高度に商業化したコンテンツが行き着くところは本当に悪夢だけなのか?

コンテンツを作る側が、SNSという空間に存在するエネルギーを利用しようともくろみ、コンテンツを消費する側が、SNSという空間にエネルギーを供給することをためらわないとき、作る側が消費する側によって操られる、といったようなことは珍しくなくなる。

コンテンツ供給者は、SNSをはじめとしたメディア上で消費者から望みの反応を引き出すために、消費者の反応を注視し、それがどんな傾向を持っているか学ぼうとする。真摯に見つめ学習するがゆえに、供給者は、消費者のネット上での反応をよくすることに対してのみコンテンツを最適化するようになる。やがて、消費者の反応をうかがってへこへこしてばかりいる供給者と、喚けばいつでも望みが通ると思い込んでいる口うるさい消費者が生まれることになる。両者の歪んだ関係は、コンテンツが高度に商業化されているという事情によって固定化し、それ以降世界の終りまで続いていくことになる……。そういったシナリオは、ネット上のそこかしこで語られている。つまり、高度に商業化したコンテンツが行き着く先には悪夢の未来しかない、というわけだ。

私には、そういった未来予測(いや、現状認識か?)そのものを否定することはできない。例えば、実写版ソニックSNS上の反応をうけてあっさりとキャラクターデザインを変更してしまったような事件を思い起こせば、そういった未来予測がある一面では正しいということは疑いようもない。

だが、私はここで、オタクコンテンツが歩みうる未来は必ずしもそういった最悪のパターンだけではないのではないか、と、件の未来予測にごく局地的な反論を試みたい。コンテンツを作る側と消費する側の関係に、何らかのエッセンス(それが何かはまだ明確でない)が加わったとき、供給者と消費者が幸せな関係性を築けるわずかな可能性が生まれてくるのではないだろうか。その「もうひとつの未来」のモデルケースとしたいのは、平成ライダーシリーズである。

 

鳴滝という男

平成ライダーシリーズでいくつかの作品にまたがって登場する、鳴滝というキャラクターがいる。鳴滝は、ベージュのコートと帽子を身にまとった、普通の、さもなくば少し怪しいおじさんで、並行世界を渡り歩いて、仮面ライダーの物語につかず離れず絡んでくる。どうやら彼は、世界の存亡に関して多少なりと知っていることがあるらしく、超常的な能力でもって正義とも悪ともつかない行動をとり、彼自身の壮大な目的を果たそうとしている。物語中で示唆されるところでは、彼は「世界の破壊者」であるところのディケイドの最後にして最大の宿敵となるべき運命を背負っているようなのだが、その正体はまだ明かされていない。

……どうも大言壮語的な説明だ。平成ライダーにあまり詳しくない人は、私が鳴滝を好きなばかりに、作中描写を拡大解釈して胡乱なことを言っていると思うだろう。ところがどっこい、鳴滝とは本当にこんなキャラなのだ。彼は、登場するたびに「何かしらすごそう」な怪しい情報を振りまくだけ振りまいて、何の説明もなしに画面外へと去っていく。彼は、平成ライダーを製作する東映が、その背景を描き切ることを明確にあきらめた(たくさんの)キャラの一人であって、彼の設定が分相応に固まる日は、おそらく永遠に来ない。

この鳴滝だが、「仮面ライダー」という概念に並々ならぬ思い入れを持っている。その思いは、あるときはライダーに対する無条件の憎悪として、あるときはライダーに対する無条件の賞賛として示される。彼は仮面ライダーを憎みながら愛し、愛しながら憎んでいる。だからなのか、彼は、世界やライダーが存亡の危機にあるとき、「仮面ライダーはこうあるべき」という理想を高らかに表明する。そしてその理想は、彼自身の持つ超常的能力によって、叶えられたり逆に遠ざかったりする。

この鳴滝という男は、平成ライダーのオタクたちから「仮面ライダーというコンテンツを取り巻く口うるさいファンの象徴」であるとみなされている。鳴滝を口うるさいファンの象徴としてみなすことが、オタクたちの間ではいつから行われてきたことなのか、制作側は自覚的に行っていることなのか、そのいずれもよくわかっていない。はっきりしているのは、現在では少なからぬオタクが鳴滝を口うるさいファンの象徴としてみなし、製作側もそういった見方がされることに気づいているであろうということだ。

その「口うるさいファン」鳴滝は、はたして、ほかの良識あるオタクから嫌われているのだろうか。製作側から嫌われているのだろうか。平成ライダーというコンテンツの場合、事態はそうではない。鳴滝は、ライダーオタクの多くと製作者の多くから、困惑とともに愛され、平成2期という時代に欠かせないキャラクターの一人にまで成長(?)した。(多数派の意見を勝手に決めつけて言ってしまえば)オタクも製作者も、たいていのところ、鳴滝を「仮面ライダー」の作品世界の一部として認め、(苦笑いしながらではあるが)最良の相棒として認めているのだ。

 

