男性的オタクと女性的オタク

自分のことをオタクだと思っているオタク、特に、オタクであることにアイデンティティの何割かを負っているようなオタクというのがいる。私がそうだ。私のようなオタクは、基本的に、自分は「一般人」よりかはオタクがどういう生き物なのかよく理解していると思って日頃生活している。私たちは、オタクの定義とまではいかなくても、たいていのオタクが満たしている特徴くらいなら、間違えずに把握しているはずなのだ。

ところが、私たち(私は、私と同じタイプのオタクが実はたくさんいて見えざる集団を作っているという想定を疑うことなくここに開陳してしまう。オタクっていうのはしばしばそういうものだ)は、自分が日ごろ信じているような「オタクの特徴」とはまるで違った「オタク像」が、他ならぬオタクによって語られているところをしばしば目撃し、衝撃を受けてしまう。私たちは日頃、何らかの形で「オタクとはこういうものだ」という信念を抱いているのだが、実のところその信念はオタクによってさまざまなので、他のオタクが語るオタク像と自分が信じるオタク像とのギャップに驚いてしまうのだ。

私は何が言いたい? 私は、オタクであるあなた(私は浅はかにも、あなたが私と同じタイプのオタクである可能性しか考慮していない)がオタクに対してどんな像を与えているかを全く知らないにもかかわらず、「あなたのオタク像は間違っている」と言い切ろうとしているのだ。あなたは間違っている。

あなたのオタク像は間違っているはずなのだから、私は、無現に想定しうるあなたのオタク像と無限に存在する他人のオタク定義を突き合わせて、その無限の組み合わせのそれぞれについて「これこれこう食い違う」と指摘し続けていってもいいのだ、本当は。だが、この記事は無限の組み合わせのすべてについて記述するにはいささか紙幅が足りない。いやもう、ほんの少し、あと少しだけ紙幅があれば、全部書くことができていたのだが……。

だから、この記事では、「男性的オタク」というオタク像と「女性的オタク」というオタク像が互いに食い違っているという些細な事実のみを述べていこうと思う。




「男性的オタク」とは何か

あなたは、実のところこう思っているのではないか。オタクとは、ある対象への膨大な知識と経験を持ち、その知識と経験に基づいてある対象と接していこうとする人間のことを言うのだと。オタクの対象がアニメや漫画やゲームであるならば、こう言い換えてもいい。オタクとは、ある作品が置かれた歴史的状況と一般的な評価尺度を理解したうえで、作品を理解しようと努める者のことを言うのだと。オタクとは、作品をある程度客観的な尺度で「評価する」ことができる能力を持ったもののことを言うのである(それは完全な意味での「客観的」を達成する必要性はないし、実際に評価する必要もない。ただ、評価する能力があれば、その人物をオタクと言える)。

知識と経験を持っていることがあなたのオタク像にとって不可欠ならば、あなたは「オタクの徳目とは知識と経験である」という命題を認める可能性が高いだろう(必然とはいいがたいが)。オタクは博識であることとたくさんの作品を見ていることによって評価される。

逆に言えば、最低限の知識と経験を持っていない者は、たとえどんなに特定の作品・特定のジャンルに執着していようが、オタクとは言えない。例えば、キュアパッションに人生を救われ、他のものには感じることがないほど強い愛着をキュアパッションに感じてはいるのだが、『フレッシュプリキュア!』というアニメが置かれている歴史的背景も『フレッシュプリキュア!』全体のストーリーも理解しているわけではない、というような男がいたとき、(彼は心底愛すべき人物ではあるが)オタクではない、というような反応をするプリキュアオタクは、いるだろう。例えば、ファーストガンダムを全話観て、その人間ドラマ的側面を余すところなく堪能してきているが、モビルスーツの名前は一つも覚えていない、というような男がいたとき、(人間ドラマであると同時にロボットものであるところのガンダムを愛する)十全なガノタとは認めがたい、というようなガノタは、いるだろう。このようなプリキュアオタクやガノタがいるとして、私にはこういうオタクたちに賛同することも非難することもできない。知識と経験、そしてそこから導き出される客観的・構造的理解を何よりも重視するのは、切り離せないオタクの一側面である。

しかしいまや、「知識と経験を重視する」というのは、オタク全員の特徴を正しくとらえた言葉とは言えなくなっている。いつのころからなのか、オタク界(私には、まるでオタクが独立した世界を持っているかのように話してしまうのに抵抗がないようだ)には、知識と経験とは異なる何かを重視する者たちが現れ、オタクを名乗っている。この状況に、(私のような)知識と経験を重視してきたオタクたちは困惑している。

