『シン・仮面ライダー』の感想

『シン・仮面ライダー』を観た。とても面白かった。

 

どうも巷では『原作オマージュに振りすぎている』なんて感想が多いらしい。
僕が無根拠に信ずるところでは、監督は観客に『これはあの回のオマージュだな』と思ってにやにやしてほしいわけではあんまりなく、監督が少年だったころの驚きと興奮を観客にもそのまま味わってほしいだけなのだろう。観客も、どれがオマージュとか関係なく『この撮り方めっちゃキモチワルくてカッコイイな』とだけ思えればよさそうなものだ。
しかし、実際オマージュっぽくなったシーンを観せられると、“知っている”観客はどれそれのオマージュだと思ってにやにやせずにはいられないし、“よく知らない”観客は『俺はなんのオマージュなのかよく知らないから……』とか言って勝手に委縮してしまうのがよくあるパターンなのだろう。難しいもんですね。

 

以下ネタバレなどもあり。

 

 

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私は『シン・仮面ライダー』をショッカーの物語として理解している。そんな『シン・仮面ライダー』が面白かったなどというと誤解されるかもしれないからいちおう言っておくと、私はショッカーの理念に、賛同しているわけでも許容しているわけでもない。

 

本作におけるショッカーは、正式名称をSustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodelingというらしい。この正式名称をみて、当然気になるのは『悪の組織であるはずのショッカーが標榜する“サステナブル”とか“ハピネス”とはどのようなものなのか?』というところだろう。以下、ショッカーのいう“サステナブル” “ハピネス”は仮面ライダーの存在を前提にすることではじめて成立するのでは、みたいな話をする。

 

映画中で説明されたショッカーの基本理念とは、『最も深い絶望の中にある人を幸福にする』ということだった。そして、ショッカーのいう“最も深い絶望の中にある人”というのは、不当な差別や偏見を受けて苦しんでいる人とか戦争に巻き込まれた民間人といった人たちではなく、『人類に疫病をばらまくという理想を誰にも褒めてもらえない人』とか『現世に絶望して全人類に無理心中を迫る人』とか、あるいはもっとストレートに『人を殺すのが快感の人』などなどの異常者であった(“異常者”なんて単語を曖昧に使うのはあんまりフェアじゃないが、この呼び方が一番しっくりくるので、今のところはこれでいく)。
異常者の信念や嗜好はふつう、大多数の人々からは共感されないばかりか、加害的ですらありがちだ。異常者の信念や嗜好を満足させることは、異常者でない大多数の人々にとっては都合が悪い。そのため、ショッカーが“最も深い絶望の中にある人=異常者”を幸福にするためには、大多数の人々からの無理解・妨害を乗り越えるための強い力を異常者たちにもたらす必要がある。そういうわけでショッカーは異常者たちに改造手術を施し、心身ともに怪人と成してその活動を支援するわけなのだ*1

そんなショッカーが生み出す改造人間のなかでも、秀作だとされるバッタ型改造人間に改造されたのが、主人公・本郷猛だ。しかし、本郷猛は改造人間としての力を、大多数の一般人をしいたげるためでなく、異常者たちを倒して一般人を守るためにふるうことを決意する(ほぼ他人に敷かれたレールだったけど)。怪人として生み出されながら怪人と戦う“仮面ライダー”がここに誕生する……。

 

『シン・仮面ライダー』の何が面白いって、ここに誕生したヒーロー“仮面ライダー”が、一般人の代表、という感じではなく、むしろバリバリ異常者サイドの思考回路を持っているというところだ。
本郷は、いまどきのヒーローにしてはまあまあ珍しく、『家族や友人などを助けるのではなくぜんぜん知らない人を助けるのが正義』『無辜の人々を守りたい』みたいなことを考えている理想主義者だ。そして、その理想を叶えるために、いつまでも抽象的な次元でくよくよ悩んでいる*2
本郷の悩みは、『人を助ける』『人を守る』と、内容だけはまともだが、理想主義すぎるうえに、悩み方がどうも抽象的でいまいち共感しづらい。本郷みたいな悩み方をする人間はまあまあレアだと私は思う(実際レアなのかどうかはアンケートでもとってみないことにはわからんかもやけどね)。レアで、かつ共感しづらいという点において、本郷は立派な異常者だと、私としては位置づけたい。
なおかつ、本郷が上記のような悩みを持つに至ったのは、彼が改造人間にされたあとではなく、もっとずっと前のある事件がきっかけらしい。また、本郷がショッカーに改造されたのは、本郷が上記のような悩みを持っていることを知っていた緑川博士の差し金によるらしい。彼は改造によってのみ異常な人間になったわけではなく、最初から異常な人間だったからこそ改造されたのだ。

 

本郷が異常な人間であり、異常な欲望を満たすために仮面ライダーとして戦っているのであれば、仮面ライダーと怪人との戦いとは、一般人代表が異常者から社会を守るための戦いにはなりえない。むしろ、社会からまるで外れたところで異常者同士がどつきあっている、という戦いになる。
そして、おそろしいことに、『異常者が異常な欲望を満たせるように支援する』という意味において、ショッカーが本郷を改造したことは全く狙いを外していない。むしろ、本郷が仮面ライダーとして戦うことは完全にショッカーの理想の通りだ。

 

