しぐれういは神やぞ

今は11人からなる諸兄にあらせられてはよくご存じの通り、およそこの世の真理というもののありさまを決定するメタ真理と言うべきものがこの世には存在する。メタ真理の一つは、12音からあらわされる真理は凡て、2つ以上の神性の間の幸福なケコーンによって説明されうるというものである。つまりはこういうことだ。

ウルトラの父がいる
ウルトラの母がいる
そして三重にはういがいる

おわかりいただけただろうか。
きっともうおわかりいただけていることだろうが、この記事は、しぐれういが神であるというおよそ疑いえない言明に対する根拠として「ある2つ以上の要素の混淆の結果としてしぐれういが誕生した」という偽りの歴史を与えようとする記事である*1

 

1

はたして、なぜ“偽りの”歴史?
それは学の文理を問わず大昔から行われ続けてきたことだ。我々が個々に向き合っている否定しようのない現実を説明しうる、唯一妥当な歴史を――しかし本当には起こっていない歴史を――戦略的・戦術的に創作していく、ということは、12,000年の昔から行われ続けてきた。12,000年の昔から行われ続けてきたこの愚行には、手管があり、作法もある。私は行儀のいい人間であるから、今日うい先生に偽りの歴史を与えるにあたっては、古くからの作法に従って、この偽りの歴史を歴史ではなく神話と呼びならわすことにしよう。うい先生には神話になっていただこう。どうして神話にならないのしぐれうい!?

 

2

通常、神であるとはみなされないところのものに神性を見出すことはまだ簡単だが、疑いなく神であるところのものに神性を見出すことはいささか難題だ。さて、我々は当然神であるうい先生のなかにいかにして神性を見出すのだろうか。
この記事では、うい先生の声……おそらく萌え声と呼んでも差し支えないであろうかのお可愛らしい声を諸兄に想起させることで、この難事を達成したいと思う。
さあ、想像せよ、うい先生のお声を。例えば、何かに敗北して悔しがるうい先生が
くしょがよぉ
とのたまっているお声を想像するのだ。例えば、救いようのない何かを目撃したうい先生が
きっつ
とのたまっているお声を想像するのだ。実際のところ、戦いと勝利の女神であるところのうい先生が何かに敗北したり対処法を失ったりすることは考えられないため、これらの声は我々の純然たる妄想の産物に過ぎないのだが、これら妄想の産物でさえ現実の記憶かのように我々をくすりとさせるのはなぜだろう。我々自身が16歳であったときの世界への遠く柔らかな親しみ――懐かしい想い――が我々をとらえるのはなぜだろう。実はうい先生のお声には、我々をして微笑ませ懐かしがらせる独特の可愛らしさがあり、その可愛らしさを紐解くことにこそうい先生の神性を語る道があるのだ。

 

3

そもさん、萌え声とはいかなるものであったか。

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その声は、一方では、喉の意識的な制御によって生じうる人工的な声色だ。努めて高く、芯の抜けた声を出して人に聞かせ、自分に関して悪からぬ印象を与えようという意図のもとに萌え声が出されることはままある。話をうい先生に限っても、そうした人工性を声の背景に読み取ることは可能である。うい先生が意図してJJの声を創造してみせるときであるとかロリういの声を創造してみせるとき、もともと柔らかいうい先生の声がなおさら高く芯が抜けた調子になることから示唆されるように、高く芯の抜けた声という特徴は人を喜ばせる音色として意識的に選択される場合がある。

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その声は、他方では、ある種の油断によって生じうるごく自然的な声色でもある。緊張が切れたときであるとか、周りに警戒すべき人や物がなくリラックスしたときにふと、高く芯の抜けた声が漏れ出てくる、ということはままある。話をうい先生に限っても、そうした飾らない自然さを声の背景に読み取ることはやはり可能である。というのも、うい先生が予定外に配信を長引かせ疲れや眠気を増してきたときに、もとよりふわふわした滑舌がよりふわふわとしていくことから示唆されるように、高く芯の抜けた声という特徴は緊張の糸が切れたときに無意識に実現する場合がある。

 

