反事実性を分解したい

こんな記事をわざわざ書かなくても、私が検討したいような明快さを旨とした整理はマリー・ロール・ライアンあたりがもっとずっとうまくやっているのではないかという怖れがある。マリー・ロール・ライアンの本を探して読むのはそれだけで一苦労なので、読んで比べて確かめようという気はないが。

私は己の無知を正直に告白しておくが、無知による免罪を願うところではないので、無知ゆえの誤りあらば無知ゆえにこれを罵ってもらって構わない。

 

 

 

 

LW氏による自説の説明に対して私が抱く不満のひとつは、反実仮想と虚構的な事実と世界の不完全性とを、ときにはっきりと区別しときにはっきりと区別していないという中途半端さにある。
LW氏は、「反事実的条件を含んだ命題(反実仮想)を間接指示によって説明するのは困難だが、直接指示によって比較的合理的に説明できる」旨と「ある種の固有名がフィクションのキャラクター(虚構的に実在する人物)を指示できるということは、直接指示によって比較的合理的に説明できる」旨とを述べている。

実際、「シャーロック・ホームズが男性でなかったら」「白上フブキが女性でなかったら」といった反事実的条件も、毒杯を飲まなかったソクラテスと同様に明らかに有効に作用するものであるから、固有名「シャーロック・ホームズ」「白上フブキ」も記述とは無関係に直接指示してもよいという主張は筋が通っているように思われる。

ここまでのLW氏の主張には同意するが、ここから先のLW氏の主張はいささか誤解を招きやすい表現だった。

そして、こうした反事実的条件の取り扱いに関しては、実在する人物やフィクション一般の固有名よりもVtuberの固有名がとりわけ親和的である。すなわち、ソクラテスシャーロック・ホームズよりも白上フブキの方が反事実的条件を想定しやすいのだ。というのも、Vtuberは時々刻々と変化するコンテンツであるために記述説であれば固有名が還元されるところの性質の束が極めて流動的だからである。更に、Vtuberは現実に存在する人物に対しては物理的な制約を受けないという点において、既存のフィクション一般に対しては正典とされるテクストを固定されないという点において、潜在的な可変性が相対的に高い。

この部分からは、「現実において事実である/事実でない」と「虚構的に事実である/事実でない」と「規定されている / まだ規定されていない」という三つの“反事実性”を一緒くたに取り扱い、『“ソクラテスは女である”も“シャーロック・ホームズは女である”も“白上フブキは男である”も全部おなじくらい反事実的だけど、なかでも“白上フブキは男である”が一番反事実的』のようなどっちつかずのことを言っている印象をうける。
予想するに、ことの責任はLW氏にあるのではないのだろう。LW氏が参照している先行の議論がそもそも現実世界の事物について説明することに特化した理論であり、虚構世界の事物について説明するうえでの精密さをあまり持っていなかったのだが、LW氏としてそうした先行の議論をふまえてなおかつ読者に分かりやすい説明を追求した結果、もろもろの反事実性を一緒くたに扱わざるを得なかったのだろう。
以下、私はLW氏による自説の説明では不幸にして取りこぼされかねなかったもろもろの反事実性の区別について検討し、LW氏の議論の拡張の方向性の一つとして提案したいと思う。

 

1. 現実における事実 / 虚構における事実

第一に検討するのは、「現実において事実である / 事実でない」と「虚構的に事実である / 事実でない」を区別するという方向性だ。私に読み取れる限り、LW氏の議論では本来両者は区別されるべきであるのに、一部その区別を曖昧にしている箇所がある。
出発点として、区別があいまいになっていると思しき箇所を参照してみよう。

まず現実世界においては物理的な制約は非常に強固であり、いくらわたくしが「ソクラテスが男ではなかったら」と述べたところで、ソクラテスのペニスがヴァギナに変わることなど起こり得ない。現実世界で性質の実現可能性を規定している物理法則なるものが自然科学という近代的イデオロギーが作り出した擬制であるかどうかはともかくとして、フィクション一般に比して相対的に実現される性質の幅が狭いということくらいは抵抗なく認めて頂けるだろう。
その一方、小説や劇台本においては虚構的存在者が持つ性質は物理的制約から解き放たれて想像の翼を纏う。小説内の話であればソクラテスが性転換することはいくらでもあり得よう。

ここでLW氏の意図としては、おそらく

  • 主張A … “ある特定の実在人物がある瞬間に突然女になる”も“ある特定のフィクションのキャラクターがある瞬間に突然女になる”も反事実的条件である
  • 主張B … “ある特定の実在人物がある瞬間に突然女になる”はありえそうもないが“ある特定のフィクションのキャラクターがある瞬間に突然女になる”はありえそう

