30日かけて選びました噓です1日で選びました

kageboushi99m2.hatenablog.com

↑やった。

*1

 

Day 1 - タイトルに色が入っている曲

蒼い春 / angela

【生徒会役員共1期ED】蒼い春(歌詞付き) - YouTube

日常系にあんまり適性がないんだが、『生徒会役員共』なんかは例外的に好んでいる作品の一つ。急いでいても焦りのない気楽な青春観が作品によく合ってると思います。

 

Day 2 - タイトルに数字が入っている曲

100%ヒーロー / キュアピース/黄瀬やよい

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Day 3 - 夏の日を思い出させる曲

P.A.R.T.Y. ~ユニバース・フェスティバル~ / DA PUMP

DA PUMP / P.A.R.T.Y. ~ユニバース・フェスティバル~ Long version - YouTube

冬だとまだ思いつくが夏ってなると案外難しい。
この曲が主題歌になる映画の公開は夏だったのでこの一曲。正直なところダンスミュージックにもヒップホップ文化にもだいぶ悪い偏見があるのだが、映画でもクォーツァーを演じているDA PUMPの皆さんの笑顔はどうしても嫌いになれなかったよね。お前たちの平成って楽しくないか?

 

Day 4 - 忘れたい人を思い出させる曲

はなまるぴっぴはよいこだけ / A応P

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私に認識できる限り、私に忘れたい人はいない。人に申し訳ないことや情けないこと、たくさんの過ちがある人生だが、取り返しがつかないからこそ過ちだし、自分が自分に忘れることを許さないから過ちだ。
まあそれでも、私はなかなか自分に甘い人間なので、いままでの人生に本当に忘れたい人がいれば、すでにきれいさっぱり忘れているだろうとも思う。そういった人物は私の脳内で厳重に暗号化され、黙示のようなかたちでのみ私の人生に影を落とすだろう。雑に黙示的な歌ということでこの一曲。

 

Day 5 - 大音量で流さないといけない曲

恐怖の町 / サニー・トーンズ

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大きい音はあまり好きではない。私はテレビも音楽も平均より小さめの音量で聞いているらしい。
大音量で聞きたい曲というのもないので困ったが、半端な音量で聞くともったいない曲としてこの曲だけ思いついた。この曲は出だしが小さくて聞き取りづらいので、ぜひ音量をMAXにしてから動画リンクを開いてほしい。

 

Day 6 - 踊りたくなる曲

More One Night / チト、ユーリ

ダンスとかいうやつ、観るぶんにはいいが、自分で踊ることははっきり言って毛嫌いしている。ダンスミュージックとかいう音楽ジャンルも、一概に嫌いって程ではないが(好きな曲もあるが)全体的な傾向として好きではない。
しいて言うならこの一曲。ダンスっていうか絵とか描きたくなりますね、無限に時間があったら。

 

Day 7 - ドライブするときの曲

New World / Twill

ご機嫌でチャリをこぎ始めるときなんかはわりとこの曲を鼻歌で歌う。歌うと視界が開ける気がするのはOP映像からの思い込みも関係あるだろう。
自動車の運転はかなり苦手としていて、音楽なんかかけた日にはパニックを起こして大事故を起こすので、実際に自動車を運転するときに音楽をかけることはない。

 

Day 8 - 酒かクスリについての曲

旅路宵酔ゐ夢花火 / 徒然なる操り霧幻庵

SHOW BY ROCKのことはまるで知らないがこの曲だけは好きで、何年か前からたまに聴いている。聴いたきっかけは、この曲を歌っているバンドにちょっと好きな声優さんのキャラが入ってるからだが、なんとまあ芸達者な方で、どのパートを歌っているのがその声優さんかいまだによくわかっていない。耳が節穴。

 

Day 9 - ハッピーになれる曲

ハッピー☆ラッキー・バースデー! / ドラえもんのび太、しずか、ジャイアンスネ夫

ドラえもん 「ハッピー★ラッキー・バースデー!」 - YouTube

客観的に言って私はまだ若者だと思うが、それでも年を取るほど涙もろくなるなあなんてことを感じる日はある。
ドラえもんの5人キャラソンは的確にその若老人の涙腺を刺激してくるベタな名曲が多い。でもこれは幸せな涙だ。

 

Day 10 - 悲しくなれる曲

BLACKFOX / fripSide

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とある映画のタイアップ主題歌なのだが、期待して観に行ったその映画は私の期待を大いに裏切った。もちろん、悪い意味で。とびぬけて品質の低い映画とかではなかったが……。

 

Day 11 - 飽きない曲

ムーンライト伝説 / DALI

 

Day 12 - プレ・ティーンの頃の曲

雫 / スキマスイッチ

スキマスイッチ - 雫(2010 LAGRANGIAN POINT) - YouTube

 

Day 13 - 70年代の曲から好きな曲

草原のマルコ / 大杉久美子

 

Day 14 - 自分の結婚式でぜひとも流してほしい曲

思い立ったが吉日! / 三姉妹

いままでの人生で式を挙げたいと思ったことも結婚したいと思ったことも付き合いたいと思ったこともないので考えるのが難しい。とりあえずこの曲ならばまあまあ縁起が良いから無難だろう。歌詞全体ににじむ大雑把な感じがグッド。

 

Day 15 - カバー曲で好きな曲

オー! リバル / 堀江美都子

 

Day 16 - 古典的名曲から好きな曲

花の子ルンルン / 堀江美都子

 

Day 17 - カラオケでデュエットする曲

ルパンレンジャーVSパトレンジャー / 吉田達彦、吉田仁美

快盗戦隊ルパンレンジャー VS 警察戦隊パトレンジャー OP - LUPINRANGER VS PATRANGER OP Lyrics JP ROM ENG - YouTube

ただでさえ歌はヘタだが、『自分と同じ歌詞を歌っている声が聞こえる』という状況がとりわけ苦手で、(同じパートでも、ハモリでも)デュエットということが正常にできたためしがなく、したくもない。
だから、デュエットする曲はどれ、と訊かれたら、デュエットじゃないと物理的に歌唱不可能なこの曲を挙げておく。

 

Day 18 - 生まれ年の曲から一曲

HEATS / 影山ヒロノブ

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去年生まれた。

 

Day 19 - 人生について考えさせられる曲

Wild Child / moumoon

moumoon / Wild Child - YouTube

ZEXALのことはほとんど知らないが。
この曲の歌詞から連想されるような人生、というか生き方に、いつも憧れている。

 

Day 20 - 自分にとって色々な意味を持っている曲

未来 / KIYOSHI

 

Day 21 - タイトルに個人名が入っている好きな曲

鮮烈! キュアモフルン / 五條真由美

 

Day 22 - 前に進ませてくれる曲

MOON ~月光~ ATTACK / キュアムーンライト/月影ゆり

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好きな曲に対してあまり功利的にふるまいたくはない。でも、くじけそうなとき、どうしても強い励ましが欲しくてこの曲を聴いた夜は何度かある。いま私が生きているのはこの曲のおかげだろう。この私の生の是非についてはいまだ答えは出ないが……。

 

Day 23 - 誰もが聴くべき一曲

ファッとして桃源郷 / 新庄かなえ

誰もが聴くべき一曲、結論から言うならば、そんな曲はない。音楽を聴くのにどれが必修どれが正典ということはない。各自自分の好みだけざっくりと認識していればいい。
あえて選ぶなら、この曲のような、ゴージャスな曲がもっと多くの人に共通の“ネタとして”知られていたらちょっと楽しいだろうな、と願望込みでファッとして桃源郷を選んだ。
ポピュラリティはいつも条理を嘲笑う。そういうものであってほしい。

 

Day 24 - 今でも一緒だったらよかったのに……なバンドの曲

テレパシー / Little Blue boX

テレパシーダンボール戦機W - YouTube

このバンドの曲は何個か聴いていたけどすごく好みだった。
あのバンドはダンボール戦機専用バンドと定義されていたから、ダンボール戦機というコンテンツが動いていない今あのバンドが再び動く理由はない。バンドからダンボール戦機を無理に引きはがすことも、ダンボール戦機を中途半端な企画で無理に甦らせることも私は望まない。今は静かに眠ってほしいバンドかもしれない。でも新曲を聞きたい気持ちも捨てきれない。
ちなみにバンドメンバーの方々はいまでもソロで活動中らしいです。

 

Day 25 - 今は亡きアーティストの曲

WE ARE クロスハート! / 和田光司

 

Day 26 - 恋に落ちたくなる曲

スーパーウルトラハイパーミラクルロマンチック / 敷島魅零、処女まもり

人生いままでのところ恋に落ちたいと思ったことはないが、恋がもしこの曲で歌われるようなものであるなら(理性を強力に押し流す類のものであるなら)恋に落ちるのも悪くないかもしれない。理性を手放すことそれ自体は私は嫌いではない。

 

Day 27 - 心が打ち壊される曲

宇宙大シャッフル / LOVE JETS

忌野清志郎 さくらももこ 追悼 宇宙大シャッフル(LOVE JETS) ちびまる子ちゃん - YouTube

情けない思い出がある。

 

Day 28 - 声が大好きなアーティストの曲

マーシャル・マキシマイザー / 花譜 feat. 可不

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原曲ではなくカバー(?)のほう。
でも耳が節穴なので、原曲かカバーかにそこまで強硬にこだわるわけではない。

 

Day 29 - 子どものころから覚えている曲

レースのカーディガン / 坂上香織

坂上香織 - レースのカーディガン - YouTube

 

Day 30 - 自分が何者か思い出させてくれる曲

ひらめいチャッチャ! / 鈴木結愛

意味ありげに思い出すほど高尚な自我は持ち合わせていない。
日々を軽やかに遊ぶこと、それだけ忘れずにいられたら今日のところは満足だ。

*1:30拍ごとに死刑宣告してくるオリジナル曲とか作った方がいたらご連絡ください。先着1名様にこのGIFをMP4素材に焼き直してMV用に進呈いたします(いらない)。

しぐれういは神やぞ

今は11人からなる諸兄にあらせられてはよくご存じの通り、およそこの世の真理というもののありさまを決定するメタ真理と言うべきものがこの世には存在する。メタ真理の一つは、12音からあらわされる真理は凡て、2つ以上の神性の間の幸福なケコーンによって説明されうるというものである。つまりはこういうことだ。

ウルトラの父がいる
ウルトラの母がいる
そして三重にはういがいる

おわかりいただけただろうか。
きっともうおわかりいただけていることだろうが、この記事は、しぐれういが神であるというおよそ疑いえない言明に対する根拠として「ある2つ以上の要素の混淆の結果としてしぐれういが誕生した」という偽りの歴史を与えようとする記事である*1

 

1

はたして、なぜ“偽りの”歴史?
それは学の文理を問わず大昔から行われ続けてきたことだ。我々が個々に向き合っている否定しようのない現実を説明しうる、唯一妥当な歴史を――しかし本当には起こっていない歴史を――戦略的・戦術的に創作していく、ということは、12,000年の昔から行われ続けてきた。12,000年の昔から行われ続けてきたこの愚行には、手管があり、作法もある。私は行儀のいい人間であるから、今日うい先生に偽りの歴史を与えるにあたっては、古くからの作法に従って、この偽りの歴史を歴史ではなく神話と呼びならわすことにしよう。うい先生には神話になっていただこう。どうして神話にならないのしぐれうい!?

 

2

通常、神であるとはみなされないところのものに神性を見出すことはまだ簡単だが、疑いなく神であるところのものに神性を見出すことはいささか難題だ。さて、我々は当然神であるうい先生のなかにいかにして神性を見出すのだろうか。
この記事では、うい先生の声……おそらく萌え声と呼んでも差し支えないであろうかのお可愛らしい声を諸兄に想起させることで、この難事を達成したいと思う。
さあ、想像せよ、うい先生のお声を。例えば、何かに敗北して悔しがるうい先生が
くしょがよぉ
とのたまっているお声を想像するのだ。例えば、救いようのない何かを目撃したうい先生が
きっつ
とのたまっているお声を想像するのだ。実際のところ、戦いと勝利の女神であるところのうい先生が何かに敗北したり対処法を失ったりすることは考えられないため、これらの声は我々の純然たる妄想の産物に過ぎないのだが、これら妄想の産物でさえ現実の記憶かのように我々をくすりとさせるのはなぜだろう。我々自身が16歳であったときの世界への遠く柔らかな親しみ――懐かしい想い――が我々をとらえるのはなぜだろう。実はうい先生のお声には、我々をして微笑ませ懐かしがらせる独特の可愛らしさがあり、その可愛らしさを紐解くことにこそうい先生の神性を語る道があるのだ。

 

3

そもさん、萌え声とはいかなるものであったか。

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その声は、一方では、喉の意識的な制御によって生じうる人工的な声色だ。努めて高く、芯の抜けた声を出して人に聞かせ、自分に関して悪からぬ印象を与えようという意図のもとに萌え声が出されることはままある。話をうい先生に限っても、そうした人工性を声の背景に読み取ることは可能である。うい先生が意図してJJの声を創造してみせるときであるとかロリういの声を創造してみせるとき、もともと柔らかいうい先生の声がなおさら高く芯が抜けた調子になることから示唆されるように、高く芯の抜けた声という特徴は人を喜ばせる音色として意識的に選択される場合がある。

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その声は、他方では、ある種の油断によって生じうるごく自然的な声色でもある。緊張が切れたときであるとか、周りに警戒すべき人や物がなくリラックスしたときにふと、高く芯の抜けた声が漏れ出てくる、ということはままある。話をうい先生に限っても、そうした飾らない自然さを声の背景に読み取ることはやはり可能である。というのも、うい先生が予定外に配信を長引かせ疲れや眠気を増してきたときに、もとよりふわふわした滑舌がよりふわふわとしていくことから示唆されるように、高く芯の抜けた声という特徴は緊張の糸が切れたときに無意識に実現する場合がある。

 

実際のところどうなのか――うい先生は萌え声を意識して作っている人なのか、それとも自然体がむしろ一番萌え声になる人なのか――という二者択一の疑問を、私は取り上げない。躍起になってその疑問に答えを与えようとすることはさほど有益ではないだろう。
答えることが困難でもある。Vtuberであるうい先生は、しぐれういを演じるプロフェッショナルな演者であると同時に、演じられるキャラクター“しぐれうい”そのものでもある。うい先生の声が『作られたものである』場合と『自然体である』場合とは同時にすら成り立ちうる*2
我々はこの二者択一に性急に答えを出そうとするのではなく、二つの可能性が見えて容易には答えが定まらないという点にこそうい先生の本質を認めるべきだ。すなわち、あるいは人工的かもしれず、あるいは自然体かもしれない声だからこそ、萌え声は我々を微笑ませるのだと*3

 

4

どちらともつかない二者の可能性が我々をして微笑ませるとはどういうことか。
我々が性急な択一を避けて、二者の可能性のうちのどちらをも消し去らずにいるにはどうすればいいか。また、二者の可能性をパラレルで無関係な性質とはせず、あくまで互いが互いの対立項でもあるかたちのまま併存させるにはどうすればいいか。
こんなとき、問題をなんでもかんでも切り分け白黒つけてきた合理主義的な思考は、我々にとって少し都合が悪い。ソクラテス以前、あるいはキリスト教以前・ゾロアスター教以前に発想の種を求めよう。もう少し具体的に言うなら、ギリシャ神話や故事成語から適当な単語を引っ張ってこよう。そうすれば我々は、ありきたりな二者択一の発想を超越して……はいないが、二者択一の発想に陥ることを避けながら、「なんかうまいこと言ってる感」を出すことができる。それっぽい単語集はギリシャか中国に眠っているのだ。
つまりは、我々はこれから、うい先生の声に潜むどちらともつかない二者の可能性を、ギリシャ神話っぽいフレーバーで整理してみよう。

 

可愛らしさとは、一方では人工的であるべきものだ。任意の美少女が誰か特定の相手を意識して(好きとか嫌いとかまでいかずとも、名前と個性を持った特定の人物として意識して)話しかけるとき、その美少女の声に『彼女自身を可愛らしく見せよう』という意図が含まれていることは、とりもなおさず『相手に可愛らしく見られたい』という(最低限の)意識があることを意味する。この意識は言い換えるなら、美少女から相手への最も広い意味での好意にほかならない*4。美少女から、なんらかの社会的コミュニケーションを行ってもいいかと思えるくらいに意識してもらえた証左として人工的な声色を美少女から聞くとするならば、それは我々にとって喜ばしいことだ。装い、作り上げた姿こそ、可愛らしい。この、ある意味では媚態にも近いが、その実、衷心からの好意を証明するところの可愛らしさを、我々はセレーネ性と呼ぼう。
可愛らしさとは、一方では自然体であるべきものだ。任意の美少女がもし、ショーアップされた状況においてその状況にはそぐわないふわふわした声を出したとするなら、その美少女がショーアップされた状況に対して過度な緊張を持っていないことを意味する。このように緊張を切らしていることは、彼女を取り巻く環境や相手に安心あるいは油断している……その環境やその相手は多少油断してもいいくらいには心やすい間柄であるということにほかならない。美少女から、まあ極度に取り繕う必要はないかと思えるくらいに安心された証左として自然体の声色を美少女から聞くとするならば、それもまた我々にとって喜ばしいことだ。飾らない、気を抜いた姿こそ、可愛らしい。この、ある意味では怠惰にも近いが、その実、染みついた安心感を証明するところの可愛らしさを、我々はアルテミス性と呼ぼう。

 

5

我々はときに、うい先生のうちにかの月神セレーネを見出すだろう。
セレーネとは、夜(の空)を駆け、地上の生き物たちに広く光を投げかける成熟した女性である。ギリシャ神話であるから大量の異同があるものの、その大まかな性格は、好意を持っている相手から好意を持たれるよう自ら努めること、優しいこと、心を開いていることにおおむね集約されるだろう。
セレーネのよく知られたエピソードといえば、エンデュミオンとの恋のエピソードだ*5
美男子エンデュミオンと恋仲になったセレーネは、しかし人間であるエンデュミオンとの結婚を認められず、ゼウスの力を借りて(あるいは自分の力で)エンデュミオンを覚めることのない眠りにつかせる。眠りについたエンデュミオンはもはや死ぬことはなくなり、その美貌を衰えさせることもなくなったが、さりとて二度とセレーネと対面して話してもくれない。セレーネはいまもときおりエンデュミオンが眠る場所を訪れては、二度と目覚めることのない恋人を前にしてため息を重ねているらしい。

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目を開かず、相槌をうつこともできない人物に対してセレーネが一方的にため息を聞かせるしかなかったこのエピソードは、すでに知っている方も多いだろうが、ASMRの発祥を物語ったものでもある。ASMRがこのセレーネのエピソードから生まれたことを考えると、ASMRがしばしば眠りにつこうとしている人を向けて作られること、また、うい先生があえて『睡眠用ではない』ASMRを企画したことなどは示唆的だ。うい先生は、セレーネの後裔であるよりかはセレーネそのひととしてASMRを行ったのである。
リスナーは恋人では全くないだろうが、まあ最低限の好意を持っている人物ではあって、その人物が決してうい先生に言葉を返さないときにセレーネが行うであろうこととして、声を聴かせる……声には飽き足らず、より多くの質感がこもった空気を与える行為が当然選択されたわけなのだ。

 

6

我々はときに、うい先生のうちにかの月神アルテミスを見出すだろう。
アルテミスとは、狩りの達人であり、侍女たちを引き連れて山野を駆けまわっては動物たちやときには人間にも逃れられない矢を射かける処女である。その大まかな性格は、気高いこと、自らのプライバシーを犯すものに対して苛烈なほどに厳しいことにおおむね集約されるだろう。
アルテミスのよく知られたエピソードといえば、アクタイオンを罰したエピソードだ。
アクタイオンは猟犬を連れての狩りの最中、偶然アルテミスが水浴びしている場面に遭遇してしまったのだが、アルテミスは彼に大いに怒り、彼がアルテミスの様子など言いふらすことができないよう、アクタイオンを鹿に変えて、なおかつ彼自身の猟犬に八つ裂きにさせたという。

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素を見られたアルテミスが見た者を苛烈なほどに罰するこのエピソードは、「アルテミスは素なんか見せない」という特徴を「実際に素が見られてしまう」という事件によって逆説的に強調する。うい先生の歌枠でみられる設定の一つ「一人カラオケだけど配信はしている」という逆説的な事実は明らかにこのアルテミスのエピソードをなぞったものであり、つまりはうい先生がアルテミス自身であることの傍証でもある*6

 

7

その正体が人工性と自然さであるならば、セレーネ性とアルテミス性はそれぞれがそれぞれの対立項としてあらわれる。しかしながら、セレーネとアルテミスはともに月の女神であり同一視されることすらある、という神話的事実は我々にこんな発想を抱かせもする。セレーネ性とアルテミス性は水と油でもあるが、セレーネ性から生み出されるところのアルテミス性やアルテミス性から生み出されるところのセレーネ性もあるのではないか。あるいは、セレーネ性からしか生み出されえないところのアルテミス性、アルテミス性からしか生み出されないところのセレーネ性もあるのではないか。
ならば、アルテミス性がセレーネ性に容易にハックされ、セレーネ性がアルテミス性に容易にハックされる、という事実に今度は注目しよう。つまり、『自然体は可愛さとみなしうる』というルールを踏まえたうえでの『作られた怠惰さ』としてのアルテミス性(セレーネ性)や、『可愛さとは人工的なものである』というルールに取り込まれたうえでの『意図せざる媚態』としてのセレーネ性(アルテミス性)が存在しうるということだ。
いや、上の言い方は多少ミスリーディングだ。我々が日々直面している事態のなかで『本当はセレーネ性であるところのアルテミス性ある』とか『本当はアルテミス性であるところのセレーネ性ある』とかいった真実が重要なのではない、むしろ『あらゆるセレーネ性はアルテミス性の変形である可能性がぬぐえない』とか『あらゆるアルテミス性はセレーネ性の変形である可能性がぬぐえない』とかいった決定不能性が重要なのだ。セレーネ性とアルテミス性という2種の可愛らしさはそれぞれがその否定形に還元されうる可能性を持っており、なればこそ、両者は互いにとっての対立項ではあるが排反ではない。
セレーネ性はアルテミス性の否定としても機能するが、見方を変えるとそれ自体アルテミス性にもなりうる。アルテミス性はセレーネ性の否定としても機能するが、見方を変えるとそれ自体セレーネ性にもなりうる。このとき、我々は我々自身の思考をして、ついつい二者択一と還元主義に傾きがちな合理主義の枠組みから少しだけ距離をとらせ、二者の可能性が入れ替わり続ける神話の枠組みへと誘導できるだろう。

