ある悲痛な事態

↓ちょっと申し訳ないとは思いつつも、酷評と絶賛を並置してみる

https://note.com/nuryouguda/n/n30f929d6a480

https://note.com/wasasula/n/n6f04f06914fa

 

俺というやつは、まだ『天気の子』なんかにかかずらっているのか? そうだ、俺(たち)はまだこの周りをぐるぐる回り続けている……。




これはどういうことなんだ。酷評と絶賛が収斂している。

収斂しているというのは、酷評と絶賛を商品として見たとき、比較的優れた酷評と比較的優れた絶賛のセールスポイントが同じだという意味だ。前者の文章と後者の文章のセールスポイントは同じだ。「『天気の子』が描写した「すでに狂っている世界」に自分自身も含まれているということにおいて、批評者が2,3回の屈折を経験している」という一点が、しかし重要な一点が、変わっていない。なんてことだ、『天気の子』を酷評できる最大の理由と絶賛できる最大の理由は前提を共有しているのか?

(いやしかし、忘れてはならないのは、どちらの文章も商品などではないということだ。それらはどちらも、己の実存を賭けた悲痛な叫びだ。まるで商品かのようにこれらを並置して、「両者はたいして変わらない」などと言うことは倫理的に間違っている。私のこの文章は倫理的に間違っているのだ。本気の酷評と本気の絶賛は、これらを両方温存させて対立を避けるなどということは許されない。私たちは、どちらの意見が正しいのか、本気で争わないといけない。でもさ、でもさ……!!)

一方、ある程度以上に良識あるオタクがある作品を「批評」しはじめようとするとき、オタクはオタク自身がすでにある一定の価値観のなかに取り込まれているということを直視しなければいけない。それは自分の意見が主観にすぎないことを認めることに他ならない。他方、比較的ましな批評であるためには、ほんの少しは客観的に理解できる論理展開がなければいけない。主観的であることと客観的であることを同時に認めるために、オタクは「価値がないゆえに価値がある」とか「価値がないゆえに価値がない」とかいった、ディベート的にはかなり危険な領域へと高い確率で追い込まれていく(あるいは、あいまいな間主観性のなかに逃走していくか……→オタクはなぜロボット化したのか?)。オタクがある程度以上の知能に達すると、言うことがひねくれてくる、その理由の一つはここにある。

 

セカイ系」の存在を認識しているオタクは、自分がすでにセカイ系に反対ないし賛同する価値観に取り込まれていることを直視するがゆえに、ある屈折を経由しながら『天気の子』を酷評ないし絶賛することになる。単に「価値がある」とか「価値がない」とか言うのでは圧倒的に不十分で、「価値がないから価値がある」とか「価値がないから価値がない」とか言わざるを得なくなる。

対して、「セカイ系」などというものの存在を全く知らなかった非オタ一般人は、『天気の子』の衝撃性にやられて、(どちらかといえばナイーブに)酷評ないし絶賛することになる。単純に「価値がある」とか「価値がない」とか。彼らはまるでわかっていないが、彼らの出す結論はどういうわけか正しくなる。衆愚は衆愚ではないのだ。くそ。

なんなんだこれは、もう。もっと適度な距離感の奴はいないのか? 「セカイ系」というものの存在はもともと知っていたし、その歴史的影響の有無についてそれなりに思うところはあるけれど、実際に「セカイ系」の文脈に連なる作品に触れたのは初めてなんだよね、みたいなちょうどいい距離感で接していた半オタはなぜいないんだ! ……いや、それは当たり前か。そういう半オタにとっては、『天気の子』は躍起になって語るほどの重要な作品ではないのだ……。




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