のふたつの主張が同時に妥当であると主張することにあるのだろう。この二つの主張は、なるほど、同時に満たされている(かのようにみえる)ときも確かにある。例えば、“ある特定の実在人物”と“ある特定のフィクションのキャラクター”のそれぞれに以下のように人名を代入してみよう。

ここで、われわれは“反事実的である”ということを“現実において事実ではない”ととらえた場合、主張A’と主張B’が同時に妥当である(っぽく見える)ことを発見するだろう。すなわち、われわれの現実世界のどこを探しても『突然女になるようなソクラテス』も『突然女になるようなシャーロック・ホームズ』も見つかりはしないが、われわれが知っているソクラテスそのひとが実は『突然女になるようなソクラテス』であると判明するような場合よりもわれわれが知っているシャーロック・ホームズそのひとが『突然女になるようなシャーロック・ホームズ』であると判明するような場合のほうがありうべく感じるだろう。
しかし、“反事実的である”ということが“現実において事実ではない”ばかりでなく“虚構的に事実でない”ともとらえうる場合、反例も存在する。ここで“ある特定の実在人物”と“ある特定のフィクションのキャラクター”のそれぞれに恣意的にとある人名を代入して反例にしよう。

  • 主張A’’ … “ソクラテスがある瞬間に突然女になる”も“早乙女らんまがある瞬間に突然女になる”も反事実的条件である
  • 主張B’’ … “ソクラテスがある瞬間に突然女になる”はありえそうもないが“早乙女らんまがある瞬間に突然女になる”はありえそう

まず、“反事実的である”ということを“現実において事実でない”ととらえよう。このとき、主張A’’と主張B’’とはやはり同時に妥当である(っぽく見える)。
しかし、“反事実的である”ということを“虚構的に事実でない”ととらえよう*1。このとき、主張B’’が妥当である一方、主張A’’は妥当ではない。なぜなら、“早乙女らんまがある瞬間に突然女になる”は端的に事実であって、反事実的条件を構成しえないからだ。
つまり、早乙女らんまのような特殊な事例について反事実的条件を例に挙げたい場合、また、シャーロック・ホームズと早乙女らんまの反事実的性を区別して語りたい場合などは、“現実において事実ではない”と“虚構的に事実でない”を区別しなければならないということだ*2

 

では、“現実において事実ではない”と“虚構的に事実でない”とを区別できる形で両方含んだ反実仮想の考え方としては、どのようなものを考えればよいか。
まずひとつ、ありえそうな考え方は、反事実性を以下の図のように2×2のクロス表の4つのマスをまたいだ5つの矢印としてとらえる考え方だ。
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※この考え方では、虚構的にのみ存在し現実には存在しないような人物(シャーロック・ホームズや早乙女らんまなど)の存在を前提としていると思しき命題は「現実において事実でない(偽である)」として扱う。すなわち、「シャーロック・ホームズは男である」も「シャーロック・ホームズは女である」も「シャーロック・ホームズは男か女である」も一様に「それは現実においてそもそも存在しないのだから、現実において事実ではない」ということだ*3

われわれが、ある反実仮想らしきものがいかなる反事実性に基づいているのか知りたいと思ったときは、基準となるべき事実と比較されるべき仮想とをクロス表のどこかに置き、事実から仮想へとのびる矢印を引くことで反事実性の本性を知ればよい。矢印ができなかったとき(2点が同じマスに位置してしまったとき)、その条件は反事実的条件ではない。

 

例えば、“シャーロック・ホームズが突然女になる”という仮想について、これを“シャーロック・ホームズがそもそも存在しない”現実における事実を始点にして考えるならば以下のような反事実的条件になるであろうし、

シャーロック・ホームズが存在するが、突然女になったりはしない”虚構における事実を始点にして考えるならば以下のような反事実的条件になるだろう。

例えば、“早乙女らんまが突然女になる”という仮想について、これを“早乙女らんまがそもそも存在しない”現実における事実を始点にして考えるならば以下のような反事実的条件になるであろうし、

“早乙女らんまが存在し、突然女になったりもする”虚構における事実を始点にして考えるならば以下のように反事実的条件は生まれないだろう。

例えば、“織田信長が実は女だった”という虚構は世の中にいくらか存在するわけだが、こうした虚構を念頭に考えるとき、“織田信長は男である”という仮想について、これを“織田信長は男である”現実における事実を始点にして考えるならば以下のように反事実的条件は生まれないであろうし、

織田信長が実は女だった”虚構における事実を始点にして考えるならば以下のような反事実的条件になるであろう。

 

