貞子DX / すずめの戸締まり の感想など

ネタバレはある。

 

 

ふたつ連続で映画を観ると、めっちゃ似たような映画だったな~と錯覚するとき、あるよね。

貞子DX

最近『貞子DX』を観たんだが、これがすごく面白かった。なんかいろいろと面白いところがあったけれど、なかでもひとつ、特にぐっときたのが、この映画の主人公である天才女子大生・一条文華というキャラクターがやたら面白おかしく描かれていたところだった。

一条文華さん、それはもうコテコテの“天才キャラ”として描かれている。彼女は天才なのでIQが200ある(いまどきIQがどうこうとか言っているのがもうすでに面白い)。彼女は天才なので自然科学を信奉している。「この世には科学で説明できないことがある」と主張する霊媒師に対して、彼女は「この世のすべては科学によって説明できる」と反論する。しかし彼女は天才なので説明がとてもそれっぽい。彼女の口から出てくるのは、『プラセボ効果』や『サブリミナル効果』といったいかにもな科学用語ばかりである……。

↑『貞子DX』のポスター もちろん「E=mc^2」はストーリーとは全く関係ない

あまり回りくどい言い方をしても皮肉っぽく聞こえるだけだし、ここはひとつ、はっきりと言おう。『貞子DX』の主人公は“天才キャラ”なのだが、彼女が「どのくらい天才なのか」「どういうタイプの天才なのか」「頭の良さを事件解決にどう役立てるのか」「そもそも頭が良いとはどういうことか」という中身はまるで描かれない。とりあえず『すぐに“天才キャラ”だってわかる記号』ばっかりこすってくる。

そんな調子だから、作品全体の雰囲気としては、「なるほど、人間は科学的知識に裏打ちされた実践的知恵によって怪異に対処することができるのか」という態度が感じられるわけではない。むしろ、「へー、おいらは無学だから天才さんの考えてることはよくわかんねえけど、天才さんに任せときゃあ安心なんだね!」という卑屈な態度をしみじみと感じる。われわれ一般人には天才の考えてることなどよくわからないが、天才はまあうまくやってくれているみたいだし、われわれは天才と怪異との戦いを面白おかしいものとして外野から見ていればいいのだ。われわれが貞子という怪異を理解しなくていいのと同様に、われわれは貞子と闘っている一条文華という天才のことも理解する必要はない。

 

さて、このように『貞子DX』は、“天才キャラ”を主人公に据えておきながら、天才を理解せずむしろ遠巻きに見つめるような態度を促すんだが、この態度、監督や脚本家が持っている態度をそのまんま反映しているものである――監督や脚本家が天才に対してすごい偏見を持っているから出てきたものである――とは、あまり思えない。むしろ、監督や脚本家は(それが現実の天才に対して失礼であるとはわかりつつも)あえてコテコテの“天才キャラ”を主人公にしたのではないかと思う。というより、わざとやったと信じたい。

それというのも、『貞子DX』は、貞子という名の、暗がりにあって仕組みがよくわからない怪異を白日のもとにさらすことによってスパッと解決する話ではなく、仕組みがよくわからない怪異を仕組みがよくわからない“おまじない”によってなんかいい感じにしておく話なのだ。

『貞子DX』は、表面上、一条文華さんが科学的思考法によって貞子の仕組みを解き明かしたっぽいテイのストーリーではある。しかし、この文華さんの科学的思考法というのが、冷静に考え直すとあんまり科学的じゃない。このひと、口ではなんかそれっぽい言葉を言っているだけだし、真相究明にかかわる重要なキーワードであっても2, 3回は耳にしないと気づかないし、条件を明確にしないままに雑なトライアル・アンド・エラーを繰り返すし*1……。そして、文華さんが考え抜いて明らかにした『貞子の呪いへの対処法』というのが、化学薬品でもコンピュータプログラムでもなんでもなく*2、「一度呪いのビデオを観てしまった人も、毎日1回呪いのビデオを見直すことで死には至らなくなる」という日常感あふれるものだった。「毎日1回ビデオ観れば死なない」って、それもう「毎日ちゃんとごはん食べたりしっかり睡眠をとったりすれば死なないっぽい」と同じカテゴリのやつじゃん! いや、食事や睡眠とは危険性が段違いだけどさ!

