前回:
1
大陸を縦断する巨大な山脈の中でもひときわ高く、雲すら眼下に望む、そんな峰の頂上付近に、赤い瓦葺きの寺院が建っている。この寺院、設定から言えば、拳法の精髄を極めようとする者たちが修行を行うための場、ということになっている。そして、この寺院の境内が、ふだんレイが配信などを行っているエリアでもある。
寺院の本堂の前には石畳が敷かれた大きな中庭が広がっている。石畳のあちこちは、幾千年と人々に踏まれてきた証拠としていびつに削れ、へこんでいる。石畳がとくにへこんでいる一隅はレイが修練をするときの定位置だ。そして、いまこの時もレイはその定位置に一人たたずんでいる。
目を閉じ、身体の芯をしっかり意識して立ち、ゆっくりと深呼吸。息を吐き切って一拍。次、目を開くと同時に、重心を落として身構え、存在しない敵に向かって突きを打ち込む。間髪入れずに上段回し蹴り。反撃を手刀で捌きながら肘鉄を一発。続いて膝蹴り……。
空水彼方との7番勝負の3日目、レイが彼方と戦う日の早朝。レイは、いつもそうしてきたように、この日も日課の演武を行っている。わずかに霧がかった境内で、動いているのはレイだけだ。レイは、何千回何万回と繰り返してきた動きにしか出せない鋭さで、突き・蹴り・その他すべての攻撃を敵に打ち込んでいく。一撃ごとに空気がびりりと震え、レイの頬はゆっくりと上気していく。
15分ほどでレイは演武を終える。直立して息を整えるレイに対して、霧の向こうから近づいてきた人影が声をかける。
「おはよー、レイちゃん。今朝も精が出るね」
「アシルシア先生! おはようございます!」
レイは笑顔で挨拶をして頭を下げる。
現れた人物は、美少女エルフVtuberのアシルシアだ。レイに近づいてくる彼女の歩みに合わせてツインテールがさらさらと音を立てて揺れ、エルフ特有のとがった耳はひょこひょこと角度を変える。
「いやー、レイちゃんが演武をしてるときの動き、いつ見てもほれぼれするねー。さすが私が作った身体」
こう言って満足そうに頷くアシルシアだが、対するレイの表情は少しだけ曇る。
「おかげさまで、いつもいい動きができます! ……そう、いい動き、させてもらってるんですけど……アシルシア先生から見て、私の動きが私の身体のポテンシャルを引き出し切れていないところってありませんか?」
「レイちゃんらしくもない、遠回しに言ったりして。要は、先月の調整だと、身体がレイちゃんの動きについてこれてないんでしょ」
「はい」
「それは正直すぎ」
「すみません!」
「いや、いーよ。たしかに、プロの私から見ても? 調整の余地はまだまだあるかにゃー。いまちょっと見させてもらった感じだと――」
言いながら、アシルシア先生は両手でレイの肘や膝に触れ、曲げ伸ばしをして変形の具合を確かめながらぶつぶつと所見をつぶやき始める。
「正拳突きとかしたとき正中線から少しずれる感じがあるね。やっぱり肩甲骨にあたるボーンの支点はもう少し胸側にずらしたほうがいい感じ? あと膝を曲げたときのぎくしゃく感もけっこう気になる。やっぱり二重関節に戻したほうがいいかなー、でも腿の捻りに関与するボーンこれ以上増やしたくないしなー。あ、足首のIKはけっこうシンプルなやつでもうまくいったよね、これみたいなのを膝にも持ってきて、ついでにシェイプキーで大腿四頭筋の表現も盛っていって……あーでもそれやるならウェイトも塗りなおしたほうがいいし……」
一人の世界に入り込みつつあるアシルシア先生に、レイはさながらお人形のようにもてあそばれる。ここ5年間、アシルシア先生とレイの間で毎月のように行ってきたことではあるのだが、レイはいまだに、これが始まると少し照れて上のほうを向く。そして不思議に感じる。アシルシア先生が、“ボーン”とか“メッシュ”とか“ウェイト”とかいった謎の理論でもってレイの肉体を調整すること。そしてその調整がほかの手段とは比べ物にならないほどレイの肉体の動きを滑らかにすること。