また、「現実世界においては物理的な制約は非常に強固であり」「小説や劇台本においては虚構的存在者が持つ性質は物理的制約から解き放たれて想像の翼を纏う」というLW氏のニュアンスをなるべく温存するならば――物理法則に縛られるか否かを尺度の一つとして取り入れるならば――(私自身はこの考え方に賛同するわけではないが)以下のような考え方も候補としては挙げられるだろう。すなわち、ある命題についてこれを“ある命題が(物理)法則としての現実に含まれている / 含まれていない”か“ある命題が個別事象としての事実(現実における事実か虚構的事実かは問わない)に含まれている / 含まれていない”の2×2のクロス表で分類し、このうちの右上・左下のマスに当てはまるものをそれぞれ反事実的条件とみなすという考え方だ。

※ここで、矛盾律は「クロス表の全体に関して自明」というわけでないこととする。

われわれが、ある反実仮想らしきものがいかなる反事実性に基づいているのか知りたいと思ったときは、まず基準としてなんらかの確からしき全称命題を設定し、その命題を左上・左下のマスに、その命題の否定を右上・右下のマスに書く。次に、命題の主語に関する既知の事実(それが現実における事実であれ、虚構的事実であれ)を単称命題として設定し、その命題を右上・左上のマスに、その命題の否定を右下・左下のマスに書く。そして反実仮想らしきものが右上・左下のマスのいずれかに位置していると思われるたならそれは反実仮想であり、そうでなければそれは反実仮想ではないだろう。

 

例えば、「ペガサスは空を飛べる」という命題をなんらかの意味で反事実的な条件としてとらえるときを考える。
まず、基準として「すべての馬は空を飛ぶことができない(部分否定ではなく全部否定の意)」という全称命題を設定する。この全称命題はそれなりに確からしいと思える。
次に、ペガサスに関する既知の事実の一つである「ペガサスは空を飛べる」を設定する(このときは既知の事実が当初の反実仮想と一致しているが、常に一致するわけではない)。もしも、物理法則が馬に対して空を飛ぶことを許さないとするならば――馬の体重の重さや翼が発揮できる揚力の限界などの物理的な要因で「馬は飛べない」という帰結が導けるとするのならば――この命題はそれなりに確からしいと思える。また、この命題をわかりやすさのため「ある種の馬は空を飛べる」という単称命題に設定しなおす。ペガサスがある種の馬であると考える限り、この再設定はそれなりに確からしいと思えるだろう。
そして、得られた全称命題と単称命題を先述した手順通りに2×2のクロス表に配置しよう。以下のような表が得られる。

「ペガサスは空を飛べる」という反実仮想らしきものについて考えられるべきは、左上のマス「すべての馬は空を飛ぶことができない。また、ある種の馬は空を飛ぶことができる」という矛盾らしきものであろう。つまり「ペガサスは空を飛べる」は左上のマスに位置する反事実的条件である。

 

例えば、「シャーロック・ホームズは女である」という命題をなんらかの意味で反事実的な条件としてとらえるときはどうしたらよいだろうか(「シャーロック・ホームズは突然女になったりする」という命題とはべつの命題であることに注意)。ペガサスのときのように「シャーロックホームズは女であれない」ということを物理的な要因によって導くことが可能だとは考えにくいが……。
手段はいくつかあるだろう。さしあたり、ここまでは「法則としての現実」を主に「物理法則としての現実」という意味で運用してきたが、これを拡張して「論理法則としての現実」という意味で運用してみるという手段を試してみよう。ただし、標準論理に属する全ての論理法則を「法則としての現実」として取り扱うのでなく、論理法則のごく一部を「法則としての現実」として取り扱う。
まず、基準として「女でないものはすべて、女であるということはない」という全称命題(強い整合性)を設定する。この全称命題はそれなりに確からしいと思える*4
次に、シャーロック・ホームズに関する既知の事実の一つである「シャーロック・ホームズは女であるということはない」を設定する。この命題はそれなりに確からしいと思える。また、この命題をわかりやすさのため「ある種の女でないものは女であるということはない」という単称命題に設定しなおす。シャーロック・ホームズが女ではないと考える限り、この再設定はそれなりに確からしいと思えるだろう。
そして、得られた全称命題と単称命題を先述した手順通りに2×2のクロス表に配置しよう。以下のような表が得られる。

シャーロック・ホームズは女である」という反実仮想らしきものについて考えられるべきは、左下のマス「女でないものはすべて、女であるということはない。また、ある種の女でないものは女である」という矛盾らしきものであろう。つまり「シャーロック・ホームズは女である」は左下のマスに位置する反事実的条件である。