 

「女性的オタク」とは何か

どこからともなく現れた「新しいオタク」たちが重視しているのは、知識や経験よりも、愛である。新しいオタクたちはこう考える。オタクとは、ある対象への没入感を感じる人間、避けがたくそれを感じる人間のことを言うのである。オタクの対象がアニメや漫画やゲームであるならば、こう言い換えてもいい。オタクとは、ある作品や作品の登場人物に対して、究極的には主観的にしか取り上げようのない強い愛着を覚え、時と場所によってはその愛着を表明することから逃れられなくなってしまう、そういう人間のことを言うのだと。オタクとは、ときにどうしようもなく主観に陥るのだ。

作品への愛があることがあなたのオタク像にとって不可欠なら、あなたは「オタクの徳目とは愛である」という徳目を認める可能性が高いだろう(これもまた必然とはいいがたい)。オタクは愛を語ること、愛を語ることから逃れられていないことによって評価される。

逆に言えば、作品に対してストレートで逆らいがたい愛着を持っていない者は、たとえどんなに作品を深く理解していようが、オタクとは言えない。

例えば、60人のプリキュアの名前と必殺技を正確に覚えておりその記号的意義を正確に認識してはいるが、プリキュアたちが夢の実現がかかった岐路に立たされて大きな困難を覚えているときでも平気な顔をしていられるような男がいたとき、彼はよい批評家ではあってもオタクではない、というような反応をするプリキュアオタクは、いるだろう。私は、こういうオタクの態度にもまた、賛同も批判もできない。愛とそれが生み出す熱情に支配されることもまた、オタクの一側面である。

愛によってオタクを定義づけ、熱情によってオタク度を測ろうとするオタクたちが、そこにはいるのだ。

 

男性的オタクと女性的オタク

https://toracon.jp/column/8294/

https://toracon.jp/column/6157/

一方、知識と経験によってオタクを定義づけることができ、他方、愛によってオタクを定義づけることができる。あなたがもし、いままでは一方の定義しか知らず、他方の定義に違和感や驚きを感じたとしても、それはあなたの周りのオタクたちがたまたま一方の定義を自明としていたということにすぎない。

(ここから述べることは全くもってただの印象論にすぎない。この文章は単なる印象論に陥ることを避けていない)一般的に言って、知識と経験を重視するオタクは男性に多く、愛を重視するオタクは女性に多い。男性の、なおかつ知識と経験を重視してきたオタクたちは、かつてとは比べ物にならないほどの女性オタクがオタク界に出現したことで新しいオタク像の発見を加速させている。女性の、なおかつ愛を重視するオタクたちは、オタク界に「新規参入」することでいささか古臭いオタク像を再発見し、驚いている。そこで、私はここで、知識と経験を重視するオタクのことを「男性的オタク」と、愛を重視するオタクのことを「女性的オタク」と呼ぶことにする。

また、かつてのオタク界は知識と経験を重視するオタクが支配的で、今のオタク界は愛を重視するオタクが支配的であるように思われるので、「男性的オタク」という言葉には「旧型オタク」という含意を、「女性的オタク」という言葉には「新型オタク」という含意を与えてしまおう。

 

そんな呼び方で大丈夫か?

せっかく新語を定義したところだが、はたして、2つのオタク観をそれぞれ「男性的」「女性的」と呼びならわすことは適当だろうか? この問題は非常に難しい。

第一に、男性/女性であることと知識・経験-重視/愛-重視であることとの間には、必然的なつながりがない。言うまでもなく、愛を重視する男性オタクはいるだろうし、知識・経験を重視する女性オタクもいるだろう。そこに因果関係(ひょっとすると相関関係も)がないにもかかわらず、さも因果関係があるかのように誤解される名前をつけることは、論理的にも倫理的にも褒められた話ではない。

第二に、男性/女性が二項対立であることを所与の前提であるかのように話してしまうのは、完全な間違いであるか、少なくともナイーブである。今の時代、「男性性/女性性は実在する」などと述べるのは、(「実在する」の定義によってその程度は変わるが)常にある程度は誤りである。