わりとどうでもいい話なんだが、示唆的なのが、この映画、主人公に「科学で何でも説明できる」というポーズをとらせるわりには案外迷信深いこともさせるというか、そこまで科学的ではないおまじないをやたら気にしているふしがある。一条文華さんは「いただきます」「ごちそうさま」はちゃんと言うし、お弁当を残すときにはお弁当に手を合わせながら「あとでちゃんと全部いただきますので……」なんて言ったりもする*3。ちょっと緊迫しているシーンでも「そこは土足禁止だから靴脱いで」っていうセリフが妙にしっかり挟まっていたりもする。極端な話、口では「科学 is パワー」といっておいて、最後には「ご先祖さまは大切にしましょう」とか「お天道様はいつも見ている」とかいった“おまじない”レベルの規範が効力を発揮するのがこの映画なのだ。

なんか微妙に脱線してしまったが、要はこういうことだ……『貞子DX』において「貞子」という“よくわからないもの”を倒すのは、われわれ自身の理性ではない。むしろ、“毎日の習慣”とか“天才キャラ”といった“これはこれでよくわからないもの”をとりあえずあてがっておくことこそが“よくわからないもの”を制するための有効な手段になる。だから、この映画の主人公は、本物の天才であってはいけないし、本物の科学的思考法を駆使してはいけない。「一般人には理解できない」という側面ばかり強調された“天才キャラ”である必要があったし、そのために監督や脚本家は、はっきりと意図して“天才キャラ”を作り上げてみせたのだ*4

 

すずめの戸締まり

しょっぱなからネタバレしていくんだが、『すずめの戸締まり』というのは、地脈みたいな災いの化身みたいな謎の自然神“みみず”が放っておくと大地震を起こしてしまうので、古来より日本を守り続けてきた秘密の専門家“閉じ師”が日本全国めぐりながらこの神を鎮めていく、みたいな話だ。いや、他にもいろいろと込み入っていたけど……。

最近、知り合いとこの映画の感想など話す機会があった。その知り合いは「実は、日本で起きている地震はある特定の神のしわざである」という部分であるとか「地震は人間のはたらきによって未然に防ぐことができる」という部分であるとかを評して、『すずめの戸締まり』を“陰謀論的な映画”であると評していた。

彼が言わんとしているところはよくわかる、私も『すずめの戸締まり』を“陰謀論的な映画”と評することは妥当だと思う。しかし、ちょっと見方を変えれば、“陰謀論とは対極にある映画”と評してみることも、またひとつ可能ではないか、などと思っている。

↑『すずめの戸締まり』のポスター 椅子は関係ある

というのも、この映画では、地震という出来事の原因は、プレートテクトニクスプルームテクトニクスではなく、神々に帰せられているのだ。それも、人間の罪に対して激怒して災いを起こすタイプの単一神ではなく、基本的に何考えてんだかよくわからない自然神だ。この映画において「地震は神のしわざ」という“説明”は完全な理解をするための“説明”ではなく、むしろ完全な理解をあきらめるための“説明”という感じがする。実際、劇中で主人公のひとりである“閉じ師”の宗像草太さんは「気まぐれは神の本質」であるのだとはっきりと口にしている。何を考えているんだかわからない自然神が災いを振りまくとき、人間たちは有職故実にしたがって対処をしていくしかない。有職故実に従っても駄目なら、なんか適当にいろいろな手段を試してみて、たまたまうまくいくのを期待するしかない。もしうまくいったら後世のために記録に残してあげよう。

つまり、この映画において、”みみず”という神を鎮めるのが”閉じ師”という人間の仕事になっているのは、「人類は地震の原因も完璧な対処法も理解している」という自信のあらわれではなく、むしろ逆、「人類には地震の根本原因なんてどうせわかりっこない」というあきらめの反映なのではないだろうか。だとすれば、そのあきらめがちな態度――反知性主義的な態度と言ってもいいかもしれない――は、(性急さゆえに間違いやすかったとしても)いちおうものごとの真相を理解しようとすることに本質がある『陰謀論』とは対極に位置する態度だ。