かつて、アシルシア先生はレイに語ったことがある……天上界の論理に当てはめるならば、自分がレイに対してする仕事は医師と鍼灸師と整体師とマッサージ師の仕事を合わせたようなものだ、と。レイはその言葉を聞いて、アシルシア先生よりも前に出会ってきた幾人かの医師や鍼灸師を思い出していた。
医師にせよ鍼灸師にせよ、天上界を見渡せば様々な流派がある。そしてそれぞれの流派はそれぞれに違う見方で人体を分析しアプローチする。ある流派は、人体には4種類の体液が流れていてその循環が身体の調子を決定している、などと考えるし、またある流派は人体表面に無数に存在する“ツボ”と呼ばれるスイッチが身体のあらゆる機能を引き出すと考える。あるいは、ある種の虫が人体に出入りすることがあらゆる心身の好調不調の原因だと考える流派もあるし、はたまた、精神・感情・五感のすべてのはたらきを脳のみに帰する流派すらある。それら無数の流派はどれも、レイのような一般人が見たままに見てとるような仕方とは違う仕方で人体を見つめていたが、どの見方にも一面の真実が含まれていることをレイは認めざるを得なかった。換言すれば、どんな医術でも鍼灸術でも、効くときはわりと効いた。
しかし、これまでレイが出会ってきた医師や鍼灸師のなかでも、アシルシア先生が人体を見つめる見方はとりわけ奇妙だった……先生曰く、人体を構成するものは主に
筋肉も血液も内臓も登場しないどころか、あろうことかマナすら登場しない、そんなアシルシア先生の話しぶりを聞いていると、レイは「なぜこの人が身体を手入れしてくれたときが一番調子がいいんだろう」と当惑の念を新たにするのである。異世界から技術者を迎えるとは、こういうことだ。
そうこうしているうちにアシルシア先生は一通りの調整を終える。
「よーしできた。レイちゃんちょっと動いてみて」
「はい!」
レイは元気よく答え、正拳突きや回し蹴りなどを盛り込んだごく短い演武を即興で舞ってみせる。
「ばっちりです! 手も足も最短距離で敵に届いてる感じがします!」
「それはよかった。まあ、結局あんまり大規模な改修はしないことにしたけどね、それで十分みたい」
「もともと最高のボディだからですね!」
「はは、ありがとう。さあ、そのバージョンのボディはOKとして、
Vtuberレイの身体は一つではない。腕や足や目や耳など、パーツごとにそれぞれ10~50のバリエーションがあり、レイはそのバリエーションを任意に切り替えて組み合わせることができる。そして、この『事前に用意してあるパーツの組み合わせとして自分の身体を作り変えられる』ことこそがレイのアドミンスキルである。要は、自分が支配する空間内で発動できる肉体改造魔法だ。ツバメなどが得意とする一般的な変身魔法とも似ているが、これらとは違って、チャージ時間と遷移時間はほぼゼロで発動でき、魔力消費もほとんどないため、戦闘にはいくぶん役立つスキルである。ただし、肉体に刻まれたダメージはダメージ部位を交換してもそのまま引き継がれるため、回復用途には使えない。
「わがまま言ってごめんなさい! 使うかどうかもわからないのに、急に50人分も」
「いーよ、どんどんわがまま言ってくれて。私も好きでレイちゃんの身体調整してるしさ。それに――」
アシルシア先生は目を細めて笑い、レイの髪をくしゃくしゃとかき乱す。
「レイちゃんだって、彼方さんを倒してそれで終わりじゃないからさ。世界を滅亡の危機から救って、Vtuberも終わりにして、そのあとでもパーツ使うことあるかもしれないじゃん」
「……そっか。私、すぐ目の前の敵のことしか考えてなくて」
「そこがレイちゃんのいいところだけどね。あと、私と少しだけ似ているところ」
「アシルシア先生、いつも感謝してます!」