 

“ある命題が法則としての現実に含まれている / 含まれていない”か“ある命題が個別事象としての事実(現実における事実か虚構的事実かは問わない)に含まれている / 含まれていない”かという二軸を用いて反事実的条件を分類しようとした後者のやり方は、“現実において事実ではない”と“虚構的に事実でない”の二軸を直接に用いた前者のやり方よりも単純で扱いやすくも見える。後者のやり方は反事実的条件を表中の一点においてとらえており、前者のやり方のように表中の二点をつなぐといった操作がないからだ。
しかしながら、冷静に両者のやり方を観察しなおしたとき、後者において前者の複雑さが痕跡を残さず消えているかと言えばそんなことはない。後者においては、複雑さを「全称命題の設定」という著しく恣意的な手続きにしわ寄せしているだけであるようだ。「全称命題の設定」が恣意的に見えるという点では、後者のやり方の信頼性(誰が判断しても同じ分類ができる蓋然性)はあまり高くない。
また、後者のやり方が使いづらいような反実仮想も存在するだろう。たとえば、われわれのうちに「夜に口笛を吹くと必ず蛇が現れる」という全称命題を文字通りの意味で現実に成り立つと思っているひとは少ないだろうが、「もしも夜に口笛を吹くと必ず蛇が現れる世界があったとしたら」という反事実的条件を後者のやり方で分類することはかなり難しい*5
前者と後者それぞれの見方を総合し、かつ弱点の少ないやり方がほかにないのかについては、後にもう一度探ることにしよう。

 

2. 既知の事実に否定される可能性 / 既知の事実に規定されない可能性

第二に検討するのは、「事実に含まれる / 事実の否定に含まれる」と「既知の事実か既知の事実の否定に含まれる / 含まれない」を区別するという方向性だ。私に読み取れる限り、LW氏の議論では両者の区別を曖昧にしている箇所があるが、これを区別できるようにLW氏の理論を拡張することには一定の意義がある。
ここでも、区別があいまいになっていると思しき箇所を参照してみよう。

つまり、「ソクラテスが男性でなかったら」「ホームズが男性でなかったら」という反事実的条件は機能するが、これらはまさしく起こり得ない反事実として措定されるものに過ぎず、我々はただ言説としてこれらを理解できるに過ぎない。それらに比べると、Vtuberにおいては、おたくどもがいみじくもよく言うようにコンテンツが「開いている」。それは二次創作ではなくVtuberのオリジナルが日々様々な媒体によって更新されるというほどの意味であり、具体的には毎日の動画投稿ないし配信やツイートで思いもよらぬ新情報が開示されることを挙げておけば十分だろう。我々が寝たり食ったりしている瞬間にも白上フブキが持つ性質は唐突に更新される可能性が常にあり、それは墓より蘇ったコナン・ドイルが突然シャーロック・ホームズの設定を更新することに比べればよほど現実的だ。

ここではLW氏はおそらく

  • 主張CX … “これまで男だと知られていたある特定の小説キャラクターが未来のいつかの時点で女だと再設定される”も“これまで男だとも女だとも知られていなかったある特定のVtuberが未来のいつかの時点で女だと設定される”も反事実的条件である
  • 主張DY … “これまで男だと知られていたある特定の小説キャラクターが未来のいつかの時点で女だと再設定される”はありえそうもないが“これまで男だとも女だとも知られていなかったある特定のVtuberが未来のいつかの時点で女だと設定される”はありえそう

の両方が妥当であると主張したいのだろう。しかし、このように明文化してみると、この例はあまりきれいな対称性を持っているとはいえない。対称的な例になるように、以下のような2組の主張に分解してみるのはどうだろう。

  • 主張C  “これまで男だと知られていたある特定のキャラクターが未来のいつかの時点で女だと再設定される”も“これまで男だとも女だとも知られていなかったある特定のキャラクターが未来のいつかの時点で女だと設定される”も反事実的条件である
  • 主張D  “これまで男だと知られていたある特定のキャラクターが未来のいつかの時点で女だと再設定される”はありえそうもないが“これまで男だとも女だとも知られていなかったある特定のキャラクターが未来のいつかの時点で女だと設定される”はありえそう
  • 主張X  “これまで男だと知られていたある特定の小説キャラクターが未来のいつかの時点で女だと再設定される”も“これまで男だと知られていたある特定のVtuberが未来のいつかの時点で女だと設定される”も反事実的条件である
  • 主張Y  “これまで男だと知られていたある特定の小説キャラクターが未来のいつかの時点で女だと再設定される”はありえそうもないが“これまで男だと知られていたある特定のVtuberが未来のいつかの時点で女だと設定される”はありえそう

