一人歩きする概念「仮面ライダー」:正気から生まれた狂気として

思考能力というものは発言頻度に反比例して果てしなく低下していくもので*1、今日もししゃべったら明日の自分の発言は今日よりIQが10低い*2。昨日よりもアホなこと言ってる自分には耐えられなくて、それでも自分が日々思いついたことをどうしても他人に言いたくなるときがあって、ブログやりかけてやめたりDiscordやりかけてやめたりTwitterやりかけてやめたりLINEやりかけてやめたりしてる*3
気づけば私にはもう友達がいなくなっていた。いや、定義によっては、友達など人生で一人もいなかったのかもしれないが……今ここで言っているのは、「家庭と仕事以外で継続的にコミュニケーションをとる相手が一人もいない」みたいな意味である。LW氏は以前「人間関係リセットマンは実在するのか?」みたいな疑問を呈していたけれど、私には人間関係を定期リセットする動機と状況はすごくイメージしやすい。人間関係がもともと希薄な私はやっぱりリセットマンには該当しないけれど。

 

趣味の話をする相手が一人もいない。最近の私の頭のなかは、ひとつのトピックが他人によるなんらの反駁も受けないまま1ヵ月でも2ヵ月でも澱んで漂い続けるようになった。
このブログの直近7記事のほとんどが一方的にサイゼリヤに粘着するような記事になっている状況は、正直自分で気色悪いと思っている。でもそれは、私が今後もLW氏及びサイゼリヤに粘着するスタイルだけでいちブログを続けるつもりだということではなく、単に最近はほかに興味あるトピックを見つけられていないというだけのことだ。永遠には続かないと思う。

 

 

 

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saize-lw.hatenablog.com


サイゼリヤにこんな記事があったのを今日発見した。ここで書かれていることに若干似ていて若干違う現象を知っている気がするので、それについての私の認識を書いてみたいと思う。

 

具体的に述べよう。仮面ライダーシリーズにおいて、個々のヒーローが持っている固有名「ヒーロー名」は、かつてはさまざまな要素を必然的に指示していたがいまではそのつながりのいくつかを切り離し、なんだかよくわからない概念になって一人歩きをするようになった。この記事ではその過程ときっかけについて整理したいと思う。

 

仮面ライダー』(1971)放送開始当初――「仮面ライダー」に対応するヒーローはただこの世で一人であり、「仮面ライダー1号」という言葉はなかったころ*4――「仮面ライダー」というヒーロー名は、

  • ①本郷猛という〈キャラクター〉
  • ②特定の〈見た目〉を持った改造人間を生み出す、「バッタ男」とでも呼ぶべき〈システム〉
  • ③人間の自由を守護する者としての〈称号〉(を持った人物)
  • ④『仮面ライダー』という〈番組〉(の無二の主人公)

の4つすべてと正確に一致していた。

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50年がたち、現在。『仮面ライダーバイス』(2021)に登場するヒーローの名前「仮面ライダーリバイ」はどうか。この名前は、4つの要素、つまり

といまや必然的なつながりを持っていない。すなわち、

というように、それぞれの条件に対して選択を行うなかで各要素ははじめて「仮面ライダーリバイ」という名前とつながりを持つ。

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仮面ライダー○○」という名前が単純には4つの要素と結びつかなくなった、その変化は、要素ごとにいくつもの偶然と必然が絡んで段階的に起こってきたものである、というのがこの記事の主張である。

 

結果に関して言えば、「あるコンテンツにおいて、固有名の取り扱い方が変化した」とただそれだけの話だ。しかし私は、変化の起源と理由をそれなりに重視する人間なので、「固有名の取り扱い方の変化」についてもその起源と理由がどんなものであったかについてもいくらか考えておきたい。変化を経験したあとの現状に対して、その歴史的偶然と歴史的必然を正しく見極め、過小な理由づけをも過大な理由づけをもしないために。
以下、名前から要素が引きはがされる過程について、要素ごとに追ってみたいと思う。

 

1. ヒーロー名とキャラクターとの分離

1.1. 前置き

私はこれから、仮面ライダーとその変身者との関係が「厳密なイコール」から「条件付きの相互参照関係」に変わっていったという話をしようとする。しかし、私は本題に入る前に、そもそも「当初は厳密なイコールだった」という見方はどの時点の何との比較で可能になるのかということについて整理しておかなくてはならないだろう。

 

大前提として、スーパーヒーローというものの多くには、『仮面ライダー』が1971年に登場するよりもはるか以前から「変装」ないしは「変身」によって2重のパーソナリティを持つという習慣があった。仮面ライダーというヒーローを月光仮面七色仮面まぼろし探偵といったヒーローたちの正統な後継としてみるなら、彼は「2重のパーソナリティを持っている」という点についてとくに先達と変わっていない。仮面ライダーと変身者とは別のパーソナリティであり、それはある意味で「はなから厳密なイコールなどではない」。
1971年に活躍した「仮面ライダー」について『「仮面ライダー=本郷猛」が成り立つと言う点において際立っている』と述べられるのは、仮面ライダー以前のヒーローと比較するよりもむしろ、仮面ライダー以後のヒーロー――とくに「仮面ライダーシリーズ」に登場する後輩ヒーロー――と比較した場合である。
よって、ここからの議論は、どちらかといえば無根拠に「仮面ライダーとその変身者は当初厳密なイコールであった」ということを前提としたうえで進んでいく。

 

1.2. レベル0:種としてのヒーローの誕生

仮面ライダー」の名を持つヒーローとその変身者とはいかにして分離してきたのか。分離の過程は実は一人目の仮面ライダー仮面ライダー1号」の時点から始まっている。
ときに、「仮面ライダー1号」という名前は、「仮面ライダー」という種を表す前半部「1号」という個体を表す後半部との連結によって成り立っている。実はこのことばの構造がすでに特殊であり、特定の歴史的事件に依存して生まれた構造なのである。

 

さきに註4でも触れたが、『仮面ライダー』(1971)が始まった時点では、現在「仮面ライダー1号」として知られているヒーローは「1号」という個体識別名を持たず、単に「仮面ライダー」と呼ばれていた。では、なぜ彼は「仮面ライダー1号」と呼ばれるようになったのか。
それは、「仮面ライダー / 本郷猛」を演じていた藤岡弘氏(現 藤岡弘、)が『仮面ライダー』撮影中不慮の事故により一時出演不能に陥った事件のためだ*5。ふつう、このような事件において制作者がとるべき道は複数ありうる。

  • 選択肢その1 番組打ち切り
  • 選択肢その2 本郷猛役を別の役者に交代して撮影続行
  • 選択肢その3 仮面ライダーを本郷猛から新キャラクターに引き継がせて2代目とし、本郷猛は退場させる
  • 選択肢その4 当座の主人公は新キャラクターに2代目として引き継がせるが、本郷猛も本郷猛のまま温存する

当時の肌感覚はわかりかねるが、おそらく、選択肢その2やその3あたりが一番ありがちな解決策だっただろう*6。しかし、結果として当時の制作者は選択肢その4を選んだ。「藤岡弘演じる本郷猛」への深い愛着のみがなせるわざだっただろう。
そして、「初代を温存したまま2代目を登場させる」というレアチョイスが働いたことにより、「仮面ライダー2号」の名が生まれ、ひいては「仮面ライダー」という種名の後ろに「○○」という識別子がつく奇妙なスタイルが生まれた。このように種と個体の2重構造でヒーローを定義するスタイルは、まあ海外でも散見されるスタイルだが、ここまでヒーローたちの間で主流になっているというのはおそらく日本に独特な事態だろう*7

 

仮面ライダーの名前が2重構造になり、個体でない種としてのヒーローという概念が生まれたことは、やがて起こる「ヒーロー名とキャラクターとの分離」に対して重要な布石になっている。
仮に、前述した選択肢のその3が選ばれ、仮面ライダーの代替わりに伴って本郷猛が「仮面ライダー」の座を降りていたとしよう……仮面ライダーは「当代から次代へ、襲名されるもの」になっていたとしよう。その場合、「仮面ライダーはある特定の時点で世界に一人までしかいない」という認識が一般的になっていたのかもしれない。そのような認識が一般化した場合、ヒーローの属人的な性質は確かに薄められる(通時的に見て、あるヒーローに該当する人物は複数いる)と同時に、逆に属人的な性質が温存されもする。なぜなら、ヒーローが継承可能なものならば、その継承行為の在不在によってある時点における「ヒーローの正体」は一つに定まるのだから。もう少しわかりやすく言おう。仮に、日本のスーパーヒーローが「襲名を中心としてヒーローを理解する」ような歴史をたどっていた場合、我々は「ある特定のヒーローが一体全体誰であるのか」という問題について、継承行為の有無と正統性に基づいて初代から順番に歴代をたどっていくことで、ヒーローの正体を常に一人以下の誰かに特定することができる*8
我々大人が全く新規なヒーローを産み落とせる数をはるかに上回る数のヒーローが、時代には常に必要とされている。ヒーローはなんらかのかたちで既存のものをベースに再生産(この単語は多義的だ)されなければならない。一方、選択肢その3のみが選ばれた世界線ならば、ヒーローは主として継承によってその命脈を保ったであろう。新たにヒーローになろうとする者は、初代から脈々と受け継がれる一本道の歴史によってしかその正当性を担保されない。他方、選択肢その4がときに選ばれた世界線ならば――つまり我々の世界だ――ヒーローは継承によってでなく、単になんらかの要件を満たすことによってヒーローになる。歴史という具体物でなく、要件という抽象物がヒーローのヒーロー性を担保する。
そして、やがて我々の世界は論理の転倒を経験するだろう……要件を満たした人物がヒーローになるのではなく、要件こそがヒーローなのではないか?

 

1.3. レベル1:ヒーロー-キャラクターの一対一対応の乱れ

ヒーロー名とキャラクターとの分離として捉えられる最初の現象は『仮面ライダーBLACK RX』(1988)に起こる(奇しくも昭和最後・平成最初の放送作だ)。
仮面ライダーBLACK RX』は前作『仮面ライダーBLACK』(1987)の続編であり、前作でヒーロー「仮面ライダーBLACK」に変身していた主人公・南光太郎が新たな能力を開花させて新たなヒーロー「仮面ライダーBLACK RX」に変身する能力を得ることによって始まる。この瞬間こそは、「ひとりのキャラクターが複数の異なる仮面ライダーへの変身を経験した例」の最初のものだ。ここにおいて、ヒーローの属人性ははじめて決定的に破棄されたと私はみなす。

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(左)仮面ライダーBLACK RX (右)仮面ライダーBLACK

仮面ライダーBLACK RX』以前、仮面ライダーシリーズにおいて、ある特定のヒーローは特定のいち個人へと帰すことができ、また逆にある特定の個人は最大1人までのヒーローに帰することができた。「仮面ライダー1号」はつねに本郷猛であって他の誰かではないし、本郷猛はつねに「仮面ライダー1号」であって他の仮面ライダーではなかったのだ。しかし、南光太郎は、前作に登場したヒーロー「仮面ライダーBLACK」であるという歴史を破棄せずに「仮面ライダーBLACK RX」への変身能力を得たことで、「仮面ライダー○○でもあり仮面ライダー××でもある」はじめてのいち個人となった。(こと「仮面ライダーシリーズ」において)このときから、ヒーローはキャラクターの本質から着脱可能なものになったのである。
ただ、一応譲歩しておくと、「仮面ライダーBLACK RX」は現在いるすべての仮面ライダーのなかでとくべつに「一対一対応が乱れているほうのライダー」というわけではない。歴史的に見て先達よりはその乱れが際立ってみえるだけで、「仮面ライダーBLACK RX」というヒーローがむしろキャラクターと不可分に結びついている部分は無数にある。例えば、いかに南光太郎が「仮面ライダーBLACKでありかつ仮面ライダーBLACK RXである」とは言っても、彼は「仮面ライダーBLACKであるまさにそのとき同時に仮面ライダーBLACK RXでもある」わけではなかったと言う点(南光太郎の「仮面ライダーBLACK RX」への“進化”は不可逆なものであり、“進化”後に「仮面ライダーBLACK」に変身するようなことは基本的にはなかった)。例えば、「仮面ライダーBLACK RX」はその名が示す通り、「仮面ライダーBLACKとは完全に別の出自を持った別のヒーロー」というわけではなく、仮面ライダーBLACKの延長線上に位置する強化形態でもあると言う点(仮面ライダーBLACK RXへの“進化”を可能にしたのはキングストーンの神秘の力……その力は仮面ライダーBLACKの能力の精髄でもある)*9。しかし、我々がもし、歴史的にみるということを自覚する(それはすなわち、我々がつねに事後的に“事実”を構成しているということを自覚しつつ、すべての“事実”を捨て去って虚無主義に陥らないようにもするということだ)ならば、「仮面ライダーBLACK RX」というヒーローが、それ以前の仮面ライダーにはありえなかったほど「キャラクターから独立したヒーロー」として成立しており、その成立はひとつの転換点であったことは認められるだろう。
仮面ライダーBLACK RX」は「仮面ライダーBLACK」とはまあまあ別のヒーローである。「仮面ライダー新1号」が「仮面ライダー旧1号」と同一ヒーローであったり「超電子人間ストロンガー」が「仮面ライダーストロンガー」と同一ヒーローであったりするのとは、質的あるいは量的に異なる事態がそこにはある。