「ありがとう。さ、次はどの身体にしよっか……」
2
時は流れ、戦闘が開始する19時まで、あと5分。レイの拠点である寺院の塀の周りでは、修行僧らしき風貌の男女が数百人と列をなし、一糸乱れぬ動きで演武を行っている。
トレンチコート姿の女性が、寺院の正門そばの土塀にもたれかかって腕組みをしながら彼らの演武を見つめている。ついさっきこの
やがて、木造りの門扉がその大きさには不釣り合いなほど勢い良く開かれ、レイが顔を出す。
「お、来てるね! 彼方さん……呼び捨てでもいいかな?」
「構わない」
「ありがとう、彼方。さ、入って!」
レイと彼方は連れ立って正門をくぐり、誰もいない中庭を横切って本堂へ向かう。元気のよい足音を響かせながら、レイは彼方に語りかける。
「いつもだったら中庭でも修練をさせてあげてるんだけどね。今日ばっかりは特別!」
「表にいる奴らのことだな。君の
「手駒とは言えないね! あの人たちはもともと、この半独立空間を作ったときに、雰囲気づくりとか言ってローチカ博士が置いといてくれたNPC。容姿だけこっちでカスタムして、あとは放っておいたら勝手に修行してる。たまにNPC同士で組み手もするし、各個が自律的に判断して上達・進化もする。でも、私たち本物の人間と戦わせるような命令は無理。だから安心してよ、私はレンラーラみたいなことはできないから!」
「助かるな、楽勝の相手とばかり連戦にはなりたくない」
「手厳しいね!」
そのうちに2人は本堂に入っていく。
正面の扉を入ると、いきなり40m四方ほどの広間が広がっている。どうやら本堂の面積はほとんどこの広間で占められているらしい。
床は屋外と同じで石畳。ただ屋外よりはずっと平滑に加工されている。向かって奥側の壁には凝ったデザインの透かし窓がいくつもあけられていて、広間の隅々までほどよく外光が差し込む。両脇に当たる壁は全面が書棚になっていて、武術指南書らしき古めかしい巻物や冊子がいっぱいに詰められている。書棚の手前には古代中国風の多種雑多な武具・防具や、木人椿などの練習用具が並ぶ。また、10m程度の間隔で柱が立っており、それぞれの柱から香炉らしきものが鎖でぶら下がっている。ハッカに少し似た怜悧な香りが堂内に漂っているのはこの香炉のためだろう。
レイは広間の真ん中で立ち止まって、彼方のほうを振り返る。ポニーテールが揺れる。
「戦いの場所はここにしようと思って。19時で鐘が鳴るから、鳴り始めたら即開始! 異存は?」
「ない。君こそ、至近距離の真っ向勝負で私とやりあう覚悟はあるんだな?」
「どうなんだろうね?」
肩をすくめて見せるレイに、彼方はいぶかしげな視線を向ける。
「……」
「でも、どっちみち腹芸やなんかは性に合わないじゃん?」
「そういうことなら、君らしくもあるが」
それきり本堂に沈黙が訪れる。目を閉じ、深くゆっくりと呼吸しながら、全身から丹田へ、丹田から手足の指先まで気をみなぎらせていくレイ。醒めた目で敵を見つめながら、足を肩幅よりやや広く、両手を胸の高さに差し出し、いっこう楽に構える彼方。2人の間を乾いた風が吹き抜ける。
そして、戦いの鐘が鳴る。
3
戦いが始まるやいなや、レイは渾身の正拳突きを繰り出す。彼方は一切のタイムラグなく、交差した両腕でこのこぶしを受け止め、上に捌いて水平に手刀を打ち込む。レイはこの手刀が脇腹に入る前に左手で受け止め、そのまま手首を極めにかかる。彼方は地面を蹴って身体ごときりもみ回転、極めから逃げる。レイは極めを中止してすばやく彼方の体を引き寄せ、膝蹴りを叩き込む。彼方は膝蹴りを同じく膝蹴りで受け、打ち合った両者は互いに手の届かない位置まで後退する。
しかし、それも一瞬。彼方が一歩で間を詰めて回し蹴りを放つと、レイは右腕で大きく円を描いてこれをいなし、突きで反撃。彼方はすばやく膝を曲げて突きを受け、そのままレイの右腕を巻き取ろうとするが、レイは左右の足を踏みかえて身体を反転、彼方のリーチから逃れる。