 

まとめるならば、いま我々が導入しようとしているところの「セレーネ性 / アルテミス性」とは、排反なものではなく、また静的な二分法でもない。むしろ、互いが互いの対立項ではあるが両立可能でもあり、不断に両者が入れ替わる動的なバランスにある。
付け加えるならば、「セレーネ性 / アルテミス性」とは、我々が日頃直面している可愛らしさをシンプルに二つに分類する“解”ではなく、むしろ、見方の違いでどちらともみなせるが、どちらとみなす見方にもいちおうの納得感があるようなひとつの“解法”なのだ。

 

互いの対立項である2種の特徴が互いを生み出しもする、といった理解が可能だとして、この理解は与えられた事態〈うい先生の声可愛らしい〉から演繹的に妥当な結論でも帰納的に妥当な結論でもない。というのは、〈うい先生の声可愛らしい〉という事態から他の理解でなくこの理解だけが際立って導きやすいというわけではなく、また、この理解を用いることで〈うい先生の声可愛らしい〉という事態を含めたより多くの事態をシンプルかつ整合的に説明しやすいというわけでもないからだ。この理解に対して現状下しうる評価は、せいぜい「そんな考え方もありますね」というだけの評価だ。だからこそ、我々は真実としてよりかは偽りとして、この理解を用いよう。冷静に月を観察したときではなく、月に見とれたとき、我々はもっと高い次元の虚偽に到達できるのだ。
我々の偽りの歴史のなかで、セレーネ性はアルテミス性のなかから、アルテミス性はセレーネ性のなかから常に生まれてきたのだ。新月が次の満月を、満月が次の新月を、いつも呼び寄せるように……。

 

8

科学理論が安直な当てはめゲームを拒否できたとしても、神話はそのように当てはめゲームを拒否できない。神話というものは尻軽で、たとえ私が引用しなくとも、あらゆる分野へと無際限に野放図に引用されていく。
我々が認めんとするところの偽りの歴史、セレーネ性とアルテミス性とが互いの対立項でありながら互いを生み出してきたという神話もまた、うい先生やVtuberに限らずなんにでも安直に当てはめ可能だ。
例えば、『オタクに優しいギャル』なるものに、アルテミス性がセレーネ性をハックしたという背景をでっちあげることは可能ではないだろうか。
その昔、ギャルというものは(どちらかといえば)オタクが怖がり避けるところのものだった。オタクがギャルを怖がり避けてきた原因のひとつはおそらく、ギャルというものが、意図して作り上げた人工的な装いの極致(しかも、それは男性へのアピールを意図したものではない)であったことであろう。派手なメイク・染髪等によって大げさに作り上げられた人工的な姿は『黒髪ロング』などのいかにもな自然体清楚と比較して明らかに嫌がられるものであったというわけだ*7。しかしながら、そうしたギャルへのネガティブな印象はいとも簡単に反転しうるだろう。一つの可能性としては、ギャルがもともと具えていた人工的な性質が『非-アルテミス性』ではなく『セレーネ性』としてストレートに評価されるようになった、というシナリオ。もう一つの可能性としては、ギャルの装う意図が男性には向いていないということが自己目的的な在り方として、つまりは一種の自然体の可愛らしさ『アルテミス性』として評価されるようになった、というシナリオ。いずれにせよ、『かつては可愛いものではなかったギャルがいまは可愛いものである』という現代を説明する偽りの歴史がここには成り立つ*8
そう、私が『かつては可愛いものではなかったギャルがいまは可愛いものである』という逆転現象に対していま与えようとしている説明というのは、あきれるほど当たり前の話、せいぜい『ものは言いよう』レベルの話であって、私はこのあきれるほどの当たり前さのなかに可愛らしさの逆説を埋め立てようとしている。神話の影はいつだってどこにだって潜んでいる。その遍在は未来をも例外とはしないだろう。これからも可愛さの定番は当然のように反転し続け螺旋を描いていく……。

 

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そういえばうい先生も語っている。「昔は靴下長めのJKのほうが好きだったけど、最近じゃ靴下もくるぶしぐらい短いのが流行ってきているみたいで、実際に短い靴下をはいている夏のJKを見てみるといいものだ」とかなんとか……。可愛さのパラダイムが絶え間なく逆転する神話があったとして、我々も、うい先生も、この神話に対して俯瞰する立場にはなく、ときに可愛さのパラダイムを能動的にハックし、ときに可愛さのパラダイムの変化を素直に受け入れる神話の登場人物に過ぎない。この神話の登場人物のなかでも広範な影響力を持つ者は神絵師とか神とか呼ばれるべきところではあるが、その点しぐれういはやっぱり神やねんぞ*9

*1:というのは真っ赤な嘘だ。この記事を書くにあたっての表テーマは『うい先生の声いい』という話であり、裏テーマもあるがこれまた神性云々とは別の話であって、神性云々の話は正直私はどうでもいいと思いながら書いている。実際にこの記事中もよく読むと神性云々の話の論理展開はきちんとつながっていないことがわかるだろう。

*2:Vtuber全般において、この読み――Vtuberが演じるものであると同時に演じられるものであるという読み――がただちに意味を成すわけではないだろう。今日の状況にあっても、私はある種のVtuberが演者の存在を前提とせず単体で成立するフィクショナルなキャラクターであることを要請するから。フィクションのキャラクター全般に対して『演者がどうこう』という読みをかませて論じようとするのは愚かだというべきだ。
しかし、うい先生を他のVtuberと比較して際立った神性をそこに見出すうえでは、『演者であると同時に演じられるところのものでもある』という読みは必ずしもナンセンスではないと信じたい。というのも、うい先生は“Vtuberしぐれうい”というキャラクターをフィクショナルに確立する前から一定の業績を持ついちイラストレーターであり、あくまで『イラストレーターがVtuberをしている』という設定(客観的事実)のもとでVtuberを行っているからだ。『(定義上)Vtuberである / Vtuberをやっているしぐれうい』が存在するとき、不可避に『(定義上)Vtuberであるとは限らない / Vtuberをやろうとしているしぐれうい』も存在することになる。

*3:と、書いてはみたものの、我々は“萌え声”なるものの定義を、内包的にあるいは外延的にいかにして表現するのかという問題はずっと私を悩ませていて、正直なところ答えも出ていない。人の声の特徴ってどのような概念やどのような基準で分類していけばいいのだろう?

*4:だがそれはあくまで広い意味での好意だ。仮に美少女から作り声で話しかけられたとして、その美少女から最も狭い意味での好意――恋愛感情――を抱かれていると確信するような人がいたら、その人はやべー人だ。言うまでもなかったか?

*5:というか、セレーネのエピソードだと断言できるエピソードがギリシャ神話にはそもそも少ない。

*6:うい先生がアルテミスであったならば、地上に生きるものが誰一人避けることができないアルテミスの矢に相当する光学兵器をうい先生が持っている、ということは容易に予想される。はたして、それはどんなビームであるのだろう?

*7:議論の内容とは全然関係ないが、うい先生は黒髪ロングと金髪ツインテだったら黒髪ロング派らしい。

*8:ところで、その生まれてきた経緯がフィクショナルなものである以上、生み出された概念であるところの『オタクに優しいギャル』『オタクが嫌がるギャル』もフィクションに過ぎない、ということは想像に難くない。『オタクに優しいギャル』も『オタクが嫌がるギャル』もオタクの想像の中にいるものであって、現実はきっとそんな想像とは違って容易なパターン分けを受け付けない。

*9:これはべつに余談なのだが、この記事の裏テーマというのは、「論理の観点からいって必要なわけでも説明の観点からいってわかりやすいわけでもない不法な論理展開をどれだけ堂々と行えるか」というところにある。言い換えれば、「私はどのような下準備のうえで、神話モチーフを無意味に引用できるだろうか」というところが私がこの記事を書く動機ではある。はたして、うい先生が神であると主張するうえで、また、萌え声の性質を探るうえで、ギリシャ神話から用語を引っ張ってきたことにはどれだけの意味があった / なかっただろうか? わざわざセレーネやアルテミスを持ち出さなくても、往年のツンデレ論を改鋳するとかでじゅうぶん語れる内容だったのだろうか、この記事の内容は?

ウルトラマンの色を変えて遊ぼうぜ

ウルトラマンのカラーをコーディネートして、きみだけの超クールなカラーリングのウルトラマンを作っちゃおうぜ!

そのために、まずはいろんな時代のいろんなウルトラマンの定番コーデを振り返ってみようぜ!

この記事の終盤は『シン・ウルトラマン』のネタバレを含むんだぜ!

※記事中のコーディネート分類はすべて主観によるものであり、また便宜上のものです。よく知られた分類というわけではありません。

 

0. モデルの紹介

「6 : 4」コンビネーション

基本は「銀6 : 赤4」。定番中の定番、時代を問わず人気のあるスタイルですね。

モデルは↑初代ウルトラマンさん

ご存知『怪獣退治の専門家』。『ウルトラマン』(1966)初出。

デザイナーの成田亨氏がスーツアクター古谷敏氏を推しており、古谷敏氏のスマートな体格を想定してウルトラマンのデザインを描いたというのは有名な話。

今回はデザイン意図を重視してちょっと細め・カラータイマー無しで描いてみました。

 

「8 : 2」コンビネーション

基本は「赤8 : 銀2」。ちょっとクラシカルなスタイル? 無難に決めたいときはおすすめ。

モデルは↑ウルトラセブンさん

昭和期からずっと、ウルトラ兄弟中でも一二を争う人気の名デザイン。『ウルトラセブン』(1967)初出。

デザイナーは初代ウルトラマンと同じく成田亨氏。ウルトラマンのデザインに勝手にカラータイマーをつけられた反省を活かして、額のビームランプなどの無機物感を違和感なく取り込んでいると言えましょう。

初代ウルトラマンやティガとテイストをそろえるために、実際のスーツよりもちょっと細めに描いてみました。

 

「4 : 3 : 3」コンビネーション

「紫4 : 赤3 : 銀3」や「銀4 : 青3 : 赤3」など。『タイプチェンジ』が登場した平成以降に登場したモダンでアーバンなスタイル。コーデテクに自信がある人向け。

モデルは↑ウルトラマンティガさん(マルチタイプ)

超古代文明にゆかりのある謎多きウルトラマン。『ウルトラマンティガ』(1996)初出。

今では定番となった『タイプチェンジ』を初めて取り入れたウルトラマン。銀紫赤のマルチタイプから、銀紫のスカイタイプ、銀赤のパワータイプへと変身します。

デザイナーは1995年から2006年にかけてのほとんどの主役ウルトラマンをデザインした丸山浩氏で、平成のウルトラマン像を決定づけたといってもいいお方。

本当はマルチタイプはもうちょっとマッシブで胸板が厚い印象なのだが、今回は、初代ウルトラマンにシルエットを寄せるためにちょっと細めに描いてみました。

 

1. 赤の色味の違い:初代ウルトラマンの場合

よりによって一番最初に一番細かい違いから書いていきますが、ウルトラマンの“赤”には、ひとくちに“赤”といってもいろんな“赤”があります。

“赤”の色味はウルトラマンごとによってももちろん違いますが、実は、初代ウルトラマンという一人のウルトラマンに絞っても、状況次第で結構違った色味の“赤”を見せてくれます。

まずはそのいろんな“赤”の違いからチェックしていきましょう。

真ん中のウルトラマンを基本とするなら、左側のような「黄色味の強い赤」と右側のような「青色味の強い赤」が変種として存在します。

「黄色味の強い赤」は1960年代によく見られます。とくに、『ウルトラマン』本編映像や撮影中に撮られたスチールなんかに映ったウルトラマンはかなり黄色味が強いことが多いですね。

「青色味の強い赤」は、筆者の記憶によれば、2010年前後にわりと多かったです。『ウルトラマン列伝』の新撮カットなんかはときたますごく青色味の強いウルトラマンが見られた気がするんだけど、正直記憶があやふやで自信がない。有識者がいたら、いつのウルトラマンがとくに青色味強かったかとか教えて欲しいです。

 

ウルトラセブンは、初代ウルトラマンと比較して、ベースラインの時点で比較的黄色みが強い。真ん中か、ひょっとすると左側のセブンの色を基本として、右側のような「青色味の強い赤」を変種と考えてもらえばよいでしょう。

「青色味の強い赤」のセブンは、初代ウルトラマンと同様、2010年前後によくみられます。とくに『ULTRASEVEN X』(2007)に登場するセブンの亜種ウルトラセブンエックスなんかはけっこう青色味の強いイメージを持たれることが多くありませんか?*1

 

時代ごとにウルトラマンの色味がけっこう違うのは、第一には、撮影の方法がフィルム→ビデオ→デジタルハイビジョンと移り変わってきたことや、怪獣の情報源が紙書籍からデジタルメディアに移り変わってきたことなど、『メディアの変化』に依存するところが大きいでしょう。でも、メディアの変化がある程度の傾向を決めてきたとしても、世に出てくる映像や画像を最後に色調整したのは人間ですよね。いつも最後には人間がウルトラマンの色を決めているってことは、それぞれの時代にはそれぞれの世代ごとの「ウルトラマンといえばこの色!」というイメージがあるってわけで、ウルトラマンの色からその時代の雰囲気を想像してみるというのもなかなか楽しい!

時代ごとの色味の変化とは別に、シーンごと・カットごとの色味の変化も実はけっこう大きいのです。ときに、歴代のウルトラシリーズ作品では、ミニチュア特撮は屋内セットで、最後ウルトラマンが空に向かって飛び立つ瞬間のカット(イントレを使うカット)は屋外で撮影することが多いのですが、1966年の『ウルトラマン』を観てみると最後ウルトラマンが飛び立つ瞬間だけ“赤”の色味がちょっと違う場合があったりなかったりします(これはけっこうマスターによる)。同じシーンなのにカットごとに色味が違うっていうのは、映像的にはあんまり気づかれたくないことなのかもしれませんが、制作風景をイメージさせるので観ている側としてはなかなか面白い……。

 

2. シルバー族、レッド族、ブルー族:光の国のウルトラマンたち

スパイダーマンシリーズにおいて、スパイダーマンの正体は「遺伝子操作クモにかまれた普通の高校生」だったり「機械と心を通じ合わせられる女子高生」だったり「宇宙人からクモの能力を与えられたオートレーサー」だったりと作品によってさまざまなパターンがあるように、ウルトラシリーズにおいても、ウルトラマンの正体にはさまざまなパターンがあります。

まあ、さまざまなパターンがあるといっても、一番の基本となるパターンはやはり「M78星雲光の国から来た宇宙人」というものでしょう。

この「M78星雲光の国の宇宙人」としてのウルトラマンには、シルバー族、レッド族、ブルー族という3つの種族があるという設定があります。具体的なウルトラマンの名前を挙げながら、3種族それぞれをイメージしたコーデを見てみましょう。

 

シルバー族

どちらかといえば頭脳労働が得意だが、資質によっては戦闘でも事務でも何でもこなせてしまうシルバー族*2

一番左は「銀6 : 赤4」のベーシックなコーデ。初代ウルトラマンのほかにも、昭和の雄ウルトラマンジャックウルトラマンエースから令和のシンデレラボーイウルトラマンリブットに至るまで、幅広く愛されていますね。

真ん中は、とりあえず図と地をひっくり返して「赤6 : 銀4」で決めてみたコーデ。とはいえこのパターンにあてはまるコーデのウルトラ戦士は光の国には意外と多くない気はします。しいて言うならウルトラマンメビウスあたりが「赤5 : 銀5」くらいの印象になっているでしょうか?

一番右は「銀8 : 赤2」のコーデ。セブンのようなずんぐりむっくりタイプにはあんまり似合わないかもしれない。これもやはり数は少なく、ウルトラマンタイガあたりがギリギリ該当者でしょうか。

 

レッド族

どちらかといえば肉体労働、とくに戦闘が得意なレッド族。

レッド族はなんといっても「赤8 : 銀2」ですね。セブンをはじめ、ウルトラマンタロウからウルトラマンマックスに至るまでがこのコーディネートを採用しています。

 

ブルー族

学者肌や芸術家肌の人物が多いとされるブルー族*3。設定としては遅くとも70年代の頃から存在しましたが、映像作品に登場したのは『ウルトラマンメビウス』(2006)のウルトラマンヒカリが初出。

一番左の「銀6 : 青4」は、もろウルトラマンキヨタカのスタイルですね(まあ、彼は光の国ではなくオアフ島出身ですが)。映画『ウルトラ銀河伝説』(2009)を見ると、このタイプを含めたブルー族のウルトラマンたちがモブとしてそこらへんをごろごろ歩いているのが見られます。

真ん中の「青6 : 銀4」はキヨタカの反転。「青6 : 銀4」とまで言えるかは微妙ですが、代表的な学者ウルトラウーマンであるソラのコーディネートは少なくとも「青5 : 銀5」くらいには青の面積が多い印象ですね。

右の「青8 : 銀2」はセブンのコンパチ。『ウルトラ銀河伝説』を見てみるとこのタイプのコーディネートもたくさん確認できます。

 

ブルー族のウルトラマンには、以下のような三色コーディネートをみせてくれるテクニシャンもいます。

一番左の「青4 : 紺3 : 銀3」の大人っぽくもおしゃれなコーデはウルトラマンヒカリのスタイル。

真ん中の「青4 : 水3 : 銀3」のユニークで若々しいコーデはウルトラマントレギア(アーリースタイル)のスタイル。

右の「銀4 : 青3 : 黒3」の大胆なコーデは期待の大型新人ウルトラマンゼット(オリジナル)のスタイル*4ニセウルトラマンダイナ(ミラクルタイプ)などを見てもわかるように、伝統的には「黒は悪の色」とされており、「正義のウルトラマンが差し色に黒をチョイスする」はここ10年ほどで定着してきたトレンドです。宇宙警備隊所属のウルトラマンであるゼット(2020年初出)がついに差し色に黒を採用したことには歴史の流れを感じさせませんか?

