“価値観フリー”な領域の消滅

私は、フィクションとフィクションの登場人物に対して、特別な愛着を抱いている。

あるオタクが、フィクションの登場人物に対して愛着があり、なおかつ現実の人間に対して愛着がないということは、しばしば「現実の人間を愛することに挫折したが故の代償行為としてフィクションを愛しているのだ」と解釈される。実際こういう場合もあるのだろう。しかし私はこの理解がオタク全体に当てはまるものだとは思わない。一部のオタクにとっては、フィクションを愛するということは、最初からただ当たり前の生活として在ったのだ。少なくとも、私はそういう「当たり前のこととして」フィクションを愛してきたオタクなのだと、私自身ではそう思っている。

仮に、私のように、フィクションを愛することは場合によっては当たり前だと思ってきたオタクが、私の他にもたくさんいるとしよう。そんな私たちにとって、下のような記事の存在は非常な驚きを持って迎えられるのではないだろうか。

https://jobrainbow.jp/magazine/fictosexual

https://note.com/maliceringo/n/ndd5cd6bd0aae

どうだろう、驚いてもらえただろうか?

 

もし仮に、LGBTQ+が、「性と性向は自分で選択できる(選択しないことすら選択できる)」という権利と引き換えに、自分自身でした選択によって名前を与えられ、自分の選択に責任を負わされる、というゲームだとするなら*1。私はこのゲームに参入している人々を批判する気はないが、私自身はこのゲームに参入したくない(「参入したくない」と述べることさえ、またデリケートな政治性を持っているのだが)。

だが、望むと望まざるとにかかわらず、このゲームに巻き込まれることはもう誰にも拒否できないらしい。

自分自身の恋愛性向について、知らないし考えたこともないし興味もない、という人まで、なんらかの政治的立場(それはクエスチョニングという名前かもしれない)を負わされる時代がもうすぐそこまで迫ってるか、あるいはすでに来ているようだ……。

 

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かつて世界には、“価値観フリー”とでも言うべき領域があった。そこでする発言は、政治的・思想的に是非を問われるような価値観とは接触することがなく、どんなことを言っても安全だった。

“価値観フリー”に属する発言とは、例えば、純粋に定義的な話とか、個人の好みとか、絶対の真理とか、そういう否定しようのないものだ。「殺人は二字熟語である」とか「猫さん大好き」とか「1+1=2」とか、そういう発言は、右翼にも左翼にもタカ派にもハト派にも結び付けられることがなく、どこに出しても安全なものだった。

 

だが、“価値観フリー”と呼ぶべき領域は現在、急速に狭まっているか、あるいは最初から幻だった。定義とか好みとか公理とかについて語ることさえ、公の場では憚られる、そういう時代がすぐにやってくる。あるいはすでに来ている。

これからの時代、およそどんな言説であれ、それをどこで述べるのであれ、「その言説を正しいと信じる集団の代表意見として受け取られること(なお、その集団に属する人間が実際には単数か複数かゼロか、は問題にならない)」つまり「言説を述べることによって(ただ述べるだけで)、不可避に、政治(国全体や文化全体の意思決定)に影響力のある集団をその都度作り出してしまう」という事態が避けられなくなる。そしてその事態は、ある言説を最初に思い付いた人が望むと望まざるとにかかわらず起こってしまう。

 

2

言説は述べるだけで国や文化の意思決定に影響力を持つということは、原理的には、いつだって、あらゆる言説に対してそうだった。ただ、私がここで言いたいのは、いままではそうした影響力を持つことを免除されていた、比較的価値観フリーな言説でさえ、これからの時代には、純粋に政治的な主張(アベはありとかなしとか)と同じくらいに過激で広範な影響力を持たされてしまうということだ。

人は、ある発言に対して、論理的に正しいかどうかのみについて判断を求めたいときとか、正しさに関係なく共感のみを求めたいときがある。「殺人は二字熟語である」とか「私は猫が好き」とかは、論理的な正しさか共感かでしか話題にしようがなくて、政治の意思決定にかかわる主張であることを幸運にも免除されている。ただ、これらの言説が政治・思想にかかわりを持っているということを免除されるのは、これまでの時代がそうだった、というだけで、これからの時代は、これらの発言も政治的な何らかの立場と関係を持っているとみなされても仕方ない状態になっていく。

何もかもが国全体や文化全体に対して影響力を持ちすぎていると、あらゆる言説は、述べることによるリターンがコストに折り合わなくなっていく。例えば、新作恋愛映画のキャッチコピーに「人類はみんな、恋をする」という文句を採用する、というのは、現代ではさほど違和感のない話だ(というかどこかにありそう)。しかし、近い未来で同様のキャッチコピーを採用することは、「安易な決めつけだ」と猛批判を受けることが予想されるし、この批判はその時代の感覚に照らして全くもって正しいので、当該の文句を採用するのは商売として大失敗、ということになる。

 