 

仮面ライダーBLACK RX」が「仮面ライダーBLACK」とは別のヒーローとして生まれてきた背景にはどんな事情があったのか。その事情のいくぶんかは、事後的な批評に拠っているであろうことはさきに註9でも述べたが、その事情のいくぶんかは作品制作当時の状況にも拠っているだろう。当時の状況について少しだけ推測を加えてから、次の節へ移る。
まあ、単純な話、「好評だった『仮面ライダーBLACK』の続編として企画を進めるのも捨てがたいが、新ヒーロー登場という話題性も欲しい。両方やろう」というモチベーションが、「仮面ライダーBLACK RX」を「仮面ライダーBLACK」とは別のヒーローとして創造した理由の主たるところであっただろう。ヒーロー像を一新するというのは、娯楽作品としても文学作品としても商業作品としてもそれなりにうまみのある話である。すなわち、新しいヒーローの登場に際して、子供たちは期待と興奮を味わえるであろうし、作者たちはまったく独自な物語への企図を膨らませられるであろうし、スポンサーは新商品の企画を立てられるであろう、ということだ*10

 

1.4. レベル2:“刺青”から“衣服”へ

ヒーローとキャラクターが分離していく次の段階は、『仮面ライダークウガ』(2000)から『仮面ライダー555』(2003)にかけておこる。その段階とは、ある変身者に対して半永久的に刻まれるいわば“刺青”だった仮面ライダーが、状況に応じて着脱できる“衣服”へと変化するという段階だ。

 

仮面ライダークウガ』に登場するヒーロー「仮面ライダークウガ」は、(見方によってはいくつかの例外はあるのだが、基本的に)史上はじめての「改造人間でない仮面ライダー」であった。これは、「いちど仮面ライダーというヒーローになったキャラクターがあとからヒーローという属性を手放しうる」その可能性を生み出した重要な新基軸である。
仮面ライダークウガ』において、主人公の五代雄介は超古代の遺跡で謎のベルトを身に着けたときからヒーローへの変身能力を得る。『仮面ライダークウガ』以前の変身者たちが、基本的には改造手術によって仮面ライダーへの変身能力を得ていたのとは対照的に、五代雄介は(やや極端な言い方をすれば)ベルトを“身に着けるだけ”で仮面ライダーになる。手術で仮面ライダーになるか、ベルトで仮面ライダーになるか。この違いは重大だ。
いくつか譲歩しておくべきことはある。第一に、『仮面ライダークウガ』以前の仮面ライダーにとっても、ベルトが“変身”の契機として重要視されていた側面は確かにあったという点だ。「仮面ライダー1号」はベルトの中心の風車に風を受けることによって変身を遂げるのであって、ベルトは彼の変身に不可欠だったのだ。ただ、『仮面ライダークウガ』以前の仮面ライダーは、ミクロな変身…人間の姿から仮面ライダーの姿へと姿を変える瞬間的な変化へんげに関してはベルトを重視してきたものの、マクロな変身…戦闘能力が有限な一般人から変化へんげ能力を持った超人へと性質を変える不可逆な変化に関しては、必ずなんらかの改造手術を必要とした。その点、アクシデント的に*11ベルトを身に着けただけで超人への変化を遂げてしまった「仮面ライダークウガ」のヒーローとしての新奇性はやはり際立つ*12
第二に、五代雄介がベルトの着用だけでヒーローへの変身能力を獲得したとはいっても、その変身能力は変身者に不可逆な身体的変化を強いるものであり、ヒーロー性は完全に着脱可能だったわけではないという点だ。そもそもクウガの変身ベルト「アークル」からして、ひとたび身に着けると変身者の肉体と融合して体内に隠れ、基本的には二度と取り出すことができないという着脱不能な性質を持つ。また、クウガへの変身行為は変身ベルト内で完結しているわけではなく、変身者の肉体に毎度変化の爪痕を残しており、また、継続的な変身は変身者の肉体を永久に「仮面ライダークウガ」に変えてしまう可能性すらある、という設定もある。クウガというヒーローはこの意味でも、完璧な“衣服“でなくむしろ“刺青”に近いものである。ただ、その不可逆な身体変化でさえ、ベルトを中心に展開しているということには注意が必要だ。クウガ以前の仮面ライダーは、たいていの場合全身がくまなく改造されており、あとからベルトを取り外しても彼らが一般人に戻る可能性はなかったのだが、クウガの場合、肉体変化はベルトを中心にして段階的に進行するものなので、ベルトを手術等で肉体から切り離せば一般人に戻る可能性はゼロではない。やはり、クウガへの変化は従来の完全に不可逆なヒーロー化とは異なる。

 

変身という機能をベルトに依存させたことで、「五代雄介以外の人間がクウガに変身する可能性」も新たに生まれている。『仮面ライダークウガ』においてその可能性を実際に提示しているのは「超古代にも先代のクウガがいたらしい」という設定だろう。主人公である五代雄介以外にもクウガに変身した者がいたという事実は、「仮面ライダークウガ」に相当するキャラクターが五代雄介以外にあり得ないという前提を、決定的に破壊はしないにしろ、いくぶんかは揺るがしている。
クウガというヒーローは五代雄介というキャラクター以外にもありえた、という設定上の新機軸は、『仮面ライダークウガ』というストーリーの最後で五代雄介がクウガに変身する能力を失った――悲しき戦いの運命から降りられた――ことともけして無関係ではないだろう。平成の世では、悪との戦いに果てはあり、状況さえ許せば、かつてヒーローだった男もまた人びとの暮らす日常へ戻っていける。

 

さて、『仮面ライダークウガ』においてはなぜヒーローは着脱可能だったのだろうか。なぜ“身に着けるだけ”でヒーローになれたのだろうか。理由の一端は、クウガが超古代という半オカルト的なルーツを持つヒーローだったということに帰せるのではないか、と私は考える。
つまり、五代雄介がベルトだけでヒーローになれたのは、ベルトが「それだけで改造手術ができる」凄いものでなければならなかったからではないのではないか。むしろ、作劇上の都合として、ベルト以外に改造手術を担当できる要素がなかったから、仕方なくベルトを凄いものにしたのではないか。というのも、『超古代の怪人がよみがえり、超古代の技術でしかその怪人たちに対抗できない』というような物語を考えたとき、超古代の技術者も同時によみがえるような筋書きにしてしまっては、「説明も変身も戦闘も、技術者、お前がやれよ」という話になりかねない(いや、実際そういう話でもいいのだが)。もしも半オカルト的なストーリーを描きたいのなら、超古代の技術は使用法不明なままで発掘されなければならず、使用の決断もたいがいアクシデント的なものにならざるを得ない。その点、着けるだけで改造手術を代替してくれる変身ベルト「アークル」は鉄板である。
「ヒーローが着脱可能になったのは、ヒーローのルーツが超古代だから」だとしよう。ではなぜクウガのルーツは超古代だったのだろうか。この疑問には、当記事では「2000年当時はそんな時代だったのではないか」と時代の影響を示唆しておくだけにとどめておこう。1990年代以前の特撮において、オカルトは科学と対立するものであるか、あるいは正義と対立するものでありがちだった*13。これが1990年代後半になると、オカルトをストレートに科学や正義と対立させるよりも、正義と悪に共通する基盤としてオカルト的な設定を導入したり、オカルト寄りのSFやSF寄りのオカルトを展開したりする特撮が目立つようになった。『ウルトラマンティガ』(1996)でウルトラマンのルーツがそれこそ3000万年前の超古代文明に置かれたことであるとか、『ガメラ3 邪神覚醒』(1999)でガイア理論っぽい半オカルト半SFが展開されたことであるとかがその例だ。『仮面ライダークウガ』もそうした時代の趣味のなかで、適度にリアルで適度にファンタジーな背景設定として「超古代」を採用したのではないか、というのが私の見方だ。

 

仮面ライダーアギト』(2001)本編に登場する仮面ライダーは4人おり、この4人はルーツを基準にして大きく2群に分けられる。「超能力」をルーツにしている仮面ライダーたちと、「科学技術」をルーツにしている仮面ライダーだ。前者には「仮面ライダーアギト」「仮面ライダーギルス」「仮面ライダーアナザーアギト*14」の3人が当てはまり、後者には「仮面ライダーG3」が当てはまる。この2群の仮面ライダーたちはそれぞれに「キャラクターから着脱可能なヒーロー像」を提起している。
まず、前者について。「超能力」をルーツにしている仮面ライダーときくと、ここでいう仮面ライダーとしての能力は生得的なものなのかと誤解されがちであろうが、『仮面ライダーアギト』の場合は、そこそこ後天的に付与された能力としてその「超能力」は描写されている。「仮面ライダーアギト」「仮面ライダーギルス」「仮面ライダーアナザーアギト」の3者は神に反逆した天使から、ほぼ一斉に変身能力を与えられるという形で仮面ライダーへの変化を遂げているのだ。それはまったく不可逆な身体的変化でこそあったものの、複数人に一様にヒーロー化を適用できたという点では、「仮面ライダーアギト」「仮面ライダーギルス」「仮面ライダーアナザーアギト」のヒーロー性はキャラクター個々人には帰せない一般的なものだということができる。その一般性において、彼らのヒーロー性はキャラクターから着脱可能であるといえる。
次に、後者について。「科学技術」をルーツにした仮面ライダー、すなわち「仮面ライダーG3」こそは完全な“衣服”である。「仮面ライダーG3」は、変身者の身体的・精神的頑健さこそ求められるものの、変身者の身体改造は全く必要としない強化外骨格なのだ。実際、「仮面ライダーG3」のバリエーション(あるいは発展機*15)である「仮面ライダーG3-X」は、基本的には氷川誠のみが変身していたものの、例外的に津上翔一が変身したこともある。「仮面ライダーG3-X」のヒーローとしてのアイデンティティは変身者が誰であるかには依存しきっていないことははっきり示された。事実として、「仮面ライダーG3-X」というヒーローは氷川誠というキャラクターから着脱されたのである。
「仮面ライダーG3」の登場に至って、かつて“刺青”にしかなりえなかった仮面ライダーが“衣服”にもなりうるというアイデアは選択肢として確立された。このアイデアはドラマ面においても「仮面ライダーを“宿命”として受け入れるのでなく主体的に“選択”するキャラクター」を創造するうえで利用された。

 

続く『仮面ライダー龍騎』(2002)においても、「仮面ライダーG3」のような“衣服”化したヒーロー像は強化される。本作における13の仮面ライダーは、そのどれもが身体的変化を必要とせずに(鏡の前での)ベルト着用のみで変身可能である。また、仮面ライダーの名前を維持したままでの変身者の交代も劇中で実践される。例えば、「仮面ライダーナイト」は、変身者が秋山蓮から城戸真司に交代しても「仮面ライダーナイト」のままだった(このような変身者交代には、ほかに「仮面ライダー龍騎」と「仮面ライダーオーディン」が該当)。劇中で交代の頻度こそ高くはないものの、その交代のどれもがドラマ的に象徴的な経緯で行われる。とくに「オーディン」に関しては、名も無き一般市民が人格を完全に上書きされて「オーディン」に変身するというプロセスが描かれ、“衣服”化を徹底した結果としての“衣服”化とは別の現象――これについては次節で詳述する――の萌芽があり、非常に興味深い*16
ただ、急激な変化にはバックラッシュがつきもので、「仮面ライダーの“衣服”化」という現象に対しては「“衣服”には不相応なほど(まるで“刺青”のように)リスクとコストが目立っている」というかたちでそのバックラッシュがあらわれた。『仮面ライダークウガ』にも『仮面ライダーアギト』にもこの「仮面ライダーをやっていくことのリスク・コスト」はあったのだが、より“衣服”化がすすんだ『仮面ライダー龍騎』ではこうしたリスク・コストは「重い」……いや、「重い」というより「わかりやすい」。『仮面ライダー龍騎』における「仮面ライダーのリスク・コスト」は以下の2点だ。第一に、仮面ライダーは戦闘の多くを実質仮面ライダー専用の異世界で行うのだが*17、この異世界のなかでなんらかのアクシデントで変身が解けると変身者は物理的に消滅してしまう。第二に、変身者は開発者等から変身アイテムを譲渡されるかたちで変身能力を得るのだが、この開発者等の意向により、変身者たちは全員参加のデスゲームに参与することを強いられる。仮面ライダーはいまや“衣服”ではあるが、“刺青”などよりよほど厄介な“衣服”なのである。

 