 

混血

レッド族とブルー族の混血(場合によってはセンシティブな言い方かもしれませんが、ほかに伝わりやすい言い方がないのでこう呼びます)のウルトラマンも登場してきました。

光の国出身のウルトラマンで「青4 : 赤3 : 銀3」のド派手なスタイルができる男はウルトラマンゼロをおいてほかにいないでしょう。彼は父がレッド族(かのウルトラセブン)で母がブルー族(科学者であるらしい)です。なんてサラブレッド……。

ゼロが三色コーディネートをするのは、ティガやダイナのようにタイプチェンジ能力を象徴しているとかではなく、単に出自による生まれつきのものでした。しかし、なんやかんやあってゼロは、光の国出身のウルトラマンとしては珍しく、後天的にタイプチェンジ能力を得るに至りました。運命が体に引きずられたんですかね。サラブレッドの強みは才能だけでは終わらないのか……。

 

3. デザイン案:ありえたかもしれないウルトラマン

初代ウルトラマンならびにウルトラセブンには、私たちがよく知るデザインにたどり着くまでにいくつかの検討用デザイン(もっとわかりやすく言えば没デザイン)があったわけですが、それら没デザインは当然、シルエットが違うわけではなく、カラーコーディネートも違ったわけです。

これら検討用デザインのカラーコーディネートを、私たちが知っている現在の初代ウルトラマンウルトラセブンに当てはめてみると、「歴史がほんのちょっと違っていたらこんなウルトラマンだったかもなあ」と妄想が膨らんで楽しいわけですね、はい。

 

こちらは、左と真ん中の2枚が、初代ウルトラマンのデザイン案にみられる配色を完成形の初代ウルトラマンにあてはめたものです。

デザイン段階では、「銀6 : 青4」のもろキヨタカなコーデや、上品なプラチナゴールドを地にしたコーデも検討されていたわけですね*5

最終的には、一番右のような「銀6 : 赤4」の配色に落ち着きます。定説では、銀色は宇宙ロケットをイメージしたもの、赤色の流線で引かれた模様は火星の運河に着想を得たものだそうです。

 

こちら、上段はセブンのデザイン案にみられる配色を完成形のセブンにあてはめたものです。

成田亨氏は当初、セブンのスーツアクターに内定していた上西弘次氏のちょっとずんぐりむっくりなスタイルをみて、よりスマートに見せられる青色でセブンをデザインすることを模索していたそうです。

結局セブンが赤くなったのは、体が青いとクロマキー処理するのが大変だからだったそうです*6

 

成田亨氏は『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の制作から離れてからも、折々にウルトラマンやその後継のデザインを検討していたわけですが、いくらかの期間、金色と黒色のコーデは彼のテーマになっていたらしいですね。

左の画像は、成田亨氏が『ウルトラマンG』(1992)の企画段階で独自に描いたデザイン案「ウルトラマン神変」をイメージした「金6 : 黒4」コーデ。右の画像は、成田亨氏が1990年代中盤に企画していたらしい『ネクスト』というヒーローのデザイン案をイメージした「黒6 : 金4」コーデ。仏像じみた力強さとなんとなく近寄りがたさを感じるコーデですね。

 

4. 外伝漫画等:光の国にいるかもしれないウルトラマンたち

1970年代後半、内山まもる氏やかたおか徹治氏などがウルトラシリーズのオリジナルスピンオフ漫画を数多く描き、それらの作品はいまでは半ば伝説になっている*7わけですが、こうした作品にだけ登場したウルトラマンのカラーコーディネートというものもあり、見逃せません。

 

ここに挙げたのは、左側が、先ほど挙げた「赤6 : 銀4」コーデから一歩進んで顔まで赤くしたコーデ。右側が、そのコーデの赤色を黒色に変更して「黒6 : 銀4」にまとめたコーデです。これらはどちらも、内山まもる作品に登場するウルトラ忍者部隊かたおか徹治作品に登場するW87星人をイメージしたものです。

ウルトラ忍者部隊とは、内山まもる氏の(実質)読み切り漫画作品『月面要さい大作戦』*8にちょろっとだけ登場する特殊モブです。彼らは隠密活動に適した姿をしており、通常のウルトラマンとは図と地が反転したカラーリングで表されます。このカラーリングなのですが、内山まもる作品ではウルトラマンの赤は基本的に黒ベタで表されるため、ウルトラ忍者部隊が実際のところ「赤6 : 銀4」コーデなのか「黒6 : 銀4」コーデなのか、はたまた別な配色なのかはよくわかりません。宇宙空間で隠密行動をとるので「黒6 : 銀4」なのではないかと個人的には思っています。

W87星人とは、かたおか徹治氏の(実質)読み切り漫画作品『ウルトラ大戦争*9のメインヴィランとなる謎の種族です。彼らの故郷W87星はもともとウルトラマンたちの故郷M78星(この作品ではM78星“雲”でなくM78星と呼ばれる)と兄弟星の関係にあり、彼らもなにかしらウルトラマンたちと近しい種族だったらしいのですが、科学技術が発展するうちに対立するようになり、並行宇宙へ追放されたのだとされています。彼らもウルトラ忍者部隊と同様、黒ベタの地に白抜きの模様という形で表されます。ときに、かたおか徹治作品ではウルトラマンの赤はトーンで表されるため、W87星人がウルトラマンのカラーリングをただ反転した「赤6 : 銀4」コーデなのかウルトラマンとは別の色を使った「黒6 : 銀4」コーデなのか、はたまた別な配色なのかはよくわかりません。彼らは徹底してウルトラマンのアンチテーゼとして設定されているので「赤6 : 銀4」なのではないかと個人的には思っています。

はたして、顔まで赤や黒で染めるというのは、銀を基調とするウルトラマンにとってはなかなか斬新なコーディネートに思えますが、映像作品に登場したウルトラマンのなかに該当者がまったくいないわけではありません。ウルトラマンゼアスは顔まで赤い「赤6 : 銀4」コーデでした(ただし彼はM78星雲光の国出身ではなくZ95星雲ピカリの国出身です)。ウルトラマンベリアルは、もともとは「銀6 : 赤4」コーデでしたが、いろいろあって闇落ちしたことで顔まで黒い「黒6 : 赤4」コーデになりました。個性を見せつけたいのなら、顔の色を攻めたコーデというのも考えてみる必要がありますね。

 

内山まもる作品『ウルトラマンメビウス外伝 アーマードダークネス』に登場するウルトラウーマンのアウラは、光の国出身としては珍しい「紫6 : 銀4」のコーディネートをみせてくれます*10

光の国のウルトラマンとしてよく知られているのはシルバー族・レッド族・ブルー族の三種族だけですが、アウラのような紫肌の種族も少数ながら存在しているのでしょうか? それとも、レッド族とブルー族の混血の中に、ゼロなどとは違った形で両種族の遺伝子を発現させる者がいて、そのひとりがアウラなのでしょうか? 妄想がふくらみます。

実は、現在公式設定とされることはまずないですが、光の国にはシルバー族・レッド族・ブルー族以外にもいくつかの種族が存在する、という設定があったこともあります。昔の設定としてはあったかもしれない種族としては、ホワイト族・緑色の種族などがいます。なんにせよ、光の国にはまだまだ私たちの知らないコーデが眠っているのでしょう。

ん、「光の国にゆかりの深いウルトラマンで、紫の肌を持った人がいるだろ」って?

そういえばいましたね、謎だらけの紫ウルトラマンといえばウルトラマンキングが……*11*12

 

5. シン・ウルトラマン:着回し七変化

『シン・ウルトラマン』に登場したウルトラマンは色がスペクトラルに変化しましたよね! 新感覚!

『シン・ウルトラマン』でみられたウルトラマンをイメージしたコーデがこちら。左から、地球人と合体する前(本調子)、エネルギー消耗時(疲れ気味)、地球人との合体後(常時不調)のイメージです。Cタイプスマイルで統一したうえで見比べると、色合い本来のシックさがまた際立つでしょうか?

まさかの登場、ゾーフィウルトラマン(神変)のカラーリングでした(トサカが黒いことも重要ですね)。

 

うーん、おしゃれ。初代ウルトラマンの登場から50年経っても、このデザイン、まだまだカラーリングを遊べますね……。

 

終. 今後の展望

この記事は、光の国出身のウルトラマンたちのカラーバリエーションを中心にいろいろ集めてみましたが、ウルトラマンというデザインに対するカラーバリエーションにはまだまだたくさんの数があります。光の国以外の場所出身のウルトラマンたちのコーデとか、悪のウルトラマンたちのコーデであるとか、はたまたウルトラシリーズ劇中に登場したさまざまな素材のスタチューをイメージしたコーデであるとか……切り口はたくさん考えられるでしょう。

もっといろいろまとめようかと思っていましたが、やめました! 筆者は色相フィルタの目盛りをちまちまいじる作業に疲れたのです。あとは誰かがやってください。

*1:ただ、ウルトラセブンエックスのスーツは実は印象ほどは青色味が強くなく、青色味が強いイメージだけが先行しているという感じもします。これはおそらく『ULTRASEVEN X』は夜のシーンばっかりだったためでしょう。

*2:実際のところ、光の国に暮らす3つの種族の間では、傾向としては得意分野の違いがかなりくっきりとあるが、もちろん最終的な能力バランスは個人の資質と努力によって違い、職業選択の自由もあるらしいです。光の国ほど進んだ文明で人種差別とかあってほしくないですもんね。

*3:芸術家肌に関しては気のせいかもしれないです。私はどっかで読んだ気がするんですが、出典を見つけられませんでした……。

*4:ただ、正確にはゼットは出身地不明で、光の国のブルー族に入るかどうかははっきりしません。

*5:デザイナー成田亨氏の画稿の資料はしばしば色が薄いので(写真撮影上の都合かもしれない)、本当のところ成田亨氏が意図していた色が薄めのゴールドだったのか実は濃い目のゴールドだったのかはまた議論の余地があります。

*6:現在では、クロマキー処理のときブルーバックもグリーンバックもぼちぼち使われますが、どうも1960年代当時はブルーバックが圧倒的に主流だったようなきらいがあります。

*7:ここで“伝説”といっているのは、ファン必読という意味でもありますし、現在の公式設定とはあまりみなさないという意味でもあります。

*8:小学館の『ザ・ウルトラマン』第4巻に収録

*9:文春デジタル漫画館の『ウルトラ兄弟物語』第2巻に収録

*10:ただ、アウラの肌は、イラストによってはかなり赤寄りの紫で着色されている場合もあり、紫が絶対に正しいとは少し言いづらいところもあります。

*11:キングは「銀6 : 紫4」くらいの独特なコーデですが、このキングの“紫”は作品による色味の変動がとくに激しいです。画像よりちょっと明度が高い紫になっていることもあれば、画像よりもちょっと明度が低く青みが強い紺色寄りの紫になっていることもあります。

*12:キングは基本的に出身地は不明だとされています(怪獣図鑑等でたまに『出身地:キング星』と表記されているのは、ふだんはキング星に住んでいるという設定を便宜的に表したものです)。キングが光の国のウルトラマンたちから崇敬を集めている様子はシリーズ作品でしばしば描かれているため、なにやら光の国にゆかりが深そうな雰囲気ではありますが、キングが光の国出身と断言されたことはありません。なお、居村眞二氏の漫画作品『ウルトラ超伝説』ではキングが光の国出身という独自設定をとっており、キングの幼少期も描かれます。

ファニーゲームの感想的な

よく知らない人とよく知らない人が『ファニーゲーム』(1997)の感想を話しているのを聞くという機会(どういう機会?)に遭遇して、その内容の一部に私は同意できたので、その他人の意見を整理しなおすという形で『ファニーゲーム』の解釈を書いてみたいと思う*1。以下、全部『私』の意見というていで記事を書いていく(書きやすいので)が、実際のところは、他人からの完全な受け売りとか、他人とのおしゃべりのなかで固まった意見なんかも多分に含まれている。「へー」と思ってください。

 

具体的には、『ファニーゲーム』において一体何が“ゲーム”だったのか、みたいな切り口で、映画の時系列に沿って順に考えていくつもり。

 

先に言っておくが、私はこれから『ファニーゲーム』という映画に対してまあまあの分量(10,000字)の記事をこれから書こうとしているわけだが、かといって私がこの映画を誰かにオススメするような気持ちはみじんもない。この映画はマジで退屈なので。それが意図された退屈であると私には理解されるので、「この映画は退屈」と述べてみたところでべつにこの映画の価値を否定することには当たらないのだが、それはそれとして、この記事を読んだ人が『ファニーゲーム』観て「つまんなかった」「しんどかった」などの損害(それらはある意味損害だ)を仮に被ったとしても私には責任がとれない。この映画が退屈だということははっきり言っておくので、退屈だったという理由で私には文句を言わないでほしい。
あと、まれにこの映画が全然退屈じゃない人もいるらしいということも言い添えておく。この映画があなたにとってめちゃくちゃ面白かった場合でも、私は当然責任を取らないので、文句を言わないでほしい。

 

1.非-ゲーム:退屈な日常 VS ゲーム:刺激的な非日常

アンナ(妻)、ゲオルク(夫)、ショルシ(息子)の三人家族(あと犬もいる)が郊外の別荘に遊びにやってくる。その別荘へ行く車中の一家の風景から映画が始まる。
アンナとゲオルクは、カーステレオでクラシックのカセットを次々かけて指揮者当てクイズ(たぶん)を楽しんでいる。ただそれだけのシーンがまあまあの時間続く。後部座席のショルシは指揮者当てクイズには興味ないようで、どこともなく視線を泳がせている。うーん、退屈。
別荘に着くと、まずゲオルクとショルシはすぐそこの湖までボート遊びに繰り出す。残ったアンナは料理の支度。この料理のシーンでキッチンの置時計が壊れていることがわかるのだが、この時はまだそんなに重要じゃない。
料理の支度をしていたアンナのもとにガリガリとデブの二人組の若者たち(名前は全然覚えてない)が訪ねてくる。彼らは最初は卵を分けて欲しいとお願いにきている様子で、卵を割ったりアンナのケータイを壊したりと、ただの愚図かと思われた。が、若者たちはぺらっぺらぺらっぺら正論を喋りながらアンナに無礼な行動をとり続け、「あ、こいつら意図的にアンナを挑発してるな」と私たち観客にもすぐにわかってくる。やがてゲオルクとショルシが湖から戻ってくると、なんやかんやあって、若者たちはゲオルクの膝をゴルフクラブで殴って立てなくさせる。
父親の膝をつぶされて抵抗力を奪われ、ケータイを壊されて外部への連絡手段も失った一家は、別荘のなかで若者に脅されていわれるがままになる。若者たちが初対面の家族に容赦なく暴力をふるう理由はガリガリいわく「楽しいから」。ガリガリは宣言した、「これは楽しいゲームだ、一家のうちひとりでも一定時間(12時間とかだっけ?)を生き残ったら一家の勝ち」と。
退屈な日常は終わりを告げ、理不尽な暴力がルールを書き換える。さあ、ゲームの始まりだ!

 

2.ゲーム:有閑階級の日常 VS 非-ゲーム:ヤク中どものゲー無

と、思いきや。だんだんとわかってくるのは、若者たちがやっていることがあまり“ゲーム”らしくないということだ。
例えば若者たちは、妻アンナに「服を脱いで裸になる」という内容のゲームを強制する……これのどこがゲームなん? 若者たちは圧倒的な暴力で主導権を握っており、特段のハンディを家族に与えることはないし、プレイヤーであるアンナがやることは「服を脱いで裸になる」以上でも以下でもなくて、そこになんの戦略も駆け引きもない。これ、若者たちはやってて楽しいのか?
とりあえずアンナは楽しくなさそうだ。映像でアンナの下着姿とか裸とかが映ることはなくて、アンナが服を脱いでいるあいだカメラはひたすらアンナの顔にクロースアップしているのだが、このときのアンナの表情がもうひどくて「え、かわいそう」となること請け合い。
彼らのしていること・彼らが一家に対して強制していることは“ゲーム”とはとても言えない……しいて言うなら、『罰ゲーム』というものがなんの罰でもなく単体で行われているようなものを“ゲーム”と呼べる限りにおいてなら、彼らのしていることは辛うじて“ゲーム”といえる。この若者たち、“ゲーム”をやるセンスというものがまるでない!

 

若者たちのセンスの欠如がはっきりと示されるのが、無人の隣家での戦闘シーンだ。映画中盤、頑張って別荘から逃げ出した息子ショルシは、無人の隣家に逃げ込む。ガリガリもショルシを追ってその隣家に入ってきて、恐怖のかくれんぼが始まる……はずなのだが、ここでガリガリがやることがどうも微妙にズレている。
ガリガリは「隠れてるのはわかってるんだぞ」とかなんとかお決まりのセリフを吐きながらショルシを探すのだが、このときガリガリは部屋の電気を点け、あろうことか部屋にヘビメタを流し始めるのだ。
これ、映像として観てないとピンと来ないかもしれないけど、観てるとすごく違和感のある行動だ。だって、もしガリガリが“ゲーム”を楽しみたいのなら(そして、サスペンス映画らしい展開を演じたいのなら)、電気を消したままにして、静かなままの屋内で、わずかな物音を頼りに敵を追いつめる、といった駆け引きを楽しむはずだ。ところが、彼は電気も点けるしヘビメタも流すから、駆け引き要素は限りなく縮減されて、“恐怖のかくれんぼ”は作業ゲーかさもなくば運ゲーと化してしまう。結果、ゲーマーとしても不自然、サスペンス映画としても不自然なシーンが誕生する。ガリガリよ、お前はヒットガールじゃないんだぞ。
ものすごく明るくてありえないほどうるさい部屋の中で、なんとなーくショルシを追い詰めたガリガリは、ショルシが隣家で拾った猟銃を持っているのを認めると、ショルシを「ほら撃ってみろよ」とけしかける。ショルシは、動揺しながらも引き金を引いたが、弾が込められてなかったか安全装置がかかってたかで(どっちか忘れた)発砲されない。ガリガリはなんということもなくショルシを捕らえる(さっき『無人の隣家での戦闘シーン』と書いたが、あれは嘘だ。戦闘らしい戦闘などない)。
銃を持った少年を挑発するというのも、一見アクション映画のお約束を忠実になぞっているようでいて、よく見ると微妙に違和感がある。どうも、ガリガリが「ショルシはどうせ発砲できない」と推測するための根拠がちょっと不足しているのだ。ガリガリは、ワンチャン少年が発砲するかもしれないと思ったうえであっさりと自分の生死を賭けてしまったのか、あるいは銃に弾が込められていないのを映像に描かれない部分で事前に確認していたのか……いずれにせよ、ガリガリがベットしているのは「完全な運ゲー」とか「完全なワンサイドゲーム」とかで、“ゲーム”としての深みがまるでない。もちろん、運ゲーだから面白いゲームとかワンサイドゲームだから面白いゲームってものも世の中にあるにはあるが、それらが面白いのは、たいていの場合、プレイヤーが人間にできる努力を最大限尽くしたあとに運要素や一方的な展開が訪れるからであって、「完全な運ゲー」とか「完全なワンサイドゲーム」が面白い場合というのはかなりまれだ。しかし、まだ努力しようがある、楽しみようがあるのにもかかわらず、ガリガリはそこにあるゲーム性をあっさりと投げ捨ててしまう。

 

当初、私たち観客は、この映画を、退屈な日常という“非-ゲーム”が刺激的な非日常という“ゲーム”によって転覆されるという話だと思っていた。しかし、実のところ事態は逆で、襲ってきた非日常は徹底した無秩序“非-ゲーム”であり、一家がふだんから自発的に従っていた秩序のほうにこそ“ゲーム”の生まれる余地があったということだ。
そう、“ゲーム”のゲーム性を支えるのは、特段意味のない秩序に自発的に従うことなのだ。それに従う必然性がないようなルールであるにもかかわらず、自分でルールを設定し、自分でルールを守ることにこそ、ゲーム性はある。例えば、湖でのボート遊びを考えてみよう。別荘を持てるくらいの身分ならば、当然安くて速いモーターボートを買うこともできるだろうに、そういった金持ちの何割かは、帆を張って櫓をこいで動かす不便なボートを選ぶ。この映画でのゲオルクとショルシもそうだった。文明の利器だって選べたであろう人が、あえて帆を選び、あえて櫓を選ぶからこそ優雅な有閑階級の遊びになる。
クラシックとヘビメタの音楽性の違いを取り上げてみるのもいいだろう。一方、クラシックは、歴史に裏打ちされた無数の形式、しかしそれ自体よいとも悪いとも言えない無意味な形式によってある程度型にはめられており、型にはめられているがゆえの不自由と自由とを享受している*2。他方、ヘビメタはクラシックに比べればはるかに「何でもアリ」のジャンルであり、「何でもアリ」すぎるがゆえに自由だと言える場面もあれば、端的に無意味で無秩序でしかない場面もあるだろう。クラシックとヘビメタとの違いは、あまり一面的に語るべきものではないが、あえてこの記事で言うならば、クラシックは、自発的にルールを作って守るからこそ優雅な“ゲーム”たりえ、ヘビメタは、「何でもアリ」すぎて逆に“ゲーム”にならない*3

 

若者たちに“ゲーム”をやるセンスがない、その最もたる点は、単に「自発的にルールを設定しない(縛りプレイをしない)」というところにあるわけではない。「自発的にルールを設定するチャンスがいくらでもあるにもかかわらず、自発的にルールを設定しない」というところにある。
ここまで、一家を“有閑階級”と言い換えて議論を進めてきたが、この言い換えはいまひとつ正確ではなくて、なぜなら、一家と対峙する若者たちも見るからに暇そうで、時間的余裕も経済的余裕も身体的自由も(とりあえずは)確保されているからだ。“有閑”の二文字で表すならば、一家だけでなく若者たちもそうなのだ。
だから、縛りプレイをする余裕がなくて縛りプレイができない人たち(“無閑階級”)とは若者たちは異なる立場にいる。「縛りプレイをしない」という特徴だけで若者たちを規定するのは片手落ちで、「縛りプレイをするための前提条件自体は揃っている」ということを押さえておく必要がある。

 

ともあれ、一家が当たり前に過ごしている日常、“ゲーム”が生まれる余地のある空間に、“非-ゲーム”の象徴たる若者たちが突っ込んできたことで、私たちの“ゲーム”は脅かされることになるのであった。

 

3.ゲーム:目的のある生 VS 非-ゲーム:目的のない生

しかし、である。中盤から事態は一転して、若者たちが仕掛けてきたゲー無すら、実はある種の状況よりは格段にマシであり、じゅうぶん“ゲーム”と言える、ということが明らかになる。ある種の状況とは、人々がはっきりした目的性を失うということだ。

 

ショルシはガリガリ無事捕らえられて、ついに一家三人のうち誰かがデブによって銃殺されることになる。最初に銃殺される人はデブによるランダムカウントによって選ばれる、はずだった。だが、なんやかんやあってデブはすごくいい加減なカウントでショルシを最初に銃殺することになる。縛りプレイ下手すぎやろ。
ショルシを殺したあと、若者たちはなぜかアンナとゲオルクにとどめをさすことなく(まあ理由なんてないんでしょうね)別荘を後にする。恐怖が去ったあとの別荘で、アンナとゲオルクはひとしきり涙する……。

 

