『グリッドマン ユニバース』の感想

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↑私の友人どもが『グリッドマン ユニバース』について“クロスタッチ”という切り口で一席ぶってくれたので、私も“クロスタッチ”にからめて、『グリッドマン ユニバース』について一言二言述べておこうかと思う。

 

 

 

ネタバレ防止でもしておくか

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クロスタッチって何さ

まず、“クロスタッチ”とは何か、という説明が必要だろう。
クロスタッチというのは、近年のウルトラシリーズにおいて、ウルトラマン同士の挨拶として作中に登場している特定のボディランゲージのことだ。
具体的には、2人のウルトラマンが向かい合い、上腕を曲げて斜め向きに掲げて打ち合わせる、という動作になる。
意味としては、2人の間で「絆を結ん」だり「パワーを渡し」たりといったものになる。

 

実際の使用例を見たほうが話が早い↓

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クロスタッチは、ウルトラシリーズ作品の劇中で主人公ウルトラマンと助っ人ウルトラマンとの間で交わされる場面がよくあるほか、ウルトラシリーズのファンとウルトラマンが交流するイベントでウルトラマンがファンと交わしてくれることなどもあり、様々な状況でファンの胸を熱くさせてくれる風習だ(発明されてからまだ3年も経ってないけど)。
なお、クロスタッチを用いるヒーローは、厳密にウルトラマンたちに限られているわけではなく、円谷プロ発の別のヒーローも行うことがあるらしい。

 

私とあなたのクロスタッチ:バトンタッチ

グリッドマン ユニバース』では、この“クロスタッチ”がいくつものシーンで印象的に使われていた。しかもひとつひとつが、ウルトラシリーズ劇中でよく見るクロスタッチの変奏になっていた。

 

クロスタッチは元来いろいろな状況でいろいろな意味を込めて使われるわけだが、『グリッドマン ユニバース』劇中におけるクロスタッチはどのような状況でどのような意味を込めて使われていたか? 第一の使用例として挙げたいのは、“再会”という状況で“バトンタッチ”という意味を込めて使われていたクロスタッチだ。

 

最もスタンダードな例として、主人公ウルトラマンと助っ人ウルトラマンとの間でのクロスタッチというのをウルトラシリーズファンは見慣れているわけだが、ウルトラマンはたいてい一作品にひとりの主人公なので、主人公と助っ人とのクロスタッチは新人と先輩との間のクロスタッチでもある。だから、クロスタッチの持つ意味として“再会”“バトンタッチ”が大きくなるというのはわかりやすい。
グリッドマン ユニバース』でいえば、たとえばグリッドマンとグリッドナイトとの間のクロスタッチ。これは、長く戦ってきたグリッドマンから新人であるグリッドナイトへの「これからの宇宙の平和は任せたぞ」という熱いメッセージとして受け取れる。また、そのメッセージは、グリッドナイトは平和を任せるに足る一人前のヒーローである、という心強い承認でもある。
あるいは、姫様からガウm……レックスへのクロスタッチも、一種の“バトンタッチ”だったかもしれない。そもそも、『SSSS.DYNAZENON』のころのレックスは、遠くに行ってしまった姫様の影を探す側の人間であり、姫様は勝手に遠くに行って残された人をやきもきさせる側の人間だった。しかし、『SSSS.DYNAZENON』最終回以来、レックスは残された人(麻中蓬)をやきもきさせる側の人間にまわり、レックス自身は姫様とあっさり再会してコンフリクトを解消する目処が立ってしまう(すぐに解消できるかはともかくとして)。人をやきもきさせる奴、という“ちょっとした悪役”を姫様からレックスへと押し付ける、そんなちょっと残酷な“バトンタッチ”としてこのクロスタッチはあったのかもしれない*1

 

私と私のクロスタッチ:自己の在り方の新発見

第二の使用例として挙げたいのは、“変身”という状況で“自己の在り方の新発見”という意味を込めて行われるクロスタッチだ。

 

知っての通り、響裕太は左腕に付けたアクセプターの中央のボタンを右腕で押す動作をとることでグリッドマンに変身(アクセスフラッシュ)する。この、アクセスフラッシュ時に自分の両腕をクロスする動作、ウルトラシリーズにおいてクロスタッチという風習が発明されるよりずっと前から『電光超人グリッドマン』において行われていたものであって*2、これ単体ではクロスタッチとは何の関係もない。しかし、いくつものシーンでクロスタッチを印象的に使っている『グリッドマン ユニバース』のなかでこの動作が登場すると、やはりクロスタッチの一種の変奏にしか見えなくなってくる。いわば“ひとりクロスタッチ”といったところか。