仮面ライダーの存在が、ショッカーの理想を否定するどころか、体現していた……それに本郷自身が気づいたとき、本郷は怒ったり悔しがったりするのだろうか?
確信はないが、たぶんあんまり怒らないし悔しがらないと思う。本郷って個々の怪人が一般人をしいたげたときに激怒しているだけで、ショッカーという組織自体に対してはとくべつ思うとことがないのではないか?
それというのも、この映画の終盤で唐突に登場するテーゼとして、『絶望は多くの人が等しく経験するが、その絶望の乗り越え方は人によって違う』というものがあるからだ。異常者を異常者たらしめるはずのものであった“絶望”が、実はありふれたものであるとするならば。“異常者”が思っているほど異常ではなかったとするならば。『異常者を幸福にする』という理想のもとにショッカーが生まれてくるような社会は、病んだ社会ではなく、ごく正常な社会である(人工知能が答えを出すまでもなく、ただの人間である名もなき大富豪が『異常者を幸福にする』という理想にたどり着いていたことを想起せよ)。
ショッカーが生まれるような社会はわりと正常である、ということを、いち異常者である本郷が理解していないとは考えづらい。だとすれば、社会が生んだ必然的な帰結としてのショッカーに対して、本郷は激怒できないのではないか。

 

対するショッカーは、仮面ライダーという怪人が登場したことに、怒ったり悔しがったりするのだろうか?
たぶん、ショッカーの本体?としての人工知能Iは、あんまり怒ったり悔しがったりしてないと思う。それどころか、仮面ライダーが登場することは人工知能Iの計算通りだったのではないか?
考えてもみよう。大多数の人々から共感されず、むしろ妨害されるレベルの異常な欲望というのは、それを満たすために過大なコストを要求するものだ。人類を破滅に導くような欲望を満たすためには、多くの犠牲者を用意する必要がある。ところが、人口は無限ではなく、犠牲にできる一般人の数には限りがある。ショッカーが多くの異常者をいたずらに支援し続けると、犠牲にできる一般人が足りなくなってしまい、『異常者を幸福にする』という本来の目的を継続できなくなってしまう。世界最高の人工知能Iは、こんな単純な落とし穴にも気づかなかったのだろうか?
いや、人工知能Iは、『異常者を幸福にする』という基本理念を崩さずに、なおかつ異常者を適度に間引いて定数増大を抑える秘策を考慮していたのではないか。その秘策とは、『異常者を異常な欲望のままにどつきあわせる』というプランだったのではないか。このどつきあい、具体的に言えば、もちろん、仮面ライダーと怪人との戦いのことである。

 

まとめると、仮面ライダーという存在はショッカーの基本理念とは衝突しておらず、また、ショッカーの基本理念をサステナブルに実現するための最後のパーツとして仮面ライダーは必要不可欠なのだ。ここにおいて、仮面ライダーは秀作どころか、ショッカーの最高傑作と言っていい怪人だ。
ショッカーのやろうとしていることは、一見、異常者の野放図な暴走を許しているように見えて、実のところ、異常者の欲望を長期的に満たし続けるための作戦行動なのだ。ショッカーの行動によって、異常者が異常なままで生きられる場所が社会の外側に作られる。なおかつ、そこは社会の外側とは言っても、断続的に社会とのかかわりは生まれ続ける(異常な欲望にはコストがいるので)。エクスクルーシブなようでいて、長い目で見ればインクルーシブ。よく考えられた異常者福祉の在り方がここにはある(こんなのが福祉なわけあるか!)。

 

ショッカーの作戦に対してまだ懸念が残っているとすれば、怪人の数に対して仮面ライダーの数が少なすぎる――本郷が死んだらすぐ瓦解する――というのがある。しかし、そこはほかならぬ本郷がいい解決策を出してくれた。理想主義者である本郷はホイホイ肉体を棄てるので、『仮面ライダーの本質は人間ではなくコスチュームに宿る』というテーゼが成立したのだ。このテーゼは、仮面ライダーというヒーローがわりと簡単に(簡単にではないけど)継承できるという状況を作り出す。たとえ本郷が死んでも、誰かが跡を継ぐことができる。怪人と仮面ライダーとの戦いを永遠に続けることができる。
本郷から一文字へと、“仮面ライダー”が無事継承されたラストシーンでは、観客は『仮面ライダーの物語の完結』ではなく、『仮面ライダーのシリーズ化の保証』を感じ取ることになる。ここで、『シン・仮面ライダー』はテレビドラマ第1作『仮面ライダー』の批評であるのみならず、「仮面ライダーシリーズ」の批評、ひいては“ヒーローもの”というジャンル全体に対する批評としての意味すら持つことになったのだ。50周年記念作品は伊達じゃないな!*3

 

 


もう一度言っておくが、私は私が理解したショッカーの理念に、賛同しているわけでも許容しているわけでもない。

*1:世が世ならショッカーは吉良吉影言峰綺礼を最優先で支援していただろう。

*2:本郷が敵の怪人から「お前はルリ子と寝たのか?」と訊かれて、ルリ子との肉体関係を否定するシーンがある。本郷の性格とか悩みとかを考える限り、本郷がルリ子と寝なかった理由は、本郷がジェントルマンであったからとかでは全然なく、守るべき相手との間に親族関係が発生することが本郷の理想に合致しないから、というエゴイスティックな理由だろう。

*3:『ヒーローを継承するシステムの成立までの物語』として見るなら、『シン・仮面ライダー』と近い時期に公開された『グリッドマン ユニバース』も、『シン・仮面ライダー』とは対照的な理念をみせていて非常に興味深いと思う。いつか『グリッドマン ユニバース』についても語りたいね。