そして、レイは間髪いれず彼方に踊りかかる……。
勝負が始まった瞬間から、攻撃と防御、あるいは防御を兼ねた
一方、彼方にとっては、この序盤戦は一種の様子見なのかもしれない。彼方は、絶え間なく続く攻撃の応酬のなかで明白な隙こそ見せないものの、妙に大ぶりな突きや蹴りを時おり見舞う。
レイは、素早い攻撃も、大ぶりな攻撃も、慌てず騒がず、止め、捌き、いなしていく。万巻の武術書から読んで学んできた通りに。数多の名人たちから見て盗んできた通りに。
彼方が放った、何度目かの大ぶりな突きを、レイが腕で円を描く特徴的な動きでいなす。攻撃の手を止めず、彼方は語りかける。
「拳法使いなのは単なるファッションじゃあないらしいな」
「不満?」
「まさか。君のような手合いとやりあうのはいつも勉強になる。細かい流派の違いとかには疎いが……」
レイは歯を見せて笑う。もちろん、攻撃の手は止めない。
「教えようか! 今使っているのは、百を越える武術流派の精髄、それを束ねたもの! 私の背後には百人の達人がいると思ってよ!」
彼方は内心やや安堵する。よかった、事前の期待よりはいくぶんマシな対戦相手が出てきてくれた。
彼方が大ぶりな攻撃を放つたび、レイは単純な膂力ではなく、効率的な力の逃がし方によってこの攻撃を捌いていることを、彼方はいまやはっきりと認めている。この捌き方は熟練した拳法家のものに相違ない。
さて、彼方には、拳法家と戦うときの対処法として培ってきたものが、当然いくつもある。なにより目の前の拳法家を打ち倒すために、その対処法を使うときがいまだろう。
彼方とレイ、お互いの攻撃が届かなくなる瞬間がまた訪れる。それまでそっけなく立っていた彼方が、ついに明確に身体を構える。格闘技のシューティングのように、打点の高い足技を使うための構え。
「私も、そろそろ“技”を見せびらかしてもいいか?」
彼方がつぶやくのにかまわずレイは襲いかかってくる。そのレイに彼方は立ち回し蹴りを見舞う。レイはこれまで通り腕で大きく弧を描きながらこの蹴りをいなそうとして……何かの異変に気付く。この蹴りを普通にいなしたり捌いたりしてはいけない。バックステップで強引に距離をとる。
しかし彼方はレイの撤退を許さない。落ち着いた足取りで前進しながら、似たような立ち回し蹴りを2,3発。レイは後退して回避に徹する。
この数発で、レイは違和感の正体を完全に理解した。いまの彼方の蹴りは、標的にヒットするはずのところで直角に軌道を曲げる。下手にこの蹴りを腕や脚で受けようとすると、急に方向を変えるこの蹴りの衝撃をいなしきれず、それなりのダメージを負うだろう。また、その軌道は単に直角に曲がっているだけではない。レイがこの技を受けようとする腕や脚の可動域が存在しない方向へと的確に軌道を曲げている。人間の関節の構造的に、いなすことがそもそも不可能な技なのだ。
それは、人体の基本的な構造と機能を理解していながら、自分自身はその基本をはるかに越える筋力を持っている彼方にしか発明されえない技であった。
レイが叫ぶ。
「人間技じゃないよ、それ!」
「百人の達人もお手上げらしいな」
「たしかに百人じゃ、ね!」
そして、奇妙なことが起こる。レイが唐突に一歩踏み込み、彼方の蹴りをその腕でいなしたのだ、ダメージもなく。
人体ではいなせないはずの蹴りをいなせたのはなぜか。答えは明白だ。レイの腕が人体ではありえない方向に曲がったのだ。眉を顰める彼方。レイは叫び続ける。
「ずっと待ってた! この肘を、この肩を、実戦で振り回す日を!」
「そんな場当たりの人体改造で勝てる気なのか?」
「場当たりかどうか試してみてよ!」
「ふん」
彼方は件の“直角蹴り”をより鋭く速くレイに浴びせる。レイはこの猛烈な攻撃を、やはり、なんらかの武術流派と思しき、特徴的な弧を描く動きでいなし続ける。レイの額を汗が伝っていくが、そこに焦りはひとかけらも含まれていない。
