日記とか存在とか狐とか

日記

議論を次に進めたくて、自分が書いた過去記事をふりかえって読んでるんですけど、難解すぎて衝撃を受けてます。とくに『〇』。自分が書いた文章なのに、書いてあることの9割までしか理解できない。悲しい。

 

白上フブキは存在するのか

存在します。私は白上フブキは存在すると主張します*1

 

LW氏は『フブかつ延長戦』において、「美少女キャラクターが別世界に住んでいる物理的存在者であると考える立場と、美少女キャラクターが我々と同じ現実世界に住んでいる概念的存在者であると考える立場とは二者択一である」と、また「いちおう、二者択一を抜け出し、美少女キャラクターはどこの世界に所属しているわけでもない物理的存在者であると考える立場をとりうる可能性もあるが、LW氏自身には現状理解できない」と述べた。
このLW氏の解釈のなかで、私の立場は「美少女キャラクターが我々と同じ現実世界に住んでいる概念的存在者であると考える立場」に措定されたようなのだが、私にはこの措定に異議を申し立てたい気持ちがあった。そのため、2万字ほどにもなる長大な記事『〇』で私自身のポジションのとりなおしを図ったわけである。
ところが、『〇』はその長大さにもかかわらず、「私がとろうとしている立場がどれか」をうっかり言い忘れていたものだったのかもしれない。私にはいまいちどはっきりと自分の立場を言い直す必要があると感じている。
今度こそはっきり述べるが、私は前掲した三つの立場のうち、第三の立場をとる。つまり、私の考えでは、「美少女キャラクターは物理的存在者であるが、『どこかの世界に属している』とみなす必要はさほどない」

 

私は白上フブキのような美少女キャラクターの虚構的実在を認める。私は私が認めている「美少女キャラクターの虚構的実在」が、どのような在り方の「実在」であるのかについて、以下の3文で表現する。
1. 美少女キャラクターは、多くの行動や属性を、特定の物語世界のなかに持っている。
この文が具体的にはいったい何を意味するのか、『ドキドキ!プリキュア』に登場する「相田マナ」という美少女を当てはめることで例えてみよう。
相田マナは、「中学2年生である」とか「キュアハートに変身する」とか「音痴である」とかいった行動・属性を、『ドキドキ!プリキュア』のテレビ本編のなかでみせている。
2. 美少女キャラクターはまた、いくつかの行動や属性を、基幹となる物語世界の外にも持つことがある。
例えば、相田マナは、(「キュアハート」名義で)キャラソン「Heart style」を歌っている。相田マナが「Heart style」を歌っている時間は、『ドキドキ!プリキュア』が描いている物語世界のうちのどこにも位置づけることができない。
3. 我々が美少女キャラクターの名を呼ぶとき、その名は彼女たちが物語世界の中で行ったことだけでなく、物語世界の外で行ったことをも、指し示すものでなければならない。定理によってではなく、定義によって。
例えば、我々が「相田マナ」という名前で“彼女”のことを指し示そうとするとき、「相田マナ」の名前は『ドキドキ!プリキュア』の劇中で「中学2年生である」ところの“彼女”や「キュアハートに変身する」ところの“彼女”だけでなく、『ドキドキ!プリキュア』の劇外で「Heart styleを歌っている」ところの“彼女”をも意味するものである、とする。この立場は、演繹によってでなく私の独断によって行うものである。

 

つまり、私が幻視したい、「キャラクターの実在」の在り方とは、(連続した時空間であるところの)特定の物語世界の外にまで広がっている(場合もある)ひとまとまりとしてキャラクターは「実在」している、という在り方である。
図にするならこうだ。

f:id:keylla:20220110220746p:plain

そして、上図のように考えたとき、黒線とピンク線を区別するべき理由はないのではないか、と考え始めるひともいるだろう。私はそうだ。

f:id:keylla:20220110220806p:plain

区別をなくした結果として、私は、キャラクターとはそれ自体一個の世界である、と考えるに至った。

 

白上フブキは狐であるのか

白上フブキは狐です。私は白上フブキが狐であることをみとめます。

 

LW氏は『フブかつ』第3節において、(私の知る限り)以下2つのことを主張した。

「フィクションのキャラクターを含む存在者について語るとき、記述説(間接指示)の考え方よりも因果説(直接指示)の考え方のほうが都合がよい」

「フィクションのキャラクターについて語るときのなかでも、Vtuberについて語るときとくに、記述説(間接指示)の考え方よりも因果説(直接指示)の考え方のほうが都合がよい」

この2つの主張が認められるのならば、ことVtuberについて語る限りは、記述説を排して因果説を取り上げ、因果説に基づいて議論を進めることが正当とみなしうる。

 

実際LW氏は、記述説の難点を挙げ、より優れた代案として因果説を持ち出すというかたちで『フブかつ』の議論を進めたわけだ。しかし、私に対しては、記述説を排する当の議論の説得性はいささか低かった(記述説を排する議論を否定したいほどではないが、かといって積極的に賛同する理由もないかな、ぐらいの気持ちだった)。理由は3点ある。
1点目は、話題の範囲を「フィクションのキャラクター一般」から「Vtuber一般」にまで限定するだけの合理性をいまいち感じられないから、という理由だ。「話題をVtuberに限定する意味がよくわからない」というのは、『フブかつ』の大前提をひっくり返そうとする問題発言なわけだが、これには気持ちの面と論理の面二つの原因がある。まず気持ちの面では、「私が(かつては)まるでVtuberに興味がなかったから」という原因。そして論理の面では、「Vtuberに特有のインタラクティヴィティの独特さから、Vtuberの存在様態そのものの独特さを引き出そうとする議論への疑義があった」という原因*2だ。
2点目は、LW氏の議論のなかで『記述説の難点の指摘』から『代案として記述説とは異なる説の提示』までの議論の流れがやや飛んでいるから、という理由だ。LW氏の議論を読む側の人間としては、「筆者LW氏が因果説を肯定しようとする根拠はまあわかるが、記述説を否定するための根拠がやや不足している」という印象をぬぐえない*3
3点目は、あえて因果説を肯定することによって発生する理論的恩恵を感じないから、という理由だ(いや、多少は感じるのだが、LW氏が主張しているほどには恩恵を感じられない、という感じだ)。LW氏が主張している因果説の理論的恩恵とは、例えば「性質の束が変化しやすいものに対しても適用しやすい」とか「命名儀式という概念の導入」とか「命名儀式の強力さという尺度の導入」とかになるだろう。しかし、「性質の束の流動性」を(Vtuberに独特なものとして)措定しようとする議論はいささか性急に思えたし*4、「命名儀式」という新概念がどのような発展的な議論を生み出すのかについてLW氏はあまり多くを語っていないように思えたし*5、「命名儀式の強力さ」という尺度に関しては「強力な場合と強力でない場合ではなにが変わるのか」という重要な点がいまだ曖昧なままであるように思える。

 

以上3点の理由によって記述説を排する議論にいまいちノれない私が、いますべきこととはなんであったのか。
それは、記述説を丸ごと投げ捨てる前に、改良できないか探ってみることであろう。私には――まあ神威ちゃんさんほどではないだろうが――可能性フェチなところが多少ある。記述説を改良したものから自分の望む理論がひきだせないか、とりあえずは試してみるべきだ。
記述説改良……というより記述説温存の、私にとって最初の試みは『デトかつ』だった。しかし『デトかつ』で行ったのは、「記述説の運用、もうちょい遊びを持たせてもいいんじゃない?」という至極あいまいかつ臆病なもので、書いていて自分自身歯切れの悪さを感じていた。
そこで今日は、記述説を改良する試み・改良したい試みの第二弾である。

 

記述説original【forフブかつ】

まず、我々は『フブかつ』において記述説の難点が挙げられるまでの流れをおさらいしよう。
『フブかつ』が例文として用いたのは、この命題だ。
命題F:「白上フブキは狐である」
『フブかつ』の議論は、『フブかつ』で想定される記述説に従ったとき、命題Fが解釈不能になるという点を挙げて、記述説の難点とする。
では、記述説に従って命題Fを読むとはどういうことで、ある読み方をしたとき命題Fが解釈不能になるとはどういうことなのだろうか。

 

『フブかつ』を読む限り、記述説とは以下のようなものである。
記述説:あるものの固有名を、あるものが持つ性質の記述の束と同一視する
具体的には、「白上フブキ」という固有名を適当な性質の記述のリストに分解すればわかりやすい。本当は、「白上フブキ」を分解したところの性質の記述は無数になるのだが、今回は簡便のため、10個の記述からなる記述の束を「白上フブキ」と同一視することにする。
固有名「白上フブキ」
=「あるものが存在し、それはVtuberであり、狐であり、女の子であり、頭頂部近くに尖った耳を持ち、白い毛が生えていて、そしてそのようなものは四足歩行せず、エキノコックス症を媒介せず、食事を穴に埋めず、昆虫を食べない」*6
さて、記述説に従ったとき、固有名「白上フブキ」を上のように分解することにはそう大きな問題はないだろう。だから、このように分解できるところの「白上フブキ」を命題Fにあてはめても問題はないはずだ。
命題F’:「あるものが存在し、それはVtuberであり、狐であり、女の子であり、頭頂部近くに尖った耳を持ち、白い毛が生えていて、そしてそのようなものは四足歩行せず、エキノコックス症を媒介せず、食事を穴に埋めず、昆虫を食べないのだが、そのようなものは狐である」
はたして、よくよく考えなおしてみれば、「白上フブキ」と同値でいいはずの性質の記述の束を命題Fにあてはめたとき、奇妙なことが起こっている。
ここでひとまず、LW氏が採用しているであろう前提に従って、我々も定義V1「狐とは、ふつう頭頂部近くに尖った耳を持ち、ふつう白や金の毛を持ち、ふつう四足歩行し、しばしばエキノコックス症を媒介し、しばしば食事を穴に埋め、しばしば昆虫を食べる」という条件をみとめよう。このとき、命題Fは以下のような主張を含むことになる。
命題F’’①:「あるものが存在し、それは狐であり、狐である」
命題F’’②:「あるものが存在し、それは女の子であり、狐である」
命題F’’③:「あるものが存在し、それは頭頂部近くに尖った耳を持ち、ふつう頭頂部近くに尖った耳を持つ」
命題F’’④:「あるものが存在し、それは白い毛が生えていて、ふつう白色や金色の毛を持つ」
命題F’’⑤:「あるものが存在し、それは四足歩行せず、ふつう四足歩行する」
命題F’’⑥:「あるものが存在し、それはエキノコックス症を媒介せず、しばしばエキノコックス症を媒介する」
この6つの主張のうち、3つまでは(トートロジーであるという点を除けば)あまり問題がなさそうな主張に見える。①と③と④だ。
②は少し微妙な主張に聞こえる。女の子でありなおかつ狐であるところのものは、存在しうるのだろうか。例えば若いキツネのメスのことを、我々は“女の子”と呼びうるのだろうか。これはまあまあ微妙な問題だが、今回は不問に処す。
明確に矛盾していると思われるのは、⑤と⑥だ。この主張のなかで、白上フブキは四足歩行しないと同時に四足歩行する存在者であるとか、エキノコックス症を媒介しないのにエキノコックス症を媒介する存在者であるといわれている。奇妙な話だといっていいだろう*7
もし我々が記述説を認めるならば――固有名は性質の記述を経由してなんらかの存在者を支持するのだと仮定すれば――まさしく記述説を認めるがゆえに、命題Fのような命題のなかには矛盾が生まれることをも認めなければならない。そして、仮に、矛盾した記述は固有名を正常に存在者へと結びつけられないのだとすれば、およそ固有名というものには命題Fのような特殊な命題のなかにあっては固有名としての最低限の役割すら果たせない、ということになる。
そして、問題なのは『命題Fのような特殊な命題』が実はさほど特殊ではないということだ。『命題Fが矛盾のなかに陥ろうとしている』事態は、おそらく『反事実的条件が矛盾を生む』という事態の一変種にしか過ぎない。白上フブキでなくても、Vtuberでなくても、反事実的条件の提示はたいていのものに対して行えるのだ。
また、さらに問題なのは『命題Fのような特殊な命題』はVtuberに関してはほかの存在者一般よりも頻発しうる事態であるということだ。突飛さを旨とするかのコンテンツにあっては、「狐である」とか「海賊である」とか「神々より作られし最初の概念『空間』の代弁者である」とかいった自由な設定が跋扈しており、エキノコックス症どころではない無数の矛盾がそこには発見できるだろう。

 

記述説ambiguous【forデトかつ】

記述説が『反事実的条件の提示』やその変種としての『突飛な設定』と相性が悪い、という話は、なるほどもっともだが、逆に言えば『反事実的条件の提示』に耐えうるような修正案ならば記述説の骨子を活かしたまま運用できるかもしれないということでもある。
そこで私は第一の修正案を提出したい。第一の修正は、『デトかつ』でも触れたものだが、「固有名はある特定の『性質の記述の束』と正確に一致することによってのみ有効なのではなく、ある特定の『性質の記述の束』とだいたい一致することによって固有名としての機能を十分果たしうる」という改案だ。要するに、『性質の記述の束に多少の異同を許容する』ということだ。
具体的に言おう。ここから、修正した新しい記述説に従って、命題Fを重大な矛盾なく解釈することを目標にする。
新しい説に基づいて書き直すのは、固有名「白上フブキ」の中身を改変するよりも、「狐」の中身を改変したほうが理解が簡単だ*8
定義V2「狐とは、次の6つの特徴のうちだいたい2つ以上を満たすものである:頭頂部近くに尖った耳を持つ、白や金の毛を持つ、四足歩行する、エキノコックス症を媒介する、食事を穴に埋める、昆虫を食べる」
「狐」という語の内実をこのように操作すれば、命題Fを変形して、無矛盾に「白上フブキが狐である」という命題を導くことは可能であろう。
もちろん、語「狐」の内実は、実際には「6つ中2つ満たせば合格」という甘々な条件ではなく、もっと膨大な条件に対して複雑な合格基準を持ったものにはなるだろう。性質の記述ひとつひとつに重みづけも必要かもしれない。上の定義V2は、あくまで説明のための簡易な例にすぎない*9

 

ただ、このように曖昧さを許容していくのは逃げの一手ではないかという気もする。もうちょっとうまい修正案を考えたい……。

 

記述説superficial【forデトかつ】

第二の修正案も、『デトかつ』で触れたものだ。
詳しくは『デトかつ』を参照されたいが、私はフィクションのキャラクターにおける「設定」というものがしばしば内実を持たないかに見えることにかなり興味があり、この皮相な事態をうまく説明できるモデルを探している。
そこで提出するのが次のような改案だ。「固有名はなんらかの『性質の記述の束』として存在者を指示するのだが、個々の『性質の記述』じたいは解釈不可能なものであっても、『束』にしたとき固有名は固有名としての機能を十分果たしうる」これはつまり、極端なことを言えば、「冷静に考えれば意味不明な記述でも、固有名を形成しうる」ということだ。
命題Fを例に考えるならば、ここで我々がとる立場とは、すでに述べた
命題F’:「あるものが存在し、それはVtuberであり、狐であり、女の子であり、頭頂部近くに尖った耳を持ち、白い毛が生えていて、そしてそのようなものは四足歩行せず、エキノコックス症を媒介せず、食事を穴に埋めず、昆虫を食べないのだが、そのようなものは狐である」
の後半部である「狐である」をそれ以上分解せず、「狐だというのなら狐なのだろう」と納得する、という立場だろう。
ここで、「狐である」は内実としての定義を追及されずに、ただ「狐である」という性質そのものとしてのみ記述される。ここで追及の手を止めるのは、(命題Fを無矛盾に解釈するという我々の目標に対して)あまりに都合がよすぎないか、と批判する向きもあるかもしれない。しかしながら、私にはどうにも、追及の手が止まるのはむしろフィクションのキャラクター特有の存在様態であり、追及の手が止まりがちであるということを重視しなければならないような気がしている。

 

例えば、(これは『デトかつ』でも使った例だ)こんな命題。
命題D:「デットンはテレスドンの弟である」
例えば、(これは『LWのサイゼリヤ』の某記事から引っ張ってきた例)こんな命題。
命題N:「ネプギアはネプテューヌの妹である」
どちらも、「弟」とか「妹」とかの語が持っている(はずの)内実は不明なままに「弟である」「妹である」だけを主張しようとしてきてかわいい*10

 

ただ、この改案は、命題の解釈の試みを寸断していくものであって、解釈によって命題の意味を間違いないひとつへと分解しようとした記述説のうまみをいささか減じているような気もする。ひょっとすると、記述説の改良のつもりでやったが単に因果説に接近しているだけの改案だったのかもしれない。

 

記述説relative【for日記とか存在とか狐とか】

ここから第三の修正案について述べる。

 

実は、私には「反事実的条件の提示に難あり」という点以外にも、LW氏が紹介した記述説originalに対する不満が一点ある。その不満は、「例えば『狐』でいえば、生物学的な意味でのキツネに該当する特徴ばかりが『狐』の定義の内包として重視されており、社会的な意味での狐の特徴や象徴的な意味での狐の特徴があまり重視されていない」という点だ。
例えば、『狐』の特徴として世間に理解されていることのなかには、「四足歩行する」「エキノコックス症を媒介する」といった生物学的な特徴のほかにも、「油揚げを好む」とか「幻術で人を化かす」といったもろもろの特徴が含まれるはずだ。私は、生物学的な特徴とその他もろもろの特徴とを区別して、『狐』という語の内包として前者のみを選び取るのは恣意的に過ぎると思う。生物学的に定義可能ないわゆるキツネVulpes vulpesは確かに我々の『狐』認識の中心を占めてはいるだろうが、かといってキツネVulpes vulpesが持つ特徴はその他もろもろの特徴――例えば寓話に登場する狐が持っている特徴とか――から截然と区別可能なものなのだろうか?
できることならば、生物学的に解釈できる特徴をも、寓意的に解釈できる特徴をも、両方を取り込んだかたちで『狐』その他の定義を行いたいという気持ちが私にはあり、これから述べる修正案はそうした統合的な定義を志向したものでもある。

 

さて、記述説originalにおいて、我々は『狐』を以下のように定義した。
定義V1「狐とは、ふつう頭頂部近くに尖った耳を持ち、ふつう白や金の毛を持ち、ふつう四足歩行し、しばしばエキノコックス症を媒介し、しばしば食事を穴に埋め、しばしば昆虫を食べる」
定義に含まれる6つの記述はそれぞれ現実のキツネに当てはまる。しかし、この6つの記述は、我々が『狐』と言われたときに思い浮かべるイメージとしては具体的過ぎる気もする。我々が『狐』と言われたとき、思い浮かべる特徴群は、むしろ以下のような6つの特徴ではないだろうか。

  • 食肉類一般が持つ耳のなかでは、それはわりに尖ってるほうの耳
  • 山に住む獣のなかでは、それはわりに薄いほうの色の毛
  • 多くの哺乳類は四足歩行するが、それはその点ふつう
  • 野生動物はしばしば病気を媒介するが、それについて考えるならエキノコックス症なんかが特に目立つ
  • 野生動物はしばしば食事を穴に埋めそうだが、それも食事を穴に埋める
  • 野生動物はいろいろなものを食べるが、それの場合食べ物には昆虫が含まれる

つまり、私が述べたいのは次のようなことだ。『狐』は、確かに種に本質的な特徴として「頭頂部近くに尖った耳を持つ」のような特徴を持っている。しかし、我々が『狐』と名前を呼ぶとき、『狐』という名前は「頭頂部近くに尖った耳を持つ」という特徴を直截に意味しているのではなく、「(もし頭頂部近くに耳を持つならば)その耳は尖っている」というようなかたちで、いわばベース条件に対する付加情報としての特徴を意味しているのではないか。
つまり、この改案において、『狐』の定義とは次のようなものだ。
定義V3「狐とは、(もし頭頂部近くに耳があるなら)耳が尖っていて、(全身に毛が生えているなら)毛の色が白色とか金色で、(近縁の種がn足歩行の場合)n足歩行で、(もし病気を媒介するなら)その病気はエキノコックス症の可能性が高く、(それが自然な環境に生息している限りにおいて)食事を穴に埋め、(動物一般が昆虫を食べるわけではないことに比して)昆虫を食べ、(近縁種に比して)賢く、(賢い動物ならば幻術くらい使うという前提のなかで)当然幻術を使う」
私がこの定義で目指すのは、生物学的な意味で言うキツネVulpes vulpesであれ*11イソップ寓話に出てくるキツネであれ同じ定義を変更することなく適用可能にするということだ。そしてこの試みはまあまあ成功したのではないかと思っている。
あなたが、(これ単体ではあいまいだと言わざるを得ない)定義V3を用いて生物学的なキツネVulpes vulpesを導き出したいというならば、あなたは「動物の最大公約数」あるいは「食肉類の最大公約数」的なイメージを頭の中に呼び出して、これに定義V3を適用すればいいだろう。適用したとき、定義V3が含んでいた8つの特徴のなかで、励起すべき特徴は励起し(それは頭頂部近くに尖った耳を持つだろうし、四足歩行だろう)、励起すべきでない特徴は励起しないだろう(生物学的な見方を使うならば、動物は幻術を使わないのでそれも当然幻術は使わないだろう)。
あなたが定義V3を用いて寓話に出てくる狐を導き出したいというならば、あなたは「寓意化された動物の最大公約数」的なイメージを頭の中に呼び出して、これに定義V3を適用すればいいだろう。適用したならば、励起すべき特徴は励起し(それは一様に人語を介する動物たちの中にあっても、いっそうずる賢い動物としてあらわれるだろう)、励起すべきでない特徴は励起しないだろう(伝染病という概念が存在しない寓話世界ならば、あらゆる動物のうちで狐のみがエキノコックス症を媒介するということは起こりえないだろう)。

 

我々が当初の問題としていたのは、定義を用いて内包としての『狐』のイデアを得ることではなく、命題Fのような特殊な(特殊ではない)命題を解釈可能にすることだった。だから、今度はある特定の存在者が『狐』の外延としてあてはまるかどうかを確認する手法について考えよう。
例えば白上フブキが狐であるかどうかを考えるとき、我々は、白上フブキが狐であると仮定して、狐であるための特徴をすべて失った白上フブキを想像してみればよい。定義を逆にたどるのだ。もしそうして白上フブキから狐的な特徴のすべてをはぎとったとき、ある程度プレーンな特徴の集合体――例えばそれは、「擬人化美少女の最大公約数」とか――が得られたなら、白上フブキは狐だと考えてほぼ間違いない。白上フブキから狐的な特徴のすべてをはぎとったとき、意味不明な特徴の集合体がそこに残れば、白上フブキが狐である可能性は限りなく低い*12*13。この方法でなら、「白上フブキは狐である」だろうが「ニック・ワイルド(『ズートピア』の主人公)は狐である」だろうが「コウシロウ(よこはま動物園ズーラシアで飼育されていた実在のホンドギツネ)は狐である」だろうが、同じ手順で真偽を確かめることができる。

 

語の定義を、ベース条件に対する付加情報として記述するこの方法は、『フブかつ』のなかでも使われている、共有信念世界を経由することで反事実的条件の取り扱いを整理してしまうあのやり方にも少し似ている。ただ、私の改案には共有信念世界概念とは差別化できるポイントが、少なくとも2点はあるつもりである。
1点目は、「世界」という概念を導入するためのコストがいらないこと。
2点目は、同一世界観に属する別な意味での『狐』を、同じ定義を用いて解釈できることだ。

 

2点目について詳しく説明しよう。例えば、ハローキティの世界観におけるハローキティとチャーミーキティについて考える。
まず、ハローキティはぶっちゃけ猫である。いちおう、公式設定では『ハローキティは女の子である』以外の記述は存在しないのだが、我々の日常感覚からして、ハローキティは猫キャラに見える。
次に、ハローキティの世界観において、ハローキティは猫を飼っており、その飼い猫の名前がチャーミーキティという。チャーミーキティは、やはり猫である。

我々が、ハローキティやチャーミーキティについて述べた命題を、我々の日常感覚に沿うようなかたちで操作したいとする。そのときネックになるのは、命題H「ハローキティは猫である」と命題C「チャーミーキティは猫である」をいかにして両立させるかであろう。同一世界観に属するハローキティとチャーミーキティだが、明らかに別のベースラインを基準にしておのおのが『猫である』のだから。
共有信念世界概念を用いて命題Hと命題Cを両立させるのは、やや困難だろう。両立させるためには、「動物キャラクターが2足歩行するのは普通である」という条件と「動物キャラクターが4足歩行するのは普通である」という条件、その他いくつかの条件がそろった、こみいった共有信念世界を想定しなければならないだろう。あるいは、命題Hと命題Cに対して別々の共有信念世界からアプローチしなければならないか。
対して、記述説relativeの考え方に従って命題Hと命題Cを解釈するのは、やや楽だ。ハローキティから『猫』的な特徴をすべてはぎとれば、二頭身キャラクターの最大公約数的なイメージが浮かび上がるだろうし、チャーミーキティから『猫』的な特徴をすべてはぎとれば、四足歩行キャラクターの最大公約数的なイメージが浮かび上がるだろうからだ。

 

私が考えた記述説の改案は、以上の3つである。

 

明日の日記

記述説の改案なんて生意気なものを書いてしまったが、書いてみると、すでに誰かが考えついてそうなことだよなあとか思った。言説は他の言説とつながりを持って初めて価値を持つ。今度、自分の改案によく似た説にすでに名前が与えられていないか、これまでどんな問題点が指摘されてきたか調べてみないといけないなあとか思った。次回は“裏付け編”にできたらいいな。

*1:『フブかつ』から始まった一連のやりとりの影響で、かつてVtuberを全く知らなかった私は、いまではたまにフブキングの配信アーカイブやボカロカバーを聴くようになりました。彼女はかわいらしいですね。彼女のカバーした「シル・ヴ・プレジデント」は目下のところお気に入り作業用BGMです。

*2:疑義の内容をもう少しかみ砕いていうと、「Vtuberがスパチャでコミュニケーションをとることは確かにVtuber独特かもしれないが、LW氏がそこから『Vtuberが属する世界の完全性』とか『Vtuberが持つ性質の束の流動性』を引き出そうとしている議論はいささか性急すぎないか?」というものだ。この疑義に基づく反論としては『絶えず自壊する泥の反論集』を参照せよ。

*3:ただ、以前LW氏に確認した限りでは、『記述説の問題を指摘→因果説を採用』という流れは、純粋に演繹によってでなく、『因果説で議論する』という目的のためにやや論点先取的に選択したものであり、またその選択はLW氏自身によって自覚的になされたものであるらしい。だから、LW氏がLW氏の議論を因果説肯定の流れで進めること自体は、私としてはべつに構わない(議論の完成度を損なうものではない)と思う。

*4:私は現状ではVtuberのことを「フィクションキャラ一般と同様に不完全である」と考えているし「性質の束が流動的であるという特徴もせいぜい程度問題だ」と考えている。ここについても『絶えず自壊する泥の反論集』を参照せよ。

*5:この問題は単に議論が途上であることに拠っているのだろう、したがってこのことでLW氏を批難するにはあたらない。

*6:下位種を生成しがちであるというVtuberの特性を考慮して、この定義では「あるものがただひとつ存在し~」という書き方はしなかったが、この判断については妥当だったかどうか少し迷っている。

*7:もちろん、字義を正確にとるならば、次のような反論もありうるだろう。「我々が先に認めたのはあくまで『狐はふつうは四足歩行しない』という記述までであって、ある特定の狐が四足歩行しない場合とは矛盾しない。白上フブキは“ふつうは”という表現が許容する例外にただ位置しているだけで、⑤は矛盾にはあたらない」と。この反論は正しい。
しかし、本文で私が表現したかったのは、「白上フブキは比較的レアな狐であるだけだ」という見方をフォローする例文ではなく、「白上フブキは狐が本来持つ性質と食い違う性質を持っている」という見方をフォローする例文である。願わくば、今日のところはこちらの意図を汲んで、後者の見方に従って⑤や⑥を解釈していただきたい。

*8:ここから先の議論は、固有名「白上フブキ」の定義の改変でなく「狐である」の定義の改変にもっぱら筆を割く。いちおう、ここから先の議論も、固有名の話であり、記述説の話であることに間違いはないと思っているのだが、少し自信がない。

*9:定義V2を用いるならば、野犬でもイタチでもリスでも皇白花でも「狐」に該当してしまう。排他性があまりに低い。

*10:通常、「弟である」とか「妹である」といった性質はその性質を持つ本人にも周囲の人々にも選択することができない・逃げられない性質として人に与えられるものだ。ただ、この「選択することができない・逃げられない」という特徴は、「内実は不明なままに弟とか妹を主張する」ことによって部分的に改変することができる。

例えば、イリヤスフィールは士郎の前に突然妹として現れ(定義不明な妹)、勝手に妹ムーブを始めるのだが、この勝手な行動が最終的には「士郎が自分の意志でイリヤスフィールの兄としてふるまう」という状況を導いたわけだ。本来「兄-妹」という関係は主体的に選ぶことができないため、「兄とは妹を守るものである」といった価値命題寄りの性質は「妹である」の定義には含まれない。しかしイリヤスフィールが「定義不明な妹」を強行したことで、イリヤスフィールと士郎は「兄-妹」の定義を主体的に再創造する権利を得ることになる(実はイリヤスフィールが士郎の妹であると主張することには若干の正統な根拠は存在したわけだが、この記事ではその点は無視してしまう)。かつては互いを縛りあっていたシニフィアンシニフィエが、シニフィエなきシニフィアンへと変質し、やがてシニフィアンは勝手なシニフィエを再掌握する。

ここで、もちろん、「弟である」とか「妹である」の代わりに「ガンダムである」のような性質を例にしてもよい。「ガンダムシリーズ」において、もともといち兵器に与えられた名前だった『ガンダム』は、いちど定義から遊離して一人歩きしたあと、政治的なイデオロギープロパガンダや個人の信条を込めた定義を新たに獲得することになる。
語の定義として外延を重視するであろう因果説において、「命名儀式」という概念はある存在者に対して時間的に最初に行われるだろう。この「命名儀式」という概念の、記述説における対応物を我々が探すならば、例えば「妹」や「ガンダム」といった語が後だしで内包を与えられたように、記述説における「命名儀式」とは時間的に最初に行われるとは限らない、ということになる。

*11:本当は、Vulpes vulpesと書いてしまうと、正確にはキツネ一般のことではなくアカギツネのことを指す学名になってしまうらしいのだが、学名っぽい見た目を重視してこんな書き方にしてみた。

*12:ただ、この検証方法には当然の弱点がある。それは、狐とわりに近い特徴を持った別のなにかと狐とを峻別する方法に乏しいということだ。例えば、「白上フブキは猫である」という仮定のもと、同様に『猫』の定義を逆にたどって「白上フブキが猫か否か」を検証したとしても、「白上フブキはやっぱり猫ではない」という正しい(?)回答を得られる可能性はそう高くない。

*13:この検証方法は、白上フブキから『狐』要素をはぎとったモノが比較的プレーンな特徴の集合体であるかどうかで命題Fの真偽を判定するのだが、「白上フブキから『狐』要素をはぎ取ったモノ」がプレーンかどうか判断するときに、白上フブキが持っている『狐』以外の特徴(「綾鷹を好む」とか「オタクである」とか)がノイズになる可能性はある。これもこの検証方法の弱点と言えるか。

一人歩きする概念「仮面ライダー」:正気から生まれた狂気として

思考能力というものは発言頻度に反比例して果てしなく低下していくもので*1、今日もししゃべったら明日の自分の発言は今日よりIQが10低い*2。昨日よりもアホなこと言ってる自分には耐えられなくて、それでも自分が日々思いついたことをどうしても他人に言いたくなるときがあって、ブログやりかけてやめたりDiscordやりかけてやめたりTwitterやりかけてやめたりLINEやりかけてやめたりしてる*3
気づけば私にはもう友達がいなくなっていた。いや、定義によっては、友達など人生で一人もいなかったのかもしれないが……今ここで言っているのは、「家庭と仕事以外で継続的にコミュニケーションをとる相手が一人もいない」みたいな意味である。LW氏は以前「人間関係リセットマンは実在するのか?」みたいな疑問を呈していたけれど、私には人間関係を定期リセットする動機と状況はすごくイメージしやすい。人間関係がもともと希薄な私はやっぱりリセットマンには該当しないけれど。

 

趣味の話をする相手が一人もいない。最近の私の頭のなかは、ひとつのトピックが他人によるなんらの反駁も受けないまま1ヵ月でも2ヵ月でも澱んで漂い続けるようになった。
このブログの直近7記事のほとんどが一方的にサイゼリヤに粘着するような記事になっている状況は、正直自分で気色悪いと思っている。でもそれは、私が今後もLW氏及びサイゼリヤに粘着するスタイルだけでいちブログを続けるつもりだということではなく、単に最近はほかに興味あるトピックを見つけられていないというだけのことだ。永遠には続かないと思う。

 

 

 

―――――――――――――――――――――

 

saize-lw.hatenablog.com


サイゼリヤにこんな記事があったのを今日発見した。ここで書かれていることに若干似ていて若干違う現象を知っている気がするので、それについての私の認識を書いてみたいと思う。

 

具体的に述べよう。仮面ライダーシリーズにおいて、個々のヒーローが持っている固有名「ヒーロー名」は、かつてはさまざまな要素を必然的に指示していたがいまではそのつながりのいくつかを切り離し、なんだかよくわからない概念になって一人歩きをするようになった。この記事ではその過程ときっかけについて整理したいと思う。

 

仮面ライダー』(1971)放送開始当初――「仮面ライダー」に対応するヒーローはただこの世で一人であり、「仮面ライダー1号」という言葉はなかったころ*4――「仮面ライダー」というヒーロー名は、

  • ①本郷猛という〈キャラクター〉
  • ②特定の〈見た目〉を持った改造人間を生み出す、「バッタ男」とでも呼ぶべき〈システム〉
  • ③人間の自由を守護する者としての〈称号〉(を持った人物)
  • ④『仮面ライダー』という〈番組〉(の無二の主人公)

の4つすべてと正確に一致していた。

f:id:keylla:20211212211654p:plain

50年がたち、現在。『仮面ライダーバイス』(2021)に登場するヒーローの名前「仮面ライダーリバイ」はどうか。この名前は、4つの要素、つまり

といまや必然的なつながりを持っていない。すなわち、

というように、それぞれの条件に対して選択を行うなかで各要素ははじめて「仮面ライダーリバイ」という名前とつながりを持つ。

f:id:keylla:20211212211727p:plain

仮面ライダー○○」という名前が単純には4つの要素と結びつかなくなった、その変化は、要素ごとにいくつもの偶然と必然が絡んで段階的に起こってきたものである、というのがこの記事の主張である。

 

結果に関して言えば、「あるコンテンツにおいて、固有名の取り扱い方が変化した」とただそれだけの話だ。しかし私は、変化の起源と理由をそれなりに重視する人間なので、「固有名の取り扱い方の変化」についてもその起源と理由がどんなものであったかについてもいくらか考えておきたい。変化を経験したあとの現状に対して、その歴史的偶然と歴史的必然を正しく見極め、過小な理由づけをも過大な理由づけをもしないために。
以下、名前から要素が引きはがされる過程について、要素ごとに追ってみたいと思う。

 

1. ヒーロー名とキャラクターとの分離

1.1. 前置き

私はこれから、仮面ライダーとその変身者との関係が「厳密なイコール」から「条件付きの相互参照関係」に変わっていったという話をしようとする。しかし、私は本題に入る前に、そもそも「当初は厳密なイコールだった」という見方はどの時点の何との比較で可能になるのかということについて整理しておかなくてはならないだろう。

 

大前提として、スーパーヒーローというものの多くには、『仮面ライダー』が1971年に登場するよりもはるか以前から「変装」ないしは「変身」によって2重のパーソナリティを持つという習慣があった。仮面ライダーというヒーローを月光仮面七色仮面まぼろし探偵といったヒーローたちの正統な後継としてみるなら、彼は「2重のパーソナリティを持っている」という点についてとくに先達と変わっていない。仮面ライダーと変身者とは別のパーソナリティであり、それはある意味で「はなから厳密なイコールなどではない」。
1971年に活躍した「仮面ライダー」について『「仮面ライダー=本郷猛」が成り立つと言う点において際立っている』と述べられるのは、仮面ライダー以前のヒーローと比較するよりもむしろ、仮面ライダー以後のヒーロー――とくに「仮面ライダーシリーズ」に登場する後輩ヒーロー――と比較した場合である。
よって、ここからの議論は、どちらかといえば無根拠に「仮面ライダーとその変身者は当初厳密なイコールであった」ということを前提としたうえで進んでいく。

 

1.2. レベル0:種としてのヒーローの誕生

仮面ライダー」の名を持つヒーローとその変身者とはいかにして分離してきたのか。分離の過程は実は一人目の仮面ライダー仮面ライダー1号」の時点から始まっている。
ときに、「仮面ライダー1号」という名前は、「仮面ライダー」という種を表す前半部「1号」という個体を表す後半部との連結によって成り立っている。実はこのことばの構造がすでに特殊であり、特定の歴史的事件に依存して生まれた構造なのである。

 

さきに註4でも触れたが、『仮面ライダー』(1971)が始まった時点では、現在「仮面ライダー1号」として知られているヒーローは「1号」という個体識別名を持たず、単に「仮面ライダー」と呼ばれていた。では、なぜ彼は「仮面ライダー1号」と呼ばれるようになったのか。
それは、「仮面ライダー / 本郷猛」を演じていた藤岡弘氏(現 藤岡弘、)が『仮面ライダー』撮影中不慮の事故により一時出演不能に陥った事件のためだ*5。ふつう、このような事件において制作者がとるべき道は複数ありうる。

  • 選択肢その1 番組打ち切り
  • 選択肢その2 本郷猛役を別の役者に交代して撮影続行
  • 選択肢その3 仮面ライダーを本郷猛から新キャラクターに引き継がせて2代目とし、本郷猛は退場させる
  • 選択肢その4 当座の主人公は新キャラクターに2代目として引き継がせるが、本郷猛も本郷猛のまま温存する

当時の肌感覚はわかりかねるが、おそらく、選択肢その2やその3あたりが一番ありがちな解決策だっただろう*6。しかし、結果として当時の制作者は選択肢その4を選んだ。「藤岡弘演じる本郷猛」への深い愛着のみがなせるわざだっただろう。
そして、「初代を温存したまま2代目を登場させる」というレアチョイスが働いたことにより、「仮面ライダー2号」の名が生まれ、ひいては「仮面ライダー」という種名の後ろに「○○」という識別子がつく奇妙なスタイルが生まれた。このように種と個体の2重構造でヒーローを定義するスタイルは、まあ海外でも散見されるスタイルだが、ここまでヒーローたちの間で主流になっているというのはおそらく日本に独特な事態だろう*7

 

仮面ライダーの名前が2重構造になり、個体でない種としてのヒーローという概念が生まれたことは、やがて起こる「ヒーロー名とキャラクターとの分離」に対して重要な布石になっている。
仮に、前述した選択肢のその3が選ばれ、仮面ライダーの代替わりに伴って本郷猛が「仮面ライダー」の座を降りていたとしよう……仮面ライダーは「当代から次代へ、襲名されるもの」になっていたとしよう。その場合、「仮面ライダーはある特定の時点で世界に一人までしかいない」という認識が一般的になっていたのかもしれない。そのような認識が一般化した場合、ヒーローの属人的な性質は確かに薄められる(通時的に見て、あるヒーローに該当する人物は複数いる)と同時に、逆に属人的な性質が温存されもする。なぜなら、ヒーローが継承可能なものならば、その継承行為の在不在によってある時点における「ヒーローの正体」は一つに定まるのだから。もう少しわかりやすく言おう。仮に、日本のスーパーヒーローが「襲名を中心としてヒーローを理解する」ような歴史をたどっていた場合、我々は「ある特定のヒーローが一体全体誰であるのか」という問題について、継承行為の有無と正統性に基づいて初代から順番に歴代をたどっていくことで、ヒーローの正体を常に一人以下の誰かに特定することができる*8
我々大人が全く新規なヒーローを産み落とせる数をはるかに上回る数のヒーローが、時代には常に必要とされている。ヒーローはなんらかのかたちで既存のものをベースに再生産(この単語は多義的だ)されなければならない。一方、選択肢その3のみが選ばれた世界線ならば、ヒーローは主として継承によってその命脈を保ったであろう。新たにヒーローになろうとする者は、初代から脈々と受け継がれる一本道の歴史によってしかその正当性を担保されない。他方、選択肢その4がときに選ばれた世界線ならば――つまり我々の世界だ――ヒーローは継承によってでなく、単になんらかの要件を満たすことによってヒーローになる。歴史という具体物でなく、要件という抽象物がヒーローのヒーロー性を担保する。
そして、やがて我々の世界は論理の転倒を経験するだろう……要件を満たした人物がヒーローになるのではなく、要件こそがヒーローなのではないか?

