形式、しかしそれ自体よいとも悪いとも言えない無意味な形式によってある程度型にはめられており、型にはめられているがゆえの不自由と自由とを享受している*2。他方、ヘビメタはクラシックに比べればはるかに「何でもアリ」のジャンルであり、「何でもアリ」すぎるがゆえに自由だと言える場面もあれば、端的に無意味で無秩序でしかない場面もあるだろう。クラシックとヘビメタとの違いは、あまり一面的に語るべきものではないが、あえてこの記事で言うならば、クラシックは、自発的にルールを作って守るからこそ優雅な“ゲーム”たりえ、ヘビメタは、「何でもアリ」すぎて逆に“ゲーム”にならない*3

 

若者たちに“ゲーム”をやるセンスがない、その最もたる点は、単に「自発的にルールを設定しない(縛りプレイをしない)」というところにあるわけではない。「自発的にルールを設定するチャンスがいくらでもあるにもかかわらず、自発的にルールを設定しない」というところにある。
ここまで、一家を“有閑階級”と言い換えて議論を進めてきたが、この言い換えはいまひとつ正確ではなくて、なぜなら、一家と対峙する若者たちも見るからに暇そうで、時間的余裕も経済的余裕も身体的自由も(とりあえずは)確保されているからだ。“有閑”の二文字で表すならば、一家だけでなく若者たちもそうなのだ。
だから、縛りプレイをする余裕がなくて縛りプレイができない人たち(“無閑階級”)とは若者たちは異なる立場にいる。「縛りプレイをしない」という特徴だけで若者たちを規定するのは片手落ちで、「縛りプレイをするための前提条件自体は揃っている」ということを押さえておく必要がある。

 

ともあれ、一家が当たり前に過ごしている日常、“ゲーム”が生まれる余地のある空間に、“非-ゲーム”の象徴たる若者たちが突っ込んできたことで、私たちの“ゲーム”は脅かされることになるのであった。

 

3.ゲーム:目的のある生 VS 非-ゲーム:目的のない生

しかし、である。中盤から事態は一転して、若者たちが仕掛けてきたゲー無すら、実はある種の状況よりは格段にマシであり、じゅうぶん“ゲーム”と言える、ということが明らかになる。ある種の状況とは、人々がはっきりした目的性を失うということだ。

 

ショルシはガリガリ無事捕らえられて、ついに一家三人のうち誰かがデブによって銃殺されることになる。最初に銃殺される人はデブによるランダムカウントによって選ばれる、はずだった。だが、なんやかんやあってデブはすごくいい加減なカウントでショルシを最初に銃殺することになる。縛りプレイ下手すぎやろ。
ショルシを殺したあと、若者たちはなぜかアンナとゲオルクにとどめをさすことなく(まあ理由なんてないんでしょうね)別荘を後にする。恐怖が去ったあとの別荘で、アンナとゲオルクはひとしきり涙する……。

 

この映画がマジで恐ろしいのはここからだ。この映画、当面の危機が過ぎ去ったあともだらだら映画が続きやがるのだ。若者たちがいなくなったあと、アンナとゲオルクは助けを求めてなんかぼんやりした努力と模索を続けることになる。これを観させられている間の苦痛ったらない。
こうしてだらだら映画が続くことが苦痛なのは、そこに二重の『目的のなさ』が仕掛けられているからだ。
一つ目の目的のなさは、アンナとゲオルクが生きていく意味が奪われているという点だ。(これはわざと保守的な書き方をするのだが)一家の再生産能力の象徴である妻・アンナは、すでに息子の命を奪われており、一家の働き手であろう夫・ゲオルクは大けがを負っており、ひょっとすると将来にわたる労働の能力を全て奪われている。残された二人は二人とも、象徴的な面でそれぞれの存在理由、一番大事なものを奪われており、極端な言い方をすれば、もう生きていく理由がない*4。しかし恐ろしいのは、たとえ生きる意味を失ったとしても、人生は続くということだ。たとえ息子が殺されても、たとえ二度と働けなくなったとしても、その部屋でずっと茫然自失しているというわけにはいかない。一番大事なものを失ったとしても、人間には二番目に大事なもの、三番目に大事なもの――いまの場合、それは『当座の身の安全』とかだ――を確保するためにだらだらと努力と模索を続けるしかない。さもなきゃ自殺だ。き、きっつ……。
二つ目の目的のなさは、映画を観ている私たちにとって、映画を先へ先へとドライブさせるような目的がすでに失われているという点だ。多くのまっとうなホラー映画・サスペンス映画では、主人公が襲い来る恐怖に対して勝つか負けるかすれば映画はくっきりと終わりを迎えるように作られており、勝つか負けるかした後に主人公が日常に復帰するまでの数日間数年間を丁寧に描くなどといったことは、普通しない。そういった消化試合は、映画のような限られた時間の中で描くのに(ふつうは)向いていないからだ。例えば、『ジョーズ』のラストで(以下注釈)*5しかし、そうした消化試合、目的があるようなないような時間がだらだらと続いてしまうのがこの『ファニーゲーム』の中盤であり、この不快さは筆舌に尽くしがたい。