主張C・Dと主張X・Yがそれぞれペアを組む。
まず主張X・Yのペアについてだが、正直なところ、主張Yがさほど妥当だと思えない。なるほど確かに、小説キャラクターとVtuberとを比較した場合、全体に占める現在進行中のキャラクターの割合はVtuberのほうが多いのかもしれない。だがそれはせいぜい程度問題であり、両者の本質的な違いではないのではないかと思っている。だから一概に「小説キャラクターよりもVtuberのほうが未来の設定更新の可能性が高い」とか「未来の設定更新の幅が広い」とか「設定更新が離散的ではなく連続的だ」とか言うほどのことはない。よって、ここから先は主張X・Yについては特に触れない*6
次に主張C・Dのペアについて。主張Cが妥当であるか否かにおいて重要なことは、「事実的」という言葉に「現在までのすべての事実に含まれる」という含みがあるのか「過去から未来までの全ての時間の事実に含まれる」という含みがあるのか、どちらなのかということであろう。もしも「事実的」という言葉が後者の意味であるのならば主張Cはさほど妥当ではなく思えるが、ここでは単に「事実的」とは前者の意味であると定義してしまえばよいだろう。「事実的」が前者の意味であると確認したうえでなら、主張Cで話題になっている2つの命題はいずれも未来にありうべきこと――現在までの事実に含まれない――ことについて云々言っているので、どちらも反事実的条件であるとみてさしあたり問題なかろう*7*8
そして、主張Dにも私はそれなりな妥当性を感じる。主張Dでは話題にしている2つの命題に対してなんらかの質的違いを認めようとしているわけだが、この違いを「ありえそうもなく思える / ありえそうに思える」と曖昧な言葉で語っているわけだ……。この違いをもう少しだけはっきりと定式化することがこの節のさしあたりの目標になる。

 

さて、目標を果たすためには反実仮想をどのように考えればよいのか。ここで私が提案したいのが、「事実に含まれる / 事実の否定に含まれる」と「既知の事実か既知の事実の否定に含まれる / 含まれない」の二軸で反実仮想を考えるという考え方である。

この考え方を理解するにあたり、われわれは一度、単純化のために「われわれの現実において事実」と「虚構的に事実」の区別を忘れて、「事実は事実、事実でないものは事実でない」と一からげに考えてしまおう。
われわれはあるキャラクターに関する反事実条件を考えるにあたり、その反事実条件をこの新しいクロス表のどこかに配置することでその反事実条件を分類できるだろう。すなわち、ある条件があるキャラクターに関して真なる命題であれば「事実に含まれる」に、偽なる命題であれば「事実の否定に含まれる」に配置し、またある条件があるキャラクターに関してこれまで正典のなかで真か偽かはっきり述べられたことかはっきり述べられたことから必然的に推測される内容であれば「規定済み」に、述べられておらず必然的に推測もされない内容であれば「未規定」に配置するような仕方で、その反事実条件はクロス表のどこかに位置を占めるだろう。ただし、現在などの時点を現在と考えたとき、ある種の命題が右下に位置を占めるか左下に位置を占めるかはよくわからないことのほうが多いだろう。こういった場合、右下か左下かは曖昧に処理しておくほかない*9*10

 

例えば、いささか突飛ではあるが、次のようなフィクションのキャラクターを仮定してみよう。そのキャラクターは白上フブキという名前であり、現在まで、「白上フブキの髪の毛の本数は時間的変化をしない」「白上フブキの髪の毛の本数は自然数である」という文のみで正典における白上フブキの記述は尽くされている。また、未来のある時点で正典に白上フブキに関する以下のような記述が追加される。「白上フブキの髪の毛の本数は奇数である」
さてこのとき、例えば「白上フブキはつるっぱげである(髪の毛の本数が0である)」とか「白上フブキの髪の毛の本数は奇数である」とか「白上フブキの髪の毛の本数は偶数である」とかいった命題は、現在という現在からみて、いかなる反事実的条件として考えられるだろうか。答えは以下の通りである。

「白上フブキはつるっぱげである」は既知の事実「白上フブキの髪の毛の本数は自然数である」に明らかに矛盾するので、既知の事実の否定に含まれ、右上のマスに属する反事実的条件である。「白上フブキの髪の毛の本数は奇数である」は現在において既知ではないが、やがて事実に含まれるので左下のマスである。「白上フブキの髪の毛の本数は偶数である」は現在において既知でなく、やがて「白上フブキの髪の毛の本数は奇数である」によって否定されるので右下のマスである。