仮面ライダー555』において仮面ライダーの“衣服”化は極まる。『仮面ライダー555』本編に登場する3通りの仮面ライダー仮面ライダーファイズ」「仮面ライダーカイザ」「仮面ライダーデルタ」はいずれも、変身に際して大きな身体的変化を求めない、純粋な“衣服”である*18。また、“衣服”の持ち主や“衣服”の着用者も頻繫に変化する。「仮面ライダーG3」や「仮面ライダー龍騎」や「仮面ライダーナイト」のころには「基本的には変身者は誰それ」というように基本的な変身者を確定することもできたが、「仮面ライダーファイズ」「仮面ライダーカイザ」「仮面ライダーデルタ」に関してはその「基本的な変身者」を決めることも困難なほどに持ち主・着用者が行ったり来たりする*19
しかし、「仮面ライダーファイズ」「仮面ライダーカイザ」「仮面ライダーデルタ」の3者以上に注目すべきなのは、「仮面ライダー」としてカウントするかは意見の分かれる存在である「ライオトルーパー」である。「ライオトルーパー」は複数人ぶんまったく同じ外見同じ機能のものが作られている“衣服”である。「誰が着ようが服自体は同じ」「服が複数あれば複数人で同時に着られる」という2点で、「ライオトルーパー」の“衣服”性は際立っている。ただ、かくもキャラクターから遊離してきた「ライオトルーパー」だったが、やはりここにもバックラッシュがあり、「ライオトルーパー」はそのあまりにキャラクターに紐づけできない性質ゆえに、「仮面ライダー」の一種としてカウントされない場合が多くなってしまった。のちの時代には、「ライオトルーパー」と同様に複数人体制であるヒーローが「仮面ライダー」を名乗ったことを思えば*20、「ライオトルーパー」はある道の先駆者であったに違いない。

 

以下、急激に進んだ“衣服”化の原因について簡単に推測を加えておこう。
事実として、『仮面ライダー龍騎』における仮面ライダーのデザイン・システムは当時流行のトレーディングカード*21を、『仮面ライダー555』における仮面ライダーのデザイン・システムは当時一般化していた折り畳みケータイを、それぞれモチーフにしていたという。これらのモチーフ選びは、おそらくは当時の子供が憧れるアイテムをシンプルに希求した結果であっただろう。そして、こうして選ばれたモチーフは、副産物として「もっぱらアイテムの力によって、“衣服”を着脱するヒーロー」を生み出した。それが、「仮面ライダー龍騎」であり「仮面ライダーファイズ」でありさらなる後裔たちである。アイテムを魅力的にするために、ヒーローは“衣服”と化したのだ*22

 

1.5. レベル3:キャラクター不在で一人歩きするヒーロー

ヒーローがキャラクターからの分離をつづけた先には、それまで必要不可欠だったキャラクターがそもそも必要なくなるという段階が存在する。その段階が目だって進展を遂げたのは『仮面ライダーディケイド』(2009)から『フォーゼ & オーズ MOVIE大戦MEGA MAX』(2011)までの期間だ。
混乱を避けるために、ここまでやや曖昧に使ってきてしまったきらいのある「キャラクター」という概念について、当記事なりの定義を示しておこう。当記事で「キャラクター」と述べたとき、「ある程度以上連続した時間の中で、自律的に思考し行動し続けているとみなせる(=人格を持った)実存」のことを指す。それはつまり、「通行人」という肩書のように特定の時間内だけ立ち現れる属性でもなく、「社長」という肩書のように特定の関係性の中にだけ立ち現れる属性でもない。単純に言うなら、「本郷猛」とか「五代雄介」とかいった、「生まれてきて、意思を持っている(とみなす)人間その他」のことを「キャラクター」と呼んでいると考えてもらってよい*23
かつて、ヒーローとは、そのヒーローに変身するキャラクターが1人以上いなければ成立しないものだった。それに変身する者がいないのに変身した後のヒーローだけは存在する、という事態は尋常には想像できない。しかし、その「キャラクター不在のヒーロー」が実現し、常態化していったのが今から述べる段階なのである。そして、その事態は、それが起こる経緯を追っていったとき、実はそれほど異常な事態ではない。

 

仮面ライダーディケイド』(2009)は、それぞれ異なる世界観を持った無数の仮面ライダーが同じ画面に登場し、戦いを繰り広げる作品である。第1話冒頭、大量の仮面ライダーが画面を埋め尽くして「仮面ライダーディケイド」に戦いを挑んでいくあの画面(素面の役者が一人しか映っていない!)の衝撃は、当時としては計り知れないものがあった。
私は、衝撃的な絵面を作り出すために、無数の仮面ライダーが背景設定不明のまま一斉動員されたあの瞬間こそが、仮面ライダーというヒーローをキャラクターから解き放った最大の契機ではなかったかと考えている。あの瞬間、大量動員されるがゆえに個々の仮面ライダーが戦闘時以外に送っていたであろう日常は決定的に不可視になったか、あるいは抹消された。もはや「変身前の日常が存在する」ことは自明ではない。

 

こうして、「日常の抹消」というかたちで仮面ライダーというヒーローはキャラクターから(ある意味)自律するに至った。そしてこの自律性は、『仮面ライダーディケイド』のなかだけでも3通りの方法でさらに強化されることになる。
第一には、既存の仮面ライダーの世界の並行世界を登場させたことである*24。並行世界の登場によって、これまでも、作品によっては散見されていた「ある特定のヒーローの変身者として複数のキャラクターが同時に紐づけされうる」という事態が、理論上すべての作品に適用可能であるというルールを事後的に承認させてしまった。具体的に言えば、『仮面ライダーディケイド』以前は「たまに変身者が複数いるライダーもいるけど、幾人かのライダーはそれぞれの物語のなかで決定的に一人だった」と言えたのが、『仮面ライダーディケイド』以降は「どの世界観のどんな仮面ライダーも、可能性としては複数人の変身者が並行世界に存在しうる」と言わざるを得なくなってしまったのだ。
第二には、ほかならぬ主役ライダーである「仮面ライダーディケイド / 門矢士」のキャラクター設定が希薄なまま『仮面ライダーディケイド』本編が終わってしまったことである。『仮面ライダーディケイド』は、いまや誰もが知るように(知らない?)すべての大言壮語的な設定や伏線や謎が投げっぱなしで終わってしまった作品群である。『仮面ライダーディケイド』とその関連作品群のうちに、門矢士が仮面ライダーとしての能力を得るに至った経緯を示す完全な説明はない*25。それまでの多くのヒーローが、キャラクターとしての過去や日常を持ったうえでヒーローに変身していたのと対照的に、門矢士には「仮面ライダーディケイド」としての時間しかない。門矢士の過去や日常の希薄さは、結果論的に、門矢士としてのキャラクター設定を「仮面ライダーディケイド」のヒーローとしての設定に依存せざるを得ないという状況を生み出した。いまや「仮面ライダーディケイド」に飲み込まれた感のある「門矢士」というキャラクターは、『仮面ライダージオウ』(2018)に客演したとき、半ば自嘲気味にしかし半ばヒロイックに、こんなセリフを残している。

(超常的な力で仮面ライダーへの変身能力を失った直後に)
あいにく俺の力ってのは、俺の存在そのものなんだけどな
(その後しばらくして平然と変身)

第三には、「仮面ライダーディエンド」が既存ライダーたちをキャラクターから分離されたかたちで“召喚”してしまったことだ。「ディエンド」というヒーローは、固有の能力として「カードを使って仮面ライダーを“召喚”する」という能力を持っている。ここでいう“召喚”された仮面ライダーたちは、劇中、変身後の状態でいきなり出現し、(多少それっぽい台詞をしゃべることはあるが)変身前の日常を想起させるようなキャラクター付けは行われない。変身前から通底するようなキャラクター像が希薄……というか、さながら「変身前などない」のである。実は、“召喚”された仮面ライダーたちには「変身前は存在しない」ということは公式設定ですらある*26。被“召喚”時の仮面ライダーこそは、変身前のキャラクター性を剝奪された純粋なヒーローそのものであり、「仮面ライダー○○」以上でも以下でもない。

 

こうして『仮面ライダーディケイド』がヒーローをキャラクターから分離したあとは、タガが外れたように「変身前がそもそも存在しない仮面ライダー」がつぎつぎ登場してくることになる。もちろん、『仮面ライダーディケイド』以前にも、キャラクターの心神が喪失した状態で運用された仮面ライダー*27や変身者のパーソナリティが劇中で掘り下げられない仮面ライダー*28は散見されたが、変身前と呼べるものが劇中世界のどこにも存在しない例は『仮面ライダーディケイド』以降にはじめて目立ってくるのだ。
『オーズ & ダブル feat.スカル MOVIE大戦CORE』(2010)に登場する「仮面ライダーコア」は、とある変身アイテムととある変身アイテムが合体して生まれた、仮面ライダーのようなかたちをした怪物である。彼は、「仮面ライダーを全滅させる」ことしか行動原理が存在しない、ボスバトルのためのボスキャラというような立ち位置のヒーローだが*29、はたして間違いなく仮面ライダーの一人だとみなされている。
『フォーゼ & オーズ MOVIE大戦MEGA MAX』(2011)に登場する「仮面ライダーポセイドン」も「コア」とよく似ている。「ポセイドン」は当初こそ「湊ミハル」の変身後の姿として生まれたらしいが、やがて変身アイテムが仮面ライダーとしての力を乗っ取り、変身者不在で勝手に暴れるようになった戦士である。しかしながら彼もやはり仮面ライダーの一人である。

 

「コア」と「ポセイドン」の両者に関して、その奇妙な存在様態を決定づけた要素は間違いなく、彼らの登場作品の異様な物語構造だ。『MOVIE大戦CORE』と『MOVIE大戦MEGA MAX』はライダー共演映画である。これらは両者とも、新旧の仮面ライダーが別々の場所でそれぞれの事件を解決した後に、ふたつの事件が言うてそんなに絡み合わないまま最後の敵と共闘するラストバトルに移行する流れをとっている。前者は3章構成、後者は5章構成(!)で、脚本家すら章ごとに違う。それぞれの章に出てくる敵役を、いささか背景不足のとってつけたような敵役として設定することは、作劇上妥当な選択だといえるだろう。そして、背景不足の敵役にするくらいなら、その敵役をなまじ怪人として設定してしまうよりも仮面ライダーとして設定してしまったほうがセンセーショナルでよい。「仮面ライダーコア」ならびに「仮面ライダーポセイドン」は背景の薄い、しかしだからこそ便利な敵役として生まれ落ち、現在でもアーケードゲーム等でちょうどいい活躍を続けているのである。

 

1.6. レベルX:キャラクター概念のかく乱

「ヒーロー名のキャラクターからの分離」という現象について語る締めくくりとして、それ自体「キャラクターからの分離」ではないが関連する現象について少しだけ語っておきたい。「キャラクター」概念のかく乱である。

 

仮面ライダーがシリーズを重ねるなかで、「キャラクターとは、人物の精神・肉体・能力をひとまとめにして総称したものである」というかつては自明であったような事項が揺るがされるようになった。具体的に言うと、「基本的に固有の肉体を持たない精神だけのキャラクター」とか「精神だけだったキャラクターが事後的に固有の肉体を獲得する」といったややこしい事態が「仮面ライダーシリーズではよくあること」として承認されるようになってきたということである。

 

きっかけになったのは間違いなく『仮面ライダー電王』(2007)である。『電王』には変身者等に憑依して行動する精神生命体「イマジン」が登場した。『電王』以前は「仮面ライダークウガ / 五代雄介」のように、多くても二項構造をとっていた「ヒーローとキャラクターとの関係」は、『電王』以降は「仮面ライダー電王 / 野上良太郎 / モモタロス」のように「ヒーロー・肉体・精神」の三項構造をとりうるようになったのである。
これだけならまだ「ヒーローの変身者は、主に肉体 / 精神が誰のものであるかによってこれを判断する」というルールを制定することによって、かなり強引ではあるが三項構造を二項構造へと縮退させることもできた。しかし、「イマジン」が本領を発揮するのはここからで、彼らは様々な条件によって固有の肉体を獲得できるのだ。具体的に言えば、「仮面ライダー電王 / 野上良太郎 / モモタロス」であるような状況もあれば「仮面ライダー電王 / モモタロス / モモタロス」であるような状況も「仮面ライダー電王 / 野上良太郎 / 野上良太郎」であるような状況も存在する。これら3つの状況の区別が必要であるとき(いつ?)は、精神と肉体とを区別するような込み入ったモデルを「キャラクター」概念に対して適用しなければならない。そして、その込み入ったモデルを採用したとき、キャラクター概念は複雑なものとなっていく。

 