実際のところどうなのか――うい先生は萌え声を意識して作っている人なのか、それとも自然体がむしろ一番萌え声になる人なのか――という二者択一の疑問を、私は取り上げない。躍起になってその疑問に答えを与えようとすることはさほど有益ではないだろう。
答えることが困難でもある。Vtuberであるうい先生は、しぐれういを演じるプロフェッショナルな演者であると同時に、演じられるキャラクター“しぐれうい”そのものでもある。うい先生の声が『作られたものである』場合と『自然体である』場合とは同時にすら成り立ちうる*2
我々はこの二者択一に性急に答えを出そうとするのではなく、二つの可能性が見えて容易には答えが定まらないという点にこそうい先生の本質を認めるべきだ。すなわち、あるいは人工的かもしれず、あるいは自然体かもしれない声だからこそ、萌え声は我々を微笑ませるのだと*3

 

4

どちらともつかない二者の可能性が我々をして微笑ませるとはどういうことか。
我々が性急な択一を避けて、二者の可能性のうちのどちらをも消し去らずにいるにはどうすればいいか。また、二者の可能性をパラレルで無関係な性質とはせず、あくまで互いが互いの対立項でもあるかたちのまま併存させるにはどうすればいいか。
こんなとき、問題をなんでもかんでも切り分け白黒つけてきた合理主義的な思考は、我々にとって少し都合が悪い。ソクラテス以前、あるいはキリスト教以前・ゾロアスター教以前に発想の種を求めよう。もう少し具体的に言うなら、ギリシャ神話や故事成語から適当な単語を引っ張ってこよう。そうすれば我々は、ありきたりな二者択一の発想を超越して……はいないが、二者択一の発想に陥ることを避けながら、「なんかうまいこと言ってる感」を出すことができる。それっぽい単語集はギリシャか中国に眠っているのだ。
つまりは、我々はこれから、うい先生の声に潜むどちらともつかない二者の可能性を、ギリシャ神話っぽいフレーバーで整理してみよう。

 

可愛らしさとは、一方では人工的であるべきものだ。任意の美少女が誰か特定の相手を意識して(好きとか嫌いとかまでいかずとも、名前と個性を持った特定の人物として意識して)話しかけるとき、その美少女の声に『彼女自身を可愛らしく見せよう』という意図が含まれていることは、とりもなおさず『相手に可愛らしく見られたい』という(最低限の)意識があることを意味する。この意識は言い換えるなら、美少女から相手への最も広い意味での好意にほかならない*4。美少女から、なんらかの社会的コミュニケーションを行ってもいいかと思えるくらいに意識してもらえた証左として人工的な声色を美少女から聞くとするならば、それは我々にとって喜ばしいことだ。装い、作り上げた姿こそ、可愛らしい。この、ある意味では媚態にも近いが、その実、衷心からの好意を証明するところの可愛らしさを、我々はセレーネ性と呼ぼう。
可愛らしさとは、一方では自然体であるべきものだ。任意の美少女がもし、ショーアップされた状況においてその状況にはそぐわないふわふわした声を出したとするなら、その美少女がショーアップされた状況に対して過度な緊張を持っていないことを意味する。このように緊張を切らしていることは、彼女を取り巻く環境や相手に安心あるいは油断している……その環境やその相手は多少油断してもいいくらいには心やすい間柄であるということにほかならない。美少女から、まあ極度に取り繕う必要はないかと思えるくらいに安心された証左として自然体の声色を美少女から聞くとするならば、それもまた我々にとって喜ばしいことだ。飾らない、気を抜いた姿こそ、可愛らしい。この、ある意味では怠惰にも近いが、その実、染みついた安心感を証明するところの可愛らしさを、我々はアルテミス性と呼ぼう。

 

5

我々はときに、うい先生のうちにかの月神セレーネを見出すだろう。
セレーネとは、夜(の空)を駆け、地上の生き物たちに広く光を投げかける成熟した女性である。ギリシャ神話であるから大量の異同があるものの、その大まかな性格は、好意を持っている相手から好意を持たれるよう自ら努めること、優しいこと、心を開いていることにおおむね集約されるだろう。
セレーネのよく知られたエピソードといえば、エンデュミオンとの恋のエピソードだ*5
美男子エンデュミオンと恋仲になったセレーネは、しかし人間であるエンデュミオンとの結婚を認められず、ゼウスの力を借りて(あるいは自分の力で)エンデュミオンを覚めることのない眠りにつかせる。眠りについたエンデュミオンはもはや死ぬことはなくなり、その美貌を衰えさせることもなくなったが、さりとて二度とセレーネと対面して話してもくれない。セレーネはいまもときおりエンデュミオンが眠る場所を訪れては、二度と目覚めることのない恋人を前にしてため息を重ねているらしい。

