あなたの“過剰”を魅せて “余剰”を隠して

『シン・ウルトラマン』のポスターを観るとき、私たちのうちいくらかは一瞬で“欠落”に気づく。ポスターのなかの彼は、一種あからさまなくらいに背中を私たちに向けていて、その“欠落”をありありと見せてくる。
アレを正確には何と呼ぶべきなのか、私たちのうちだれも知らないが……当記事ではこう呼ぼう。ヒレだ。今度のウルトラマンには、ヒレが“欠落”している。彼はいつもの微笑みをたたえながら、しかしヒレが抜け落ちたあとの背中を見せつけ、雄弁に何かを語ろうとしている。

 

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ヒレがない。与えられたこの事実に対して、『誰』が、『何』を狙ってそうしたのか、という疑問に対する答えはおそらく単純だ。答え:『庵野氏』が、『往年の成田氏デザインの再現』を狙ってそうしたものだ。ヒレの欠落だけでなく、そのプロポーションや、色味や、瞳の不在やカラータイマーの不在からしても、庵野氏が成田氏デザインの再現を狙っていることは言われなくとも明らかだった。
ではなぜ『成田氏』はヒレのないウルトラマンをデザインしたのか。この疑問に対する答えは、さきの疑問よりいっそう単純ではあるが、疑問自体がミスリーディングであるために若干導き出しづらい。答え:『成田氏』は、はじめからヒレのあるウルトラマンなど描きたくはなかった。はたして、子どもの頃から繰り返しヒレのある背中を見慣れている私たちには、ヒレがないことは“欠落”に見えるわけだが、実際のところ成田氏はヒレをつけてほしくはなかった。ウルトラマンの制作現場から距離を置いたあとでも、成田氏はヒレのないウルトラマンを描き続けた。

 

そう、成田氏はウルトラシリーズの制作現場から早期に距離を置いている。私たち、長らくウルトラシリーズに親しんできたファンのうち何割かにとっては、ウルトラシリーズが成田氏という人物を失ってきたことは、比較しようもなく惜しい出来事であると同時に、不可欠な、喜ばしい出来事でもある。成田氏のデザインはウルトラシリーズのなかでも最高のものである、しかし、成田氏の仕事ははっきり言って潔癖にすぎるのだ。
例えば、成田氏はカラータイマーを嫌った。ウルトラマンの全身を完璧な流線形に保とうとした。しかし、カラータイマーの誕生よりはるか後の時代に生まれた私たちはカラータイマーを愛さずにはいられない。あのツートンカラーのボディには、適切な位置に適切な面積の差し色が必要なのだ。
例えば、成田氏はウルトラの父の頭のツノを嫌った。神秘の宇宙人の身体から、まさしく戦闘と野蛮の象徴であるツノを取り除こうとした。しかし、ウルトラの父の降臨よりもはるか後の時代に生まれた私たちは頭のツノを愛さずにはいられない。あの、完璧な才能を持って生まれ、しかしそれ故に傷つきやすかった若きヒーロー――ウルトラマンタロウには、父から受け継がれるツノが必要なのだ。

 

成田氏のデザインは潔癖だった。そのデザインは潔癖ゆえ、ウルトラマンという生物の身体に生物的でない付加物をつけることを嫌った。ウルトラマンという宇宙人の体に過度に有機的な装飾をつけることを嫌った。換言すれば、成田氏はたいていいつも“過剰”を取り除こうとした。
そのこだわりは一種脅迫的なものでもあったと、私は思わずにはいられない。成田氏のデザインは、普通は盛り上がるはずのところがへこんでいるという手法でしばしば特徴づけられ、この特徴は成田氏の彫刻家としての経歴が生んだものであると理解されることが多い。しかし、私の知る限り、成田氏がこの手法を利用するのはしばしば強引で一辺倒なものでもあった。成田氏自身会心の作だと言っていたらしいシャドー星人の顔面を見よ。抽象化した人間の鼻を、普通は盛り上がっているぶんへこませるというのは、成田氏の傾向から言えばあまりに安直ではなかったのか?*1