この映画がマジで恐ろしいのはここからだ。この映画、当面の危機が過ぎ去ったあともだらだら映画が続きやがるのだ。若者たちがいなくなったあと、アンナとゲオルクは助けを求めてなんかぼんやりした努力と模索を続けることになる。これを観させられている間の苦痛ったらない。
こうしてだらだら映画が続くことが苦痛なのは、そこに二重の『目的のなさ』が仕掛けられているからだ。
一つ目の目的のなさは、アンナとゲオルクが生きていく意味が奪われているという点だ。(これはわざと保守的な書き方をするのだが)一家の再生産能力の象徴である妻・アンナは、すでに息子の命を奪われており、一家の働き手であろう夫・ゲオルクは大けがを負っており、ひょっとすると将来にわたる労働の能力を全て奪われている。残された二人は二人とも、象徴的な面でそれぞれの存在理由、一番大事なものを奪われており、極端な言い方をすれば、もう生きていく理由がない*4。しかし恐ろしいのは、たとえ生きる意味を失ったとしても、人生は続くということだ。たとえ息子が殺されても、たとえ二度と働けなくなったとしても、その部屋でずっと茫然自失しているというわけにはいかない。一番大事なものを失ったとしても、人間には二番目に大事なもの、三番目に大事なもの――いまの場合、それは『当座の身の安全』とかだ――を確保するためにだらだらと努力と模索を続けるしかない。さもなきゃ自殺だ。き、きっつ……。
二つ目の目的のなさは、映画を観ている私たちにとって、映画を先へ先へとドライブさせるような目的がすでに失われているという点だ。多くのまっとうなホラー映画・サスペンス映画では、主人公が襲い来る恐怖に対して勝つか負けるかすれば映画はくっきりと終わりを迎えるように作られており、勝つか負けるかした後に主人公が日常に復帰するまでの数日間数年間を丁寧に描くなどといったことは、普通しない。そういった消化試合は、映画のような限られた時間の中で描くのに(ふつうは)向いていないからだ。例えば、『ジョーズ』のラストで(以下注釈)*5しかし、そうした消化試合、目的があるようなないような時間がだらだらと続いてしまうのがこの『ファニーゲーム』の中盤であり、この不快さは筆舌に尽くしがたい。

 

若者たちが去ってしまうと目的が宙ぶらりんになってしまうということの異常さが印象的に描かれるシーンがある。それはアンナの着替えシーンだ。なんと、若者たちが押し付ける“ゲーム”の間はあれだけ丁寧に隠されていたアンナの下着姿が、若者たちが去ったあとアンナとゲオルクが助けを求めてぼんやりと頑張る間ではあっさりと画面に映されてしまうのだ。
これはマジで悪趣味なシーンだ。さきほどの脱衣ゲーム中のアンナの葛藤は『裸を見られることは恥』という大前提で成立していたはずだ。ところが、この『裸を見られることは恥』というルールは、若者たちが去ったとたん「冷静に考えたら、この映画ってべつに裸隠さなくてもいいよね」「べつに、ゲームはもう終わったしな~」とばかりにあっさりと反故にされる。例えば、ひとしきりサッカーの試合をやった後に、審判が「べつにボールが網のなかに入ったからってなんの意味があるん? ウケるwww 得点とか何も記録してなかったよ」と言い出したら絶対キレるが、この映画がしているのはそういうことだ。やめたれや。

 

目的があるようなないような時間のしんどさは別荘に配置された数々のゴミアイテムの存在によってもブーストされる。
例えば、冒頭若者たちに壊されてしまったケータイだ。このケータイ、デブによって水没させられたことで使えなくなっていたはずだったのだが、中盤で「いや、これ乾かしたらまだギリ動くよな……いややっぱり動かないか……いや動く……動かないか……」のような中途半端な壊れ方を継続する。
ふつうの映画なら、こういう中途半端な壊れ方はマジでよくない。『敵に奪われたケータイを取り戻せるか否か』とか『敵に壊されたケータイを修復できるか否か』といった困難だったらまだクエストとして成立するが、『このケータイ、壊れてるかもしれないし壊れてないかもしれない』という困難だったらクエストとして成立しないからだ。そういった困難は無駄にリアルなばかりで、ホラー映画・サスペンス映画の緊迫感をそいでしまう。
例えば、別荘に存在するらしい地下室なんかもゴミアイテムの一つだ。若者たちによって膝を潰されたゲオルクは、若者たちが去ったあと、アンナが外に助けを呼びに行っている間、念のため地下室に篭ることを検討するのだが、行けるか行けないかをちょっと試したあと、なんかうやむやのうちに結局地下室には入らない。
こういう中途半端な状況判断もほんとやめてほしい。いや、確かに現実というものは得てしてこういう中途半端な状況判断が行われるものなのだが、これは映画なんだから中盤でそんなことをしないでほしい。

 

すべての目的がぼんやりしてしまって非常にだらだらした時間を見せつけられ、私たち観客はなんならシークバーで残り時間を確かめたくもなる。しかし、マウスに触れそうになった私は――私の場合は――思いとどまる。待て待て、これは映画ぞ。映画はシークバーを確認できるものではない。
そうだ、映画は本来、「あと何分続くのか」「いつ終わるのか」が観客には把握できないようにできているものなのだ。だからこそ、展開でなんとなくあと何分かわかる映画は『わかりやすくしている』と評価できるし、いかにも終わりそうな展開なのに終わりやがらない映画――つまりこの『ファニーゲーム』――は『わざと引き伸ばしやがったな』と評価しなければいけない。
ここで示唆的になるのが、冒頭から特に理由なく壊れていたあのキッチンの置時計だ。作中世界の時計が壊れていることで、あと何分で朝が来るのかわからないアンナとゲオルクの心情と、あと何分で映画が終わるのかに違和感を感じる私たち観客の心情はシンクロしていく。いやほんと、心中お察しします……。

 

4.ゲーム:物理法則がある宇宙 VS 非-ゲーム:物理法則すらない宇宙

幸か不幸か、事態はまたも変転する。なんでかわからないけどぷいっと去ってしまった若者たちが、なんでかわからないけれどまたぷいっと別荘まで戻ってきてしまったのだ。道でたまたま捕まえたアンナとともに。こうして若者たちと一家との対立構造はとりあえず復活するのだが、ここで明らかになるのは、先ほどまでの『目的があるようなないような時間』すら状況としてはまだマシで、本当に恐ろしい状況は別にあるということだ。

 

さて、別荘に戻ってきた若者たちはゲームの再開を宣言する。これは観客にとっては朗報かもしれない。立ち向かうべきはっきりした脅威が復活したならば、物語が目的性を取り戻す可能性はあるだろう。例えば、アンナが殺された息子の復讐を決意するとか。はたしてどうなる?
結論から言うと全然ダメだった。若者たちは以前と同様のワンサイドゲームを続行するから反撃の目はなかなかやってこない。そりゃそうか。
辛抱強く待って待ち続けて、やっと訪れたわずかな反撃の目で、ゲオルク(たしかゲオルクだった気がする)が銃を奪い取ってデブに発砲する! このあと起こった出来事がもう最悪だった。
ガリガリが、その場にあったテレビのリモコンで、ゲオルクがデブを射殺する直前まで時間を巻き戻したのだ。時間を巻き戻して、ガリガリが逆にゲオルクを射殺してデブは助かる。いや、もう、ほんとに虚無……。それはやっちゃあかんやろ。でも、「やっちゃあかんやろ」ばっかりやる映画でしたよね『ファニーゲーム』は!

 

『何でもアリ』ほど虚しいものはない。『ファニーゲーム』は、そんな大事なことを教えてくれる。
いや、違ったな。『何でもアリ』ほど虚しいものはないなんてことは、こちとら最初っからわかってることなんだ。だって、サッカーの試合中「もっと自由な方が面白い」とか言って平然とハンド連発するようなやつがいるか? いないよなあ? 『ファニーゲーム』はそんな誰でも知ってる当たり前のことを、気づかせるというよりも、ただただ丁寧になすってくる。汚いからやめてください。

 

最後の最後、唯一の生存者・アンナを連れて、若者たちふたりはボートで湖に出る。ガリガリはまあ当然時計をきちんと持っているので、時計でゲームの時間がまあまあ残っていることを確認して、確認したのにもかかわらず、アンナをあっさりと湖に投げ捨てる。一家全滅、ゲーム終了だ。若者たちは結局、自分たちで課した唯一まともなルール:時間制限すら、最後の最後に「まあいっか」と投げ捨てて、一つのゲームを終えてしまう。そして、手も替えず品も替えずに次のゲームが始まる、らしい。終劇。

 

観て思ったこと

以上のように、私は『ファニーゲーム』を「“非-ゲーム”な空間に“ゲーム”がもたらされる映画と思いきや、その実態は、“ゲーム”を何回にもわたって丁寧に否定する映画」と受け取った。

 

ここからさらにどういう読みを展開していくかについて、2パターンほど考えた。
読み①。ゲームを主宰するガリガリは、「映画なんだからゲーム的な要素を」という観客の期待を適度に裏切りながら映画をだらだらと続けることで、観客に共犯関係を迫り、映画にお仕着せの秩序や目的性を期待せずにはいられない観客の罪を暴露している、という読み。
ただ、この読みにはいまひとつ欠陥があると私は思っている。それは、ガリガリが主宰するゲームがあまりに退屈すぎて、観客が求めるものでは全くなく、いち観客としてガリガリに対する共犯意識を全然感じられないというところだ。ガリガリが『ファニーゲーム』をいくらクソつまらんものにしたところで、観客がガリガリの行いを気に病む必要は全くない。
そこで読み②。「観客の罪の暴露」とかいったメッセージ性というのは、実はこの映画には全くなく、ガリガリがルールを壊して虚無を呼び込むのは、ただただ彼らがくだらないものとしてそこにあるためなのだ、という読み。ガリガリがリモコンで時間を巻き戻すのも、その前フリとしてたびたびカメラ目線を決めてくるのも、ただガリガリをしょうもない存在として完成させるための演出だということだ。ガリガリをしょうもなく完成させることが、ひいては、より丁寧に“ゲーム”を否定することにつながる。
この読みにもこの読みで欠陥はあると思っている。それは、「“ゲーム”を否定したからなんなん?」という当然の疑問に対して、とくに応える言葉がないということだ。うーん、「『ファニーゲーム』はゲームを否定する、それ以上でもそれ以下でもない」っていうんじゃダメですかね……?

 

でもまあ

書いてて思ったが、私のゲーム経験ってけっこう限定的なものだ。とある対人ゲームに入れ込んで、十数人規模のローカルなコミュニティでその対人ゲームを何時間でも何日でもやり続け、戦略がどうこうとか選手としてどうこうとか偉そうに持論をぶつようになっていた時期も私にはあるが、逆に言えば私が“ゲーム”云々について言えるのはその経験の範囲内だけだ。
私は、遊戯王とかカタンとかLOLとか人狼とか、まあなんでもいいけど、メジャー対人ゲームの数千人数万人規模のコミュニティに属したことはあんまりないし、例えば遊戯王だったら私が属しているのは「ルール知らずにアニメ見てる」くらいの層だ。実のところ、私が「ゲームとは」「ゲーマーとは」なんて語ってみたところで所詮エアプでしかない。私が自分のいた環境でだけ通用する理想みたいなものを“ゲーム”という言葉に押し付けてみても、それはいっこう迷惑にすぎないのかもしれない。
白状すると、実は私がかつていた十数人規模の狭いコミュニティのなかでさえ、私の“ゲーム”への執着は異常とみなされていたのであって、私の理想はいかなるところにもよりどころを持たない。
たぶん、冷静なことを言えば、たぶん、たぶんですよ、ひとくちに“ゲーム”なんて言ってみても色んな“ゲーム”のありかたが世の中にはあるのだろう。当たり前の話だ。そこへきて“ゲーム”という言葉になんらかの理想をついつい押し付けてしまうのはカイヨワと同じ轍を踏んでいるに過ぎないのだろうね。

*1:許可は取ってある。

*2:「いや、クラシックが持っている形式というのは完全に無意味ではなく、数学的な合理性があるのだ」などと強弁してみることも不可能ではないだろうが。

*3:むろんこれは一面的な見方だ。ヘビメタ好きからの攻撃的な反論を避けるために、この見方が一面的に過ぎないことは何度強調してもし足りない。

*4:むろん、これは極端な言い方をしているに過ぎない。世のすべての“妻”にとって子どもが一番大事だとも子どもを失えば速攻で生きる意味を失うとも限らないし、世のすべての“夫”にとって生産能力がアイデンティティとなっているとも働けなくなると速攻で生きる意味を失うとも限らない。アンナとゲオルクが生きる意味を失っているというのは、あくまで象徴的な読みについての話だ。

*5:主人公たちがサメを爆殺したあと、沖合から岸まで帰り着くまでバタ足している過程をもし60分にわたってねっとりと描かれたとしたら、観客はブチギレません?

しくじったかも

日記みたいな内容。

 

 

 

 

この前自分がしたことの是非について、深刻ではないが容易には打ち消しがたいもやもやを感じている。

 

この前、Twitterで知り合いの知り合いくらいの人*1が「○○さんのエロ絵がほしいな*2」みたいなことを仰っていて、私はなんとはなしにその「○○」のビジュアルを画像検索してみて「ふーん、この○○さんという方の淫靡な絵を描いたらちょっと楽しいかもな~」と思った。そこで、まあ個人的な興味でその○○さんという方の、エロ絵ってほどじゃないがちょっと淫靡な絵を描いてTwitterにアップした。私の描いたもののなかではほどほどには描けたほうで、個人的にお絵描きの勉強にもなったから、その時は満足した。

 

もやもやしだしたのはちょっと後になってからだ。
一応言っておくと、私が今もやもやしているのは、私の描いた絵が多くの人の目に触れて社会に対して実際的なインパクトを与えたというたぐいの問題ではない*3。私がもやもやしているのは、強いてどちらかというならば倫理的な方の問題であって、倫理的な方の問題というのは「実際社会的に問題になったか否か」とは関係なく、それ自体で問題になったりならなかったりする(と私は思っている)。
○○さんの絵を描くにあたって、私は当然、単なる画像検索にとどまらず、○○さんの公式サイトや公式コンテンツやPixivのファンアートやTwitterのファンアートを多角的に参照して、○○さんを構成する記号を理解するよう努めた(当然だよな?)。そのため、私が絵を描く前後で○○さんへの理解はだんだん高まっていったわけなのだが、無事絵を描き終わってTwitterにアップした後、ひと段落してからぼんやりと思い浮かんだことがある。
「もしかして○○さんって半ナマモノ?」

 

私は、ごく個人的な倫理的判断として『フィクションのキャラクターの性的な絵を描いて発表することは別に構わないが、実在人物(ナマモノ)の性的な絵を描いて発表することは、私は私に許さない』というルールを持っている。その点で、「普通にフィクション(非ナマ)だと思って絵を描いたキャラがあとから半ナマ(かもしれない)と判明した」という今回の事態はまあまあのダメージだった。私は私に禁じていることを不注意に行ってしまったのか?

 

私が、キャラや人間等に対して性的な関心を惹起するような表現を公に行う(ちょっと淫靡な絵を描いてTwitterにあげるとか)ときのスタンスは、以下のように整理される*4*5

諸般の事情のため、2022/6/9に表の一部表現を更新した。

この表の内実が実際どうなのかとかいったことは今回は割とどうでもいい。今回問題にすべきなのは、この表であらわされる私のスタンスが「フィクションのキャラと実在人物は截然と区別できる」ことを自明な前提としていることだ。「半ナマ」という中間カテゴリー?がいるなんてこと、この表は想定していないし、「フィクションだと思ってたけどあとから半ナマだとわかる」なんていう状況も想定していない。今回は想定していないことが起こってしまった。私がこの前したことは私的にアリなのかナシなのか、現状自信がない。

 

何が問題かと言えば、「○○さんはどういうキャラなのか」を十分に理解する前にラフを描き始めた私が9割5分悪くて、「フィクションキャラと実在人物が区別できる」ことを自明視していた私も4分ぐらい悪くて、残り1分は「Vtuberとかバーチャルアイドルとか、中間カテゴリーを急にたくさん作り出してきた“いま”という時代」が悪い。
ここであなたの言いたいであろうこともよくわかる。「べつに半ナマなんて今に始まったことじゃないでしょ、昔からあるじゃない」それはもちろんそうだ。事態は今始まったことじゃあない。この前までの私だって「半ナマ」というカテゴリーが存在することを知らなかったわけじゃあない。でも……でも、自分は自分のことを半ナマやナマモノには興味ないと知っていたし、一生縁がないだろうなと思っていたから、見た目がキャラキャラしいキャラにはかえってコロッとだまされてしまって、「実は半ナマ(かも)」とは露ほども思わなかったのだ。
くそ、昔はもっと単純なことだったんだ、キャラっぽい見た目してればみんなフィクションで……あれだけたくさんの記号が組織化されているキャラが、まさか半ナマかもしれないなんて思うわけないじゃんか……。

 

正確には、私が今もやもやしている問題というのは、倫理的判断の問題ではないようだ。
むしろ、倫理的判断の問題であったなら、それはそれで大変ではあるが、初めて遭遇する問題ではない……私には、自分で悪いと思いながら実在人物に対して害を及ぼしてしまった経験や、先に悪いことだとは判断できなかったがのちに悪いことだと判断するような害を及ぼしてしまった経験もあり、現在進行中で悩んでいたり倫理的判断の基準を更新していたりすることもある。こういった「倫理的判断の問題」もそれはそれで悩ましいが、私が今もやもやしている方の問題は、まるで質の違った、いままでそう何度も経験したことのないタイプの悩ましさがある。
「○○さんのちょっと淫靡な絵を描いて発表すること」に抵抗がなかった過去の自分とちょっと抵抗を感じている今の自分との間で違うのは、倫理的判断の基準ではなく、カテゴリー判断の基準だ。過去の自分と現在の自分とは、お互いにカテゴリー錯誤を犯しているように見えるわけで、この溝は倫理的判断基準の違いよりもある意味深い。自分にカテゴリー錯誤が存在する(かも)ということは、倫理的判断の基準が怪しいという次元にとどまらず、倫理的判断そのものの不可能性をつきつけてくるからだ。
他ならぬ自分が〈認知のゆがみ〉*6に陥っているように感じられるというのは気分が悪い。まあ、自分自身の〈認知のゆがみ〉を問うというのも、人生で定期的に直面する事態ではありますけどね……。

*1:相手さんが私に言及された場合不都合かどうかよくわからないので具体的に誰とは言及しないでおくが、私はこの件について相手さんに言及されても特に問題ない。

*2:いや、この表現も不正確なんかな……。相手さんのスタンスが読み切れない部分もある。

*3:自分でわかるものだが、私の絵の巧さは「どこのクラスにも一、二人はいる」くらいのレベルであって、巧くないということはないがさりとて驚くほど巧いわけでもない。

*4:私は道徳の実在を信じていないので、「倫理的判断」といってもカギカッコつきのものにしかならない。この表のなかで「倫理的判断」が「個人的」であるうえに階層化されているのは大雑把に言うとそういう事情のためだ。

*5:ちなみに、「個人的に思い入れのある実在人物」の欄が存在しないのは、単に私が該当者をぱっと思いつかなかったからだ。

*6:もちろん双方向性の

人(々)と神(々)

1.シン・ウルトラマンの感想

ネタバレ避けとかしたほうがいいの?