 

若者たちが去ってしまうと目的が宙ぶらりんになってしまうということの異常さが印象的に描かれるシーンがある。それはアンナの着替えシーンだ。なんと、若者たちが押し付ける“ゲーム”の間はあれだけ丁寧に隠されていたアンナの下着姿が、若者たちが去ったあとアンナとゲオルクが助けを求めてぼんやりと頑張る間ではあっさりと画面に映されてしまうのだ。
これはマジで悪趣味なシーンだ。さきほどの脱衣ゲーム中のアンナの葛藤は『裸を見られることは恥』という大前提で成立していたはずだ。ところが、この『裸を見られることは恥』というルールは、若者たちが去ったとたん「冷静に考えたら、この映画ってべつに裸隠さなくてもいいよね」「べつに、ゲームはもう終わったしな~」とばかりにあっさりと反故にされる。例えば、ひとしきりサッカーの試合をやった後に、審判が「べつにボールが網のなかに入ったからってなんの意味があるん? ウケるwww 得点とか何も記録してなかったよ」と言い出したら絶対キレるが、この映画がしているのはそういうことだ。やめたれや。

 

目的があるようなないような時間のしんどさは別荘に配置された数々のゴミアイテムの存在によってもブーストされる。
例えば、冒頭若者たちに壊されてしまったケータイだ。このケータイ、デブによって水没させられたことで使えなくなっていたはずだったのだが、中盤で「いや、これ乾かしたらまだギリ動くよな……いややっぱり動かないか……いや動く……動かないか……」のような中途半端な壊れ方を継続する。
ふつうの映画なら、こういう中途半端な壊れ方はマジでよくない。『敵に奪われたケータイを取り戻せるか否か』とか『敵に壊されたケータイを修復できるか否か』といった困難だったらまだクエストとして成立するが、『このケータイ、壊れてるかもしれないし壊れてないかもしれない』という困難だったらクエストとして成立しないからだ。そういった困難は無駄にリアルなばかりで、ホラー映画・サスペンス映画の緊迫感をそいでしまう。
例えば、別荘に存在するらしい地下室なんかもゴミアイテムの一つだ。若者たちによって膝を潰されたゲオルクは、若者たちが去ったあと、アンナが外に助けを呼びに行っている間、念のため地下室に篭ることを検討するのだが、行けるか行けないかをちょっと試したあと、なんかうやむやのうちに結局地下室には入らない。
こういう中途半端な状況判断もほんとやめてほしい。いや、確かに現実というものは得てしてこういう中途半端な状況判断が行われるものなのだが、これは映画なんだから中盤でそんなことをしないでほしい。

 