 

そして、『グリッドマン ユニバース』において響裕太がひとりでするアクセスフラッシュにはかなり特別な意味がある。
思い返せば、前々作『SSSS.GRIDMAN』において響裕太はほとんどグリッドマンに乗っ取られた状態であった。だから、響裕太がアクセスフラッシュによってグリッドマンになれることには、せいぜい「もとから当然のように具えている力を呼び起こす」くらいの意味しかなかった。
ところが、『グリッドマン ユニバース』における響裕太は、グリッドマンが含まれていない響裕太自身であるから、アクセスフラッシュすることによってグリッドマンになれるという保証はどこにもなかった。響裕太が、自分の中にあるのかないのかもわからないヒーローの力を呼び起こすためにアクセスフラッシュを行ったのはけっこうな賭けだったのだ。彼が無事賭けに勝ち、グリッドマンに変身したときには、『自分の中にヒーローの力は存在したんだ』という新鮮な驚きが彼の心を満たしていたことだろう。

 

そうすると、クロスタッチの変奏にしか見えない状況でアクセスフラッシュを行うということには二重三重の意味での新発見がついてくることになる。一つには、「クロスタッチって2人じゃなくてもできる」という新発見。一つには、「他人の中だけでなく、自分の中にもヒーローの力って見出せるんだ」という新発見。さらにまた一つには、「クロスタッチって、“バトンタッチ”だけでなく“自己の在り方の新発見”という意味も持たせられるんだ」という新発見。

 

響裕太による“ひとりクロスタッチ”を経たあとでは、従来通りの“ふたりクロスタッチ”も複数の意味を持つように変化しているはず。
“ひとりクロスタッチ”のあとに行われたクロスタッチといえば、グリッドマンと響裕太との間で行われたクロスタッチだが、ここに、やはり複数の意味が込められていたように思う。

 

この映画におけるグリッドマンというのは、当初「自分は助ける側で、響裕太たちは助けられる側」という思い込みに支配されていて、そのうえで「響裕太たちを助ける立場にあるはずの私が逆に響裕太たちを苦しめている」という後ろめたさにさいなまれていた。ところが、響裕太たちは自発的に(?)グリッドマンを助けようと行動し「助ける側:グリッドマン / 助けられる側:響裕太たち」という図式を軽々と乗り越えてグリッドマンを助けてみせた。この救済のためには、グリッドマンにとっては「自分だけがヒーローじゃなくてもいいんだ」という気づきが必要だったし、響裕太にとっては「自分たちもヒーローになれるんだ」という気付きが必要だった。
この両者の気づきの瞬間として、グリッドマンと響裕太の間でのクロスタッチというのは非常に納得度が高い。
グリッドマンと響裕太の間のクロスタッチは、第一に“ふたりクロスタッチ”であるために、“ヒーロー”という役目をグリッドマンから響裕太へと“バトンタッチ”できるという強い説得力を持っている。また、第二に、このクロスタッチは(アクセスフラッシュでもあるので)“ひとりクロスタッチ”でもあるので、響裕太がグリッドマンという他者でなく自分の中にヒーローの力を新発見できるという強い説得力をも持っている。

 

私たちのクロスタッチ:複製技術時代のヒーロー

元来、2人の人間の間で行なわれていたものであったはずのクロスタッチがひとりでも行えるものであると発見されることは、グリッドマン個人や響裕太個人にとって重大であるのみならず、“ヒーロー”という役目そのものにとっても重大事件だ。
クロスタッチがもっぱら“バトンタッチ”という意味で使われていた時代においては、クロスタッチによって“ヒーロー”という役目を受け渡す場合、「すでにヒーローである人」から「これからヒーローになる人」に対してこれを受け渡すのが基本形であり、また、ひとつの時期に同時に存在できるヒーローは約1人に限られていたはずだ。しかし、クロスタッチがひとりで“自己の在り方の新発見”という意味においても使えると判明した新時代にあっては、「すでにヒーローである人」が関与していなくても“ヒーロー”になれるし、「これからヒーローになれるという保証・根拠をまったく持たない人」でも“ヒーロー”になれる。そうした場合、ヒーローは特定の先代ヒーローからの承認を受ける必要なく、あちこちで勝手に生まれだして増殖していく*3。さながらデジタルデータのように、ヒーローは複製可能になる*4