はたして「精神・肉体の分離とその区別の複雑化」は年を追うごとに進んでいった。例えば、『仮面ライダーW』(2009)の「仮面ライダーW」は一人の肉体に2人の精神が同時に入り込むスタイルである。例えば、『仮面ライダードライブ』(2014)の「仮面ライダードライブ」は一人の肉体を2人の精神で互いにスイッチしながら戦うという機能を持っていた*30
最新の『仮面ライダーバイス』(2021)に登場する「仮面ライダーリバイ」ならびに「仮面ライダーバイス」は、ひとりの人間が自身の心の一部である?「悪魔」とともに変身することで「悪魔」を具現化させる、というスタイルのヒーロー(コンビ)である。いわば一人が変身して2人になる仕様ということだ。この独特な仕様ははたして作劇的に活かしうるのか、現状では判断しがたいが、とりあえず「キャラクター」概念のかく乱という歴史的流れに対しては忠実であるといえよう。

 

2. システムと見た目との分離

2.1. 前置き

仮面ライダーは、ウルトラマンや戦隊ヒーローといった日本のほかの特撮ヒーローと比較したとき、フォームチェンジの多彩さと複雑さによって特徴づけられることがままある。ここにひとつの不思議な事態が起こっていないだろうか。
私が指摘したいことは、以下のようなことである。我々は、ある仮面ライダー仮面ライダー○○」が異なるフォームに変身しても(それはたいていの場合見た目の明らかな変化を伴う)我々は「別人だ」とか「別ヒーローだ」とは思わず依然として「仮面ライダー○○だ」と認識し続ける。我々はなぜ、「仮面ライダーそのもの」と「仮面ライダーがある瞬間にまとっている見た目」とを区別できるのだろうか? 仮面ライダーたちを除いたとき、ほとんどのヒーローはあるひとつの見た目に紐づけられていることがふつうであるのに*31

 

ここには、仮面ライダーという〈システム〉そのものと仮面ライダーがその時々に見せる〈見た目〉との間には距離がある、という前提が隠されている。そしてこのような前提は最初から自明だったわけではなく、段階的に成立してきたものであるという話をこれから行う。

 

2.2. レベル0:作品世界内で見た目を変えうるヒーロー

例えば『ジョジョの奇妙な冒険』で1コマごとにキャラの服の色が違うことであるとか、第1巻と第63巻で画風が全然違うことに対して、「ジョジョの作品世界の中で服の色が頻繫に変化しているんだ」とか「ジョジョの作品世界の中では113年の間で人類の骨格が根本的に変化したんだ」といった反応をする人はいない。それは表現の幅とか画風の変化であって、作品世界の外、我々の世界で起こる変化である。
仮面ライダー』(1971)作中において、「仮面ライダー1号」は「旧1号」から「新1号」へと姿を変える。しかし、彼が姿を変えたことは作中の登場人物からははっきりと言及されない。彼の〈見た目〉の変化は、単に表現の幅とか画風の変化といった「作品世界内では起こっていない変化」として処理される可能性もあった。しかし実際のところは、本編中で言及がないにもかかわらず、彼の〈見た目〉の変化は作中世界で間違いなく起こっている事実であるというのが当時から現在に至るまで変わりなく公式設定である*32

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(左)旧1号 (右)新1号

彼の姿の変化が作中世界内の事実として公式設定になったことの背景には、以下3点の理由があっただろう。
第一に、単純に、変化の幅が大きかったから*33
第二に、「仮面ライダー1号」は改造人間という設定であるため、ラディカルな見た目の変化を起こす可能性が十分に保証されていたから*34
第三に、彼の見た目の変化を彼自身の能力向上と絡めて設定化することで、「1号」をより魅力的にみせることができたから。
第三の理由は、仮面ライダーというコンテンツの当時の在り方についてとりわけ多くを示唆する。定説では、「仮面ライダー旧1号」が「仮面ライダー新1号」に見た目を変化させた事実に対して「ヨーロッパでショッカーと戦っていた時代の1号が自らを強化するためにわざとショッカーに捕まって再改造を受けた姿」という設定を加え定着させたのは、コンテンツの周縁媒体としての児童誌やライダーカードの記述が発端である*35。児童誌やライダーカードによる説明というものは、本編中の描写に対してたいていは飽和しがちであり、説明できることにはなんにでもドラマチックな説明を加えようとしただろう。本編中でフォローされない見た目の変化に関しても、放送当時や放送後の周縁媒体が「仮面ライダーの能力それ自体の向上」と絡めてドラマチックな設定付けを行ったのは当然の成り行きと言える。

 

仮面ライダー1号」のように見た目の変化を仮面ライダーとしての能力向上と絡めて設定化する手法は、「仮面ライダー2号」「仮面ライダーX」「スカイライダー」などによってフォローされ、定着していった。ただし、注意しておかなければならないのは、このテのパワーアップはまだ仮面ライダーの基本形態の不可逆的変化にとどまっていることだ。これから詳述していくが、現在の仮面ライダーのフォームチェンジには「可逆的な変化」と「能力の質的変化」と「能力の量的変化」という3つの特徴が存在するが、「旧1号→新1号」のような単線的パワーアップにはこの3つの特徴のうち「能力の量的変化」しか備わっていない。仮面ライダーの歴史におけるフォームチェンジ概念の曙までにはもう数年が必要である。

 

2.3. レベル1:可逆的変化

仮面ライダーストロンガー』(1975)の主人公「仮面ライダーストロンガー」は、見た目の可逆的変化を行った(基本的に)初めての仮面ライダーである。彼は、通常形態の「仮面ライダーストロンガー」から戦闘中に「超電子人間ストロンガー」(「チャージアップストロンガー」とも言う)への強化変身を遂げ、強化を必要としなくなると元の姿に戻る。

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(左)仮面ライダーストロンガー (右)超電子人間ストロンガー

「ストロンガー」は仮面ライダーの歴史の中にはじめて多段変身をもたらしたのだが、その多段変身はもちろん現在のフォームチェンジ概念とは2つの点で様相が異なる。
第一には、それが単純な能力の向上――能力の量的変化――にとどまっていた点である。現代の仮面ライダーでは、能力の量的変化・能力の質的変化・およびその複合がすべて一連のフォームチェンジのなかに組み込まれることが普通であり、単純なパワーアップのみでフォームチェンジの可能性が尽くされてしまう場合は少ない。
第二には、「通常形態→パワーアップ形態」という見た目の変化と「仮面ライダー○○→仮面ライダー××」というシステムそのものの変化とが、まだ完全には分離されていないという過渡期的性質があることである。具体的に言えば、現在では「ストロンガー」というひとりのヒーローがまとう複数の見た目の区別が、ヒーローそのものの区別にまで若干の逆流を起こし、「仮面ライダーストロンガー」と「超電子人間ストロンガー」というようにまるで別ヒーローかのような名前を持っている、ということだ。ただ、これは平成の感覚から事後的に解釈すると「別ヒーローかのように思える」名づけ方というだけの話ではある。当時の感覚からすれば「仮面ライダーストロンガー」と「超電子人間ストロンガー」で「同一ヒーローの異なる見た目」という理解をすることは存外普通だったのかもしれない。

 

2.4. レベル2:能力の質的変化

ヒーローの見た目の可逆的変化に能力の量的変化を結びつけたのが「ストロンガー」だったとすれば、ヒーローの見た目の可逆的変化に能力の質的変化を結びつけたのは『仮面ライダーV3』(1973)の「ライダーマン」や『仮面ライダースーパー1』(1980)の「仮面ライダースーパー1」である。
ライダーマン」の「カセットアーム」と「スーパー1」の「ファイブハンド」はどちらも、変身後のヒーローが自らの前腕を着脱することによって機能の異なる様々な武装に切り替えるという能力である。着脱され付け替えられる腕はいずれも違う見た目を持っているため、「カセットアーム」と「ファイブハンド」はのちのフォームチェンジ概念のさきがけといっておそらく間違いはない。

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ファイブハンド

ただ、これらの能力があくまでさきがけにとどまるのは、「見た目の変化が前腕部にとどまる」という点に拠る。変化が部分的なため、これらの能力はフォームチェンジそのものというよりかはひとつのフォーム内での細かなバリエーションとみなすべきであろう(ただ、後述するが「ひとつのフォーム内での細かなバリエーション」は平成になってから事後的に構築される概念である)。

 

2.5. レベル3:「○○フォーム」という識別子の誕生

ライダーマン」や「スーパー1」によって開かれた「見た目の可逆的変化と能力の質的変化との結びつき」という可能性は、『仮面ライダーBLACK RX』(1988)の主人公「仮面ライダーBLACK RX」において結実することになる。
仮面ライダーBLACK RX」は、前腕部にとどまらず体全体の見た目を可逆的に変化させ、同時に能力を質的に変化させる「フォームチェンジ」を初めて行った。「仮面ライダーBLACK RX」は基本形態の「仮面ライダーBLACK RX」から、とにかく硬くて射撃主体の「ロボライダー」と液体化ミクロ化自在で剣術主体の「バイオライダー」の2形態へと多段変身を遂げるのだ。

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(左から)仮面ライダーBLACK バイオライダー ロボライダー 仮面ライダーBLACK RX

仮面ライダーBLACK RX」は「ロボライダー」「バイオライダー」という2つの形態とそれぞれに紐づいたと特殊能力を持つことによって、多様な戦闘状況に対して形態の自発的変化によって対応するという選択肢を得た。
ただ、「仮面ライダーBLACK RX」におけるこうした形態の変化は、名前という次元でみれば、やはり仮面ライダーそのものの違いに逆流している。「ロボライダー」「バイオライダー」という名前はそれぞれ「仮面ライダーBLACK RX」とは全く別人に思えるような名前であるからだ(ただ、繰り返すが「別ヒーローかに思える名前」という感覚は事後的に構成されている可能性がある)。

 

「可逆的な変化」「能力の質的変化」「能力の量的変化」の3要素を網羅し、なおかつライダー名とは別の識別子を発明し、現代におけるフォームチェンジ概念を完成させたのは、『仮面ライダークウガ』(2000)の「仮面ライダークウガ」である。
まず、「仮面ライダークウガ」における多段変身は可逆的である。彼は基本形態の「マイティフォーム」から「ドラゴンフォーム」や「ライジングマイティ」などの別フォームへ変化を遂げ、のちに「マイティフォーム」に戻ることができる。
次に、「仮面ライダークウガ」における多段変身は能力の質的変化を伴う。彼の4つの基本形態「マイティフォーム」「ドラゴンフォーム」「ペガサスフォーム」「タイタンフォーム」にはそれぞれ「格闘重視」「機動力重視」「索敵・照準重視」「防御力・攻撃力重視」という個性が存在する。

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(左から)マイティフォーム ドラゴンフォーム ペガサスフォーム タイタンフォーム

また、「仮面ライダークウガ」における多段変身には能力の量的変化の要素もある。「マイティフォーム」には「ライジングマイティ」、「ドラゴンフォーム」には「ライジングドラゴン」というようにあるフォームの上位形態といえるフォームが「仮面ライダークウガ」のフォームチェンジのなかには存在するのだ。

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(左から)グローイングフォーム マイティフォーム ライジングマイティ アメイジングマイティ

そしてなにより、「仮面ライダークウガ」というヒーロー名とは別に「○○フォーム」という識別子を付してフォームを区別することばの構造をとったことが、システムと見た目を区別するという意味では決定的だった。「仮面ライダークウガ」は間違いなく「仮面ライダークウガ」のままでありながら、複数のフォームを可逆的に獲得できるようになったのだ*36

 

クウガ」における「フォームチェンジ」として確立したフォームチェンジ概念は、その後の「仮面ライダーシリーズ」においても踏襲される。「仮面ライダーウィザード」の「スタイルチェンジ」や「仮面ライダー鎧武」の「アーマーチェンジ」など命名スタイルの細かい異同は増えるものの、その基本的な考え方はほぼすべての主役ライダーと多くのサブライダーによってなぞられている。

 

2.6. レベルX:フォームチェンジの下位分類の出現

仮面ライダーW』(2009)や『仮面ライダーオーズ/OOO』(2010)のころになると、主役ライダーのフォームチェンジが顕著に複雑多様化してくる。「仮面ライダーW」はいくつかの変身アイテムの組み合わせによって3^2通りの基本形態と加えていくつかの強化形態に、「仮面ライダーオーズ」は同じくいくつかの変身アイテムの組み合わせによって5^3通り以上の形態に多段変身する。
こうした、フォームチェンジ複雑多様化の潮流の直接の原因はほぼ間違いなく、仮面ライダーの変身アイテムとして「組み合わせ可能なコレクションアイテム」を打ち出す戦略が確立されたことである。この時代以降、仮面ライダーは変身に際して、変身ベルトに(USBメモリやメダルや錠前をモチーフとした)より小さなアイテムを挿入することが一般的になる。

 