 

1.3. レベル1:ヒーロー-キャラクターの一対一対応の乱れ

ヒーロー名とキャラクターとの分離として捉えられる最初の現象は『仮面ライダーBLACK RX』(1988)に起こる(奇しくも昭和最後・平成最初の放送作だ)。
仮面ライダーBLACK RX』は前作『仮面ライダーBLACK』(1987)の続編であり、前作でヒーロー「仮面ライダーBLACK」に変身していた主人公・南光太郎が新たな能力を開花させて新たなヒーロー「仮面ライダーBLACK RX」に変身する能力を得ることによって始まる。この瞬間こそは、「ひとりのキャラクターが複数の異なる仮面ライダーへの変身を経験した例」の最初のものだ。ここにおいて、ヒーローの属人性ははじめて決定的に破棄されたと私はみなす。

f:id:keylla:20211212163420j:plain

(左)仮面ライダーBLACK RX (右)仮面ライダーBLACK

仮面ライダーBLACK RX』以前、仮面ライダーシリーズにおいて、ある特定のヒーローは特定のいち個人へと帰すことができ、また逆にある特定の個人は最大1人までのヒーローに帰することができた。「仮面ライダー1号」はつねに本郷猛であって他の誰かではないし、本郷猛はつねに「仮面ライダー1号」であって他の仮面ライダーではなかったのだ。しかし、南光太郎は、前作に登場したヒーロー「仮面ライダーBLACK」であるという歴史を破棄せずに「仮面ライダーBLACK RX」への変身能力を得たことで、「仮面ライダー○○でもあり仮面ライダー××でもある」はじめてのいち個人となった。(こと「仮面ライダーシリーズ」において)このときから、ヒーローはキャラクターの本質から着脱可能なものになったのである。
ただ、一応譲歩しておくと、「仮面ライダーBLACK RX」は現在いるすべての仮面ライダーのなかでとくべつに「一対一対応が乱れているほうのライダー」というわけではない。歴史的に見て先達よりはその乱れが際立ってみえるだけで、「仮面ライダーBLACK RX」というヒーローがむしろキャラクターと不可分に結びついている部分は無数にある。例えば、いかに南光太郎が「仮面ライダーBLACKでありかつ仮面ライダーBLACK RXである」とは言っても、彼は「仮面ライダーBLACKであるまさにそのとき同時に仮面ライダーBLACK RXでもある」わけではなかったと言う点(南光太郎の「仮面ライダーBLACK RX」への“進化”は不可逆なものであり、“進化”後に「仮面ライダーBLACK」に変身するようなことは基本的にはなかった)。例えば、「仮面ライダーBLACK RX」はその名が示す通り、「仮面ライダーBLACKとは完全に別の出自を持った別のヒーロー」というわけではなく、仮面ライダーBLACKの延長線上に位置する強化形態でもあると言う点(仮面ライダーBLACK RXへの“進化”を可能にしたのはキングストーンの神秘の力……その力は仮面ライダーBLACKの能力の精髄でもある)*9。しかし、我々がもし、歴史的にみるということを自覚する(それはすなわち、我々がつねに事後的に“事実”を構成しているということを自覚しつつ、すべての“事実”を捨て去って虚無主義に陥らないようにもするということだ)ならば、「仮面ライダーBLACK RX」というヒーローが、それ以前の仮面ライダーにはありえなかったほど「キャラクターから独立したヒーロー」として成立しており、その成立はひとつの転換点であったことは認められるだろう。
仮面ライダーBLACK RX」は「仮面ライダーBLACK」とはまあまあ別のヒーローである。「仮面ライダー新1号」が「仮面ライダー旧1号」と同一ヒーローであったり「超電子人間ストロンガー」が「仮面ライダーストロンガー」と同一ヒーローであったりするのとは、質的あるいは量的に異なる事態がそこにはある。

 

仮面ライダーBLACK RX」が「仮面ライダーBLACK」とは別のヒーローとして生まれてきた背景にはどんな事情があったのか。その事情のいくぶんかは、事後的な批評に拠っているであろうことはさきに註9でも述べたが、その事情のいくぶんかは作品制作当時の状況にも拠っているだろう。当時の状況について少しだけ推測を加えてから、次の節へ移る。
まあ、単純な話、「好評だった『仮面ライダーBLACK』の続編として企画を進めるのも捨てがたいが、新ヒーロー登場という話題性も欲しい。両方やろう」というモチベーションが、「仮面ライダーBLACK RX」を「仮面ライダーBLACK」とは別のヒーローとして創造した理由の主たるところであっただろう。ヒーロー像を一新するというのは、娯楽作品としても文学作品としても商業作品としてもそれなりにうまみのある話である。すなわち、新しいヒーローの登場に際して、子供たちは期待と興奮を味わえるであろうし、作者たちはまったく独自な物語への企図を膨らませられるであろうし、スポンサーは新商品の企画を立てられるであろう、ということだ*10

 

1.4. レベル2:“刺青”から“衣服”へ

ヒーローとキャラクターが分離していく次の段階は、『仮面ライダークウガ』(2000)から『仮面ライダー555』(2003)にかけておこる。その段階とは、ある変身者に対して半永久的に刻まれるいわば“刺青”だった仮面ライダーが、状況に応じて着脱できる“衣服”へと変化するという段階だ。

 

仮面ライダークウガ』に登場するヒーロー「仮面ライダークウガ」は、(見方によってはいくつかの例外はあるのだが、基本的に)史上はじめての「改造人間でない仮面ライダー」であった。これは、「いちど仮面ライダーというヒーローになったキャラクターがあとからヒーローという属性を手放しうる」その可能性を生み出した重要な新基軸である。
仮面ライダークウガ』において、主人公の五代雄介は超古代の遺跡で謎のベルトを身に着けたときからヒーローへの変身能力を得る。『仮面ライダークウガ』以前の変身者たちが、基本的には改造手術によって仮面ライダーへの変身能力を得ていたのとは対照的に、五代雄介は(やや極端な言い方をすれば)ベルトを“身に着けるだけ”で仮面ライダーになる。手術で仮面ライダーになるか、ベルトで仮面ライダーになるか。この違いは重大だ。
いくつか譲歩しておくべきことはある。第一に、『仮面ライダークウガ』以前の仮面ライダーにとっても、ベルトが“変身”の契機として重要視されていた側面は確かにあったという点だ。「仮面ライダー1号」はベルトの中心の風車に風を受けることによって変身を遂げるのであって、ベルトは彼の変身に不可欠だったのだ。ただ、『仮面ライダークウガ』以前の仮面ライダーは、ミクロな変身…人間の姿から仮面ライダーの姿へと姿を変える瞬間的な変化へんげに関してはベルトを重視してきたものの、マクロな変身…戦闘能力が有限な一般人から変化へんげ能力を持った超人へと性質を変える不可逆な変化に関しては、必ずなんらかの改造手術を必要とした。その点、アクシデント的に*11ベルトを身に着けただけで超人への変化を遂げてしまった「仮面ライダークウガ」のヒーローとしての新奇性はやはり際立つ*12
第二に、五代雄介がベルトの着用だけでヒーローへの変身能力を獲得したとはいっても、その変身能力は変身者に不可逆な身体的変化を強いるものであり、ヒーロー性は完全に着脱可能だったわけではないという点だ。そもそもクウガの変身ベルト「アークル」からして、ひとたび身に着けると変身者の肉体と融合して体内に隠れ、基本的には二度と取り出すことができないという着脱不能な性質を持つ。また、クウガへの変身行為は変身ベルト内で完結しているわけではなく、変身者の肉体に毎度変化の爪痕を残しており、また、継続的な変身は変身者の肉体を永久に「仮面ライダークウガ」に変えてしまう可能性すらある、という設定もある。クウガというヒーローはこの意味でも、完璧な“衣服“でなくむしろ“刺青”に近いものである。ただ、その不可逆な身体変化でさえ、ベルトを中心に展開しているということには注意が必要だ。クウガ以前の仮面ライダーは、たいていの場合全身がくまなく改造されており、あとからベルトを取り外しても彼らが一般人に戻る可能性はなかったのだが、クウガの場合、肉体変化はベルトを中心にして段階的に進行するものなので、ベルトを手術等で肉体から切り離せば一般人に戻る可能性はゼロではない。やはり、クウガへの変化は従来の完全に不可逆なヒーロー化とは異なる。

 

変身という機能をベルトに依存させたことで、「五代雄介以外の人間がクウガに変身する可能性」も新たに生まれている。『仮面ライダークウガ』においてその可能性を実際に提示しているのは「超古代にも先代のクウガがいたらしい」という設定だろう。主人公である五代雄介以外にもクウガに変身した者がいたという事実は、「仮面ライダークウガ」に相当するキャラクターが五代雄介以外にあり得ないという前提を、決定的に破壊はしないにしろ、いくぶんかは揺るがしている。
クウガというヒーローは五代雄介というキャラクター以外にもありえた、という設定上の新機軸は、『仮面ライダークウガ』というストーリーの最後で五代雄介がクウガに変身する能力を失った――悲しき戦いの運命から降りられた――ことともけして無関係ではないだろう。平成の世では、悪との戦いに果てはあり、状況さえ許せば、かつてヒーローだった男もまた人びとの暮らす日常へ戻っていける。

 

さて、『仮面ライダークウガ』においてはなぜヒーローは着脱可能だったのだろうか。なぜ“身に着けるだけ”でヒーローになれたのだろうか。理由の一端は、クウガが超古代という半オカルト的なルーツを持つヒーローだったということに帰せるのではないか、と私は考える。
つまり、五代雄介がベルトだけでヒーローになれたのは、ベルトが「それだけで改造手術ができる」凄いものでなければならなかったからではないのではないか。むしろ、作劇上の都合として、ベルト以外に改造手術を担当できる要素がなかったから、仕方なくベルトを凄いものにしたのではないか。というのも、『超古代の怪人がよみがえり、超古代の技術でしかその怪人たちに対抗できない』というような物語を考えたとき、超古代の技術者も同時によみがえるような筋書きにしてしまっては、「説明も変身も戦闘も、技術者、お前がやれよ」という話になりかねない(いや、実際そういう話でもいいのだが)。もしも半オカルト的なストーリーを描きたいのなら、超古代の技術は使用法不明なままで発掘されなければならず、使用の決断もたいがいアクシデント的なものにならざるを得ない。その点、着けるだけで改造手術を代替してくれる変身ベルト「アークル」は鉄板である。
「ヒーローが着脱可能になったのは、ヒーローのルーツが超古代だから」だとしよう。ではなぜクウガのルーツは超古代だったのだろうか。この疑問には、当記事では「2000年当時はそんな時代だったのではないか」と時代の影響を示唆しておくだけにとどめておこう。1990年代以前の特撮において、オカルトは科学と対立するものであるか、あるいは正義と対立するものでありがちだった*13。これが1990年代後半になると、オカルトをストレートに科学や正義と対立させるよりも、正義と悪に共通する基盤としてオカルト的な設定を導入したり、オカルト寄りのSFやSF寄りのオカルトを展開したりする特撮が目立つようになった。『ウルトラマンティガ』(1996)でウルトラマンのルーツがそれこそ3000万年前の超古代文明に置かれたことであるとか、『ガメラ3 邪神覚醒』(1999)でガイア理論っぽい半オカルト半SFが展開されたことであるとかがその例だ。『仮面ライダークウガ』もそうした時代の趣味のなかで、適度にリアルで適度にファンタジーな背景設定として「超古代」を採用したのではないか、というのが私の見方だ。

 

仮面ライダーアギト』(2001)本編に登場する仮面ライダーは4人おり、この4人はルーツを基準にして大きく2群に分けられる。「超能力」をルーツにしている仮面ライダーたちと、「科学技術」をルーツにしている仮面ライダーだ。前者には「仮面ライダーアギト」「仮面ライダーギルス」「仮面ライダーアナザーアギト*14」の3人が当てはまり、後者には「仮面ライダーG3」が当てはまる。この2群の仮面ライダーたちはそれぞれに「キャラクターから着脱可能なヒーロー像」を提起している。
まず、前者について。「超能力」をルーツにしている仮面ライダーときくと、ここでいう仮面ライダーとしての能力は生得的なものなのかと誤解されがちであろうが、『仮面ライダーアギト』の場合は、そこそこ後天的に付与された能力としてその「超能力」は描写されている。「仮面ライダーアギト」「仮面ライダーギルス」「仮面ライダーアナザーアギト」の3者は神に反逆した天使から、ほぼ一斉に変身能力を与えられるという形で仮面ライダーへの変化を遂げているのだ。それはまったく不可逆な身体的変化でこそあったものの、複数人に一様にヒーロー化を適用できたという点では、「仮面ライダーアギト」「仮面ライダーギルス」「仮面ライダーアナザーアギト」のヒーロー性はキャラクター個々人には帰せない一般的なものだということができる。その一般性において、彼らのヒーロー性はキャラクターから着脱可能であるといえる。
次に、後者について。「科学技術」をルーツにした仮面ライダー、すなわち「仮面ライダーG3」こそは完全な“衣服”である。「仮面ライダーG3」は、変身者の身体的・精神的頑健さこそ求められるものの、変身者の身体改造は全く必要としない強化外骨格なのだ。実際、「仮面ライダーG3」のバリエーション(あるいは発展機*15)である「仮面ライダーG3-X」は、基本的には氷川誠のみが変身していたものの、例外的に津上翔一が変身したこともある。「仮面ライダーG3-X」のヒーローとしてのアイデンティティは変身者が誰であるかには依存しきっていないことははっきり示された。事実として、「仮面ライダーG3-X」というヒーローは氷川誠というキャラクターから着脱されたのである。
「仮面ライダーG3」の登場に至って、かつて“刺青”にしかなりえなかった仮面ライダーが“衣服”にもなりうるというアイデアは選択肢として確立された。このアイデアはドラマ面においても「仮面ライダーを“宿命”として受け入れるのでなく主体的に“選択”するキャラクター」を創造するうえで利用された。

 

続く『仮面ライダー龍騎』(2002)においても、「仮面ライダーG3」のような“衣服”化したヒーロー像は強化される。本作における13の仮面ライダーは、そのどれもが身体的変化を必要とせずに(鏡の前での)ベルト着用のみで変身可能である。また、仮面ライダーの名前を維持したままでの変身者の交代も劇中で実践される。例えば、「仮面ライダーナイト」は、変身者が秋山蓮から城戸真司に交代しても「仮面ライダーナイト」のままだった(このような変身者交代には、ほかに「仮面ライダー龍騎」と「仮面ライダーオーディン」が該当)。劇中で交代の頻度こそ高くはないものの、その交代のどれもがドラマ的に象徴的な経緯で行われる。とくに「オーディン」に関しては、名も無き一般市民が人格を完全に上書きされて「オーディン」に変身するというプロセスが描かれ、“衣服”化を徹底した結果としての“衣服”化とは別の現象――これについては次節で詳述する――の萌芽があり、非常に興味深い*16
ただ、急激な変化にはバックラッシュがつきもので、「仮面ライダーの“衣服”化」という現象に対しては「“衣服”には不相応なほど(まるで“刺青”のように)リスクとコストが目立っている」というかたちでそのバックラッシュがあらわれた。『仮面ライダークウガ』にも『仮面ライダーアギト』にもこの「仮面ライダーをやっていくことのリスク・コスト」はあったのだが、より“衣服”化がすすんだ『仮面ライダー龍騎』ではこうしたリスク・コストは「重い」……いや、「重い」というより「わかりやすい」。『仮面ライダー龍騎』における「仮面ライダーのリスク・コスト」は以下の2点だ。第一に、仮面ライダーは戦闘の多くを実質仮面ライダー専用の異世界で行うのだが*17、この異世界のなかでなんらかのアクシデントで変身が解けると変身者は物理的に消滅してしまう。第二に、変身者は開発者等から変身アイテムを譲渡されるかたちで変身能力を得るのだが、この開発者等の意向により、変身者たちは全員参加のデスゲームに参与することを強いられる。仮面ライダーはいまや“衣服”ではあるが、“刺青”などよりよほど厄介な“衣服”なのである。

 

仮面ライダー555』において仮面ライダーの“衣服”化は極まる。『仮面ライダー555』本編に登場する3通りの仮面ライダー仮面ライダーファイズ」「仮面ライダーカイザ」「仮面ライダーデルタ」はいずれも、変身に際して大きな身体的変化を求めない、純粋な“衣服”である*18。また、“衣服”の持ち主や“衣服”の着用者も頻繫に変化する。「仮面ライダーG3」や「仮面ライダー龍騎」や「仮面ライダーナイト」のころには「基本的には変身者は誰それ」というように基本的な変身者を確定することもできたが、「仮面ライダーファイズ」「仮面ライダーカイザ」「仮面ライダーデルタ」に関してはその「基本的な変身者」を決めることも困難なほどに持ち主・着用者が行ったり来たりする*19
しかし、「仮面ライダーファイズ」「仮面ライダーカイザ」「仮面ライダーデルタ」の3者以上に注目すべきなのは、「仮面ライダー」としてカウントするかは意見の分かれる存在である「ライオトルーパー」である。「ライオトルーパー」は複数人ぶんまったく同じ外見同じ機能のものが作られている“衣服”である。「誰が着ようが服自体は同じ」「服が複数あれば複数人で同時に着られる」という2点で、「ライオトルーパー」の“衣服”性は際立っている。ただ、かくもキャラクターから遊離してきた「ライオトルーパー」だったが、やはりここにもバックラッシュがあり、「ライオトルーパー」はそのあまりにキャラクターに紐づけできない性質ゆえに、「仮面ライダー」の一種としてカウントされない場合が多くなってしまった。のちの時代には、「ライオトルーパー」と同様に複数人体制であるヒーローが「仮面ライダー」を名乗ったことを思えば*20、「ライオトルーパー」はある道の先駆者であったに違いない。

 

以下、急激に進んだ“衣服”化の原因について簡単に推測を加えておこう。
事実として、『仮面ライダー龍騎』における仮面ライダーのデザイン・システムは当時流行のトレーディングカード*21を、『仮面ライダー555』における仮面ライダーのデザイン・システムは当時一般化していた折り畳みケータイを、それぞれモチーフにしていたという。これらのモチーフ選びは、おそらくは当時の子供が憧れるアイテムをシンプルに希求した結果であっただろう。そして、こうして選ばれたモチーフは、副産物として「もっぱらアイテムの力によって、“衣服”を着脱するヒーロー」を生み出した。それが、「仮面ライダー龍騎」であり「仮面ライダーファイズ」でありさらなる後裔たちである。アイテムを魅力的にするために、ヒーローは“衣服”と化したのだ*22

 

1.5. レベル3:キャラクター不在で一人歩きするヒーロー

ヒーローがキャラクターからの分離をつづけた先には、それまで必要不可欠だったキャラクターがそもそも必要なくなるという段階が存在する。その段階が目だって進展を遂げたのは『仮面ライダーディケイド』(2009)から『フォーゼ & オーズ MOVIE大戦MEGA MAX』(2011)までの期間だ。
混乱を避けるために、ここまでやや曖昧に使ってきてしまったきらいのある「キャラクター」という概念について、当記事なりの定義を示しておこう。当記事で「キャラクター」と述べたとき、「ある程度以上連続した時間の中で、自律的に思考し行動し続けているとみなせる(=人格を持った)実存」のことを指す。それはつまり、「通行人」という肩書のように特定の時間内だけ立ち現れる属性でもなく、「社長」という肩書のように特定の関係性の中にだけ立ち現れる属性でもない。単純に言うなら、「本郷猛」とか「五代雄介」とかいった、「生まれてきて、意思を持っている(とみなす)人間その他」のことを「キャラクター」と呼んでいると考えてもらってよい*23
かつて、ヒーローとは、そのヒーローに変身するキャラクターが1人以上いなければ成立しないものだった。それに変身する者がいないのに変身した後のヒーローだけは存在する、という事態は尋常には想像できない。しかし、その「キャラクター不在のヒーロー」が実現し、常態化していったのが今から述べる段階なのである。そして、その事態は、それが起こる経緯を追っていったとき、実はそれほど異常な事態ではない。

 

仮面ライダーディケイド』(2009)は、それぞれ異なる世界観を持った無数の仮面ライダーが同じ画面に登場し、戦いを繰り広げる作品である。第1話冒頭、大量の仮面ライダーが画面を埋め尽くして「仮面ライダーディケイド」に戦いを挑んでいくあの画面(素面の役者が一人しか映っていない!)の衝撃は、当時としては計り知れないものがあった。
私は、衝撃的な絵面を作り出すために、無数の仮面ライダーが背景設定不明のまま一斉動員されたあの瞬間こそが、仮面ライダーというヒーローをキャラクターから解き放った最大の契機ではなかったかと考えている。あの瞬間、大量動員されるがゆえに個々の仮面ライダーが戦闘時以外に送っていたであろう日常は決定的に不可視になったか、あるいは抹消された。もはや「変身前の日常が存在する」ことは自明ではない。

 

こうして、「日常の抹消」というかたちで仮面ライダーというヒーローはキャラクターから(ある意味)自律するに至った。そしてこの自律性は、『仮面ライダーディケイド』のなかだけでも3通りの方法でさらに強化されることになる。
第一には、既存の仮面ライダーの世界の並行世界を登場させたことである*24。並行世界の登場によって、これまでも、作品によっては散見されていた「ある特定のヒーローの変身者として複数のキャラクターが同時に紐づけされうる」という事態が、理論上すべての作品に適用可能であるというルールを事後的に承認させてしまった。具体的に言えば、『仮面ライダーディケイド』以前は「たまに変身者が複数いるライダーもいるけど、幾人かのライダーはそれぞれの物語のなかで決定的に一人だった」と言えたのが、『仮面ライダーディケイド』以降は「どの世界観のどんな仮面ライダーも、可能性としては複数人の変身者が並行世界に存在しうる」と言わざるを得なくなってしまったのだ。
第二には、ほかならぬ主役ライダーである「仮面ライダーディケイド / 門矢士」のキャラクター設定が希薄なまま『仮面ライダーディケイド』本編が終わってしまったことである。『仮面ライダーディケイド』は、いまや誰もが知るように(知らない?)すべての大言壮語的な設定や伏線や謎が投げっぱなしで終わってしまった作品群である。『仮面ライダーディケイド』とその関連作品群のうちに、門矢士が仮面ライダーとしての能力を得るに至った経緯を示す完全な説明はない*25。それまでの多くのヒーローが、キャラクターとしての過去や日常を持ったうえでヒーローに変身していたのと対照的に、門矢士には「仮面ライダーディケイド」としての時間しかない。門矢士の過去や日常の希薄さは、結果論的に、門矢士としてのキャラクター設定を「仮面ライダーディケイド」のヒーローとしての設定に依存せざるを得ないという状況を生み出した。いまや「仮面ライダーディケイド」に飲み込まれた感のある「門矢士」というキャラクターは、『仮面ライダージオウ』(2018)に客演したとき、半ば自嘲気味にしかし半ばヒロイックに、こんなセリフを残している。

(超常的な力で仮面ライダーへの変身能力を失った直後に)
あいにく俺の力ってのは、俺の存在そのものなんだけどな
(その後しばらくして平然と変身)

第三には、「仮面ライダーディエンド」が既存ライダーたちをキャラクターから分離されたかたちで“召喚”してしまったことだ。「ディエンド」というヒーローは、固有の能力として「カードを使って仮面ライダーを“召喚”する」という能力を持っている。ここでいう“召喚”された仮面ライダーたちは、劇中、変身後の状態でいきなり出現し、(多少それっぽい台詞をしゃべることはあるが)変身前の日常を想起させるようなキャラクター付けは行われない。変身前から通底するようなキャラクター像が希薄……というか、さながら「変身前などない」のである。実は、“召喚”された仮面ライダーたちには「変身前は存在しない」ということは公式設定ですらある*26。被“召喚”時の仮面ライダーこそは、変身前のキャラクター性を剝奪された純粋なヒーローそのものであり、「仮面ライダー○○」以上でも以下でもない。

 

こうして『仮面ライダーディケイド』がヒーローをキャラクターから分離したあとは、タガが外れたように「変身前がそもそも存在しない仮面ライダー」がつぎつぎ登場してくることになる。もちろん、『仮面ライダーディケイド』以前にも、キャラクターの心神が喪失した状態で運用された仮面ライダー*27や変身者のパーソナリティが劇中で掘り下げられない仮面ライダー*28は散見されたが、変身前と呼べるものが劇中世界のどこにも存在しない例は『仮面ライダーディケイド』以降にはじめて目立ってくるのだ。
『オーズ & ダブル feat.スカル MOVIE大戦CORE』(2010)に登場する「仮面ライダーコア」は、とある変身アイテムととある変身アイテムが合体して生まれた、仮面ライダーのようなかたちをした怪物である。彼は、「仮面ライダーを全滅させる」ことしか行動原理が存在しない、ボスバトルのためのボスキャラというような立ち位置のヒーローだが*29、はたして間違いなく仮面ライダーの一人だとみなされている。
『フォーゼ & オーズ MOVIE大戦MEGA MAX』(2011)に登場する「仮面ライダーポセイドン」も「コア」とよく似ている。「ポセイドン」は当初こそ「湊ミハル」の変身後の姿として生まれたらしいが、やがて変身アイテムが仮面ライダーとしての力を乗っ取り、変身者不在で勝手に暴れるようになった戦士である。しかしながら彼もやはり仮面ライダーの一人である。

 

「コア」と「ポセイドン」の両者に関して、その奇妙な存在様態を決定づけた要素は間違いなく、彼らの登場作品の異様な物語構造だ。『MOVIE大戦CORE』と『MOVIE大戦MEGA MAX』はライダー共演映画である。これらは両者とも、新旧の仮面ライダーが別々の場所でそれぞれの事件を解決した後に、ふたつの事件が言うてそんなに絡み合わないまま最後の敵と共闘するラストバトルに移行する流れをとっている。前者は3章構成、後者は5章構成(!)で、脚本家すら章ごとに違う。それぞれの章に出てくる敵役を、いささか背景不足のとってつけたような敵役として設定することは、作劇上妥当な選択だといえるだろう。そして、背景不足の敵役にするくらいなら、その敵役をなまじ怪人として設定してしまうよりも仮面ライダーとして設定してしまったほうがセンセーショナルでよい。「仮面ライダーコア」ならびに「仮面ライダーポセイドン」は背景の薄い、しかしだからこそ便利な敵役として生まれ落ち、現在でもアーケードゲーム等でちょうどいい活躍を続けているのである。

 

1.6. レベルX:キャラクター概念のかく乱

「ヒーロー名のキャラクターからの分離」という現象について語る締めくくりとして、それ自体「キャラクターからの分離」ではないが関連する現象について少しだけ語っておきたい。「キャラクター」概念のかく乱である。

 

仮面ライダーがシリーズを重ねるなかで、「キャラクターとは、人物の精神・肉体・能力をひとまとめにして総称したものである」というかつては自明であったような事項が揺るがされるようになった。具体的に言うと、「基本的に固有の肉体を持たない精神だけのキャラクター」とか「精神だけだったキャラクターが事後的に固有の肉体を獲得する」といったややこしい事態が「仮面ライダーシリーズではよくあること」として承認されるようになってきたということである。

 

きっかけになったのは間違いなく『仮面ライダー電王』(2007)である。『電王』には変身者等に憑依して行動する精神生命体「イマジン」が登場した。『電王』以前は「仮面ライダークウガ / 五代雄介」のように、多くても二項構造をとっていた「ヒーローとキャラクターとの関係」は、『電王』以降は「仮面ライダー電王 / 野上良太郎 / モモタロス」のように「ヒーロー・肉体・精神」の三項構造をとりうるようになったのである。
これだけならまだ「ヒーローの変身者は、主に肉体 / 精神が誰のものであるかによってこれを判断する」というルールを制定することによって、かなり強引ではあるが三項構造を二項構造へと縮退させることもできた。しかし、「イマジン」が本領を発揮するのはここからで、彼らは様々な条件によって固有の肉体を獲得できるのだ。具体的に言えば、「仮面ライダー電王 / 野上良太郎 / モモタロス」であるような状況もあれば「仮面ライダー電王 / モモタロス / モモタロス」であるような状況も「仮面ライダー電王 / 野上良太郎 / 野上良太郎」であるような状況も存在する。これら3つの状況の区別が必要であるとき(いつ?)は、精神と肉体とを区別するような込み入ったモデルを「キャラクター」概念に対して適用しなければならない。そして、その込み入ったモデルを採用したとき、キャラクター概念は複雑なものとなっていく。

 

はたして「精神・肉体の分離とその区別の複雑化」は年を追うごとに進んでいった。例えば、『仮面ライダーW』(2009)の「仮面ライダーW」は一人の肉体に2人の精神が同時に入り込むスタイルである。例えば、『仮面ライダードライブ』(2014)の「仮面ライダードライブ」は一人の肉体を2人の精神で互いにスイッチしながら戦うという機能を持っていた*30
最新の『仮面ライダーバイス』(2021)に登場する「仮面ライダーリバイ」ならびに「仮面ライダーバイス」は、ひとりの人間が自身の心の一部である?「悪魔」とともに変身することで「悪魔」を具現化させる、というスタイルのヒーロー(コンビ)である。いわば一人が変身して2人になる仕様ということだ。この独特な仕様ははたして作劇的に活かしうるのか、現状では判断しがたいが、とりあえず「キャラクター」概念のかく乱という歴史的流れに対しては忠実であるといえよう。

 

2. システムと見た目との分離

2.1. 前置き

仮面ライダーは、ウルトラマンや戦隊ヒーローといった日本のほかの特撮ヒーローと比較したとき、フォームチェンジの多彩さと複雑さによって特徴づけられることがままある。ここにひとつの不思議な事態が起こっていないだろうか。
私が指摘したいことは、以下のようなことである。我々は、ある仮面ライダー仮面ライダー○○」が異なるフォームに変身しても(それはたいていの場合見た目の明らかな変化を伴う)我々は「別人だ」とか「別ヒーローだ」とは思わず依然として「仮面ライダー○○だ」と認識し続ける。我々はなぜ、「仮面ライダーそのもの」と「仮面ライダーがある瞬間にまとっている見た目」とを区別できるのだろうか? 仮面ライダーたちを除いたとき、ほとんどのヒーローはあるひとつの見た目に紐づけられていることがふつうであるのに*31

 

ここには、仮面ライダーという〈システム〉そのものと仮面ライダーがその時々に見せる〈見た目〉との間には距離がある、という前提が隠されている。そしてこのような前提は最初から自明だったわけではなく、段階的に成立してきたものであるという話をこれから行う。

 

2.2. レベル0:作品世界内で見た目を変えうるヒーロー

例えば『ジョジョの奇妙な冒険』で1コマごとにキャラの服の色が違うことであるとか、第1巻と第63巻で画風が全然違うことに対して、「ジョジョの作品世界の中で服の色が頻繫に変化しているんだ」とか「ジョジョの作品世界の中では113年の間で人類の骨格が根本的に変化したんだ」といった反応をする人はいない。それは表現の幅とか画風の変化であって、作品世界の外、我々の世界で起こる変化である。
仮面ライダー』(1971)作中において、「仮面ライダー1号」は「旧1号」から「新1号」へと姿を変える。しかし、彼が姿を変えたことは作中の登場人物からははっきりと言及されない。彼の〈見た目〉の変化は、単に表現の幅とか画風の変化といった「作品世界内では起こっていない変化」として処理される可能性もあった。しかし実際のところは、本編中で言及がないにもかかわらず、彼の〈見た目〉の変化は作中世界で間違いなく起こっている事実であるというのが当時から現在に至るまで変わりなく公式設定である*32

f:id:keylla:20211212162228p:plain
f:id:keylla:20211212162252p:plain
(左)旧1号 (右)新1号

彼の姿の変化が作中世界内の事実として公式設定になったことの背景には、以下3点の理由があっただろう。
第一に、単純に、変化の幅が大きかったから*33
第二に、「仮面ライダー1号」は改造人間という設定であるため、ラディカルな見た目の変化を起こす可能性が十分に保証されていたから*34
第三に、彼の見た目の変化を彼自身の能力向上と絡めて設定化することで、「1号」をより魅力的にみせることができたから。
第三の理由は、仮面ライダーというコンテンツの当時の在り方についてとりわけ多くを示唆する。定説では、「仮面ライダー旧1号」が「仮面ライダー新1号」に見た目を変化させた事実に対して「ヨーロッパでショッカーと戦っていた時代の1号が自らを強化するためにわざとショッカーに捕まって再改造を受けた姿」という設定を加え定着させたのは、コンテンツの周縁媒体としての児童誌やライダーカードの記述が発端である*35。児童誌やライダーカードによる説明というものは、本編中の描写に対してたいていは飽和しがちであり、説明できることにはなんにでもドラマチックな説明を加えようとしただろう。本編中でフォローされない見た目の変化に関しても、放送当時や放送後の周縁媒体が「仮面ライダーの能力それ自体の向上」と絡めてドラマチックな設定付けを行ったのは当然の成り行きと言える。

 

仮面ライダー1号」のように見た目の変化を仮面ライダーとしての能力向上と絡めて設定化する手法は、「仮面ライダー2号」「仮面ライダーX」「スカイライダー」などによってフォローされ、定着していった。ただし、注意しておかなければならないのは、このテのパワーアップはまだ仮面ライダーの基本形態の不可逆的変化にとどまっていることだ。これから詳述していくが、現在の仮面ライダーのフォームチェンジには「可逆的な変化」と「能力の質的変化」と「能力の量的変化」という3つの特徴が存在するが、「旧1号→新1号」のような単線的パワーアップにはこの3つの特徴のうち「能力の量的変化」しか備わっていない。仮面ライダーの歴史におけるフォームチェンジ概念の曙までにはもう数年が必要である。

 

2.3. レベル1:可逆的変化

仮面ライダーストロンガー』(1975)の主人公「仮面ライダーストロンガー」は、見た目の可逆的変化を行った(基本的に)初めての仮面ライダーである。彼は、通常形態の「仮面ライダーストロンガー」から戦闘中に「超電子人間ストロンガー」(「チャージアップストロンガー」とも言う)への強化変身を遂げ、強化を必要としなくなると元の姿に戻る。

f:id:keylla:20211212162721j:plain
f:id:keylla:20211212162731j:plain
(左)仮面ライダーストロンガー (右)超電子人間ストロンガー

「ストロンガー」は仮面ライダーの歴史の中にはじめて多段変身をもたらしたのだが、その多段変身はもちろん現在のフォームチェンジ概念とは2つの点で様相が異なる。
第一には、それが単純な能力の向上――能力の量的変化――にとどまっていた点である。現代の仮面ライダーでは、能力の量的変化・能力の質的変化・およびその複合がすべて一連のフォームチェンジのなかに組み込まれることが普通であり、単純なパワーアップのみでフォームチェンジの可能性が尽くされてしまう場合は少ない。
第二には、「通常形態→パワーアップ形態」という見た目の変化と「仮面ライダー○○→仮面ライダー××」というシステムそのものの変化とが、まだ完全には分離されていないという過渡期的性質があることである。具体的に言えば、現在では「ストロンガー」というひとりのヒーローがまとう複数の見た目の区別が、ヒーローそのものの区別にまで若干の逆流を起こし、「仮面ライダーストロンガー」と「超電子人間ストロンガー」というようにまるで別ヒーローかのような名前を持っている、ということだ。ただ、これは平成の感覚から事後的に解釈すると「別ヒーローかのように思える」名づけ方というだけの話ではある。当時の感覚からすれば「仮面ライダーストロンガー」と「超電子人間ストロンガー」で「同一ヒーローの異なる見た目」という理解をすることは存外普通だったのかもしれない。

 

2.4. レベル2:能力の質的変化

ヒーローの見た目の可逆的変化に能力の量的変化を結びつけたのが「ストロンガー」だったとすれば、ヒーローの見た目の可逆的変化に能力の質的変化を結びつけたのは『仮面ライダーV3』(1973)の「ライダーマン」や『仮面ライダースーパー1』(1980)の「仮面ライダースーパー1」である。
ライダーマン」の「カセットアーム」と「スーパー1」の「ファイブハンド」はどちらも、変身後のヒーローが自らの前腕を着脱することによって機能の異なる様々な武装に切り替えるという能力である。着脱され付け替えられる腕はいずれも違う見た目を持っているため、「カセットアーム」と「ファイブハンド」はのちのフォームチェンジ概念のさきがけといっておそらく間違いはない。

f:id:keylla:20211212163045j:plain
f:id:keylla:20211212163056j:plain
f:id:keylla:20211212163108j:plain
f:id:keylla:20211212163119j:plain
f:id:keylla:20211212163129j:plain
ファイブハンド

ただ、これらの能力があくまでさきがけにとどまるのは、「見た目の変化が前腕部にとどまる」という点に拠る。変化が部分的なため、これらの能力はフォームチェンジそのものというよりかはひとつのフォーム内での細かなバリエーションとみなすべきであろう(ただ、後述するが「ひとつのフォーム内での細かなバリエーション」は平成になってから事後的に構築される概念である)。

 

2.5. レベル3:「○○フォーム」という識別子の誕生

ライダーマン」や「スーパー1」によって開かれた「見た目の可逆的変化と能力の質的変化との結びつき」という可能性は、『仮面ライダーBLACK RX』(1988)の主人公「仮面ライダーBLACK RX」において結実することになる。
仮面ライダーBLACK RX」は、前腕部にとどまらず体全体の見た目を可逆的に変化させ、同時に能力を質的に変化させる「フォームチェンジ」を初めて行った。「仮面ライダーBLACK RX」は基本形態の「仮面ライダーBLACK RX」から、とにかく硬くて射撃主体の「ロボライダー」と液体化ミクロ化自在で剣術主体の「バイオライダー」の2形態へと多段変身を遂げるのだ。

f:id:keylla:20211212163245j:plain

(左から)仮面ライダーBLACK バイオライダー ロボライダー 仮面ライダーBLACK RX

仮面ライダーBLACK RX」は「ロボライダー」「バイオライダー」という2つの形態とそれぞれに紐づいたと特殊能力を持つことによって、多様な戦闘状況に対して形態の自発的変化によって対応するという選択肢を得た。
ただ、「仮面ライダーBLACK RX」におけるこうした形態の変化は、名前という次元でみれば、やはり仮面ライダーそのものの違いに逆流している。「ロボライダー」「バイオライダー」という名前はそれぞれ「仮面ライダーBLACK RX」とは全く別人に思えるような名前であるからだ(ただ、繰り返すが「別ヒーローかに思える名前」という感覚は事後的に構成されている可能性がある)。