 

結果として生まれたのが、『グリッドマン ユニバース』終盤の「画面に映っているひと、ほとんどみんなヒーロー」みたいな状況だ。ヒーローがいくらでも増殖してOKならば、守るべき対象としての一般人がいなくても物語は成立する(いてもいいけど)。全員がヒーローであってOKならば、倒すべき対象としてのヴィランがヒーローの一部であったとしても責めるにはあたらない*5
“ヒーロー”という概念は、もはやそれのみで物語を埋め尽くすことができる概念なのだ、ふつうに考えれば「多数に対する一者」としてしか定義できないはずの概念であっただろうに!*6

 

いくらでも増殖して物語を埋め尽くすのがヒーローならば、“ヒーロー”はもう特別な存在ではないし、特別な存在でいなければならない理由もない。
クロスタッチの変奏が、このようにヒーローを必ずしも特別ではない存在に変えてしまうのならば、逆にクロスタッチも必ずしも特別な行為ではなくなる。
だから、映画の最後に行われたのは、高校生同士の恋愛のひとコマという、社会からみればわりとなんでもない(でも本人たちからすれば一大事件である)状況でのクロスタッチだった。響裕太が宝田六花に告白した直後、両者がとっさに片手をあげたのがそれだ。
クロスタッチにはもう大げさな意味や意図がこもっている必要はない。告白した後だから照れてとっさにやってしまった、とかでも全然問題はない。誰に選ばれなくても誰から受け継がなくても、ひとはヒーローになれるのだから。
また、クロスタッチをするのにもはや直接触れ合う必要はない。各自片腕をあげただけ、とかでもクロスタッチとして成立する。直接に受け渡されなくても、意味は増殖していくのだから。

 

そして、直接触れ合わなくてもクロスタッチが成立するこの宇宙なら、グリッドマンともレックスとも、もう別れる必要はない。というか、別れても別れにならない。
「独りじゃない、いつの日も、どこまでも。」は『SSSS.GRIDMAN』のキャッチコピーだが、これが『グリッドマン ユニバース』において驚くほどストレートに実現していることに、私たちは気づく。

*1:でもレックスと麻中蓬はまた再会できそうな雰囲気が強いので、“ちょっとした悪役”を受け渡すバトンタッチなど存在しないのかもしれない。ちょっとよくわからない。

*2:ただし、『電光超人グリッドマン』におけるアクセスフラッシュの動作は「ボタンを押す」という印象が強い一方『SSSS.GRIDMAN』『グリッドマン ユニバース』におけるアクセスフラッシュの動作は「両腕をクロスする」という印象が強く、違いは結構ある。

*3:なお、ヒーローが勝手に増殖してくれることは、「すでにヒーローである人」にとっても優しい話だ。後進を育成する義務から解放されるので。

*4:『シン・仮面ライダー』も、『グリッドマン ユニバース』と同様にヒーローの継承プロセスの成立について取り扱っていた映画だったと思う。ただ、『シン・仮面ライダー』におけるヒーローの継承はもっぱら一人から一人に対して行われるもので、ひとつの時期に同時に存在できるヒーローは約1人だった(???)のに対して、『グリッドマン ユニバース』においてはヒーローは増殖できるようになった、という違いは大きい。ちょっと強引に解釈をするなら、ヒーローの時間的な複数性を許容させたのが『シン・仮面ライダー』であるのに対し、時間的な複数性と空間的な複数性の両方を許容させたのが『グリッドマン ユニバース』、といえるかもしれない。ならば“ユニバース”をタイトルに冠するのもあながち大言壮語ではない。

*5:もし、「ヒーローはいくらでも増殖してもいい」というテーゼが、怪獣が生まれる遠因となってしまったグリッドマンに対する許しになるのだとすれば。このとき、グリッドマン同様に怪獣を生み出す原因であった過去の新庄アカネも許されることになるかもしれない。新庄アカネがヒーローとして映画に舞い戻ってくるのは、5年越しの許しなのだ。

*6:まあ、“ヒーロー”が「それのみで物語を埋め尽くすことができるタイプの概念」になる、というのがグリッドマンに限った現象ではないのは言うまでもない話。このうえなくわかりやすい例として、平成仮面ライダーシリーズなどがあろう。