そうした流れのなかで、『仮面ライダーフォーゼ』(2011)の「仮面ライダーフォーゼ」は、従来のフォームチェンジに相当するであろう「ステイツチェンジ」の下位に「モジュールチェンジ」とでも言うべき形態変化をも導入した。「モジュールチェンジ」とは、四肢の先端に状況に応じた多様な追加装備を着脱する仕組みであり、「スーパー1」における「ファイブハンド」の発展のようなものである。
「フォーゼ」の「モジュールチェンジ」というスタイルは「仮面ライダードライブ」の「タイヤコウカン」(「タイプチェンジ」とでも言うべきフォームチェンジの下位に位置する)などによってフォローされる。「仮面ライダーシリーズ」におけるフォームチェンジ概念は、仮面ライダーのシステムと見た目との分離を果たしただけでは終結せず、今後もさらなる重層化を遂げていくであろうことは想像に難くない。

 

2.7. レベルX:フォームチェンジからライダー名への逆流

ここまでの話だと、「仮面ライダーシリーズ」の歴史は、ヒーローの固有名「仮面ライダー○○」とその下につくフォーム識別子「△△フォーム」とが互いにはっきりと区別される方向に進んでいる、ということになる。しかし、逆に両者を截然と分けられない場合がなぜか2010年ごろから散見されており、注意が必要だ。

 

例えば、『仮面ライダーW』(2009)の「仮面ライダーアクセル」は、通常形態のほかにいくつかの派生形態を持つが、これらの派生形態は「仮面ライダーアクセルトライアル」とか「仮面ライダーアクセルブースター」といった名前を持つ。これらの名前は「仮面ライダーアクセル / トライアル」とか「仮面ライダーアクセル / ブースター」という風に区切りを置かれることはなぜかあまりなされず、強いてどちらかと言えば「仮面ライダーアクセル / アクセルトライアル」とか「仮面ライダーアクセル / アクセルブースター」と区別するべき、という印象がある。「仮面ライダーBLACK RX」のように、見た目の区別がシステムの区別に逆流しているのだ。

 

「アクセルトライアル」や「アクセルブースター」は「仮面ライダーアクセル」の下位に位置するいち形態という印象が強いが、『仮面ライダードライブ』(2014)の「仮面ライダーマッハ」に対しての「仮面ライダーマッハチェイサー」などになると、それが「仮面ライダーマッハ」とは別のライダーにあたるのか、同一ライダーのフォーム違いにあたるのか、判断は難しい*37。かつてテレビ朝日の『仮面ライダードライブ』公式サイトにおいては別ライダーのような扱いだったし、2021年現在の東映のWEBコンテンツ「仮面ライダー図鑑」においては同一ライダーのフォーム違いのような扱いであり、解釈にはブレがある。

 

ほか、ライダーの固有名とフォーム識別子とが癒着しているライダーとして『仮面ライダーオーズ/OOO』(2010)の「仮面ライダーバース」や『仮面ライダービルド』(2017)の「仮面ライダークローズ」などが印象的である。理由は正直よくわからないが、フォームチェンジからライダー名への逆流現象は主役でないサブライダーにおいて特に顕著に進行している*38

 

3.『仮面ライダー』の称号化・脱称号化

3.1.前置き

仮面ライダー本郷猛は改造人間である
彼を改造したショッカーは世界制覇をたくらむ悪の秘密結社である
仮面ライダーは人間の自由のためにショッカーと戦うのだ

仮面ライダーは、ときに特定のキャラクターや特定の見た目に帰することができるように、ときに特定の価値観――「人類の自由のために戦うものが仮面ライダーである」という価値観――に帰することもできる。
逆に言えば、かつて「仮面ライダー○○」に変身していた人物であっても、『仮面ライダー』を支持する特定の価値観にコミットすることを辞めた時点で「仮面ライダー○○」でなくなる、という場合もありうる。また、「仮面ライダー○○」と全く同じ起源・見た目・能力を持つ改造人間であっても、『仮面ライダー』を支持する特定の価値観にコミットしていないために「仮面ライダー××」とは呼ばれず怪人として扱われる、という場合もありうる。

 

何を重んじる者が『仮面ライダー』とみなされるのか、何のために戦う者が『仮面ライダー』とみなされるのか(はたまた、「仮面ライダー」は特定の価値観とは関係のない、客観的・定性的に判断可能なカテゴリなのか)といった価値観は、基本的には作品ごとにさまざまであり、番組ごとに固有の特徴である。
しかしながら、あえて作品間を貫く歴史を俯瞰したときに、実態としての「仮面ライダー」と称号としての『仮面ライダー』が接近・分離する過程といったものはさまざまにみられる。この章ではその変化の過程を(ほかの章にも増してとびとびの追跡ではあるが)追っていく。

 

3.2. レベル0:人間の自由の守護者『仮面ライダー

周知のように、悪の秘密結社ショッカーが世界征服のため作り出したバッタモデルの改造人間が洗脳を逃れ、ショッカーに対抗して戦い始めたのが『仮面ライダー』(1971)における「仮面ライダー1号」である。ショッカーは彼を人類の自由の守護者にするために改造したわけではなく、「仮面ライダー」という名を用意していたわけでもないので(彼が洗脳を逃れなければ、例えば「バッタ男」といった名前が彼には与えられていただろう)、「仮面ライダー1号」が「仮面ライダー」と呼ばれることには「1号」自身の社会的ポジションが関わることになる。「仮面ライダー1号」はつまり、自由を守るため戦う限りにおいてのみ『仮面ライダー』と呼ばれるのであって、彼の改造人間としての肉体や能力だけでは「仮面ライダー1号」とは呼ばれ得ない。

 

はたして「仮面ライダー1号」、ならびにその後裔の昭和ライダーたちもまた、「人間の自由のために戦う」という要件を含んだ称号として『仮面ライダー』の名を名乗っている。
ときに、「人間の自由の守護者」が「正義の使者」とかではないことは(起源からいけば)存外に重要である。というのも、『仮面ライダー』の企画者は、『仮面ライダー』を「正義」として定義することを明確に避けていたのだというのだ。
聞くところによれば、制作者は「正義を掲げようが、人びとの自由を奪う限りではどの立場も悪になりうる。仮面ライダーは自由を奪う悪にこそ立ち向かう」といった意図であくまで「正義」は避け、「自由の守護者」としての『仮面ライダー』を定義したのだという*39

 

仮面ライダー』は客観的・定性的に決定可能なカテゴリではなく、自他の承認があって初めて獲得しうる称号なのだ、という思想は、以下2つの手法によって強化される。一つ目は、もともと『仮面ライダー』の称号を持っていなかった人物が『仮面ライダー』の称号を得るに至る経緯を物語中で描く、という手法だ(当ブログにおける文脈に従えば、その経緯を『命名儀式』と呼ぶこともできるだろう)。二つ目は、『仮面ライダー』の称号を得るに至る改造人間が、改造人間としてのもともとの名前をライダー名とは別に持っているという手法だ。
一つ目の手法を実践されたのは、『仮面ライダーV3』(1973)の「ライダーマン」だ。顔の下半分が露出した異色の外見で知られる彼は、その外見が示唆する通り、当初は『「仮面ライダー」と言えるかどうか微妙な存在』として『仮面ライダーV3』の物語へと登場した。「ライダーマン」に変身する結城丈二は、もとは敵組織デストロンに所属する科学者であり、デストロン時代の上司に裏切りを受けたことで上司に対する復讐を計画、デストロンを離反した復讐の戦士だったのである。当初デストロンの元上司への復讐が目的だったため、「仮面ライダーV3」とも互いに反目することが常だったが、彼はやがて「仮面ライダーV3」と志を同じくする戦友となる。
物語終盤、「ライダーマン」は東京を壊滅させるために放たれるプルトンロケットの軌道を変えるため、単身これに乗り込み、ロケットとともに爆発して海に消える。彼が消えた後「仮面ライダーV3」ははなむけとして彼に『仮面ライダー』の名をはじめて与えることになる。

ライダーマン、よくやってくれた。君は人類を守った。君は英雄だ。俺は君に仮面ライダー4号の名前を送るぞ。

「死後に初めて『仮面ライダー』と呼ばれた」という「ライダーマン」の事例は、『仮面ライダー』という呼称を特別な要件を持った〈称号〉へと昇華させ、なおかつその称号の価値を大いに高めたものである*40

 

二つ目の手法が実践されたのは、『仮面ライダーX』(1974)の「仮面ライダーX」や『仮面ライダーBLACK』(1987)の「仮面ライダーBLACK」であり、とくに「仮面ライダーBLACK」の例がわかりやすい。
仮面ライダーBLACK」は本来、秘密結社ゴルゴムが首魁である創世王の後継者候補として作り出した改造人間「世紀王ブラックサン」である。彼が創世王の後継者候補としてゴルゴムに与していたなら、彼は「ブラックサン」と呼ばれていただろう。しかし、彼は例によって洗脳を逃れ、ゴルゴムに対抗して戦い始める。戦うなかで人々から呼ばれるようになった名前が「仮面ライダーBLACK」であり、「仮面ライダーBLACK≠世紀王ブラックサン」という思想は力の使用目的の違いというかたちでくっきりと浮かび上がる*41

 

3.3. レベル1:人間の自由の守護者でない『仮面ライダー』?

かつて、『仮面ライダー』の称号は、人間の自由の守護者か、それに類する善性の存在にのみ与えられるものであり、狭義での「ヒーロー」しかそれを得ることはかなわなかった。しかし、いくつかの過程を経て、『仮面ライダー』の称号は自由の守護者以外の者たち――人類社会の敵――にも与えられるようになっていく。

 

ひとつめの転機は『仮面ライダーBLACK』の「世紀王シャドームーン」である。「シャドームーン」は、その名が示す通り、「世紀王ブラックサン」と対になる後継者候補の改造人間であり、しかし「ブラックサン」とは違いゴルゴムによる洗脳を受けたため怪人としての役割を果たすに至った戦士である。
彼は、一貫して「ブラックサン」こと「仮面ライダーBLACK」との決着を望み、敵対行動をとったため、狭義の「ヒーロー」にはあたらない。しかし、出自からわかる通り彼は「仮面ライダーBLACK」と同質・同格の能力を持っており、キャラクター性も豊かだったため、(現在では)「仮面ライダー」のひとりに数えられている。彼は「悪の仮面ライダー」の第1号だったわけだ*42。ただ、『「仮面ライダー」なのに悪』という新機軸の反動は大きく、「シャドームーン」の正式名称の頭には「仮面ライダー」がつくことは(このときは)なかった。「シャドームーン」という「悪の仮面ライダー」の登場は、『仮面ライダー』という称号から善性を完全に引き剝がすにはまだ至っていない。

 

純然たる「悪の仮面ライダー」が『仮面ライダー』という肩書を明確に伴ってはじめて現れたのは、『仮面ライダーアギト PROJECT G4』(2001)のことだ。この作品に登場する「仮面ライダーG4」は、最初から最後まで主人公たちに敵対する立場を崩すことなく(変身者が心神喪失しても敵対行動を続けるという徹底ぶり!)、完全なヴィランといえる。かつ、彼の正式名称は「仮面ライダーG4」であり、『仮面ライダー』から善性を引き剝がす試みはとりあえずここに完遂されたといっていいだろう(ただし、当該作品中では「仮面ライダー」というタームは登場しないしないため、「『仮面ライダー』の称号から善性が引き剝がされた」という事態はメタ的にのみ解釈可能であることには注意せよ)。
ここで、『仮面ライダーアギト PROJECT G4』で「悪の仮面ライダー」が登場するに至った経緯を少しだけ追っておこう。
仮面ライダーアギト PROJECT G4』は『仮面ライダーアギト』(2001)と世界観を同じくする劇場版であり、この作品の問題系は『仮面ライダーアギト』の問題系の延長であるとみなしうる。『仮面ライダーアギト』の問題系とは、複数人の「仮面ライダー」を登場させることにより、『仮面ライダー』という“能力”と“称号”に対して適応した者 / 適応しようとする者 / 適応できなかった者 / etc...の対照を描くことにある。このテレビ本編の問題系に対して、ある種外伝的な物語を描く劇場版が、当の問題系の裏面としてそもそも『仮面ライダー』の“称号”としての側面にゆさぶりをかける――“能力”は十分だが人類の自由のためには戦わない戦士は果たして「仮面ライダー」と呼ばれ得るのか――のは、正着だと言えるのではないだろうか。

 

仮面ライダーは善でも悪でもありうる」というアイデアを、作品世界中に「ライダー」というタームを伴って提示し、「仮面ライダーシリーズ」に完全に定着させたのは『仮面ライダー龍騎』(2002)だ。
仮面ライダー龍騎』では、13人(以上)もの人間が別々の価値観に基づいて「ライダー」として戦う姿が描かれる。13人のライダーたちの戦う目的は、昭和ライダーたちがそうしていたように相互承認を経たものでもなければ、昭和ライダーたちがそうだったように公益に類するものでもない。「仮面ライダー」の戦う目的はむしろ私利私欲であることが強調されている(比較的善性の目的を掲げる主人公でさえ、最終的にはその目的をエゴとして遂行せざるを得ない)。
極め付きは「平成最凶の悪人ライダー」とされる「仮面ライダー王蛇 / 浅倉威」である。彼は拘留中の快楽殺人鬼として登場し、殺し合いを通じて快楽を得るために「仮面ライダー」として戦った。彼の登場以降は、どんな人物であれ、その性格の不徳を理由に「「仮面ライダー」ではない」とみなされることは(メタ的には)ないだろう。どんな悪人が「仮面ライダー」を名乗ろうが、浅倉威以上に性格が苛烈ということはそうそうないのだから。

 

ただ、『仮面ライダー龍騎』がこのように「戦う理由は十人十色」という思想を提示したことは、逆説的に13人のライダーのイデオロギー的共通項を浮き彫りにしてもいる。その共通項とは、「望みをかなえる手段として戦いを選択した」ということである。この時点で、『仮面ライダー龍騎』における『仮面ライダー』とは、「戦いを選択する」というイデオロギーに対して与えられる称号であると言えなくもないのだ。
仮面ライダー龍騎』が確立した「『仮面ライダー』は必ずしも善性とは限らない」という考え方は、『仮面ライダー』の称号を一旦はイデオロギーから引き剝がしながら、翻って別のイデオロギーに接着してみせた。しかしこの変換はさらにもう1回の逆説を経由してついに『仮面ライダー』の称号を完全にイデオロギーから解き放つにいたる。

 

3.4. レベル2:人類みなライダー

仮面ライダー』の定義は、『仮面ライダー龍騎』のなかで「特定の善性の価値観に基づいて戦う者」から「目的のために戦う者」へと変化を遂げた。その変化の続きとして、TVSP『仮面ライダー龍騎 13RIDERS』にこのようなセリフが登場する。

生きるってことは、他人を蹴落とすことなんだ!
いいか! 人間はみんなライダーなんだよ!