 

「可逆的な変化」「能力の質的変化」「能力の量的変化」の3要素を網羅し、なおかつライダー名とは別の識別子を発明し、現代におけるフォームチェンジ概念を完成させたのは、『仮面ライダークウガ』(2000)の「仮面ライダークウガ」である。
まず、「仮面ライダークウガ」における多段変身は可逆的である。彼は基本形態の「マイティフォーム」から「ドラゴンフォーム」や「ライジングマイティ」などの別フォームへ変化を遂げ、のちに「マイティフォーム」に戻ることができる。
次に、「仮面ライダークウガ」における多段変身は能力の質的変化を伴う。彼の4つの基本形態「マイティフォーム」「ドラゴンフォーム」「ペガサスフォーム」「タイタンフォーム」にはそれぞれ「格闘重視」「機動力重視」「索敵・照準重視」「防御力・攻撃力重視」という個性が存在する。

f:id:keylla:20211212163545p:plain
f:id:keylla:20211212163559p:plain
f:id:keylla:20211212163610p:plain
f:id:keylla:20211212163620p:plain
(左から)マイティフォーム ドラゴンフォーム ペガサスフォーム タイタンフォーム

また、「仮面ライダークウガ」における多段変身には能力の量的変化の要素もある。「マイティフォーム」には「ライジングマイティ」、「ドラゴンフォーム」には「ライジングドラゴン」というようにあるフォームの上位形態といえるフォームが「仮面ライダークウガ」のフォームチェンジのなかには存在するのだ。

f:id:keylla:20211212163724p:plain
f:id:keylla:20211212163545p:plain
f:id:keylla:20211212163738p:plain
f:id:keylla:20211212163752p:plain
(左から)グローイングフォーム マイティフォーム ライジングマイティ アメイジングマイティ

そしてなにより、「仮面ライダークウガ」というヒーロー名とは別に「○○フォーム」という識別子を付してフォームを区別することばの構造をとったことが、システムと見た目を区別するという意味では決定的だった。「仮面ライダークウガ」は間違いなく「仮面ライダークウガ」のままでありながら、複数のフォームを可逆的に獲得できるようになったのだ*36

 

クウガ」における「フォームチェンジ」として確立したフォームチェンジ概念は、その後の「仮面ライダーシリーズ」においても踏襲される。「仮面ライダーウィザード」の「スタイルチェンジ」や「仮面ライダー鎧武」の「アーマーチェンジ」など命名スタイルの細かい異同は増えるものの、その基本的な考え方はほぼすべての主役ライダーと多くのサブライダーによってなぞられている。

 

2.6. レベルX:フォームチェンジの下位分類の出現

仮面ライダーW』(2009)や『仮面ライダーオーズ/OOO』(2010)のころになると、主役ライダーのフォームチェンジが顕著に複雑多様化してくる。「仮面ライダーW」はいくつかの変身アイテムの組み合わせによって3^2通りの基本形態と加えていくつかの強化形態に、「仮面ライダーオーズ」は同じくいくつかの変身アイテムの組み合わせによって5^3通り以上の形態に多段変身する。
こうした、フォームチェンジ複雑多様化の潮流の直接の原因はほぼ間違いなく、仮面ライダーの変身アイテムとして「組み合わせ可能なコレクションアイテム」を打ち出す戦略が確立されたことである。この時代以降、仮面ライダーは変身に際して、変身ベルトに(USBメモリやメダルや錠前をモチーフとした)より小さなアイテムを挿入することが一般的になる。

 

そうした流れのなかで、『仮面ライダーフォーゼ』(2011)の「仮面ライダーフォーゼ」は、従来のフォームチェンジに相当するであろう「ステイツチェンジ」の下位に「モジュールチェンジ」とでも言うべき形態変化をも導入した。「モジュールチェンジ」とは、四肢の先端に状況に応じた多様な追加装備を着脱する仕組みであり、「スーパー1」における「ファイブハンド」の発展のようなものである。
「フォーゼ」の「モジュールチェンジ」というスタイルは「仮面ライダードライブ」の「タイヤコウカン」(「タイプチェンジ」とでも言うべきフォームチェンジの下位に位置する)などによってフォローされる。「仮面ライダーシリーズ」におけるフォームチェンジ概念は、仮面ライダーのシステムと見た目との分離を果たしただけでは終結せず、今後もさらなる重層化を遂げていくであろうことは想像に難くない。

 

2.7. レベルX:フォームチェンジからライダー名への逆流

ここまでの話だと、「仮面ライダーシリーズ」の歴史は、ヒーローの固有名「仮面ライダー○○」とその下につくフォーム識別子「△△フォーム」とが互いにはっきりと区別される方向に進んでいる、ということになる。しかし、逆に両者を截然と分けられない場合がなぜか2010年ごろから散見されており、注意が必要だ。

 

例えば、『仮面ライダーW』(2009)の「仮面ライダーアクセル」は、通常形態のほかにいくつかの派生形態を持つが、これらの派生形態は「仮面ライダーアクセルトライアル」とか「仮面ライダーアクセルブースター」といった名前を持つ。これらの名前は「仮面ライダーアクセル / トライアル」とか「仮面ライダーアクセル / ブースター」という風に区切りを置かれることはなぜかあまりなされず、強いてどちらかと言えば「仮面ライダーアクセル / アクセルトライアル」とか「仮面ライダーアクセル / アクセルブースター」と区別するべき、という印象がある。「仮面ライダーBLACK RX」のように、見た目の区別がシステムの区別に逆流しているのだ。

 

「アクセルトライアル」や「アクセルブースター」は「仮面ライダーアクセル」の下位に位置するいち形態という印象が強いが、『仮面ライダードライブ』(2014)の「仮面ライダーマッハ」に対しての「仮面ライダーマッハチェイサー」などになると、それが「仮面ライダーマッハ」とは別のライダーにあたるのか、同一ライダーのフォーム違いにあたるのか、判断は難しい*37。かつてテレビ朝日の『仮面ライダードライブ』公式サイトにおいては別ライダーのような扱いだったし、2021年現在の東映のWEBコンテンツ「仮面ライダー図鑑」においては同一ライダーのフォーム違いのような扱いであり、解釈にはブレがある。

 

ほか、ライダーの固有名とフォーム識別子とが癒着しているライダーとして『仮面ライダーオーズ/OOO』(2010)の「仮面ライダーバース」や『仮面ライダービルド』(2017)の「仮面ライダークローズ」などが印象的である。理由は正直よくわからないが、フォームチェンジからライダー名への逆流現象は主役でないサブライダーにおいて特に顕著に進行している*38

 

3.『仮面ライダー』の称号化・脱称号化

3.1.前置き

仮面ライダー本郷猛は改造人間である
彼を改造したショッカーは世界制覇をたくらむ悪の秘密結社である
仮面ライダーは人間の自由のためにショッカーと戦うのだ

仮面ライダーは、ときに特定のキャラクターや特定の見た目に帰することができるように、ときに特定の価値観――「人類の自由のために戦うものが仮面ライダーである」という価値観――に帰することもできる。
逆に言えば、かつて「仮面ライダー○○」に変身していた人物であっても、『仮面ライダー』を支持する特定の価値観にコミットすることを辞めた時点で「仮面ライダー○○」でなくなる、という場合もありうる。また、「仮面ライダー○○」と全く同じ起源・見た目・能力を持つ改造人間であっても、『仮面ライダー』を支持する特定の価値観にコミットしていないために「仮面ライダー××」とは呼ばれず怪人として扱われる、という場合もありうる。

 

何を重んじる者が『仮面ライダー』とみなされるのか、何のために戦う者が『仮面ライダー』とみなされるのか(はたまた、「仮面ライダー」は特定の価値観とは関係のない、客観的・定性的に判断可能なカテゴリなのか)といった価値観は、基本的には作品ごとにさまざまであり、番組ごとに固有の特徴である。
しかしながら、あえて作品間を貫く歴史を俯瞰したときに、実態としての「仮面ライダー」と称号としての『仮面ライダー』が接近・分離する過程といったものはさまざまにみられる。この章ではその変化の過程を(ほかの章にも増してとびとびの追跡ではあるが)追っていく。

 

3.2. レベル0:人間の自由の守護者『仮面ライダー

周知のように、悪の秘密結社ショッカーが世界征服のため作り出したバッタモデルの改造人間が洗脳を逃れ、ショッカーに対抗して戦い始めたのが『仮面ライダー』(1971)における「仮面ライダー1号」である。ショッカーは彼を人類の自由の守護者にするために改造したわけではなく、「仮面ライダー」という名を用意していたわけでもないので(彼が洗脳を逃れなければ、例えば「バッタ男」といった名前が彼には与えられていただろう)、「仮面ライダー1号」が「仮面ライダー」と呼ばれることには「1号」自身の社会的ポジションが関わることになる。「仮面ライダー1号」はつまり、自由を守るため戦う限りにおいてのみ『仮面ライダー』と呼ばれるのであって、彼の改造人間としての肉体や能力だけでは「仮面ライダー1号」とは呼ばれ得ない。

 

はたして「仮面ライダー1号」、ならびにその後裔の昭和ライダーたちもまた、「人間の自由のために戦う」という要件を含んだ称号として『仮面ライダー』の名を名乗っている。
ときに、「人間の自由の守護者」が「正義の使者」とかではないことは(起源からいけば)存外に重要である。というのも、『仮面ライダー』の企画者は、『仮面ライダー』を「正義」として定義することを明確に避けていたのだというのだ。
聞くところによれば、制作者は「正義を掲げようが、人びとの自由を奪う限りではどの立場も悪になりうる。仮面ライダーは自由を奪う悪にこそ立ち向かう」といった意図であくまで「正義」は避け、「自由の守護者」としての『仮面ライダー』を定義したのだという*39

 

仮面ライダー』は客観的・定性的に決定可能なカテゴリではなく、自他の承認があって初めて獲得しうる称号なのだ、という思想は、以下2つの手法によって強化される。一つ目は、もともと『仮面ライダー』の称号を持っていなかった人物が『仮面ライダー』の称号を得るに至る経緯を物語中で描く、という手法だ(当ブログにおける文脈に従えば、その経緯を『命名儀式』と呼ぶこともできるだろう)。二つ目は、『仮面ライダー』の称号を得るに至る改造人間が、改造人間としてのもともとの名前をライダー名とは別に持っているという手法だ。
一つ目の手法を実践されたのは、『仮面ライダーV3』(1973)の「ライダーマン」だ。顔の下半分が露出した異色の外見で知られる彼は、その外見が示唆する通り、当初は『「仮面ライダー」と言えるかどうか微妙な存在』として『仮面ライダーV3』の物語へと登場した。「ライダーマン」に変身する結城丈二は、もとは敵組織デストロンに所属する科学者であり、デストロン時代の上司に裏切りを受けたことで上司に対する復讐を計画、デストロンを離反した復讐の戦士だったのである。当初デストロンの元上司への復讐が目的だったため、「仮面ライダーV3」とも互いに反目することが常だったが、彼はやがて「仮面ライダーV3」と志を同じくする戦友となる。
物語終盤、「ライダーマン」は東京を壊滅させるために放たれるプルトンロケットの軌道を変えるため、単身これに乗り込み、ロケットとともに爆発して海に消える。彼が消えた後「仮面ライダーV3」ははなむけとして彼に『仮面ライダー』の名をはじめて与えることになる。

ライダーマン、よくやってくれた。君は人類を守った。君は英雄だ。俺は君に仮面ライダー4号の名前を送るぞ。

「死後に初めて『仮面ライダー』と呼ばれた」という「ライダーマン」の事例は、『仮面ライダー』という呼称を特別な要件を持った〈称号〉へと昇華させ、なおかつその称号の価値を大いに高めたものである*40

 

二つ目の手法が実践されたのは、『仮面ライダーX』(1974)の「仮面ライダーX」や『仮面ライダーBLACK』(1987)の「仮面ライダーBLACK」であり、とくに「仮面ライダーBLACK」の例がわかりやすい。
仮面ライダーBLACK」は本来、秘密結社ゴルゴムが首魁である創世王の後継者候補として作り出した改造人間「世紀王ブラックサン」である。彼が創世王の後継者候補としてゴルゴムに与していたなら、彼は「ブラックサン」と呼ばれていただろう。しかし、彼は例によって洗脳を逃れ、ゴルゴムに対抗して戦い始める。戦うなかで人々から呼ばれるようになった名前が「仮面ライダーBLACK」であり、「仮面ライダーBLACK≠世紀王ブラックサン」という思想は力の使用目的の違いというかたちでくっきりと浮かび上がる*41

 

3.3. レベル1:人間の自由の守護者でない『仮面ライダー』?

かつて、『仮面ライダー』の称号は、人間の自由の守護者か、それに類する善性の存在にのみ与えられるものであり、狭義での「ヒーロー」しかそれを得ることはかなわなかった。しかし、いくつかの過程を経て、『仮面ライダー』の称号は自由の守護者以外の者たち――人類社会の敵――にも与えられるようになっていく。

 

ひとつめの転機は『仮面ライダーBLACK』の「世紀王シャドームーン」である。「シャドームーン」は、その名が示す通り、「世紀王ブラックサン」と対になる後継者候補の改造人間であり、しかし「ブラックサン」とは違いゴルゴムによる洗脳を受けたため怪人としての役割を果たすに至った戦士である。
彼は、一貫して「ブラックサン」こと「仮面ライダーBLACK」との決着を望み、敵対行動をとったため、狭義の「ヒーロー」にはあたらない。しかし、出自からわかる通り彼は「仮面ライダーBLACK」と同質・同格の能力を持っており、キャラクター性も豊かだったため、(現在では)「仮面ライダー」のひとりに数えられている。彼は「悪の仮面ライダー」の第1号だったわけだ*42。ただ、『「仮面ライダー」なのに悪』という新機軸の反動は大きく、「シャドームーン」の正式名称の頭には「仮面ライダー」がつくことは(このときは)なかった。「シャドームーン」という「悪の仮面ライダー」の登場は、『仮面ライダー』という称号から善性を完全に引き剝がすにはまだ至っていない。

 

純然たる「悪の仮面ライダー」が『仮面ライダー』という肩書を明確に伴ってはじめて現れたのは、『仮面ライダーアギト PROJECT G4』(2001)のことだ。この作品に登場する「仮面ライダーG4」は、最初から最後まで主人公たちに敵対する立場を崩すことなく(変身者が心神喪失しても敵対行動を続けるという徹底ぶり!)、完全なヴィランといえる。かつ、彼の正式名称は「仮面ライダーG4」であり、『仮面ライダー』から善性を引き剝がす試みはとりあえずここに完遂されたといっていいだろう(ただし、当該作品中では「仮面ライダー」というタームは登場しないしないため、「『仮面ライダー』の称号から善性が引き剝がされた」という事態はメタ的にのみ解釈可能であることには注意せよ)。
ここで、『仮面ライダーアギト PROJECT G4』で「悪の仮面ライダー」が登場するに至った経緯を少しだけ追っておこう。
仮面ライダーアギト PROJECT G4』は『仮面ライダーアギト』(2001)と世界観を同じくする劇場版であり、この作品の問題系は『仮面ライダーアギト』の問題系の延長であるとみなしうる。『仮面ライダーアギト』の問題系とは、複数人の「仮面ライダー」を登場させることにより、『仮面ライダー』という“能力”と“称号”に対して適応した者 / 適応しようとする者 / 適応できなかった者 / etc...の対照を描くことにある。このテレビ本編の問題系に対して、ある種外伝的な物語を描く劇場版が、当の問題系の裏面としてそもそも『仮面ライダー』の“称号”としての側面にゆさぶりをかける――“能力”は十分だが人類の自由のためには戦わない戦士は果たして「仮面ライダー」と呼ばれ得るのか――のは、正着だと言えるのではないだろうか。

 

仮面ライダーは善でも悪でもありうる」というアイデアを、作品世界中に「ライダー」というタームを伴って提示し、「仮面ライダーシリーズ」に完全に定着させたのは『仮面ライダー龍騎』(2002)だ。
仮面ライダー龍騎』では、13人(以上)もの人間が別々の価値観に基づいて「ライダー」として戦う姿が描かれる。13人のライダーたちの戦う目的は、昭和ライダーたちがそうしていたように相互承認を経たものでもなければ、昭和ライダーたちがそうだったように公益に類するものでもない。「仮面ライダー」の戦う目的はむしろ私利私欲であることが強調されている(比較的善性の目的を掲げる主人公でさえ、最終的にはその目的をエゴとして遂行せざるを得ない)。
極め付きは「平成最凶の悪人ライダー」とされる「仮面ライダー王蛇 / 浅倉威」である。彼は拘留中の快楽殺人鬼として登場し、殺し合いを通じて快楽を得るために「仮面ライダー」として戦った。彼の登場以降は、どんな人物であれ、その性格の不徳を理由に「「仮面ライダー」ではない」とみなされることは(メタ的には)ないだろう。どんな悪人が「仮面ライダー」を名乗ろうが、浅倉威以上に性格が苛烈ということはそうそうないのだから。

 

ただ、『仮面ライダー龍騎』がこのように「戦う理由は十人十色」という思想を提示したことは、逆説的に13人のライダーのイデオロギー的共通項を浮き彫りにしてもいる。その共通項とは、「望みをかなえる手段として戦いを選択した」ということである。この時点で、『仮面ライダー龍騎』における『仮面ライダー』とは、「戦いを選択する」というイデオロギーに対して与えられる称号であると言えなくもないのだ。
仮面ライダー龍騎』が確立した「『仮面ライダー』は必ずしも善性とは限らない」という考え方は、『仮面ライダー』の称号を一旦はイデオロギーから引き剝がしながら、翻って別のイデオロギーに接着してみせた。しかしこの変換はさらにもう1回の逆説を経由してついに『仮面ライダー』の称号を完全にイデオロギーから解き放つにいたる。

 

3.4. レベル2:人類みなライダー

仮面ライダー』の定義は、『仮面ライダー龍騎』のなかで「特定の善性の価値観に基づいて戦う者」から「目的のために戦う者」へと変化を遂げた。その変化の続きとして、TVSP『仮面ライダー龍騎 13RIDERS』にこのようなセリフが登場する。

生きるってことは、他人を蹴落とすことなんだ!
いいか! 人間はみんなライダーなんだよ!

仮面ライダー』の称号は、ついに人間全員に付与されるに至った。

 

仮面ライダー』の称号が人間全員に付与されるまでの流れは、単に「人間の自由の守護者→人間全員」という1段階の変化ではなかった点には注意されたい。もし、「仮面ライダーシリーズ」の歴史が(まあ不可能だろうが)単純にこのような1段階の変化をたどっていたとするなら、単に『仮面ライダー』という語からあらゆる意味が失われるだけの話であって、もしそのように意味が失われていたなら、視聴者は「お前も仮面ライダー(=人間)なんだよ」と言われても「……そうだけど何か?」という反応しかできない。『仮面ライダー』という称号の定義は、いくつかの逆説を通じて拡大を遂げたからこそ、「お前も仮面ライダーなんだよ」という発言は「人間一般に当てはまることが実は非-人間的だといえる」という含みを持つにいたる*43

 

人類みなライダーという思想がより具体的に表現されたのは、『仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』(2003)だろう。この作品では、量産型仮面ライダーとも言うべきシステム「ライオトルーパー」を身に着けた1万人の兵士が、個性も何もなく、主人公たちに襲い掛かる。「無名の群衆ピープル・ウィズ・ノー・ネームとしての仮面ライダー」というイメージは、まさしく称号としての『仮面ライダー』の終焉を印象付けるものであっただろう。ただ、「ライオトルーパー」は「仮面ライダー」にカウントする場合もカウントしない場合もあるから正確には「量産型仮面ライダー」と断言しづらいところもあるし、また「ライオトルーパー」に変身する1万人の兵士は狭義の人類には当てはまらない種族なのだが……*44

 

3.5. レベルX:『仮面ライダー』の再-称号化

仮面ライダー」という言葉が特定のイデオロギーから完全に解放された『仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』以降、変身者や周りの人びとは「仮面ライダー」という言葉に自身の信念を託すことが全くできなくなってしまったのだろうか。
否。むしろ事態は逆で、かつて自明だった『「仮面ライダー」は善性の存在である』という定理が崩れ去ったことによって、「仮面ライダー」の変身者は『仮面ライダー』という称号の定義を自発的に設定することができるようになった。『仮面ライダー555』以降のシリーズでは、変身者自身による『仮面ライダー』の定義づけがたびたび行われるようになり、この一種の“命名儀式”は物語をいっそうヒロイックに盛り上げることになる。

 

仮面ライダー剣』(2004)では、「職業としての仮面ライダー」という定義を当初打ち出し、そこに「社会的にヒーローとして承認された仮面ライダー」という定義を重ねていくことで「ヒーローとしての仮面ライダー」を再定義してみせた。
仮面ライダーW』(2009)では、「町に住む人びとの間での噂」として「仮面ライダー」の名前が登場し、主人公たちはこれを誇りとして受け入れて自ら「仮面ライダー」を名乗るようになった。彼らにとって「仮面ライダー」の名は地域社会からの承認の証となる。
仮面ライダードライブ』(2014)では、「敵勢力ロイミュードの業務連絡」として「仮面ライダー」という名が生み出され、やがては市民たちのヒーローの名として定着するに至る。主人公たちは『仮面ライダーW』と同様「仮面ライダー」の名を社会からの承認の証として誇った。また、この作品においては「仮面ライダー」の語に「ロイミュードを倒す者である」という意味がぬぐいがたく含まれており、「仮面ライダーロイミュードと完全に和解することはできない」という悲劇的な展開への一種の布石にもなっているかもしれない。

 

『「仮面ライダー」は客観的・定性的に決定されるものではなく、自発的に定義するもの』という思想が最も先鋭化したのは、『仮面ライダーウィザード』(2012)の第53話「終わらない物語」だろう。このエピソードでは、「仮面ライダーの客観的・定性的な定義(の一例)」を象徴的に掌握してみせた怪人に対して、「仮面ライダー」たち自身が『仮面ライダー』の定義を宣言しなおすことで、「仮面ライダー」としての能力を奪還し、怪人を打倒する過程が描かれる。
もう少し具体的に言うと、このエピソードでは、謎の魔法使いアマダムが「仮面ライダーの本質は怪人と出自が同じである点にある」と主張して、「仮面ライダーの本質」の具現化であろう謎の物体「クロス・オブ・ファイア」を掌握する。「クロス・オブ・ファイア」が掌握された時点から、主人公である「仮面ライダーウィザード」を含めた複数の仮面ライダーはアマダムへの攻撃が効かなくなり、窮地を迎える。しかし、「仮面ライダーディケイド / 門矢士」が

俺達は正義のために戦うんじゃない 俺達は人間の自由のために戦うんだ

と宣言した時点から再度「仮面ライダー」たちの攻撃はアマダムに通じるようになり、これを撃破することに成功する。「クロス・オブ・ファイア」が掌握されているか否かは究極的にはどうでもよかったのだ。
概念同士の折衝が直截に戦闘へと昇華されるこの感じ、いかにも平成2期っぽい。

 

4. ヒーロー名と番組との分離

4.1. 前置き

特定のストーリーを持ったテレビ番組のタイトルが、そのストーリーの主人公を直截に表現しているというような場合は珍しくない。『ちびまる子ちゃん』の主人公は「ちびまる子ちゃん」だし、『名探偵コナン』の主人公は「名探偵コナン」だし、『おじゃる丸』の主人公は「おじゃる丸」だ*45
ヒーロー番組においてこの傾向は強い。『ウルトラマン』の主人公は「ウルトラマン」だろうという印象が大きいし、『秘密戦隊ゴレンジャー』の主人公は「秘密戦隊ゴレンジャー」の5人だろうという印象が大きいし、『宇宙刑事ギャバン』の主人公は「宇宙刑事ギャバン」だろうという印象が大きい。こうした傾向はもちろん「仮面ライダーシリーズ」でも例外でなく、『仮面ライダー○○』という作品の主人公はたいてい「仮面ライダー○○」である。そこに異存はない。
ただ逆に、仮面ライダー○○」という名前を持っているヒーローが必ずしも『仮面ライダー○○』という番組の主人公でも登場人物でもないという事態は、かつては珍しかったが、近年ではかなり一般的になった。今般では、『仮面ライダー○○』という一つの作品に対して5人から20人ほどの「仮面ライダー」が登場することが普通なので、毎年4人から19人ほどの「仮面ライダー」は自身の冠番組(?)を持たないことになる*46。「仮面ライダー」の称号を持つことは、いまや主人公ヒーロー性の証明にはなりえないのだ。
と、書いてしまえばほとんど当たり前のことなのだが、その歴史的経過を以下にもう少しだけ詳述していく。

 

4.2. レベル0:仮面ライダー=主役

かつて、「仮面ライダー」は自身が登場する番組の唯一無二のヒーローであった。逆に言えば、ある番組の中で、毎話登場して人間の自由のために戦っている超人は、必ずやその番組の無二の主人公だった。
多少の例外はある。人間の自由のために超人的な力をふるった戦士であるにもかかわらず、(無二の)主人公ではなく、「仮面ライダー」の名も与えられなかった者として、『仮面ライダーV3』(1973)の「ライダーマン」や『仮面ライダーストロンガー』(1975)の「電波人間タックル」がいる。「ライダーマン」が「仮面ライダー」たりえなかった理由としては、前述した「ヒーローの称号を得るまでの過渡期的性質のため」というものが大きく、「電波人間タックル」が「仮面ライダー」たりえなかった理由としては、彼女が女性であるということが大きかっただろう*47*48。「仮面ライダー」と同質・同格の能力を持っているにもかかわらず、主人公でなく、「仮面ライダー」の名を与えられなかった者として、『仮面ライダーBLACK』(1987)の「シャドームーン」がいる。「シャドームーン」が「仮面ライダー」たりえなかった理由として最大のものは、彼がヴィランであることに拠っているだろう*49

 

4.3. レベル1:「仮面ライダー」というタームの作品世界からの排除

ときに、「仮面ライダーシリーズ」のうち昭和に放送された9つとその他のテレビ番組では、そのすべてにおいて劇中で「仮面ライダー」という用語が用いられていた。このことは当然に思われるかもしれないが、時代が平成に入ると、「仮面ライダー」というタームは必ずしも劇中には登場しなくなる。
はじめて「仮面ライダー」というタームが消失した作品は、『真・仮面ライダー 序章』(1992)である。この作品では、ラストシーンでモニターに「MASKED RIDER」の文字*50が浮かび上がるだけで、「仮面ライダー」というタームを口に出す者はまったく出てこない。
この作品から「仮面ライダー」という単語が消し去られている(かに見える)のは、「仮面ライダー」という語が徹頭徹尾存在しない作品世界を表現したかったからではおそらくない。というのも、『真・仮面ライダー 序章』は「序章」という副題が示すように本来連作になる予定だった作品の1本目であり、「仮面ライダー」が「仮面ライダー」と呼ばれる前のオリジンを描いた作品であるため、「仮面ライダー」という単語がまだ登場しないというだけなのだ。幸か不幸か、『真・仮面ライダー 序章』は好評すぎたために続編の企画が立ち消えになり、『真・仮面ライダー 序章』の世界のなかで「仮面ライダー」という語が生まれることはついぞなかった。
そのとき少し不思議なことが起こる。『真・仮面ライダー 序章』の主人公は「仮面ライダーシン / 風祭真」である。前述した通り『真・仮面ライダー 序章』作中には「仮面ライダー」という単語は存在しないのだが、主人公の正式名称の頭には「仮面ライダー」がつく。このヒーロー、作品世界中には存在しない概念で公式設定が構成されているのだ……まあ、不思議と言えば不思議だが、「仮面ライダーシリーズ」に限っても限らなくても、ありふれた現象ではあるか*51

 

『真・仮面ライダー 序章』から『仮面ライダーZO』(1993)『仮面ライダーJ』(1994)をはさんで、『仮面ライダークウガ』(2000)でもまた、「仮面ライダー」というタームは作中世界から排除されることになる。「仮面ライダークウガ」は作中では単に「クウガ」とかあるいは「未確認生命体4号」と呼ばれるのみで、「仮面ライダークウガ」とは呼ばれない。
仮面ライダークウガ』の作中に「仮面ライダー」という単語が登場しなかったのは、一種のリアルさの表現のためだっただろう。「仮面ライダー」という単語を耳にするとき、我々はどうしても「『仮面ライダークウガ』の作中世界にはいまだかつて存在したことがなかった新しい概念」としての「仮面ライダー」ではなく「1971年からシリーズを連ねてきた“あの”ヒーロー」としての「仮面ライダー」のほうをイメージしてしまう。『仮面ライダークウガ』のようなSF作品のなかで、まったく新しい概念として「仮面ライダー」という単語を登場させようとしても、視聴者はまったく新しい概念が我々のずっと見知ってきたフィクション上の概念と一致する名前を持つことに困惑するか、ひょっとすると滑稽に感じるかもしれない。要は、「仮面ライダー」という単語は『仮面ライダークウガ』のリアル志向を損ねてしまうのだ*52*53
仮面ライダークウガ』以降、『仮面ライダーアギト』(2001)や『仮面ライダー響鬼』(2005)、『仮面ライダー電王』(2007)などの作品が作中に「仮面ライダー」という単語を登場させないという道を選ぶことになる。

 

4.4. レベル2:「仮面ライダー」の複数化

仮面ライダー○○」という名前だからといって『仮面ライダー○○』という作品の主人公というわけではない、という状況は、一作品に登場する「仮面ライダー」の増加によって端的に達成されることになる。
一作品に複数の「仮面ライダー」がレギュラー出演することは、昭和にもいくつかの例があったが、「仮面ライダー○○」という名を持った「仮面ライダー」が最序盤から複数登場するのは『仮面ライダーアギト』がはじめてになる。
仮面ライダーアギト』では、序盤から「仮面ライダーアギト」「仮面ライダーG3」「仮面ライダーギルス」の3名がそれぞれ「すでに仮面ライダーである男」「仮面ライダーになろうとする男」「仮面ライダーになってしまった男」として登場する。こうした「仮面ライダー」の複数同時登場は、前述したような『仮面ライダー』の“称号”としての側面へのゆさぶりに奉仕していたといえるだろう。複数の超人ヒーローの登場は、すべてのヒーローの定義を解体するとともに、一部のヒーローの主人公ヒーロー性を強化する……。

 

f:id:keylla:20211212213426p:plain

 

5. (いまさら)当記事の目的と展望

以上、「仮面ライダー」という概念がかつて自明に持っていた4つの側面を段階的に引きはがされていく過程を、私の知る限りで論じてきた。
最後に、当記事を書いた目的のうち、実はまだ詳しく話していない部分について書いておくとともに、私から読者へのささやかな望みも述べさせていただきたい。

 

私には、特撮ファンによる「仮面ライダーシリーズ」の受容に関してすこしだけ不満に思うところがある。その不満とは、「仮面ライダーシリーズ」特有の作劇上の特徴が、しばしば極端に「普通」と位置づけられたりしばしば極端に「狂気」と位置付けられたりすることである。
例えばこんなことだ。『仮面ライダージオウ Over Quartzer』(2019)には、いくつものヘンな描写・ヘンな論理が頻発する。「歴史から平成時代をいったんすべて消し去るために、平成生まれのものを物理的に吸い込み始める敵組織」とか、「仮面ライダーのパロディキャラが収監されている牢屋」とか、「主人公の正体として互いに食い違う複数のオリジンが描かれ、説明されればされるほど正体がわからない」とか、「古墳から突然火柱が上がる」とか……。これらのヘンな描写・ヘンな論理を「狂気ではない」「どんな映画でもあること」と位置づけようとするしぐさが一部のオタクにあるが、私はその立場には賛同できない。とつぜん古墳から火柱が上がる映画(理屈も目的もよくわからない)が狂気でないならこの世のいったい何が狂気だというのか。かといって、ヘンな描写・ヘンな論理をやたらと「狂気」だとみなしてなおかつ持ち上げた気になっているしぐさも、一部のオタクにはあるだろうが、私はこの立場にも賛同できない。このヘンさは、狂気は狂気でも、「仮面ライダーシリーズ」が持つ歴史のなかに一定の理由を求められるものであり、降ってわいたように出てきたまったく理解可能なものではない。
ひとはときに、自分には理解不能な“何か”をコンテンツのなかに求めるだろうが、それは理解の努力を投げ捨てることで得られるものではなく、むしろ理解できる部分を理解したあとに得られるものだろう。だから私は、なにかヘンなものに出会ったとき、起源と歴史に照らして理解できるものは理解したうえで、まだそれがヘンならヘンなものだとして受け取りたい。そのためなら、私は自分が愛するコンテンツの起源と歴史にうるさいオタクでありたいし、ヘンなものをヘンなものと感じる感性もまた失いたくない。
実際、私たちはヘンさを感じる感性を失う必要はないだろう。刹那・F・セイエイが「俺がガンダムだ」と述べ立てることには一定の背景と理由があるが、その背景と理由を知ってもなお刹那が狂人であることには変わりない、ということをあなたも知っているはずだ。
つまり私は、「仮面ライダーシリーズ」における今般の主要なヘンさのうちのひとつ――「仮面ライダー」という概念が一人歩きしているという現状――を、単なる「普通」でもなく、理解不能な「狂気」でもなく、「正気から生まれた狂気」として捉えなおすことを目標に、当記事をあらわす。

 

そして、当記事の発端が(「仮面ライダーシリーズ」に関する記事でなく)なんかアズレンに関連するらしいLW氏の記事であったことからも明らかなように、「概念の一人歩き」は「仮面ライダーシリーズ」に限って起こりうる現象でなく、むしろ今般は多くのコンテンツにおいて起こっていることだ。私は、複数のコンテンツにおいて、「概念の一人歩き」がいかようにして起こってきたのか・いかなる要因が「概念の一人歩き」を起こしうるのかを知りたいと思っている。そこで読者にあられては、なにかしらあなたの見知ったコンテンツにおいて、「概念の一人歩き」というべき現象が起こっていないか・それはどのように起こって来たのかを、簡単にでいいので記事にして教えてほしい。
Fateシリーズ」の「英霊」概念はいかにして拡散してきたのか、アメコミにおけるヒーロー名の継承にはどのような必然性があるのか、「ウルトラシリーズ」における「ウルトラマン」概念は「仮面ライダー」概念と同様の歴史をたどったのか、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』はどうして「エヴァンゲリオン・イマジナリー」にたどり着けたのか……。あなたがもしそこらへん詳しかったら(詳しくなくても)、私の興味を充たすために、ぜひとも筆を執ることだ。

*1:0に収束するという意味では果てはあるのかもしれない。

*2:「IQが低い」とかいう表現を用いるのがすでにもう……。

*3:「この発言は『自分はデフォルトでは頭がいい』という前提に立っているひとにしか言えない思い上がった発言ではないか?」という耳の痛い指摘があるかもしれないが、いちおう、そうではない。自分はデフォルトでかなり浅慮だしかなり無知ではあるが、それでも『昨日よりアホになっても構わない』ということにはならない、自分にとっても、他人にとっても。
また、いかに自分が浅慮で無知であることをよく知っているとは言っても「俺アホだから間違ったこと言うかも」「俺アホだから意味のないこと書くかも」とかいった予防線を張ることは、俺の書こうとしているあらゆる文章に関して(正直したくてたまらないが)許されない。自分から「俺アホだから」とか言う相手に対しては、いかなる反駁も検討もしてやることができない。そういった予防線を張る行為は機会損失であるばかりでなくおよそ人間の書く文章そのものに対する不誠実であって、唾棄すべき甘えだ。私が私になんとか許してやれるのは「ここまでは知っているつもりだけどここからさきはよく知らない」「ここまでは理解しているつもりだけどここからさきはまだ理解できていない」「ここまでは理屈だがここからさきは感情だ」とかいったとことん具体的な限界づけだけだ。間違っても「この記事は自分用のメモ」とかいったブログ記事を書かないように努めたい(この努力はいまだ途上である)。

*4:新幹線が生まれたときにはまだ「0系」という名前は存在しなかったように、仮面ライダーもその一人目が生まれた時点では「仮面ライダー1号」という名前では呼ばれていなかった。

*5:特オタならば聞き飽きた話だろうということで、当記事ではこの事故の詳細について詳述はしない。特オタでなくてこの事故の詳細が気になる方はWikipedia仮面ライダー』の項「3.4 藤岡弘の事故負傷とその影響」でも読んでいただければ。

*6:実際にその2やその3の道を選んだヒーローも複数存在する。その2を選んだヒーローとしては、例えば「七色仮面 / 蘭光太郎」や「ウォーマシン / ローディ」などがいるし、その3を選んだヒーローとしては例えば「キレンジャー / 大岩大太→熊野大五郎」などがいる。

*7:ちなみに、「ウルトラシリーズ」に登場するウルトラマンたちが仮面ライダーと同様に種と個体の2重構造でヒーローを定義しているのは、『仮面ライダー』(1971)よりも後になってから、「仮面ライダーシリーズ」とはまったく別の事情によって引き起こされた事態である。詳細は「ウルトラマンA 命名経緯」とでも検索すればわかるか。

*8:どちらかといえば襲名ベースでことを運ぶ歴史をたどったのがアメコミ世界であろう。
いちおう譲歩しておくと、アメコミにはアメコミなりの歴史があって、ヒーローと変身者との対応関係は混沌(正しくは混迷)を極めてはいる。だが、アメコミでは仮面ライダーシリーズよりはまだヒーローに属人的な性質が残っており、その理由の一端は襲名ベースでことを運ぶという慣習に拠っているのではないだろうか。

*9:仮面ライダーBLACK RX仮面ライダーBLACKとは別のヒーローである」のか、それとも「仮面ライダーBLACK RX仮面ライダーBLACKの正統な強化形態、つまり仮面ライダーBLACKの一種である」のかを両作品の描写や設定からどちらかに決定することは難しい。というか、勘のいい読者なら指摘するだろうが、二つの見方は決定的に対立しているわけではなく、両立しうる。

「両者は別のヒーローである」という見方と「両者は一種である」という見方の双方を区別しうるのは、作品そのものの描写や設定よりもむしろ、後世になされる批評だ。つまり二つの見方は、いずれもが事後的に形成されている。

ここでいう批評とはかなり広義の批評であり、つまり、オタクによる両作品の取り扱い方や、あるいは平成ライダーにおけるBLACK RXやBLACKのゲスト登場なども含む。

2021年現在、「仮面ライダーBLACK RX」と「仮面ライダーBLACK」という両ヒーローは「昭和11号」と「昭和12号」にそれぞれあたり、別のヒーローであるというのが一般的な受容態度だ。こうした見方を決定づけたのは『仮面ライダーディケイド』(2009)と『仮面ライダー大戦』(2014)あたりであろうと私は踏んでいる。とくに『仮面ライダーディケイド』が提示したひとつの立場ルール――時間移動はいち世界内における有限距離の一次元移動ではなく、それ自体世界間移動であるという立場ルール――は非常に興味深い。この立場ルールは(現代の作品の多くを占める、それがSFの名を冠されないほどにSF的見方が空気化したSF作品においては)かなり独特であるにもかかわらず、『仮面ライダージオウ』(2018)のような別作品の中にあっても「仮面ライダーディケイド / 門矢士」のゲスト登場とともに突然適用され始めるということがあるために、相応の注意が必要である。

*10:これはまったく余談ではあるが、誤解をうけたくないので言っておく。私はこの文章において、「玩具メーカーが新商品を売るための番組作り」という状況を批難する気はとくにないし、そういった状況全般を個人的に愛してすらいる。

私は子供時代、たまに行くトイザらス玩具店のチラシで毎年の新商品をためつすがめつするのを心から楽しんで生きていたものだ。そこでは「自分が手に入れるかどうか」ということは実はさほど関係がなくて(実際私は、お小遣いはもらっていないし、親からの折々のプレゼントも書籍が中心で、特に夢中になって眺めていたおもちゃたちに実際に触れたことや心から欲しいと思ったことはあまりない)、迎える年ごとに新しい趣向の商品が提示されるということそれ自体が重要だったのだ。

自らの持っていた欲望を転倒させ、物体的価値でなく“新しさ”そのものを愛するという能力は、種の保存のためでなく文化のために生きることができる“高等な”生物――あるいは“爛熟した”生物――である私たちの特権だ。

私は、私がかつて楽しんだように、見も知らぬいまの子供たちにも、転倒した物欲でもって“新しさ”を楽しんでほしい……たとい、ストレートな物欲に飲み込まれるほうの子供が実際には大半だったとしても、だ。

*11:アクシデント的であることは運命的であることと表裏一体でもある。

*12:逆に、「仮面ライダーシリーズ」において、もともとミクロな変身のみをつかさどっていたはずの「変身ベルト」というアイテムが、長期にわたるシリーズ展開のなかでマクロな変身さえつかさどるようにその担当範囲を伸長していったのだ、という言い方もできるだろう。

*13:ここで私がイメージしているのは、例えば『仮面ライダー』(1971)の敵宗教組織「ゲルダム団」とか『バトルフィーバーJ』(1979)の敵宗教組織「秘密結社エゴス」とかである。ちょっと時代区分がアバウトすぎるんじゃないかといわれれば、それはそう。

*14:この仮面ライダーは、2018年までは「アナザーアギト」を正式名称とするのが慣例だったが、2018年以降は「仮面ライダーアナザーアギト」を正式名称とするのが公式設定となっている。

*15:より正確には、「仮面ライダーG3」の原形という側面もある。ウイングガンダムゼロのような話である。

*16:マトリックス』(1999)における「エージェント」の在り方にもかなり近いだろう。

*17:ここでいう異世界「ミラーワールド」が、ほんとうに「仮面ライダー専用の異世界」だったのか否か――成立経緯という面でも仮面ライダーのためにあつらえたものとみなせたのか否か――には解釈の余地がある。ミラーワールドの起源を比較的示唆している作品としては『仮面ライダー龍騎 13RIDERS』(2002)を参照。

*18:ただし、「仮面ライダーデルタ」への継続的な変身によって変身者の精神に変調をきたす可能性は高い。

*19:私の調べでは、テレビ本編中「仮面ライダーファイズ」に変身したことがあるキャラクターは5人、「仮面ライダーカイザ」は6人、「仮面ライダーデルタ」は9人である。

*20:仮面ライダーウィザード』(2012)に登場する「仮面ライダーメイジ」などが該当する。

*21:ちなみに、トレーディングカードゲームを中心的モチーフとしていた『デジモンテイマーズ』は2001年の作品である。

*22:懐古的なことを言わせてもらうなら、『龍騎』以来、『クウガ』の「アークル」や『アギト』の「オルタリング」のような神秘的なデザインの変身ベルトは絶えて久しいのである……。

*23:このように「キャラクター」の定義を作って運用するうえで、懸念のひとつは『この定義は「マイクロソフト社」や「ショッカー」のような“法人格”をうまく排除できているのか』という問題だ。私の意図としてはこういった法人格は当記事における「キャラクター」の定義からは排除したいのだが、「自律的に思考し行動する」という文言の解釈しだいではこういった法人格も「キャラクター」の範疇に含まれることになってしまう。解決策を知っている方があればご教示願いたい。

*24:不確かなウワサによれば、『仮面ライダーディケイド』は企画初期では、並行世界などではない既存ライダー本人がゲスト出演する物語になる予定であったという。最終的に、既存ライダーに並行世界の別人が変身するスタイルで完成したのは、既存ライダーのオリジナルキャストのうち幾人かのスケジュールがとれなかった、というしごく実際的な理由によるらしい。

そもそも、仮面ライダーを製作する東映は、業界内では異常なほどスケジュール確保のタイミングが遅いらしく、数年単位でスケジュールが埋まっている人気俳優は本人の意向どうこう以前に仮面ライダーにスケジュールを合わせることが非常に困難なのだそうだ。

*25:なお、一連の作品群のなかで門矢士のオリジンに最も迫っているのは『仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』(2009)であると私はみなしている。

*26:公式の記述に倣えば、「ディエンド」が専用アイテム「ディエンドライバー」を使って“召喚”する仮面ライダーたちの正体は“能力の塊”であり、“どこかの並行世界に存在した本人”や“オリジナルのキャラクターに忠実なコピーのキャラクター”ではない。“能力の塊”ってなに?