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目を開かず、相槌をうつこともできない人物に対してセレーネが一方的にため息を聞かせるしかなかったこのエピソードは、すでに知っている方も多いだろうが、ASMRの発祥を物語ったものでもある。ASMRがこのセレーネのエピソードから生まれたことを考えると、ASMRがしばしば眠りにつこうとしている人を向けて作られること、また、うい先生があえて『睡眠用ではない』ASMRを企画したことなどは示唆的だ。うい先生は、セレーネの後裔であるよりかはセレーネそのひととしてASMRを行ったのである。
リスナーは恋人では全くないだろうが、まあ最低限の好意を持っている人物ではあって、その人物が決してうい先生に言葉を返さないときにセレーネが行うであろうこととして、声を聴かせる……声には飽き足らず、より多くの質感がこもった空気を与える行為が当然選択されたわけなのだ。

 

6

我々はときに、うい先生のうちにかの月神アルテミスを見出すだろう。
アルテミスとは、狩りの達人であり、侍女たちを引き連れて山野を駆けまわっては動物たちやときには人間にも逃れられない矢を射かける処女である。その大まかな性格は、気高いこと、自らのプライバシーを犯すものに対して苛烈なほどに厳しいことにおおむね集約されるだろう。
アルテミスのよく知られたエピソードといえば、アクタイオンを罰したエピソードだ。
アクタイオンは猟犬を連れての狩りの最中、偶然アルテミスが水浴びしている場面に遭遇してしまったのだが、アルテミスは彼に大いに怒り、彼がアルテミスの様子など言いふらすことができないよう、アクタイオンを鹿に変えて、なおかつ彼自身の猟犬に八つ裂きにさせたという。

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素を見られたアルテミスが見た者を苛烈なほどに罰するこのエピソードは、「アルテミスは素なんか見せない」という特徴を「実際に素が見られてしまう」という事件によって逆説的に強調する。うい先生の歌枠でみられる設定の一つ「一人カラオケだけど配信はしている」という逆説的な事実は明らかにこのアルテミスのエピソードをなぞったものであり、つまりはうい先生がアルテミス自身であることの傍証でもある*6

 

7

その正体が人工性と自然さであるならば、セレーネ性とアルテミス性はそれぞれがそれぞれの対立項としてあらわれる。しかしながら、セレーネとアルテミスはともに月の女神であり同一視されることすらある、という神話的事実は我々にこんな発想を抱かせもする。セレーネ性とアルテミス性は水と油でもあるが、セレーネ性から生み出されるところのアルテミス性やアルテミス性から生み出されるところのセレーネ性もあるのではないか。あるいは、セレーネ性からしか生み出されえないところのアルテミス性、アルテミス性からしか生み出されないところのセレーネ性もあるのではないか。
ならば、アルテミス性がセレーネ性に容易にハックされ、セレーネ性がアルテミス性に容易にハックされる、という事実に今度は注目しよう。つまり、『自然体は可愛さとみなしうる』というルールを踏まえたうえでの『作られた怠惰さ』としてのアルテミス性(セレーネ性)や、『可愛さとは人工的なものである』というルールに取り込まれたうえでの『意図せざる媚態』としてのセレーネ性(アルテミス性)が存在しうるということだ。
いや、上の言い方は多少ミスリーディングだ。我々が日々直面している事態のなかで『本当はセレーネ性であるところのアルテミス性ある』とか『本当はアルテミス性であるところのセレーネ性ある』とかいった真実が重要なのではない、むしろ『あらゆるセレーネ性はアルテミス性の変形である可能性がぬぐえない』とか『あらゆるアルテミス性はセレーネ性の変形である可能性がぬぐえない』とかいった決定不能性が重要なのだ。セレーネ性とアルテミス性という2種の可愛らしさはそれぞれがその否定形に還元されうる可能性を持っており、なればこそ、両者は互いにとっての対立項ではあるが排反ではない。
セレーネ性はアルテミス性の否定としても機能するが、見方を変えるとそれ自体アルテミス性にもなりうる。アルテミス性はセレーネ性の否定としても機能するが、見方を変えるとそれ自体セレーネ性にもなりうる。このとき、我々は我々自身の思考をして、ついつい二者択一と還元主義に傾きがちな合理主義の枠組みから少しだけ距離をとらせ、二者の可能性が入れ替わり続ける神話の枠組みへと誘導できるだろう。