 

ところで、“みみず”という“よくわからないもの”に対して有職故実などなどの”これはこれでよくわからないもの”をもって対処する、というのは、『すずめの戸締まり』が『貞子DX』と意外に似ているところかもしれない。もうちょっと補足しておくと、『すずめの戸締まり』のラストバトル(?)においては、この映画を象徴するセリフである「行ってきます」を筆頭に「ただいま」や「いただきます」などなど、日常を象徴する決まり文句が大量に聞こえてくる演出がある。”みみず”とか”閉じ師”とか非日常的な色付けが表面的には施されていても、やはり最後に力を発揮するのは、「毎日『行ってきます』と言う」みたいな”おまじない”レベルの規範なのだ……はさすがにちょっと言い過ぎか。

ただ、”おまじない”レベルの規範が効力を発揮する、とか、世の人々は根本的な理解をあきらめたうえで怪異に対処しようとしていく、といった態度のうちに両者の類似点を発見するにしても、現場で怪異に対処していく専門職のひとに対して世の人々がどのように振る舞っているか、という点で両者には際立った差異もある。

『貞子DX』においては、世の人々は一条文華さんという人間の存在をわりにはっきりと認識したうえで、自分たちには理解の及ばない”天才キャラ”として彼女を取り扱っていた。そうした取り扱いは、映画中では、たくさんの人々がSNS上で無責任に一条文華さんを持ち上げたり霊媒師との対決構図をあおったりする、というシーンとして描かれた。一方、『すずめの戸締まり』では世の人々は”閉じ師”なる人間たちの存在を端的に知らない。一般人たちは、『貞子DX』において”天才キャラ”を持ち上げたり焚きつけたりしていた人々よりもいっそう無自覚に、”閉じ師”という人間たちの不可視化に貢献している(知らないんだから「不可視化に貢献している」などと批判されようがなんとも応答しようがないのだが)。”閉じ師”がなぜ現代において秘密の仕事と化しているのか、という理由は劇中でははっきりとはわからないが、おそらくは過去、世の人々の側から、怪異を自分自身で根本的に理解することをいやがって一部の人の専門職として丸投げしたがった傾向もあるのだろうし、また、閉じ師の側としても、縁起の悪いものは隠しておいて一部の人だけでその対処を引き受けたほうが仕事をしやすい、という要請もあったのだろう。そんな憶測をすると、”閉じ師”とは、かつては”天才キャラ”みたいな扱いを受けていた人々の成れの果て、あるいはいずれ”天才キャラ”みたいな扱いを受けることになる人々の予感でもあるのかもしれない*5

 

いつの時代であれ、“よくわからないもの”は“これはこれでよくわからないもの”に対処させるに限る。もっと露悪的に言えば、バケモンにはバケモンをぶつけるのだ。貞子が出たら“天才キャラ”をぶつけるし、”みみず”が出たら”閉じ師”をぶつけるし、ゴジラが出たらコングをぶつけるし、グリーザが出たらデルタライズクローをぶつける。大事なのは、いつだって怪異に対処するのはわれわれ自身ではないということだ*6

 

”天才キャラ”や”閉じ師”のうちに、そして彼らを理解したがらずに怪異への対処を丸投げしてきたのかもしれない世の人々(しばしばわれわれ自身に擬せられる)のうちに、ある種のあきらめの匂いを嗅ぎとるのは、まあまあ屈辱的なことだ。口で「科学で説明できる」と述べることでさえ、状況によっては、内容と裏腹に反知性主義に与する言説と化してしまうかもしれないというのは、まあまあ悲しいことだ。しかし、こういった反知性主義は少なくとも陰謀論よりはマシではある。ほんとうは、『反知性主義 or 陰謀論』という極端すぎる二択に傾くのは私だっていやだ。「人々自身が自分の言葉で理解している知識には限りがあるが、ゼロではないし、これから増える」といった穏健な漸進主義を採りたい。しかし、自分自身がそうした穏健な漸進主義を採っていると確信できるほど傲慢な人間になることは、この複雑な現代社会では難しい*7陰謀論に対する雑な安全弁として、私は反知性主義を選ぼう。かくして反知性主義は栄えゆく……。

*1:この過程で何万人何億人の命が危険にさらされます!