*27:「仮面ライダーG4」や「仮面ライダーオーディン」などが該当する。

*28:「ショッカーライダー」や「仮面ライダーカイザ / 高宮航太」などが該当する。

*29:「謎のヒロインX」みたいだ……。

*30:この機能は作劇上明らかにもてあまされていた。

*31:いまではあらゆるヒーローで一般的になったかと思われるヒーローのフォームチェンジだが、ヒーローがフォームチェンジを始めたのはある程度最近になってからのことだ。ウルトラマンがフォームチェンジを行ったのは『ウルトラマンティガ』(1996)が最初であり、「ウルトラシリーズ」は「仮面ライダーシリーズ」がそうだったような急激なフォームチェンジ文化の発展を遂げなかった。戦隊ヒーローのフォームチェンジとしては『地球戦隊ファイブマン』(1990)以降パワーアップ形態が散見されるが、戦士そのもののバリエーションを重視するスタイルゆえか、やはり「仮面ライダーシリーズ」のように複雑化したフォームチェンジ文化はない(ただし、海を越えてアメリカでは、スーパー戦隊発のパワーアップ概念が「バトライズ」として発展を遂げているようである)。

*32:「旧1号」と「新1号」との間に、俗に「桜島1号」と呼ばれる中間的なパターンも存在する。「旧1号」と「桜島1号」を「作品世界の中で確かに存在する違い」とみなすかどうかは意見の分かれるところになる。

*33:特撮オタクとしては、「旧1号」と「新1号」の見た目の差は歴然に見える。しかし、客観的に見たとき両者の差は本当に大きいのかどうか、私にはいまいち自信がない。デザイン間の差の大きさを定量化する方法には何があるんだろう?

*34:比較のために「ウルトラマンジャック」を例に出そう。「ジャック」の撮影用スーツは、『帰ってきたウルトラマン』(1971)に登場したときは手が銀色だったが、『ウルトラマンタロウ』(1973)第52話に登場したときは手が赤色だった。この色の変化は「画風の変化」で片づけるにはあまりにも大きすぎるものだと私には思われる。しかし、生物である「ジャック」が突然肌の色を変えるといった事態は想定しづらいため、「ジャック」の手の色の変化が「作品世界内で起こっていること」として扱われることは少ない。

*35:おなじく児童誌発の設定として「「新1号」は本郷自らの手で再改造した姿」というパターンや「戦闘を重ねたことで「新1号」に進化した」というパターンも存在するらしい。

*36:仮面ライダークウガ」はおそらく「ヒーロー名の後ろにフォーム識別子を付する」というやり方の「仮面ライダーシリーズ」における起源ではあるが、日本のスーパーヒーロー全体における起源ではない。少なくとも『ウルトラマンティガ』(1996)の「ウルトラマンティガ」が「タイプチェンジ」というフォームチェンジを行っており、フォームチェンジを導入するのがメジャーどころのなかでは最もはやかった。

*37:念のため言っておくと、「別ライダーなのか同一ライダーのフォーム違いなのか」といった問題を細かく掘り下げたとしても、設定解釈や作品批評としては大した意味はない。この記事はライダーの固有名についての記事なので、「仮面ライダーマッハと仮面ライダーマッハチェイサーは別ライダーなのか否か」といった問題に多少の意味を見出しているが、この記事以外の文脈においてこの問題が重要になる場面はそう多くないだろう。

*38:また、ごく近年みられる注視すべき事態として、「主役ライダーの最強形態が同一ライダーのいち形態としてでなく別ライダーとして登場する」という事態もある。『仮面ライダーゼロワン』(2019)における「仮面ライダーゼロワン / 飛電或人」の最強形態「仮面ライダーゼロツー / 飛電或人」と、『仮面ライダーセイバー』(2020)における「仮面ライダーセイバー / 神山飛羽真」の最強形態「仮面ライダークロスセイバー / 神山飛羽真」がその例である。まだ2例なので断言できることは少ないが、「フォームチェンジからライダー名への逆流」と呼ぶべき現象が主役ライダーでも進行していたという証拠に、今後なるかもしれない。

*39:ヒーローを「正義」そのものと定義することを避ける――ヒーローが特定のイデオロギーに与する者として先鋭化させない――という“ためらい”は、同時多発テロ以降の文化に特有であるとか湾岸戦争以後の文化に特有であるとかベトナム戦争以後の文化に特有であるとか言われることもあるが、もちろんそれは言い過ぎで、“ためらい”の構造自体は戦後日本の文化に絶えず存在したものである。本文で述べたように、『仮面ライダー』(1971)がそもそも「正義」ではないし、もっと古く『月光仮面』(1958)なども「正義」ではなかった。

月光仮面」は、「正義の味方」という連語を初めて生み出し、定着させたヒーローなのだが、この「正義の味方」というフレーズはそもそも『「月光仮面」は「正義」そのものではない』という意図を込めた造語であった。制作者の考えとしては、一人の人間が正しさそのものを体現しようというのは僭越であって、人間にできるのは正しきことが行われるようこれを擁護することであるのだそうだ。こうした「正義の味方」観は『仮面ライダー』における「自由の守護者(≠正義)」概念とは違うが、「ヒーローを「正義」そのものとして定義する」ことへの“ためらい”としてみたとき共通するところが多いだろう。

「絶対的な正義とは距離をとる」それ自体はいつでもある概念であって、当たり前の話だ。70年代文化とか80年代文化とかその他に帰するべきものではない。テロや戦争といった歴史的事件と絡めて論ずるべきは、むしろ、「絶対的な正義とは距離をとる」という当たり前の問題設定のなかで、その問題を扱う焦点がどこに当たっているかであろう。

*40:ライダーマン」は後続作においてうやむやのうちに生還することになるのだが。

*41:余談だが、『仮面ライダーBLACK』作中世界において「仮面ライダー」という語がいかなる起源をもっているかというのは微妙な話だ。というのも、『仮面ライダーBLACK』の続編『仮面ライダーBLACK RX』の世界観は過去10人の「仮面ライダー」を擁する作品群と世界観を同じくするのだが、『仮面ライダーBLACK』の世界観自体は他のライダー作品と世界観を同じくするのか否か明確でない。もし、『仮面ライダーBLACK』の作中世界に「仮面ライダーBLACK」以前にも「仮面ライダー」がいたとするなら、「仮面ライダーBLACK」を「仮面ライダー」と呼ぶ人びとは彼に「人類の自由の守護者」という性質を期待しているという証左になる。もし、『仮面ライダーBLACK』の作中世界で「仮面ライダーBLACK」が初めての「仮面ライダー」だとするなら、「仮面ライダー」の要件は、「仮面ライダーBLACK / 南光太郎」が己の行動を通して自由に決定することができるだろう。

*42:しかし、注意が必要なのが、「シャドームーン」は「仮面ライダー」であるという扱い方が事後的に構成されたものである可能性が高いということだ。『仮面ライダーBLACK』放映当時の「シャドームーン」の扱い方は、どちらかといえば「特別な怪人」であって「仮面ライダーではない」という印象が強い、気がする。

事後的に「仮面ライダー」の一員に加えられる、という扱い方は、プリキュアシリーズにおける「シャイニールミナス」や「ミルキィローズ」の扱い方(プリキュアと同質・同格の能力だがプリキュアではない戦士扱い→プリキュアの一員扱い)にもちょっと似ているかもしれない。似ていないかもしれない。

*43:これはまったく余談だが、「仮面ライダーシリーズ」におけるような概念かく乱の長い歴史を持たない若いコンテンツが、安直にリベラル思想を啓蒙しようとしたとき――「誰だってスターになれる!」とか「誰だってプリンセスになれる!」とか――そのコンテンツには相応の困難が待ち受けているだろう……。この困難を前にして駄作に成り下がったコンテンツもあれば、困難を乗り越えて傑作になったコンテンツもあるだろうが、実際どんな作品が両者に当てはまるのか、私はそう詳しくない。

一応言っておくと、私には「だから龍騎は深い作品だ」とか言っていたずらにこれを持ち上げる気もない。「人間はみんなライダー」という言葉がそれ自体深い意味を持っているかどうかはけっこう場合によるだろう。

*44:ちなみに、『仮面ライダーウィザードin Magic Land』(2013)に登場する「仮面ライダーメイジ」は、「ライオトルーパー」とは違い、量産型かつ純然たる人類かつ一般市民かつ「正式名称:仮面ライダー○○」である。

*45:もちろんこれは法則とかではない、ちょっとした傾向程度の話であり、例外も無数にある。例えば『サザエさん』は群像劇的性質が強いから「サザエさん」が主人公であると言い切るのは間違いではないにしろ片手落ちになる。例えば『ドラえもん』は、作劇面での主人公はどちらかといえば「野比のび太」であるという意見がありうるだろう。

*46:Vシネマやネット配信で描かれる外伝を考慮すれば、本編で脇役だったライダーが自身の名を冠するプログラムを獲得する事例はかなり増えてきている。とはいっても、やはり全員が冠番組を持てるわけではない。

*47:男の子のヒーローとしての仮面ライダー像を揺さぶることが当時いかほどリスキーだったかについては私には想像の及ぶべくもない。女性で初めての“正式な”「仮面ライダー」の登場は、『仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』(2002)における「仮面ライダーファム」登場まで待たなければならない。

*48:もっとも、「電波人間タックル」のデザイン画稿には「仮面ライダータックル」という書き込みがあったことが知られており、制作者には彼女を「仮面ライダー」として登場させる計画もあった、ということが想像される。

*49:ただし、彼が事後的には「仮面ライダー」の一員とみなされていることは前述した通りである。悪であることはいまや「仮面ライダー」であることに対して障害とはなりえない。

*50:2009年時点までの「仮面ライダー」の標準英訳。『仮面ライダーW』以降は「KAMEN RIDER」が標準英訳になる。

*51:例えば、『ONE PIECE』に登場する黒刀「夜」には擬人化した際の公式設定が存在する。『ONE PIECE』の作中世界において「刀剣の擬人化」がいったい何を意味するのか(2021年12月現在)まったくわからないにもかかわらず。公式設定とはいったい何なのだろう。

*52:聞きかじったところによると、「平成ガメラ三部作」という作品、「作中世界にはカメが存在しない」という裏設定があるらしい。これもおそらく『仮面ライダークウガ』に「仮面ライダー」という単語が登場しないことと同源の理由――「カメ」が存在する世界で「ガメラ」はリアルでない――によるだろう。

*53:ただし、『「仮面ライダー」という単語を使う限りリアルな作品なんて作れない』ということを私は言いたいのではない。「仮面ライダー」という単語を使いながらリアルな作品を作る方法はいくらでも見つかるだろうし、むしろそこが腕の見せ所だ。『仮面ライダークウガ』はたまたまそこを腕の見せ所として選ばなかったというだけの話だ。

脇に関する否認と妄想

架空の事物が『完全性』を持つことはアンビバレントである。

 

架空のキャラクターがどこかの世界では確かにそこにいてそこで生き続けている、という状況は、“オタク”を惹きつける独特の香気を放つと同時に……いやむしろその香りこそが見方を変えると悪臭でもある。
具体的にいうなら、例えば匂いの問題である。全く架空の美少女を考えたとき、彼女が確かな重みと手触りを持ってどこかにいる、ということは確かに安堵にも似た喜びを我々に与えるが、しかし我々は同時に受け入れがたい複数の属性をもその美少女のうちに認めなければならない。それは、美少女だって臭くて仕方ない状況では臭いということだ。

このことは二重にやっかいだ。第一には、これは美少女を理想化しているひとにとってだが、美少女が臭いということを認めることは非常な苦痛を伴いうる。一部の人びとは熱心に主張するだろう、美少女はどんな状況であれどんな理由であれ臭いはずはないのだと。(私自身は、まあ、美しいひとや好きなひとが特定の状況で臭かろうと別にいいんじゃないのという立場だが、それでも問題なのが)第二には、たとえ美少女が臭くてもとくに問題ないとしても、美少女が誰も見ていない状況下でも臭かったり臭くなかったりするということはそれ自体、幻想の幻想性を損なうということだ。幻想は、賢明にも完全性から距離を置いていることによってその自律性と寓意性とを保っているのだと、私は――あくまで「私は」だが――考える*1。はたして、完全性を持った幻想は、自律性と寓意性とを失った幻想になってしまうか、あるいは単に幻想でない。「アイドルはトイレなんか行かない」とはよく言ったものである。

 

LW氏はブログに寄せられた質問への返答として、こう語っている。

53.ワキじゃなくて横乳が好きなだけなんじゃないですか?
いや、それは有り得ないですよ。これは完全否定できます。
萌えキャラの腋がいい匂いっていうのはそれなりに一般的条理を捻じ曲げているという自覚はあるんですが、萌えの起源は完全性なのでその捻じ曲げによって担保される節があるわけですね。

18/3/16 新世代バーチューバーの動向 - LWのサイゼリヤ

どうも、LW氏のような(二次元限定の)脇フェチというものは「美少女の脇はいい香りがする」という認識を介して脇を愛するのだそうだ。ここで、キャラクターに完全性をもっていてほしい気持ちともっていてほしくない気持ち、また美少女が臭いはずがないという確信とときには臭いはずだという確信の、二つのねじれが崇拝者フェティシストたちをしてそのような教条へと向かわせるのではないか、と私は邪推してみたりもするのだが、門外漢の私には真相は不明である。崇拝者たち自身にしたって真相はわかっていないだろうが。

 

まあ少なくとも「匂い/香り」がひとつのファクターとなっているのは間違いない。おなじみWikipediaの『脇フェチ』のページ は、「匂い / 香り」と「性器の暗喩」の二本柱で脇フェチを解説しようとしている。
このことを知って腑に落ちるところが個人的にはある。私は脇フェチをまるで解さないのだが、その無理解はひょっとすると私の感覚の鈍さによるものなのかもしれない。
私は生来嗅覚がかなり鈍い。料理や薬品や獣には確かに匂いを感じるので、嗅覚が全くないとかいうことはないのだが、それでも世の人の平均よりはかなり鈍い……らしい。6人いる部屋のなかで私一人だけ料理が焦げているのに気が付かなかったとか、自分ではほぼ無臭の酒を飲んでいるつもりなのに背後にいる連れだけが酒の匂いを感じるだとか、そういったことはよく起こる。ただ、私と平均的な人との違いのうち、もっとわかりにくいが重要なのは、はっきりした「特異な鈍感エピソード」よりは、むしろ「ある種の普通なエピソードの欠如」だ。例えば私は、「ひとの体臭を感じて不快に思った」という思い出が、人生を通してみても思いあたらない(人間の匂いって、そりゃ汗だくの人を近くで嗅いだらわかりますけど、そんな日常で感じることってあります? 普通はあるんでしょうね)。例えば私には「父母の実家に帰ったときに感じる独特の匂い~」みたいなクリシェにいまいちぴんとこない。『きみの髪の香りはじけた』とかいった歌詞も、私にはずっと意味が分からなくて、他の人にも意味が分からないのだろうと長らく思っていた。

 

この鈍さは副産物として二つの特徴を私に与えている*2。第一に私は、他人が感じる不快感への想像力が平均からいって(おそらく)かなり欠如している。ひとの体臭に不快感を感じる、みたいな気持ちがとくに想像しづらい。私は、職場で昼休憩の間にニンニクたっぷりのコンビニパスタを食べることを――まあ頭では他人の不快を理解しているから避けるのだが――我慢するためにいつも多大な精神的労力を払っている。そのとき、私のなかには「午後じゅうニンニクの匂いしてたら自分だったらいやだな、他人にもそんな気持をさせないであげよう」という基盤が存在しないので、私は純粋に理性のみでニンニクの誘惑と闘わなければならない*3*4

 

第二に、多くの人がいくぶん感覚に基づいて“実在”をとらえようとしているのに対して、私はかなり観念に頼って“実在”をとらえようとする傾向がある。感覚に基づいた認識が結局のところ特定の時空間意識を自明視させるのだとすれば、私には、多くの人がするような時空間の認識を素直に受け入れることが比較的少ない傾向にある。抽象的な言い方ばかりしてしまって申し訳ないから、少しだけはっきりと言うと、私個人は迫真性を同定するうえでは時空間の連続性よりかは実在感や応答完備性に軍配を上げがちだということだ。
当たり前だが、嗅覚の存在はひとが時間と空間を認識する在り方に深く影響する(これは五感のすべてと体性感覚についていえることだろうが、今ここでは嗅覚についていうのが特に言いやすい)。
例えば、嗅覚は五感のなかでもとくに記憶と結びつきやすいという話はよく聞くものだが(私はこの話の典拠を知らない)、「思い出と言えば匂いがあるよね」という感覚がわかる人とわからない人との間では、当然時間に対する感覚は異なるだろう。持たざる側の人間である私には憶測しかできないが、前者の人々は、思い出ひとつひとつの実在感を個別に感じられるために、それらに整序性がなくても不安を抱きにくいが、後者の人々は思い出ひとつひとつでは実在感を感じにくいので、思い出の人生単位での整序性を比較的強く必要とする……みたいな違いはありうるだろうか?
例えば、嗅覚は空間の内容を意味あるものにせしめる*5。また、嗅覚は(他の感覚ほどには)空間の構造を意味あるものにはしない。空間のことを、おおむね内容によって…情報の「有」のみによってとらえようとする人と、おおむね構造によって…(それが十分にミクロである限り)均質に広がっている情報の「容れもの」としてのみとらえようとしている人との間では、やはり空間に対する感覚は異なるだろう。前者の人々は「有る」情報だけが敷き詰められたヒエログリフ的な空間を、後者の人々は均質な容れもののなかに情報の「有無」だけが点在する透視図法的な空間を想定しがちである……みたいな違いはありうるだろうか?*6

 

それが若干の自分語りを含むために、ついつい嗅覚に関連した話をしすぎてしまった*7。私がこの記事で述べておきたいことはもう残り少ない。いちおうかたちだけ、話を本題「脇」に戻したうえで、締めとしよう。


このブログの目下の課題である(???)Vtuberだが、キズナアイや白上フブキといった、それぞれの時代をけん引したVtuberたちがノースリーブであったのは、べつに脇フェチたちの要求にこたえるためではなく、技術的選好によるものが大きかったと私はにらんでいる。
ノースリーブは、一般的な様式の3Dモデル・Live2Dモデルに非常に向いた構造である。いやむしろ、袖が存在する服が3Dモデル・Live2Dモデルに向いていないというべきか?
もしも、「美少女として魅力的である」という目標とは別の目標によって*8選択されたノースリーブが、偶然にして幾人かの脇フェチの心をとらえているのだとすれば、なかなか官能的な事態ではないだろうか?*9*10

*1:いまどき多くのひとは「想像の余地があったほうが想像できるから」などといって幻想の不完全性を尊ぶだろうが、私からすれば不完全性の価値は単に我々が想像を許されるという程度のことにとどまらないのである。

*2:ここからする話“も”、冷静に考えればわりと普通の話なので、変に議論の新奇性を求めて読まないでほしいというのは私が読者に望んでいるところである。

*3:誤解を招きたくないので言っておくが、私は、倫理そのものは、「自分だったらいやだな」とかいった原理によって駆動させるべきではないと思っている。倫理が、客観的に正しいことをし客観的に正しくないことをしないというルールならば、倫理は「自分ならどうか」とか「共感できるか」とかいった状況に依存するべきではない。黄金律はクソで、黄金律によって倫理を基礎づけようというのは単なる甘えだ。たいがい、「人間として当然の思いやりが云々」とか軽々しく口にして性善説性悪説を唱えるような人間は、人間なるもののバリエーションを狭く捉えすぎなのだ。
そういうわけで、「自分だったらいやだな」とかいう感情は、倫理的配慮をなすうえでべつに必須ではなく、むしろ配慮を簡単に遂行するための外部付属品であると私は考えている。本文においても、その程度の付属品として「自分だったらいやだな」のことを取り扱っているので、注意されたし。

*4:五感によって、嗅覚によって、己の信念を支えようとする人というのが(まるで理解できないので)私はかなり苦手で、いったい何が言いたいのかというと「炭治郎とかいう男めちゃくちゃ怖い」ということです。怖くない?

*5:ほかの感覚……例えば視覚は、空間の構造を生みはしても、空間の内容を生むことにおいては嗅覚に比べてかなり劣っているだろう。
視覚においては、「どこに固体があってどこに液体があって、その他の場所は空気で満たされている(かあるいは空虚である)」といった情報は生まれ得る。だが、(高山の尾根や都庁周辺や灼けた道路の向こうなどといった比較的大規模な空間を除いたとき)「一見空虚にみえる空間に、空気はあるのかないのか、空気にはなんらかの微粒子が含まれているのか、湿度は高いのか低いのか、あるいは本当に真空なのか」といった情報は生み出せない。空気は無色透明なので。一方で、嗅覚は、視覚ならば単なる空虚として処理してしまう場所についても、何らかの匂いという情報を生み出す場合がある。視覚は、「そこに固体・液体がある / ない」という情報に終始することが多いが、嗅覚は嗅ぎうる小さな空間に何らかのアナログなパラメータを生みだしうる。
などと書きながら、本当は私は半信半疑だ。嗅覚のような、指向性が低く即応性にむらがある情報が空間に対する感覚を生むことなど本当にあるのだろうか。第四宇宙のマジョラや斑木方のガブリール、あるいは実在する哺乳類などが嗅覚でもって彼我の位置や運動を認識し、戦闘行為に活かしていることなどが、どの程度リアルでどの程度ファンタジーなのか、生物による嗅覚の利用に詳しい識者に聞いてみたいところである。

*6:あわせて気になる⇒写真や写真の子孫としての映画やテレビでなく、匂いを伝達する媒体によって複製技術時代がもしも到来していたら、その世界線の人びとの空間意識はどのようなものになっていたのだろうか?

*7:正直に言ってしまうと、私は、物理的/構造的要因による決定論を連想させるような話を一面的に展開したために『いまどきサピア=ウォーフですか?wwww』とか『ヴェブレン信者乙wwww』とか冷笑されることを恐れている。たとえそれがいかに冷静で慎重な議論であれ、極端な(ととられかねない)相対主義を述べることによるリターンは反論を受けるリスクに見合っていない。

*8:私は「袖が存在する服は3Dモデル・Live2Dモデルによって再現することが不可能である」と言っているわけではない。袖が存在する服は3Dモデル・Live2Dモデルと相性が悪く、一定の技術と覚悟がなければ抜きんでて魅力的な3Dモデル・Live2Dモデルにするのは困難だ、というのが私の言わんとすることだ。だから、新たにVtuberを作るうえでノースリーブを選択するというのも、一応ある意味では「Vtuberを美少女として魅力的にする」という目的に対する手段の一種であるとはいえる。やや間接的ではあるが。

*9:ただし、脇フェチは一般に「脇が見えやすければ見えやすいほどいい」というものではない。この事実は当記事の雑な締めに対して膨大な反論を提供するであろう。

半袖や長袖によって脇が「普段は」隠されているという状況は、匂いの源としても、性器の暗喩としても、脇の神性をより強化する。具体例としては、LW氏がツイッター上でなんか触れてた気がするこの記事が参考になるかもしれない。『間違いなく屈強な腋フェチがイラスト班にいる【ガールフレンド(仮)】』

*10:とはいえ、たとえノースリーブの技術的選好と脇フェチとの出会いが運命的に官能的な出会いだったとしても、その出会いばかりを指摘して持ち上げるのは恣意的に過ぎるというところがある。似たような出会いはいくらでも例示しうるのだ。例えば美少女の胸のふくらみだって、かなり3D・Live2Dと相性がいい造形であると同時に、多くの崇拝者を擁する物神でもある。

私は当初、2つの目的において以下の文章を企画しました。
第一には、名短編へささやかなオマージュをささげるために。
第二には、フィクションキャラの実在をいかに定位すべきか悩む方のためのハンドブックとするために。
文章の概形を最初に思いついたときは、これはいいアイデアだと思ったのですが、いざ書いてみるとその内容は、心の哲学や科学論や文芸批評で聞き飽きたようなトピックを、基盤なしに無理に寄せ集めたようなものにしかならず、残念に思っているところです。
目的の不達成を嘆きながら、この文章をアップロードする理由はといえば、一度生まれたアイデアに対するせめてもの愛にほかなりません。
明日の自分もこの文章を愛していることを祈って……

――――――――――――――――

 

 

 

私はオタクになりたかった。遠く星のかなたに居るキャラクターを夢見る者、境界を閉じられた狭い世界のなかでひとり夢を見続ける者に、私はなりたかった。
しかし、成人し、卒業し、就職し……日々に量を増していく仕事・仕事・仕事のなかにあって、夢を見る時間は次第に失われていく。プリキュア仮面ライダーウルトラマンを血眼になってみることも、観終わった後にしばし目を閉じ、遠くに当然実在するキャラクターたちに思いをはせることも、年を追うごとに難しくなっていく。かつては「あまりにナイーブだ」ととりあわなかった『現実と虚構は相克する』というアイデアさえ、今では私の心を侵しつつある。

 

かのような日々のなか、LW氏のある発言が私の気にかかった。

「美少女キャラクターは商業的なプロダクトや単なるイラストというよりは、どこか別の世界に実際に存在していると考えた方が望ましい」っていう世界観、俺はオタクの大多数が自明に共有している前提だと勝手に思っていたが別にそういうわけでもないということがわかってきた

LW氏もLW氏で「大人になる」。最近とみに「いろいろなことが分かってきた」LW氏がまた一つ分かったこととして、「オタクならばキャラクターの実在を希求するとは限らない」ということがある、らしい。
本当にそうなのか?
いや、論理的に反駁する気はない。確かにオタクは実際のところ多様だろう。知識も、経験も、愛もコミュニティも技術も、どれもが単体で人をオタクにするものであり、実際に存在する複数のタイプのオタクに貴賤はない。
ただ、私は「オタクの大多数はキャラクターが実在すると思っているのだ」と主張するポジションをあえて取ろう。私が夢見る者でありたいと願うのならば、私が目指すべきものは「実態としてのオタク」ではなく「どこにもいない、幻影としてのオタク」だろう。私はかつてLW氏が思っていたような「キャラクターは実在すると思っている大多数のオタク」にならなければならない。私はまた、オタクの多様さを肌で知りながら、なおも強硬に「オタクの大多数は云々」と自説をぶたなければならない。
そこに学説セオリーはいらない。教条ドグマだけがあればいい。オタクとは狂信者ファンなのだから。

 

私は夢見たオタクになるために、キャラクターの実在を誠実に希求しよう。二次元とか、Virtualとか、その他あらゆる言葉で我々の世界から区別される彼ら / 彼女らに、我々の世界とは違った在り方のままで、確かな手触りを与えよう。触れえぬ彼ら/彼女らに、我々の触れうる隣人たちに対してするように、最大限の敬意を捧げよう。
その道がつらく険しいのは、あなた方も知っての通りだ。張僧繇は完璧に現実的な虚構の龍を創造したが、そのこの上なく現実的な虚構性のために、創造したばかりの龍を取り逃がさざるを得なかった。フレノフェールもまた、虚構の女をして完璧な現実性を手にさせたが、ほどなくして自身が現実(=虚構)を失わざるを得なかった――彼は客観的な眼を失ったのだ。手触りを持った虚構は、手触りを持たない現実は、いかにして生み出され得、維持され得るのか。我々の父親にはその秘儀を教えてきたコッペリウスも、我々自身には何も教えてはくれない。
だが、険しい道も、道なき道も、進んでしまえばこっちのものだ。時間の連続・空間の連続が途切れていても、困難を踏み越えて進んださきにキャラクターたちに出会えたならば、そこで彼ら / 彼女らの実在は保証される。道なき密林に点在する神殿を探し出し、それぞれの神殿で夢を見よう。我々は神殿に踏み入り、神殿のなかを見渡すごとに、神殿ひとつひとつが閉じた世界であることを知るだろう。すなわち、時空間の連続が保証されない可能世界の集合に存在するすべてのキャラクターが、ひとつの独立した世界なのである*1

 

神殿にたどり着いた私が、ひとりのキャラクターを完璧に夢見ることに成功したならば――私が、キャラクターの実在を確かなものにしたならば――私は彼ら / 彼女らの実在を肌身で知ると同時に、私は私がすでにオタクであったことを知るだろう。繰り返される営みのなかで、私がオタクでなかったことなど一度もなかったのだと気づくだろう……。

 

 

1. ふたつの誤解

『「白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか」延長戦』を読んだ方はある誤解をするのではないかと私は危惧している。その誤解というのは、『絶えず自壊する泥の反論集』の筆者は、フィクションキャラたちのことを、我々の手が(完全には)届かない場所で自律して存在している存在者でなく、我々AWの住人にとっての対象としてのみ成り立つのだ、と考えている」という読み方だ。これは全き誤解で、私は(LW氏と同じく、かどうかは知らないが)演繹的にでなく立場的必然性に拠って、フィクションキャラの実在と自律とを意固地になって主張する者である。

 

私に理解できる限りで言えば、LW氏の立場は、

  • 立場A1 オタクとは美少女キャラの実在に執着する者であり、
  • 立場B1 美少女キャラの実在は、美少女キャラが特定の連続した時空間を占める物理的存在者であることを要請し、
  • 立場C1 美少女キャラが物理的存在者であるためには、美少女キャラが占める時空間を内包するような所属先虚構世界が指定されることが望ましい、

というものである*2
また、LW氏のとった枠組みにおいて、
ある者が実在するならば、基本的に、物理的存在者か概念的存在者のいずれかである
ある者が実在し、かつ物理的存在者であるならば、虚構世界に所属する
ある者が実在し、かつ概念的存在者であるならば、現実世界に所属する
は正しい。
私は、『絶えず自壊する泥の反論集』において、「キャラクターが最低一つの虚構世界に所属する」というアイデアの必要性について疑問を呈した(指摘④:LW氏は、キャラクターが世界に所属するものという前提をとっているが、果たしてこの前提は我々にとって有益だろうか)。LW氏の枠組みに従うならば、立場C1をとらない私は、「キャラクターは実在する」という主張にコミットしていないか、「キャラクターは実在し、現実世界に所属する概念的存在者である」という立場をとっているかのいずれかになる。『~延長戦』の読者の多くは、そのいずれかとして私を理解しただろう。
しかしながら、私は、自身がキャラクターの実在に執着する者であり*3、またキャラクターが完璧に特定の虚構・現実世界に所属している必要はないと主張する。

 

LW氏はおそらく、「迫真性リアリティ」を自明としたうえで、「迫真性」の要件としての『完全性』を重視する度合いの彼我の違いから、私キーラを「キャラクターは実在する」という主張にコミットしていないか「キャラクターは実在し、現実世界に所属する概念的存在者である」という立場をとっているかのいずれかとして理解しただろう。だが、私からすれば、問題はむしろ、「迫真性」の要件に『完全性』が含まれるか否かというところにある。

 

2. 迫真性

私が無用の誤解を受けることを避けるためには……ついでに、LW氏との間に越えがたい断絶〈前提の違い〉をもうひとつ追加するためには……私はLW氏の立場をどう描写しどう対立していけばいいのか。
第一に私は、LW氏が、ある者が実在しているための要件の一つとしてきた『完全性』を、要件から取り外そう。この性質を取り外せば、「フィクションキャラが実在している」という性質のうちに『完全性』が必ずしも含まれるとは限らないということになる。私たちがフィクションキャラに求めてきた「ある者が実在している」というこの性質に、「迫真性」という名前を新たに与えよう*4
第二に私は、『絶えず自壊する泥の反論集』のなかでいくぶん粗雑に扱ってしまった概念「(論理的)完全性」について、この内実を精査しよう。精査するなかで複数の異なる概念に同じ『完全性』という名前が充てられていた場合には、わかりやすさのためそれらに区別可能な新たな名前を付けよう。

 

我々が、ある存在者に関して、それが実在すると(演繹によってか教条によってかを問わず)強く主張せねばならないとき、「ある存在者に迫真性がある」と述べることにしよう。
LW氏にとっては、迫真性とは、多くの部分『(それが属する世界の)完全性』に因るものであった。『完全性』とは、ここでは(まだ)、「物理的に定義しうるすべてのパラメータについて答えが定まる」くらいの意味だ(たぶん)。
例えば、「キズナアイには迫真性がある」とはLW氏の枠組みでは「キズナアイが属する世界には『完全性』がある」という言い方に(ほぼ)言い換えることができ、「キズナアイが属する世界には『完全性』がある」ということは例えば、キズナアイの髪の毛の本数とか、背中のほくろの有無とか、キズナアイが存在する宇宙全体でのある時点での原子の総数であるとかいった疑問全てについて(我々やキズナアイが答えを知れるかどうかは別として)答えが一意に定まるということだ*5*6
LW氏にとって「迫真性=『完全性』」であった背景には3段階の事情があると思われる。ひとつは、LW氏の議論がVtuberを主な対象としていたという事情。ひとつは、Vtuberの特徴として、とくにYouTuberの特徴から受け継いだものを重視していたという事情。ひとつは、YouTuberの特徴を、「自律性によって、画面の先の交渉不能な存在でありながら迫真性を担保する」という理屈でとらえようとしたという事情だ。
私は、Vtuberにさして興味がないので*7、この文章は私の愛さんとするフィクションキャラ全般を対象としてとる。よって、私には、LW氏の議論へ反論ができなくなる代わりに、LW氏とは違う事情に基づいて迫真性のありうる複数の定義を探るという道がある。

 