 

私があえて尺度を追加して反事実的条件を細かく分類しようとしているのは、右上に含まれるような反事実的条件と右下や左下に含まれるような反事実的条件とでは、未来のある時点で設定に加えられやすいか否かが変動するからである。
例えば、『ジョジョの奇妙な冒険』第1部刊行時点を現在としたときのウィル・A・ツェペリを例にしてみよう。ウィル・A・ツェペリは第1部本編中ではっきりと「私には妻も子どももいない」といった旨を発言しており、また子どもを作る描写のないまま亡くなったため、「ウィル・A・ツェペリには生涯を通して子どもはいない」という命題は既知の事実としてクロス表の左上に書き込めることになる。

さて、このとき「ウィル・A・ツェペリには子どもがいる」「ウィル・A・ツェペリは亡くなった瞬間に髪の毛の本数が奇数だった」という2つの命題は、それぞれ反事実的条件とみなせるだろうが、そのどちらも未来のある時点において既知の事実に加えられる可能性があるだろうか?

いや、どちらもその可能性が十全にあるとはいいがたい。左下のマスに位置する命題はのちに既知の事実に加えられる可能性がまだある一方、右上のマスに位置する情報はのちに既知の事実に加えられる可能性がかなり低いのである。キャラクターの設定更新は矛盾を抱え込むことを避ける傾向にあるのだ。いや、言ってしまえば当たり前の話なのだが……。
ただし、矛盾を抱え込むようなかたちで設定更新がなされることは避けられるとはいっても、全く起こらないわけではない。そして行われてしまった場合、その設定更新は多くの場合“作者のうっかりミス”として虚構作品の本性から例外的な扱いを受けるだろう。ウィル・A・ツェペリについても、「ウィル・A・ツェペリの息子が登場する」という設定更新は行われたが、この設定更新は作者のうっかりミスと読者に受け止められたうえで矛盾を含まないような特殊な解釈が付け加えられた。
見方を変えれば、設定更新とは、ふつう、件のクロス表の上段と下段を分ける横棒を下げていく方向に進行するものであり、横棒を上げる方向や縦棒を左右させる方向には進みにくい、ということでもあろう。

 

われわれがもし、ある反事実的条件について、「厳密な意味で、反事実的条件であると言えるか、言えないか」だけでなく「いずれ現実化しそうだと思えるか、思えないか」までもを問題にするのであれば、われわれは右上に位置する反事実的条件と左下に位置する反事実的条件とを区別しなければならないだろう*11

 

3. より一般的なモデルの構築を目指して

前節と前々節で議論してきた内容を総合し、より一般的な一つのモデルのなかにすべての区別を押し込めることはできないだろうか。
例えば、以下のような3×3のクロス表である。

「偶然的事実に含まれる」とは、それぞれの世界で事実として起こった状況すべてを指している。例えば、われわれの現実世界においていえば「ソクラテスは毒杯をあおって死んだ」とか「今日は太陽は東のほうから登ってきた」などがこれに含まれるだろう。例えば、「シャーロック・ホームズ」シリーズが示す虚構世界においていえば「シャーロック・ホームズは『まだらのひも』事件を解決した」とか「モリアーティはライヘンバッハの滝で死んだ」などがこれに含まれるだろう。

「偶然的事実すべてから示唆される物理法則・論理法則の許容内」とは、われわれがこれまで触れてきた多数の偶然的事実の積み重ねから「こういった法則があるのではないか」と帰納されるところの普遍的法則について、それら普遍的法則のなかで可能であるすべての個別的な状況から偶然的事実を除いたものを指す。そしてここには、未来のある時点で起こりうる状況もすべて含まれるだろう。
例えば、(これはかなり極端に単純化した見方ではあるが)われわれがもし「リンゴから手を離したら地面に落下した」「みかんから手を離したら地面に落下した」「月から手を離したら地球に向けて落下した」などなどの大量の個別的経験を持っていれば、それら大量の個別的経験から『万有引力の法則』などのような物理法則が帰納されることもあろう。また、われわれがもし「ある年は台風が1個だけ上陸した」「ある年は台風が10個だけ上陸した」などなどの大量の個別的経験を持っていれば、それら大量の個別的経験から推測される未来のなかには「来年は台風が1個だけ上陸する」も「来年は台風が10個だけ上陸する」も含まれていることだろう*12

