高度に商業化したコンテンツが行き着くところは悲しい未来

この文章と対になる文章として、

高度に商業化したコンテンツが行き着くところは本当に悪夢だけなのか?

という大層なタイトルの文章があるのだが、実はこれ、「商業化」というモチーフをあまりうまく活かせていない。前提と現状認識との間に、軽微だが無視できないズレが大量に残っていて、ひとくちには承服できないような文章になっているはずだ、もしちゃんと読んでもらえたなら。

 

ならばここ、この文章は、そういうズレが解消されたそこそこ論理的な文章になっているのかと言うと、そういうわけでもない。この文章だってたいがいぐちゃぐちゃで、結論がはっきりしなくて、というかそれこそがこの文章とかの文章を並置した理由でもある。

 

かの文章が平成ライダーシリーズをモデルケースとして扱ったのに対して、この文章は映画『インクレディブル・ファミリー』をモデルケースにして話していく。たぶんネタバレも含まれている。



インクレディブル・ファミリーがめっちゃ面白い

インクレディブル・ファミリーめっちゃ面白いんですけどマジで。これが続編として作られたことには非難する余地はあるだろうとは思う(個人的には非難しないが、非難する人はたくさんいるだろう)けれど、それをわきに置けば、いや、この映画ほんと面白かった。正義と暴力と資本主義とメディアと世代との間に横たわる問題を、あれだけ誠実にドラマチックに描いたヒーロー映画っていうのが他にどれだけあるんだろう。「スーパーヒーロー」を専門とするオタクにとって、あれは登場を待ち望んできた映画の一つだ。ヒーロー映画というものが辿るいくつかの道筋のうちの、一つの到達点だ*1

 

物語はまず、スーパーヒーロー大好きな大富豪がヒーローたちに接触してくるところから始まる。大富豪は、いまやヒーロー活動が許されていないヒーローたちが再びその存在を認められるように、ヒーロー活動を支援しようと申し出た。ヒーローたちは、信念のためにも、生活のためにも、葛藤しながらもこの申し出を受ける。なるほど、この映画は、正義のためにのみ活動するはずのヒーローが、出資者と関係を持ち、ヒーローオタクと関係を持つことによって、その活動理念をいやおうなしに変質させていかなければならなくなる、その過程を描いた映画なのだろう。これは、コンテンツが商業化と並行してオタクとの接触を強めていく、現代日本のオタクコンテンツの在り方にも似ていて示唆的だぞ……と、最初、私はそんな風に思っていた。

ところが、事態はもう少し複雑だった。この世界では、スクリーンスレイヴァーという名のヴィランが暴れはじめる。スクリーンスレイヴァーというキャラクターは、スクリーンに映る全てのものを操り扇動するという性質において、SNSのような現代的メディアに存在する主体なき力の象徴として読み取ることができる。SNSのような力と、「ヒーロー」というコンテンツがどう折り合うか、という意味でもこの映画は示唆的というわけだ。

やがてスクリーンスレイヴァーの正体が判明する(この世界ではスクリーンスレイヴァーの正体は一個人に帰することができる。不幸中の幸いだ……)。正体は、ヒーロー大好き大富豪の妹のイヴリンだ。彼女は思想家として・技術者としての強い信念で「ヒーローという強さは、それに依存する弱い大衆を生み出す」と主張し、ヒーローを抹殺しようと考えた。そして、不幸にして、彼女には兄という資本家との繋がりがあった……。賢明なイラスティガールはイヴリンのたくらみに気づくが、ヒーロー活動を実行する基盤をすでに富豪兄妹に支えられているイラスティガールにはそれを止めることはできない(イラスティガールがスクリーンスレイヴァーという「技術が生み出す矛盾」の正体に気づくことができたのも、スクリーンスレイヴァー=イヴリンの生み出した技術に支えられてのことだった、というのがまた笑えない)。我らがMr.インクレディブルもまたイヴリンのたくらみに巻き込まれる。だが、「殴れば倒せる」敵を得意としてきたモロ旧世代のヒーローである彼にも、当然スクリーンスレイヴァーは倒すことはできない。「やや新世代」のヒーローたちもまた、それが資本家に見出され集められているという点においてすでにスクリーンスレイヴァーの手の内であって、頼りにならない。「資本」と「技術」と「愛」と「憎しみ」が一体になった敵に対して、「正義」という力はすでに対立点を失っている。「政治」ははなっから後景化している(セリック大使って誰ですか?)。

じゃあ、誰が世界を何とかしてくれるのか? 子どもたちである。「スーパーヒーロー」が好きなオタクとしては、何度も観てきたことだが、やっぱり、今回も、子どもたちが最後の希望である。

もはや子どもたちだって何のしがらみもないわけではない。子どもたちの暮らしている家は資本家が出してくれた家だし、子どもたちは科学技術を使うことに対してまるで無批判だ。それでも、ここで頼るべき相手は子どもたちしかいない。「正義」どうこう以前に、自分たちの望む未来のために、全力で戦う子どもたちだけが救世主になりうる。そこで子どもたちだけが(自分を監視するためのガジェットを逆に奪い取っておもちゃにするような子どもたちだけが)、イヴリンの予想外となるような動きを見せて彼女のたくらみを永遠に封じてしまう。

大人の犯した過ちを正すことを、子どもたちに託すような物語は、悲しい……『Gのレコンギスタ』や『HUGっと! プリキュア』を例に挙げるまでもなく、そういう物語は悲しい。だが、この世界を守るには彼らに期待するしかない。私たちは何度でもこの物語を語る。

そして、子どもたちが目指す未来は、大人が目指す未来とは根本的に異なる。そういう意味で、子どもたちは大人たちが守ってほしかった世界を守ってはくれない。世界は変わってしまう。そうだ、スクリーンスレイヴァー事件だって、根本的には何も解決しやしなかったんだ。それでも、明日を生きるために、大人たちは子どもたちに託すしかない。そうすればこそ、物語は続く……。

 

当然の注意点

インクレディブル・ファミリー』では、「資本」と「技術」と「若さ」とが慎重に分けられていた。それらは互いに密接な関係を持ってはいたが、結局のところ別のものであった。

だが現実には、それらの関係は、不可分であったり、別ものであったり、かなり混とんとしている*2

インクレディブル・ファミリー』が、ストレートに「SNSが進展した現代におけるオタクとコンテンツとの関係性」の話であったかといえば、もちろんそうではないだろう。私がここで披瀝したのは一つの読み方にすぎないし、この文章で特に重視しなかった部分にもこの映画の面白さは詰まっていた(育児に苦戦してぐったりしてるロバートさんのシーンとか、ほんと味わい深かったです)。

インクレディブル・ファミリー』が描く未来(というか現代)は、オタクコンテンツにとって必然の未来ではない、ということには、よくよく注意されたいところだ。それでもなお、こんなに示唆的な映画ってなかなかないと思うのだが。

*1:ウォッチメン』があるだろ、って? 私は映画版しか観てないから色々とアレなんだが、なんていうか……私はザック・スナイダーかなり苦手なんだ……。

*2:少なくともアメリカにおいては、「資本」と「技術」と「若さ」と加えて「オタク」とのつながり、これが宿命的である時代はあった。アメリカ的オタク文化から発したGoogleやらAppleやらが世界最大の企業として天下を取る、といった歴史が存在した。だから、一人のオタクが直接大資本を握っている、という『レディ・プレイヤー1』的世界観も成立しやすい。そういった状況が生まれるための前提条件のいくつかがアメリカ特有のもので、いくつかが日本にもあるものである、という認識は重要だろう。https://note.com/wakusei2nd/n/n16a5ec0b8246