 

まとめるならば、いま我々が導入しようとしているところの「セレーネ性 / アルテミス性」とは、排反なものではなく、また静的な二分法でもない。むしろ、互いが互いの対立項ではあるが両立可能でもあり、不断に両者が入れ替わる動的なバランスにある。
付け加えるならば、「セレーネ性 / アルテミス性」とは、我々が日頃直面している可愛らしさをシンプルに二つに分類する“解”ではなく、むしろ、見方の違いでどちらともみなせるが、どちらとみなす見方にもいちおうの納得感があるようなひとつの“解法”なのだ。

 

互いの対立項である2種の特徴が互いを生み出しもする、といった理解が可能だとして、この理解は与えられた事態〈うい先生の声可愛らしい〉から演繹的に妥当な結論でも帰納的に妥当な結論でもない。というのは、〈うい先生の声可愛らしい〉という事態から他の理解でなくこの理解だけが際立って導きやすいというわけではなく、また、この理解を用いることで〈うい先生の声可愛らしい〉という事態を含めたより多くの事態をシンプルかつ整合的に説明しやすいというわけでもないからだ。この理解に対して現状下しうる評価は、せいぜい「そんな考え方もありますね」というだけの評価だ。だからこそ、我々は真実としてよりかは偽りとして、この理解を用いよう。冷静に月を観察したときではなく、月に見とれたとき、我々はもっと高い次元の虚偽に到達できるのだ。
我々の偽りの歴史のなかで、セレーネ性はアルテミス性のなかから、アルテミス性はセレーネ性のなかから常に生まれてきたのだ。新月が次の満月を、満月が次の新月を、いつも呼び寄せるように……。

 

8

科学理論が安直な当てはめゲームを拒否できたとしても、神話はそのように当てはめゲームを拒否できない。神話というものは尻軽で、たとえ私が引用しなくとも、あらゆる分野へと無際限に野放図に引用されていく。
我々が認めんとするところの偽りの歴史、セレーネ性とアルテミス性とが互いの対立項でありながら互いを生み出してきたという神話もまた、うい先生やVtuberに限らずなんにでも安直に当てはめ可能だ。
例えば、『オタクに優しいギャル』なるものに、アルテミス性がセレーネ性をハックしたという背景をでっちあげることは可能ではないだろうか。
その昔、ギャルというものは(どちらかといえば)オタクが怖がり避けるところのものだった。オタクがギャルを怖がり避けてきた原因のひとつはおそらく、ギャルというものが、意図して作り上げた人工的な装いの極致(しかも、それは男性へのアピールを意図したものではない)であったことであろう。派手なメイク・染髪等によって大げさに作り上げられた人工的な姿は『黒髪ロング』などのいかにもな自然体清楚と比較して明らかに嫌がられるものであったというわけだ*7。しかしながら、そうしたギャルへのネガティブな印象はいとも簡単に反転しうるだろう。一つの可能性としては、ギャルがもともと具えていた人工的な性質が『非-アルテミス性』ではなく『セレーネ性』としてストレートに評価されるようになった、というシナリオ。もう一つの可能性としては、ギャルの装う意図が男性には向いていないということが自己目的的な在り方として、つまりは一種の自然体の可愛らしさ『アルテミス性』として評価されるようになった、というシナリオ。いずれにせよ、『かつては可愛いものではなかったギャルがいまは可愛いものである』という現代を説明する偽りの歴史がここには成り立つ*8
そう、私が『かつては可愛いものではなかったギャルがいまは可愛いものである』という逆転現象に対していま与えようとしている説明というのは、あきれるほど当たり前の話、せいぜい『ものは言いよう』レベルの話であって、私はこのあきれるほどの当たり前さのなかに可愛らしさの逆説を埋め立てようとしている。神話の影はいつだってどこにだって潜んでいる。その遍在は未来をも例外とはしないだろう。これからも可愛さの定番は当然のように反転し続け螺旋を描いていく……。

 