レイはこの特殊な腕を信頼している。この信頼は、ただアシルシア先生がこの腕の製作と調整をになったということだけによるのではない。レイは、単にアシルシア先生にある構造の腕を発注しただけではなく、ある構造の腕が人類の腕として採用されるまでの歴史を自分でデザインしたので、この腕を信頼できるのだ。
レイがしたことを具体的に述べよう。レイは、霊長類が枝分かれして進化を遂げていくなかで、ある特殊な構造の肩と肘を具えたグループが人類として進化していき、その人類がいくつもの武術体系を互いに競わせるようになるまでのシナリオを描き、自分の半独立空間で簡単なシミュレーションを行って、そのシミュレーションの最後に覇権を握った武術の動きを学んだのだ。
レイがこの腕をよどみなく使いこなすのを見て、彼方も、その腕の背後に歴史があることをおぼろげながら理解する。
「わかる?」
「なるほど、場当たりと言ったのは失礼だったな」
「私の背後には、まだまだたくさんの達人がいるからさ!」
何度目かの彼方の蹴り、その衝撃を、レイはありえない角度に腕をよじりながら彼方の身体に投げ返す。彼方は自分自身の攻撃の何割かを自分の方向に返され、たっぷり5歩も後ずさる。これを好機ととったレイは、深く息を吸いながら腕をゆっくりとまわして独特の構えをとる。一瞬、レイの腕が6本に分裂したように見え……。
いや、それは幻覚ではない。いまやレイの腕は本当に6本だ。
「一万の達人と戦ってもらうよ!」
さらに多様さを増した技が彼方に襲いかかる。
4
絶え間なく続く拳の応酬のなかにあって、レイの脳裡には、いままで技を盗んできた幾百幾千の師たちの面影が浮かんでは消えていく。そんな師たちの中でも、格別に忘れ難い存在がひとりいる。
4年ほど前、ほんの短い期間教えをうけただけの関係だったが、その師は現在のレイの戦い方に大きな示唆を与えたものだった……。
現在、レイの半独立空間では、もっぱらレイが必要としている様々なシミュレーションのためにNPCが修練し続けているばかりなのだが、かつては、この半独立空間に異世界からの訪問者を受け入れる“ファン感謝祭”なども不定期に開いていたものだった。客人の多くは、人間ばかりが住む世界でレイの配信を観ている視聴者――思い思いのアバターに身をやつしていたが――が占めていた。
あるときの“ファン感謝祭”に、ひときわ目立つキャラ付けで参加してきた人物がいた。彼、あるいは彼女は、動物園から飛び出してきたようなリアル調のパンダの姿をしており、しかし直立していて、その身長は優に2mを越し、それでいて声はアニメの美少女のような軽やかな甘い声で、なおかつ妙な語尾をくっつけて会話してすらいた。当人曰く……
「いつもなら我自身の可愛い身体でやってくるあるね。でもこの世界、出来合いのアバターを着ないと入れないね。これどういうことある?」
とかなんとか。
ともかく、そんな珍妙なキャラ付けよりなによりこのパンダを目立たせていたのは、その圧倒的な格闘能力だった。そのときの“ファン感謝祭”のメインイベントはたまたま、ファン同士の武闘大会だったのだが、その大会で、中国拳法らしき戦い方で余裕の優勝を決めたのがこのパンダ姿の人物なのである。パンダはその武術の実力からレイの尊敬を受けるようになったのだ。
武闘大会の後の寺院の本堂。イベントの参加者たちが三々五々集まってアバター格闘術の意見交換などに励むなか、レイはパンダから一対一でその格闘術の簡単なレクチャーを受ける。もともといくつかの中華系武術に通じていたレイであったので、軽い組手を繰り返すだけですぐにパンダの技を吸収していく。
「汝、なかなかスジがいいあるな。力の向きがきちんと見えてるのね」
「ありがとうございます!」