そして残りの「物理法則・論理法則の許容外」には、いままでの歴史に否定されたすべての個別的状況と、未来において絶対に起こりえないすべての個別的状況が含まれる。

要は、物理法則・論理法則を過去の事実に基づく経験則に過ぎないと考えることで、偶然性と完璧に区別できるような必然性の存在を否定しようとしているわけだ。まあ、物理法則・論理法則が“本当に”一種の込み入った経験則に過ぎないのか否かは科学哲学の難解な議論を呼ぶであろうし、私は科学哲学の議論に乗るだけの準備が十分でないが……。

*1:ここで「ソクラテスに関して虚構的に事実であるか否かを考える」をどうとらえるかで二つの戦略が存在する。一つ目は、早乙女らんまに関する命題の真偽を『らんま1/2』という虚構において考えるのと対称的に、ソクラテスに関する命題の真偽は「われわれの生きる現実世界の全歴史」という(完全な)虚構において考える、という戦略。二つ目は、早乙女らんまソクラテスも一様に『らんま1/2』というひとつの虚構において考える、という戦略。どちらの戦略がより妥当であるかはいずれ明らかにもなろうが、いまのところはどちらの戦略で解釈しても変わりはない。

*2:「“現実において事実ではない”と“虚構的に事実でない”を区別しなければならない」ということは、言い換えれば、「“ある虚構世界が現実世界とは別様なあり方を持ちうる”ということは“ある虚構世界がその虚構世界自身とは別様な持ち方を持ちえない”ということとは別の水準で理解されなければならない」ということでもあろう。関連する主張として、三浦俊彦『虚構世界の存在論』p23-24に以下の記述がある。『現象主義のもとでは作品Aが{a1 a2 a3......an}以外になることはありえない、ということは、作品Aが{a1 a2 a3......an}以外でありえた、ということと矛盾しないことに注意しよう。現象主義の言う「Aは{a1 a2 a3......an}以外ではありえない」というのは、「現実世界では作品Aは{a1 a2 a3......an}以外の特徴の束であることはありえない」という意味である。他の可能世界では、Aは{a1 a2 a3......bi......an}かもしれないし、{a1 b2 m3......ti......kn}ですらあるかもしれない。』

*3:この取り扱いは言うまでもなくかなり例外の多い暫定的な取扱いに過ぎない。本当のところは、現実において存在しないものの存在を前提にした言明が現実において「偽である」のか「真でも偽でもない」のかについては議論によるのだが、ここでは立ち入らない。

*4:議論の進行のため、この部分を始め、本記事のいくつかの箇所で「すべて人間は男か女である(排中律)」「人間は女でありかつ女でないということはない(矛盾律)」を言外の前提にしているが、実際のわれわれの社会がジェンダーに関してもセックスに関してもこのような単純な二分法が成立していないことは明らかではある。実際に男でも女でもない人間というのはいるし、女でありかつ女でない人間というのもいるし、そうした人間は容易に例外と決めつけられるほど少なくもない。ただ、人間というカテゴリで広きにわたる二分法をイメージしてもらいたいとき、例として男女二分法を挙げるのはことは効率的であることは認めざるを得ない。説明の効率を考えて、私は実際には成り立ちえない男女二分法がさも現実でも虚構でも成り立っているかのような表現をするが、気に食わない方は各自の胸中でなにかべつな二分法に置き換えていただいて結構である。

*5:不可能だとまでは思われないが。

*6:私はLW氏の主張Yを受け入れないし、主張Yに密接に関係するアイデアである「設定更新が離散的 / 連続的」というアイデアも受け入れない。だが、「設定更新が離散的 / 連続的」の代わりになるようなアイデアを別の記事に述べるつもりではある。

*7:“これまで男だとも女だとも知られていなかったある特定のキャラクター”の何割かは、単に作中で男か女かが明言されなかっただけで、男か女かの少なくともどちらかではあるだろう。そうしたキャラクターの性別が確定する状況は“反事実的”といえるのか……? 直観には反するが、本記事の議論としては、こういった状況も反事実的と呼びならわすことにする。例えば、原作中で男だとも女だとも明言されない(らしい)ハンジ・ゾエについては「もしもハンジ・ゾエが男だったら」も「もしもハンジ・ゾエが女だったら」もどちらも反実仮想である。どうしても違和感を感じる方は適宜理論を拡張・修正してほしい。

*8:ある性別不明のキャラクターについて、現在まで作品中で男だとも女だとも明言されておらず、なおかつ現在までの作品中の事実から男であるということも女であるということも演繹できないが、しかし女であると考えるよりも男であると考えるほうが顕著にストーリー的整合性が高い、という場合、そうしたキャラクターの性別が改めて男であると確定することは反事実的であるとみなせるだろうか? 難しい問題ではあるが、本記事の議論としては、こういった状況も反事実的と呼びならわすことにする。例えば、『名探偵コナン』の黒の組織のボスは2021年の第1008話でとある男性であることが判明したわけだが、2020年時点で「黒の組織のボスが男だったら」は反実仮想である。これについても、どうしても違和感を感じる方は適宜理論を拡張・修正してほしい。