仮面ライダー』の称号は、ついに人間全員に付与されるに至った。

 

仮面ライダー』の称号が人間全員に付与されるまでの流れは、単に「人間の自由の守護者→人間全員」という1段階の変化ではなかった点には注意されたい。もし、「仮面ライダーシリーズ」の歴史が(まあ不可能だろうが)単純にこのような1段階の変化をたどっていたとするなら、単に『仮面ライダー』という語からあらゆる意味が失われるだけの話であって、もしそのように意味が失われていたなら、視聴者は「お前も仮面ライダー(=人間)なんだよ」と言われても「……そうだけど何か?」という反応しかできない。『仮面ライダー』という称号の定義は、いくつかの逆説を通じて拡大を遂げたからこそ、「お前も仮面ライダーなんだよ」という発言は「人間一般に当てはまることが実は非-人間的だといえる」という含みを持つにいたる*43

 

人類みなライダーという思想がより具体的に表現されたのは、『仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』(2003)だろう。この作品では、量産型仮面ライダーとも言うべきシステム「ライオトルーパー」を身に着けた1万人の兵士が、個性も何もなく、主人公たちに襲い掛かる。「無名の群衆ピープル・ウィズ・ノー・ネームとしての仮面ライダー」というイメージは、まさしく称号としての『仮面ライダー』の終焉を印象付けるものであっただろう。ただ、「ライオトルーパー」は「仮面ライダー」にカウントする場合もカウントしない場合もあるから正確には「量産型仮面ライダー」と断言しづらいところもあるし、また「ライオトルーパー」に変身する1万人の兵士は狭義の人類には当てはまらない種族なのだが……*44

 

3.5. レベルX:『仮面ライダー』の再-称号化

仮面ライダー」という言葉が特定のイデオロギーから完全に解放された『仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』以降、変身者や周りの人びとは「仮面ライダー」という言葉に自身の信念を託すことが全くできなくなってしまったのだろうか。
否。むしろ事態は逆で、かつて自明だった『「仮面ライダー」は善性の存在である』という定理が崩れ去ったことによって、「仮面ライダー」の変身者は『仮面ライダー』という称号の定義を自発的に設定することができるようになった。『仮面ライダー555』以降のシリーズでは、変身者自身による『仮面ライダー』の定義づけがたびたび行われるようになり、この一種の“命名儀式”は物語をいっそうヒロイックに盛り上げることになる。

 

仮面ライダー剣』(2004)では、「職業としての仮面ライダー」という定義を当初打ち出し、そこに「社会的にヒーローとして承認された仮面ライダー」という定義を重ねていくことで「ヒーローとしての仮面ライダー」を再定義してみせた。
仮面ライダーW』(2009)では、「町に住む人びとの間での噂」として「仮面ライダー」の名前が登場し、主人公たちはこれを誇りとして受け入れて自ら「仮面ライダー」を名乗るようになった。彼らにとって「仮面ライダー」の名は地域社会からの承認の証となる。
仮面ライダードライブ』(2014)では、「敵勢力ロイミュードの業務連絡」として「仮面ライダー」という名が生み出され、やがては市民たちのヒーローの名として定着するに至る。主人公たちは『仮面ライダーW』と同様「仮面ライダー」の名を社会からの承認の証として誇った。また、この作品においては「仮面ライダー」の語に「ロイミュードを倒す者である」という意味がぬぐいがたく含まれており、「仮面ライダーロイミュードと完全に和解することはできない」という悲劇的な展開への一種の布石にもなっているかもしれない。

 

『「仮面ライダー」は客観的・定性的に決定されるものではなく、自発的に定義するもの』という思想が最も先鋭化したのは、『仮面ライダーウィザード』(2012)の第53話「終わらない物語」だろう。このエピソードでは、「仮面ライダーの客観的・定性的な定義(の一例)」を象徴的に掌握してみせた怪人に対して、「仮面ライダー」たち自身が『仮面ライダー』の定義を宣言しなおすことで、「仮面ライダー」としての能力を奪還し、怪人を打倒する過程が描かれる。
もう少し具体的に言うと、このエピソードでは、謎の魔法使いアマダムが「仮面ライダーの本質は怪人と出自が同じである点にある」と主張して、「仮面ライダーの本質」の具現化であろう謎の物体「クロス・オブ・ファイア」を掌握する。「クロス・オブ・ファイア」が掌握された時点から、主人公である「仮面ライダーウィザード」を含めた複数の仮面ライダーはアマダムへの攻撃が効かなくなり、窮地を迎える。しかし、「仮面ライダーディケイド / 門矢士」が

俺達は正義のために戦うんじゃない 俺達は人間の自由のために戦うんだ

と宣言した時点から再度「仮面ライダー」たちの攻撃はアマダムに通じるようになり、これを撃破することに成功する。「クロス・オブ・ファイア」が掌握されているか否かは究極的にはどうでもよかったのだ。
概念同士の折衝が直截に戦闘へと昇華されるこの感じ、いかにも平成2期っぽい。

 

4. ヒーロー名と番組との分離

4.1. 前置き

特定のストーリーを持ったテレビ番組のタイトルが、そのストーリーの主人公を直截に表現しているというような場合は珍しくない。『ちびまる子ちゃん』の主人公は「ちびまる子ちゃん」だし、『名探偵コナン』の主人公は「名探偵コナン」だし、『おじゃる丸』の主人公は「おじゃる丸」だ*45
ヒーロー番組においてこの傾向は強い。『ウルトラマン』の主人公は「ウルトラマン」だろうという印象が大きいし、『秘密戦隊ゴレンジャー』の主人公は「秘密戦隊ゴレンジャー」の5人だろうという印象が大きいし、『宇宙刑事ギャバン』の主人公は「宇宙刑事ギャバン」だろうという印象が大きい。こうした傾向はもちろん「仮面ライダーシリーズ」でも例外でなく、『仮面ライダー○○』という作品の主人公はたいてい「仮面ライダー○○」である。そこに異存はない。
ただ逆に、仮面ライダー○○」という名前を持っているヒーローが必ずしも『仮面ライダー○○』という番組の主人公でも登場人物でもないという事態は、かつては珍しかったが、近年ではかなり一般的になった。今般では、『仮面ライダー○○』という一つの作品に対して5人から20人ほどの「仮面ライダー」が登場することが普通なので、毎年4人から19人ほどの「仮面ライダー」は自身の冠番組(?)を持たないことになる*46。「仮面ライダー」の称号を持つことは、いまや主人公ヒーロー性の証明にはなりえないのだ。
と、書いてしまえばほとんど当たり前のことなのだが、その歴史的経過を以下にもう少しだけ詳述していく。

 

4.2. レベル0:仮面ライダー=主役

かつて、「仮面ライダー」は自身が登場する番組の唯一無二のヒーローであった。逆に言えば、ある番組の中で、毎話登場して人間の自由のために戦っている超人は、必ずやその番組の無二の主人公だった。
多少の例外はある。人間の自由のために超人的な力をふるった戦士であるにもかかわらず、(無二の)主人公ではなく、「仮面ライダー」の名も与えられなかった者として、『仮面ライダーV3』(1973)の「ライダーマン」や『仮面ライダーストロンガー』(1975)の「電波人間タックル」がいる。「ライダーマン」が「仮面ライダー」たりえなかった理由としては、前述した「ヒーローの称号を得るまでの過渡期的性質のため」というものが大きく、「電波人間タックル」が「仮面ライダー」たりえなかった理由としては、彼女が女性であるということが大きかっただろう*47*48。「仮面ライダー」と同質・同格の能力を持っているにもかかわらず、主人公でなく、「仮面ライダー」の名を与えられなかった者として、『仮面ライダーBLACK』(1987)の「シャドームーン」がいる。「シャドームーン」が「仮面ライダー」たりえなかった理由として最大のものは、彼がヴィランであることに拠っているだろう*49

 

4.3. レベル1:「仮面ライダー」というタームの作品世界からの排除

ときに、「仮面ライダーシリーズ」のうち昭和に放送された9つとその他のテレビ番組では、そのすべてにおいて劇中で「仮面ライダー」という用語が用いられていた。このことは当然に思われるかもしれないが、時代が平成に入ると、「仮面ライダー」というタームは必ずしも劇中には登場しなくなる。
はじめて「仮面ライダー」というタームが消失した作品は、『真・仮面ライダー 序章』(1992)である。この作品では、ラストシーンでモニターに「MASKED RIDER」の文字*50が浮かび上がるだけで、「仮面ライダー」というタームを口に出す者はまったく出てこない。
この作品から「仮面ライダー」という単語が消し去られている(かに見える)のは、「仮面ライダー」という語が徹頭徹尾存在しない作品世界を表現したかったからではおそらくない。というのも、『真・仮面ライダー 序章』は「序章」という副題が示すように本来連作になる予定だった作品の1本目であり、「仮面ライダー」が「仮面ライダー」と呼ばれる前のオリジンを描いた作品であるため、「仮面ライダー」という単語がまだ登場しないというだけなのだ。幸か不幸か、『真・仮面ライダー 序章』は好評すぎたために続編の企画が立ち消えになり、『真・仮面ライダー 序章』の世界のなかで「仮面ライダー」という語が生まれることはついぞなかった。
そのとき少し不思議なことが起こる。『真・仮面ライダー 序章』の主人公は「仮面ライダーシン / 風祭真」である。前述した通り『真・仮面ライダー 序章』作中には「仮面ライダー」という単語は存在しないのだが、主人公の正式名称の頭には「仮面ライダー」がつく。このヒーロー、作品世界中には存在しない概念で公式設定が構成されているのだ……まあ、不思議と言えば不思議だが、「仮面ライダーシリーズ」に限っても限らなくても、ありふれた現象ではあるか*51

 

『真・仮面ライダー 序章』から『仮面ライダーZO』(1993)『仮面ライダーJ』(1994)をはさんで、『仮面ライダークウガ』(2000)でもまた、「仮面ライダー」というタームは作中世界から排除されることになる。「仮面ライダークウガ」は作中では単に「クウガ」とかあるいは「未確認生命体4号」と呼ばれるのみで、「仮面ライダークウガ」とは呼ばれない。
仮面ライダークウガ』の作中に「仮面ライダー」という単語が登場しなかったのは、一種のリアルさの表現のためだっただろう。「仮面ライダー」という単語を耳にするとき、我々はどうしても「『仮面ライダークウガ』の作中世界にはいまだかつて存在したことがなかった新しい概念」としての「仮面ライダー」ではなく「1971年からシリーズを連ねてきた“あの”ヒーロー」としての「仮面ライダー」のほうをイメージしてしまう。『仮面ライダークウガ』のようなSF作品のなかで、まったく新しい概念として「仮面ライダー」という単語を登場させようとしても、視聴者はまったく新しい概念が我々のずっと見知ってきたフィクション上の概念と一致する名前を持つことに困惑するか、ひょっとすると滑稽に感じるかもしれない。要は、「仮面ライダー」という単語は『仮面ライダークウガ』のリアル志向を損ねてしまうのだ*52*53
仮面ライダークウガ』以降、『仮面ライダーアギト』(2001)や『仮面ライダー響鬼』(2005)、『仮面ライダー電王』(2007)などの作品が作中に「仮面ライダー」という単語を登場させないという道を選ぶことになる。

 