「クラシックなVR格ゲーならまず負けなしよ、我が保証するある」
「へへ! でもパンダさんにはまだ遠く及びません!」
「うーん……こんなデカい身体じゃなくていつもの身体なら、こんなもんじゃないあるが……」
「もっと強いんですね!」
「強いあるよ。それに、我自身が言うのも何あるが、可愛いあるな。実に不可解ね、何故この世界にはいつもの我で来れないのか」
「あはは」
レイの笑いがややひきつるが、それに気づくパンダではない。VRコミュニティにおいて、やたら自分の正体について明かしたがる人物ならば、その正体は十中八九、容姿に厄介なコンプレックスを抱えたおじさんかなにかであろうが。
「しかし、我らしくもない身体を使っていると、勉強になることも多いある」
「そうなんですか?」
「そうあるよ。例えば」
パンダは壁に架かっていた剣を手に取り、おもむろに演武を披露する。少林達磨剣の有名な型の一つであり、レイも何度となく練習してきた演武であったが、最後に見慣れない動きがあることにレイは気づく。通常、手先の動きでそれぞれ違う方向に剣を三回転させて演武を終わるはずのところを、パンダはさらにもう一回転、計四回転している。
「余計に回ってる?」
「是。追加の一回転で、敵の首の腱もついでに切っておけるある」
パンダは手刀で首を切りつけるジェスチャーをしてみせる。
「でもその型、剣を四回転させようとしたら、剣を落としちゃうはず?」
「5本の指でやろうとすると、落とすあるな。しかし、すべての生き物が5本指とは限らないのね」
パンダが手のひらをレイに見せる。そこには6本の指がある。
「敵はいつも人間とは限らない。また、己もいつも人間とは限らない。いま持っている心技体に囚われず、豊かな想像力で武術の地平を広げること、これ肝要あるね」
「なるほど! パンダさん……いえ、我が師と呼んでもいいですか?」
「構わないある」
「今日だけと言わず、これからもあなたの技を教えてくれませんか?」
「それは値段次第あるな」
レイは内心突っ込まずにはいられない。報酬をもらう前提なのかよ。いや、これほどの技術を教授いただけるなら、謝礼を払うのはやぶさかではない。しかし、このシチュエーションで、貰う側が報酬を自明に前提にしているとは恐れ入る。
「あはは……」
やはりレイの笑いが多少ひきつるのだった。
さて、修行の日々の残りすべてをのんびりと思い出している暇もない。レイと彼方との戦いは激しさを増しながらなおも続いている。
腕が2本の時は、彼方が繰り出す一つの攻撃を腕一本でいなすことが多かったレイだが、腕を6本に切り替えてからは、もはや攻撃を逸らしはしない。一つの彼方の攻撃に対し、腕2本か3本でこれを受け止め、自分の懐へと巻き込んでいこうとする。なおかつ、レイの側から攻撃を仕掛けることも忘れはしない。彼方が完全に腕や足をとられて極められることこそないものの、ペースはたしかにレイのものになっている。
彼方は、自分の腕を、脚を繰り出すたびにそれがレイの懐へとめり込んでいくような感覚に若干の気色悪さを覚える。直角蹴りのような小細工はもうやめてしまう。レイと同じ平面上に立っている限りでは、どの角度から攻撃を打ち込もうが、レイの腕先の技術でとらえられ、吸収されてしまうだろう。いまこの状態のレイを攻略するには、より立体的に攻めなければ。そう判断した彼方は、隙を見て本堂の壁へ向けて走りこむ。
彼方に劣らないスピードでその後を追うレイ。
「逃げ……るわけないか!」
彼方は壁に据え付けの書棚に足をかけて大きく垂直にジャンプ。そのまま最上段からのムーンサルトキックをレイに浴びせかける。
腕を2本使ってこれをさばいたレイだったが、明らかに一瞬反応が遅れている。
「頼りの達人とやらは空中殺法も知らない奴らなのか?」
煽りながら、彼方は今度は柱を使って三角飛びを行い、レイの脳天へかかと落としを見舞う。