例えば、ツイッター上で某氏(直接の引用は避ける、気になるならば探してみるがよい)は、デカルト的な懐疑主義から発する独我論的なものの見方に基づいてVtuberの実在を定義づけようとした*8。「Vtuberが実在する」とは、とどのつまり、「いま・ここにいる“わたし”に、Vtuberが実在するらしく感じられる」というところに還元されるものである。ここで、迫真性とは実在感のことだといってよい。
繰り返しになるが、私を含むオタクがフィクションキャラに『完全性』を求めないとき、それはフィクションキャラに迫真性を求めていないということを必ずしも意味しない。迫真性の要件が人によって異なり、場合によってそこには『完全性』は含まれないというのが実際のところだ。
フィクションキャラにいかにして迫真性を求めるか……この問題を、「我々が暮らす現実世界でともに暮らす隣人たちには、迫真性がある」という前提を出発点にして語ることは簡明なやり方であろう*9。つまりここにおいて、(粗雑ではあるが)「フィクションキャラに迫真性を求める」は「フィクションキャラに現実世界の人物と同じような迫真性を求める」と言い換えることが可能になる。
はたして、ひとびとが我々の暮らす世界とその住人たちが持つ迫真性の内実は、迫真性を考えるひとにより様々である。それは哲学の歴史が証明するだろう。隣人たちの実在を、連続した時空間を占めているという状態として理解するひともいれば、すべては“わたし”の認識においてのみ保証されるという意味で確かに“わたし”は実在すると認識している状態だと理解する人もいる(例えば、物理主義を“了解”しているひとびとにとって、独我論を“理解”にとどまらず“了解”しているひとびとがいるということは想像しがたいであろうし、独我論を“了解”しているひとびとにとって、物理主義を“理解”にとどまらず“了解”しているひとびとがいるということは想像しがたいであろう……私はこの事実をこれまでの人生経験から事実だと信じているが、証明は困難だ)。もしあなたが迫真性のことを「物理的実在であることと自明に言い換え可能」だと考えているとするなら……それはいかにも理系的というか……(偏見に満ち満ちた発言!)。
これから私は、上で「迫真性=実在感」となるパターンを挙げたように、ひとにより様々になるであろう迫真性のパターンを3つだけ挙げてみよう。そのリストは網羅的にはならないだろうが、私の愛のためには役に立つ。

 

2.1. 迫真性=実在感

最初に私は、前節でふれた「迫真性=実在感」となるタイプの迫真性について、もう少しだけ考えておこう。
このタイプの迫真性では、“わたし”が実在していると感じるかどうかが迫真性の有無の決め手になる。白上フブキの実在や自分の母親の実在やブラジルの実在やあるいは自然演繹の正しささえ、“わたし”の感じ方のなかに畳み込まれる。この考え方のなかに自明な公理は少ない。「我思うゆえに我あり」が入るか入らないかくらいだろうか。「ある者に迫真性があるか否か」という問いをより基礎的な定理から導くのは難しく、どちらかと言えば「ある者に迫真性がある」ということがそのまま公理になってしまいそうだ。
よってこのタイプの迫真性を念頭にフィクションキャラの迫真性について考えるなら、あるフィクションキャラにの迫真性の有無は答えるべき問いであるよりもむしろ議論の出発点になるだろう。「まず、現に白上フブキは実在してるんだが、これってよく考えたら不思議だよね、どうやって実在してるんだろう?」*10
また、「迫真性=実在感」として位置づけてフィクションキャラの迫真性の有無について考えたとき、フィクションキャラが時空間的連続性を持っているかどうかは比較的問題になりにくいだろう。ある人が、私が直に見ていない間はこの世界から消滅しているか否かとか、私がどれだけ歩いても泳いでも到達できない土地に住んでいるか否かとかは、実在感には(少なくとも私が感じる実在感には)必ずしも関係ない*11。すなわち、このタイプの迫真性は『完全性』を要件としては含まない。

 

2.2. 迫真性=応答完備性

次のタイプにいこう。このタイプでは、迫真性のことを、“わたし”がする任意の入力に対して、“きちんとした”出力を返すという性質であると考える。当該性質のことを、ここからは簡便のために「応答完備性」とでも呼ぼう。
「迫真性=応答完備性」という考え方の例として、私たちの目の前に1脚の椅子がある、というような場合を考えよう。その椅子が実在する(迫真性を持つ)か、よく練られたVR技術か何かによって見せかけられた非実在の椅子である(迫真性を持たない)か、私たちにはわからないとする。さて、このときあなたはどうやってその迫真性を確かめるだろうか。
私なら――これはどうしても「私なら」という話にしかならないのだが――こうする。私は目の前の椅子を、触ったり殴ったりこすったり炙ったりなめたりして、思いつく限りすべての操作をその椅子に対して行う。もし、その椅子がよくできたVR技術によって見せかけられたものならば、VRシステムの開発者が予期しなかったような入力に対しては何らかのエラー――“きちんとしていない”出力――を返すだろう。だからなるべく常人の予想外を目指して行動する。セレクトでも連打すれば案外ボロが出るかもしれない。
つまり、私の言わんとする応答完備性とは、それに対して(それが関わる)どんな行動をとっても、整合性と一貫性を持った応答が返ってくるということだ。実在するものならば返すはずの応答を返してこないとか、実在するものにしては応答がワンパターンすぎるとかいった場合は、そういったものは迫真性を持っているとは認められない*12
思慮ぶかき読者にあられてはお気づきかと思うが、このタイプの迫真性では、「実在している」という性質の焦点を「少なくとも粗雑な作りごとフィクションではない」ということに絞っている。この段落の中において、「実在」に相対するものがあるとすれば、「作りごとフィクション」である。
ならば、アクターによって立案されるVtuberや漫画家によって描かれるマンガキャラやアニメ制作者によって動かされるアニメキャラは、即座に迫真性がないと言われてしまうのだろうか? ……そうならないように、定義を微調整しよう。応答完備性とは、“わたし”がする任意の入力に対して、“きちんとした”出力を返すという性質である――ただし、実際に“わたし”が任意の入力を行えるかどうかには関わらない。
我々は確かにマンガキャラやアニメキャラに話しかけたり握手を求めたり食事をおごったりすることはできない。しかし、その不可能性は、入力がもしできたら出力を必ず返すだろうという意味における応答完備性を損なうものではないのだ。もし可能ならば、彼ら / 彼女らは、我々が話しかけたとき、しゃべり返してくれるとか、意思を持って無視してくれるとか、我々の声が聞こえないのが自然な状況において我々の声が聞こえなかったとか、何らかの妥当な出力を返すのだ。予想外な入力だって、可能な入力であれば必ず返す。
Vtuberに対してだって、全ての入力が不可能なわけではない。Vtuberの特異性は、マンガキャラやアニメキャラよりは応答完備性が比較的傍証しやすいというところにあるのであって、実態としての応答完備性の多寡が本質的にマンガキャラやアニメキャラと異なるわけではない。

 

LW氏はVtuberの『完全性』を漸進的に傍証する手段として赤スパを考えたが*13、「=応答完備性」であるところの迫真性については、それを傍証する手段は赤スパでなくてもいい。むしろ、赤スパでないほうがいい。「作者」がいないことを証明するには、赤スパという予想可能な手段よりも未知の法外な手段のほうがいい。

 

「=応答完備性」としての迫真性が、「=『完全性』」としての迫真性とは異なるということを示すために、もう少し説明を加えておこう。
いくら予想外の入力予想外の入力といっても、“わたし”の想像力には限りがある。“わたし”が想定しうる全ての入力に対して、すでに“きちんとした”出力を用意して入力に備えているライブラリがあるとして、そういったライブラリによって応答完備性を実現するようなVtuberは実在するといえるか? 「迫真性=応答完備性」というこの見方においては、いえる(「迫真性=『完全性』」の場合、この問いには「いえない」と答える可能性が高いだろう。仮に、自身がケモ耳JKであることを主張しながら、その本性はライブラリであるようなVtuberを、「迫真性=『完全性』」の立場は噓つきとみなすのではないか)。また、“わたし”が斬新な出力を思いつくたびに、ボロが出ないような回答をその都度案出する優秀なAIがいたとして、そういったAIによって応答完備性を実現するようなVtuberは実在するといえるか? これまた、いえる(「迫真性=『完全性』」の場合、この問いには「いえない」と答える可能性が高いだろう。仮に、その応答の完璧さが都度案出されるものであると認めるのならば、自ずから完璧でなければならない「『完全性』を持ったVtuber」とは異なる)。
ある存在者を関数に例えるならば、「迫真性=応答完備性を持っているような存在者」とは、定義域に含まれるすべての入力に対してあらかじめ出力が決まっている必要はない。せいぜい、入力するひとを超える速度の演算能力でもって出力らしいものをこしらえればいい*14。ああ、私は存在者を関数で例えようとしたが、この試みは3行で破綻してしまった。
よりラディカルに言えば、もっと卑怯なVtuberにも、迫真性を認められる。例えば、全ての視聴者の背後に同意のもとエージェントを派遣し、配信を行うVtuber。このVtuberの演者は、視聴者が予想の範囲内の入力をしてきた場合には、きちんとVtuber自身の設定に基づいて応答を行い、もし視聴者が予想外の入力を行った場合には、直ちに全視聴者の背後のエージェントに連絡し、エージェントの熟達した技能によって視聴者の後頭部を殴る!……これによって全視聴者が前後5分間の記憶をなくすのだが、こういったVtuberにも、迫真性は認められるべきだろう。

 

このタイプの迫真性の奇妙な点は、実在と作りごとフィクションとを対置したうえで案出された概念であるにもかかわらず(いや、むしろ、そのように案出された概念だからこそ?)、巧妙な作りごとに対しては脆弱で、簡単にその実在を認めてしまう、という点だ。まあ、それは全く定義にのっとったことなので、騙されたには当たらないのだが*15

 

2.3. 迫真性=『完全性』

最後に、「迫真性=『完全性』」となるようなタイプの迫真性について考えよう。
私に理解できる限りで言えば、LW氏にとっての迫真性とはかなりの部分「(それが属する世界全体の)完全性」と一致する。ここで『完全性』とは、先ほど述べたように「物理的に定義しうるすべてのパラメータについて答えが定まる」という意味であろうと、私は解釈している。「あるVtuberに「(それが属する世界全体の)完全性」がある」という状況をわかりやすく言い換えるなら、「あるVtuberが属する世界について、完璧に客観的に表現できる、曖昧さを含まない任意の命題について、真偽が定まる」といったところだろう。
このように『完全性』を理解するうえで焦点となっているのは、「それぞれの命題が真なのか偽なのか」といったところではなく、また「ちゃんと真偽が定まる」というところでもなく、「「真偽が定まらない」という状態には陥らない」というところである。というのも、『キズナアイは論理的に完全』を読む限り、LW氏がVtuberをある程度独特なコンテンツとして定義づけようとするとき、もっとも基本的な態度とは「「真偽が定まらない」という状態を持っている通常のフィクション」との対照からスタートする態度だったからだ。極端な言い方をすれば、(世の中のたいていの新語がそうであるように)LW氏にとっての“Vtuber”は“通常のフィクション”の(部分的)否定語としてのみ機能する*16。「迫真性=『完全性』」と考えたとき、「実在」に相対するのは「不在(を含んだ存在)ヴェイカンシィ」なのである。

 

「=『完全性』」であるところの迫真性と「=応答完備性」であるところの迫真性は、雰囲気的にはよく似ている。私がいま行っている議論の都合・説教の都合としては、両者の間にもっと目立った違いを発見するか、作ってしまいたい。私は今回、(両者の細かい共通点と相違点をリストアップして迫真性の要件をより小さく基礎的なものへ分解していく代わりに)LW氏にとっての迫真性をベースにした(一応私はベースにしているつもりである)『完全性: type.lw』と私がたまたま念頭に置いている「応答完備性: type.keylla」との偶然的だが目立った違いを描写していくことで、問題の単純化を図ろうと思う。

 

LW氏は、「キズナアイは『(論理的に)完全』」と述べるとき、「キズナアイが完全性を持っているかどうかを検証する行為」を仮想し、「「キズナアイは『完全性』を持っている」は証明できる」ということばでもって「キズナアイは『(論理的に)完全』」ということばにかえようとする傾向が強い。このニュアンスを、『完全性: type.lw』の際立った特徴の一つとしてみなしたいと思う。
「え、「A性がある」と「A性が証明できる」が同値なのは自明じゃないの?」と即座に思った読者もいただろう。そう、「正しい」ということと「証明できる」ということはいくつかの場合において自明として構わないだろう。しかし――この節は自信をもって書けない、本当に――この文章は、「正しい」ということと「証明できる」という2つのことを区別して論じなければならない多くの例外の一つであり、LW氏がここにおいて「正しい」と「証明できる」とを接着していることはなんらかの立場だとみなすことができるような気がしている。
「それにおいて、証明できるということは、正しいということである」という性質には健全性サウンドネスという名前がすでにつけられているらしい。LW氏の議論は、LW氏が用いている何らかの公理系の健全性を前提として進行しているということだ。
私が何度か用いようとしてきた「応答完備性: type.keylla」という概念には、「Vtuberになにかしら予測困難なムーブをしかける」という仕方で応答完備性のあるなしを判断しようとしているニュアンスが読み取れる。「応答完備性: type.keylla」もまた、ある程度は健全性を前提としているわけだ。しかしながら、私の言いたかったニュアンスをもう少し掘り下げるなら、私の態度は「おそらく定義可能な仕方で既に存在する概念「迫真性」をなにか別の概念で説明・計測しようとする」よりかは「迫真性とでも言うべき概念が欲しいから別の概念と等式を結んで定義づけてしまおう」というものに近かった、ような気がする。いわば、私は「迫真性」という“有”を積極的に発見したかったわけではなく、“迫真性の有無”という区別をつけたかっただけなわけだ。だから、LW氏と比較したとき、私は「「迫真性が証明できるならば迫真性はある」は定理としてでなく定義として正しい」という逃げの一手がちょっと打ちやすい。「=応答完備性: type.keylla」では、健全性を自明とする必要性が若干薄い。
わりに健全性を自明としなければならない「迫真性=「完全性」」や、若干は健全性を自明としたい「迫真性=応答完備性」と比べて、「迫真性=実在感」では、健全性を自明とする必要性はほぼない*17。この説は、演繹によって接近するのが困難な代わりに、演繹それ自体の正当性を検証する難行から解放されている*18

 

また、『完全性: type.lw』では、それが特定の連続した時空間を占めているかどうかが比較的重要になる。「特定の連続した時空間を占めている」は「物理的存在である」ことの言い換えであるといってもおおむね問題ないだろう。
「ある者が『完全』であるためには、特定の連続した時空間を占めている必要がある」は結果として「ある者が特定の連続した時空間を占めるために、占める対象としての時空間として適切な連続体をあてがえなければならない」を導くだろう。よって、「迫真性=『完全性』」である場合、「『完全』である」ことは「特定の世界に所属する」を導く可能性が極めて高い*19
また、『完全性』を持って特定の連続した時空間を占めている存在者は、『完全性』を損なわないために、ある特定の瞬間の特定の地点に2重3重に存在することは(基本的に)あってはならないだろう*20。また、『完全性』を損なわないために、存在者がいる特定の瞬間の特定の地点に同時に他のナニカが存在してはならないだろう。よって、ある者が『完全』かどうかを確かめる作業は、ある者が占める時空間だけでなくある者が属する世界全体が『完全』かどうか確かめる作業を直ちに要請する可能性が極めて高い。

 

上記2つの事情によって、『完全性: type.lw』においては赤スパはかなり複雑で困難な機能を果たすことを期待される。
まず、赤スパが「証明作業」であるという事情によって、赤スパは、赤スパとそれに付随する手続きのなかからなんらかの客観的正しさをひきだせるという定理なり公理を、赤スパとそれに付随する手続きの内部か外部に設置しなければならない。私が以前「Vtuber自身による発言って正しさにつながるのか?」みたいな話を延々17,000字もしてしまったのも、理由の半分くらいはここにある。私はかつて「主観と客観のギャップに混乱の原因を見出し」たが、その気持ちは今も変わってはいない*21
次に、証明作業としての赤スパは、Vtuber自身の『完全性』にとどまらず、Vtuberが属する世界全体の『完全性』を証明しなければならないという事情によって、赤スパは、Vtuberに関連した内容だけでなくVtuberが属する世界の全ての事物について話題にできなければならない*22

 

2.4. 取り出された側面

ここまで我々は3タイプの迫真性について考えてきたが、以下では3種類の関係性について簡単に探っておこう。
フィクションキャラをして迫真性を手にさせたいと願うとき――そのやり方には、「迫真性を前提とする」「迫真性を自ずから有効な形で定義づける」「迫真性を証明する」さまざまなバリエーションがあるにしろ――どうしても我々の想像力は、現実世界に暮らす隣人たちを基準として迫真性を考えざるを得ない。我々が隣人たちに想定する迫真性がひとによって違うことは既に述べたとおりだが、それははたして、隣人たちがもっている性質のうちどの性質を我々が迫真性の本質とみなしたかがひとにより違うということでもある。
ここから、隣人たちがもっている性質や我々が暮らす現実世界からある側面を切り取ったものとして、3タイプの迫真性を捉えなおしていこう。

 

我々は、(「実在とは何か」という、気になって当然の疑問はここでは不問にして)我々が暮らす現実世界について考えてみよう。
まず、我々が暮らす現実世界の事物の多くに対して、我々(のうちの多くのひと)は実在感を感じられる。また、現実世界に属さないいくつかのものについて、我々は実在感を感じられない。つまり、経験則的に「実在感を持つならば現実(世界に属する事物)である」は言える(この命題は、それが純粋な論理でなく我々の感覚に基づく誤謬である可能性を示すためにあえて用語の定義を曖昧なままで記述する)*23*24。ここでもちろん、逆命題「現実だから実在感を持つ」は保証されない。ただ、逆もまた真であろうと考える誤謬を犯すことはかなり自然なことだ――もう少しはっきりと言うのならば、誰であれこの間違い(後件肯定)を犯すことはある*25。もし誤謬が犯されたなら、当の逆命題がたまたま真であったにせよ、不幸にして偽であったにせよ――実在感が“現実”というものの本質であったにせよ、“現実”の副産物に過ぎなかったにせよ――「現実の本質」についての必要十分条件が提示されることになる。すなわち、「現実である」⇔「実在感がある」。こうして、迫真性を実在感だとみなす見方が醸成される。

 

次に我々は、ほとんど全く逆の事態を考えてみてもいいだろう。
我々が現実世界で出会える事物のほとんどは、我々が過去どこか特定の場所にいたときから、一定の時間経過と一定の場所移動を経た結果として、その事物に出会うことになる。もう少しくだけた言い方をしよう。我々が何かに出会うときは、その瞬間まで人生を生き続けてきた結果として、またその場所まで歩いてきた結果として、それに出会っている。つまりは、もし過去にどこか“わたし”が確かにいた時間と場所(「現実」のポジションゼロ)があったなら、その“わたし”から連続した時間・空間のなかに、現実世界の多くの事物は属している。一方、現実世界にはないもののいくつかについて、私たちは“わたし”から連続した時空間のなかでそれらに出会ったことがないであろう。つまり、ここでもまた、現実に関する一つの経験則が導かれる。すなわち、「“わたし”から連続した時空間のなかに位置するならば現実である」ということだ*26。また、実在感の場合と同様の誤謬を犯すのならば、「現実であれば“わたし”から連続した時空間のなかに位置する」もまた真であると考えがちになる。
我々はついでにもうひとつだけ誤謬を犯してみてもいいだろう。条件を緩くするのだ。「現実であれば連続した時空間のなかに位置する」と。かくして、迫真性は時空間の連続性であるとみなす見方が醸成される。

 

一方、もしあなたが物理的な宇宙を支持するならば、迫真性を実在感だとみなす立場をこう非難してもいいだろう。「実在感なるものは、現実のせいぜい副産物にすぎない。なぜ実在感などを現実の本質であると誤解するのか。説明は物理的宇宙のみでじゅうぶんであるのに」
他方、もしあなたが独我論的な宇宙を支持するならば、迫真性を『完全性』だとみなす立場をこう非難してもいいだろう。「時空間の連続性なるものは現実のせいぜい副産物にすぎない。なぜ時空間の連続性などを現実の本質であると誤解するのか。説明は独我論でじゅうぶんであるのに」
かくして、独我論的な現実観と物理実在論的な現実観との対立をイデオロジカルな対立のなかに押し込んだところで*27、迫真性の理解のバリエーションについて語ることは締めにしよう。
今私が行っている、必然的な対立を無化しようとするしぐさは、哲学としては無粋で不法なものになるかもしれないが、この文章の目的にはかなっている。駒を先に進めよう。

 

3. 完全性

私はここで、多分に余談めいた話にはなるが、ここまでの議論(『絶えず自壊する泥の反論集』を含む)でいささか乱暴に使ってしまった感のある『完全性』という語の意味を再確認し、整理する*28

 

3.1. 構文論的完全性

一連の文脈に対して、『完全性』という単語を最初に持ち込んだのはLW氏である。LW氏が用いている『完全性』の意味を再確認しよう。LW氏がおそらくもっともはっきりと自身の用いる単語の意味を述べているのは以下の箇所だ。

一般に,虚構世界においては世界の完全性が保たれないことが知られている(以下,セクション 2 までの議論は [1] に準拠).世界の完全性とは,世界の中で任意の命題 p に対して p が真か偽のいずれかが定まることを示す.我々の世界は基本的には完全であるが(どのような命題を有効とみなすかや自然科学の未解決問題をどう扱うかは自明ではないが通常はそのように考えられている),テクストにおいては,明確に言及されている命題に関しては真偽が定まるが,そうでない命題に対してはその限りではない.
――『ユーザーの集合データを用いたテクスト論的に正統な虚構世界の体験システム』

「あるものの完全性とは,それの中で任意の命題 p に対して p が真か偽のいずれかが定まることである」
このような定義に当てはまる『完全性』とは、『完全性』と名の付く数ある概念のなかでも、数理論理学における構文論的完全性コンプリートネス(証明論的完全性)にあたる。
「あるものの構文論的完全性とは,それの中で任意の命題 p に対して p が真か偽のいずれか一方は証明できることである」*29
例えば、キズナアイの髪の毛の数がある瞬間に奇数でも偶数でもないとき、キズナアイが属する世界は構文論的に完全ではない*30
注意すべきは、少なくとも数理論理学において、無矛盾性コンシステンシィは構文論的完全性とは別の概念であるということだ。無矛盾性とは、あるものが矛盾を含まないことを言う*31
「あるものの無矛盾性とは,それの中で任意の命題 p に対して p が真だと証明できるとき、同時に偽だとは証明できないことである」
LW氏の言う『完全性』が確かに数理論理学における構文論的完全性と一致するとすれば、キズナアイの髪の毛の本数が偶数でもあり奇数でもある場合、なおもキズナアイが属する世界は『完全』である可能性はある。LW氏の言う『完全性』が数理論理学における一般的な定義とは違い、構文論的完全性と無矛盾性とを両方含むとすれば、キズナアイの髪の毛の本数が偶数でもあり奇数でもある場合、キズナアイが属する世界は『完全』ではない。
はたして、LW氏がどちらの意味で『完全性』を使っていたかだが……LW氏の書き方を見る限り、どちらにもとれるように私には思える。この懸案はいずれ払しょくすることとしよう(時期未定)。

 

3.2. 意味論的完全性

構文論的完全性について述べてしまったならば、これと混同されかねない概念である意味論的完全性コンプリートネス(モデル論的完全性)についても(当記事ではさほど重要でないながら)触れておかなければならないだろう。
意味論的完全性は、構文論的完全性と同じく数理論理学における概念だが、その意味するところはまあまあ違う。
意味論的完全性は弱い意味論的完全性と強い意味論的完全性に分けられる。弱い意味論的完全性とは、正しいことは証明できる(証明できないのならば正しくはない)ということを言う*32
「あるものの意味論的完全性とは,それの中で任意の命題 p が正しいとき、 p が真だとそれのなかで証明できることである」*33
ときに、弱い意味論的完全性は健全性サウンドネスとは異なる概念である。健全性とは、証明できることは正しい(正しくなければ証明できない)ということを言う。
「あるものの健全性とは,p が真だとそれのなかで証明できるとき、任意の命題 p が正しいということである」
あるものに弱い意味論的完全性がありなおかつ健全性があるとき、あるものにおいて「真だと証明できる」ということと「正しい」ということは初めて同値になる。弱い意味論的完全性がありなおかつ健全性があるということを、強い意味論的完全性コンプリートネスがあるという。

 

3.3. データ完全性

ところで、かつてLW氏の議論と接続したことがある議論として、こんな議論もあった。

not-miso-inside.netlify.app

この議論は、哲学的にでなくあくまでエンタメとしてVtuberをとらえた議論であるとみそ氏(慣例に従って『みそは入ってませんけど』の著者のことをこう呼ぶ*34)自身は語っている。しかしながら、この議論のなかには一箇所だけ『完全性』という言葉が登場した。LW氏はこうした哲学的な語彙の利用をみそ氏の否認の身振りとしてとらえ、同じく『完全性』という用語を用いているLW氏の議論との接点のひとつとした。みそ氏が『完全性』を用いたのは以下の箇所である。

これらの特徴が哲学的にどう、みたいなのはどうでもいい。重要なことは、この特徴は演者に綿密さを要求することだ。彼らはどうにかして整合的なキャラクターを演じなければならず、それはもしかしたら設定集の一行かもしれないし、自分が昔、口を滑らした一節かもしれないし(「あんこが好きなんですー」)、もしかしたらファンの間で勝手に醸成された設定かもしれない。それらを適切に守らなければ、キャラクターの完全性インテグリティが担保されない。

いささか一方的な気がしないでもないが、ここでいわれる『完全性』もまたLW氏の議論の一部として取り込まれているので、ここでの『完全性』の意味についても探っておいたほうが無難だろう。

 

みそ氏における『完全性』の意味として第一に疑わしいのは、データ完全性インテグリティである。データ完全性は実は哲学の用語でなく、情報処理分野で用いられる用語だが、電脳世界との相性が良かった頃のVtuberたちをVtuberのひな型としてみなしているかもしれないみそ氏の腹のうちを勘ぐるなら、彼が情報処理における『完全性』のことを指しているという可能性は低くない。
データ完全性とは何か。私は怠惰なのでWikipediaを使ってしまうが、以下のようなことである。
「データ完全性(データかんぜんせい、英: Data integrity)は、情報処理や電気通信の分野で使われる用語であり、データが全て揃っていて欠損や不整合がないことを保証することを意味する」
「データ完全性とは、データが一貫していて正しく、アクセス可能であることを保証するものである」

ja.wikipedia.org

これだけではデータ完全性の定義はしごく曖昧なので、他の分野における『完全性』と比較できるようにもう少し内容をつめていこう。
まず、データが全て揃っているということ。これは、こと世界の『完全性』に関して言うなら、弱い意味論的完全性に対応する概念ではないか。弱い意味論的完全性がない=正しい命題でも証明できない場合がある=ある世界に関する正しい命題であっても「○○は正しいか」という質問がVtuberに対して行えない場合、Vtuberが属する世界のデータはすべて揃えられない。
次に、データが一貫しているということ。これは、数理論理学における無矛盾性に近いものであろう。Wikipediaの件の記事では、データ完全性の要件のひとつとして参照整合性を挙げている。
次に、データが正しいということ。これは、数理論理学における無矛盾性と健全性をあわせたものに近いだろう。こと論理学に限らない文脈において、「正しい」ということばが出てきたとき、それは無矛盾性と健全性とを含む場合が多いと、少なくとも私には思える。
次に、データがアクセス可能であること。これは、Vtuberが属する世界の『完全性』について例えれば「Vtuberが属する世界における全ての定義可能なパラメータについて、質問すれば正確な回答が得られるという性質」といったところだろうか。アクセス可能性の有無、というのはLW氏の議論にはなかった要素であろう(LW氏は、SWを構成しなければならない全ての要素について、我々が言語を用いてそれについて質問できるのかといった議論をしていない。また、LW氏の枠組みでは、『完全性』は「質問できる」という可能性を前提にしてのみ現れ、質問できようができまいが世界自体が自律して有している性質としては『完全性』を定義していない)。
また、上に挙げなかったこととして、データが改ざんされていないということ。この性質も場合によりデータ完全性の定義のうちに含まれるようなのだが、これもまた、LW氏の議論にはなかった要素であろう。いや、むしろ、LW氏は慎重な前提づけによってデータ改ざんの可能性を消し去ろうとした。「Vtuberは信頼できない語り手ではないということにしよう」というのがその前提づけであり、この前提の妥当性の有無についてはすでに『絶えず自壊する泥の反論集』と『~延長戦』において格闘したとおりである*35

 

3.4. 誠実さ

みそ氏における『完全性』の定義として第二に疑わしいのは、倫理学における誠実さインテグリティだ。
またもWikipediaに頼ってしまうが、倫理学においては『正直さの実践と共に、高い道徳・倫理的な原則と価値観を持って一貫し、妥協なくそれらを遵守する振る舞い』がインテグリティとして価値づけられるのだという。

ja.wikipedia.org

要は、倫理的に優れた価値観をただ持っているだけでもダメで、また倫理的に妥当な行いを実行するだけでもダメで、内的な価値観と外的な実践が一致する限りにおいて誠実さインテグリティとでも言うべき価値が認められるのだということだ。
誠実さという意味での完全性を用いるとき、Vtuberに完全性を求めるならば、アクターの言動というものがどうしても話題に上ってくる(Vtuberの誠実さと言ったとき、外部から観測できるアバターの言動と内的なアバターの世界認識との間の一貫性のことを指してもいいのだが、むしろしっくりくるのは外部から観測できるアバターの言動とアクターの認識との間の一貫性を指している場合ではないだろうか)。アクターがもしも「アバターの設定が一貫している」とこころから信じ、一貫した設定どおりにアバターを演じたならば、Vtuberは比較的誠実であるといえる(倫理的に(?)賞賛すべき態度である)。アクターがもしも「アバターの設定が一貫するか否かなどはアクターである私の匙加減次第だし、アバターの設定など一貫していなくてもどうでもよい」と考えて、整合性を意識せずにアバターを演じたならば、Vtuberは比較的誠実ではない(倫理的(?)非難の対象になる)。アクターが「もしアクターである私がVtuberに誠実さをもたらしたいのならば、一貫した設定のもとにアバターを演じるべきであろう」という打算にもとづきVtuberを行ったなら、その誠実さの程度は中間的である。
LW氏の立場はここでも異なっている。LW氏は、Vtuberにおける言動と内心の不一致といった可能性を慎重に排除しており、結果としてアクターの存在は議論から綿密に消し去られている。あるいは逆で、アクターの存在が議論から綿密に消し去られているために、結果としてVtuberにおける言動と内心の不一致といった可能性は慎重に排除されている*36。LW氏の議論では誠実さの有無ははじめから問題にならない。言動と一致しない内心などどこにもありはしないのだ*37

 

ガイブンっぽい文章技巧(なんだそれは?)を巧みに操るみそ氏のことであるから、『完全性』にルビをふっている件の表現は、いくつかの意味の『完全性』のダブルミーニングを狙ったもの――例えば「データ完全性 & 誠実さ」とか――ではなかったかという気もする。だとすればそこには、データの正しさと一貫性がVtuberを取り巻く環境と時代のなかにあっては一種の徳目*38であるという信条の表明――あるいは皮肉――が含まれているのかもしれない*39

 

4.キャラクター、世界

最後の章である。ここまで、我々は迫真性についていくつかの異なる立場があることを知った。ここから、私はいくつかの異なる立場が、結局のところある一つの知見に収斂していくということを述べたいと思う。

 

4.1.世界

私は、我々の教条の核心セントラルドグマを開帳する前に、もうひとつだけタームの定義をはっきりさせておかなくてはならないだろう。「世界」という語の定義である。

 

LW氏は、「真なる命題の集合」として『世界』を定義した。我々の『世界』の定義もこれに従う。世界とは真なる命題の集合である*40*41
ここで、完全性のありうる複数の定義についてすでに整理した我々は、『世界』の定義についても以下二つの但し書きを加えなければならないだろう。
①「真なる命題の集合」として定義された世界は、強い意味論的完全性を自明に持つ可能性がある*42。しかしこのとき、世界が構文論的完全性を持つことは自明ではない*43
②「真なる命題の集合」として世界を定義しようと我々がもくろむとき、ここでいう「真なる」がいったい何を意味するのかはいまだ明確でない。「真であるが偽でもある」といった直観に反する状況を検討すべきか否かが自明でなく、また検討すべきか否かについて積極的に立場を確定しなければ議論ができない状況もおそらく(フィクションの存在論では)容易に出現するからだ。よって、「真なる」という形容の意味するところについては議論の大枠では確定させず、都度検討する(忘れている方もいるかもしれないが、私は、当記事を理論としてでなく教条として展開しようとしている)。

 

4.2.応答完備性を持つキャラクターについて

もし、我々が、我々の愛するところのキャラクターについて、その実在を誠実に希求するとするなら。我々が行うべきこととは何なのだろう。

 

応答完備性こそが迫真性の正体だとみなす人ならば、こう言うだろう。「我々は、キャラクターたちの応答完備性を奉ずるによってのみ、間違いなく実在するキャラクターたちに出会うであろう*44
我々が過たずにこの応答完備性を奉じんとするならば、注意せよ、我々が奉ずるのは、キャラクターたちが住まう世界やキャラクターたちが住まう世界の物理法則の応答完備性ではなく、キャラクター自身の応答完備性である。もしあなたが実在するキャラクターに出会おうとしてキャラクターが住む世界や従う物理法則に触れて手応えを確かめるという目標を掲げたならば、その目標は不要であるか過大である。応答完備性を重視するならば、結局のところ、注意すべき対象が「キャラクターがいる場所からつながっている時空間全体」から「応答にかかわる領域」にまで縮退する。
つまり、ある意味で、我々はキャラクターを(彼 / 彼女を内包するような)世界に住まわせる必要はない。

 

もしもキャラクターを世界に住まわせる必要がないならば――いちキャラクターが、キャラクターの外部に存在するルールに一方向的に順い続ける必要がないならば――キャラクターについてのある命題は、キャラクターの外部に存在するルールに従うか否かで真偽を判断することができるだろうか? キャラクターについてなにかを語らんとする命題は、ある世界のなかに位置づけられて――外的に――その真偽を決められるのだろうか? そうではない、と私は思いたい。
いま、我々は「真なる」という単語の意味の座を空けておいたことを思い出そう。この節では、「真なる」という形容に関して、「それは偽ではないということである」とか「公理から推論規則にのっとって到達すべきものである」とかいった思い込みを避け、ただ「真なる」という言葉の手触りのみに基づいて話を進めよう。
あるフィクション作品に明確に所属しているあるキャラクターがいるとき、そのキャラクターについての真なる命題は、フィクション作品が提示するひとまとまりの時間と空間には必ずしも含まれない。私はそう宣言する。このとき、「世界とは真なる命題である」という定義を固持するならば、キャラクターについて考えるべき真なる命題の集合とは、キャラクターについて考えるべき世界である。
つまり、ある意味で、キャラクターとは世界そのものである。

 

4.3.完全性を持つキャラクターについて

完全性こそが迫真性の正体だとみなす人ならば、こう言うだろう。「我々は、キャラクターたちの完全性を奉ずるによってのみ、間違いなく実在するキャラクターたちに出会うであろう」
はたして、完全性を奉ずるのは難行である。とくに、我々とキャラクターとの相互作用を基礎において完全性を定義づけようとした場合、多大な困難を伴う。
というのも、前述したように、我々がキャラクターの迫真性を得たいとき、キャラクター自身の完全性にとどまらずキャラクターを内包するひとまとまりの時空間全体の完全性までが要請されてしまう可能性が高いからだ。
ある意味で、我々はキャラクターを世界と整合的な形で解釈する必要がある。
「キャラクターとの対話」というごく小さな範囲の出来事から完全性を求めるとき(それがそもそも可能なのか否かを置いておくとしたなら)、より小さそうな完全性[キャラクターの完全性]を求めるよりもより大きそうな完全性[世界全体の完全性]を求めるほうがどうやら難しそうだ、という話には同意していただけるであろう。

 

キャラクターとの対話から世界全体の完全性を導くために、我々は「キャラクターの発言」から「世界全体のありよう」への全射を実現させるようななんらかの魔法を立案しなければならない。
こうした魔法の一端を担うべき手法の候補は少なくとも二つある。一つ目は、キャラクターの発言の信頼度と真理値とを無理やり一致させてしまうというものだ。これはつまり、ことキャラクターの発言について、信頼度の多寡を「=真理値」と定義づけてしまうということであり、キャラクターが噓をつく可能性の強引な剝ぎ取りであり、LW氏が譲歩付きで行ってきた「信頼できない語り手の排除」である。「信頼できない語り手の排除」(と「フィクションの完全性についてのε-δ論法*45)が成功裏に行われたとき、晴れて「Vtuberがそう言った=真である」が成立し、Vtuberの発言は世界をその内につかみ取ってしまう。
二つ目は、キャラクターの発言から全射させようとする範囲を限界まで縮退させてしまうというものだ。これはつまり、「時空間全体」でなく「少なくともVtuberにはそう見えている世界」を、「時空間全体」でなく「少なくともVtuberは抱いていた意図」を、「時空間全体」でなく「少なくともVtuberはそう述べた」を「世界全体のありよう」として措定しなおすということだ。これこそは、LW氏がヘドロな選択肢の第二として提出した「事実レベルの退却」である*46。「事実レベルの退却」(と「演者の排除」)が成功裏に行われたとき、晴れて「Vtuberがそう言った=真である」が成立し、世界はVtuberの発言のうちにまるめ込まれてしまう。
いずれの手法を用いるにせよ、我々が求めてきた「世界全体」は、キャラクターとの相互作用を必ず経由するがゆえにキャラクターの発言から全射される。「発言」という概念の意味をもう少し広くとるのならば、世界は、いつだってキャラクターのありようの中にある。
つまり、ある意味で、キャラクターとは世界そのものである。

*1:演説はさておき、私が「すべての独立したキャラクターがそれ自体一つの独立した世界である」という主張を展開しようとする背景には、「狂信者として」以外にもいくつかの動機が存在する。ここでは註というかたちではあるがそれらの動機にも少しだけ触れておく。

動機の一つはLW氏の『~延長戦』への再々反論……というかポジションの取り直しである。LW氏は『~延長戦』1-2において「自身の議論の混乱(?)の原因はキーラの言う『主観と客観のギャップ』ではなく『Vtuberに実在していてほしい気持ちの多寡』である」と述べた(正確にはそうは言っていないがそう解釈しても問題ないと私は思っている)。私はいまでも(そもそもLW氏の議論は本質的には混乱していないということは置いておいて)混乱の原因の一端は『主観と客観のギャップ』にあるという意見を変えていないし、また『主観と客観のギャップ』と『Vtuberに実在していてほしい気持ちの多寡』とは(かなり高い関連性を持つものの)同時に個別に存在する二つの問題であると考えている。だから私としては、『主観と客観のギャップ』の問題と『Vtuberに実在していてほしい気持ちの多寡』の問題とを丁寧に切り分けて、私キーラ自身が「キャラクターにめっちゃ実在していてほしい者である」というポジションを維持したまま『主観と客観のギャップ』問題を議論したいという思いがあった。そのため、この記事では当の切り分けとオタクアピールとに紙幅が割かれている。ただ、当記事の終盤において、LW氏言うところの「存在論的な感性のギャップ」は新しい解釈で議論の場に舞い戻ってくるようなきらいもあり、注意が必要だ。

動機のもう一つは、これはLW氏の議論への反論でもなんでもなく、私がかねてより案出しようと策をめぐらせていたある理論のパーツとして「キャラクターはそれ自体世界である」といういささか人を食った命題が必要だったからである。その理論というのは、主に平成仮面ライダーの解釈を目標としたものだ。平成仮面ライダーでは「このキャラクターはいるだけで世界を滅ぼします」とか「このキャラクターはいるだけで世界が消えずに維持されます」といった大言壮語がまかり通っている。そのため、私には、「世界全体が消える / 消えない」とかいったメタ的な現象にかかわるいくつものルールを、特定の範囲の時空間に対してでなく、特定のキャラクターに帰属させてこれを理解する方法を探している。この方法として私のなかでいまもっとも有力なのが「キャラクターに関する設定はある意味でなんらかの世界全体にかかわる設定である」と考える方法であり、「キャラクターはそれ自体世界である」という主張だったわけだ。

*2:LW氏は②のありうる選択肢として、いちおう

  • 立場B1∪B2 美少女キャラの実在は、(美少女キャラが特定の連続した時空間を占める物理的存在者であることか、あるいは)美少女キャラが特定の連続した時空間を占めない概念的存在者であることを要請し、

をも提示してはいる。ただ、LW氏は「B2よりもB1のほうが夢があるので」と述べて立場B1を取る。

*3:漢字の原義に従って言い換えるなら、「自身がキャラクターを愛する者であり」

*4:「ある者が実在している」という性質には、本当は「実在性」という名前を付けたかったのだが、「実在性」にはすでにいくつかの学問で特定の定義が与えられているので、これを避けることにした。

*5:正確には、相対論にのっとれば、宇宙全体の共時性は定義できない(だからAWでさえある時点での宇宙全体の原子の総数は定義できない)のかもしれない。困りますね。他にわかりやすい例思いついた人は教えてください。

*6:正確には、キズナアイが属する世界に原子が自明に存在するとは言い難い。電脳世界と言っているくらいだし、ひょっとするとキズナアイは「正の質量をもった物体は重力によって真空中を等速で落下していく」ような特殊な宇宙で生きているのかもしれない。困りますね。他にわかりやすい例思いついた人は教えてください。

*7:これは余談だが、私はVtuberという表記を用いるべきかVTuberという表記を用いるべきかずっと迷っている。現状、私のVtuberに対する認識の50%以上が『LWのサイゼリヤ』に拠っているという事情のために、「私の用いんとするVtuberという概念は、実態としてのそれであるよりもむしろ、特定の文研群で用いられているある程度操作的概念としてのそれであろう」という予測をこめてVtuberという表記を選択している。

*8:デカルトの思想自体は、デカルト的な懐疑主義から独我論ではなく観念論へと向かっている(らしい)ことには、倫理・哲学を学んでいる中高生は注意せよ。

*9:もちろんこの前提は自明ではない。今回この文章では扱わないが、この前提を取り外したうえでの議論も、時と場合によっては有益であろう。

*10:非常に雑なアナロジーだが、「迫真性はあるのか否か」に対して「まず、現に迫真性はあるんだが…」で切り返すこのやり方、ホッブズ問題にエスノメソドロジーの立場から無理やり回答させたらちょっと似てるかもしれない。似てないかな? ともかくもこのやり方、妙に人文的というか社会科学的というか……。

*11:これはつまり、現実世界に実在する隣人についても、目にしていない間消滅しようが到達不可能な土地に住んでいようが違和感を感じないということである。

*12:この文を「迫真性」の定義文として見た場合、論点先取になってしまう。この文は定義文でなく言い換えによる説明文として書いているつもりなので、注意されたし。

*13:LW氏は、漸進的にでなく完璧に『完全性』を証明する手段として赤スパを構想している気もするのだが、その理屈については私の理解は及んでいない。

*14:キズナアイがシンギュラリティを名乗ったのはいまさらながら示唆的である。いや、むしろ私は当たり前すぎることを再発見しているのか?