 

 

 

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実際、私は個人の感想などはどうだっていいと思っているのだが、この感想は文脈上必要なので、手短に。

 

しょっぱなゴメスからスタートした時点でもう百点満点だったというところはある。ラルゲユウスもゴーガもツボだった。私はラルゲユウスとゴーガがずっと観たかったのだ。にせウルトラマン戦での「原典の動きオマージュ芸」とか、ネロンガ戦での「あえてオマージュしない芸」とか、一見あからさまなオタク受け要素もストーリーに奉仕するようよくコントロールされていた。浅見女史を包囲する露悪的なフェティッシュ描写には辟易したところもあるが、1960年代の背徳感をなぞるためには2020年代基準だとあれほどの描写をやらなきゃ足りないのかもしれない*1


まあ百点満点ではある、あるのだけれど……例えば『シン・ゴジラ』のような厚みを期待して観に行って、若干の肩透かしを食らった感もある、というのは否定できない。なんというか、『この映画で何をしたいか』『何をすべきか』『どういう問題設定にしてどう回答するか』が総監修その他の方々の頭の中で定まりすぎているというような印象だった。『シン・ゴジラ』とは違う作品を作るという意識が強すぎて、根っこの理念がこじんまりとまとまってしまったというか。理念が小規模、というか。理念が小規模なわりにプロットはやることめっちゃあるやん、というか。

 

『シン・ウルトラマン』中で問題となった理念は比較的シンプルであり、単発の映画にしては回答がいささか性急であった。『シン・ウルトラマン』の理念を乱暴にまとめると以下の3点に集約されるだろう。
ウルトラマンは人間を超越しているが、全能でも不死でも無謬でもない」
ウルトラマンは人間を超越しているが、人間になんらかの価値観を押し付ける偽神になってはいけない」
ウルトラマンは人間を超越しているが、人間は彼を偽神にして自らを従僕に貶めてはいけない」
しかし、このシンプルな理念を、『シン・ウルトラマン』といういち映画の小規模性を示唆する「全体」としてでなく、むしろ「ウルトラシリーズ」というシリーズ全般の思想史に目を向けさせる「切断面」として解釈してみるというのは、まったく無益な読みというわけでもないと私は考える*2
そういうわけで、この記事は、いささか凡庸な歴史観で申し訳ないが、私の目線で簡単にまとめた『人間-ウルトラマンの関係』小史にしたいと思う*3*4

 

 

2.ウルトラシリーズの前提

ウルトラシリーズマルチバース設定を採用している(シリーズ最初期から、異なる作品間で世界観のつながりはあいまいにされがちだったが、マルチバース設定が明文化されたのは2010年以降)。いくつもの異なる宇宙に、異なる出自と定義づけを持ったウルトラマンたちがいる。
最も代表的な出自・定義づけとしては、「(種族としての)ウルトラマン=M78星雲光の国から来訪した宇宙人」というもの。
その「宇宙人」タイプのウルトラマンは、超能力を用いて、地球人と一体化する・あるいは地球人に変身するという方法を用い、普段は地球人の姿で活動する。

 

ウルトラマンの、“変身前”の人間としての精神と“変身後”のウルトラマンとしての精神にはいくつかのパターンがある。表にすると以下のような種別になる。

 

3.人と神々――昭和

3.1.初代ウルトラマン:悩みとは無縁な“嗤うマージナルマン”

ウルトラマン』第33話『禁じられた言葉』で、宇宙の侵略者メフィラス星人は、侵略計画が地球人の思わぬ抵抗にあって進まないなか、ウルトラマン(の変身前であるハヤタ・シン隊員)とこんなやり取りを交わす。

「黙れウルトラマン。貴様は宇宙人なのか、人間なのか」
「両方さ」

このやり取り、この「両方さ」というセリフこそは、地球文明にとっての部外者でもあり当事者でもあるところのウルトラマンの本質を巧みに言い表した名ゼリフであると認識されているところのものである。ただ、今日の記事では、この「両方さ」に続く言葉にも注目していきたい。

「両方さ。貴様のような宇宙の掟を破るやつと戦うために生まれてきたのだ」*5

一個の生命が、なんらかのイデオロギーを体現する戦いのために生まれてきた、という話は、文字通りに聞くと、一種のロマンではあるが、少々噓くさく都合のいい話でもある。しかし、初代ウルトラマンに関しては、まさしくこのロマンを噓くさく言うために、彼は宇宙人でもあり人間でもあるという在り方を選択したのだと、この記事では考える。

初代ウルトラマンは、先ほど挙げた種別で言えば、一体化?乗っ取り?タイプである。
初代ウルトラマンは怪獣退治に連なる任務のなかで地球に初飛来したとき、誤って地球人のハヤタ隊員を死なせてしまい、ハヤタ隊員を蘇生させる代償として、彼と一つの命を共有することになる。その手段が、ウルトラマンとハヤタ隊員との一体化である。
彼は通常時はハヤタ隊員として振る舞い、非常時にはためらわずウルトラマンに変身して怪獣・宇宙人と戦う。ハヤタ隊員として振る舞っているとき・ウルトラマンとして戦っているとき、彼 / 彼らの心のなかで、ハヤタ隊員とウルトラマンの意識が分離して存在しているのか、それとも完全に一個の精神として成り立っているのかは謎である(最終話、2人分の命が用意されたことでハヤタ隊員と分離できるようになったウルトラマンは分離を選ぶ。分離後、ハヤタ隊員にはウルトラマンであった時期の記憶はなかったため、悪意的に読み取れば、終始ウルトラマンとしての精神がハヤタ隊員の身体とウルトラマンの身体の両方を乗っ取っていたようにも解釈できる)。

 

さて、鞍馬天狗の時代から(あるいはもっと前から)ヒーローとはあからさまな仮面で正体を隠すものであった。なぜ、ヒーローは正体を隠すのか……その理由について議論した論考は多数あるだろうが、注意せよ。石ノ森章太郎に代表されるような短調のヒロイズムは、石ノ森章太郎以前の時代である1950年代や1960年代には必ずしもドミナントだったわけではない。
ウルトラマンのような1960年代のヒーローが正体を隠した理由は、必ずしも「人間社会に背を向けて孤独に戦う」という短調のヒロイズムばかりでなく、むしろ「人間社会に対する闖入者として哄笑しつつ戦う」という長調のヒロイズムである場合も多かった。初代ウルトラマンはどちらかといえば、黄金バットがそうであったように、正体不明をいいことに有利に立ち回り、哄笑しつつ敵を討つ、そんな闖入者ではなかったか。

 

ウルトラマンのような、宇宙人でもあり人間でもあるという在り方はそれを耳にした人を端的に混乱させる。ウルトラマン自身の説明が「宇宙の掟を破るやつと戦うために生まれてきた」ならばなおさらである。この説明が文字通りに捉えるべきものかはともかくとして、人を食った説明なのは間違いない。
しかしウルトラマンはこんな説明をして、宇宙人の味方でもない、しかし地球人の味方とも言い切れない妖しさで敵にも味方にも一定の距離を置く。初代ウルトラマンは、「どちらでもない」というマージナルマン*6の特性を一種の優位性として引き受けていたのではないかと、私には思われる。

 

しかし、メタ的な意味で――企画成立までの過程で――ウルトラマンはどうしてマージナルマンとして成立してきたのか、という話は、いささか込み入っている。
元来、『ウルトラマン』という企画の出発点にあったのは、「頻々と現れる怪獣に対して、科学の力で立ち向かう専門チームの物語」という着想である。注意すべきことには、当初、この企画に「ウルトラマン」にあたる上位者は存在しなかった。
この「怪獣に立ち向かう専門チーム」という『怪獣VS人間』の構図に対して、「人間の科学が怪獣に対して100%勝利を収めるというのはおこがましい」という視点から、第三勢力となる「お助けキャラとしての上位怪獣」が組み入れられ、「上位怪獣」はやがて「宇宙人」ひいては「地球人と一体化した宇宙人」として結実することになる*7*8
ウルトラマンが宇宙人であるという特徴、また、ウルトラマンがただの宇宙人ではないという特徴は、「第三勢力」「お助けキャラ」という彼の立ち位置が定まった後に獲得されたわけだ。ここから、ウルトラマンが地球人でもあり宇宙人でもあった最大の理由は、「第三勢力」「お助けキャラ」としての立場を純化するためであったのだ、と邪推してみるのも悪くない。
どうやら、メタ的な情報は、「ウルトラマンがマージナルマンであることの意義が嗤う優位者であることに結実する」というこの記事の議論の証拠とするには十分ではないようだ。とはいえ、メタ的な情報はこの記事と目立って矛盾するというわけでもなく、ささやかな傍証として受け取っていただけるのではないかとも思っている。

 

3.2.ウルトラセブン:悩み多き“泣くマージナルマン”

ウルトラセブン』最終話『史上最大の侵略(後編)』で、地球の危機・仲間の危機が迫るなか、ウルトラセブンという正体を隠すことに限界を迎えたモロボシ・ダン隊員はアンヌ隊員に自ら正体を明かす。

「アンヌ、僕は、僕はね、人間じゃないんだよ。M78星雲から来た、ウルトラセブンなんだ」光に包まれる2人。沈黙。「びっくりしただろう」
「……ううん、人間であろうと宇宙人であろうと、ダンはダンに変わりないじゃない。たとえウルトラセブンでも」
「ありがとう、アンヌ」*9

純然たる宇宙人でありながら、地球人を装ってきたことに多少なりと苦悩し、仲間にも正体を明かせない状況に苦しんだのがウルトラセブンであり、彼が出自に関係ない個人として承認されることが物語としての終着点になった。
マージナルな境遇に対して(少なくとも表面上は)悩むそぶりを見せず、あまつさえ利用すらしていた初代ウルトラマンとは対照的に、ウルトラセブンは、自分が地球人としても宇宙人としても振る舞えないことに(多少なりと)悩んできた。この記事では、ウルトラセブンをこのように悩み多き非-地球人としてとらえていく。

ウルトラセブンは、先ほど挙げた種別に従えば擬態タイプである。
ウルトラセブンは、ある任務のために地球に来訪した際、趣味で登山中の地球人ふたりが事故にあう場面にたまたま遭遇、事故のなかにあって自分の命を顧みず仲間を救おうとした姿に感銘を受けることになる。おそらくはその体験に影響を受け、本来の任務になかった「侵略者からの地球防衛」に従事することを決意し、地球人の姿「モロボシ・ダン」に変身して地球に留まることにする。
地球人への変身はウルトラセブン自身の超能力によるものであり、彼がダン隊員として振る舞っているときもウルトラセブンとして振る舞っているときも、彼のうちには宇宙人として生まれてきた彼自身の精神しかない。

 

さて、ウルトラセブンを彼の先達である初代ウルトラマンと比較したとき、目立つのは擬態にかかる自発性・自主性だ。一方、初代ウルトラマンにとって地球人との一体化はひとつの事故に起因するものであり、不可抗力的なものだ(事故が起こってしまったことへの初代ウルトラマン自身の責任は大きいが)。換言すれば、任務中に出先で地球人を死なせてしまった初代ウルトラマンには、その地球人と一体化する以外の選択肢はなかった。他方、ウルトラセブンが地球人に変身するにあたっては、地球防衛という目的も、地球人への変身という手段も、任務外のものである。換言すれば、彼は、義務ではなくただ自分の意志で、地球人に変身する道を選んだ。
自発的・自主的に擬態を選んだウルトラセブンのことであるから、あえて地球人の姿を装っているという欺瞞の責任はまぎれもなく彼自身に降りかかってくる。ウルトラセブンが、曲がりなりにも仲間をだましてしまっているということに罪の意識を感じる可能性は、初代ウルトラマンの何倍にもなる。

 

利害関係においても、ウルトラセブンの自発性・自主性は彼自身を悩ませる方向にはたらく。前述したとおり、彼が地球並びに人類を守ろうとしたのは、上層部の意志ではなく彼自身の選択だ。そのため、地球人類が正義・平等にのっとっているとはいえない行動をとろうとしたとき、彼は地球人の側に立つのか、客観的な正義・平等の側に立つのかという二択を迫られることになる。例えば地球側の過失に対して宇宙からの復讐の手が伸びてきたとき*10、例えば現生人類が地球の先住民かもしれない種族をせん滅する行動をとろうとしたとき*11、彼は悩まずにはいられない。彼は最後にはいつも、愛する隣人たちを守ることに決めるのだが……*12

 

ウルトラセブンにおいて、マージナルな境遇が一抹のもの悲しさを呼び込みがちな理由は、『ウルトラセブン』という企画の成立経緯にその一端を見ることができる。
ウルトラセブン』という企画の前身のひとつである『ウルトラアイ』は、必ずしも怪獣モノとは限らない超能力変身モノとして企画されていた。『ウルトラアイ』の中で、主人公は異星人の父と地球人の母との間に生まれたハーフとして設定され、異星人の父から受け継いだ超能力を用いて事件を解決しつつ、行方不明の母を探すという構想であった*13。ハーフである主人公は、仲間を得てもいつもどこか孤独である。
完成形としてのウルトラセブンこそ純粋な宇宙人ではあるが、その起源には宿命を帯びたハーフ、直球ど真ん中のマージナルマンの姿が見えてくる。ウルトラセブンが地球人を装った宇宙人であることに苦悩するのは、この地球人と宇宙人のハーフという造形を一部受け継いでいるからであろう。

 

3.3.ジャック、エース、タロウ:試練の神から半神半人の英雄へ

帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』の3作に登場するウルトラマンであるジャック、エース、タロウは、変身前の地球人と変身後の宇宙人との関係として、いくぶん似た関係を見せる。

3名は、ウルトラセブンとは違い、明白に地球防衛の任を帯びて怪獣・宇宙人との戦闘のために地球へと派遣される。地球へと派遣された彼らは、地球来訪時に、怪獣から誰かを守るために勇敢な行動をとって命を落とした*14若者と一体化する。
ジャック、エース、タロウが先述した初代ウルトラマンと大きく異なる点は、変身前、地球人として振る舞っているとき、地球人としての意識が前面に出ていることだ(種別としては非常時に一体化タイプにあたる)。地球人としての意識が前面に出ているため、地球人としての理屈で「ウルトラマンに変身しよう」と意識しても、隠された宇宙人の精神がその変身の意志に同意せず、変身できない、ということはままある。とりわけ『帰ってきたウルトラマン』初期におけるジャックはこの傾向が顕著で、たとえ怪獣が暴れて防衛隊が窮地に陥っていても、変身者である地球人・郷秀樹隊員自身が命の危機に陥っているという条件を満たさなければ変身できなかった。地球人の精神と宇宙人の精神が混交していた印象の初代ウルトラマンと比べると、3名においては地球人と宇宙人の精神はより別々に思われる。
ただ、3名の関係性は、いずれも作品中で緩やかに変化していく。変身前の地球人がウルトラマンとしての立場で思考するかのような場面が増え、変身後のウルトラマンが地球人らしい感傷で行動するかのような場面が増え、さながら地球人の精神と宇宙人の精神が融合していくような印象があるのである。最初は渋かった変身条件も徐々に緩和していく。はじめは命の危機に陥らないと変身できなかった郷秀樹 / ウルトラマンジャックも、やがては特定のポーズをとるだけで確実に変身できるようになる*15
ウルトラマンタロウ本人が、タロウに変身する東光太郎隊員との一体感について語っている文章がある。第34話『ウルトラ6兄弟最後の日!』におけるテンペラー星人との戦いを後年になって振り返る内容だ。

先輩である五人の助力があったとも知らず、独力でテンペラー星人を倒したと思った私……いや、光太郎は(責任逃れしているわけではないぞ)、増長し、そして兄たちに甘えてしまう。だが、私は兄弟の真意を知り、本当の意味でのチームワークを学ぶことになった……いや、違った。すまない。私ではなく、あくまでも光太郎なのだが……いや、待ってくれ……正直、この頃には私と光太郎のパーソナリティはかなり近づき、場合によってはほぼ一体化していたといってもいい。光太郎が慢心した時は私も慢心し、彼が反省した時は私も反省する。すでにそんな関係になっていた。*16

極めつけは彼らの物語の終着点だ。これはジャック、エースの2名について当てはまるのだが、彼ら――もはやジャックとアイデンティティを共有した郷秀樹と、エースとアイデンティティを共有した北斗星司――は、最終話、ジャックとエースが使命のために地球を離れなければならない状況になったとき、宇宙人であるウルトラマンと分離せずに彼ら自身として地球を離れることを選ぶ。これは、郷秀樹が自身とジャックを同一視、北斗星司が自身とエースを同一視していなければなしえない選択だ*17

 

ジャック、エース、タロウに変身した3人の地球人は、宇宙人としての能力を所与のものとしておらず、自由には行使できていないという点で、初代ウルトラマン / ハヤタ以上に人間的だった。あくまで人間であった地球人に対して、宇宙人としてのジャック、エース、タロウはさながら試練の神と言ったところか。
しかしながら、試練を幾度も乗り越えるごとに、地球人の精神は宇宙人と、宇宙人の精神は地球人と、その寄り添い絡み合いを深めていく。物語の終盤で彼らがたどり着くのは、さながら半神半人の英雄とでもいうべきありさまだ。
初代ウルトラマンが越境するトリックスターたるロキ、ウルトラセブンが人間を愛するがゆえに責め苦を負ったプロメテウスだったとするならば、ジャック、エース、タロウは試練を経て最後には天上に揚げられたヘラクレスであろう*18

 

4.人々と神――昭和

ここまで、ウルトラマンに変身するいち個人とウルトラマンとの関係性を主に論じてきた。では、ウルトラマンに変身する個人以外の人々の集団にとって、ウルトラマンとはどのような存在であったのだろうか。この記事では、ウルトラマンを取り巻く人々、とりわけ防衛隊の人々に焦点を絞ってその関係の変遷を追っていきたい。
昭和において、人々とウルトラマンの関係として比較的多くの作品にみられたのは、“天佑”としてのウルトラマンという考え方だ。ここでいう“天佑”とはすなわち、「人間側から神側に対して期待するものではない、ただ与えられるのみ」「最初から与えられることはなく、人間の相応の努力のあと、神側の意志でのみ与えられるもの」「利害関係などではなく、純粋な正義感から行われていると期待すべき行為」の三条件を満たすような現象のことだ。

 

1点目、「人間側から期待すべきものではない」という条件について考えよう。
ウルトラマン』第37話『小さな英雄』において、防衛隊に所属するイデ隊員は、防衛隊の努力如何にかかわらず最後にはウルトラマンが状況を解決すると思い込み、防衛隊としての職務に無力感を募らせる*19。募らせに募らせた結果、イデ隊員は、巨大怪獣が暴れる危険な現場で、人間を守るため友好的な怪獣が身体を張っているなかで自分は勝手に戦闘を放棄するという行動に至る。

ウルトラマン助けてくれー!」
何もせず怯えてわめき散らすだけのイデに、ハヤタはフラッシュビームの手を止める。その時、ピグモンがイデを救うために囮となるが、そのためにドラコにやられて命を落としてしまう。ただ呆然とそれを見ていたイデは、怒りのハヤタに地面へたたきつけられる。
「イデ! お前はピグモンのこの姿を見て何も思わないのか!!」*20

イデ隊員は己が人間としての努力を怠っていたことを恥じ、発奮して、クライマックスでは強豪怪獣を自慢の科学力で撃破するに至る。
イデ隊員のように、ウルトラシリーズにおいては、ウルトラマンによる助けをただ受動的に期待しているだけの態度は何らかのしっぺ返しを食らうことが半ばお約束となっている*21
これは、事態を私たちの身に引き写してみても、実際的観点から大いに納得できるお約束であろう。第一に、人類はウルトラマンに対して気軽に連絡を取ることができない。第二に、ウルトラマンの力は絶大だが時間制限がきつい。二つの理由から、ウルトラマンを織り込み済みで防衛計画を練るというのはまったくもって不合理であり、万全な計画にはなりえない。

 

2点目、「人間の相応の努力のあと、神側の意志で与えられる」という条件について考えよう。これは、1点目と重なる部分が多い条件であるが、あえて2点目としての特徴を強調するなら、「人間が努力した後であれば、ウルトラマンの助けというものを否定するわけではない」という点になるだろうか。
ウルトラマン80』第37話『怖れていたバルタン星人の動物園作戦』というエピソードは、防衛隊であるUGMに取材に来た小学生たちが「UGMが負けそうになるとエイティが出現するのはどうして?」と問い詰め、UGMのメンバーが答えに窮するという展開が一つの縦糸となっている*22。この疑問に対して防衛隊のチーフが答えたのが「人事を尽くして天命を待つ」という答えであった。この答えににじむある種の弱気さは小学生たちからも笑われてしまうのだが、エピソードの最後にはウルトラマン80に変身する矢的隊員からも「理想のうえでは人間の力のみで頑張りたい」という意志を肯定的に評価される。
例えば青柳・赤星は以下のような言葉でこの第二の条件を示唆した。

人間が成長していく過程において、まだ伸びる可能性を秘めているにもかかわらず、現時点での限界に達してしまったとき、そんなときにこそ現れる奇跡の化身がウルトラマンなのだ。「人類の力はここまで」とささやくのが怪獣たちとするならば、「まだまだ可能性はある」とささやくのがウルトラマンではないだろうか。*23

 

3点目、「純粋な正義感から行われているという期待」について考えよう。この点は、ともすれば1点目と矛盾するようにも思われる条件だ。なぜなら、1点目として先に挙げた「ウルトラマンの行動を人間側から期待するものではない」というスタンスは「ウルトラマンが実際何を考えて戦っているかはよくわからない」という意識と強固に結びついているだろうからだ。
しかし、ウルトラシリーズにおける防衛隊がウルトラマンに向ける目線は、「いまのところ地球と人類の味方である可能性が高いが明日には何をするかわからない宇宙人」という消極的な目線でなく、「平和と進歩の使者」といういっこう好意的な目線だ。
こういった目線は、ウルトラマンが急に破壊活動を始めたときに確認できるだろう。『ウルトラマン』第18話『遊星から来た兄弟』において、宇宙人が化けたにせウルトラマンが破壊活動を始めたとき、防衛隊は困惑した、すぐには迎撃を開始しない。にせウルトラマン二度目の出現の報を受けてようやく「たとえウルトラマンでも、この地球上で暴力をふるうものとは戦わなくてはならん」と覚悟を決めて迎撃に赴く。やがて本物のウルトラマンが現れ、にせウルトラマンの化けの皮が剝がれて敵性宇宙人の正体が明かされると防衛隊の隊員たちは「やっぱり奴の仕業だったのか」「思った通りだ」と語り、『ウルトラマンが破壊活動などするわけがない』という信頼をにじませる。
まあ、偽物だと分かってから「思った通りだ」なんて言うのはかなり虫のいいセリフではある。また、にせウルトラマンの暴挙以前に本物のウルトラマンは10回以上の戦闘を行っているから、突然ウルトラマンが暴れだしたら変に思うのは当然と言えば当然でもある。ただ、(にせウルトラマンという策略の稚拙さを抜きにして考えるなら)「実はウルトラマンこそ悪なのではないか」という疑念を喚起しようとする悪役の行動に対し「これまでも人類と共に戦ってくれたウルトラマンをまずは信じること」が正解として提示されるこのエピソードの構造は、やはり「ウルトラマンの内心はわからないけれど、ウルトラマンの行動にもまずは純粋な正義感を期待すべき」という価値観が読み取れる。
もちろん、人間とは根本的に違う価値観を持っているはずのウルトラマンの思考を理解することは難しいだろうし、理解したと思うことは傲慢ですらあろう。しかし、根本的に理解は不可能である相手に対して、とくにこれといって疑う理由がないのならまずは善意を期待するのが、ある種倫理的に妥当な態度であろう、と私は個人的には考えている。また、実利的にいっても、善意を期待しておいたほうが相手が善意で応えてくれる可能性は高まるかもしれない。

 

「人間側から期待すべきものではない」「人間の相応の努力のあと、神側の意志で与えられる」「純粋な正義感から行われているという期待」という3点の条件を総合して、歴代の防衛隊はおよそ、多かれ少なかれ、あるイデオロギーを示すに至った。それは、「人類はいつまでもウルトラマンに頼っていてはだめで、いつかは人類が人類自身の手で困難に立ち向かう能力を得なければならない」というイデオロギーだ。
ウルトラマン』最終話『さらばウルトラマン』において、初代ウルトラマンが故郷へ帰還することを知った防衛隊のキャップは「地球の平和はわれわれ科学特捜隊の手で守り抜いていこう!」と述べた。『ウルトラセブン』最終話『史上最大の侵略(後編)』において、ウルトラセブンが故郷へ帰還することを知った防衛隊の隊長は「地球はわれわれ人類の手で守り抜かねばならないんだ!」と述べた*24ウルトラマンが地球から離れることは、いつかは望まれる事態として防衛隊に認識されており、そこではウルトラマンが心残りなく帰還できるようにとののび太さながらの気遣いすらなされる。ウルトラマンゼットンに敗れたとき、ゼットンを破ったのは科学特捜隊である。さきほど「人事を尽くして天命を待つ」の気弱さを取り上げたUGMでさえ、ウルトラマン80が傷ついていることを知った最終話『あっ! キリンも象も氷になった!!』ではウルトラマンの助けなしで強豪怪獣を粉砕しているのだ。