そんな潔癖な成田氏のデザインを、決して無批判にではないが、しかしなるべく意を汲み取って立体化したのが、高山氏をはじめとした造形チームだったのだろう。
その、生物的な自然さ・宇宙人的な神秘性へのこだわりは感嘆すべきものだった。例えば、ウルトラマンのスーツを着るにあたっては、手首部分の凹凸をなくすため手術用手袋をつけた上から輪切りにしたコンドームをかぶせて着色する念の入れようだったという*2
しかし、卓越したその仕事のなかでも、ついに消し去ることができなかったデザイン的過剰、着ぐるみの証拠こそ、背中のヒレであった。それが着ぐるみであるならば、デザイン上どれだけ嫌われた過剰であれ、どこかに入り口をつけなければならない。それがウルトラマンの場合、背中であり、ヒレだった。
運命の瞬間、まさにヒレをつけることを決断した人々にとって、それが苦渋の決断だったか、挑戦的なアレンジだったかはわからない。なんにせよヒレはつけられ、長い年月が経った。今この時代には、決して完ぺきではない、どこか人間的な親しみを持ったウルトラマンが、その不完全さの象徴として背中にヒレをのぞかせている。

 

2

ヒレがない。あの人なら、与えられたこの事実に一抹の物足りなさを感じたり不満を覚えたりするのだろうか。
昔私が好んで巡回していたサイトに、M787というサイトがあった。このサイトはウルトラシリーズの二次創作イラストを掲載しているサイトなのだが、このサイトの管理人の“う”さんは目立ったフェティシズムを持っておいでだった。
それは、ウルトラマンヒレに対するフェティシズムだ。“う”さんはウルトラマンごとに異なる形状や色合いを持ったヒレを特に愛好されており、ヒレに対する注意の細やかさは、私が他のウルトラファンにいまだかつて見たことがないほどのものだった。

 

そう、当然のことのように言ってしまったが、いま、ウルトラマンヒレには形状や色合いに百花繚乱の個性がそなわっている。当然と言えば当然だが、現在のウルトラマンのデザイナーはウルトラマンのデザインにあたってはヒレも含めてデザインを行うし、ヒレはそれぞれのウルトラマンにとって欠くべからざるパーツとなっている。

 

百花繚乱の個性がそこにあれば、愛好家が出現するのも当然のこと。また、全体に対して厳密に調和した一部を単体で愛するようになれば、その愛がフェティシズムと呼ばれるのも当然のこと。なるほどヒレフェチも世の中には存在するし、その中に卓越した絵師も存在するわけだ。

 

ヒレフェチがフェティシズムならば、私はフェティシズムに関する種々の理論を徒然に思い出す。ぼんやりと……。
確か、女性の胸や腿がフェティシズムの主要な源泉になるのは、胸や腿を見た直後に“あるもの”の欠落を母の身体のうちに発見するからである、という理論がなかったか。もし、ヒレフェチの構造をこの理論に直截に当てはめることが許されたならば、重要なのはヒレではなく、私たちがヒレを見た前後に見ていた何かであるということになる。そんなものがあるとすれば、それは何なのだろうか……。
あるいは、フェティシズムの大多数を、単に“あるもの”の代用として何かを愛しているにすぎないとみなす理論もあったかもしれない。もし、ヒレフェチにおいても、ヒレは何かの代用に過ぎないのだとしたら? 私たちはヒレを見ながら、本当のところ何を見ているのだろうか……。

 

黙示はいったん避けて、比較的はっきり言えることを確認しておこう。ヒレとは少なくとも、常になにかの痕跡ではある。
第一にヒレは、デザイナーと造形家の苦闘の痕跡である。その空想の産物は、神ではなく人間が作り出してきたものであるという確かな痕跡である。これについては前節で示唆してきた。
第二にヒレは、ウルトラマンという架空の生物がたどってきた架空の進化史における、なんらかの器官・なんらかの機能の痕跡である*3ウルトラマンパワードのデザインはこの“進化史における痕跡”というスタンスを最も直截に示した。パワードのヒレは、なにやら背骨とつながって矢状面を深く貫く物体としてイメージされている。パワードのヒレこそは間違いなく、なんらかの機能のために生物が発達させてきた器官、おそらくはその名残りである。