4.4. レベル2:「仮面ライダー」の複数化

仮面ライダー○○」という名前だからといって『仮面ライダー○○』という作品の主人公というわけではない、という状況は、一作品に登場する「仮面ライダー」の増加によって端的に達成されることになる。
一作品に複数の「仮面ライダー」がレギュラー出演することは、昭和にもいくつかの例があったが、「仮面ライダー○○」という名を持った「仮面ライダー」が最序盤から複数登場するのは『仮面ライダーアギト』がはじめてになる。
仮面ライダーアギト』では、序盤から「仮面ライダーアギト」「仮面ライダーG3」「仮面ライダーギルス」の3名がそれぞれ「すでに仮面ライダーである男」「仮面ライダーになろうとする男」「仮面ライダーになってしまった男」として登場する。こうした「仮面ライダー」の複数同時登場は、前述したような『仮面ライダー』の“称号”としての側面へのゆさぶりに奉仕していたといえるだろう。複数の超人ヒーローの登場は、すべてのヒーローの定義を解体するとともに、一部のヒーローの主人公ヒーロー性を強化する……。

 

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5. (いまさら)当記事の目的と展望

以上、「仮面ライダー」という概念がかつて自明に持っていた4つの側面を段階的に引きはがされていく過程を、私の知る限りで論じてきた。
最後に、当記事を書いた目的のうち、実はまだ詳しく話していない部分について書いておくとともに、私から読者へのささやかな望みも述べさせていただきたい。

 

私には、特撮ファンによる「仮面ライダーシリーズ」の受容に関してすこしだけ不満に思うところがある。その不満とは、「仮面ライダーシリーズ」特有の作劇上の特徴が、しばしば極端に「普通」と位置づけられたりしばしば極端に「狂気」と位置付けられたりすることである。
例えばこんなことだ。『仮面ライダージオウ Over Quartzer』(2019)には、いくつものヘンな描写・ヘンな論理が頻発する。「歴史から平成時代をいったんすべて消し去るために、平成生まれのものを物理的に吸い込み始める敵組織」とか、「仮面ライダーのパロディキャラが収監されている牢屋」とか、「主人公の正体として互いに食い違う複数のオリジンが描かれ、説明されればされるほど正体がわからない」とか、「古墳から突然火柱が上がる」とか……。これらのヘンな描写・ヘンな論理を「狂気ではない」「どんな映画でもあること」と位置づけようとするしぐさが一部のオタクにあるが、私はその立場には賛同できない。とつぜん古墳から火柱が上がる映画(理屈も目的もよくわからない)が狂気でないならこの世のいったい何が狂気だというのか。かといって、ヘンな描写・ヘンな論理をやたらと「狂気」だとみなしてなおかつ持ち上げた気になっているしぐさも、一部のオタクにはあるだろうが、私はこの立場にも賛同できない。このヘンさは、狂気は狂気でも、「仮面ライダーシリーズ」が持つ歴史のなかに一定の理由を求められるものであり、降ってわいたように出てきたまったく理解可能なものではない。
ひとはときに、自分には理解不能な“何か”をコンテンツのなかに求めるだろうが、それは理解の努力を投げ捨てることで得られるものではなく、むしろ理解できる部分を理解したあとに得られるものだろう。だから私は、なにかヘンなものに出会ったとき、起源と歴史に照らして理解できるものは理解したうえで、まだそれがヘンならヘンなものだとして受け取りたい。そのためなら、私は自分が愛するコンテンツの起源と歴史にうるさいオタクでありたいし、ヘンなものをヘンなものと感じる感性もまた失いたくない。
実際、私たちはヘンさを感じる感性を失う必要はないだろう。刹那・F・セイエイが「俺がガンダムだ」と述べ立てることには一定の背景と理由があるが、その背景と理由を知ってもなお刹那が狂人であることには変わりない、ということをあなたも知っているはずだ。
つまり私は、「仮面ライダーシリーズ」における今般の主要なヘンさのうちのひとつ――「仮面ライダー」という概念が一人歩きしているという現状――を、単なる「普通」でもなく、理解不能な「狂気」でもなく、「正気から生まれた狂気」として捉えなおすことを目標に、当記事をあらわす。

 

そして、当記事の発端が(「仮面ライダーシリーズ」に関する記事でなく)なんかアズレンに関連するらしいLW氏の記事であったことからも明らかなように、「概念の一人歩き」は「仮面ライダーシリーズ」に限って起こりうる現象でなく、むしろ今般は多くのコンテンツにおいて起こっていることだ。私は、複数のコンテンツにおいて、「概念の一人歩き」がいかようにして起こってきたのか・いかなる要因が「概念の一人歩き」を起こしうるのかを知りたいと思っている。そこで読者にあられては、なにかしらあなたの見知ったコンテンツにおいて、「概念の一人歩き」というべき現象が起こっていないか・それはどのように起こって来たのかを、簡単にでいいので記事にして教えてほしい。
Fateシリーズ」の「英霊」概念はいかにして拡散してきたのか、アメコミにおけるヒーロー名の継承にはどのような必然性があるのか、「ウルトラシリーズ」における「ウルトラマン」概念は「仮面ライダー」概念と同様の歴史をたどったのか、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』はどうして「エヴァンゲリオン・イマジナリー」にたどり着けたのか……。あなたがもしそこらへん詳しかったら(詳しくなくても)、私の興味を充たすために、ぜひとも筆を執ることだ。

*1:0に収束するという意味では果てはあるのかもしれない。

*2:「IQが低い」とかいう表現を用いるのがすでにもう……。

*3:「この発言は『自分はデフォルトでは頭がいい』という前提に立っているひとにしか言えない思い上がった発言ではないか?」という耳の痛い指摘があるかもしれないが、いちおう、そうではない。自分はデフォルトでかなり浅慮だしかなり無知ではあるが、それでも『昨日よりアホになっても構わない』ということにはならない、自分にとっても、他人にとっても。
また、いかに自分が浅慮で無知であることをよく知っているとは言っても「俺アホだから間違ったこと言うかも」「俺アホだから意味のないこと書くかも」とかいった予防線を張ることは、俺の書こうとしているあらゆる文章に関して(正直したくてたまらないが)許されない。自分から「俺アホだから」とか言う相手に対しては、いかなる反駁も検討もしてやることができない。そういった予防線を張る行為は機会損失であるばかりでなくおよそ人間の書く文章そのものに対する不誠実であって、唾棄すべき甘えだ。私が私になんとか許してやれるのは「ここまでは知っているつもりだけどここからさきはよく知らない」「ここまでは理解しているつもりだけどここからさきはまだ理解できていない」「ここまでは理屈だがここからさきは感情だ」とかいったとことん具体的な限界づけだけだ。間違っても「この記事は自分用のメモ」とかいったブログ記事を書かないように努めたい(この努力はいまだ途上である)。

*4:新幹線が生まれたときにはまだ「0系」という名前は存在しなかったように、仮面ライダーもその一人目が生まれた時点では「仮面ライダー1号」という名前では呼ばれていなかった。

*5:特オタならば聞き飽きた話だろうということで、当記事ではこの事故の詳細について詳述はしない。特オタでなくてこの事故の詳細が気になる方はWikipedia仮面ライダー』の項「3.4 藤岡弘の事故負傷とその影響」でも読んでいただければ。

*6:実際にその2やその3の道を選んだヒーローも複数存在する。その2を選んだヒーローとしては、例えば「七色仮面 / 蘭光太郎」や「ウォーマシン / ローディ」などがいるし、その3を選んだヒーローとしては例えば「キレンジャー / 大岩大太→熊野大五郎」などがいる。

*7:ちなみに、「ウルトラシリーズ」に登場するウルトラマンたちが仮面ライダーと同様に種と個体の2重構造でヒーローを定義しているのは、『仮面ライダー』(1971)よりも後になってから、「仮面ライダーシリーズ」とはまったく別の事情によって引き起こされた事態である。詳細は「ウルトラマンA 命名経緯」とでも検索すればわかるか。

*8:どちらかといえば襲名ベースでことを運ぶ歴史をたどったのがアメコミ世界であろう。
いちおう譲歩しておくと、アメコミにはアメコミなりの歴史があって、ヒーローと変身者との対応関係は混沌(正しくは混迷)を極めてはいる。だが、アメコミでは仮面ライダーシリーズよりはまだヒーローに属人的な性質が残っており、その理由の一端は襲名ベースでことを運ぶという慣習に拠っているのではないだろうか。

*9:仮面ライダーBLACK RX仮面ライダーBLACKとは別のヒーローである」のか、それとも「仮面ライダーBLACK RX仮面ライダーBLACKの正統な強化形態、つまり仮面ライダーBLACKの一種である」のかを両作品の描写や設定からどちらかに決定することは難しい。というか、勘のいい読者なら指摘するだろうが、二つの見方は決定的に対立しているわけではなく、両立しうる。

「両者は別のヒーローである」という見方と「両者は一種である」という見方の双方を区別しうるのは、作品そのものの描写や設定よりもむしろ、後世になされる批評だ。つまり二つの見方は、いずれもが事後的に形成されている。

ここでいう批評とはかなり広義の批評であり、つまり、オタクによる両作品の取り扱い方や、あるいは平成ライダーにおけるBLACK RXやBLACKのゲスト登場なども含む。

2021年現在、「仮面ライダーBLACK RX」と「仮面ライダーBLACK」という両ヒーローは「昭和11号」と「昭和12号」にそれぞれあたり、別のヒーローであるというのが一般的な受容態度だ。こうした見方を決定づけたのは『仮面ライダーディケイド』(2009)と『仮面ライダー大戦』(2014)あたりであろうと私は踏んでいる。とくに『仮面ライダーディケイド』が提示したひとつの立場ルール――時間移動はいち世界内における有限距離の一次元移動ではなく、それ自体世界間移動であるという立場ルール――は非常に興味深い。この立場ルールは(現代の作品の多くを占める、それがSFの名を冠されないほどにSF的見方が空気化したSF作品においては)かなり独特であるにもかかわらず、『仮面ライダージオウ』(2018)のような別作品の中にあっても「仮面ライダーディケイド / 門矢士」のゲスト登場とともに突然適用され始めるということがあるために、相応の注意が必要である。

*10:これはまったく余談ではあるが、誤解をうけたくないので言っておく。私はこの文章において、「玩具メーカーが新商品を売るための番組作り」という状況を批難する気はとくにないし、そういった状況全般を個人的に愛してすらいる。

私は子供時代、たまに行くトイザらス玩具店のチラシで毎年の新商品をためつすがめつするのを心から楽しんで生きていたものだ。そこでは「自分が手に入れるかどうか」ということは実はさほど関係がなくて(実際私は、お小遣いはもらっていないし、親からの折々のプレゼントも書籍が中心で、特に夢中になって眺めていたおもちゃたちに実際に触れたことや心から欲しいと思ったことはあまりない)、迎える年ごとに新しい趣向の商品が提示されるということそれ自体が重要だったのだ。

自らの持っていた欲望を転倒させ、物体的価値でなく“新しさ”そのものを愛するという能力は、種の保存のためでなく文化のために生きることができる“高等な”生物――あるいは“爛熟した”生物――である私たちの特権だ。

私は、私がかつて楽しんだように、見も知らぬいまの子供たちにも、転倒した物欲でもって“新しさ”を楽しんでほしい……たとい、ストレートな物欲に飲み込まれるほうの子供が実際には大半だったとしても、だ。

*11:アクシデント的であることは運命的であることと表裏一体でもある。

*12:逆に、「仮面ライダーシリーズ」において、もともとミクロな変身のみをつかさどっていたはずの「変身ベルト」というアイテムが、長期にわたるシリーズ展開のなかでマクロな変身さえつかさどるようにその担当範囲を伸長していったのだ、という言い方もできるだろう。

*13:ここで私がイメージしているのは、例えば『仮面ライダー』(1971)の敵宗教組織「ゲルダム団」とか『バトルフィーバーJ』(1979)の敵宗教組織「秘密結社エゴス」とかである。ちょっと時代区分がアバウトすぎるんじゃないかといわれれば、それはそう。

*14:この仮面ライダーは、2018年までは「アナザーアギト」を正式名称とするのが慣例だったが、2018年以降は「仮面ライダーアナザーアギト」を正式名称とするのが公式設定となっている。

*15:より正確には、「仮面ライダーG3」の原形という側面もある。ウイングガンダムゼロのような話である。

*16:マトリックス』(1999)における「エージェント」の在り方にもかなり近いだろう。

*17:ここでいう異世界「ミラーワールド」が、ほんとうに「仮面ライダー専用の異世界」だったのか否か――成立経緯という面でも仮面ライダーのためにあつらえたものとみなせたのか否か――には解釈の余地がある。ミラーワールドの起源を比較的示唆している作品としては『仮面ライダー龍騎 13RIDERS』(2002)を参照。

*18:ただし、「仮面ライダーデルタ」への継続的な変身によって変身者の精神に変調をきたす可能性は高い。

*19:私の調べでは、テレビ本編中「仮面ライダーファイズ」に変身したことがあるキャラクターは5人、「仮面ライダーカイザ」は6人、「仮面ライダーデルタ」は9人である。