 

5.人と神々――平成

5.1.ティガ、ダイナ、ガイア:人間の拡張としてのウルトラマン

昭和において、細かい変節こそあれ、人間とウルトラマンとの関係は人間と神々のそれに近かった(これは、昭和のウルトラマンたちが一神教の神のように全知全能として振る舞ったという意図の記述ではない。私が意図しているのは、昭和のウルトラマンたちは多神教の神々のように、人間とは別の世界観のルールに従いながら、しかし人間と独特なかたちで交渉しつづけたということだ)。すなわち、ウルトラマンは人間とは根本的に異なる世界観からやってきて、人間以上の能力を持つ一個の個性として振る舞う。端的に、昭和のウルトラマンたちはほぼ例外なく“宇宙人”だった。
しかし、平成の前期を象徴する3人のウルトラマンは、いずれも“宇宙人”ではなかった。平成最初のウルトラマンたちは、宇宙人としてとか、人間と宇宙人の混交としてでなく、人間の拡張として現れたのである。

ウルトラマンティガは、“宇宙”という異世界の代わりに“超古代”という異世界に起源を持つウルトラマンだった。
ウルトラマンティガ』第1話『光を継ぐもの』において、防衛隊に所属するマドカ・ダイゴ隊員は、突如現れた超古代の遺跡に遺されていたウルトラマンの石像に、光となって吸い込まれたときからウルトラマンに変身する能力を得ることになる。こうして変身するティガは、変身前も変身後も、純然たる地球人であるマドカ・ダイゴとしての精神で行動する(先の種別に従えば進化タイプだ)。ここでの「ウルトラマン」は、人間とは独立に存在する一個の個性ではなく、人間を拡張する一種の能力に近い。
また、マドカ隊員がティガに変身できる理由は実は彼が超古代人の遺伝子を色濃く受け継いでいるからである。ある特定の個人がウルトラマンに変身できる理由が、他者の意志に因らず、また“宇宙”にも因らず、ある人間がたまたま持っていた資質に因っていたということは、「ウルトラマン」という現象をあくまで人間が持つ可能性の範疇にとどめようという強い意図が感じられる*25
なおかつ、『ウルトラマンティガ』作中において、「人間がウルトラマンになる可能性」はマドカ隊員個人を超えて拡散していくことになる。第44話『影を継ぐもの』においては、マドカ隊員と同じく超古代人の遺伝子を色濃く受け継いでいた科学者マサキ・ケイゴが、科学的方法論によってウルトラマンもどきに変身してしまう過程とその結果が描かれる。また、最終話『輝けるものたちへ』では、世界中の子供たちが(おそらく遺伝的資質には関係なく)マドカ・ダイゴ同様に光となり、ウルトラマンに融合する展開をたどる。『ウルトラマンティガ』において、ウルトラマンになるということは光になるということと同義であり、光になる可能性はすべての人間が当たり前のものとして具えているものなのだ。

 

ティガが“超古代”から来たなら、“近未来”から来たのがウルトラマンダイナだった。
ウルトラマンダイナ』第1話『新たなる光(前編)』において、防衛隊に所属するアスカ・シン訓練生は宇宙空間で謎の光と遭遇・一体化して、ウルトラマンに変身する能力を得るに至る。ダイナはティガ同様、変身前も変身後も一貫してアスカ・シンとしての精神で振る舞う。ダイナとアスカは、実質的にイコールで結ばれるのだ。
ときに、『ウルトラマンダイナ』の世界観は、人類が太陽系の全域まで進出しようとしている近未来世界を基調としている。アスカが謎の光と出会ったのも、防衛隊の任務で宇宙航行中のことであり、人間のウルトラマン化には近未来の技術という触媒が不可欠だったことがわかる。
実は、裏設定的には、アスカが謎の光と一体化する以前にも、ダイナは一個のダイナであった……しかも、その正体は行方不明とされているアスカの父であった、という話が語られることがある。ダイナが、アスカの存在がなくともウルトラマンとして独立して存在し、なおかつそれが一種の『不在の父』から『息子』へと受け渡されるパワーであったなら、ダイナは「“近未来”に起源を持つ人間の拡張」ではなく「プリミティブな価値観のなかで現れる、いち人間に対する上位者」とみなすべきではないか、という反論には一定の説得力がある。とはいっても、『ウルトラマンダイナ』劇中において、ダイナのなかにアスカ以外の精神が感じられるシーン――精神世界のなかでアスカと父が対話する、とか――はないし、またアスカの父がダイナとなった理由は、次世代型宇宙航行システムの実験中、実験用の宇宙航空機に乗っている最中に謎の光に出会ったためであった。だから、実際の演出上において、ダイナ=アスカは徹底されていたといえるし、アスカの事例でも父の事例でもダイナは常に人間の進化の延長上に位置づけられるのだ。
ダイナが人間の進化として現れるからには、その戦いは人間の抱える悩みや成長と無縁のものではもちろんなかった。ダイナは、変身後のウルトラマンとして抱える戦闘上の課題を、変身前の人間の状態にまで引きずり、人間としての一種の特訓によってウルトラマンとしての課題を解決する、というようなことがあった(第5話『ウイニングショット』が好例であろう*26)。また、ウルトラマンとしての戦闘中に抱いた「怪獣への怖れ」が変身前の人間ドラマを貫通してエピソードの主題になったこともあった(劇場版『光の星の戦士たち』のことである)。ウルトラマンが人間として課題解決にいそしんだり人間らしい成長課題を持ったりということは、決して昭和のウルトラマンに皆無だったわけではないが(『帰ってきたウルトラマン』や『ウルトラマンレオ』にこうした成長エピソードは顕著である)、それでもなお、『ウルトラマンダイナ』を特徴づけるトーンのひとつであり、ダイナが人間の進化であったという議論を裏付けるものだ。
いち人間としてのダイナ=アスカの物語は「宇宙規模の巨悪と戦うなかでも、内心としては個人的な動機・欲求に基づいたヒロイズムで戦う」という終着点を迎える。第50話『最終章II 太陽系消滅』において、太陽系を消滅させようとする超巨大怪獣に対して戦いを挑むなかで、アスカは同僚のユミムラ・リョウ隊員に「オレはいま、キミだけを守りたい」と告げるというシークエンスが存在する*27。ここでは、ウルトラマンという巨大な能力・巨大な正義が、宇宙規模の大問題に着地させるのではなく個人的な動機・欲求から連なる正義として着地させられている。このように、正義をより大きな社会から小さな社会へと回帰させる手法は、こと人間化するウルトラマンたちにとどまらず、平成のスーパーヒーローの大半が多かれ少なかれ描いていたモチーフの一端であっただろう。

 

ウルトラマンが“宇宙”からでなく“超古代”や“近未来”からやって来るというコンセプトは、ウルトラマンという存在を、より身近な世界、人間の知りうる世界の内側から誕生させようという流れだったといえよう。その流れのなかでウルトラマンガイアはついに、なんらかの“異世界”でなく、“地球”を起源として誕生したウルトラマンだった。
ウルトラマンガイア』第1話『光をつかめ!』で、若年科学者の高山我夢は、科学実験中に入り込んだ謎の精神世界でガイアに変身するための光を得ることになる。光とははたして、地球の意志がなんらかの目的でいち人間に託したものだった。
ガイアは、ティガやダイナと同様に変身前も変身後も高山我夢としての意志で行動する。また、ガイアの力は完全に地球起源のものであり、その証拠は例えばガイアが地球で活動する限りにおいて一律の活動時間制限を科されていないことなどに現れる。
ところで、ガイアが人類の総意とかではなく地球の意志によって選ばれ、力を与えられたことはひとつの懸念を呼ぶ。すなわち、ウルトラセブンが人間と客観的正義・平等との間で揺れたように、ガイアが人類の利益と地球の利益との間で揺れるのではないか、という懸念だ。
この懸念は、ガイアというウルトラマン単体でなく、ガイアともう一人のウルトラマンとの対立という構造によって実現した。実は『ウルトラマンガイア』にはガイアともう一人のウルトラマンが登場するのだ。もう一人のウルトラマンであるアグルは、高山我夢と同じ若年科学者の藤宮博也がやはり地球の意志から力を与えられ、生まれたウルトラマンだ。
ガイアが、地球の中に暮らす人類や地球産怪獣たちの生命に実感を持って、人類やときには地球怪獣を守ろうとしたのに対し、アグルは、総体としての地球環境を維持することにこだわり、ときには直截に人類を滅ぼそうとしたり地球産怪獣の個体を利用しようとしたりした*28。二人のウルトラマンは、当然当初は対立することになり、やがては協調路線をとることにもなる。二人のウルトラマンが対立・和解・共闘する一連の流れは、利己と利他の間で悩み、両者を止揚した解決策を模索するというまさしく人間らしい悩み*29の変形であろう。

 

6.人々と神――平成

ウルトラマンたちと彼らに変身する人間たちの関係が平成に入って変化したように、ウルトラマンと防衛隊との関係も平成に入って変化する。
しかし、ウルトラシリーズにおける防衛隊は、ざっくりと“防衛隊”と呼びならわしたとしてもその組織としての内実は様々で、軍隊ふうの組織もあれば、警察ふうの組織、レスキュー隊ふうの組織、研究機関由来の組織、開拓団的な組織などなど、その設立経緯や行動原理は千差万別だ。そうした千差万別の防衛隊が、昭和よりも一層の厚みを持って描かれた平成では、組織ごとにウルトラマンとの関係も様々であって、一概に言えることは(昭和に比べて)だいぶ少ない。
それでも、平成の防衛隊の特徴を一点あえて取り上げるなら、平成の防衛隊は、ある特定の個人がウルトラマンに変身しているという秘密まで共有し、強い仲間意識でウルトラマンと協力することが多かった。

 

例えば、『ウルトラマンガイア』における特捜チームXIG*30は、とくにウルトラマンとの協力関係が厚いチームだった*31。またXIGメンバーの一部は、『ウルトラマンガイア』全51話中の第26話『決着の日』で早くもガイアの正体=高山我夢という真実を知ることになる。正体を知ったあとも、防衛隊とガイアとの協力関係は崩れるどころかより強まることになる。
ウルトラマンメビウス』におけるCREW GUYS*32も、メビウスの正体=ヒビノ・ミライ隊員という真実を早期に知ることになったチームだった。彼らは全50話中の第29話『別れの日』でメビウスの正体を知ることになり、やはり正体を知ったあと、同じ隊員であるミライ隊員を再度仲間として迎え入れ、ともに戦った。
曲がりなりにも、ウルトラマンその人である人間 / 宇宙人が防衛隊という組織に参入することを受け入れているこれらの作品は、ウルトラマンたちが神々同然だった昭和の在り方からすれば、ウルトラマンがかなり世俗化しているといってもいいだろう。世俗化は、一方、ウルトラマンが宇宙人としてかつて持っていた神秘性や根本的な理解不可能性を損なうという点で、ネガティブな効用もあろう。しかし他方、正体不明なままで人類に都合のいい関係をずるずる続けるのではなく、組織関係などを介してなんらかの一定した関係を主体的に構築しようと努めることは、人類とウルトラマンの関係の健全化の第一歩という見方もできるかもしれない*33

 

かなり例外的にはなるが、ウルトラマンがほぼ登場しないウルトラシリーズ作品である『ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル』では、ZAP SPACY*34のメンバーは、辺境の惑星で出会った記憶喪失の青年・レイを、彼が明らかに人間離れした身体能力を持っていることなどを当初から知りながら仲間に加えることになる。レイははたして、ある宇宙人の遺伝子を持った地球人であり、怪獣を操って戦うことができる能力者、つまりは、非常に広い意味でウルトラマンに連なる存在であった。ZAP SPACYはある男がウルトラマンだと知ったうえで仲間に引き入れたわけである。
これほどまで世俗化した関係性は、もちろん、人間たちが人間以上の存在に付き合う上での何らかの試練を呼び込む。『ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル Never Ending Odyssey』において、レイはたびたびその力を暴走させ、敵味方なく周囲の人に襲いかかるようになる(この“暴走”は、レイがウルトラマン似の異形の姿へと変身することをともなっているのがなかなかにあからさまだ)。ZAP SPACYとしては、当然仲間であるレイの暴走を鎮めなければならない。はたして、人間がウルトラマン(に類するもの)の暴走を止める立場になろうとは、驚くべき関係性の逆転である。
やがて、正真正銘ウルトラマンであるところのウルトラセブンの力を借り、ZAP SPACYはレイの暴走を止めることに成功する。少なくともこの作品においては、暴走しがちな「人間たちと超人の関係」を調停するのは、より長い間人類と付き合ってきた先輩超人とその年季であったということか。

 

7.人と神々――新世代

7.1.ゼロ、ギンガ、エックス:人間と対話するウルトラマン

前述したように、ティガ、ダイナ、ガイアの時代には、ウルトラマンは独立した個性を持たない人間の拡張として描かれる傾向があった。対して、これから取り上げようとするニュージェネレーションと呼ばれる時代のウルトラマンたち*35においては、ウルトラマンたちを人間からは独立した個性として描くという傾向が(大まかに言えばではあるが)再び顕著になってくる。しかし、それはジャック、エース、タロウの時代のような、「寡黙な試練の神」の再演ではなく、むしろ人間たちと同じ目線に立って積極的に対話を行う「身近な宇宙人」という新しいスタイルだった。
そして、このような新しいスタイルは、はじめから狙って構成されてきたものではなく、ウルトラマンゼロがもたらしたイメージ・ウルトラマンギンガがもたらしたイメージを取り込んでいくなかでウルトラマンエックスが偶然に完成させたスタイルではなかったかと私はにらんでいる。

ウルトラマンゼロは、当初『大怪獣バトル THE MOVIE ウルトラ銀河伝説』のオリジナルキャラクターとして登場したウルトラマンだ。『ウルトラ銀河伝説』は、ウルトラシリーズの歴史上(映像作品としては)珍しい、全編地球外で進行する宇宙人たちの物語である。その上映時間の何割かは、ウルトラマンたちのあいだで展開するドラマ、とくに、宇宙人として背景を強固に持っている昭和ベースのウルトラマンのあいだで展開するドラマに割かれている。ウルトラマンたちにだって故郷の星があり、文明があり、人間関係がある、そのなかでのドラマを主に扱ったのが『ウルトラ銀河伝説』だったわけだ。その『ウルトラ銀河伝説』オリジナルのキャラクターであるゼロであるから、当然、宇宙人が地球人に対してしばしばみせるような神秘的な在り方でも示唆的な在り方でも意味深な在り方でもなかった。彼はむしろ、地球人が同じ地球人に対して普段見せているように、よく悩み、よく成長し、そしてよく喋った。
このゼロという男、若々しく、まあまあヤンチャで、戦いではめっぽう強かったので当時から大きな人気を博し、『ウルトラ銀河伝説』以降の作品にも様々な立ち位置で出演することとなった。この、2作目以降の出演作、とくに『ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦! ベリアル銀河帝国』と『ウルトラマンサーガ』において、彼の特徴はもう一段階の変化を遂げることになる。
ウルトラマンゼロ』と『ウルトラマンサーガ』の双方において、ゼロは並行宇宙へと旅立ち、勇敢な行動で命を落としかけた人間の若者と一体化することを選ぶ。一体化するというだけなら、初代ウルトラマンのような一体化?乗っ取り?タイプやジャックのような非常時に一体化タイプでもよかっただろうが、ゼロの場合は、すでに過去作で描かれてきてしまっていた強すぎる個性があり、初代ウルトラマンやジャックのように黙りこくっているのは不自然だった。だから彼は、人間の若者たちと一体化したときは、ゼロとしての精神が表に出ていない変身前でも、精神世界で若者たちと対話した。とくに『ウルトラマンサーガ』のときに一体化したタイガ・ノゾム隊員との関係が顕著で、ゼロとタイガはある状況ではウルトラマンに変身するしないで意見が割れすらした。そして彼らの場合、驚くべきことに、ジャックのように「人間が変身しようとするがウルトラマンが承服しない」のではなく「ウルトラマンは変身してもらおうとするが人間が承服しない」展開だったのである。これは、昭和のウルトラマンがしばしばそうであったような「未熟な人間による能力の行使を上位者であるウルトラマンが裁定する」構造の明確な棄却ではないだろうか。「未熟な人間と未熟なウルトラマンとが対話のなかで打開策を模索する」構造の萌芽ではなかっただろうか。

 

ゼロは、よくしゃべるぶん非常に親しみやすく、しかし反面神秘性を損なっているという批判も受けていた。そこで、よくしゃべるゼロの直後は、反動としてあまりしゃべらないウルトラマンであるウルトラマンギンガが登場した。
ギンガはあまりしゃべらない。あまりしゃべらないというよりも、説明をしないという方がイメージに合致しているかもしれないが。
ウルトラマンギンガ』第1話『星の降る町』で、高校生の礼堂ヒカルは遠い昔のいん石衝突のころから神社にご神体としてまつられていた謎のアイテム「ギンガスパーク」を手にすることになる。この「ギンガスパーク」は、特殊な方法でフィギュア化した怪獣たちの身体に人間が乗り移ることを可能にするアイテムであり、ウルトラマンギンガの身体と精神もまた、そのなかに宿されていた。ヒカルは「ギンガスパーク」を用いて、ときに怪獣に、ときにギンガに変身して身近な脅威と戦うことになる。
実のところ、ギンガは宇宙のような未来のようなところから来た一個のウルトラマンであり、昭和の多くの「宇宙人ウルトラマン」同様、ヒカルと出会う前から独立した個性を持った存在だった。しかし、『ウルトラマンギンガ』劇中において、変身前のヒカルにも、変身後のギンガにも、目立って観察されるのはヒカルとしての精神のみである。例外は、変身前たまに精神世界でギンガ本人がヒカルに語りかけるときくらいだ。このように、人間と宇宙人ふたつの個性でありながらつねに人間の意識が前面に出ているギンガのスタイルは、昭和ふうの「宇宙人ウルトラマン」と平成ふうの「人間ウルトラマン」の奇妙な折衷であり、種別から言えば身体だけ貸与タイプとでも言えよう。
旧来、主人公が人間の姿でいるとき、ウルトラマンの身体はそれそのものが人間の身体へと変化しているのだ、という理解は、半ば暗黙の了解であっただろう。しかしギンガの身体だけ貸与タイプはギンガ以降のウルトラマンの一部にいっぷう変わった印象を呼び込む。それは、主人公が人間の姿でいるとき、ウルトラマンの身体は変身アイテムのなかに内蔵されているという印象、ひいては、ウルトラマンの精神もまた変身アイテムのなかに内蔵されているという印象だ*36ウルトラマンはここにきて、変身アイテムという至極ソリッドな媒介物メディアを介して交渉できる相手になったのだ。

 

ゼロ、ギンガ(とギンガに連なるビクトリー)に続いて現れたウルトラマンであるウルトラマンエックスは、ゼロ、ギンガそれぞれのやり方を取り込んで独自のやり方を完成させた、というように私には感じられる。
ウルトラマンX』第1話『星空の声』によって語られるところによれば、ウルトラマンエックスは十数年前、怪獣との戦いのなかで身体を失い、データ生命体になった。現在、地球で怪獣が平和を脅かす場面に遭遇したエックスは、防衛隊に所属する大空大地隊員の情報端末「ジオデバイザー」に憑依し、彼に語りかけて協力を要請する。大地隊員は協力を決意し、エックスと一体化することでごく短時間エックスの肉体を実体化し、ウルトラマンとして共に戦うことになる。
まず、エックスがゼロから受け継いだ点として、彼はよくしゃべる。変身前でも変身後でも、彼は大地隊員とは別個の人格として描写され、大地隊員からの呼びかけに積極的に応じる。異なる個性のふたりが協力しあうことが『ウルトラマンX』のキモである。
次に、エックスがギンガから受け継いだ点として、彼は通常時変身アイテム「ジオデバイザー」改め「エクスデバイザー」に憑依する。変身前、彼の精神は基本的に「エクスデバイザー」のなかにのみ存在するものであり、彼の発言も「エクスデバイザー」を通して行われる。卑近なたとえをすれば、彼はアレクサやSiriのように情報端末から語りかけてくるキャラクターなのだ*37
人間とコミュニケーションが可能な宇宙人が、普段は何かしらソリッドなアイテムのなかにおり、いざとなればともにウルトラマンの能力を得て、やはり対話しながら困難に対処する。これが、人と神々との関わり、否、人とまれびととの関わりの最新版(のひとつ)である対話タイプなのだ*38

 

8.人々と神――新世代

新世代において、防衛隊はしばしば後景化しがちで、ともすれば存在しなかった。新世代にあたるテレビシリーズ7作のうち、『ウルトラマンギンガ』『ウルトラマンジード』『ウルトラマンR/B』『ウルトラマンタイガ』の4作においては人類の手になる公設の防衛隊は(ほぼ)存在しなかった。よって、この記事においては、「防衛隊とウルトラマン」という目線で新世代について語ることはとくにない*39

 

