マクガフィンとチェーホフの銃

マクガフィンという考え方がある。ふつう、マクガフィンという言葉を最初に出したのはヒッチコックだとされている。マクガフィンとは、物語を構成する要素のなかで、その要素の物語中での位置付けのみが重要であり、その要素が実際に何であるかはさして重要でないもののことだ。

例えば、2人のスパイが何かを奪い合うという物語があるとしよう。このとき、いかにもスパイが奪い合いそうなものであれば、「何か」はなんでもいい。機密情報でも美女でも宝石でもいい。このなんでもいい「何か」がマクガフィンである。逆を言えば、その「何か」が何か特定のものでなければいけないとすれば、それはふつうマクガフィンとは呼ばれない。

マクガフィンに関する考えは、しばしば、上で述べたような素朴な「である」論からより進んだ「べき」論まで展開することがある(ヒッチコックは「べき」論まで主張したのかどうか、筆者は知らない)。すなわち、物語上で大事な要素と大事でない要素をはっきりと分け、大事でない要素についてはこれを必ずマクガフィンにとどめなければいけない、という考えである。

具体的には、2人のスパイが「何か」を奪い合うなかでの心の動きに注目した物語にしたいならば、「何か」は必ず何でもいいようなものにしなければいけない、ということになる。「何か」が機密情報だったとすれば、その機密情報がどのように役立つのか描かれてはいけない。「何か」が美女だったとすれば、その美女は生き生きした人間として描かれてはいけない。

この「べき」論は、この文章の流れのなかでは違和感は感じにくい。しかし、この流れのなかには見過ごすべきでない前提があった。それは、「まず物語の大筋と物語を語る目的が各個別々に存在し、物語は、一定の目的に沿って大筋から必要な要素を適宜選択していくことによって語られていく」という前提である。実際に物語を語るとなれば、このようなプロセスがとられるときばかりではない。目的が大筋を作ることもあれば、大筋が目的を作ることもある。目的や大筋が最初に指定するのは手段であるというときもあるし、逆に手段が目的や大筋を支配することもある。大筋、目的、手段のうちどれがどれを導くのか/導くべきなのか、という議論は脇へ置いておくとしよう。ここで大事なのは、実際に物語を語ることを考えるとするなら、マクガフィンという考え方(「べき」論)に対して、当然次のようなツッコミをできるはずだ、ということだ。

「それがなんでもいいんだったら、そんなもの登場させるなよ」

マクガフィン(「べき」論)に対する反論をまとめるなら、次のようになるだろうか。およそ物語に登場する要素は、別のものでなくそれでなければいけないという確固たる理由を持たなければいけない。

この反論の一側面を取り上げると、『チェーホフの銃』という考え方になる。これは劇作家のチェーホフが主張したとされる考え方で、次のようなものだ。

ある物語で、舞台となる家の壁に銃がかかっているとするなら、その銃は劇のどこかで必ず撃たれなければならない。逆にいえば、撃たれるわけでもないのに銃を銃として登場させてはいけない。

この『チェーホフの銃』にしたがって先ほどの例を考えてみよう。スパイが「何か」を奪い合う物語で、「何か」は何でもいいのだが、たまたま、衛星兵器の起動にかかわる機密情報だったとする。このとき、物語の最後まで機密情報は漏れず、衛星兵器は起動しない。これは「機密情報」が「機密情報」としての役割を果たしていない悪い例だということになる。

こうしてマクガフィンと『チェーホフの銃』を比べると、2つの考え方が物語を構成する要素に対して異なる態度をとっていることが分かる。「機密情報」という要素が持つ機能は、マクガフィンのなかではあまり作用しないことを要求され、『チェーホフの銃』のなかでは物語にきちんと作用することを求められている。

ただ、ここで注意してほしいのは、マクガフィンと『チェーホフの銃』はなにも二項対立をとっているわけではないということだ。確かに、ある要素の「内在的な」機能を作用させるべきか否かについては、マクガフィンと『チェーホフの銃』は逆の立場をとっている。しかし、ある要素がどのような位置づけなのか、つまり「外在的に」備えている機能を作用させるべきであるという点については、マクガフィンと『チェーホフの銃』は一致しているだろう。また、そもそも、『衛星兵器の起動にかかわる機密情報』という記述がマクガフィンとして適当な記述量なのかどうかは物語によるだろう。

対立するかのように見えたマクガフィンと『チェーホフの銃』が、実はいずれも一種の「機能主義」としてまとめることができるとすると、当然気になるのは、「機能主義」に対立する考え方があるかどうかだろう。物語を構成する要素について、各要素が物語の筋に対して機能することを求めているのが「機能主義」とするなら、「機能主義」への反論は、要素そのものが何であるかに注目する立場、いうなれば「属性主義」からなされるだろう。例えば、次のような考え方がある。

山落ち 意味などないわ キャラクター立てばいいのよ

これは、特にキャラクターという要素に焦点を合わせ、キャラクターがストーリーに対して持つ影響よりも、キャラクターそのひとの魅力を重視すべきだという明らかな宣言だ。重要なのは、何をするかでなく、どんな人かである。この考え方を仮に『パーフェクトさんすうドクトリン』と名付けたい。

『パーフェクトさんすうドクトリン』は「属性主義」と非常に相性がいいと思われる。なにせ、キャラクターが何をするかは(比較的)重要ではないのだから。ただ、またまた注意を促さなければならないのは、『パーフェクトさんすうドクトリン』は「属性主義」そのものではないし、「機能主義」であるところのマクガフィンや『チェーホフの銃』と常に対立するとは限らないということだ。キャラクターが立つためにどのような在り方が求められるのかについて、『パーフェクトさんすうドクトリン』から様々なバリエーションが考えられる。

例えば、水属性や草属性が集まるパーティーに、炎属性のキャラクターがいるとする。このキャラクターのキャラが立つためには、髪が赤いとか苗字に「火」の字が入っているといったことが比較的重要なのだろうか。それとも、火属性であるからには、必ず何回も火を吹かなければならず、その火がストーリー上にも深く作用しなければいけないのだろうか。それとも、水属性や草属性のほかのキャラクターと並置されているというだけでキャラ立ちは十分なのだろうか。同じ『パーフェクトさんすうドクトリン』のなかでも、一派は、ストーリー上きちんと意味のある火吹きを求めて『チェーホフの銃』と接近するかもしれない。またある一派は必ずしも意味のある火吹きでなくともいいというだろう。

一例として以上に『パーフェクトさんすうドクトリン』に注目するなら、『パーフェクトさんすうドクトリン』が示している「キャラクター主義」について考えてみるのもいい。『パーフェクトさんすうドクトリン』に現れるような「キャラクター主義」は、常にではないが、「ストーリー主義」と対立する。「キャラクター主義」は極端になると、ストーリーはキャラクターの魅力を引き出すために生み出され配置されることを求めるが、極端な「ストーリー主義」はあるべきストーリーを語るうえで最適化されたキャラクター造形を求める。『パーフェクトさんすうドクトリン』は、ストーリーというものがキャラクターを描く上での道具であるどころか、無用であると主張するに至った点で、最も極端な「キャラクター主義」だと言えるだろう。また、荒川弘が「ストーリー上の必要性がないのでエドワードの誕生日はとくに設定しません」と言ったらしい(ソースははっきりしない)のだが、これはやや強めの「ストーリー主義」だといえるだろう。