すべての目的がぼんやりしてしまって非常にだらだらした時間を見せつけられ、私たち観客はなんならシークバーで残り時間を確かめたくもなる。しかし、マウスに触れそうになった私は――私の場合は――思いとどまる。待て待て、これは映画ぞ。映画はシークバーを確認できるものではない。
そうだ、映画は本来、「あと何分続くのか」「いつ終わるのか」が観客には把握できないようにできているものなのだ。だからこそ、展開でなんとなくあと何分かわかる映画は『わかりやすくしている』と評価できるし、いかにも終わりそうな展開なのに終わりやがらない映画――つまりこの『ファニーゲーム』――は『わざと引き伸ばしやがったな』と評価しなければいけない。
ここで示唆的になるのが、冒頭から特に理由なく壊れていたあのキッチンの置時計だ。作中世界の時計が壊れていることで、あと何分で朝が来るのかわからないアンナとゲオルクの心情と、あと何分で映画が終わるのかに違和感を感じる私たち観客の心情はシンクロしていく。いやほんと、心中お察しします……。

 

4.ゲーム:物理法則がある宇宙 VS 非-ゲーム:物理法則すらない宇宙

幸か不幸か、事態はまたも変転する。なんでかわからないけどぷいっと去ってしまった若者たちが、なんでかわからないけれどまたぷいっと別荘まで戻ってきてしまったのだ。道でたまたま捕まえたアンナとともに。こうして若者たちと一家との対立構造はとりあえず復活するのだが、ここで明らかになるのは、先ほどまでの『目的があるようなないような時間』すら状況としてはまだマシで、本当に恐ろしい状況は別にあるということだ。

 

さて、別荘に戻ってきた若者たちはゲームの再開を宣言する。これは観客にとっては朗報かもしれない。立ち向かうべきはっきりした脅威が復活したならば、物語が目的性を取り戻す可能性はあるだろう。例えば、アンナが殺された息子の復讐を決意するとか。はたしてどうなる?
結論から言うと全然ダメだった。若者たちは以前と同様のワンサイドゲームを続行するから反撃の目はなかなかやってこない。そりゃそうか。
辛抱強く待って待ち続けて、やっと訪れたわずかな反撃の目で、ゲオルク(たしかゲオルクだった気がする)が銃を奪い取ってデブに発砲する! このあと起こった出来事がもう最悪だった。
ガリガリが、その場にあったテレビのリモコンで、ゲオルクがデブを射殺する直前まで時間を巻き戻したのだ。時間を巻き戻して、ガリガリが逆にゲオルクを射殺してデブは助かる。いや、もう、ほんとに虚無……。それはやっちゃあかんやろ。でも、「やっちゃあかんやろ」ばっかりやる映画でしたよね『ファニーゲーム』は!

 

『何でもアリ』ほど虚しいものはない。『ファニーゲーム』は、そんな大事なことを教えてくれる。
いや、違ったな。『何でもアリ』ほど虚しいものはないなんてことは、こちとら最初っからわかってることなんだ。だって、サッカーの試合中「もっと自由な方が面白い」とか言って平然とハンド連発するようなやつがいるか? いないよなあ? 『ファニーゲーム』はそんな誰でも知ってる当たり前のことを、気づかせるというよりも、ただただ丁寧になすってくる。汚いからやめてください。

 

最後の最後、唯一の生存者・アンナを連れて、若者たちふたりはボートで湖に出る。ガリガリはまあ当然時計をきちんと持っているので、時計でゲームの時間がまあまあ残っていることを確認して、確認したのにもかかわらず、アンナをあっさりと湖に投げ捨てる。一家全滅、ゲーム終了だ。若者たちは結局、自分たちで課した唯一まともなルール:時間制限すら、最後の最後に「まあいっか」と投げ捨てて、一つのゲームを終えてしまう。そして、手も替えず品も替えずに次のゲームが始まる、らしい。終劇。

 

観て思ったこと

以上のように、私は『ファニーゲーム』を「“非-ゲーム”な空間に“ゲーム”がもたらされる映画と思いきや、その実態は、“ゲーム”を何回にもわたって丁寧に否定する映画」と受け取った。

 