第三に、そこにどんな名前を付けるのであれ、まるで2つの対立する傾向が存在するかのように話すことは、そういった定義を行うことによって社会の分断を促進しようとしているとみなされても仕方のないことである。「男性的オタクと女性的オタク」と呼ぶにせよ「AタイプとBタイプ」と呼ぶにせよ、「2つの傾向があります」と述べることですでに2つの傾向の間での対立をあおってしまう可能性は常にある。仮に、私が、この記事の発表によってオタク界に今までなかった溝を作った、と非難されることがあったとして、その非難は正当なものとしか言いようがない。

上に挙げた3つのコストを引き換えにしても、この記事で述べているある傾向について、これを「男性的/女性的」と呼びならわしたい理由が私にはある。一つは、「男性的/女性的」と呼ぶことによって、あなたに、日頃のオタク生活を送るなかで「この2つの傾向性って確かにあるわー」とあるある感を感じてもらいたい、という理由だ。もう一つは、今まで男性的オタク性のみが自明にオタク性であると考えてきた男性オタクがいたとき、「これを自明と思っていた理由は私がたまたま男性であるからにすぎないかもしれない」と思わせること(女性についてもまたしかり)を狙っているからだ(この2つの理由にはなかなか、私の傲慢が現れてはいる)。



旧型オタクと新型オタク

「オタクというものは、昔は男性的オタクの方が多かったけど、今は女性的オタクの方が多くなってるよな」というように、「男性的/女性的」を時代の変化と結びつける言説は、一見確からしく思える。というか、「男性vs女性」よりも、「昔のオタクvs今のオタク」というところから私と近い問題設定に到達している人の方が多いのではないか。

https://amamako.hateblo.jp/entry/2020/05/07/142220

オタクは変わってしまった……。もしあなたがそのように述べようとするなら、そこには様々な反論が予期される。反論が多様な角度から行われる理由は、「変わった」という言葉の取り方が違うから、という場合もあるし、現状認識が違うから、という場合もあるし、理想とするものが違うから、という場合もある。

仮に、オタクというものが平均として・総体として持っている性質が、男性的な性質から女性的な性質に変化したのだ、と主張してみよう。この主張への反論は様々な形で成されうる。

こんな反論が予想される。「“浅い”オタク10人よりも“深い”オタク1人の方がオタク界全体にとってより大きな影響力を持つ。いま、女性的オタクが単純な人数で男性的オタクを上回っているとしても、男性的オタクには“深い”オタクが多く、女性的オタクには“深い”オタクが比較的少ないので、影響力という観点から見て男性的オタクと女性的オタクの勢力関係は互角である」というものだ。男性的オタクは“深く”なりやすく女性的オタクはなりにくい、という考え方は、個人的には承服しかねるが(言うまでもなく、“深さ”ってなんだよ、という話になる)、まあこのように反論するオタクは存在しうるだろう。

ならば仮に、オタク界に属するオタクの総数に対して、女性的オタクが占める人数的割合が増えたのだ、と主張してみよう。この主張への反論もまた、様々な形で成されうる。

予想される反論の第一は、「人数としては、女性的オタクが激増したわけではない。流行っている作品に対して、男性的な反応よりも女性的な反応の方がSNS上では拡散しやすいため、女性的オタクが以前よりも目立ちやすくなっているだけだ。今でも、男性的オタクはいるところにはちゃんといるのだ」という反論だ。

第二は、「女性的オタクは、急に現れたわけではない。オタク女性というものが、一般に、忍者のように現れては消えるものであるがゆえにその実態を把握しにくく、その影響力を過小評価されてきただけである。昔から、オタク女性はいるところにはちゃんといたし、すなわち女性的オタクもいるところにはちゃんといたのだ」という反論だ。

ならば仮に、Twitter上のトラフィックというオタク界の計測可能な一側面に関してのみ言えば、オタクの発言の傾向は確実に男性的なものから女性的なものへと移り変わっている、と主張してみよう。

ここまで来ると、この主張は(有効なデータさえそろえられれば)たいていの反論を封殺できるかもしれない。しかし同時に、「問題の状況を歴史的・地理的に限定しすぎていて、議論する価値がない」という等閑視を受け始めるかもしれない。

以上のように、「総体としてのオタクが、ある性質からある性質へと変化してきた」と述べることは、存外に難しい。それでも私は、「男性的/女性的」の違いが「旧式/新式」の違いと符合するのではないかという示唆を、捨てきれてはいない……。

 