 

ヒレが断片であることに考えを巡らせるなら。ヒレが痕跡であることを思い出すなら。私たちが、ヒレを具えた身体から人間の身体を透かし見るというのは、決して不法なことではない。私たちは、ウルトラマンの背中を見つめながら、そこにデザイナーの身体を、スーツアクターの身体を、古代ウルトラ人の身体を、垣間見る。
その昔、壮年のフェティシズム研究者が日夜トルソーに衣服を巻き付けてシワの出現を観測・分析したように、私たちも、頭の中で、理想化された人間の身体に銀赤のウェットスーツ生地を巻きつけてみよう。原始の人間の身体に銀赤の皮膚を巻きつけてみよう。生地であれ、皮膚であれ、人間の身体に滑らかに巻きつけるために、私たちはいくぶん苦労することになるだろう。伸ばしても伸ばしきれないシワがどうしても出てくる、集まってくる。集まってきたシワを目立たないどこかに隠そうとして、私たちは「結局のところ背中に逃がすしかない」ということを再発見するだろう。
こうして、身体の各所から集められてきたシワの終着として、私たちはヒレを再発見する。しかし今度は、私たちは不自然な“余剰”を精一杯隠そうとした努力の成果として、これを発見するのだ。

 

3

“過剰”を嫌った成田氏はウルトラシリーズを去った。芸術家にあって、頑固さはしばしば褒められる特質ではある。しかし、成田氏の頑固さがもしも、成田氏のデザインの完成度のみをいたずらに高め、作品群の全要素の響きあいを考慮しないものであったならば、成田氏はやはり去るしなかったのであろう。
“余剰”を発見したフェティシストはウルトラシリーズを愛してきた。芸術家にあって、篤信はやはり、褒められる特質だ。M787の更新は停まって久しいが、“う”さんはいまもTwitterかPixivかどこかでヒレフェチの前線を進化させているのだろうか。そうだったような気がする。

 

はたして、私はいま、ウルトラマンが不完全であることの証拠として“過剰”を愛するし、しかしウルトラマンが一度は隠そうとしてきたもの、その色鮮やかな変種として“余剰”を捜しつづける。ヒレは、その愛すべき“過剰”いちどは隠されるべき“余剰”の最たるものだ。
ウルトラマンが、ある種の“余剰”を隠し色鮮やかな“過剰”として再度見せつける手管というものは、最初から熟練していたわけではもちろんない。よく知られているように、『ウルトラマン』第1話から第13話まで、ウルトラマンのマスクは日ごとに増していくシワを隠すこと能わず、ついにはマスクを新造することになった。
現在のヒレがそうであるように、ある種のシワをシワそのものでなく美しい個性として魅せる技術というものは、円熟した身体にしかできない魔法なのだ。さながら、佳き老いを経験した人物にあっては、顔に刻まれたシワこそが魅力を放つように。
私がヒレを具えたウルトラマン愛さずにいられないのは、ウルトラマンが佳い時間の重ね方をしてきたからにほかならない。ヒレは、強いだけでもかっこいいだけでもない、円熟の域にあるヒーローとして、ウルトラマンの背中を彩る。この円熟味は、成田氏のデザインが単独でたどり着こうとした普遍性・抽象性とは対照的だ。

 

だから、こう言える。『シン・ウルトラマン』にはヒレが足りない*4

*1:これはまったく余談だが、私は『ウルトラマンジード』におけるシャドー星人のキャラクター設定がかなり好きだ。

*2:手術用手袋とコンドームの取り合わせから、“血”と“精液”の排除=潔癖さを読み取ってみようというのは、あまりに悪意的な読みであろうか?

*3:ただ、公式設定を尊重するならば、ウルトラマンという生物は文字通りの“進化史”をたどっているわけではない、ということを私は認めなければならないだろう。ウルトラマンという種族は、地球人そっくりだった種族が約27万年前に集団突然変異を果たして生まれた種族であり、この種族の身体的特徴に連続的な歴史は存在しない。

*4:まあ、『シン・ウルトラマン』が「1966年当時の衝撃を再び」というコンセプトの企画である以上、妥当な選択ではある。