しかし、今度のレイはもう遅れない。彼方の足を頭上に差し上げた腕4本で受けて、蹴りの威力を利用してそのまま脚を巻き込みにかかる。彼方は体全体をひねってこの巻き込みを抜ける。彼方の筋力でなければ抜けられない場面だ。
「もちろん空中殺法対策もあるよ!」
見れば、レイの腕は、一瞬前は胴体側面に6本突き出ていたのにもかかわらず、今は胴体前面に2本、背面に2本の計4本になっている。そして、レイの額には赤く光る第三の目が開いている。
「相手の戦術によって姿を変える! これが私のスキルの真骨頂!」
「相手に合わせるばかりとは、とんだ想像力の貧困だな」
「どうかな? 自分じゃない自分を想像できるのが想像力じゃん?」
「君のは我を通せないだけだ。
彼方はなおも立体的な攻撃をレイに加え続ける。レイの腕はもう少しで彼方をとらえられそうだが、この時間さえも彼方に様子を見られているだけかもしれず。
「ジェネラル?」
「ああ、すまない、私の敵たりうる者、その数少ないうちの一人が使う技だ。君は知らなくていいことだったな」
「なんだか妬けるな!」
ふいに、いままでとらえられなかったのが噓のように、レイの2本の腕が彼方の両腕をがっちりとつかむ。レイは、この好機を逃すまいと、即座に彼方の顔面目がけて頭突きを見舞おうとする。が、彼方はトレンチコートを脱ぐことでするりとこの拘束を抜け、一瞬でレイの手の届かない場所まで逃れる。
どこまでいっても余裕そうに見える女だ。
「コートを脱いでようやく本気、ってわけじゃないよね?」
「自分で思ったことを信じるといい。結果君は負けるわけだが」
レイは手に残ったトレンチコートを投げ捨てる。
「いや、誰が私より強くても、負けるわけにはいかない。ジェネラルとやらだって足で使ってやる。……決めた! 今から、私と私のスキルのことは『
突如、壁の書棚のひとつが倒れ、レイらしくもない長い口上は大きな物音でさえぎられる。続いてふたつ、みっつと書棚が倒されていく。彼方が書棚の上を飛び移りながら順に蹴倒しているのだ。
書棚が倒されるごとに床に武術書が散乱し、埃がもうもうと立ち込めていく。埃が目に入りそうになり、レイは目を細めて、彼方に言う。
「散らかして! ほんと自分勝手だな!」
「勝手は“本気”の必要条件だ」
「自分から足場の優位を捨てるんだ?」
「この程度の優位、なくても大差ない。それより、相手にとって都合が悪い状況の構築に注力すべきだから」
近くにある書棚をあらかた倒した彼方がふたたび床に降りてきて、レイは、なるほどね、と思った。もうもうと立ち込める埃にまぎれて彼方の輪郭がよく見えない。いま第三の目を開いているレイだが、そもそも視界が悪ければ、全方位から襲ってくるすべての攻撃に即応することはできない。
考える間もなく、いつの間にかレイの左側に回っていた彼方から、肩口に向けて強烈な蹴りが飛んでくる。レイはすんでのところでこの攻撃に気づき、大きくのけぞってなんとか避ける。レイが体勢を立て直す間もなく、彼方は半歩下がって埃にまぎれ、意外な方向から再度攻撃を加える。レイは倒立や宙返りを織り交ぜてなんとかこれを避けるしかない。
彼方は冷たく言い放つ。
「腕が足りないから増やすとか、目が足りないから増やすとか、君の対処は既存の器官の増殖でしかない。想像力の貧困だと言っただろ?」
レイはなおも歯を見せて笑う。
「増殖だけが
言葉とともに、レイの頬にそばかすのような小さな孔が無数に開き、レイの動きが明らかに変わる。レイはいまや、埃が立ち込めるなかでもはっきりと彼方の姿をとらえている。彼方の攻撃のひとつひとつに遅れずに対応している。
「音響定位か? ……いや、赤外線を視ているのか」
「正解!」
レイは、蛇のピット器官を模した赤外線感知器官を頬に出現させたのだ。もちろん、レイがこの器官の実装のため、爬虫類から単弓類の分化に始まる生物進化のシミュレーションを行ってきたことはいうまでもない。