9.シン・ウルトラマンの感想2 REQUIEM

話題を『シン・ウルトラマン』に戻ろう。
ウルトラシリーズのいち作品としてみたとき、『シン・ウルトラマン』で採用されている「人と神々」観・「人々と神」観というのは、案外コンサバティブなものだった。

 

9.1.人と神々――シン・ウルトラマン

巨大人型生物ウルトラマンと神永新二との関係は、初代ウルトラマンとハヤタ隊員とのそれを踏襲した一体化?乗っ取り?タイプだった(「乗っ取り」寄りのニュアンスがちょっと強かったが)。換言すれば、彼は、人間と宇宙人との心身両面の一体化、という点では初代ウルトラマンとよく似ている。『シン・ウルトラマン』が前述した『ウルトラマン』第33話『禁じられた言葉』から「両方さ」を引用してみせたのも、初代ウルトラマンとハヤタ隊員との関係性をなぞるという明確なアピールであろう。
しかしながら、彼が初代ウルトラマンと顕著に異なるのはここからで、彼はマージナルマンとしての己の性質を利用してみせるだけでなく*40、マージナルマンという己の状況に苦しみもした。人間を愛してしまったことによって、上層部である“光の星”の意に反することを行ったからだ。人間を愛するがゆえに、ときに人類が客観的正義・平等(あるいは宇宙人的正義・平等)にもとる行為を行うときには、マージナルマンである自分がどこまで介入していいものか葛藤することになる。この悩み多きキャラクター造形は、初代ウルトラマンのそれではなく、むしろウルトラセブンのそれ(もっといえば、『平成ウルトラセブン』で後付け的に強調されたセブンのキャラクター性)である。
ウルトラマンのなかにウルトラセブン的キャラクターを読み取った(おそらく)庵野氏の判断というのは、いささかキャラクター性の魔改造がすぎるのではないか、と私は思う。とくに、『シン・ウルトラマン』はウルトラマンを冠する単発映画なのだから、オマージュという意味でも、キャラクターの内面の変化は丁寧に描きたいという意味でも、初代ウルトラマン的キャラクターとウルトラセブン的キャラクターのキメラという選択には批判の余地があった。とはいえ、最大限好意的な読み取り方をすれば、主人公を半分セブン的なキャラクター性にしたのは、『シン・ウルトラマン』の物語のあとにウルトラセブン的なキャラクター性を持った巨人があの世界に現れる、ということをスムーズに予感させるための工夫だったと言えるのかもしれない。実際、庵野氏は『シン・ウルトラマン』の企画初期には『シン・ウルトラマン』『続・シン・ウルトラマン』『シン・ウルトラセブン』からなる三連作を予定していたようである*41

 

ところで、『シン・ウルトラマン』作中においては、「ウルトラマン」に該当する存在はあくまで宇宙に一人きりだというスタンスが表現されていたような気がする。
もしも、いつものウルトラシリーズであったなら、ウルトラマンの故郷にウルトラマンと生物学的同種である個体がいたなら、そういった個体はとりあえず「ウルトラマン」と呼ばれていいはずだ。しかし『シン・ウルトラマン』においては、巨大人型生物の体をなす例の種族のなかでも、地球人との融合を果たしたあの個体だけが「ウルトラマン」である、そういったスタンスは徹底して守られていた。例えば、巨大人型生物ウルトラマンの故郷は“光の星”であるし(“光の星”という用語は既存のウルトラシリーズでほとんど使用されない)*42、例えば、巨大人型生物ウルトラマンの同族はゾフィーではなくゾーフィだった(ゾフィーはシリーズキャラとして既存のウルトラシリーズでキャラクター性を確立しているが、ゾーフィはアンオフィシャルな形でしか存在しないキャラクターだった)*43。『シン・ウルトラマン』の世界において、「ウルトラマン」は厳密には同族が存在しない、ワンアンドオンリーの存在なのである*44
こうして、ウルトラマンを徹底して独自の存在にすることは、ウルトラマンウルトラセブン的な悩み多きキャラクター性を付与するうえで必要な導線でもあったと理解している。既存ウルトラシリーズ初代ウルトラマンが行う「地球人との合体」は、同族がいくらでもやっていることであるので、初代ウルトラマンはマージナルではあっても孤独ではない。しかし『シン・ウルトラマン』の巨大人型生物ウルトラマンが行った「地球人との合体」は、おそらくは、あとにもさきにも彼しか実行する可能性のない特殊例であって、そのため彼はマージナルであるうえにそのマージナル性ゆえに孤独にもなるのだ。『シン・ウルトラマン』が、既存のウルトラシリーズから隔離されていることの最大の意義も、おそらくここ――史上最も孤独なウルトラマンの実現――にある。

 

9.2.人々と神――シン・ウルトラマン

さきに断っておくが、この記事では、人類と巨大人型生物ウルトラマンとの関係を、安保体制下における日本とアメリカとの関係になぞらえるというよくある見方を採用しない。
実際のところ、ウルトラマンアメリカとみなすような見方はウルトラマン批評においてわりに昔から一定数存在する見方ではある*45*46。だからこの読みを無益だとも的外れだとも私は思わない。
しかし2点において、この「ウルトラマンアメリカ」説は私の実感にそぐわない部分がある。1点目として、『ウルトラマン』という企画がウルトラマンのようなヒーローの存在を前提として生まれたわけではなく、むしろ「怪獣VS人間」という基本構造に後付けされてきたとみなせる点。2点目として、『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』の文芸やデザインには、人間的なヒーロー性・明朗さよりも日本土着の神々のような理解不能性・神秘性をなんとなく感じるという点だ*47。そのため、この記事ではより抽象化した「ウルトラマン=神(にも等しい力を持った存在)」という見方を採用して記述していく*48

 

禍特対と巨大人型生物ウルトラマンとの関係は、最初は人間側の困惑から始まった。日本社会にウルトラマンが初めて現れた状態を再現するのがこの映画の主要コンセプトの一つであるのだから*49、彼らの最初の反応が困惑であるのは当然のことだろう。
しかし、次の反応として、禍特対は意外に早くウルトラマンを信用……信用までいかなくとも、当座有害な存在ではないと断定することになる。この判断を、ナイーブにすぎると批判することもできるだろうが、私はとりあえず「まあ結果オーライではあった」と評価したい。善意か悪意かわからない相手に対して、いたずらに善意を期待するのも馬鹿だが、かといって無根拠に悪意を想定すると、負のピグマリオン効果で悪意が生まれ出てきかねないものだ。例えばにせウルトラマンが出現して暴れ始めたときに「いままでの行動原理と違いすぎる」と感じて迎撃をためらったのはまずまず妥当な判断だった。かくして、ウルトラマンに対するときの態度として「ほかに特別疑うべき理由がない限り、純粋な正義感で行動していると期待する」という条件が醸成され始め、ウルトラマンは禍特対にとっての“天佑”となっていく……。
かと思いきや、外星人メフィラスの突然の登場で*50、物語は「ウルトラマンが“天佑”になっていく過程」から「ウルトラマンとメフィラスとの“神”の座をかけたバトル」へとシフトする。
メフィラスとは、その原典であるメフィラス星人からして、悪魔メフィストフェレスのパロディである。悪魔は悪魔らしく、実利に基づいた取引で神の座を手に入れようとする。ウルトラマンは勇敢にもそのたくらみに対抗したため、ウルトラマン自身が望んだわけではないが、「ウルトラマンとメフィラスどちらが神となるか」という二者択一の構図が組みあがってしまう。しかし、他ならぬメフィラスがウルトラマンの正体が神永新二であると明らかにしてしまった副作用として、禍特対はウルトラマンを“天佑”とか“神”としてでなく、ある種対等な“仲間”としてみなすことになる。禍特対は、メフィラスを信奉しなかっただけでなく、「どちらが神となるか」という二者択一の構図にも組み入れられることはなかった。このとき禍特対は確かに独立愚連隊であった。独立愚連隊の働きで、事態はもろもろ結果オーライな方向に進んでいく。
『シン・ウルトラマン』のように、防衛隊がウルトラマンのことを“仲間”とみなす態度は、『ウルトラセブン』最終話で見られた特徴か、ともすれば平成のウルトラシリーズが持っていた特徴である。このような友情賛美のムードが、平成ウルトラシリーズに触れながら成長してきた私にとっては「穏健だな」「案外コンサバティブだな」と思えた点であった*51*52

 

ところで、劇中、ウルトラマンは人類の自発的な成長を期待して“神”の座を自ら降りようとするような態度を見せる。しかしこれが、正直なところ(作中的にも作劇的にも)成功しているとは言い難かった。彼が、「与えられた発展・与えられた平和では人類のためにならない」と口では言って、実際にしていることは「半分人間である立場を利用してメフィラスとの交渉に過干渉する」とか「(自分とは折り合いの悪い)地球人の代表に手渡された物品を(自分と折り合いのいい)地球人に勝手に渡しなおす」とか「教えたくなかったと言い訳しながら秘匿技術を教える」とか、お仕着せの発展や平和を人類に手渡すような行動ばかりだ。結局のところ、彼がしていることはパターナリズムのそしりをまぬがれない。彼が自分でも警戒しているところの“神”になってしまうことから逃れられていない。
クライマックスには、前述した『ウルトラマン』第37話『小さな英雄』の展開をなぞりながら、人類の自発的成長をウルトラマンが促す物語――促している以上、それはまるで自発的ではない――が描かれることになる。かくしてウルトラマンは、“神”ってほど偉そうではないが“仲間”と呼ぶには偉大すぎる、“ひかえめな天佑”という立場に落ち着くことになる。やんぬるかな。

 

9.3.人(々)と神(々)――【シン】ウルトラ【マン】

ただ、このように『シン・ウルトラマン』の感想を構造化して再度語ってみると、気づかされることもある。
巨大人型生物ウルトラマンは、初代ウルトラマンのように「地球人との心身の一体化」を果たしたにもかかわらず、初代ウルトラマンのようなあっけらかんとしたトリックスターにはなれなかった。巨大人型生物ウルトラマンにはまた、いっときは“神”でもない“天佑”でもない“仲間”になりかけたにもかかわらず、ウルトラセブンのように「人類の“仲間”」として物語を終えることはできなかった。巨大人型生物ウルトラマンは様々なウルトラマン観を垣間見せてくれたが、最後には“ウルトラセブン的な悩みを持った”“天佑”という、意外にも初期型の(しかし折衷された)ウルトラマン観に還っていくことになる。
巨大人型生物ウルトラマンは、決して人類を守るため地球に来たわけではないが、はたして人間を愛してしまったためにウルトラセブン的悩みを抱えることになった(ただ、セブンのように「人間を装っていることの欺瞞」を気に病んだわけでもないのだが)。また、彼ははっきりと“神”の座を降りようとしたが、結局は自分からパターナリスティックな行動をとったために、ほどほど“天佑”といえる存在になってしまった(彼を対等な“仲間”とみなせる地球人はもういまい)。これではまるで、“父”になりたくないのに“父”になろうとしている男だ。
ここに、人間になりたいと願ったわけでもないのに人間を愛してしまった男の苦労みたいなものが読み取れないだろうか。“神”になりたかったわけでもないのに“神”に祭り上げられかけた男の苦労みたいなものが読み取れないだろうか。それは苦悩と呼ぶほどウェットなものでもない。『シン・ウルトラマン』の爆速の展開が感じさせるのは、ウェットな苦悩ではなく、もっとドライでシュールな苦労だ。
その苦労は、すでに押しも押されもせぬ大ベテランである初代ウルトラマンにも、まだまだルーキーであるウルトラマンエックスにもきっと持つことができない、彼だけが持っている孤独な苦労だ。『シン・ウルトラマン』の世界観が既存のウルトラシリーズからは慎重に切り離されていることを、いまはあなたもよく知っているだろう?

*1:『シン・ウルトラマン デザインワークス』(三好寛編,2022,カラー)に収録されたインタビューによれば、実際のところ、庵野氏は当初の予定では浅見女史と神永新二との軽いラブロマンスを描くはずであり、そのために体臭を嗅ぐシーンなどが差し込まれていたらしい。しかし、あの流れでラブロマンスを描けると本当に思ってたのか?

*2:ただ、瞥見では、庵野氏のインタビュー等々から得られる情報は、この読み方と強烈に矛盾するわけでも強烈に裏付けるわけでもないようである。

*3:この記事中の引用・参考文献表記は、脚注とごちゃごちゃになったちょっとヘンな体裁になっている。はてなブログでの見やすさを考慮してこのような体裁にしたが、もしあなたにとって参照しづらかったなら「申し訳ないことをした」。

*4:この記事で参照・引用した文献は、硬質な批評論文ばかりでなく、もっとやわらかめの、ムック本や半エッセイ本なども多い。このような文献群になった最大の理由はもちろん「硬質な文献を大量に捜索して読み込むのは私には骨が折れるから」である。
ただ、第二の理由として、「私は設定を中心にしてウルトラシリーズを読み取る記事としてこの記事を書きたかった」という理由も少しある。硬質な批評論文は、頻度的に言って、脚本家・監督の作家論に傾きがちなところがある。私はそういった作家論もけっこう好きだが、この記事は作家論よりもむしろ作品の設定自体を中心にして議論を展開したかった(これは単に私の好みの問題である)。設定を重視し、作家論に踏み入りすぎないようにと努めたとき、参照・引用したい文献はムック本が多かったわけである。

*5:引用にあたっては『僕たちの好きなウルトラマン』(大場勝一ほか編,2003,宝島社)を参考にした。

*6:「いくつもの文化が併存する社会の中で、どの文化圏にも完全には同化できずに、複数の文化に不完全に属している人々をパークはマージナルマン(境界人)と呼びました。」『社会学用語辞典』(田中正人編,2019,プレジデント社,p92)近年ではマージナルパーソンと表記されることも多い語だが、この記事ではウルトラマンと韻を踏みたいという小さな理由でマージナルマンとの表記を選んだ。

*7:私はこの記事中で「『怪獣VS人間』の構図に「お助けキャラとしての上位怪獣」が組み入れられたのは、人間が怪獣に100%勝利できるのはおこがましかったから」という理屈で議論を進めているが、企画変遷に対するこの解釈には異説もある。例えば、『ウルトラマン99の謎』(青柳宇井郎・赤星政尚,2006,二見書房)では、「上位怪獣」が組み入れられたのは「怪獣が人間に毎回倒されてしまうと怪獣たちの魅力が半減するから」であるとしている。また、例えば、佐藤健志は『ウルトラマンは、なぜ人類を守るのか』と題した評論において『妖星ゴラス』を引き合いに出しながら「「上位怪獣」が組み入れられたのは、当時善玉怪獣と化しつつあったゴジラの構造をそのまま引き写すため」と結論づけている(『映画宝島 Vol.2 怪獣学・入門!』町山智浩編,1992,JICC出版局)。

*8:詳しい方には補足するまでもないが、第三勢力が「上位怪獣」「宇宙人」「地球人と一体化した宇宙人」へと変節を遂げていった過程は決して単線的なものではなかった。変節の過程では「地球人と対話・協調する気まぐれな宇宙人」というキャラクターを擁する『WOO』という未製作企画の影響もあった。

*9:セリフ引用にあたっては、『ウルトラ検定 公式テキスト』(ウルトラ検定実行委員会編,2008,ダイヤモンド社)を参考にした。

*10:第26話『超兵器R1号』

*11:第42話『ノンマルトの使者』

*12:「地球人の側に立つか、正義・平等の側に立つかを迫られる」という、ウルトラセブンがたまに直面する問題構造は、のちの続編『平成ウルトラセブンシリーズ』で事後的に強化されることになる。この続編(唯一の正統続編というわけではなく、ウルトラセブンがたどりうる可能性の一つに過ぎない)のなかにおいて彼は、正義・平等でなく地球人の側に立ったことで故郷の上層部から懲戒を受け、暗黒星雲に幽閉されすらする。これほどまでのシリアスさは、ファンダム的には評価の分かれる部分となる。

*13:ウルトラマン99の謎』(青柳宇井郎・赤星政尚,2006,二見書房)バージョン違いの多い書籍なので注意。

*14:ウルトラマンA』の南夕子は例外。

*15:この変化の最大の原因は、メタ的には、おそらくは毎週々々郷秀樹を命の危機に追い込むことが作劇的に無理が大きかったからであろうが。

*16:ウルトラマンの愛した日本』(ウルトラマンタロウ,和智正喜訳,2013,宝島社,p134)より引用。

*17:郷秀樹と北斗星司はいずれも冒頭に命を失っているため「地球人と宇宙人との分離を果たすにはどちらかが命を落とさなくてはならないため、分離できなかった」という不可抗力的な事情もあった可能性はある。しかし理由とみなすにはこの推測ではいささか不十分だ。なぜなら、ウルトラマンタロウに変身する東光太郎も同じく冒頭に命を落としたが、詳しい理由の説明なしに、地球人と宇宙人双方存命のままでの分離を果たしている(とも解釈できる)ので。

*18:ヘラクレスにとって、天上に揚げられることは神性の強化とともに人間性の喪失をも意味していたのだろうか。示唆的にも、『ウルトラマンA』最終話『明日のエースは君だ!』において地球を去ろうとするエース / 北斗星司は「さようなら、北斗星司」と述べて人間としての日常から決別している。

*19:この記事の内容からすれば余談なのだが、このエピソード、「イデ隊員の内的葛藤」以外にも「防衛隊の激務の実際的なブラックさ」という問題も解決すべきものとして横たわっていたように思われてならない。物語的には、イデ隊員の内的葛藤のみが解決されて終結を見るのだが。

*20:『ウルトラ検定 公式テキスト』(ウルトラ検定実行委員会編,2008,ダイヤモンド社)より引用。

*21:『ザ☆ウルトラマン』第49話『ウルトラの星へ!! 第3部 U艦隊大激戦』などが顕著。

*22:展開の引用にあたっては『僕たちの好きなウルトラマン』(大場勝一ほか編,2003,宝島社)を参考にした。

*23:ウルトラマン99の謎』(青柳宇井郎・赤星政尚,2006,二見書房,p137)より引用。

*24:両セリフの引用にあたっては『ウルトラマン99の謎』(青柳宇井郎・赤星政尚,2006,二見書房)を参考にした。

*25:ただし、本編でほとんど語られない裏設定的な領域では、ウルトラマンの起源は宇宙にあるらしいという説も語られることがある。

*26:両腕で防御を固める怪獣を倒すために、アスカが元野球部の仲間ヒムロのアドバイスを受けて特訓し、ウルトラマンとしてフォークボールを模した技を習得するエピソード。

*27:セリフ引用にあたっては『僕たちの好きなウルトラマン』(大場勝一ほか編,2003,宝島社)を参考にした。

*28:関口は『ガイアとアグルの思い出』と題したエッセイでこのように述べている。「藤宮はいつも、「人類」という大きな単位でものを考えてしまっていた。一人ひとりの顔は見えておらず、ひと括りに「愚かな人類」と言い切るセリフが何回も出てきた。このセリフには、個としての人は存在していなかった」『僕たちの好きなウルトラマン』(大場勝一ほか編,2003,宝島社,p127)

*29:ここで「人間らしい」という修飾語は、「人間だれしもが持つ」という意図ではなく「人間より上位の存在では持ちえない」という意図で述べている。

*30:「地球規模の防衛組織であるG.U.A.R.D.のなかでも、各分野に秀でた精鋭たちで構成された部隊」『平成ウルトラマン メカクロニクル』(斉藤秀夫・渡辺美樹編,2021,ぴあ株式会社,p40)比較的軍事色が強く、保有する技術力が現実のものよりかなり進んでいる。

*31:関口の『“人間ウルトラマン”を支えたXIG隊員たちの魅力とは』によれば、「怪獣との戦いの場面で、その個性は最も発揮された。これまでのウルトラマンとは比べ物にならないほど、ガイアは人間と協力して怪獣を倒すことが多いのだ。怪獣を倒したあと、飛び去るウルトラマンとXIGファイターのパイロットたちが敬礼を交わすシーンも、ごく自然に描かれていた。」『僕たちの好きなウルトラマン』(大場勝一ほか編,2003,宝島社,p131)

*32:「各国のGUYS支部に配備されている実戦部隊の総称で、日本支部の正式名称は「CREW GUYS JAPAN」。」『平成ウルトラマン メカクロニクル』(斉藤秀夫・渡辺美樹編,2021,ぴあ株式会社,p98)対怪獣・対宇宙人というニュアンスが強い軍事組織。保有する技術力が現実よりもかなり進んでいるが、異星由来の技術は多くがブラックボックス化している。

*33:ところで、防衛隊がウルトラマンの正体を知ったうえでその仲間に加え入れるということは、それまで「防衛隊とウルトラマン」という構図で展開されることが多かった「人々と神」の関係性が、「一般市民と防衛隊&ウルトラマン」という新たな構図で展開されるという可能性を含む。実際、『ウルトラマンメビウス』の終盤では、CREW GUYSとメビウス / ヒビノ・ミライはともに立って市民社会からの非難や応援にさらされることになった。具体的には、『ウルトラマンと「正義」の話をしよう』(神谷和宏,2011,朝日新聞出版,p112)によれば「番組終盤では、現代日本ポピュリズムが描かれ、大衆の脅威がウルトラマンメビウスの前に立ちはだかりました」。この展開は注目すべきものに思われるが、『シン・ウルトラマン』の感想に接続しづらいためこの記事ではこれ以上触れない。

*34:「スペースミッションのエキスパートたちで構成された組織で、ZAPは「Zata Astronomical Pioneers」の略称。」『平成ウルトラマン メカクロニクル』(斉藤秀夫・渡辺美樹編,2021,ぴあ株式会社,p114)地球外で惑星を開拓する開拓団の警備組織。未来を舞台にした作品らしく科学技術の水準は高い。

