それは、語る「対象」ではなく「語り方」の問題

自分で書いた男性的オタクと女性的オタクを読んでみる限り、男性的オタクと女性的オタクの違いとは、語る「対象」の違いであるよりかは、「語り方」の差なのではないか。ひいては、私がこの一連の文や文章で問題にしなければならないのは、語る「対象」ではなく「語り方」の話なのではないか。

仮に、ある人間の持っている本質と、その人間が用いる「語り方」はそれぞれ別のものだとしよう。ここで、ある「語り方」をしているということによってその人の本質を(完全には)測ることはできない、と述べることができる。1人の人間が複数の「語り方」を使いこなすという場合が考えられるからだ。
1人の人間は複数の「語り方」を使いこなせる、ということを最大限に重視するならば、「語り方」とはさながら衣服のように付け替えられるものであり、人間にとって本質的なものではない、という主張を試みる人もいるだろう。つまり、この主張において、男性的オタクと女性的オタクとは、時と場所によって使いこなせばいい衣服であり、両者の対立に悩む必要などない、ということになる。だから、男性的オタクと女性的オタクの相克に悩む人に対して、「複数の語り方を使いこなせよ」とアドバイスすることは、一つの解答にはなる。
例えば、『ガンダムビルドファイターズ』のイオリ・セイというオタクがいた。彼は、普段はガンダムの名セリフやうんちくを披瀝しまくるタイプのオタクではない。しかし第20話、彼は催眠術を失って意識を失い、彼が『機動戦士ガンダム』全43話のセリフを完全に記憶していることが明らかになる。彼が、知識と経験でマウントをとるタイプのオタクにも(なろうと思えば)なれる、ということが明らかになるのだ。彼は、知識と経験で評価しあうオタクにもなれるし、愛のみを尊ぶオタクにもなれるし、技術の粋を見せつけるオタクにもなれる。このことから、彼のオタクとしての行動原理は実は逐一「選択された」ものであるともいえる。だから、イオリ・セイはビルダー相手でもファイター相手でも非オタ相手でもわりに円滑なコミュニケーションを営むことができる。イオリ・セイこそ、知識と愛と技術を高度に一体化できた究極のオタクなのだ。
しかし、実際に悩んでいる人に「男性的オタクと女性的オタクは時と場所によって使いこなせ」というアドバイスをすれば、当然こういう反論をされることもあるだろう。「それができたら苦労しねーよ」と。確かに、「語り方」が人間の本質を規定しないとしても、人間の本質が、「この語り方は無理」という形で限界を設定している場合はありうるだろう。完全な解決の道は、いまだ開かれてはいない。