*15:余談だが、私は「中国語の部屋」に対してでも心の実在を認める立場である。

*16:私がLW氏の議論をよそのジャンルに応用しようとするたび、LW氏の前提を破棄せざるを得ないのも、当然の話である。

*17:……ないよね?

*18:……されてるよね?

*19:余談:逆も言えるかについては検討中である。

*20:ちなみに、一般的な(?)タイムトラベル――特定の瞬間の別の地点に同時に存在するとか――は、ただちには問題にならないように思われる。

*21:ちなみに理由のもう半分は、素朴に、現実の対人関係としてみても、本人による口頭での発言(特定のシーンに紐づけられる)よりも字に残る発言(特定のシーンに紐づけないで真偽を検討できる)のほうが信頼できると考えているからだ。私は現実の対人関係でも、自己紹介なんかよりも消せないボールペンで書いた履歴書のほうに信頼を置くし、履歴書なんかよりも前職上司の推薦状のほうを重要視するし、前職上司の推薦状よりも死神の目の取引によって見え得た名前を信じる(「死神の目の取引」が虚構だとすれば、「客観的な真実」なるものもまた虚構だ)。

まあ、「お前は新書の表紙ソデの著者紹介を信じるのか」と訊かれたら私の立場はかなり微妙だが……。

*22:私の「本人の口頭での発言よりも書面での発言のほうが信頼できる」という表明に対して、ありうる反論として「たとえ年齢や職歴やその他の性質について書面のほうが信頼がおけたとしても、名前についてだけは、本人から聞いたほうが信頼がおけるのではないか」が挙げられるだろう。(私個人は、日常感覚的にいってもこの反論にはあまりぴんとこないが)ところがこのタイプの反論は、こと『完全性: type.lw』に関しては使えなくなってしまう。このタイプの迫真性では、必然的に名前以外のあらゆる事物についてもVtuberの発言から正しさを引き出す必要性があるので。

*23:もちろん、これは経験則なので純粋な演繹ではありえず、せいぜいのところ帰納だ。

*24:我々のこうした経験則が裏切られる日常的な例は無数にあるだろう。例えば、一部の精神病では――それは存外に日常的なものだ――ひとは現実であるところのものに対して現実感を感じられなくなるのだと私は聞いている。

*25:もちろん、私のように注意力散漫な人間はなおのことそうだ。

*26:こうした経験則についてもやはり、我々の日常においてそれが裏切られる場面というものはある。例えば、主要なものは「眠り」と「飛行機」だ。「眠り(をはじめとした意識喪失)」によって人間の連続した時間意識は途切れる。また、「飛行機(をはじめとした、出発地と目的地との間の連続性が体感しにくい移動手段全般)」によって、人間の連続した空間意識は途切れる。

*27:残る立場「迫真性=応答完備性」という見方は、いまや「迫真性=実在感」と「迫真性=『完全性』」との間の可能な中間項のひとつとしてとらえられるのではないだろうか。

*28:私は大学で論理学を学ばなかったことを自身のコンプレックスとして感じていて、ゆえにこの章をこれから書くのは非常に気が重い。要は自信がないのだ、数理論理学の用語を、あろうことか人文っぽい領域で使おうとするための詳説を行うには。だが、この詳説は私の議論の展開に必要で、かつ私に理解可能なかたちでこれを整理してくれた記事はほかに見当たらないので、私はしょうがなくこれを自分で書くことにする。

私はいま『数学ガール:ゲーデルの不完全性定理』を死んだ目でめくりながらこの章を書いている。億劫だから愚痴の一つも吐いてしまうが、かといってそれによる免罪を願うところではない。情報の正しさのために、もし私の文章に間違いがあれば容赦なくこれを指摘してくれることを願う。

*29:正確には、数理論理学における構文論的完全性は、形式論理のみに当てはまる概念であって、形式論理以外の○○に対して軽々しく「○○の完全性」と述べてしまうのはあまりよくない(私の管見では数理論理学以外でLW氏の言うような『完全性』を用いている学問分野を発見できなかったが、どこかの分野にはもっと拡張された『完全性』概念があるのかもしれない)。数理論理学の用語としてみればこの用法は不当なわけだが、この記事ではなんらかの定義の拡張を経て別分野に応用している概念だという理解でこの先を読み進めてほしい。

○○に「世界」や「キャラクター」を当てはめるための「なんらかの定義の拡張」が実際のところどんな拡張でありうるのかについては、現時点での私に断言できる回答があるわけではないが、4章1節で再度検討する。

*30:数理論理学において、日本語で『完全性』という語に複数の意味が充てられていてややこしいために、構文論的完全性を『完全性』でなく『決定可能性』と訳そうという向きもあるらしい。ただ、困ったことに『決定可能性』という言葉にもすでに先約がいて、別の概念と位置がかぶってしまうのだそうだ。

*31:ちなみに、ゲーデルの第一不完全性定理は形式論理の構文論的完全性についての、ゲーデルの第二不完全性定理は無矛盾性についての議論である。

*32:ちなみに、ゲーデルの完全性定理は弱い意味論的完全性についての議論である。

*33:数理論理学における構文論的完全性が、ある形式論理のなかの「証明できる / 証明できない」に注目していたのに対し、意味論的完全性ではある形式論理のなかの「証明できる / 証明できない」が「正しい / 正しくない」とどのような関係を持つのかが注目されている。勘のいい方ならお分かりの通り、数理論理学において、「証明できる」ということと「正しい」ということは別の概念なのである。

余談だが、私は本当はこのデリケートな区別をも我々のフィクション理解のなかに取り込みたかった。しかし、その議論の繊細さによって、今回はこの区別の導入を見送ることにする。

*34:ほんとうは一階堂洋さんという名前がある、という説もあります。

*35:この節を書くうえでほぼ全面的に参考にしてしまったWikipedia『データ完全性』の記事だが、ひょっとすると、2種類の意味の『データ完全性』を区別して解説しているようなきらいもある。もしそうなら、私が今そうしているように2種類の『データ完全性』をごっちゃにして解説するのは不法なわけだが、実際2種が区別されているのか否か私には確信が持てないので識者による修正を待ちたい。

*36:そもそも、Vtuberに関する議論からアクターを排除することなどできるのか、という問題はあるだろうが、これについては「可能だ」と断言まではできないもののすでにいくつか手法は開発されている。「Vtuberが属しているなんらかの異世界は我々の世界とは因果関係を持たない」という文をVtuberが所属する異世界の定義に繰り込んでしまうか、あるいはこみいったメタ因果を措定してみるというのがいい。具体的には、アクターの言動とアバターの言動との部分的一致はこれを単なる偶然として冷たく切り捨てる、などの方法になる。LW氏いわく、『アクターに関しては僕なら「たまたま言動が似てる人がいるがそれは実は特に関係がない」説あたりを叩き台にして反論と再反論を積んでいきます』

*37:心の哲学における機能主義の立場をこれに比してもいいだろう。

*38:ここでは、「それができる状況でそれをやらなくても倫理的に非難されないが、それができる状況でそれをしたら倫理的に評価されるような事柄」くらいの意味。もっと詳細に議論を詰めるなら、ロスの倫理学あたりを参照するのがいいだろうか?

*39:みそ氏といえば、比較的新作に属するこんな記事もある。『狂うほどロリが好きな理由を教えてやる なぜセックスしないのかも なぜお前がこちら側に来うるかも』

この記事のなかでみそ氏は、ロリと非-ロリとの同伴関係によって実現する(実現しない)ある種の「完璧さ」について語っている。この「完璧さ」はつまり、少年期の理性には実現されると思っていた「完璧さ」であり、いかにもアンドロギュノス的な完全性パーフェクションそのものだ。いや、アリストファネスはすでにみそ氏によって死刑に処せられてしまったかもしれないが……。

私はここでみそ氏が言っているアンドロギュノス的完全性をも、『完全性』がとりうる定義の一候補としてこの章に並べようかと一時は思っていた。しかし、みそ氏のロリに関する議論はLW氏の議論に接続したことは(たぶん)ないので、自重して今回はやめておくことにした。はたしてこんな引用をしてみそ氏がどんな顔をするかもわからないし……。ちなみに私はそれを飲むと舌がかゆくなるので豆乳は飲みません。

*40:むろん、世界を真なる集合の命題として定義することは、(フレームのはっきりしていない当記事においては特に)疑問含みの前提ではある。私はこの定義に対して提起しうる疑問には3段階あると理解している。

第一には、世界を世界の集合として考えることは我々にとって妥当か、という疑問だ(虚構世界は世界の一種であるが、この「世界」がLW氏の議論のなかでは(最終的には)世界の集合として考えられているため、LW氏は世界の集合を世界だとみなしているといえる)。ただ、世界の集合をも世界として考えるという条件は、おそらくLW氏が『あるフィクションが提示する世界は読者の数だけ無数に存在し、天文学的に小さい確率でしか読者間で同じ世界を指示するという状況が起こらない』という状況を回避するためにのみ設置したオプションであり、当記事の議論ではさほど重要でないので、この考えの妥当性についての検討は今回は割愛する。

第二には、世界を命題の集合として考えることは我々にとって妥当か、という疑問だ。しかし、(その重要さにもかかわらず)この問題について私が現状答えられることは特にないので、次註としてその内容にふれるにとどめる。

第三には、世界を真なる命題の集合(真ではなく偽である命題や真ではなく偽でもない命題は含まない集合)として考えることは我々にとって妥当か、ということだ。というのは、実はここでもまた二つの選択肢があり、またどちらの選択肢を選んだとしてもそれなりに理解が難しい状況に直面することになるからだ。

選択肢は、世界の無矛盾性を自明な前提とできるかどうか(さきの『完全性』についての議論で言うなら「LW氏の言わんとする『完全性』は無矛盾性を含んでいるか否か」)だ。もし、我々が一方の選択肢[世界の無矛盾性を自明な前提とはしない]を選択するなら、我々の言わんとする「世界」は真であり偽でもある命題をそのうちに含みうることになる。そのとき我々には、真でもあり偽でもある命題を含んだ集合にも適用可能な理論を追求する必要が出てくるだろう。もし、我々が他方の選択肢[世界の無矛盾性を自明な前提とする]を選択するなら、我々の言わんとする「世界」は偽であるようないかなる命題をも含まないことになるだろう。そのとき我々は、真でもあり偽でもあるとしか読めない命題をすべて捨て去った小さな理論がいったいどこまで適用可能かを論じなければならないだろう。

はたして、この第三の問題も筆者の能力と当記事の射程を超えているので、今回はこの問題への立場をあいまいにしたまま議論を進めてしまう。

*41:数理論理学において「証明できる」ということと「正しい」ということとが区別される、という事態は、難しいながらもまだ理解しやすいうちだ(私にはこの理解はかつて難しかったし、他者への説明に至ってはいまでもできない)。もっと難しいのは、「真なる命題の集合としての世界」と「実存の集合という実存としての世界」との区別である。しかし、私は上で『完全性』(の一解釈)のことを数理論理学における構文論的完全性に相当すると位置づけた以上、対比関係を守るために、「真なる命題の集合としての世界」と「実存の集合という実存としての世界」との区別をしなければならないだろう。

*42:本当に強い意味論的完全性を自明に持つかどうかは、形式論理と世界との間のアナロジーにおいて「ある命題が証明可能である」という性質が一体なにに対応づけられるのかによって左右されるだろう。

*43:この但し書きは、「世界ははたして構文論的完全性を持っているだろうか」という立問をナンセンスにならずに実行するために必要である。

*44:ここで、『キャラクターたちの応答完備性を確かめることによってのみ~出会うであろう』でもなく『キャラクターたちの応答完備性を盲信することによってのみ~出会うであろう』でもないことには注意せよ。それは、もしキャラクターたちが実在することがまったくもって疑いようのない公理のなかの公理ならば、我々はそのテーゼを疑うことが叶わないはずであるし、またもし我々が目を曇らせているときのみキャラクターたちが実在するならば、我々は実在を見つめられないはずであるのだから(注意せよとは言っておいて、私にはこの『奉ずる』が具体的にはいったい何を指すのか、よくわかってはいない)。

*45:キズナアイは論理的に完全』を参照。

*46:この手法は極端になれば、やがて「=応答完備性」であるような立場とも区別がつかなくなるであろう。

最強議論の下準備

 

 

 序:野暮で無益で無際限と知りながら

この空の下で最強なのは
That's my pride 自分のみ
――LORD OF THE SPEED 作詞:藤林聖子

Everybody 絶対的存在
全員、何かの天才
――P.A.R.T.Y.~ユニバース・フェスティバル~ 作詞:shungo.

「最強議論」って楽しいよね。君がもし「最強議論なんて全然楽しくない」とか思ってるなら、それは単に強がっているか、人生の10割を損しているかのどちらかだ。
言うまでもない、最強議論っていうのはいつだって多少野暮なものだ。この世にはたくさんのヒーローがいて、それぞれのヒーローはそれぞれ違った背景を持っている。だからヒーローの強さの内容もヒーローの数だけ存在して、そういう意味ではヒーローの強さは比較不可能だ。だから、全てのヒーローがみんな最強だ、という立場は「粋」で、ヒーローの強さを比較しようなんていう立場は「野暮」だ。
しかしながら、他の個性と戦うこともまたヒーローの本質だ。戦うことを本質としているということは、ヒーローの強さは根本的には何かと比較可能であるということだ。本質的に比較可能なものとしてヒーローの強さがあるなら、ヒーローの強さを比較したくなる気持ちにだって、何の間違いもない。
言うまでもない、最強議論っていうのはいつだって無益なものだ。(少なくとも私は)どのヒーローが最強か考えていてお金をもらったり人生の難題を解決したことなんて一度もない。そして最強議論というものは、していても得をしないばかりか、損をする可能性すらある。実際、最強議論なんてはじめたばっかりに、喧嘩なんてする必要がなかったはずの2人のオタクが絶交までしなければいけなくなる、なんてことはネットのあちこちでみられる。
しかしながら、「そんなことしたって無益だよね」というツッコミは、「そんなことする」ことに対するラディカルな批判には全くなりえない。というかツッコミですらない。有益か無益かなんてことは、それ自体、「そんなこと」をしたいか否かとか「そんなこと」を実際してるか否かとかにたいして関係がない。私たちが何かをしたくなる理由は、「それをすると有益だから」以外にいくらでもあるし、べつにはっきりと理由が先立っている必要もない。
言うまでもない、最強議論っていうものに終わりはない。全てのヒーローに対して詳細かつ広範な検討を極めたところで、「誰が最強のヒーローなのか」という問いに誰もが認める究極の解答が得られることなんてあるはずがない。万一あったとしても、その解答は新しいヒーローの登場によってすぐに再考を迫られるだろう。
しかしながら、「そんなことしたって結論は出ないよね」というツッコミもまた、ラディカルな批判にはなっていない。問いというのは、答えが出るから気になるとか答えが出ないから気になるとかそういうものではない(好みの違いはあるけど)。気になるから問う、それだけのことだ。それともあれか、君は、生きるという行為に最終回答はないからすぐさま生きるのをやめるというようなくちか?
というわけで、私は最強議論を楽しむ。何かこれじゃなきゃいけない理由があるからでもなく、何かの結果を得ることを見込んでいるわけでもなく、ただ単に、最強議論を楽しむ。最近の私のもっぱらの標的は平成仮面ライダーだ。平成仮面ライダーの最強議論は、これはもう間違いなく『仮面ライダージオウ』という作品の登場によって、ある意味非常に盛り上がった(同時にある意味沈静化した)。こんなに盛り上がったフィールドで最強議論を楽しまない手はない。
果たして、平成仮面ライダーの最強議論には独特の難しさがある。平成仮面ライダー最強議論の対象になるヒーローなりヴィランなりは、複数の世界観にまたがっていて、それぞれ別の法則に従っている。また、それら法則のなかにはメタ的な方向性を持った法則もたくさんある。人間が物事を比較するためには(ふつう)共通の基準というものが必要だが、平成仮面ライダーにあってはその共通する基準というものが非常に少ない。この複雑怪奇なマルチバースマルチバースでない可能性をも含んでいるという点において複雑怪奇なマルチバース)において最強のヒーローを捜し出すことは、一つの統一した世界観に基づくような作品群のなかで捜し出すより、はるかに難しい。
よって、ここから私は「平成仮面ライダー最強議論」を行ううえでのレギュレーション作りの準備を行うためのそのまた準備を行おうと思う。ほとんど自分のためのメモ書きのようなもので、「要するに誰が最強か」知りたいあなたにとってこのメモ書きはほとんど何の意味もない。そういえばさっき、最強議論に親しまない人は人生の10割損してるとか言ったけれど、あれは嘘だ。最強議論をしなくても人生は甘美だ。あたりまえだ。
だからここまで読んでしまった人の大半にとって、ここまで読んだ時間は無駄だったということになる。参ったな。だが私は謝らない。

終わりのない戦いを 決して恐れはしない
必ず立ち上がれるのさ 逆境でも
――果てなき希望 作詞:青山紳一郎

※文章のそこここで歌詞をエピグラム的に引用しているのは、洒落みたいなものです。あまり真に受けないでください。

 

 

1:作品-世界観-設定

存在しない存在を
証明し続けるためには
ゼロというレール駆け抜け
止まることなど許されない
――Action-ZERO 作詞:藤林聖子

心、リラックスして未来をイメージ
行方、自由自在
――P.A.R.T.Y.~ユニバース・フェスティバル~ 作詞:shungo.

争い抜きに(準備の準備というような)大事を為さんと欲するなら、まずは用語の定義から始める、というのは悪い手ではなさそうに思える。今日、私は、区別しておかなければいけない3つの概念を截然と区別するところから始めてみよう(用語の定義から始めるという方法は、物事を論じる方法の一つにしかすぎないことはここで明記しておこう。多くの場面で非常に有効な方法ではあるが)。
「作品」と「世界観」と「設定」、これらは別のものである。このことは一見当たり前にも思えるが、確認する価値のある大事な事項だ。
「作品」とは……どう定義したらいいんだろう? テクスト論に足を踏み入れるまでもなく、その定義はすこぶる難しい。ここでは、「作品とは、ある特定のタイトルのもとに紐づけられる情報とその他もろもろの集合である」くらいに定義してお茶を濁しておこうか。これはまず間違いなく、情報は作品を形作っている。「五代雄介はクウガに変身する」とか「クウガグロンギを封印できる」といった情報は、明らかに『仮面ライダークウガ』という作品を構成している。また、作品は情報だけから形作られているわけではない。「テレビ朝日系列で日曜朝8:00~8:30に放送していた」という形態とか、「仮面ライダーシリーズの復活を期して制作された」という経緯とか、「オダギリジョーが五代雄介を演じている」という事実もまた、『仮面ライダークウガ』を構成している。
「世界観」とは、作品の物語内で起こる事象について記述した情報の集合で、物語内で起こる事象が従うべきひとまとまりのルールとみなせるものである、と定義しよう。世界観を構成する情報のうちいくつかは「設定」である。例えば、「カードデッキを破壊されると仮面ライダーの体は消滅する」という設定は、『仮面ライダー龍騎』という作品内で起こる事象が従う世界観の一部をなしている。また、世界観を構成する情報の全てが設定ではない。例えば、「人間はみな仮面ライダーとしてバトルロワイヤルに参加しうる可能性と資質を持っている」という情報は、曖昧ではあるが確かに『仮面ライダー龍騎』の事象が従うべきルールの一つである。しかし、「人間はみな仮面ライダーである」は世界観を構成してはいても、設定ではない。
「設定」とは、物語内で起こる事象について記述した情報のうち、世界観の内部でその真偽を区別できる情報である、と定義しよう。例えば、一方、「クウガとダグバはクワガタムシに似た姿を持っている」は物語内で起こる事象について記述した情報であり、なおかつ『仮面ライダークウガ』の世界観の“中”にいる人がその真偽を確かめることができる。他方、「石森プロはクウガとダグバをクワガタムシをモチーフとしてデザインした」という情報もまた、物語内で起こる事象について記述した情報だが、『仮面ライダークウガ』の世界観の“中”でその真偽を区別できない。だから、前者は設定と言えて後者は設定とは言えない。

からっぽの星 時代をゼロから始めよう
――仮面ライダークウガ! 作詞:藤林聖子

 

 

2:公式設定-公認設定-非公認設定

また信じること疑うこと
Dilemmaはキリがない…さまよい続ける
――Justiφ's 作詞:藤林聖子

誰もみんな信じている
「真実」それだけが
正しいとは限らないのさ
――Action-ZERO 作詞:藤林聖子

公式設定-公認設定-非公認設定

ひとつの作品に対し、設定と言える情報は無数に存在する。無数の設定は、しばしば「公式設定か否か」「公認設定か否か」というように区別される。この文章では、「公式設定」「公認設定」を以下のように定義する(あくまで『最強議論の下準備』というこの文章の中だけで行う定義だ、念のため)。
「公式設定」とは、設定のなかでも、世界観の内部で常に真実だと制作者がみなしている設定のことである
「公認設定」とは、その設定が真実だとみなす立場があることを、制作者が能動的に認知している設定のことである
公式設定⊂公認設定⊂設定 である。
公認設定でない設定のことを、非公認設定と呼ぶ
例えば、『仮面ライダーシリーズ』という作品に対して、本編であるところの映像作品『仮面ライダー』の物語中で起こった出来事を真実とするのは公式設定であり、外伝であるところの小説『S.I.C. HERO SAGA』の物語中で起こった出来事を真実とするのは公式設定ではないが、公認設定である。例えば、(これは非常にややこしいことに)『スーパー戦隊シリーズ』に対して、『秘密戦隊ゴレンジャー』の存在は公式設定であり、『非公認戦隊アキバレンジャー』の存在は公式設定ではないが公認設定ではある。
そして、これは非常にあたりまえのことで、しかしこの項で最も重要なことでもあるのだが、ある設定が公式設定か公認設定か非公認設定かを明確に決めることはできない。公式設定と公認設定を分ける基準がはっきりしていることは、ある設定をどちらかに分類するうえで異論がないことを必ずしも意味しない。ある設定が公式設定か公認設定か非公認設定かは、人によっても変わるし、時代によっても変わる。また、特定の人と時代にとって設定が公式であるかどうか、公認であるかどうかもまたはっきりと区別される状態ではなく、「公式度が高い/低い」「公認度が高い/低い」のようなグラデーションを持った値として表現される。
ある設定の「公式度」「公認度」は何によって決まるのだろうか。「公式度」「公認度」に大きく影響する要素は2つある。情報が発信された媒体と、情報を発信した人物である。媒体の影響とはつまり、ある設定の「公式度」は「本編映像中で発信された」か「講談社のムック本で発信された」か「Twitter上で発信された」かなどなどによってある程度は量られる、ということだ。人物の影響とはつまり、ある設定の「公式度」は「脚本家が発信した」か「プロデューサーが発信した」か「映像制作に直接かかわっていない東映社員が発信した」かなどなどによってある程度は量られる、ということだ。そしてもちろん、「本編よりもムック本の公式度が高い」とみなす流派もいれば「ムック本よりも本編の公式度が高い」とみなす流派もいる。「脚本家よりもプロデューサーの公式度が高い」とみなす流派もいれば「プロデューサーよりも脚本家の公式度が高い」とみなす流派もいる。「すべて公式度というものはオレ的整合性によって評価されるのであって、媒体も人物も全く関係ない」というタカ派だっているだろう。流派はあくまで流派でしかないが、自分の属する流派だけが真実だと勝手に思い込んで、前提抜きに議論を始めると、その議論は紛糾する(全く余談だが、ごく個人的にはこういう紛糾は大好きだ)。もし最強議論のレギュレーションを行うなら、共通見解を得るべき事項の一つは、「公式度」「公認度」を量る要素として何を重視するかだろう。そして、(まあ十中八九そうなのだが)ある議論の場において採用された共通見解が気にいらなくても、それに文句を言うのは筋違いだ。その共通見解はべつにあなたの流派の見解を否定しているわけではなく、「最強議論」という作業のために仮に共通見解を採用しているだけなのだから。


(想像を交えて)歴史の話を少しだけ

若い人にはとくに想像しづらいことなのだが(かくいう私もまあまあ若い)、媒体が「公式度」「公認度」に与える影響の多寡というものは、時代によってかなり変化してきた。
その昔、公認設定と非公認設定の境目は非常にあいまいだった。それは、各種媒体で語られる設定のすべてに制作者が目を通してはいなかったからでもあり、「本編」の持つ特権性が現在ほど高くなかったからでもある。
例えば、『第2期ウルトラシリーズ』にとって、児童誌上で語られた数々の設定は、少なくとも当時、公式とも非公式ともつかなかった。児童市場の設定は、児童誌の編集を主導した人物が映像作品本編の製作にも深くかかわってきた人物であるため一概に好き勝手な産物とは言えず、かといって本編の設定とは整合性が取れない設定が数多くあるため全てを公式とは認めがたく、はたまた本編が児童誌に影響を受けて設定を変化させることもあるため、児童誌はある意味で「外伝ではなく本編」ですらあったのだ。結果として、ウルトラシリーズで70年代に生まれた設定には、現在では / 現在でもどこにも位置づけできないものが非常に多くなった。例えば、「セブンとタロウはいとこ関係」という設定が公式に今でも存在するのかは誰も知らないし、『ウルトラマンメビウス』に登場したツインテールもエビの味がするのかはわかりようがない。「デットンはテレスドンの弟」という設定に至っては文の意味すら分からない。それは何、「母親が同じ個体」ってことなの? それとも「近縁種」ってこと?
やがて、制作者によるムック本の統制が進み、並行して(オタクにとっての)本編の特権性が上昇していくと、公式設定とそうでない設定の境界ははっきりしたものだとみなされるようになる。息の長いコンテンツになると、それまで矛盾していた設定が制作者によってはっきりと取捨選択される「設定の整理」も行われるようになる。設定が整理されると、それまで別の世界観に基づいていたヒーローたちの共演も行いやすくなる。そのため、「設定の整理」は多数のヒーローのクロスオーバーに際して行われることが多く、今でもそうだ。
「設定の整理」に便利な解釈として、マルチバースというメタ世界構造が発見され、普及していった(今に至るマルチバース普及の起源はアメコミヒーローかトランスフォーマーあたりにあるのではないかと思っているのだが、私は確かめるすべを持っていない)。マルチバースの普及は必然的にメタ的な設定と能力を持ったヒーローの出現を導く。ディケイドはこうしたヒーローの代表と言っていいだろう。
時代が流れて現在に至ると、公式設定と非公式設定の差はまたあいまいになってきた。この変化は、作品にかかわる情報が発信される媒体が非常に多様化し、また書き直し可能になったことによる。
書籍に記載された設定は容易には変更しづらい。しかし、ネット上で記載された設定は比較的容易に変更されうる。例えば、私の記憶では、2009年初め『仮面ライダーディケイド』放送以前、『ディケイド』の公式サイトに記載された情報では「キバーラはキバットの妹」だった。その記載は『ディケイド』の放送すら始まらないうちにあっさりと「キバーラはキバット族」という消極的な記述にまで変更されていた(何事もなかったかのように設定をあっさりと変えることが当時は衝撃的だった)。発信源がネットの場合、その設定は容易に変わりうる。ちなみに現在、webサイト『仮面ライダー図鑑』によれば「キバーラはキバットの妹(ただしどこの世界のキバットかは不明)」となっている。
とくに揺れやすいのはTwitter上で語られる設定だ。こと仮面ライダーに関して言えば、「プロデューサーがTwitterで語った内容」「脚本家がTwitterで語った内容」「演者がTwitterで語った内容」などと公式度評価に悩むような情報が氾濫している。あらゆる制作者が個人的に情報を発信できる媒体を持っていると、「制作者としての発信」と「制作者でない人の発信」は明確に区別できなくなり、何が公式かの境界ははっきりしなくなっていく。こうした状況はほかのジャンルでも変わらないらしい。例えばディズニー映画ファンのなかには、『アナと雪の女王』の監督のTwitter上での「アナとエルサは『ターザン』のターザンと兄弟姉妹関係にあると考えて制作している」という発言をどう受け止めるか悩んでいる人がいるらしい。お互い大変ですね。
念のため言っておくと、公式設定と公認設定と非公認設定の差があいまいになっているという現在の状況について、私は悪いことだとは全く思っていない。むしろ楽しいよね。楽しくない?

正解は1つじゃない 闇夜に耳澄ませ
――Over "Quartzer" 作詞:Shuta Sueyoshi・溝口貴紀

 

 

3:作品と世界観の参照性

見上げる星
それぞれの歴史が 輝いて
星座のよう 線で結ぶ瞬間
始まるLegend
――Journey through the Decade 作詞:藤林聖子

目の前を行き交う vector space
何処で始まり 何処で終わる?
――time 作詞:松岡充

 相互参照性について

ここまで、「作品」「世界観」という用語のそれぞれについて、この文章独自の定義を行ってきた。ここで、用語を使いやすくするためにもう一つ定義を行おう。ある一つの作品は、必ず一つの世界観を参照するある一つの作品が直接に参照する世界観は必ず一つである(推論の結果として「作品」「世界観」とはそういうものだと判明した、ということではなく、「作品」「世界観」をそういうものとして定義する、という意味)。ここでいう「世界観」とは、複数の世界が大きな世界に含まれる、という構造の世界観をも含むことに注意してほしい。
作品と世界観は別のものであり、作品は必ず一つの世界観を参照する、と考えた場合、作品と世界観の参照性のあり方について、いくつかの考え方がありうる。
一つの考え方は、作品と世界観の参照関係は必然的に相互参照であるという考え方だ。それはつまり、『仮面ライダークウガ』という作品が『仮面ライダークウガ』の世界観を参照するとき、『仮面ライダークウガ』の世界観も『仮面ライダークウガ』という作品を必ず参照する、ということを意味している。この考え方によって、複数の作品が同じ世界観を共有することにひとつの理解ができる。例えば、『仮面ライダーアギト』本編は『仮面ライダーアギト』の世界観を参照する。『仮面ライダーアギト PROJECT G4』もまた、『仮面ライダーアギト』の世界観を参照する。つまり『仮面ライダーアギト』の世界観は『仮面ライダーアギト』と『仮面ライダーアギト PROJECT G4』の2つの作品をいずれも参照しており、2つの作品が参照している世界観は同じである。
作品と世界観は相互参照するという考え方は素朴であり、自明と考えられることも多いが、実は考え方の一つに過ぎない。オルタナティブな考え方があることには、例えば白倉Pの発言から気づくことができる(と、ここで引用しようとしてどこかで見た白倉Pのツイートを引用しようと思ったのだけれど、ツイートが多すぎて発見できない……! こういう風に旺盛に発言してくれる制作者さん好きです。これからもよろしくお願いします)。
つまり、もう一つの考え方は、作品は特定の世界観を参照するが、世界観からは作品を参照することはない、という考え方である。例えば、『仮面ライダージオウ』には『仮面ライダーディケイド』に登場した門矢士本人が登場する。このとき、『仮面ライダージオウ』という作品は『仮面ライダージオウ』の世界観を参照し、『仮面ライダージオウ』の世界観は『仮面ライダーディケイド』の世界観を参照するといえる。このとき、『仮面ライダージオウ』の世界観からは『仮面ライダーディケイド』の世界観の存在は認めるところだが、『仮面ライダーディケイド』の世界観からは『仮面ライダージオウ』の世界観は全くあずかり知らぬところである。『ジオウ』からすれば『ディケイド』で起こった事象は真実だが、『ディケイド』からすれば『ジオウ』で起こった事象は、「起こったかもしれないし、起こらなかったかもしれない」くらいの出来事だ。世界観の参照は相互的でなく、一方通行なのである。
参照性に関してのこの2つの異なる立場について、これをレギュレーションの設定に役立てるために、名前を付けよう。ここから、「作品と世界観の参照は相互参照である」という考え方はこれをニュートン・レギュレーションと呼ぶ。「世界観の参照は一方通行である」という考え方はこれをアインシュタイン・レギュレーションと呼ぶ(こういった名前にしたのは単に粗雑なアレゴリーにすぎない。だから論理的な正確性については保証しない、念のため)。

f:id:keylla:20210307212355p:plain

ニュートン・レギュレーションに基づく解釈の例①

f:id:keylla:20210307212529p:plain

ニュートン・レギュレーションに基づく解釈の例②

f:id:keylla:20210307212603p:plain

アインシュタイン・レギュレーションに基づく解釈の例

また、ニュートン・レギュレーションとアインシュタイン・レギュレーションの内部にはそれぞれ細かい立場の違いがあるだろう。それは、参照可能な領域を全て参照する積極的な立場か、参照しなければ説明がつかない限りにおいてのみ参照する消極的な立場かの違いだ。
この立場の違いは例えば、『仮面ライダーゴースト』の世界の最強キャラは誰か、という議論を行うことを例にすれば理解しやすい。『仮面ライダーゴースト』という作品にはジュウオウイーグルが登場する。これを、『仮面ライダーゴースト』の世界観が『動物戦隊ジュウオウジャー』の世界観を参照していると理解したとき、もし積極的ニュートン・レギュレーションに基づくなら、「ゴーストの世界にはジュウオウイーグルが存在し、ジュウオウキングが存在し、ジニスも存在している」ことになる。一方、もし消極的ニュートンレギュレーションに基づくなら、「ゴーストの世界に現れたジュウオウイーグルを説明するうえで、ゴーストの世界にジュウオウイーグルが存在するとは言わなければいけないが、ジュウオウキングやジニスが存在するかどうかについては問わない」ということになる。もちろん、ここで「積極的/消極的」と言っていることは相対的な違いであって、絶対的な違いではない(ジュウオウイーグルの存在を説明するうえで必要最低限の設定を考えたとき、「ジューマンが存在する」という設定がそこに入るか否かは人によって判断が分かれるところだろう)。

f:id:keylla:20210307212755j:plain

ジュウオウイーグル

f:id:keylla:20210307212822p:plain

ジュウオウキング

f:id:keylla:20210307212856j:plain

ジニス

このように、積極的/消極的ニュートン・レギュレーションと積極的/消極的アインシュタイン・レギュレーションの4つの立場を明確にすると、もう1つだけ、はっきりとさせておく立場があることに気づくだろう。
その立場とは、およそ全ての作品が参照している世界観は作品ごとにばらばらであり、作品が違えば世界観は全てパラレルである、という立場だ。言い換えれば、この立場は世界観の共有を全く許容しない。人によっては「ロマンが足りない」と評するかもしれないが、非常にすっきりして利用しやすい考え方でもある。この考え方は、デカルト・レギュレーションとでも名付けておこう。


複次参照性について

ここまで当然のことのように書いてきてしまったが、この文章で期しているところに従えば、ある作品が参照する世界観がまた別の世界観を参照することがある。それは、多くの場合、ある世界観にとって、別の世界観が同じ世界であるという前提を持って言及することを意味する(ほかに複次参照と思われる例(作中作やIFの世界など)はこの文章では扱わない)。作品からすれば間接的に複数の世界観を段階を作りながら参照していることになる。ここから、この「複次参照性」について考えていく。
最強議論を行う上で、先に同意が必要であろうと思われることは、この複次参照を何段階まで許容するかということだ。
これについては、例を挙げて説明していく方がよいだろう。例えば、『仮面ライダーオーズ/OOO』の世界の中で最強が誰かを議論する機会があったとしよう。このとき、いったい『オーズ/OOO』の世界とは、どの作品のどこまで同一な世界として広がっているのだろう。

f:id:keylla:20210307213218p:plain

これは、『オーズ/OOO』の世界観として考えられる領域を図示したものだ。ニュートン・レギュレーションとアインシュタイン・レギュレーションは部分的にまじりあっており、細かいチェーンはかなり捨象してあるので、この世界観解釈はあくまで粗雑な解釈の一つでしかないのだが、それでも『オーズ/OOO』の世界でありうる領域の何パターンかを明らかにしていると思う。ここで、それぞれの世界観は『オーズ/OOO』の世界観を始点にして段階を区別することができる。この場合、いったい何次の参照までが『オーズ/OOO』の世界と同一だとみなせるのだろう。
もちろんはっきりとした回答などない。1次参照までしか認められない、という人もいれば、何次参照だろうと同一世界だ、という考え方をする人もいるだろう。各世界観に関連した作品の制作会社や原作者を基準に腑分けをはかる人もいるかもしれない。ここでも、個人的にどの流儀にのっとるかは自由で構わない。ただ、議論のためにのみ、さしあたりの同意をとればよい。

たとえ遠く 離れていても
出会うはずさ 重ねたその痛み
刻んだ誓いと
流星追う軌跡と
果てなき旅路で
――Over "Quartzer" 作詞:Shuta Sueyoshi・溝口貴紀

 

 

4:メタ時間-メタ空間-メタ因果律

24時間という一日 過ごしていても
誰でも気付かない
一秒があるだろう
――LORD OF THE SPEED 作詞:藤林聖子

どんなミラクルも起き放題
――P.A.R.T.Y.~ユニバース・フェスティバル~ 作詞:shungo.