*9:厳密には、「右下と左下を一個のマスとする」という扱いや「右下か左下か少なくともどちらかではある」という扱いや「右下とも左下とも言えないが『右下または左下』という一個の状態とする」という扱いがあるだろうが、ここではそれらの区別に立ち入らない。曖昧と言ったら曖昧なのである。

*10:もし仮に、キャラクターに関して言えるすべての命題によって無矛盾で完全で論理的に閉じた一つの集合を形作れるとするならば、キャラクターに関していえる命題のすべてがこのクロス表のどこかに位置を占めることができるだろう。だが、逆に言えば、キャラクターに関していえるすべての命題の集合が矛盾をはらんだり不完全だったり論理的に閉じていなかったりすると、いくつかの命題はこのクロス表のどこにもいれることができない状態になってしまうかもしれない。これは少し困った事態だ。「キャラクターが無矛盾であるとか完全であるとか論理的に閉じているのは当たり前のことだから気にしなくていいのでは?」と言う人もあるだろうが、こと虚構存在論においてキャラクターの無矛盾性(整合性)・完全性・論理的閉鎖性はちっとも自明ではない。また、前節の議論で、矛盾律を部分的に「自明ではない」とみなすことで議論を都合よく進めたような部分もある。だからできればこの節の議論についても無矛盾性や完全性や論理的閉鎖性を自明でなくした形に拡張したいのだが、具体的方策はまだ考えられていない。

*11:「右上に位置する反事実的条件と左下に位置する反事実的条件とは区別されなければならない」とは、別の言い方で表現すれば「ある作品に関して、“今現にあるような姿とは矛盾するような別の姿であったかもしれない”という可能性があることと“今現にあるような姿は複数のありうべき姿を含んでいる”という可能性があることとは別な水準で理解されなければならない」ということになろう。関連する主張として、三浦俊彦『虚構世界の存在論』p37-38に以下の記述がある。『テクストをこのような形の真正現象主義のもとで捉えながら、それでも未規定領域が描写されることが可能だった、と言うとしたら、それは一体どういう意味での可能性を主張していることになるのか。(中略)「別の可能世界においてはテクストが別様の記述内容を持っていたかもしれない」という自然な意味での可能性に訴えることはあまり役に立たない。なぜならその意味での可能性でなら、この現実世界におけるテクストの規定箇所がそもそも異なっているという可能性をも認められることになるから。しかしすべての規定箇所を本質的部分として保持しながらさらに未規定箇所のどれもが規定箇所でありえた、と言いたいのが現象主義的なT-1の眼目なのである。』

*12:しかし、あらゆる物理法則・論理法則が根本的には帰納でしかなく、明日突然裏切られるかもしれない、ということもわれわれは認めなければならないだろう。明日から突然この宇宙のすべての物理定数が書き変わるとか、定数でなくなるとか、標準論理が通用しなくなるとかいった無駄にアナーキーな状況は誰にも否定できない(ただ、宇宙で本当に論理法則がある日突然通用しなくなったとして、われわれにはその変化を認知できないという可能性はある)。普遍的に思われる法則もその普遍性を根本的に保証できるものなど何もない、ということは虚構世界においても同様で、われわれがある種の虚構世界のなかで通用する特有の法則――Fateの世界における魔術の発動原理とか、ドラゴンボールの世界における宇宙の大規模構造とか――をさしあたり信じられる根拠は、当該のフィクション作品中に法則から外れるような事態がたまたま描写されておらず、また登場人物たちも法則にたまたま疑義を呈していない、という虚構的経験則にのみ拠っている。ならば逆に、あるフィクション作品中において例外を許さない強固な経験則は、われわれの住む現実世界において物理法則や論理法則がそうであるような、絶対不可侵の法則として成り立っているのではないかと邪推してみることもわれわれにはできるだろう。例えば、『鋼の錬金術師』において「等価交換の原則」は質量保存等々の定量化できる範囲を超えて、人生における価値や人間の運命にまで敷衍されがちな傾向がある。われわれの世界で「等価交換の原則」を人生における価値や人間の運命にまで敷衍することは単に寓意か盲信とみなされるものではあるが、『鋼の錬金術師』においてはそれが端的に真理であるのかもしれない。フィクション作品は、虚構世界という限定状況において、寓意を物理法則や論理法則などに遜色のない真理にしてみせる、そんな可能性を持っているのだろう。