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ある社会では“価値観フリー”な言説が、別の社会では“価値観フリー”でないという事実は、正確な意味で理解するのは、おそらく非常に難しい……。

例えば、「神がいるかいないかという問題には、正しい正しくない以前に、興味がない」という立場は、もし日本でこれを言うのであれば、「神はいるかいないか」という論争から逃れるための言い訳として十分有効になる。しかし、西欧の多くの国では、「神がいるかいないかに興味がない」という立場は、それ自体一つの立場を与えられてしまって、「興味がない」というだけでは論争から逃れる有効な手段にはならない。日本なら「興味がないなら仕方ない」で済む立場も、西欧なら「君が議論を望まないとしても、君の立場は消極的無神論者なり積極的無神論者なり不可知論者なり、なんらかの名前を与えうるし、その立場をとるというだけで一つの意見だ」と一つの立場にされてしまう。

そう、これからの時代は(あるいはこの時代もすでに)、「立場をとらない」ことも一つの立場にされてしまうから、「どこの立場にも与しない」ということが不可能になっていく。例えば、私は政治に興味もないし知識もない、という形で義務を遂行不能にすることで、権利も自ら手放していく「消極的ノンポリ」として生きていきたいと思っている。しかし、これからの時代には、どんな形であれ、完全なノンポリは原理的に不可能になる。だから私の戦略は、近い未来、今ほど有効ではなくなる。

 

論理的な真偽判断や個人の感想にまで価値観が絡みついてくることに対して、「いや、常識的に考えて、政治的な主張と『猫さん大好き』を同列にするのはおかしいでしょ」などと抵抗してみるのはナンセンスだろう。いま、社会の公理系が絶え間なく書き変わっているのだ。「常識的に考えて」などと述べるのは、端的に、そう述べている人は価値観が古いということに過ぎない。

「純粋な学問の世界にまでは価値観は絡みついてこないはずだ、そこには論理的真偽しかないのだから」と主張するのも、同程度にナンセンスだろう。「科学だけは大丈夫」と述べようとする根拠の方がむしろよくわからない。今年の東京都知事選では、「コロナはただの風邪。医学は政府に操られている」と主張する候補が現れて、「コロナはただの風邪かどうかという問いが検証可能性を不当にも切り離されたうえで政治的争点になる」という事態が起こっていた。今年のこの例は、まださほど政治的に本質的ではなかったし、科学的に本質的でもなかったが、同様の問題は数年のうちに、どこまで範囲と深度を広げるのか?

大学にいると、厭世の“手段”として自然科学に没入しているというタイプの教授をしばしば目にする(もちろんそれとは逆の例もたくさん目にする)。自然科学が厭世の“手段”として有効な時代は、いつまで続くのだろうか?(それとも、そんな時代など一度もなかったのか?)

 

実際、「全ての言説に価値観が絡みついてくる」という現象は、論理的にも歴史的にも否定することができない。少なくとも私は、これを否定できる気がしない……。そういう意味では、私はこの現象を批判することなどはなからできはしない。

 

4

私は別の場所で、「オタクのロボット化とは、深くて複雑な批評を書くことのコストが折り合わなくなってきたことによる、撤退戦の途上である」と述べようとした。もし、「あらゆる言説に価値観が絡みついてくる」という説が正しいとすると、「多数派オタクたちが行っている撤退戦」は悲惨な敗北を遂げることになるという未来予測が導かれる。

多数派オタクたちは、他人から「それは正しい」とか「それは誤っている」と言われうる領域で話をすることに耐えかねて、「これ好き」とか「これ苦手」とか、そういう否定しようもないことだけをいう領域に逃げ込んだのだった。しかし、そこもいつか(あるいはすでに)「正しい」とか「誤っている」と言われうる対象になっていく。

見よ。一瞬前のネット社会では、アニマルビデオは、あらゆる価値観からフリーで「気楽な」コンテンツとして良識ある多くの人々の癒しになっていた。しかし今、アニマルビデオを観ても癒されることができない人々が出現している(あるいはもともとそこに居た人々が声をあげるようになった)。動物が苦手だ、動物を「消費」しようとするコンテンツは気に障る、と、慎重に述べようとしているブログはいくらでも見つかる。そして私たち自身もすぐに、アニマルビデオを観ても「気楽に」これを楽しむことができない人々の列へと加わっていくことになる。

私たちのように頑迷でない人々――多数派オタクたちは、苦痛を逃れてある場所へ逃げ込んだのだが、その場所が苦痛の手に落ちるのも時間の問題だ。最後まで無事な場所などどこにもありはしない。

あえて「正しい」とか「誤っている」とか判定しうることを語り続ける場所に残り、筆を執った私たち――古風なオタクたちにも、日々増していく苦しみの未来があるのみで、勝利の未来などは見えたことがない。

未来は暗い……。

*1:ここで、ゲームという言葉に「不真面目で非生産的」という含意は全くない。ここでは「独自のルールによってゲーム外と区別された、一連の手続きである」という意味でのみ、LGBTQ+をゲームにたとえている。