「口うるさいファン」とは、“本来は”、「仮面ライダー」の物語に対して根本的に異質な外力であるはずだった。しかし、「口うるさいファン」は「鳴滝」という肉体を持って「仮面ライダー」の世界の中に現れてしまった。そして、物語のいくつかの重要局面・戦局を左右する重要な場面において、欠かすことのできない役割を演じてしまった。「口うるさいファン=鳴滝」はこの時点でもう、純粋にフィクションに属するキャラクターたちと助け合ったり殴りあったりできるフィールド「物語」に取り込まれており、他のキャラクター達と対等ないちキャラクターとなり果てている。鳴滝は、物語が創出される現場に近づきすぎたがために、物語に対する特権性を失ってしまった。いまや、「口うるさいファンたち」は「仮面ライダー」というコンテンツの大きな枠組みの中で動く一つの歯車と化している。影響力は確かにあるが、それは特権的な影響力だとも言えないし、作品に対する不純物だとも言えない。

 

概念が肉体を与えられて物理で殴りあう世界

平成ライダーという世界が、どうしてそうなったかと言えば、この界隈では比喩の逆解釈が最大限に許されてきたからだ。

まず、私たちの日常世界では、ある物事があるふるまいをとるということから比喩が決定される。例えば、ある種のマルウェアは(生物学的な意味での)ウイルスと挙動が似ているために「コンピューターウイルスとは、コンピューターにおけるウイルス(みたいなもん)である」という一種の比喩が成り立つのであるし、例えば、生物には遺伝子の乗り物として解釈できる側面もあるがゆえに「生物とは(要するに)遺伝子そのものである」という一種の比喩が成り立つのである。

ところが、平成ライダーの世界では、ある物事のふるまいが比喩によって決定される、という逆の動きがしょっちゅう起こる。「コンピューターウイルスが変異して生きた人間に感染し始める」とか、「“遺伝子”と呼ばれる意志を持ってぐねぐね動く物体が、ある種の宇宙生命体の本体そのものとしてふるまう」とかいったことが、さほどの説明もなく行われる。「コンピューターウイルスはウイルスである」とか「生物の本体が遺伝子」とか言うのは、あくまで限定された前提において通用する比喩でしかないのだから、実際コンピューターウイルスが(生物学的な)ウイルスと同じはたらきをするまでにはもっといろいろなステップを踏むべきだろうし、単体で空を飛んだり超能力を発したり空を飛んだりするゲル状の物体を“遺伝子”と呼ぶのはさすがに不自然なんだろうが、こういうことは平成ライダーでは許されている*1。いわば、世界観全体にコジツケールが振りかけられているようなものだ。

「普通」の世界観では、象徴という関係は、物理的な関係が存在する次元に対してメタな次元に存在する。しかし、平成ライダーのような世界観では、象徴は物理とほとんど同じ次元に存在する。逆に言えば、絶対的にメタな次元がどこにも存在しない。「たとえ歴史から“仮面ライダー”を消し去っても、ヒーローを望む人々の心から“仮面ライダー”を消し去ることはできない!」とか「仮面ライダーの存亡と世界の存亡はイコールである」といった主張が、象徴的表現であるだけでなく文字通りの結果を伴って行われたりする(レッツゴー仮面ライダー/2011)し、「“仮面ライダー”を概念ごと消し去る」という象徴の操作が、単に物理的なビームとして発射されたりする(仮面ライダー3号/2015)。

比喩の逆利用が導く象徴界と物理界の融合の果てに、概念が物理的実体を持つということも、平成2期には積極的に行われてきた。「概念が物理的実体を持つ」という命題は、ごくごく冷静に聞けば、自己矛盾であるように思われる。しかし、平成ライダーとしてはこれはよくあることにすぎない。あらゆる概念は物理的実体を持ちうるので、あらゆる概念は殴り合いの戦闘に参加しうる。物理攻撃は、「情報そのもの」でも、「平成という概念そのもの」でも、「仮面ライダーという概念そのもの」でさえも破壊することができる(そして、都合次第では、破壊できないかのようにふるまうこともできる)。かくして、仮面ライダーコアはダブルライダーキックに倒される*2仮面ライダーにかかわるあらゆるメタ的な要素は、殴り合いの経済に参加しうるのである。

 

ヘンな世界

仮面ライダーという世界では、もはや誰も絶対的決定権を持っていない。東映も、テレ朝も、財団Bも、オタクたちも、誰もこの世界の趨勢を支配することはできない。このうちの誰もが、「自分こそがフィクサーなのではないか」と勘違いして表舞台に介入してくることがありうるが、そうしたとして、待っているのは仮面ライダーというコンテンツ全体に渦巻く謎の力学に翻弄される未来だ。思い出してみるといい、アマダムだってティードだって常盤SOUGOだって、どこから湧き出たかわからないエネルギーに押し流されて、最後は殴り合いで倒されたじゃないか。だからオタクたちはこのコンテンツのフィクサーになることはできない。よくて鳴滝かウォズになるのがオタクたちなのだ。それは、オタクである私たちにとって(私は仮面ライダーがかなり好きだ。やはり公平な議論などできようもない)幸せな未来だとは思わないかね?

 

その未来が、(旧来信じられてきた悪夢ではないにしろ)幸せな未来と言い切るのも早計なんだろうか?

 

私は、滝になるよりは、鳴滝になりたい。

*1:こういう風に比喩を逆解釈することが、少なくとも論理学的には不当である、ということは、Wikipedia「詭弁」のページで「媒概念曖昧の虚偽」として説明されていることとおおむね一致していると思う。

*2:この状況だって、特殊な条件が全くなかったわけではなかったが……。