*20:仮面ライダーウィザード』(2012)に登場する「仮面ライダーメイジ」などが該当する。

*21:ちなみに、トレーディングカードゲームを中心的モチーフとしていた『デジモンテイマーズ』は2001年の作品である。

*22:懐古的なことを言わせてもらうなら、『龍騎』以来、『クウガ』の「アークル」や『アギト』の「オルタリング」のような神秘的なデザインの変身ベルトは絶えて久しいのである……。

*23:このように「キャラクター」の定義を作って運用するうえで、懸念のひとつは『この定義は「マイクロソフト社」や「ショッカー」のような“法人格”をうまく排除できているのか』という問題だ。私の意図としてはこういった法人格は当記事における「キャラクター」の定義からは排除したいのだが、「自律的に思考し行動する」という文言の解釈しだいではこういった法人格も「キャラクター」の範疇に含まれることになってしまう。解決策を知っている方があればご教示願いたい。

*24:不確かなウワサによれば、『仮面ライダーディケイド』は企画初期では、並行世界などではない既存ライダー本人がゲスト出演する物語になる予定であったという。最終的に、既存ライダーに並行世界の別人が変身するスタイルで完成したのは、既存ライダーのオリジナルキャストのうち幾人かのスケジュールがとれなかった、というしごく実際的な理由によるらしい。

そもそも、仮面ライダーを製作する東映は、業界内では異常なほどスケジュール確保のタイミングが遅いらしく、数年単位でスケジュールが埋まっている人気俳優は本人の意向どうこう以前に仮面ライダーにスケジュールを合わせることが非常に困難なのだそうだ。

*25:なお、一連の作品群のなかで門矢士のオリジンに最も迫っているのは『仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』(2009)であると私はみなしている。

*26:公式の記述に倣えば、「ディエンド」が専用アイテム「ディエンドライバー」を使って“召喚”する仮面ライダーたちの正体は“能力の塊”であり、“どこかの並行世界に存在した本人”や“オリジナルのキャラクターに忠実なコピーのキャラクター”ではない。“能力の塊”ってなに?

*27:「仮面ライダーG4」や「仮面ライダーオーディン」などが該当する。

*28:「ショッカーライダー」や「仮面ライダーカイザ / 高宮航太」などが該当する。

*29:「謎のヒロインX」みたいだ……。

*30:この機能は作劇上明らかにもてあまされていた。

*31:いまではあらゆるヒーローで一般的になったかと思われるヒーローのフォームチェンジだが、ヒーローがフォームチェンジを始めたのはある程度最近になってからのことだ。ウルトラマンがフォームチェンジを行ったのは『ウルトラマンティガ』(1996)が最初であり、「ウルトラシリーズ」は「仮面ライダーシリーズ」がそうだったような急激なフォームチェンジ文化の発展を遂げなかった。戦隊ヒーローのフォームチェンジとしては『地球戦隊ファイブマン』(1990)以降パワーアップ形態が散見されるが、戦士そのもののバリエーションを重視するスタイルゆえか、やはり「仮面ライダーシリーズ」のように複雑化したフォームチェンジ文化はない(ただし、海を越えてアメリカでは、スーパー戦隊発のパワーアップ概念が「バトライズ」として発展を遂げているようである)。

*32:「旧1号」と「新1号」との間に、俗に「桜島1号」と呼ばれる中間的なパターンも存在する。「旧1号」と「桜島1号」を「作品世界の中で確かに存在する違い」とみなすかどうかは意見の分かれるところになる。

*33:特撮オタクとしては、「旧1号」と「新1号」の見た目の差は歴然に見える。しかし、客観的に見たとき両者の差は本当に大きいのかどうか、私にはいまいち自信がない。デザイン間の差の大きさを定量化する方法には何があるんだろう?

*34:比較のために「ウルトラマンジャック」を例に出そう。「ジャック」の撮影用スーツは、『帰ってきたウルトラマン』(1971)に登場したときは手が銀色だったが、『ウルトラマンタロウ』(1973)第52話に登場したときは手が赤色だった。この色の変化は「画風の変化」で片づけるにはあまりにも大きすぎるものだと私には思われる。しかし、生物である「ジャック」が突然肌の色を変えるといった事態は想定しづらいため、「ジャック」の手の色の変化が「作品世界内で起こっていること」として扱われることは少ない。

*35:おなじく児童誌発の設定として「「新1号」は本郷自らの手で再改造した姿」というパターンや「戦闘を重ねたことで「新1号」に進化した」というパターンも存在するらしい。

*36:仮面ライダークウガ」はおそらく「ヒーロー名の後ろにフォーム識別子を付する」というやり方の「仮面ライダーシリーズ」における起源ではあるが、日本のスーパーヒーロー全体における起源ではない。少なくとも『ウルトラマンティガ』(1996)の「ウルトラマンティガ」が「タイプチェンジ」というフォームチェンジを行っており、フォームチェンジを導入するのがメジャーどころのなかでは最もはやかった。

*37:念のため言っておくと、「別ライダーなのか同一ライダーのフォーム違いなのか」といった問題を細かく掘り下げたとしても、設定解釈や作品批評としては大した意味はない。この記事はライダーの固有名についての記事なので、「仮面ライダーマッハと仮面ライダーマッハチェイサーは別ライダーなのか否か」といった問題に多少の意味を見出しているが、この記事以外の文脈においてこの問題が重要になる場面はそう多くないだろう。

*38:また、ごく近年みられる注視すべき事態として、「主役ライダーの最強形態が同一ライダーのいち形態としてでなく別ライダーとして登場する」という事態もある。『仮面ライダーゼロワン』(2019)における「仮面ライダーゼロワン / 飛電或人」の最強形態「仮面ライダーゼロツー / 飛電或人」と、『仮面ライダーセイバー』(2020)における「仮面ライダーセイバー / 神山飛羽真」の最強形態「仮面ライダークロスセイバー / 神山飛羽真」がその例である。まだ2例なので断言できることは少ないが、「フォームチェンジからライダー名への逆流」と呼ぶべき現象が主役ライダーでも進行していたという証拠に、今後なるかもしれない。

*39:ヒーローを「正義」そのものと定義することを避ける――ヒーローが特定のイデオロギーに与する者として先鋭化させない――という“ためらい”は、同時多発テロ以降の文化に特有であるとか湾岸戦争以後の文化に特有であるとかベトナム戦争以後の文化に特有であるとか言われることもあるが、もちろんそれは言い過ぎで、“ためらい”の構造自体は戦後日本の文化に絶えず存在したものである。本文で述べたように、『仮面ライダー』(1971)がそもそも「正義」ではないし、もっと古く『月光仮面』(1958)なども「正義」ではなかった。

月光仮面」は、「正義の味方」という連語を初めて生み出し、定着させたヒーローなのだが、この「正義の味方」というフレーズはそもそも『「月光仮面」は「正義」そのものではない』という意図を込めた造語であった。制作者の考えとしては、一人の人間が正しさそのものを体現しようというのは僭越であって、人間にできるのは正しきことが行われるようこれを擁護することであるのだそうだ。こうした「正義の味方」観は『仮面ライダー』における「自由の守護者(≠正義)」概念とは違うが、「ヒーローを「正義」そのものとして定義する」ことへの“ためらい”としてみたとき共通するところが多いだろう。

「絶対的な正義とは距離をとる」それ自体はいつでもある概念であって、当たり前の話だ。70年代文化とか80年代文化とかその他に帰するべきものではない。テロや戦争といった歴史的事件と絡めて論ずるべきは、むしろ、「絶対的な正義とは距離をとる」という当たり前の問題設定のなかで、その問題を扱う焦点がどこに当たっているかであろう。

*40:ライダーマン」は後続作においてうやむやのうちに生還することになるのだが。

*41:余談だが、『仮面ライダーBLACK』作中世界において「仮面ライダー」という語がいかなる起源をもっているかというのは微妙な話だ。というのも、『仮面ライダーBLACK』の続編『仮面ライダーBLACK RX』の世界観は過去10人の「仮面ライダー」を擁する作品群と世界観を同じくするのだが、『仮面ライダーBLACK』の世界観自体は他のライダー作品と世界観を同じくするのか否か明確でない。もし、『仮面ライダーBLACK』の作中世界に「仮面ライダーBLACK」以前にも「仮面ライダー」がいたとするなら、「仮面ライダーBLACK」を「仮面ライダー」と呼ぶ人びとは彼に「人類の自由の守護者」という性質を期待しているという証左になる。もし、『仮面ライダーBLACK』の作中世界で「仮面ライダーBLACK」が初めての「仮面ライダー」だとするなら、「仮面ライダー」の要件は、「仮面ライダーBLACK / 南光太郎」が己の行動を通して自由に決定することができるだろう。

*42:しかし、注意が必要なのが、「シャドームーン」は「仮面ライダー」であるという扱い方が事後的に構成されたものである可能性が高いということだ。『仮面ライダーBLACK』放映当時の「シャドームーン」の扱い方は、どちらかといえば「特別な怪人」であって「仮面ライダーではない」という印象が強い、気がする。

事後的に「仮面ライダー」の一員に加えられる、という扱い方は、プリキュアシリーズにおける「シャイニールミナス」や「ミルキィローズ」の扱い方(プリキュアと同質・同格の能力だがプリキュアではない戦士扱い→プリキュアの一員扱い)にもちょっと似ているかもしれない。似ていないかもしれない。

*43:これはまったく余談だが、「仮面ライダーシリーズ」におけるような概念かく乱の長い歴史を持たない若いコンテンツが、安直にリベラル思想を啓蒙しようとしたとき――「誰だってスターになれる!」とか「誰だってプリンセスになれる!」とか――そのコンテンツには相応の困難が待ち受けているだろう……。この困難を前にして駄作に成り下がったコンテンツもあれば、困難を乗り越えて傑作になったコンテンツもあるだろうが、実際どんな作品が両者に当てはまるのか、私はそう詳しくない。

一応言っておくと、私には「だから龍騎は深い作品だ」とか言っていたずらにこれを持ち上げる気もない。「人間はみんなライダー」という言葉がそれ自体深い意味を持っているかどうかはけっこう場合によるだろう。

*44:ちなみに、『仮面ライダーウィザードin Magic Land』(2013)に登場する「仮面ライダーメイジ」は、「ライオトルーパー」とは違い、量産型かつ純然たる人類かつ一般市民かつ「正式名称:仮面ライダー○○」である。

*45:もちろんこれは法則とかではない、ちょっとした傾向程度の話であり、例外も無数にある。例えば『サザエさん』は群像劇的性質が強いから「サザエさん」が主人公であると言い切るのは間違いではないにしろ片手落ちになる。例えば『ドラえもん』は、作劇面での主人公はどちらかといえば「野比のび太」であるという意見がありうるだろう。

*46:Vシネマやネット配信で描かれる外伝を考慮すれば、本編で脇役だったライダーが自身の名を冠するプログラムを獲得する事例はかなり増えてきている。とはいっても、やはり全員が冠番組を持てるわけではない。

*47:男の子のヒーローとしての仮面ライダー像を揺さぶることが当時いかほどリスキーだったかについては私には想像の及ぶべくもない。女性で初めての“正式な”「仮面ライダー」の登場は、『仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』(2002)における「仮面ライダーファム」登場まで待たなければならない。

*48:もっとも、「電波人間タックル」のデザイン画稿には「仮面ライダータックル」という書き込みがあったことが知られており、制作者には彼女を「仮面ライダー」として登場させる計画もあった、ということが想像される。

*49:ただし、彼が事後的には「仮面ライダー」の一員とみなされていることは前述した通りである。悪であることはいまや「仮面ライダー」であることに対して障害とはなりえない。

*50:2009年時点までの「仮面ライダー」の標準英訳。『仮面ライダーW』以降は「KAMEN RIDER」が標準英訳になる。

*51:例えば、『ONE PIECE』に登場する黒刀「夜」には擬人化した際の公式設定が存在する。『ONE PIECE』の作中世界において「刀剣の擬人化」がいったい何を意味するのか(2021年12月現在)まったくわからないにもかかわらず。公式設定とはいったい何なのだろう。

*52:聞きかじったところによると、「平成ガメラ三部作」という作品、「作中世界にはカメが存在しない」という裏設定があるらしい。これもおそらく『仮面ライダークウガ』に「仮面ライダー」という単語が登場しないことと同源の理由――「カメ」が存在する世界で「ガメラ」はリアルでない――によるだろう。

*53:ただし、『「仮面ライダー」という単語を使う限りリアルな作品なんて作れない』ということを私は言いたいのではない。「仮面ライダー」という単語を使いながらリアルな作品を作る方法はいくらでも見つかるだろうし、むしろそこが腕の見せ所だ。『仮面ライダークウガ』はたまたまそこを腕の見せ所として選ばなかったというだけの話だ。