ここからさらにどういう読みを展開していくかについて、2パターンほど考えた。
読み①。ゲームを主宰するガリガリは、「映画なんだからゲーム的な要素を」という観客の期待を適度に裏切りながら映画をだらだらと続けることで、観客に共犯関係を迫り、映画にお仕着せの秩序や目的性を期待せずにはいられない観客の罪を暴露している、という読み。
ただ、この読みにはいまひとつ欠陥があると私は思っている。それは、ガリガリが主宰するゲームがあまりに退屈すぎて、観客が求めるものでは全くなく、いち観客としてガリガリに対する共犯意識を全然感じられないというところだ。ガリガリが『ファニーゲーム』をいくらクソつまらんものにしたところで、観客がガリガリの行いを気に病む必要は全くない。
そこで読み②。「観客の罪の暴露」とかいったメッセージ性というのは、実はこの映画には全くなく、ガリガリがルールを壊して虚無を呼び込むのは、ただただ彼らがくだらないものとしてそこにあるためなのだ、という読み。ガリガリがリモコンで時間を巻き戻すのも、その前フリとしてたびたびカメラ目線を決めてくるのも、ただガリガリをしょうもない存在として完成させるための演出だということだ。ガリガリをしょうもなく完成させることが、ひいては、より丁寧に“ゲーム”を否定することにつながる。
この読みにもこの読みで欠陥はあると思っている。それは、「“ゲーム”を否定したからなんなん?」という当然の疑問に対して、とくに応える言葉がないということだ。うーん、「『ファニーゲーム』はゲームを否定する、それ以上でもそれ以下でもない」っていうんじゃダメですかね……?

 

でもまあ

書いてて思ったが、私のゲーム経験ってけっこう限定的なものだ。とある対人ゲームに入れ込んで、十数人規模のローカルなコミュニティでその対人ゲームを何時間でも何日でもやり続け、戦略がどうこうとか選手としてどうこうとか偉そうに持論をぶつようになっていた時期も私にはあるが、逆に言えば私が“ゲーム”云々について言えるのはその経験の範囲内だけだ。
私は、遊戯王とかカタンとかLOLとか人狼とか、まあなんでもいいけど、メジャー対人ゲームの数千人数万人規模のコミュニティに属したことはあんまりないし、例えば遊戯王だったら私が属しているのは「ルール知らずにアニメ見てる」くらいの層だ。実のところ、私が「ゲームとは」「ゲーマーとは」なんて語ってみたところで所詮エアプでしかない。私が自分のいた環境でだけ通用する理想みたいなものを“ゲーム”という言葉に押し付けてみても、それはいっこう迷惑にすぎないのかもしれない。
白状すると、実は私がかつていた十数人規模の狭いコミュニティのなかでさえ、私の“ゲーム”への執着は異常とみなされていたのであって、私の理想はいかなるところにもよりどころを持たない。
たぶん、冷静なことを言えば、たぶん、たぶんですよ、ひとくちに“ゲーム”なんて言ってみても色んな“ゲーム”のありかたが世の中にはあるのだろう。当たり前の話だ。そこへきて“ゲーム”という言葉になんらかの理想をついつい押し付けてしまうのはカイヨワと同じ轍を踏んでいるに過ぎないのだろうね。

*1:許可は取ってある。

*2:「いや、クラシックが持っている形式というのは完全に無意味ではなく、数学的な合理性があるのだ」などと強弁してみることも不可能ではないだろうが。

*3:むろんこれは一面的な見方だ。ヘビメタ好きからの攻撃的な反論を避けるために、この見方が一面的に過ぎないことは何度強調してもし足りない。

*4:むろん、これは極端な言い方をしているに過ぎない。世のすべての“妻”にとって子どもが一番大事だとも子どもを失えば速攻で生きる意味を失うとも限らないし、世のすべての“夫”にとって生産能力がアイデンティティとなっているとも働けなくなると速攻で生きる意味を失うとも限らない。アンナとゲオルクが生きる意味を失っているというのは、あくまで象徴的な読みについての話だ。

*5:主人公たちがサメを爆殺したあと、沖合から岸まで帰り着くまでバタ足している過程をもし60分にわたってねっとりと描かれたとしたら、観客はブチギレません?