*35:ウルトラマンゼロはニュージェネレーションヒーローズに含まれたり含まれなかったりする。この記事ではさしあたり含むものとして記述した。

*36:いちおう譲歩しておくと、ウルトラマンの精神が変身アイテムのなかに内蔵されているという印象は全くもってギンガが創始したものだとまではいえない。『ウルトラマンギンガ』よりも前の『ウルトラマンコスモス』でも、変身前の人間が変身アイテム「コスモプラック」に対して話しかける、というようなシーンは存在した。ただ、この記事ではウルトラマンエックスとの影響関係を重視して、エックス直前のヒーローであるギンガにスポットライトをあてる。

*37:『劇場版 ウルトラマンオーブ 絆の力、おかりします』においてはついに、ウルトラマンエックスがカーナビとして振る舞うというギャグまで用意された。

*38:友人にこの記事の草稿を読んでもらったところ「ウルトラマンがアイテムのなかに宿りがちであることの背景としては、電子機器の普及で子供含めた社会の想像力が変化してきたという要因のほうが強いのではないか」という指摘をもらった。確かに。

*39:本当は、『ウルトラマンZ』における「かなり漸進的ではあるが、防衛活動がたとえ加害を伴っても自己の責任において引き受けようとする態度」云々について語ってみたい気持ちは少しある。しかし、『ウルトラマンZ』は“新世代”の枠からは外れるし、作品ごとの各論に踏み込みすぎるのは本意ではないし、この記事としては遠慮しておこう。

*40:『シン・ウルトラマン』中で「ウルトラマンが自身のマージナル性をいいように利用した」シーンであると私がとらえているのは、「なんだかんだ言いつつも、半分は地球人であるという立場を利用してベータ―ボックスを強奪したシーン」である。この理屈は端的に詭弁だと私は考えている。

*41:『シン・ウルトラマン デザインワークス』(三好寛編,2022,カラー)で三連作だったころの企画書が確認できる。なお、同書によれば、三連作は企画をさらにさかのぼると、『帰ってきたウルトラマン』リメイクとその前日譚・後日譚として生まれてきており、『帰ってきたウルトラマン』リメイクであるところの『続・シン・ウルトラマン』こそが当初の本命作品であるらしい。

*42:『シン・ウルトラマン デザインワークス』(三好寛編,2022,カラー)での庵野氏へのインタビューによれば、「“光の国”だと狭そうな印象」「“光の国”だとおとぎ話っぽい」という2点が“光の星”へと名称変更した決め手であったらしい。また、「既存のウルトラシリーズとの用語の違いは意図して作った」「ウルトラマンの故郷は意図して曖昧にした」とも語っている。

*43:しかし「謎の宇宙人ゾーフィがゼットンを使役する」という構図には劇場でもつい笑ってしまった。

*44:「M八七」の歌詞を引くことはあえてすまい。この手はすでに使い古されている。

*45:『21世紀ウルトラマン宣言』(PAX ULTRAMANA編,1995,幻冬舎)中の『ウルトラマン』最終話『さらばウルトラマン』評において富田は「一方ではウルトラマンを若干アメリカになぞらえているふしもあり、ムラマツの発言などに『国際貢献なんでも大賛成』的なニュアンスが感じられるのは否めない」と述べている。また、佐藤健志の『ウルトラマンは、なぜ人類を守るのか』という評論では、脚本家・金城哲夫におけるナショナリズムとコスモポリタニズムの個人的相克から発して、沖縄と日本との関係、日本とアメリカとの関係、人類とウルトラマンとの関係が線で結ばれていく(『映画宝島 Vol.2 怪獣学・入門!』町山智浩編,1992,JICC出版局)。この評論は圧巻。

*46:ウルトラマンアメリカ」以外では、『ヌーヴェル・バーグは「特撮」に実を結んだ!』でまるたしょうぞうが展開する「ウルトラマン天皇制(に代表される抑圧の原理を持った社会制度)」という見立てであるとか、『ウルトラマンにとって正義とは何か?』で切通理作が展開する「ウルトラマン=自我が肥大化して大人の社会から疎外されがちな青年」という見立てであるとか、「ウルトラマン=国境や血縁に支配されない理想的キリスト者」という見立てがあるらしい(いずれも『映画宝島 Vol.2 怪獣学・入門!』町山智浩編,1992,JICC出版局)を参照)。ただし、これらの見立ては作品論というよりかは幾人かの脚本家の作家論としての性質が強いことに注意。

*47:これは強調しておきたいことだが、「明朗さよりも神秘性を感じる」という部分に関してはあくまで私の主観だ。
ひょっとすると、「ウルトラマンアメリカか、神仏か」を問うことは、作品に対する分析であるよりかは私自身の怪獣ファンとしての系統を確かめるものでしかないのかもしれない。以下はまったくの私見だが、昔から怪獣ファンの中にはいくつかの系統群がある。怪獣のなかに社会風刺としての対応物を見出したがる「社会学政治学派」や、日本古来の神仏妖怪を見出したがる「宗教学・民俗学派」や、架空生物としてのかぎかっこ付きのリアリティを見出したがる「生物学派」などが代表的な系統群だ。私自身は、『空想科学読本』やガンダムのエンタメバイブル(それは私の世代にとっての大伴昌司怪獣図解のようなものだ)によってオタクとして産まれ、『SCP』でオタクとして育ってきたような人間であったから、第一に「生物学派」第二に「宗教学・民俗学派」であり、過度に「社会学政治学」的なアプローチにはいつも違和感を感じてしまうのだ。

*48:これはわりに余談だが、「ウルトラマン=神」とみなす見方は、信仰と近代的合理主義との関連のなかではより両義的に作用する。
一方では、信仰と近代的合理主義は相反するとみなせる。そのため、未開・自然の象徴たる怪獣を倒す戦士であるウルトラマンは文明・近代的合理主義の使者である(『ウルトラマンと「正義」の話をしよう』(神谷和宏,2011,朝日新聞出版)など参照)。そこからさらに独自解釈を進めるなら、ウルトラマンは自身の神秘性を否定する存在であるのかもしれない。
他方では、戦後日本にとって科学技術は信仰の対象であったともみなせる。そのため、ウルトラマンは科学技術をその理論的過程にかかわらず信頼させる「科学信仰」のなかにおいてまぎれもなく神であるということになる。独自解釈するなら、ウルトラマンは、自身と科学とをもろともに神秘化し、科学を宗教へと高める存在であるということである。

*49:「イントロダクション・ストーリー」(映画『シン・ウルトラマン』公式サイト,カラー編,2022,2022年5月19日取得,https://shin-ultraman.jp/story/)によれば、『シン・ウルトラマン』は「「ウルトラマン」の企画・発想の原点に立ち還りながら、現代日本を舞台に、未だ誰も見たことのない“ウルトラマン”が初めて降着した世界を描く、感動と興奮のエンターテインメント大作」を意図している。

*50:映画を観ればわかる通り、真相から言えばメフィラスの登場は突然のものではなかったが。

*51:ウルトラマンの助けを最初から期待してはいけない / 期待することができない」という条件と「ウルトラマンは純粋な正義感で行動していると期待する」という条件の2点に支えられた友情賛歌のムードが、なぜ私には「穏健」「コンサバティブ」に感じられたのか、今しばしの説明が必要だろう。
それというのも、昭和・平成を経て特に多様なコンセプトが花開いた平成第2期(『コスモス』『ネクサス』『マックス』『メビウス』の4作。「ハイコンセプトウルトラマン」とも呼ばれる。この記事中の流れで言えば、『ガイア』と『ウルトラ銀河伝説』のあいだ)の最終作『ウルトラマンメビウス』において、多様なコンセプトを経験した先の究極の原点回帰として出てきたのが『シン・ウルトラマン』とも重なる友情賛歌というコンセプトだったのである。『ウルトラシリーズの全貌』と題した評論においてカベルナリア吉田はこう語っている。「21世紀は新たに4作品のウルトラマンが誕生した。そのキーワードは、試行錯誤を交えつつも「原点回帰」である。出身地は久々に「宇宙」そして「M78星雲」「光の国」に戻り、単純明快な「外敵退治」と「兄弟」が復活した。だがそこに至る新世紀のウルトラ世界は、複雑なカオスに満ちていたのも事実である。(中略)「地球の平和は自らの手で守る」「信じる心を捨てない」という2大テーマをメビウスは饒舌に語りかける。幾多の混沌を経て辿り着いたのは、忘れかけていた崇高な理念。過去のウルトラマンの様々な謎も解かれ、メビウスを経てウルトラ世界は大団円ともいうべきひとつの結晶に達したといえるだろう。」『ウルトラ検定 公式テキスト』(ウルトラ検定実行委員会編,2008,ダイヤモンド社,p38-41)

*52:私は、私が『シン・ウルトラマン』をして「穏健」「コンサバティブ」であると思ったこと自体は個人的な感想であるが、そう思った経緯の何割かにはいくぶんの共感を得られるのではないかと思ってその説明をしている。
ところで、『シン・ウルトラマン』がコンサバティブであったことを挙げて庵野氏のことを「古ければ何でもほめる原理主義者」と断ずるひともひょっとしたらいるかもと思うが、そうした断定にははっきり異を唱えておきたい。庵野氏は、ともすれば初期3作にばかり評価が傾きがちだったであろう過去のウルトラシリーズファンダムにあっても、初期3作には含まれない『帰ってきたウルトラマン』をおそらく一貫して評価し続けてきた人物である。過去のファンダムの雰囲気は、私にとっては想像してみるよりほかにないことではあるが、当時よりの庵野氏は「自身の価値基準をはっきりと持って、新しかろうがいいものはいいと言える」オタクであっただろうと推測している。

あなたの“過剰”を魅せて “余剰”を隠して

『シン・ウルトラマン』のポスターを観るとき、私たちのうちいくらかは一瞬で“欠落”に気づく。ポスターのなかの彼は、一種あからさまなくらいに背中を私たちに向けていて、その“欠落”をありありと見せてくる。
アレを正確には何と呼ぶべきなのか、私たちのうちだれも知らないが……当記事ではこう呼ぼう。ヒレだ。今度のウルトラマンには、ヒレが“欠落”している。彼はいつもの微笑みをたたえながら、しかしヒレが抜け落ちたあとの背中を見せつけ、雄弁に何かを語ろうとしている。

 

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ヒレがない。与えられたこの事実に対して、『誰』が、『何』を狙ってそうしたのか、という疑問に対する答えはおそらく単純だ。答え:『庵野氏』が、『往年の成田氏デザインの再現』を狙ってそうしたものだ。ヒレの欠落だけでなく、そのプロポーションや、色味や、瞳の不在やカラータイマーの不在からしても、庵野氏が成田氏デザインの再現を狙っていることは言われなくとも明らかだった。
ではなぜ『成田氏』はヒレのないウルトラマンをデザインしたのか。この疑問に対する答えは、さきの疑問よりいっそう単純ではあるが、疑問自体がミスリーディングであるために若干導き出しづらい。答え:『成田氏』は、はじめからヒレのあるウルトラマンなど描きたくはなかった。はたして、子どもの頃から繰り返しヒレのある背中を見慣れている私たちには、ヒレがないことは“欠落”に見えるわけだが、実際のところ成田氏はヒレをつけてほしくはなかった。ウルトラマンの制作現場から距離を置いたあとでも、成田氏はヒレのないウルトラマンを描き続けた。

 

そう、成田氏はウルトラシリーズの制作現場から早期に距離を置いている。私たち、長らくウルトラシリーズに親しんできたファンのうち何割かにとっては、ウルトラシリーズが成田氏という人物を失ってきたことは、比較しようもなく惜しい出来事であると同時に、不可欠な、喜ばしい出来事でもある。成田氏のデザインはウルトラシリーズのなかでも最高のものである、しかし、成田氏の仕事ははっきり言って潔癖にすぎるのだ。
例えば、成田氏はカラータイマーを嫌った。ウルトラマンの全身を完璧な流線形に保とうとした。しかし、カラータイマーの誕生よりはるか後の時代に生まれた私たちはカラータイマーを愛さずにはいられない。あのツートンカラーのボディには、適切な位置に適切な面積の差し色が必要なのだ。
例えば、成田氏はウルトラの父の頭のツノを嫌った。神秘の宇宙人の身体から、まさしく戦闘と野蛮の象徴であるツノを取り除こうとした。しかし、ウルトラの父の降臨よりもはるか後の時代に生まれた私たちは頭のツノを愛さずにはいられない。あの、完璧な才能を持って生まれ、しかしそれ故に傷つきやすかった若きヒーロー――ウルトラマンタロウには、父から受け継がれるツノが必要なのだ。

 

成田氏のデザインは潔癖だった。そのデザインは潔癖ゆえ、ウルトラマンという生物の身体に生物的でない付加物をつけることを嫌った。ウルトラマンという宇宙人の体に過度に有機的な装飾をつけることを嫌った。換言すれば、成田氏はたいていいつも“過剰”を取り除こうとした。
そのこだわりは一種脅迫的なものでもあったと、私は思わずにはいられない。成田氏のデザインは、普通は盛り上がるはずのところがへこんでいるという手法でしばしば特徴づけられ、この特徴は成田氏の彫刻家としての経歴が生んだものであると理解されることが多い。しかし、私の知る限り、成田氏がこの手法を利用するのはしばしば強引で一辺倒なものでもあった。成田氏自身会心の作だと言っていたらしいシャドー星人の顔面を見よ。抽象化した人間の鼻を、普通は盛り上がっているぶんへこませるというのは、成田氏の傾向から言えばあまりに安直ではなかったのか?*1

そんな潔癖な成田氏のデザインを、決して無批判にではないが、しかしなるべく意を汲み取って立体化したのが、高山氏をはじめとした造形チームだったのだろう。
その、生物的な自然さ・宇宙人的な神秘性へのこだわりは感嘆すべきものだった。例えば、ウルトラマンのスーツを着るにあたっては、手首部分の凹凸をなくすため手術用手袋をつけた上から輪切りにしたコンドームをかぶせて着色する念の入れようだったという*2
しかし、卓越したその仕事のなかでも、ついに消し去ることができなかったデザイン的過剰、着ぐるみの証拠こそ、背中のヒレであった。それが着ぐるみであるならば、デザイン上どれだけ嫌われた過剰であれ、どこかに入り口をつけなければならない。それがウルトラマンの場合、背中であり、ヒレだった。
運命の瞬間、まさにヒレをつけることを決断した人々にとって、それが苦渋の決断だったか、挑戦的なアレンジだったかはわからない。なんにせよヒレはつけられ、長い年月が経った。今この時代には、決して完ぺきではない、どこか人間的な親しみを持ったウルトラマンが、その不完全さの象徴として背中にヒレをのぞかせている。

 

2

ヒレがない。あの人なら、与えられたこの事実に一抹の物足りなさを感じたり不満を覚えたりするのだろうか。
昔私が好んで巡回していたサイトに、M787というサイトがあった。このサイトはウルトラシリーズの二次創作イラストを掲載しているサイトなのだが、このサイトの管理人の“う”さんは目立ったフェティシズムを持っておいでだった。
それは、ウルトラマンヒレに対するフェティシズムだ。“う”さんはウルトラマンごとに異なる形状や色合いを持ったヒレを特に愛好されており、ヒレに対する注意の細やかさは、私が他のウルトラファンにいまだかつて見たことがないほどのものだった。

 

そう、当然のことのように言ってしまったが、いま、ウルトラマンヒレには形状や色合いに百花繚乱の個性がそなわっている。当然と言えば当然だが、現在のウルトラマンのデザイナーはウルトラマンのデザインにあたってはヒレも含めてデザインを行うし、ヒレはそれぞれのウルトラマンにとって欠くべからざるパーツとなっている。

 

百花繚乱の個性がそこにあれば、愛好家が出現するのも当然のこと。また、全体に対して厳密に調和した一部を単体で愛するようになれば、その愛がフェティシズムと呼ばれるのも当然のこと。なるほどヒレフェチも世の中には存在するし、その中に卓越した絵師も存在するわけだ。

 

ヒレフェチがフェティシズムならば、私はフェティシズムに関する種々の理論を徒然に思い出す。ぼんやりと……。
確か、女性の胸や腿がフェティシズムの主要な源泉になるのは、胸や腿を見た直後に“あるもの”の欠落を母の身体のうちに発見するからである、という理論がなかったか。もし、ヒレフェチの構造をこの理論に直截に当てはめることが許されたならば、重要なのはヒレではなく、私たちがヒレを見た前後に見ていた何かであるということになる。そんなものがあるとすれば、それは何なのだろうか……。
あるいは、フェティシズムの大多数を、単に“あるもの”の代用として何かを愛しているにすぎないとみなす理論もあったかもしれない。もし、ヒレフェチにおいても、ヒレは何かの代用に過ぎないのだとしたら? 私たちはヒレを見ながら、本当のところ何を見ているのだろうか……。

 

黙示はいったん避けて、比較的はっきり言えることを確認しておこう。ヒレとは少なくとも、常になにかの痕跡ではある。
第一にヒレは、デザイナーと造形家の苦闘の痕跡である。その空想の産物は、神ではなく人間が作り出してきたものであるという確かな痕跡である。これについては前節で示唆してきた。
第二にヒレは、ウルトラマンという架空の生物がたどってきた架空の進化史における、なんらかの器官・なんらかの機能の痕跡である*3ウルトラマンパワードのデザインはこの“進化史における痕跡”というスタンスを最も直截に示した。パワードのヒレは、なにやら背骨とつながって矢状面を深く貫く物体としてイメージされている。パワードのヒレこそは間違いなく、なんらかの機能のために生物が発達させてきた器官、おそらくはその名残りである。

 

ヒレが断片であることに考えを巡らせるなら。ヒレが痕跡であることを思い出すなら。私たちが、ヒレを具えた身体から人間の身体を透かし見るというのは、決して不法なことではない。私たちは、ウルトラマンの背中を見つめながら、そこにデザイナーの身体を、スーツアクターの身体を、古代ウルトラ人の身体を、垣間見る。
その昔、壮年のフェティシズム研究者が日夜トルソーに衣服を巻き付けてシワの出現を観測・分析したように、私たちも、頭の中で、理想化された人間の身体に銀赤のウェットスーツ生地を巻きつけてみよう。原始の人間の身体に銀赤の皮膚を巻きつけてみよう。生地であれ、皮膚であれ、人間の身体に滑らかに巻きつけるために、私たちはいくぶん苦労することになるだろう。伸ばしても伸ばしきれないシワがどうしても出てくる、集まってくる。集まってきたシワを目立たないどこかに隠そうとして、私たちは「結局のところ背中に逃がすしかない」ということを再発見するだろう。
こうして、身体の各所から集められてきたシワの終着として、私たちはヒレを再発見する。しかし今度は、私たちは不自然な“余剰”を精一杯隠そうとした努力の成果として、これを発見するのだ。

 

3

“過剰”を嫌った成田氏はウルトラシリーズを去った。芸術家にあって、頑固さはしばしば褒められる特質ではある。しかし、成田氏の頑固さがもしも、成田氏のデザインの完成度のみをいたずらに高め、作品群の全要素の響きあいを考慮しないものであったならば、成田氏はやはり去るしなかったのであろう。
“余剰”を発見したフェティシストはウルトラシリーズを愛してきた。芸術家にあって、篤信はやはり、褒められる特質だ。M787の更新は停まって久しいが、“う”さんはいまもTwitterかPixivかどこかでヒレフェチの前線を進化させているのだろうか。そうだったような気がする。

 

はたして、私はいま、ウルトラマンが不完全であることの証拠として“過剰”を愛するし、しかしウルトラマンが一度は隠そうとしてきたもの、その色鮮やかな変種として“余剰”を捜しつづける。ヒレは、その愛すべき“過剰”いちどは隠されるべき“余剰”の最たるものだ。
ウルトラマンが、ある種の“余剰”を隠し色鮮やかな“過剰”として再度見せつける手管というものは、最初から熟練していたわけではもちろんない。よく知られているように、『ウルトラマン』第1話から第13話まで、ウルトラマンのマスクは日ごとに増していくシワを隠すこと能わず、ついにはマスクを新造することになった。
現在のヒレがそうであるように、ある種のシワをシワそのものでなく美しい個性として魅せる技術というものは、円熟した身体にしかできない魔法なのだ。さながら、佳き老いを経験した人物にあっては、顔に刻まれたシワこそが魅力を放つように。
私がヒレを具えたウルトラマン愛さずにいられないのは、ウルトラマンが佳い時間の重ね方をしてきたからにほかならない。ヒレは、強いだけでもかっこいいだけでもない、円熟の域にあるヒーローとして、ウルトラマンの背中を彩る。この円熟味は、成田氏のデザインが単独でたどり着こうとした普遍性・抽象性とは対照的だ。

 

だから、こう言える。『シン・ウルトラマン』にはヒレが足りない*4

*1:これはまったく余談だが、私は『ウルトラマンジード』におけるシャドー星人のキャラクター設定がかなり好きだ。

*2:手術用手袋とコンドームの取り合わせから、“血”と“精液”の排除=潔癖さを読み取ってみようというのは、あまりに悪意的な読みであろうか?

*3:ただ、公式設定を尊重するならば、ウルトラマンという生物は文字通りの“進化史”をたどっているわけではない、ということを私は認めなければならないだろう。ウルトラマンという種族は、地球人そっくりだった種族が約27万年前に集団突然変異を果たして生まれた種族であり、この種族の身体的特徴に連続的な歴史は存在しない。

*4:まあ、『シン・ウルトラマン』が「1966年当時の衝撃を再び」というコンセプトの企画である以上、妥当な選択ではある。