男性的オタクと女性的オタクの衝突

私はここまで、オタクには「知識と経験を重視する」という傾向と「愛を重視する」という傾向、2つの対立する傾向があると述べてきた。

しかし、この2つは対立する傾向ではないのではないか、という反論はできるだろう。どんなオタクにも、知識と経験を重視する側面もあれば、愛を重視する側面もある。「ガノタとは認めがたい男」の例にせよ、「プリキュアオタクとは認めがたい男」の例にせよ、例が極端すぎるだけなのではないか。「完全に男性的なオタク/完全に女性的なオタク」など実はどこにも存在しないのではないか。

この反論はおそらく正しい。男性的側面と女性的側面は、一人のオタクの中に同時に認めうる。また、多くのオタクは自分というオタクの中に男性的な反応と女性的な反応のいずれもが生まれうることを、違和感なく認めうる。

しかし、男性的オタク性と女性的オタク性が対立するものとして表現される場面も、確かに存在する。

そんな場面は2つある。第一の場面は、オタクが自分自身の胸のうちを「観察」したとき、男性的オタク性と女性的オタク性とを冷静に共存させることに失敗するような場面だ。

オタクがしばしばそれらの共存に失敗するのは、男性的オタクとして作品をある程度客観的な言葉で評価しようとすること、また、女性的オタクとして作品を主観的な感情で受け止めようとすること、この2つを同時に行うことは難しいからだ。この難しさは、客観的には駄作だが強く印象に残る作品(≒キッチュな作品)に直面したときと、客観的には価値を認めざるを得ないが主観的にはピンとこない作品(≒共感できない流行り)に直面したときに最大限に高まる。こういう難しさにさらされたとき、何人かのオタクは、「カスだけど愛してる」のような歪んだ愛情を吐露する方向に活路を見出そうとする*1。この歪んだ愛情を持っているということは、評価としては矛盾しているために男性的オタクから批判され、愛情としてストレートでないために女性的オタクからも嫌がられる、どうにも解決しようのない、厳しい状況につながる(→ある悲痛な事態

第二の場面は、複数のオタクが交流する「実践」のなかで、絶対不変の価値だったはずの男性的/女性的オタク性が裏切られてしまうような場面だ。

それはつまり、知識と経験を第一に重視してきたオタクが、愛を重視するオタクコミュニティに放り込まれたとき、また、愛を第一に重視してきたオタクが、知識と経験を重視するオタクコミュニティに巻き込まれたときである。自分の持っている知識と経験が、あるいは自分の抱いている愛が、オタクコミュニティにおいてなぜか評価されなかったとき、そのオタクは「あんなやつらおたくじゃない」と攻撃的にふるまうか、あるいは「俺はもうオタクじゃないんだ」と自罰的になっていくか、いずれにせよ厳しい状況にさらされる。そういうことは今のオタク界に珍しいことではない(ひょっとすると、昔のオタク界にもあったことかもしれない)。

http://chu2.jp/post/16092/

https://www.pixivision.net/ja/a/5710

https://togetter.com/li/769220

この3つの状況は、いずれも、私が述べようとしている問題そのものではないが、微妙にかする問題を抱えた、それぞれに厳しい状況である。

 

そこに本質があるか

少なくとも、「知識と経験を重視する」とか「愛を重視する」というのが全てのオタクに当てはまる特徴ではない、というのは間違いない。では、一歩だけ譲って……知識と経験を重視するのがオタクの“本来的な”在り方であるとか、愛を重視することがオタクの“本質”であるとか言ってみることは可能なのだろうか。

おそらく、そのように述べてみることは3つの意味で難しいだろう。

第一に、男性的オタク性も、女性的オタク性も、それがオタクの本来的で本質的な在り方に通じているか疑わしいという意味だ。

第二に、何がオタクにとって“本来的”で“本質的”であるかを断言することが難しいという意味だ。なぜなら、その特徴が歴史的にオリジナルであるとか地理的にマジョリティであるとかいったことは、ある特徴がオタクにとって本質的であると主張する十分な理由にはなりえないのだから。

第三に、「オタク」という多分に自虐的な概念に対して、何らかの形で「オタクとしての正しさ」を主張しようとすることがそもそも難しいという意味だ。もし「こういうオタクこそオタクとして正しい」と主張すると、オタクであることがそもそも何の価値も持っていないのだから、「正しいオタク」などといったものを想定するのはナンセンスだ、という反論にさらされることになる。

 

だから、「男性的オタク/女性的オタク」などという概念は、たとえそれが有効な概念であったとしても、なお、悩める一人のオタクがアイデンティティを守り抜くための戦いに、全く資さないのかもしれない……。

*1:私のような一部のオタクが、奇妙に肥大化した自意識を持っていることの理由の一つはここにある。