メタ時間

私たちが暮らす日常に起こる出来事の全ては時間の中で起こる。時間の中で起こる2つの出来事は、必ず、前後関係にあるか同時という関係にある(相対論によれば、例えば何百万光年とかいったとても遠いところで起こる出来事同士は、前後とか同時とか言った関係を自明には持たないらしい。このことについて私たちは、宇宙で起こる出来事は日常とはルールが違うんだなあ、ともいえるし、あるルールが適用できる範囲を私たちは日常と呼んでいるんだなあ、ともいえる)。
平成仮面ライダーの世界では、歴史改変という出来事がしばしば起こる。歴史改変という出来事を出来事としてとらえるには、歴史改変を前後関係や同時関係におくための何らかの尺度が必要である。言い換えると、「改変される前の歴史」が前であり、「改変された後の歴史」が後であるための領域が必要である。
その領域は私たちが生きる時間の中にはない。私たちが生きる時間のなかからすれば、「改変される前の歴史」と「改変された後の歴史」どちらが時間的に前でどちらが時間的に後なんだろう、などと考えるのはナンセンスだ。その問いは、どちらが正しいとか間違っているとかいう問題ではなくて、ただただ意味を持たない。
歴史改変の前後関係は、私たちが生きる時間にとっては意味を持たないことでも、いくつかの物語にとっては必要不可欠なものだ。歴史改変が出来事となる必要があるいくつかの世界観では、時間を超えたメタ時間が存在する。歴史改変といった超時間的出来事は、メタ時間のなかにおいて前後関係や同時性を与えられるというわけだ。
となれば容易に想像されるように、時間軸を超えたメタ時間軸をも超えた超メタ時間的な出来事が起こる領域が必要になる場合も考えられる。例えば、『仮面ライダージオウ』最終回では、「歴史改変が行われたメタ歴史」から「歴史改変が行われなかったメタ歴史」への改変が行われた。この改変が行われる領域を、通常の歴史改変が行われる領域とはっきり区別したいのならば、私たちはその領域を2次メタ時間と名づけることが許されるだろう。もちろん、3次、4次と、メタに次ぐメタはいくらでも想定しうる。
例えばこんな考え方ができるだろう。『仮面ライダーカブト』の設定では、クロックアップとは別の時間軸に侵入することだとされている。私たちは、「別の時間軸」とは私たちの生きる時間からみて一種のメタ時間であると考える(メタ時間は必ずしも歴史改変に絡んだものであると考える必要はない)。クロックアップの時間軸を1次メタ時間と数えれば、ハイパークロックアップは2次メタ時間、フリーズは3次以上のメタ時間内の行為だと考えられる。そう考えれば、1次メタ時間を自由に行き来するハイパークロックアップも、2次メタ時間を止めるフリーズには対抗できない、ということが理解できる。通常の時間感覚で生きる人類には、何次メタで行われるフリーズであろうと同じ時間停止にしか思えないのだが。
注意すべきは、メタ時間は、私たちが存在を(あるいは存在しないことを)立証できるようなものではなく、ただ、「歴史改変という出来事に前後関係を認めたいなら」そこに立ち現れるものの見方だということだ。実は、私たちが生きる時間そのものも、証明すべき「対象」ではなくあくまで「ものの見方」にすぎないということには変わりない(哲学的には、時間という「対象」の実在を肯定する立場、否定する立場、いくらでもあるだろうが、当然この文章がそこまで立ち入る必要はない。この文章は下準備さえできればいい)。


メタ空間

普通に考えるなら、空間というものは宇宙の中にしか広がっていない。だから、宇宙の中のあらゆるものに位置があったとしても、宇宙そのものには位置はない。
私たちが、世界の融合や破壊や、その他の奇械な出来事の数々を考えるうえで、空間そのものの位置だとか宇宙そのものの位置だとかを措定する必要があるならば、その位置関係はメタ空間に基づく。メタ空間の中において、それぞれの宇宙は一定の位置を占めている。
メタ時間と同じように、2次メタ空間、3次メタ空間とより高次の空間を考えてもいいだろう(1段階ずつ進むのが億劫なら、ヒルベルト空間とかそういう概念に手を出すのもまた楽しいかもしれない)。


メタ因果律

私たちの日常に起こる出来事は、必ず一定の論理に基づいている。論理学は正しい。原因より先に結果が来ること(因果逆転)はないし、結果がそれ自体の原因を生み出すこと(循環論法)はないし、一つの原因が両立不可能な二つの結果を導くこと(矛盾)だってない。身近な出来事はたいてい、いちおう、可能性としては、「なぜ他の結末でなくその結末に至ったか」を論理的に説明することができる。
論理の中でも、公理とでもいうべきものがある。公理には「なぜ他の結末でなくその結末に至るのか」は問うことができないか、あるいはナンセンスである。「なぜ因果逆転はありえないのか」や「なぜ循環論法には論証能力はないのか」や「なぜ矛盾は間違いなのか」について、論理の中で回答を行うことはできない(正確には何が公理とされて何が定理とされているのか、私は知らないが)。
私たちが暮らす世界で通用する公理が、なぜ他の論理でなくこの論理なのか……その理由が存在する領域について考えなければいけないとすれば、その領域は、私たちが知る因果律の外、メタ因果律とでも言うべき領域であるだろう。
私たちが、歴史改変や宇宙の融合や、その他超スケールの出来事の妥当性について考えるとき、その妥当性を評価すべき基準は、因果律ではなくメタ因果律である。なぜなら、私たちに認識できる限りの通常の因果律は通常の時空間と不可分に結びついているのだから。メタ因果律には因果逆転や循環論法や矛盾を禁じるルールは(少なくとも自明では)ない。だから歴史改変や宇宙の融合について論じるとき、数々のパラドックスを恐れる理由はない。やった、好き勝手なことが言えるぞ!
逆に言えば、メタ因果律が一体どういう前提でありどういうルールであるのかも、私たちは知らない。何がメタ因果的に可能な現象で、何が不可能な現象なのか、わかりようがない。結局のところ、私たちはメタ因果律に属する出来事の経過について、あまり話すことはない。
だから、メタ因果律を楽しみたいというなら、あまり正確さを追い求めすぎないことだ。なお、2次でも3次でもご自由に。

君が願うことなら
すべてが現実になるだろう
選ばれし者ならば
――NEXT LEVEL 作詞:藤林聖子

 

 

5:世界(観)をどうとらえるか

いったい自分以外
誰の強さ信じられる
――NEXT LEVEL 作詞:藤林聖子

我ら思う、故に我ら在り
――我ら思う、故に我ら在り 作詞:綾小路翔

 平成仮面ライダーの最強議論をするうえで難題でもあり醍醐味でもあるところは、異なる世界観に属する仮面ライダー同士が戦うことであろう。この文章の立場からすると、世界観とはルールである。異なるルールに従う2人の戦士が戦うという状況をどうとらえればいいのだろうか。異なるルールに従っているとき、どんな戦士が勝利を収めるのだろうか。
この文章では、エセ哲学・エセ記号論っぽく世界と仮面ライダーの関係を考えていく。私はカントのこともソシュールのこともよく知らないし、これから真面目に勉強するつもりもないが、カントやソシュールを連想させるようないくつかの概念を利用していく。それはただ、こういう考え方をすると理解しやすい部分も(しにくくなる部分も)ある、という点において利用しようと試みるに過ぎない。私には何の真摯さもありはしない。


複数の世界観の存在

世界観とは、特定の時間・空間・因果律によって現れるところのものだ。それは、私たちが知る限りの時間・空間・因果律に従う領域全体が、私たちに認識できる全体だ、ということだ。時間・空間・因果律とは、その実在を証明すべき「対象」ではなくて、考え方のようなものだ。だから時間・空間・因果律のありようが一通りであることは自明ではない。私たちが知っている時間・空間・因果律とは別の時間・空間・因果律があるとするなら、その時間・空間・因果律に従う範囲のことを私たちは認識できない。その範囲は、私たちがいる世界観とは別の世界観といえる。世界観が複数あるということはそういうことだ。
ありうる全ての世界観が存在する領域――そこは、可能な全ての事象が、何の時間も空間も因果律も持たずに延々と広がっている、混沌とした連続体であろう。逆に言えば、混沌とした連続体の中から、時間・空間・因果律によって切り出した一定の領域のことを私たちは世界観と呼ぶ。私はちょっとスカして、この最も広い領域のことを可能性の海とでも呼んでみる。
ところで、私はこの文章で、「世界観」という用語に「世界」よりも広範な意味を与えておいた。世界観とは、一つの世界から成り立つこともあるが、複数の世界から成り立つこともある。例えば『ディケイド』や『ジオウ』の世界観は、複数の世界を内包するという性質が顕著だ。複数の世界を内包する世界観は、特定のメタ時間・メタ空間・メタ因果律によって自身のまとまりを保つ。
私はここで、先に挙げた定義文をもう少し広げる必要があるだろう。すなわち、世界観とは、特定の(メタ)時間・(メタ)空間・(メタ)因果律によって現れるところのものだ


複数の世界観の折衝

世界観とは、可能性の海をいくつかの領域に切り分けたものではない。可能性の海の切り分け方こそが世界である。
もしそう考えるなら、容易に想像がつくのは、可能性の海のなかにある一つの事象(本当は事象と呼ぶことさえ適切ではない。「可能性の一点」とでも呼ぶべきか?)を含む世界観が複数あるという状況がありうるということだ。「物事にはいろいろな見方がある」というのとたいして変わらない意味で、「ある瞬間のある地点にはいろいろな世界観が同時に存在している」。
一つの事象に対して複数の世界観が現れる、ということは、ストーリー的にはどのような状況のことを言うのだろう。時間的に言うなら、タイムトラベルの方式が複数ある、という状況はそういった状況の一つだろう。
タイムトラベルという行為は、おそらく、「どのようなメタ時間を想定するか」という考え方と密接に結びついている。だから、タイムトラベルが一定の方式をとっているということは、そこに小規模だが自律した一つの世界観があるということにほかならない。もし、ある物語の中で複数のタイムトラベルの方式が出てくるとしたら、タイムトラベルの方式によって「時間」というもののとらえ方が違い、なおかつ複数のタイムトラベルが同じ効果を生む、という状況が考えられる。例えば、『平成ジェネレーションズFOREVER』がそうだ。この物語では、『仮面ライダージオウ』のタイムマジーンと『仮面ライダー電王』の時の列車が時間移動中に遭遇するというシーンがある。そのとき、ジオウからすれば「タイムマジーンが通っているトンネル状の超空間にデンライナーも現れる」という描写にはなっていたが、これは文字通りの意味で「見方の問題」であって、電王からすれば全く同じシーンが「時の砂漠の中をタイムマジーンとデンライナーが走っている」光景に見えていたのかもしれない。かもしれないよね。
一つの事象に対して複数の世界線が現れる、ということは、空間的に言うなら、見る人によって世界の総数が変わる、という状況がその一つなのかもしれない。
世界は全部で何個あるのか、という問題は、「どのようなメタ空間を想定するか」という考え方と密接に関係している。だから、世界の総数は見方による。例えば、『スーパーヒーロー大戦』では『ディケイド』の門矢士と『海賊戦隊ゴーカイジャー』のキャプテン・マーベラスが邂逅した。『ディケイド』という作品では、世界は全部で9つあるとされている(これは作中で増減していくのだが、話を単純にするためにここでは9つと言ってしまおう)。『海賊戦隊ゴーカイジャー』という作品では、35ほどの複数の世界観が、とりあえずのところ1つの世界としてまとまっている。『スーパーヒーロー大戦』において、門矢士とキャプテン・マーベラスが出会った瞬間、全く同じ世界が、士からすれば9つに、マーベラスから見れば1つに見えていた、というのがこの文章での考え方だ。
このように書き続けてくると、ある人が特定のメタ時間・メタ空間・メタ因果律を想定していることは不利であることのようにも思える。そもそも可能性の海は無限に広がっているのに、ある一つの考え方に縛られてしまうと、人には有限の世界観しか見えなくなってしまう。本来9つでも1つでも21つでもない世界を、9つとしかみられなくなるなら、それは損失ではないのか?
おそらくそうではない。特定のメタ時間感覚を持つということは、タイムトラベルをする能力と不可分である。特定のメタ空間感覚を持つということは、パラレルワールド間移動をする能力と不可分である。特定のルールを持つから、無限の可能性のなかに初めて実在が生まれ、事象は事象となる。このことは私たちの日常にとっても変わらない。私たちは特定の時間・空間・因果律に縛られているから実在と非実在を区別できるのであって、私たちがいかなる時間も空間も因果律も認めなかったなら、私たちは全ての可能性を知るが、それは何も知らないことと同じである。


複数の世界観の戦闘

世界観とはルールであり、ものの見方である、という考え方を推し進めると、世界観というものは「観測者に関係なく静的に区切られたひとつの領域」であるよりもむしろ「物事を認識する主体を中心にした、認識するという行為の影響範囲」であるようになってきた。こうなると、「仮面ライダーとは世界(観)そのものである」というおなじみの命題も、大言壮語でなく文字通りの意味を持ってくる。だから「仮面ライダーが存在すると世界は消滅する(チノマナコルール)」とか「仮面ライダーがいないと世界は消滅する(ツクヨミルール)」とかいった設定もなかなか意義深げに思えてくる。
仮面ライダーとは世界(観)そのものである」という命題は、角度を変えれば以下のようにも読み取れる。
仮面ライダーが超常的な力をふるえる根拠は、仮面ライダーの設定にある。ある仮面ライダーが超常的な能力をふるっているということは、仮面ライダーが中心となって周りに世界観を展開しているということと同義である(また、世界観の周縁ははっきりした境界線ではなく、むしろグラデーションになっているのではないか、という想定もここから行えるだろう)。
ときには、異なる世界観に基づく仮面ライダー同士の戦いというものが行われる(というより、程度の差こそあれ、すべての仮面ライダーは本質的にはそれぞれ別の世界観だ)。異なるパワーソース、異なるオリジンを持つ者同士の戦いとは、互いに異なるルールの押し付け合いである。戦いに強いとは、ルールが違う相手に自分のルールを押し付けることにおいて優れているということである。
私たちはここで、仮面ライダーの「強さ」に対して、より広範に適用できる定義を新たに宣言しよう。「強さ」とは、「周りの事象や他の人にルールを押し付ける強さ」と「ルールを押し付けられる範囲の広さ」と「ルールの中身」の3要素の組み合わせである。可能性の海の中でより広い領域に対して、より強い強制力を持って、自分に有利なルールを押し付けられること、これが「強さ」である。この「強さ」のなかには、「物理的強さ」も「属性的強さ」も厳密な意味では含まれている。
ひょっとすると、自分のルールを押し付けられる領域が世界全体に及ぶような存在のことを、私たちは「神」と呼ぶのかもしれない。

 私たちは、特定の世界観に縛られない「強さ」の定義を得た。これで、互いにルールが違う2人についても、彼らの「強さ」を何らかの意味で比べることができるわけである。
私たちは、異なる世界観を持つ者同士の戦闘において勝利をおさめる条件を明らかにしようとしていた。「強さ」はその一つだろう。では、「強さ」が拮抗したら? 私たちは、世界観をまたいだ戦闘の勝敗を決める条件を、もう一つくらいは提示しておいてもいいだろう。
この文章で指摘しておくのは、こんな単純なルールがあることだ。「戦いはノリのいい方が勝つ」。このルールをモモタロスルールと名付けよう。ついでに、「「強さ」において伯仲した場合ノリのいい方が勝つ」という立場と「ノリの良さで伯仲した場合「強い」方が勝つ」という立場と、両方が現れるだろうから、前者を消極的モモタロスルールと、後者を積極的モモタロスルールとでも名付けておこう。


そしてふりだしへ

ここまでこの文章で述べてきたことは、このように言い換えることができるだろう。ライダーの違いとはルールの違いであり、能力の違いとはルールの違いである。この宣言は、異なるルールに基づくライダー同士の戦いを可能ならしめている一方、ライダー同士の戦いを解釈するうえでの非常に大きな問題を引き起こしてもいる。
ここまで述べてきたような考え方は、「ある能力は、異なるルールに基づく別の能力に対抗できる」と考える理由にもなると同時に、「ある能力は、異なるルールに基づく別の能力に対抗できない」と考える理由にもなってしまう。この文章は、アクセルフォームがクロックアップに対抗できるのかといった問題に対して何の指針を与えもしないのだ。
私たちは、「そもそもルールが違うのだから」という理由で、スーパータイムジャッカーの歴史改変によって野上良太郎が消滅しうるとも、スーパータイムジャッカーの歴史改変によって野上良太郎が消滅しようがないとも言える。というか実際、『平成ジェネレーションズFOREVER』で描かれていたのは、その2つの状況が同時に起こっている物語だったのかもしれない。『ジオウ』における始まりの男も、常盤ソウゴの継承によってある意味では消滅し、ある意味では生き続けたのかもしれない。そこに統一されたルールなどない。
だからこんな文章を隅から隅まで読んだところで、「オーロラカーテンで編集長が死ぬ前の龍騎の世界に行けるのか」とか「アルティメットクウガパイロキネシスはムテキゲーマーに有効なのか」とか「霊体化したゴーストは重加速を無効化できるのか」とかいった問題は全く解決しない。そういう端々の決定に役立つものは、第一には作品中の描写だが、あとは、頭を突き合わせて逐一レギュレーションを行う努力しかない。
そう、それが決まるのはあくまでレギュレーションとしてであって、異なるルール同士の闘争に自明に決まることなど一つもありはしない。だから、この文章でひとつだけ言うべきことがあるとすれば、何の能力の比較であれ、その比較基準を自明であるなどとは思わず、なにかの基準はすべて押し付けでなく提案として述べろ、ということだ。
あとはもう、この文章のなかに、最強議論をするうえで実際的に役立つ知見など何もない。もし最初からここまでずっと読んできた人がいるなら、たぶんそれは無駄な時間を過ごさせた。だから話は終わりだ。君の「議論」の場に戻れ。解散!

can't deny その法則進んでって
世界中が空っぽになる可能性
――EGO ~eyes glazing over 作詞:藤林聖子

 

 

終:定理集

ゴールより
その先にあるスタートライン
――The Next Decade 作詞:藤林聖子

自由でいたいなら
強くなきゃダメさ
――Shout out 作詞:藤林聖子

 ここでは、私がこの文章で生意気にも述べてきた定義や定理をまとめておく。ついでに、ライダー同士が戦う舞台設定の例を並べて置く。ここから一定の立場を選び取れば、それは最強議論のレギュレーションになる。たぶんね。


定義

作品……ある特定のタイトルのもとに紐づけられる情報とその他もろもろの集合
世界観……作品の物語内で起こる事象について記述した情報の集合で、物語内で起こる事象が従うべきひとまとまりのルールとみなせるもの
設定……物語内で起こる事象について記述した情報のうち、世界観の内部でその真偽を区別できる情報
公式設定……世界観の内部で常に真実だと制作者がみなしている設定
公認設定……その設定が真実だとみなす立場があることを、制作者が能動的に認知している設定
非公認設定……公認設定でない設定
世界……特定の時間・空間・因果律によって現れるもの
「強さ」……周りの事象や他の人にルールを押し付ける強さ」と「ルールを押し付けられる範囲の広さ」と「ルールの中身」の3要素の組み合わせ


定理

ある一つの作品が直接に参照する世界観は必ず一つである
世界観とは一つの世界そのものか、複数の世界を含むものでありうる
仮面ライダーとは世界(観)そのものであり、ルールそのものである


大レギュレーションの例

ニュートン・レギュレーション……参照は常に相互参照
アインシュタイン・レギュレーション……参照は一方通行でありうる
デカルト・レギュレーション……世界観同士での参照関係はない

中レギュレーションの例

仮面ライダーが存在すると世界は消滅する(チノマナコルール)。
仮面ライダーが存在しないと世界は消滅する(ツクヨミルール)。
戦いはノリのいい方が勝つ(モモタロスルール)。
主人公は勝つ(主人公補正)。
新フォームは勝つ(新フォーム補正)。
時間移動を経験したアイテムには時間停止耐性がつく(MEGA MAXルール)。
  ←スーパータトバコンボ、タイプスペシャルの両者のロジックを一本化
並行世界の自分と融合するとパワーアップできる(バイカイザールール)。
  ←パラドックスロイミュードバイカイザー、ジオウIIのロジックを一本化


小レギュレーションの例

異なる世界に属するライダー同士の戦闘は、どちらのライダーも関与していない第三者世界を舞台として行う(舞台の選定)。
異なる世界に属するライダー同士の戦闘は、1次メタ時間において、オーマジオウによるセカイリセットが1度行われてから再度行われるまでのうちに行う(時間の制限)。
起点となる時間軸から数えて3次メタ時間までで「敵の消滅」が事象として確認できる場合、これを勝利とみなす(歴史改変による勝利の解釈)。
起点となる宇宙から数えて3次メタ空間までで「敵の消滅」が事象として確認できる場合、これを勝利とみなす(宇宙消滅による勝利の解釈)。
ある世界で命を落としたとしても、その世界から2次メタ時間までの範囲でそのライダーが復活した場合、負けとはみなさない(死の取り扱い)。
各種能力は、何次メタ時間・何次メタ空間までの範囲で作用すると考えるのか(能力の適用範囲)。
仮面ライダーとしての能力」と「変身した者の能力」と「物語がたどった具体的展開」をどこで分けるか(概念破壊・概念耐性の適用範囲)。
現に対峙しているライダーと同一のライダーなんらかのかたちで召喚できるのか否か(各種召喚能力・再現能力の解釈)。

take it a try
疑問に縛られて
不安になるなら 心を止めて
闘いをつづけよう
――take it a try 作詞:藤林聖子

 

 

補1:フィクションにおける時間モデル

メニ…ウツ…ル 森羅万象
ツナ…ガル… 思考回路
鮮やかなイマジネーション
――PEOPLE GAME 作詞:高橋悠也

刻む この時を
語れ この筋書
交差する運命を 読み解いてみせよう
――Black & White 作詞:平井眼鏡

keylla.hatenablog.com

俺が今手に入れた 力がどんなものでも
誰よりも先を行く 理屈に変わりはないさ
俺達が最強の 力手に入れたとして
その後にこの目には どんな世界映るのだろう
――乱舞Escalation 作詞:藤林聖子

 

 

補2:仮面ライダーシリーズの世界観一覧

嵐のような時代も 端から見りゃただのクロニクル
その度に 繰り返し 後悔をしたって
忘れたような顔して 仕掛けてくる誰かのEgoが…
――EGO ~eyes glazing over 作詞:藤林聖子

伝説を知るたび毎に
未知なる価値を飲み込むように
手に入れる
自分らしく新しい 強さを
――ジオウ 時の王者 作詞:藤林聖子

 以下に示すのは、仮面ライダーシリーズの世界(観)の一覧である。これは「いったい仮面ライダーっていくつの世界(観)があったんだっけ」という疑問に対して、回答を与える手がかりとして、ごく個人的に用意したものだ。公式設定でも公認設定でもないことは言うまでもない。
この一覧は、様々な作品で行われた細かな歴史改変についてそのすべてを網羅しているわけではない。ただ、あなたがそれを網羅したいならできるように、便利そうな分類番号が付されている。適宜の好みでこの番号を解釈して、一覧を書き足せばよい。

docs.google.com

keylla.hatenablog.com

動き出せ PEOPLE GAME
この世界 HERO GAME
君がいる 背景もステージに変わる
――PEOPLE GAME 作詞:高橋悠也

 

世界線

 

昭和ライダー

S-0.0.0.0 昭和ライダーの世界

仮面ライダー(1971) V3 X アマゾン ストロンガー 仮面ライダー(1979) スーパー1 10号誕生! 仮面ライダー全員集合!! BLACK BLACK RX  ZO J
多くの場合、すべて同じ世界観であると考えてよい。


S-1.0.0.0 ダブルライダー

仮面ライダー(1971) 仮面ライダー対ショッカー 仮面ライダー対じごく大使

 

S-2.0.0.0 仮面ライダーV3

V3 V3対デストロン怪人
仮面ライダー(1971)
ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー(⇒秘密戦隊ゴレンジャー ジャッカー電撃隊 人造人間キカイダー


S-3.1.0.0 仮面ライダーX

X 五人ライダー対キングダーク
仮面ライダー(1971) V3
ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー(⇒秘密戦隊ゴレンジャー ジャッカー電撃隊 人造人間キカイダー


S-3.2.0.0 【A.R.】Xライダーの世界

ディケイド


S-4.1.0.0 仮面ライダーアマゾン

アマゾン
仮面ライダー(1971) V3 X
十面鬼ゴルゴス率いるゲドンやゼロ大帝率いるガランダー帝国に脅かされている世界。


S-4.2.0.0 【A.R.】アマゾンの世界

ディケイド
仮面ライダー:山本ダイスケ
十面鬼ユム・キミル率いるゲドンが大ショッカーと結託したことで人類の支配に成功した世界。世界のお宝は『ギギの腕輪』と『ガガの腕輪』。


S-5.0.0.0 仮面ライダーストロンガー


ストロンガー 全員集合! 7人の仮面ライダー!!
仮面ライダー(1971) V3 X アマゾン


S-6.0.0.0 仮面ライダー(1979)

仮面ライダー(1979) 8人ライダーVS銀河王
仮面ライダー(1971) V3 X アマゾン ストロンガー


S-7.0.0.0 仮面ライダースーパー1

スーパー1 (映画)スーパー1
仮面ライダー(1971) V3 X アマゾン ストロンガー 仮面ライダー(1979)


S-8.0.0.0 仮面ライダーZX

10号誕生!
仮面ライダー(1971) V3 X アマゾン ストロンガー 仮面ライダー(1979) スーパー1


S-9.1.0.0 仮面ライダーBLACK

BLACK (映画)BLACK 恐怖! 悪魔峠の怪人館
仮面ライダーワールド(⇒ZO J
太古の昔から存在する秘密結社ゴルゴムによって文明の存亡が脅かされている世界。
ゴルゴムコブラ怪人には人を過去の世界に飛ばす能力がある。このタイムトラベルに関して、無理に歴史改変を行おうとするとトラベラーはZAPされて『時の亡者』になることもある模様。

S-9.2.0.0 【A.R.】BLACKの世界

ディケイド
ゴルゴムに脅かされている世界。大ショッカーの影響をも受け始めている。
世界のお宝はディケイドライバー。

S-9.3.0.0 【A.R.】士の世界

オールライダー対大ショッカー
崩壊の危機に瀕している世界。全ての仮面ライダーが参加するトーナメントバトルが開かれた。


S-10.1.0.0 仮面ライダーBLACK RX

BLACK RX 仮面ライダー世界に駆ける
仮面ライダー(1971) V3 X アマゾン ストロンガー 仮面ライダー(1979) スーパー1 10号誕生! BLACK
異次元に存在するクライシス帝国からの侵略を受ける世界。『BLACK RX』は『BLACK』の明確な続編である。
『世界に駆ける』ではBLACK RXがキングストーンの力を使って時間移動を行っている。

S-10.2.0.0 【A.R.】RXの世界

ディケイド
クライシス帝国によって脅かされている世界。大ショッカーの影響をも受け始めている。
本来の霞のジョーはすでに故人。世界のお宝はパーフェクター。


S-11.0.0.0 真・仮面ライダー


S-12.0.0.0 仮面ライダーZO

ZO
仮面ライダーワールド(⇒BLACK J


S-13.0.0.0 仮面ライダーJ

J
仮面ライダーワールド(⇒BLACK ZO


平成ライダー

H-0.0.0.0 平成ライダーの世界

都合により、いくつかの世界を同じ世界とみなしてもよいし、マルチバース内に存在する別々の世界とみなしてもよい。
マルチバース内の別の世界線とみなすとき、統一的なルールは存在しないが、以下のようなルールを採用することがある。

  • 全部で9つだったり21つだったり無数だったりする。
  • いくぶん物理的なイメージを伴って、融合したり分離したりする。
  • いくつかの異なる方法で行き来できる。
  • それぞれに異なる物理法則を持っている可能性がある。
  • パラレルワールドと歴史改変は別軸で存在する。(龍騎の世界)
  • ひとつの世界には最低一人の仮面ライダーが存在する。
  • 仮面ライダーが存在すると、その世界は滅んでしまう。(チノマナコルール)
  • 仮面ライダーが存在しないと、その世界は滅んでしまう。(ツクヨミルール)
  • 時間を移動したアイテムは時間停止耐性をもたらすことがある。
  • メタ視点が存在しうる。
  • 大人の事情にツッコむ奴は馬に蹴られる。(第3のルール)

 

H-0.0.1.0 【A.R.】ライダー大戦の世界

ディケイド MOVIE大戦2010:完結編 MOVIE大戦2010
門矢士が旅してきた世界が融合した世界。ディケイドが全てのライダーを破壊することによって、ディケイド以外の全てのライダーの歴史を未来につなぐことに成功した。

H-0.0.2.0 “現実世界”

平成ジェネレーションズFOREVER
クウガ』から『ジオウ』までの平成ライダーがテレビ番組として放映されている世界。
平成ライダーの世界からは、平成ライダーの世界がティードによって歴史改変を受けた世界とみなすことができ、“現実世界”からは平成ライダーの世界こそフータロスの能力によって改変された世界だとみなすことができる。2つの世界は相対的にしか真正性を担保していないが、仮面ライダーが自分の中に持っている信念は揺らぐことがない。


H-1.1.0.0 仮面ライダークウガ

クウガ
九郎ヶ岳遺跡から復活した古代の戦闘種族グロンギによって脅かされる世界。
グロンギたちは『究極の闇をもたらすもの』の地位を狙ってザギバス・ゲゲルを目指す。

H-1.2.0.0 【A.R.】クウガの世界

ディケイド
古代の戦闘種族グロンギによって脅かされる世界。
グロンギたちは『大いなる闇』ン・ガミオ・ゼダを復活させるためゲギバスゲゲルを行う。

H-1.3.0.0 (漫画)仮面ライダークウガ

(漫画)クウガ
2015年にグロンギが復活した世界。


H-2.1.1.0 仮面ライダーアギト

アギト PROJECT G4 ジオウ
人類がグロンギらしき脅威を退けたあと、超能力者がアンノウンに狙われるようになった世界。
『アギト』には『クウガ』の数年後を連想させる設定があるが、正確にはパラレルワールドであるとされる。
エルロードであるプロメスが未来への時間移動を行っている。
PROJECT G4』の警視総監には『仮面ライダー(1971)』の本郷猛と同一人物であるという解釈を許す余地が残されている。

 

H-2.1.2.0 【アナザー】G4

アナザーディケイドがG4を召喚するために用意した「失われた可能性の世界」。
G3-Xとの戦いにG4が勝利したものと思われる。


H-2.2.0.0 【A.R.】アギトの世界

ディケイド
グロンギ、アンノウンの2つの脅威が併存する世界。クウガの世界とよく似ているとされる。世界のお宝は『G4チップ』。


H-3.1.1.0 仮面ライダー龍騎

龍騎
ミラーワールドが存在する世界。神崎士郎が行ったタイムベントにより数えきれないほどの歴史改変が重ねられている。

 

H-3.1.2.0 ライダーバトルが開催されなかった未来

龍騎
神崎優衣が命の受け取りを拒否し、秋山蓮がライダーバトルを制したことで生まれた未来。最後にたどり着いた未来であり、二度と神崎士郎による歴史改変は行われないと思われる。

H-3.1.3.0 EPISODE FINAL

EPISODE FINAL
ライダーバトルが終焉に近づき、シアゴーストが大量発生している世界。神崎優衣が自ら命を絶ってしまうため、神崎士郎の目的は達成されない。
タイムベントで改変された歴史の1パターンであると解釈できる。

H-3.1.4.0 13 RIDERS「戦いを続ける」未来

13 RIDERS
コアミラーが存在する世界。仮面ライダーナイトに変身した城戸真司が秋山蓮の遺志を継いで戦いを続ける。
タイムベントで改変された歴史の1パターンであると解釈できる。

H-3.1.5.0 13 RIDERS「戦いを止める」未来

13 RIDERS
コアミラーが存在する世界。仮面ライダーナイトに変身した城戸真司がコアミラーを破壊する。コアミラーがライダーバトル開催と歴史改変に必要不可欠だったのかどうかは明言されていない。
タイムベントで改変された歴史の1パターンであると解釈できる。

H-3.1.6.0 【アナザー】龍騎

ジオウ RIDER TIME龍騎
タイムジャッカーによって改変された歴史。2002年のライダーバトルは行われなかったようだが、サラによって2019年にライダーバトルが開催される。
ライダーバトル参加者は、改変される前のいくつかの歴史について部分的に記憶を持っていることがある。
アナザーリュウガ生成とアナザー龍騎生成とが歴史改変として同じ効果を持っているのかは不明。

H-3.2.0.1 【A.R.】龍騎の世界

ディケイド
ライダーバトルの勝者が判決を言い渡す「仮面ライダー裁判制度」が実施されている世界。桃井玲子が殺害された事件も仮面ライダー裁判制度で審判される。

H-3.2.0.2 【A.R.】龍騎の世界 殺人を未然に防いだ未来

ディケイド
羽黒レンの行ったタイムベントによって改変され、桃井玲子が鎌田に殺害されずに済んだ未来。


H-4.1.1.0 仮面ライダー555

555
新人類と思しき生命体オルフェノクが現れつつある世界。オルフェノクの一派はスマートブレイン社を組織し旧人類に代わる覇権を狙う。
オルフェノクの王を探すため、流星塾という私塾がつくられる。

 

H-4.1.2.0 【アナザー】555

ジオウ(⇒【アナザー】フォーゼ
タイムジャッカーによって改変された歴史。流星塾は存在するが、オルフェノクは存在しない。

H-4.2.0.0 パラダイス・ロスト

パラダイス・ロスト
オルフェノクによってすでに旧人類が支配され、絶滅の危機に瀕している世界。
『パラダイス・ロスト』は『555』本編とは完全なパラレルワールドの関係にある。

H-4.3.0.0 【A.R.】ファイズの世界

ディケイド
オルフェノク旧人類が共存している世界。スマートブレイン社がスマートブレインハイスクールを運営している。世界のお宝は『ライドブッカー』『ファイズギア』『オーガギア』。


H-5.1.0.0 仮面ライダー剣

 ジオウ
統制者と呼ばれる存在によって53体のアンデッドによるバトルファイトが行われる世界。バトルファイトの存在を知った者は研究機関BOARDを設立し、アンデッドから人々を守る仮面ライダーを開発・運用する。
常盤ソウゴの介入によって統制者ごと封印されるまでは、バトルファイトというシステムは動き続けていた。

H-5.2.0.0 MISSING ACE

MISSING ACE
全てのアンデッドの封印によってバトルファイトが終わった未来。
MISSING ACE』は『剣』本編とは別の経過をたどったIFの世界とされている。

H-5.3.0.0 【A.R.】ブレイドの世界

ディケイド
大企業であるBOARDが仮面ライダーを運用して人々を守っている世界。

H-5.4.0.0 【A.R.】ディエンドの世界

ディケイド
フォーティーン率いるダークローチ軍団が人類を支配している世界。仮面ライダーは不要だとされている。


H-6.1.0.0 仮面ライダー響鬼

響鬼 七人の戦鬼 ジオウ
変身忍者嵐
自然界の邪気から発生する魔化魍の脅威から鬼が人知れず人々を守っている世界。鬼は猛士と呼ばれる組織に所属して助け合っている。

H-6.2.0.0 【A.R.】響鬼の世界

ディケイド
魔化魍から人々を守る鬼が複数の流派に分かれて争っている世界。


H-7.1.0.0 仮面ライダーカブト

カブト ジオウ
1999年の渋谷隕石衝突のおり侵入したワームによって脅かされている世界。秘密組織ZECTと、それに所属する仮面ライダーや所属しない仮面ライダーが人々を守る。
タキオン粒子を操ることで我々が生きる時間流とは別の時間流に乗ることができ、それによってクロックアップやフリーズといった現象を起こすことができる。また、ハイパークロックアップと呼ばれる現象を起こせば過去や未来に行くことができる。

H-7.2.1.0 GOD SPEED LOVE

GOD SPEED LOVE
1999年の隕石衝突によって地球から海が蒸発してしまった世界。隕石に乗って侵入したワームによって脅かされており、ワームに対抗できるZECTが人類を支配している。

H-7.2.2.0 隕石が衝突しなかった世界

GOD SPEED LOVE
天道総司のハイパークロックアップによる歴史改変によって生まれた未来。1999年に隕石は衝突せず、歴史改変を導いた「本来の歴史の」天道総司は消滅してしまった。
『カブト』本編の未来は『GOD SPEED LOVE』劇中の歴史改変によって生まれた未来であることを連想させるような筋書きだが、正確にはこの世界と『カブト』本編とはパラレルワールドの関係にある。

H-7.3.0.0 【A.R.】カブトの世界

ディケイド
ワームによって脅かされている世界。ワームと戦う組織ZECTの存在は世間に知られている。


H-8.0.1.0 仮面ライダー電王

電王 俺、誕生! クライマックス刑事 ファイナル・カウントダウン ディケイド 鬼ヶ島の戦艦 超・電王トリロジー レッツゴー仮面ライダー
キバ オーズ/OOO
実現しなかった未確定の未来からやってくる怪人イマジンによって歴史改変の危機にさらされている世界。本来の歴史。
『ディケイド』劇中の「電王の世界」が『電王』本編と同一世界かどうかは特に明言されていない。

 

H-8.0.2.0 イマジンたちの未来

実現しないはずの歴史。ある時点で本来の歴史から分岐しており、その分岐点の鍵はハナがになっている。イマジンたちやカイはこの未来で生まれた人物。

H-8.0.3.0 死者の時間

死郎は生者の時間と死者の時間を入れ替えようとしていた。
スウォルツがアナザーディケイドの能力で生み出した、幽汽が勝利したアナザーワールドでも、この死者の時間が実現しているかもしれない。

H-8.0.4.0 【アナザー】電王

ジオウ
タイムジャッカーによって改変された歴史。


H-9.1.0.1 仮面ライダーキバ

キバ
13の魔族のうち、地球を支配するに至った人類がファンガイアに脅かされる世界。
キャッスルドラン内部に存在する「時の扉」によって時間移動を行うことができる。
警察官僚となった棚橋によって「素晴らしき青空の会」はつぶされてしまう。