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そういえばうい先生も語っている。「昔は靴下長めのJKのほうが好きだったけど、最近じゃ靴下もくるぶしぐらい短いのが流行ってきているみたいで、実際に短い靴下をはいている夏のJKを見てみるといいものだ」とかなんとか……。可愛さのパラダイムが絶え間なく逆転する神話があったとして、我々も、うい先生も、この神話に対して俯瞰する立場にはなく、ときに可愛さのパラダイムを能動的にハックし、ときに可愛さのパラダイムの変化を素直に受け入れる神話の登場人物に過ぎない。この神話の登場人物のなかでも広範な影響力を持つ者は神絵師とか神とか呼ばれるべきところではあるが、その点しぐれういはやっぱり神やねんぞ*9

*1:というのは真っ赤な嘘だ。この記事を書くにあたっての表テーマは『うい先生の声いい』という話であり、裏テーマもあるがこれまた神性云々とは別の話であって、神性云々の話は正直私はどうでもいいと思いながら書いている。実際にこの記事中もよく読むと神性云々の話の論理展開はきちんとつながっていないことがわかるだろう。

*2:Vtuber全般において、この読み――Vtuberが演じるものであると同時に演じられるものであるという読み――がただちに意味を成すわけではないだろう。今日の状況にあっても、私はある種のVtuberが演者の存在を前提とせず単体で成立するフィクショナルなキャラクターであることを要請するから。フィクションのキャラクター全般に対して『演者がどうこう』という読みをかませて論じようとするのは愚かだというべきだ。
しかし、うい先生を他のVtuberと比較して際立った神性をそこに見出すうえでは、『演者であると同時に演じられるところのものでもある』という読みは必ずしもナンセンスではないと信じたい。というのも、うい先生は“Vtuberしぐれうい”というキャラクターをフィクショナルに確立する前から一定の業績を持ついちイラストレーターであり、あくまで『イラストレーターがVtuberをしている』という設定(客観的事実)のもとでVtuberを行っているからだ。『(定義上)Vtuberである / Vtuberをやっているしぐれうい』が存在するとき、不可避に『(定義上)Vtuberであるとは限らない / Vtuberをやろうとしているしぐれうい』も存在することになる。

*3:と、書いてはみたものの、我々は“萌え声”なるものの定義を、内包的にあるいは外延的にいかにして表現するのかという問題はずっと私を悩ませていて、正直なところ答えも出ていない。人の声の特徴ってどのような概念やどのような基準で分類していけばいいのだろう?

*4:だがそれはあくまで広い意味での好意だ。仮に美少女から作り声で話しかけられたとして、その美少女から最も狭い意味での好意――恋愛感情――を抱かれていると確信するような人がいたら、その人はやべー人だ。言うまでもなかったか?

*5:というか、セレーネのエピソードだと断言できるエピソードがギリシャ神話にはそもそも少ない。

*6:うい先生がアルテミスであったならば、地上に生きるものが誰一人避けることができないアルテミスの矢に相当する光学兵器をうい先生が持っている、ということは容易に予想される。はたして、それはどんなビームであるのだろう?

*7:議論の内容とは全然関係ないが、うい先生は黒髪ロングと金髪ツインテだったら黒髪ロング派らしい。

*8:ところで、その生まれてきた経緯がフィクショナルなものである以上、生み出された概念であるところの『オタクに優しいギャル』『オタクが嫌がるギャル』もフィクションに過ぎない、ということは想像に難くない。『オタクに優しいギャル』も『オタクが嫌がるギャル』もオタクの想像の中にいるものであって、現実はきっとそんな想像とは違って容易なパターン分けを受け付けない。

*9:これはべつに余談なのだが、この記事の裏テーマというのは、「論理の観点からいって必要なわけでも説明の観点からいってわかりやすいわけでもない不法な論理展開をどれだけ堂々と行えるか」というところにある。言い換えれば、「私はどのような下準備のうえで、神話モチーフを無意味に引用できるだろうか」というところが私がこの記事を書く動機ではある。はたして、うい先生が神であると主張するうえで、また、萌え声の性質を探るうえで、ギリシャ神話から用語を引っ張ってきたことにはどれだけの意味があった / なかっただろうか? わざわざセレーネやアルテミスを持ち出さなくても、往年のツンデレ論を改鋳するとかでじゅうぶん語れる内容だったのだろうか、この記事の内容は?