*2:クライマックスで、文華さんと同じく“天才キャラ”のチャトランが高速でキーボードをたたいて何かをプログラムするシーンがありますが、そのプログラムは本筋とはもちろん関係ありません!

*3:ま、ピーマンは食べられないから残すんですけど。

*4:つい筆がのって断言してしまったが、もうちょっと冷静に考えると、主人公が本物の天才では本当にダメなのか、監督や脚本家が本当にわざと“天才キャラ”を描いたのか、といったことは(少なくともこの記事の論旨から言えば)なんとも判断できない。「いただきますとかごちそうさまとかいった日々のおまじない」と「毎日呪いのビデオを観続けるというソリューション」と「天才キャラ」とを“これはこれでよくわからないもの”というラベリングで同列だとみなすのは、(私個人はこの見方にけっこう自信があるが)客観的にはいまひとつ根拠が薄い。だから、主人公が天才ではなく“天才キャラ”にとどまっていた理由は、『あえてそうした』からではなく、単に監督や脚本家の頭が悪かったからである、という可能性もなくはない。

*5:いちおう譲歩しておくと、『すずめの戸締まり』における”閉じ師”は、(“天才キャラ”やコングやデルタライズクローほどには)単純に“よくわからないもの”の側にカテゴライズできるわけではない。まず一点、「閉じ師」は科学的な知識に基づいて「みみず」を鎮めているわけではないが、かといっていかなる知識にも基づかずに全くの適当で「みみず」を封じているわけでもない、という点。とくに草太さんは、「閉じ師」として受け継がれてきた封印マニュアルと、おそらくは彼自身が民俗学・地学等々を研究して得たであろう知識との両面で主体的に「みみず」への対処法を探っている気配はある。世の中、自然科学の知識ばかりが知識だというわけではないので、『「閉じ師」だってある種の堅実な知識の積み重ねによって怪異に対処しているのであるから、“よくわからないもの”などではない』という反論は可能だ。ただし、よりによって『閉じ師で受け継がれてきた最重要文献』が読んでみると黒塗りだらけだった、という事情もあるので、私からは『やはり「閉じ師」の本質は怪異の根本的理解とは相反する方向に向かっているのでは?』という再反論を行っておきたい。

もう一点、『すずめの戸締まり』は『よくわからない「みみず」 VS よくわからない「閉じ師」』という単純な関係にとどまらず、「みみず」と「閉じ師」の間に「ダイジン」というポジションが存在しているという点。この「ダイジン」という存在、いちおう神であるらしいのだが、もとは人間であったような示唆もあり、行動原理もところどころ理解可能でところどころ理解不能、さながら神と人間の中間項といった風情がある。この「ダイジン」の存在をも考慮に入れるなら、『よくわからない「みみず」 - ちょっとだけわかる「ダイジン」 - わりとよくわかる「閉じ師」』という関係としてとらえるほうがしっくりくるのかもしれない。

*6:ただ、すずめさんのことを「一般人であるわれわれの代表」として解釈することもそれはそれで可能ではあるだろう。彼女は、”閉じ師”として地震現象の真相”みみず”のことを知っているわけではないからだ。しかし、幼少期から異界には縁があった、ということもあり、すずめさんのことを全面的に一般人代表とみなせるのかは微妙なところだろう。また、東日本大震災という実在の災害の被災者であるという点からは、彼女はわれわれと最も近しい新海キャラだという結論も、われわれから最も共感しづらい新海キャラだという結論も引き出しうるだろう。

*7:「地球人が地球の言葉で理解している知識には限りがあるが、ゼロではないし、これから増える」という穏健な漸進主義を提示しようとはしたが、いまいちぱっとしなかったのが『シン・ウルトラマン』だ。この作品のラストは「地球人がたまたま出会った宇宙人・ウルトラマンが善良な存在だった」という不明な前提に全面的に依存していて、この記事の文脈から言えば、素朴すぎる作品だったとしか言いようがない。