 

H-9.1.0.2 素晴らしき青空の会が存続する未来

キバ
名護啓介の「時の扉」を用いた歴史改変によって「素晴らしき青空の会」が存続した未来。

H-9.2.1.0 魔界城の王

魔界城の王
『魔界城の王』は『キバ』本編とはパラレルワールド

H-9.2.2.0 【アナザー】レイ

アナザーディケイドがレイを召喚するために用意した「失われた可能性の世界」。
イクサとの戦いにレイが勝利したものと思われる。

H-9.3.0.0 【A.R.】キバの世界

ディケイド
人類とファンガイアが共存し、ファンガイアの王室が実権を持っている世界。


H-G.0.0.0 仮面ライダーG

G
テロ組織ネオシェードが暗躍する世界。ネオシェードの存在はドライブの世界でも語られている。


H-10.1.0.0 【A.R.】夏海の世界

ディケイド
世界融合の影響を受けて崩壊していく世界。

H-10.2.0.0 【A.R.】ネガの世界

ディケイド
ダークキバ率いるダークライダーにより人類が抹殺された世界。夏海の世界によく似ている。


H-11.0.0.0 仮面ライダーW

W MOVIE大戦2010:ビギンズナイト 運命のガイアメモリ MOVIE大戦CORE:スカル MOVIE大戦CORE MOVIE大戦MEGA MAX:ジョーカー MOVIE大戦MEGA MAX:栄光の戦士たち アクセル エターナル MOVIE大戦アルティメイタム
オーズ/OOO
ミュージアムによって風都の暗部でガイアメモリが流通している世界。「地球の記憶」と呼ばれる情報の集積が存在する。
『運命のガイアメモリ』の大道克己は『4号』の4号とパラレルワールドの同一人物であるという非公式な解釈が存在する。


H-12.1.1.0 仮面ライダーオーズ/OOO

オーズ/OOO MOVIE大戦CORE:ノブナガの欲望 MOVIE大戦CORE レッツゴー仮面ライダー MOVIE大戦MEGA MAX:つながる希望 MOVIE大戦MEGA MAX:栄光の戦士たち
フォーゼ
800年前に錬金術師たちによって生み出された人造生物グリードが完全な生物になるために人類を脅かす世界。
2011年のグリード撃破によって開いたワームホールによって2051年からの時間遡行が行われた。

 

H-12.1.2.0 レッツゴー仮面ライダー

レッツゴー仮面ライダー
仮面ライダー(1971) 昭和ライダー 電王 平成ライダー
モモタロスとアンクの1971年におけるミスによって改変された歴史。悪の組織を吸収合併しながら勢力を伸ばしたショッカーによって世界が支配されている。

H-12.1.3.0 【アナザー】オーズ/OOO

ジオウ
タイムジャッカーによって改変された歴史。火野映司は国会議員になっている。

H-12.2.0.0 将軍と21のコアメダル

将軍と21のコアメダル
錬金術師ガラが蘇った世界。ガラは欲望のエネルギーで過去と現在の時空間を入れ替え、世界を終わらせる装置を起動しようとした。
『将軍と21のコアメダル』と『オーズ/OOO』本編はパラレルワールドである。


H-13.0.1.0 仮面ライダーフォーゼ

フォーゼ MOVIE大戦MEGA MAX:撫・子・降・臨 MOVIE大戦MEGA MAX:栄光の戦士たち スーパーヒーロー大戦 みんなで宇宙キターッ! MOVIE大戦アルティメイタム:フォーゼ MOVIE大戦アルティメイタム
スーパー戦隊

 

H-13.0.2.0 【アナザー】フォーゼ

ジオウ
タイムジャッカーによって改変された歴史。如月弦太朗は教師になっている。


H-14.1.1.0 仮面ライダーウィザード

ウィザード MOVIE大戦アルティメイタム:序章 MOVIE大戦アルティメイタム:ウィザード MOVIE大戦アルティメイタム スーパーヒーロー大戦Z 戦国MOVIE大合戦:約束の場所
スーパー戦隊
日食の日に起こされた謎の儀式サバトで、魔物であるファントムが生み出された世界。ある目的のため、幾人かのファントムを従えたワイズマンが暗躍する。

 

H-14.1.2.0 in Magic Land

in Magic Land
「クリエイト」ウィザードリングを用いたソーサラーによって作り変えられた世界。全ての人間が魔法使いであり、魔法はインフラ化している。

H-14.1.3.0 【アナザー】ウィザード

ジオウ
タイムジャッカーによって改変された歴史。

H-14.2.0.0 魔法石の世界

ウィザード
子供たちが大人になると怪人になってしまう、怪人たちの世界。賢者の石の安住の地を探して旅の途中だった操真晴人が、突然宝石に吸い込まれる形で来訪した。どこかの異世界からディケイドや鎧武も来訪している。


H-15.1.1.0 仮面ライダー鎧武/ガイム

鎧武/ガイム 戦国MOVIE大合戦:戦極バトルロワイヤル! 仮面ライダー大戦 烈車戦隊トッキュウジャー MOVIE大戦フルスロットル:進撃のラストステージ MOVIE大戦フルスロットル 斬月 バロン デューク ナックル
昭和ライダー 平成ライダー
ヘルヘイムの森による浸食を受けている世界。
ヘルヘイムの森は同じ世界に属するほかの惑星か、異世界か、それとも過去や未来の地球であるのかはよくわかっていない。
ヘルヘイムの森がもたらす禁断の果実の力を手にすれば時間遡行を行うことができる。遡行時は行動に制限がかかり、歴史改変をすることは非常に困難。

 

H-15.1.2.1 【アナザー】鎧武/ガイム

ジオウ
タイムジャッカーによって改変された歴史。ヘルヘイムの森による浸食を受けている。

H-15.1.2.2 常盤ソウゴが明光院ゲイツを信じた未来

ジオウ
鎧武の世界にいた始まりの男の介入によって改変された未来。

H-15.2.0.0 武神の世界

戦極バトルロワイヤル!
武神ライダーの力で諸国が争う世界。

H-15.3.0.0 地下都市バダン・シティー

仮面ライダー大戦
仮面ライダーたちが失ってきた仲間や敵がいる死後の世界。バダンによって組織化されている。メガ・リバースマシンによって現世と入れ替えることができる。

H-15.4.0.0 ラピスが創り出した夢の世界

鎧武/ガイム サッカー大決戦!
ゴースト
ビートライダーたちがサッカーで争う世界。オーバーロードであるラピスの夢を操る能力によって創り出された世界であるらしい。

ラピスの導きで鎧武の世界の駆紋戒斗が訪れたこともある。

H-15.5.0.0 可能性の世界

鎧武/ガイム
鎧武とバロンが戦っている世界。『仮面ライダー鎧武/ガイム』の世界の趨勢を象徴的な形で反映しているように見えるが詳細不明。

時間旅行を繰り返した始まりの女がこの世界に迷い込んだが、鎧武とバロンの戦いの決着がつく(世界の趨勢が決まる)までこの世界から出られなかった。


H-16.0.1.1 仮面ライダードライブ

ドライブ MOVIE大戦フルスロットル:ルパンからの挑戦状 MOVIE大戦フルスロットル 手裏剣戦隊ニンニンジャー
仮面ライダー(1971) W
ショッカーの空間変異装置によってニンニンジャーの世界と部分的に融合したことがある。
ネオシェードという組織の存在はGの世界とよく似ている。

 

H-16.0.1.2 乾巧のいない未来

ドライブ サプライズ・フューチャー
555 電王
乾巧の犠牲によって『3号』から『4号』にわたる歴史改変がなかったことになった未来。
ロイミュード004がドライブドライバーを改造したことで、やがて来る未来で人類はクリム・スタインベルト率いるロイミュードに支配されることになる。

H-16.0.2.0 仮面ライダー3号

3号
BLACK 555  電王 手裏剣戦隊ニンニンジャー
ショッカーの歴史改変マシンによって改変された歴史。悪の組織の吸収合併を続けながら勢力を伸ばしたショッカーによって世界は征服されている。

H-16.0.3.0 仮面ライダー4号

4号
555 電王
乾巧とシンクロした歴史改変マシンによって歴史改変を際限なく繰り返す世界。歴史改変のたびにショッカーが勢力を伸ばしていくように宿命づけられている。

H-16.0.4.0 サプライズ・フューチャー

サプライズ・フューチャー ドライブ 超MOVIE大戦ジェネシス チェイサー マッハ ハート マッハ夢想伝
ゴースト
未来で完成したタイムロードシステムにより時間遡行したロイミュード108により生まれた未来。ロイミュード108は永遠のグローバルフリーズを目指したが、ドライブの奮闘によりロイミュードが撲滅される未来につながった。
モノリスの力で時間遡行ができる。


H-17.0.1.0 仮面ライダーゴースト

ゴースト 超MOVIE大戦ジェネシス 1号 平成ジェネレーションズ 動物戦隊ジュウオウジャー スペクター
仮面ライダー(1971)
眼魔の世界は、地球に起源をもつが、地球とは別の惑星「ガンマ」に位置する文明であるらしい。英雄村についてはよく知らない。
モノリスには無機物の空間転移・時間遡行に関わるゲートを生み出す能力があるらしい。
フレイとフレイヤ異世界の人物を呼び出すことができる模様。

 

H-17.0.2.0 【アナザー】ゴースト

ジオウ
タイムジャッカーによって改変された歴史。


H-A.0.0.0 仮面ライダーアマゾンズ

アマゾンズ 最後ノ審判


H-18.1.1.0 仮面ライダーエグゼイド

エグゼイド 平成ジェネレーションズ ゲンム ブレイブ 宇宙戦隊キュウレンジャー 仮面戦隊ゴライダー トゥルー・エンディング 平成ジェネレーションズFINAL アナザー・エンディング
龍騎 ウィザード 鎧武/ガイム ドライブ 動物戦隊ジュウオウジャー
仮面ライダーとしての能力「リセット」で時間遡行をすることができる。
霧野エイトが作ったゲーム『超スーパーヒーロー大戦』は一種の異世界と言ってもいい規模を持っている。

 

H-18.1.2.0 【アナザー】エグゼイド

ジオウ
タイムジャッカーによって改変された歴史。

H-18.2.0.0 クリアできないゲームの世界

仮面戦隊ゴライダー
壇黎斗が死後によみがえるために残しておいたゲームの世界。呼び寄せられたプレイヤーの記憶ごとリセットを繰り返す。絶対に倒せない怪人「トーテマ」がいることでクリアできないゲームと化している。
真の剣崎一真が介入したことでバトルファイトのルールを適用され、滅びた。


H-19.1.1.0 世界A

ビルド 平成ジェネレーションズFINAL Be The One
地球外生命体エボルトの暗躍によって日本が東都、北都、西都に分かれて混を極めている世界。

 

H-19.1.2.0 【アナザー】ビルド

ジオウ
タイムジャッカーによって改変された歴史。

H-19.2.0.0 世界C

ビルド 平成ジェネレーションズFOREVER クローズ グリス
桐生戦兎がエボルトがいる世界Aとエボルトがいない世界Bを融合させて創った“新世界”。黒と白のパンドラパネルとエボルトのエネルギーを用いることで「世界の融合」という物理法則を越えた現象を実現した。
基本的にエボルトがもたらした悪影響や記憶は消えているが、過去にネビュラガスを用いた人体実験を受けた人間は条件次第で記憶を取り戻すことがある。
世界Bとはエグゼイドをはじめとしたレジェンドライダーが存在する世界だと思われる。“新世界”というかたちで『ビルド』の世界観が『エグゼイド』までの歴代ライダーの世界観と統一されたことで、歴代ライダーを同一時間軸に置く『ジオウ』の世界観につながる、という論理を連想させるが、『ジオウ』の側ではその論理を考慮していない。


H-20.1.1.0 仮面ライダージオウ

ジオウ
普通の高校生常盤ソウゴが「最高最善の魔王」を目指して戦う世界。常盤ソウゴの正体は、生まれながらにして王となる運命を持っており、スウォルツに見出された「2000年生まれの子供」。
幾度かの歴史改変を経てたどり着いたと思われる世界。最低最悪の未来から介入してきた明光院ゲイツや謎の存在ウォズと友情を深めたことで過去の試行にはなかったジオウの能力が次々開花している。また、オーマの日もかなり早まった模様。常盤ソウゴが平成ライダーのライドウォッチを継承したことでそれぞれの世界を融合していき、最後はスウォルツを倒すために常盤ソウゴがオーマジオウ化したことで世界の行く末には決着がついたはずだったが、常盤ソウゴはこの未来を滅ぼして1年前からやり直すことを選択した。

 

H-20.1.2.0 最低最悪の未来

最低最悪の魔王となったオーマジオウが人類を支配している世界。オーマジオウに対するレジスタンスとして活動していたゲイツツクヨミは過去を変えるために2018年へ飛ぶことを決める。
ゲイツツクヨミは、自分たちの運命と本来のオーマジオウの運命がかかわっているとは思っていなかったが、実はこの未来でのオーマジオウ出現にもゲイツツクヨミのような存在が関わっている可能性が湊ミハルから示唆されている。

H-20.1.3.0 オーマの日にゲイツが勝った未来

ジオウ RIDER TIMEシノビ
オーマの日にゲイツがジオウに勝利すればもたらされていたはずの未来。シノビ、クイズ、キカイの歴史はここで生まれ、またギンガの歴史もここに属する可能性がある。アナザーディケイドが白ウォズを召喚するために用意した「失われた可能性の世界」はこの世界かもしれない。

H-20.1.4.0 【アナザー】ジオウ

ジオウ
加古川飛流がアナザージオウIIとして魔王と化した世界。

H-20.1.5.0 Over Quartzer

Over Quartzer
歴史の管理者クォーツァーが平成を整形する計画を実行に移した未来。この計画が成功すれば、「凸凹でない平成」という未来が新たに生まれるはずだったが、「平成があふれ出し」たことで計画はとん挫している。
常盤ソウゴの正体は常盤SOUGOが用意した影武者であり、恣意的に選ばれただけの普通の人物。若きジオウがオーマジオウの力を継承することになる。
時代は令和につながっていく。

H-20.1.6.0 常盤ソウゴが普通の高校生になった未来

令和TFG ゲイツ
普通の高校生とはいいつつ普通ではなかった常盤ソウゴが普通の高校生になったかと思いきややはり普通ではなかった未来。『ジオウ』本編を含めた幾度かの試行の果てにたどり着いた未来。


R-1.0.1.0 仮面ライダーゼロワン


ゼロワン

 

R-1.0.2.0 デイブレイクが起きなかった未来

令和TFG
フィーニスの介入によって改変された未来。ヒューマギアが反乱を起こし、人類は抹殺されている。


V-0.0.0.0 スーパー戦隊の世界

V-1.0.0.0 【A.R.】シンケンジャーの世界

侍戦隊シンケンジャー ディケイド
三途の川に住むアヤカシに脅かされている世界。
ディケイドたちの介入によって「仮面ライダーが存在する世界」へと変質を遂げてしまう。


V-2.0.0.0 烈車戦隊トッキュウジャー

烈車戦隊トッキュウジャー 鎧武/ガイム
シャドーラインとレインボーラインが争っている世界。

時間ものに関する覚書

 

時間ものが採用する様々な時間モデル

ふつう、日常を生きているときの私たちは、過去から未来にかけての時間に属するすべての瞬間を均質にとらえることはない。現在という瞬間だけがはっきりと感じられ、過去と未来は遠くなるにしたがってぼんやりとしか感じられなくなるのが日常を生きる私たちの感覚である。また、私たちが遠い過去を想うときの心の働きと、遠い未来を想うときの心の働きに共通する部分があるのかどうか、私たちは知らない。つまるところ、私たちの日常の中で、過去と現在と未来ははじめから一列に並んだ概念などではない。むしろ、それらはてんでバラバラに存在する概念である可能性を持っている。
しかし私たちは、過去・現在・未来を含んだものとして『時間』という概念を認識・表現することがある。そのとき私たちは、過去・現在・未来の3種類の概念を、一概念にくくれるだけの何らかの共通の基盤を持ったお互いに比較可能な概念であるとみなしていることになる。
つまり、過去・現在・未来をとりまとめて『時間』と呼びならわすとき、私たちはすでに日常を逸脱して、過去・現在・未来をとりまとめる概念のモデル化を行っていることになる。そして、『時間』を『時間』として認識するモデルは実は一つの絶対的解答を持っているわけではなく、とらえ方による無数のバリエーションを持っている。『時間』の捉え方は一通りではない。
『時間』という概念の理解を前提とするフィクション“時間もの”では、時間をモデル化する要請はよりはっきりと出やすい。ここでは、フィクションがフィクションのために用いる時間モデルとして、どんなモデルがあり、そのモデルにどんな分類を行うことが可能かについて検討していく。

 

歴史改変の可否に関わる5種のモデル

歴史改変の可否に注目することで、時間モデルを5種に分類した。
各モデルを「ものの見方」としてみたとき、5種は別々のモデルだが、「ロジック」としてみたときこの5種は必ずしも背反ではないことに注意されたい。
ぶっちゃけ分類としてはクソの役にも立たない。


モデル0 ROMモデル

「特殊な方法で遠い過去や遠い未来の絶対的事実を観測することができる」という点で時間ものではあるものの、タイムトラベルは行われず、歴史改変にかかわる諸問題も注目されることがない。

f:id:keylla:20210911162443p:plain

このモデル0を用いた物語では、タイムトラベルは不可能であると断言されるか、タイムトラベルの実現可能性がこれといって注目されない。
ふつう、過去の絶対的事実の観測のみが可能であることが多い。未来の絶対的事実を観測できた場合、「未来で起こる出来事をふまえて現在で起こす行動を変化させる」といった歴史改変にかかわる諸問題が注目される場合が多いからだ。

 

モデル1 単線・改変不可モデル

時の流れは一本道である。たとえ未来から過去へタイムトラベルしても、いかなる事実も改変することはできない。

f:id:keylla:20210911162542p:plain

1.1 予定調和 系

タイムトラベラーが意図して歴史改変を行おうとしても、その歴史改変の意図とそれによって引き起こされる行動までが「最初から」全て歴史に織り込み済みであった、とされるもの。こうした物語では、タイムトラベラーが、歴史に記されていることと食い違う行動をとったつもりでも、実はその行動こそが歴史に忠実な行動であった、と明らかになっていく。
具体的には「タイムトラベラーが無自覚にとった行動によって歴史上の偉人その人になっていく」というパターンがしばしば用いられる。
 例:映画『ライフ・オブ・ブライアン』(1979)

   映画『タイムライン』(2003)

1.2 ZAP 系

タイムトラベラーによって歴史改変が行われたあと、何らかの存在によって、タイムトラベラーの存在と「歴史改変そのもの」がなかったことにされる、というもの。
具体的には「タイムトラベラーが歴史改変を行った後、タイムトラベラーを殺すためにとてつもなく恐ろしい存在が現れる」だとか「過去で歴史改変を行ったタイムトラベラーが未来への帰路をとると、『時間の外側』にあるなぞの時空間に迷い込んで二度と出られなくなる」といったパターンが用いられている。
このモデルにとって、実はタイムトラベラーがひどい目に合うのはおまけであって、歴史改変が行われたという事実そのものが消されることが分類にとってはより重要である。
 例:ドラマ『新ドクター・フー(第1シリーズ)』(2005)
   あとなんか星新一の作品でこのパターン読んだことがある気がする

 

モデル2 単線・条件付き改変可能モデル

時の流れは1本道である。未来から過去にタイムトラベルすれば、歴史改変は可能である。

f:id:keylla:20210911162813p:plain

「親を殺したら体が透け始める」のようなおおらかなSFは、たいていこのモデル2にもとづくといえる。
観測条件によってはモデル3やモデル4と見分けがつかない。

2.1 抵抗力 系

歴史改変は可能だが、より大きな改変を行おうとすると、改変を行わせまいとして時間そのものがより大きな力で抵抗してくる、というもの。
「タイムトラベラーが歴史改変に向けて動き始めると立て続けに不運に見舞われる」といった因果的抵抗力や「歴史改変に向けて動き出すと急に体が重くなる」といった物理的抵抗力などがある。
 例:小説『クロノス・ジョウンターの伝説』(1994)

2.2 「歴史」と「全ての些末な事実」のあいだに区別を置く 系

未来から過去へタイムトラベルを行えば、過去に起こった些末な事実を改変することはできる。しかし、歴史の大筋を変化させることはできない、というもの。
さらに細かく分けると、「些末な事実は簡単に改変できるが、重大な歴史的事実になると改変させること自体が不可能になる」という場合と、「過去の些末な事実を改変すると、その改変によって歴史の大筋が変わらないように他の些末な事実が変わることで勝手に調整が入る」という場合がある。前者は、実質的には1.2.1とほぼ同義だと言っていいだろう。
 例:映画『戦国自衛隊1549』(2005)

 

モデル3 単線分岐モデル

歴史改変は可能である。改変によって変わったぶんの歴史は「もとの」時間から分岐した時間として考えられる。

f:id:keylla:20210911163010p:plain

このモデル3を用いるとき、時間を前提とした「因果」とは別に「超時間的な因果」が存在する。「歴史改変はまだ行われていない/すでに行われた」という出来事が備えているのが超時間的な因果である。
仮に、「もともと「過去」から「もとの未来」にのみつながっていた歴史が、歴史改変によって「もとの未来」と「別な未来」へと分岐する歴史へと変化した」場合について考えてみよう。このとき、一方では、「もとの未来」と「別な未来」はいずれも平等に実在する未来の一つだ、という立場がありうる(このとき、「もとの未来」と「別な未来」はパラレルワールドの関係にある、という説明がなされることが多い)。他方では、超時間的な意味で「すでに」歴史改変が行われたのであれば、「別な未来」だけが唯一実在する未来であり、「もとの未来」は「すでに」なくなった未来である、と明確に実在性を比較する立場がありうる。場合によっては、「唯一実在する未来が複数存在する」という状況すら考えうる。

f:id:keylla:20210911163326p:plain

このとき、前者の立場と後者の立場は、実のところ対立しない場合が多い。たとえ後者の立場をとった場合でも、「歴史改変が行われた」という超時間的事実を超時間的に認めるためには、「唯一実在する未来以外の未来が存在する」必要があるからである。ある物語が歴史改変ものである限り、何らかの意味で複数の未来が必ず存在するのだ。
このモデル3は、近年ジャンルを問わず非常に高い採用率を誇るモデルで、応用例も幅広く存在する。モデル1やモデル2との合わせ技や、パラレルワールドものへの応用などが特によく見られる。
※歴史改変にかかわる時間もの以外でも、「可能性の数だけ世界が存在する」などの世界観において分岐する時間というモデルはみられるが、ここでは複数の分岐の間で前後関係が存在するものにのみ注目した。

 

モデル4 複線モデル

時の流れは「もとから」複数通り存在する。タイムトラベルという行為は、ある流れから別の流れへと移動することとセットで考えられる。

f:id:keylla:20210911163441p:plain

モデル3とは違い、いずれの歴史も唯一絶対の歴史とは言えないというところに特徴がある。
モデル3の応用として採用されることが多い。また、モデル3と差がないことも多い。
 例:ゲーム『STEINS;GATE』(2009)
   映画『仮面ライダー 平成ジェネレーションズFOREVER』(2018)

 

時間のモデルにかかわるいくつかのフレーバー

時間というものは、川や砂や織物や旅人や空間や数に例えられる。言い換えれば、時間にはなんらかのイメージがついて回る。
イメージというものは厄介で、譬えとして持ち出せば、なんらかの「ものの見方」や「ロジック」を強烈にサジェストするくせに、実はイメージそれ自体には特定の「ものの見方」や「ロジック」が正解であると証明する能力は全くない。イメージによって何かを例えると、ほとんど根拠なしに、特定の「ものの見方」や「ロジック」が正しいかのように見せかけることができてしまうのだ。譬えというものは往々にして危険である。
時間のイメージも同じだ。ある時間のイメージを抱くことは、特定の時間モデルを採用することを強制したりはしない。ただ、ある一つの時間イメージは、いくつかの時間モデルと、ただただ妙に相性がいいのである。また、ある一つの時間イメージは、いくつかの別のイメージとも妙に相性がいい。
だから、これから列挙する複数の時間イメージは、先に分類した時間モデルに対して、あくまでただのフレーバーでしかない。注意されたい。

 

フレーバー:過去・未来の不在vs過去・現在・未来の同時性

過去はとうに消え去り未来はいまだ存在しない、現在だけが唯一手元に存在する、というイメージは、少なくとも一面では、私たちの日常感覚によく合致する。他方、超時間的にみれば、過去・現在・未来は「同時に」この世に存在している、というイメージもまた、時間をとらえるモデルとして一般的であり、ある一面では日常的であると言える。前者と後者は対立する2種類のイメージであるようにと思われるのだが、本当に対立しうるのだろうか。私は答えを持っていない。

 

フレーバー:現在の特異性vs時間の均質性

一方、過去から未来にわたって続く時間の中で、現在だけが特別な生々しさを持っているように、日常の私たちには感じられる。他方、時間は過去から未来にわたって一様な濃度で存在し続けているようにも、日常の私たちには感じられる。
前者のイメージは「過去・未来の不在」というイメージの言い換えであるかもしれない。また、後者のイメージは「過去・現在・未来の同時性」というイメージの言い換えかもしれない。

 

フレーバー:液体vs固体

一方、時間を止まることなく動き続ける流体だととらえるイメージがある。このイメージは「過去・未来の不在」「現在の特異性」と相性がいい傾向にある。ヘラクレイトスいわく「同じ川に二度入ることはできない」。また、鴨長明いわく「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの流れにあらず」。
他方、時間を、超時間的な意味では停止しているひとまとまりの固体だととらえるイメージがある。このイメージは「過去・現在・未来の同時性」「時間の均質性」と相性がいい傾向にある。タイムトラベルものの始祖の一つ、ウェルズの『タイムマシン』(1895)は、時間を「空間に続く第4の次元」としてとらえ、時間移動を空間移動と本質的には変わらないものとしてとらえた。(空間が均質なものであるという旧来の見方にのっとれば)時間のこうした見方もまた、『タイムマシン』の時間モデルもまた、時間を固体としてとらえる見方の傍流の一つだとも考えられるかもしれない。

 

フレーバー:離散的vs連続的

歴史改変や、行為選択によるパラレルワールド生成を考慮に入れた時間モデルについて考えるとする。具体的には、「サイコロを振るという行為に対してありうる全ての可能性のパラレルワールドが生まれる」というような物語に関して、その物語がとりうる時間モデルについて考える。
一方では、1回サイコロをふるごとに6通りのパラレルワールドが生まれる、といった時間イメージをすることができる。行為選択ごとに与えられる可能性は離散的に存在する。隣り合った2つの未来の間には距離があり、交わることがない。
他方では、1回サイコロをふるごとに無限のパラレルワールドが生まれる、といった時間イメージをすることができる。例えば、放られたサイコロが落ちる地点の座標は実数の数と同じ通りの可能性を持つ、というようにイメージすれば、無限のパラレルワールドは理解しやすい。このとき、隣り合った2つの未来の間には必ず中間の未来があり、交わることがない。
二つのイメージは必ずしも対立するものとは限らない。

 

フレーバー:線vs面

一方では、時間を、限りなく細い(=「細さを持たない」)線としてとらえるイメージができる。可能性の集合が無限通りの未来を許容するとしても、「時間」として実際に実現するのは1つだけである。全ての可能な可能性の中で、実現した可能性のみが「時間」としての特権性を持つ。そのため「時間」は細さを持たない。超時間的な手続き(例えば歴史改変など)が行われた場合、実現した可能性が超時間的には複数ある場合も考えられるが、その場合も、超時間的に一度は実現した可能性と、超時間的に一度も実現したことのない可能性との間には厳然たる格差がある。だから時間は線である。
他方では、時間を、無限の線の集合である面としてとらえるイメージができる。可能性の集合は、それすなわち時間と同義である。超時間的な見方を許容するのであれば、一度は実現したとか一度も実現していないとかいった区別は時間に対して行いえない。特定の可能性がほかの可能性に対して特権性を持つことなどありえないのである。だから時間は面である。
時間を線としてとらえるイメージは、時間を離散的なものだとイメージすることの言い換えになりうるだろう。また、時間を面としてとらえるイメージは、時間を連続的なものだとイメージすることの言い換えになりうるだろう。
時間を線としてとらえるイメージは図示しやすい。図示しやすいということは理解しやすい。理解しやすいということは、実際に私たちの日常的な時間への理解のしかたを規定してもいる。だから時間を線としてとらえるイメージはある意味私たちの時間理解に最も即したイメージである(なんのことはない、ほかの全ての時間イメージにも同じことが言える、ただの循環論法にすぎない)。そのため、このイメージには応用例も多い。ギリシャの運命の女神モイライは、線、もとい糸を切って結んで織り上げることで、織物という形での「運命」を形作っている。このイメージの中には、時間を線としてとらえる見方との共通項も見られそうだ。
時間を面としてとらえるイメージは、どちらかといえば、時間を液体としてとらえるイメージと相性がいい傾向にある。時間を川の流れや砂の流れとしてとらえるイメージは、時間を面としてとらえるイメージとも密接に結びついていると言える。

 

フレーバー:循環vs直線

循環的な時間イメージを用いたフィクションって、ループもの以外でなんかあったような気がするんだけどなー。思い出せねーなー。


フレーバー:時計とか

ときに、時計は時間の表示器であるにとどまらず、時間のメタファー、あるいは時間そのものとして考えられることもある。かなり珍しいが。
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(2008)では、冒頭に、とある理由で逆向きに回る時計が登場する。この時計は主人公ベンジャミンバトンの物語に何の関係もない。そのくせ、逆向きに回る時計というシーンが挟み込まれることで、なぜか「老人から年を経るごとに若くなっていく」という主人公の体質に奇妙に説得力が出てくる。私たちは「時計は逆回しにできるんだから時間が逆転したっておかしくないよな」と無意識に納得してしまうのだ。とんだイメージウェポンである。
仮面ライダージオウ』(2018)は、本編中でループが起こるわけではないが、実はループものの構造の中で起こっている物語であることが終盤で明らかになる(しかしまどマギのように本編中でメタ化することもない)という、少し珍しい物語だったが、その最終回で「時計の針が一周回って同じところに戻ったように見えても. ちゃんと進んでるんだ」というセリフが登場する。一見、ただの人を食ったポエムと思わせて、実は作品全体を貫く真理が開帳されている、なかなか味わい深いセリフになっている。さすがはわが魔王(洗脳済み)。
このように、時計というものは特定の構造を持っているため、時計のイメージを用いると、「循環的なイメージ」「直線的なイメージ」「流体的なイメージ」などなど、ほかの複数のイメージを連鎖的に大量に呼び寄せることがある。時計イメージが必ずしもわかりやすい世界観にはつながらないのはこのためであろう。
ほか、『仮面ライダー』(1971)には、全国の花時計を正午に一斉に爆破すると、連鎖して日本中の時計が爆発するというショッカーの作戦が描かれた。
いや、もう時間もの関係ないな……。

 

フレーバー:非限定の時間と限定された時間

ゾロアスター教の神話は、時間が生まれるところから始まる。世界のはじめ、そこには時間は流れてはおらず、ただ非限定の時間がどこまでも続いていた。善なる神が非限定の時間を区切って有限の時間にしたことで、はじめて時間は流れ出し、過去と未来ができた。
この物語はある意味で、認識作用によってはじめて時間は存在する、という宣言にも思えて、非常に興味深い。
ひょっとすると、はるか昔に一度だけ行われたものとしての創世を表現すると同時に、私たちが瞬間瞬間に行う、記号論的な創世のことを、よりうまく表現した神話なのではないかとすら思ってしまう。


フレーバー:記憶とか記録とか

一部の物語では、人間が持つ記憶や記録が時間そのものと密接な関係を持っていたり、また時間そのものであったりする。
そうした時間の見方は、フレーバーにとどまることなく、モデルにまで発展していることもある。
例えば、『仮面ライダー電王』(2007)では、時間そのものを破壊する行為(歴史改変とは異なる)に対して、一部の人間の記憶は耐性があり、またそうした特殊な記憶をもとに破壊された時間の再生を行うことができるとされる。つまり、人間の記憶は超時間的な存在であり、また時間を生み出す源泉にもなりうるということだ。
また同作では、記憶が超時間的な存在であることを表現してなのか、「記憶はもう一つの時間」という表現がある。記憶は時間そのものでもあるのだ。


フレーバー:複素空間

複素空間の考え方を用いて時間をイメージすることがある。近年一部で特に愛されるイメージであって、ここで言及しないわけにはいくまい。ただ私はあまりよく知らない。
それは(ほかの全ての時間モデルがそうであるのと同じように)ロジックであると同時に、ただのフレーバーでもあるということに、注意が必要である。


特定の時間軸を真正だと保証する難しさ

物語の構造が、複数の未来が存在することを要請するとき、特に、物語に歴史改変が組み込まれているとき、しばしば問題になるのが、いかにして特定の時間軸を真正だとして特権化するのか、ということだ。
シュタゲを例に挙げよう。(これは全部また聞きだが)シュタゲでは、主人公は愛する人が死ぬという一度見た未来を回避するために、「世界線」にもとづく時間モデルを理解した上で複数回歴史改変に挑む。ここで問題になるのは、シュタゲの時間モデルでは、主人公の歴史改変はある世界線から異なる世界線への移動として考えられるのだが、仮に主人公が歴史改変を繰り返して愛する人が死なない世界線へとたどり着いたとして、その物語は愛する人が生き残る未来にたどり着いた物語だと言えるのだろうか。愛する人が死ぬという未来を否定したことになるのだろうか。世界線というモデルをとる限り、いかに主人公が歴史改変を繰り返そうが、愛する人が死ぬ未来は温存され続け、どの未来も変えたことにはならないのではないだろうか。これでは、主人公の主観的経験しか変更できないのではないか。
こうした難しさは、主体的に未来を切り開くことが求められる多くの物語にとっては、当然問題となる。また、この問題に対して多くの回答が考えられてもいる。
例えばシュタゲの場合は(やっぱりこれもまた聞きなんだが)、世界線を移動しなかった人物に対して、より多くの世界線を移動した主人公の方が、相対的に強く真正性を保証できる、と考えることで、この問題を回避しようとした。歴史改変をしなかった人にとっては、あらゆる世界線は平等で順番を持たない複数の可能性にすぎないが、歴史改変を行った主人公にとっては、「世界線はA→B→Cの順に変化していった」という超時間的な因果が存在し、最終Cの世界線のみが「いま」唯一実在する未来だと言えることになる。歴史改変によって、主人公が(主観的に)超時間的な視点を持つ、ということが、モデル4からモデル3への書き換えを行っている、と言い換えてもいいのかもしれない。
このような回答の仕方は、とどのつまり、世界の超時間的な構造の決定権が主人公の主観にゆだねられているということでもある。外的な論理よりも、ただ経験やそれに基づくものの見方が決定権を持つ、というのは私たちの日常のある面には非常に合致したありかたであり、非常に共感しやすいところである。
よく似たほかの回答例として、主人公の行動の影響力をメタレベルに発散させることによって、特定の世界が真正でなければいけない状況を回避する、という回答がある。例えばまどマギでは、「魔法とは既知の因果を超えた力である」という設定が伏線になって、最終的には主人公の行動の影響範囲が全ての可能な世界にまで広がった。これによって主人公は平等に存在しうる全ての世界の歴史を「同時に」改変することができるようになった。いわば、超々時間的な歴史改変というべきだろうか。この歴史改変のなかでは、特定の時間軸が真正である必要はない。
メタレベルへの発散という方法は『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』でも用いられているらしい。
主観に頼るにせよ、メタレベルへ逃げるにせよ、「因果的行為の結果が超時間的な因果につながる」という点で、通常の因果の範疇で筋の通った説明はできない、という点は変わりない。


タイムパラドックスについて

(分野をはっきりと規定すればそうではないこともあるが)基本的に、パラドックスという言葉には複数の意味がある。そして複数の意味が、多くの場合区別されずにごちゃごちゃに使われている。
複数の意味とは、例を挙げると以下のようなものだ。

  • 論理的に正当でないにもかかわらず、正当であるかのように聞こえる内容。
  • 論理的に正当であるにもかかわらず、正当でないかのように思える内容。
  • 通常の因果の範疇では、正当かどうか判断できない内容。
  • 既知の因果とは異なる因果があることを強く要請する内容。
  • 問題設定が不十分で回答不能な(分野によって回答が異なりうるような)問題。

もちろんこれらの意味には互いに重なり合う部分も多いので、なおさら困りものだ。でも、どのタイプのパラドックスであれ、それぞれの面白味というものがある。

タイムパラドックスというものがある。個人的に、多くのタイムパラドックスの面白みというのは、ほかのパラドックスとは少し異なるのだと思っている。すなわち、タイムパラドックスに至っては、たいていの場合、上記5タイプのどれに当てはまるのかがまずわからないということ、そこが面白いのだ。
例をあげよう。例えば、「未来に起こったことが原因になって過去である結果を生む」という逆転因果はタイムパラドックスの一つだと言える。だが、このタイムパラドックスが具体的にどうパラドックスなのかはかなり説明しづらい。「ありえないはずなのに否定できないから面白い」のか「ありえるはずなのに直感に反するから面白い」のか、そのどちらであるのかがまずわからないのだ。なぜなら、「原因が結果に先行するという関係」と「時間的な前後関係」との2つの関係の間にどのような関係があるのか、私たちはまだよく知らないのだから。
なかなか倒錯的な遊びではないだろうか。


時間モデルと主観的時間感覚との交渉

さて、やっと本題だ。この覚書のなかで一番書きつけておきたかったのはここだ。
私は、時間ものであることが一番活かされる物語、時間ものらしさを堪能できる物語とは、主人公の持っている個人的信念が、時間モデルと対決したり啓示を受けたりする物語であると思う。
個人的信念が時間モデルと対決するとはどういうことか。それは例えば、分岐したり、もとから複線だったり、メタだったりループしていたりと、主人公を困惑させるような“時間の構造の真実”が、ある種の物語では開帳される。そこで主人公の周りの人物や、あるいは主人公自身は、人間の自由意思を否定するような時間の真実を前にして絶望したり挫折したりすることもある。しかし主人公はまた立ち上がる。それは、時間の構造がややこしいからといって、自分が信じているようなかたちの時間概念は侵襲されずに残り続けることを知るからだ。世界がどれほどややこしくても動揺する必要はない。主人公たちの胸の中に決して塗り替えられない原理が動いているのだから。だから、『仮面ライダージオウ Over Quartzer』(2019)で、時間を“対象”としてとらえて歴史改変を行おうとしたラスボスは、最後のところで、強烈な“主観的”時間の奔流のまえでなすすべなく敗れていった。正確に言うなら、個人的信念は、時間モデルと対決する必要すらなかったのだ。
個人的信念が時間モデルに啓示を受けるとはどういうことか。それは例えば、進歩主義に生きていた人間が、循環的な時間という今まで知らなかった時間モデルを知ることで、オルタナティブな生き方に気づくことで会ったり、またあるいは、快楽主義に生きていた人間が、直線的な時間という今まで知らなかった時間モデルを知ることで、オルタナティブな生き方に気づく、ということであろう。