「埃での目くらましは効かなくなったな。が、所詮それも視覚の拡張にすぎない。これはどうだ?」
彼方はそばにあった柱から香炉をもぎとり、無造作に床に投げ捨てる。床に散乱していた書物にすんなりと火がつく。たちまちあたり一面は火の海だ。
無論、本堂が焼け落ちるのは時間の問題であり、また本堂が焼け落ちるまえに空間の酸素が失われてしまうだろう。しかしこの瞬間なにより問題なのは、大量の熱源が突如出現したことで、レイの視界が再度奪われたことだ。
彼方は、炎と煙をまといながらレイに向けて突進する。
「視覚の拡張だけでもないよ!」
彼方は突進した勢いのままドロップキックを放ったが、レイはこの攻撃をも、完璧に認識して、4本の腕でこれをさばいて見せる。レイの額には、さきほどまではなかった大きなこぶのようなものが盛り上がっている。
「こんどは電流検知でもしたか?」
「さすが、正解!」
レイが額に出現させたのは軟骨魚類のロレンチーニ器官を強化再現したものだ。そして、もちろん、このために魚類からの生物進化のシミュレーションも行われている。
レイがその肉体の反応性をどこまでも高めていく一方、彼方の攻撃の激しさも、つねにレイの肉体の一歩先で加速し続ける。
炎と煙に惑わされ、断片的にではあったが、レイは味わう……彼方が攻撃を試みるとき、彼方の神経を走る電流を。彼方の周囲で渦巻く熱を。そして最後に現れる、彼方の瞳の輝きを。電流も、熱も、瞳の輝きも、レイへの確かな殺意をのせている。純粋で混じりけのない殺意が、レイの五感を通じて、また五感以上のすべての未知なる感覚を通じて流れ込んでいる。
レイは動きを止めない。止める余裕などない。しかし、動き続けながらも、全身が喜びに打ち震えてもいる。私はいままでずっとこの殺意を味わいたかったのだという確信が脳髄を支配する。
絶え間ない炎と攻撃を受け続けるその中心で、レイはついに声を上げて嗤う。
「はっはっはっはっはっ!」
その顔はさながら鬼神のごとく歪んでいる。しかし、見る人が見ればわかるだろう、その顔の造作には数万・数億年のシミュレーションに裏打ちされた確かな合理性があることを。人類に理解できる上限を超えた、まさしく絶世の美女の顔がその顔であることを。
そして、終わりは突然に訪れる。
彼方がレイの頭部を狙って放った渾身の蹴りが当たり、レイが六肢を投げ出してあおむけに倒れる。レイは、死んでこそいなかったが、もはや指一本動かすことすらかなわない。頚椎を損傷したのだ。
彼方は唇を尖らせ、周囲に向かって一度だけ息を吹く。すると、本堂を雪交じりの風が吹き抜け、一面の炎がたちまち消える。火事はおさまったが、本堂の床も、柱も、焼損はすでに深刻だ。
視線を下げると、倒れたレイはいまだ不敵に笑っている。レイが先にしゃべる。
「彼方なら、決めるときは一撃だと思ってたけど?」
レイは、自分が戦いに負けるとき、即死以外の道があるとは思いもよらなかったのだ。
そして、実はその驚きの何割かは彼方も共有している。
「私も、最後の瞬間、即死だけを狙っていた。決めきれなかったのは、君の体術が最後の瞬間、私の想定を上回っていたからだ」
「ははっ! 負けは負けだけど、その一点だけは喜んでいいのかな?」
「君はもっと我を通せるようになるといい……」
彼方がそれだけ言って踵を返すと、たまたま、足元にトレンチコートが落ちているのを発見する。耐火性の強い素材で作られているだけあり、まだ燃えていない。彼方は、トレンチコートを拾って、適当に叩いて煤を落とすと、これを羽織りながらゆっくりと歩いて本堂を後にする。
中庭を抜けて正門まで差し掛かったあたりで、真っ黒になった本堂が崩れ落ちる。数億年にわたる武術の歴史と、一万の達人たちの記憶とともに、崩れ落ちていく。